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海岸複合地形における砂丘上村落の農業開拓 [A History of Agriculture in the Coastal Complex Area of the Mekong Delta]

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海岸複合地形 における砂丘上村落 の農業開拓

子 *

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AccordingtoN.H.Chiem,anagronomistfamiliarwiththeMekongDelta,theregionis dividedintoseveralgeographicalpartsfrom thepointofriceagriculture.Amongthem,

the…coastalcomplex"isauniquearea,composedofsandridges,coastalflats,inter-ridges,

and mangroves. Thispaperfocuseson.thedevelopmentofland usein oneparticular villagein thecoastalcomplex division in ordertogain abetterunderstandingofthe historyofmultiethnicsocietyintheMekongDelta.

The research village isin the eastofTra Vinh City,which ischaracterised by multiethnicsociety:theKhmer(Cambodian)people,whooccupiedthesandridgesfrom anearliertime,theKinh (Vietnamese)people,whobeganlivingalongthesmallrivers,

andtheHoa (OverseasChinese),whohavemixedintermittentlywithbothgroups. First,intensivefieldresearchinvolvedobservingthenaturalconditionsofagriculture,

thegeographicaldistributionofethnicgroups,andhow landuseinthevillagedetermined theprocessofsettlementandlandclearingbythedifferentgroups. Second,basedon accountsofBuddhistmonksandvillageeldersofbothethnicgroupsinlocalhamlets,and consideringtheoriginsofBuddhisttemples(Theravada,Mahayana)andoldcommunity buildings,thewriterassumestheprocessofvillagedevelopment. Itissupposed that Khmersocietywasfoundthereearlierthanthe16thcentury.TheKinhadvancedfrom the rightsideofCochienrivertothenorthareainthesandridgeatthebeginnlgOfthe19th centuryandwasorganizedalongwiththeKhmerpeopleinthesameadministrativeunit underFrenchcolonialruleinthelate19thcentury.Changesinthepopulationsharesof each ethnicgroup and landholding from the French colonialperiod untiltoday are analyzedthroughtheresultsofinterviewswithvillageeldersandalsotheuseofrelated colonialdocumentsheldintheNationalArchives.

Atlast,thewriterpresentsahistoryofthevillagegivingattentiontothehistorical relationsintheethnicgroups,andfinallypointsouthow structuralsocialproblemswere casedduringFrenchcolonialtimeandoneofthereasonsfortherevolutionoccuredinthe villageduringtheIndochinawar.

*敬愛大学国際学部 ;DepartmentofInternationalStudies,KeiaiUniversity,1-9Sanno,Sakur a-City,Chiba285-8567,Japan

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高田 :海岸複合地形における砂丘上村落の農業開拓

じ め

チ ャヴ ィンの地形 は,海岸平野 とその中 に何 本 もの細長 い円弧 を措 く砂丘列,砂丘列 間 の潟 地, マ ングロー ブ樹林帯 な どを含 む メ コ ンデル タの 「海岸複合地形」 を代 表 す る。 ベ トナ ム語 のチ ャヴ ィ ンTraVinh (茶栄) は, もと もとクメール語 のPracPrabang (仏陀 の池) に由来 す る とい う。1)チ ャゲ ィ ン市 の中心部 か らお よそ5km 離 れ た旧 TraPhu県 NguyetHoa村 に は,その名 に因 むAoBaOm の観光地 が あ る。 長方形 の 巨大 な池 を中心 に,その周 囲 を見事 な 老大樹 (dao/sao) が縁取 る静 か な公園 で あ る。 乾 季 に も水 が枯 れ ることのな い池 の ほ と りに は, 真新 しい クメール民族記念博物館 が建 って い る。 池 の遊歩道 を散 策 す れ ば,遥 か な時 を超 え行 くよ うな空 間 が水面 か ら立 ち上 る。 チ ャヴ ィンは, ドイモイ下 の メ コ ンデル タで進行 中 の 商 業 的 で ダイ ナ ミックな発展 に は ど こか距離 を置 い た, 独特 の風 土 を感 じさせ る一 地 方 で あ る。 本稿 が調 査事例 と したの は, この同省 の古 い砂丘 上 に立地 す るホ ア トゥア ンHoaThuan 村 で あ る。2) チ ャヴ ィ ン省 は,19世紀 末 か ら 20世紀初頭 の世紀転換期 に, フ ラ ンス領 コーチ シナで最 大 規模 の クメール族 人 口を擁 した [高 田1984:253]。ベ トナム領 メ コ ンデル タに は現在 もなお約 90万人 の在住 クメール族 が, チ ャゲ ィン, ソクチ ャ ン, チ ャウ ドック 3省 に偏在 す る。 ベ トナ ム領 メ コ ンデル タの総 人 口に 占め る クメール族 の比率 は,20世紀初頭 に は 12% 以上 で あ った が,現在 は6%に減少 して い る。率 直 に述 べ て,20世紀 を貫 ぬ くメ コ ンデル タの民族 史 は,キ ン (べ 卜)族 によ る 「ベ トナ ム化」 を抗 いが たい底流 と した。 筆 者 は本稿 にお いて, これ まで ネガテ ィヴに しか叙述 されて こなか った メ コ ンデル タの先住 クメール人農業社 会 に光 を当て る。 農業 開拓 か らみ たデル タの クメール族 お よびキ ン族 の民族 間関係 史 を, チ ャゲ ィ ンの一地域 の事例 か ら貝体 的 に考察 す る。 フラ ンス植民地 時代 の記述 に 依 れば,クメール集落 は,自然 の排 水 によ って 雨季 の洪水 を免 れ る砂丘 (帯状微高地giong)に 立地 した。 人 々 は砂丘 とその斜面 の土地 で, 雨季 の稲作 と乾季 の地下 水利 用 の畑作 を組 み合 わ せ, 1年 を通 した農業 を営 んで きた。 1)「TraVinh」 は, フランス植民地期以来使用されたベ トナム語アルファベ ット表記。植民地期以前 に は,ベ トナ ム人 は漢字 で 「茶聞」[praを茶 (tra),bangを聞 (Yang)] と記 して いた [La Societedesetudesindo-chinoises(以下SEIと略)1903:5] 。

2) 1994年8月および 95年8月にチャゲィン省全体を概観するための予備的一般調査を実施 し, 続い て視察 した数力村の中か ら調査村を決定 した。 1996年8月 (雨季) および1998年3月 (乾季) に ホア トゥアン村の臨地観察 とインテンシヴな聞き取 り調査を行 った。 1995年 12月,96年8月,97 年 7月には, ホーチ ミン市のベ トナム国家公文書保存センターIIにおいて, ホア トゥアン村周辺に 関する仏領期文書史料の調査を行 った。本稿は高田 [1999]を加筆修正 したものである。

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メコンデル タの村落 の開拓過程 に関す る文献資史料 は,極 めて限 られ る。 筆者 は調査村 に関 す るで きる限 りの文字史料 を発掘す ると共 に,臨地調査 によ って得 られた諸結果 をそれ らに重 ねあわせ ることによ ってイメー ジ化 された一地域 の農業開拓史 を,本稿 で措 くことにす る。 そ の作業 を通 して, メコ ンデル タ先住農業社会へのキ ン (ベ ト)族 の進 出過程,新 しい植民地支 配下 での開発 が もた らした もの, そ して

2

0

世紀 メ コンデル タ史 の最重要 のテーマであ った大 地主制の成立 と解体過程 を考察 す る糸 口と したい。 本論 の構成 は, まず Ⅰで, チ ャゲィン省 の 自然 と多民族社会の現状 を概観す る。 次 に Ⅱで は 臨地調査 を実施 したホア トゥア ン村 につ いて,地形 と土壌 を軸 とす る農業条件,土地利用 の変 遷,集落 と民族 の分布, および諸集落 の成立史 に関わ る社会的建造物 の具体的状況 か ら,農業 開拓 の過程 に関す る仮説 を提示 す る。 さ らにⅢにおいて,歴史資料 の分析 も加 えなが ら,村落 内 における諸民族 の統合過程 を考察す る。Ⅳで は, ホア トゥア ン村 の植民地期 旧大地主 につ い ての聞 き取 り調査で収集 した情報 を分析 し,調査地域 の土地集積 と解体過程 の一端 を再構成 す る。

Ⅰ チ ャヴ ィン省の農業社会

Ⅰ-1 自然 と稲作

メコ ン河 の本流TienGiang(前江)は,VinhLong(ヴィンロ ン)付近 で い くっ もの支流 に 分 かれ る。その うち一番西 の コチエ ンCoChien河 と, メコ ン河 の西 の分流- ウ河HauGiang

(後江)に挟 まれ,南 シナ海 に臨む地 がチ ャゲィン省であ る。上流側 にヴィンロ ン省, コチエ ン 河左岸 にベ ンチェ省,- ウ河右岸 に ソクチ ャン省が接 している。 チ ャゲィン省 の海岸複合地形 を最 も特徴づ ける微高地giong(以下砂丘 と表現す る) は,海岸線 と平行 に緩やかな円弧 を措 いて,帯状 に何層 も発達 している。それ らは標高

2m∼4m

以 内,幅 は

5

0

0m∼ 2km

,またそ の長 さはわずか数 メー トル∼ 40

km

に及ぶ ものまで様 々で,とぎれが ちに存在す る。 砂丘列 の 間 には海抜 1m 以下 の低地 や潟地, 自然小河川等 を含 む。 川 の沿岸近 くで は, 自然河川 を伝 い, または土 中の浸透圧 によ って乾季 (11月か ら4月)に 潮水 が浸入 す る。塩分土壌 の問題 をかかえ る同省南部 は,同省北部 と比べて農業生産力が低 い。 海岸複合地形 にみ られ る土壌 の塩分汚染 は,降雨量 の少 なさと相侯 って この地域 の農業発展 の 梗椿 とされ る。 それ は,現在 のチ ャゲィン省 がメコ ンデル タ最貧地域であ る理 由の一つに挙 げ られ る。 ベ トナム南北 の統一後,政府 は旧 クー ロ ン省 (現 ヴィンロ ン省 とチ ャゲィン省 を含 む) の水 利事業 と して,Manthiep川か ら真水 をチ ャゲィン地方 に供給す る水路 の建設, および海水 の 進入 を防 ぐ水門建設 を推進 した。チ ャゲィン北部 の諸県 はいち早 くその恩恵 を得 た。1990年 の 12

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高 田 :海 岸 複 合地 形 に お け る砂 丘 上 村 落 の農 業 開拓 稲 作 状 況 (表 1)か ら,CangLong,CauKeお よ び TieuCanの北 部 3県 にお いて は,濯 概 が 必 要 な冬春 米 の栽 培 お よ び作 期 の短 い高 収 量 品 種 米 の導 入 が早 か った こ とが確 認 で き る。 北 部 3県 は, この よ うに チ ャゲ ィ ン省 の稲作 先 進 地 域 で あ る。 表1 チ ャゲィン省 7県の米生産状況 (1990年) 米 生 産 冬 春 米 夏 秋 米 雨 季 米 県 名 面 積ha 生産量 ton ha ton ha ton CangLong CauKe TieuCan ChauThanh TraCu CauNgang DuyenHai 計 32,527 113,606 27,905 107,022 19,327 65,612 22,253 60,750 19,556 56,781 15,246 41,818 3,679 9,420 140,493 455,009 9,524 42,713 14,361 40,088 5,450 25,506 14,048 52,744 4,435 18,828 7,281 21,644 638 2,066 4,782 9,867 890 3,133 2,649 8,289 2,171 6,390 171 522 ha ton 8,642 30,805 8,407 28,772 7,611 25,140 16,833 48,817 16,017 45,359 13,075 35,428 3,508 8,898 20,937 92,246 45,463 139,544 74,093 223,219 出所 :[VuNongNghiepTongCucThongKe1991:586] 図1 チ ャゲィン省 7県 と調査村の位置 (1995年)

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これ に対 して砂 丘 や塩 分 土 壌 の問 題 の多 い南 部 諸 県 は, 伝 統 的 な雨 季 1期 の稲 作 が 中心 で あ る。3)南 部 のTraCu にお いて大 規 模 な幹 線 水 路 事 業 が完 成 した の は,1995年 で あ る。南 部 諸 県 の地 方 政 府 は, 引 き続 い て幹 線 水 路 につ な ぐ第 2次 ・第 3次 水 利 網 の拡 大 に力 を入 れ て い る。 チ ャ ゲ ィ ン南 部 は, 90年 代 の半 ば以 降 に よ うや く集 約 的農 業 の時 代 を迎 え た の で あ る。4) ト2 民族分布 チ ャ ゲ ィ ン省 の総 人 口約 98万 人 の うち ベ トナ ム ・キ ン族 (Kinh) は約 70万 人 (70.9% )で あ る (1995年 現 在 )。 ク メ ール族 (Khmer)は27万 人 (27.6% ),そ の はか 中 国 系 Hoaが 14,000 人 (1.5% ), 少 数 の チ ャム人 (Cham) も居 住 して い る (表 2)。5) 表2 チ ャゲィン省の県別民族人 口 (1995年)

県 ・市 人 口 Kinh人 口 (%) Khmer人 口 (%) Hoa人 口 Cham 人 口 その他 TraVinh市 ChauThanh県 CangLong県 TieuCan県 TraCu呉 CauKe県 CauNgang県 DuyenHai県 68,444 54,328 (79.3) 147,382 95,927 (65.1) 158,490 149,678 (94.4) 108,595 77,432 (71.3) 163,482 74,578 (45.6) 116,053 82,282 (70.9) 137,832 94,167 (68.3) 77,613 65,027 (83.8) 6,689 (9.8%) 50,429 (34.2%) 8,184 (5.2%) 29,507 (27.2%) 86,729 (53.1%) 33,186 (28.6%) 42,706 (31.0%) 12,394 (16.0%) 7 1 2 1 .4 2 7 6 0 0 9 4 9 7 4 0 8 2 8 3 9 5 6 1 5 9 1 4

0

1

0

7 1 0

0

4 1 2 2 5 9 2 4 9 3 4 3 4 6 3 計 977,891 693,419 269,824 (100%) (70.9%) (27.6%) 出所 :[TinhUy,UyBanNhanDanTinhTraVinh1995:26] 3) 1994年8月に,CauNgang県 とTraCu県の低地 で行 われていた田植えを視察。 高畦 に囲まれ, 貯水池 のよ うに水 を張 った水 田のなかで, 農民が葉先を切 り取 った大西の束 を小舟で運んでいた。 土壌 を洗浄 して塩分濃度を下 げるために十分 な降雨を待 ち, 田植 えを行 う。 刈取 りは, 乾季 に入 る や土中の塩分濃度が高 まる前 に行われ る。 4)95年以降の南部諸県では雨季 の始 めに短期収穫型 の夏秋米 を導入す ることによ り2期作化が進展中 だ。 チ ャゲィン省全体でみて も,夏秋米 (秋米) の生産面積 は急増 している。濯概設備を必要 とす る単位面積当た りの生産性の高 い乾季作 (春米) の生産面積 も増大 している。 これ らに対 して伝統 的雨季稲 (luamua)を中心 とす る冬米の生産 は減少 しつつある。 チ ャゲィン省 における最近 の米生産 (1995-98年) ∩ 量 tO 蛸 . 1 郷 的 け ha 付 o o 作 川 5 6 7 8 9 9 9 9 9 9 9 9 = : H u = 14 春米 秋米 冬米 1,000ha Ta/ha1,000ha Ta/ha1,000ha Ta/ha 3 2 9 0 9 9 0 0 6 5 0 1 1 1 2 2 2 6 5 4 8 2 5 5 3 4 3 3 647.4 35.0 48.5 678.7 39.1 46.2 714.0 46.0 47.3 744.0 48.5 48.7 50.0 44.1 84.3 30.5 66.3 34.9 53.8 47.6 73.4 34.0 81.5 30.2 80.0 32.7 81.5 30.2

出所 :[SocialRebublicofVietnam1999:53-70]

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高 田 :海岸複合地形 にお ける砂丘上村落 の農業開拓

キ ン族 は,すでに部分的 には3期作 も達成 した前述 の北部 のCangLong県 (VinhLong省 県境) と最南端 のDuyen Hai県で著 しく民族比率 が高 い。 また省都 を含 めCau KeとTieu Canで も7割 を占め る。 これに対 して クメール族 は,砂丘 の発達 した南部 に多 く居住 し, とり

わ けTraCu県 で は住民 の多数派であ る。 例 えばTraCu県Ham Giang村で は,住民 の85% が クメール族 で 占め られ,同村 のキ ン族 もクメ-ル語 を話 した [高 田1996:18-19]。中国系 は チ ャヴ ィン市 内や- ウ河 に面 したTraCu県 とTieuCan県 に 目立っ 。 人 口は数字 の上で は少 数 だが, クメール もしくはキ ンとそれぞれ 自己申告す る人々に も,実際 は中国系混血 の場合が 非常 に多 くみ られ る。

Ⅰ 調査村地域の 自然 と農業

Ⅰト1 地形 と土壌 ホア トゥア ン村 は,ChauThanh県 に属 し,省都 チ ャゲィン市 の東隣 りに位置す る。 北 を コ チエ ン河 に,南 をPhuocHao村,東 をHungMy村,南西 をDaLoc村,北西 をLongDuc村 と接 している (図2)。南北約 10km,面積2,700haの細長 い行政村 に,人 口17,180(1995年) を擁 す。同村 は1997年 に南北二つの村 に分離 したが,本稿 で用 いる 「ホア トゥア ン村」は両新 村 を含 む分離前 の旧村 を指す ことをあ らか じめ断 ってお く。 村 の中央 を,砂質 の土 か ら成 る帯状 の砂丘giongが ほぼ貫通す る。ベ トナム地理院測地局作 成 の最新 の10,000分 の 1地 図 に書 き込 まれ た標高値 によれば,砂丘 とい って も標高2m前後 か ら最高

3.

6m

程度 の微高地 で ある (図

3)

。それ は村 の北 にゆ くほど低 く,幅 も狭 くな る。 南 に向か って幅 は広 くな るが,PhuocHao村境 に近づ くにつれ再 び狭 くな る。村 の中央部 には, 主要 な砂丘 の西側 に第 2次砂丘 ともい うべ きやや標高 の低 い高 みが沿 っている。 ホア トゥア ン の人 々は,砂丘 の高 い部分 の農地 をruongroc(山の田),第2次砂丘 の農地 をdatgo(登 り土) と呼ぶ。 また砂丘両側 の斜面 はdong trien (傾斜地 ), 砂丘東 の低地 はdongtrang (白い平 也),西 の低地 はdongo (黒 い平地) と呼ばれ る。

東西両側 の斜面dong trienは, 緩 やかに傾斜 して低地dong trangもしくはdongoへ続 く。 低地 の標高 はどこも1m以下 であ る。 砂丘 を中心 に,東西 の低地 の高低差 を比較す ると,

dongtrang(コチエ ン河側)がdongoよ りやや高 い。dongtrangは村 の北 か ら中央 にか けて 海抜0.9m と示 され,低地 と して は最 も標高がある。 コチエ ン河か らの浸水 はこれでか ろ う じ

て封 じられ る。

地図上 は, 南 にゆ くにつれて海抜0.8mか ら少 しずっ低 くな って0.6m以下 の窪地 も含 む。 他方,砂丘 の西側 dongoで も,南 にゆ くほど0.6m∼ 0.7mの低位 な平地 が多 くな る。 つ ま り

(7)

-\-l 5 -ku:Ti-,:_:.-i.? i\-_、押p強'ご'' -I.ri Fij㌧記 . _XnT Y-′_ー.--.-(TノL. BkJ`lI{:.. I.\.- ..V..---705I.∴ 一一二一二井.I:I_甲..ヒS甲tl-I-. 詔 三:Ij.,I-.ヽm ..'_ 4 -0与nL cA帆SC」T;Pで-i:字T.-- 一一■、I一一Lー ′、く■、、,、-L-、▲●l_e.Iミー-. 'x-DJTl \ 中外●Bi,:J.-pr'i干しL,二,-/ l ㌣千.j宅 I:xa.6 日-uh '.冬-一丁-;1- ++: Iや、ニt' L-・、--T-_抽-〇∼TT. .'石.C二一_- - 一一号.-- -.`-:十■,: I_iS.<…-甲 工 5I2 -苧St ----11も 小.5 、\お ㍗ -:-::-3 J一一I、<ー +0一LLl、∴ンJJ-二-I

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平 壌 や二...i ri--i▲ 一_Oi.:.:'■/jI._?.こ:.■・'笥1..∴ ;A. ■ rQ- _′∼.′_1∫lpヘ- i:lI/i、,I● iiTS&rn叫T好一_一、二ミ;_,I, FqJTT -iS!二二o_ -.一■十 l●/ /′′:.A-L/1.---.、

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荏 :ゴーデ ィンジェム政権期 の地 図 で は,TraVinhはPhuVinhに変 わ り,KyLa, TriPhong,QuiNongな どの地名 は無 くな って い る。

(8)

高 田 :海岸複合地形 における砂丘上村落 の農業開拓 図 3 ホア トゥア ン村 の地形 (砂丘 ・低地 ・自然小河川) 注 :数字 は海抜 を表示 dongtrangには,コチ エ ン河 に注 ぐ自然 の小川 が い くつ もあ る。乾季 には,これ らの′付 旧ま 潮汐作用 に伴 って海水 を進入 させ る。 海水 の浸入 は土壌 に深刻 な悪影響 を もた らす。塩分 が残 留 し, さ らに酸性土壌 の問題 を引 き起 こすか らだ。 コチエ ン河 か ら地 中を通 って塩分 が地表 に

あが る こともあ る。dongtrangの土壌 は北 にゆ くほ ど塩 分濃度 が増 し,giongの地下水 に も塩 分 が含 まれ る場合 が あ る [高 田1997:84]。村 の北部 は このよ うに 自然条件 が悪 く,と りわ け コ

チエ ン河沿 いはど水文 ・土壌 の農業環境 は厳 しい ことが想定 され る。

dong o側 に もチ ャヴ ィ ン水路 に注 ぐ小 さな川 が あ る。 また コチエ ン河 の支流 Ban Da川 の

上流 はdatgoの麓 に達 し,窪地 には乾季 も排水 で きない溜 め水 を含 んで い る。ここで は,酸性 土壌 phenの問題 が現 れ る [高 田 1998:77]。

ト2

土地利 用 村 の総面積 に対 す る農地 (2,409ha)の 占め る割合 は,約90% で あ る。 まず,砂丘上 には樹 木 が生 い茂 り,屋敷地 を含 む集落 の他,水 田や畑 がみ られ る。 またアス フ ァル トの県道 や舗装 して いな い大小 の村道,寺 院 や村 の公共 施設 が あ り,残 りはた いて い竹林 に覆 われ て い る。 ruongrocは, 村 の人 口増加 や チ ャヴ ィン市街地 の周辺部 へ の拡大 のおか げで,縮小化 の傾 向

(9)

にある。 中心部 か ら南 の

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uongr

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datgo

で は, 雨季稲 の他,乾季 の畑作が盛 んである。畑 のそ ば に は,直径3mか ら5mのす り鉢 状逆 円錐 形 の穴が掘 られ る (クメール農民 は

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)

]

と呼んで いる)。 乾季 にな ると穴 は さ らに大 き く掘 られて, 内側斜面 に底 までお り るための階段 が刻 まれ る。 穴 の底 に溜 ま る水 は,肩 に乗せ た天秤棒 の両方 の先 に下 げた じょ うろ (トゥオ ン)で汲 み上 げ られ,周囲 の畑 に まかれ る。 ドイモイ後 の市場化 の進展 で,畑作 物 の種類 は増 え,多毛作 が熱心 に行 われ るよ う にな った。老人 を対象 と した聞 き取 りに基づ け ば, このよ うな乾季 の畑作 はフランス植民地時 写真 畑に潅水するために掘 られ た砂丘斜面のため池 (ホア トゥア ン村Bich Tri集 落 1998年 3月筆者撮影) 代 に も行 われていた。収穫 した野菜, サ ツマイモ, サ トウキ ビなどを人 々はチ ャゲィンの市場 に行商 した [同上論文 :

6

8

-

6

9

]。砂丘斜面 は,畑作 (野菜 ・根菜類)や水 田の他,両側 の低地 水 田に移植す る苗代用 の土地 と して利用 され る。 低地 で は,従来 もっぱ ら雨季 に水 田耕作が営 まれた。昔 の地主 は,乾季 に田圃へ海水 が浸入 す るのを防 ぐために,小川 の両岸 に高 い堤防を築 くことを小作人 に命 じた。堤防が少 しで も破 壊 され ると,地主 は犯人 を捕 らえて厳 しく罰 した とい う。 小川沿 いは潮汐運動 で運 ばれ る真水 を取 り込んで稲 を育 てなが ら, 同時 にエ ビや魚 を田で捕獲す ることも行 われた。東低地 は,高 みで は干ぱっの害を回避 す るために早生稲 を,低みの土地で は中生稲 もしくは晩生稲 を栽培 し た。窪地 は雨季 に冠水 して籾 の収穫 がで きない ときもあ る。 その場合 は砂丘 で キ ャ ッサバを 作 って食糧 とす る [河野

1

9

9

7:5

3

]。低地 は雨季稲栽培が終わ ると高畦で仕切 られた乾 いた平原 とな り,水牛や牛が放牧 され る [高 田

1

9

9

8:7

4

,

7

6

]

1

9

8

0

年代半 ば以降 に,砂丘両側 の低地 で は水路 と水門の建設 が推進 された。水路 はポ ンプ揚 水 による港概 を可能 と し,雨季 には多雨 による稲 の冠水 の害 を避 ける排水路 と して使 われ る。 水門 は乾季 に閉 じられて,塩分 を含 む川水 の浸入 を くい とめ る。 雨季 に排水が必要 となれば弁 が開 け られ る。 それ らのおかげで,現在で は旧暦 の

4

月か ら

8・9

月 までは夏秋米

(

CuLong

8)

をポ ンプ揚水 を利用 して栽培 し,その後 に雨季稲

(

Ta

iNguye

n)

を作 る

2

期作農家が増 え た。 その結果,最近 で は砂丘上 や斜面 の土地 よ りも,浸水 の害 を受 けやすか った低地 の方が, 高値 にな った とい う。 村内の水路 が完成 され るか どうか は,村 の地勢局幹部 が水路建設 で農地 を失 う農家 を説得 で 18

(10)

高 田 :海岸複合地形 における砂丘上村落 の農業開拓 きるか否 か にかか って い る。 受益農民 を中心 に,掘削 のための労働 力 も調達 されな けれ ばな ら ない 。 西側低地 に掘 られた東西数本 の水路両側 には,周辺集落 か ら新 たに農家 が斡旋 されて入 植 しつつ あ る。 人工 の高 みで は,果樹栽培 (バ ナナや ココヤ シ) や畑作 (唐 辛子, ネギ,野菜 な ど) も試 み られて い る [同上論文

:7

7;

河野 ・松尾

1

9

9

8:1

0

4

]

以上 の観察 か ら, 当該地域 の開拓前 の原風景 お よび開拓過程 を次 のよ うに考 え る ことがで き る。沿岸地帯 に形成 されたわずか な標高差 を もつ砂丘 は,現在 の沿岸部 が そ うであ るよ うに, もと もとは汽水地域 に植生 が適 したマ ング ロー ブで覆 われて いた はずで あ る。砂丘 が次 第 に陸 地化す るにつれて マ ングロー ブは消滅 し,砂丘 とその斜面 は竹林 その他 の樹木 で覆 われ るよ う にな った。一方,砂丘 両側 の低地 は雨季 には降雨 によ って浸 水 しが ちで あ る上 に,乾季 には潮 水 の浸透 による塩分土壌 の問題, あ るいは溜 ま り水 の蒸発 によ って土壌 は酸性化 し,作物 の成 長 に不適地 で あ った。乾季 はひか らびた大地 と化 し,窪地 には限 られた草類 のみが生育 した。 さ らに, 自然 の小川沿 いは,海水 の浸入 に強 いニ ッパ種子類 の植物 が繁 茂 して いたで あろ う。 この よ うな 自然環境 の もとで, 人 々の入植 と農業開拓 は, まず人間 の飲料水 と作物 の生長 に 必要 な水 の確保 が容易 で あ り,作物栽培 に とって土壌 の条件 が良 い こと, また雨季 の排水 の容 易 さ等 の諸条件 を満 たす場所 か ら開始 され た と考 え られ る。 これ らの条件 は,第 1に砂丘 も し くは砂丘列 に挟 まれた緩 やか な くぼみを もっdatgoや砂丘斜面 にそ ろ って い る。 従 って この よ うな土地 の農業 開拓 か ら始 ま り, その後 に砂丘両脇 の低地 の開発 に進 んだ と想定 され る。 ま た先述 のよ うに村 の南部 ほ ど農業 の土壌条件 ・水文環境 が よい ことか ら,古 い開拓 は村 の南部 が北部 や中央部 に先ん じて進行 した。 当該地域 の北 にゆ くほど, また低地 で は東側 の 自然小河 川沿 いお よび窪地 ほど,農業生 産活動 は容 易 でない。 したが って, これ らの土地 の開 田時期 は 相対 的 に遅 か った と考 え られ る。 Ⅰト3 集落 の形成 と民族分布 ホア トゥア ン村 の人 口密度 は

6

3

4

/km

2で, メ コ ンデル タの平 均 で あ る約

4

0

0

/km

2の 1.6倍 に達 して い る。漁業 が盛 ん なVinhBao集落 は除外 して も,一 人 当た り土地面積 の平均 は

0.

1

4

haに過 ぎない。表

3

1

0

集落 (ap)の うち,

1

平方 キ ロメー トルに

9

0

0

人 を越 す程 の人 口桐密 な集落 は,KyLa,DaCan,ChangMatの3集落 で あ る。 村 内

1

0

の集 落 は

,1

9

9

7

年 か ら

1

7

集落 に分 け られた。ホア トゥア ン村 の民族別世帯数 の比率 はキ ン, クメール,中国系 でそれぞれ

51

.

7%,4

7.

5%,0

.

7%

であ る (表

4

参照)。同村 は,チ ャ ヴ ィン省 で もクメール族 のかな り比重 の高 い村 で あ ると言 え る。集落別民族分布 の特徴 は次 の よ うに明確 で あ る。第 1に, キ ン族 が ほぼ住民 のすべてを 占め るの は,新集落名 でVinhBao,

ⅩuanThanh,VinhTruong,VinhLoi,RachKinhの5新集落,す なわち村 の北 部 お よび コチ エ ン河 の支流沿 いで あ る。 これ に対 して クメール族 が圧倒 的多数 を 占め るの は,Kinh Xang,

(11)

表3 ホア トゥア ン村 の集落別農地面積 と人 口密度 (1995年現在) 集 落 総面積ha 農地面積ha 人 口 人 口 密 度 1人当た り農地面積ha ① VinhBao ② ⅩuanThanh ③ KyLa ④ VinhLoi ⑤ BichTri ⑥ DaCan a TriPhong ⑧ ChangMat ⑨ QuiNong ⑲ DaHoa 45.99 32.72 (1.4%) 258.22 238.86 (9.9%) 170.68 154.76 (6.4%) 362.10 264.79 (ll.0%) 96.49 184.83 (7.7%) 148.21 134.24 (5.6%) 331.94 302.96 (12.6%) 276.16 255.66 (10.6%) 568.30 522.41 (21.7%) 352.10 317.84 (13.2%) 1,331 2,893人/km2 1,603 621 1,690 988 1,259 348 1,229 627 1,406 950 1,558 471 2,610 946 2,956 520 1.538 437 0.02 0.15 0.09 0.21 0.15 0.10 0.19 0.10 0.18 0.21 計 2,710.19 2,409.07(100.0%) 17,180 634人/km2 0.14ha/人 出所 :ホア トゥア ン人民委員会提供資料。人 口密度, 1人当た り農地面積 は筆者が算出。 図4 ホア トゥア ン村の 10集落の位置 20

(12)

高 田 :海岸複合地形 におけ る砂丘上村落 の農業開拓

表4 ホア トゥア ン, ホア ロイ両村 の新集落別民族世帯 の分布 (1998年)

グエ ン朝期 旧村名 旧集落名 新集落名 (世帯数) 人 口 (人) Kiエスニ ック別世帯数nh Khome Hoa

VinhTruong

KyLa @ vinhBao i)VinhBao (二264) 1,365 249 0 15 ② ⅩuanThanh ③ VinhLoi i)ⅩuanThanh@ (:149) 802 145

0

4 ii)VinhTruong (177) 839 170 7 0 i)VinhLoi (115) 601 115

0

0 ④ KyLa ⑤ BichTri i)KyLa* (133) 666 87 46 0 DaCoc ii)RachKinh# (121) 658 118 3 0 BichTri i)BichTri (278) 1,346 109 169 0 DaCan ⑥ DaCan i)DaCan* (285) 1,743 101 184

0

ii)DauBo (248) 1,275 183 65

-新HoaThuan# (1,770) 9,295 1,277 474 19

PhiNhieu ⑦⑧⑨⑲ TrChangMatQuiNongDaHoaiPhong i)TriPhong*# (193) 920 32 155 6 KyPhong ii)KinhXang (170) 820 1 169 0

ThanMat

QuiNongDaHoa i)ChangMat# (213) 1,081 143 70 0 ii)Truong (217) 1,052 150 67 0 i)QuiNongA (27) 1,353 135 142

0

止)QuiNongB* (277) 1,403 8 269

0

i)DaHoaBac (130) 733 2 128 0 ii)DaHoaNam (153) 731 ll 142 0 新HoaLoi村 (1,630) 8,093 482 1,142 6 HoaThuan全体 (3,400) 17,388 1,759 1,616 25 荏:KhomeはKhmerと同 じ。 クメール族 (カ ンボ ジア人) を指す。 新集落名 の後 に, クメール寺院が あれば *,亭 は@, ベ トナム寺院 は#で示 した。

QuiNongB,DaHoaBac,DaHoaNamの4新集落,つ ま り村 の南部 お よびdongoの新 しい 水路沿 いで あ る。残 りは両者 が と もに居住 す る。 先 の人 口桐密3集 落 は, キ ン族 が優勢 を 占め

る両者 の共存地 域 で あ る。

この よ うに当初 の農業開拓 の 自然 的条件 に恵 まれ た村 の南部 は, 先住 クメール族 が優勢 な地 域 で あ る。TriPhong,ChangM at,QuiNongに存 在す るdatgoの土地 は,農業生産 が容 易 で 古 くに開墾 され た可能性 が高 い。後 に確認 す るよ うに, クメール族 の最 も古 い社会 とみ られ るそれ らの集落地域 は, ホア トゥア ン地域 にお け る農業生産 の核心域 で あ った と推定 で きる。

それ に対 して キ ン族 の分布 は, 現在 で も最北 部 の チ ャゲ ィン水路河 口部地域 のVinh Baoや ⅩuanThanh, また彼 らが コチ エ ン河右岸 に注 ぐ支流沿 いに東 か ら西 に進 出 した ことを想定 さ せ るよ うに,Kinh川 (RachKinh),Tom

(VinhLoi),ThiTram

(ChangMat)の周 辺部 に集 中 して い る。 これ らの地域 の農業条件 はすで に論 じた よ うに相対 的 に悪 く,現在 で も 半 農半 漁 や家 内小工業 に従事 す る人 々が多 い。北部 のKyLa地 区で は,南北 に走 る村道 を隔 て

(13)

て コチ エ ン側 に キ ン族 , 西側 に クメ ール族 が はば対 置 して い る。 地 域 社 会 の成 立 過 程 を考察 す るに当 た り, 集 落 の社 会 的建 造 物 の建 設 年 代 か ら も推 察 の ヒ ン トを得 られ る。聞 き取 り調 査 で得 られ た情 報 に よれ ば (表

5

),最 も古 い クメ ール社 会 は南部 の QuiNong周辺 に,遅 くと も16世 紀 末 に は成 立 して いた と想 定 され る。そ の後 に第 2次砂丘上 のTri Phong周 辺 に集 落 の形 成 を み た。 さ らに 17世 紀 後 半 以 降 に, コチ エ ン河 の左 岸 Ben Treか ら移 住 した クメール人 がKy La周 辺 に集 落 を成 立 させ た。Da CanやBich Triの集 落 は, フ ラ ンス植 民 地 化 前後 に人 口が増 え て寺 院 が建 立 され た。 これ に対 して キ ン族 社 会 は, 後 述 す るよ うに, チ ャヴ ィ ンTraVinh川 河 口 のVinh Baoや 村 の北 部 KyLaに,19世 紀 初 頭 に よ うや く足 跡 を残 し始 め る。TriPhongの関帝 廟 は,フ ラ ン ス時代 に中国 か ら渡来 した華 僑 が,20世 紀 初 頭 に私 財 を投 じて建立 した。Vinh Baoで は フ ラ ンス時代 に裕 福 な中国人 の数 家族 が勢 力 を競 った とい う。 勿 論 , 現 存 す る これ らの建 造 物 か らの み判 断 して しま うの は危 険 で あ る。 破壊 され てす で に 存 在 しな い歴 史 物 や見 落 と した遺 跡 が あ る可 能 性 も否 定 で きな いか らだ。 しか し前 述 の農 業 に と って重 大 な 自然 環 境 と農業 過 程 , お よ び民 族 分 布 の趨勢 か ら推 定 され た結 果 と比 して, それ らの建 造 物 か らイ メー ジされ る社 会形 成 の過 程 は, それ ほ どの帝 離 を示 さな い。 表 5 ホア トゥア ン地域に現存す る宗教 ・公共建築物の建設時期 寺院 ・亭名 創建年 ・その他 上座部仏教寺院 (1)QuiNong寺 (2)TriPhong寺 (3)KyLa寺院 (4)DaCan寺院 (クメール族 に関 して) 1000年前説 (10世紀)・800年前説 (12世紀末) 400-500年前説 (15世紀末・16世紀末) シャムか ら送 られた仏像に仏歴2137年の記述 同村最古の寺 600年以上前説 (1361年)・700年前説 (13世紀末) 1666年BenTre地方か ら移動 したクメール人建立 1872年住民がカンボジアの王 と植民地政庁 に建立を申請 大乗仏教寺院 (5)GiacQuang寺 (6)LienQuang寺 デイン (辛)

(7)DinhVinhThuan

(キ ン族に関 して) 旧KyLa集落に1916年建立。元はクメ-ル寺の跡地 尼寺 (ChangMat)1945年創立, 1992年改築 (キ ン族の伝統的な政の集会所) 「永順社 ・城陛境 ・永長村

」(

ⅩuanThanh集落) 19世紀創設1941年修築1991年改築 (中国系に関 して)

(8)MieuBaThienHau (天后廟) VinhBao集落チャヴィン水路沿い

(9) 関帝廟 TriPhong集落1911年在村中国人の寄付で建立 出所 :現地聞 き取 り調査か ら。

(14)

高 田 :海岸複合地形 における砂丘上村落 の農業開拓

文献 に見る多民族社会の形成 と開拓

ⅠⅠト1 行政 上 の統合 (グェ ン朝 時代 ) 文 献 に見 る限 り,- ウ河 (クメール語 で はバ サ ックBassac河 )の河 口 に位 置す るチ ャヴ ィ ン と ソクチ ャ ン両 地 方 は,弱 体 化 して い た カ ンボ ジア王 国 か ら1775年 に切 り離 されて,ベ トナ ム 広 南 グェ ン氏 の支配 下 に組 み込 まれ た。 後 の クメー ル民 族 主 義 者 た ち は, フ ラ ンス植 民 地 政府 が そ の統 治 期 に, た とえ ばバ ッタ ンバ ンや シェム レア ップを シ ャムか らカ ンボ ジアへ返 還 させ た (1907年 ) に もか か わ らず , メ コ ンデル タの チ ャヴ ィ ンと ソクチ ャ ンを 「仏領 コーチ シナ」 に留 め お いた フ ラ ンスを非 難 す る [デル ベ ー ル1996:52]。 周 知 の よ うに,19世 紀 キ ン族 グェ ン朝 第 2代 明命帝 (在 位 :1820-40)の統 治 期 は, 中央 権 力 の支配 が ベ トナ ム全 国 に直接 に及 び始 め た特 筆 す べ き時代 で あ る。 メ コ ンデ ル タにお い て ら, キ ン族 の役 人 は クメ-ル族 に対 して カ ンボ ジアの慣 習 を捨 て る ことを要 求 した。 地 簿 や人

十簿

は, クメー ル族 の村 や人 名 が クメール語 の発 音 に類 似 した漢字 を用 いて表記 さ れ るよ うに な り, ベ トナ ム ・キ ン族 の統 治 下 に編 入 され た こ とを貝体 的 に示 す。 チ ャゲ ィ ン一 帯 は,1825年 に楽化 府 の下 にTraVinhとTuan Myの2県 が置 か れ [Tinh Uy,UyBanNhanDanTinhTraVinh1995:60],TraVinhとBacTrangにベ トナ ム人 の官 吏 が派 遣 され た [SEI1903:32]。

チ ャ ゲ ィ ンの地 方 史 の 文 献 に依 れ ば, グ ェ ン朝 の 支 配 に反 発 した チ ャ ゲ ィ ンの ク メ ー ル 族 は, コチ エ ン河 か ら進 出 した キ ン族 の軍 に対 し,1841年 に現 ホ ア トゥア ンのKyLaで激 し く抵 抗 した [TranThanhPhuong1989:133;TinhUy,UyBanNhanDanTinhTraVinh

1995:68]。キ ン族 の勢 力 は, コチ エ ン河 河 口 に永島 VinhTruong村 (現 VinhBao集 落)を建 設 して キ ン族 進 出 の拠 点 に した [SEI1903:32]。

キ ン族 の軍 に制 圧 され た クメールの村 々 は, 禁化 府 (Lac Hoa Phu)茶 栄 県 (Tra Vinh Huyen)永 利総 (VinhLoiTong)の行 政機 構 の な か に統 合 され た。現 在 の ホ ア トゥア ン村 に 含 まれ る7集 落 の名 は, この永利総 20カ村 の中 に兄 いだ され る (表6参 照 )。 これ らの 7村 名 は, クメール語 起 源 の地 名 が漢 字 に置 き換 え られ た村 と判 断 され る。6) 先 に見 た キ ン族 起 源 の VinhTruong村 は, 同県 の茶平 総 (TraBinhTong)に属 した。

6) グエ ン朝支配下 で作成 され た膨大 な地簿 の研究家 で あ るDau氏 は,南部 の地名 の特徴 を分析 し, 母村名 を起点 に次 々 と派生 され る村名 の法則性 を論 じている[NguyenDinhDau1994:133-135] 。

また この よ うな村落名 の ヴ ァ リエー シ ョンの基本 とな る使用頻 度 の非常 に高 いベ トナ ム文字 (漢 字) を13例, やや多 い頻度 の9例 を挙 げてい る [ibid:135]。 先 の7つの村名 は これ らの通常文字

(15)

表6 1868年永利総VinhLoiTongの村一覧 平津村 BinhTanthon

事碧池村 BichTrixa 錦唯村 Cam Doithon 事多芹村 DaCanthon #多穀村 DaCocthon *多呑村 DaHoaxa 和睦村 HoaMucthon 金満村 Kim Cauthon *奇豊村 KyPhongthon 楽義村 LacNgaithon 梅香村 MaiHuongthon 棲樹村 MongThuthon #肥亮村 PhiNhieuthon *帰農村 QuiNongthon 山榔村 SonLangthon *慎 蜜村 ThanMatthon 水澄社 ThuyTrungxa 揮梁村 TrachLuongthon 長溝村 TruongCauxa 事椅羅村 Y Lathon 荏 :*の村名 はホア トゥア ン村 の 旧集 落名 と判 断 され る地名。大多数 の村 はthonだが,規模 の小 さな も のをXaで示 した と考 え る。 アル フ ァベ ッ ト表記 は地簿 を分類整理 したN.D.Dau氏 によ る。 #を付記 した村 は, 東西南北 の位 置比定 によ って ホア トゥア ン地域 内 と判 断 され る もの [Nguyen Dinh Dau 1994:168-171

]

図5 グェ ン朝期永利総 (VinhLoiTong) 9村 と茶平総 (TraBinhTong)の村 々の位 置 24

(16)

高 田 :海岸複合地形 にお ける砂丘上村落 の農業開拓

(フランス植民地時代)

前述 のよ うに, クメール村落 は

1

9

世紀 の前半 に グェ ン朝地方行政機構 の県

huye

n

の下位 レ ベルで あ った 「総

t

ong

」に,キ ン族 の村落 と同等 の 「村

t

hon

もしくは

Ⅹa

」と して,そのままに 組 み込 まれた。 こうした状況 は, フラ ンス植民地支配下 で変化 を被 る。 ベ トナム国家公文書保 存 セ ンター Ⅱ (在 ホ-チ ミン市)が所蔵す る 2つの資料 を比較 して,この点 を明 らかに したい。 図

6

は, 調査村周辺 を措 いた

1

9

世紀末 の絵 図で あ る。 和紙 に墨 を用 いて筆 で描かれた もの で,漢字 の村名 お よびそれぞれに フラ ンス語表記 が付 された上,登録民

(

i

ns

c

r

i

t

)

の人数 が メ モ書 きされて い る。コチエ ン河右岸 に注 ぐ

1

0

の川

(

r

ac

h)

とその名,チ ャゲ ィン川 に沿 った茶 栄 の町 も描 かれて い る。 注 目され るのは,クメール人が居住 す る砂丘

gi

ong

が楕 円のかたま り のよ うに表現 されてい ることだ。 砂丘上 には北端 と南端 に,

2

文字 の漢字 でキ ン族 の村

Vi

nh

Tr

uong

DaPhuoc

の名がそれぞれ記 され,一方 クメール族 の村 は 「茶」 とい う 1字 を当て て村 の番号 を記 しただ けのよ うな 「茶 1村

「茶2村」-・- とあ る。 この史料 を含 む フ ァイルに は

1

8

7

4

年 とい う年 が書 き込 まれていた ことか ら,絵図 は コーチ シナ軍政時代

(

1

8

6

2

-

8

0

)

に フ ラ ンス海軍 の現地監察官 とベ トナ ム人協 力者 によ って作成 された と考 え られ る。 この絵 図 は,キ ン族 が先住民 クメールの住 む

gi

ong

の両端 に進 出 したさまや, コチエ ン河 の 支流沿 いに集住 して いた ことを物語 って い る。7)フ ランス語表記部分 が書 き込 まれ る以前 と思 われ る絵 図の作成年代 は,特定 で きない. しか し少 な くとも

1

8

7

4

年時点 で は,砂丘上 の クメー ル村落 の各領域 お よび実態等 は統治側が十分 には把握 していなか った可能性 が考 え られ る。 ところが,この状況 は コーチ シナが軍政 か ら文民統治 に移行 す る

1

8

8

0

年代 に一変 した。コー チ シナ各地 に

2

0

省 (

t

i

nh)

の行政機構 が設 置 され始 めた

1

8

8

0

年以 降, 当局 は創設す る各省 の 植民地評議会 の メ ンバ ー とな る現地 人代表者

(

huye

n

県知事)を住民 のなかか ら選 出す るため に,県が含 む村落毎 の選挙人 リス トの作成 に着手す る。その過程で行政 の末端組織 とな る 「村」 の領域 と代表者が確定 されて い った。

図 7

は,

1

8

9

0

年 に植民地土地局 が作成 したホア トゥア ン地域 の

KyLa

村 と

DaCan

村 の合 併提案 の図で あ る。 2万分 の 1の縮尺で油紙 に色彩 を加 えて描 かれたその地 図 には,砂丘上 に 寺院 や民居 の範囲が細 か く記 され,周辺低地 の水 田, チ ャヴ ィン市につ な ぐ掘削 され た運河 や 道路 な どが測地 を基 に措 かれてい る。

1

8

8

0

年代 か ら

1

8

9

0

年初期 の段階で, フラ ンス植民地権 力が デル タの村落 を掌握 した事実 を, ここか ら確認 で きる。8) 7) チ ャヴ ィ ン省 にお け るキ ン族定 住地 につ いて の一 般 的記述 に も, 同様 の傾 向 が認 め られ る [SEI 1

9

0

3

:3

卜3

4

]。ソクチ ャン省で も当時 のキ ン族 の居住地域 は,- ウ河 の支流沿 いや,砂 丘の端で あ る とい う類似 した記述 が散 見 され る

[

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8

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9:

2

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]。

8

)松尾

[

2

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0

1

]

は同公文書保存 セ ンター Ⅱでの調査 を基 に, バ リア省 の地簿 につ いて表記上 の分析 か らこの点 を指摘 してい る。 25

(17)

図6 ホア トゥア ン地域絵地 図 (1870年代史料) ヽ\ \1 -、 l 1

-)

II

-嵐

-26

(18)

高 田 :海岸複合地形 における砂丘上村落 の農業開拓

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J 図 7 KyLa,DaCan村 の合併 27

(19)

また,選 挙 人 リス トの確 定 作 業 の一 環 で作 成 され たKyLa村 の郷 職 の署 名 の 中 に, クメ ー ル 語 の サ イ ンと並 ん で キ ン族 の名 が 見 られ る [TTLT1884:IA17/123;1900:IA17/244;1908:IA 17/265] の も, 19世 紀 末 か ら 20世 紀 初 頭 の変 化 で あ る。 20世 紀 初 頭 まで に行 政 村 の領 域 が 旧 村 の統 廃 合 が繰 り返 され る過 程 で確 定 され, クメ ール とキ ンの そ れ ぞ れ の居 住 区 は以 前 の よ う に隔絶 され た もの と して で はな く, 植 民 地 秩 序 下 の多 民 族 村 落 に次 第 に編 成 され て い った と考 え られ る。9) ⅠⅠト2 植 民 地 期 の民 族 と開 拓 (民 族 構 成 の推 移 ) 植 民 地 時代 の一 般 的 傾 向 と して, と りわ け メ コ ンデ ル タ西 部 地 域 で は, 浸 水 地 の開 拓 に積 極 的 で あ った キ ン族 の進 出 が本 格 化 す る と, 従 来 か ら微 高 地 に居 住 して い た ク メ ール人 は奥 地 へ 移 住 す るか, も し くは集 落 の離 散 , カ ンボ ジアへ の移 住 を開 始 した。10)表 7は, 19世 紀 末 か ら 第 一 次 世 界 大 戟 前 にか けて は一 定 して いた コー チ シナ の ク メ ー ル人 人 口比 が, そ の後 は低 下 し た こ とを示 して い る。 と りわ け1930年 代 後 半 か らイ ン ドシナ戦 争 期 にか け て, ク メ ー ル人 人 口 は半 減 す る は どの 激 しい減 少 傾 向 に転 じた。 チ ャゲ ィ ン省 で は この全 体 の趨 勢 と は少 し異 な り, 表 8に あ る よ う 表7 フランス植民地期 コーチシナ民族別人 口推移 1894(a) 1913 (b) 1936(C) 1951(d) キ ン 1,752,200(86.1%) 2,513,500 (87.7) 3,979,000 (86.2) 3,679,898 クメール 172,600 (8.5) 244,200 (8.5) 326,000 (7.1) 153,968 中国 58,800 (2.9) 65,800 (2.3) 171,000 (3.7) 678,261 その他 アジア 48,900 (2.4) 32,700 (1.1) *124,000 (2.7) 3,444 ヨーロッパ 2,700 (0.1) 10,600 (0.4) 16,000 (0.3) 18,881 ) ) ) ) ) 1 4 0 1 4 1 3 5 0 0 8 ( l

(

( Ⅶ一口 ︻Ⅶ t 計 2,035,200 (100.0) 2,866,800 (100.0) 4,616,000 (100.0) 4,534,452 (100.0) 出所 :a)[AGI1894:347];b)[AGI1913:299-337];C)lASIVol.8,1937-38:17];d)[ASVVol.4,1952

-53:27] -イ ン ドネシア人5,200,中国系混血6,200,チ ャム8,000,イ ン ド人2,000, ラオス人100などが含 まれ る。 9)クメール族古老 の聞 き取 り調査 に依れば, クメール寺院を中心 と した彼 らの社会 を束 ね る旧来 の sroc(村), および下位 のphum (集落) の構成空間は,植民地行政上 のXa(元来 キ ン族世界の末 端行政村)ゃap(同様 に自然集落) とは重 な り合わないまま, 日常生活 の下では植民地末期 まで 保 たれたという可能性 も否定で きない [今村 1997: 139]。 プノンペ ンに仏教研究所を創建 した Karpeles氏 による1920年代末 の視察記 に依れば, チ ャゲィンのクメール人社会の話言葉 はカ ンボ ジアの純粋 クメール語か らは 「堕落 した」 クメール語であった という。 また1937年 にチ ャゲィン の フランス人行政官 は,9万人のクメール人が 109寺院の 1,500人 の僧侶の下 に

,

「慣習 と民族の伝 統 を誠実 に守 って」生活 していると報告 した [Brocheux1995:237]。 10) バ ッタンバ ンやカ ンポー ト-のコーチシナの クメール人 の移住 は 1924年か ら始 まった [Brocheux 1995:236

]

28

(20)

高 田 :海岸複合地形 にお ける砂丘上村落 の農業開拓 表8 チャゲィン省の民族別人口 1894(a) 1913(b) キ ン 67,000 (53.3%) 99,900 (51.7%) ク メ ー ル 54,400 (43.3%) 88,000 (45.6%) 中国 4,200 (3.3%) 5,000 (2.6%) その他 ア ジア 100 (-) ヨ ー ロ ッパ 30 (-) 53 (-) 計 125,630 (99.9%) 193,053 (99.9%) 1943(C) 182,000 (63.7%) 97,000 (34.0%) 6,655 (2.3%) 45 (-) 285,700 (100.0%) 出所:a)[AGI1894:347];b)[AGI1913:2991337]-,C)[ASIVol.ll,19431.23]

表9 フランス植民地期のチャゲィン省稲作付面積の推移 (1888-1954年) 1888 1898 1908 1928 1925/29 1926/30 1931 108,798 116,788 135,770 150,000 155,000 160,000 160,530 1935/36-1939/40 1951/52 1952/53 1953/54 141,400 106,000 108,000 118,000 出所:1888年∼ 1939/40年 の デ ー タはBEI [各年],1951/52年∼ 1953/54年 の それ はASV。 に,第一次世界大戦前 まで は クメール人人 口の増加傾 向がみ られ る。 しか しそのチ ャヴ ィン省 ら, 人 口比 は1943年 に 3割 台 に落 ち込 んだ ことがわか る。 (耕地 の拡大) チ ャヴ ィン省 の水 田面積 は,19世紀末 にデル タ全省 で最大規模 の 1

1万

haに達 していた (義 9参 照)。 さ らに同省 は,19世紀末か ら 20世紀初頭 にか けて,低地 の開墾 ブームを迎 えた。水 田面積 は,この時期 に117,000haか ら 136,000haに,毎年 2,000haずっ拡大 したのであ る。そ の最 大 の誘因 は, フラ ンス植民地政府 が- ウ河以西 の トランスバサ ック地方 の開拓 を本格化 さ せ る足がか りとして, チ ャゲ ィン省内 に コチエ ン河か ら- ウ河 に抜 ける運河 の建設 および延長 をめざ したか らだ。例 えば,ホア トゥア ン地域 の北西部 に接 す るチ ャヴ ィン水路 は,1876年 に 天然 の川 を整備 した全長5km の運河で あ ったが, 1884年 には南 の BaTieu運河 と, さ らに 1897年 にはLop川 と繋 がれて- ウ河 に達 す る重要 な運河 に整備 された。 交通路 の完成 は,19 世紀未か ら20世紀初頭 のチ ャゲ ィン省内 にお ける処女地 の開墾 に役立 った [SEI1903:8-9]。 世紀転換期 の同省 には, コチエ ン, - ウ両河沿 いの地域 と南 シナ海沿岸部 にマ ングロ-ブ原 生林 が残 って いた。農地 は, 内陸 の海岸平野か ら砂丘列 を超 えて南 に向か って開発 された。 同 省 の東部 には虎 が, また コチエ ン河, - ウ河,南 シナ海沿岸部 のマ ングローブにはイノシシや シカが多 く生息 し,農民 は乾季 の始 ま りとともに収穫物 をそのよ うな野生動物 か ら守 る工夫 を した [ibid.:28] 。 完成 した運河 のおか げで沼地 の排水 が可能 とな った海岸平野 や砂丘列間 の低地 が次 々に開発 29

(21)

されてい った様子 は, 同省 のモノグラフに記録 されている。人 々は運河 に繋 ぐ二次水路 を掘削 し,盛 り土 を して道 を作 った。 それ は, 田圃 に潮水 が浸入す るのを防 ぐ為 で もあ った。土地所 有者 たちは,土地 に傾斜 をっ けた り,畦を作 って自分 の水 田を改良 した。貧 しい人 々 も良 い土 地 を見 っ けて開墾 し, その後 に所 有権 を確定 して も らうため に コ ンセ ッシ ョンに申請 した [ibid.:25]。 ホア トゥア ン周辺で はすで に1880年代 に コチエ ン河 の支流Tom川,Sang川 に 挟 まれ た土地 開発権 が キ ン族 によ って要求 され,許可 され た。11) しか し,世紀転換期 の開発 ブームが過 ぎると,水 田面積 は,1931年 を ピークにその後 は減少 に転 じた。 省別稲作面積 お よび生産量 のデー タか ら,植民地期 を通 して, チ ャゲィン省の水 田の土地生 産性 は, コーチ シナ全体 の平均値 よ り高 いとい う結果が得 られ る (表 10)。 さ らに表

1

1にあ る よ うに,20世紀初頭 のチ ャゲィンは畑作 も盛んで,様 々な作物 が商品作物 と して生産 されてい た ことが窺 われ る。 栽培作物 の多種性 は,開拓地 の単調 な作物体系 と比較 して, チ ャゲィンの 農業生産 が相対的 に長 い歴史 を もつ証左 であると考 え られ る。 また,飼育 されて いた家畜 の多 さが 目を

く。水牛24,000頑,牛23,000頑,馬 1,500頭,豚35,000頑 とい う数値 は,当時 の別 の諸省 のそれ と比べて突 出 した数値 であ る libid.:28]. ホア トゥア ンのQuiNong集落 に住 む93歳 の老人 (1906年生 まれの クメール人)に依 れば, 表10 チャゲィン省の米生産性 (ton/ha) 1927/28 1935/36- 1939/40 1949/50 チャゲィン 1.29 1.44 1.47 コーチシナ平均 1.17 1.26 1.30 出所 :作付け面積,収穫量のデータをBEZからとって算出. 表11 チャゲィン省の農作物作付け一覧 (20世紀初頭) 米 119,904 トウモロコシ 102 豆 ・菜種 1,210 イモ 1,052 桑 140 生 花 麻 子 花 菜 落 胡 榔 綿 野 2 3 2 2 8 7 1 4 5 1 8 2 9 2 Eid マ マ′_\ 155 125 一 612 3 欄 齢 藍 肺 肉桂 1,109 バナナ 653 マンゴスチン 210 麻 12 出所 :[SEI1903:27]

ll)当時のBich Tri村で,Vo Van Sanという人物に,20ha 6 aresの払い下げが認可 [Trung Tam LuuTruQuocGia刀 (以下TTLTと略)1880a:SL M.746271]。同地域には1881年にも TraVanBongに2 ha72aresが認可 [TTLT 1880b:SL M.76272]。VinhTruong村にも土 地84haがTranVanThuに払い下げられた。 このほか1880年にはCangLong郡のLangThe 水路に沿って, それぞれ10ha規模の14区画が申請 したキン族に分配された [TTLT 1880C:SL M.76273

]

(22)

高 田 :海岸複合地形 にお け る砂丘上村落 の農業開拓 表12 グエ ン朝期 ホア トゥア ン地域 の農地面積推定 (1mau- 4,894.4rd) Ⅹa/Thon (VinhLoiTong) QuiNong YLa KyPhong DaCan DaCoc PhiNhieu Da‖oa ThanMat BichTri (TraBinhTong) VinhTruong

計 447 67 85 174 102 37 326 33 76 406 姻 (公土)

6

0 29

6

3

0

2

4

13 118 7 68

7

3

1,753mau 428mau (約858ha) (約210ha) 出所:QuiNong∼BichTriは [NguyenDinhDau1994:3481355],VinhTruongは [ibid∴333] O

注1.VinhLoi総 には私 田 ・私土 はない [ibid∴347]。TraBinh総 には この ほか私 田,私土 の分類有 り,ただ

し面積 は不明。 彼 が子供 の頃 の ホア トゥア ンの砂丘 は大 木 や竹林 に覆 われ,集落 を繋 ぐ道 は砂 が深 く, 曲 が り くね って牛車 を引 くのに苦労 した とい う。 当時 チ ャゲ ィンの町-行 くには, 雨季 には KinhJH を遡 って小舟 で チ ャゲ ィ ン水路 に入 るか, また乾季 にはチ ャヴ ィン市 の南 の DaLoc村低地 を 経 由す る小道 を利用 した。砂丘上 で は,樹木 を伐採 し,溜 め井戸 を掘 って畑 を増 や した。 人 々 が集住 して い るところに寺 があ り,集落 と集落 の間 は離 れて いた。砂丘 の東 の麓 に広 が る低地 で は田圃が開 かれたが,時 々 コチエ ン河沿 いの原生林 に棲 む イ ノシシが群 をな して荒 ら しに き た [高 田 1998:75-76]。 村 の老人 たちの証言 に依 れば,現在 の水 田の ほ とん どは植民地 期 に開 田を終 えた。 グェ ン朝 期 の当該地域 の水 田面積 はおお よそ 1,753mau(858ha),畑地面積 は約 428mau (210ha),合 計 1,000ha以上 と推計 され る (表 12)。現農地面積 は先述 の よ うに約 2,400haで あ るか ら,大 まか に述 べれ ば,19世紀後半 か らフラ ンス植民地期 にホア トゥア ン周辺農地 は 2倍以上 の規模 に拡大 された と推測 され る。 チ ャヴ ィン省全体 の水 田面積 が 1930/31年 頃 を頂点 に増大 が見 ら れなか った こと考 え合 わせ ると,植民地 支配期 の後半 にはフロ ンテ ィアの開拓 はほぼ終 了 して いた ことが推察 され る。

土地集中とその解体

Ⅴ-1

植民地期 チ ャヴ ィンの土地所有構造 お よびホ ア トゥア ンの大地 主 フラ ンス植民地期 の メ コ ンデル タで は,開拓 と同時 に土地 の集 中が進 んだ。1920年代後半 の 実態調査 を ま とめたY.Henryは, コ-チ シナの土地所有 を 3つ の カテ ゴ リーに分類 した。 す 31

(23)

なわち 5ha以下 は小規模土地所有, 5- 50haは中規模土地所有,50ha以上 は大規模所有 と された。中規模所有 は, 5- 10haと 10- 50haの 2タイプに分 け られ る。 当時の農業生産力

レベルで は,-農家の平均的な経済規模 (家族労働 を基本 に した生産活動 によ って 自立的 な家 計 を維持 で きる農地規模) は 10haと見 な された。

コーチ シナの 50ha以上 の大規模所有 は,全土地所有者数 の 2.5% (6,316人)[Henry1932: 182]であ る。 この層 の分布 は,RachGia,LongXuyen,CanTho,BacLieuな どデル タの 西部諸省 に集 中 して いる。 しか し, チ ャゲィン省 も西部諸省 に次 いで大規模所有者が多 く, そ の数 は 447で あ る。 さ らに, その内 の 500ha以上 の大規模 な土地 集積 者 は 21に達 して い る (この数字 は隣接す るVinhLong省で4,BenTre省 で は7に過 ぎない)0 他方 でチ ャゲィン省 には,5ha未満 の小規模所有者数 も,隣接 す る先 の2省 と同様 に きわめ て多 い. コ-チ シナ全体 をみれば,小土地所有者が多 い地域 は大土地所有者が少 ない傾 向にあ るのに対 して, チ ャゲィンは小規模所有が多 いに もかかわ らず, その対極 の大土地所有者数 も 多 いのが特徴 であ る [ibid.:176]。 表13は聞 き取 り調査 で得 られたホア トゥア ンの フランス期 の大地主 についての情報 をまと めた ものだ。被調査者 はその小作人 や大地主 の子孫 であ る。 筆者 は被調査者 の記憶 や数値 の信 悪性 をで きるだけチ ェックす るために,複数 の被調査者 に対 して同一地主 の名 を挙 げて確認作 業 を繰 り返 した。仏領期 の土地登記簿 は,外国人 の閲覧 が難 しく,傍証史料 の収集 も困難 で あ った。 当時の土地所有状況 を厳密 に再構成 す ることは不可能 だが, ここで は歴史 の生 き証人 の 目か ら見 たホア トゥア ンの大地主 を描 き出す ことに努 めたい。被調査者 の年齢か ら推計すれ ば,彼 らの直接 的記憶 はホア トゥア ンの植民地末期 の もの と見 るべ きであ るが,彼 らの一族, 父母,祖父母 の土地所有 や生活 につ いての記憶 も,貴重 な情報 と して考察 した。 古老 たちの話 に依 れば, フランス時代 のホア トゥア ンとその周辺 にはとりわ け有名 な3人 の 大地主 が記憶 の中に存在 した。 ホア トゥア ンの在村地主 と しては,Ky Laの クメール人Son ThachXuanの一族 が,1,700haを越 え る所有地 を もつ最大規模 の大土地所有者 であ った。Ky Laの もう一人 の大地主CaSuoi(クメール人) は,Ⅹuanの息子である。12)son一族 の土地集

積 は,とりわ け 20世紀初頭 に著 しく進 んだ。その所有地 は,KyLa,DaCan,TriPhong,Da Hoaを は じめ,TieuCan県やCauNgang県 に も存在 した。同表 13のDaHoaに住 むKim一 族 はSon家 の親戚 であ る。

12)SonThachXuanは,カンボジアの代表的ナショナリス トであるソンゴックタンSonNgocThanh

の実父。従ってSuoiはタンの兄弟である。 ソンゴックタンは 1936年からプノンペンで発行された 民族主義を鼓舞するクメ-ル語新聞 『アンコールワット』誌の編集に携わったO 日本降伏前夜にカ ンボジア独立国家の短命な政府を組閣 し, その後南部ベ トナム共産主義勢力との連携の道を兄いだ そうとしたが, 1945年10月に,復帰 したフランスによって逮摘された [MabbettandChandler 1995:236]。Khmerlssarakの創設メンバーで,後にロン・ノル政府の首相府顧問に就任。 32

(24)

高田 :海岸複合地形における砂丘上村落の農業開拓 表 13 フランス植民地期のホア トゥアン地域の地主 ha:lcong- 1,200m2で換算 規模別分類 地主の名 100ha以上 Kim Prac SonThachXuan (CaSuoi) TranVanTiep TranVanI Pormeca Kim GinDangの父 PhanCongHoiの父 PhanVanXuan 50ha∼ 100ha ThachGong

Lam Truong Kim lnhの父

10ha∼ 50ha NguyenThiLau BanhHu TuBaHoa ThachUm ThachLamの義父 HuynhVanla PhanThiBinhの父 Arthor DangP.Minhの父 ThachHuynhの父 ThachKeo ThachChupの父 出所 :聞き取 り調査の結果。 地主の居住地 DaHoa KyLa KyLa PhuocHao 同上 (Tiepの子) TraVinhのインド人 DaHoa PhuocHao 同上 (Hoiの祖父) QuiNong TraVinhの中国人 QuiNong 土地の所在地 KyLa/TriPhong DaCan/CauNgang HungMy/Luong‖oa KyLa/HungMy Da‖oa/PhuocHao QuiNong/DaCan HungMy KyLa/TriPhong TieuCan/CauNgang TraVinh TriPhongの中国人 Saigon/PhuocHao Da‖oa DaHoa TriPhong VinhLo主 TraVinhの仏人教師 VinhBao KyLa TriPhong TriPhong ChangMat/QuiNong TriPhong/ChangMat DaHoa/PhuocHao ⅩuanThanh VinhBao 所有規模 I,920-2,040 2,040 3,600 600 120以上 120 240 10,00 0 50-60 80以上 30 22 20 18 10 10 一 一 10 日 10 10 25 DaHoaの クメール人Dang(1926年生 まれ)の父 は,開拓 資金 を返 せ な くな った隣村 の地主 の土地 を買 い上 げて大地主 とな った。Dangの妻 は,他 県 の1,000cong(120ha)を所有 した大 地主 の娘 で あ った。 先 のSon一族 は じめ, 上記 のKim家 な ど, 大地主 の一族 は ソクチ ャ ン省 の同 じクメール族富裕層 と も姻戚関係 を結 んで, メ コ ンデル タ大地主階級 の一 角 を形成 した。 その子 弟 は,パ リの大学 に留学 し,カ ンボ ジア人 と して の民族 的 アイデ ンテ ィテ ィーを培 った。 また先 のKyLaやDaHoaの大地主,QuiNongのThachGongは,本人 や息子 たちが村 の長 老 (huongca)や村 長 (Xatruong)を勤 め, フラ ンス植民地地方 政府 の信任 が厚 か った とい

つ。

3人 の大地主 の うち最後 の一人 は, 隣村PhuocHaoのPhan家 の出身者 で あ る。 その一族 の家譜 に依 れば,先祖 は19世紀初頭 にVinhTruong村 に生 まれ たキ ン族 で あ る。 先祖 は, 18

(25)

世紀 の後半 に福建 か らコチエ ン河 の畔 に渡来 した中国人 の祖先 の血 を引 く娘 と結婚 して, 旧

BangDa

地域 (現

PhuocHao

, ホア トゥア ンの南) の開拓者 の列 に加 わ った

。1

9

世紀半 ばの ことであ る。 人 の3倍 も働 く強靭 な体力 を もった伝説 の人物 で,周辺 に散在 していた クメール 人 や中国人 を加 えて村創設 の請願 に必要 な人数 を集 めて, グエ ン朝政府 に許可 を申請 した

。1

3

)

息子 の代 (19世紀末か ら

2

0

世紀初頭) には, 1

,

0

0

0ha

を越 え る土地 を集積 した。 フ ラ ンス植 民 地 支 配 期 に

PhuocHao

村 に居 住 した ホ ア トゥア ンの不 在 大 地 主 は, この

Phan

一族 の分家 に属す る人物 で,3

,

0

0

0ha

を所有 した とい う。 彼 は コチエ ン河 の中州 の村 や

HungMy

村 の土地 を,チ ャゲ ィンに住 むイ ン ド人か ら買 い取 った。彼 は,キ ン族 であ るが,先 のKy

La

の クメール人大地主 と も親戚関係 にあ る。 このほか に, チ ャゲ ィン省都 に住 む中国人, イ ン ド人, そ して規模 は大 き くないが フランス 人 の地主 たち も人 々に記憶 されていた。 フラ ンス人教員 や金貸 しのイ ン ド人 チ ェテ ィーの所有 地 はホア トゥア ンの北部

Ⅹuan Thanh

方面 にあ り, また中国人 は砂丘東側 の低地 や コチエ ン 河沿 いの地域, また

DaCan

Tr

iPhong

に も土地 を所有 していた。 聞 き取 りか ら得 られた土地集 中の諸事例 は, 当初 は①開拓 の成功者が基礎 を築 き, その後②

2

0

世紀初頭以降, 耕地 の購入 によ って土地集積 が進 め られた。

PhuocHao

村在住 のキ ン族 の 例 で は,や は りキ ン族起源 の村

HungMy

の コチエ ン河沿 いの低地 や中州 の島の新開地 が集積 され,他方 の クメール在村地主 は クメール起 源 の集落 の土地 を広域 に所有 した。成功 した ク メールの一族 は,農民 の土地 を次 々 と直接 に買 い上 げるとともに,負債 の抵 当に入 れてあ った 土地 を集積 したイ ン ド人 や中国人 の金貸 しか ら土地 を買収 して所有地 を拡大 した。植民地末期 には,土地所有 を軸 と した村民 の階層分化 は相 当に進 み,一握 りの大地主 の下 に,多 くの零細 土地所有者 や小作人,土地 な し農民 が存在 した ことは明 らかである。 ⅠⅤ-2 独立戦争 の帰結

1

9

4

5

年 に

8

月革命が起 きた時,ホア トゥア ン周辺 の農村 でベ トミンは権力を奪取 したわ けで はなか った [高 田

1

9

9

8:7

1]。 しか し, イ ン ドシナ (抗仏)戟争 が始 まると,現

ⅩuanThanh

,

Vi

nhLoi

地域,また

ChangMat

村 で は,キ ン族 の小作農 や農業労働者が革命運動 に身 を投 じ た。彼 らは不作 の時 に小 作料 を減免 しない地主 を殺害 した り,戦争末 期 にチ ャゲ ィンの町 を 去 った フランス人 やイ ン ド人 の土地 をそのまま占拠 して, 自分 たちで分配 した。

Tr

iPhong

の クメール人 中規模地主 の息子 で,ベ トミン運動 に参加 したケース もあ った。彼

13)

Phuo

cHa

o

,Da

tnuo

cvaCo

nNguo

i

,Ca

u

7

Ye

n,Ca

u

5

Ho

i(

Pha

n

家の家譜) より。彼は トゥドゥック帝 (在位1847-83)の要人であった

Pha

nTha

nhGi

a

ng

の家臣として尽 くし, その 功績によって

Pha

n

の姓を与えられた。この一族は20世紀初亘削こは当時の開明的愛国運動に熱烈 に共鳴し,東遊運動に対する支援活動を行い,また両大戦間期には トロツキス ト

Nguye

nAnNi

nh

を匿ったこともある。

(26)

高田 :海岸複合地形における砂丘上村落の農業開拓 に依 れば,1948年 頃か らチ ャヴ ィン周辺 で は,小作人 たちの地代不払 いが見 られ るよ うにな っ た [同上論文

]

しか しなが ら,一方で はクメール民族主義者 たちの政治 的活動 が,村 内 に影響 を与 えた形跡 が あ る。 植民地地方政府 は彼 らの動 きを取 り込 みなが らも,対策 を講 じない訳 に はいかなか った [Engelbert2000:135]。 1955年 に誕生す る南 ベ トナム (ベ トナム共和国)政府 の時代 に,ホア トゥア ンで進行 した重 要 な変化 は,一 つ に 「国民化 (キ ン族 への同化)」政策,いま一 つ は大土地所有制 の崩壊 であ る。 共和国政府 は,フラ ンス植民地期 の旧村 を 自治集落apや Ⅹom の下位 レヴェルに格下 げ して 新 しい村落

Ⅹa

の下 に合併 した。 この結果地方行政機構 の末端組織 「

杜 Xa

の数 は,植民地時 代 に比べて激減 した。新 「ホア トゥア ン村」は,キ ン族起源 の旧VinhTruong村 を砂丘上 の ク メール族地域 に合併 す る一方で,南端 の クメール族起源 の旧DaHoa村 は分割 され,南半分 が キ ン族 の優勢 な新phuocHao村 に吸収 された。 ドラステ ィックな行政再編 は, 末端 の村 々に キ ン族主導 の 「ベ トナム化」を強制 した と考 え られ る。 クメール族 の古老 に依 れば,旧Chang Mat村 で は,植民地時代 は少 なか ったキ ン族 の移住 が独立期以降 に急増 した [同上論文 :73]。 1960年 にアメ リカ軍 が作成 した調査村周辺 の地図を見れば (図2), クメール語 由来 の地名 はほ とん ど失 われ,ベ トナム風 に変 え られてい る(TraVinhは PhuVinh-,また TriPhong, QuiNong,KyLaの名 は消 し去 られた)。 ホア トゥア ンの クメール富裕層 は,子弟 を次 々にプ

ノ ンペ ンに留学 させた [高 田1997:74]。一般 の農民 も親戚 を頼 って カ ンボ ジアに移住 した。ベ トミン運動 に参加 した クメール人 もまた, ゴーデ ィンジェム政府 の反共弾圧 を避 けて プ ノ ンペ ンに身 を隠 した [高 田 1998:71] 。

ジェム政権 は,植民地政府 が 「少数民族保護」政策 の一環 とした クメ-ル族 の植民地軍 への 投入 [Generaldel'Ⅰndochine1930]を引 き継 ぎ,南 ベ トナム共和国軍 の諸 隊 に彼 らを再編 し た。独裁体制 に反対 していたキ ンの人 々 とクメ-ル人が直接 に対時す ることにな り, その後 の 両民族 間関係 に深 い傷跡 を残 した。 植民地期 に形成 された大地主 階層 の解体要 因 として, (a)不在地主 の土地 占拠 ・分配, (b) 政府 の農地改革 による土地没収 と再分配,14)(C)相続 による所有規模 の縮小 が挙 げ られ る。 ホア トゥア ンにおいて イ ン ドシナ戦争 中 に解放 区 とな り, ベ トミンによる土地分配 が進 んだ の は,先述 の通 り,村 の北部地域 や コチエ ン河 に近 い低地, 中州 の島な どで ある。 不在地 主 は 隣村 のキ ン族 やチ ャゲ ィンに住 む外国人で あ ったために,小作人 や農業労働者 は占有者 と成 り 得 た。 14)ベ トナム戟争後のメコンデルタの集団化に関わったLiem の著書に依れば,南ベ トナム政府が1970 年から1973年の間に実施 した農地改革では,858,821人の小作人に合計1,003,325haの上地を分配 した。 1956年からの分配分 も含めると,約130万人の小作人が186万haの土地を分配されたとい う [Lam-Thanh-Liem1986.・65

]

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表 3 ホア トゥア ン村 の集落別農地面積 と人 口密度 ( 1 995 年現在) 集 落 総面積 ha 農地面積 ha 人 口 人 口 密 度 1人当た り農地面積 ha ① Vi nhBao ② ⅩuanThanh ③ Ky La ④ Vi nhLoi ⑤ Bi chTr i ⑥ DaCan a Tr iPhong ⑧ ChangMat ⑨ QuiNong ⑲ DaHoa 45
図 5 グェ ン朝期永利総 ( Vi nhLoiTong) 9 村 と茶平総 ( Tr aBi nhTong) の村 々の位 置 24
図 6 ホア トゥア ン地域絵地 図 ( 1 870 年代史料)ヽ\\1‑、l1‑‑)II‑
表 9 フランス植民地期のチャゲィン省稲作付面積の推移 ( 1 8 8 8 ‑1 9 5 4 年) 1 8 8 8 1 8 9 8 1 9 0 8 1 9 2 8 1 9 2 5 / 2 9 1 9 2 6 / 3 0 1 9 31 1 0 8 , 7 9 8 1 1 6 , 7 8 8 1 3 5 , 7 7 0 1 5 0 , 0 0 0 1 5 5 , 0 0 0 1 6 0 , 0 0 0 1 6 0 , 5 3 0 1 9 3 5 / 3 6 ‑1 9 3 9 / 4 0 1 9 51 / 5 2

参照

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