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『釈摩訶衍論』の遼代における流通-房山石経の記述と周辺事情- 利用統計は来月からご利用いただけます

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『釈摩訶衍論』の遼代における流通-房山石経の記

述と周辺事情-著者

関 悠倫

著者別名

SEKI Yurin

雑誌名

東洋学研究

56

ページ

1-24

発行年

2019

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00012553/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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『釈摩訶衍論』の遼代における流通

―房山石経の記述と周辺事情―

 

一、はじめに   筆 者 は こ れ ま で、 『釈 論』 の 成 立 時 期 を、 幾 つ か の 資 料 を 呈 示 す る ことで、七世紀後半から八世紀前半であると指摘した。成立地につい ても中国で製作された可能性があることを指摘し 1 た 。加えて『釈論』 には華厳思想ばかりではなく、初期密教の教理も合わせ持っているこ とを論じてき 2 た 。   本研究では以上の成果を踏まえながら、遼代に石経事業を指揮した 道 宗 皇 帝、 当 事 業 の 中 心 的 な 人 物 で あ る 通 理 大 師、 そ れ 以 後 の『釈 論』を取り扱う論師達の動向から、遼代における『釈論』の流通を審 らかにしたい。つまり『釈論』が中国において大いに受容されてきた こと、そして密教との接点を有する典籍である点を論じることで、あ らためて『釈論』が中国において製作されたとする説を補強したいと 考えている。 二、遼代の流通に関する先行研究の見解と方法論   ここでは遼代の『釈論』の流通について指摘している先行研究の見 解を中心に取り上げていくことにしたい。   まず中国圏内で撰述された『釈論』の末釈を検討し、遼代の石経事 業について考察した塚本善隆の論考がある。塚本説では「通理大師の 刻経目録に於いて、特に注意を要するものは、第五百六十八帙「寧」 に属した『釈摩訶衍論』が刻せられていることである。何となれば、 それは仏教学界の重大事件たる契丹大蔵経の内容について、頗る重要 な暗示を与えるものであるからであ 3 る 」と指摘しているが、この説は 『釈論』がどのような地域で成立したのかまでは言及がない。   次に遼代の密教について言及している鎌田茂雄の論考がある。鎌田 説は『釈論』が遼代の密教受容の中に大きな役割を担っていると指摘 してい 4 る 。つまり鎌田説は、華厳と密教を融合させるなかで『釈論』 の思想が一役買っており、当時造論された『釈論』の末釈を密教関係 の典籍であると理解しているところに独自性が認められる。   このように塚本、鎌田、両氏の指摘は、遼代の石経事業や当代の仏 教に『釈論』が重要な位置を占めていたとする興味深い指摘をしてお

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り参考になる点が多い。しかし『釈論』の成立地等についてはほとん ど言及されておらず、遼代における『釈論』の流通については手つか ずのため検討の余地がある。   本研究では、従来の方法に鑑みられていない視点―『釈論』が流布 した足跡を洗い出すという点―を念頭に入れながら、遼代の流通を概 観することで『釈論』の受容された形跡を明らかにしていきたい。 三、  房山石経について  ―石経の記録に見える『釈摩訶衍論』の実像― 三―一   房山雲居寺について   ―開創から通理大師まで史的概観―   雲 居 5 寺 を 開 創 し た 人 物 は、 隋 代 の 僧 静 琬 と い い、 そ の 創 建 の 目 的 は、法滅により正法が廃れることを恐れそれに備えるためとされ 6 る 。 本 節 の 目 的 で あ る『釈 論』 と の 接 点 は、 遼 の 八 代 皇 帝 で あ る、 道 宗 (生 没 一 〇 三 二 ~ 一 一 〇 一・ 在 位 一 〇 五 五 ~ 一 一 〇 一) の 時 代 に 明 確 になる。詳しくは後述するとして、ここでは「大遼涿州鹿山雲居寺続 秘蔵石経塔記」 (以下「石経塔記」 )を確認したい(関連箇所に傍線を 付す) 。     大遼留公法師奏、 聞聖宗皇帝、賜普度壇利銭、続而又造、次興宗 皇帝、賜銭又造、相国場公遵勗、梁公頴奏、聞道宗皇帝、賜銭造 経 、 四 十 七 帙、 通 前 上 石 共 計 一 百 八 十 七 帙、 已 厝 東 峰 七 石 室 内 見、 今大蔵仍未及半有 、 故上人通理大師 、緇林秀出、名実倶高、 教風一扇、草偃八宏、其余徳業、具載宝峰本寺遺行碑中、師因游 茲山寓宿其寺、嘅石経未円有、続造之念、興無念慈、為不請友、 至 大 安 九 季 正 月 一 日、 遂 於 茲 寺、 開 放 戒 壇、 仕 庶 道 俗、 入 山 受 戒 、叵以数知、海会之衆、孰敢評之、師之化縁、寔亦次之、方尽 暮春、始得終罷、所獲施銭、乃万余鏹、付門人見右街僧録通慧円 照大師善定、 校勘刻石、石類印板、背面倶用、鐫経両紙 、至大安 十年、銭已費尽、功且権止、碑四千八十庁、経四十四帙、題名目 録、具列如左、未知後代、更更継之、又有門人講経、沙門善鋭 7 念   これは天慶八年(一一一八)に雲居寺南塔の下に建立された仏堂に 関しての事績が記録されたもので、選者は 𢘿 題沙門志才という人物で ある(雲居寺もしくは付近の僧で、文筆に秀でた人物とされ 8 る )。   そこには、聖宗(生没九七二~一〇三一・在位九八二~一〇三一) が資金援助し、その事業を興宗(生没一〇一六~一〇五五・在位一〇 三一~一〇五五)が引き継いでいく。そして道宗に出資を促したのは 「国場公遵勗」と「梁公頴奏」とされる。   王族の事業であっても経蔵の半分ほどしか刻経されず、それを知っ た通理大師が一念発起して、大安八年(一〇九二)に広く浄財を募る ため、雲居寺を道俗関わらず開放し、受戒法会を執行した。大安九年 (一 〇 九 三) 正 月 一 日 か ら 春 ま で 約 三 箇 月 に わ た り 行 い、 法 要 で 得 た

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浄財を事業に充当したとする。   通理大師は、刻経の際に『契丹大蔵経』を底本として参照したとさ れている 9 が 、当文献はこれまで現存(最近、韓国で一部が発見された とす 10 る )していないとされてきた。小野玄妙は試案として周辺資料に 基づき再構築したものが『仏書解説大辞典』シリーズの別巻に収載さ れてい 11 る 。   そ し て 先 に 引 用 し た「石 経 塔 記」 に は、 『契 丹 大 蔵 経』 を 底 本 と し ている形跡が確認できる記述がある。以下のように説いている。     校 勘 の 石 経、 石 は 印 版 に 類 し、 背 と 面 倶 に 用 い て、 経 両 紙 を 鐫 る。   道宗の治世においては、房山石経に刻経する際、経蔵を底本として いたことが分かる。この記事の信憑性を裏付ける指摘に、竺沙雅章が 以下のように論じているので確認したい。     と く に 道 宗 時 に は 三 十 余 行・ 行 数 十 字 に 及 ぶ 大 碑 が つ く ら れ た が、つづく通利(理)大師が刻した石経は横長の小碑であった。 林 元 白「房 山 遼 刻 石 経 概 観(下) 」( 『現 代 仏 学』 一 九 六 一 ― 三) に 掲 げ る 挿 図 を み る と、 『大 方 等 陀 羅 尼 経』 巻 一 は 一 行 十 七 字、 印刷本ならば紙縫にあたる部分、石経では首行に「大方等陀羅尼 一   十   覆」の文字が見える。経題につづく「一」は巻数、 「十」 は 張 数、 「覆」 は 千 文 字 帙 号 で あ っ て、 印 刷 本 の 形 を そ の ま ま 刻 し た の で あ ろ う(拓 片 三) 。 ま た 天 祚 帝 保 大 元 年(一 一 二 一) 刻 『清 浄 観 世 音 菩 薩 普 賢 陀 羅 尼 経』 も ま た 一 行 十 七 字 で あ り、 経 の 尾題下に「羊」の帙号が刻されている(拓片四) 。以上、 『校正別 録』の記録と房山石経の形状からみれば、契丹蔵が毎行十七字詰 であったことが明らかであ 12 る 。   さ ら に 竺 沙 は、 「契 丹 蔵 の 刊 行 を 始 め た 興 宗 時 代 の 重 煕 十 一 年(一 〇四二)から二十四年間に刻した『大宝積経』に、すでに『随函録』 と同じ帙号が付されている。すなわち、石経に帙号を附けることが契 丹蔵の刊行とほぼ同じ時期に始まっていることが分かり、印経と石経 との関係づけた妻木説の正しさが立証され 13 る 」と結論づけている。   『契 丹 大 蔵 経』 の 様 相 を 確 認 で き る も の と し て、 五 代 石 普 の 河 洪 撰 『新 集 蔵 経 音 義 随 函 録』 (以 下『随 函 録』 ) が あ る。 こ の 事 実 を 指 摘 し たのが妻木直良である。さらに妻木の論考を確認すると、妻木は『契 丹大蔵経』はすべて五百七十九帙があり、編号については、麗本と宗 本 と『開 元 釈 経 録 略 出』 の 千 文 字 帙 号 と は 合 わ ず、 『随 函 録』 の み が 一致していることを明らかにし 14 た 。   先 行 研 究 の 説 を 総 合 す る と、 『契 丹 大 蔵 経』 の 雕 造 開 始 を 重 煕 一 一 年(一〇四二)とし、咸雍四年(一〇六八)には五七九 15 帙 が雕印され

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たとされる。その後も敇旨によって加増分が雕造され、遼の末まで継 続したとされる。その雕造している最中、道宗の治世である清寧九年 (一〇六三) 、すなわち高麗文宗一七年に、高麗へ『契丹大蔵経』が輸 出されたとする。したがって『契丹大蔵経』の事業が完遂したのは咸 雍八年(一〇七二) 、高麗では文宗二六年の時代とす 16 る 。   こ れ ら の 情 報 は 以 降 の 考 察 で も、 『釈 論』 が 国 家 間 で 輸 出 入 さ れ た 経緯を勘案する上で押さえるべき点である。次項では通理大師と『釈 論』の関係を中心に見ていこう。 三―二    通理大師と『釈摩訶衍論』  ―「石経塔記」と「□□上人墳塔記」の記述―   先に通理大師の刻経事業について「石経塔記」の記事を中心に確認 していく。理解考究のため当該箇所を以下に抜き出すと(傍注並びに 表記は筆者が付したもの) 、『釈摩訶衍論』という名は以下の順番に示 されている。   ●  大 丈 夫 論 二 巻・ 入 大 乗 論 二 巻・ 大 乗 掌 珍 論 二 巻・ 大 乗 五 蘊 論 一 巻・ 大 乗 広 五 蘊 論 一 巻・ 大 乗 起 信 論 一 巻・ 宝 行 王 正 論 一 巻   命 (一帙)   ●摩訶衍論十巻   寧(一帙)   ●大乗本生心地観経八巻   壁(一帙)   ●大乗理趣六波羅蜜経十巻   杜(一帙)   次に、 ① 千文字である帙名の「命」 ・「寧」 ・「壁」 ・「杜」という順は 何を意味しているのか、 ② 『起信論』が一巻と表記されているのはな ぜか、 ③ 『釈論』がどのような経緯で刻経されるようになったのか、 という以上の三点について順に考察してみたい。なお、ここでは『随 函録』を比較資料として用い 17 る 。   ① は、 ま ず『随 函 録』 の 帙 に 対 す る 典 籍 の 所 属 を 確 認 す る と、 「大 乗経」 ・「大乗論」 ・「小乗経」 ・「小乗律」 ・「小乗論」 ・「賢聖集」 ・「追加 分」 と い う グ ル ー プ に よ っ て 構 成 さ れ て い る と 分 か る。 「石 経 塔 記」 と比較してみると、 『釈論』の「寧」 、『大乗本生心地観経』の「壁」 、 『大 乗 理 趣 六 波 羅 蜜 経』 の「杜」 の 三 種 は「追 加 分」 に 所 属 し て い る ことにな 18 る 。   次 に ② は、 『随 函 録』 と「石 経 塔 記」 の「命」 の 内 容 を 比 較 す る と 大よそ合致してい 19 る 。しかし『随函録』には続きの文字として「臨」 と「深」と「履」等の帙が続く。ここに挙げた前の二帙は大乗論書、 後の一帙は小乗教を入蔵している。参考までに筆者が整理した内容を 記載することにした 20 い 。    臨   大乗起信論等十一巻同帙       大乗起信論二巻、三無性品二巻、発菩提心経論二巻、無相論

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二巻、観所縁論釈一巻、方便心論一巻、如実論一巻    深   廻諍論等十六論十六巻一帙       廻諍論一巻、大乗法界無差別論一巻、提婆菩薩破楞伽経中外 道小乗四宗論一巻、提婆菩薩檡楞伽経中外者小乗涅槃論巻、 縁 生 論 一 巻、 百 字 論 一 巻、 十 二 因 縁 論 一 巻、 壱 輸 盧 迦 論 一 巻、 大 乗 百 法 明 門 論 本 事 分 中 略 録 名 数 一 巻、 観 総 相 論 頌 一 巻、止観門論頌一巻、手杖論一巻、設論一巻、六門教授習定 論一巻、解裷論一巻、掌中論一巻    小乗経二百四十部六百十八巻四十八帙    小乗経音義第四之一    履    長阿含経一部二十一巻、第一帙十一巻、第一巻、第二巻、第 三巻、第四巻、   以 上 を 見 る 限 り、 『随 函 録』 に 基 づ け ば「命」 か ら「寧」 の 間 に は、 「小 乗 経」 ・「小 乗 律」 ・「小 乗 論」 ・「賢 聖 集」 ま で の 計 四 部 二 二 二 帙という量を割愛していることになる。すなわち「石経塔記」では、 意図的に新訳である実叉難陀訳『大乗起信論』を除いて、真諦訳『大 乗起信論』のみ刻経し、直ぐに「寧」の帙に収蔵されている『釈論』 に手を伸ばしていることになる。この処理には何かしらの意図が働い ているように見える。これは『釈論』が真諦訳『大乗起信論』の注釈 書である関係を考慮しているように思える。   そ こ で『釈 論』 と 通 理 大 師 が 如 何 に か か わ っ て い る か 見 て い き た い。これに関連する記述が、遼代の公文書簡を記録した『遼文存』の 「□ □ 上 人 墳 塔 記」 (以 下「上 人 墳 塔 記」 ) に 見 出 せ る(括 弧 は 傍 注、 傍線は筆者が付したもの) 。    □□上人墳塔記( ❶ 天慶十年 )     師諱崇昱、俗姓李氏、安次縣崇福里人也、 近齠齓有異常童□進 止施為皆出家、相始秊廿一禮當縣□□□義隆法師、為師勤奉左右 □□□□□□□□□遇恩具□大尸羅尓後□親妙理僧□□□□□□ □登渉海岳授□説金輪、於燕台永泰寺疏全臻師年二十四於本寺、 啓 唯識瑜伽論窮 、於□□□□ 始未次 迴相帰性、充楊 令公大王講 主 閣 開 華 厳 □ 経 、 月 満 三 遍 玄 談 七 十 席、 ❷ 摩 訶 衍 論・ 菩 薩 戒・ 金 剛般若等経 、聨綿不絶厯方度化、踵普賢之先、蹤遍境澇籠躡聖人 之後、跡萬類含霊一心垂濟師之願也、大安初豁然大悟曰、市朝名 利水月空花究、之非真在人成累遂罄捨衣𥁊賑貧施乏無、復遺餘遐 訪孤征首抵、 王家島先有通理策大師住止 、於此□授以達摩伝心之 要、 一 見 情 通 事 重 告、 ❸ 至 八 年 結 心 相 與 返 詣 西 峯 駐 錫、 於 石 経 山 雲居寺 與師同辦石経、復更数禩□、又遷住佛岩山丈室寂居門絶賓 友曁、天慶四年秋八月因還本刹拝先師塔、至十二月十一日夜、誨 門人曰、日中有昃月満有虧物盛有衰人生有蔵□□□省□易吾言時 在寅初□常睡眠 恬 、然而逝数齢七十、有六僧夏六十至十三日、荼

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毗於寺西北隅、是時日慘天昏道俗号慟、焚無異氣舌不変灰、至九 年二月建石塔、於先師塋穴之乾位祥 訁 等念師解行之絶倫性相之該 博 誘 物 之 夤 縁 講 傳 之 独 歩 恐 陵 移 海 変 □ □ 嘉 声 謹 募 殊 工 刻 石 成 記 (拓本   碑在東 21 安 )   この記事は「通理大師」ではなく「通理策大師」とある。塚本善隆 は「通理策師が所謂「通理大師」であることは疑いない。通理大師は 石経山に来る前は、王家島(宛平?   中国今地名大辞典参照)に住し た禅の達人であったことが知られ 22 る 」と指摘しているが、説明が簡略 であるので補足を試みたいと思う。   そこで ❶ ~ ❸ の番号を付した順に考えてみることにしたい。   まず ❶ の天慶十年は、西暦一一二〇年であるから、道宗の次代、天 祚帝(一一〇一―一一二五)の治世を示している。 ❷ は、重煕二四年 (一 〇 五 五) か ら 翌 年 の 清 寧 二 年(一 〇 五 六) の 間、 通 理 策 大 師 が 『摩 訶 衍 論』 、『菩 薩 戒』 、『金 剛 般 若』 等 の 典 籍 を 講 讃 し た と す る 記 録 が 確 認 で き る。 前 の 行 に 目 を 転 じ れ ば、 『瑜 伽』 、『唯 識』 、『華 厳 経』 も研究し王侯貴族のために講義をしていたとする。   最後に ❸ は、通理策大師が大安八年(一〇九二)に房山雲居寺に入 寺 し た こ と を 記 し て い る。 「石 経 塔 記」 に は 大 安 九 年 に 寺 を 開 放 し 受 戒会を執行しているので、時期的にも違和感はないであろう。彼は七 十六歳で入寂していることからすると、彼が入寺したのは、五十四歳 前後ということになる。   以 上 の こ と か ら、 「石 経 塔 記」 の 記 録 と 合 致 し て お り、 「上 人 墳 塔 記」は通理大師の事績を述べていることは明らかである。何よりも通 理大師が道宗治世以前より『釈論』の存在を周知していたことを知り 得 る 重 要 な 記 述 と い え よ う。 『釈 論』 が 当 時 か な り 知 名 度 の あ る 典 籍 であったことを傍証している。   以 上 を 踏 ま え て、 ま ず ② に 対 す る 見 解 を 述 べ る と、 『釈 論』 が 真 諦 訳の『起信論』の注釈書であることから、旧訳を採用し新訳である実 叉難陀訳を割愛したことになるだろう。そして ③ については、通理大 師が皇帝の命により『釈論』を研究し講義していたことが背景にあっ たと想定できる。   では次にここで得られた見解を踏まえて、道宗と『釈論』の関係を 紐解き、中国国内に『釈論』の足跡が確実にあったことを論証してい きたい。 四、道宗と『釈摩訶衍論』の関係 四―一   『遼史』と「暘台山清水院創造蔵経記」の記述   道宗(生没一〇三二~一一〇一・在位一〇五五~一一〇一)は遼代 の第八代皇帝であり、咸雍二年(一〇六六)に国号の「大契丹」から 「大遼」と改名した人物でもある(契丹から遼への改名は二度目) 。そ の生い立ちは『遼史』巻二一に見える(関連する箇所に傍線を付す) 。

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    道宗孝文皇帝、諱洪基字涅鄰小字査刺興宗皇帝長子 。 母曰仁懿皇 后蕭氏 。六歳封梁王。     重煕十一年、進封燕国総領中丞司事。明年、総北南院樞密使事。 (中略) 二十四年八月己丑興宗崩、即皇帝位於柩前哀慟不聴 23 政 。   道宗は七代興宗の嫡子として誕生し、母は仁懿皇后という。重煕二 四 年(一 〇 五 五) に 興 宗 が 崩 御 す る に 伴 い 即 位 し、 興 宗 の 手 掛 け た 『契 丹 大 蔵 経』 事 業 を 継 承 し て い る。 そ の 詳 し い 記 事 が「暘 台 山 清 水 院創造蔵経記」 (以下「造蔵経記」 )に確認できる(関連する箇所に傍 線を付 24 す )。    暘台山清水院創造蔵経記     燕京天王寺文英大徳賜紫沙門志延撰     郷貢進士李克忠書     暘 台 山 者、 薊 壊 之 名 峰、 清 水 院 者、 幽 都 之 勝 槩、 山 之 名 伝 諸 前 古、院之興止於近代、将構勝縁、施逢信士、今優婆塞南陽鄧公従 貴、善根生得、浄行日厳、 咸雍四年三月 捨銭三十万、葺諸僧舍、 又五十万募同志、 印大蔵経凡五百七十九帙、創内外蔵而龕措之 、 蔵事既周、求為記、聊叙勝因、俾信来裔     咸雍四年歳次戌申三月癸酉朔四日丙子記     燕京右街検校太保大卿沙門覚苑        通天門外共御石匠曹辯 25 鐫   選者は沙門志延といい、文末には覚苑の名が確認でき、この二人は 大蔵経雕造事業に直接かかわった人物であると判断でき 26 る 。特に覚苑 は『大日経』の末釈を撰述した人物でもある。   当の『契丹大蔵経』については、咸雍四年(一〇六八)三月現在で 「五百七十九帙」が雕造されたと記録されている。 『契丹大蔵経』の数 が 五 七 九 帙 あ る と い う こ と は、 一 〇 六 八 年 時 点 で、 『釈 論』 が 入 蔵 さ れたていたことを傍証していることになるだろう。   では次に遼代における『釈論』の受容された形跡を確認していくこ とにしたい。 四―二   遼代の『釈摩訶衍論』の受容   ―末釈と関連典籍の成立年代―   道 宗 に 関 連 す る『釈 論』 の 末 釈、 な ら び に『大 日 経 義 釈 演 密 鈔』 、 『顕 密 円 通 成 仏 心 要 集』 の 記 事 を 確 認 し て い こ う。 ま ず『釈 論』 の 末 釈 に は 六 種 類 あ ま り が あ る。 そ の 中 で 道 宗 と 関 連 す る も の は 三 種 (㈢・ ㈣・ ㈥) で あ る。 こ こ で は 理 解 考 究 の た め 六 種 す べ て 列 記 す る ことにしたい。   ㈠『釈摩訶衍論記』  唐聖法 27 撰   ㈡『釈摩訶衍論疏』三巻  唐法敏 28 撰

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  ㈢『釈摩訶衍論賛玄疏』五巻  宋法悟(通法大師) 29 撰      『賛玄科』三巻      『大科』一巻   ㈣『釈摩訶衍論通玄鈔』四巻  遼志福(慈行大師) 30 撰      『通玄科』三巻      『大科』一巻   ㈤『釈摩訶衍論記』六巻  宋普観(無際大師) 31 撰      『釈摩訶衍論科』巻 32 下   ㈥『釈摩訶衍論通賛疏』十巻  宋守瑧 33 撰      『通賛科』三巻      『大科』一巻   ここでは道宗と関係する㈢・㈣・㈥の記事を見ていこう(関連する 箇 所 に 傍 線 を 付 す) 。 こ の 三 種 の 注 釈 書 は、 す で に 道 宗 時 代 に 撰 述 さ れ た も の で あ る こ と が 指 摘 さ れ て い 34 る 。 ㈢ の 法 悟『釈 摩 訶 衍 論 賛 玄 疏』には以下の記事が確認できる。     摩訶衍論是則本論通前総有三譯、 然斯釈論、肇従秦代、迄至皇朝 僅七百年間、未曽流布遘一千運内、方遂伝通 、我聖文神武全功大 略 聦 仁 睿 孝 天 佑 皇 帝 、 位 纂 四 輪、 道 逾 三 古 、(中 略) 至 於 禅 戒 両 行・性相二宗、恒切熏修、無輟披翫、三宝荷住持之力、万邦飲清 浄 之 風、 功 徳 無 辺、 称 揚 不 尽、 粵 若 清 寧 紀 號 之 八 載 、(中 略) 皇 上萬樞多暇、五教皆弘、乃下温綸、 普搜墜典、獲斯宝冊、編入華 龕 、 自 茲 以 來、 流 通 寖 廣、 此 論 也、 総 十 軸 之 妙 釈、 窮 五 分 之 微 詮、百億契経説示、尽皆符会、一代時教包羅、無所闕 35 遺 、   まず引用文の検討に入る前に同疏の序文には道宗時代の家臣の名が 確認できる。それには「佰伍拾 戶 臣耶律孝傑奉勑撰   臣聞覚皇之立教 也 云 36 々 」 と あ り、 「耶 律 孝 傑」 と い う 人 物 が 君 主(皇 帝) の 徳 を 讃 歎 している内容とわかる。この人物は『遼史』巻二四の道宗の事績に確 認 で き る。 「五 年 春 正 月 壬 申、 如 混 同 江、 癸 酉 賜 宰 相 耶 律 孝 傑 名 仁 傑・ ・ 37 ・ 」 と あ り、 『続 資 治 通 鑑』 巻 七 四 に は「元 豊 二 年(遼 太 平 五 年)春正月壬申。遼主如混同江、耶律伊遜、 (旧作乙辛今改) 、薦耶律 孝傑云 38 々 」と記録されている。   前 者 は 太 康 五 年(一 〇 七 九) 、 後 者 は 元 豊 二 年(一 〇 七 九) と い う 同 時 代 を 指 す。 と も に 道 宗 在 位 の 年 代 で あ り、 天 佑 皇 帝 は 道 宗 を 指 し、同国の宰相を務める耶律孝傑が序において君主の偉業を述べたも のであることは明らかであ 39 る 。   それでは『釈論』がどのように道宗に見出されたのかを引用文を見 ていく。それには『釈論』が秦代までさかのぼる約七百年間の長きに わたる期間、だれの目にとまることなく、道宗皇帝の時に発見された とする。後半の説に目を向けると、清寧八年(一〇六二)に道宗が普

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く 散 逸 し て い る 典 籍 を 捜 索 し た 時、 得 ら れ た と す る。 さ ら に、 「獲 斯 宝冊、編入華龕」とあるように『釈論』を『契丹大蔵経』に入蔵した ことが理解できる。   これらの記事が示唆するのは、道宗自身が『釈論』をインド成立の 典籍として見ており、大乗の精髄を究めていると理解していることに ある。この他にも道宗が自ら『釈論』を研究していたと見做し得る記 述がある。     賜号曰、 賛玄疏皇上聴政之餘省方之際 、歴刊詳而在手咸印證、以 経心于此論中 先立御 40 解 。   法 悟 は 道 宗 が『釈 論』 研 究 を し て い る こ と を、 「御 解」 と い う 語 に よ っ て 表 現 し て い る。 こ れ に 前 述 し た、 「□ □ 上 人 墳 塔 記」 に あ る 道 宗が『釈論』を重要視し講義を要請している点を加味すれば、道宗が 国 家 を あ げ て、 『釈 論』 研 究 を 盛 ん に さ せ た と 評 価 し て も 大 過 な い で あろう。以上のことからも『釈摩訶衍論賛玄疏』の成立は、一〇七九 年前後に成立したということなるだろう。   ㈣ の 志 福 の『釈 摩 訶 衍 論 通 玄 鈔』 に は 道 宗 自 身 の 序 文 が あ り、 『釈 論』の作者と『起信論』作者である馬鳴について以下のように説いて いる。     朕 聞、 如 来 啓 運 具 四 智、 以 流 徽 聖 教、 談 微 応 三 乗、 而 導 物 自 結 集、 以 後 逮 伝 布 以 還 不 有 聖 賢 疇 能 啓 迪、 故 馬 鳴 大 士 即 其 人 也、 (中略) 著一百部論釈、百億契経或華文以立名 、(中略)次有菩薩 号曰龍樹、 思報師恩広宣論意造釈論十 41 巻 、   道宗が世に流布する聖教を結集した馬鳴の徳を讃えている。続きを 見ると作者である志福が『起信論』の作者である馬鳴によって膨大な 数の論釈を著したという『釈論』の説を踏まえて、その恩に報いるた めに著されたのが一〇巻本の『釈論』だと紹介している。   次 に 彼 の 肩 書 を 見 る と、 「大 遼 医 巫 閭 山 崇 禄 大 夫 守 司 徒 通 圓 慈 行 大 師 賜 紫 沙 門 志 福 42 撰 」 と あ り、 大 遼 の 名 を 確 認 で き る。 『遼 史』 巻 二 二 には咸雍五年(一〇六九)に「僧志福加守司 43 徒 」とあり同鈔の記事と 一致している。したがって『釈摩訶衍論通玄鈔』は一〇六九年以降の 成立になるだろう。   ㈥の守瑧の『釈摩訶衍論通賛疏』は、これまで義天の『新編諸宗教 蔵総録』にのみ名前が確認できるとされ、実物は確認できない状態で あ っ た(日 本 に は 請 来 さ れ て い な い) 。 し か し 竺 沙 雅 章 が『契 丹 大 蔵 経』 の 雕 造 年 代 を 考 察 し た 際、 新 出 の 資 料 と し て『釈 摩 訶 衍 論 通 賛 疏』と『釈摩訶衍論通賛疏科』を紹介している。今、竺沙の解説と当 文献の巻下と刊記を転載する(写真は『文物』からのものを使用) 。

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    要するに聖宗時雕印の確かな証拠はまだ見出せない。むしろ新発 見 の 経 巻 の な か で、 雕 印 に つ い て も っ と も 確 実 な 史 料 は、 『釈 摩 訶衍論通賛疏』巻第十と『同科』巻下との刊記である。     咸雍七年十月   日燕京弘法寺奉     宣校勘雕印流通          殿主講経覚慧大徳 臣 沙門 行安 勾当       都勾当講経詮法大 徳臣 沙門 方 矩校勘      右街天王寺講経論文英大徳賜紫 臣 沙門志延校勘     印経院判官朝散郎守太子中舍驍騎慰緋魚袋臣諱資睦提點  (『館刊』五封面、 『文物』一九八二―六図五)     この刊記はさまざまな事実を物語る重要な資料である。先ず『釈 摩訶衍論通賛疏』は道宗朝の学僧守臻の撰述で十巻、加えて『通 賛科』三巻『大科』一巻あったことが高麗義天『新編諸宗教蔵総 録』にみえるが、ともに佚して伝わらなかったものである。今回 発見されたのはその巻十と『科』巻下であり、前者は毎紙二十八 行 行 十 二 か ら 二 十 三 字、 第 十 四 紙 背 に「宣 賜 燕 京」 朱 印 が 捺 さ れ、ともに大宗から興宗の諱字が欠筆されているとい 44 う 。   竺沙説では『釈摩訶衍論通賛疏』と『釈摩訶衍論通賛疏科』の刊記 に は 咸 雍 七 年(一 〇 七 一) 十 月 に 志 延 と い う 僧 が 校 勘 し た と す る 記 述、そして後者には太宗と興宗の諱字の欠筆があることに注目してい る。   志 延 と い う 人 物 は、 先 に 述 べ た「造 蔵 経 記」 に 登 場 す る 人 物 で あ り、覚苑とも同年代の僧ということなる。当の『釈摩訶衍論通賛疏』 を著した守瑧は咸雍七年(一〇七一)十月以前に撰述していることが 確認できる。法悟、志福、守瑧はかなり近い時期に『釈論』の末釈を 撰述していることになり、且つ道宗の同論に対する特有の理解があっ たことは明らかとなった。   次に関連する典籍を見ていくことにしたい。それは覚苑の『大日経 義釈演密鈔』である。この典籍はそもそも一行(六八三~七二七)禅 師の『大日経義 45 釈 』の注釈書という性格を有する密教典籍である。こ

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の成立は序文において確認でき、太康三年(一〇七 46 七 )に完成したと 記録されている。   今、その一連の経緯が確認できる箇所を見ていきたい。     勒成十四卷、目之曰義釈 、未及宣演玄宗幸蜀、禅師沒化、斯文尋 墜、 洎我大遼興宗御宇、志弘蔵教、欲及邇遐、勑盡雕 鎪 、須人詳 勘、覚苑持承綸旨、忝預校場、因採群詮、訪獲斯本、今上継統、 清 寧 五 年、 勅 鏤 板 流 行 、 上 来 六 段 不 同、 総 是 第 一 文、 前 聊 揀 已 47 竟 。   興宗が『契丹大蔵経』を雕造する意思を固め、広く典籍蒐集を行っ た際、一行禅師の『大日経義釈』一四巻を見出し、大蔵経に入蔵する ことを決めた。その際、覚苑は当典籍の注釈書を著す必要性を感じた と い う も の で あ る。 『大 日 経 義 釈』 が 雕 造 さ れ た 時 期 は 道 宗 の 治 世、 清寧五年(一〇五九)であったとする。遼代という時代は、密教典籍 理 解 に 対 し て 蒐 集 活 動 や 注 釈 事 業 が 盛 ん で あ っ た こ と を 示 唆 し て い る。   一 方 で、 『釈 論』 と の 関 連 を 考 え る と、 覚 苑 は『大 日 経 義 釈』 を 注 解 す る 際、 『釈 論』 の 思 想 を 取 り 入 れ て い る。 そ れ は「別 初 総 者 釈 論 解 云 謂 一 48 切 」 と い う 記 事 か ら 読 み 取 れ る。 何 故、 密 教 典 籍 の 理 解 に 『釈論』の説を採用するのであろうか。   上記の「釈論解云」については後述するが、そもそも引用している 内容自体に特徴がある。それは『釈論』が『起信論』所説「摩訶衍者 総説有二種」云云を「摩訶衍とは総」と読み「総」の語に大乗の義を 総摂しているとする理解を主張したものなのである。このような読み は『釈論』以外の『起信論』注釈書には認められない。   さらに、上記の「別初総者釈論解云謂一切」の記事そのものが、志 福の『釈摩訶衍論通玄鈔』とほぼ全同であることも注目すべき点であ り、覚苑が志福( 『釈摩訶衍論通玄鈔』 )の著作を参照しているという 証拠になるだろう。   で は「釈 論 解 云」 と は 何 か が 問 題 と な る。 こ れ は 文 字 通 り、 「『釈 論』について何かしらの理解を持っている」という意味だと捉えられ る。筆者は、道宗と『釈論』に深い関係があったことによる 49 説 だと推 考する。以下にその点を論証していくことにしたい。覚苑の『釈論』 理解に関連性を指摘できる記事が、覚苑による道宗の徳を讃える説に 見出せるので確認したい。     我 天 佑 皇 帝 睿 文 冠 古 、 英 武 超 今、 十 善 治 民、 五 常 訓 物、 博 綜 儒 経、有詩賦碑記之製、 (中略) 尤精釈典、有讃序疏章之作   云 50 云   覚苑は、道宗が博識であり多くの典籍を研究し、その注釈関連の著 作、 す な わ ち 賛 や 序、 疏 を 製 作 し た と す る 業 績 を 紹 介 し て い る。 『釈

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論』の末釈が製作された背景、そして法悟が『釈摩訶衍論賛玄疏』に おいて「御解」と説いたことを振り返ると、道宗の意向を受けたこと により撰述されていたのは明らかである。   そ し て 道 宗 が 通 利 大 師 に 対 し、 『釈 論』 を 含 む 幾 つ か の 典 籍 の 講 義 を所望している記事も見逃せない。これに前述した「造蔵経記」に覚 苑が『契丹大蔵経』事業に参画していた事、そして道宗が『釈論』を 特別視していた事を総合的に評価すれば、覚苑が『大日経』という密 教 の 典 籍 理 解 に、 『釈 論』 の 説 示 を 用 い て い る の は、 道 宗 の 影 響 が あったと見做しても無理ではないと考える。   そのように見ると、当初述べたように道宗が『釈論』に対する理解 を何らかの書物に書き留めていたとしても、何ら不思議ではないとい えよう。   最 後 に 道 の『顕 密 円 通 成 仏 心 要 集』 を 見 て い こ う。 『顕 密 円 通 成 仏心要集』の成立については、覚苑の『大日経義釈演密鈔』を取り上 げる箇所が確認できるので、覚苑の著作以降の成立であると考えられ る。それは以下のような記述に基づく。     密 教 心 要 者。 謂 神 変 疏 鈔 。 曼 荼 羅 疏 鈔。 皆 判 陀 羅 尼 教。 是 密 円 51 也 。   道 は、密教の心要とは何かを述べる際、その教証として「謂神変 疏 鈔」 と い う 文 献 を あ げ て い る。 こ の「神 変 疏 鈔」 の 名 は、 『大 日 経』の具名である『大毘盧遮那成仏神変加持経』の「神変」を意識し た も の で あ り、 「疏」 は『大 日 経 義 釈』 を 示 唆 し た も の と 考 え ら れ る。すなわち「神変疏鈔」とは、 『大日経』注釈書の末釈の名前、 『大 日経義釈演密鈔』を意図した典籍であるのは明らかであろう。   そ の 証 拠 に、 「神 変 疏 鈔」 の 説 と し て 引 用 さ れ る 箇 所 を『大 日 経 義 釈演密鈔』の説と比較すると合致す 52 る 。このことからも本書の成立は 覚苑の『大日経義釈演密鈔』が出来た太康三年(一〇七七)以降であ ることはおおよそ判明する。   では道 は一体何者なのか。多田孝正の指摘を紹介することで理解 の一助としたい。多田説では、道 が覚苑や『釈論』の末釈家と同等 の待遇を王室から受けたとは考えがたいとしながらも、歴代皇帝の行 在所の寺院に常在し、且つ漢人であったことからある程度の知名度の ある僧であると結論づけてい 53 る 。   次 に、 本 書 に お け る『釈 論』 の 影 響 を 幾 つ か 呈 示 し た い。 『顕 密 円 通 成 仏 心 要 集』 で は 准 提 陀 羅 尼 を 密 教 と 規 定 す る 説 54 に 、『釈 論』 の 特 有の思想である不二摩訶衍法を教証としている。さらに『釈論』の不 二摩訶衍法についても以下のような説を示していく。     又問曰夫真言者但是能詮言教即以声名句文為体。何得判為円円果 海。答云若作此問。

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    蓋 是 未 知 密 教 宗 旨。 (中 略) 況 密 宗 神 呪。 當 顕 円 中 一 真 法 界 耶。 又 釈 摩 訶 衍 論。 (中 略) 又 甚 深 玄 理 論。 不 動 本 源 論。 此 二 論 中 広 略解説不二果海 。当彼二論中能詮之言以何為体。以理推徵。即知 以不二果海為体。彼能詮言当尓。 即是不二果海。況今六字大明准 提神 55 呪 。   『釈 論』 の 不 二 摩 訶 衍 法 を 陀 羅 尼 で あ る と 理 解 し て い る の で あ る。 そして同法を説くとされる『釈論』所説の『不動本源論』と『甚深玄 理論』の二論を能詮の立場と 56 し 、六字大明(准提陀羅尼)=不二摩訶 衍法を所詮の立場として理解している。これは真言密教で主張する不 二摩訶衍法を密教とする立場と同じ、かつ自性法身とし真理の立場と する理解と近接してい 57 る 。もう一点見ていくことにしたい。     三者密宗神呪即體便是円円果海。故佛不得。 如釈大乗論説。円円 海仏亦不得 。 今六字大明准提神呪即体便是円円果海 58 也 。   これは『釈論』の修行階梯として知られる「三十三法門」が背景に ある。不二摩訶衍法を「性徳円満海」で果位、三十二法門を「修行種 因海」で因位とする理解を踏襲して、前者の立場を密教であり、六字 大明准提陀羅尼と当てはめている。したがって顕教の立場は三十二法 門 で あ る と 見 做 し て い る こ と に な る。 こ の よ う に 道 が、 『釈 論』 を 顕密優位論を展開する典籍と理解しているのは明らかである。   遼代における『釈論』の末釈、そして密教の典籍には『釈論』の思 想が強く影響をあたえていることを確認できた。繰り返しになるが道 宗という為政者の庇護を受けて受容されたことは、中国圏内で同論が 流行していたことを傍証していると見ても大過ないであろう。   以上、取り上げた典籍以外にも、唐代において早い時期に『釈論』 が依用された事例は存在する。澄観(七三八~八三九)の高弟の一人 である圭峯宗密(七八〇~八四一)の『円覚経大疏釈義 59 鈔 』や『円覚 経略疏 60 鈔 』や『華厳経行願品 61 疏 』において引用されてい 62 る 。これまで の検討で得られた知見と関連事項を年代順に列挙することにしたい。 ○『釈論』に関わる典籍の成立年代   ・  『釈論』の成立年代は七世紀後半から八世紀前半   ・  宗密(七八〇~八四一)の『円覚経大疏釈義 63 鈔 』や『円覚経略疏 64 鈔 』や『華厳経行願品 65 疏 』に引用されている。   ・  聖法の『釈摩訶衍論記』は八世紀前半から九世紀前半の唐代で成 立している。   ・  法敏の『釈摩訶衍論疏』は少なくとも九世紀前半に唐代で成立し ている。   ・  空海(七七四~八三五)の『弁顕密二教 66 論 』(弘仁六(八一二) ) に『釈論』が引用されてい 67 る 。

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  ・  永明延寿(九〇四~九七五)の『宗鏡録』は九六一年に撰述され ている。   ・  通利大師は一〇五五年以降『釈論』の講義をしている。   ・  道宗(一〇五五~一一〇一)には『釈論』に造詣が深く著作があ る。   ・  道宗は一〇六二年に『釈論』を『契丹大蔵経』に入蔵している。   ・  志福の『釈摩訶衍論通玄鈔』は一〇六九年以降に成立している。   ・  守瑧の『釈摩訶衍論通賛疏』は一〇七一年以前に成立している。   ・  覚苑の『大日経義釈演密鈔』は一〇七七年に成立している。   ・  道 の『顕 密 円 通 成 仏 心 要 集』 は 一 〇 七 七 年 以 降 に 成 立 し て い る。   ・  法悟の『釈摩訶衍論賛玄疏』は一〇七九年前後に成立している。 ○その他の『釈論』を記録する文献や記録   ・  『契 丹 大 蔵 経』 は 一 〇 四 二 年 ~ 一 〇 六 八 年 の 間 に 五 七 九 帙 を 雕 印 している。   ・  「石経塔記」は一一一八年に完成し、 『釈論』の名を確認できる。   ・  「□□上人墳塔記」は一一二〇年に完成し、 『釈論』の名を確認で きる。   ・  「造蔵塔記」は一〇六八年に完成し、 『契丹大蔵経』の記事が確認 できる。 ○他国との関係   ―大蔵経関 68 連 ―   ・  高麗に『契丹大蔵経』が一〇六三年に輸入される。   ・  高麗は初雕本(第一次大蔵経)を一〇八七年に完成(モンゴル軍 の侵略によってすべて焼失してい 69 る )。   ・  義天は『新編諸宗教蔵総録』を一〇九〇年に著している。   ・  義天は「高麗教蔵都監」を一〇九一年に設置している。   ・  高麗は再雕本(第二次大蔵経)を一二五一年に完 70 成 。   明らかに『釈論』に関連する典籍の大半が、中国圏内において集中 しているのが確認できる。時期としてはおよそ八世紀~十一世紀にか けて広範囲に及んでおり、長期的に中国国内で『釈論』が受用されて いることになる。そして、後代において朝鮮半島へ『契丹大蔵経』が 輸出され、義天の『新編諸宗教蔵総録』に『釈論』の名が記載される ことになる。   以上を踏まえて、朝鮮半島にどのような経緯で『釈論』が輸入され た の か を 義 天 に 関 す る 事 績 と 周 辺 事 情 か ら 検 討 を 加 え る こ と に し た い。 五、  義天と『釈摩訶衍論』の関係  ―現行『高麗大蔵経』を中心に―

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  筆者は前述のように『釈論』の序が中国成立である根拠の一つとし て則天文字使用の形跡と武則天(六二四~七〇五(在位六九〇~七〇 五) ) が 執 筆 し た「昇 仙 太 子 碑」 と 実 叉 難 陀 訳『八 十 華 厳 経』 の 序 を 依用していることを論じた。つまり『釈論』の序に使用されている則 天文字や説かれる弥勒信仰、そして本文に説かれる道教思想と密教を 融合させた行法の指南、則天文字の派生と考えられる特殊文字を使用 し て い る な ど か ら、 『釈 論』 作 者 は 武 則 天 の 政 治 情 勢 を よ く 把 握 し た 人物であると指摘した。   房 山 石 経 の『釈 論』 の 拓 本 を 見 る と、 則 天 文 字 の「 」 で は な く 「天」 と 表 記 さ れ て い る こ と に 気 づ 71 く 。 こ れ は 底 本 と な っ て い た『契 丹大蔵経』に入蔵された『釈論』が則天文字から新字体に置換後の典 籍であった可能性が高いと考えられる。   契丹は唐代以降の王朝であるから、則天文字が使用されていない文 献( 『釈論』の底本)を参照して、 『契丹大蔵経』に入蔵していると推 定できる。この『契丹大蔵経』が一〇六三年に高麗に輸入され、紆余 曲 折 を 経 て、 義 天 が 一 〇 九 一 年 に 中 国 か ら 帰 国 し た 後、 「教 蔵 都 監」 を設置し、 『高麗大蔵経』 (第二次開版の再雕本)を開版していること を 勘 案 す れ ば、 『契 丹 大 蔵 経』 開 版 以 前 に 則 天 文 字 使 用 の『釈 論』 が 高麗に輸入された可能性は低いように思われる。   則天文字から新字体に置換後の『釈論』の高麗時代の収載されてい る文献を調べると、現行(第二次大蔵経)の『高麗大蔵経』に雕造さ れてい 72 る 。これは繰り返しになるが、義天が高麗に帰国し「高麗教蔵 都監」を一〇九一年に設置したことによって、長い年月を経て完成し た義天版『高麗大蔵経』のことをいう。他に別名として「麗本」と称 する。日本では『大正新脩大蔵経』を製作する際、底本の一つとなっ て い る(後 述 す る が、 『釈 論』 が 入 蔵 さ れ る 際 も 底 本 と し て 取 り 扱 わ れている) 。   義天版『高麗大蔵経』に雕造された巻数ごとの記録(年代)をまと めると以下のようにな 73 る 。    巻一   丙午高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻二   丁未高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻三   丁未高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻四   丙午高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻五   丙午高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻六   丁未高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻七   丁未高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻八   丙午高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻九   丙午高麗国大蔵都監奉勅雕造    巻十   丙午高麗国大蔵都監奉勅雕造   歴史上では「教蔵都監」が設置されたのは、義天が父文宗の創建し

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た興王寺であり、その時代は宣宗八年(一〇九一)とされている。そ こでは四〇〇〇巻余りの章疏類の開版がなされた。これが先述した現 行の『高麗大蔵経』の底本(一般には「義天版」と称するもの)であ る。   この大蔵経は高麗・契丹・宋・日本の諸本を校合したものであると 知 ら れ て い 74 る 。 つ ま り 義 天 が『新 編 諸 宗 教 蔵 総 録』 、 通 称「義 天 録」 を 編 纂 し た 一 〇 九 〇 年 の 翌 年 の 事 で あ り、 「義 天 録」 が 高 麗(朝 鮮 半 島)の文献に『釈論』の名が確認できる最初の文献である。   改めて、取り上げた年代にあたる「丙午」や「丁未」と表記される 干 支 に 注 目 す る と、 「丙 午」 や「丁 未」 は 西 暦 に 換 算 す る と 一 一 二 六 年と一一二七年である。つまり義天の入寂(一一〇一)した後に雕造 されたことを物語っている。   もし義天が日本請来版のように則天文字採用の『釈論』を早い段階 (中 国 留 学 以 前) で 入 手 し て い た と す れ ば、 後 代 で あ る が 同 じ 大 蔵 経 と い う 性 格 を 持 つ、 複 数 の 版 を 用 い て 校 合 し て い る『大 正 新 脩 大 蔵 経』には、 「天册= 回 石 高 (石山寺本と高野本のこと) 」といったよ うな注記は存在してもおかしくないが確認できない。   さ ら に、 「義 天 版」 が 日 本 の 本(恐 ら く 則 天 文 字 が 使 用 さ れ た 平 安 時代の写本ではないか)を校合本の一つとして用いているにも関わら ず、当用漢字を用いているのは、中国より請来している契丹版等には そのような文字が確認できないため採用しなかったと推察される。つ まり義天が早い段階で日本版のような則天文字使用の本を入手してい る可能性は低いように思える。   一方で、 『大正新脩大蔵経』製作の際、 『釈論』の底本と校合本に用 い ら れ た 本 の 種 類 を 調 べ る と、 麗 本 を 底 本 と し て、 高 野 本・ 石 山 寺 本・万徳寺本・宮内省本を校合本としている。問題となる則天文字使 用の有無の欄には『高麗大蔵経』の表記はない。   そのことは、高麗版には当初より則天文字の記述の無い底本を参照 したことを示唆しているのではないか。やはり義天が中国から膨大な 典籍を蒐集する以前、いまだ高麗(朝鮮半島)には『釈論』の存在が 知られていないか、もしくは伝聞のみで実物を手にする環境になかっ たのではないかと推察できる。   これまでの『釈論』朝鮮半島成立説は、同半島成立の典籍を同論造 論 の 際 に 依 用 し て い た こ と が 根 拠 と さ れ て き 75 た 。『釈 論』 が 元 暁 の 『金 剛 三 昧 経 76 論 』 を 依 用 し て い る と す る 指 摘 で あ る。 し か し『釈 論』 が 影 響 を 強 く 受 け て い る 法 蔵(六 四 三 ~ 七 一 二) の 著 作( 『華 厳 経 探 玄記』 )にも元暁の思想が見出せることがすでに報告されている。   他にも、元暁の著作が李通玄(六三五~七三〇・六四六~七四〇) や 澄 観(七 三 八 ~ 八 三 九) と い っ た 論 師 に も 依 用 さ れ て お 77 り 、『釈 論』作者とされる龍樹も、元暁の著作や思想を摂取することは、たと え国外であったとしても不可能な環境ではないということになる。   義天の大蔵経開版事業に注目すると、彼は中国に正式に入国するだ

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けでなく密入国をしてまで典籍を蒐集することに情熱を傾けている。 日本にまで典籍蒐集を精力的に展開している。そのように見れば、典 籍交渉が国と国の国交を通さず、大きな志を持つ有志らによっても大 陸間での典籍交流が行われていたことは十分に想定できる。   も う 一 点、 『釈 論』 が な ぜ イ ン ド 成 立 文 献 と し て 取 り 扱 わ れ て き た のかも考える必要がある。そもそも『釈論』が中国や高麗(義天の理 解)でインド成立と見做されたのは、同論の記述が主張していること だけで評価されているわけではない。その点が何に基づくのかいささ か私見を述べることにしたい。   それを考えるのに有効な情報を提供していると考えられる、梁の僧 祐(四四五~五一八)が編纂した『出三蔵記集』に以下の記述が確認 できる。これは今日ほぼ完全な形として残される最古の経録であり、 仏経・訳経の起源について詳しく記しており、失訳経律・失訳雑経・ 抄経・疑経・注経などの目録についても、多くの経録の中でも依るべ き も の と さ れ て い 78 る 。 そ れ で は 関 連 す る 記 事 を 見 て い く こ と に し た い。     仏 法 有 六 義 第 一 応 知 一 巻(未 得 本) 六 通 無 碍 六 根 浄 業 義 門 一 巻 (未得本) 。 右二部。斉武帝時。比丘釈法願抄集経義所出。雖弘経 義異於偽造。然既立名号則一部。懼後代疑乱。故明注于録 。仏所 制名数経五巻。 右一部。斉武帝時。比丘釈王宗所撰。抄集衆経有 似数林。但題称仏制。懼乱名実。故注于 79 録 。   僧祐は三種の典籍について述べている。 ① 『仏法有六義第一応知』 、 ② 『六 通 無 碍 六 根 浄 業 義 門』 、 ③ 『仏 所 制 名 数 経』 の 典 籍 に つ い て、 ① と ② の典籍は、斉の武帝の治世、比丘釈法願が諸経のエッセンスを 抜き出して典籍としたものである。経典の教えを弘める点では偽作と 異なるが、後代の人が疑念をいだくことのないよう確実に注記すると ある。   ③ の典籍については、同じく斉の武帝の治世、比丘釈王宗が編纂し たものである。多くの経典を集めて書いているようであるが、これは 『数 林』 と 似 て い る。 し か し 典 籍 名 に「仏 所 制」 と い う 題 名 が 混 乱 を きたす恐れがあるので注記しておく、というものである。   僧祐という人物は、後代の人が正しい教えと誤った教えを区別でき なくなることを憂慮し明確に偽経排除を推し進めた人物である。そう いった典籍を大蔵経に入蔵することを阻止することを目的として書か れた書籍であ 80 る 。   こ の よ う に、 『釈 論』 の 成 立 以 前 に お い て も 偽 撰 疑 惑 の あ る 典 籍 を ある一定の管理下において選定しており、典籍が主張する情報のみを 頼 り と し て 理 解 し て い る も の で は な い の は 明 ら か で あ る。 無 論、 『釈 論』においては古い経録にその名を確認できないため、入蔵、入録の 対象から除外された可能性もありうる。

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  一方で、当時の政治情勢、さらには王室の意向によっても、典籍の 取り扱われ方に多少の異なりが生じているようである。   これに関連する指摘が牧田諦亮によって提出されている。牧田説で は偽経製作の動機と目的について六項目を挙げている。すなわち、第 一 に「主 権 者 の 意 に 副 わ ん と し た も の」 、 第 二 に「主 権 者 の 施 政 を 批 判 し た も の」 、 第 三 に「中 国 伝 灯 思 想 と の 調 和 や 優 劣 を 考 慮 し た も の」 、第四に「特定の教義信仰を鼓吹したもの」 、第五に「現存した特 定 の 個 人 の 名 を 標 し た も の」 、 第 六 に「療 病・ 迎 福 な ど の た め の 迷 信 に類するもの」 、として分析してい 81 る 。   『釈 論』 の 場 合、 経 典 で は な く、 ま た 遼 代 で 製 作 さ れ た 典 籍 で は な いため、偽経製作の動機として必ずしも合致するとはいえない。しか し『釈論』が遼代で流通した要因を検討するには有効な指摘であるの で理解の一助としたい。   再 度、 『釈 論』 の 遼 代 の 流 通 を 考 え る と、 明 ら か に『釈 論』 は 王 室 の意向によって石経事業や末釈製作が進められている。遼の歴代の皇 帝のなかでも道宗を中心とした王室の受用姿勢がそうである。そうす ると『釈論』を重用した当時の統治者である道宗が、いかなる理解に 基づいて『釈論』を重用したのか、彼の人物像を考える必要がある。   道宗について指摘している鎌田茂雄の論考があるので紹介したい。     遼代密教の起る社会的背景を考えるに、まず遼代の契丹人民族の 生 活 意 識 を 問 題 と し よ う。 (中 略) こ の よ う な シ ャ ー マ ニ ズ ム 世 界観をもつ民衆が、密教受容の社会的基盤となったことは否定で きないと思う。遼代密教が純正な密教でなく、陀羅尼を重視し、 現世利益を目的とした通俗密教であったことも、このような社会 的 背 景 か ら 生 ま れ た の で あ ろ う。 (中 略) 釈 摩 訶 衍 論 は 道 宗 の 清 寧 八 年(一 〇 六 二) 、 道 宗 の 命 に よ り、 広 く 墜 典 を 捜 索 し た 時 に 得 ら れ た も の で あ る。 (中 略) 道 宗 は 本 論 を 発 見 し、 自 ら 研 究 し、 遼 代 高 僧 は こ れ に 従 っ た。 (中 略) 唐 の 法 蔵 の 華 厳 は、 貴 族 主義的な絶対肯定主義の哲学思想で、庶民の生活の性格意識とは 無関係な思想であったが、遼の支配者が、中国的中央集権国家を 樹立するにさいして、範を唐朝にとったために、唐代仏教を代表 する華厳を採用したことは大きな意味があると思う。しかし遼代 密教では華厳を単に道具として用いたにすぎなかった。華厳と融 合した密教といえば、高度な哲学的仏教を考えるが、遼代密教は 決してそのようなものでなかっ 82 た 。   鎌田は、遼代の仏教が華厳と密教が融合した、独特な密教文化を形 成したものと論じている。そのなかでも特に『釈論』が道宗に重用さ れ、密教の理解にも大きく影響を与えたとする。以上の指摘は合理性 があり、今後の同論の思想構造を検討する上で非常に有用なものとい えよう。

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  またこの問題に関連した論考に、木村清孝も遼代仏教にける密教融 合について、前述した『顕密円通成仏心要集』を取り上げ、当代が顕 密双修の重要性と総合仏教の一典型を示しているとする興味深い指摘 をしてい 83 る 。筆者も両氏の見解を支持したい。 まとめ   本 研 究 は 遼 代 に け る『釈 論』 の 流 通 を と お し て、 『釈 論』 が ど の よ うな経緯を経て取り扱われてきたのか、従来ほとんど検討されていな い点から検討を試みた。   『釈 論』 に は 則 天 文 字 の 使 用 が あ る こ と か ら も、 同 論 は 中 国 圏 内 の 国家の施策と密接に関連した典籍である。それが、遼代になると道宗 の政策を示唆する資料(房山石経の資料や遼代の記録、通理大師の事 績)を基に検討した結果、彼の重用する姿勢が影響を与え、末釈を製 作する機運を高め、密教典籍にも依用される程であったことを確認し た。   道宗は『釈論』を真撰として見て、その内容を講義するよう時の論 師(通理大師)に要請し、道宗自らも『釈論』の注釈書を著すほど造 詣が深いことが明らかとなった。その影響を受けた論師達が末釈を製 作し、密教典籍理解にも『釈論』理解を取り入れていたのである。そ の 間、 『契 丹 大 蔵 経』 と し て 高 麗 に 輸 入 さ れ、 後 に 義 天 版『高 麗 大 蔵 経』にも入蔵されている。   日本では、出自が不明な典籍であり、後代においてどのように取り 扱われてきたのか検討されないまま、独特な思想をとく偽書として処 理されてきたが実際のところ、そうではないことが指摘できる。   本研究では、客観的に『釈論』が受用された形跡が中国圏内に集中 し て い る こ と を 突 き 止 め た。 一 方、 高 麗 の 義 天 が『新 編 諸 宗 教 蔵 総 録』 (義 天 ま で の 中 国 の 目 録 に は『釈 論』 は 入 録 さ れ て い な い) や 義 天 版『高 麗 大 蔵 経』 を 編 纂 す る 際 に、 『釈 論』 を 経 蔵 と 大 蔵 都 監 に 取 り 入 れ た こ と が 確 認 で き、 『釈 論』 の 流 通 が 遼 代 を 媒 介 と し て 大 き く 花開いたことも鮮明になった。   元暁の著作を『釈論』が依用していたとする指摘については、思想 的 に 朝 鮮 半 島 の 関 係 は 確 か に 認 め ら れ 84 る 。 こ の 点 に つ い て は、 『釈 論』作者以前に存在した論師(中国)たちも参照(元暁の著作)して い る 形 跡 が 存 在 し て い た こ と か ら 分 か る よ う に、 『釈 論』 作 者 が 中 国 にいたとしても元暁の著作を参照し得たことは明らかである。朝鮮半 島成立の典籍を依用しているからといって、同半島成立とする主張は 成り立たないと考えられる。   さ ら に、 『釈 論』 が 遼 代 の 仏 教 思 想 の 中 核 で あ っ た 密 教 の 理 解 に 大 いに取り入れられ、同時に『釈論』の末釈が製作されている点も確認 できたことは、遼仏教の思想に、その特性(同論の作者とされる独特 な龍樹観や三十三法門といった思想)を色濃く反映させたことによっ て 成 し 得 た 事 績 と 評 価 で き る。 こ れ ま で 検 討 し て き た、 『釈 論』 が 中

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国国内で成立したことを強化する点である。   作者については、朝鮮半島出身あるいは中国出身者のいずれかにな るであろうが、本考察において明らかになったように、典籍の流通が 大陸間でなされていることからも、現段階では東アジア圏内の人物で あり、且つ朝鮮半島と中国の仏教事情を知り得る人物であるとしか言 えない。今後の課題としたい。   最後に、本研究において『釈論』の依用・影響を受けた典籍や思想 に つ い て は、 関 係 が あ る と 指 摘 し た の み で 詳 し く 考 察 を 加 え ら れ な か っ た。 そ の 点 に つ い て も、 今 後 探 求 し 徐 々 に 明 ら か に し て い き た い。 注 1   拙 稿「 『釈 摩 訶 衍 論』 の 成 立 事 情   ― 序 の 記 述 と 武 則 天 と 則 天 文 字 ―」 (『密教学研究』五〇   二〇一八) 2   拙 稿「 『釈 摩 訶 衍 論』 に お け る「六 馬 鳴」 に つ い て」 (『東 洋 学 研 究』 五 四   二 〇 一 七) 、 拙 稿「 『釈 摩 訶 衍 論』 に お け る 密 教 的 な も の   ―架空経典を中心に―」 (『仏教文化学会紀要』二六   二〇一七) 3   塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 (同 著『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東出版   一九七五   五一五―五一二) 4   鎌 田 茂 雄『中 国 華 厳 思 想 史 の 研 究』 (東 京 大 学 出 版 会   一 九 六 五   六〇四―六一八) 5   ま ず、 房 山 石 経 に お け る 先 行 研 究 に 塚 本 善 隆 の 成 果 が あ る。 こ れ は 石 経 寺 院 の 歴 史 や 設 立 の 内 情 等 を 精 査 し た(塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東 出 版   一 九 七 五) 。 次 に 塚 本 の 成 果 を も と に 若 干 の 修 正 を 加 え た、 気 賀 沢 保 規 を 編 者 と し 刊 行 さ れ た 『中 国 仏 教 石 経 の 研 究』 が あ る(気 賀 沢 保 規「緒 論   ―「房 山 石 経」 新研究の意味」 『中国仏教石経の研究』東京大学学術出版   一九九六) 。 6   塚 本 善 隆 編『望 月 仏 教 大 辞 典』 (世 界 聖 典 刊 行 協 会   一 九 八 八   二 九〇八―二九一一)を参照した。 7   「大 遼 涿 州 鹿 山 雲 居 寺 続 秘 蔵 石 経 塔 記」 (『金 石 萃 編』 国 風 出 版 社   中華民国五三年   一九六四   二九四四―二九四五) 8   塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 (同 著『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東出版   一九七五   五〇三) 9   『契 丹 大 蔵 経』 が い つ 頃 か ら 雕 造 さ れ た か に つ い て は、 竺 沙 雅 章 「『開 宝 蔵』 と『契 丹 蔵』 」(古 典 研 究 会 編『国 書 漢 籍 論 集』 汲 古 書 院   一 九 九 一) に 興 味 深 い 指 摘 が あ る。 そ れ は 本 研 究 と い み じ く も 共 通 し た分野である『釈論』の末釈に関する記述から見出されるとする。 10   藤 本 幸 夫「高 麗 大 蔵 経 と 契 丹 大 蔵 経 に つ い て」 (気 賀 沢 保 規 編『中 国 仏 教 石 経 の 研 究』 京 都 大 学 学 術 出 版   一 九 九 六   二 五 六 ― 二 六 五) 藤 本 は 現 在 九 十 一 種 一 四 七 巻 に つ い て 若 干 の 誤 植 を 修 正 し 列 挙 し て い る。 11   小 野 玄 妙「契 丹 大 蔵 経(私 案) 」(小 野 玄 妙 編『仏 書 解 説 大 辞 典』 別 巻仏典総論   一九九一   六九一―七〇三) 12   竺 沙 雅 章「契 丹 大 蔵 経 小 考」 (内 田 吟 風 博 士 頌 寿 記 念 会 編『内 田 吟 風博士頌寿記念東洋史論集』同朋舎   一九七八   三一四―三一五) 13   竺 沙 雅 章「契 丹 大 蔵 経 小 考」 (内 田 吟 風 博 士 頌 寿 記 念 会 編『内 田 吟 風 博 士 頌 寿 記 念 東 洋 史 論 集』 同 朋 舎   一 九 七 八   三 一 八) 尚、 竺 沙 は 以 降 の 説 に お い て、 妻 木 説 の 妥 当 性 を 再 検 証 し、 「わ ず か 一 か 所 だ け の 相 違 で あ っ て も、 異 な る と こ ろ が 存 在 す る 以 上、 房 山 石 経 = 契 丹 蔵 の 帙 号 が『随 函 録』 に よ っ た も の と は い え な い。 わ れ わ れ は 次 に、 両 者 の う ち ど ち ら が よ り『開 元 録』 に 合 す る か を 検 討 し な け れ ば な ら な い」として訂正すべき点を呈示している(同著   三一八―三二一) 。 14   妻 木 直 良「契 丹 に 於 け る 大 蔵 経 雕 造 の 事 実 を 論 ず」 (『東 洋 学 報』 二   一 九 一 二) を 参 さ れ た い。 小 川 貫 弌『大 蔵 経   ― 成 立 と 変 遷』 (百 華

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苑   一 九 六 四) 、 そ し て 小 川 の 指 摘 を 簡 潔 に 整 理 し て い る、 竺 沙 雅 章 「契 丹 大 蔵 経 小 考」 (内 田 吟 風 博 士 頌 寿 記 念 会 編『内 田 吟 風 博 士 頌 寿 記 念東洋史論集』同朋舎   一九七八)の論考は大変参考になる。 15   「暘 台 山 清 水 院 創 造 蔵 経 記」 (『金 石 萃 篇』 掃 葉 山 房   一 九 二 六   一 五 三) こ れ に は 道 宗 の 咸 雍 四 年(一 〇 六 八) に『契 丹 大 蔵 経』 は「五 百七十九帙」あったとされる。 16   竺 沙 雅 章 「『 開 宝 蔵 』 と 『 契 丹 蔵 』」( 古 典 研 究 会 編 『 国 書 漢 籍 論 集 』 汲古書院   一九九一) 17   塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 (同 著『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東出版   一九七五   五一一―五一三) 18   塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 (同 著『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東出版   一九七五   五〇四)に詳しい。参照されたい。 19   『新集蔵経音義随函録』高麗大蔵経三四   一〇五三下―一〇五五中 20   『新集蔵経音義随函録』高麗大蔵経三四   一〇五五中―一〇五八下 21   『遼 文 存』 六(出 版 地 不 明   東 京 大 学 東 洋 文 化 研 究 所 所 蔵 本   № 二 九 三 三   九 丁 右 ― 左) 尚、 作 者 に つ い て は 本 書 の 末 尾、 『遼 文 存』 六 巻「金 石」 三 五 丁 左 に は 以 下 の よ う に 記 載 さ れ て い る(東 大 本 が 管 見 の限り最も古いものと考えて参照している) 。     □ □ 上 人 墳 塔 記(八 面 刻   沙 門 惟 和 正 書   天 慶 十 年 次 庚 子 九 月 二 十三日乙寺   在房山小龍村) 22   塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 (同 著『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東出版   一九七五   五一〇―五一二) 23   『遼史』二一( 『四部備要』三三   中華書局輯刊   一九三六   八五) 24   こ れ ま で 当 文 献 の 取 り 扱 い に つ い て は、 『契 丹 大 蔵 経』 の 有 無 と 時 期 を 検 証 す る 資 料 と さ れ て き た。 『釈 論』 の 成 立 に つ い て は 管 見 の 限 り活用されていないようである。 25   「暘 台 山 清 水 院 創 造 蔵 経 記」 (『金 石 萃 篇』 掃 葉 山 房   一 九 二 六   一 五三) 26   塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 (同 著『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東出版   一九七五   五三六) 27   『釈摩訶衍論記』卍続蔵経七二   七三一上―七三四上 28   『釈 摩 訶 衍 論 疏』 卍 続 蔵 経 七 二   七 三 五 上 ― 八 二 七 下   ま た こ の 論 書は本朝の石山寺本を対校本としている。 29   『釈 摩 訶 衍 論 賛 玄 疏』 卍 続 蔵 経 七 二   『賛 玄 疏』 と『大 科』 は 義 天 録 に基づく。以降の志福『釈摩訶衍論通玄鈔』の『通玄科』と『大科』 、 そして守瑧 『釈摩訶衍論通賛疏』 と 『通賛科』 と 『大科』 も同様 (『新 編諸宗教蔵総録』大正蔵五五   一一七五中) 。 30   『釈摩訶衍論通玄鈔』卍続蔵経七三   一三五上―二六九上 31   『釈摩訶衍論記』卍続蔵経七三   一上―一六〇上 32   『釈摩訶衍論科巻下』卍続蔵経九五   六六三上―六八八上 33   竺 沙 雅 章 「『 開 宝 蔵 』 と 『 契 丹 蔵 』」( 古 典 研 究 会 編 『 国 書 漢 籍 論 集 』 汲古書院   一九九一)を参照されたい。 34   妻 木 直 良「契 丹 に 於 け る 大 蔵 経 彫 造 の 事 実 を 論 ず」 (『東 洋 学 報』 二   一 九 六 七   三 二 四 ― 三 二 八) 、 塚 本 善 隆「遼 代 の 石 経 続 刻 事 業」 (同 著 『塚 本 善 隆 著 作 集』 五   大 東 出 版   一 九 七 五   五 一 五 ― 五 一 九) 、 鎌 田 茂 雄「遼 代 密 教 の 澄 観 の 華 厳」 (同 著『中 国 華 厳 思 想 史 の 研 究』 一 九 六 五   六 〇 五 ― 六 一 八) 、 横 内 裕 人「高 麗 続 蔵 経 と 中 世 日 本   ― 院 政 期 の 東 ア ジ ア 世 界 観 ―」 (『仏 教 史 学 研 究』 四 五   二 〇 〇 二   六 ― 七) 等である。 35   『釈摩訶衍論賛玄疏』卍続蔵経七二   八四八中 36   『釈摩訶衍論賛玄疏』卍続蔵経七二   八二九上 37   『遼史』二四( 『四部備要』三三   中華局輯刊   一九三六   九三) 38   『続 資 治 通 鑑』 七 四( 『四 部 備 要』 四 一   中 華 局 輯 刊   一 九 三 六   七 六三) 39   『仏 書 解 説 大 辞 典』 五(大 東 出 版 社   一 九 九 四   二 七 ― 二 八) 、 中 村 正 文(本 然) 「釈 摩 訶 衍 論 の 成 立 に 関 す る 諸 資 料」 (平 川 彰 編『仏 教 研 究 の 諸 問 題』 山 喜 房 仏 書 林   一 九 八 七   一 〇 一 ― 一 〇 四) こ こ で は 『仏 書 解 説 大 辞 典』 の 説 を 紹 介 す る 森 田 竜 僊 の 解 説 が あ る。 す な わ ち

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