ホレース・マンの公教育論
旨
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源
On’ Horace Mann’s Views of Pub}ic Education Hajime Kawasaki 1 マサチューセッツ州の教育の歴史においては,ホレ ース・マンの名と「公立学校復興」とは殆んど同義語 である①。そしてマサチューセッツ州は,植民時代に おいてはアメリカ公立学校の発禅地たるの名誉を担 い,十九世紀の前半においては公教育復興の指導州た るめ役割を果したのであるから,マンはまた「アメリ カ公立学校の父」とも呼ばれている。そのボレース・ マソは公教育に対して一体どんな思想を懐いていたで あろ5か。 ボレース・マンの公教育論には,原理としては何ら 新奇なものは見られない。それらは彼に先立つ時代の 精神がすでに決定したものばかりである。マサチュー セソツ植民地の初期の学校法(1642,1647)の中には (1)普遍的な教育が国家の福祉のために不可欠であり, (2)父兄はその子供の教育の義務を負い,㈲国家はそれ を強制するとともに,(4巌育の内容や質を決定し,(5)教 育費は税金によって取立てらるべく,そして,⑥中等 教育もまた国家の手によって施されるという諸原理が 含まれていることは,マーチンによって指摘されたと おりである②。教育復興運動を推進するに当ってマソ はこの法律の精神の復興を意識的に企てていた。free, universal, common, compulsory, state controlled, tax supported等々の諸原理は,すでにこの法律に出 つくしている。公教育におけるsecular, nonpartisan の原理にしても,それは国家と教会の分離をたてまえ とする合衆国憲法の必然の帰結であって,マンの創意 ではないし, non−sectarianの原理にしても,自由と 平等を標榜して建られた合衆国の当然の立場でもなけ ればならない。 これらの公教育の諸原理は,原理としては現代にお いても,マンの時代においても,そしてその若干のも のは植民時代の初期においてさえも自明の理であっ た。ただその自明の理が,それぞれの歴史的社会的現 実によってさまざまな二階があり,さまざまな意味が あり,時としてはその内容や方向を全く異にすること さえある。たとえば,公教育が原理としてfree(無料) でなければならないことは植民時代の学校法にもみら れる。しかし植民時代に授業料のいらない学校があっ たと考えられてはならない。またstate controlled, compulsoryの原理も, stateの意昧や公教育を強制 する主体の如何によって,その内容や手段には大なる 相異が生ずるのであって,教会と民事の主権が同一で ある「宗教国」religious republicとしてつくられた 初期のニュー・イングランドにおける義務教育と,権 力の主体を民衆におく近代民主国家の義務教育とでは その目的を著しく異にする。従ってマソが公教育のこ れら自明の原理を唱えたとしても,それによって彼の 偉大さを証明しない。彼の偉大さは,これらの原理を 彼の時代の祉会的政治的文化的要求に即して拡充.し, その時代に固有な意味を与え,それらを単なる原理と して掲げるだけでなく,それが実践にもたらされ,制 度に具現される方法を示し,そしてそれらを最も広く 大衆に理解させた点にある。そこにわれわれは彼の公 教育論の特異性を見出さなければならない。 II ボレース・マンの公教育論は抽象的観念論ではなく て,この時代の公教育の現実に出発した切実にして力 強いものであった。 われわれは彼の第一年報First Report, for 1837から始めよう。この報告は,彼が 教育長に就任した当時のマサチューセッツ州の公立学 校の現状を,(1)校舎建築,(2)学務委員の任務,㈲学校 に対する地域杜会の態度,㈲教師の資質の四つの項.目 にわたって総括的に論じている。公立学校校舎の現 ①B.A. Hinsdale:Horace Mann and The Com皿on School Revival in the United States,1913. p. 277. ② George H. Martin:The Evolution of the Massachusetts Public School Syste狙,1915. pp.14−15.状とその改善策については,別に第一年報に引続いて 書かれた「校舎問題に関する補助報告」Supplemen− tary Report on The Subject of Schoolhousesに 詳しく報告されているので,この報告では簡単に取扱 われている。学校建築に関するマンの考え方はむしろ 「公立学校教育の手段と目的」と題する教育集会の講 義において興味深く述べられている。∀ンによれば, 校舎の構造は子供の学習意欲と学習能率に関係するば かりでなく,その健康と生命にかかわる重大問題であ る③。しかるに当時の公立学校の校舎は,以下の二つ の引用によっても知られる如くひどく粗末な老朽校舎 であった。 「……そこでは字を書いている間にペンのインキが 凍るというほどの厳寒の日はないけれども,教師は窓 の寒気にさらされている子供の苦痛と,炉辺の熱気に さらされている子供の苦痛を調節しなければならなか った。後者の側では寒暖計が九十度も上昇しているの に,前者の側では三十度以下である。一方の子供はロ ス船長やパリ船長のように,北極の寒気に苦しめら れ,他方の子供はランデルスのように炎熱に悩まされ ている。しかもいずれの場合も,これら発見者のよう な名誉を獲得することなしに。それは教鰍ことって, 地理における一つの事実を説明するすぐれた場所であ った。何故なれば,子供たちはそれによって地球上の 五つの地帯を経験するから。」④ 「……その学校は屋根の一方が箱形になっていて, しかも庇の方に大きな穴が開いているので,その穴は すべての雨水をうけて教室の中に注ぐトンネルのよう ロ な働きをする。私は女の先生を呼んで尋ねてみた。あ なたや小さい子供ばときどき永攻めにされないかと。 彼女が答えていうには,床が同じようにすさまじく漏 れるので水はすぐに退いてしまう。」⑤ マンの時代は,マンもその熱心な実践家の一人であ ったのであるが,汎愛的な社会事業がようやく世人の 注目を惹ぎ,精神病院や感化院や刑務所等の施設が著 しく改善されるようになってきた。しかるに公立学校 の校舎のみこの運動の圏外にあって,暖房照明に対す る配慮はもとより,生命維持に必要な第一要件たる室 内の換気に対しても何ら衛生学上の注意が払われてい なかった。年齢の異る多数の児童を小さな一室に収容 し,腰掛はといえば床から突出した脚柱からなり,そ の上端は僅か8インチ四方ぐらいしかなく,肘掛もも たれもないものであって,それらのいくらかは高すぎ て子供の足が床にとどかないものであった。「こんな 校舎で静粛にしろと言ったとて,全く無益であるのみ ならず,残酷でもある。」⑥ かくて当時の公立学校校 舎は路傍のいわゆる「小さな赤学校」little red sch− oolhouseであって,そこで学ぶ共和国の未来の市民 たちは建築構造に関する限り,獄舎における重罪犯入 よりも,畜舎における家畜よりもひどい取扱いを受け ていたのであった。 このような状態はマンの観察によれば,公立学校の 全般的な監督を法律によって命ぜられている町の学務 委員school committeeの怠[曼と無能力に起因して いた。法律(1826)によって要求された学務委員の学 校監督の任務は,町のすべての学校に対して,(1)児童 (4歳∼16歳)の学校出席を強制し,(2)教科書を選択し ⑧貧:困児童に対しては公費で教科書を供給し,(4)教師 を試験して無資格者を排除し,(5)学校の教授能率を調 査するためにすべての学校を視察することであった。 ところがこれらの義務は全く無視され,公立学校は事 実上無監督の状態にあった。第一年報の報ずるところ によれば,四十の学区をもつある町では,委員は八年 間一入の教師も試験せず,一つの学校も視察したこと がなかった⑦。公立学校の教育に依存している全児童 の三分の一が冬季において,その五分の二が夏季にお いて学校を欠席していた。法律は休暇を除いて年間少 くとも十ヵ月開校する学校を要求しているにもかかわ らず,すべての学校の平均開校日数は六ヵ月二十五日 であり,多くの児童は冬季学校または夏季学校のいず れかに出席していたから一入の生徒の出席日数は三カ 月ご十日に還元されていた⑧。 1 学務委員の怠慢とともに第三には,学校に対する地 域社会の冷淡と無関心が指摘されている。ピれには二 種類ある。その第一はすべての教育に無関心な人々の 態度であって,それは無知蒙昧な住民の移住にともな って当然に増大するであろ5。しかしそれよりももっ と恐しい第二の態度は,公立学校や無月謝学校をもつ @ Means and Objects of Common School Education, Life and Works of Horace Mann, 1891. (以下Life and Works.と称す)Vol. II p.51. @ lbid., p. 52. (E) lbid., p. 52. @ lbid., p. 51. @ First Report, for 1837. Life and Works. Vol. II p. 407. @ lbid., p. 400.
て充分な教育を施し得ないものと考え,その子供を私 立学校や,アカデミーに送ろうとする人々の態度であ る。「次のことが見逃されてはならない」とマンは言 っている。 「私立学校組織の傾向が,われわれの教育 のやりカをイングランドのそれに同化しようとしてい る。イングランドでは国教徒と非国教徒の各々の宗派 が自らの教義に従って別々の学校を維持している。そ してそこでは子供は早くから運命の右手に護教の劔を 振うことを教えられている。そこでは福音書は平和の 殿堂とならないで,絶えざる祉会的動乱に備える兵器 庫となっている。」⑨ 公立学校に対する一般の無理解 は町がその学校のために調達した教育費の額によって みてもわかる。州内の六分の五以上の児童が出席して いる公立学校のために,州の魚町が1837年において税 金によって取立てた総額は465,228.04ドルであった。 ところが六分の一以下の児童を教えている私立学校の ために支払われた授業料の総額は328,026.75ドルであ った⑩。 マサチ=一セッツ州の入事は,六分の一の 児童に対する六分の五の児童の取扱いにおいて算術に おけると同様の誤謬を道徳においても犯していたと言 わなければならない。 第四の告発点は教師の無能力である。教師養成のた めの特別の学校もなく,教職が一つのプロフェション としてまだ確立していなかった当時にあって,公立学 校の教師たるための資格は事実上,読み書きの能力と 性格の善良さだけであった。 「教師は世論の要求する ように善良であった」が,教授能力や学校管理の能力 においては憂うべき無資格者であった。これは学務委 員が教師検定の義務を怠る「ことによってその任用基準 を低下していたことにもよるが,他方社会が教師に酬 いるに不充分であったことにも起因する。因みに当時 の公立学校の教師の給料をみると,男教師は,平均月 額15ドル44セント,女教師は5ドル38セントであった ⑭。かくては教職は,有能な青年にとっては他のより 右望な職業への一時的な踏台に過ぎず,永久に教師た るものはおおむね無能な社会の落伍者であった。教節 ・の無能力に加えて,学校には教授のための何らの教具 もなく,何らの記録簿冊も保管されていなかった。 以上は1837年当時のマサチ=一セッツ州の公立学校 の実状であった。このような事態において;マンはそ の公教育論をどのように展開していったであろうか。 III 十九世紀は全世界を通じて,教育の国家組織が完成 した時代であった。すべての国民に対する普遍的な教 育が国家の存続と発展のために欠くべからざるもので あるということが,君主国家においても民主国家にお いても,専制主義の下においても共和制の下において も,共通の信念として醒めてきた。ホレース・マンの 時代を中央集権的傾向をもつ,state supported, statel controlledな公立学校のための戦いが戦われた近代国 家教育組織の発展時代として理解することは多くの教 育史家の一致した見解である。このような時代にマサ チュセッツ州教育委員会の教育長として州内外の教育 改革運動の先頭に立っていたマソは,国家主義教育の 代弁者として無月国公立学校の理論を唱えたのであろ うか。彼は確かに国粋主義者とさえ言ってよいほどめ 愛国的情熱を,この若ぎ共和国に対して懐いていた ⑫。少くとも,ニュ・’一イングランドをば「人類の創造 以来最も恵まれた社会」と考え,あらゆる讃辞をもつ てその初期の建設者の高貴な精神と偉:大な事業を讃え ている。しかしながら過去は所詮過去であって,「自 由選択の余地のない,変更することのできない固定さ .れた取かえしのつかない一つのユ=ソト」であり, 「人間の力によっても,神の力によっても変えること はできない。」従って「未来こそわれわれの活動分野 である。」⑬ マンは過去を歎美することにおいて愛国 心を汲みとるよ5な愛国転たることを欲しないで,過 去が現在のためになしたところのことを未来のために なし得るような愛国者たらんとした⑭。 第十年報Tenth Report, for 1846はマンの公教育 論の立場を知る最も重要な文献の一つである。教育が すべての児童にuniversalでfreeでなければならな いことを.Yンはこの報告の中で彼独特の財産論の立場 から論証している。彼は先ず,マサチューセッツ植民 地の初期の学校法(1647)を検討し,世界がまだどこ においても無月謝学校の組織をもたなかった時代にお いて共和国の建設者たちが「神に対する彼等の義務」 と「子孫に対する彼等の義務」の気高き精神をもつて かくも完備した学校法を制定したことを,感謝してい
⑨⑩⑪⑫⑬⑭
First Report, for 1837. op. cit. p. 418. Ibid., p. 419. Ibid., p. 423. Merie Curiti: The Social ldeas of American Educators, 1935. p. 102. Seventh Report, for 1843. Life and Works. Vol. III p. 403. Means and Objects of Common School Education, op. cit., p. 80.る。しかしながらマンによれば,彼等の無月謝学校は プPテスタソトの信仰を永存せしめるためのものであ り,プロテスタントはキリスト教国の小部分に過ぎな いが故に,彼等の論議は不充分である⑮。次にuni・ varsa1, free schoo1は共和制度の存続のために必要 であるという論議が考察されている。この主張には, 共和制があらゆる政治形態のうち最もすぐれたもので あるという前提があり,そしてマンはその前提及びそ れに基礎づけられる公教育論の健全性に対してはr宗 教的な信念」をさえもっていた。しかしながらその点 にのみ公教育論を基礎づけることはなお不充分といわ なければならない。何故なれば,「もしそれがすべてで あるなら,真実の君主々i義者や専制権力の擁護者や帝 王神権の信奉者は,われわれがそのために主張すると 同じ理由で無月謝学校に反対するであろう」⑯から。 第三に経済学の立場からする無月謝学校の利点が挙げ られている。「教育ある国民は常により勤勉にして生 産的な国民であって,知識と富は相互に因果の関係を 保つ。そして知性は国民の富のag一一一・の要素である。」⑰ この論題は実はマンが五年前にその第五年報Fifth Report, for 1841の中で取扱つた資料にもとづいてい る。即ち1841年,彼は州内の最大の雇傭主数名に対し 質問状を送り,教育の不平等が教育あるものと教育な きものとの労働の生産的価値において生ずる相異を調 査した。その結論によれば,よき公立学校教育を受け たものは同一の仕事において,教育を受けなかったも のよりも道具や機械のより少い損耗をもつて普通50% の能率を向上するだけでなく,社会のよりよき成員と なることができる⑱。 第四には,よき教育が犯罪や 悪徳を防止するという,道徳論者の論拠が述べられて いる。この理論もマンの最も得意とするところであっ て彼はその第十一年報Eleventh Report, for 1847に おいて,「州を悪と犯罪から救う公立学校の力」に関 して州内外の署名な八名の教師に宛てた長文の回状と その回答を掲載している。その回答が例外なく公教育 の道徳的効果について積極的な証言を含むものであっ たことは言うまでもない。たとえば,S・アダムは次 のように答えている。「……私は貴下が考えられるよ うな教育の手段とわれわれが期待すべく許されている 神の恩寵をもつてすれば,百人の中九十九人までは, 或は私はそれ以上かとも思うが,社会の善良なる成 員,法と秩序と正義とそしてあらゆる善行の擁護者と なるであろうことを確信をもつて期待する。」⑲ 公教育を支持するための以上のような諸論議は,反 駁し得ない論理と神聖な能弁をもつて古来幾千回とな く説き聞かされてきたけれども,すべての子供のため の無月謝学校が事実上発展しないのは,マンによれば 何よりも先ず,「財産権の本質に関して人々がいだく 誤った観念」に基づくものであった⑳。財産は一般的 には個入的な能力ないしは先祖の努力の結果ではある が,それは一つの相対的な権利であって絶対的な権利 ではない。その大部分は本来自然的な要素と成分から なる。それは土地の富,海の財,太陽の熱と光,.万物 を豊饒する雲,水蒸気,露,風等の自然力の化学的な 働きによってつくられたものである⑳。このような自 然の恩恵は特定の個入や特定の世代のみのために用意 されたものではなくて,全人類のために創造されたも のである。それ故に個人は一生の間だけその所有権を もつに過ぎず,かくて獲得された財産を減少しないば かりか,より豊富にして次の世代に伝えなければなら ない。個人の努力の結果と考えられる財産のうち,彼 が彼に先立つ世代に恩恵を蒙っていない部分がいかに 少いことであろうか。われわれが依ってもって有益に 労働をなし得ているところの政治・法律・制度・家 屋・道路・教会・芸術・科学・発明発見等は,すべて その大部分はわれわれに先立つ世代がわれわれに残し てくれたものである。われわれは,われわれの後に来 る世代の人々に対する幾世代の蓄積物の被信託人に過 ぎない。従って次の世代は,われわれが財産として所 有するところのものに対して請求権をもつている。そ してそれ故にわれわれは,これら信託人たる次の世代 をしてわれわれの未来の相続入としての資格あらしめ る責務が存する。しかるに豪農や富める製造業者や資 本家は,青少年の教育のためにその財産の一部を寄附 することを求められるとき,何と答えるであろうか。 「私の土地,私の機械,私の金や銀は私自身のもの だ。私は私自身のものを私が欲するよ5にしてはなら ないのか。」 こう答えることが許される唯一の場合 は,人間が彼をめぐるコミュニティと何らの関係をも たず,彼のすべての所有物の百の中九十九までをその
⑯⑯⑰⑮⑲⑳⑳
Tenth Report, for 1846. Life and Works. VoL IV p. 113. Ibid., p. 113. Tenth Report, for 1846. op. cit., 114. Barnard’s Americal Journal of Education, Vol. V 1858, p. 626. Eleventh Report, for 1847. Life and Works. Vol. IV p. 164. Tenth Report, for 1846. op. cit., p. 114. Ibid. p. 11Z先祖に負うことなく,そして彼の後に何らの子孫をも たないときのみである⑳。 実際,ホレース・マソは資本主義の害悪に対して決 して盲目ではなかったし,入聞の諸権利をふみにじる 資本家の冷酷な開拓を黙視することができなかった。 エドマンド・ドワイトEdmund Dwight(1796−1866) のように,師範学校の:創設のために多額の寄附をした 益共心ある実業家もなくはなかったが,大ていの資本 家は公立学校に対して何らの経済的援助もしなかっ た。マンは』友人に宛てた手紙の申で,義憤を感じな がら次のように書いている。 「彼等のうち一人として 一銭も出さないだろう。……私は彼等に一銭め寄附を 頼むくらいなら私は私自身の一血管を縛り,.血を吸って 生きよう。まことに富めるものの天国に入ること騎駝 の針の穴を通るより難しとの古諺には何らの誇張もな い。」⑳教育の不平等が多くの場合,富の不平等に起 因していることを発見したマンは募りゆく貧富の懸隔 に対して,ますます鋭い批判を向けるようになった。 1848年ジョン・クインシー・アダムスJohn Quincy Adams(1769−1848)の後任として合衆国下院に入っ たマンは,当時南部人が奴隷の売買をもつて彼等アフ リカ人をアメリカ文明の恩恵に浴せしめることによっ て開化するという理由で正当化しようとしたとき,こ の国は地上における一つの暗黒場面であると反論して 次のように述べた。 「われわれの都市は富めるもの強 きものが貧しきもの弱きものの上に君臨すること恰も 水中の大魚が小さな魚を喰い尽すが如き’である。…… 富めるものは必要以上の家をもち,高価な家具や衣裳 箪笥や装備や図書室や自然と芸術の造り得る一切のも のをもっているが,他方彼等のまわりには同じ麗なる 父の子の幾千の児童が,住むに事なく,寄辺なく着る に衣服なく飢えに卜えでいる。これがわれわれがアフ リカ人に与えるところの文明の型である。」@ ボレース・マンの財産論は,実は彼の公教育論にお ける次のような大前提の論拠をなすものであった。即 ち,人類のあらゆる児童は,彼が生命を維持するとこ ろの空気を吸い,太陽の光を享け,あるいはその身体 的存在を続けるために必要な住居や衣服が食物をとる のと同じ絶対的権利を教育に対してもっているという ことである⑳。そしてこの権利は,あらゆる人間的制 度に先行し,人間のいかなる法典によっても廃棄する ことのできない不変不滅の自然法の原理に基づくもの であって換言すれば,教育を受ける権利は基本的人権 の一つである。かくてマンは,マサチュ ・一セッツ州の 公立学校組織の包括的にして永久的な基礎づけとして 次の三つの命題を掲げている。(1)「代々の世代が集合 して一つの大なる共和国をつくっている。」(2)「この 共和国の財産は,そのすべての青年を貧困と悪徳から 救い,彼等をその社会的市民当馬義務を立派に果すよ うに準備するまですべての青年の教育のために抵当に 入れられている。」〔3)「この財産の代々の所有者は, 最も神聖な責務によってその信託を忠実に行うべく誓 約した被信託人である。そして児童や子孫からの着服 や掠奪は同時代人に対して犯されお罪と同罪であ る。」⑳
IV
1837年4月20日,マサチューセッツ州議会はアメリ カ最初の州教育委員会を設置する法案を可決した。そ れは議会の助言と同意を得て知事が任命する八名の委 員と,職権上の委員としての知事及び副知事によって 構成された。この委員会は,教育に関する情報を集め そして普及することを任務とするものであって,州の 学校に対して何らの統制権:も監督権ももたなかった。 のみならずそれは自らの意のままになる何らの基金も もたず,委員の奉仕すら無償であった。その法律は教 育長の任務を次のように規定している。「教育長は委 員会の指示に従って,公立学校その他の普通教育の手 段についての実状と能率に関する情報を集め,公立学 校教育に依存するこの州のすべての児童が,それらの 学校が施し得る最善の教育を受けることができるよう に,学習を整え,青少年の教育を導く最もすぐれた有 効な方法についての情報をできる限り広く州の各地に :普及すべきである。」⑳ このような州教育委員会が果して中央集権的な教育 当局といえるであろうか。ニーz一・ヨークその他の諸 勢がこの時代に前後して設置した州教育長官state superintendent of schoolは,確かにこの国におけ る教育のState Controlの始まりであった。 しかし マサチュ・一’セソツ州の教育委員会は,マーチ.ンも言つ @ Tenth Report, for 1846, op. cit., pp. 123−24. @ as quoted in Merie Curti: op. cit., p. 114. @ as quoted in Merie Curti: op. ci t., p. 115. @ Tenth Report, for 1846. op. cit. p. 116. @ lbid., pp. 131−32. @ First Report, for 1837. op. cit., p. 384.ているように,州が入民の学校に対して圧制の手をさ しのべようと意図するものではなかったことは朋らか である⑳。それは実態を調査し,事実を報告し,欠陥 を明ら「かにし,そして議会に対して改善策を勧告する 以外に何らの権能ももたなかった。「教育委員会は中 .央集権化の手段であり,プロシャ的であり,その目的 は民主的原理を専制的な原理におきかえようとするも のである」⑳乏いう一部の保守主義者の非難は,教育 委員会と.その教育長に対する感情的な偏見に由来する ものであって,事実に基づくものではなかった。しか しながらすでに述べたように,十九世紀の前半は教育 の国家組織が急速に発展した時代であってマンの思想 もその時代精神の産物であった。われわれは公教育の State support, state contrQ1の原理に関する彼の見 解を探ってみよう。 第七年報Sevententh ,Report, for 1843は,ヨー ロッパの教育事情についての包括的な視察報告である が,それはマン自身のState support, state control の原理をもつてみたところのヨーロッパ諸国の国民三 唱育組織の比較教育的な評価であった。この報告の中で マンはヨーロッパの文明諸国をその国民教育の発達程 度にようて序列をつけ,プPシャ,サクソニア及びそ の他のドイツ諸邦を首位におき,次にオランダ,スコ ットランド,アイルランド,フランス,ベルギーを挙 げ最:後に丁イングランドはヨーロッパ諸国の中にあっ て,そめ文明と資源において最も著名でありながら, 現在においても過去においてもその国民教育のために 何らの組織をもたない唯一の国である」⑳としてい る。周知の如くイングランドでは,教育は私的な事業 であって国家の関心事ではないという思想が長く支配 していた。その結果はマソの報告を俊つまでもなく, 1階級的差別が教育に反映し,加うるに政治と宗教が介 ズして教育におけるあらゆる不平等が大多数の国民の 生活を最も悲惨な状態におとし入れていた。マンの報 ずるところによ.れば,当時イングランドでは,学齢期 にある児童の百五十万が「完全に無知のままで放置さ れていた。」⑳ このような状態はマンによれば,「国 家がその国民のための一般的な教育組織を設けること を怠り,政府のあらゆる機能のうちこの最も重要な 機能を無責任な人々の偶然と恣意に委ねてしまった結 果」⑫であった。 イングランドにおける教育の国家組織と学校監督の 欠如がもたらす害悪をもつて自.国に対する戒めとした マンは,他方プロシャにおいても決して国民教育組織 の理想を見出さなかった。彼は「ヨーロッパの諸国の うち,プロシャは長い間そのすぐれた学校のために最 も著名な名声を博してきた」といい,「その学校は他 のキリスト甲州のモデル」であると賞讃している⑳け れども,それはこの国における教師の有能性に基づく 教授法や学校管理の卓越性に対してであった。ヨーロ ッパに求めて,求め得なかったものをマソはマサチュ ーセソツ州の制度の理念の申に見出.した。「われわれ の学校制度が組織されている主なる原理については」 と彼は断言している。「われわれは何ら実質的な改善 を望まない。……われわれは,われわれ自身のものと 異る外国の制度を模倣しようとも,学ぼうとも欲しな い。われわれはむしろ,彼等がわれわれのものを学 び,模倣することを望む。」⑭ すべての国民が関与するuniversalにしてfreeな 学校が私的な事業によっては実現し得ないことをイン グランドにおいてみたマンは,state supportの必要 を強く確信するようになった。しかしstate control についての彼の見解はヅ回していないようである。そ の点で彼は言葉のよき’意味における一個のopport− unistであった。1840年に書かれた教育集会の講議 「教育の史的概観」の中でマンは次のように述べてい る。「共和政治におけるすべての国民の教育は,すべ ての国民の同意なくしては達成することはできない。 強制はたとえそれが望ましいとしても,有効な手段で はない。強制ではなくて啓発こそわれわれの手段であ る。」⑧実際,マンはそのために州内各地に教育集会 を開ぎ,Common School Journalを刊行し,.委員会 に対する年報を公表して大衆を教化啓蒙した。ところ が1847年には,両親がその子供の教育に無関心な場合 は強制の必要を認めるようになった⑳。第七報の中で もマソは,就学義務の強制が専欄政治のみの権限であ
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George H. Martin:op。 cit., p.ユ56. B. A. Hinsdale:op. cit., p. 12Z Seventh Report, for 1843. op. cit., p. 258. Ibid., p. 259. Ibid., p. 265. Ibid., p. 240 1bid., p. 287. An Historical View of Education, Life and Works. Vol. II p. 214. Eleventh Report, for 1847. Life and Works. Vol. IV p. 214.るという考え方は大なる誤謬であると言っている⑳。 いなマンは最初から共和.ァを維持するために,州や国 家がその国民の教育を強制することを承認していたの であって,1837年の「公立学校教育の手段と目的」の 申でもアイスラγドやプリマス植民地の古い義務教育 に関する.法律を賞讃している⑳。 マソめ時代の学校監督の問題は, district system の名にようてすでに一世紀半め聞マサチューセソツ州 においセ行われていた極端な地方分権的な, 「主権内 の主権」impeゴium in imperioとしての学区学務委 員district school committeeあるいは,顧問委員 prudential committeeによる学校監督の弊害を改 め,町の学務委員の監督権を強化することであった。 マンは学区組織を法律化した1789年の法律を「この州 において,かつて制定された公立学校に関する最も不 幸な法律」であると考え,「学区制度が存する限り教 育め実質的な一般的進歩はなされ得ない」⑳と断じて いる。従ってマンは公教育のstate controlの原理を 彼の時代においては州中央集権的統制の段階にまで引 上げ.ることは考えていなかったのである。しかし controlの主体が町にあるか,州にあるかはマソの公 教育においてはさして重大な問題ではない。それがい ずれにあるにしても,常に最も重要なことはcontrol の主体そのものの性質であって,それに関連してマン の公教育論の第三の原理としてのnon sectarian, non partisanの問題が提起されるであろう。
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ボレース・マンの公教育論が早晩,烈しい宗教的反 対に直面するであろうことは最初から予想されていた ことであった。この共和国においては,公立学校が創 設されて以来一世紀半ドグマティックな宗教々授が何 らの制限もなく施されてきた。教会と国家は同一の7± 会の表裏両面であった。牧師が教師を検定し,教育内 容を規制し,学校を視察して生徒を試問することは当 然のこととされていた。事実,牧師は学校法に規定さ れた紛れもない教育官であった。また当時長い間,ニ ュー・イングランドの子供たちの精神的栄養であった The New England Primer lま,徹頭徹尾カルヴィン 主義の教科書であった。カルヅィン主義はいわば植民⑰⑳
Seventh Report, for 1843. op. cit., p. 368. 地め国教であった。ところがこのような信仰における 三々の等質性はバプチスト,メソヂスト,監督教会 派,ユニバーサリスト,ロ ・一マ・カソリソク等々の異 宗派の侵入によって徐々に異質的となり宗派間の対立 がようやく表面化してきた。加うるに歴史的教会の分 裂は組合教会とユニテリアンを生み,情勢を一層複雑 化する傾向をもつた。このような変化に一つの時期を 劃する事件は1827年の法律であった。この法律は,学 務委員に対して特定のキリスト教宗派の教義を支持す るいかなる教科書も公立学校において使用し,あるい は購入することを指示してはならないことを宣言して いる⑳。従ってマソが教育長に就任する以前に,公教 育におけるnon sectarianの原理は立てられていた のであった。しかしながら法律に規定された状態が直 ちに実際に存したと想像することは誤りであって,当 時のマサチューセソツ州においては人々は今日われわ れが考えるような市民的な学校の概念一児童を実生 活に役立つ知識と道徳において教育するが,何ら特定 のドグマティソクな宗教々授を施さない学校一一につ いては決してファミリアーではなかった。 ホレース・マンはアメリカにおいて宗派的な攻撃に 遭い,それに答えた最初のすぐれた教育家であった⑳。 公立学校は「神なき学校」であるという非難が公然と 発せられたのは,1844年,ボストンの監督教会の機関 誌The Christian Witness and Church Advocate に「キリスト云々育」と題する一文が掲載されたとき に始まる。この論文は,教育委員会を専制的な反共和 的な権力をもつ有害無用の制度であるとなし,そのあ らゆる施策をもつて人民から旧来の信仰を剥奪しよう と企てるものであるとしている。そしてその論拠はこ うであった。健全な道徳は恩寵のrf 一ソドソクスな教 理の中にのみ宿る。そして国民の大多数がオーソドソ クスであるが故にそれらは教えられなければならな い。しかるに1827年の法律の誤った解釈によって教育 委員会はそれを禁止しようとしている。しかしその法 律は,福音書の偉大な教理やカテキズムの教授を学校 から除外することを意図するものでないし,州教育当 局はその法律をそのように解釈する権限をもたない… …⑫。このような非難は次の事実が指摘されることに よって真に理解されるであろう。即ちボレース・マン Means and Objects of Co皿mon school Education, oP. cit., P.46. @ as quoted in E. P. Cubberley: Public Education in the United States. 1919, p. 167. @ B. A Hinsdale; op. cit., p. 212. @ lbid., p. 214. @ lbid., pp. 216−17.の教育改革には終始,トーリー党の流れを汲む民主党 の政治家と,偏狭なオーソドソクスの宗教家と,私立 学校教師が結託して反対したこと,そして彼等がいず れも政治と宗教と教育における保守主義陣営を代表す るものであったのに対して,マンが政治的にはホイソ グであり,宗教的にはユニテリアンであり,教育にお いては公立学校擁護者であったことである。 宗教々育は道徳教育とともにマγの教育論の基調を なすもであった。彼は政治におけるpartisanshipと 宗教におけるsectarianismを排斥したが,子供を市 民的社会的本務と道徳的宗教的義務についての崇高な 真理と実践に導くことを公立学校の究極目的と考え た。それ故にマンは常に聖書がすべての公立学校にお いて,註釈なしに読まれるべきことを奨励していたし, 事実大多数の町の学務委員は聖書を学校の読本の一つ に選定していた⑬。それにもかかわらず,公立学校 が「非キリスト教的・反キリスト教的」であると攻撃 された直接の動機は,第七年報におけるヨーロッパの 宗教々育事情に対するマンの鋭い批判にあった。マン はアイルランド及びオランダにおいては,公教育にお ける尊on sectarianの原則が立派に守られているのを みたけれども,イングランドとスコットランドにおい ては宗派的な宗教々授が公然と行われ,子供たちは聖 書の言葉について驚くべき知識をもつているが,それ らが日常の社会的道徳的な義務と責任を自覚せしめる ものでないこと,従って真の宗教々育を保証するもの でないことを発見した。宗派的な宗教々授が国家権力 によって強制される場合の最も恐るべき災厄を彼はプ ロシャの学校乙おいてみた。プPシャでは同じ校舎の 申で筆力嘩」重で仕切られた二つの教室の申で,それ ぞれ両立しない宗教の教理が法の権威によって幼い子 供たちに教えられていた。それは科学において相容れ ない理論一たとえば天文学のプトレマイオス的体系 とコペルニクス的体系一を同じ屋根の下に学ぶ生徒 に別々に教えることの不合理と何ら異らない。そして その結果は,子供たちをして「一方において否定され たことを肯定し,肯定されたことを否定するように教 える」ことであり,子供たちが最も早く獲得する観念 は真理そのものの虚偽と,何ら真理は存しないという ことである。信仰の承認を強制することは,疑いもな く国民の間に不信心を急速に広がらせる主なる原因で ある。かくては道徳や宗教は大衆を麦配するために統 治者の手に用意される便利な道具に過ぎない。強制宗 教は圧迫の形式こそ違うが,本質的には異教迫害と同 罪である⑭。 マソの最後の年報Twelfth Report, for 1848は恐 らく,この論題に関する最もすぐれた論述を含むもの である。その申で彼は宗教々育に対して政府がとるか も.知れない四つの方法一(1)学校を全く世俗的な教育 の場とす.るために,あらゆる宗教々育を学校から排除 する,(2)国教を定め,すべての国民に一つの宗教を強 制するための教師と役人を任命する,㈲学校で教えら れるべき宗教的信仰を特定の宗派が統制することを法 律によって許す,(4)青少年の教育に対する一切の干渉 を拒み,そのすべての義務を個人の偶然と意志に委ね る一を考察し,それらのいずれもマサチューセッツ 州の公立学校の真の在り:方でないことを論証すること によって自己の立場を明らかにしている⑯。 マソの公教育論におけるnon sectarianの原理は いうまでもなくキリスト.教の範囲内においてのことで あって,その意味で限定されたものといわなければな らない。しかしながらヒンスデールも言っているよう に,マンの時代は聖書それ自身がsectarianな教科書 でないかど5かという:命題がまだ起っていなかった⑯ のであるから.たとえ限定された意味にもせよ,彼が公 教育における 「宗教的申立性」religious neutrality の原則を守るために戦ったことには歴史的な意義があ るといわなければならない。 公教育におけるnon partisanの原理は, non sectarianの原理よりもはるかにおくれて要求されて きたものであって,ある意昧ではそれは現代が解決し つつある課題である。しかしマンは公教育の諸問題が 党派的な政争の具に供せられた最も早い時代に教育長 として初めてこの問題に直面した。マサチ=一セッツ 州教育委員会は創設の当初から,議会における政治問 題となっていた。従って1839年の政変において,ホィ ッグ党の優勢が破れ,民主覚の知事モール・トン Marcus Mortonが選出されるに及んで州政府は議会 に教育委員会廃止の議案を提出した。幸いこの議案は 否決されたけれども,翌議会には再び委員会の任務を 知事と議会に,そして教育長のそれを州書記官Secre− tary of Stateに委譲する法案が上手された。この法 案も辛うじて通過をまぬがれたが覚派的な圧力が公教 育から完全に手を引いたわけではなく,その後も形を
⑲⑭⑮⑯
Eighth Report, for 1844。 Life and Works. Vol.工II pp.434−5. Seventh Report, for 1843. op. cit., pp. 390−402. TwelEth Report, for 1848. Life and Works. Vol. IV pp. 319−340. B. A. Hinsdale;op. cit., p. 232.かえてしばしば現れた。その最も悪意にみちたのは 「公立報論争」Common−School Controversyと して知られる三十一名のボストンの私立学校教師によ る教育長の攻撃であり,その最:も卑劣なものは上述の 正統派教会の僧侶によるマンの非難であった。新しい 制度の戦士としての.ホレース・マンはこれら保守主義 の戦士たちと相会し,彼等を公開討論の場において打 敗った。 マンは常に党派的政治を低く評価していたけれども すべての国民を公正な選挙人,知性ある陪審員,正直 な証人,賢明な立法の審判者ならしめるための政治教 育の重要性を主張した@。彼は共和国のすべての児童 に政治的知識の基本的な要素を教えることを要求した けれども,「政治的改宗」political proselytismをす ることが学校の任務でないことを主張した⑱。彼はま た,国民のすべてが承認し,国民のすべてによって信 ぜられているところの共和制の信条はすべての子供に 教えられるべきであると考えたけれども,学校の教室 はこの信条に対する党派的な対立意見を討論したり, 裁決したりする場所でないことを明瞭に指摘した⑲。 ボレース・マソの公教育論が現代において平凡陳腐 なものと考えられるならば,そのときこそ逆説的にマ ンの教育事業の偉大さが証明されるであろう。何故な れば,現代において公教育の概念をかくも通俗化した のは外ならぬマンであったからである。世は発明発見 の時代にあって彼は, 「公立学校は人間によってなさ れた最も偉大な発見である」⑳と喝破した。まことに 彼こそ「公立学校の使徒」たるにふさわしき教育家で あった。