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旧制東洋大学における女子学生 : 学籍簿の検討を通して 利用統計を見る

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(1)

旧制東洋大学における女子学生 : 学籍簿の検討を

通して

著者名(日)

水野 真知子

雑誌名

東洋大学史紀要

6

ページ

91-156

発行年

1988

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002579/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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旧制東洋大学における女子学生

      学籍簿の検討を通して

水 野

真知子

 はじめに 一、 落q入学の経緯 二、学則の改定 三、女子学生の在籍 四、曙会の成立 五、女子部独立運動の展開  おわりに 一91 一 はじめに  本稿の目的は、旧制東洋大学における女子学生の在籍の実態を、主として学籍簿の検討を通して明らかにする とともに、﹃東洋大学新聞﹄、聞取調査等に基づいて女子部独立運動の展開を考察することである。

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 周知の通り、我が国においては戦前、大学に女子が入学することは法的に認められていなかった。東京音楽学 校を唯一の例外として、女子の高等専門教育機関は東京・奈良女子高等師範学校及び公・私立の女子専門学校に 限られていたのである。しかし、女子専門学校や高等女学校高等科などの設置をみる一九〇〇年代に入ると、女 子の高等教育問題はしだいに具体的な問題として論議されるようになっていった。しかも、一九一三︵大正二︶ 年八月、東北帝国大学理科大学は三名の女子の入学を許可した。以後このことが皮切りとなり、北海道帝国大学 (一 繹齡ェ年九月、農科大学選科生︶、日本大学︵一九二〇年四月、選科生︶、東京帝国大学︵一九二〇年九月、    ほ      る      ロ 聴講生︶、早稲田大学︵一九二一年四月、聴講生︶、同志社大学︵一九二一年四月、選科生︶、龍谷大学︵一九          ぽ       の 二六年四月、聴講生︶、法政大学︵一九三四年四月、文学科・哲学科聴講生︶等々、女子に門戸を開く大学ない しは専門学校が実際に増えていったのである。  このような歴史状況の下で、一九一六︵大正五︶年四月、東洋大学は東北帝国大学に続いて、専門学校として        ㈲ は最初に、女子にその門戸を開いた。この点については、従来﹃東洋大学創立五十年史﹄﹃東洋大学八十年史﹄に おいて指摘されているところである。しかしながら、歴史的に跡付けられた教育実態やその背景については明ら かではなかった。新聞、雑誌等に僅かにその断面が散見されるにとどまっていた。そこで本稿においては、まず 次の二つの側面に考察を加えることにした。  第一は、女子の入学に伴って、具体的にどのような学則の改定あるいは措置がなされたのか、そして女子学生 はそれにどう対応していったのかという問題である。 一 92一

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 第二は、東洋大学に所蔵されている学籍簿を基礎史料として、女子学生の在籍の実態を明らかにすることであ る。筆者は、これらの側面に光をあてることによって女子学生問題の手懸を得ようとするものである。

一、女子入学の経緯

 女子入学者の嗜矢が栗山津禰であることは、既に指摘されているところである。但、現在までのところ栗山の 学籍簿は確認し得ていない。だが、栗山の回想録﹃拓きゆく道﹄や﹃婦女新聞﹄等の伝えるところから、その背          め      く 景を知ることが出来る。殊に﹃拓きゆく道﹄には栗山自身の筆によって、入学に至るまでの経緯や﹁叢中の紅﹂日 と言い表わされているような学生生活のありさまが生々と描き出されており、興味深い。また﹁共学に於ける女 子学生の切望﹂︵一九二五年五月一〇日付﹃婦女新聞﹄第=二〇〇号︶においては、入学の経緯と共に、当時の共 学運動の動向に対する栗山の見解が披渥されている。それらによって、始めに女子入学の経緯を辿っておこう。  栗山は、東京女子高等師範学校の受験に失敗していた。このことが、後に﹁男子の学校﹂に入学するに至る直 接の動機となったことを栗山は、次のように語っている。  ﹁高等教育を授ける唯一の女高師は、極めて僅かな募集人員に対して千余名の受験者を見ている。かくて選ばれ た人以外、教育を受けるごとが出来ないのである。それ等の女子には教育を不必要と云ふか、彼等とても其の教 育によっては、より以上に発達し得ないと誰が断言し得やう。︵略︶当時僥倖にでも及第していたなら、私はこれ 一93一

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ほどまでに痛切に女子教育の不備を感じないで済んだかも知れぬ。此の失敗は始めて私をして目をさまさせた。 そして人より劣れることも明かに知ると同時に、一層学問の必要を痛感して、終には男子の学校に入学しようと 思ひたった。人格教育は男女によって異なるべきものでないと考へたからであった。L  栗山は東洋大学入学に先立って、国語伝習所、次いで二松学舎に学んでいた。栗山はここでも唯一人の女子で あったと言う。ところで、二松学舎の教壇に立っていた土屋鳳洲は当時、東洋大学教授でもあった。栗山の真摯 な勉学態度は、この土屋鳳洲の目にとまっていたようである。土屋は、男子学生を前にして、栗山が講義に二        ㈹ 度も欠席しないLことをしばしば誉めたと言う。  一九一五︵大正四︶年九月、栗山は新聞によって、同年六月に設置された教育調査会における文部省提出の大 学改正案中に女子入学許可の一項があることを知り、そのことに深い関心を寄せていた。従って、一ケ月程後に それが廃案となったことを知った時には﹁投げ出された様に悲しかった﹂と述懐している。その後、栗山は再び 紙上で早稲田大学と東洋大学に学生募集のあることを知り、直ちに規則書の送付を申し込んだ。栗山は送付され て来た規則書に目を通した上で、東洋大学に入学を願い出ることを決意した。その理由として、まず早稲田大学       ハ マ マ   の規則には﹁入学者は満十七歳の男子たるべし﹂と示されてあったが、東洋大学の規則にはそのような但書が無 かったこと。次いで東洋大学の大学部第二科は漢文の時間が多くあって自分には﹁最も適している様に思はれる﹂ こと、﹁殊に教授中に、土屋先生が御在で﹀ある﹂ことを挙げている。  ある日曜、栗山は意を決して土屋鳳洲宅を訪ねた。この時、土屋は﹁平生学舎を休まないものだからとて、直 一94 一

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にL面会を許してくれたと言う。しかも、栗山の願出に対しては﹁規則には男子だけとも無いから、女は居ない けれど、一つ校長に話してみよう。あなたから入学して行かれる様になると、至極よいから﹂と、その旨を早速 に聞き届けてくれたと言う。後日、土屋は講義終了の後、栗山を呼んだ。そして﹁校長に話した所、今まで女子 は入学させたことが無いと云はれたけれど、今までは入学すべき女子がなかったからだ。既に東北大学でも女を 入れていると、大に弁じたので、入学を許可される事になった﹂と伝えた。  栗山の語るところからすると、土屋の推薦もあったろうが、願書提出の後、書類選考によって入学を許可され たようである。栗山は学則において通常の入学者︵一種生︶とは異って、﹁中学校卒業ノ程度二依リ﹂入学試験を        ⑫① 課すか、あるいは﹁入学試験委員ノ鐙衡﹂によることになっていた二種生として入学を許可された。そのことに ついて、栗山は次のように語っている。﹁学校では一種生も二種生も、同じに見て居るとの事。私の様に、二種生 に編入された者には幸福である。家では一種生になって、文部省の無試験検定を貰ふ事を切望しているが、文部 省で女には許さないとの事。けれども学校では十分認めて、二種生として入学を許して下さったのであるから、 出来なければ聴講生でもと思って居た私には、少しも不足はない。それに学校では、学生中は男女同権だと云っ        ¢D て下さるので、文部省が女には恩典が無いと云ふのに反して、非常に有難かった。﹂  このようにして、女子入学の端緒は切られたのである。大学当局は、この唯一人の女子学生のために控室を用 意するなどの配慮をしている。その処遇は、一体どのようなものであったのだろうか。栗山は、例えば、始業式        ㎝ 以来﹁学校の幹事の郷白巌先生がよく世話をしてくださった﹂ということのほか、次のようなエピソードも語っ 一95一

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ている。  ﹁嘗ては席に居たまらない様な話を聞かせられて、余りに女を侮辱していると涙も出た事があったが、此の学校 に入学してからまだそんな思ひをしなくともよかったのに、今日実践道徳の時間、中島徳蔵先生が学生全体に私 が一人居るのは非常に学問が好きだからであらう。それで同情してきまり悪く思はせるなと云ふことを、一時間          ㈲ 近くも、御話下さった﹂  ﹁私の級の鶏聲茶話会がある。私は今まで此の会にだけは出なかった。所が、今日何か話があるから出席するや うにと、迎へに来て下さったので、行って見ると、別段御話とてはなかったが、﹃三年間も一緒に居るのだもの、 さう恥かしがる必要はない。同じ級の人だけだから、一緒に御茶を飲んでも差支へ無いだらう﹄と、すすめられ る。私は此処までになって、逃げ隠くれるのは、卑怯であるし、又人の親切を無にする事になる。私は級の人が、 隔て無く待遇して下さるのを、非常に有難く思って、一緒に茶菓をうけて来る。始めて心置きなくなったやうで、      oo 嬉しかった。﹂  これらのことから、大学当局は勿論のこと男子学生も女子の入学に対して理解ある姿勢で臨んでいたことがう       ㈲ かがわれる。事実、学長境野黄洋は、一九一九︵大正八︶年三月二一日付﹃婦女新聞﹄において、男子大学開放 問題については﹁開放するのが当然である﹂と主張し、共学の現状を次のように語っている。  ﹁当大学では、此の見地から女子の入学を許す方針を取って来て居るが、現在の法令では、男子の専門学校に女 子を入学させることは出来ないといふ文部省の解釈なので、今の処公然募集して入学させるというわけに行かな 一96一

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い。僅に文部省の黙認の下に数名の女子を入学させて居るに過ぎない。L  さらに、当時の女子教育に対して、次のような批判的見解を提示している点は看過し得ない。  ﹁今日の女子教育は、女子の人格を作るのを目的とせずして女子を一種の装飾物とし、甚だしきは男子の為めの 玩弄視して教育して居るやうな傾向がありはしないか。その結果、女子自身も真に自覚した要求から教育されや うとはせず、単なる虚栄心から高等教育を受けやうと望んで居るらしく見える。男子は、今日では学校教育を受 けなくては人として社会に生きて行けない時代になっているに関はらず、女子は今尚教育を受けないでも、男子 に頼りさへすればそれで生きて行けるし、又頼って生きるやうにと教へている。つまり今日の女子教育は、男子 に附随して行く必要からと、一種の装飾からと、此の二つから行はれているので、男子に関係なく女子自身の人 格を完成させやうといふ意味からは行はれていないやうに見られる。﹂  男子大学開放問題に関する境野のこのような積極的見解は、栗山以降の女子入学者の実績に裏付けられたもの であったと言ってよい。境野は、﹁男女の共学に就いて心配する人もあるが、私の学校の実験の上から見て、決し て差支はないと思ふ。素より、性格の相違、男女に依っての一長一短はあるが、それが共学を否とする理由には ならない。当大学に在学する女子は、少数でもあるしまた余程志を立て﹀入学している故か、試験の成績なぞは 概して男子に勝って居る﹂と述べている。また、共学の意義について次のように強調している。  ﹁男女の共学は女子をして中性的ならしめはしないかといふ人もあるが、此の学校の実験から、それは杞憂だと 思ふ。如何なる力も男女の特性を滅却させることは出来ない。寧ろ共学によって両方の長所特性が円満に育てら 一97一

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       ¢旬 れるといひたい。﹂  しかしながら、栗山の入学した翌一九一七︵大正六︶年の始業式において、境野が訓示に次のような二言を付 加する 面もあった。﹁昨年から女子を入学させた。此れは決して学校で好んで入れたわけでない。それで、以前 の履歴などもよく調べて、入学させるので、誰でも彼でも入れるわけでない。専門学校で、女を入学させたのは 此処が始めてである。若し風紀上でも宣しくない事があるならば、専門学校総ての問題になるので、文部省でも       伽 注意して見ているのであるから、其の為め学校が閉鎖を命ぜられる運命に至らないとも限らない。﹂  後年、栗山は﹁東洋大学では、男女学生少しも差別なく待遇したばかりか、却て女子のために便利を図ってく れた。その上文部省に対しても、男子同様に認めてもらひたひと願ってくれたけれども、十年後の今日でさへ尚 認めない文部省が、其の当時に於て勿論認める筈はなかった﹂と語っている。先のような一餉は、こうした大学 当局の方針と、それに対して黙認するという形で対処していた文部省との間に生じていた緊張関係を如実に物語 っていたと言えよう。       側  一九一七︵大正六︶年五月一〇日刊﹃東洋哲学﹄には﹁例年の如く女学生数名の新入生あり﹂と報じられてい る。一九二〇︵大正九︶年三月、栗山は国語漢文科を首席で卒業した。同年四月四日付﹃婦女新聞﹄は、このこ とを取り上げて﹁女史は、一面に於て男女共学に何等憂ふる必要のないことを示し、他面に於て女子の能力が決       o① して男子に劣るものでないことを立護した﹂と高く評価した。この年には、学長境野黄洋自らが面接の上、八名       oo の女子に入学が許可された。このようにして、女子の入学は漸次定着をみるのである。一九二六︵大正一五︶年 一98一

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一月二五日付﹃東洋大学新聞﹄は、.この三月学園を巣立つ近代的女性 男女共学の弊害なしとLと題して、次の ように伝えている。  .卒業生三百余人の中に交って巣立つ女性は今年は二十人余りの多数であるがこの人達は卒業後はどの様な方 面に向って進んで行かれるかと記者は冬しぐれのそぼ降る午後控室に訪れて居合はせた中村操子さんにお尋ねす ればつつましやかに話してくれる﹃未だ別に定って居りませんが当分は家に居るつもりです。文化は私と石渡ピ サ子さんと二人きりですが他の科では沢山御卒業の人があり女学校や官庁にも行かれる方も随分あるお話です。 学校も私達の入ったときよりは女の人もかなり増して居りますので色々都合のよいことが多くなりました。男女 共学の弊等は少しも感じませんが﹄などとさすがに新らしい女性らしいことばをもらして卒業の悦びに胸をふる      ぼ はして居る。L 一99一

二、学則の改定

 女子に関する規程が学則に明記されるのは、大学令に拠る私立大学としての認可を得た翌一九二九︵昭和四︶ 年度学則以降のことである。即ち、同学則第三章学部第三節選科生及聴講生において次のように規定されたので ある。  第三十七條 学部ノ学科目中科目ヲ選択シテ学習セントスル者又ハ学部ノ学科ニツキ聴講セントスル者ハ学部

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  二欠員アル場合二限リ選科生又ハ聴講生トシテ入学ヲ許可スルコトアルベシ  第三十八條 選科生又ハ聴講生トシテ入学ヲ許可スベキモノハ、左ノ各号ノ一二該当スル資格アルヲ要ス   一、中学校卒業者   二、専門学校入学者検定規程二依リ一般専門学校ノ入学二関シ指定セラレタル者   三、専門学校入学者ノ検定規程二依ル試験二合格シタル者   四、高等女学校卒業者       o①   五、本学二於テ前各号ト同一以上ノ学力アリト認メタルモノ  一九二九︵昭和四︶年度以前の学則においては、先に指摘したように﹁第二種生タルベキ者﹂に関する規程と して﹁中学校卒業程度二依リ﹂入学試験を課すか、あるいは﹁入学試験委員ノ鐙衡ニヨリ﹂無試験入学を許可さ れることがある、と定められていたにすぎなかった。そのほか、聴講生に関する規程として聴講生規則が定めら れていたが、それは次の通りであった。   一、聴講生ヲ普通聴講生特別聴講生ノニ種トス   一、普通聴講生ハ学級ヲ定メテ聴講スルモノヲ云フ   一、特別聴講生ハ何レノ級ヲ問ハス随意ノ学科ヲ聴講スルモノヲ云フ  女子の入学は、一九二九︵昭和四︶年に至るまで、この﹁第二種生﹂並びに﹁聴講生﹂に関する規程に準拠し ていたと考えられる、しかし、一九三三︵昭和八︶年四月、女子の入学に関する規程は大幅に改定された。即ち、 _100一

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ここにおいて初めて学部生としての女子に関する規程が設けられたのである。その規程は、次の通りである。 第二章  第二節入学      ︵略︶  第八條 学部二入学スルコトヲ得ル者ハ本学予科ヲ修了シタル者トス   但シ欠員アルトキハ左ノ順位二依リ入学ヲ許可スルコトアルヘシ    一、高等学校高等学校高等科卒業者    二、元私立哲学館大学専門学校令二依ル東洋大学専門部卒業者ニシテ大正七年文部省第三号第二條二依リ     指定セラレタル者   三、大学令二依ル他ノ大学予科修了者   四、大正七年文部省令第三号第二條二依リ指定セラレタル者   五、左記学校ノ括弧二示セル科部ヲ修メ卒業シタル者     東京女子高等師範学校︵文科︶     奈良女子高等師範学校︵文科︶     日本女子大学校︵本科文学科国文学部、同英文学部及専門科国文学部、同英文学部︶     東京女子大学︵大学部文学科、英語専攻部及国語専攻部︶     帝国女子専門学校︵国文研究科︶ 一101一

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     京都女子高等専門学校︵国文科、英文科︶      大谷女子専門学校︵国文科︶      千代田女子専門学校︵国文研究科︶      相愛女子専門学校︵国文科︶      長野県女子専門学校︵文科研究科︶        oθ      私立聖心女子学院高等専門学校︵国文科及英文科︶  大学当局はこの学則改定に際し、一九三二︵昭和七︶年一二月五日、文部省に﹁学則認可申請書﹂を提出して いる。その内容は﹁東洋大学学則第八條第四号ノ次二左ノ通リ第五号ヲ追加ス﹂として、前掲一一校の女子専門 学校及びその部科を列挙したものである。﹁改正理由﹂は次のように述べられている。 ﹁近時女子ノ向学心熾烈ニシテ大学教育ヲ希望スル者多ク現二本学二於テモ聴講生トシテ之ヲ許シ又已二本学出 身者ニシテ中等学校教員検定試験二合格シ其教育二従事シテ相当成績ヲ挙ケツ﹀アルニ鑑ミ広ク女子学生二対シ 男学生同様ノ特典ヲ与へ深ク研讃向上ノ途ヲ開カントス  本学ハ他ノ私立大学ト異リ一宗一派二関係アルモノニアラズ且政治法律経済等ヲ主トスルモノニモアラズシテ 広ク倫理教育宗教哲学等ノ精神的方面ヲ主トスルヲ以テ殊二女子ノ進路二近接ノ関係ヲ有スルガ故二本学ハ特二 女子ノ学部進入ヲ企図スルモノナリ﹂  一九三三︵昭和八︶年の学則改定は、この認可申請に基づいたものであった。この学則改定に伴って、同年四 102一

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月、重尿家政学院卒の古同木富喜︵国文科︶、日委子つ学校国文学部卒の渠あや︵国文科︶、同英文学部卒の立 上愛子︵仏教学科︶の三名の女子が学部に入学した。さらに、翠九三四︵昭和九︶年二月二四日・大学は文部 省に再度同様の主日の.学則変更認可申請書・を提出している。それは.東洋大学学則第八條第吾三私立聖心 女子学院高等専門学校︵国文科及英文科︶・ノ次二.実践女子専門学校︵国文科、英文科︶﹄以下拾弐校ヲ追加緬L というものであった。あらたに追加された女子専門学校は、以下の通りである。 実践女子専門学校 金城女子専門学校 広島女子専門学校 福岡女子専門学校 大阪女子専門学校 樟蔭女子専門学校 梅花女子専門学校 ︵国文科、英文科︶ ︵国文科、英文科︶ ︵英文科︶ ︵文科︶ ︵国文国史学科、 ︵国文科︶ 英文科︶ 活水女子専門学校︵本科︶ 宮城県女子専門学校︵本科︶ 京都府立女子専門学校︵文学科︶ 広島女子専門学校︵国文科︶ 同志社女子専門学校︵英文科︶ 津田英学塾︵本科︶          ︵国文科、英文科︶  この重ねての﹁東洋大学学則変更理由﹂は、次のように述べられている。 、本大学ハ近時女子・大学塾目ヲ希望スルモ・多キニ鑑ミ本学学部二其門 ヲ開放シテ其熾烈ナル向学心ヨリ 来ル董二添。目的ヲ以デ嚢二女子・入学ヲ便ニスルタメ学則∠部ヲ変更シ昭和八年二月+七日東専第五四二        マ       マ   ザ 号ヲ以テ御認可ヲ得テ東京女子師範学校以下±校・卒業者ニシテ成績優秀ナル者二入学・許シタリ其後ノ実績 103

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二依リ且ツ入学希望者ノ状態二依リ更二従来本学二於テ入学ヲ許可シタル女学校卒業者以外ノ女学校卒業者ニモ 入学ノ途ヲ開キ深ク研讃ノ機会ヲ与へ以テ吾国ノ女子ノ智徳ノ向上ヲ計ラントスルコトニ在リ﹂  この認可申請は、一九三四︵昭和九︶年三月二四日を以て認可されている。このような二度にわたる学則改定 によって、聴講生・選科生のほか、学部生としての女子入学の枠が設けられたのである。  ところで、さらに注目される点は専門学部社会事業科の学科課程である。その内容をみると、児童学.児童保 護・女性生理・女性衛生・母性保護・女性心理・児童保護実習・母性保護実習などの科目が掲げられている。同 学科は夜間三年制である。一九二一︵大正一〇︶年四月、共学制の学科として文化学科と並んで開設され、一九 二八︵昭和三︶年三月に廃止された。同年四月から開設された専門部社会教育社会事業科には、これらの科目は 掲げられていない。後述のように、文化学科︵一九三〇年廃止︶と同様に社会事業科においても女子学生の在籍 は少なくなかった。これらの点から、社会事業科の学科課程は感化救済社会事業方面の人材養成を目的としたこ とのほかに、明らかに女子学生に対する教育という点を考慮したものであったと考えられる。少なくとも一九二 八︵昭和三︶年三月三〇日大学令による私立大学としての設立認可をみるに至るまでは、教育内容の面において も共学に対応しようとしていたと言えよう。 一104一

三、女子学生の在籍

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 現存している戦前の学籍簿には、氏名・本籍及戸主・族籍・職業・生年月日・入学年月・所属部科・卒業年月・ 退学除名及理由.入学前ノ学歴.保諸人等の記入欄が設けられている。一九二九︵昭和四︶年度より書式に↓部 変更がみられるものの、写真が貼付されるようになったことのほかは、基本的には同一形式がとられている。用 紙の大きさは、殆どのものが縦二五センチメートル、横一六、五センチメートルからなっている。  また、学籍簿の全部が入学者の自筆によるものではない。その筆跡から、後年に事務担当者などが、筆あるい はペンによって書き写したものと推察される。年代の旧いものについては明らかにそうである。体裁は、それら を専門部、大学部、各科別に区分し、年度ごとに綴られて保存されている。 現存する女子の学籍簿は、一九三︵大正六︶年度入学者以降のものであり・栗山の学籍簿は見当らない・.ま た、一九三〇︵昭和五︶年から一九三三︵昭和八︶年にわたる専門部の学籍簿は欠落している。さらに、﹃東洋大 学校友名簿﹄︵一九六七年刊︶に記載されている者は卒業者に限定されているが、それらの内にも学籍簿の見当ら ない者もある。従って、全体的に遺漏なく記録されているものであるとは言い難い。しかし、現在までのところ 戦前の女子学生の在籍を確認し得る唯一のものと言ってよいだろう。  本稿においては、この学籍簿に記録されている入学者をまず一覧として確認することにした。次に、﹃東洋大学 校友名簿﹄に記載されている者の内より、その氏名から明らかに女子であると判断出来る者について、後段に附 記した。なお、学籍簿に記録されている入学者については番号を付し、氏名を空欄とした。 _105一

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女子入学者一覧

馳 所属部科 氏 名 生年月日 本籍地 戸   主 入学前ノ学歴 入学年月 族籍 職 業 卒業年月 保証人備 考 1  大印哲・倫 明32・10・16 東 京 士族 洗濯業 大5京都府立第一高女  本科四年中退大6桜井女塾入学 大6・10・1  聴 大7・3・31除名︵死︶ 2  大支哲・東 明29・12・20 東 京 平民 大4実践女学校高等女  学部卒 大6・3・3  二 大10・3・25 卒業 3  大印哲・倫 明29・2・11 大 分 大分県立高女補習科卒 大7・4・10  二 大11・3・25 卒業 4 同 明29・3・2 北海道 庁立札幌高女卒 大7・4・1  聴 大7・5・18 退学 5 専倫・東 明29・8・22 福 井 日本女子商業学校卒 大7・4・10  二 大9・4・1退学︵病︶ 6  大印哲・倫 明25・6・17 高 知 平民 高知県立高女卒 大8・5・12  聴 大11・退学︹死︶ 7  大支哲・東 明32・4・27 千 葉 士族 専検合格 大8・4・11  聴 大8・5・27退学︵家︶ 8 同 明30・8・8 群 馬 平民 農 業 山口県立高女卒 大8・4・14  聴 大8・6・24退学︵家︶ 9 専倫・東 明35・3・25 長 野 東洋高女卒 大8・4・10  聴 大8・5・19退学︵病︶ 10  大印哲・倫 明30・5・23 東 京 書画商 大8専検合格 大9・4・7  聴 大m・1・25退学︵病︶ 11  大支哲・倫 明29・12・4 福 岡 商 業 大8・上野高女卒 大9・4・m  聴 大m・4・28退学︵転︶ 106

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12 同 明30・7・27 山 口 大9上野高女卒 大9・4・12  聴 大13・3 卒業 桜井ちか大ω・4二編 13 同 明35・4・25 富 山 士族 商 業 大8台北高女卒 大9・4・12  聴 大11・3・30退学︵家︶ 14  大支哲・東 明32・4・2 東 京 大6東京府立第三高女  卒 大9・4・9  聴 大H・11・22退学︵病︶ 15 同 明31・10・3 山 口 農 業 大7東京裁縫女学校速  成科卒 大9・4・12  聴 大13・3 卒業 16 同 明27・5・30 東 京 明44立教高女卒 大9・4・12  聴 大m・1・25退学︵家︶ 17 同 明35・6・27 山 口 大8下関高女卒 大9・m・1  聴 大H・9・14退学︵家︶ 18 専倫・教 明31・12・31 新 潟 大8ー大9神田女子英  学塾在学 大9・4・19  聴 大12・3・25 卒業 19 同 明31・5・8 大 分 士族 記 者 大6県立大分高女卒 大9・5・1  聴 20  大印哲・倫 明35・10・18 東 京 大9女子美術学校絵画  科卒 大10・4・15  聴 21 同 明33・9・9 東 京 大9神田高女卒 大10・4・18  聴 大14・3 卒業 22 同 明31・9・16 大 分 大3京都高女卒 大10・4・27  聴 大14・3 卒業 23  大支哲・東 明34・6・2 北海道 大10上野高女卒 大10・4・12  聴 大10・10・8退学︵病︶ 24 同 明37・12・31 東 京 上野高女卒 大10・7・1  聴 25 同 明34・8・18 福 井 大10名古屋曹洞宗立関  西尼僧学林修了 大10・9・1  聴 大14・3 卒業 107

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本籍地 戸   主 入学年月 卒業年月 保証人備 考 晦 所属部科 氏 名 生年月日 族籍 職 業 入学前ノ学歴 26 専倫・教 明34・1・4 宮 城 大6県立盛岡高女卒 大10・4・30  聴 大11・2・6 退学 27 専倫・東 明35・1・6 鳥 取 大7大阪信愛高女卒 大10・5・2  聴 大13・3 卒業 28 同 明32・9・H 富 山 農 業 尋小本科正教員免許状 大10・6・1  聴 大13・3 卒業 大11・4二編大12・4選編 29 専文化 明22・7・15︵既婚︶ 愛 媛 大3渡米︵在米満6年︶ 大10・4・1  聴 大11・11・2退学︵家︶ 30 同 明27・2・28 長 崎 明44長崎県立高女補習  科卒 大10・4・14  聴 大13・3 卒業 31 同 明30・1・2 大 分 士族 大2県立大分高女卒 大10・4・19  聴 大13・3 卒業 東洋大学元教授 32 同 明27・9・8︵既婚︶ 東 京 明44静岡県吉原高女卒 大10・4・19  聴 大10・10・15 退学 33 同 大10・4・28  聴 大11・2・14 退学 馳19参.照。 34 同 明29・1・18 熊 本 明45台湾総督府立高女  卒 大10・4・28  聴 大13・3 卒業 厚生省児童局養護課 35 同 大10・4・28  選 大13・3 卒業 揃11参照。 36 同 明31・8・22 三 重 大7女子師範学校卒 大10・5・2  聴 大13・3 卒業 37 同 大10・4・30  聴 大11・3・30 退学 臨13参照。 38 同 明31・6・1 鳥 取 大7大阪浪速高女卒 大10・6・20  選 大13・3 卒業 M27参照。 一108一

(20)

39 同 明29・3・25 和歌山 明43月方高女卒 大10・9・9  聴 大13・3 卒業 40 専社事 明13・3・23︵既婚︶ 東 京 大10・4・2  選 大13・3 卒業 大11・4二編大12・4選編 41 同 明18・9・20 新 潟 明38静岡県立産婆試験  合格 大10・4・2  選 大13・3 卒業 大11・4二編大12・4選編 42 同 明23・4・19 千 葉 明38千葉高女三年修了 大10・4・19  選 大13・3 卒業 43  大印哲・倫 明33・8・12 福 岡 平民 農 業 大9福岡女子師範学校  卒 大H・4・1  聴 大12・3・31除名︵授︶ 44  大支哲・東 明17・4・5 宮 城 士族 農 業 明39宮城師範卒大14東洋大学専倫・東卒 大14・3・25  二 大15・3 卒業 45 同 明34・10・13 兵 庫 無 大8兵庫県加古郡立高  女卒大14東洋大学専倫・東卒 大14・4・15第四学年編入二 大15・3 卒業 46 同 明37・8・31 長 崎 平民 材木商 大10京城公立高女卒 大H・4・1  聴 大14・3・四除名︵授︶ 47 同 明37・10・15 静 岡 平民 海 員 大10静岡市高女卒 大H・6・2  聴 大12・3・31退学︵家︶ 48 専文化 明34・7・2 岩 手 大7県立盛岡高女卒 大11・4・4 49 同 明33・12・21 福 島 大7県立盤城高女卒 大11・4・H 大11・6・14 退学 50 同 明32・10・22 香 川 大11・4・11 51 同 明35・3・13 栃 木 士族 大8足利高女卒 大H・4・13 除名 52 同 明36・6・15 栃 木 大9県立宇都宮高女卒 大H・6・1 大14・3 卒業 一109一

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甑 所属部科 氏 名 生年月日 本籍地 戸   主 族籍 職 業 入学年月 卒業年月 保証人備 考 53 専社事 明36・4・19 栃 木 大10県立宇都宮高女卒 大11・4・13  聴 大14・3 卒業 54 同 明29・6・12 北海道 士族 尋小本科教員免許状 大H・5・1  聴 大14・3 卒業 55 同 明36・11・5 香 川 大9県立高女卒 大11・5・1  聴 大14・3 卒業 56 同 明33・11・29 朝 鮮 大11・5・8  聴 大13・3・30除名︵授︶ 57 同 明33・2・22 岡 山 大5広島県立高女卒 大11・4・8  聴 除名 58 専倫・東 大11・4・24  聴 大14・3 卒業 恥44参照。 59 同 明37・3・2 福 岡 農 業 大9郡立筑上高女卒 大11・4・1  聴 大14・3 卒業 60 同 明35・8・30 山 形 商 業 大8県立鶴岡高女卒 大11・4・1  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 61 同 明32・11・1 三 重 大8三重師範学校卒業 大11・4・1  聴 大14・3 卒業 大12・3二編鶴見女子高校 62 同 明32・11・26 佐 賀 会社員 大5門司高女卒 大11・4・5  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 63 同 明35・8・18 鳥 取 大9松江市女子技芸学  校卒 大11・4・6  聴 大12・3・31 退学 大12・3二編 64 同 明35・2・8 大 分 大10仁川公立高女卒 大11・4・9  聴 大11・10・14 退学 65 同 明33・1・8 岡 山 農 業 大6県立津山高女卒 大H・4・10  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 110

(22)

66 同 大11・4・U  聴 大14・3 卒業 大12・3二編馳45参照。 67 同 明35・6・5 京 都 大9京都淑女高女卒 大H・4・1  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 68 同 明28・10・21︵既婚︶ 秋 田 士族 尋小本科正教員免許状 大H・5・5  聴 大14・3 卒業 大12・3二編大妻女.仁大“.痴 69 同 明37・10・15 東 京 士族 大10淑徳高女卒 大11・5・11  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 70 同 明31・12・14 長 野 農 業 大5松本高女卒 大11・5・17  聴 大12・2・20除名︵授︶ 71 同 明30・4・2 大 分 大5大分師範学校卒 大11・5・17  聴 大13・3・19除名︵授︶ 大12・3二編 72 同 明37・5・3 千 葉 大 工 戸板裁縫女学校中等教員養成科 聴 大12・2・訓除名︵授︶ 73 同 明36・1・11 東 京 大9日本女子大学附属高女卒 大11・6・1  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 74 同 明37・4・5 東 京 骨董商 大ω山脇高女卒 大11・6・3  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 75 同 明30・3・16 福 岡 教 員 大5福岡師範学校卒 大11・6・7  聴 大12・2・20除名︵授︶ 76 同 明34・8・2 福 岡 大8久留米高女卒 大11・6・9  聴 大12・2・20除名︵授︶ 77 同 明38・3・7 鹿児島 士族 会社員 大10愛知県市立一宮高  女卒 大H・9・8  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 78 同 明26・3・13 福 岡 士族 公 吏 明45福岡女子師範学校  卒 大11・9・9  聴 大14・3 卒業 大12・3二編 79 同 明36・6・13 島 根 大10浜田高女卒 大11・10・10  聴 大12・3・31 退学 111

(23)

本籍地 戸 主 入学年月 卒業年月 保証人備 考 甑 所属部科 氏 名 生年月日 族籍 職 業 入学前ノ学歴 80 同 明37・2・15 東 京 無 大10淑徳高女卒 大11・9・9  聴 81 同 明37・5・27 三 重 洋服商 佐賀成美高女卒 大11・11・2  聴 大13・5・13 退学 82 専倫・教 明34・8・6 静 岡 大8台北第=局女卒 大H・4・10 83 同 明38・11・20 山 口 大H下関高女卒 大11・5・4 大11・9・2除名︵死︶ 84  大支哲・東 明28・1・8 鹿児島 士族 明43鹿児島師範講習科  卒大12京都女子高等専門  学校卒 大12・4・3  聴 昭2・3 卒業 85 同 明39・12・25 佐 賀 士族 大12県立佐賀高女卒 大12・4・11  聴 昭2・3 卒業 86 同 胸46参照。 87 専倫・東 明39・1・27 鳥 取 平民 農 業 大H県立鳥取高女卒 大12・4・1  聴 大15・3 卒業 大13・3二編 88 同 明32・7・16 山 口 平民 質 業 大12大妻高女卒 大12・4・1  聴 大14・3・30 退学 大13・3二編 89 同 明34・7・24 愛 媛

大12名古屋曹洞宗立関  西尼僧学林修了  同年専検合格 大12・4・1  聴 大15・3 卒業 大13・3二編 90 同 明37・9・7 岐 阜 士族 大12大妻高女卒 大12・4・1  聴 大13・1・19除名︵授︶ 91 同 明26・4・6 東 京 平民 無 明43広島高女卒 大12・4・6  聴 大13・1・30除名︵死︶ 112

(24)

92 同 明32・H・9 愛 媛 平民 大11専検合格 大12・4・1  聴 大13・3除名︵授︶ 93 同 明35・9・20 東 京 士族 無 大9東洋高女卒 大12・4・1  聴 大15・3 卒業 大13・3二編 94 同 明32・4・9 岐 阜 平民 銀行員 大12専検合格 大12・4・2  聴 大15・3卒業 大13・3二編 95 同 明37・5・30 熊 本 平民 農 業 大11星山高女卒 大12・4・2  聴 大12・10・29退学︵病︶ 96 同 明34・5・31 東 京 平民 無 大9東京女子師範学校  卒 大12・4・2  聴 大15・5・10卒業︵追︶ 大13・3二編 97 同 明39・2・8 兵 庫 平民 会社員 大12青山女学院卒 大12・4・3  聴 大13・5二編 98 同 明34・11・10 長 野 平民 農 業 尋小准教員 大12・4・3  聴 大13・3・30除名︵授︶ 99 同 明37・6・17 千 葉 無 大11県立千葉高女卒 大12・4・6  聴 ㎜ 同 千 葉 士族 医 師 大10成田高女卒 大12・4・10  聴 大13・5・14退学︵家︶ 川 同 明36・12・29 岩 手 平民 大9花巻高女卒 大12・4・11  聴 大13・3・30除名︵授︶ 皿 同 明25・3・29 宮 崎 平民 教 師 明45宮城師範学校卒 大12・4・13  聴 大13・3・30除名︵授∀ ㎜ 同 明25・9・16 福 岡 公 吏 大2福岡女子師範学校  卒 大12・4・14  聴 大13・10・19除名︵授∀ 朋 同 明38・2・12 新 潟 平民 公 吏 大12花巻高女卒 大12・4・16  聴 大12・8・13退学︵家︶ 班 同 明35・3・3 熊 本 平民 商 業 大9熊本女子師範学校  卒業 大12・4・20  聴 大13・3・1退学︵家︶ 113

(25)

馳 所属部科 氏 名 生年月日 本籍地 戸   主 入学年月 卒業年月 保証人備 考 族籍 職 業 ㎜ 同 明40・3・3 宮 崎 大12飲肥高女卒 大12・5・2  聴 大15・3 卒業 大12・3二編 ㎜ 同 明36・10・12 神奈川 平民 商 業 大10捜真女学校卒 大12・5・17  聴 大12・11・29退学︵家︶ 松本亦太郎大11文化学科 珊 同 明32・11・22 大 分 平民 農 業 大9大分女子師範学校  卒 大12・10・30  聴 珊 同 明39・2・5 島 根 農 業 大12広島県私立新庄高  女卒 大12・10・29  聴 大13・1・20退学︵家︶ ㎜ 同 明35・9・20 静 岡 農 業 大7榛原実科女学校卒 大12・10・29  聴 大13・3・31除名︵授︶ 川 専文化 神奈川 大12・4・1  聴 大15・3 ﹁卒業 校長

m

同 明36・4・17 愛 媛 平民 大12・4・5  聴 田 同 明38・3・24 福 井 平民 大12・4・7  聴 大13・3・30除名︵授︶ 川 同 明28・5・20 東 京 大12・4・11  聴 大13・3・30除名︵授︶ 出 同 明24・7・30 大 阪 大12・4・16  聴 ㎜ 専倫・教 明34・2・12 福 島 平民 商 業 大12大妻高女卒 大12・4・1  聴 大13・1・19除名︵授︶ 川 同 明37・4・17 大 分 神 職 大12別府高女卒 大12・4・1  聴 大12・H・27退学︵病︶ 囎 同 明34・8・27︵既婚︶ 香 川 士族 教 員 大9山口師範学校卒 大12・4・16  聴 大13・3・27退学︵家︶ 114

(26)

珊 同 明38・9・24 山 口 平民 醸造業 大11広島市私立山中高  女卒 大12・4・16  聴 大15・3・25 境野哲 ㎜ 同 明30・1・18 熊 本 大6筑紫高等簿記学校  卒 大12・10・2  聴 大13・3・31除名︵授︶ 皿 専社事 明32・2・2 新 潟 平民 大4高田私立実科女学  校卒 大12・4・ユ  聴 大13・1・19除名︹授︶ ㎜ 同 明39・9・29 大 分 平民 商 業 大12別府高女卒 大12・4・4  聴 大B・3・30除名︵授︶ ㎜ 同 明34・5・12 秋 田 平民 商 業 大8盛岡高女卒 大12・4・4  聴 大15・3 卒業

U

同 明36・6・23 青 森 平民 商 業 大ω弘前高女卒 大12・4・5  聴 大13・3・30除名︵授︶ 随 同 明27・8・1︵既婚︶ 広 島 平民 明45県立福山高女卒 大12・4・11  聴 大13・1・19除名︵授︶ ㎜ 同 明21・3・18 岡 山 大12・4・24  聴 大13・1・19除名︵授︶

m

同 明25・5・25 岡 山 大12・4・24  聴 賂 同 明23・4・23︵既婚︶ 熊 本 平民 大12・4・24  聴 ㎜ 同 明26・12・16 岡 山 平民 大12・4・26  聴 大13・1・19除名︵授︶ ㎜ 同 明35・1・9 新 潟 大12・  聴 団  大印哲・倫 明36・1・1 兵 庫 無 大12函館高女卒 大13・ 大15・3・31除名︵授︶ 斑  大支哲・東 明40・1・5 群 馬 書籍商 大13普連土高女卒 大13・4・15 大13・9・20退学︵家︶ 115

(27)

本籍地 戸   主 入学前ノ学歴 入学年月 卒業年月 保証人備 考

M

所属部科 氏 名 生年月日 族籍 職 業 ㎜ 同 明31・4・10 福 島 農 業 大12小学校本科正教員 大13・4・20 昭3・3 卒業 …… 同 明39・6・26 東 京 士族 実 業 大13日本女子大学附属  高女卒 大13・4・1 大15・3・31除名︵授︶ 団 同 明38・4・20 山 梨 農 業 大12山梨第=局女卒 大13・4・20 昭2・3・31 退学 ㎜ 同 明38・H・25 北海道 農 業 大13・9・1 大14・3・31除名︵授︶ 聯 同 明40・4・30 大 分 士族 官 史 大13大分高女卒 大13・9・30 大14・3・31転科︵専二︶ ㎜ 同 明38・7・3 高 知 農 業 大10安芸高女卒 大13・9・20 大14・3・31除名︵授︶ 珊 同 明35・7・15 福 岡 商 業 大9嘉穂高女卒 大13・4・15 珊 専倫・東 明36・2・1 石 川 大7飯田実科高女卒 大13・4・15 刀口2°3日 卒業 川 同 明35・10・10 兵 庫 大13大妻高女卒 大13・ 昭2・3 卒業 川 同 明40・2・13 北海道 大13東京府立第一.一高女  卒 大13・ 昭2・3 卒業 珊 同 明36・2・26 香 川 大13修道院普通部 大13・ 刀口2°3日 卒業 尼僧修道院 抱 同 明37・3・16 山 梨 大10成女高女卒 大13・ 宮田脩 鵬 同 明40・3・22 岡 山 大13井原高女卒 大13・ 珊 同 明33・6・25 熊 本 大6山鹿高女卒大9女子職業学校卒 大13・ 116

(28)

断 同 明33・8・2 大 分 大11専検合格 大13・ 刀口2°3日 卒業 後藤静香 跳 同 明37・9・7 島 根 大10津和野高女卒 大13・ 昭2・3 卒業 珊 同 明40・8・5 山 口 大13仏英和高女卒 大13・ 瑚 同 明40・3・16 栃 木 大12佐藤高女卒 大13・ 田 同 大12保姻伝習所在学 大13・ 刀口2°3日 卒業 簡㎜参照。 旧 同 明39・9・22 東 京 著述業 大13仏英和高女卒 大13・ 旧 同 明35・4・1 岡 山 大7津山高女卒 大13・ 昭2・3 卒業 瑚 同 明34・5・16 福 井 大10水戸高女卒 大13・ 刀口2°3日 卒業 団 専社事 明29・2・16 長 野 小学校准教員 大13・ 刀口2°3日 卒業 囑 同 明32・4・5 広 島 大5山中高女卒 大13・ 大13・11・29退学︵病︶ 田 同 明34・10・19 静 岡 看護婦養成所卒 大13・ 瑚 同 明34・1・16 長 野 大13・ 大13・11・1退学︵家︶ 留岡幸助 囎 同 明36・6・9 宮 城 大11宮城高女卒 大13・4・15 刀口2°3日 卒業 岩沼町福祉連合会長 ㎜ 同 明35・7・8 愛 媛 教 員 大11愛媛女子師範学校  卒 大13・ 捌 同 明36・11・1 栃 木 大10宇都宮実践女学校  卒 大13・ 刀口2°3日 卒業 117

(29)

肱 所属部科 氏 名 生年月日 本籍地 戸   主 族籍 職 業 入学前ノ学歴 入学年月 卒業年月 保証人備 考 脱 同 明32・3・9 埼 玉 日本赤十字社看護婦養  成所卒 大13・ 旧 同 明29・12・14 北海道 教 員 大2小樽高女卒 大13・ 大14・9・H退学︵家︶ 小西信八 脳 同 明34・9・6 岐 阜 大8尼衆学校卒 大13・ 昭2・3 卒業 鵬 同 明23・5・2 熊 本 大13・ 昭2・3 卒業 尼僧 燗 専倫・教 明37・4・9 神奈川 大12横浜共立女学校卒 大13・ 刀口2°3日 卒業 旧 同 明36・1・3 東 京 大13・ ㎜ 専文化 明37・6・30 三 重 大11京都府立第=局女  卒 大13・ 刀口2°3日 卒業 ㎜ 同 明36・11・23 福、岡 大11八女高女卒 大13・9 大14・1・12退学︵家︶ ㎜ 同 明38・2・22 山 形 大10福島高女卒 大14・4・15

m

専︵夜︶倫・東 明40・9・5 東 京 教 員 大13東京府立小松川高  女卒 大14・4・1 大15・3・31 退学

m

同 明38・8・25 熊 本 士族 大9甲府湯田高女 大14・ 大15・3・31除名︵授︶ 田 同 明33・12・20 佐 賀 士族 大8佐賀高女卒 大14・4・15 大15・3・31除名︵授︶ 川 同 明41・3・23 山 口 農 業 大13長府高女卒 大14・ 大14・6・30退学︵家︶ 118

(30)

田 同 明40・6・1 愛 知 大14・4・20 大15・3・31除名︵授︶ 肺 同 明36・2・9 高 知 日本赤十字看護婦 大14・4・20 大15・2・2退学︵家︶

m

同 明36・11・3 福 岡 士族 家 具 大11福岡女子師範学校  卒 大14・4・15 召︻3°3日 卒業 川 同 明39・11・15 栃 木 機 業 大14上野高女卒 大14・4・20 大15・3・31除名︵授︶

m

同 明26・7・24 富 山 大2富山師範学校卒 大14・4・10  聴 昭3・3 卒業 捌 同 明35・8・18 島 根 大11中村高女卒 大14・4・20  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 捌 同 明35・2・10 東 京 士族 会社員 大9埼玉女子師範学校  卒 大14・4・5  聴 脱 同 明38・1・5 長 野 下駄商 大10諏訪高女卒 大14・4・20  聴 大14・9・12退学︵家︶ 瑠 同 明34・6・1 愛 知 農 業 尋小本科正教員 大14・9・1 大15・3・31除名︵授︶ 悩 同 明31・3・22 愛 媛 大14・10・1  聴 鵬 同 明39・8・2 鳥 取 大10上野高女卒 大14・10・1  聴 昭3・3卒業 ㎜ 同 明35・5・5 大 分 農 業 大8大分県附属教員養  成所卒 大14・9・10  聴 昭3・3 卒業 砂川中学教諭 ㎜ 同 大14・4・30 大15・6・20退学︵家︶ 晦93参照。 瑚  大印哲・倫 大14・4 恥m参照。 119

(31)

晦 所属部科 氏 名 生年月日 本籍地 戸   主 族籍 職 業 入学前ノ学歴 入学年月 卒業年月 保証人備 考 珊  大支哲・東 明37・10・2 宮 城 漁 業 大12専検合格 大14・ ㎜ 同 明40・9・8 鹿児島 大14捜真女学校卒 大14・ 大14・9・16 退学 後藤静香 剛 同 明38・1・18 東 京 士族 大13静岡県立高女卒 大14・ 皿 同 明39・7・12 福 島 士族 大14捜真女学校卒 大14・ 大14・9・16退学︵家︶ 後藤静香 郎 同 明40・12・2 東 京 大13千代田高女卒 大14・ 昭4・3 卒業 脳 同 明38・10・2 広 島 大11松山高女卒 大14・ 昭4・3卒業 団 同 明40・1・1 熊 本 士族 大14立教高女卒 大14・ 珊 同 明40・9・6 秋 田 大13千代田高女卒 大14・ 刀口4°3日 卒業 船川水産高校 凹 同 明40・3・29 東 京 大13青山女学院卒 大14・ 酬 同 明25・3・3 山 形 大13仏英和高女卒 大14・ 珊 同 明39・9・14 千 葉 大13神奈川県立高女卒 大14・ 刀口4°3日 卒業 千葉地裁調停委員 ㎜ 同 大14・ 胸旧参照。 捌 同 明37・10・15 和歌山 請 負 大12県立月方高女卒 大14・ 批 同 明40・2・16 愛 媛 士族 市参事会 員 大13千代田高女卒 大14・ 珊 同 明36・5・25 東 京 土地管 理 大11女子商業学校卒 大14・ 棚 同 三 重 大14・ 一120一

(32)

猫 専文化 明36・7・26 香 川 大14明善高女本科及師  範科卒 大14・4 脳 専文・社 明39・10・23 山 口 大14広島女学校卒 大14・ 大14・9・19退学︵家︶ 加 同 大14・ 大14・9・16退学︵家︶ 恥胆参照。 珊 同 明32・1・2 東 京 大7東京女子師範学校  卒 大14・ 珊 同 明34・6・30 香 川 大14・ 刀口3°3日 卒業 汕 同 明40・2・10 岐 阜 大13羽島高女卒 大14・ 徳水恕 川 同 明36・8・17 香 川 大14・ 犯 同 明41・4・1 山 口 大14京華高女卒 大14・ 珊 同 大14・ 昭3・3 卒業 尼子止馳幡参照。 川 同 明33・7・26 青 森 士族 建築請 負 大12日本女子神学校卒 大14・ 出  大印哲・倫 明37・1・9 島 根 大9今市裁縫女学校 大15・ 猫 同 明37・6・23 広 島 大12県立高女卒 大15・ ㎜  大支哲・東 明38・12・15 広 島 大12千代田高女三年 大15・ 珊 同 明28・3・5 山 形 大15・ 昭5・3 卒業 山中学校 珊 同 明37・12・24 熊 本 大14星山高女四年 大15・ 捌 同 明41・9・3 東 京 大15東京府立第]高女  卒 大15・ 昭5・3 卒業 121

(33)

甑 所属部科 氏 名 生年月日 本籍地 戸   主 族籍 職 業 入学前ノ学歴 入学年月 卒業年月 保証人備 考

m

同 明42・10・26 東 京 士族 大15神奈川高女卒 大15・ 昭5・3 卒業 四 同 明40・4・1 東 京 士族 大13札幌高女卒 大15・ ㎜ 同 明37・8・3 佐 賀 大12佐賀成美高女卒 大15・ 刀口5°3日 卒業 捌 同 明32・4・2 群 馬 専検合格 大15・ 昭5・3 卒業 東洋大学校友会館 猫 同 明40・5・1 愛 知 大14共立女学校卒 大15・ 蹴 同 明34・12・17 長 野 小学校専科教員 大15・ 加 同 明39・10・28 福 井 大13千代田高女卒 大15・ 昭5°3ー 卒業 撚 専︵夜︶倫・東 明38・9・8 茨 城 大12実科高女卒 大15・4・5  聴 昭4・3 卒業 小森印刷機製造庶務課長 烈 同 明37・10・21 東 京 農 業 大11東京府立第四高女  卒 大15・4・1  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 蜘 同 明33・5・17 徳 島 無 大6徳島高女卒 大15・4・刊  聴 昭4・3[ 卒業 川 同 明42・2・21 東 京 無 大15上野高女卒 大15・9・15  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 把 同 明38・1・15 富 山 鉱 業 大11東洋高女卒 大15・4・1  聴 斑 同 明32・11・24 鳥 取 無 大4町立女学校卒 大15・4・20  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 脳 同 明37・12・8 兵 庫 農 業 大12京都淑女高女卒 大15・4・5  聴 昭4・3ー 卒業 122一

(34)

猫 同 明41・1・15 福 岡 無 大14実践女学校卒 大15・4・10  聴 昭2・3・31除名︹授︶ 却 同 明35・3・23 富 山 農 業 大11専検合格大12富山女子師範学校  卒 大15・4・15  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 蜥 同 明36・5・5 滋 賀 教 員 大11女子師範学校卒 大15・9・15  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 却 同 明32・7・9 福 岡 官 吏 大8女子師範学校卒 大15・4・25  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 珊 同 明32・4・H 長 野 農 業 大13文化夜間女学校卒 大15・4・5  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 測 同 明26・1・3 兵 庫 官 吏 大2梅花女学校卒大14小学校本科正教員 大15・4・20  聴 大15・5・15 退学 測 同 明39・4・26 福 岡 会社員 大12県立高女卒 大15・4・25  聴 昭2・3・31除名︵授︶ 拠 同 明42・8・24 栃 木 太物商 大15真岡高女卒 大15・4・加  聴 昭2・3・31 退学 糊 同 明32・11・8 栃 木 会社員 大13文化夜間女学校卒 大15・4・5  聴 昭4・3 卒業 池 同 明37・1・5 富 山 農 業 大14小学校准教員大15岩佐高女二年 大15・4・15  聴 昭4・3 卒業 蹴 専文化 明32・12・18 三 重 桜井女塾卒 大15・4・1  聴 刀口4°3日 卒業 梛 専倫・東 明32・10・5 山 形 大9尋小本科正教員 昭5・4・4  聴 刀口8°3日 卒業 測 専︵夜︶倫・東 明43・8・1 千 葉 平民 住 職 昭2県立東金高女卒昭3千葉女子師範学校  卒 昭7・4・1  聴 昭8・12・31 退学 123

(35)

㌦ 所属部科 氏 名 生年月日 本籍地 戸   主 族籍 職 業 入学前ノ学歴 入学年月 卒業年月 保証人備 考 畑 同 明42・2・10 富 山 平民 無 昭3富山女子師範学校  卒 昭7・4・1  聴 昭8・3・31 除名 鮒 専倫・東 大2・10・24 東 京 平民 曽  呂イ    イ 昭5牛込高女卒 除名 捌 文国文 大3・8・17 広 島 平民 無 昭10広島女専本科国文  科卒 囚 専東文 昭7・4 退学 蹴 同 除名 脇 文仏教 明43・6・24 大 阪 平民 無 昭8日本女子大学専門  科英文学部卒 昭11・3・25 卒業 高楠順次郎豊島区家庭相談員 却 文国文 明44・10・5 岐 阜 平民 繭生糸 商 昭8日本女子大学専門  科国文学部卒 昭8・4・1 昭H・3・25 卒業 学芸大学助教授 況 同 大2・5・4 東 京 平民 無 昭6東京家政学院卒 昭8・4・1  聴 昭11・3・25 卒業 蹴 同 除名 田 同 明18・3・25 岡 山 平民 明43精華高女卒昭6東洋大学専・倫教  入学・昭9聴修了 昭9・4・1  聴 昭H・2・29 退学 却 同 大4・3・29 愛 媛 平民 工業製品 業 昭10実践女専国文科卒 刀口0°4°ー口日 1 昭10・9・30 退学 籾 昭ω・4・1 昭13・3・25 卒業 呉市女学校教員 揃 文哲学 大4・3・8 東 京 澱粉輸出 商 昭11津田英学塾本科卒 昭H・4・1 昭14・3・25 卒業 一124一

(36)

加 文仏教 大5・1・11 福 岡 農 業 昭H千代田女専予科卒 昭H・4・11  選 昭14・3・25 陀 文国文 大3・10・12 香 川 無 昭10実践女専国文科本  科卒 昭H・4・1 昭14・3・25 卒業 珊 同 大2・8・5 茨 城 医 師 昭11日本女子大学専門  科国文学部卒 昭11・4・1 昭14・3・25 卒業 鶴見女子大学助教授 捌 同 大5・1・10 山 梨 無 昭12日本女子大学専門  科国文学部卒 昭12・4・5 昭15・3・25 卒業 国立国語研究所 猫 同 明40・3・28 神奈川 農 業 昭12帝国女専研究科卒 昭12・4・10 昭15・3・25 卒業 龍澤塾長 端 文仏教 明41・12・4 新 潟 平民 曲日 呂イ   f 東洋大学専倫・教卒 昭13・4・16  選 昭16・3・25 断 文国文 明34・6・10 大 阪 家 作山 林 昭12・4・5 刀口6°ウ︼°門1日−  ー  ワ︼ 卒業 酬 文史 明40・12・19 山 口 酒造業 実践女学校専門学部国文科卒東洋大学文・国文科 昭13・5・17 昭16・12・27 卒業 昭14・4本編東京大学図書館 ㎜ 文哲学 大8・1・2 秋 田 士族 無 昭15津田英学塾本科卒 昭15・4・27 昭16・3・31 退学 測 同 大6・9・16 大 阪 弁護士 昭14津田英学塾本科卒 昭15・ 召7°9°1    2日 − 卒業 川 同 明43・H・22 青 森 士族 無 県立八戸高女卒 昭15・4・15  聴 昭16・7・3 除名 糀 文史 明44・12・4 北海道 平民 書画骨 董 昭5庁立札幌高女卒 昭13・4・25  聴 昭16・7・3 除名 ㎜ 文国文 大9・2・15 東 京 平民 昭16千代田女専卒 昭16・4・1 昭18・9・21 卒業 一125一

(37)

生年月日 本籍地 戸   主 入学前ノ学歴 入学年月 卒業年月 保証人備 考 ぬ 所属部科 氏 名 族籍 職 業 別 同 大5・12・5 香 川 牧 場 帝国女専卒台湾台北州高女勤務 昭16・4・1 昭18・9・21 卒業 牧場経営 肪 同 大9・1・18 山 梨 平民 教 員 昭15実践女専国文科卒 昭16・4・22 昭18・9・21 卒業 加 同 大12・1・21 広 島 平民 官 吏 昭13専検合格 昭16・4・1  聴 昭18・4・21 卒業 加 同 明31・3・6 東 京 士族 女子学院卒 昭15・4・15  選 昭16・7・3 除名 畑 文史 大3・9・27 東 京 平民 無 昭12日本女子大学国文  学部卒 昭17・4・30 昭19・9・21 卒業 父森岡常蔵東洋文庫 魏 文国文 大6・8・5 愛 知 平民 綿糸業 昭17帝国女専国文学科  卒 昭17・10・3  聴 昭20・9・26 卒業 昭18・8正編西巣鴨中学校教諭 捌 同 大5・3・28 高 知 士族 医 師 昭17帝国女専国文科本  科卒 昭17・10・2  聴 昭20・9・26 卒業 昭18・8正編須崎高校 捌 同 大10・2・28 岡 山 平民 地 主 帝国女専卒 昭17・4・6 昭20・9・26 卒業 ㎜ 同 大11・11・17 長 崎 士族 産業設備営団技 師 広島女専国文科卒 刀口8°0°−口μ −  1 昭21・9・25 卒業 雪ケ谷高校 珊 同 大11・10・9 東 京 会社員 昭17帝国女専国文科本  科卒 刀口8°0°−日 1  1 昭19・9・ω除名︵授︶ 捌 文哲学 大10・1・12 神奈川 平民 飲食店経 営 昭18実践女専卒 刀口8°0°ー口μ1  1 昭19・7・11退学︹職︶ 一126一 ω専門部文化学科  御厨ミチヨ 大14・3卒

(38)

  同 社会事業科 ②大学部支哲・東    同 ③大学部支哲・東    同 ω専門部倫・教 小林ツルヨ 福井富子 山下キヌ 市村ミヨシ 岩本嘉代子 沖見富子 ⑤専門部社会教育社会事業科          市村きよ・相馬光江・稲坂          池田ミテ.林さき・原ソメ・水鳥ちよ・宮崎マサエ・山下光子・米山とめえ ⑥大学部支哲・東   岩本末子  昭6・3卒          篠田睦子   同          島田清子   同 の専門部社会教育社会事業科          渡辺いく  昭6・3卒 ⑧文学部哲学科   山田英子  昭7・3卒 ⑨専門部倫・東︵夜︶ 宇井キクエ 昭7・3卒 ⑭専門部社会教育社会事業科 (lD (12) 同 同 山崎とく 佐藤美佐子 工藤キョ 汲川マッ 伊藤貞子  同 昭2・3卒  ︵同M94︶ 昭3・3卒︵臨㍑︶  同 昭4・3卒 以下昭5・3卒       ︵井村︶菊恵.岩宮早枝・宇佐美鈴子・相原乙美・莞牟田ヨシ・河野ミネ・佐藤キウノ・ 昭7・3卒  同 昭8・3卒  同 昭9・3卒 一127一 註 大⋮大学部 専⋮専門部 支哲⋮支那哲学 印哲⋮印度哲学 東⋮東洋文学科 倫⋮倫理学科 教⋮教育学科 文化⋮文化学科 社事⋮社会事業科  ︵夜︶⋮夜間 ︵死︶:・死亡  ︵病︶⋮病気ノ為メ  ︵家︶⋮家事・一身上ノ都合

(39)

︵授︶⋮授業料滞納  ︵職︶⋮就職ノ為メ ニ編⋮二種生編入 選編⋮選科生編入 本編⋮本科編入 保謹人欄については、記された人物のうち特記すべきものについて摘記した。勤務先・役職については、﹃東洋大学校友名簿﹄ (一 纔Z七年刊︶より引用した。臨魏については学籍簿より引用した。その他の空白は、氏名以外、原簿のままとした。  一覧の限りにおいてではあるが、女子学生の在籍について次のことが指摘される。第一は、三〇九名の女子入 学者を数えたことである。第二に、一九一七︵大正六︶年から一九二六︵大正一五︶年までの入学者数を年度別 に検討すると、次のようになる。 一九一七︵大正六︶年 一九一八︵大正七︶年 一九一九︵大正八︶年 一九二〇︵大正九︶年 一九二一︵大正一〇︶年 一九二一 二名 三名 四名 一〇名 二三名

九九九九九

六五四三二

︵大正=︶年 ︵大正一二︶年 ︵大正一三︶年 ︵大正一四︶年 ︵大正一五︶年 四〇名 四六名 三九名 四五名 三 名     ︵大正一〇︶年から一九二六︵大正一五︶年にかけては、文化学科・社会事業科の入学者の増加がみ られ、三〇名から四〇名を越える入学者がいたことがわかる。しかしながら、一九二六︵大正一五︶年から一九 三〇︵昭和五︶年までの入学者は途絶えている。このことは、後述の女子部独立運動の背景として看過し得ない。 第三に、年齢・学歴の異なる聴講生が多数を占めていたことである。とりわけ、]九三三︵昭和八︶年以前に 128一

(40)

おいて顕著である。  第四に、一九三三︵昭和八︶年以降、専門学校卒の学部入学者が確認されることである。  なおこの他、座談会或いは聞き取りという方法に基づいて自らその足跡が語られた数少ない記録がある。佐藤 洋子﹃瀬川きよ子さんに聞く﹄︵﹃季刊女子教育もんだい﹄第一〇号、一九八二年︶、花崎貞・小宮山カウ・山田富 子﹁昭和はじめの女子大生﹂︵﹃東洋大学校友会報﹄第一三四号、一九八三年︶、野溝七生﹁文化学科・哲学を志し て﹂︵﹃東洋大学史紀要一﹄一九八三年︶である。これらを通して、入学の動機、その背景の↓端をうかがうこと が出来る。  瀬川きよ子︵一九二五年倫理学東洋文学科卒︶﹁私は東北の貧乏士族の生まれですから、︵略︶田舎でございま すから、女学校もないし、私の小学校の同級生で、女学校に入った人はありません。秋田市か盛岡市まで出なけ れば入れなかったもんですから、小学校で精一杯で、もし行けたとしても、官の補助のある師範学校です。それ も私は行かなかったんです。﹂﹁私は勉強はしたいと思って来ました。そのためには、女子高等師範学校に入りた いと思いました。それは高望みでしたが⋮⋮。私の場合、県でやる小学校の先生になる試験がございましてね、 それで資格はとったんです。﹂  ﹁結婚後もあちこち転任がございましてね、一つの郡のなかでもこっちの小学校に二年、あっちの小学校に三年 というふうに、ときどき変わるんですね。そういう生活をしまして、そのころは教員が都会に憧れた時代で、教 員の出向といって、田舎の教員が東京の教員になるためにくる道がございましたので、どんどん東京へきたよう 129一

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な気がします。そして私も東京へきたんです。﹂  ﹁学校は女子高等師範学校、憧れただけで、とても入れる状態ではなかったですね。ところが、たいへん幸福な ことに、私たちが東京にきましたときに、きて早々ぐらいに、東洋大学が他にさきがけて、女子の入学を許すと いうことになり、当時、女子が入れるただ一つの学校となりました。それを聞きまして、入れてもらえるならと 思って入ってみたら、あちこちから二〇人ぐらい女がきましたよ。九州の方もいましたし﹂  ﹁みんな一通り田舎で暮して出てきた人が多かったんですけども、年に似合わず無邪気でした。私は教員をやめ て、姑と夫と三人で東京へ移住してきたわけです。︵略︶大学へ入学できたといっても、勤めなければどうしよう もありませんでした。そこで私は家庭教師をしました。そのころは成金といってひどい金持ちがいた時代でした。 私もそういう成金の娘さんの家庭教師をしたわけです﹂  花崎貞︵一九二五年倫理学東洋文学科卒、旧姓梶田︶﹁私は東京の出身なんですが、目白の日本女子大附属女学 校を出たんです。そのまま女子大に行きたかったんですが、祖母が家庭に入ったほうがいいと言って、その時は 大学に行くことを許さなかったんです。ところが私の弟が翌年亡くなってしまって、それで大学に行くのを許し てくれました。だから女学校の同級生より一年遅れて、女子大に入るのが嫌で考えている時に、知人が東洋大学 の入学案内を見せてくださったんです。そうしたら、漢文や国文の立派な先生のお名前が載っていたので、どう しても東洋大学に行きたいと思いましてね。願書を取っていただいたら、聴講生でなければ入れなかったんです。 大正十一年の入学と思うんですが。﹂ 130一

(42)

 小宮山カウ︵一九三三年倫理学東洋文学科卒、旧姓大竹︶.私は山形市の出身で、女子師範の入学試験に受かっ たんですがいよいよ入学ということになったら、近視眼はだめだ、といわれまして入れなくなってしまって。そ れから独学で検定試験を受けて、准教員から小学校正教員まで検定試験で資格を取って山形市と東京の原宿の小 学校に勤めました。そのうち弟が一人は東大、一人は浦和高校に入ったものですから家族がみんな東京へ出てき てしまって。私はブラブラしているうちに、新聞広告で、東洋大学が女子を入学させるということを拝見して、 昭和五年に倫理学東洋文学科の一年に入れていただいたんです。L  山田富子︵一九四一年文学部史学科卒︶.私は山口県青海島の出身ですが、萩の女学校を出まして、それから東 京の実践の国文科を昭和三年に卒業して︵略︶北白川宮家に姫宮のお付きにいったのよ。萩の女学校では国文の 先生は初めてだから来い、といってきたんですが、宮様のところへ行くならその方がよかろうということで行っ たの。そしてまた萩のほうで縁談があったんです。だけど私は我儘だから、とても勤まらないしね。昔は専門学 校を出ると、数えの二十二歳になるでしょう。だから、卒業の前の年の夏休み頃に、たいていみんな縁談があっ て、卒業したらすぐ行くようになっていたの。私は宮様のところへ行ったりしてブラブラしていたけれど私は親 父から“ゼニ”はもらえるから稼がなくてもいいのよ。だけど、東京にいる名目がいるのよ。そうしたら島津先 生の奥さんになった野村久代さんが東洋大学に入っていて私にも入れというんで入学したら、︵略︶私聴講のまま 九年にここを出て、それからずっと二松学舎に行ったんですよ。そして十二年にここの史学科ができたでしょう。        カ それでまた入って、昭和十六年の繰り上げ卒業の第一期で十二月に学部の史学科を卒業したわ伽。L 131

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 野溝七生︵一九二四年文化学科卒︶﹁東洋大学に印度哲学科があったということ、それが動機です。東洋大学に 私の大分高女時代の同級生の辛島キミさんがいらして、私が同志社大学英語科専門部予科にいたとき、辛島さん から連絡を受けたのです。﹃あなたの好きな西洋哲学、古代ギリシャ文化史もあるから、東洋大学にきたらどうか﹄ というのです。私はそのころギリシャ神話に夢中になっていました。東洋大学は無試験で入れました。専門部で す。私は同志社大学で専門部予科をすませていましたので、二年になってから専門部第三科の文化学科二年にな りました。﹂  石川曉星︵一九二四年文化学科卒︶は、﹁懐かしの文化学科﹂と題する懐旧談において﹁此処では男女共学の自 由があり、くだらぬ入学資格云々と云った時代錯誤や昇格云々に伴ふ官僚的束縛など一もなかった、殊に十数名        の女性に至っては高女からすぐと云った素直なのは皆無だと云ふ事だった﹂と述べている。文化学科は異色の学 科であったとも言えるが、この五人の語るところからもその一端がうかがわれる。  ところで、共学の実際はどうであったのだろうか。そのようすを伝えるものとして、本稿においては天谷スエ ﹁男女共学﹂︵﹃女性同盟﹄一九二〇年一二月︶並びに花崎貞氏の摘記を示しておきたい。  ﹁東洋大学の秋季の旅行は箱根から熱海へ、三日間の予定で行ふ事に決定致しました。同じ決議の席に居ながら 単に女であると云ふ所から、此の旅行については更に何の交渉もない様に傍観して、旅行中の休みに何をしやう か位考えていました。共学している問はどこまでも男女の区別を立てず唯学友と思って交際しているのでしたが こんな所につきあたると女は矢張り考へねばなりませんでした。旧習が女をこんなにしてしまったのだと今更の 132一

参照

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