• 検索結果がありません。

柳宗元の荘園と唐長安県 : 柳宗元の故郷・荘園と唐代長安城・長安県に関する歴史地理学的考察の試み(下)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "柳宗元の荘園と唐長安県 : 柳宗元の故郷・荘園と唐代長安城・長安県に関する歴史地理学的考察の試み(下)"

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

柳宗元の荘園と唐長安県

一柳宗元の故郷・荘園と唐代長安城・長安県

   に関する歴史地理学的考察の試み(下)一

戸 崎 哲 彦

は じ め に  先に拙稿「柳宗元の故郷と唐長安城」’♪で柳 宗元の故郷について考察し,それが具体的に四 つの地域に類別できることを指摘した。その根 拠のひとつが(30−01)「寄許京兆孟下書」であ り,それに次のように見えた。   城西に数頃の田有り,樹果数百株,多くは   先人の手羽ら封戸せしものなり。今已に荒   忙し,恐らくは便ち斬識せられて,復た愛   惜すること無からん。家に賜書三千巻有り,   尚お善和里の旧宅に在り,宅は今日に≡:た      か   び主を易う。 ここには長安城内善和里の邸宅の他に,長安城 の西に数頃の田があったことが記されている。 この「城西」の「田」は(13−01)「先太夫人河 東県昏夢帰耐志」に   某(柳宗元)は始め四歳なりしとき,京城   西の田難中に居り……。 という「京城西の田盧」と同じであろう。「田 鷹」は『詩』小輩「信南山」にいう「中田に盧 有り」に由来する語で,田舎。城内の邸宅に対 して,田園を経営するための仮の家屋をいう。 『集韻』に「駆:田盧なり」ともいうように, 別誕のこと。したがって上の「城西」の「田」 と「京城西の田鷹」とは同一の地を指しており, それは柳鎮の嫡男にして父の卒後に柳宗元が家 長として相続した家督の中の田産,いわゆる “荘園”であると考えられる2)。  前稿ではこのような荘園の存在を指摘するに 1)『彦根論叢』296(1995.7)所収。 とどめ,その地の特定をのこした。そこで本稿 では「城西」がどこを指すのか,柳宗元の荘園 の所在地の特定を試み,併せてその周辺の地理 的環境について考察を加えたV㌔  ただし,これについて先行の研究がないわけ ではない。その所在地について最も早く具体的 な地を指摘したのは,おそらく頭隠繍氏「唐万 年・長安県郷里考」(『考古学報』1963−2)であろ 2) “荘園”の語義・沿革については,先駆的研究 である加藤茂「唐の荘園の性質及び其の由来に就 いて」(『東洋学報』7−3,1917)・「唐革時代の荘 園の組織並びに其の聚落としての発達に就きて」 (『狩野教授還暦記念支那学論叢』1928,共に『支 那経済史考証(上)』東洋文庫1952所収),宇都宮 清吉「憧約研究」十一「荘園経済について」(『漢 代社会経済史研究』弘文堂1955所収,もと『名古 屋大学文学部研究論集V・史学2』1953)を参考。 ただし,丹喬二「宋代の地主と『奴僕』関係」 (『東洋学報』53−3・4,1967)では「荘」と「田」 は厳密には区別されるべき存在であったとするが, 「田土を含めて荘といっている」(p87)例もある ように,本稿では園宅と田地が分離している場合 をふくめ,広義で使う。また,宮崎市定「中国史 上の荘園」(『歴史教育』2−6,1954)が六朝期の 大土地所有を「一円的所有」と規定したのに対し て,渡辺信一郎「2世紀から7世紀に至る大土地 所有と経営」(『中国古代社会論』青木書店1986所 収)は「一円的所有とその散在性との統一として 存在していた」(p136)と修正されているように, 田地が複数の地に分散していた可能性もあるが, 本稿では同様に「荘園」として扱う。なお,渡辺 氏によれば分散した耕地には「宅/舎」があって 労働者たる憧僕・業使などが居住していたが(p 137),柳宗元がいう「田鷹」はこのような居宅で はなく,荘園経営主の基地・家主家族の住む本宅 であると考えられる。

(2)

う。氏は先の「某は始め四歳なりしとき,京城 西の田二丁に居り」という記事と(17−02)「種樹 郭豪駝伝」にいう「其の郷は豊楽郷と日い,長 安西に在り」とを結び付けて,唐長安城の西北, 阿房宮の真西で豊水東,豊水の下流の地に比定 されている。果たしてその地であろうか。そう ならば根拠を示して説明しなければならない。 氏の根拠はこの二篇の散文の記載であるが3), じつはそれ以外にも,柳宗元の荘園のあった地 については多くの作品,とりわけ拝情の形式で ある詩歌に詠まれており,それらがまったく検 討されていない。今,それらを総合することに よって位置をかなり限定することができ,同時 に,その環境等についてもかなり知ることがで きそうである。

1 漁舟の流域

 「城西」は「京城西」と同じく長安の西側を いう。では,具体的にどのあたりを指すのであ ろうか。長安城周辺の範囲にあって,その西と いう方位だけではあまりに広すぎる。  まず,永州での作(43−02)「遊朝陽巖遂登西 亭二十韻(朝陽巖に遊びて遂に西亭に登る二十韻)」 詩の記述から検討を加えたい。この詩は,元結 (719∼772)が発見した景勝,永州城西の瀟水に 臨む朝陽巖に登った時の作であるが,高所での 空間の眺望から過去の時間の眺望に転じ,故郷 を懐古している。柳宗元にはこのような山水詩 部分と望郷詩部分から構成される,換言すれば 叙景と拝情の融合した詩が多い。詩には,眺望 による叙景部分につづいて次のように望郷して いう。   13 惜非吾郷土   14 得以蔭苦茄   15 羅貫去江介 3)同地に比定する説が張永禄『町代長安詞典』 (陳述人民出版社1990,p17)にも見えるが,武 氏の説を引用したもの’と思われる。   16 側仕尚函晴   17 故壁即澄川   18 敷畝均肥嶢   19 墓館集荒丘   20 池塘疏沈拗   (惜しむらくは吾が郷土に非らざるに,以て菩   茄を蔭う(西亭)を得たり。百貫 江介を去り,   世仕 函・嶋を尚ぶ。故駆 澄川に即き,数畝    肥礁を均しうす。壼館は荒丘に集まり,池塘   は沈拗を疏(通)す) この部分には少年期に江南から上京して仕官を 求めたことと「吾が郷土」の様子が追憶されて いる。詳しい考証は将士にゆずるが,柳宗元は 興元元年(784)断つまり十二歳頃から貞元二 年(786)十四歳頃までの問,郡墨堤団練使・ 江西観察使の李兼の判官であった父・柳鎮の赴 任に従って江南(夏口・長沙・九江など)にあっ たと考えられる。したがって17「故塁」以下が 「吾が郷土」の記述である。  かくて仕官のために上京し,それを承けてい う17「故塁 澄川に即」く地は,上京後に生活 し,進士科受験の準備をした地であり,「城西 に仁義の田有り」「京城西の田盧」という柳家 の荘園のあった地と考えてよい。ちなみに, (11−09)「故庭士斐君墓誌」に「京兆潤南の駆に 終う」とあり,宋・童自説の注に「“壁”は写 角なり」といい,また『漢書』二四「食貨志」 上「埜(野)に在るは鷹と日い,邑に在るは里 と日う」,唐・顔師古の注に「盧は各おの其の 田中に在り」という。それはまた(34−08)「答 貢士薫纂欲相副書」に「始め者,経籍を負戴し, 跡を再拝に退き,蒙随を塊離し,坐して自ら塞 塞す」という「野盧」と同じ。以下の考察では, この地を簡称して「柳荘」ということにする。  しかし従来の研究ではそのようには考えられ ていなかった。たとえば施子愉『柳宗元年譜』 (1958)は先の(13−01)「志」・(30−01)「書」に 拠って「其(柳宗元)の田舎・盧宅は皆な長安 に在るなり」(p7)というが,この「長安」は 長安城なのか長安県なのか曖昧である。また,

(3)

章士釧『柳文通要』下「雑録」一(中華書局 1971)にいたっては「“故壁即澄川”は,善和         ちか里の旧宅を指すに回し」(p1973)という。これ は「善和里」を長安県某郷の「里」,いわゆる “郷里”制における里と考えているようである が,作品の中で郷名をいわずに,郷に下属して 数百もあったと推測(詳しくは後述)される里 名を挙げるというのも不自然である。善和里に ついては前稿で述べたように,ほとんど知られ ていなかったが,長安城内にあり,そのことは 「澄川」との位置関係によっても明らかである。  「故塁」のあった「澄川」は,早く『詩』大 雅「斎王有声」に「溜水は東に注ぐ,維れ禺の 績なり」と歌われている,“関中直水”・“関 中八川”とよばれていた川のひとつである㌔ その存在と位置を唐代の地理書によって確認し ておけば,唐(貞観十六年642)李泰『括地志』 一「雍州」5)に   長安県:……豊水の源は雍州長安県西南の   禮谷に在り。豊水は北のかた垂垂の西を経。 といい,唐(元和八年813)李磯曲『元和郡県語 志』二「京垂下」に   直面:……豊水,県東南の終南山に出で,   源を発して尽り北流し,県東二十八里を経   て,北流して潤に入る。 という。この「富川」は今日でも澄河とよばれ ており,西安城の西南,長安県と寧陳県の分水 嶺に発して長安県と郡県との間を北上して下水 に注ぐ河(全長82km)である6)。それに「即く」 4)浬・潤・蘭・漣・湧(牢)・橘・1豊e滴をいう。 また,淫・潤・洛(一に漆淫水)を「関中三川」 という。早くは司馬相如「上林賦」,三岳『関中 記』,『三輔三図』六「雑録」(畢三校正本),三代 でも徐堅『初学記』六「滑水」・「淫」,騎賓王 「帝京篇」などに見える。 5)賀次君輯校『転地志輯校』(中華書局1980)に 拠る。 6)朱三三『中国水系大辞典』(青島出版社1993) 「澄河」(p109),陳西師範大学地理系『西安市地 理志』(陳西人民出版社1988)「澄河」(p133∼ 137)。後者は全長を78kmとする。 とは濫水の近くにあることをいう。つまり「京 城西」とは豊水の流域である。  それを承けて18「数畝 肥曉を均しうす1と いうのは,そこが土壌に恵まれていたことをい うものであろう。「肥饒」とは土地の肥えてい ることと瘡せていること,早くは『孟子』告子 上に「(収穫高は)同じからざる有ると難も, 則ち地.に肥礁有り,雨露の養,人事の斉しから ざればなり」という。ここでは土質が均一であ る点において良田であることをいうのであろう かT)。19「濫訴は荒丘に集まる」の「壼館」は 荘園内に造営された建築群であろう。たとえば, 柳宗元と同時人である十度の荘園も「東都には 集賢里に第を立つ。……又た心証(東都洛陽に あり)に於いて別壁を創り,花木は万慮,中に 涼壼・暑館を起てて,名づけて緑野堂と善う」8) であったという。当時の荘園は耕作地だけでな く,それを中心として高台・館・亭・庭園など をそなえた別荘であった。王維の富川の別当に 文杏館・臨湖心・竹里館などがあったことはよ く知られており,貞観中の土方翼の鳳泉別業も 「田数十頃を開く,出処を修飾し,竹木を焼亡 す」9),晩唐の李徳裕の平泉荘(洛陽)も「図 画ii罰射は甚だ佳し……荘は周囲十絵里,面訴は 百鎗所」iD>であった。では,それらが建てられ ていた「荒皮」とは何なのであろうか。にわか 7)「饒」は石が多くて硬い土壌。したがって「肥  礫」の「肥」は土地の肥瘡を,「硫」は土壌の硬  軟を問題としたもの。『通典』一「食貨」一「田  制」上に「周……各区肥饒多少以為差」とあり,  注に「“饒”,曉碗,謂瘡薄之田」。土壌の硬軟  は肥瘡に直接関係することであり,ここでは両方  を含んで土質をいうものと思われる。 8)『旧丁丁』一七〇「丁度伝」(p4432)。また,  白居易「奉和斐君公新成午橋庄緑野堂即事」詩,  劉禺錫「奉和斐令公新成緑野堂」詩などがある。 9)『旧唐山:』一八五上「良吏伝」(p4802)。 10)宋・王諜『唐語林』七。また李徳裕「平泉山居  草木記」がある。これら唐代における荘園の文人  趣味的庭園化については周維権『中国古典園林史』  (清華大学出版社1990)「下林的全盛期一階・唐」  が詳しい。

(4)

にそれを明らかにしがたいが,これによって少 なくとも丘陵地帯であったことがわかる。後に みる他の資料との関係上ここに注意しておきた い。次句の20「池塘を翻し」は灌溜i用水路の類 であろう。それは野州での作(43−77)「春事故 園(春に二三を懐う)」に故園を懐古して   03悠悠故池水 悠悠たり堀池の水   04 空待灌園人」空しく待つ 潅園の入 といい,(43−16)「首春逢耕者(首春,耕者に逢 う)」に   11衣食想蕪没 紙面 想うに蕪没せん   12 遺畝當榛荊 遺畝 当に十一あるべし という「故池」と同じものを指すはずである。 駆水を利用した溜め池ではなかろうか。  以上,「遊朝陽巖遂登二伸二十韻」詩によっ て,柳宗元の先祖伝来の荘園が長安城の西に位 置する澄水の流域にあったことがわかる。  しかし濫水は大河であってその流域はかなり 広い11)。そのどのあたりに位置していたのであ ろうか。

H 郵杜と点心の間

 同じく永州での作で,柳家の荘園について語っ ていると思われるものに(43−11)「遊南仁平還 叙志七十韻(南亭に遊びて夜還り志を叙す七十韻)」 がある。その一四〇句からなる長篇詩の後半部 11)濫水を含む長安周辺の河流については,胡謙盈  「豊島地区諸水道的踏察」(『考古』1963−4)の  「(三)豊水(改道問題)」(p191),陳西師範大学  地理系『西安市地理志』(前掲)「河流及水系的歴  史変遷」(p141∼145),史念海「論西安周囲諸河  流量的変化」(『陳西師大学報』1992−3)を参考。  胡謙盈によれば,河筋は基本的に変わっていない。  ただし,陳西師範大学によれば,滑水は全体的に  今よりも南を流れており,それにともなって滑水  に注ぐ澄水の下流も変化していた。史念海は中で  も澄水の変化は著しく,今日では水量がかなり激  減しており,かつては船が往来していた大河であっ  たという(p56)。総じていえば,上流から中流  (斗門郷あたり)までの河州には大きな変化はな  かったと思われる。 分には現実から希望,つまり罪が宥るされて長 安に帰還した後の処世に展開して,次のような 記述が見られる。

  95安得奉皇位

  96 在宥解天性

  97蹄誠戦略梓

  98 富力開蓬蕎   99 卜室有事杜

 100名田濫造滞

 101 旙卑近鯨基  102 出城連記濠  103  娯虫牟飴牛瞭  104 茶童甘自嫌  125 弦焉畢蝕命  126 富貴非吾曹   (安んぞ皇霊を奉るを得ん,在宥(自由)は天   艘を解かるることなり。誠に帰して松梓(先墓・   旧宅)を慰め,カを陳べて蓬茜(田)を開かん。   卜直するには郵・杜有り,名田は澄・潜を窄む。   礒難は絵基に近く,畦豆は故濠に連なる。瞑鉾    や       のぞ   は瞭かるるに親しむを願い,奈董は自ら鱒かる   ることに甘んず。……菰焉に絵命を甘えん,富   貴は吾が曹に非らず。) これも長安の柳家についていうものであり,柳 荘の所在地を知る手がかりとなるのではなかろ うか。  ここにいう99「郡・杜」と100「澄・湧」に ついて,宋・韓(醇)は注して「澄水は郵の南 に出で,湧水は郵の北に出づ。公の『与許孟容 書』(30−01「寄許京兆孟容:書」)に云く“先墓は城 南に在り”,又た“城西に数頃の田,樹[果数 百株]有り”と。其れ此れならん耶」という。 「松梓」とは松柏と桑梓のことで,松柏は墳墓 に植える樹,桑梓は園宅地に植える樹。たしか に,前者「城南」は柳宗元の先祖の陵墓のあっ た地,後者「城西」は先祖伝来の荘園のあった 地を指していると考えられる。  そこで,100「名田占澄・潜」という 「濫」 は,先の「遊朝陽巌遂登西亭二十韻」詩に「故

(5)

塁 強国に即き」という「澄川」と同じ川であ り,「名田」も「田鷹」「故塁」の「数畝 肥饒 を均しうす」と同じであると考えられる。そう ならば,柳荘は澄水と湧水との流域,さらに 「郡・杜」のあたりにあったということになる。 では,「澄」と「潜」,さらにその両者と直前に ある99「蔀・杜」は,どのような地理的関係に あるのか。また,それらの地は直後にある101 「旙難近飴基」・102「皇城連下平」といかなる 関係があるのか。   工事の地  まず,IOO「名田占澄湖について見てゆけ ば,溝水も澄水とともに関中期水のひとつであ り,『元和郡県篤志』二「京無下」に「郵県:…… 牛首山:県西南二十三里に在り,南は終南(山) に接す。……湧水の自りて出つる所なり。豊水: 県東南の終南山に出で……」というように,灘 水の西にあって澄水と並行して南北に流れてい る河であった。したがって「名田は澄・滞を占 む」とは「濫川に即き」に符合するといえる。 また,このあたりが「名田」であり,「均肥曉」 の地であったというのは,いわば柳宗元のお国 自慢であるようにも思われるのだが,それは懐 かしさの心理による過剰な修飾・虚偽ではない。 たとえば『漢書』六五「東方朔伝」に「螂・鏑 の間は,号して土膏と為し,其の価は畝ごとに 一三」というように,早くから有名であり,一 定の事実をふまえている。『宋書』五四の「史 臣」の賛に「会(会稽)土は海を帯び湖に傍い, 良躊も亦た数十万頃,暖海の上土は畝ごとに一 撃に直す。那杜の間も,比ぶること能わざるな り」というのも,このような心落からの伝承を 踏まえたものであろう。たしかに肥沃な良田と して古来有名であった。しかし厳密にいえば 「澄・潜を囲む」と「芦川に即き」とは,必ず しも同じ地ではなく,より澄に近いと考えるべ きであろう。  「澄・湧」の両河は,今日でもその名で呼ば れており,平野部分(中流下流から河ロ)にあっ ては呼数キロも離れているだけでなく,潜水は 『元和郡県二男』に「郵県:……美阪は県西五 里に在り」というように,郵県(治)の西数里 の地点に流れていて,郵県に属する。美破は杜 甫「漢追行」をはじめ,零参「與郵縣上官宴漢 破」,章応物「任蔀令漢破游眺」,鄭谷「嘉肴」, 章荘「過物論懐旧」などに詠まれているように, 唐代でも行楽の景勝地として有名。したがって, もし柳宗元の荘園が蔀県内にあったならば,郵 県城を中心としてその東あるいは西というべき であり,「京城西」とはいわないであろう。「京 城西」とはあくまでも長安城の西,つまり長安 県の西部という意味と解するべきである。ただ, ここに厄介な問題がある。かりに灘水と湧水と の問にあったならば,どのあたりが長安県と蔀 県の境界であったのか,ということが問題となっ てくる。  『薪唐笠』三七「地理志」一「鰻掴府」が          あた「京城の前は子午谷に直り,後は龍首山に枕し, 左は磨水に臨み,右は寝水に抵る。其の長さは 六千六百六十五歩,広さは五千五百七十五歩, 周りは二万四千一百二十歩,其の崇さは丈有八 尺」と,京兆府の規模を示しているのによれば, 潜水が京兆府西長安県の西の境界になっている ように思われる12)。たしかに『括地志』一「雍 州」には「長安県:……豊水の源は雍州長安県 西南の濫谷に在り。豊水は北のかた霊塁の西を 経。……滴(錆)水の源は雍気長安心西北の滴 池に出づ。……今,『図経』に“滴は県西四十 里に在り,其の水は郡県の界自り本県に入るこ と十里にして清風に入る”と。……豊水渠,今 は賀追々と名づく。東北に流れて交水に注ぐ」 といい,『通典』一七三「州郡」三でも「長安: ……n水・豊水・鍋水有り」という。しかしそ の一方で,『元和郡県図志』二「京兆下」には 12)漢代については孟凡人「漢長安城形制布局中的  幾個問題」(中国社会科学院考古研究所『漢唐与  辺彊考古研究』1,科学出版社1994)に「漢長安  城郊和長安平的西限大致以豊河為界(或略過)」  (P49)という。

(6)

「高高:畿Q東北のかた府に至ること六+五里。……・・ 豊水,県東南の終南山に出で,源を発して自り 北流し,県東二十八里を経て,北流して潤に入 る」という。つまり,澄水は『括地志』・樋 典』では長安県に見えて郡県には見えず,「元 和郡県図絵』では逆に郵県に見えて長安県には 見えない。すると,貞元・元和の間に長安県と 郵県の境界が変わったのであろうか。北宋の宋 敏求『長安志』十二「長安県」には「県境:東 西四十里,南北一百五十二里。……北澄店の澄 水渡は県西四十里に在り。南高山の澄水渡は県 西四十五里に在り」,十五「郵県」に「豊水, 県東二十八里を経て,北流して滑に入る」とい うから,澄は長安県(治)から南西四五里から 西四十里の問を流れており,したがってこれと 『元和郡県図志』を総合すれば,   郡県      65里      長安県   (治)←28里→澄水←(37里)→(治)      県境←一40∼45里一→ という位置関係になり,計算上では県境は澄水 の西に三里から八里(65−28=37;40−37=3;45− 37=8)前後のところにあったと考えられる。 北山店・南画店は豊水を渡る渡し場のあった所。 これは唐代でも地名としてあった。白居易「十 界轟幽幽 :   ,

長1萬ト1三冬界 = = 原照葉 ⋮ ● 9 ● , ● ● ...。,; の 「  = 綜O楽 、= 孚 : 響:

二二澱蔦

郷磁

治安治年 。●

下臥

城社

曙 ・■

,:

嚇蔦

,; 界 .・ 、・ 壕表神 ・㌔ ● ’ 太太 ㌦ ⋮ 和和 子 : ⋮

宮北陸

i石   ●

^抵’

 /<\・づヘへ.・

@今’

D.,!〈 幽  一  , @胃 ら 亀 Nン\●   : ’ テくi・一 A触へ二9’・.._ノ

吻脚

照脚  〈八子 粘く\ ^\ 、 酬ハ醐

ハ松へ や卵/\<<

へへ凱

が難

働  く、へ

齦レ

船べ\

yくへ

図1:唐彊域図

ネ寸耐

ー彰

 ∫・.り9︷  ‘  ◎ ・  . ■ 一 . @.怐怐 F 。ノ

@三豊

郷鱒

c化葺

麟回

戌場聴 i・長  山:麦  ノ告 ?X● ・ ●   口 L」ヒ里郷

s

郷麟 里山噸柑叛宮 題瀬沿3冶

c

●冤。恐 郷楽伺

ワ穿女

麟勢 :

聴祉 .

E鎮!

@ ∫ ’\

@2

 西子

h姦

jへ’

d

ノツ∼\ 」   :ノうヘへ.・ ノY\ .・.”¥\・づ∼\∫/℃・シγ’・ ..

ョ窪

滋∼ ッ..  =、㌔.﹂ Aヘへ

@、

@ へ

@\へ へY∼へ ノトペマ\

@ヘハ

/Y㌧へへ’/\ヘ

y\

へへ

A莞

加 ヘペ\

@ 念

《、 \ト乾  祐   ノヘへ @ { /へくへ

v__凡百

で\\ペへ オ一界轟泉 星石至輪   璽  , mゾ\^

ユ舗

図2:宋彊域図

(7)

年三月三十日別丁之於野上,十四年三月十一 日……」詩の冒頭にいう「澄水店頭 春番日, 君の馬に上りて通州に講せらるるを送る」がそ うである。ちなみに清の張聡賢能・董曽臣羅纂 『長安県志』(嘉慶十七年1812,民国二五年1936重 印本)十二「土地志下」(2b)によれば,「県境: 東西六十里,南北四百六十里。八到:・・…・西南 のかた郡県の界に至ること四十里。……彊域は 始め今と同じ。・・…・今の界は皆な唐の界に本づ き,宋元明を歴るも皆な改易する無し。『長安 志』の載する所“東西四十里”とは,蓋し東西 に城に直るに拠りて言うならん。今の界は六+里, 東西の至聖の処に拠りて言う.13)“南北一百五十二里” とは,蓋し乾元県の界に拠りて言うならん」と いうから,基本的には町代とちがいはないと考 えられている。図1・2の同書一「国隣図」(10 b∼12a)「唐彊域図」e「宋彊域図」を参照。 そして三代の境界も今日と大きなちがいはない。 図でも明らかなように,県境線は澄水に必ずし も沿っておらず,かなり複雑であるが,唐橋で も聖水の西,潜水との問にあったことは確かで あろう。  そこで,唐代において呼水が長安県に属して いたとしても,「野川に即く」というのは,押 水の西なのであろうか,東なのであろうか。 「名田は灘・湯を占む」と同一の地を指してい ると認めるならば,碧水と潜水の問に長安県と 郵県の境界があり,柳荘はその長安県側で志水 の間,つまり聖水の西にあったように考えられ る。ただし,これは「名田」全体を柳家の荘園 と見倣した場合であり,柳宗元の荘園が古くか ら「名田」と呼ばれる「澄・湧」流域の地の範 囲の中に含まれるという意味で読むごとも可能 である。つまり,全体と部分の関係によって異 なってくる。この句と対になっている前の句 「卜室に那杜有り」との関係から見れば,必ず しも「灘」と「潜」の二水の問と考える必要は 13)ただし宋・王存『元豊九三志』三は「郡:府南  六十里」としており,これも両城の間である。 ないかも知れない。いずれにしても,「1豊川に 即く」とは,海水よりも灘水に近いといえよう。  三つの郵杜  そこで,対句になっている99「卜一点那杜」 が問題となってくる。まず,この部分は版本に よって異なっており,音辮本系統は「皇室」に, 百家注本系統は「十室」に作っている。「卜室」 とは居を構えることであり,「十室」とはいわ ゆる「十室素面」14)で,十戸ほどの集落,小規 模な村をいう。「十室」ならば柳荘のあった村 ということになろうが,それを受ける動詞「有」 との関係からみて通じにくい。「十室」ならば 「有」ではなく「在」であるべきであろう。「卜」 を「十」に作るのは字形相似による誤りと考え られる。では,罪を赦されて「卜室」すべき 「蔀杜」とはどこなのか。  旧注は濃水・湧水と「蔀」の位置関係をしめ しているが,「杜」との関係には言及していな い。これも厄介な問題を含む。というのは,古 来「郵杜」という場合には少なくとも三つの地 域が考えられているからである。  (1)郡県と杜陽県  たとえば『文選』に収められて有名な漢・壷 口「西都賦」に「商・洛は其の隈に縁り,郵・ 杜は其の足に心す」とあり,その唐・李善の注 には「扶風に郵県・杜陽県有り」とする。六出 は漏水南にあり,一陽県(今の宝鶏市麟游県の西 北)は溜水の北にあり,両者の問は直線距離に して100km以上離れている。柳詩での用法にお いてこの説は成立しにくい。100km以上の範囲 で「卜室」の適地の範囲を示すという点ははな はだ不自然であり,忌詞県が山間である点は 「澄川に即く」に矛盾し,さらに「卜室に那・ 杜有り,名田は灘・湧を占む」という対句にお 14)『論語』公冶長に「十室之邑,必有忠義如丘者  焉,不如丘之好學也」,『説苑』談叢に「十室之邑,  必有忠義」,『穀梁伝』荘公九年に「十室之邑,可  以逃難,百室之邑,可以隠死」など。

(8)

ける視点,つまり郵・澄・滞は近接しているが 杜は異常に離れているという点において均整に 欠ける。したがって常識的に考えれば「郭・杜」 という時の「杜」は杜陽県ではありえない。  (2)郵県と杜陵  いっぽう一般には「郵・杜」とは郵県と杜陵 と考えられているようである。たとえば『漢語 大詞典(10)』(漢語大詞典編輯委員会編纂,羅竹 風主編,漢語大皇典出版社1994)は,先の才蔵 「西都賦」を引きながら,李善とは異なり,「郡 県と杜陵」(p675)とする。島陰注が「城南」 の地というのも,杜陵(漢・宣帝陵)・杜曲を 示唆するものであろう。しかし杜陵・杜曲の地 も郡(県)とかなりの距離(30・一一・40km)がある が,それよりも問題なのは方位である。杜陵・ 杜曲は城の東南・南南東にあり,唐代では長安 県ではなく万年県に属していて「城西」とはい えない。  このように,「杜」を杜陽県と考えれば距離 に矛盾が生じ,群口県と考えれば方位に矛盾が 生じるわけである。  (3)長安県西南の地  じつは「郵杜」という呼称の地については古 来紛糾しており,宋・程大昌『雍録』七「説」 の「郭杜・杜伯国・秦砂谷・東県・下血」には 次のような議論が示されている。   “杜県”は五代都城と謹[僅?]んど固い   並び附す。故に古事は, を此の地に著わ   す者多し。語(漢・土山r三秦記』)に「城   南の章・杜は天を去ること鼻柱なり」と謂   うは,其の帝都に近心せるを以てなり。今,   杜県を循ること,地望は西従り東に及ぶ。   次を以て之を言わば,其の倫有るに庶から   ん。県境は西のかた郵県に抵り,東のかた   藍田に抵る。故に(漢)宣帝は微なる時に   諸陵を上下して尤も郵杜の間を愛す15)。   “杜”は杜県なり,‘郵”は即ち郵県なり。   境の最西は鍋に抵り,錆の東は“東廻”と   為す,即ち彪池上流なり。彪池の北は即ち   鍋なり。(魏・劉勘等)『回覧』に曰く「文   王・郭公は直な畢(畢原)に葬らる。畢は   錦束の杜県なり」と。曽池の東は唐に於い   て長安県南為れば,則ち周・杜伯国なり。   秦・武前は杜を滅して勢門を以て杜県と為   す(秦杜県)。県の東に原有り,名づけて   “東原”と為す。三塁は以て己の陵と為す。   故に東原の地は遂に“杜陵県”と為すなり。   既に杜陵県有れば,則ち名称は“杜県”と   卜い着り,則ち遂に杜県を改めて“下杜”   と為り,以て之を別つ。 これによれば,秦・漢に杜県といわれていた地 は,唐の長安城周辺の地にして西の郡県から東 の藍田県に及ぶ広い範囲にあったが,漢・宣帝 の杜陵ができたことによってその東の地が「杜 陵県」とされて有名になってからは,「杜」と いえば杜陵あたりの地,つまり長安城の南東の 地を指すことが多くなった。つまり,西南の地 もほんらい「杜」の地であった。唐でいえば, 万年県だけでなく長安県も「杜」であった。そ うならば程大昌のいう長安城西南の「杜」の地, つまり汗馬と杜県の境界となる鍋あたりを指し ているのが,「郡杜」という呼称ではなかろう か。このあたりには秦杜県がある。図3〈上県 地名図〉 (r雍録』七)を参照。  この秦野県の地は宋・宋敏求『長安志』十二 「長安県」に「秦野[杜]鎮:県西南澄水飼に 在り,四十里にして郭野路に入る」,十五「郡 県」に「秦渡鎮:県東四十里に在り。一に四十 五里に作る」という秦野鎮/秦渡鎮であり,今 日でも戸(郡)県の東南・澄水西岸にあって 「秦渡鎮」と呼ばれている地である16)。「秦杜鎮」 つまり「秦の杜」とは,等割に杜陵を中心とす るようになった東にある「漢の杜」に対する呼 称ではなかろうか。そして秦杜鎮は濃水西岸に 15)『漢書』八「宣帝紀」に「曾孫尤細動郵之間,  率常在下杜」。 16)胡謙盈「豊錦地区諸水道的弓察」(『考古』1963−  4)も「秦社即秦杜,今作秦渡J(p192)という。

(9)

図3:杜県地名図 あり,周・鍋邑は澄水東岸にあった。つまり澄 水のやや西が郵県と杜県の境界であったのであ り,後にこのあたり一帯が郵杜とよばれるよう になったのではなかろうか。  そのことを証するのが唐・高駐「寄州杜李遂 良一士(郡杜の李遂良処士に寄す)」(『全唐詩』五 九八)と題する詩である。   05 吟社客蹄秦渡晩   06 醇郷漁去漢陵晴   (社に吟じて客は帰る 明渡の晩,郷に酔いて   漁は去る 漢阪の晴。) これによれば,「秦渡」なる地名は唐代にも存 在しており,それは詩題にいうように「蔀杜」 とよばれる地域の範囲内にあった。ここに見え る「秦渡」は豊水西岸に行く渡し場であり, 「漢陵」は先にも触れた郡県治の西を流れる潜 水西岸の池である。これによって郭杜が澄と潜 水の間を含む地域であったことが知られる。  また,この範囲は他の用例においても妥当し そうである。まず,柳宗元自身の用例として (29−04)「鈷錫潭西小丘記」に   藪の丘の勝(景勝)を以て,澄鏑那杜に致   せば,則ち回游の士の争いて買う者,日に   千金を増して而かも愈いよ得る可からず。 と見える。ここには「澄錦郡杜」が長安近郊の 景勝地にして貴族の別塁荘園があった地である という認識が示されている。友人劉禺錫(772 ∼842)の「題王郎中宣義里新居」詩に「愛す 君が新たに買いし街西(宣義里)の宅,客の到 ること郡杜の間に遊ぶが如し」というのも,郡 民が景勝地として知られていたことをつげてい る。それと同時に,「澄鏑郭杜」という地名の 羅列は,別々の四地域を示しているのではなく て,ある地域一帯を指すものとして提示されて いる。それは「澄鏑」と「郵杜」がすでに固定 した熟語であるという点から理解される。「澄・ 鏑」が豊京・鏑京を中心とする地域であること は明白であり,それは長安城外の西の地にあっ て北半分を指している。すると,「部杜」は那 県と杜陵県という長安城外の西部と南部を指す

(10)

のではなく,「澄鏑」の南,つまり長安城外の 西南部を指していると考えられる。つまり「澄 鏑郵杜」全体で長安城外の西部(西北部と西南 部)一帯の地を指しているわけである。そうな らば,これは柳宗元の用法に限らないであろう。 唐では二三卿「三二三三登岳陽見寄」詩に   05緑水瀟湘闊 緑水 瀟湘は闊く   06青山郡杜深 青山郭杜は深し 子武陵「友人南遊不還[回,因而有寄]」詩に   03 蔀杜月極満 那杜 月は頻りに満つるも   04瀟華人黒影 瀟湘 人は未だ帰らず というように,「郵杜」は南の他郷辺地をいう 「瀟湘」と対にして北の帝都長安を指して使わ れることが多いが17),満月が懸かっている方角 として,また青い山が見える地点としても長安 の南から西南の地を指しているのではなかろう か。さらに,晩唐ではこのあたりに居を構える ものが多くなっており,築庭鋳「郭撃手居」詩 があり,章荘「郵杜旧居二首」詩などがある。 もし「郷杜」が郡県と杜陵の二地,あるいは郡 県から三軍あたりの地を指しているのであれば, 居宅がある地を示すものとしては,あまりに広 すぎて適当ではなく,また「杜」が南(あるい は南南東)から「郵」が西(あるいは西南)とい う別の二方面を指しているのも不自然である。 もし一地点にして長安城の南部であれば「城南 郊居」「城南別壁」「城南別業」「杜陵別業」「杜 陵郊居」のように18),「城南/杜陵」などとい うのが普通である。しかも温庭笥「那杜郊居」 には「模擁・芳援(垣根)は非家に近し」,章 荘「郭杜旧居」其一にも「三雲・難鳥は尚お相 い依る」というから,「郡杜」なる地は終南山 17)この他に杜甫「追回故旧三州人日見寄」に「瀟  湘水国傍竈董,郭杜秋天雪辱鵜」,同「冬晩送長  台辞舎人離州」に「珍客瀟訓注,西戎郵杜肇」,  許渾「別劉秀才」に「孤帆夜別瀟湘雨,廣階春期  郵杜花」,同「将赴京師蒜由津送客還荊渚」に  「雲三三湘雨,風二三杜秋」など。宋・陸游「莫  秋」詩の「聴雨瀟湘夜,飛今一杜秋」は四脚の詩  を意識したものであろう。 に近い地,つまり南部であり,これは先の「澄 錆郵杜」における「灘鏑」が長安西北を指し 「三番」が長安西南を指して区別されていたと いう仮説にも合う。そして「郡杜」に含まれる 秦渡・秦杜鎮も長安西南の地であった。  このほか,温庭笏には「郵点心乱丁所知」と 題する詩もある。先の郡杜郊居とこの郭郊別壁 は常識的に考えて同一の地であろう。そして 「那郊」については,唐・李洞に「郵郊山骨, 題趙処士林亭」・「宿郵郊亡命処±」と題する 詩があり,その詩申にはr圭峰」・「南山」と いう語が見える。「圭峰」は「南山」終南山の 山系で二水の上流にある山である。願望の麓に 草堂寺があり,素振羅什が訳経をし,唐の定温 禅師こと塗壁宗密が住したことは有名19)。粗密 (780∼841)は柳宗元と同時代人。草堂寺は圭峰 の麓で秦杜鎮の南に位置する。つまり,李洞の いう「郭郊」は郡県の東南部にあって長安県の 西南に接する地点を指しているわけである。だ から温庭筒は「郷杜」ともいうのである。温庭 筒の蔀杜郊居と早撃別量は同一の地であり,郵 県の東南,おそらくこれも草堂寺あたりにあっ たであろう。 18)妹尾達彦氏「唐鼓長安近郊の官人別荘」(当代  史研究会『中国都市の歴史的研究』刀水書房1988)  の「唐長安城近郊の官人別荘一覧」を参考。氏も  触れられているように,唐代官人の別壁は長安城  の東から南へ,さらに南から西へ移行拡大してお  り,南部から西南部への拡大は唐代の後期,中唐  から盛んになるように観察される。柳宗元が「澄  錦郡杜」の「貴游二士」というのもこのような移  行・拡大を示すものではなかろうか。さらに中唐  から晩唐にかけては長安県西南から郡県の東南に  進むように思われる。 19)歯面撰・霜融線書(『類団長安志』十「石刻」  は「三三撰回書・柳公権築額」という)の「唐圭  峰定慧禅師碑銘」(大中九年855立)は有名。定慧  禅師(姓は何,号は宗密〉は王都長安に住して官  界と接し,装休らをはじめとする士大夫の支持を  得た。その教理については装休の求めに応じて撰  した『三三三三集丁丁』が有名。鎌田茂雄『禅の  語録9禅源諸小集都序』(筑摩書房1971)が詳し  い。

(11)

 以上によって「郡杜」は長安城外の地で長安 県の南半分であり,長安城からいえば西南に当 たる地を指すと考えられる。なお,憶測を加え ていえば,同じ「杜」の地でありながら,しば しば「章杜」と「郡杜」という言い方がされる が,「章杜」では長安城外の南の地を,「郡杜」 ではその西の地を指して区別せんとした語彙な のではなかろうか。  三つの旙難  では,これにつづく次の対句との関係はどう であろうか。101「旙難」は,有名な太公望こ と周の呂尚が釣りをしていて周・文王に発見さ れたことで知られる旙渓である。102「篭城」 は,後漢(?)『三輔黄図』20)一「宮」に「阿房 宮,亦た阿城とも日う」という,秦の始皇帝の 築いた阿房宮。「郡杜」「濫i湧」は阿房宮から旙 渓の間に位置する。そこでこの両親は一越のあっ た地を有名な山水・古跡で示したもののように 思われる。しかしこれらの四句にいう地点を地 図上に求めてみれば,きわめて不自然であるこ とに気がつく。つまり,郵杜・濫湧・阿房宮の 三地点は互いに距離的に近いが,旙渓だけが離 れすぎている。  阿房宮は,一代では『括地子』一「長安県:…… 秦阿房宮は亦た“阿城”とも日う。雍州長安県 西北一十四里に在り」,『元和郡県孝志』一「長 安県:……秦阿房宮は,県西北十四里に有り」 というように,長安城の西北十四里(今の西安 市未央区三橋鎮阿房宮村)に比定されており,唐 人でそれを詠んだものとしては杜牧「阿房宮賦」 が有名である。このあたりには鏑池・昆明池お よびそれから出入りして澄水と漢・唐の長安城 をつなぐ多くの渠・濠があった。これが102 「阿城は故濠に連なる」ということであろう。 20)撰者については古来諸説があり,一般には後漢  の人に始まって(陳民謡・周中浮の説),魏・晋・  梁・陳(晃公武の説)・階・唐(程大昌の説)な  ど歴代に増補されていったと考えられている。今,  清・畢玩の校正本,清・孫星街の校定本に拠る。 阿房宮に近い「故濠」として具体的には『水経 注』十九「消水」にいう「昆明故渠」(昆明池に 発して西北し,唐長安城の西つまり漢長安城の南か ら城をめぐるように引かれた疎水)を指すのかも しれないが,この周辺には多くの秦漢時代の疎 水があった21)。  いっぽう旙渓についてはどうであろうか。  (1)宝鶏県  宋・孫汝聴は注して「東密,鳳翔の界に在り」 という。その位置について『括尊志』一「温州」 にはかなり詳しく記されており,   岐山県:……弦泉水の源は岐譲許山県西南   の凡谷に出づ。『呂氏春秋』に薄く“太公   は弦[滋]泉に釣りし,文王に遭う”と。   麟[道]元(『水鏡注』十七「潜水」上)に云   く“旙渓の中に泉有り,之を暴政と謂う。……   即ち太公の釣処なり,今[人]は之を凡谷   と言質う。……是れ旙渓の称有るなり。其の   水は清冷にして神異なり,北流すること十   二里にして潤に注ぐ”と22>。『説苑』に云   く“呂望は年七十にして溜渚に釣る”と。 というように,岐州岐山県に属す。『通典』一 七≡:「州郡」三「岐州」には「號(県):古の 號国,魏の下説。旙渓有り,太公は魚を此に釣 る」というように,志州就県に属すとして異なっ ているが,じつは『新書書』二七「地理志」一 「鳳翔府(岐州)」に「就:次畿。貞観八年に省 きて岐山に入れ,天授二年に復た置く」という ように,県の所領に移動があったためで本来は 同じ地,つまり今の宝鶏市宝鶏県(滑水の南岸) にあった。孫汝聴の注も同じ地を指している。 いずれにしても阿房宮と旙渓は唐代でも比定さ 21)馬正林「漢長安城総体布局的地理特徴」(『陳西  師大学報』1994−4)および付録の「漢長安城附’近  地勢与城市引水工程示意図」に詳しい。 22)『初学記』二二「漁」の「滋泉」にも『水晶注』  として引く。なお,ここで「神島」が何を指して  いるのか明白ではないが,宋・僧文字『湘山野録』  上に唐・安史の乱,大中年間の出来事の伝承を記  している。

(12)

れていて一般によく知られていた地であり,今 この画地は潤水流域にあるが,直線距離で百数 十キロも離れている。すると,柳詩におけるこ の両句の地理的記述はかなり巨視的にとらえた ものであると言わねばならないが,そうである にしても,なぜ「旙案谷」を持ち出さなければな らないのか。あるいは旬125・126に暗示されて いるように,帰還後に隠棲する地という意で太 公望の例を引いているだけであると理解できな いこともないが,しかしこの部分も前の両句と 同じように次の句「三三は故濠に連なる」と構 成上対句になっているのは明らかであり,そう ならば「阿房」にも実際の地名以外にある意味 が託されていなければ,完全な対句とはいえな い。また,二三が三三県の地にあるならば, 「旙難は二三に近し」という「絵基」は何を指 しているのであろうか。さらに,前にある二二 との関係から見ても不自然である。つまり, 「郭杜」の「卜室」,「二二」の「名田」は,長 安城西にあって広くても五十∼六十里ほどの範 囲,二二・湧以東の範囲にあり,また「阿城は 故旧に連なる」も長安県内をいう。このように 前後の句では長安城西の十三里から多くても数 十里という比較的狭い地が意識されているのに 対して,その中間にあって,しかも「阿城は二 丁に連なる」と対をなすべき「旙難は二三に近 し」の句だけが数百里(約130km)の範囲に拡 大されているというのは極めて不自然である。 たとえていえば,京都市西郊の桂川から嵐山の 一帯のことを言いながら,次には名古屋を指し, また転じて京都市洛西を指すというようなもの である。そこで考えられるのが「三二」は『括 地志』・『二三』がいう宝鶏県の他に比定され る地があったのではないかということである。 ・(2)汲県  じつは太公望の釣りした地については色々と 説があった。早くは秦・呂不章『呂氏春秋』謹 聴に「太公は弦[滋]泉に釣りし,文王に遭う」, (伝)前漢・伏勝『尚書大伝』に「周文王は旙 渓に至り,呂尚[望]の釣るを見,文王は之を 拝す」23)というのに始まって,前漢・司馬遷 『史記』三二「斉太公世家」に「周・西伯(後 の文王)は尽し,果たして太公に溜の陽に遭う」, 前漢末の劉向『説苑』に「呂望は年七十にして 潤渚に釣る」というのは,いずれも滑水流域説 である。しかしいっぽう前漢初の韓嬰『韓詩外 伝』には「太公望……牛を朝歌に屠り,棘津に 卑し,旙渓に釣る」といい,後に三国(蜀)・ 誰周は「呂望は嘗て牛を朝歌に屠り,飲を孟津 に責る」(唐・司馬貞『史記索隠』三二に引く)と もいう。晋・李石『続博:物志』八が「汲県は旧 く汲郡なり,挾水有り,旙渓為り,太公望の釣 り処太公泉・太公廟有り」といい,『水経理』 九「清水」の注に「県は故の琴平の治,晋の太 康中に立つ。城西北に石野水有り,飛濡は賢聖 なり,世人は亦た之を旙渓と謂い,太公嘗て此 に釣りすと言うなり。城東門下に太公廟有り…… 城北三十里に太公泉有り,泉上に又た太公廟有 り」というのも,『韓詩外伝』説に立つものと いえよう。「朝歌」は今の河南省漠県,「棘津」 はその東南の延慨則,「汲県」はその中間にあっ て隣…接する護輝市,「挾水」は孟県の西,「孟津」 は車馬,洛陽の北で黄河を爽んで北岸の地にあ る。今でも護輝市太公泉郷には太公廟・太公祠 (明嘉靖年間建)があり,更に畳語市の西南に位 置する獲嘉県(徐営郷宣耐量村西南)には「呂尚 々」と伝承されている墓塚があるというm)。  つまり,太公望こと周の呂尚が釣りをした地 には,黄河流域と潤水流域の説,換言すれば河 南省・洛陽中心の説と陳西省・長安中心の説が あった。そして「旙渓」を熱闘県の畑谷とする 説は,先に掲げた『畑地志』や『初学記』など が引用しているように,『写経注』に始まるも のであったらしいが,『水経注』も二説を紹介 しており,その中で『呂氏春秋』の「弦泉」に 23)「古経解彙函」所収,清・陳寿三二校本による。 24)国家文物局『中国文物地図集・河南分冊』(中  国地図出版社1991,p136・p252・p257)。

(13)

よって澗水流域説の方が採用されたのであろう。  (3)長安県  しかし『聖経注』にはこの他にも興味深い記 録がある。同書十九「潤水」下の経文「又た東 し,豊水は南従り来たりて之に注ぐ」の注には 次のようにいう。   便門橋(西潤橋)……長安を去ること四十   里。潤水は又た“太公廟”北を蓬る。下前   に太公碑有り,文字は襯下し,今は尋ぬ可   き無し。潤水は又た東北して鏑水に合う。   水上は鏑池を昆明池北に承く。周・武王の   労する所なり。 これによれば,清水西門橋と鏑池との問に「太 公廟」なるものがあった。この「太公廟」とは 周の太公望の廟ではなかろうか死その関係を 想像させるのがこのあたりに「釣垂」というも のもあったということである。『長安志』三 「漢」上「未央宮」の「東山墓」の原注に「『三 輔下図』に干た曰く“未央宮に果壼・東山毫・ 西山毫・釣皇有り”と。『廟記』に曰く“未央 宮に釣ざ壼有り”と」という。これによれば漢 の未中宮つまり唐の長安城の西北の地に「釣出」 があり,また「釣kfigE」というものもあったこ とになる。これについて清・畢玩の校正『三輔 下図』五には「未央宮有果壼・東西山二上。未 央宮有釣『覚墓・通霊壷[?]」(清・孫星街校定 『三三隅図』も同じ)として,注に「玩は案ずる に:“釣一ll Ete”,疑うらくは当に“釣墓”に作 るべし。『長安志』は“未央宮に釣毫有り”と 引く,是なり。此れ応に誤りなるべし」という。 今日,釣四郷という地名が残っているが,それ 25)太公望の陵墓も文王・武王・相公・成王の陵墓  に並んで心止県の北(陵招村周辺),つまり長安  城から潤水を爽んで北の地にある。ただし,桑原  隅蔵『弾帯遊記』(弘文堂1942,p56)にいうよ  うに清華の考証学者によって懐疑されている。早  くは宋・程大昌『雍録』にも「(魏・劉勘等)『皇  覧』に曰く“文王・周公は皆な畢(畢原)に葬ら  る。畢は鏑東の杜県なり”」と見える。 はこの「釣壼」と関係があるのではなかろうか。 今日の釣憂(郷)は漢の未央宮の西にして,豊 水東の河口付近,つまり錆池 の西北にして西 滑橋の近くであるから,太公廟・釣墓とは極め て近い地であるといえる。したがって「釣墓」 が太公望が釣りをしていた地と考えられていた とも推測される。さらに憶測を加えるならば, 『三編長安志』三「壷樹」漢には「『廟記』日 “未央宮有鈎『℃壷」に作っており26),また『括 地下』一・『元和郡県図志』一には「鈎k宮: 在長安故城中」とあって,『史記正義』(外戚世 家「鈎一k夫人」)は『露地志』を引いており,さ らに畢沈校正『三輔導図』三の「鈎k宮」では 「『列仙伝』に曰く:鈎『k夫人,姓は門門好)…… 王褒『陽宮記』に曰く1鈎『k夫人は従いて甘泉 に至りて卒す,戸は香り聞くこと十鹸里,雲陽 に葬り,武並は之を思い,通知毫を甘泉宮に起 つ。……『漢武故事』に曰く:鈎ざ宮は直門の 南に在り」といい27),孫星術校定『三廿才図』 は「鉤k宮:在城外」(注;顔師古版長安志引油 漉)とする。恩寵によれば「釣ざ垂」は「鈎一ili 憂」の誤りにして「釣墓」とは別であるわけで あるが,「鈎ざ宮」の存在は認めており,この 「鈎i宮」によって「釣ざ毫」は「鈎『t垂」で 26)明抄本(「野口方志叢刊」所収,中華附句1990)  に拠る。黄永年点校本(中華書局1990)は「鈎」  を「鉤」に作るが,異体字に過ぎない。 27)『三輔読図』のいう通霊壷の位置には矛盾があ  るが,未央宮ではなく甘泉宮にあったと考えるべ  きであろう。今日の研究によれば甘泉宮は章台皇  帝の避暑地で,陳西省淳化県鉄王郷にあり,発掘  が行われている。銚生民「漢甘泉宮遺量勘察記」  (『考古与文物』1982−2),血振楽等『(《中国皇城・  皇宮・皇陵》系列叢書・西安巻)魏魏長安』(中  国人民大学出版社1992)「避暑勝地甘泉宮」(p  121)。ただし,何清谷「関上玉十宮覚踪」(『陵西  師大学報』1988−2)「甘泉宮」(p67)によれば,  秦の甘泉宮と漢の甘泉宮が混同されている可能性  もあり,漢の桂宮が甘泉宮とも称されるのは秦の  甘泉宮の遺跡の上に造営されたものであるからで  あり,漢桂宮=秦甘泉宮は漢長安城西北にあると  いう。

(14)

あったとも考えられる28)。  そこで想起されるのが,太公望が釣りをした とされる「旙渓」という語の意味である。「旙」 とは,『説文』に「石を以て針目を著くるなり」 という,石に糸をつけて飛鳥を落とすイグルミ のことである。すると「鈎k」さらに「釣k」 とは,魚を釣り鳥を落とすということであり, そのような猟場に由来する命名であるならば, それは「旙渓」に通じるといえる。おそらく地 の比定は「旙」という字音と関係があろう。岐 山県凡谷説は「旙」をイグルミ(ハ/bo1)で はなく,大きな巖・磐(バン/pan2)と理解し たものではなかろうか。  いずれが本来の地であるかわからないが(そ もそも太公望の伝説が史実であるかも疑わしい), 各地に太公望が黒戸で釣りをしていたという伝 承が古くからあったことは確かであり,時代に あっては,『括地下』・『初学記』・『史記正 義』・『通算』などの史書・地理書をはじめ, 垂穂「題濁西酪隠士」詩に「旙渓は覇水に連ら なり,商嶺は秦山に接す」,温庭藤「母上題三首」 に「呂公は栄達し(巌)子陵は帰る」(其一), 「幽く所は白首の旙電話」(其節)というように, 量水流域説が定着しているわけであるが,潤水 流域説にあっては長安城西北の清水のほとりも その一つと考えられていたのではなかろうか。 柳詩にいう「避難」を宝鶏県にある渓流を指す と考えることは,前後四句の関係および対句の 関係から,成立しにくい。しかし,長安城西北 あたりを太公望の釣りした地とする説があった ならば,それは忙種にいう「旙難」と地理的関 係上うまく符合する。つまり,先の前後四句に いう地はいずれも長安城西下十里の比較的狭い 範囲に集中していて,地理的に矛盾しない。そ うならば「病難は鯨基に近し」とは,次句に 「二二は故濠に連なる」というように,太公望 廟・釣墓の地が阿房宮を含む古代王朝の宮殿の 故基,周(錆京・豊京)・秦(阿房宮・章大宮)・ 漢(未央宮・建田干)などの遺跡に距離的に近い ことをいうものでありee),両句は意味上でも対 応して対句としても完結する。しかし『読経注』 も長安県西北の太公廟・太公碑を呂尚の廟・碑 であるとはいっておらず,また呂尚が釣りをし た地であることを明記した史料も筆者は今のと ころ知らない。したがって推測の域を出ないの であるが,そうでないとすれば,「旙難近鯨基」 の一句について,筆者は今のところ納得のいく 説明をすることができない。「旙難」をもって 呂尚と文王の故事を暗示し,さらにそこから周 王朝のことを暗示するものであると考えるなら ば,「鯨基に近し」は理解できないこともない が,このような娩曲な表現は「阿城は故濠に連 なる」が地理的関係を直接いう句であるのと均 整を欠き,不自然である感を禁じ得ないのであ る。 皿 昆明池と細柳の周辺 28)鈎k宮に位置については城内(未央宮)と城外  (直門南)の説があって一致しない。今日でも遺  玩は発見されていないが,「二一ili宮可能在留長安  城西直門外」(前掲書『魏魏長安』p124)と推測  されている。あるいは城内にあるのが鈎k宮であ  り,城外にあるのが釣墓であったのであろうか。  次に注意したいのが永州での作(43−64)「聞 頚髄(黄鵬を聞く)」詩である。この詩では瞼に 浮かぶ故園を次のように詠んでいる。   03 一聲夢断章江曲   04 満眼故園春意生」 29)阿房宮田についてはすでに指摘した通り。他に  ついては,『漢書』二八下「地理志」の「文亀は  郵を作り,武王は鏑を治む」に唐・顔師古は注し  て「今長安西北霊嘉郷豊水上是」「今昆明池北鋳  破是」といい,漢の宮城についても三三「望未央  宮」詩,干鄭「長信宮」詩などがあるように,唐  代でも遺跡はよく知られていた。これらの宮殿の  遺跡について発掘とともに報告がされているが,  最近のものでは恩遇春「漢長安城的発掘与研究」  (中国社会科学院考古研究所『三三与辺彊考古研  究』1,科学出版社1994),孟凡人「漢長安城形制  布局中的幾個問題」(同上)がある。

(15)

  05 目附千里無山河   06 饗肝胆天揺青波

  07王畿優本少賦役

  08 下野酒熟饒経過」   09 此時晴煙最深塵   10 舎内巷北墜下語

  11平日廻度昆明野

  12 凌風邪看細柳翁」   13 我今竪町千萬山   14 身同愴人不思還」   (一声 夢は断つ 楚江の曲,巨眼 故園 春   意 生ず。目は千里を極めて山河無く,麦芒は   天に際して青波を揺らす。王畿は本を優にして   賦役を少なくし,務は閑にして酒熟せば経過   饒し。此の時 晴煙 最も深き処,舎南・巷北    遥かに相い語る。日に増えりて廻かに昆明を       か   辺りて飛び,風を凌ぎて止めに細柳を看て翁く。   我れ 今 誤りて千万の山に落ち,身は愴入と   同じうして還えらんことを思わず。) ここに,03「野江の曲」の永州を除いて,少な くとも長安城と昆明池という二地点が示されて いることは明らかである。  まず,07句の「王畿」が長安城周辺であるこ とは明白であるが,08句・09句は酒が熟す頃に なると春霞のたなびく街々家々の近く,つまり 人里に黄鵬(ウグイスの類)が下りて来てしき りに鳴いているというような意味であるとして も,「舎南巷北」とは白居易「登観音毫下城」 詩に「千百の家は棋局を囲むが如く,十二の街 は菜畦に種うるに似たり」と詠まれているよう な東西南北に整然と並んだ城内の坊巷について いうものであろうか,それとも長安郊外の郷閥, 東西南北のいわゆる“四隣i”(しばしば「東隣/ 北舎」というように隣・家・舎・宅などを付けて呼 ばれる)についていうものであろうか。この描 写は平和な光景にして柳宗元が最も懐かしんで いるものであり,そこでここが04句にいう「故 園」のように思われてくる。  次に,「故園」の近くには句11「昆明」があっ た。この「昆明」は長安城近くの地であり,ま   わた た「度(渡)」るともあるように昆明池のこと である。周知の如く,漢の臣籍がインドへの交 通路を開拓せんとした時,昆明国(今の雲南省) が妨害をしたために果たせず,そこで武帝は昆 明滅に備えて,その地形を真似て昆明の近くに あった演池(昆湯池ともいう)を長安の郊外に掘 り,水戦の演習をした。その位置・規模・環境 と唐代の様子については,『門地志』一「長安 県」に「豊・錆の二水,皆な已に点して昆影面 に入り,出た流派する無し。昆明池は雍州長安 県西十八里に在り」,『元和郡県図志』一「長安 県」に「周武王宮,即ち錦芋なり,県西北十八 里に在り。煮魚帝の昆臨池を此に穿ちて自り, 錆京遺志は倫塾せり焉」,『長安志』六「昆明池」 に「唐徳宗の貞元十三年(793),京兆サの韓土 に命じて使に充てて之を湊わしめ,漢の制を追 尋して,交信・越水を引きて合流して池に入る」 といい,さらに清・顧祖禺『読史方輿紀要』五 三には「貞元十三年……又た石炭・賀蘭の両堰 を修め,並びに大堰を造りて以て衆流を匿む」 という3D>。貞元十三年は柳宗元が二五歳,学部 30)清・顧祖禺『読史方輿紀要』五三には「『括地  志』:貞観中,昆一二を修め,豊・鏑の二水,皆  な悉ごとく堰入し,復た流派する無し。……昆明        ひろ  池,深さ六町,柔さ(南北の直径)十里。貞元十  三年,樟脳サの山路に命じて之を凌わしめ,漢の  制を追って交河及び豊水を引きて池に合流せしむ。  又た石炭・賀蘭の両三を修め,並びに大堰を造り  て以て衆評を匪む。太和九年,復た之を凌う。  『雍勝録』に云く:池は長安故城の西十八里に有  り。池中に豫章台及び石を刻みて鯨魚と為す有り,  労に二石人有り,牽牛・織女を象り河の東西に享  つ。池中に養魚し,以て諸陵の祭祀に給す。宋自  り以後,今治を加えず,遂に埋もれて民田と為る」  という。宋代から不明になったらしく,その比定  の過程と遺跡発掘に関しては,徐錫台「論周都錆  京適位置」(『陳西師大学報』1982−3)「二,昆明  池的位置」に詳しい。なお,「石炭・賀蘭の両堰」  は『長安志』十二「県」二「長安」に「『括目志』  日;豊水渠。今名賀野卑,東北流注交水。……石  炭皇神廟在園西南四十里荊任村。唐・貞元十四年  置石父廟」と見える。石父廟は疎水を守護する廟  であろうから,貞元十三年の治水事業の完成を記 念したものではなかろうか。

(16)

試・博学宏三界を受験した年であり,京兆サ韓 皐の名はその前年夏秋の旱越の事とともに(05− 04)「終南山祠堂碑」・(05−05)「太白山祠堂碑」・ (05−06)「碑陰文」に見える。貞元十三年の昆 明池の凌洪は前年の旱越と関係があるのではな かろうか。昆明池だけでなく交河・貯水を整備 しているのも,灌概のためのであったと思われ る。柳宗元の作品は唐長安の治水事業を知るた めの貴重な史料となろう。この昆明池周辺が 早くから都人の行楽地のひとつでもあったこと は,北周・庚信の「和人日晩宴昆明池」をはじ め,唐人にも李百薬「和許侍郎遊昆明池」,任 即下「和七月七日臨昆明池」,蘇題「昆明池万 国事項兵部殉三韻見示」などがあり,しばしば 天子の行幸もあってそこで船遊び・宴会が催さ れた。それらの作品は『文苑英華』一六四「地 部」六・『文苑英華』一七六「応制」が多く集 めている。そのひとつ唐・蘇題「恩制尚書省寮 母昆明野準用発字」詩に「昆明四十里,墨水は 晴朝に酒り,雁は紅葉を騎むに似,鯨は海潮を 呈するに擬す」というから,かなり広いもので あった。これらによれば,昆明王は長安城の西 十八里の地(今の長安県錆貸下)にあり,その西 にある冷水から水が引かれていた。ということ は「故園」を夢に見て「僧職週度昆明飛」とい う表現は,「京城西」にして先に見た「澄川に 即く」「故壁」つまり柳荘近くの描写であると 考えられる。  では,それにつづく12「凌風邪明細柳津」は どうであろうか。柳宗元は詩題にいう「黄鶴」 に化身して懐かしい記憶の中を飛翔しており, 今,永州から一挙に三千里北上し,長安城周辺 の上空から昆明池に向かっている。そこでいう 「日に翻えりて廻かに昆明を度りて飛ぶ」とそ れにつづく「風を凌ぎて邪めに細柳を看て響く」 は対句表現になっており,これは有名な漢・張 衡「西京賦」に見える「東のかた鼎湖に至り, 邪めに細柳に界す」にならったものと考えられ る。しかし,前句にいう「昆明」が地名であり, また『文選』所収「西京賦」の李善注にも 「“鼎湖”・“細柳”,皆な地名なり。“鼎湖” は華陰の東に在り31), “細柳”は長安の西北に 在り」というように地名であるならば,柳詩に いう「細柳」の方も,文字通りの意味,つまり 春風に吹かれ青青として垂れている“細い柳” という叙景的意味だけではなく,その意味を含 みつつ地名・固有名詞を巧みに使った表現であ ると考えられる。  たしかに「細柳」は地名としてあった。では 李善がいうように「長安の西北に在」つたので あろうか。じつは「細柳」という地名は早くか ら長安周辺にあって複数の地が知られていた。 そもそも「細柳」の地といえば,『史記』緯侯 世家・『漢書』文帝紀・周亜父伝などに見え, 周亜夫父伝が文帝の命令に従って軍を駐屯させ た地として有名になった地である。陳・徐陵 「爲始興王譲榔班二軍太守表」などをはじめ, 多くの詩文で軍規厳守の模範として賞賛され, 唐代にいたっても李嘉祐(天宝七載登進士第) 「送馬將軍早事畢蹄押脚使幕」詩に   05 裳李宮裏等等衰   06 細柳螢前著豹裏   (業早宮の裏に龍哀を謄,細柳営の前に豹裏を   著る) と詠まれ,胡曽(威通中唐進士)「詠史詩」の 「細柳営」詩に

  01文帝攣輿勢北征

  02條侯此地整嚴兵

  03三門不峻將軍令

  04 今日争知細柳螢」   (文帝の饗輿 北征を労い,条侯(周亜夫)は   此の地に厳兵を整う。韓門 峻からず 将軍の   令,今日 争んぞ知らん 細柳の営) 李白「司馬将軍歌」に   13 細柳開手揖天子   14 始知煽上州嬰核 31)鼎湖延寿宮に比定され,城南東の地,今の蘭田  県焦岱鎮に遺趾がある。前掲書『魏魏長安』の  「離宮別館満関中」(p127)を参照。

参照

関連したドキュメント

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

本文のように推測することの根拠の一つとして、 Eickmann, a.a.O..

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に

遮音壁の色については工夫する余地 があると思うが、一般的な工業製品

○安井会長 ありがとうございました。.

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場