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〈史料紹介〉自芳尼「西国順拝名所記」(一)

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Academic year: 2021

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︻史料紹介︼

自芳尼﹁西国順拝名所記﹂︵こ

青柳

周一

はじめに  ここで紹介する﹁安政園丁寅三月半日出立 西国順拝名所記﹂は、川瀬正彦氏より平成一四年度に滋賀大学経済学部附 属史料館へ寄贈された文圭晟群の中に含まれていた旅日記である。  この﹁西国順匿名所記﹂の巻末には﹁柴田氏 自芳尼 順拝仕﹂と記されており、柴田家の﹁自芳尼﹂という女性が自 ら経験した巡礼の旅︵﹁薄藍﹂︶について記した旅日記であると考えられる。筆者が﹁西国順無名所記﹂を紹介した平成一四 年度企画展図録﹃近江路の旅人たち∼収蔵古文書と絵図資料に見る∼﹄︵二〇〇二、滋賀大学経済学部附属史料館︶では、 この柴田家について﹁現時点では不明﹂としたが、その後の調査で以下のようなことが判明した。  川瀬家文書群中には柴田家の由緒について記した年代不詳の書付が含まれており、それによれば書付作成当時の当主は ﹁柴田惣次﹂と名乗り、弘化三年︵一八四六︶に家を相続して彦根の﹁善利橋ヨリ四丁目﹂に屋敷を有し、禄高入石を得て いたとある。さらに、中村達夫編﹃彦根藩屋並帳﹄︵一九七五、彦根藩史料研究普及会︶所収の幕末期﹁諸事陪臣屋並帳﹂      自芳尼﹁西国順拝名所記﹂︵一︶       一〇九

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十六号       一一〇 には、﹁善利橋四丁目北ヨリ﹂に﹁柴田惣三﹂と記されており、これらを同一の家と見てよいならば、柴田家は善利橋の組 屋敷に住まう彦根藩の足軽の家であったと考えられる。しかし、川瀬家と柴田家の間柄については詳細は不明である。  ﹁西国順拝名所記﹂を記した﹁自芳尼﹂個人についても、現時点で史料中から知り得ることはほとんどない。わずかに、 家事から退いたのを契機に剃髪し、しかし巡礼の旅にかける意欲と体力は衰えていない年代の女性像を想像するばかりであ る。 自芳尼の旅と﹁西国順拝名所記﹂の特徴  ﹁西国順拝名所記﹂の冒頭部分に﹁︵前略︶不思も御里引出而十有五人の同行二二︵中略︶三月廿日暁に彦根表を出発し﹂ とあるように、自芳尼の旅は安政元年︵一八五四︶三月目〇日に同行一五人︵内、一名が男性︶というグループで彦根から 出発して、西国三三ケ所めぐりに伊勢参宮・紀州の名所めぐり・金毘羅詣でなどをセットして回るというコースのものであ った。自斯斯一行が彦根に帰って来たのは六月二日のことであり、全ての行程を回り終えるのに七二日間がかかっている。  ﹁西国順忙裡所記﹂には、旅の中で訪れた名所・旧跡と、そこでの自芳尼によるさまざまな体験や見聞についての文章と ともに、自芳尼たちが泊った場所︵宿屋・宿坊など︶の名称が記されている。その文章には訪れた場所によってかなりの精 粗があり、たとえば四月二日から二一日まで白頭尼一行が紀伊国内をめぐり歩いた際の文章はきわめて詳しく、またバラエ ティに富む内容にもなっており、この部分が﹁西国順拝名所記﹂中のハイライトと言ってよいであろう。  温泉で名高い湯之峰を訪れた際には同地を﹁日本一誓湯﹂と褒め称え、和歌浦では沿岸防備に関わる﹁台場﹂に注目し、 和歌山東照宮での祭礼の模様を細かく記録する姿勢などからは、自費尼が単に西国三三ヶ所をコース通りに巡礼するだけに

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とどまらず、社会的・文化的関心を多方面に向けながら旅先の地域のあり様を仔細に観察する眼を有していたことが窺われ るであろう。  また、この旅の中で自芳尼一行は高野山などに参拝した折、女人禁制に関わる差別的な扱いを受けているのであるが、そ うした経験についても﹁西国措置名所記﹂には記録されており、近世宗教史的にも史料的価値が高い。  それと比べて、たとえば自芳尼一行は五月二日に近江の石山寺を訪れ、それから琵琶湖を船で渡って三井寺の方まで行っ ているのであるが、この時の文章はその末尾に﹁此所も人々御存故巨細こ不記﹂と記されている通り、ごく簡略なものとな っている。さらに、同月三日から四日にかけての京都市中の札所めぐりについては、訪れた寺院の名前のみを列挙するだけ でほとんど済まされている。  ﹁西国順拝名所記﹂は単なる自芳尼の備忘用の日記ではなく、冒頭にも﹁其道しるべ後代尊位へしめん﹂とあるように、 完全に他人に読ませることを念頭に置いて執筆されたものである。さらに、和歌山の東照宮祭礼についてのくだりで﹁若後 代之人順拝被音戸ヘハ、四月十七日置祭礼拝見被成語積り二而御出立憲落成候﹂と書いているように、自芳尼は後に巡礼の 旅に出る人々が﹁西国順拝名所記﹂を旅行案内として利用することも意識していた。  その際、自芳尼が読み手として想定しているのは第一に彦根の柴田家ほか身近な人々と考えられ、そのため自分がわざわ ざ案内するまでもない近江や京都など近場についてはごく簡略な記述で済ませ、一方なかなか足を伸ばす機会がない紀伊の 名所・旧跡については多くのページを割いて説明したと考えられよう。  ﹁西国順橋名所記﹂は長文にわたるため、前半と後半とに分けて翻刻することとした。すなわち﹁西国順拝名所記﹂の序 文と、三月二〇日から五月二一日まで、つまり彦根を出発して近江・伊勢・紀伊をめぐる部分を前編として、以下にその翻 刻文を掲載する。五月二二日以降から自芳尼一行が彦根に帰りつく六月二日までの分は、後編として次号に掲載する予定で      自芳尼﹁西国順拝名所記﹂︵一︶       一一一

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第三十六号 一=一 ある。 付記  本稿は、財団法人二水学術後援会から青柳周一が平成一四年度に研究助成を受けて行った研究﹁一入・ 観光旅行の地域社会史的研究﹂の成果の一部である。 一九世紀日本における 一、 →、 一、 一、 一、 凡  例 翻刻にあたっては、漢字・片仮名・平仮名は原文通りとした。 原文中の文字は、原則として新字体とし、異体字・合字は採用しなかった。 濁点の有無及び平出については原本に準じた。 史料本文には読解のための参考として読点・並列点を施した。また本文中の地名や語句等の内、必要と思われるものについ ては傍注を付した。 破損・虫損箇所については■で示した。また、判読の困難な箇所には︵カ︶と付けた。

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︵表題︶﹁安政元幾寅三月廿日出立 西国順拝名所記﹂ 夫仏法を尊信せし人は今世後世迄も大悲の御助二預る事難 有共いわん方なし、常に大悲菩薩を尊信し印にや、不思も 御道引二而十有五人の同行二而、嬉しや善ハ急■丁丁退く 習なれハ思ひ立直を吉日と定、三月廿日暁に彦根表を出発 し、観音寺・長命三江札納、夫より伊勢路へ懸り太神宮へ 参詣、紀州路へ懸り順拝ノ序ながらも金毘羅大権現江参詣 せし、其道しるへ後代江伝へしめん 安土浄厳院参詣、信長公御互血天井等適所なく拝見致ス、 夫より佐々木宮へ参詣、村はつれより長命寺海きわ迄舟二 乗候、舟賃一人鴨付三十二文 三十一番近江署 長叢叢へ参詣札納、御境内三二重塔有、観世音見おくり石 上り坂二等、夫より八幡江参詣、同行中此辺修行致ス        八幡鍵手町泊り        宿や いをや嘉右衛門 三十二番 近江国 観音寺江参詣札納、御境内東向にかねの大仏有、其きハに 見事成松あり、西之方へ坂を下り六・七丁行ハ、桑実寺薬 師如来尊へ参詣、本堂ハ南向なり        三月廿日 聖楽寺泊り        宿屋 小松や又次郎 同廿二日 八幡出立 武佐宿へ出﹃岡本羽根田光明寺へ参詣、夫より壁宿二而 昼支度致ス、夫より石原村御医師方二品御世話二課目御詠 歌二番より四番迄庭先二而唱出立致ス        厳寒宿泊り        宿や 鍵屋 同廿一日 常楽寺出立 自二二﹁西国順拝名所記﹂︵こ =二

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十六号 同寸三日 風雨烈敷難渋三韓、同所志田滞留致ス 同廿四日 貝懸宿出立 土山宿へか・り笹尾峠通候、出水二付外之橋へ廻候、出家 道すれ成、川迄同道ス、山道計なり、田村明神へ参詣、鈴 鹿の坂二懸候、大師筆捨山見候、岩屋観世音へ参詣、尤三 体なり、夫より関地蔵尊へ参詣、御開帳頼ム         関泊り 同廿五日 関出立 此所より参宮道へか・り、高田門跡へ参詣、幸成哉、高祖 上人六百忌御法会二而賑々敷事筆八難尽、夫より津之粉阿 弥陀如来へ参詣、御開帳百銅頼ム、津ノ粉町ハ永き所なり、       ︵香良洲︶ 銭懸松古き堂内二銭懸り有、夫よりお烏大明神江参詣、是 ハ太神宮之御妹也、道筋桜木多し         お鳥泊り        一一四 お烏之浜島へ出て案内を頼ミ日之出を拝む、夫よりお烏川 舟渡し十六文、夫より松坂へ懸る、此所甚心配之所也        小幡村泊り         宿や 柳樽宗十郎 同廿七日 小幡村出立 外宮江参詣、曝露末社不転参詣、天ノ岩戸へ参詣、内宮へ 参詣、二見へ参詣、風雨二而甚田園、夫より朝熊山虚空蔵 尊へ参詣、甚霊地也         朝熊峰泊り 同歯八日 朝間出立 山田寺町欣監寺円光大師御直筆井面ノ丸ノ御名号、 雲華        田丸城下泊り         宿や角や徳兵衛 御開帳 同廿六日 お鳥出立 同廿九日 田丸出立

(7)

柳原仙福寺へ参詣、夫より舟渡し、美瀬坂越        三瀬村泊り        宿や 中西屋勇蔵 四月朔日 三瀬村出立 野尻村瀧ノ原大明神参詣、あらた成御神也        駒村泊り        宿や 井筒屋半兵衛 同二日 駒村出立 まゆみ山坂梅ケ谷より下り坂、是より紀ノ国境也、長嶋昼 支度、魚類ハ沢山、海ノ際なり、古里村より三里船二乗ル、 山三ツ難所を越候、是ハ知らスニす・められ茶屋二而船二 約束致ス、海上余り宜からす、風あたり強海ノ所跡二而承 候、併滞なく着舟二而大二悦、上日和也、夫より難所ノ山 路計、左ハ海景、此日は夜に入何とも難渋致ス、山中に家 一軒有、駅夫思慮残之同行ヲ迎二越ス、咄之種二記置        引当村泊り 自芳尼﹁西国順拝名所記﹂︵一︶

宿米屋半四郎

同三日 引元村出立 ︵尾鷲︶ おハせ峠地蔵尊へ参詣、夫より八鬼山日輪寺へ参詣、 三宝大荒神、あらた成御神なり         ︵三木里浦︶        みきさと泊り        宿 近江や新右衛門 同四日 みきさと出立 みきさとより曽根と申所迄仕度二甚不自由なり、 二而川々多し        二鬼嶋泊り

       宿津屋砂面

本尊 此辺浜部 同五日 二歩嶋出立 毎日山路計、難所なり、此辺に鬼之住し岩屋有、豆嶋と申 所海辺也、木之本村と申所より浜辺通候、立面岩を見物ス、 ︵阿畔︶ あうん之石と申而王子ノ岩屋二書記有、又岩之高見に五十        一一五

(8)

期間

 計

 N

滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第三十六号 岩より岩江〆縄張り、太神宮之天下りし給ふ場所と ︵阿田和︶ あたわ村泊り 宿 嘉兵衛 一六 第一番紀伊国       ︵雁木﹀ 那知山へ参詣札納、御境内之熊野権現へ参詣、御山かんき 十八丁上候、杉桧木大木多し、かんき之石角丸くなる        宿坊泊り 同六日 あたハ出立 紀州侯御家老・水野土佐守御城下、入口に川有、船渡し川 会所有、渡賃入、失より熊野上中大権現奥ノ院へ等江参詣、 奥之院ハ十丁計、二酉大黒天・蛭子宮、品々御堂有、此所 ︵狗賓︶ くひん多く住し場所也、御堂二左甚五郎他之ほりもの多々 有・左手に見事成行苫田岩山而御髄御宮ノ内江納有之

       素村泊り

宿小山七右衛門

同七日 うくい村出立 三輪椅弁オ天、此辺海へ出てよき景色なり、那二黒石茸有、 碁石二成、名所多き所なり、造石山ノ近辺なり、又山坂を 行 同八日 宿坊出立 今朝も又参詣致ス、夫より瀧見物致ス、三筋流レ落候、誠

二日本一之瀧也、夫より妙法山阿弥陀如来参詣、

九叢騨砺﹄ボ脾トとて甚難所之三里

小ロ村泊り 宿 坂田や小右衛門 同九日 小口村出立 新宮御本社へ参詣、結構成町有、本宮十二社へ参詣、合而 熊野三社なり、本宮町ハ長々町坂田、宜敷家建有、夫より 湯ノ峯へ行道二小栗判官病気平癒の旧跡有、石之塚なり、 茶屋ノ前なり、休足して物語聞        湯峯泊り

(9)

同十日 湯峯出立 此湯峯ノ湯ハ日本一之湯なり、入ロニ御堂有参詣、湯ハ三 ヶ所なり、湯ロバ太き湯なり、外一ニツ寺之湯有、鎖前付、 湯銭ハ集て寺江上候、御寺有、是は禅宗旨なり、旅籠や坂 二六・七十間計有、珍ら敷湯二入、湯本ハ入口之土手に有 也、其際二川有、此辺難所之山路計也        志賀村泊り        宿 嶋や 同十一日 志賀村出立 紀州公御家老田辺御城下通候、賑々敷町也、魚物ハ沢山安       ︵岩代︶ し、御城下拝見致ス、夫より四里之内灘二乗、岩しろと申 所へ隠勢        御城下泊り        宿 山印源七 同十二日 御城下出立 自芳尼﹁西国順拝名所記﹂︵一︶ 日高川舟渡し三十六文、安珍清姫旧跡謂承候、道成寺釣金 跡有、本尊ハ観世音也、御堂きれいなり、五重塔有、此辺 も山路なり        塩屋村泊り        宿 浜野や久兵衛 同十三日 塩屋村出立 坂四ツ行而、中将姫ノ古跡多し、十三才之御姿御開帳、 バリ山徳正寺へ参詣        居関村泊り

       宿嘉勢屋金兵衛

ひ 同十四日 居関村出立 糸賀村中将姫ノ御法事、折節通り合参詣致ス、誠二賑々敷 事なり、右手之山申将姫捨られ給し古跡有、夫より大川有        日片村泊り        宿 目金や仲治 一一七

(10)

灘賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十六号 同十五日 日片村出立 紀州国境坂ノ下二熊野権現之御宮有之、是より国境なり、 此辺ハ紀州椀之出来候所なり、皆々見物致ス、相応之町家 なり 二番紀伊国 紀三井寺へ参詣札納、御境内右平方二金仏観音、右御手二 蓮花を持給ふ、御堂黒海之方向也、下向して下町へ出支度 致ス、冨士屋次郎兵衛方、夫より和歌浦江十八丁船乗、此 所ハ名所多し、所々見物致ス、淡路島見候、案内之者山す そ二而色々珍ら敷昼下、筆紙綾里、和歌浦三重之塔有 東照宮御国家拝礼  左之方二 水野出雲守重央   石ノ燈籠ニツ有之  同    松平三郎兵衛忠政  同 一ツ        ︵カ︶  同    久野丹波守宗成   同 ニツ 中門外ハ石ノかんき際二、御家中之石ノ燈籠富有        和歌浦泊り        宿 米や栄蔵

=八

同十六日十七日 和歌浦二而滞留 ︵片男波︶ 片をなみと有所、珍ら敷所也、和歌掌上へ出て、御台場三 ケ所有、中々厳重也、近国高山ニハ遠見番所有之、遠目鏡 懸り有之、同十七日二 東照宮御祭礼拝見仕、誠二賑々敷事筆紙難尽候へ共、荒増 書記置、和歌山町々より図鑑ヲ致ス、御城下章章拝見致居 候処、紀州様より格別二順礼之者御世話二相成難有事二御 座候、若後代之人順拝平成候ヘハ、四月十七日御祭礼拝見 被成型積り二而御出立可被成候、誠二日本一之島田御座 候、御城下より一里計縄手二根上り松、是ハ名所なり、凡 二丁計松鶴・松亀、珍ら敷松見物ス、経かん寺へ参詣、禅 宗旨なり、又御城下返候、松井二馬乗又ハ弓矢寒空御家中 御稽古拝見ス、御城下広瀬口御門・米塩ノ御門迄行 御城拝見仕、又町江出て修行ス 国主より之千石船大川へ出て御祭礼之狂言ス、外二五十石 ノ船多し、ふきぬき立誠二賑々敷御座候、和歌浦二御覧場 所長ク有之

(11)

同十八日 和歌浦出立 三番紀伊国 粉川寺江参詣札納、御堂内比比方こえんま堂守、御作仏な り、御堂下二西国三十三所堂有、札納、御境内左右に ︵蘇鉄︶ そでつ有、右平方に二間既成長き庭石有、奥ノ院ハ三社な り、中門ニハ四天王有之、蓮ノ花内より手洗水出候、右手 に観世音出現し給ふ定有、池は二十間四方、中に堂、観世 音拝礼する、惣門ハニ王門也        御堂下町粉川仲町泊り        宿 金屋茂平 同十九日 粉川仲町出立 高野山へ懸候、此道大伴峠、此坂ハ甚難所なり、夫よりけ さ懸松・ねし岩・おし上ケ岩是ハ大師母御御隠れし所与・鏡岩、 是ハ顔うつる、夫より大門迄同行皆々罷越、大門際二女人 堂有之、皆々無難二着坊す、本野院二百御世話二成候、惣 門内本野院二而男色滞留、女ハ女人堂二而御祠堂金相納 候、此より内之事ハ不記、女人堂二而案内を頼、外ノ山よ      自芳尼﹁西国順拝名所記﹂︵一︶ り御魔所其外堂塔拝見ス、夫より下り坂二て大師岩二足ノ 跡有之、同行中岩を抱ておりる、慈尊院参詣、是ハ大師母 御なり、御手判頂戴致ス、是ハえんま大王江切手なり        同十九日 女人堂泊り        同廿日  忌違院村泊り        宿 御門前角や長五郎泊り 同廿一日 慈尊院村出立 四番槙木尾寺へ懸ル、山道試着珍ら敷七本松有之、皆々休 足、此辺吉野川有、是ハ大川なり 四番和泉国 槙木尾寺参詣札納、此御寺二而九重ノ御守頂戴致ス、寺院 光龍寺宝物珍ら敷品々拝見致ス、谷川より生ししやハら見 る  但し此宿凝霜宜、以後 平居村泊り  心得業事      宿 米や政五郎

=九

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⋮滋賀大学経仙済学部附属史料館研弗兀紀響安 赫墨二十山ハロ万

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