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KEY WORDS The Gospel of John 8:24, 28, 58, 9:9, 13:19, EGO EIMI, Name of God, ehyeh asher ehyeh, ani hu, preexistence, blind, wisdom, Hokma, Logos, Me

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キーワード

ヨハネ福音書 8 : 24、28、58、9 : 9、13 : 19、エゴー・エイミ、神の名前、エヒイェ

ー・アシェル・エヒイェー、アニ・フー、先在、盲目の(盲人)、知恵(ホクマー)、

ことば(ロゴス、メムラー)、タルグム、サマリア人

KEY WORDS

The Gospel of John 8:24, 28, 58, 9:9, 13:19, EGO EIMI, Name of God, ehyeh asher ehyeh, ani hu, preexistence, blind, wisdom, Hokma, Logos, Memra, Targum, Samaritan

要旨 ヨハネ福音書 8 章 24 節、28 節、58 節、13 章 19 節の「エゴー・エイミ」の訳語と引照 に関しては、出エジプト記 3 章 14 節を用いるものと、イザヤ書 43 章 10 節を用いるも のに大別される。本論文では、近年の研究論文とキーワード (tuflos)の分析 により、全ての箇所に第二イザヤからの影響が強いことを明らかにするが、58 節のみ 「存在」の意味に解釈して、出エジプト記とも結び付ける可能性が残ることを示す。さ らに 58 節に含まれる「子の先在」の概念が、ヨハネ福音書に前後する文献にも見られ ることを確認し、第二イザヤとヨハネ福音書に共通する歴史的背景を考察して、新た な神的権威の実在化の過程が、「エゴー・エイミ」の思想的背景として、存在したこと を明らかにする。

ヨハネ福音書における

ついて

in the Gospel of John

田 中   一 成

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SUMMARY

In the Gospel of John EGO EIMI (I am) with no complement clause appears in 8:24, 28, 58 and 13:19. These four usages differ from one another in meaning and reference. They are commonly grouped into two, one that makes reference to Exodus 3:14, and the other to Isaiah 43:10. By depending on some recent research and by examining a key word TUFLOS (blind), this article shows that all these usages are influenced by Deutero-Isaiah, especially by the chapters 42 and 43. It is possible, however, to interpret 8:58 as “existence” and relate it with Exodus. Moreover, since the concept of “Pre-existence of the Son” implied in 8:58 can be discerned in other texts of the same period, and since the Gospel of John and Deutero-Isaiah share an identical historical background, this article argues that a substantiation of a new divine authority can be discerned behind EGO EIMI.

1 問題の設定 2 補語を含まない と「神の名」との関係  (ア)出エジプト記 3 章 14 節 (イ)申命記 32 章 39 節  (ウ)第二イザヤ(イザヤ書 43 章 10 節他) 3 ヨハネ福音書 9 章「盲人の 」解釈 4 ヨハネ福音書 8 章 58 節の 解釈 (ア)存在の意味にも解し得ること (イ)「子の先在」の概念について 5 歴史的背景より考察される 解釈 6 まとめ

1

問題の設定

──────────────────────────────────── 「わたしはある(新共同訳)」( 、ego eimi、エゴー・エイミ)は、共観福 音書に比べ、ヨハネ福音書に特徴的に用いられる表現である1。その用法には何らか の補語を含み、主語がその補語と同等であることを言明する用法と、絶対的にその 定式のみで何らかの意味を形成しているものとに大別できる。この場合補語とは、 パン、世の光、羊の門、羊飼い、復活と命、道、真理、ぶどうの木であり、補語を 含まない用法はその不自然な文脈から、「神の名」を暗示すると解釈されている。こ のことはこれまでに E. Schweizer, R. Bultmann, C. H. Dodd, R. E. Brown, E. D. Freed, R.

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Schnackenburgなどによる「ヨハネ福音書註解」を始め、邦語においても間垣洋助、 小林稔、木田献一らによって研究がなされてきた2。特に補語を伴わない「エゴー・ エイミ」については、聖書の翻訳によって、その訳語に違いが見られる。これらの 訳の違いには大きく分けて二つの傾向が見られる。一つは出エジプト記(3 :14)を引 照とする訳語であり、もう一つはイザヤ書(43 :10)などを引照とする訳語である。 なぜこのような違いが生じ、またどちらの訳語をよりふさわしいとすべきだろうか。 本論文では、近年の研究論文の成果とキーワード (tuflos)の分布から、「エ ゴー・エイミ」の適切な引照と訳語を考察し、「エゴー・エイミ」に託された意味の 多様性と、その思想的背景を追究する。

2

補語を含まない

と「神の名」との関係

──────────────────────────────────── (ア) 出エジプト記 3 章 14 節  出エジプト記 3 章 14 節の「神の名」はマソラ本文(MT)では、 (ehyeh ’¯asˇer ’ehyeh)と表記され、ギリシア語七十人訳聖書(LXX)では、

(ego eimi ho on)と訳されている。ehyeh-asher-ehyeh の意味については、概略すると、

以下のような訳語が検討されている3。どの訳語も、聖書の神概念を理解する上で大

変重要なものであり、ヨハネ福音書の「エゴー・エイミ」とも、新共同訳やウルガー タ、フランス語共同訳(TOB)やエルサレム聖書(FBJ)などで関連付けが行われてい る。

①類音重畳句(idem per idem)と考えた場合、「私はいるといったらいるのだ」 の意味になる。

② YHWH の名の解釈と考えた場合 「私はいる ehyeh」、「彼はいる YHWH」

③他の ehyeh の類例から補語を補った場合 「わたしは必ずあなたと共にいる」 ④他の ehyeh の類例から意味を推定した場合「わたしはなる、わたしがなるものに」 ⑤ HYH の使役形と考えた場合 「在らしめる者」

(イ) 申命記 32 章 39 節 

MTでは (¯anıˆ-hˆu)「わたしが彼だ」と表記され、LXX では

(hoti ego eimi)と訳される。申命記には、第二イザヤと同様の ani-hu の用例が一箇所 だけ含まれており、そこからヨハネ福音書の思想的背景に関連した要素が導き出さ れる。

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6:4、7:9、32:39)を挙げ、中でも申命記(32:39)がユダヤ教文学の中で、以下の五 つの異教、異端、邪論を持つ者に対して用いられたとする。 ① 天に力はないと信じる者 ②天に二つの力があると信じる者 ③神は人間の出来事には干渉しないと信じる者 ④復活と来るべき世界を信じない者 ⑤父祖たちの恩恵を信じる者 またこの箇所が、「生者の世界に死をもたらし、やがて来る世界で死者を生かすの はこのわたしだ。見よ、わたしが彼である。今おり、かつていた者、やがているだ ろう者、わたしこそ彼である。」と解釈されるミドラシュの例を示し、同様の表現と してイザヤ書(41:4、44:6、46:4)を挙げている。さらにミドラシュのテーマの一つ を、二つの神の信仰に対抗することであるとして、当時慈悲と正義の神を、別々の 神に帰する信仰があったことを述べる(出 15:3 と出 24:10、ダニ 7:9 とダニ 7:10 など)。 こうした天における、二つの力の概念による分裂の危険性を減らすために、論争的 というよりはむしろ弁証的に、こうした一神教化の概念が用いられたとして、モー セの歌(申 32 章)全体を、イスラエルの背信に対する YHWH の慈悲を表すための、 詩的な自己讃美であるとしている。 このような二つの天の概念は、一方でゾロアスター教やグノーシスなどの善悪に 基づく二元論に行きつくが、もう一方では、神の力を代替した、創造の仲介者とし ての (Logos)の概念にも結びついたと考えられる。例えばフィロンは、Logos を「神の長子」、「天使たちの長」、「始め」、「神の名」、「神のことば」などに位置付け (Conf.146)、さらに「第二の神」(QG.62)とさえ呼んでいる5。こうした天的秩序と 神的な力の分散がすでにキリスト教以前にも生じていたこと、神的概念の希薄化や 神的象徴の喪失が ani-hu などの新たな表現によって、特定され、あるいは代替され ていたことが、申命記 32 章 39 節からも伺われる。

さらに Fossum6、Williams7は 、類似した ani-hu の用例が、死海文書の一部やミド

ラシュにも見られるとして、特にサマリア人の正典と後 4 世紀のサマリア人神学者

マルカによる、アラム語の著作「マルカのことば 8」(Memar Marqah IV:107[245a])

において、神の名に関する思索が頻出し、神の歴史的な名前が ehyeh-asher-ehyeh で あり、サマリア人終末論における「報復の日」の神の名が、ani-ani-hu であることを 指摘している9。以下は、その類例である。 サマリア人モーセ五書 (申 32:39)10「今こそ見よ、わたし、わたしこそ彼である。 わたしの傍に他の神はいない。わたしは殺し、また生かす。私の栄光と誉れによって。 わたしは傷つけ、また癒す。わたしの偉大さと正義によって。そしてわたしの手から、

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わたしの苦悩と報復から、救い出せる者はない。」 Memar Marqah IV:§ 1211

わたし、わたしこそ彼、創造とシナイ山の神。 わたし、わたしこそ彼、かつており、わたし以外には誰もいなかった。 わたし、わたしこそ彼、かつており、時間も空間もなかった。 わたし、わたしこそ彼、世界の生命が属する者。 わたし、わたしこそ彼、わたしの力によって引き起こし、展開する者。 わたし、わたしこそ彼、園に植え、ソドムを根絶した者。 わたし、わたしこそ彼、与え、蓄える者。 わたし、わたしこそ彼、全てが属し、全てが帰る者。 わたし、わたしこそ彼、殺し、生かし、命を与え、命を奪う者。 わたし、わたしこそ彼、わたしの敵に復讐をもって報いる者。 以上より、申命記(32:39)の ani-hu が、ミドラシュにおいて「天における二つの 力」に対抗するものであること、サマリア人の正典や著作において、「神の名」に解 釈され、終末的特徴を備えた一神教の文脈において用いられる、特徴的表現である ことが確認される。 (ウ) 第二イザヤ(イザヤ書 43 章 10 節他 12 (¯anıˆ-hˆu)の表現は、申命記(32:39)を除けば、第二イザヤのみに含まれてお り、そのテキストや思想的背景から、ヨハネ福音書との多くの関連を指摘し得る。 まず Dodd は、そのヨハネ福音書注解において13、イザヤ書(52:6)を「それゆえ、わ たしの民はその日わたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが ani-hu で あり、見よ、ここにいるという者であることを知るであろう。」と解釈し、ani-hu が「神 の名」として用いられているとし、同様に LXX イザヤ書(45:19) の二番目の「エゴー・エイミ」を「神の名」とみなした。 さらに仮庵祭において、伝統的に (¯anıˆ-w∂hˆu)「わたしと彼」が、

(sˇe¯m h¯am∂pˆorasˇ)「特別な名」として用いられていたことと、ヨハネ福音書の仮庵祭の

内容とが一致していることを挙げ、後 70 年以前の礼拝において、かつての「特別な 名」が既にわからなくなり、ani-vehu が神の名として用いられていたという、Pinchas

ben Jairや R. Judah Ben Ilai ら 2 世紀のラビ達の主張を否定する、いかなる根拠もない

としている14。この場合 ani は「神」、hu は「イスラエル」を意味する。このことから

やはり、神が「共にいる」ことの強調や、神のイスラエルへの特別な親密さが表され ているとする。これに対し Williams は、後 70 年以前とする年代については確証がな いとしながらも、礼拝や祭りにおいて用いられていたことは確かであり、その関連

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について肯定的に論じている15。また、後 3 ∼ 4 世紀のラビに関して、 (hu)が 「神の名」であり、創造の仲介者であるとする説は Fossum にも見られる16。こうした 第二イザヤと、ヨハネ福音書「エゴー・エイミ」の訳語の対応は、現在特に英訳、独 訳の聖書翻訳の一部において受け入れられ、支持されているが17、新共同訳は出エ ジプト記(3:14)からの引用にとどまっている。フランス語「共同訳」と「エルサレ ム聖書」では、出エジプト記(3:14)の訳語をあてつつ、第二イザヤからの引照を、 説明を付して註に落としているなどの違いがある。 さらに大変興味深いことに、Ball によって、ヨハネ福音書とイザヤ書の間に以下の 関係が指摘されている18 John8:24 John8:28 John8:58 John13:18 John13:19 Isa43:10 19 以上の文脈より、 イザヤ書(43:10) → ヨハネ福音書(8:28) イザヤ書(43:10) → ヨハネ福音書(8:24) イザヤ書(43:10) → ヨハネ福音書(8:58) イザヤ書(43:10) → ヨハネ福音書(13:18) イザヤ書(43:10) → ヨハネ福音書(13:19) の関連が得られる。すなわち、イザヤ書 43 章 10 節の幾つかの単語が、ヨハネ福音書 の異なる四つの「エゴー・エイミ」の文中に、ちょうど分配されるかのように、含まれ ていることがわかる。

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また Ball は、ヨハネ福音書(8:58)とイザヤ書(43:13)との関連を考察して、

LXXが不思議なことに、この箇所の ani-hu のみを ego eimi に訳しておらず(イザ

43 : 13

)、マソラ本文の (gam miyyoˆm ’ ¯anıˆ-hˆu’)「今よ

り後もわたしは彼」を、 (eti aparkes)「まだ始めのときから」に訳して いることを指摘し、「先在」の暗示が、第二イザヤにおいても示されていると述べる。 さらに TIsa では20 イザ 43:10 あなた方はわたしの証人であると、主は言われる。わたしの僕、わたしの 喜ぶ救い主を、あなた方はわたしの前に知り、信じ、そしてわたしが彼だと理解する であろう。わたしは彼。始まりのとき以来わたしは彼。長い年月さえもわたしのも の。わたしのほかに神はいない。 イザ 43:11 わたし、わたしは主、わたしをおいて他に救い出す者はいない。 イザ 43:12 私はあなた方の父アブラハムに伝えた。何がまさに来ようとしていたかを。 わたしはエジプトからあなた方を救い、わたしが彼に誓ったように、あなた方だけが おり、あなた方の間に他の民がいなかったとき、わたしはあなた方にシナイの戒めを 告げ知らせた。あなた方はわたしの証人である、そしてわたしは神、と主は言われる。 イザ 43:13 また永遠にわたしは彼。わたしの手から救うものはわたしの他に誰もおら ず、わたしはそれをなし、わたしがそれを覆すことはない。 とあり、ここでは動詞の一致のみならず、アブラハムとの関連が生じており、よ りヨハネ福音書(8:58)との関連が深まっている。また、TIsa にも「先在」の思想が 見られ、「まだ始めのときから」はタルグムに特徴的な表現である。つまり、ヨハネ 福音書の著者は LXX と同時に、TIsa も用いた可能性が高い。Ball は、ヨハネ福音書 (8:58)を特別に発展した定式とみなして、イエスが神の単なる言葉ではなく、まさ に本質において神と同一であることを主張していると解釈する。TIsa については他 にも、MT イザヤ書(41:2)のキュロスが、アブラハムに変えられ、イザヤ書(43:12、 46:11、48:15 − 16)に、アブラハムの子供たちなどの表現が見られることから、ヨ ハネ福音書との関係が深いとされる21 Ballは22、これら第二イザヤの ani-hu は単独で意味を成すものではなく、それ以下 に説明が続くか、もしくは anoki-YHWH、ani-YHWH と同じ意味の表現とみなすこと ができるとして、この表現が旧約聖書のいたるところに現れ、特に出エジプト記、 エゼキエル書において顕著であることを述べる。さらにこうした背景を考慮して、 イエスの「エゴー・エイミ」表現の意味を考えた場合、それは唯一の神としての、 主なる神ヤハウェの歴史的救済行為を、子としてのイエスが代わりに行っているの だという意味であり、「イエスを信じることが救い」である一方、「信じなければ裁

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きと死」という、イスラエルと YHWH の関係の構図が、そのまま子であるイエスに 継承されていることを指摘している。 また Williams は23、ヨハネ 福音書( 8:24 )について、周 囲 のユダヤ人たちが、 「わたしはあるということ」を、関係代名詞と疑問代名詞の二つの単語で ある、 「何であれ、わたしがそれであることを」と、誤解した可能性 を指摘している。この場合、イエスの言説にとって、重要な情報である補語が理解さ れていないとみなすことができる。したがって、周囲のユダヤ人たちは、ヨハネ福音 書(8:25)で、 「そこで彼らは彼に言う。お前は一体誰な のだ」と、イエスに訊ねる。これはユダヤ人たちの皮肉と取ることもできる。一方イ エスは、その問いに合わせて、 「初めからそれであることは何でも、わたしはあなたたちに話している」と答えてい る。 ヨハネ福音書(13:19)は、18 節における詩編(41:10)の引用から、メシアを意味す るとも考えられ、「再びわたしを起き上がらせてください(詩 41:11)」を、LXX に訳していることから、復活とも関係する。一方、第二イザヤにお ける神と僕(イスラエル)の関係が、イエスと弟子たちの愛の関係(師による洗足) として、描かれているとみなすことも可能である。ここでは「主」とか「先生」(ヨハ 13:13 − 14)といった、イエスの呼称が問題となっていることも興味深い。おそらく ここもヨハネ福音書(8:24、28)と同じ表現であろう。 ヨハネ福音書(18:5、6、8)は、明らかに「ナザレのイエスは誰か」という質問に対 する「答え」であり、盲人の「エゴー・エイミ(9:9)」と同様の用例である。「エゴー・ エイミ」の後に、下役たちが地に倒れたとあることから、やはり「神の名」とみなすこ ともできる。「神の名」については、出エジプト記(23:20 − 22)「彼はわたしの名を帯 びているからである」という、「神の使い」との関連も想定し得る。 以上の説明から、ani-hu

は第二イザヤに特徴的な表現であり、ani-YHWH、anoki-YHWHとほぼ同内容の、YHWH の啓示定式であること、hu が「神」を指しているこ

と、バビロンからの救済を背景とする神の唯一性、親密性の表れであること、など を挙げることができる。また第二イザヤ ani-hu の引用と、ヨハネ福音書の「エゴー・ エイミ」の関係については、1)イエスが YHWH と同じ定式を用いることによって、 YHWHとイスラエルの関係を継承している、2)「わたしが彼である」の内容は、救済 と関係があり、「主の僕」、「メシア」、「神の子」などの概念が集約されている、などの 結論を得ることができる。

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3

ヨハネ福音書 9 章「盲人の

」解釈 

──────────────────────────────────── (tuflos)「盲目の・盲人」というキーワード 23 例に関して24、筆者は大き く分けて「救いの約束と裁き/ 11 回」、「神の絶対性/ 1 回」、「倫理的勧告/ 3 回」、 「聖所への規定/ 5 回」、「無力さのたとえ/ 4 回」の五つに分類した25。この中で 「救いの約束と裁き」は詩編/ 1 回、ゼファニア書/ 1 回とイザヤ書/ 9 回であり、 そのうち第二イザヤ/ 5 回、イザヤ書 42 章/ 4 回、イザヤ書 43 章/ 1 回で用いられ ている。「エゴー・エイミ」との関係について言えば、tuflos という単語が出エジプト 記(4:11)に 1 回、申命記に 3 回見られ、後はイザヤ書(特に第二イザヤ)に集中し ていることが分かる。またヨハネ福音書においては、9 章/ 13 回、5 章、10 章、11 章でそれぞれ 1 回ずつ用いられ、tuflos に関連した内容は、12 章におけるイザヤ書 (6:10)の引用にも見られる26。特に 9 章においては、単数形 が、救いのしる しとしての盲人に、複数形 が、盲目の喩えとしてのファリサイ派や、ユダヤ 人に対して用いられている27。また、イザヤ書において、単数形 が用いられ ているのは、「主の僕」(イザ 42:19)のみであり、「救いの約束と裁き」に分類され る tuflos は、ほぼ複数形であるという特徴がある28 Rothによれば、LXX において tuflos は 24 回現れ29、まず 1)盲人に対して親切に振 舞えという倫理的勧告(レビ 19:14、申 27:14 − 26、ヨブ 29:12 − 17)、2)救い、も しくは救いの約束(イザ 29:18、35:5、42:7、16、18)、3)聖所への規定として(レ ビ 21:18、22:21 − 22、申 15:21、マラ 1:8)などに分けられる。さらに「神への不信仰 は、神の神秘を見えなくさせる」という精神的、倫理的比喩として、知恵の書 (2:21 − 22)、ヨブ記(29:15)、詩編(146:8)があり、同様にイザヤ書(29:18 − 20、 35:4 − 6、42:6 − 7)も何らかの象徴と考えられる。29、35 章は、主が盲人の救い、 希望の象徴であり、42 章は主が自分の目的のために働く人を選び、その者は盲人に 視界を与えるという約束の象徴である。また盲目が無力さの比喩として用いられて いるのが、申命記(28:29)、イザヤ書(59:10)、ゼファニア書(1:17)である。これ らの盲目には三つの特徴がある。1)神から任命された、人間の寛容さの指標となる べきもの、2)神または神の代理によって癒されるかもしれないもの、またその癒し は神の神的な力の証し、3)主の日に盲人が視界を与えられるとあることから、終末 的に運命付けられるものである。 さて、ヨハネ福音書 7 章、8 章は仮庵祭を背景とし、「水」と「光」はこの祭りを特徴 付ける重要な象徴である。「水」の象徴は「サマリアの女とイエス」(ヨハ 4:14)、「ベ トサダの池」における「水が動くとき」(ヨハ 5:7)、「命のパン」言説をはさんで、 「生きた水の流れ」(ヨハ 7:38)として再三現れ、仮庵祭では毎日シロアムの池の水

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を、黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物と共に祭壇に注ぐ行事が行われた ことから、「生ける水」とはシロアムの池の水と関係があるとされる30。さらにそのシ ロアムの池の水をイエスが盲人を癒すために用いており(ヨハ 9:7)、イエスに癒さ れた盲人はファリサイ派の追及にあって、ヨハネ福音書において特徴的な表現であ る「エゴー・エイミ」を用いて、「わたしがその人だ」と答える。Brown は、シロア ム(遣わされた者)とは、ヨハネ福音書(3:17、34、5:36、38)からまさにイエスの ことであり、初期カタコンベに盲人の洗礼を描いた絵が見られることや、初期のキ リスト教典礼や講義録に、洗礼指導としてこの 9 章の盲人説話が用いられていたこ とを挙げて、洗礼との関係を指摘し、9 章のイエスの聖別と唾を用いる行為が、後に 洗礼儀式の一部になったと述べている31。生まれつきの盲目が、シロアムの池の水で 洗って光を得るというモチーフは、新約聖書の時代には洗礼による啓蒙を意味し (ヘブ 6:4、10:32)、聖別とはキリスト者になることを意味していた(二コリ 1:21 − 22)。このことから、この盲人がキリスト者の象徴であると考えることができるだろ う32 ところで、「神の名」と関係付けられるはずの「エゴー・エイミ」が、イエス以外 の人物の発言として現れていることは、「エゴー・エイミ=神の名」という仮説自体 を覆す、重要な反例とみなすこともできよう。しかし筆者は、この盲人および盲人 の物語全体が、ヨハネ福音書の中において特別な意味が与えられた喩えであり、か えって「神の名」の意味を理解する助けになると考える。ここで筆者が問題としたい のは、「救いの約束と裁き」としてのイザヤ書(29:18、35:5、42:7、16、18、19、43:8、 59:10、61:1)である。これらの箇所においては、「救いのしるし」となる「盲人たち」 と、「裁き」へと向かう「盲目の比喩」としての「盲人たち」は、ともに複数形で表さ れている。一方、「苦難の僕」(イザ 42: 19)だけは、「救いの約束と裁き」の分類中、 唯一単数であることから、重要な意味を持つと推測される。筆者は、この「苦難の 僕」のモチーフが、ヨハネ福音書 9 章のイエスに与えられ、イエスの治癒行為やファ リサイ派との論争に表れていると解釈する。この場合ヨハネ福音書の盲人は、「救い のしるし」となる「盲人たち」(イザ 42:7、16)を、イエスは苦難の僕(イザ 42:19、20) を、ファリサイ派は、「裁き」へと向かう「盲目の喩え」としての「盲人たち」(イザ 42:18、43:8)を表している。盲人は視界を与えられ、人の子を信じる者となるのに 対し、イエスを信じない者たちは、敵対することによって(ヨハ 7:32、9:22)盲人を 尋問し、さらに追放することで「見えない」側へと移っていく。イエスは周囲のユダ ヤ人に理解されない。ここに、第二イザヤにおける(イザ 42:18、19、20)、主の僕を 見るであろう周囲のユダヤ人が実は何も「見ていない」ということと、主の僕も「神 の教えを偉大なものとし、輝かすこと」以外は何も見えず、何も聞こえない盲人であ

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るという二重の比喩と、さらに「救いのしるし」となる盲人(イザ 42:7、16)のモチ ーフとが用いられ、イエスの神への純粋性、盲人と盲人を尋問する周囲のユダヤ人 の光と闇の対比、その動的な変化が描かれていると見ることができる。盲人は光を 与えられ、他のユダヤ人は闇の側へと移っていく。盲人の「エゴー・エイミ」は、「目 が見えるようになった=救いを受けた」ことの証言であり、イザヤ書において預言さ れた、救いの約束の成就、その証と解釈することが可能であろう。つまり、ここで も第二イザヤ(特に 42、43 章)とヨハネ福音書との関連が成立している。訳語とし ては、第二イザヤの ani-hu を用いて、 「その人は言った。 『わたしが彼(その盲人)だ。』」と訳すことができる。この場合「彼(その盲人)」と は、ヨハネ福音書の近所の人々がうわさする、「癒され目を開かれた盲人」であると 同時に、第二イザヤにおける、「救いのしるしとしての盲人」の二重の意味が込めら れている。さらに、表層のコンテクストを離れたより深い意味では、神の共存、神 の臨在の意味を込めて、出エジプト記(3:14)とも関係付けることができると思われ る。

4

ヨハネ福音書 8 章 58 節の

解釈

──────────────────────────────────── (ア) 存在の意味にも解し得ること Nestle-Alandの校訂では、この箇所のみ にアクセントをつけている。また、ほ ぼ全ての聖書および注解書は、例外なくこの箇所の訳語を「アブラハムが生まれる前 から『わたしはいる』」と現在形の存在の意味に解している。また小林稔によれば 33 当初全てを第二イザヤからの引用として、「わたしがそれだ」と訳していたが、聖書 学研究所の中間発表において人々の反応に注意を促され、またヨハネ福音書の二重 の意味を指摘され、Nestle-Aland の校訂やコプト語訳をも考慮して、両方の意味を訳 すことは出来ないから、ヨハネ福音書(8:58)だけを「存在」とみなし、イエスの歴史 的実在性を重視して、「わたしはいる」(「わたしはある」ではなく)と訳したとしてい る。さらに「存在」の意味にとった場合、内容的にプロローグのロゴス・キリスト論 「はじめにことばがあった」との関連から、「子の先在」が述べられていると解釈し、 「子の先在」については、325 年のニカイア公会議でニカイア信条が作成されたとき、 「『ないときがあった』とか、『生まれる前には存在しなかった』とか・・・言う人を公 同教会は交わりから絶つ」と決議したことから、子の先在を存在論的に理解していた ことは確かだが、それ以前の新約諸文書にこのような考えがあったかどうかは検討 されねばならないとしている34。本論文では、今まで「エゴー・エイミ」と第二イザヤ

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のつながりが特に強いことを論じてきたが、このように 58 節を「存在」の意味に解し た場合、やはり出エジプト記 3 章 14 節の「神の名」との引照を考慮する必要性も生じ てくる。とすれば、58 節と同様の「エゴー・エイミ」の表現にも、出エジプト記の引 照を用いる可能性が残るわけである。つまり全ての「エゴー・エイミ」が二重の意味 を含んでいるのだとも解釈し得ることになる。しかし、「盲人のエゴー・エイミ」にお いて考察したように、 に第二イザヤとの強い関連が見られる以上、筆者 は両者を折衷して、 を含む「エゴー・エイミ」表現(ヨハ 8:24、28、 13:19)、および応答表現(ヨハ 18:8)を、第二イザヤ(イザ 43:10、MT: LXX: )からの訳語として、「わたしが彼だ」(人格的に関わる神を重視し て)の訳語を用い、8 章 58 節のみを出エジプト記からの引照を当てて「わたしはいる」 と訳すことが、妥当だと考える。ただしこの場合、二重の意味の可能性や、第二イ ザヤにおいて (hu)が訳されておらず、さまざまな補語が集約されているなどの 可能性を考慮した上で、以上の訳語を用いるべきである。 (イ) 「子の先在」の概念について 「子の先在」については、他にもヨハネ福音書(17:5)、コリントの信徒への手紙一 (2:6 − 9、8:6)、エフェソの信徒への手紙(1:4 − 5、2:10、3:9、4:10)、コロサイの信 徒への手紙(1:15 − 18)、テモテへの手紙二(1:9)、テトスへの手紙(1:2)に見られる ことから、既にヨハネ福音書の時代には、神の創造以前の計画、創造の仲介者として の知恵の先在の概念は、ある程度確立していたと考えられる35。またこのような思想 はすでに、ユダヤ教知恵文学の「知恵」(Hokma)やタルグムの「ことば」(Memra)、 アレクサンドリアのフィロンのロゴス論、中期プラトニズムやマンダ教などのグノーシ スなどにもおいても見られるとされ36、さらに類似の概念は、福音書以後の後 2 世紀 から 4 世紀にかけて、ソロモンの頌歌、トマスによる幼児物語、シビュラの託宣など の新約外典、ヨハネ行伝、トマス福音書、真理の福音、三部の教えなどのナグ・ハマ ディ文書においても多数確認される。またヨハネ福音書と同時代、もしくはそれ以前 (前 2 世紀∼後 1 世紀)の成立とされる、エチオピア語エノク書「たとえの書(37 − 71)」、 エズラ記(ラテン語 2:42 − 47、13:32、14:9)、シリア語バルク黙示録(30:1、39:7、 70:9)などのユダヤ教外典偽典、死海文書中のメルキゼデク文書など、黙示録的終末 論を含む文書にも、「人の子」や「メシア」に関連した類例や、天使的形態キリスト論 などが多数確認される。したがって、こうした共通の思想基盤の上に、ヨハネ福音書 の「エゴー・エイミ」にまつわる神秘思想も、成立していったと考えることができる。

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5

歴史的背景より考察される

解釈

──────────────────────────────────── すでに「神の名」、「神の言葉」が実体化している例が、「見よ、主の御名は遠くか ら来る。怒りに燃え、立ち上る濃い煙を伴って。その唇は憤りに満ち、舌は焼き尽 くす火のようだ(イザ 30:27)」、「あなたの全能の言葉は天の王座から、情け容赦の ないつわもののように、この滅びの地に下った(知恵 18:15)」、「見よ、わたしはあ なたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。 あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。・・・彼は わたしの名を帯びているからである(出 23:20f)」、申命記(4:36、12:5、14:23、16:21)、 歴代誌上(21:16)などに見られる37。列王記上(9:3)「わたしはあなたが建てたこ の神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く」にも、エルサレム神殿と 「神の名」とが関係付けられている。したがって、二度にわたるエルサレム神殿の破 壊と、「神の名」の消失という事態が、第二イザヤの ani-hu と、ヨハネ福音書のイエ スの「エゴー・エイミ」に反映していると解釈することができる。両者は、前 587 / 586 年のバビロニア軍による第一神殿破壊とバビロンへの捕囚、後 70 年のローマ軍 による第二神殿破壊とエルサレムからの追放という、共通した危機的状況と、極度 に混乱した社会状況を背景とする。第二イザヤは、捕囚の地で ani-hu を叫び、神か らの救い、すなわち捕囚民の解放とエルサレムへの帰還を宣言した。ヨハネ福音書 の著者や編集者達は、ローマ帝国からの迫害、ファリサイ派を中心として再編され たユダヤ教との確執の中で、「エゴー・エイミ」に「神の名」を託し、ヨハネ福音書 (8:58)に「子の先在」の主題を暗示した。両者のコンテクストには共通して、抑圧か らの解放や救いを求める祈りと、それに答える神の約束が表現されていると解釈し 得る。また、こうした「神の名」の実体化の進展は、神の名の禁忌(出 20:7、レ 22:32、 申 5:11、18:20)と表裏一体の関係にあり、長らく YHWH (¯ad-¯on¯ay)(主) の母音をあてがって、¯ad-¯on¯ay と読み換えて発音したため、前 3 世紀以降、YHWH の 正確な発音が消滅するに至ったことも、大きく影響していると考えられる。

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まとめ

──────────────────────────────────── ヨハネ福音書の「補語を伴わないエゴー・エイミ」は、近年の研究論文やキーワ ード の考察より、主に第二イザヤからの引照をもとにし、「わたしが彼だ」 の訳語がふさわしいが、8 章 58 節のみプロローグのロゴス・キリスト論のもとで、 出エジプト記(3:14)の「神の名」などの重層的な意味を含み、「わたしはいる」と訳

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し得る。特に第二イザヤ(43:10)の ani-hu とは、そのコンテクストと時代状況に類 似性がみられる。ヨハネ福音書 8 章 58 節の「エゴー・エイミ」の思想的背景には、 プロローグのロゴス・キリスト論との関連より、ユダヤ教知恵文学の Hokma やタル グムの Memra、フィロンの「ロゴス論」やグノーシス神話、また「人の子」や「メ シア」言説を伴った黙示録的終末論、「神の名」を帯びた、天使的形態キリスト論な ど、「神の名」の実体化にまつわる神秘主義の影響を挙げることができる。このよう な背景の下で、キリスト教に共通する思想基盤は、後 1 世紀末にはすでにかなりの 程度用意されおり、ヨハネ福音書のキリスト論もまた、そうした共通思想基盤から の一解釈であったと考えることができる。 神とは何か、神の名の意味から考えるならば、それは「始めから共にいて」、「救い となる」存在、人間を「在らしめる」力である。イエスの発した「始めからわたしは (共に)いる」、「わたしが彼だ」という「エゴー・エイミ」は、臨在と救いによる神の愛、 神の慈しみを証する啓示であり、自己の力を超えた強大な力によって、虐げられ破壊 された者たちの再生と回復を願った、神からの応答であった。

1 TWNT: Theologisches Wörterbuch zum Neuen Testament,(hrsg. G.Kittel), Stuttgart 1933-1979; S.398, Moulton, W.F. and Geden, A.S, ed., A Concordance to the Greek Testament, NewYork 1897; p.271f.,

Konkordanz zum Novum Testamentum Graece, 3 Aufl.,(hrsg. Institut für Neutestamentliche Textforschung und vom Rechenzentrum der Universität Münster), Berlin 1987; S.497-549, bes.

S.515-524, append, S.12(また の組み合わせも、ヨハネ福音書においては6例、他の福音書でも若 干見られるが、本論文では の場合を中心に考察を行う。) 新約聖書の において、イ エスを主語とし補語がある場合は、 (ヨハ/14回、マタ/1回、ルカ/1回、使徒言行録/4回、ヨ ハネの黙示録/5回)であり、イエスを主語とし補語のない場合は(ヨハ/9回、マタ/1回、マコ/ 3回、ルカ/2回)である。後者のうち、応答表現ではなく、また文脈にそぐわない特殊な意味の表現 がヨハネ福音書(8:24、28、58、13:19)である。本論文では特に、特殊な意味を含む、ヨハネ福音書 (8:24、28、58、13:19)を中心に考察する。

2 Schweizer, E., EGO EIMI, Göttingen 1965; Bultmann, R., Das Evangelium des Johannes, 18 Aufl., Göttingen 1964; Dodd, C.H., The Interpretation of the Forth Gospel, Cambridge 1953; Brown, R.E., The

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Quotations in the Gospel of John, Leiden 1965; Schnackenburg, R., Das Johannesevangelium, I,II Teil,

Freiburg 1971; Fossum, J.E., The Name of God and the Angel of the Lord,(WUNT 36), Tübingen 1985; Ball, D.M., 'I am' in John's Gospel,(JSNTSup 124), Sheffield 1996; Williams, C.H., I am He,(WUNT 2.

Reihe ; 113), Tübingen 2000;間垣洋助『ヨハネ福音書のキリスト論』聖文舎1984;小林稔「ヨハネ福

音書のエゴー・エイミ∼その訳し方をめぐって∼」(『カトリック研究第 64 号』収録)上智大学神学会

1995; 木田献一『神の名と人間の主体』教文館2002。

3 Propp, W.H.C., Exodus 1-18 -a new translation with introduction and commentary -,(AB 2a), New York 1999; p.225, Durham, J.I., Exodus,(WBC vol.3), Texas 1987; pp.37-41, Hyatt, J.P., Exodus,(NCBC),

Grand Rapids, 1980(c1971), pp.78-81, Durhamは出(3:14)の神名についてTetragrammaton(神聖

四字)との関係から「わたしはYHWH、あなたの神」、「わたしは彼」、「わたしは初めであり、終わりで ある」などが同等の表現であるとしている。ehyeh-asher-ehyehの意味については、YHWH同様に多岐 にわたる膨大な研究がある一方で不明な点も多く、ここでは単に考察の対象となる訳語を列記するにと どめる。また、本論文では第二イザヤとヨハネ福音書の関係を中心に論じる。

4 Ruiten, J.T.A.G.M.V., The Use of Deuteronomy 32:39 in Monotheistic Controversies in Rabbinic Literature, (Martinez, F.G., ed., Studies in Deuteronomy in Honor of C.J. Labuschagne on the Occasion of His 65th Birthday), Leiden 1994; pp.223-241.

5 Page, T.E., ed, PHILO I-IX ,(LCL), London 1929; Conf.146, pp.88-91., QG.62, p.150. 6 Fossum 1985; pp.124-129.

7 Williams 2000; pp.73-85.

8 MacDonald, J., ed. trans., Memar Marqah : the teaching of Marqah vol.1,2,(BZAW 84), Berlin 1963a,

1963b;こうした、かなり後代に属するサマリア人の伝承を無条件に用いることには、ヨハネ福音書の

成立状況を探る上では、異論もあると思われるが、本論文では歴史的に広いコンテクストの中で、ヨハ ネ福音書の「エゴー・エイミ」を考察することを目指した。Memar Marqah(Tibat Marqah)は6冊の書 からなり、1巻:出エジプトへのモーセの召命、2巻:イスラエルの救い主モーセ、3巻:イスラエルの 新しい位置づけ、4巻:神、人と罪、5巻:モーセの死、6巻:種々の教え、となっている。

「サマリア人」に関しては、以下の文献等を参照のこと。Hjelm, I., The Samaritans and Early Judaism,

(JSOTSup 303), Sheffield 2000; Purvis, J.D., The Fourth Gospel and the Samaritans,(Orton, E.D., ed.

The Composition of John's Gospel: Selected Studies from "Novum Testamentum" , pp.148-185), Leiden 1999; The Samaritan Pentateuch and the Origin of the Samaritan Sect, Harvard 1968;コギンズ, R.J.,

『サマリヤ人とユダヤ人: サマリヤ人の宗教の起源再考』(渡辺省三, 土岐健治共訳)教文館1980; MacDonald, J., ed. trans., The Samaritan Chronicle no. II : or, Sepher Ha-Yamim. From Joshua to

Nebuchadnezzar, (BZAW ; 107), Berlin 1969.

「サマリア人」は、ルカ福音書(8:25-37)の「善いサマリア人の喩え」から、現代では「いのちの電話」 の国際版(Varah, C. ed. The Samaritans Befriending the suicidal, London, 1985)や病院名に用いられ

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ている他、キリスト教系の宣教団体や財団名、動物保護団体としても使用されている。一方、ゲリジム 山とエバル山の間に位置する町 Nablus と、その周辺には、現在も 500 人前後(Encycropaedia Jewdaica1971 では 400 人前後、NHK「戒律に生きる−サマリア人 3000 年の祈り−」<『地球に好奇 心』2001 年 6 月 9 日放送>によれば、かつて 100 万人いたとされる人口は 20 世紀初頭には 146 人にま で減り、約 2000 年現在で 650 人のサマリア人が、ナブルス、ゲルジム山周辺、イスラエルのホロン市 に住んでいるとされる。) のサマリア教徒が存在している。このサマリア教団はユダヤ教のセクトに位 置づけられているが、その宗教的起源や教団としての独自の発展の歴史が、実に多くの研究を生んでい る(Crown, A.D., A Bibliography of the Samaritans,< ATLA Bibliography Series no. 10;a >, Chicago 1984)。この教団の文書は、旧約新約の外典偽典、ヨセフス、死海文書、フィロンなどと同様に、当時 のユダヤ教の思想状況や歴史を知るための、重要な資料となっている。 一般にサマリア人とは、列王記下 17 章からシャルルマネセル 5 世による北イスラエル王国滅亡以後 (列下 17、18 章)、サルゴン 2 世がイスラエル人の指導層をアッシリアに強制移住させ、代わりにサマ リアには異民族(クタ人、アワ人、セパルワイム人、ハマテ人)を移住させたことに由来する、北イス ラエル王国の住民と異邦人の混血の子孫であると長く考えられてきた。さらにそのような混血した民族 による、偶像崇拝を含む異教との混交宗教が、サマリア人の宗教であると考えられた。このようなサマ リア人起源説は前 8 世紀に遡るが、近年このことは否定され、コギンズ(コギンズ 1980)は、前4世 紀説を、A.D. Crown は、主要なサマリア人伝承の編纂過程から、サマリア人とユダヤ人の決定的分裂 はバル・コクバの乱(後 132 ∼ 135)以前ではありえないとし、分裂の時期に関して、後 3 世紀説を主 張する(Hjelm 2000)。特に、ヨハネス・ヒルカノスによるゲリジム神殿破壊以降(前 128 ∼)、ユダヤ 人とサマリア人の対立が深まったと推測される。 他にもサマリア人に関して、サマリア人の律法(モーセ五書)や伝承に基づき、ステファノ・サマリ ア人説(使 7 章:主にモーセ五書からの引用が強調され、その内容が MT 以前の写本によっている点、 サマリア人の伝承では、天的存在であるモーセが、「神の右に立つ」ことから、共観福音書の「神の右に 座す」が、ステファノの発言「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。< 使 7:56>」 に対応している点などを根拠とするが、反論も多い。)や、初期グノーシスであるドシテウス派とシモ ン・マグス(使 8 章)がサマリアで活動したこと、洗礼者ヨハネを教祖とするマンダ教団の成立、マニ 教の教祖となるマニが所属した洗礼教団エルカザイ派などと関係があるとされ、グノーシスの起源を考 察する上でも、さらなる研究が期待される。 9 Fossum 1985; pp.124-129, Williams 2000; pp.73-85. 10 Williams 2000; p.78. 11 MacDonald 1963b; p.187. 同様の例として、以下の詩が挙げられる。

Memar MarqahIV:§ 8 (ibid., p.162)

わたし、わたしこそ彼、それを言う者よ、誉め讃えられよ。世界は揺れ動く。 わたし、わたしはいる、救いの町は開かれた。

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わたし、わたしこそ彼、シェオルの町は開かれた。 わたし、わたしはいる、救い出し、また罰した。 わたし、わたしこそ彼、殺し、また生かした。 わたし、わたしはいる、わたしは安らぎと困難を与えた。 わたし、わたしこそ彼、わたしは救い、また壊した。 わたし、わたしはいる、全ての苦悩からイスラエルを救った。

Memar MarqahI:§ 2 (ibid., p.8)

わたし、わたしはいる、かつており、やがているだろう、始まりのない根源。 わたし、わたしはいる、始めに存在し、シナイ山にいるだろう者。 わたし、わたしはいる、世界を指揮し、全被造物を召集する者。 わたし、わたしはいる、肉体の創造者、魂の起源者。 わたし、わたしはいる、園を整え、ソドムの償いを成し遂げる。 わたし、わたしはいる、命の創り主、死の創り主。 わたし、わたしはいる、義なる神、ヘブライ人の主。

12 TWAT: Theologisches Wörterbuch zum Alten Testament,(hrsg. v. G.J. Botterweck u. H. Ringgren), Stuttgart 1974; S.366ff., Botterweck, G.J., ed., Theological Dictionary of the Old Testament,trans. J.T. Willis and G.W. Bromiley, Grand Rapids 1978; p.344f., ani-hu は、イザヤ書(41:4、43:10、43:13、46:4、 48:12、52:6)で 6 回用いられ、同様の表現とされる anoki-hu はイザヤ書(43:25、51:12)で、anoki-YHWH はイザヤ書(43:11、44:24)他で用いられている。他に類似の表現としては、エゼキエル書にお いて + 、 + が多用(約 30 箇所) されている(ヨハ 8:28 はこの定式にも当てはまる)が、他の動詞や形容詞との関連から、本論文では 特にヨハネ福音書と、第二イザヤの関係が深いことを論じる。 13 Dodd 1953; pp.93-96, p.349f. 14 ani-hu が「神の名」であるという主張には異論もあり、本論文はこれを証明するものではないが、 Dodd がヨハネ福音書と第二イザヤの関連を論じている点は注目に値する。 15 Williams 2000; pp.198-213.

16 Fossum 1985; pp.246-256. Fossum によれば、後 300 年ごろのラビ R. Abbahu のミドラシュに、 hu (彼)が神を現す神聖な文字とされ、アブラムはこの hu を名前に加えて、アブラハムになることで、神 の神聖な力を手に入れたとする解釈が見られるとする。神の偉大な名は と で表され、h は二文字用 いられていることから、特に神聖視されていた。神の名とされる にも と が用いられている。 こうした、名前をもじった神秘主義は、カバラのセフィロトの教義などにしばしば現れる。 17 しかし英語では男性単数 he が、ドイツ語では中性単数 es、あるいは指示代名詞と形容詞の融合男性単 数 derselbe が、ヘブライ語 hu の訳語としてそれぞれ用いられている。 18 Ball 1996; pp.188-203.

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19 MT では「わたしを知り、信じ、そしてわたしが彼だと理解するであろう」とあり、最初二つの動詞に 「エゴー・エイミ」が掛からないのに対して、LXX では「わたしが彼だと、知り、信じ、そして理解す

るであろう」と、「エゴー・エイミ」が三つの動詞全てに掛かる点が異なっている。

20 Chilton, B.D., The Isaiah Targum, Edingburgh, 1987; p.84f., Isa43:10 (英訳のみ) TIsa はイザヤ・タ ルグムの略号とする。Freedman, D.N., ed., The Anchor Bible Dictionary vol.6,New York 1992; pp.320-331, McNamara, Targum and Testament,Shannon, 1972; pp.171-189.

タルグムとは本来、アラム語の「翻訳者、翻訳」の意味である。アラム語自体は前 12 世紀にアッシ リアで始まり、前 10 ∼ 8 世紀以降イスラエルでも、古代アラム語が用いられるようになった。前 7 世 紀以後アッシリアの勢力拡大と共に、公用語としてのアラム語がパレスチナ一帯に流布し、特にバビロ ン捕囚以後にユダヤ人の間でも、ヘブライ語ではなくアラム語の聖書解釈や礼拝が一般化した。イエス の時代には、ユダヤ人にとって中期アラム語が日常語であったと推測されているが、ヘブライ語の使用 状況など詳細は明らかではない。後 3 世紀∼ 7 世紀にかけては後期アラム語が発達する。こうした経緯 から、タルグムの解釈や最古の伝承部分が、いつ頃始まったのかは定かではないが、捕囚以後前5世紀 には、アラム語の翻訳が既に始まっていたと考えられる(エズ 4:18、ネヘ 8:8)。 現存するタルグムには「オンケロス」(Onq)、「偽ヨナタン」(Ps.- J)、「ネオフィーティ」(Neof)、 「ヨナタン」(Jon)、 断片(Frag)、 諸書(Hagi)の種類があり、Onq は中世以来最も権威あるモーセ

五書のアラム語訳として、広くユダヤ人たちに受け入れられた。その名は R. Jeremiah の証言「モーセ 五書のタルグムはラビ・エリエゼル、ラビ・ヨシュアの口から、改宗者 Onqelos によって作られた」に よるが、Jeremiah は他の証言で、Onqelos と旧約聖書のギリシア語訳を作成した Aquila とを混同して おり、この点に関して 1)Onqelos は Aquila の訛りだとして両者を同一視する見解、2)最もよく広ま り編集の手が加えられたバビロニアで、作者不明のアラム語訳聖書に Aquila(Onqelos)のギリシア語 訳聖書の伝承が混同して付け加えられたとする見解、に分かれ、後者が有力である。起源については諸 説があるが、後 1 ∼ 2 世紀初頭にかけてパレスチナで作成され、その後主にバビロニアに移されて公的 に用いられ、後 4 ∼ 5 世紀に編集の手が加えられたとされる。 Jon はハガイ、ゼカリア、マラキの口からヨナタン・ベン・ウジエルによって作られた預言書のアラ ム語翻訳である。ヨナタンは Hillel の弟子であったとされる。Jon の起源は Onq に似ており、バビロニ ア・タルムードでの引用から、後 4 ∼ 5 世紀にバビロニアで校訂されたが、Onq と同様にもともとはパ レスチナに由来するとされる。

Ps.-J はもともと「ヨナタン・ベン・ウジエルのトーラーのアラム語訳」の意味で「ヨナタン」の名 がつけられたが、これはパレスチナ・タルグムである Targum Yerushalmi I、Targum Erets Yisrael の短 縮形 TY を Targum Yehonathan と誤読したことから来た命名であることが広く受け入れられている。し たがって、そのことを区別するために「偽」の意味が付け加えられた。Ps.-J は古い部分がキリスト教 以前、その他の部分が少なくともミシュナー成立以前 (∼後 200 年) に成立していたとされる。

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Macho によって直接パレスチナに由来する写本であることが確かめられた。成立時期としては、おそら く Ps.-J 以前に位置づけることができるとされる。

また 1930 年カイロで発見されたゲニザ断片(創世記、出エジプト記などのタルグム)や、1947 年以 降相次いで発見された死海文書にもタルグム断片(レビ記、ヨブ記、イザヤ書のタルグム)が含まれる。 21 Williams 2000; pp.102-107. 他にも、特にプロローグのロゴス・キリスト論を中心として、タルグムと

ヨハネ福音書の多くの関係が指摘されている(Fitzmyer, J.A., The Semitic Background of the New Testament,Stuttgart 1997; Beattie, D.R.G. and McNamara, M., The Aramaic Bible,(JSOTSup 166), Sheffield 1994; Zimmermann, F., The Aramaic Origin of the Four Gospels,NewYork 1979; McNamara, M., Targum and Testament,Shannon 1972; Logos of the Fourth Gospel and Memra of the Palestinian TargumEX 12:42),(EXT 79-4), Edinburgh 1968)。これは新約聖書がアラム語による原資料を含むか、 タルグムなどアラム語資料の影響下において記されたためだと考えられる。ただし、こうした新約聖書 におけるアラメイズムの影響が、どの程度まで許容され得るかについては、多くの議論がある。タルグ ムにおいて特徴的なのは、神の名をみだりに唱えないため、神の擬人化を避けるための、「神聖四字」 「神」、「主」といった単語の Shekina(臨在)、Memra(ことば)、Dibbera(言説)、Yeqara(栄光)、 Ruaha de-qudsha(聖霊)への換喩表現である。これらの何らかの意味が付加されて置換された概念は、 特にヨハネ福音書において頻出する。例えば McNamara によれば、ヨハネ福音書(1:14)は「そして Memra は肉となってわたしたちの間に Shekina された。わたしたちは彼の Yeqara を見た。それは父の 独り子としての Yeqara であり、恵みと真理に満ちていた」と置き換えられる(McNamara 1972; p.104)。 聖霊は弁護者としてイエスの代理を務め(ヨハ 14:15 − 31)ることから、イエスと聖霊、弁護者の置き 換えが見られる他、Yeqara はヨハネ福音書の始めから終わりまでを一貫する、ヨハネ福音書のキリス ト論に頻出する、必要不可欠な神学概念となっている。ヨハネ福音書 8:58 の には、ロゴス・ キリスト論との関係が見られ、McNamara は、ヨハネ福音書プロローグの背景が従来考えられて来た創 世記一章のみではなく、パレスティナ・タルグムの出エジプト記(12:42)「最初の夜、主が世界を創造 するために現れたとき、世界は形なく、空虚で闇がその混沌の表を覆っていた。そして主のことばは光 であった。光は輝き、そして彼はそれを最初の夜と呼んだ(McNamara, M., Targum Neofiti 1: Exodus,

Edinburgh 1994; p.52 Neof 12:42)」に見られる、四日間のうちの第一日目の夜における、最初の本源的 光が Memra(ことば)であり、この光がヨハネ福音書のプロローグの Logos へと書き換えられた可能 性を明瞭に提示した(McNamara 1972; pp.101-106, 1968; pp.115-117. 創世記 1 章においても Memra は神の創造に介入している)。Hayward は、Memra が出エジプト記(3:12)の ehyeh (HYH)の言い換 えであり、神の臨在、創造、救いに表される、神の慈悲を意味することを提示して、ヨハネ福音書の著 者が Memra を確かに知っており、ヨハネ福音書の背景に Memra と、それ以外の複数の要素が、意味の レベルで混在していることを主張した(Hayward, G.G.R., The Holy Name of the God of Moses and the Prologue of St John’s Gospel,(NTS25, pp.16-32), Cambridge 1978; pp.17-32)。出エジプト記(3:14) について Hayward は、HYH が神の名であり、YHWH が Memra の名であるとも解釈している。

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22 Ball 1996; pp.188-194. 23 Williams 2000; pp.266-275.

24 Hatch and Redpath, ed., A Concordance to the Septuagint,Grand Rapids 1998; p.1379 イザヤ書 (29:18、35:5、42:7、16、18、19、43:8 *、59:10、61:1)、(出 4:11、 レビ 19:14、21:18、22:22、申 15:21、27:18、28:29、サム下 5:6、8 *、詩 146:8、ヨブ 29:15、ゼファ 1:17、マラ 1:8、エレ手 1:36)。 *は複数の単語が含まれることを意味する。

25 ※添付資料 分析表参照(注の末尾に添付)。サム下(5:8)には、「無力の喩え」と「聖所規定」 が両方含まれるため 24 例となっている。

26 Konkordanz zum Novum Testamentum Graece,1987; S.1812ff. イザヤ書(42:19)では、 以外に 動詞 ( 直説法、アオリスト、受動、三人称、複数)が用いられている。これと同 じ語は、ヨハネ福音書(12:40)(イザヤ書 6:10 の書き換え)でも (直説法、完了形、能動、 三人称、単数)で用いられている他、ニコリ(4:4)、一ヨハ(2:11)などで用いられる。 27 9 章以外で、「救いのしるし」を表す盲人が複数形の場合は、ヨハネ福音書(5:3、10:21)、単数形の場 合はヨハネ福音書(11:37)である。 28 イザヤ書(43:8a)は「裁き」の分類でかつ単数だが、イスラエルの民(単数)を形容し、(43:8b)は複数で ある。イザヤ書(42:19)以外で単数形 が用いられているのは、レビ記(21:18)と申命記(28:29) である。他に単数形 が用いられているのは、出エジプト記(4:11)、他 5 箇所(レビ 22:22、申 15:21、27:18、マラ 1:8、エレ手 1:36)である。他の LXX における使用箇所は、すべて複数形( イザ 42:18、43:8、59:10、サム下 5:6、8b、ゼファ 1:17、 29:18、35:5、42:7、ヨブ 29:15、 イザ 61:1、 イザ 42:16、詩 146:8、サム下 5:8a)である。

29 Roth, S.J., The Blind the Lame and the Poor,(JSNTSup 144), Sheffield 1997; pp.103-106. 30 Brown 1966; p.326f. 31 Brown 1966; pp.376-382. 32 L.マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』(原義雄・川島貞雄 訳)日本基督教団出版局 1984; pp.32-75, マーティンによれば、「盲人」はヨハネ教会の象徴であり、ヨハネ福音書 9 章はイエスの時代 ではなく、ヨハネ教会の時代状況、すなわちファリサイ派との論争、会堂からの追放を直接イエスの時 代へと反映させたドラマとして描いていると分析している。 33 小林稔 1995; pp.29-31。「エゴー・エイミ」の日本語訳の問題に関しては、小林氏の論文を参照のこと。 34 小林稔 1995; p.7 註 10。

35 Hamerton-Kelly, R.G., Pre-Existence, Wisdom, And the son of man,Cambridge 1973.

36 Boyarin, D., The Gospel of the Memra: Jewish Binitarianism and the Prologue to John,(HTR 94:3, pp.243-284), Harvard, 2001; pp.243-246, McNamara, M., Logos of the Fourth Gospel and Memra of the Palestinian Targum EX 12:42),(EXT 79-4), Edinbrugh 1968; p.115. ヨハネ福音書のプロローグ、 ロゴス・キリスト論が一体何を予型とするのかという議論は、百家争鳴の複雑な様相を呈している。

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参照

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