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49 決号 一はじめに二大戦略 アメリカの場合三大戦略 日本の場合四九州における 決号 五国内防衛と抗戦のための準備六 決号 対 オリンピック作戦 七検証八 決号 と戦争の終結九ソ連参戦と降伏をめぐる二度目の危機一はじめに一九四五年のアメリカ人は ほぼ例外なく 広島と長崎に対する原子爆弾の使用が太平

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Title

「決号」 : 一九四五年における日本の政治戦略・軍事戦略

Sub Title

Ketsu Go : Japanese political and military strategy in 1945

Author

Frank, Richard B.(Akagi, Kanji)

赤木, 完爾

Publisher

慶應義塾大学法学研究会

Publication year

2016

Jtitle

法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and

sociology). Vol.89, No.8 (2016. 8) ,p.49- 98

Abstract

Notes

資料

Genre

Journal Article

URL

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20160828

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「決号」 一   はじめに 二   大戦略――アメリカの場合 三   大戦略――日本の場合 四   九州における「決号」 五   国内防衛と抗戦のための準備 六   「決号」対「オリンピック作戦」 七   検   証 八   「決号」と戦争の終結 九   ソ連参戦と降伏をめぐる二度目の危機 一   はじめに   一九四五年のアメリカ人は、ほぼ例外なく、広島と長崎 に対する原子爆弾の使用が太平洋戦争を終結させ、数え切 れないほどの生命を救ったと心から信じていた。この確信 は、その後ほぼ二〇年間にわたりアメリカ国内の議論を支 配した。それ以来、様々な学者や著述家は、ある批評家が 「 愛 国 正 教( patriotic orthodoxy )」 と 名 付 け た も の に 対 し て、 多 く の 問 題 提 起 を 行 っ て き た )( ( 。 こ れ ら の 批 判 に は、 「 正 教 」 的 認 識 を 擁 護 す る 人 々 の そ れ よ り も、 さ ら に 多 岐 にわたる論議が含まれている。しかし、この問題提起には 三つの基本的前提が共有されている。第一に、一九四五年 夏における日本の戦略的立場は、破滅的状況にあった。第 二に、日本の指導者たちは自らのおかれた絶望的情勢を認 識 し、 降 伏 を 模 索 し て い た。 そ し て 最 後 に、 〔 傍 受 〕 解 読

「決号」

︱︱

一九四五年における日本の政治戦略・軍事戦略

︱︱

リチャード・B・フランク

 

 

 

爾/訳

資 料

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) された日本の外交通信の入手によって、アメリカの指導者 たちは、日本人が敗北を認識し降伏を模索していることを 把握していた。こうした事情から、アメリカの指導者たち は、原子爆弾がなくとも、あるいはおそらく日本本土侵攻 すらなくとも、戦争を終結させることが可能であると認識 し て い た、 と 数 多 く の 批 評 家 が 主 張 し て い る。 そ れ ゆ え、 彼らはアメリカの指導者が何か他の目的を追求して、日本 に不必要な核による荒廃をもたらしたと非難するのである。 他の目的とは、莫大な資金支出の正当化であり、倒錯した 知的好奇心を満足させるためであり、マンハッタン計画を 官僚の帝国として存続させるためであり、あるいは、この 上なく論争的なものとしては、モスクワを恫喝するためな どであ る )2 ( 。   しかし、一九四五年の夏、日本の主要な指導者は情勢を 絶望的だとみてはいなかった、というのが残酷な現実であ る。彼らは戦争で狂信的な酩酊状態に陥ってただふらつい ていたのでもなければ、現実の苦境を忘却していた わけ で もない。それどころか、 「決号」 (決戦作戦)と呼ばれる理 路整然と注意深く着想された軍事・政治戦略が彼らを駆り 立 て て い た。 「 決 号 」 の 詳 細 と、 日 本 の 指 導 者 が こ の 戦 略 に傾注した努力を理解することは、戦争が継続した理由だ けでなく、それが終結した方法と時期についてのもっとも 重要な一面をも把握するための鍵である。同様に、 「決号」 について無線諜報〔ラジオ・インテリジェンス〕が明らか にしたことの影響、および日本政府の降伏が日本軍の降伏 を保証しないと認識していたアメリカの戦略的判断につい ての知見なくしては、その政策決定が正しく理解されるこ とはない。さらに無線諜報は、日本の指導者が隠 蔽 しよう と試みた、和平の過程における、ある危機をも暴露し、戦 争を終結させる過程においてソ連の介入が果たした役割を 明らかにするのである。 二   大戦略 ―― アメリカの場合   一 九 四 三 年 一 月、 フ ラ ン ク リ ン・ ロ ー ズ ヴ ェ ル ト ( Franklin D. Roosevelt ) 大 統 領 は、 カ サ ブ ラ ン カ 会 談 に おいて、アメリカの国家的政治目標を枢軸国の無条件降伏 であると公然と明言した。無条件降伏は、それ以後二年の 間に勝利のスローガンであるだけでなく、平和に関する政 策へと発展した。それは、枢軸国の国内構造を刷新する広 範な計画に法的権限を与え た )( ( 。誤って無条件降伏を単なる 使い捨てのプロパガンダとみなす者は、日本を抜本的に転

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「決号」 換する占領改革を実行する上で、それが欠くことのできな い役割を果たしたということを理解できなくなってしま う )4 ( 。   統合参謀長会議( Joint Chiefs of Staff )によって案出さ れた一九四五年春期におけるアメリカの軍事戦略は、こう した国家的政治目標を保証するためのものであったが、そ れは二つの相反する見解の不安定な妥協であった。これら の見解は、純粋に軍事的判断に由来するものではなく、根 深い政治的起源をもつ論点から生じたものだった。すなわ ち 無 条 件 降 伏 ま で 戦 争 を 戦 い 抜 く ア メ リ カ 国 民 の 意 思 を もっとも弱体化させる可能性がある要因は何か、という問 題 で あ る。 ア ー ネ ス ト・ J ・ キ ン グ( Ernest J. King ) 海 軍元帥によって率いられたアメリカ海軍は、一九〇六年以 来、対日戦を研究してきた。数十年にわたる分析から、海 軍士官たちは日本を打倒するための数多くの原則を抽出し た。これらの確立された原則のなかで、日本本土侵攻は全 くの愚行を意味する、という確信ほど深く根付いたものは なかった。海軍の計画立案者は、アメリカが太平洋を横断 して展開できる兵力よりもさらに大規模な地上部隊を日本 が集結させ、また日本の地形が火力と機動性におけるアメ リ カ 軍 の 優 位 性 を 無 効 に す る と 見 積 も っ て い た。 要 点 は、 海軍の指導者が自軍の死傷者数を、無条件降伏へ向けた国 民の献身を弱体化させるもっとも可能性の高い要因として 位置づけていたということである。それゆえ、彼らは、艦 載機と陸上基地からの航空機による激しい空爆を含む、封 鎖と爆撃という軍事行動による戦争終結を主張し た )5 ( 。   アジア・太平洋戦争の終結にかかわる研究において、日 本の諸都市に対する焼夷弾攻撃作戦は、原子兵器の作戦に 比して二義的な位置づけをなされている。このような重点 の置き方は、封鎖戦略が実際には、日本国民にとってその 存続を脅かすものであったという残酷な事実を覆い隠して きた。封鎖は、何世紀にもわたって、海上戦の合法的な一 要素としての機能を果たしてきた。封鎖を統制する法的レ ジ ー ム( legal regime ) が 整 備 さ れ て い く な か で、 海 軍 は、 「 禁 制 品( 兵 器 や、 戦 争 で 利 用 す る こ と を 目 的 と し た 軍 需 品 )」 の 輸 入 を 遮 断 す る こ と が 可 能 で あ っ た。 し か し、 封 鎖を統制する法的レジームは、民生用の物品、とりわけ食 糧についてはこれを適用除外とした。第一次世界大戦にお い て、 イ ギ リ ス と ド イ ツ は こ の 原 則 を 変 更 し た。 両 国 は、 「 禁 制 品 」 の 定 義 を、 一 般 市 民 の た め の 食 糧 を 包 含 す る も のへと拡大した。アメリカの封鎖作戦は、この新たな法的 レジームに従ったものであった。かくしてそれは、究極的 には、大半が非戦闘員である何百万人もの日本人を餓死さ

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) せると脅すことを目的とし、あるいは実際に、餓死に追い 込むことを目的としてい た )6 ( 。   ジ ョ ー ジ・ C・ マ ー シ ャ ル( George C. Marshall ) 陸 軍 元帥によって率いられたアメリカ陸軍は、対日戦争を検討 す る た め に 海 軍 と 同 等 の 知 的 資 本 を 決 し て 投 じ な か っ た。 しかしながら、一九三〇年代後半には対日戦争の見通しを 研究し、本土侵攻が必要になるかもしれないと結論づけた。 それゆえ、一九四四年に対日戦争を終結させる問題につい て関心を向けたとき、陸軍はただちに本土侵攻の戦略を採 用した。この選択は、無条件降伏 ―― ひいては永続的な平 和 ―― に対する国民の支持には時間が決定的な要素となる、 という陸軍の根本的確信を反映してい た )( ( 。   統合参謀長会議は、これら二つの対立する見解を一九四 五年五月に一つの戦略計画に結合させた。統合参謀長会議 の面々は、一九四五年一一月一日までの封鎖と爆撃の戦略 の継続と強化を許可した。その時点で、アメリカはダウン フォール作戦という全体的な秘匿名称のもとで、二段階か らなる日本本土侵攻作戦に着手することとなっていた。第 一段階はオリンピック作戦であり、九州南部のおよそ三分 の一、すなわち日本本土の最南端を第六軍によって占領す ることを伴うもので、一九四五年一一月一日に開始するこ ととなっていた。オリンピック作戦は第二段階を支援する ための航空基地と海軍基地を獲得する予定であった。その 第二段階であるコロネット作戦は、暫定的に一九四六年三 月 一 日 開 始 と 定 め ら れ て お り、 二 つ の 野 戦 軍 に よ っ て 東 京・横浜地域を占領することが予定されていた。   統合参謀長会議が、この戦略を支持することを採択した 文書において指摘していたように、連合国全体の戦争目的 は無条件降伏のままであった。これは、再び平和に脅威を 与えることが決してないことを確実にするために設計され た、日本における広範囲の政治的変革を遂行することに法 的権限を与えただろう。しかしながら、統合参謀長会議が 認めたように、およそ二千年の間、これまで外国に降伏し た日本の政府はなかった。さらに、太平洋戦争の全過程を 通じて、降伏した日本軍部隊はそれまでなかった。それゆ え、 統 合 参 謀 長 会 議 は、 日 本 政 府 が 降 伏 す る と い う 保 証、 あるいは仮に日本政府が降伏するとしても、日本軍がその ような降伏に従うという保証はどこにもない、と警告して いた。したがって、本土侵攻は不可欠だった。なぜならそ れが日本政府に降伏を余儀なくさせる可能性がもっとも高 かったためである。さらに、本土侵攻は、もし降伏がなさ れなかったり、日本軍が日本政府の降伏決定に従わないと

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「決号」 いった状況に対処するために、アメリカを最良の態勢に導 くと思われ た )8 ( 。それゆえ、統合参謀長会議は、アメリカが 直面する究極的に悲惨な状況が、当初の二段階にわたる本 土侵攻であるダウンフォール作戦ではなく、日本政府と日 本軍の組織立った降伏がなされないことであると認識して いた。後者の場合、詳述すればアメリカは日本本土、アジ ア大陸、太平洋において、四百万~五百万人の武装した日 本兵を打倒することになるという見通しに直面することと なる。これはダウンフォール作戦の予期される人的損害で すら、日本を完全に打倒するのにかかるコストの手 付金 に しかならないのである。   ハリー・S・トルーマン( Harry S. Truman )大統領は、 一九四五年六月に侵攻戦略を再検討した。彼は九州に侵攻 するオリンピック作戦を裁可した。しかし、コロネット作 戦の認可は留保した。アメリカ海軍と地上軍の指揮官たち は、 九 州 侵 攻 の た め の 詳 細 な 作 戦 を 立 案 し た。 こ れ ら は、 大規模で複雑な航空基地と一 揃 いの海軍根拠地のために主 要地域を占領することを目的とした。これらの計画すべて が、アメリカ側の上陸時における地上部隊および航空部隊 の圧倒的優勢を想定してい た )9 ( 。 三   大戦略 ―― 日本の場合   一九四五年の元日、日本の陸海軍の指導者は、慎重であ りながらも決意を固めていた。彼らのアメリカ人の敵に対 する強情な態度は、一九四一年の夏以来不変であり、目標 だけが変化していた。彼らは、戦争終結の方法について大 まかな見取り図しか持たずに戦争に突入した。誰も日本が 物理的にアメリカを征服できると信じていなかったし、ア メリカが莫大な量の軍需品を生産可能だということに疑い を抱いてはいなかった。しかし彼らは、アメリカがドイツ とイタリアに立ち向かうためその軍需品のほとんどをヨー ロ ッ パ に 振 り 向 け る こ と を 余 儀 な く さ れ る だ ろ う と 見 積 もっていた。しかしながら、ほとんどすべての日本帝国陸 軍将校と多くの帝国海軍将校によって共有されていた根本 的な信念は、アメリカ人が人種的純粋さと日本の大衆がも つ 精 神 力 を 欠 き、 士 気 が 脆 弱 で あ る と い う こ と で あ っ た。 増え続ける損失を伴う長期にわたる戦争は、戦争を最後ま でやり通すアメリカ人の意思を弱らせ、アメリカの政治指 導者に、日本にとって好ましい条件で戦争を終わらせる交 渉を行うことを余儀なくさせるだろう。当初は、こうした

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) 条件に、東南アジア資源地域の日本による支配とそれらを 守るための絶対国防圏が含まれていたと思われる。一九四 五年までに、日本の軍国主義者は、達成可能な条件を、少 なくとも彼らの地位が支配的なままである政治的秩序を伴 う、日本本土の保全とみなしていた。彼らは、日本がアジ ア大陸の重要な権益を依然として維持する可能性があるこ とをも望ん だ )(( ( 。   開戦劈頭六ヵ月間における一連の勝利は、とりわけアメ リカ人の士気に関して、日本の指導者らの認識を強く裏付 けたようにみえた。しかし一九四二年の間、アメリカは日 本の進攻を阻止し、日本の予想よりもほぼ一年も早く反攻 を開始した。一九四三年初頭から、日本はほぼ連続的な敗 北を被ったが、日本軍人は消耗戦略の基本を確信していた。 この信念を強化したのは、日本の いく つもの島嶼守備隊と 海空の支援部隊が、アメリカ軍に実際よりもはるかに大き な損害を与えているという思い込みであった。こうした非 常に誇張された敵の損害は、アメリカの数々の勝利でさえ 着実にその士気を削いでいるという確信の根拠となっ た )(( ( 。   顧みて日本の戦況に対する評価を一般的に歪めていたの は、 「 太 平 洋 に お け る 戦 争 」 の 地 図 の 類 で あ る。 そ れ は、 太平洋の中間まで膨張した日本の最大進出線を描き、それ から、一九四五年の夏における日本の状況を示す日本沿岸 に接する線を描いている。東京の大本営高官は、日本が海 軍を失い、西太平洋から日本沿岸に至るまでの制海を喪失 したことを理解していた。しかし、その帝国の範囲は、ア ジア大陸から南方までにおける莫大な資源と数億人の家臣 を伴う広大な領域を含んでいた ―― これが、アメリカ人の 目がしばしば無視する「太平洋における戦争」地図の領域 である。こうした領域は、潜在的に交渉を有利にする材料 でもあった。それらのある部分は日本が戦争への賭けから 得た権益を保つための、またそうした権益を確実にするた めに譲歩する材料として、あるいは最終的に、少なくとも 本土における旧秩序を保つための切り札であったのである。 もし日本の航空戦力がきわめて弱体化したとしても、そこ には数千の航空機と、敵艦に体当たりする覚悟がある無数 の若い男たちが残っていた。何よりも、忠誠心のあつい一 般市民に支えられた恐るべき軍隊と、日本本土という無償 の貴重な資源が存在し、それは人間よりも機械に依存する 攻撃側のすべての利点を無効にすべく、神意によってもた らされていた。   大本営の将校らは、最新の戦略状況について自信を持っ て評価し、将来のアメリカの意図に対する鋭敏な判断と組

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「決号」 み合わせた。アメリカ人は封鎖と 爆 撃 と い う 長 引 く 戦 略 に お い て、 忍耐心に欠けており、それゆえ彼 らは、確実に、本土侵攻によって 迅速に戦争を終結させることを模 索するだろうと思われ た )(( ( 。その目 標は格好の機会を提供した。もし 最初の攻撃が撃退されうるのなら ば、あるいはたとえもしその代償 が法外であったとしても、日本は 戦争から名誉ある離脱が可能とな る。それゆえ、この目標を念頭に お いて、天皇は一月二〇日に策定 された新たな戦略命令を裁可した。 それは、腹蔵なくいえば、日本本 土 そ れ 自 体 が 戦 争 の「 最 終 決 戦 」 のための舞台となることを明らか にしたものだっ た )(( ( 。   日本本土防衛の準備は、新たな 司令部と計画そして部隊を必要と した。二月六日の「航空作戦に関 する陸海軍中央協定」は、航空部隊の指揮についての激し い論議を解決した。これは、すべての本土の航空部隊(教 育 部 隊 と 防 空 部 隊 を 除 く ) は、 「 国 防 圏( national defense sphere )」 防 衛 に 専 念 し、 主 と し て 特 攻 に よ っ て 侵 攻 軍 を 撃滅するものと規定した。その協定では陸海軍間の協力関 係を取り付けるため、一人の陸軍または海軍の指揮官のも とで指揮権を統一することは見送られ た )(( ( 。   主要な地上部隊に関して独占的管轄権をもつ帝国陸軍は、 独自の新たな本土防衛要綱を実施した。この計画において 二つの戦域司令部が設置された。東京に総司令部を お く第 一 総 軍( ほ ぼ ア メ リ カ 陸 軍 の 一 個 野 戦 軍 集 団 に 相 当 す る ) は、中部と本州北部の大部分について責任を負った。広島 に総司令部を置く第二総軍は、本州西部と四国、九州を管 轄した。各総軍はいくつかの方面軍(実質的にはアメリカ 軍の一個野戦軍に相当)を指揮下においた。大本営は、本 土最北端の北海道については第五方面軍に独立して委ねた。   一九四五年の元日の時点で、日本全国には一二個の野戦 師団しか存在しなかった。利用可能な野戦部隊があまりに も少なかったため、大本営は本土防衛強化のための大規模 な計画に着手した。満洲から四個師団(機甲二個師団、歩 兵二個師団)が引き抜かれた。しかし、はるかに大規模な 決号における動員 総軍 方面軍 沿岸配備師団 決戦師団 独立混成旅団 戦車旅団 第一段階 ―― ―― (( ―― ( ―― 第二段階 2 8 ―― 8 ―― 6 第三段階 ―― ―― 9 ( (4 ―― 合計 2 8 22 (5 (5 6

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) 充実強化は、表にあるように、新たな大部隊を複数創設す ることを目的とした、大規模な三段階動員計画のための二 月二六日の指令に由来した。   動員完整後、本土防衛に利用可能な軍部隊は、六〇個師 団(三六個の野戦・決戦師団、二二個の沿岸配備師団、二 個の機甲師団)と三四個旅団(二七個の歩兵旅団、七個の 戦車旅団)に達することになっていた。必要な兵站・行政 基盤を集計すると、動員は本土防衛の指揮管轄域に一五〇 万の人員を補充したことになる。本土の陸軍兵力の総計は、 全部で二九〇万三〇〇〇人、馬匹二九万二〇〇〇頭、自動 車二万七五〇〇台であっ た )(( ( 。   四月八日、東京の参謀将校らは、本土と隣接諸地域のた めの差し迫った戦いについて 、 広範な基本防衛計画を慌た だしく完成させた。それは「決号」と名付けられた。この 計画は、アメリカの侵攻軍が七つの主要地域のうちの一 ヵ 所において日本軍と対戦し、撃破されることを想定してい た。 そ の 中 で も 特 に 決 三 号( 関 東 ︲ 東 京 方 面 ) と 決 六 号 ( 九 州 ) に 重 点 を 置 い て い た。 準 備 は 四 月 か ら 一 〇 月 の 期 間に第三段階まで拡張されることになっていたが、九州の 部隊は六月初頭までに緊急の準備態勢 を整 えることとなっ てい た )(( ( 。   「 決 号 」 計 画 は 三 つ の 特 徴 を も っ て い た。 第 一 に、 諸 作 戦の目的は、水際(一九四四年半ば以前の戦術)ないし内 陸 の 奥 地( 一 九 四 四 年 半 ば 以 降、 「 決 号 」 ま で の 戦 術 ) に おける敵の撃滅ではなかった。日本軍は、アメリカ軍の大 規模な上陸準備砲爆撃に直面して直近水際防禦を行うこと の愚かしさを自覚していたが、もし上陸を許せば敵陣地は 強化され、それに拠る敵を決して撃退できないことも理解 し て い た。 そ れ ゆ え、 「 決 号 」 は 侵 攻 軍 が 沿 岸 に 投 錨 し、 上陸した後数日の間に確立する、わずかに数マイルだけ境 界を内陸部に伸ばした上陸橋頭堡を破壊することを目的と した。   「 決 号 」 の 第 二 の 際 立 っ た 特 徴 は、 特 攻( 特 別 攻 撃 す な わち自殺)戦術に対する徹底的な傾倒であり、今や所定の 空・海の自殺攻撃だけではなく、陸上での自殺攻撃をも含 ん で い た。 防 衛 計 画 へ の 市 民 の 編 入 は、 「 決 号 」 の 第 三 の き わ め て 特 異 な 特 徴 で あ っ た。 「 義 勇 兵 役 法 」 の も と、 指 揮官は戦闘のために男女を問わず、すべての身体的に健康 な市民を召集することができ た )(( ( 。   帝国陸軍は大規模動員の第一及び第二段階を成功裏に完 遂した。これと同時期 及 びその後の期間において一連の指 令と、国民抗戦必携のような出版物が、本土の最終防衛に

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「決号」 ついての綜合計画を詳細に説明し た )(( ( 。しかしながら、五月 の沖縄におけるアメリカ軍の容赦ない進撃は、九州に向け たより多くの、そしてより質の高い部隊の編入という一連 の緊急措置のきっかけとなっ た )(( ( 。この最大限の努力は、九 州に配備されなかった部隊に対する装備の資源を使い尽く した。大本営は、将来の生産が一〇月までに欠乏を補 填 す るであろうことを期待するほかなかった。 四   九州における「決号」   アメリカ軍がその最初の侵攻において九州とりわけ九州 南部を目標としているとの想定見積に達した際、日本は諜 報や暗号解読を頼りにしていなかった。むしろ、彼らはア メリカの作戦手法とその疑う余地のない目標についての単 純 な 手 が か り か ら、 敵 国 の 意 図 を 推 定 し て い た に す ぎ な かった。太平洋戦争中におけるアメリカの戦闘力の優位は、 圧倒的な空・海軍力に依拠したものであって、地上兵力に よるものではなかった。したがって日本に侵攻するための アメリカの計画は、多数の航空機および艦船とともに、ア メリカの地上部隊を増強する能力が含まれていなければな らない。艦載機は侵攻対象地点を選ぶ際にほとんど限界は なかったが、それはアメリカが利用可能な航空戦力のごく 一部であった。もし、アメリカが陸上基地航空部隊を用い るならば、侵攻対象地点は航空機の航続可能範囲内に入ら ねばならず、とりわけ戦闘機については、もっとも至近の 基地から飛べる範囲に入るに違いないのである。   一九四五年一月、日本はもっとも前進したアメリカの航 空基地が、同年中頃に硫黄島と沖縄に設置されることにな ると鋭く認識していた。沖縄は数千の航空機を支援する能 力を与えていたが、硫黄島はそうではなかった。それゆえ、 沖縄からのアメリカ軍戦闘機の航続範囲を示す弧が、アメ リ カ 軍 の も っ と も 可 能 性 の 高 い 上 陸 地 帯 を 意 味 し て い た。 九州と四国の一部はその弧の範囲内にあった。四国と比較 して、宮崎、志布志湾、薩摩半島周辺といった九州南部の 範囲は、もっとも明白な目標であり、そこにある豊富な飛 行場用地と海軍基地は、関東(東京)平野に対する侵攻の 容易な足がかりを形成していた。   アメリカの地勢分析によれば、南九州は「小規模な低地 と、低地だが起伏の激しい高台が複雑に入り組んでいる」 。 それは、東西で三 ~ 一〇マイル、南北で二〇 ~ 三〇マイル に広がる三つの細長い平地を隠している。これらの平野は、 一連の台地と道路の不足が自動車に不利であったけれども、

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) すでに存在する飛行場あるいはその用地として、また移動 上の天然の経路として、軍事的に重要であった。こうした 平野のうち二つは九州南沿岸にある。一つは宮崎北部にあ り、 も う 一 つ は 有 明 湾〔 志 布 志 湾 〕 の 先 端 か ら 都 城 に 向 かって広がっている。三つ目の平野は串木野付近沿岸の南 西に沿ってい た )(( ( 。   九州防衛の任にあたったのは、畑俊六元帥の第二総軍で あり、四月一八日、本州西部の広島に総司令部を設置した。 同時に第二総軍の下に二つの方面軍が配された。第一六方 面軍が九州を、第一五方面軍が四国と本州西部を防衛した。 その最初の情勢判断において、第二総軍の参謀は、アメリ カが沖縄戦の直後に九州南部へ直接侵攻することによって 戦争終結を模索していると推測し た )(( ( 。   九州における第一六方面軍の司令官と参謀は、アメリカ 軍が空海軍の基地として利用する可能性から、九州南部の 宮 崎、 志 布 志 湾( 有 明 湾 )、 薩 摩 半 島 を 十 中 八 九 目 標 と す るだろう、という第二総軍の見解におおむね同意してい た )(( ( 。 日本の参謀将校らは、アメリカ軍の攻撃方式について、こ れまでの諸作戦から多くの教訓を抽出し、それがこの予想 を作り上げた。要約すれば、それらの教訓は、大規模戦力 が最終目標の近くに、幅広い前線に沿って同時に上陸する というものだった。アメリカ軍は作戦の当初において、飛 行場を占領し使用することに きわ めて高い優先順位を与え るだろう。アメリカ軍はまた、重武装の優位を生かすこと のできる地域も好むだろう。他の考慮すべき事柄に比べれ ば、奇襲という点は相対的にあまり重要視されず、他の必 要条件が満たされるならば、アメリカ軍は堅固な防禦線で もそれを避けるということはないだろ う )(( ( 。   アメリカ軍の活動の規模に関するこうした基準と判断に 基づき、一九四五年四月までに、日本軍は志布志湾正面が もっとも脅かされている地域だとみなした。これにより彼 らは、九州には一個野戦師団のみを配置した。しかしなが ら、一九四五年四月中旬頃から、広大な宮崎海岸が、六個 から八個師団と見積もられるアメリカ軍の攻撃を引きつけ る可能性がより高いように思われた。七月までに判断は再 び変わった。台風の季節の始まりは上陸の日取りをなお一 層遅延させる影響をもたらすかと思われたが、これは同様 に、アメリカ軍の攻撃の規模が一五個師団ないし一六個師 団に急増することを意味した。第一六方面軍はそうした大 規模攻勢が、鹿児島湾の安全な停泊地を 確保 するため、複 数の地点に指向され、それは薩摩半島に沿った九州南西な いし南部への上陸を含むだろうと考えた。それゆえ、第一

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「決号」 六方面軍は志布志、宮崎、薩摩半島のすべてが、アメリカ 軍の目標になりうると確信するようになっ た )(( ( 。   一九四五年一月には一個野戦師団のみが配置されていた が、以来五ヵ月間にわたり、帝国陸軍は増強され九州にあ ふれかえった。この増強によって九州の防衛部隊は、一四 個野戦師団、三個戦車旅団、独立混成(歩兵)八個旅団に のぼった。戦力の総計は約九〇万人に達した。第二総軍参 謀副長の真田穣一郎少将によれば、畑元帥と参謀らは、九 州のための戦いが「我が方に有利な状況に戦局を転換する 最後の機会」であると考えていたという。彼らは、敵軍が 上陸したとき、第一五方面軍と第一総軍からの三~五個師 団をもって九州を増強することを企図していたが、これは 複数の上陸地点に対処するのに十分ではなく、また確実な 方法でもなかった。というのも、増援部隊は爆撃と砲撃の なかを長距離移動しなければならなかったためである。明 らかに、ごく近くで反攻部隊を撃破する方がはるかに良策 であった。それゆえ、五月と、そして再び六月に、第二総 軍は本土でもっとも強力で優秀な第三六軍の少なくとも四 個師団(機甲二個師団と歩兵二個師団)の九州への派遣を 大本営に懇請した。この要望は、畑と参謀らが同時並行的 な ア メ リ カ 軍 の 強 襲 上 陸 を 予 想 し て い る こ と を 裏 付 け た。 さらに、アメリカ軍の航空機による交通路の遮断が予期さ れ、このことは早期決断の必要性を一層喫緊のものとした。 大本営は事実上この懇請を沈黙のうちに拒絶した。東京は 九州への航空戦力の追加補 填 を実施した。しかし、大本営 は東京防衛のための有力な中核部隊を派遣することが、取 り返しのつかない賭けとなる ことを 恐れ て 抵抗した。それ らの部隊が交通の破壊によって立ち往生させられるかも し れなかったからであ る )(( ( 。   第一六方面軍の実際の配置は、アメリカ軍の意図につい ての日本側の判断の鋭さを反映していた。九州北部におい て、第五六軍は、四個師団、独立混成一個旅団、戦車一個 旅団から成っていた。当該地域の戦略的重要性は、たとえ もし、そこに対するアメリカ軍の攻撃が予想されていなく ても、この警戒的配備を余儀なくさせた。この野戦軍の構 成部隊は南九州に派遣され、アメリカ軍の侵攻と対決する ことになっていた。   九州南東部において、第五七軍は歩兵五個師団、独立混 成二個旅団、第四飛行師団、戦車二個旅団、その他多数の 部隊を擁していた。これらの戦力は、とくに九州南東部に おけるアメリカ軍上陸予想地点である宮崎と志布志湾周辺 に配備され た )(( ( 。九州南西部において、第四〇軍は四個師団、

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) 独立混成一個旅団、戦車一個連隊を擁していた。これらは 九州南端と目標とされた南西沿岸における別のアメリカ軍 上陸地点を防衛するためであった。   三つの野戦軍に加えて、九州において複数の部隊が第一 六方面軍に対して責任を負った。久留米、熊本の各師団管 区(もともとの管轄司令部)は、独立混成三個旅団と第二 一六師団の戦術指揮を担った。第一六方面軍のもとに、五 島列島と対馬要塞の独立混成第一〇七旅団もあった。これ らの様々な部隊のうち第二一六師団は、いかなる侵攻にも 反撃するよう割り当てられていた。他の部隊は、歩兵二六 個 大 隊( ほ ぼ 歩 兵 三 個 師 団 以 上 の 小 銃 兵 の 数 に 相 当 す る ) の追加の予備兵力であり、侵攻に対して利用することも可 能であった。   貧弱な海軍と並外れた航空戦力は、この地上戦部隊を支 え た。 帝 国 海 軍 の 水 上 戦 力 は、 合 計 し て わ ず か の 巡 洋 艦、 駆逐艦、潜水艦であった。これらの多くが、実際には、小 型で射程の短い特攻兵器を発射地点まで運ぶことに従事し ていた。しかし大本営は、日本の全航空戦力を「決号」に 充てることを決定した。これは数千もの練習機を特攻用機 に転換させることを意味していた。戦闘を回避し、飛行機 を分散配置したり、隠したりするという、思い切った方針 によって、日本軍は一九四五年に軍用機の生産を増加させ た。 日 本 軍 は、 そ れ ら を 事 前 に 指 定 さ れ た 神 風 特 攻 機 と、 当初は通常作戦用に予定された航空機とに分けた。しかし な が ら、 帝 国 陸 軍 の 航 空 部 隊 の 指 導 者 は、 戦 後 に な っ て、 アメリカ側の担当官に対し、最終的には全部の帝国陸軍の 航空機を特攻に参加させるつもりだったと語った。帝国海 軍がこれに対する参加に応じなかったかどうかは疑わしい。 真夏までに、日本軍は一万機以上の航空機を侵攻に立ち向 かうために配備し、その半分はすでに神風攻撃に割り当て られていた。これらの航空機の大部分が九州を防衛し た )(( ( 。   全 体 と し て、 帝 国 陸 軍 は、 「 決 号 」 作 戦 の た め の 深 刻 な 兵站上の不足に直面していた。とりわけ、弾薬と武器の供 給が不足していた。こういった深刻な不足のため、利用可 能な装備と弾薬の分配において、優先順位をつけることが 重視された。最初から、大本営はその運命を事実上九州に 賭けてい た )(( ( 。さらに、大本営は用心して、上陸前において 十 二 分 な 補 給 品 と 武 器 を 九 州 に 詰 め 込 む こ と を 目 標 と し、 侵攻後に十分な補給が可能かどうかについては疑っていた。 こうした優先順位の結果として、九州における一般装備の 状況は、正式に認可された実際の装備水準に比べても十分 なものであった ―― それは、おそらく東京を除いた他の地

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「決号」 域と比べて潤沢だっ た )(( ( 。   一九四五年六月八日、御前会議において、日本政府と統 帥 部 は、 裕 仁 天 皇 の 臨 席 の も と、 「 決 号 」 を 中 心 と す る 終 幕へ向けた戦いについての政策を正式に承認した 。し かし、 この会議とともに作成された報告書は次のように予言して いた。たとえもし「決号」が希望通りに進み、最初の侵攻 との戦いが日本の指導者にとって受 け 入れることのできる 条件での和平交渉をもたらしたとしても、日本国民の苦し みは恐ろしいレベルまでさらに高まるだろう、と。輸入の 喪失と連動したコメ収穫高の深刻な落ち込みは、一九四六 年秋における次のコメの収穫の前に、悲惨な食糧難になる ことは明白だった。帝国陸軍の将校は、少なくとも何十万、 そしておそらく何百万人が、戦争行為が停止されてもなお、 飢餓の直接的および間接的な結果のために死ぬであろうこ とをはっきりと理解した ―― このことは文民の指導者も見 逃すはずがなかっ た )(( ( 。 五   国内防衛と抗戦のための準備   サイパンの経験以来、アメリカの計画策定者は、日本侵 攻 の た め の 状 況 見 積 の な か に、 「 熱 狂 的 に 敵 意 を 持 っ た 人々」に直面する可能性を組み入れた。サイパンに続く二 つの出来事が、この想定を強化した。政府の役人、ビジネ スマン、農民とその家族、日本軍の軍属を含む約三万八二 六 〇 人 の 日 本 の 市 民 が フ ィ リ ピ ン に は い た が、 「 か な り の 高齢者と子供を除いて、ほとんどすべての日 本の 市民(文 民 ) は、 何 ら か の 形 で 軍 隊 の た め に 働 き に き た 」。 こ う し た 文 民 の 死 傷 者 の 明 確 な 統 計 的 分 析 は な い が、 〔 軍 民 合 わ せ て 〕 三 八 万 一 五 五 〇 人 の 在 フ ィ リ ピ ン の 日 本 人 の う ち、 ち ょ う ど 三 分 の 二 が 死 ん だ )(( ( ( レ イ テ で の 死 者 は 含 め ず )。 これは、少なくとも六万二〇〇〇人、ことによると一〇万 から一五万人の市民が死亡したかもしれない沖縄よりはる かにひどかっ た )(( ( 。   一九四五年三月、大本営はこのアメリカの悪夢を現実に するように措置し、軍と政府と国民の間に 一体的 融合を確 立した。三月二四日、大本営は地区特設警備隊の設立を指 示した。これは地区司令官の指揮下に置かれた。これらの 組織は、政府の領域と文民の領域の実際的融合を意味した。 各町村は、それぞれ地元住人からなる地区特設警備隊の小 隊または中隊を結成した。それらは総計して約三〇〇人の 住民で構成された。これらの分遣隊が予備戦闘要員あるい は戦闘支援部隊を提供した。このことは、通例海岸部にお

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) いてこれらの部隊が直接作戦部隊に配属されることで、間 も な く 例 証 さ れ た。 メ ン バ ー は 五、 六、 七 月 に 召 集 さ れ、 各月三~四日の間、初歩的だが士気を高揚させる教育を受 けるよう予定され た )(( ( 。   三 月 二 七 日、 昭 和 二 〇 年 法 律 第 三 〇 号 に よ り、 要 塞 化、 輸送、建設、あるいはその他決戦戦略を補助する作業を実 行するため、沿岸地域の全市民が動員された。これは、三 月 一 八 日 に 閣 議 決 定 さ れ た 決 戦 教 育 措 置 要 綱 に よ る も の だった。本要綱は、第一学年から第六学年を除くすべての 学校の授業を、一九四五年四月一日から一九四六年三月三 一 日 ま で 一 時 中 断 す る こ と を 定 め た。 該 当 す る 生 徒 全 員 ―― 彼らの教師も ―― は食物の生産、軍需物資の供給、防 空任務、その他決戦を支援する作業のために動員された。   三月二三日、内閣は日本全国における国民義勇隊の結成 を命じた。この部隊は、国民全体を兵役につけるための機 構を構成し、侵攻に際し軍部が国民を召集することができ る よ う に し た。 実 際 に は、 す べ て の 国 民 は「 義 勇 兵 役 法 」 のもとで召集に従うことになった。これは、一五歳から六 〇歳までの全男子と、一七歳から四〇歳までの全女子に適 用 さ れ た。 彼 ら は 義 勇 戦 闘 隊 と 呼 ば れ る 部 隊 に 組 織 さ れ、 軍隊の訓練と地域司令部を通じた指揮に従った。これらの 組織の規模は並外れたものだった。たとえば、九州の熊本 県の部隊についての表は、所属する管轄区域による内訳を 示し、該当年齢集団の全市民を表す数は合計一〇〇万人以 上を示してい る )(( ( 。   こ の お び た だ し い 数 の 文 民 が 訓 練 以 外 に 欠 い た も の は、 武器と、そして制服であった。カサイ・ユキコのような動 員された高等女学校の生徒は、千枚通しを支給され、次の よ う に 命 じ ら れ た。 「 た と え た っ た 一 人 の 米 兵 で あ っ て も 殺しましょう。あなたは自衛のために千枚通しを使う訓練 をしなければなりません。あなたは米兵の腹部を狙うべき で す 」。 多 く の 文 民 は 気 が つ く と、 先 の 尖 っ た 棍 棒 や 槍 で 訓練していた。日本は、今や戦闘員として動員された文民 らに着せる制服のための布を欠いていた   ――ある老将軍 は文民の衣服に記章を提供したいという希望を語った。識 別できる標章がないため、通常の戦闘射程においてどの市 民が日本軍人を意味し誰がそうでないのかを、兵士や海兵 隊員が識別するのは明らかに不可能であった。これは大量 の死者を出すことを意味した。少なくとも、アメリカ第五 空軍の情報将校は、総動員に関する日本の放送を取り上げ て 次 の よ う に 宣 言 し た。 「 日 本 の 全 住 民 は 適 切 な 軍 事 目 標 である…… 日本には文民は存在しな 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 い 0 」 )(( ( 。

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「決号」   こうした計画の重大性は、実際的にも道徳的にも誇張さ れ て い な い。 こ の 動 員 は、 戦 術 部 隊 と 密 接 に 結 び つ い た、 訓練されていない男女の大規模な予備要員を、多数の国民 からつくることを目指した。それは、直接戦闘支援を行い 最終的には戦闘そのものを遂行することになっていた。こ れは訓練と装備が不足した、取るに足らない公式の戦闘力 ではあるが、文字通り数千万人を地上戦闘部隊に加えただ ろう。これはまた、膨大な市民の死傷者を確実に生み出し、 「 熱 狂 的 な 敵 意 を 持 っ た 人 々」 と い う 不 穏 な ア メ リ カ 人 の 悪夢を現実のものとしただろう。何百万人ものかつては文 民であった人々を爆弾、大砲、小火器の射撃によって一掃 さ れ る 場 所 に 集 め る こ と に よ っ て、 日 本 の 軍 事 指 導 者 は、 何十万人もの同国人を故意に死に委ねたのである。さらに、 戦闘員と非戦闘員の間の区別が意図的に取り除かれたこと によって、アメリカの兵士と海兵隊員に事実上すべての日 本人を戦闘員と み なすか、あるいは命がけでそうしないか を余儀なくさせただろう。最後に、この動員は、都市ある いは地方の平均的な家屋を、概して少なくとも二人の成人 戦闘員が住む兵舎へと変えた。もし「日本には文民が存在 しない」という主張が極端すぎるならば、日本の指導者た ちは、日本の全国土にわたって戦 闘員 と非戦 闘員 の境界を 効果的に抹消した、というのが正しいだろう。 六   「決号」対「オリンピック作戦」   アメリカ軍の将校たちは、実施されなかった九州に対す る野心的な大規模強襲上陸について、戦後いくつかの評価 を試みた。第五水陸両用軍団の参謀は、もっとも広範囲に わたる調査に寄与した。戦闘が犠牲の大きいものとなった であろうことを容認する一方、この研究は全体として日本 の見通しを軽視する傾向があった。しかしながら、この報 告書の編纂者は、彼らが敵の計画と命令に関する信頼でき る文書を持っておらず、復員が日本軍部隊の組織を解体し 分散させ、また日本軍将校の証言に多くの矛盾があること を認めていた。加えてこの分析は、第五水陸両用軍団と対 決する日本軍部隊が九州においてもっとも弱い帝国陸軍の 分遣隊である、という主張によって歪曲されてい た )(( ( 。   これよりも相当広い範囲におよぶ日本側の資料に基づい た、 は る か に 優 れ た 視 座 に 立 っ た と し て も、 「 決 号 」 が オ リンピック作戦を打倒することができなかったという第五 水陸両用軍団の評価は、依然として妥当なものである。要 するに、アメリカ軍の火力と物質の優位が、単に、あまり

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) に圧倒的すぎたというものである。九州で予測される戦闘 の正確なコストは決して確信をもって理解されなかった一 方で、理にかなった非常に控えめな見 積が 危険にさらされ た。日本軍はおそらく、少なくとも五〇万人の戦闘員を参 加させ、少なくとも二〇万~二五万人の戦死者に耐えるだ ろう。おそらく、それとは別に三八万人の死者が、かつて の文民に、それも圧倒的に、国民軍へ強制徴募された人々 の中から生じるであろう。アメリカ側の損失についての公 正 な 推 測 は、 予 想 さ れ る 損 耗 人 員 数 が 一 三 万 二 三 八 五 人 ( 二 万 五 七 四 一 人 の 死 者・ 行 方 不 明 者 を 含 む ) に な る と 認 め た。 そ れ は、 約 六 八 万 一 〇 〇 〇 人 の 部 隊 一 覧 に 基 づ き、 一九四五年四月に統合参謀本部の計画策定者によって提示 されたより低い計画上の損耗率に基づき、軍事行動はわず か九〇日しか継続しないということを前提として算出され たものであった。これに海軍の損耗人員として七二二八人 から一万二九四二人の死者、一万六八〇九人から三万九八 人の負傷者が加わると予測された。これは、アメリカ陸海 軍を合わせた損失として一四万九一九四人から一六万二四 八三人をもたらし、そのうち戦死者は三万二九六九人から 三万八六八三人になると見積もられ た )(( ( 。   し か し、 「 決 号 」 と オ リ ン ピ ッ ク 作 戦 を 対 比 す る 真 の 意 義は、仮説上の勝利あるいは敗北や、仮説上の人命コスト において評価できるものではない。日本側は次のことを賢 明にも理解していた 。す なわち、アメリカ側の人的損害を 痛覚閾値 ―― アメリカの政策決定者をして、日本の軍国主 義者にとって好ましい条件に賭ける気にさせる分岐点 ―― に至らしめるという、もっとも重要な政治目標を達成する ためにはオリンピックを撃退する必要はない。さらに、日 本側はこの閾値が単にオリンピック作戦における損耗の生 の数値データによってだけでなく、そうした人的損害がも たらす「示唆」によってもまた構成されると、正確に認識 していた。日本側はオリンピック作戦に対する戦闘におい て、アメリカ側の痛覚閾値の限界に到達する必要はなかっ た。彼らには、アメリカの政策決定者とアメリカの大衆を 次 の よ う に 納 得 さ せ る 必 要 が あ る だ け だ っ た。 す な わ ち、 九州における流血は、本土の日本人の防衛者全員 ―― おそ ら く こ う し た 戦 士 た ち は ア ジ ア と 太 平 洋 に 散 在 し て い る ―― を根絶するためにかかる耐え難いコストの前兆である のだと。   無条件降伏を確実にするための損耗人員数をめぐるアメ リカの許容範囲は、決して現実では試されることはなかっ た。したがって、それは証明されない。しかし、それを推

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「決号」 測 で き る か も し れ な い、 い く つ か の 基 準 が あ る。 第 一 に、 この戦争のための戦死者の合計二九万九〇七人、そして二 万九九〇〇人のさらなる戦死者が加わるたび、戦争のコス トが一〇パーセントずつ増加する。さらに、おそらく一層 印象的なことには、戦争中の各月でもっとも高い戦死者の 合計は一九四五年三月における二万三二五人であるが、こ れはオリンピック作戦の最初の三〇日間で容易に超えてし まったかもしれな い )(( ( 。戦場での人的損害は支援部隊と対照 的に、戦闘部隊の側において大きな不均衡に陥っているた め、たった九万二五〇〇人の陸戦における損耗人員 ―― こ れは日本側の能力で十分達成できる範囲内である ―― は日 本を攻撃する師団の中で、戦争全体の人的損失を二倍にし ただろ う )(( ( 。これは、戦闘効率と士気に恐ろしい暗示を与え た。オリンピック作戦に予定されていたどんな兵士や海兵 隊の歩兵も、原子爆弾が彼らを死や負傷から救ったと信じ たが、彼らはこの信念に確固たる根拠を持っていた。オリ ンピック作戦に割り当てられたその他の軍人らは、その任 務が何であれ、運が人の生死を決める、巨大で命がけの神 風ルーレットに参加するのには気が進まなかっただろう。   ここに、主要な政策決定者が何を受け入れがたいと考え ていたのか、ということについて少なくとも一つの同時代 の示唆がある。マーシャル元帥は、オリンピック作戦のた めの損耗人員数が一〇万人を超えるというマッカーサー元 帥の司令部からの見積に、ひどくたじろいだ。実際に、こ の見積を見て、マーシャルはすぐにこうした計画を否定す る よ う マ ッ カ ー サ ー に 促 す メ ッ セ ー ジ を 送 っ た ―― マ ー シャルは、トルーマン大統領が人的損害という明白に政治 的な重荷に対して敏感であることを、はっきりと指摘し た )(( ( 。 これらから判断すると、もし現状のままのオリンピック作 戦と対決することになる「決号」が一四万 ~ 一六万 人 の損 耗人員を生じさせる場合、無条件降伏を獲得するためにか かる最終的なコストが意味するのは、おそらく日本がその 政治目標を十分確保できるであろうということである ―― 少なくとも日本の指導者らがこのことを信じるのには確固 たる根拠があった。アメリカにとって残された道、そして おそらくとりうる可能性の高い選択肢は、次のようなもの であった。すなわち、オリンピック作戦において想定され た範囲の損失は、アメリカの戦略を封鎖と爆撃 ―― 大部分 は一般市民である数百万人の死者をもたらすであろう、日 本を飢餓に追い込むことを目的とする戦略 ―― へと立ち戻 らせたかもしれなかった。   日 本 の 野 戦 軍 指 揮 官 ら は、 「 決 号 」 の 純 軍 事 的 な 展 望 に

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) ついて堅実に理解していた。六月の視察旅行の後、真田穣 一郎少将は、畑元帥(第二総軍総司令官)に対して次のよ う に 述 べ た。 「 す べ て の 前 線 部 隊 の 士 気 は、 軍 司 令 官、 師 団長以下、大変結構であります。彼らの十二分な装備、海 軍 の 戦 略、 そ し て 好 ま し い 地 形 と い っ た 強 み に 鑑 み れ ば、 敵軍の第一波を確実に海へと押しのけることができると思 います。しかしながら、もし敵軍が第二、第三の上陸を試 みた場合、それを完全に撃退することができるかは、きわ め て 疑 わ し い と 思 わ れ ま す 」。 畑 は 次 の よ う に 返 答 し た。 「 貴 官 は お そ ら く 正 し い。 我 が 方 が 強 力 な 第 二 次、 第 三 次 防禦線を欠いている限り、第二次、第三次の敵軍の上陸を 撃退することに確信を 持 てな い )(( ( 」。しかし、 「決号」に関す る鍵となる意見は、政治的側面が最重要視される東京にお け る そ れ で あ っ た。 天 野 正 一 少 将( 大 本 営 陸 軍 部 作 戦 課 長 ) の 戦 後 の 供 述 に よ れ ば、 「 決 号 」 の 見 通 し に つ い て 次 の よ う に 見 積 も っ て い た と い う。 「 我 々 は 絶 対 的 に 勝 利 に 確信を持っていた。それは、空・陸・海の各戦力の主要兵 力が参加することになる最初で最後の戦いだった。本土の 地 理 的 な 強 み が 最 高 度 ま で 活 用 さ れ て、 敵 軍 は 撃 滅 さ れ、 我 々 は こ の 戦 い が 政 治 工 作 の 転 換 点 に な る と 確 信 し て い た )(( ( 」。   同様に、情報部長の有末精三中将は、アメリカの尋問官 に 対 し て 次 の よ う に 説 明 し て い る。 「 も し 我 が 軍 が 九 州 に おいて敵軍を打ち破るか、あるいは甚大な損害を与えるこ とができたならば、敵軍をして日本軍と日本国民の強靱な る闘争心を実感せしめ、比較的有利な条件で戦争を終結さ せることができるだろう、と私たちは期待してい た )(( ( 」。   すべての中でもっとも決定的に重要な意味をもつ態度は、 阿南惟幾陸軍大臣のそれであった。彼の見解に関する証拠 は圧倒的である。阿南に近い部下であった吉積正雄中将に よれば、阿南は「本土決戦においてかなりの勝算」がある という確信を信奉していた。実際に、吉積は、陸軍将校が 一 般 に( 最 初 の 上 陸 の 試 み に 対 し て の )「 最 初 の 決 戦 」 に おける日本の勝利を信じていた、と説明した。阿南の秘書 官であった林三郎大佐は、陸相が「米侵攻軍による一回目 の上陸は撃退することができると信じていた」と語ってい る。さらに阿南は、もし日本が「決号」で甚大なる被害を 与 え た 場 合、 戦 闘 を 継 続 す る こ と が 可 能 か も し れ な い し、 少なくとも無条件降伏以外の和平が可能になるかもしれな いと考えていた。苦境に立ってさえ、彼は日本が無条件降 伏以外の何かを主張するか、あるいは戦争を継続すべきだ と信じ続けた。これは、彼が「決号」から生じる日本の政

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「決号」 治的報酬を最後まで信じていたことを反映してい た )(( ( 。日本 人が「決号」をどのようにみているかを現実的に評価して みると、日本が戦争から無条件降伏以外の何物かを引き出 すことができるという信念は、根拠のある事実に基づいて いたということである。 七   検   証   過去の評価についての説明はさておき、ひとたび無線諜 報 が 日 本 側 の 計 画 を 明 ら か に し た と す る と、 「 決 号 」 に 対 する有力な同時代の検証が、アメリカの指導者の反応から 浮かび上がってくる。アメリカの情報機関は、当初オリン ピック作戦の予定日である一九四五年一一月一日に、日本 軍が九州を六個野戦師団だけで守り、それらのうち三個師 団だけが九州南部の目標地域を防衛していると予測してい た。日本側はオリンピック作戦に対して、最終的には八~ 九個の野戦師団を配備し、その総計兵力は三五万人に達す ると予想された。帝国陸海軍は、これらの部隊を支援する ためにわずかに二五〇〇~三五〇〇機の航空機しか利用で きないと想定され た )(( ( 。   七 月 九 日 か ら 八 月 に か け て 継 続 し て、 ( ウ ル ト ラ や マ ジックといったコードネームで呼ばれた)無線諜報は、主 に日本本土における日本軍の大規模な戦力増強を明らかに し、さらに計画されていた上陸地点を中心とした九州にお ける大規模増強についてより不穏な証拠 を 暴 露し た。戦争 終結までに情報機関は、一四個野戦師団のうち一三個師団 ( 九 個 師 団 は 九 州 南 部 ) と 一 一 個 旅 団 の う ち の 五 個 旅 団 を 九 州 に 確 認 し た。 八 月 二 〇 日 に 改 訂 さ れ た 最 終 の 見 積 は、 九州に全部で一四個野戦師団六二万五〇〇〇人の部隊がい るとみてい た )(( ( 。   各情報機関の間で相違は存在したが、状況は日本の航空 戦力に関しても同様に悲観的なものであった。降伏の日ま でに、新たに設置された日本の航空戦力に関する陸海軍統 合評価委員会は、日本本土におけるその航空戦力を五九一 一機と見積もっ た )(( ( 。太平洋艦隊司令長官の情報センターは、 八月一三日までに、日本側は一万二九〇機の航空機を本土 防衛に利用可能だと予測し た )(( ( 。実際の合計数は約一万七〇 〇機であっ た )(( ( 。   断片的な警戒すべき情報が蓄積されるにつれて、それら は政軍の指導者に回覧された。これに関連して、トルーマ ン大統領や他の最上位の政策決定者へ毎日届けられる配布 物が、日本の外交電報をカバーする「マジック」外交情報

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) の要約、ならびに日本が とく に九州を含む本土における軍 事力の増強を行っている証拠を示す「マジック」極東情報 の要約の両方を含んでいたことは、今日明らかであ る )(( ( 。   日本の九州における戦備増強の証拠は、まずその政治的 意義への注目をもたらした。極秘の「マジック極東情報の 要約」に基づき海軍情報部によって作成され、七月二七日 にすべての上級政策決定者の間に配布された評価には、次 のような箇所がある。   ウ ル ト ラ 情 報 を 通 じ て 明 ら か に さ れ た よ う に、 日 本 の 状 況 に つ い て の 分 析 は、 次 の こ と を 示 唆 す る。 日 本 が 降 伏 を 渋 る の は、 有 能 で は な い も の の 全 権 を 掌 握 し て い る 陸 軍 の 指 導 者 が、 自 分 た ち が 非 常 に 熱 心 に 作 り 出 し て い る 防 備 が 実 際 に は 全 く も っ て 不 十 分 で あ る と、 認 識 で き て い な い こ と に 主 に 起 因 す る …… 日 本 の 指 導 者 が 侵 攻 を 撃 退 す る こ と が 不 可 能 だ と 自 覚 す る ま で、 彼 ら が 連 合 国 を 満 足 さ せ る い か な る 和 平 条 件 をも受諾する可能性はほとんどな い )(( ( 。   も し ワ シ ン ト ン の 海 軍 士 官 ら が、 七 月 二 七 日 の 時 点 で (増強の全容が把握される以前) 、日本の増強が侵攻に立ち 向かうのに「全くもって不十分」だとみなしていたならば、 彼らは間もなく見解を変え、海外に勤務する同僚の悲観的 見解に同調したであろう。七月二九日までにマッカーサー ( Douglas MacArthur ) 元 帥 の 情 報 参 謀 で あ っ た チ ャ ー ル ズ・ A ・ ウ ィ ロ ビ ー( Charles A. Willoughby ) 准 将 は、 九州における日本の猛烈な戦備増強は「我々が一対一の兵 力比で攻撃する段階にまで至る兆候を示しており、そうし た状況は勝利のための方策ではない」と力説し た )(( ( 。ウルト ラによる暴露は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッ ツ( Chester Nimitz ) 提 督 の 見 解 を 強 化 し た。 ニ ミ ッ ツ は、 早くも五月二五日に、合衆国艦隊司令長官キング提督にあ て た「 ア イ ズ・ オ ン リ ー 〔 極 秘 親 展 〕」 の 通 信 の 中 で、 オ リ ン ピ ッ ク 作 戦 は 無 分 別 で あ る と 述 べ て い た。 (「 ア イ ズ・ オンリー」とは、通信文の文章が両司令長官の間における 非常に個人的な連絡であることを意味する。これは他の何 者によっても読まれる予定のないものであり、おそらく通 信文の最初の暗号化と最後の復号化を行う、口が堅い通信 担 当 士 官 に よ っ て 保 存 さ れ た。 ) 六 月 四 日、 太 平 洋 艦 隊 の 機密情報の週報は、日本軍が「間違いなく九州への侵攻を 予 期 し 」、 九 州 南 部 に も っ と も 高 い 優 先 度 を 与 え て い る と 報告した。六月一八日までに、同週報は日本側が防御陣地 構築の優先順位リストを作成し、南北九州と東京平野を首

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「決号」 位に据えたと記録した。太平洋艦隊の見積が、九州は「侵 攻に対する兵力増強と防備強化について、敵によってもっ とも重視されている」と明確に述べたのは、ようやく七月 に入 ってからであっ た )(( ( 。ニミッツは、彼のきわめて有能な 側 近 の 一 人 で あ る フ ォ レ ス ト・ シ ャ ー マ ン( Forrest Sherman ) 少 将 の 異 動 に 関 す る 八 月 三 日 の キ ン グ 宛 通 信 文のなかで、九州侵攻の見通しについて、きわめて悲観的 なままであることを明確に示唆していた。ニミッツは、オ リンピックは「際限なく長引くかもしれない」ことを理由 に、シャーマンがその作戦計画の作成が完了するまで太平 洋艦隊司令部に留まるべきだと主張した。そして作戦計画 の作成が完了した時には、シャーマンは任を解かれるであ ろうと述べ た )(( ( 。   ワシントンの統合参謀本部の上級参謀将校らは、オリン ピック作戦に関してウィロビーやニミッツが抱いた疑念を 共 有 し て い た。 「 あ ら ゆ る 兆 候 が、 日 本 軍 が 九 州、 と り わ け九州南部の防衛にもっとも高い優先順位を与えてきたこ と を 示 し て い る 」 と、 統 合 情 報 委 員 会( Joint Intelligence Committee ) は 八 月 初 頭 の 報 告 で 指 摘 し た。 彼 ら は 日 本 側 の 防 衛 努 力 の 焦 点 に つ い て、 九 州 南 部、 四 国、 九 州 北 部、 関東平野の順番に格付けした。日本側は交通線の破壊を十 分 に 予 想 し て い た が、 「 戦 力 の 大 半 を、 連 合 軍 の 攻 勢 の 可 能性がありもっとも危険が迫っている地点にごく接近した 必 要 不 可 欠 な 地 域 の 防 衛 に 用 い る こ と に 集 中 さ せ る た め に」絶え間なく精力的に働いていた。統合情報委員会の総 括によれば、一九四五年初頭において、九州における日本 の地上戦力は一五万人であり、その七五%が九州の北端に 存在したが、それから約五四万五〇〇〇人に増加し、それ ら の 六 〇 パ ー セ ン ト が 九 州 南 部 に 位 置 す る よ う に な っ た。 その報告は、日本の航空戦力、とりわけ神風の大規模増強 を 強 調 し た。 特 攻 の た め の 五 〇 カ 所 の 特 別 基 地 が、 九 州、 四国、東経一三三度以西の本州(オリンピック作戦の範囲 内)において確認された。通常戦闘用の航空機の配備も九 州・四国に戦術的重点を置いていた。   統合情報委員会は、四国において同年初頭には現役の師 団が存在しなかったのが、合計約一五万人の支援部隊とと もに、四個の現役師団と一個の補充師団に増強されたこと も強調した。九州を掩護する航空戦力の配備は、実質的に は四国も掩護した。日本軍は明らかに最初の攻撃が南部に 来ると信じていたように見える一方で、関東(東京)平野 を 無 視 し て い な か っ た。 そ こ で は、 戦 力 が、 ( 他 の 部 隊 合 計三〇万人とともに)四個の現役師団と三個の補充師団で

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法学研究 89 巻 8 号(20(6:8) あったのが、九個の現役師団(うち機甲一個師団)と三個 の補充師団および他の部隊を合わせて計五六万人に急増し た。しかしながら関東における航空機と特攻用機の配備は、 九州におけるそれより著しく遅れてい た )(( ( 。   最初の原子爆弾が広島に投下された八月六日、ワシント ン に あ る 統 合 参 謀 本 部 の 統 合 戦 争 計 画 委 員 会( Joint War Plans Committee ) は、 統 合 参 謀 長 会 議 の 直 下 に 隷 属 す る 統 合 計 画 参 謀 部( Joint Staff Planners ) に「 『 オ リ ン ピ ッ ク作戦』の代替案」に関する報告を送付した。同委員会は、 日本軍の九州における準備について、到着したばかりの憂 慮 す べ き 情 報 見 積 に 言 及 し、 次 の よ う に 観 察 し て い た。 「 こ の 増 強 と 集 中 が オ リ ン ピ ッ ク 作 戦 に 対 し て も た ら す で あろう影響は以下の通りである。すなわち、野戦指揮官は その状況見積を再検討し、考えられるオリンピック作戦へ の代替案に関して日本 に おける目標を再調査し、当該代替 目 標 に 対 す る 作 戦 計 画 を 準 備 す る べ き で あ る 」。 そ の 報 告 に添付されたマッカーサーとニミッツ 宛の メッセージの草 案は、日本軍の戦力の劇的な増強は、命令変更をいまだ要 さずとはいえ、オリンピック作戦の見通しに重点的に取り 組むことを余儀なくさせており、両指揮官に「代替案を作 成し、時宜を得て提言を提出する」ことを命じていた。そ れ は、 「 本 州 の 北 端 や、 仙 台 地 域、 直 接 関 東 平 野 に 対 す る 作戦が今や[ワシントンで]集中的な研究課題となってい る」と助言してい た )(( ( 。統合計画参謀部は、広島への原爆投 下 の 二 日 後、 長 崎 へ の 原 爆 投 下 の 前 日 で あ る 八 月 八 日 に、 これらの報告を公式に再検討した。おそらくこのタイミン グのためか、会議の議事録は計画参謀らが煮え切らぬ態度 をとっていたことを示している。彼らは「統合戦争計画委 員会が一つの見解とともに統合参謀長会議へ提案する目的 で、 代 替 目 標 に つ い て の 研 究 を 準 備 し て い る と い う 事 実 ……に気づい た )(( ( 」。   しかし、マーシャル元帥はすでに行動していた。ワシン トン時間で八月七日に、彼はマッカーサーに以下のような 文書を打電した。   私 に 提 出 さ れ、 ま た 貴 官 の 参 謀 の も と に 送 付 さ れ た は ず の ジ ャ ッ プ に 関 す る 情 報 報 告 は、 日 本 軍 が 九 州 お よ び 本 州 南 部 に お い て 師 団 と 航 空 戦 力 両 方 の 大 規 模 な 増 強 に 着 手 し て き た と し て い る。 報 告 に よ れ ば、 航 空 戦 力 が 増 強 さ れ、 そ れ に は 当 地 の 情 報 筋 の 見 積 で は 大 量 の 特 攻 機 が 含 ま れ て お り、 そ れ ら は 現 在 の 基 地 の 近 辺 に お い て 使 用 可 能 で あ る。 報 告 に あ る 九 州 の 増 強 と 同 時 に、 日 本 の 参 謀 本 部 の 立 場 か ら 見 れ ば 本 州

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「決号」 北 部 と 北 海 道 に お け る 防 衛 能 力 が 並 外 れ て 弱 体 化 す る よ う に 思 わ れ る と こ ろ ま で、 日 本 軍 は 東 京 平 野 の 北 部 か ら 兵 力 を 削 減 し た、 と い う こ と が 報 告 さ れ て い る。 日 本 側 が、 我 々 の 情 報 機 関 が 利 用 し て い る 情 報 源 に、 い く ら か の 欺 騙 を 盛 り 込 ん でいるかもしれないという疑問が、私の頭の中に生じている。   報 告 さ れ て い る 日 本 本 土 の 兵 力 配 備 の 意 味 に つ い て 当 地 で 生 じ そ う な 議 論 や、 オ リ ン ピ ッ ク 計 画 に 代 わ る 東 京、 仙 台、 大 湊 な ど の 目 標 に つ い て の 議 論 な ど を 手 助 け す る た め に、 現 時 点 で 貴 官 の 指 揮 下 に あ る 兵 力 と 関 連 し て 日 本 の 意 図 と 能 力 について個人的な見積を通報願いたい。   マ ー シ ャ ル は こ の メ ッ セ ー ジ の 写 し を、 ト ル ー マ ン の 〔 大 統 領 付 〕 参 謀 長 で あ っ た ウ ィ リ ア ム・ リ ー ヒ( William Leahy )提督に送っ た )(( ( 。   マッカーサーは八月九日に即答した「個人的見積」の中 で 次 の よ う に 語 っ た。 「 我 々 の オ リ ン ピ ッ ク 作 戦 に 反 撃 す るために増強を続けているとして貴殿に報告された日本の 潜在航空力は、かなり誇張されていると私は確信していま す 」。 彼 は、 九 州 に お い て あ る 程 度 戦 力 が 増 加 し た 可 能 性 を 認 め な が ら も、 「 貴 殿 の も と に 報 告 さ れ た 九 州 南 部 に お ける大規模増強」は軽視した。マッカーサーはB ― 二九爆 撃機部隊に加えて、連合国の戦術空軍が、日本の潜在航空 力を「迅速に見つけ出し、破壊し」て、九州南部の日本の 地 上 戦 力 を「 事 実 上 動 け な く し て 」、 「 大 い に 弱 体 化 さ せ る」だろうと主張した。   「 思 う に、 オ リ ン ピ ッ ク 作 戦 の 変 更 は い さ さ か も 考 え て はならない」とマッカーサーは述べた。オリンピック作戦 の 目 的 は、 「 日 本 の 産 業 の 中 心 」 に 対 す る 攻 撃 の 範 囲 を 広 げるための航空基地を獲得することである、と彼は強調し た。 オ リ ン ピ ッ ク 作 戦 は「 手 堅 い し、 成 功 す る だ ろ う 」。 提案された代替案を批判した後、マッカーサーは都合のい い過去の事例を想起させつつ結語とし、ひょっとしたら日 本 人 が ま ん ま と ウ ル ト ラ を 誑 か し た の で は な い か と い う マ ー シ ャ ル 自 身 の 疑 問 を 最 大 限 利 用 し た。 「 南 西 太 平 洋 方 面の軍事作戦を通じて、すでにご承知のように、作戦情報 は敵軍の大幅な増加を常に指摘してきた。例外なく、こう し た 増 加 は 間 違 っ た も の だ と 判 明 し た。 特 に こ の 場 合 は、 日本で目下進行中の崩壊が、かなりの高確率で日本が欺 騙 工作を用いていると示しているように見える」 。   マッカーサーの結論は、彼の戦域における過去の事態に ついて、途方もない恥知らずの 嘘 を含んでいた。すなわち 彼の情報将校は、日本の戦力を一貫して過大評価していた のではなく、過小評価していたのだっ た )(( ( 。しかし、この 嘘

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