一 序章︱扇流しの行事 二 近世の扇流し図障屏画 三 中世の扇流し図屏風 四 ﹃長谷寺霊験記﹄ と藤原高光 五 扇と扇流し伝説 六 終章︱多武峯と扇流し図 一 序章︱扇流しの行事 京都、嵯峨に位置する車折神社例祭の延長神事として、毎年五月の第 三日曜日に催行される三船祭 、この祭事の中心となるのは 〝扇流し〟 の 行事である。有数の名勝として名高い嵐山や渡月橋を背景に大堰川に船 を浮かべ、 十二単や和服で着飾った女性たちが船上から五色の扇 ︵扇子︶ と団扇 ︵うちわ︶ を川面に流すのである 。主祭神を清原頼業とし 、明治 の一時期、富岡鉄斎が宮司であった車折神社は、境内に天宇受売命を祀 る芸能社を有することから、芸能・芸術の上達祈願が込められる催しで もあるという。乗船する女性の募集や京都扇子団扇協会の協力など、京 都の有力な観光行事の一つともされ、市民や観光客に初夏の京都にふさ わしい雅やかな神事や行事として親しまれている。また、女性が扇を川 に流すという珍しい祭事としても広く全国的に知られている行事でもあ る。しかし、この祭事の催行の歴史は意外に新しい。昭和天皇即位を記 念して一九二八年 ︵昭和三︶ から催されたのが始まりだという 。一方 、 起源を江戸時代以前まで遡り得る行事で、扇を水面や水流に投じる、い わゆる 〝扇 ︵面︶ 流し〟 を現代に伝える例も、確認することができ得るの である。 ﹁雨宮の御神事﹂ と謂われる、長野県千曲市雨宮に所在する、雨 宮坐日吉神社の御神事である。三年に一度、四月二九日に催される国指 定の重要無形民俗文化財の祭事として知られている。中世の祭礼を偲ば せる田楽風の踊りや行列が披露されるが、一般の見物人にとって、この 祭礼の最大のクライマックスとされるのは 、神社と唐崎社 ︵御旅所の辛
扇流し図屏風の源流試論︱扇面絵画論序説︱
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日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) 崎明神︶ の間に位置する斎場橋 ︵浜名の橋︶ 上で行われる ﹁橋懸り ︵がか り︶ ﹂ といわれる神事である 。獅子頭を付けた若者四名が 、橋の上から 下を流れる沢山 ︵万作︶ 川に逆さまに吊り下げられ 、獅子頭や獅子髪を 激しく水に打ちつけるようにして踊るのである。この踊りの前に、流れ に扇を投げ落して扇流しをおこなう習わしが伝わっている。しかし、こ の奇習の始まりの時期や、その意味や目的は明確には解明されてはいな い ︶1 ︵ 。 ところで、絵画や工芸意匠などの造形のジャンルでは、近世初頭の風 俗画を中心に、橋上から流れに扇を投じる女性たちと水流と扇を描いた 作例、邸内の流れに扇を流す人々が描かれる遊楽図など、扇を水面に投 じる行為に興じる様子をモティーフとする作例遺品を複数認めることが できる。さらに、近世初頭の障屏画には、宗達派や狩野派、町絵師を含 む諸派による ﹁扇流し図﹂ モティーフ︱︱水流や水波に漂い流れる扇面、 水景を背地に布置された複数の扇面の様態を画面全体に描く︱︱︱の作 例も多数遺されている。これらの作例に、同時代の画中障屏画や工芸意 匠などを加えて概観すれば、近世初頭における絵画モティーフとしての 種々の ﹁扇流し図﹂ の流行を肯首することが可能と言えよう。 一方で、 ﹁扇流し図﹂ は、現存遺例や文献史料を広く通観すると、周知 のように制作時期を中世まで遡る作例を認識することが可能な、比較的 古い歴史を有する絵画モティーフでもある。水流に漂う扇、扇を投じる 若い女性、絵画上では、視覚的にも情趣に富む風情あるテーマともいえ よう。しかし、冒頭で述べた扇を流す祭事も含めて、一般に紙や絹が素 材として使用されることの多い扇と水流との取り合わせは、不思議な印 象を感じさせるともいえよう。耐水性の乏しい素材で作られ、主に招涼 や儀礼の服飾的道具や、祭礼や神事の餝りや採り物として人が用いる扇 と自然の一部でもある水流や水景との交わり、さらにその光景をあえて 造形化した ﹁扇流し図﹂ モティーフには 、何か特別なメッセージが込め られているのか、或いは隠されているのか。何故、絵画では主に女性が 扇を流れや水面に投じる行為をしているのか。それとも ﹁扇流し図﹂ は、 単に 、複数の扇面絵画を単一の画面の枠内で一種のマルチ画面として 同時に享受できる趣向や 、水流に漂う ︵浮かぶ 、流れる︶ 扇の形態の視 覚的面白さに主眼がおかれた絵画モティーフと理解すべきなのであろう か。 本小稿では 、絵画モティーフとしての ﹁扇流し図﹂ の源流や生成を探 究し、 ﹁扇流し図﹂ が発信するその表象の意味と主張を考究しつつ、この 疑問への何らかの解明の端緒としたい。 二 近世の扇流し図障屏画 一七世紀初頭の狩野派障壁画の代表的作例のひとつ 、名古屋城障 壁画にも ﹁扇流し図﹂ モティーフを見出すことができる 。寛永一一年 ︵一六三四︶ 、三代将軍徳川家光上洛に際して増築された上洛殿御湯殿書 院一之間の襖絵である。上段の間と接する西側四面、二之間に接する北 側四面、さらに廂側の東と南の障子腰貼付各四面、一之間十畳をぐるり と廻る構成で ﹁扇流し図﹂ が描かれている 。明るい色調の金雲の間を流 れる流水に、 全開や半開、 閉じた扇など、 種々の形状の扇面が流れていく。 花鳥や花卉、山水、唐人物など、水墨や淡彩で描かれた扇面の絵は爽快 で変化に富む。探幽周辺の画人、狩野杢之助の関与を指摘される障壁画 は ︶2 ︵ 、優美で穏やかな扇流し図を形成している。この後、一七世紀後半は 内裏関係でも、寛文度造営の常御殿御三間上段間、姫宮御殿中段間、延
宝度造営の姫宮御殿中段間に ﹁扇流し図﹂ の障子絵が描かれた例が 、藤 岡通夫氏によって指摘されている ︶3 ︵ 。 他方、一七世紀は俵屋宗達とその工房の活躍期でもあった。周知のよ うに 、﹁あふぎは都たはら屋ひかるげんじのゆふがおのまきゑぐをあか せてかいたりけ り・・・﹂ と仮名草子 ﹃竹斎﹄ に記された俵屋は 、扇絵 制作も得意レパートリーとする絵屋であり、その主宰者である宗達自身 によるとみられる扇面画作例遺品も複数指摘されている。宗達や俵屋工 房による扇面画、特に、扇面屏風類の現存遺例も少なくなく、なかでも 醍醐寺の ﹁扇面貼交屏風﹂ 二曲一双や 、三の丸尚蔵館蔵 ︵御物本︶ ﹁扇面 散屏風﹂ 八曲一双 、近年では出光美術館蔵 ﹁扇面貼付屏風﹂ 六曲一双等 は宗達関与の可能性の観点からも特に興味が持たれている作例 ︵図1 ︶ でもある 。そのような宗達派の遺例の中で大倉文化財団蔵 ﹁扇面流図屏 風﹂ 六曲一双は 、生動感溢れる流水の下絵に四〇面もの全開の扇面と中 開や閉じた扇を物語絵の色紙を交えて配した、華麗な優美さと流動的な 迫力とが並存する近世初頭の扇流し図屏風の典型的優品と言えよう ︵図 2 ︶。先述した名古屋城御湯殿一之間障子絵とともに 、扇面は貼付では なく下絵とともに描かれている点も注目すべきである。貼付の場合は言 うまでも無く、下絵と扇面画の制作の時間差を考慮する必要性が生じる 場合も稀ではないからである。その場合、 現在 ﹁扇流し図屏風﹂ モティー フの屏風であっても、貼付された扇面は必ずしも、扇流し図下絵に貼付 する扇面として計画的に制作時から考慮されて描かれたとは確定できな い事が多い。 ここで、宗達派、宗達派風の作例を改めて通覧すると、工房作とみら れる扇面屏風遺例には ﹁扇流し図屏風﹂ 、さらに広義の ﹁扇流し図屏風﹂ が他にも複数存在することが確認できる。フリア 美術館蔵の六曲一双 ︵﹁伊年﹂ 印︶ 、個人蔵 ﹁蛇籠 に扇面流図屏風﹂ 六曲一双等である 。さらに 、大 倉文化財団本と扇面の構成や配置の感覚に共通 性を感じさせる個人蔵の一隻本 ﹁扇面散図屏風﹂ ︵﹁伊年﹂ 印︶ も 、その下絵は抽象化された水景と 解することが可能であろう。また、先に記した出 光美術館蔵本は、金銀泥で川辺の風景や草花、遠 山が料紙装飾的に描かれ、加えて金銀の切箔や野 毛で工芸的加飾も施された下絵に、左右隻一〇面 づつ、計二〇面の草花図扇面が貼付された屏風で ある。確かに下方の流れは野山の草花に隠れがち で川波は目立つ部分とは現状では言い難い。しか 図 1 扇面貼付屏風六曲一双 出光美術館蔵 図 2 扇面流図屏風 左隻 4・5・6 扇部分 大倉文化財団蔵
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) し、注視すると右隻の川波は金泥、左隻は銀泥と繊細な細線で描き分け られ、芦の生える水景を明確に主張している意図が感じられる。この作 例に関しては、先学の研究により、金銀泥の下絵と扇絵の様式的差異と ともに制作時期の違いが指摘され、現在の屏風作例として制作された経 緯の全貌は詳らかでは無い。しかし、一七世紀にその時期を想定するこ とは妥当であるといえよう ︶4 ︵ 。これらの遺例からは、扇面屏風作例におい て、 水景の下絵絵画に扇面を配した広義の ﹁扇面流し図屏風﹂ のモティー フが 、一七世紀の俵屋工房や ﹁伊年﹂ 印作例の中では寡作ではなく 、む しろ多かったとも解釈して良いのではないか。この時期、前述したよう な幕府や宮廷の需要にも応える立場の狩野派はもとより、宗達や俵屋の ような市井の絵屋や工房まで広範囲な作画環境のなかでこのモティーフ が制作され、 その背景には、 画題としての ﹁扇流し図﹂ の流行ともいえる、 広く厚い享受層の支持と需要が推察されるのである。前述の大倉文化財 団本は、流れる扇面の形態 ︵開・半開・閉・破扇等︶ や布置の位置関係、 扇それぞれの角度や向きに特色の一つがあったが、同様の感覚で草花や 花鳥図の扇面を浜松図下絵に付置した作例 ︵六曲一双 ・個人蔵︶ で 、や や先行する制作時期を推察させる ﹁浜松に扇面散図屏風﹂ ︵個人蔵 ︶5 ︵ ︶ ︶ も 遺されている。 他にも同時代、 扇面に変えて団扇を水面に配した ﹁三十六 歌仙図屏風﹂ 六曲一双 ︵伝岩佐又兵衛 ・出光美術館蔵︶ のようなヴァリ エーションや、 柳橋図や宇治橋図的光景の ﹁扇流し図屏風﹂ 二曲一隻 ︵大 阪市立美術館蔵︶ 、同モティーフの画中屏風 ︵サントリー美術館蔵 ﹁誰ヶ 袖屏風﹂ 六曲一双︶ 等の例 、さらに 、障屏画以外の染織や蒔絵や陶磁器 の工芸的意匠の図様にも、 ﹁扇流し図﹂ の広範囲のジャンルでの需要が認 められるのである。 一方、同時代、近世初頭一七世紀の風俗画では、橋上から流水に扇を 投じる人々︱おもに女性︱と水流と扇を描いた作例や、遊里とみられる 邸内の流れに扇を投じる女性たちが描かれる遊楽図など、扇を水面に投 じる行為に興じる様子をモティーフとする作例が複数遺されている。既 述の扇面と流れを主体とした ﹁扇流し図屏風﹂ とは異なる、 風俗画の ﹁扇 流し図屏風﹂ であると言えよう。 メアリーアンドジャクソン ・ バ ー ク 財 団 ︵ バ ー ク ・ コ レ ク ション︶ 蔵 ﹁婦女扇流し図屏風﹂ 六曲一隻 ︵図3 ︶ は 、孤を描い て画面を大きく横断する金色の 橋上から、遊女たちが群青の流 れに様々な美麗な扇面を投じる 行為に興じる光景を描いてい る。一七世紀前半の狩野派によ る作例という説が提言されてい るこの屏風は流れに浮かぶ扇面 画も源氏絵や草花絵など様々 で、その金地や銀地の色彩と水 の碧さとの対比が鮮やかであ る ︶6 ︵ 。また、上下の金雲とともに 右下方には蛇籠も配されてい る。この図と同様に流れに蛇籠 を配し、 さらに橋袂には柳樹を、 物語絵が描かれた扇面画の浮か ぶ流れには鯉魚や鯰を泳がせる 図 3 婦女扇流し図屏風一隻 メアリーアンドジャクソン・バーク財団蔵
柳橋図を想わせる作例 、﹁婦女扇面流屏風﹂ 六曲一隻 ︵麻布美術工芸館旧 蔵︶ は、 左方の橋上に流れを眺める女性と若衆、 少女が描かれる ︶7 ︵ 。一方、 この時代、広大で豪奢な遊里の邸内を舞台とする遊楽図屏風が多数遺さ れている。趣向に富んだ庭園には池や流れを見出す例も少なくない。サ ントリー美術館蔵 ﹁婦女遊楽図屏風﹂ 六曲一双 ︵図4︶ もその一例である が ︶8 ︵ 、右隻中央、反り橋が架かる水面に屋内の廂から数人の女性が扇を投 じる行為が描かれている。屏風には、舞や群舞、囲碁や手鞠、髪結いや 観桜、その他、種々の遊里の日常や遊楽が点描されている。扇流し場面 もそのような遊里の遊楽の一齣として選択されたのであろうか。 一七世紀 、広義の ﹁扇流し図﹂ の制作が 、屏風絵を中心に狩野派や宗 達派など流派を超えて制作され、流行を背景とした需要の盛行の可能性 を推察させることなどを概観してきた。ここでそれらの作例を大別する と、二種類、ないしは三種類に分類できようか。①水流や波などの水景 に流れる ︵浮かぶ 、漂う︶ 扇面 、もしくはその光景をモティーフとする 扇面屏風 ︵狭義の ﹁扇流し図屏風﹂ ︶、②橋上から扇を投じる人々と扇が 浮かぶ水景を描く風俗図的屏風、③邸内遊楽図の一場面として水面に扇 を投じ興じる人々が描かれた風俗図屏風、等である。①と②は、いずれ も広義の ﹁扇流し図屏風﹂ として、③は風俗画の一場面 ︵一添景︶ として 見做されるのが普通である。①の場合は複数の扇面画と背地の下絵装飾 的性格 ︵役割︶ の水景による構成の ﹁扇面屏風﹂ の一種、という解釈も可 能であるが、②や③の風俗画の場合は、現実にこのような水景に扇を投 じる遊興や慣習が行われたのかと疑問が生じる 。本稿の冒頭で記した 、 ﹁雨宮の御神事﹂ の ﹁扇流し﹂ の様な例は起源を前近代に遡ることが可能 としても、あくまでも祭礼に付属した神事としての行為であるからであ る 。しかし 、祭礼神事としての ﹁扇流し﹂ とは離れて 、習俗や遊興 、事 件や行為としての ﹁扇流し﹂ に関連して 、比較的よく知られ 、屡々引用 されてきた史料が存在する 。それは ﹁扇流し図屏風﹂ の濫觴を記す ﹃安 斎随筆﹄ 巻三十 ﹁扇流しの絵の事﹂ である ︶9 ︵ 。 ﹁京都将軍のいづれの時か、嵯峨天竜寺御成の時に、童の持候扇子風 にとられて渡月橋より嵯峨川へ流れしを、面白しとて供奉の人々扇を流 図 4 婦女遊楽図屏風右隻 2・3・4 扇部分 サントリー美術館蔵
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) せしなり。其の後、五山の寺々御成の時屏風に画きて立てしなり。それ より御成の儀式の様になりて、御成の時には必ず扇流しの屏風を立てら れたり。古き屏風に今も扇流しとあるは是なり。 ﹂ 京都の将軍が天竜寺に御成りの時、侍童が扇子を大堰川に落としたの を趣きあることとして 、それが屏風に描かれ 、以後御成りの際には ﹁扇 流し﹂ の屏風が立てられることとなったという内容であり 、室町時代の 京都 、渡月橋を舞台とした 、﹁扇流し図屏風﹂ 誕生の由来を説いている 。 ﹁扇流し図﹂ の屏風としての成立の故事として広く取り上げられてきた が、記述の内容も漠然としており、遡及し得る室町期の先行記事も探し 得ない。また、近世の扇流しの習俗について言及した内容とは別種であ る。しかし、扇流しに興じる光景を描く近世の風俗画的作例が遺された 背景として、現実に扇を水流に投じたり、水面に浮かべる遊興の存在を 示唆する江戸時代の記述を、管見ながら認めることができたので以下に 記したい。肥前平戸藩三四代当主、 松浦清 ︵号、 静山︶ の随筆 ﹃甲子夜話﹄ 巻二に 、﹁天祥寺雄峰和尚の吾松秀君の ︹諱 、篤信 。肥前守︺ 物語とて語 しは、若き頃、中秋月明の時、隅田川の上流に船を浮め ︵ママ︶ 、金銀の扇を数 枚河水に投じて、月光の映じて流行を鑑賞したりと云。今の世とは其韵 趣殊なる事見るべし 。﹂ との記述を見出せる 。松浦家ゆかりの江戸天祥 寺僧、雄峰の話として、静山から遡る当時の藩主、篤信の仲秋の隅田川 での扇流しの遊興について記し、今の世とは風流の趣きに差のあること を認めている ︶10 ︵ 。少なくとも江戸中期には、扇流しの遊興が存在した可能 性が窺われるであろう。また、 浮世草子ではあるが、 ﹃吉原一言艶談﹄ ︵宝 永四年 ・一七〇七︶ には 、隅田川に舟遊びの屋形船を出して金銀の扇を 流し豪遊する遊興の記述 ﹁扇流﹂ や、 その情景を描く見開き状の挿絵 ︵図 5 ︶ を認めることができる 。、江戸前期の風俗画屏風に描かれた扇流し の習俗が、少なくとも一八世紀初頭或いは前半までは絵空事ではなく遊 興の場を中心に現実に行われていた、と推察される資料と見做してよい のではないか ︶11 ︵ 。 図 5 『吉原一言艶談』(挿絵) 国立国会図書館蔵
三 中世の扇流し図屏風 第二章では 、一七世紀 、諸流派による ﹁扇流し図屏風﹂ 制作の盛行が 推察され、扇流しの光景を描く風俗図屏風の作例の存在も数点確認でき た。また、江戸時代、祭礼神事に限らず、扇流しの習俗が主に遊興の場 で現実に行われた可能性を指摘した。それらを踏まえて第三章では、扇 流し図、扇流し図屏風の歴史を史料と作例の両面から中世以前に遡り概 観していきたい。前章でみた近世の扇流し図屏風モティーフの流行や扇 流し習俗に関する源流を尋ねることにより、扇流し図や扇流しの行為の 本質に近づくことができ、隠れた本来の意味を理解することが可能とな るかもしれないと考えるからである。 ﹁扇流し図屏風﹂ を含む 、一つの画面に複数の扇面画をレイアウトし た屏風類︱扇面貼付や扇面散、扇面貼交 ︶12 ︵ ︱、いわゆる扇面屏風で、中世 を遡る現存遺品として確認される例は 、浄土寺蔵 ﹁源氏物語絵扇面散屏 風﹂ 六曲一双の可能性を除けば殆ど確認されていない 。貼付された扇面 の制作時期は中世の場合でも、屏風形式としては桃山期以降、近世初頭 の扇面蒐集の流行や装飾屏風の盛行の流れの中で貼付屏風として制作さ れたと見做される作例が多いからである。 ﹁扇面流し図屏風﹂ 類に於いて も残念ではあるが同様と言えよう 。周知のように光円寺蔵 ﹁京洛月次扇 面流し屏風﹂ 六曲一隻、出光美術館蔵 ﹁扇面流し貼付屏風﹂ 六曲一双 ︵水 景図下絵︶ も 、先行研究により扇面画と背地の下絵の制作時期の乖離が 指摘されている。 前者は 、現存する六曲に 、 「元信 」 印を有し ︶13 ︵ 、中世末の京都の春夏の 行事や祭礼 、名所を描く二三面 、中国故事図一面の計二四面が貼付さ れた一隻である 。印影から一六世紀第二四半期を中心とする元信工房 の制作絵画であることが指摘され、初期洛 中洛外図屏風類との関連性の観点などから も重要視されてきた扇面群であることは言 を俟たない。背地の下絵屏風は銀泥の青海 波と濃淡の緑青で彩られた芦の葉、さらに 白茶色と銀泥描の二種類に描き分けた飛び 交う千鳥の群れ、金泥の雲などで構成され た水景が描かれる。 ﹃国華﹄ 八九九号誌上で の紹介者武田恒夫氏をはじめ ︶14 ︵ 、扇面画二四 図の詳細な研究を発表した泉万理氏等の先 行研究からも、下絵と扇面画の制作時期の 隔たりが指摘されている 。特に 、泉氏は 、 下地屏風の制作時期を元和期 ︵一六一五∼ 一六二四︶ あたりとし 、扇との制作時期の 差を 、七 、 八〇年以上との見解を出されて いる ︶15 ︵ 。﹁元信﹂ 印を有する扇面画類は一六世 紀、室町末、下絵屏風の絵画は一七世紀初 頭 、近世に入ってからの制作とみられる 。 また、 後者、 ﹁扇面流し貼付屏風﹂ ︵図6︶ は、 源氏絵七面、景物画等一一面、計一八面が 左右隻にそれぞれ九面づつ布置された六曲 一双本である。本作例の紹介者山根有三氏 をはじめ諸研究者によって、扇面画の制作 時期は様式や技法から一八面すべてが室町 時代のやまと絵と見做され、さらに、源氏 図 6 扇面流し貼付屏風六曲一双 出光美術館蔵
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) 絵等をはじめとして一五世期を遡る制作の可能性も指摘されている。ま た、ゆるやかな曲線の金雲に囲まれた海、岩、芦を描く屏風下絵の水景 の筆者を、山根氏は海北友松にアトリビュートされた。同時に、貼付す る室町時代のやまと絵扇面画の雲霞の形態や画面構成が、下絵の海景も 含む友松の新傾向のやまと絵的画題や和漢融合の著色画に大きな影響を 及ぼしたとする 。その結果 、友松筆とされる御物本 ﹁浜松図屏風﹂ 六曲 一双や ﹁網干図屏風﹂ 六曲一双が伝来した八条宮家関連の ﹃智仁親王日 記﹄ の友松関係記事から 、本下絵を含む三双の制作時期を慶長七年から 一〇年 ︵一六〇二∼一六〇五︶ の間と提示されている ︶16 ︵ 。その後 、本作例 については 、京都市立芸術大学所蔵の ﹁土佐家資料﹂ の扇面模写巻 ﹁源 氏花鳥色々光信筆写 土佐刑部﹂ 中に扇面一八面がすべて模写されてお り 、その時点 ︵元禄一二年 、一六九九︶ で既に屏風に貼付されていたと 理解される記述の存在などが、宮島新一氏によって紹介されている ︶17 ︵ 。左 右隻に微妙な変化をつけて銀泥で描かれた迫力ある水波、扇面の貼付を 充分に想定したと推察される金雲と水景との計算された構成 、そして 、 その上にあたかも蝶が舞い飛ぶように貼付された扇面と、見事なまでに 中世のやまと絵扇面と桃山期の漢画系絵師による背地下絵のコラボレー ションは時間差を超えて成功しているといえる。下絵筆者を友松とする ならば、扇面の布置の感性も含めて、その才能を改めて評価すべきであ ろう。 出光美術館には、室町時代の扇面がレイアウトされた扇流し図屏風の 存在が他にも確認されている 。景物画 ︵五面︶ 、花鳥画 ︵一一面︶ 、彩色 中国故事人物画 ︵一八面︶ 、水墨人物図 ︵二面︶ 等 、三二面が貼付された ﹁扇面貼交屏風﹂ 六曲一双である ︶18 ︵ 。背地の下絵は 、簡潔で一双の中央下 部と右隻上方に銀箔押の水流部分が覗くのみ、画面の殆どを金箔の雲と 土坡が占める。しかし下方から細く高く芦が伸び、流れには盛り上げ手 法の紅葉葉が散らされるなど、 水景であることは明確で、 江戸時代に入っ てから扇面貼付用に描かれた下絵絵画である。 室町期以前に制作された扇面画で構成された ﹁扇流し図屏風﹂ の扇面 と屏風下絵の関係に注目して 、代表的な二 、 三例を概述してきたが 、水 景を表象する背地の絵画は、慶長後半期の可能性が指摘される海北友松 筆とされる例を筆頭にいずれも一七世紀の初頭から前半期の制作と考え られよう 。第二章で考察した狩野派や宗達派等諸派による ﹁扇流し図屏 風﹂ 制作の動向に時代的にはやや先行し 、そして平行するとみてよいで あろう 。慶長 、元和 、 そして一七世紀後半にかけて 、前述した風俗画 的 ﹁扇流し図屏風﹂ をも含めた広義の ﹁扇流し図屏風﹂ の制作盛行の一方 で 、当代よりも以前に制作された扇面画 、古扇面類の愛好や賞翫 ・蒐 集流行の傾向がその背景として指摘できるであろう 。扇面画の蒐集は 、 ﹃実隆公記﹄ 大永五年 ︵一五二五︶ 九月二九日の条 ﹁古扇□等所望申処二 本斗各給之 、為押屏風也﹂ の記事等から 、室町時代も公家などの間で行 われていたことが記録で知られる 。さらに近世初頭では 、古筆の鑑賞 、 蒐集の流行と軌を同じくして階層を広げて愛好されていったとみられ る。扇流し図屏風ではないが、室町から桃山期の古扇面が多数貼付され ていることで知られる南禅寺蔵 ﹁扇面貼付屏風﹂ 八隻についても 、一七 世紀第三四半期頃にかけて複数の僧が 、何十枚単位での扇面寄進を行 い 、そのような流れの中で ﹁扇流屏風 四双 新造﹂ ︵﹁南禅寺常住什宝 等寄進目録﹂ ﹃南禅寺文書﹄ 中巻所収︶ 等の制作が行われた可能性が指摘 されている ︶19 ︵ 。また 、﹃国華﹄ 一一二四 、 一一二五号誌上で紹介された ﹁和 様扇面図帖﹂ ︵出光美術館蔵︶ は、源氏絵や景物画、風俗画等の多様な中 世の扇面七二面が貼付されたコレクションである。 その中の一扇面、 ﹁信
連合戦図﹂ の裏面には 、﹁三百七拾枚ノ内﹂ の墨書や ﹁慶長拾貳年 ひのとひ つじ 壬四月廿八日 是ヲ集 後藤長兵衛 印﹂ と記述があり 、慶長一二 ︵一六〇七︶ 年の頃 、後藤某という一個人によって三七〇面もの膨大と もいえる数量の扇面画が蒐集されていたことが知られる。 武田恒夫氏は、 ﹁慶長一二年 、後藤長兵衛のもとに集積されてあった三七〇面という大 量の扇面群の一部が、 本図帖に収められたことは特筆に値する。これは、 もとより本画帖の制作年代を直接示す年記ではないが、中世扇面画の当 時における実態を伝えている点で貴重なデータといえる﹂ とし 、南禅寺 本や海北友松下絵の出光本 ﹁扇面流し貼付屏風﹂ の制作時期との関連性 に言及されている ︶20 ︵ 。 近世初頭から一七世紀の、古扇蒐集の気運についての考察が長くなっ たが 、本小稿の本題に戻って ﹁扇流し図屏風﹂ についての探究を進めた い 。既述のように 、﹁扇流し図屏風﹂ を含抱する広義の扇面屏風の室町 期を遡る現存遺品は 、浄土寺本を除けは確認し難い 。しかし 、既に 、 一三 、四世紀には 、大倉文化財団蔵 ﹁長生殿蒔絵硯箱﹂ 、東京国立博物館 蔵 ﹁扇面散し蒔絵硯箱﹂ 等により 、扇散しのモティーフが工芸意匠に使 用された事実が確認される一方 、﹃明月記﹄ 寛喜二年 ︵一二三〇︶ の記事 では、扇の屏風貼付の可能性が示唆されている。一五世紀に入ると、扇 面屏風関係の記録が多数見出され、 画中障屏画も散見されるようになり、 扇面屏風制作の盛行が推察されるなか、 ﹁扇流し図屏風﹂ に関する記事も 同時に確認されるのである。初出史料とされるのは、 ﹃看聞御記﹄ 永享六 年 ︵一四三四︶ 七月六日の条 、﹁内裏御屏風一双 旧院御屏風扇流源氏絵 申出了﹂ で 、七夕餝の座敷室礼の屏風として 、組物 ︵セット︶ の源氏 絵扇面が貼付された扇流し図がイメージされる記事がみられる。宮島新 一氏は 、先行する応永八年 ︵一四〇一︶ 、五月二八日条の 、﹃兼信公記﹄ の記事 、﹁上童慶賀丸唐織物白衣文扇流 下袴付物銀水車橋柴舟付花柳 枝﹂ から 、衣装の図様など工芸や風流の領域での扇流しモティーフの早 期の存在を指摘された ︶21 ︵ 。加えて御物本 ﹁春日験記絵﹂ 巻五には 、単なる 扇散しではなく水流に浮かぶ扇面と看取できる模様の水干を着した公達 ︵藤原俊盛息 、秀能︶ が見出される 。蒔絵意匠同様 、衣装図様としての 扇流し図モティーフの鎌倉末まで遡る可能性を肯首できるといえよう ︶22 ︵ 。 続いて 、一五 、 六世紀の扇面屏風関係の記事から扇流し図屏風に注目 して近世までの軌跡を概観してみよう。初出と見られる永享六年から九 年後の嘉吉三年 ︵一四四三︶ 、同じく ﹃看聞御記﹄ 九月二二日条には ﹁屏 風召寄一覧 源氏絵扇流也 栂尾殿御筆勿論 但以外古物也 仍不召 留 ︶23 ︵ ﹂ と 、前出と同一とも解される源氏絵の扇流し図屏風が記述される 。 一五世紀後半の記事としては 、﹃実隆公記﹄ 文明一八年 ︵一四八六︶ 五月 一九日条 、延徳元年 ︵一四八九︶ 一二月一三日条にそれぞれ 、﹁細川屏風 平家絵扇流﹂ 、﹁源氏扇流屏風細川讃岐守新調物﹂ という記述がみられる。 後者に関しては、 ﹁絶代之壮観﹂ と実隆は最大級の賛辞を記している。さ らに文亀二年 ︵一五〇二︶ 四月の ﹃実隆公記﹄ をはじめ一五世紀末から 一六世紀にかかる時期は 、他にも ﹃鹿苑日録﹄ の長享二年 ︵一四八八︶ 一月二三日条や ﹃北野社家日記﹄ 明応二年 ︵一四九三︶ 二月二二日条な ど、扇流し図屏風についての記事を複数見出すことができる。室町末期 の ﹃僧用集﹄ では屏風の格付けに関する箇所に 、墨絵屏風 、色絵磨付屏 風ともに ﹁組扇流屏風﹂ が記されるように 、一六世紀に入ってからも制 作の足跡を追うことが可能である 。特に 、一五八〇年代 、天正期の ﹃多 聞院日記﹄ には 、扇流し図屏風制作に関する記述 ︵天正八年︶ や売買の 記事 ︵天正一五年︶ など ︶24 ︵ 、興味深い内容が具体的に記されるが 、﹁古扇﹂ についての言及部分も認められる 。﹁扇流屏風ノ用古扇一〇枚堯舜給了﹂
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) ︵天正八年 、二月二十日︶ 、﹁同扇流ノ屏風沙汰付古扇三本進上新扇一本 被下了﹂ ︵天正一一年、二月一四日︶ 等からは、扇流し図屏風制作と古扇 との緊密性・相関性を窺い知ることができる。中世の扇流し図屏風の制 作の流れは、桃山期や江戸初期の古筆や古扇への愛顧や蒐集の風潮、さ らには、料紙装飾や装飾的屏風への傾倒と流行の広がりを背景に、続く 一七世紀の同モティーフ需要 ︵第二章で既述︶ へとつながっていったと 考えられる。 四 ﹃長谷寺霊験記﹄と藤原高光 ﹁古の屏風の絵に、扇ながし、扇づくしという ︵ママ︶ 事あり。扇ながしと言 う ︵ママ︶ は 、流水に扇をいくらも書きたるなり 。扇づくしと言う ︵ママ︶ は 、水はな くて扇ばかりいくらも書きたるなり 。その扇の面に色々の絵様を書く なり 。﹂﹃貞丈雑記﹄ 巻一四 、には 、江戸時代中期の武家故実家伊勢貞丈 ︵享保二年︱天明四年、一七一七︱一七八四︶ により、ともに ﹁古の屏風 の絵﹂ として ﹁扇ながし﹂ と ﹁扇づくし﹂ が取り上げられ 、両者は下絵の 流水の有無で峻別されている ︶25 ︵ 。前章でみてきたように、室町から江戸前 期には制作の盛行が確認され、一八世紀以降も江戸琳派等の作例を遺す ﹁扇流し図屏風﹂ は 、その一方で 、すでに一般には回顧的なイメージと して捉えられていたのだろうか。同モティーフの起源の故事として広く 知られてきたのが、同じ著者による ﹃安斎随筆﹄ の ﹁扇流しの絵の事﹂ で ある。既述のようにその内容は漠然として多分に伝説の域を出る記事で はない 。ここで ﹁扇流し図﹂ を除く室町以前の扇面屏風の背地を概観す ると、下絵も同時期とみられる浄土寺本をはじめ ︶26 ︵ 、﹃建内記﹄ の嘉吉三年 ︵一四四三︶ 二月二日の記事や絵巻類の画中画等にみられる葛や薄など の秋草類を描く例 ︶27 ︵ 、また 、西本願寺蔵 ﹁慕帰絵詞﹂ 第一巻に描かれた画 中扇面屏風や 、﹃万松院殿穴太記﹄ 天文一九年 ︵一五五〇︶ 五月七日条に 見える足利義晴葬儀の際の、元信の ﹁扇尽﹂ の ﹁金屏﹂ の記事のように無 地 ︵無文︶ や金地が多かったと考えられる ︶28 ︵ 。そのような下絵装飾の中に あって、 何故に ﹁扇流し図﹂ 下絵も好まれ、 近世まで制作されてきたのか。 ここからは 、先学の論考に裨益を受けながら ﹁扇流し図﹂ の起源と 、﹁扇 流し図屏風﹂ モティーフ生成についての考察を深めていきたい。 ﹃美術研究﹄ 五一号掲載の、田中喜作氏の論文 ﹁扇面散屏風に就いて ︶29 ︵ ﹂ は、扇面屏風に関する中世の資料をはじめとする多くの情報や知見を提 供する示唆に富んだ論考である。 ﹁扇流し図屏風﹂ の起源についても、 ﹁既 に屡々せられたるものながら﹂ として ﹃安斎随筆﹄ の記事を提示し、 次に、 ﹁尚是れを外にして甚だしく伝説的色彩を加えたるものに長谷寺霊験記 の一挿話がある 。﹂ と 、出家した高光少将の行方を尋ねる妻が 、長谷観 音の利益で川に流れてきた夫の扇を見つけ、上流の遁世地を知る説話の 末尾の文章を紹介する 。そして ﹁扇流と言ふ是れにてぞ侍りける 。少将 入道随喜のあまり、此事を我が常の居所の障子に書て大悲をぞ貴みける 云々﹂ の ﹃長谷寺霊験記﹄ の一文を掲載する。さらに田中氏はこれを ﹁荒 唐の伝説﹂ とし 、﹃安斎随筆﹄ の記事の方に ﹁より多くの真実性を読むと も言ふべきか。 ﹂ とされた。 ﹃長谷寺霊験記 ︶30 ︵ ﹄ は ﹃長谷寺観音験記﹄ 、﹃長谷寺験記﹄ とも呼称され る 、長谷寺関連の勧進聖によって正冶二年 ︵一二〇〇︶ 以降承元三年 ︵一二〇九︶ 頃までに成立したとされる 、長谷寺十一面観音菩薩の利生 を説いた説話集である ︶31 ︵ 。下巻の一五話に、出家した高光少将と妻の観音 利生による多武峯寺 ︵妙楽寺︶ での邂逅と二人の往生が記される 。末尾 には田中氏が引用した、常の居所の扇流しの障子の記事がみえるのであ
る 。しかしこの部分を 、田中氏は ﹁伝説﹂ の域とされ 、一五話の高光説 話の末尾を室町期に入ってからの補綴文とする見方をされている。 後に、 武田恒夫氏は、 田中喜作氏の論を承け、 ﹃近世初期障屏画の研究﹄ ︵一九八三年、吉川弘文館︶ 所載論文、 ﹁扇面屏風︱南禅寺 ﹁扇面貼交﹂ 屏 風をめぐって︱﹂ の中で、 ﹁ところで、 ﹁扇流﹂ なるものの起源を問うとき、 群としての扇面ではなく、単一の扇面を対象とする内容のものであった ことがうかがわれる 。﹂ とし 、続いて 、説話の扇流しの障子の部分の蓋 然性を他の文献の紹介を以て検討された ︶32 ︵ 。高光少将の時代に居室の障子 絵に描かれたとする説話の記事は信憑性に乏しいが、 ﹃長谷寺霊験記﹄ が 撰述された鎌倉後期には 、﹁ ﹁扇流﹂ というモチーフが障子絵との関連で 取り上げられた事実は間違いないことのように思われる 。﹂ とし 、建久 二年 ︵一一九一︶ に造工された多武峯常行三昧堂の内陣に、 ﹁扇流物語図﹂ が描かれたという史料を提示されたのである 。﹃華頂要略﹄ の ﹁多武峯略 記﹂ 巻下 ﹁塔婆﹂ の項の記事として ﹁一 、常行三昧堂 ︵略︶ ︵建久二年︶ 七 月中旬仏後障子立之并絵画了仏師喜勝年月日裏絵画之画工少輔入道 号本 阿弥陀仏中納言藤原清隆卿息 件絵者高光少将陰居当寺。時北方尋来之形也俗称 扇流物語是也 。﹂ を提示された 。ここには 、高光ゆかりの常行三昧堂の 仏後障子裏絵に ﹁画工少輔入道﹂ によって、高光夫妻の 「 扇流物語 」 が描 かれたと解される内容が記されているのである。それは無論、 「 扇流 」 と いっても、室町期以降の現存作例の図様とは異なり、二人が再会した説 話を絵画化した図様であろう 。武田氏も ﹁両者の関係については 、なお 後考に俟ちたい。 ﹂ とし、さらに ﹁遺品にみる扇流屏風に関する図様の由 来は、 周知の如く、 むしろ大堰川扇流の伝承に由来するものと思われる。 ﹂ と述べられる ︶33 ︵ 。 確かに 、﹁件絵者高光少将陰居当時 。時北方尋来之形也俗称扇流物語 是也 。﹂ とする記載からは 、﹃長谷寺観音霊験記﹄ にある泊瀬川と倉橋川 の合流点の河合というところの 「 シガラミ 」 ︵柵 ・杭︶ にかかる少将の扇 や、北の方と少将との多武峯での再会の場面等をイメージできても、複 数の扇面と水景で構成され、扇面絵画のマルチスクリーンのような、所 謂 「 扇流し図 」 を直ちに想定することは不可能であろう 。因みに 、﹃神道 大系﹄ 本収蔵の ﹃多武峰略記 地﹄ の同記事にも 、﹁俗称扇流物語是也﹂ に続いて、 ﹁委見 于彼物語 ﹂ とあるのである。しかし、 ﹃安斎随筆﹄ で説く ﹁大堰川﹂ 説も元より伝承の裏付けが著しく不明瞭である。 ここでは、 ﹃華 頂要略﹄ に載る常行三昧堂の仏後障子や 、﹃三国伝記 ︶34 ︵ ﹄ にも引かれる ﹃長 谷寺霊験記﹄ にある高光伝説をめぐる記事を精察して 、室町期以降の現 存作例との関連性の有無を検討していきたい。 ﹃長谷寺霊験記﹄ に載る高光少将とは 、一〇世紀 ︵正暦五年︱九九四 年没︶ の官人で歌人でもある藤原高光がモデルとされる 。父は藤原北家 右大臣師輔、母は醍醐天皇皇女雅子、伊尹・兼通・兼家らの異母弟でも ある。天徳四年 ︵九六〇︶ 右近衛少将、応和元年 ︵九六一︶ 従五位下に叙 せられ、順調に官位を昇ったとされる青年貴族は、同年一二月、叡山に 登り横川の増賀上人、異説では良源上人の許で薙髪した。法名を如覚と 号し、翌年八月には北家ゆかりの多武峯に移り、応和三年には増賀を妙 楽寺に招請し 、やがて法華堂 、天禄元年 ︵九七〇︶ には 、兄の摂政伊尹 の力を得て阿弥陀如来を安置する常行三昧堂を建立した。自らも常行三 昧に勤しみ、増賀とともに、始祖鎌足の陵墓的性格が大きかった多武峯 に本格的な天台密教の寺院としての基盤を確立したとされる。当時最高 の権門の子息として将来を嘱望され、昇官途上の二三、 四歳の貴公子の、 しかも、妻や幼女、同母妹を残しての突然の出家は、当時の都の貴族社 会に少なからぬ衝撃を与えたとみられる ︶35 ︵ 。叡山に入り、翌二年八月多武
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) 峯に移るまでの推移を 、妻や幼女 、妹の愛宮 、さらに伊尹以下兄弟一 族の悲哀と動揺と対応を通して記した ﹃多武峯少将物語﹄ ︵別称 ﹃高光日 記﹄ ︶ が遺されている ︶36 ︵ 。史実に沿う内容などから高光の出家後 、あまり 時を経ずに近親者或いは妻に侍仕する者など側近者によって著されたと される 。此の事件はその後も 、﹃栄花物語﹄ ︵﹁月の宴﹂ ︶ で 、屏風に描か れた男の姿に父を恋う幼女のエピソードなどとともに 、﹁これは物語に つくりて、世にあるやうにぞ聞ゆめる。あはれなる事は、この御事をぞ 世にはいふ 。﹂ と記され 、続いて ﹃大鏡﹄ でも 、村上天皇との和歌の贈答 などが記録され、 ﹁いといみじう侍りしことぞかし。 ﹂ と嘆じられている ︶37 ︵ 。 一方 、出家後の高光はしだいに伝説的人物として記憶されるように なっていったとみられる 。﹃栄花物語﹄ で ﹁これは物語につくりて 、世に あるやうにぞ聞ゆめる 。﹂ に相当する作例として 、﹃多武峯少将物語﹄ と ともに有力視されるのが、 ﹃風葉和歌集﹄ に歌が遺る平安時代の散逸物語 ﹃扇流し物語﹄ である。 おうぎ ︵あふぎ︶ =逢ふ儀、 に男女の出会いを込め、 川を流れてくる扇を男女再会の媒体とする複数の散逸物語が平安時代に 存在し、その趣向と話型は ﹃風葉和歌集﹄ に ﹁多武峯﹂ の地名が入る和歌 を遺す 、散逸物語 ﹃扇流し物語﹄ にも共通するとされる 。詳細や全容は 不明であるが、高光出家事件と関わるとされるこの物語は、後の中世物 語の御伽草子 ﹃扇流し﹄ に連動するストーリーが推測されてい る ︶38 ︵ 。後者 は、山に隠れたのは女性に入れ替り、主人公の少将が流れてきた扇を頼 りに探しあてる再会の物語で、散逸物語の中世的変容とされる。上流か ら流れてきた扇を媒体として男女が再会するという構成と素材が、普遍 性を有する話型の一つのパターンとして成長していったと考えることが できようか。しかし、その重要な要因として高光に纏わる伝説的人間像 の魅力と、中世と扇、扇そのものの属性等の種々絡み合う事項を複合的 に考慮する必要があろう。 藤原高光は周知のように、三十六歌仙の一人として高名な歌人でもあ る 。﹃拾遺集﹄ 以下に入集し 、﹃高光集﹄ が遺されている 。特に 、﹁かくば かり経がたく見ゆる世の中にうらやましくも澄める月かな﹂ は 、若くし て謎多い出家を遂げた高光の鬱情をあらわす美しい歌として親しまれ 、 能 ﹃松風﹄ にも採り入れられた 。﹃多武峯少将物語﹄ を研究する新田孝子 氏や 、平安歌壇の研究家 、山口博氏は 、この歌を 、在原業平の ﹁いとゞ しく過ぎ行くかたのこひしきにうらやましくもかへる波かな﹂ に発想の 契機を負うものとし 、﹁業平の映像に 、高光のそれが重なること 、︵略︶ 業平へ寄せられたのと同じような共感が 、高光にも寄せられたであろ うこと 、﹂ とし 、不遇 ・流離の貴公子業平像と重なる高光像が形成され 、 物語化がされたことと指摘されている ︶39 ︵ 。﹁かくばかりの⋮⋮﹂ の歌は出家 後の作とされるが 、 ﹁佐竹本三十六歌仙 切 ﹂ に 見 る 高 光 像 ︵逸翁美術館蔵︶ は 、 笏を執る黒袍束帯姿 の俗体で表象されて いる。見方によって は同絵巻の中で、敦 忠とともに特に若く 美貌の貴公子姿で描 かれていると言えよ う ︵ 図 7 ︶。 鎌 倉 前 期には物語化、伝説 図 7 佐竹本三十六歌仙切 藤原高光像(部分) 逸翁美術館蔵
化された高光像が、文学上のみに止まらず絵画上でも確認できるのでは ないだろうか 。また 、新田氏は 、散逸物語 ﹃扇流し物語﹄ が生まれた背 景に、高光伝説と扇の特別な関係を推測する。山で暮らす高光に、異母 姉の中宮安子が貂衣を贈ったという ﹃多武峯少将物語﹄ の記事が 、﹃古今 和歌六帖﹄ 第五 ﹁服餝﹂ にある ﹁とこしへに夏ふゆゝけやかはころも あ ふきはなたす山にすむ人﹂ の歌、 さらにその出典である ﹃万葉集﹄ 巻九 ﹁雑 歌﹂ にみえる ﹁常之倍尓 夏冬往哉 裘 扇不放 山住人﹂ の忍壁皇子 をモデルとする仙人像を想像させたとする。そして高光と扇とのイメー ジ上での強い相関性を指摘されている ︶40 ︵ ことは重要である。 五 扇と扇流し図屏風 前章では、 ﹃長谷寺霊験記﹄ に記される高光に纏わる多武峯の常の居所 の ﹁扇流しの障子﹂ 、そして、 ﹃華頂要略﹄ に載る常行三昧堂の ﹁扇流物語﹂ の仏後障子に関連して 、藤原高光の伝記と伝説化していった高光像を 、 主に国文学の領域での高光研究の論を参照しつつ探ってきた。 その結果、 和歌に秀でた流離・不遇の貴公子としての業平像とも類似するイメージ 形成が 、平安時代から既に窺われることや 、その一方で 、山 ︵多武峯︶ に住む仙人的 ︵僧如覚︶ 性格の附与から、高光と扇が強く結びつけられ、 院政期の散逸物語 ﹃扇流し物語﹄ が生まれたという説が提示されている こと等を確認した 。それらを踏まえて 、﹁高光と扇﹂ 伝説や 、﹁多武峯の 扇流し障子絵﹂ が 、現存する扇流し図屏風作例とどのような関連性を有 するのか、それとも無関係であるのか考察していきたい。 高光ゆかりの多武峯は、七世紀に藤原鎌足長男定慧の創建した妙楽寺 と聖霊院が多武峯寺の中核を成し 、鎌足を祀る大職冠社 ︵多武峯社︶ と 一体のものとして存在してきた 。しかし 、しだいに神道勢力が強まり 、 明治維新後の神仏分離令の布告に際して神社となることが決せられ、明 治二年 ︵一八六九︶ 、一山すべて談山神社となった 。権堂と名称を変え て現存する重要文化財の旧多武峯寺の常行三昧堂は、一六世紀初頭以降 江戸時代初頭にかけて再建された建物である ︶41 ︵ 。﹃華頂要略﹄ にある建久二 年 ︵一一九一︶ の常行堂とは 、大きく時代を隔てている 。現在の権堂か ら建久時に常行堂に描かれたとされる 、高光と北の方再会の ﹁扇流し物 語﹂ 図を探ることは無論不可能である 。ここで高光と扇流し物語から少 し離れて、中世と扇について考えてみたい。 中世の御伽草子 ﹃扇流し ︶42 ︵ ﹄ は 、高光をモデルとした可能性を指摘され ている散逸物語 ﹃扇流し物語﹄ の中世的変容の内容ともいわれている 。 そこでは、多武峯という地名は捨象され、恋い尋ねられる主人公は女性 となり、特定の説話からの脱却や普遍化が見られるのである。再会の契 機となる扇は高光の属性から離れて、平安時代の複数の散逸物語にもあ るような、男女を結ぶ媒体としての扇に戻り中世の物語に再登場したと も言えよう。 扇座や扇屋が文献に見え 、﹁扇流し図屏風﹂ の記載を残す室町時代は 、 晴や褻の事例を問わず様々なシチュエーションで、扇が人と人の間を多 量に行き交う時代でもあった。扇は招涼や有職の服飾的道具・調度であ ると同時に、進物や贈答、土産や形見の品とされた。また同時にそこに 盛り込まれた絵画や書は、情報手段が限られたその時代において情報や 知識や遊興や風流を提供する多義的媒体として多大な役割を担っていた であろう。しかし、一方ではそれ以上に男女の性差や身分の上下、空間 的隔たりを超えて人と人との間を結び往還する、文字通り媒体、双方向 性を有したメディアとして、扇それ自体が機能していたともいえる。中
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) 世の扇は非常に複雑で特殊な役割を附与されたモノとして存在していた のである。文学や芸能において扇は、おもに男女の恋愛や再会の重要な キイワード、さらにはメタファーとして使用された。世阿弥元清作とさ れる ﹃班女 ︶43 ︵ ﹄ にその中世的典型をみることができると私は考える 。美濃 野上の宿の遊女花子と東国下向途中の吉田少将という身分を違える男女 同時に中世物語における記号的呼称を与えられた男女が、一夜 の形見に取り交わした扇が機縁で、その後、再びめぐり逢うという曲で ある 。﹃漢書﹄ の班捷舒の故事と ﹃文選﹄ の詩文という漢籍をもとに 、秋 になって捨てられる扇 ︵秋扇︶ と遊女の儚い運命を重ねあわせた内容で あるが、 意外にも結末は花子と少将は結ばれるのである。扇が ﹁逢う儀﹂ と通じ合う音であるからとの説明だけでは説得不足であろう。十四世紀 初めに成立した ﹃とはずがたり ︶44 ︵ ﹄ の那智参籠の場面でも 、山僧によって 扇は十一面観音の御體と説かれるなど扇それ自体に、神仏と関わるよう な霊力が重ね合わされ、また、人と人、男と女を結び付け、その運命を 左右するほどの不思議な呪物であるという認識がなされていたと考えら れる。事実、 室町期の御伽草子類には、 ﹃花鳥風月﹄ 、﹃厳島の本地﹄ など、 扇の不思議な呪術性を強調した作例が多数遺されている ︶45 ︵ 。また、御神宝 としての美麗な檜扇類の奉納、日月の軍扇の合戦時における呪術的使用 の流行、神仏と関わる芸能・祭礼と扇の不可分的相関性、などもその思 想を表していると考えられよう。 しかし、周知のように中世を俟たずに、扇は平安時代以前から神仏と 関わるモノでもあった。扇の早期の遺例は、教王護国寺旧食堂の千手観 音の臂の内刳りから発見された元慶二年 ︵八七七︶ 銘を有する檜扇であ る ︶46 ︵ 。佐太神社や厳島神社の一二世紀の伝世品 ︵御神宝類︶ の檜扇や蝙蝠 扇 、伯耆一宮 ︵鳥取︶ ・朝熊山 ︵三重︶ ・奈良原 ︵愛媛︶ 、その他 、一一世 紀、一二世紀の複数の経塚から出土した扇類の残欠等、遺例の上でも神 仏との強い関わりが確認できるのである 。また 、﹃源氏物語﹄ ﹁橋姫﹂ に ある ﹁扇ならで 、これしても月はまねきつべかりけり﹂ の琵琶の撥をと る中の君の言葉には、月や日を招き寄せ、他方、魔や邪を打ち払うとい う 、扇に対する呪物的見方を窺い知ることができる 。一方 、﹃源氏物語﹄ では、男女の運命を左右する場面、物語の分岐点とも言える箇所で扇に 重要な役割が託されてもいる 。﹁夕顔﹂ での童女から差し出された白い 扇、 ﹁花宴﹂ で源氏と朧月夜の君の間で交換される檜扇、 ﹁若菜下﹂ の源氏 が落した蝙蝠扇等である ︶47 ︵ 。神仏と強力に係わる扇の属性、さらに、男女 の運命を左右するとされる扇の性格、平安時代から窺われるこの二つの 特徴は、前述した中世の人々の扇に対する感情や思想へ引き継がれるも のでもある。中世の一部の絵画には開いた扇を前にして神仏に拝礼する 場面が見られることが、網野善彦氏や黒田日出男氏など中世史の研究者 によって以前から指摘されてきた ︶48 ︵ 。近世の絵画には殆ど見出せないこの 習俗こそ、中世の扇に対する概念を象徴的に示す表象のひとつであると 私は考える。 笠や覆面を神仏の前で外す等とは本来別種の行為であろう。 人と人、男と女を結ぶ扇は、実は神仏と人を繋ぎ結ぶ媒体でもあると見 做され、礼拝対象の神仏と跪く礼拝者の間に広げられて置かれたのでは ないだろうか 。神仏と人を結ぶ ︵繋ぐ︶ モノとして扇を見做すことは 、 言うまでもなく平安時代に遡って存在した思想であろう。しかし、絵巻 や参詣曼荼羅、洛中洛外図 ︶49 ︵ などに形象としてその行為がしばしば描かれ る中世は、扇に霊力をみる人々の思いが前代より以上に広く大きく膨ら み、さらに即物的にまで昂まりをみせた時代といえる。実用品としても 扇が階層を超えて大量に消費された中世は、同時に扇の聖性・呪術性が 強く認識されるという扇本来の両義的性格が隠れることなく発揮された
時代とされよう ︶50 ︵ 。 平安時代に遡る屏風絵と貼付された色紙 ︵形︶ の古代の関係から 、や がて時を経て屏風に色紙形や短冊ばかりを集めて貼付する装飾屏風が出 現したとされる。玉蟲敏子氏は、諸文献や画中資料等、さらに先行研究 の検討などから 、その成立の端緒としての時期を ﹁大体一三∼四世紀﹂ と類推されている ︶51 ︵ 。また同時に、 ﹃明月記﹄ にみる童子や雑色の衣の色紙 形意匠を例に風流との関連性を指摘する。これは第三章で記した大倉文 化財団や東京国立博物館所蔵の蒔絵硯箱、 ﹃明月記﹄ 寛喜二年の記事、 ﹃春 日験記絵﹄ 巻五に描かれた藤原秀能の水干の意匠等と連動する時期的で ある。書や絵の表象形式 ︵フォーマット︶ として色紙形と通じる扇面も、 色紙形と同様に屏風に貼付され ﹁扇尽﹂ の装飾屏風が出現していったの であろう。一三∼一四世紀、そして一五世紀にかけては、障屏画、特に 屏風形式・屏風絵の変動期でもあった。六曲一双形式の紙屏風のスタン ダード化の過程で、モティーフや技法、そして様式まで、文学・風流や 工芸との相関性も含めて新しい様々な試みがなされ た ︶52 ︵ 。一双形式の ﹁扇 流し図屏風﹂ の成立もそのような文脈 、状況のなかに捉えることができ るのではないか。 その場合、 組物 ︵セット︶ の色紙の布置や貼付と同様に、 例えば源氏絵や平家絵など複数・多数の扇面が一双の屏風に配されても 不思議とは言えない。比較的早期の扇流し図屏風関係の記録に、源氏絵 や平家絵が少なからず見られるのも事実である。しかし、貼付やあるい は直書きで構成される色紙形の装飾屏風の素地 ︵背地︶ が 、秋草などの 植物文や金地が主流となったのに対して、扇面貼付の場合、中世の諸記 録や現存遺品には、それらに加えて流水などの水景が用いられ、近世に 入っても受容され、素地 ︵背地︶ の背景を抱合しての ﹁扇流屏風﹂ と呼称 されてきた理由は何故であろう。 ﹃多武峰少将物語の様式﹄ の著者新田孝 子氏は、高光と扇の結び付きについて論じたが、さらに、文学的見地か ら ﹃扇流し物語﹄ に関連して、川と扇の関係を ﹃古事記﹄ の櫛名田姫と箸 の話型、加えて流水に漂う紅葉と扇の視覚的類比をあげられている ︶53 ︵ 。本 小稿のテーマである絵画的表象としの ﹁扇流し図屏風﹂ の場合はどうな のか、結論を急ぎたい。 円の一部を切り取ったような 、弧と直線で成り立つ扇面形 ・扇形は 、 方形の色紙形や短冊とは異なり複雑な図形である。単体でもそれ自体変 化に富む形と見做してよいであろう。さらに、摺畳扇として、全開、半 開、閉じた扇、破れ扇などの扇面は形として様々に変容可能である。廻 転させるなど布置する角度を変えればさらに複雑な動きのある変化を見 せる 。複数の扇形 、さまざまな扇絵の組み合わせ ︵構成︶ となればさら なりである。新田氏が流水と紅葉との連想を挙げられたように、扇それ 自体が有する流動的形姿は秋草や金地よりも、流れる川や、波打つ水景 にレイアウトされるのが視覚的効果という見地からも最もふさわしいと 感じられる。 また、 扇と水景との結び付きは、 前章から述べてきたように、 散逸物語 ﹃扇流し物語﹄ 、続く鎌倉期の ﹃長谷寺霊験記﹄ の説話、 ﹃華頂要 略﹄ 記載 ﹃多武峯略記﹄ の常行三昧堂仏後障子 ﹁扇流物語﹂ の記事 、さら に室町期の御伽草子 ﹃扇流し﹄ など 、高光伝説と説話 、その変容の流れ とは無関係とは言えないと考える。これまで縷々既述してきた平安末か ら中世における高光伝説の広い膾炙と、中世における扇に霊性を重ねる 扇観やその役割からである。それらに加えて、両者とも関連する、中世 神話や説話に説かれる、流れきた寄物、寄木・流木に特別の霊性を見出 す信仰も無関係とは言えないであろう ︶54 ︵ 。説話で高光の北の方に功徳を与 えたとされる長谷寺本尊十一面観音も、流木の御衣木から造られた像と 伝えるのである 。さらに 、藤原氏に纏わる王権伝説を伝える ﹃志度寺縁
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) 起﹄ でも 、本尊十一面観音の御衣木として近江国からの流木伝説を記す のである。神仏と人を結ぶ扇も、寄物として川や水景に置かれるのが似 つかわしいと考えられる 。現存遺品の作例にみる ﹁扇流し図屏風﹂ は 、 高光と北の方再会の物語をイメージできる絵解き的逐語的図様とは乖離 したものである。しかし、その成立の背景と高光伝説を切り離すことは 不可能と考えられるのではないだろうか。室町期には、高光や多武峯の 伝承から変容した中世の物語が生まれたように、障屏画の変動期に時代 的変容を遂げた ﹁扇流し図﹂ が 、高光説話を源流として誕生したとして も不思議ではない。 六 終章ー多武峯と扇流し図 最後に 、高光と ﹁扇流し﹂ 、﹁扇流し図﹂ を結ぶ事例を 、一 、二 、補足し て稿の結びにかえたい。第一に、延年 ︶55 ︵ の開口の詞章にある高光と扇流し 伝説である。多武峯寺の歴史は、戦火による回禄の歴史でもあった。天 禄元年 ︵九七〇︶ 、兄の伊尹の立願を得て建立し 、高光 ︵如覚︶ が阿弥陀 如来を安置した常行三昧堂をはじめ、建久時再建やその後の造立の常行 堂も他の堂于とともに、主に興福寺との、また、多武峯寺内部の抗争で 焼失すること数次に及んだ。しかしその様な歴史の中で、中世の妙楽寺 は常行三昧堂の修正会や蓮華会を中心として、猿楽や延年などの中世芸 能の揺籃的役割を果たしたという指摘がされている 。金春禅竹の ﹃明宿 集﹄ とともに 、そこに記された常行堂修正会延年と 、仏後空間である後 戸や摩多羅神、伝来する翁面など、中世芸能と妙楽寺に対する関心が近 年とみに高まっているのである ︶56 ︵ 。延年についても、高野辰之氏や志田延 義氏等による先駆的原本の紹介や発見を経て、本田安次氏をはじめとす る研究者等によって、台本の解明が進められてきた。その中の、天文書 写とされる延年台本の開口に ﹁・・・・僧賀 上人ハ浮船ニ寄テ述懐如覚 禅師ハ流ス扇ニ詠歌ヲ顕シ給フ勝地ナレハ、哥人ノ相撲尤アヰニアイヰ タル逸興ナリ﹂ の詞章を見出すことができ る ︶57 ︵ 。一六世紀 、高光と扇流し 説話が多武峯と関連して知られていた証左と言えよう。 次に 、一七世紀前期の制作とみられる某家本 ﹁大職冠図屏風﹂ 六曲一 双について言及したい。未紹介のこの作例については、御所蔵者の強い 御意向により作品の具体的で詳細な紹介は現時点では差し控え、扇流し と関連する点に絞って記していきたい。画風は、御伽草子的稚拙さとは 径庭を置くものであるが、正系の狩野派とも距離が見られる ︶58 ︵ 。モティー フを同じくする他の作例の多くと同様に、この作品も絵師の落款や印章 を図中に見出すことは不可能である。しかし、万戸将軍と阿修羅軍、海 の異類・異形との戦いの場面などに独特の魅力ある筆の冴えを放つ特徴 を見せる本屏風の画面は、 同時代の障屏画と同様に金雲が描かれている。 ヴェールのように一双にかぶさる金雲は、場面を分節し、また物語を繋 ぐ役割を果たしているが、さらに一七世紀前半の主に屏風作例に見るこ との多い、胡粉盛り上げをともなう装飾文を有している。そして、その 装飾文は精緻な檜扇流し文なのである 。周知のように ﹁大職冠図﹂ は 、 藤原鎌足を主人公とする幸若舞曲 ﹃大職 冠 ︶59 ︵ ﹄ を素材とする絵画である 。 主として近世、絵巻物、冊子、扇面、木版本、浮世絵版画、そして屏風 絵などに描かれたモティーフでもある 。﹃日本書紀﹄ ﹁允恭記﹂ の王と海 人説話、 ﹁神代下巻﹂ の彦火火出見命と干珠満珠、 ﹁仲哀記﹂ の神功皇后と 如意珠等に共通する、レガリアとしての海陸を往還する宝珠の王権神話 が 、やがて一四世紀前期の讃州 ﹃志度寺縁起﹄ の創建縁起譚に 、藤原北 家の栄達と結ばれた中世神話として現れる ︶60 ︵ 。﹃志度寺縁起 ︶61 ︵ ﹄ や、続く謡曲
﹃海士﹄ での不比等に代わって 、幸若舞曲 ﹃大職冠﹄ では 、始祖鎌足が物 語の主人公として登場する。その間、多武峯では、鎌足は大明神として 神格化への道をたどっていった ︶62 ︵ 。中世末から近世初頭、上演回数の記録 上からも幸若舞曲中、 ﹃入鹿﹄ とともに最も人気のあった曲目とされてい る ﹃大職冠﹄ は、 文字通り多武峯を象徴する鎌足を語る王権神話でもあっ た。 一方、既述の多武峯常行堂の延年の詞章にも語られた高光は、師輔の 八男として生を受けた北家の裔であり、同時に始祖鎌足の霊廟を天台寺 院として興隆させた僧如覚でもある 。彼もまた 、藤原北家と彼自身に 纏わる説話 ﹁扇流し﹂ と多武峯寺を象徴して生き続けた伝説的人物でも あった 。某家蔵の ﹁大職冠図屏風﹂ の金雲の装飾文は 、単なる同時代の 流行としての装飾文として無作為に偶然配されたと見做すことは不可能 であろう。慶長末から元和、寛永期、一七世紀の前半期の、風俗画屏風 や洛中洛外図屏風などの金雲には、胡粉で盛り上げた装飾文を有する作 例が確かに少なくない ︶63 ︵ 。中には卍繋ぎや七宝繋ぎ、菊花紋などの細密な 紋様も見られるが、雲の縁に沿って帯状の粒点を連ね、内部は菱形風の 雲状の紋様を布置する雲形装飾が一般的で画一的でもある。例外的に発 注者等を考慮させる精緻な装飾文としては 、二種の蝶紋 ︵揚羽蝶紋と対 蝶紋︶ を所々に配した国立歴史民俗博物館本 ﹁江戸図屏風﹂ 六曲一双を 挙げることができようか ︶64 ︵ 。しかし、管見ではあるが某家本に装飾された ような繊細な檜扇流し文 ︵全開 ・半開 ・閉扇等︶ の金雲の類例は 、現在 のところ見出し得ないと考える。大職冠鎌足の物語と扇流し図の組み合 わせは 、幸若舞曲 ﹃大職冠﹄ を物語るのみでなく 、鎌足神話と高光説話 を同時にイメージさせるポリフォニックな印象を与える。 そしてさらに、 扇流し説話と多武峯、藤原高光説話と扇流し図を結び繋ぐ表象としての 役割を果たしている作例と考えられよう。 近世初頭における種々の扇流し図屏風の盛行、それを遡っての室町期 を中心とする中世の扇流し図屏風制作の状況、さらにそれらと、多武峯 少将としての伝説的人物藤原高光説話や多武峯の常行堂の壁画との関連 性の有無などを考究し検討してきた。現存する種々の扇流し図屏風の源 流として、高光と扇、扇流し説話は切り離して考えることができないば かりか、 むしろ強い関係性を有すると考えざるを得ないと結論づけたい。 最後に、絵画作品としても魅力的な優品である某家本について美術史的 角度からの詳細な紹介ができなかったことをお詫びして、具体的な研究 報告の機会が実現できる日を希求しつつ本小稿を閉じることしたい。 註 ︵ 1︶雨宮坐日吉神社の御神事については 、﹃ 雨宮の御神事﹄ ︵長野県無形文化財調査 報告書2 長野県教育委員会 一九六五︶が 、三隅治雄 、他の調査研究をもとに 詳述をしている 。なお 、二〇〇八年の神事では 、残念ながら扇流しは省略された 。 二〇一一年は、東日本大震災のため御神事すべて中止になった。 ︵ 2︶武田恒夫﹃障壁画全集 名古屋城﹄ ︵美術出版社 一九六七︶一一一頁 ︵ 3︶ 藤 岡 通 夫 ﹃ 京 都 御 所 ︹ 新 訂 ︺﹄ ︵ 中 央 公 論 美 術 出 版 一 九 八 七 ︶ 一 一 三 , 一一四、 一二二頁 ︵ 4︶中部義隆 ﹁伝宗達筆 草花図扇面散貼付屏風をめぐって﹂ ︵﹃大和文華﹄八七 一九九二︶三二頁参照 。中部氏は 、下地屏風を元和年間から寛永年間制作の長谷川 派の作品とし、草花図扇面は俵屋宗達の慶長年間後期の作品とする。 ︵ 5︶ ﹃﹁KAZARI﹂日本美の情熱﹄ ︵サントリー美術館図録 二〇〇八︶五一図 ︵ 6︶佐野みどり﹁婦女扇面流し屏風﹂ ︵﹃国華﹄一二八六 二〇〇二︶ ︵ 7︶本作例については 、小林忠氏が ﹁雑多な主題をとりまぜて描いた絵画作品と言う ほどの意味でもちいる﹂ ﹁雑画屏風﹂の一例として 、﹁屏風絵の新傾向︱江戸前期の
日本女子大学紀要 人間社会学部 第22号 Japan Women’s University Journal vol.22(2011) 場合﹂ ︵﹃狩野派と風俗画﹄日本美術全集一七巻 講談社一九九二︶で取り上げてい られる。一八〇頁 ︵ 8︶註︵ 5︶前掲図録、五八図 ︵ 9︶伊勢貞丈﹃安斎随筆﹄ ︵﹃故実叢書﹄ ︶巻三十﹁扇流の絵の事﹂ ︵ 10︶松浦静山﹃甲子夜話﹄ ︵﹃東洋文庫﹄ ︶巻二 ︵ 11︶浮世草子 、西条吉兵衛 ﹃吉原一言艶談﹄ ︵宝永四年 一七〇七︶ ﹁扇流﹂所載の隅 田川での川遊びの記載と挿絵。国立国会図書館本参照。 ︵ 12︶小林忠氏は、 ﹃江戸絵画史論﹄ ︵瑠璃書房 一九八三︶所載﹁Ⅱ俵屋工房論︱保元 ・ 平治物語扇面画を中心として︱﹂で、扇面が屏風地に直描きの場合と貼付を区別し、 前者を﹁︱図屏風﹂ 、後者を﹁︱貼付屏風﹂と呼称し、さらに﹁扇面散﹂ 、﹁扇面流﹂ 、 ﹁扇面貼交屏風﹂の呼称の明確化などを提唱されたが、現状では一般に統一化はされ ていない。九七頁 ︵ 13︶元信の基準印のひとつであることが明らかにされた 。山本英男 ﹁印からわかるこ とー元信の場合﹂ ︵﹃学叢﹄二一 一九九九︶ ︵ 14︶武田恒夫﹁京洛月次風俗図扇面流屏風﹂ ︵﹃国華﹄八八九 一九六六︶ ︵ 15︶泉万理 ﹃扇のなかの中世都市︱光円寺所蔵 ﹁月次風俗図扇面流し屏風﹂ ﹄︵大阪大 学出版会 二〇〇六︶八九頁 ︵ 16︶山根有三 ﹁新出扇面流貼付屏風︱室町時代大和絵扇面と海北友松下絵 ・海岩蘆図 屏風について﹂ ︵﹃国華﹄一一二八 一九八九︶三六∼三八頁 ︵ 17︶宮島新一﹃扇面画︵中世編︶ ﹄︵日本の美術 三二〇 一九九三︶四六,四七頁 ︵ 18︶ 山根有三 ﹁室町時代扇面画における ﹁和﹂ と ﹁漢﹂ ﹂︵上︶ ︵下︶ ︵﹃出光美術館 館報﹄ 八〇、 八一 一九九二、 一九九三︶ ︵ 19︶註︵ 17︶宮島新一前掲著書 四七頁 一七世紀、 水景の下絵を有する ﹁扇流し図屏風﹂ 盛行の時期、 ﹃南禅寺文書﹄ にみえる、 現存八隻本に相当するかとみられる﹁扇流屏風 四双 新造﹂の記載や、 御物本﹁扇 面散屏風﹂八曲一双についての ﹁扇流 保元平治一双 俵屋宗達筆﹂と伝わる江戸 中期の史料 ︵太田彩 ﹁宗達 ﹁扇面散屏風﹂ についての一考察︱修理の成果をふまえて﹂ ﹃三の丸尚蔵館年報 ・紀要﹄一三号 二〇〇八︶の存在は興味深い 。﹃扇の草子の研 究﹄ ︵ぺりかん社 二〇〇三︶で、安原真琴氏が﹁あふぎながし﹂は﹁扇草子﹂それ 自体を指すとの見解を示されている説︵一一〇∼一一六頁︶とともに、呼称︵名称︶ の問題として、今後の検討を必要とすると考える。 ︵ 20︶武田恒夫 片桐弥生 ﹁新出 和様扇面画帖について ︵下︶ ﹂︵ ﹃国華﹄一一二五 一九八九︶三七頁 ︵ 21︶宮島新一﹁障屏画に見る絵画の変﹂ ︵﹃美術史﹄一〇八 一九八〇︶一二一頁 ︵ 22︶縁に半跏して左腕に鷹を羽ばたかせる秀能とみられる水干の若者 、水干の意匠に は、様々な形状の紙扇が散らされ、地に水景のような霞状の模様がみられる。 ︵ 23︶以下 、本文掲出の ﹃看聞御記﹄ ︵﹃看聞日記 ﹄ ︶ 、 ﹃ 実 隆公記﹄ 、﹃鹿苑日録﹄ 、﹃北野 社家日記﹄等は其々の、記載年月日の該当箇所を参照されたい。 ︵ 24︶﹃多聞院日記﹄天正八年、天正一五年 ︵ 25︶﹃貞丈雑記﹄巻一四︵本文引用箇所は、 ﹃東洋文庫四五三 貞文雑記4﹄より引用︶ ︵ 26︶秋山光和 ﹁室町時代源氏絵扇面について︱浄土寺蔵源氏物語絵扇面散屏風を中心 に︱﹂ ︵﹃国華﹄一〇八八 一九八五︶ ︵ 27︶山根有三 ﹁秋草図屏風の成立と展開﹂ ︵﹃日本屏風絵集成﹄第七巻 講談社︶ 、 註︵ 16︶山根有三前掲論文 三五頁 ︵ 28︶ただし、 ﹁金屏﹂が、 素地の金無地を意味するか、 あるいは模様が描かれていたか、 詳細の推察は記述からは不可能である。 ︵ 29︶田中喜作﹁扇面散屏風に就いて﹂ ︵﹃美術研究﹄五一 一九三六︶ ︵ 30︶﹃大日本仏教全書﹄ 一一八、 ﹃続群書類従﹄ 二七輯下 ︵続群書類従完成会一九二八︶ 、﹃古 典文庫﹄七二︵古典文庫 一九五三︶等収載。 ︵ 31︶﹃日本古典文学大事典﹄ ︵明治書院 一九九八︶参照。 ︵ 32︶武田恒夫 ﹁序章 障屏画と画中障屏画 第一章 屏風絵﹂ ︵﹃近世初期障屏画の研 究﹄吉川弘文館 一九八三︶一二〇頁 ︵ 33︶﹃華頂要略﹄所載の ﹃多武峯略記﹄該当箇所について 、註 ︵ 32︶の武田論文は 、 京都府立総合資料館写本を紹介されている。 一方 、脱落箇所を ﹃華頂要略﹄所収本にて一部補う ﹃神道大系﹄所収本 ︵神道大系 編纂会 一九八七︶ 、﹃多武峰略記 地﹄に載る該当箇所 ︵﹁堂行三昧堂﹂ ︶は左記の 通りである。