8 月の空 「ある零戦パイロットの記録」
● 敏美同期の田邊準一氏の参戦記録が、「いわき民報・夕刊(平成 7(1995 年)8 月 15 日から 17 日まで 3 回)に連載された。以下、原文のまま掲載す る。1.初陣 - 味方機が落ちていく
ちょうど 50 年前の昭和 20 年夏、日本は歴史上例を見ない全軍特攻化、連合 艦隊の壊滅、沖縄玉砕、B29 による本土空襲そして広島・長崎の原爆と、敗戦 の通を歩んでいた。戦力のほとんどを失いながら、なおも戦争を続ける日本。 無 名 の兵 士た ちは 何を 思い、何を考えたのだろ うか。 一人の零戦(零式艦上戦 闘機)パイロットが、戦 争の悲惨さを語る。 東京・九段の靖国神社。 今月 5 日、旧日本海軍の 零戦パイロット生存者から成る零戦搭乗員会のメンバー約 100 人が集まって、 戦没者の 50 年忌を営んだ。参列者の一人、いわき市平中山、田辺準一さん(70 歳)は数々の空戦を戦い抜いた、12 機撃墜のエース(多数機撃墜)パイロッ ト。黙とうをささげる田辺さんのまぶたに、50 年前の光景が浮かび上がった。 日本軍が攻勢をとっていた昭和 17 年 5 月田辺さんは海軍に入隊した。半年後、 志願して航空整備兵から搭乗員に転科。赤トンボ(93 式練習機)で操縦を覚え、〝鬼のしごき″で知られる徳島航空隊で特訓を受けた。丙飛 15 期となっ た 631 人は各部隊に配属される。このうち、終戦まで生き残った搭乗員はわ ずか 34 人にすぎない。 母艦航空隊として、田辺さんが初めて零戦に乗ったのは 18 年の初冬。操縦し た印象は「驚くほど旋回性能のよい戦闘機。九州で 4 カ月の着艦訓練を終え た 19 年 3 月 25 日、最前線に進出した。配属先はパラオ諸島・ペリリユー島 飛行場、後に〝悲劇の航空隊″といわれた 201 空零戦隊だった。 3 月 30 日、田辺さんは初出撃する。前夜、味方哨戒機は米機動部隊を発見、 守備隊は「明朝、敵艦載機による空襲」に備えたく搭乗員らは午前 3 時に起 床、20 機の零戦は次々と飛行場を離陸して、島の上空 5、000 メートルで迎撃 態勢を整えた。すると、地上に真っ赤な火の手が上がりだした。 「何だろう」といぶかる田辺さんの前方で、隊長機が敵襲信号のバンク(機体 を斜め)をする。米軍機はレーダーで高度 2、000 メートルを進入、飛行場の 日本機を炎上させたのだ。零戦隊は急降下して、100 機近い敵編隊の中に突っ 込む。田辺さんは軍港上空で空中戦に入った。 「零戦の弾は裸電球のように光 りながら飛んでいく。一方、F6F の弾は赤い尾を引く。 201 空零戦隊はラバウルを戦っ てきたベテランが多かったので、 数倍の敢とほぼ互角に渡り合っ ていた」。 田辺さんは味方艦隊を攻撃して いた艦爆 2 機を撃墜した。 「護衛の F6F を振り払い、爆撃態 勢の艦爆を追いかけて連射する
と、敵機はガクンと機首を下げて海に落ちていきました。無我夢中で、考 えている余裕なんてないんですよ」。 燃料、弾薬の尽きた田辺さんは敵の間隙(げき)をぬって飛行場に着陸、 整備兵が駆け寄って補給作業に取りかかった。 しかし、その直後に至近弾が爆発、機体は大破、操縦席内の田辺さんは胸 に重傷を負った。朦朧(もうろう)とする視線の中で、零戦がまた 1 機落 ちていく。結局、翌日まで続いたパラオ大空襲で、米軍は延べ 1、200 機を 出撃させ、約 80 機の零戦隊を壊滅した。田辺さんら搭乗員は潜水艦でフィ リピンに後送され、見送った約 1 万の守備隊は翌年、玉砕する。(データは 零戦搭乗員会調査に基づく)
2.搭乗員の墓場 - 誤報で大打撃を受ける
パラオ大空襲で壊滅的打撃を被った 201 空零戦隊は昭和 19 年 5 月、フィリピ ン・セブ島に後退した。この時期、主戦場はサイパン、グアムなどマリアナ 諸島に移り、フィリピンでは航空部隊の再建に取り組んでいた。初陣で胸に 負傷を負った、いわき市平中山、田辺準一さん(70 歳)は傷もいえ、隊員た ちと反跳爆撃訓練を始める。 反跳爆撃とは、零戦に 250 キロ爆弾を搭載、敵艦と 200~300 メートルの距離 で低空投弾すると、爆弾は一度海面をはねて艦船の横腹に命中する。生還の 望みのない艦爆、艦攻に代わる攻撃で、捨て身の戦法は挺(てい)身爆撃と 呼ばれた。しかし、悲願の攻撃を前に、201 空はまたも大打撃を受けてしまう。 9 月 10 日、ダバオ誤報事件が発生する。ダバオ守備隊の「米軍上陸」の誤認 情報を受けて、決戦に備えた現地司令部はセブ島に零戦隊を集結させた。誤 報と分かった 12 日になっても、島には約 100 機の零戦がいた。 「そこを米機動部隊は奇襲した。過度の 1 カ所集結だったから、損害は甚大になった」 (田辺さん) 零戦搭乗員会の記録では、迎撃に飛び上がった零戦は 41 機。けたたましいサ イレンの中を急速発進した田辺さんは、海面をはうようにして逃げた。F6F が照準を合わせた瞬間、フットバー(方向舵=だ)をけとばし、機を左右に 滑らせて機銃弾をかわした。同日、零戦隊の被害は未帰遭 25 機、撃破 55 機 に上った。無事帰還した田辺さんは、同郷(平?)の鈴木喜久雄上飛曹の未 帰還を知る。 連日の空中戦となった 22 日、現地司令部は米機動部隊攻撃を命じる。反跳攻 撃のできる搭乗員の多くは 12 日以降の戦闘で失われ、12 機の零戦隊は急降下 爆撃を行う。その時の様子を田辺さんは 「私たちは自らを特別攻撃隊と呼んだ。マニラ基地を離陸、上空 5 千メート ルから敵空母を発見、突入した」。 攻撃態勢に入った零戦隊を待っていたのは、すさまじいばかりの対空砲火だ った。「風防の向こうは火の海なんです。弾幕をかいくぐって投弾すると、空 母の近くに水柱が立ちました。海面すれすれを全速退避、横を見ると弾がゆ っくりと追い越していった」。対空砲火によって、零戦は未帰還 5 機、一方の 米空母に被害はなかった。 フィリピンでの空戦でエース(多数機撃墜)となった田辺さんだったが、10 月初めの米機動部隊攻撃で左足を負傷、戦線から離脱する。 「F6F を押しのけ、敵艦に向かおうとフットバーを踏み込むと、左の飛行靴 の中が血でいっぱいなのに気付いた。基地に帰ると、機体にも 5 発被弾し ていた。対空砲火か、F6F なのか分からない」 この戦闘で、出撃した 12 機の零戦のうち、8 機が未帰還となる。負傷した田 辺さんは輸送機で日本に送還されることになった。出発の朝、201 空の仲間は 姿が見えなくなるまで手を振っていた。その彼らが神風特攻隊の第一陣とし
3.終戦 - 先行きの不安と安ど感
フィリピンで負傷して日本に帰っていた、いき市平中山・田辺準一さん(70 歳)は昭和 20 年 7 月横須賀基地の零戦隊に復帰する。任務は、毎日空襲にや って来る米軍機の迎撃。 「圧倒的多数、高性能の B29、F6F の前に、さすがの零戦も多くの未帰選を出 した」と田辺さんは語る。 この時期、戦局は断末魔の様相を呈していた。本土空襲は地方都市にまで及 び、8 月 6 日・広島原爆、8 日・ソ連の対日宣戦布告、9 日・長崎原爆、10 日・ 降伏受諾の聖断下る。ポツダム宣言を受諾して、日本はあと 5 日で無条件降 伏するが、前線の兵士たちに政治日程など、分かるはずもない。 太平洋戦争最後の 1 日となった 15 日早朝、米軍機 103 機は関東上空に来襲し た。田辺さんは満足な訓練を受けていない 19、20 歳の隊員を引き連れて、“憎 きグラマン”(F6F)と空戦を繰り広げた。 「零戦は旋回性能がよいから、敵機に後ろにつかれたら宙返りをする。する と、宙返りを終えてない敵機の後ろにつくんです」 “ひねりこみ”と呼ばれる零戦得意の戦法で、田辺さんは F6F2 機を撃墜。し かし、最後の出撃となって零戦隊は 6 機の未帰還を出す。 「2、3 時間もすれば終戦だったのに…。だけど、その 1 分 1 秒を命がけで 生きていく。それが戦争なんですよ」。 暑い昼下がりの午後、田辺さんは着陸した厚木基地で日本の降伏を知る。 「敗戦を知った隊員たちは、しょんぼりとしていた。私は先行きの不安と『も う戦わなくてもいい』安ど感で、ぼう然自失のありさまだった」。ところが、 厚木基地司令の小園安名大佐は、玉音放送が終わると「厚木空は降伏しな い」旨を海軍司令部に打電。夜になると、隊員を集めて徹底抗戦を叫んだ。厚木基地に着陸していた横須賀空所属の田辺さんも反乱に巻き込まれる。 内心「戦争はもう終わったのに」と思いながら、出撃準備を整えた。17 日 には全国に零戦を飛ばし、檄(げき)文を上空からばらまく。 田辺さんの担当は静岡県の熱海方面だった。横須賀空の隊員は同日夜、厚 木基地に説得に来た上官に連れ出され、無事帰隊した。 「発生からちょうど 1 週間で、厚木空反乱事件は終結しました。小園大佐は、 どうもマラリアの影響で精神状態がおかしかったようです。隊に戻ると『全 員家に帰れ』といわれ、8 月下旬にはいわきに帰って来ました」。 田辺さんは戦後、公務員を定年まで務める。その間、現在に至るまで戦闘経 験を一切口にしなかった。 「だけど、あの夏から 50 年が過ぎました。話すことが、約 1 万機・3 千 6 百人の零戦搭乗員の墓銘碑になればと思うのです」。 敗色濃厚となった戦争後半を戦った零戦パイロットにとって、エース(多数 機撃墜)になることなど、はかなり夢だった。彼らの多くは、強大になって いく敵戦闘機、精度と破壊力を増した対空砲火、そして特攻に次ぐ特攻の中 で、南の空に散っていった。