〔未公開資料〕南船北馬集 第一六編
著者
井上 円了
雑誌名
井上円了研究
巻
3
ページ
87-185
発行年
1985-03-16
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006766/
南船北馬集第十六編目次
朝鮮巡講第三回︵北鮮︶日誌⋮⋮−
青森縣巡講第一回︵奮南部︶日誌・
青森縣巡講第二回︵奮津輕︶日誌・
伊豆長岡温泉入浴記⋮⋮・⋮⋮・⋮・・
幅島縣會津巡講日誌−−⋮⋮⋮
大正七年度報告⋮⋮⋮・⋮
大正八年迎歳記⋮⋮⋮・⋮
・二 頁 −二十九頁−四十頁
−六十一頁 −六十五頁 三八十七頁−九十頁
南 船
北 馬 集
第十六編
甫水 井 上 圓 了記
朝鮮巡講第三回︵北鮮︶日誌
大正七年七月四日快晴、午前九時半京城着、荒浪稗尾渓内日比眞柄等の諸氏と騨内にて 相會す、是より斬髪をすまし、十一時五十分襲にて京城を欝して北行す、車中暑氣劇甚な り、其中間洗浦より高山まで約十里の間は汽車一條の渓流に沿て走り、嵐氣人を襲ふの 中、燧門を出入すること敷同に及ぶ、内地の箱根鐡路の趣あり、當夜九時威鏡南道の元山 騨に着す、京城を距ること六十里二十町あり、其夜東本願寺別院に入宿す、輪番は上野興 マこ 仁氏なり、聞く所によれは別院にては垣根を作らず、戸をとざ入ざるも、是まで盗難に會 したることなしといふ、門前に幼稚園を置く、其建築設備に就きては朝鮮第一の幼稚園と 第 十 六 編 一第 十 六 編 二 の評あり。 五日午前晴、午後少雨、十時鮮人市街の普通學校に於て鮮人生徒の爲に講話をなす、校 長は曾田斧治郎氏なり、午後三時小學校にて講話をなす、校長は干岡一男氏なり、夜八時 商業會議所に於て開演す、府サ村地卓爾氏、府書記竹内正枝氏、及上野氏の獲起なり、本 日は急に冷氣を催ふし、午後七十二度に下る。 六日晴、朝七時元山を獲し、九時永興に着す、是より自動車に移り、十四里牛の間を一 走して、午後一時道廉所在地たる成興に着す、途中に草原定干等の小騨あり、又往々野花 の媚を呈するを見る、成興に入る庭の城川江に架せる三百間の長橋あり、橋名を萬歳橋と 呼ぶ、鮮地の木橋としては之を第一の長橋とす、其水淺くして清きを以て名あり、此川の 上下左右に連亙せる干原は長十里牛、幅四里牛、北鮮第一と稿せらる、途上吟一首あり。 戌興一道草原寛、車⊥晴嵐憂亦寒、吟賞城川浮如鏡、橋頭人影漂繊瀾。 宿所旭旋館に休憩の後、五時小學校に於て公衆の爲に講演をなす、嚢起は道廉主任加藤敬 攻郎氏及知鷺芳之助氏等なり、夜九時東本願寺布教所にて開演す、布教所主任長嶺本誓 氏、惣代寺本幸太郎氏、及山田勘七氏の主催なり、長嶺氏は絡始蓋力せらる。 七月七日︵日曜︶曇、午前八時小學校にで内地の生徒の爲に講話をなす、校長は卒橋麟
象氏なり、十時普通學校にて鮮人の生徒の爲に談話をなす、校長は河井軍攻郎氏なり、當 夕は旭館に於て長官申慮煕氏、第一部長菱田義民氏、第二部長佐藤榮三氏、面長定野秀一 氏等の十鹸名と會食す。 八日雨、朝威興邑内の某書堂を一質す、書堂は我内地の寺小屋に當り、漢字の初歩を授 くる所なり、其敷約二萬ありと聞く、一堂の生徒敷は十名乃至二十名位とす余の見たる書 堂には十三名の生徒あり、年齢不同、各用書を異にして音讃す、又各片膝を立て髄をゆす りつ叉讃むは異風なり、是れ讃書と運動とを両修せしむる新案と思ふ、堂内には一種の朝 鮮的臭氣あり先生は樺敦植氏なり、課程は千字文、啓蒙篇、小學、大學、孟子、論語、詩 傳とす。全部修了には十年を要すといふ、聞く所によれは成鏡南道だけに二千四百書堂あ り、生徒干均一堂十名とすれば二萬四千人ある割合となる、男子の牛敷は書堂に入る、他 の牛敷は全く文字を解せずといふ、所感一首を賦す。 今日鶏林道未紛、孔門遺教有鹸重、書堂二萬遍都鄙、三尺幼童皆學文。 午前十時半成興を襲して輕便に駕し、 一時間にて四里宇を走り、西湖津に着す、族館に休 ヘマこ 憩すること敷時、午後四時出航の御用船琴干丸第三號︵二千噸︶に駕す、其夜新浦に停船 少時にして北に向て航路を進む。 ︼弟 十 六 編川 =一
第十 六 編 四 九日曇、海上干穏、氣候漸く寒し、袷衣を着するを要す、午後城津に停船すること敷時 間なり、北進齪に威鏡北道に入る、船中に在りて封岸を望むに、 一帯の連山崖頭に沿て立 ち、殆んと人姻を見ず、時に一詠す。 成鏡崖頭翠萬重、満窓嵐氣冷如冬、舟行百里蔚疎甚、不見人姻只見峰。 十日曇、朝七時清津入港、獲起者のランチにて迎へらるふに會し、上陸して直ちに府テ 官舎に入る、府君吉田格之進氏は出京中にて不在なり、官舎は壼上にありて眺望大に好 し、目下憂猶ほ淺く、風自ら冷かにして暑氣を畳えず、樺太の夏期に同じ、風景の薫颯た るも亦相似たり、是より露領まで三十里を出でず、其緯度は内地の北海道後志國に當る、 此日霧氣あり、一詩を賦す。 清津湾外客舟留、山霧海風颯似秋、從是北東三十里、豆江雨断露鮮州。 午後八時小學校にて開演す、聴衆は堂の内外に溢る、校長は島崎林攻郎氏、主催は有隣 會、襲起は府書記今西源之助氏、聲師一番ケ瀬健太郎氏等なり。 十一日曇、午前七時自動車にて走ること五里牛、道廉所在地たる鏡城に至り、午前普通 學校にて講話をなす、長官桑原八司氏の案内を辱うし、城壁城門城棲を巡見す、城外に勝 岩山あり、岩容卓抜、霊山と構せられ、信者之に登り火を焼きて所願をなすといふ、所見
一首あり。 勝岩山下鏡城横、棲角風光慰客情、禾黍田間通赤路、白衣婦戴黒瓶行。 朝鮮婦人は飲用水を黒瓶に容れ、其上に瓢にて造りたるヒ杓を載せ、之を頭上にて運ぶ、 叉洗濯物を木をくりて作りたる楕圓形の鉢に入れ、矢張之を頭上にて運ぶ、午時は桑原長 官を始とし、参與官金寛銭氏、第一部長三田善喜氏、第二部長山崎眞雄氏、郡守曾根侃氏 と共に一堂にて會食す、食後更に車を廻らすこと一里牛、羅南に至り、娯樂館にて開演 す、面長吉田長治氏の主催、書記陣内六郎氏、大木妻干氏の登起にかふる、當地は聯除所 在地なり、有志家富塚素一郎氏宅にて晩餐を喫し、再び車を廻らして清津に婦り、東本願 寺布教所にて講話をなす、其主任武田恵教氏は最初より奔走の芳を取られたり。 北鮮の他道に比して特殊なる貼は︵一︶婦人の一般に労働すること、他道にては婦人は 食事と洗濯の外には手足を動かさぬ風なるも、威鏡北道は田圃の耕作を助く、 ︵二︶民家 に瓦葺多きこと、朝鮮の家屋は昔時制限ありて、瓦屋を許さ父りしも、本道は米田に乏し く、藁不足なると、僻遠にして政府の制裁も寛なりし爲なり、野外に水田を見るも、皆稗 なりといふ、 ︵三︶牛を多く使用すること、土地廣く人口少なく、耕地の割合一戸干均試 丁五反に當る、而して牛は一戸干均一頭六分に當る、︵四︶老年者の比較的多敷なること、 第十六 編 五
第十 六 編 六 本道の人口五十二萬に封し、八十歳以上の高齢に二千四百人、即ち千戸に付三十二人の割 合なり、 ︵五︶氣候の冷かなる爲に蚊の居らざること、其代りに毒蝶あり、秋田縣にて墓 薄蝶と唱ふる黄蝶は多分北鮮より輸入せしものならん、 ︵六︶牛車が自動的音樂を奏する こと、支那山東省の一輪車の如く、又墓湾の水牛車の如し、 ︵七︶清津には椛郎ちイミン スと名くる特有の魚あること、以上は余の客居中聞入たる特色を列記せるのみ。 十二日晴、清津より會寧まて五十八哩の間、鐵道の便あれども、時日なきを以て巡講せ ず、曾寧は豆満江に接し、其封岸は間嶋なり、午前十時府戸官舎庭前に於て紀念の撮影を なして乗船す、船號は矢張琴干丸なり、風寒く波高く船躰梢動揺す、元山まて直行二百五 浬鹸なり。 十三日曇、朝七時元山へ入津、八時上陸す、此日當所に東京大相撲興行ありとて太鼓の 響を聞く、別院に休憩一時間にして、上野氏と共に十時出帆の鏡城丸に乗込、金剛山探勝 チヤンゼン の途に上る、舟小にして波高く、動揺甚しきも、幸に無事にて午後五時江原道通川郡長箭 に入港す、旅館は朝鮮式の小屋、金剛館なり、因て﹁旅館まで名を金剛とつけにけり﹂と 題す、元山より陸路二十六里あり、當夕至心會の依頼に慮し、商店山田甚作氏方にて講話 をなす、石川安左衛門氏等の擁起なり、夜に入りて雨酷し。
七月十四日︵日曜︶風雨、夜來の大雨終日不休、風亦強し、午前十時長箭を襲し、車行 二里飴、温井里に至る、其間に雨水溢れて路を埋むる慮四五ケ所あり、然れども路傍に聾 立せる連山は、雲姻に包まれながら往々石骨を露出し、雨水懸りて遠近に小濃布をなせる は、雨中の奇景なり、量一吟なきを得んや。 峡間移歩雨相随、未入金剛景色奇、水落巖頭成爆布、山屏虚々玉簾垂。 温井里は金剛の關門にして柾城郡に属す、鐵道経管のホテルあれども、西洋人に占有せら ると聞き、金剛館に泊す、長箭と同店なり、 ﹁金剛へ行くなら金剛館に泊れ、館は金剛の 仁王門﹂と書して館主に與ふ、館内に温泉浴室あり、宿料一等二圓、二等一圓五十鑓、三 等一圓、頗る安廉なり、宿所に於て在留の内地人を集めて講話をなす、當所に憲兵駐在所 あり、所長毎熊圓[氏なり、今夕疲努を讐[せんと欲し按摩を呼ぶ、上下四十銭なるは内地 よりも高し、昨夜も今夕も蚊帳を用ひず、道廉所在地春川より當所まで三十六里ありとい ふ。 十五日朝雨、午後曇、雨を侵して金剛山第一の奇勝たる萬物相の探勝に向ふ、憲兵二名 案内として同行せらる、路険にして悪く、且つ坂路多し、之に加ふるに渓川森雨の爲に暴 涯し、徒渉頗る危険なり、されど橋梁全くなし、鹸儀なく憲兵に助けられ、徒渉三回を重 第十 六 編 七
第十 六 編 八 ね、漸く無事にて萬物相峯下の茶店萬相亭に達す、萬物相の名は岩石中に鬼に似たるもの あり、佛に似たるものあり、獅に似たるあり、虎に似たるあるより起るといふ、温泉里よ り此亭まて道程二里と稽すれども、三時間を費す、其途上は、渓流の雨岸に、千例萬丈、 全く岩石より成れる奇峰、屏立障列し、其石間に風骨鶴に似たる奇松を胚胎する所、耶馬 渓などの遠く及ぶ所にあず、若し山陽をして此勝に接せしめなば、必ず耶馬漢紀行を抹殺 するに至らん、若し之を内地の奇勝に比すれば、耶馬渓よりも寧ろ甲州御嶽峡に比するを 適當とす、御嶽は小金剛なり、金剛は大御嶽なり、此評は何人も首肯するならんと信ず、 漸く進みて萬相亭前に至れば、其雄大奇絶の状態は言亡慮絶、實に造化の妙技を蓋くした る跡、歴然として観るべきあり、茶店にて饗酒一瓶を傾け、勇氣を養ひ、更に二三丁の石 径を馨ぢ、萬物相の裏面を窺ふに、玄の又玄、衆妙の門の趣あり、﹁耶馬渓も金剛の前に 兜抜き﹂、﹁富士山も握手してよし金剛山﹂、﹁泰山も金剛山を見たならば、後世畏るべしと や云はん﹂、﹁金剛の景色如何と人間はy玄の叉玄衆妙の門﹂、其他漢詩敷首を賦す。 一淫奔瀬渉三回、萬物相前望漸開、雲態千移山百饗、雨中姻景也奇哉。 山擁雲妾岩孕松、幾條飛爆石間縫、雁知造化祠工妙、在此金剛一帯峰。 樵路渓頭雨鐘初、金剛奇勝眼前披、碑岩鬼石藏無養、疑是須彌山上居。
筆蓋金剛第一關、目眩足震歩尤銀、岩頭鋸石比無物、看疑女蝸遺愛山。 闘路雨歓み水亦幾分を減ず、此日始めて蝉吟を聞く。 十六日晴、九龍淵の絶勝を探らんとするも、渓水暴涯の爲に通行杜絶せりと聞き、止む を得ず其行路に當れる祠渓寺は、僅に二十鹸丁にして干坦なれば、之に遊はんとして旅装 を整ひつ入ある間に、長箭より電話の報じ來るに會す、曰く午前十時便船ありと、之を聞 きて急に方針を愛し、腕車を命して長箭に向ふ、僚水猶ほ路上に溢る、長箭に達する時は 午前十一時なり、汽船已に湾内にあり、即時に乗船せんと欲するも、人皆曰く二時間以上 停船するに付、ユツクリ書食して一時に乗船して可なりと、其言に從ひ、 一時十五分前に 端舟に乗り、四五間漕き出す間に、汽船已に煙を吐きて出航す、喚べども及ばず、叫べど も達せず残念の感、骨に徹する程なり、鹸儀なく陸路車行に決す、時に午後一時なり、二 人曳を雇ひ、高債の車代を彿うて出護す、長箭より通川まで七里牛の間に川を徒渉するこ と五六同、道路破壊せる慮敷十ケ所あり、其夕七時牟通川に着し、族店に泊す、當所は郡 廉所在地なるも、蓼々たる小邑なり。 十七日晴、早朝六時牛通川を襲し、車行二里、庫底に達す、小港なり、其村内に玄武岩 の奇勝あり、又海岸に沿ひたる草原には菖蒲桔梗萩等野花の貼在せると、時々鶯語に途迎 第十 六 編 九
第十 六 編 十 せらる入とは、柳か耳目を慰さむるに足る、入鮮以來鵠のみを見て鴉を認めざりしが、今 日始めて鴉を見る、鵠は九州にては朝鮮鴉といふ由、叉途中葬式の一列に會す、前後幡を 樹て歌を奏し、棺墓をかつぐ有様は丙地の祠輿をキヤリ節にてかつぐに似たり、昨日以來 男子相集り、太鼓と鉦を鳴らすを聞く、是れ芝居の稽古なりといふ、昨今挿秩全く了り、 農閑になりたる故ならん、佳々除草と饗刈をなすものあり、鮮地の田植は天水を待つ爲に 長時日を要す、其早きは五月下旬より其晩きは七月中旬、凡そニケ月間なり、内地にては 早りに凶年なしといふに反し、雨年に凶年なしといふ、長箭より元山まで二十六里の間、 一墓の腕車を見ず、唯二三回自動車に遇ひたるのみ、此日書食は辮當を持参し、鍬谷の旅 店にて之を開く、饗酒も日本酒もなければ、朝鮮の濁膠を用ふ、少しく酸味を帯びて葡萄 酒に似たり、日將に暮れんとする時、元山に着す一日の行程十六里牛なり、金剛山には内 金剛、外金剛、奥金剛、海金剛等ありて、之を一巡すれは三十鹸里、一週間を費すとい ふ、今同は時日なきを以て僅に外金剛の一端を窺ひしのみ、當夜元山別院にて愛國婦人會 の爲に一席の講話をなす。 十八日晴、暑氣漸く強し、早朝六時牛元山を護し、 一時間坐−にして稗王寺騨に降車し、 是より腕車を命し、行くこと一里十一丁にして大本山鐸王寺に達す、安邊郡内にあり、、全
山は雀蒼たる松林を以て掩はれ、地勢梢丘陵をなす、路に傍て渓流の渥々たるあり、松籟 蝉吟の天樂ありて、眞に是れ霞境なり、未だ本堂に達せざる敷丁の間に鬼面木あり、萬春 閣、断俗門、升仙橋あり、叉李王殿下の手植松あり、已に本堂に達する所に登岸閣、寂照 橋、不戴門、曹漠門、延實館、映月棲、護持門等あり、其門には雪峰山稗王寺と題せり、 其前に観覧豪あり、是より門内に入れば大雄殿ありて佛光普照の扁額を掛け、稗迦像を安 ヘマご 置す、是れ本堂なり、其傍に無量壽閣あり、冥府殿あり、五百羅漢の像あるも小規讃な り、其他海藏殿、八相殿、天眞、堂、仰山所、極樂殿等あるも一々列畢し難し、内地ならば 樂書無用と掲示する所に題名戯墨禁止と題せり、叉門外には僧徒を養成する學校もあり て、四五十名の生徒を収容す、山内を一巡して下ること敷丁、確泉場あり、旋館甘泉亭に 一休して書食を命す、郎吟一首あり。 萬松村境氣深嚴、蝿語泉聲組絶凡、歩到大雄殿前路、清風一陣掃塵杉。 午後一時更に乗車、途中干康騨は金剛山に至る本道なれども、其里程三十里、三日間を要 す、六時京城に着し繹尾等の諸氏と共に鐸内のカヒー店にて別杯を傾け、七時襲の夜行に て釜山に向ふ。 十九日晴、朝五時釜山穫橋に着す、別院輪番中學校長等の諸氏の再三途行を辱うせるは 第 十 六 編 十一
第 十 六 編 十二 ママ 感謝する所なり、是より再び封馬丸に駕し、穏波静風の中に朝鮮の山河に告別して馬關に 向ふ、舟中作一首あり。 践渉鶏林八道間、身如飛鳥倦知還、京城夕熱釜山曉、舟載清風入馬關。 午後五時下關に着し、直ちに門司に渡り、博多に至りて親戚の宅に一泊す、此夜風なく、 暑強きこと朝鮮以上なり、其夜按摩を呼ふに、上下三十五銭を請求す。 二十日晴、風ありて凌ぎ易し、午時市内柳町新三浦棲にて幅岡名物水鳥の料理を試む、 午後四時博多獲の急行に駕し、二十一日夜八時東京に安着す。 朝鮮巡講は約ニケ月にして、其問に十三道十一府二十六郡三十面里九十一所を巡回し、 講演百十六席を重ね、聴衆参萬五千九百拾人に封し、御詔勅の聖旨を開達するの光榮を得 たるのみならず、各所に於て分外の歓迎優待を辱うせしはもとより纏督府の鄭重なる御配 意の結果に相違なきも、亦各開會地に於ける官民有志諸氏の懇篤なる厚情の然らしむる所 なり、今巡講日誌を結ぶに當り、一言の謝鮮を呈し、以て報告の微意を表す。 此巡講中南船北馬東奔西走の族行里程を通計するに左表の如し、里歎は海陸共にすべて 三十六丁制の日本里程に改算して掲く、又一里以内の短距離族行は此中へ算入せず。 れママザ 漁船旅行⋮⋮武百二十八里、汽車旅行⋮⋮千〇二十七里、自動車⋮⋮戴百七十一里、
人力車⋮⋮四十九里、徒歩⋮⋮六里牛、 合計萱千五百八十一里牛、 在鮮日敷五十七日間なれば、一日の旅行里程二十八里の割合となる、此長距離の族行に於 て何等の故障なく、豫定日割通り巡了するを得たるは、冥々裏に天助佛護のありたるを信 じて、自ら喜ふ所なり。 朝鮮の戸口は咋年度の統計によるに、内地人の戸数九萬三百五十、人口三十二萬九百三 十八にして、朝鮮人の戸敷三百七萬二千九十二、人口一千六百三十萬九千百七十九とす、 内地人は朝鮮人の五十分一に富る割合なり、其少敷の内地人が全國各府縣より集まり、其 中最も多きは山口縣其次は幅岡縣、其吹は長崎縣、廣島縣、熊本縣、大分縣といふ順序な り、此等の内地人は皆尋常の人にあらずして一種の奇骨を有し、奇抜なる人のみなること は、其姓を見て一斑を知ること得、在鮮の内地人には内地に於て未だ聞かざる奇姓を有す るもの頗る多し、左に其實謹を畢けん。 スカイ 飛鋪 腹巻 最叫 酉水 伊勢敷 楠目 謝花 時枝 古岳 鈴座 香月 梅月 召田 袴田 本康 猫塚 幅 夷塚 高草木 仙頭 成毛 舟串 芳邑 角南 毎熊 蜂 衣斐 太鼓 播 第 十 ]ハ 切n −丁一二
第十六 編 十四 吐山 貞包 阿内 島蔭 有座 苦竹 帯金 栂輪 井科 翠川 香宗我部 蓑毛 明星 武衛 雨角 納材 蓬莱 蓼原 膳 三苫 膝付 津末 植園 來多 澤氷 知識 杭出 一番ケ瀬 日南田 久攻米 海福 戒能 幕谷 眞能 多米 五艘 家弓 棟形 木佐貫 長友 力武 帖佐 明日 硫柄 幅政 佛淵 八尋 梯 大根 仁位 傳實 正金 虫本 君ケ袋 針替 逮殿 鋤柄 霜降 鉄端 手代木 鰐部 割鞘 阿鷹 黛 舞志 務川 田結 羅元 姑射 鹸目 許斐 論田 三分一 盛繁 纐纈 鉦鹿 福壽 源五郎丸 湯舟 日本中の奇姓は皆朝鮮に集合せるが如く感ぜらる、又小學生徒の實名に韓一とか鮮太郎と かいふのが多い、是れは朝鮮にて生れたるに由る、在鮮の内地人にて己れの子供に田子の 浦、白妙、富士の高根と命名したるものありと聞く、是れも頗る奇抜なり、次に朝鮮人の 命名に就きて一三]せんに、從前は女子に實名を付せざる慣例と聞く、ロハ家庭に於て呼ふと きに符徴だけを用ひたりといふ、中以上にては玉とか花とかいふ呼稿を用ひ、中以下は猫 とか鼠とか、甚しきは犬糞牛糞の假名を用ひたるものエ由、是れ親子の問にて子供を匿別
マこ する符調に過きざれは決して之を他人に告ぐるものにあらず、一旦嫁すると同時に全く消 滅したるものと聞く、然るに今日は内地通り婦人も上下を通して一般に命名することにな れり。 朝鮮の町村制は内地と異なり、府郡面洞里の名稿を用ふ、府は市に當り、面は町村に當 り、洞と里とは字に富る、叉府君は市長、郡守は郡長、面長は町村長に當る、叉民間にて は邑の名構を用ふ、邑は町の大なるものに當り、都會の義なり、故に鮮人は内地の讃本に 邑に不學の徒なしとあるを見て、都會には不學の徒なきは當然なりといへりとの話あり。 余が明治三十九年始めて朝鮮に來りし當時を回想するに、釜山の港内に大木をくりたる ハママザ 丸大舟あるを見、通用鑓は皆穴あき銭を用ふ、京城なとには頭上カツギを被りたる婦人の 束往するを見、水を運ぶに天秤棒の雨端に石油罐を付け、之に水を容れて腰頭にてかつぐ を見、叉街上屡々朝鮮橋を雨手にて昇ぐを見たり、叉停車場の茶費が土瓶の代りに、ビー ルの空瓶に茶を入れて責るを見たりしが、今同は全く見ることを得ず、くり舟は只豆満江 にあるのみといふ、只屋松茸と土饅頭だけは依然として薔の如し、屋松茸とは如何といふ に、民家の屋根が藁茸にて丸形なれば、遠方より之を見るに全く松茸の形なり、因て余は 之を屋松茸と名けり、土饅頭とは鮮人の墓地にして、墓の上に土を盛り、饅頭の形をなせ 第十六編 十五
W弟 十 六 編⋮ 十六 るをいふ、朝鮮にては風水の方位の論大に行はれ、死人あれば先つ其地相を占うて葬むる 慣例なり、然るに合邦以後共同墓地を定めて、之に必ず埋葬せよと命ずるに、鮮人は是れ 日本政府が鮮人を根絶せん爲の手段なりと言鰯らせりといふ、其故は鮮人は地相方位を見 ずして埋葬するときは、其家必ず亡ぶと信ずるに由る。 風俗に就きて一言せんに、先づ此に鮮人ノ早婚の一事を掲げさるを得ず、干壌にて高等 普通學校即ち中學校の生徒一質表を見るに、第一年級干均年齢十五歳にて、既婚者百分の 四十六を占む、各級干均牛敷は既婚者なり、他は推して知るべし、攻に鮮人の衣服風釆を 述ぶるに白衣黒帽、威儀堂々たる有様は、内地の印し半天や、スツコキ帯にてブラく歩 く有様とは、貴賎其位を異にするが如き別あるも、芳働者が道側や草間に下腹を出して仰 ママ 臥するは、犬か猫にひとしきやうに感ぜらる、朝人は内地の労働者が股を出だすを見て笑 マこ ふといふが朝人の男は下腹を出し、女は乳部を出すも同じく笑はざるを得ず、幼見の服装 カ ヨ コ は唐子然として愛らしく見ゆ。 鮮人の躰格は槌に内地人以上なり、下腹は殊に大なるを畳ゆ、食事は多量の様なれど普 通二食なり、朝は十時、午後は五時をきまりとす、而して茶碗は大なるも、椀だけなれ ば、山盛りにしても一日の食量は多きにあらず、只内地人と異なりて、子供の時より自然
に任せ、病氣にかsりて手當をなさず、死生は天命に任せ、ノンキに生長し、内地人の如 くコセツカヌ風あるは、躰育のよくなる原因ならん。 言語は格別取調もせぜりしが複雑の語に内地と同じき言語ありと聞く、例へは一二三は 異なるもヨロヅは同音なる由、先つ鮮地に渡りて第一に知る語はヨボなりヨボと云へは朝 鮮人の異名の如く思ふ人あり、此中にはヨボが幾人居るなとぶいふ、或は鮮人はヨボく して居る故にヨボと呼ぶ如くに思て居る人もあり、ヨボとは注意せよといふ意味にて、人 を呼ふときに用ふ、内地のモシに同し、又急ぐことをオソくと云ふ、是れ内地語の正反 封にて、却て記憶し易し、若し遅くせよといふといふときにはカマニーといふ、某貴顯が カマニーを誤りてナベニーといひたる奇談あり、オソくは漢字にては早々に當り、カマ ニーは緩漫に當る由、鮮人の襲音に就きては、首語の濁音を獲すること出來ず、學校をカ ツカウといふ、群山をクンザンといふ、又ラ行の襲音が正しく出來ず、ラがナになり、り がイになる、叉二の音もイに聞ゆといふ、例へは忍耐をインタイといふ由、然し語學の天 才は驚くべきものにて、普通學校に入りて牛年経過すれば、内地語を能く解し、能く話し 得といふ、以上は傳聞の儘を記し置くのみ。 朝鮮歴遊中所感を賦したる七律二首あり。 第十六編 十七
]弟 十 六 妬制 十八 再來探見奮遊痕、草木山河浴聖恩、鮮北鮮南開校舎、童男童女解和言、都門遠近電燈 閃、車路縦横自動奔、追想十三年古事、鶏林全化別乾坤。 朝鮮併合七春秋、日進文明遍四陳、結髪男見成散髪、覆頭女子露蒼頭、書堂漸愛普通 校、軌鐵已同欧米州、恵澤如斯何以報、必當淳礪助皇猷。 今日は朝鮮の道路は内地以上にして、自動車が縦横に奔走するを得、叉各都會には水道の 設備ありて、飲用水の不便なく、叉電燈電話の行渡れるが如き皆朝鮮併合の餓澤ならざる はなし、學校教育の普及も、生命財産の安全も、皆其鹸恵なり、鮮人に於ては其恩恵を心 頭に銘して、之に報答する所以を思はざるべからず。 鮮人の道徳は儒教に依り、各都邑には孔子廟ありて、毎年鐸稟を畢行し、常に孝道を重 んじ、師長を敬することなども内地以上なり、是れ其美風といふべし、忠道も古來より 唱へ來れり、因て一吟す。 再入朝鮮観士民、孝忠爲本徳風均、白衣黒帽難異俗、同是東洋君子人。 孝は家庭和樂の本、忠は國家安全の基なれば、今日と難も鮮人は此二道を遵奉せざるべか らず、古來孝を移せば忠となるとの格言ある如く、君主は一國の親なり、父母は一家の主 なれば、忠は孝の大なるもの、孝は忠の小なるものと心得べし。
迷信に就きては朝鮮には頗る多く、其弊害亦少なからず、疫病流行の際は軒前に唐辛を 掛け、又はイバラをつるす、天然痘を冤る﹂豫防として、年末に雀を焼きて食す、疲にか ムりたるときは、便所に向て三回低首をなす、梅毒にか﹂りたるときは、死者の陰董を煎 じて飲むの類、枚畢に違あらず、人の死したるときには其家の門に縄を張る、男見の生れ たるときは入口に炭と唐辛とを掛け、女克の生れたるときは炭と松葉とを掛ける等も一種 のマジナヒにして、除災両幅なるべし、人が重病にかsりたる時には藁人形を作り、之に 病人の着物を着せて焼棄てるマジナヒもあり叉墓地に木を植ゆることを嫌ふ、若し其木が 成長して根が棺桶の中へ入るときは、子孫絶滅すると信するに由る、若し不潔の方を皇ぐ れば未婚の男見の小便を飲めは、病氣必ず干癒すと信ず、甚しきに至りては治病の爲に籍 盗罪を犯すものあり、他人の物を盗めば其病癒ゆるとの読を信じて、窺盗をなすのみなら ず、物を盗めは立身出世するとの迷信もある由、叉巫女等が此方角に當れる家より何々を 取り來らば病氣が干癒するとか、叉は出世が出來るとか教へて聞かすこともある由、内地 にも種々の迷信ありて大同少異なるも、朝鮮の方一層甚しきが如し、是れ皆人智の程度低 きに依ることなれば、今より数育の普及を要するなり、今日已に我邦の小學校に當る普通 學校あれども、全道を合して四百鹸校、生徒敷六千三百人に過きず、此外に二萬鹸の書堂 第 十 六 編 十九
]弟 十 六 編⋮ 二十 あるも、寺小屋式にして、知見を開襲するに適せず。 宗教に就きてはむかし高麗朝時代までは佛敦成皿んなりしも、李朝に至りて儒教本位とな り、佛教は愚民の迷信の道具に過きずとなし、士族の信ずべきものにあらずと思ひ、爾來 僧侶まで大に損斥せらる入に至れり、ロバ寺院は景勝の地にあるを以て、士族が官妓を俘ち て遊興に出掛くる所となり、内地の料理屋風に化せり、故に全道の寺敷一千四百鹸、僧尼 敷八千三百鹸あるに拘らず、興學布教傳道をなすこと全くなかりき、併合後幾分が面目を 一新せりといふも、日猶ほ淺くして効績を纂くるに至らず、故に今より僧侶の教育を進 め、布教傳道を興し、人民に精神修養の道を授けざるべからず、其外朝鮮には檀君教、侍 天敦、天道敦、青林教、元綜教等ある由、其教理は熟知せざれども、支那の道教に迷信を 混同せしものならんかと思ふ、青林教にては南方に樂土あり、是れ現世の極樂にして、其 土に佳するを得ば日本も濁逸も攻め來るの虞なしと読き愚民を勧めて此に至ることを祈願 せしむと聞く、其外巫女の勢力盛んにして、其言に惑はさる玉もの多しといふ、何分下等 の鮮人は智識の程度低くして、自動車を見、其響を聞きて、此中に何頭の犬を入れてある ニマ かと尋ぬる由、斯る愚民を奇貨として種々誰惑手段を講するもの起るべし、故に朝鮮佛教 を改良して愚民をして迷信に陥らざらしむこと實に目下の急務とす、以上は見聞の儘を掲
げて、愚考を附記せるまでなり。 ヘマご 朝鮮人は併合前は悪政の下に苦み、勤倹産を治むれば、其財を徴収せられ山野に殖林す れば、其樹を徴襲せられたる由、故を以て人民は所謂其日ぐらしを以て足れりとし、毫も 奮闘努力するの氣力なきに至れりといふ、豊慨歎せざるべけんや、朝鮮の牛は大、馬は小 なるも、悪政の結果なりと聞く、若し肥大なる馬を飼育すれば、直ちに無代にて徴襲せら る入に付、小馬のみを種馬として馬の小ならんことを望むに至り、牛は徴獲せらる入こと なきを以て、大牛のみを種牛として自然に改良の出來るに至れり、聞く所によるにむかし 観察使が赴任するときには、先つ高虚に登りて民家を一覧し、少しく目立ちたる構造をな せる家を認むれば、眞ちに戸主を拘留して出金を強制せりといふ、然るに併合以來悪政は 善政と一饗し、人民始めて其堵に安んずるを得たり、朝鮮人たるもの永く此恵澤を忘れざ らんことを望む、余は各會場に於て述べて曰く、日本の名は旭日なり、朝鮮の名は朝はア サ、鮮はアザヤカ、郎ち朝の景色なり、此景色は旭日によりて生するものにして、若し旭 日なかりせば朝鮮は無意味となるべし、之れと同じく日本に併合して始めて朝鮮の光輝を 揚くべきのみ、故に鮮人に取りては此併合を衷心より歓迎して、國運の発展に蓋庫せざる べからず、宜く戊申詔書の荒怠相誠自彊不息を實践躬行すべきなり。 第 十 六 編⋮ 二十一
第 十 六 編 二十二 余は哲學専門なり、西洋の哲學の淵源を尋ぬるに、東洋より流れ込たること殆んど疑ふ の鹸地なし、是れ濁り哲學のみに限らず、東洋は文明の先進なり、師長なり、今より三千 年の太古にありて、世界の文明を支配したりしものは、ロバ東洋あるのみ、依て我々東洋人 たるものは内地人と朝鮮人とを問はず、東洋文明の再興を以て自ら任じ、文明の太陽を再 び東洋の天に回らさcるべからず、是れ實に天の使命なりと余が深く信する所なり、各所 に於ける朝鮮に封する演詮場に於て拙作を掲けて、素志のある所を示せり。 大道由來三道分、極東猶未喪斯文、從今富士峯頭月、照破泰西洋上雲。 慮々東風描雪吹、欧桃米李一時披、吾家別有老梅在、春浦三千年古枝。 更に[家濁得の言文一致を賦す。 旭光一自入京城、八道山河雲始晴、五百年來枯草木、暖風A,日見春榮。 朝鮮紀行は之を大尾となす。 朝鮮全道開會[覧 ︵道︶ ︵府郡︶ ︵面里︶ ︵會場︶ ︵席藪︶ ︵聴衆︶ ︵主催︶ 京畿道 京城府 東別院 一席 三百人 愛國婦人會 朝鮮教育倉、 同 同 高等女學校 二席 千三百人 京城日報吐、 朝鮮満洲硅
同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 平安北道 第 同 同 同 同 同 同 同 同 同 仁川府 同 同 同 目刊戎けb 円目P十’羽石 同 水原郡 義州郡
十六編
龍山 南山 龍山開城
同封鮮人 水原 義州同前
高等普通學校 鐵道倶樂部中學校
警官練習所東別院
逓信局
軍司令部進明校
東別院
小學校
商業學校東別院
小學校
同前
劇場
公會堂
席席席席席席席席席席席席席席席席席
八百人 八百五十人 三百人 一千人 五百人 一千人 五百人 六百人 三百五十人 六百人 四百人 三百五十人 三百人 二百人 三百人 五百人 四百五十人 二十三校長
同校
同倶樂部員同校
同所
同院
同局
司令官
進明淑明與校 赤十字杜及 愛國婦人會同校
同府
同院
郡廉
同前
懇話會
面長
第 同 干安南道 同 同 同 同 同 同 同 同 黄海道 同 同 同 江原道 同 同
十六編
新義州郡 干壌府 同 同 同 同 同 同 鎭南浦府 同 海州郡 同同
鳳山郡 春川郡同
通川郡 新義州海州
同封鮮人 同 沙里院 春川 同 長箭小學校
中學校
高等普通學校 東布教所小學校
寺院
高等女學校 鐵道倶樂部 商業會議所 東布教所芙蓉堂
同前
小學校倶樂部
普通學校同前
民家
席席席席席席席席席席席席席席席席席
二十四 三百五十人 四百五十人 五百人 八十人 二百人 六百五十人 三百人 百五十人 五百人 三百五十人 三百五十人 二百五十人 三百人 三百人 二百五十人 三百五十人 五十人有志者
校長
校長
布教使 道教育會 京城日報吐 愛國婦人會 鐵道 官民有志 婦人會道廉
同前校長
郡廉
道廉
同前 至心會同 忠清北道 同 忠清南道 同 同 同 同 同 同 同 同 全羅北道 同 同 同 第 杵城郡 清州郡 同 公州郡 同 同 燕岐郡 論山郡 同 大田郡 同 同 群山府 同 同 全州郡 十 六 編 温井里
清州
同 公州 同封鮮人 同 鳥致院 論山 江景 大田同同
全州 旅館 小學校 普通學校 東布教所 小學校 普通學校 東布教所 小學校 劇場 東布教所 同前 普通學校 小學校生徒 同前公會 東布教所 公會堂生徒席席席席席席席席席席席席席席席席
三十人 四百五十人 四百人 三百人 三百五十人 三百人 二百人 二百人 四百人 五百人 三百人 二百人 六百五十人 六百人 五百五十人 五百人 二十五 有志者道廉
同前 布教使道廉
同前 郡廃 郡廃 有志 教育會及布 教所 中學校及 小學校 同校 赤十字社 及教育會 同前 協和會 教育會第 同 同 同 同 同 同 全羅南道 同 同 同 同 同 慶借北道 同 同 同 同 十 六 編 同 沃溝郡 同 益山郡 同 金堤郡 木浦府 同 光州郡 同 同 羅州郡 大郎府 同 同 同 迎日郡
金同裡瑞黄同
堤 里穂登
光州 同 松汀里 榮山浦 浦項 同⊥剛一公會 小學校 小學校 東布教所 劇場 小學校 小學校 東別院 小學校寺院
小學校 東布教所 軍人集會所 同前 同封鮮人 高等女學校 小學校席席席席席席席席席席席席席席席席席
二十六 八百人百人
二百五十人 二百人 三百人 四百人 一千人 二百五十人 五百人 三百人 二百五十人 二百人百人
三百人 四百人 二百五十人 二百五十人 同前 學校組合 學校組合 婦人會 郡廉 教育會 府君 婦人會 有志者 愛國婦人會 學校組合 軍人會 ↓p︰又吏 名メ亨r 愛國婦人會 教育會 同前校長
郡廉同 同 慶尚南道 同 同 同 同 同 同 同 成鏡南道 同 同 同 同 同 同 第 同 慶州郡 馬山府 釜山府 同 同 晋州郡 同 昌原郡 同 元山府 同 同 同 威興郡 同 同 十 六 編 慶州 同
同鎭同音草
海
州梁
成興 同封生徒 同封鮮人 普通學校 小學校 小學校 小學校 東別院 鐵道倶樂部 東布教所 小學校 小學校 水交硅 普通學校 小學校 商業學校 東別院 小學校 小學校 普通學校席席席席席席席席席席席席席席席席席
三百人 二百五十人 三百五十人 五百人 六百人百人
百人
四百人 三百人百人
四百人 九百人 五百人 戴百人 三百人 三百人 試百五十入 二十七 同前 郡廉府廉
教育會 同院 同倶樂部 婦人會 有志者 有志者 要港部 府廉 同前 同前 愛國婦人會道廉
同前 同前第 同 威鏡北道 同 同 同 十 六 編 同 青津荷 同 鏡城郡 同 同
羅鏡
南城
東布教所 小學校 東布教所 普通學校 小學校席席席席席
二十八 四百人 八百人 貫百人 四百人 五百人 布教所 府弄及有 隣會 布教所 道廉郡廉 面長 趨計十三道十一府二十六郡三十面里九十一ケ所百十六席聴衆参萬五千九百拾人。 詔勅修身二關スルモノ 妖怪迷信二關スルモノ 哲學宗教二關スルモノ 豹教ム目二關スルモノ ・實工茱二關スルモノ 雄︹.題二廟 スルモノ 七五席 二十席 十四席 四席 一席 二席青森縣巡講第一回︵奮南部︶日誌
大正七年七月廿五日午後六時随行松尾徹外氏と共に上野鍍に乗込、乗客浦室、終宵眠り 難し。 廿六日晴、朝五時仙曇に停車するや、吉村善吉氏來訪あり、午前十一時牛青森縣三戸郡 三戸騨に着す、是より三戸町まで三十町、其途中に唐馬碑あり、往昔支那より亜刺比亜馬 を幕府へ献じ來りし時、之を南部藩に賜はりしといふ、爾來馬種の改良を得て、南部馬の 聲債を高むるに至れり、是れ其碑なり、午後三戸小學校に於て開演す、同校は火災にかs り、昨年再築竣功、講堂は澗大なり、護起は町長北村芳太郎氏、校長山口清陽氏にして、 宿所は丹波旋館とす、此日炎暑九十二度に上り、東京以上たり、郡覗學大庭恒攻郎氏八戸 より來會せらる、旗館の宿料を見るに、特等一園七拾銭、一等一圓、二等七拾五銭、三等 六十践と掲く、凡そ朝鮮の三分一なり。 廿七日炎晴、汽車にて北川字劔吉に移る、三戸より三里半あり、宿所は騨を去る七八 丁、曹家出町甫氏の宅なり、會場小學校は其背部の丘上にあり、其下の祀側の小池は往古 田村將軍其水を見て剣を鍛へりとの博説より地名起りしといふ、此日午後雷雨あり、後大 第十六 編 二十九第 十 六 編 一ご十 に清涼を畳ゆ、夜に入りて更に降雨あり、圭催は青年團、獲起は村長工藤一郎氏、校長米 田泰助氏等なり。 七月二十八日︵日曜︶炎晴、但し風ありて涼し午前汽車に駕し、尻丙にて換車し、八戸 町に至る、劒吉より四里牛あり、午後劇場錦座に於て一席は生徒の爲め、一席ぱ公衆の爲 に講話をなす、郡長尾上賢次郎氏出席せらる、主催は町青年團及郡敦育會にして、発起は 郡長郡硯學及青年團副長稻葉萬藏氏、同顧問幅田大助氏、校長岩泉亀松氏、教育會理事松 原民彌氏等なり、本町は薔南部支藩の城下にして、戸敷二千七百、青森弘前に吹くべき都 ママザ 會とす、余が今より二十七年前本縣を一巡せし際は、眞宗大派願榮寺に宿泊せり、住職吉 川圓成氏今尚ほ健在なり、當地には哲學館出身者多し、高木一慰氏︵中學校教諭︶、幅田祐 記氏︵奮名男見︶、稻川義忍氏︵新聞記者︶、久慈政勝氏︵奮名松原鐵太郎︶是なり、八戸名 ウ ニ 物を聞くに、雲丹をアハビの貝殼に入れて焼きたるもの、之をヤキカゼといふ、カゼとは 雲丹の方言なり、又砂糖氣のなき胡麻煎餅も名物とす、之を南部煎餅といふ。 二十九日曇、朝來大に清涼を畳ゆ、日中七十六度、午前中に腕車にて行くこと約一里 牛、是川村に入る、是れ純農村なり、會場及宿坊清水寺は維新前は天台宗なりしが、明治 二年眞宗大谷派に改宗せし由、其境内に観音堂あり、本尊は慈畳大師の作、本堂は左甚五
郎の建築との所傳なり、門前に鳥居あるは寺院として異例とす、其地山に接し林を擁して 清暑に適す、又静閑鹸りありて終日ロバ蝿聲を聞くのみ、依て壁上に一詩を留む。 車過田縷入是川、観音堂畔老杉連、軒端一枕不知夏、林下清風冷似泉。 発起は村長束政之進氏、住職野澤静氏、助役林崎景年氏、校長干田慶款郎氏、牧入役鈴木 通孝氏にして、皆大に蓋力あり、書夜揮毫に忙殺せらる。 三十日晴、風ありて涼し、夜來の降雨曉天に至りて牧まる、遙に杜鵠の聲を聴く、午前 八時高等馬車に乗り、八戸を繧て湊村に至る、八戸と湊との間は約一里、會場は小學校、 ごモ 主催は本村と小中野、鮫との三村聯合、発起は港村長關春茂氏、助役湊允氏、小中野助役 山田利也氏、鮫書記石田正太郎氏等なり、當夕小中野村美野部旅館に宿す、湊より一里 強、鮫海水浴場あり、避暑客多く集る、石田旗館最もよしと聞く、此地方は岩手縣と同じ く、旋館の宿泊料の外に丸飯十二銭として掲く、丸飯とは書食用の握飯をいふ。 三十一日曇晴、暑氣強からず、湊より汽車にて尻内に至り、是より四里の間馬車を駆 り、午前中に淺田村に入り、字淺水村長坂本萬攻郎氏宅に休泊す、會場は小學校、護起は 坂本村長と青年團長中川原貞機氏、校長小向政弘氏等なり、本日途中にて青年が旗を樹 て、鼓を・鳴らして田間を一過せるを見る、是れ田家の虫祭にして、害虫を騙除する奮慣な 第 十 ]ハ 編⋮ 一二十一
第 十 六 編 一二十一一 りと聞く、地勢丘山をなせるも高からず、路傍には稻田多し、本郡は養翼未だ盛ならず、 田畑耕作を以て本業とす、南部には一戸二戸等の町村名ありて九戸に及ぶ、其中四戸を訣 けるが、淺田村が四戸に當るといふ、而して其名稻を用ひざるは四の字を厭忌せしに由る といふ、又淺水に就きて一傳論あり、淺水は朝見ずより轄化せし由、昔時安達ケ原の鬼婆 此地に佳し、一夜の中に人を奪ひ去れり、依て翌朝時々人の見えざるに至ることあり、是 れ村名の起原と聞くも信じ難し。 八月一日炎晴、馬車にて行くこと約二里、高原を登りたる慮に五戸町あり、會場は小學 校襲起は高雲寺住職大竹保順氏、助役三浦梧棲氏、青年團幹事田中誠一、江渡慶攻郎二氏 なり、大竹氏は蕗哲學館出身なり、其夕桃喜族館に宿す、當町は毎月七の日に市場を開 く、物産として鶏卵を輸出す、助役三浦氏は子爵と同名なるは面白し、其風貌に於て幾分 か相似たる所あり。 モモイン オ イ ラ セ ニ日炎晴、馬車にて行くこと四里牛、下田を経て上北郡百石村に入る、本村は奥入瀬川 の岸頭に立てる小市場なり、其川に架せる幸運橋は老朽して今は不蓮橋となる、會場は小 學校、登起は村長三浦元次郎氏、軍人分會長村井惣次郎氏、校長永瀬佐太郎氏等なり、京 北出身村井倉松氏の宅は此村にあり、郡役所より祠學清野眞太郎氏此に出張せらる、宿所
は昆梅次郎族店なり、當夕街上に盆踊あり、其ハヤシは軍調なれども聞取れず、校長通謹 して﹁成にやとなされて何どやれ﹂を繰返すなりといふ、其意味は﹁爲せば成る爲さねば 成らぬ成るものを、成らぬといふは爲さぬなりけり﹂の道歌に同じと聞く。 三日炎熱、騨道五里の間荷馬車に駕し、田圃と草原との間を一過す、支那内地の旋行に 似たり、中間に六戸村あり、市街の形をなす、午前中に三本木町に着す、昔時新渡米傳氏 此地を開墾せし以來、全國各縣より移佳民集りて此市街をなせりといふ、今借ほ新渡米氏 の墓には時々参痒に來るものある由、會場小學校は郡内第一の大校と構せらる、士⊥催は町 長原田鐵治氏、助役豊川毅氏、校長中山留五郎氏、宿所は金崎旅館なり、伯爵土方久元氏 當所の安野旅館に宿泊ありと聞き、講演後訪問す、同伯は八十四歳の高齢を以て十和田湖 の探勝に來られたりと聞く、其勇氣敬服すべし、十和田は三本木より十二里、奥入瀬川は 其湖より流下せる故、此川に沿て派れは道路殆んと平坦なれども、今日省ほ五六里の間は 腕車通ぜずといふ、郡長清水正澄氏も此にありて面會す。 八月四日︵日曜︶炎晴、行程三里、腕車にて七戸町に至る、郡衙所在地なり、途中は全 く新開地なるも稻田多し、七戸市街は渓谷の間にあり、只會場小學校だけは丘上にあり、 開會襲起は町長野邊地俊夫氏、校長苫米地半吹郎氏なり、篤志家工藤轍郎氏哲學堂へ特別 一弟 十 六 編 一二十三
﹄弟 十 六 編⋮ 一二十四 の寄附あり、又奮館外員米内山鰍城氏よりも寄附あり、當夕は大重旅館に宿す。 チ ドニ 五日炎晴、草原牧野四里の間を馬車にて一走し千曳騨に至る、是より一里の問は汽車に 依りて野邊地町に入る、千曳村には田村將軍の遺跡とて途中に田村泉と構する清泉あり、 往古田村將軍弓の先を以て地をつきたれば、水忽ち噴出せりとの口碑傳はるといふ、本日 縣下第一の牧場を通過せる時、所見一首を賦す。 東奥干原望渤荘、馬過時見路塵揚、車行十里無人屋、牛是農園半牧場。 昨日以來郡書記鷹山胤三氏同行せらる、午後の會場は小學校、夜分の會場は曹洞宗常光 寺、稜起且つ蓋力者は町長篠田龍夫氏、助役野坂彦治氏、常光寺、西光寺︵眞宗︶、海中寺 ︵浮土︶、遍照寺︵同︶、有志野村治三郎氏、校長松内源攻郎、成田常次郎二氏なり、宿所立 花館は海に枕し、眺望廣潤、海氣清涼、消夏避暑に適す、因て部吟を棲上に留む。 奥北一漕風月饒、櫻頭涼味夏宜消、雲封下北山難認、坐見帆光映暮潮。 棲名を潮花棲と命ず。 六日曇晴、海上に霧氣あり、野邊地より下北郡々役所々在地田名部町まで陸路十三里に して、車道あるも其問馬車も人力も往復せず、強て之を雇用するときは多額の車代を携は ざるを得ずと聞き、當夕六時の汽車にて青森市浦町騨に下り、濱町盤谷旅館に一休し、夜
マこ 十時南部丸の小汽船︵七十噸︶に駕す、客室満員、其横臥の有様は大根漬の如し、室内風 通せず、炎熱甚しきに加ふるに蚊の襲來あり、海上濃霧の爲に深夜二時出航す。 七日曇、朝七時下北郡川内町に停船中、哲學館出身石澤慈興氏︵奮名宇記︶來訪あり、 九時大湊に着岸す、當所には海軍要港部あり、是より一里半馬車を駆り田名部山理旅館に 一休し、再び馬車に駕し、郡覗學石田幸六氏と共に四里の間を一走して大畑村に入る、其 道は郡内有名なる恐山の山麓と海濱の間を一過す、路傍に牧場あり、叉漁場あり、所見一 首を賦す。 右望蒼漠左膿原、恐山雲鎖竿天昏、潮風聲裏濱頭路、一過漁村入寺門。 へ ニマ 大畑の會場は眞宗大派正教寺なり、佳職竹園義亮氏は開會に付大に蓋力あらる、襲起は竹 園氏の外に村長宮浦力四郎氏、郡會議長森又四郎氏、信用組合長佐藤佐五郎氏、青年團長 菊池寮玄氏等なり、此日清冷にして暑氣を畳えず、本村は漁業者多く、昨今巳に名産の一 たる■賊の漁期に入るといふ、是より海峡を隔て函館に封するを以て、北海道出稼者多・し ハマィて と聞く、是より八里にして大間崎あり、下北半嶋の最北端なり北海道の封岸へ海上僅に六 七里に過ぎざる由、恐山の登路は大畑よりも田名部よりも同じく三里と稻するも、大畑の 方道路干夷なりといふ山上に地獄と極樂とありとて其名高し、地獄は山上の湯氣の噴出す 第 十 六 編 三十五
牌弟 十 六 綿⋮ 三十六 る慮、極樂は湖水ありて其濱の白砂洗ふが如く清浮なる虚を指すとのことなり、奮南部領 の人は死後必ず此に至ると信じ、生時に必ず登拝すと云ふ、余は其言を聞きて一絶を賦 す。 峰頂風物自恢洪、世事關心忽作室、誰道天堂冥府遠、歴然近在此山中。 當夜の宿所は郵便局兼旅館なる櫃屋なり。 八日雨、朝氣冷かにしてフランネルを要す、午前中に馬車にて田名部へ婦り、午後丘上 に立てる小學校に於て開會す、郡長小西爲助氏は廻村中にて面會するを得ず、町長菊池門 五郎氏、校長石井穣氏、圓通寺、徳玄寺、浮念寺等の登起にかふる、田名部は維新の際會 津藩の移韓を命ぜられたる地なり、是より野邊地まで敷年中に鐵道全通すべしといふ、當 地にて恐山の不思議を聞くに、山上に圓通寺の出張所ありて、敷百人止宿するを得、其他 にも宿舎あれば、毎年七月廿四日には敷千人登山して此に通夜すといふ、其湖畔に費の河 原と名くる所ありて、小宇に地藏尊を安置す、毎夜自然に小石の積まるふあり、夕刻此に 至りて其積石を崩すも、翌朝元の如く積まる入は不思議の一なり、宿坊に在りて深夜地藏 禽の錫杖を鳴らす音を聞く、是れ不思議の二なり、夜中降雨あれは翌朝必ず堂内の地藏尊 の衣が雨にぬれて居るは其三なりと聞く、登山者は大抵前日より精⋮進潔齊をなすといふ。
九日曇、田名部より馬車に依りて大湊に至り、是より陸路五里の間海路を取り、東北丸 ア ベ ンロ にて川内町に着す、休泊所は安部城鑛山持圭田中干八氏の別荘なり、食事は季富旅館より 途り來る、會場は劇場にして、襲起は町長谷山成章氏、校長三浦清磨氏、泉龍寺、多善 寺、憶念寺、本畳寺等なり、憶念寺石澤慈興氏は最初より本郡の開會に大に奔走蓋力せら れたり、是より十鹸里を隔つの佐井村より石澤寂良氏來りて助力あり、郡内の眞宗寺院は 大抵皆石澤を姓とすといふ。 十日朝霧後晴、午後川内を襲し、土呂車にて渓上を沢ること一里牛、安部城鑛山に至 る、途中群虻襲來す、此地方は虻の名所にて、室内へも時々襲撃し來る、民間にては虻の 多き年は必ず豊作なりとて之を歓迎すといふ、虻が豊年の瑞兆とは始めて之を聞く、休泊 所は鑛山倶樂部、會場は娯樂館、襲起は所長高橋芳雄氏、課長山田値太郎氏、及秋元雄吹 氏なり、而して講演は夜會なり。 八月十一日︵日曜︶炎晴、午前中に安部城を襲し、川内町にて少憩して汽船南部丸に移 ノク ノ ベ り、宿野部村に上陸し、是より一里鹸を土呂にて走り、正午を過ぎて同村字西叉鑛山に着 す、持圭は安部城に同じ、當夜劇場にて開演す、護起は美濃部甲子郎氏、宇治清三郎氏 等、宿所は開陽館なり。 笛叩 十 六 編 一二十七
第 十 ⊥ハ 編 一二十八 十二日炎熱、日中九十度に達す、午前土呂にて走ること約十町、大正鍍山に移る、午後 際雨一過するも炎氣夜に入りて去らず、休泊所は所長道野能通氏の宅なり、會場は事務所 内にして晩食後講演をなす、襲起は所長の外に小田桐辰藏氏、工藤歳太郎氏とす、津輕の ペ ノ 名物七夕祭之をネブタといふ、近年は南部地方にも傳播し、書夜山車を引廻はし、盛んに 騒き立つるを見る、一昨日來三ケ日間郡内の鑛山を巡講して所感一首を浮ぶ。 路與渓流共作曹、黄煙騰盧是銅山、仙源今日化都會、車馬朝昏忙往還。 石田硯學は富所まて同行せらる、本郡は九ケ町村にして、學校は分教場を合せ五十五校あ りといふ。 十三日朝雨後曇、暑氣薄し、宿所より海岸まて一里鹸を土呂にて走り、正午乗船、午後 三時青森市に着す、石澤氏は我行を途りて此に至る、市内は名物ネブタの最終日にして、 山車の前後假面を被り、假装をなして相從ふ、其欣殆んど狂するか如し、川内にて舟子が 舟を漕ぐときの掛聲がイーヤセー、ゴーラヘーと繰返しー互に調子を合はすは面白し、 下北にて聞くに南部の名物はへである、一のへ二のへより九のへまでありて58補助として 尻が澤山ある、尻内、尻屋崎、尻勢︵皆地名︶、最後にクソドマリがあるといふ、亦奇なら ずや、尻芳をシツカリとよむ、普通語のシツカリセヨなどは尻に力を込ることにて、尻券
の意なるやも計り難し、クソドマリは文字の方は九艘泊とかくも、讃方はクソドマリな り、其地名は宿野部の海岸にあり、是れ下品の話なれども一笑に債す、青森の宿所は盤谷 旅館なり、奮友干沼淑郎氏と期せずして會す、此日縣覗學能登谷甚五郎氏硯學官に代りて 來訪あり。 青森縣下の奮南部と稽する方面を巡了したれば、其地方の方言を記せんに、其中には他 方面に共通のものも加はれり、牛をベコ 蛙をビキ ヒキカヘルをモラビキ 飯を盛るシ ヤモジをヘラ 鐵瓶をカマコ 農夫の編笠をバオリ ジヤガ芋を二度芋 暑いを暖ヵイ 下北郡の下等冠會は父をダ×、母をチ・と呼ぶ、母をチ・と云ふは奇なり、乳より來りし 語ならんとの説あり、赤見の生れたることをニガナシタといふ、ナシタは産出の義なり、 語尾にオマへを附くることあり、例へばサウダオマへといふ時の如し、又上北郡にてはセ とへの相違あり、例へは兵.隊をセイタイといひ、煎餅をヘンベイといふか如し、青森縣に ては町内の各戸に軒下の通路あり、越後にて之をガンギといふが、本縣にてはコミセとい ふ、海岸に生する草にて方≡.ロニオと名くるものあり、子供は之を採りて食す、甘味ありと いふ、振宿に就きては本縣は岩手縣の如く旗館と料理屋とり兼業を許さぶるは大に好し、 下女は氣がきかざるも質撲なるは亦よし、客室の風通し悪しく、室毎に櫨叉は大火鉢を 第 十 六 編 三十九
第 十 六 編 置くか如きは、冬に適するも夏に適せず、ビールは物債騰貴の爲、 なるが、本縣は三十五銭なり茶は振館まで比較的上等の品を用ふ。
青森縣巡講第二回︵奮津輕︶日誌
四十 關西は大瓶一個四十銭 大正七年八月十四日晴、昨夜來青森市に入宿せしに付早朝知事川村竹治氏、内務部長見 玉孝顯氏、硯學官山中恒三氏を歴訪す、午後新町小學校に於て開催せられたる市教育會に 出講す、襲起は會長工藤卓爾氏、副會長窪田春吉氏、幹事大干勝郎氏なり、市長阿部政太 郎氏にも席上にて面會す、青森大林画署に在勤せる石塚茂孝氏は、東洋大學出身の縁故を 以て當地開會に非常の蓋力あり、演論後晩六時牛襲にて東津輕郡中平内村字小湊に移り、 夜會に出演す、曾場及宿所は眞宗泉流寺なり、聴衆満堂其中に婦人の敷男子よりも多きこ ムと、念佛の聲の演詮中に時々起ることとは當夕の特色と認む、住職無井藁瑞氏は先遊の 際各所へ案内せられたる喜識にして、今同も大に奔走あり、故に余は特に﹁無井而汲法 水、無鋤而耕佛田、是即露瑞不可議也﹂と書して氏に贈る。 十五日晴雨不定、午前小湊曹洞宗東幅寺に於て開演す、襲起は村長森田盛健氏、校長種 市有隣氏なり、是より汽車にて青森市に婦る、此里程七里の中間に淺虫温泉あり、先遊の節入浴せしに、極めて田舎式の客舎のみなりしが、今は全く面目を一饗せり、東奥館、仙 波館等敷多の旅館あり、青森に着するや盤谷族館にて午餐を喫し、是より矢の如き一直線 の道路一里鈴を車行して荒川村に入る、之を監獄道路と稻す、本村に監獄署あるに由る、 會場は小學校、圭催は荒川大野高田三村聯合なり、荒川村長櫻井文吉氏は青森より此に案 マこ 内せられたり、典獄島田鍬太郎氏及郡覗學荒谷元一氏出席せらる、東津輕郡長は藤原喜藏 氏なり、演説後暫時茶話會し、直ちに哲學館出身柿崎干造氏の案内にて青森経由、油川村 に至り、村長西田林八郎氏の宅に投す、行程二里宇、市外萬頃の米田は往々已に穂を吐き つメあるを見る。 十六日晴雨不定、午後油川小學校に於て開演す、村長西田氏及校長佐藤良則氏の襲起な り、西田村長は事業家にして且つ篤志家を以て其名高し、すべて公共事業には率先して力 を蓋さる入といふ、本村は青森の根元地にして、今より二百七八十年までは北海道へ出入 する要港なりしといふ、目下は外人の経管にか﹂れる鰯の罐詰を製造する工場あり。 十七日雨、朝馬車にて西田氏の宅を襲し、約一里新城騨に至りて汽車に駕す、其吹に大 鐸迦と名くる騨あり、奈良の大佛騨と好一封なり、午後南津輕郡浪岡村小學校に於て開演 す、村長岡田清干氏主として大に蓋力せられ、其他海老名行氏、土屋俊藏氏、岩谷節氏、 第十 六 編 四十一
第 十 六 編 四十二 寺山祐雄氏、干野喜太郎氏、山内英七氏等十三名の諸氏皆助力ありて、哲學堂維持金も望 外の多額を拝受するに至る、宿所玄徳寺は眞宗大谷派なり、當夕錨聲を聞きて所感一首を 賦す。 津輕干野路縦横、稻田抽穂畳秋生、朝來風雨涼俄起、 一夜客庭姦有聲。 岡田氏は哲學館の關係者上、先遊の際も奔走の芳を取られたり。 八月十八日︵日曜︶晴雨不定、午前浪岡を襲し、川邊騨まで汽車、是より約三十町の間 腕車を取りて午後藤崎村に至り午後小學校に開演す、村長藤本榮氏、校長千葉有定氏、敦 育會理事幅士義光氏、副會長小笠原保雄氏等の獲起にか﹂る、本村は眞宗寺院構名寺外敷 ケ寺あるも、耶蘇教信徒も少からず、種々の宗教信者ありと聞く、演読後直ちに車を廻ら す、四望一面稻田なり、川邊より輕便に駕し、郡役所々在地たる黒石町に入る、當夜眞宗 感随寺に於て開演す、佛教洪濟會の圭催にて、住職穴水義鎧氏、來迎寺小鹿秀明氏、保幅 寺山口畳明氏、及法眼寺圓畳寺長壽院の襲起にかふる、就中小鹿氏中心に立ちて非常に奔 走蓋力せらる、宿所は岡崎旅館なり。 十九日晴、早曉旗館の三層棲より同望するに、岩木山と八甲田山との左右に勇ましく頭 肩を聾かせるを見る、午前郡長松下賢之進氏來訪せらる、當日は奮七月十三日にして町家
寺院共に繁忙を極む、故に午後小學校に於て郡教育會の爲に講演せるも、聴衆至て少な し、襲起は郡長の外に町長山田文彌氏、校長大干喜三郎氏なり、當地にて盆の馳走を聞く に赤飯とヤキ豆腐と、モヤシとを用ふといふ、モヤシは豆のモヤシにあらずして、蕎饗.の ハマこ モヤシなり、其味頗る好く賞味するの贋あり、夜に入れは皆墓墓をなす由。 二十日曇、郡覗學杉森秀一郎氏不在なれば、郡書記千葉恒之進氏各所へ同行せらる、午 前車行二里宇、大光寺村松崎小學校に至りて開演す、青年團長須々田孫九郎氏の発起な り、午後車行約一里、柏野町村小學校に移りて開演す、教育分會長工藤友太郎氏の襲起な り、此雨村は純農村にして、米作を本位とす、演詮後更に腕車を進むること一里鹸、丘山 の問を漸吹登りつパ竹館村宇唐竹相馬貞一氏の宅に至る、其宅は此地方の奮家にして、庭 園の老樹巨石其配置雅にして趣あり、今夕奮盆十四夜に當り、街上の盆歌相博へて客席に 入る、時に微雲淡月なり。 一夕山荘養振情、青松白石浦庭晴、朦朧月下聞歌曲、便是津輕盆踊聲。 津輕は盆踊の名所として世に知らる、東洋大學出身者の一人たる相馬榮造氏は貞一氏の舎 弟なるが、不幸にして隔世の人となられしに付、當夕其宅に於て追弔の講話をなし、且つ 遺像に左の語句を題す。 第 十 六 編⋮ 四[十一二
第 十 六 編 四十四 修學吾校、業成蹄郷、心有所期、前途悠長、事與志違、身臥病林、天何無情、君遂天 瘍、予封遺像、荘然自傷。 二十一日晴、午前唐竹小學校に於て開演す、村長相馬清助氏、軍人分會長丹代義男氏、 校長藤林多三郎氏の獲起にか瓦る、本村は林檎の本場、其産額一ケ年七萬圓と稻す、樹一 株に付七八百乃至一千個を牧得すといふ、村内村外殆んと檎樹を以て浦たさる。 一過稻田入紫徴、浦林珠玉暑鹸肥、山村生産培檎樹、葺果年々購食衣。 午後二時唐竹を聾し、車行二里宇大鰐村小學校に至りて開演す、教育分會副長原源吉氏、 青年團長今良健氏等の嚢起にかふる、當所は縣下第一の温泉場たり、昨年火災にか入りし も新築忽ち成る、休憩所は工藤旅館なり、其館は江流に臨みて清風座に満⋮つ、湯殿及便所 の設置頗る清新にして、當所第一の旅館たるの名に背かず、此外に大鰐ホテルあり、之に 次きて金森等敷戸あり、名物は林檎とアケビ細工なり、晩食後奮七月十五日の明月を戴 き、三里の間汽車にて弘前市に移る、車窓吟一首あり。 坐−日倫閑浴鰐泉、初更戴月向弘前、満⋮天如書清輝涯、望裏分明認倒蓮。 倒蓮とは岩木山即ち通構津輕富士をいふ、宿所石場振館は騨より半里あり、奮遊當時の宿 泊所なり、之に次くものに齋藤旅館あり。
二十二日晴、午前物産陳列所を一覧し、名物の漆器アケビ細工を購入す、午後佛教護國 團の王催にて開催せられたる開會に出演す、會場は公會堂なり、昨今は米憤暴騰一升五十 銭を呼ぶに至り、各所に貧民暴動ある際なれば、公會堂に於て米穀を安債にて貢渡すの廣 告あり、當市獲起は左の敷氏なり。 最勝院鷲尾照尭 長勝寺山口彰眞 報恩寺小林道詞 法立寺八戸随静 圓明寺下間芳山 天徳寺相馬働雄 分監長三浦二二 以上の諸氏は一方ならざる蓋力あり、市長石郷岡文吉氏も助力せらる、哲學堂維持金の如 きは全國無此の多額を拝受す、其結果は蕾に青森縣に於て第一たるのみならず、一ケ所一 日間の開會として實に室前の最好成績を得たり、是れ聾起諸氏に封し深く且つ大に感謝す る所なり、當市にては豫め法立寺内に井上博士招聴事務所を設けられ、佳職八戸氏其圭事 となりて、百方蓋痒せられたるは特に其芳を謝せざるを得ず、飴り賛成者多敷によりたる 爲に、未明より深更まで揮毫に忙殺せしめられたり。 二十三日曇後雨、午後一時弘前を登し、奮城跡今公園を一覧す浦池の蓮花正に酎なり、 第 十 六 編 四十五