職場のメンタルヘルス
著者名(日)
喜岡 恵子
雑誌名
工業技術 : 東洋大学工業技術研究所報告
号
31
ページ
9-13
発行年
2009
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002028/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja職場のメンタルヘルス
喜岡恵了*
1.はじめに 世界保健機関(WHO)では,健康を「健康とは身体 的にも,精神的にも,社会的にも完全にいい状態を意味 するものであって,ただ単に病気や虚弱でないというだ けではない」と定義している.身体的に良好であるだけ ではなく,精神的にも良好であり,かつ社会的にも良好 な状態を健康といっている. また,日本産業カウンセラー協会ではメンタルヘルス の真の意味は,心の健康と身体の健康という医学的な次 元を超えて,家庭,職場,地域社会という生活空間や, ライフサイクルに応じたトータルヘルスあるいはウェル ビーイングという状況を考えることである1)としている. メンタルヘルスは本来,生活全体の健全さ,健康を表 すものと考えるべきだが,ここでは特に,職場における 心の健康を中心に考えていくことにする. 2.日本の労働実態 「過労自殺」という用語が1990年代後半に現れ,「過 労死」とともに,広く使用されるようになった.これは, 長時間労働をはじめとする仕事に関連した事柄が,白殺 の背景となった精神障害(特にうつ病)の発症に強く関 与していたと考えられることから発生したものである2’. 「過労→うつ状態→白殺」という因果関係が医学的に証 明されたわけではないが,司法的判断で,精神疾患も労 災認定がされるようになってきた. このような過労白殺の背景には,1991年頃からのH 本の経済動向の変化が関係する. 1973年から1991年頃までの日本経済の安定成長期に はエズラ・F・ヴォーゲルの“Japan as Number 1”に 象徴されるように日本的経営は成功していた.日本企業 の成功にはその団結力と労働の質の良さがあった,日本 企業は人材を重視し,終身雇用により社員の企業への帰 属意識を持たせ,年功序列により同期生間の給料の格差 を抑えながら社員同士の連帯感を保たせてきた.しかし, 1991年頃から始まった不況期には多数の企業が倒産し, 企業はコスト削減のために人に手をつけ始めることとな った.従業員の解雇(リストラ),早期退職制度の実施等 により,削減された正社員の穴を,残った正社員と非正 社員の採用で補充した. そのような日本企業の状況が,正社員の過剰労働をも たらしたり,失業者や生活苦の非止社員を生み出したり して,心身の不健康に至らしめている実態がある. 3.うっ病と自殺 弊察庁の統計資料によると,日本における自殺者数の 年次推移は図1のとおりである.平成19年の自殺者数 は33,093人であった,同じ瞥察庁の統計資料によると, 平成19年の交通事故死者数は5,744人であるので,平 成19年の自殺者数は交通事故死者数の6倍に近い値と なっており,白ら命を絶っ人の多さに驚かされる.昭和 53年から平成9年までは年間白殺者数が2万∼2万6千 人の間を推移していたにもかかわらず,平成10年に3 万人台に急上昇してからは10年連続で3万人を超えて いる.3万人を超すようになる前の年の平成9年は,山 一讃券や北海道拓殖銀行といった大手金融機関の破綻が 40,000 35,000 30,000 25.000 20.000 15,000 10,000 5,000 0願
34427 33093, 20788 21503 21228 21048 20434 2520224596 23599 25524 2134621084 @ − @ 一一 33048 32863 321433195731042一一
323253255232155 ⋮ 臣F S53 S54 S55 S56 S57 S58 S59 S60 S61 S62 S63 HI H2 H3 H4 H5 H6 H7 H8 Hg HIO Hll H12 H13 H14 H15 H16 H17 H18 Hl9 図1 年次別自殺者数(警察庁統計による) *財団法人 鉄道総合技術研究所 人間科学研究部(安全心理)主任研究員 工業技術No31(2009)一9一
職場のメンタルヘルス 金融不安を引き起こすなど,日本の経済に大きな打撃を 与えた年であった. 瞥察庁の統計で原因・動機別白殺者数をみると,この ような経済動向が自殺者数に影響していることがわかる. 平成19年のものだが,図2に示すとおり,第1原因は 「健康問題」で48%(さらに「健康問題」の41%がう つ病を原因としている),次いで「経済・生活問題」が 24%(さらに「経済・生活問題」の51%が負債,16% が生活苦,14%が事業不振,7%が失業を原因としてい る),「家庭問題」が12%,「勤務問題」が7%(さらに 「勤務問題」の30%が仕事疲れ,23%が職場の人間関係 を原因としている)の順になっている.「経済・生活問題」 や「勤務問題」が原因となっている白殺も多く,平成10 年に前年に比べ白殺者数が急増したこともうなずける. 一方,白殺要因の研究によると,大半の例で白殺前に は精神面の健康が損なわれていたという報告が増加して おり,その多くはうつ病であったといわれている2). 4.労働安全衛生法 労働安全衛生法は,職場における労働者の安全と健康 を確保するとともに,快適な職場環境形成を促進するこ とを日的としている.同法3条には事業者の責務が定め られており,職場のメンタルヘルスケアは,福利厚生的 な任意の措置ではなく,労働安全衛生法で定められた事 業者の責務であることがわかる. 同法では,事業者による定期健康診断の実施と労働者 への結果の通知を義務づけている.しかし,定期健康診 断でメンタルヘルスにかかわる問診を実施するかについ て定められているわけではなく,各企業がそれぞれ独自 に模索しているのが現状である4). 1972年に制定された労働安全衛生法は当初,物理的・ 化学的な安全と健康を守ることが上であったが,次第に 心理的・社会的な安全と健康を守ることが強調されるよ うになってきた. 労働衛生行政の流れの中で,メンタルヘルス対策が法 令上組み込まれたのは1988年で,労働安全衛生法の改 正によって労働者の健康保持増進措置(THP)が事業者 の努力義務とされ,この中で初めて位置づけられた.労 働者の身体の健康にこころの問題が関係していることが 少なくなく,労働者の身体疾患や行動の変化の背景にこ ころの状態の変化が関係していることが見受けられるこ とが多くなったためで,本人がメンタルヘルスケアを受 けたいと申し出た場合,あるいは健康測定の結果,メン タルヘルスケアを受けさせた方が良いと判断された場合 には,気づきやリラクセーションなどの措置を講ずるこ とが事業者に求められた4〕.職業病対策から健康保持増 進,快適職場の形成が推進されてくるわけである. 2000年8月には労働省(現,厚生労働省)によって 「事業場における労働者の心の健康づくりのための指 針」(メンタルヘルス指針)が策定され,4つのメンタル ヘルスケアの推進が示された.第1はセルフケアで,労 働者がストレスに気づき,ストレスに対処するための知 識と方法を身にっけることを必要としている.第2はラ インによるケアで,管理監督者が職場環境等の改善と個 別の指導・相談等を行うことを必要としている.第3は 事業内産業保健スタッフ等によるケアで,産業医,衛生 管理者等が職場の実態を把握し,個別の指導・相談等, ラインによるケアの支援を行ったり,管理監督者への教 育・研修を行ったりする.第4は事業外資源によるケア で,専門的な知識を有する各種の事業場外資源を活用す ることである.
その他1500
学校問題338
1%男女問題949
3% 勤務問題 2207 7% 経済・生活問題7318 24%家庭間題3751
12%健康問題14684
48% 園家庭間題 ■健康問題 ロ経済・生活問題 ロ勤務問題 ■男女間題 圏学校問題 ■その他 なお,原因・動機別自殺者数に関しては,遺書等の自殺を裏付ける資料により明らかに推定できる原因・ 動機を白殺者1人につき3つまで計上することとしている. 図2 原因・動機別自殺者数(警察庁統計による)一10一
東洋大学工業技術研究所報告5.安全配慮義務 労働安全衛生法は最低基準を定めたものであり,事業 者の責務は法を守るだけにとどまらず,民事上の安全配 慮義務を負うことが判例として定着している.その先駆 けであり,自殺と過重労働との関連性を認めるきっかけ となった電通事件(2000年3月最高裁判決)は,心の 健康障害に対して企業の安全配慮義務不履行を認めた初 めての判例である.この判決には2つのポイントがある. 1点目は,長時間労働,うつ病,白殺との間の相当因果 関係について認めた点である.会社側は過労によって社 員が心身の健康を損なわないようにする義務があり,自 殺した社員の長時間労働と健康状態の悪化を認識しなが ら,負担軽減措置をとらなかった過失があり,「安全配慮 義務不履行」に基づく損害賠償責任を負うとしたことで ある.2点目は損害額の算定にあたり,本人の心因的要 因を理由とする減額はできないとした点である.労働者 の性格が通常丁・想される範囲を外れない限り,裁判所は 賠償額の算定にあたり,当該労働者の性格等を心因的要 因として勘酌することはできないとした. 6.3つのメンタルヘルス対策 職場で実施されるメンタルヘルス対策は,1次予防, 2次予防,3次予防の3段階に分けられる.1次了・防は メンタル不調に陥らないようにすることで,未然防止と 健康増進を図ることである.2次予防はメンタル不調の 人の早期発見・早期対応である.3次予防は精神疾患の ために休職するなどの職場不適応を起こした人に対して 適切な支援を行い,職場復帰を円滑に行い,再発防止を 図ることである, 働き過ぎが原因であったとしても,うつ病を発症し退 職してしまうと,再就職は容易ではない.やはりメンタ ル不調に陥らないようにすることが第1である.ここで は1次予防を中心にラインによる(管理監督者による) ケアと本人によるセルフケアについて考えることにする. 7,ラインによるケア 7.1 勤務状態の点検 平成14年2月12日(き発第02120015)の厚生労働省 労働基準局長による「過重労働による健康障害防止のた めの総合対策について」では,長時間労働者への医師に よる面接指導制度が示されている,そこには,「月100 時間を超える時間外労働を行わせた場合又は2か月間な いし6か月間の1か月平均の時間外労働を80時間を超 えて行わせた場合にっいては,業務と脳・心臓疾患の発 症との関連性が強いと判断される」という記述があり, 過労死を引き起こす労働時間の目安となっている.また, 時間外労働が1ヶ月あたり45時間を超えるくらいから, 工業技術No.31(2009) 徐々に健康障害のリスクが高まってくるとされている. こういった時間外労働は誰の日にも明らかであり,管 理監督者がまず,配慮しなければならないことである. 過分な業務負担がないか,勤務状態や業務の進行状況を 点検し,問題があれば改善する必要がある.労働者本人 から,仕事を減らしてほしいとはなかなか言いにくいも のである.
7.2 SOSの受信
管理監督者だけに求められることではないが,敏感に さりげなく周囲のSOSを受信してあげられる職場であ ってほしい,周りの人のSOSを察知するチェックポイ ントには次のようなものがある. ①欠勤・遅刻・早退:多くなる. ②ミス・効率:誤動作が増え,仕事の効率が悪くな る, ③ケガ・事故:多くなる ④口数・発言:多くなる.あるいは,寡黙になる. なくなる. ⑤白信:白信を喪失し,取り越し苦労をする.ある いは,気が大きくなって,白分の能力以上のことを する. ⑥表情:乏しくなる.あるいは,喜怒哀楽をすぐに 顔に出す. ⑦イライラ・セカセカ:行動も話し方もあわただし い. ⑧かんしゃく:普段は問題ないが,不機嫌になると 些細なことで怒る. ⑨付き合い:極端に増える.あるいは,極端に減る. ⑩反抗:上司に反抗するようになる. ⑪不平・不満:小さなことにも文句が増える. ⑫酒:酒席で乱れたり,仕事中に酒のにおいがした りする. ⑬服装:だらしなくなる.あるいは,派手になる. ⑭浪費・借金:金遣いが荒くなったり,新しい持ち 物が増えたり,催促電話がかかったりする. ⑮ 体調不全:体調不全をよく口にする.薬をよく飲 む.持病が悪化する。 ⑯責任感1薄れる.人に対して迫る. ⑰部署異動・退社願望:人事や評価を気にする. 以上のようなちょっとした変化を察知し,話をきいてあ げるだけでも,当該労働者のメンタル不調を和らげられ ることが多い.7.3 傾聴
話を聴く際には,次の点に留意するとよい. 1) 自分白身が余裕のあるときに話を聴く. 2) 最初は酒の場を避ける. 3)自分ひとりで抱え込まない.社内の専門職と連携 をとる.職場のメンタルヘルス 4)原因追究にこだわらない. 5)すぐに結論(解決策)を出そうとしない. また,相手が話しやすい聴き方としては,以下の点に 留意するとよい. ・相手の言葉を最後までじっくり聴く. ・相手の気持ちを受けとめるっもりで聴く. ・ゆっくり話す, ・責めない. ・詰めない. ・うなずく. ・凝視しないで,白然に視線を合わせる. ・穏やかな表情で. ・理解できないときには聞き返す. いわゆる傾聴である.相手を共感的に理解し,受容でき れば,相手に白分の話をよく理解して聴いてくれている という安心感を与えられる. 7.4 うつ病への対応 うっ病の場合は,相談やカウンセリングでは直せない. うつ病はセロトニンやノルアドレナリンといった脳内神 経伝達物質の減少によって引き起こされると考えられて おり,それらの物質を増やすには医学的な治療が必要で ある. うつ病について,白覚症状としては, ・抑うっ感,悲観的な考え,不安感,意欲低下 ・睡眠障害 ・活動・行動能力の著しい低下(行動の抑制) ・食欲低下 ・性欲・異性への関心の低下 ・白律神経症状(めまい,吐き気,倦怠感,微熱など) ・自殺願望・自責念慮 といったものが挙げられる.また,外に現れる症状とし ては, ・沈んだ表情,活気の減少 ・能力低下,ミスの増加 ・人と会うのを避ける といったものが見られる.一過性の健常者の落ち込みと は異なっているし,対応の仕方も異なる.うつ病は「気 の持ちよう」ではなく,「治療を必要とする不調」である. 8.セルフケア セルフケアとしては,まず,白らストレスや心身の健 康状態について正しく認識できる必要がある.白分の心 と体の声に耳を澄ませて,疲れを解消することが肝要で ある. 次に,白分の仕事の職種の特徴をとらえることを薦め たい.例えば,営業や運転士などでは,食事が不規則に なりがちであったり,深夜勤務があったりする.夜遅く 重い夕食をとり,朝食を抜いて昼食までの長い間,胃が 空っぽな状態が習慣化されると,胃壁が濃い胃酸に直撃 され,胃潰瘍やF二指腸潰瘍が誘発される.朝食を軽食 でもとるようにし,夕食が9時以降になりそうなら,胃 を空っぽにしたままにせず,夕方軽食をとるとよい.一 般事務や,経理・総務などでは,デスクワークが多く, 社内で歩く機会は少ない.そのような場合,慢性的な運 動不足状態である,その上,休憩時間に砂糖入り缶コー ヒーなど糖分の多い飲料をよく飲む人は要注意で,帰宅 途中の飲酒が限度を越すと,糖尿病の引き金になる.昼 食は遠くまで行く,昼休みは公園を散歩する,通勤時は 1つ先の駅から乗ったり,1つ手前の駅で降りたりして 歩く機会を増やすとよい.飲料は糖分控えめなものに切 り替えるのが望ましい5). そして,ワークライフバランスを考えてほしいと思う. ワークライフバランスとは,仕事,家庭生活,地域生活, 個人の自己啓発など,様々な活動について,白らが希望 するバランスで展開できる状態をいう.単に心身が病気 でないことだけではなく,積極的に「よりよく生きるこ と」,真の意味でメンタルヘルスを考えることである. 人は職業人としてのみ期待されているわけではなく, それぞれの発達段階において複数の役割を果たすこ とを期待されている.どの役割を重視するかは,その 人の発達段階や価値観,人生観によって異なる. スーパー(Super,D.E.)は自己発達の過程の中で,人 生を「子」,「学生」,「余暇人(余暇を楽しむ人)」,「市 民」,「職業人」,「配偶者」,「家庭人(家事に携わる人)」, 「親」,「年金受給者」の9つの主たる役割の重層構造と して示した6).スーパーはそれぞれの役割のウェイト付 けはしていないが,「よりよく生きる」ことを考えるとき には,例えば,自分の活動時間を100%として各役割に どれだけ割り当てるかを①現在の状況と,②理想とする 状況について,図3の中にレーダーチャートとして表し てみて,気づいたことを書き出してみるとよい.その際, 市 余暇人
一12一
学生 i50.’へ、 .二IJI’.. ,・’!’・ρ .♪c、一●’ 子①現在
②理想
図3 私の役割 家庭人 東洋大学工業技術研究所報告同時に各役割に対する満足度,すべての役割トータルで の満足度を意識して現在の状況をふりかえり,将来に向 けてのワークライフバランスを検討することが大切であ る. 9.おわりに 本報告は2008年2月21日に行われた講演録として執 筆したものである.講演会では,白分の性格や行動パタ ンを把握していれば人間関係での無用なトラブルを避け られるとして「エゴグラム」という分析手法を紹介した が,チェソクリストを載せるのは不適切だと判断し,「白 分の性格を見つめ直そう」という部分は割愛させていた だいたことをご容赦いただきたい, ︶ 1 2) ︶ 3 4) ︶ 5 6) 参考文献 社団法人口本産業カウンセラー協会:産業カウンセリング入門, p.226,社団法人口本産業カウンセラー協会(2007), 廣 尚典:職場におけるうつ,こころの科学,口本評論社,第125 号,pp.24・27(2006). 川11憲人・堤明純監修:職場におけるメンタルヘルスのス ヘシャリストBOOK,11章(pp.170・198),培風館(2007). 中央労働災害防lji ZZ会 労働者の白殺予防マニュアル作成検討委 H会:職場における白殺の予防と対応,pp.15・16,厚生労働省 (2006)(安全衛生情報センターのWebサイトヒに掲載). 岩崎靖雄,林幸範監修:働く人の心の健康づくり,pp.41・43,社 会保険出版社 Super、DE,:A life・span life・space approach to career development. Journal of Vocational Behavior,13, pp.282・298 (1980) 工業技術No.31(2009)