保育者養成課程におけるピアノ実技科目の諸課題
Issues of piano practical subject for nursery teacher training course
平 野 浩 由
HIRANO Hiroyuki
はじめに 我が国の保育現場では長年,子どもたちの音楽活動をサポートするための楽器としてピアノが大きな 役割を担っている。公務員試験や私立園の採用試験においてもピアノ実技を課すことは少なくない。保 育者養成機関においては,幼稚園教諭免許や保育士資格取得の認定,あるいは卒業認定のためにピアノ 実技科目を必修とすることも多く,保育者を目指す学生たちが日々ピアノの練習に励む光景は,もはや 我が国の保育者養成機関における伝統文化の一つと言っても過言ではない。これは,保育現場における 実際の必要性とは別の背景として,日本独特のピアノ教育文化によるところも否定できず,保育現場と 保育者養成課程の両者におけるピアノへの依存とその是非については近年多くの議論が交わされてお り,安田寛らは「ピアノの偏重と多用」という言葉を用いて問題提起をしている1)。保育者養成課程に おけるピアノ実技の考え方,方向性,科目としての位置付け等も養成機関によって違いがあり,カリキュ ラム内容の絶対量や扱う曲の難易度の振り幅も大きく,多様である。おそらくどの養成機関も,この科 目のカリキュラム設定の難しさを感じていると思われ,時代の変遷とともに試行錯誤を繰り返し,より 効率的で実践的な方法について様々な方向から検討を重ねているはずである。無論,確固たる答えが出 るものではなく,常に時代に即した対応をする必要に迫られている。いずれにせよ,保育としてのピア ノの可能性の再検討とともに,「保育者にとって本当に必要なピアノ演奏力」がどこに集約されるのか を見極め,多様化している保育現場の音楽活動の実態を踏まえた柔軟で弾力性のあるディプロマ・ポリ シーを定めること,それを体現するための確固たるカリキュラム・ポリシーを成熟させることが真に問 われる時代になったといえよう。そしてその努力がなければ,保育者養成課程におけるピアノ実技科目 は次第に過去の遺産となって存在価値を無くしていくであろう。 本稿では,今後の保育者養成課程におけるピアノ実技科目において検討の必要があると思われる課題 を提起する。特に重要と思われる課題から順に紹介し,準ずるものを「その他」とする。本稿は特定の 結論を導くものではなく,課題と考察を投げかけるに過ぎないが,今後の議論の活性化につながるもの にしたいと考えている。1.「職業訓練」としての特殊性と目的意識の希薄化 高等教育機関におけるピアノ実技科目は,そこで得られる技術の将来的用途によって,演奏そのもの を目的として置かれるものと,教育等を目的としてその手段として置かれるもののおおよそ二つに分け られる。保育者養成課程におけるピアノ実技科目は後者にあたり,あくまでも保育の一つの「手段」と してピアノ演奏技術習得を目指すものであり,ピアノ演奏そのものが目的ではない。しかし,我が国で はこの「目的」の境界線があいまいになる傾向がしばしば見られる。端的に言えば,保育者としてのピ アノというより,演奏技術の向上に目的の焦点が絞られていく現象のことで,これは学生と教員のどち らに対しても言えることである。つまり,目的意識が音楽大学のピアノ専攻,あるいは趣味の習い事と ほぼ変わらないものとなり,保育者養成課程のピアノ実技としての特殊性や必要性が薄れていくのであ る。 では,その本来の特殊性とは何だろうか。幼稚園教育要領,保育所保育指針,幼保連携型認定こども 園教育・保育要領(以下「三法令」とする)における領域「表現」の言葉を借りるならば,保育者が奏 でるピアノの音は,それがどのような形態であるにせよ,子どもたちが「感動」する素材や出来事の一 つであり,それにより「豊かな感性」「表現する力」「創造性」を育むものでなくてはならず2),その一 音一音に大きな責任が生ずるということである。つまり,学生と教員のどちらにも,ピアノの演奏技術 を身につけるという観点に加え,ピアノによって子どもたちの感性を育むにはどうしたらよいかという 観点が必要であり,とりわけ後者の観点が科目としてのディプロマ・ポリシーの成熟度に影響し,それ がこの科目の特殊性となる。本稿の最も大きな目的は,これら二つの観点の最も良いバランスを探り出 すための必須課題を顕在化させることにある。 おそらく,「習い事」「お稽古事」といった一般的な趣味,教養としてのピアノ教育文化が根付いてい る我が国においては,そもそも何か重大な責任を伴う仕事の「手段」としてピアノを学ぶ,つまり「職 業訓練」としてピアノを学ぶという感覚に対し熟し切れていない場合が多いのではと推察する。例えば, 我が国の保育者養成課程のピアノ実技科目においては,子どもがピアノの手ほどきを受ける際に一般的 に使用されるバイエルやブルグミュラーなどのテキストをそのまま使用することが多く,高等教育機関 の科目とはいえ授業形態は専ら個人レッスンかグループレッスンである。そしてテキストに沿って一曲 毎に「合格」をもらい,「進度」を進めていくという一般的なスタイルも音楽教室とほぼ同様の風景と言っ てよい。ゆえに,保育についての知識に乏しい入学直後の学生には,習い事の延長のような感覚を与え やすい。こういったある種の「雰囲気」が,文化となっているのである。音楽大学のように音楽を専門 とする高等教育機関のピアノ専攻でさえ,自身の学びに将来の職業としての明確な意識を持つ者は,現 実的人生観を持った一部の学生に限られる場合がある。むしろ,保育という確固たる職業目的が存在す る保育者養成課程こそ,ピアノを本格的に学ぶ場として最も意義のあるものの一つと言うこともできる のではあるまいか。そしてそのような職業訓練としての目的意識を学生の一人一人に明確に持たせるこ とが重要なのであって,学生だけでなく指導教員にもその自覚が問われることになる。そしてこれは, 以下に挙げる諸課題を検討するにあたり常に回帰すべき問題となるだろう。
2.保育者の資質として相応しいピアノ演奏力とは何か 三法令における領域「表現」のねらい及び内容,保育現場でのピアノを用いた音楽活動の実態,公務 員試験を始めとする採用試験に課されるピアノ実技の内容などを主な基準とした場合,「保育者の資質 として相応しいピアノ演奏力」の定義として以下のようなことを挙げることができる。 ① 保育者自身がピアノを心から楽しめること ② 奏でる音の一つ一つに愛情があること ③ 様々な音楽の持つ魅力を理解し、伝えられること ④ 歌の内容や言葉の美しさを大切にできること ⑤ 子どもの歌の充分なレパートリーと知識があること ⑥ 一つの曲を止まらずに最後まで弾き通せること ⑦ どんな楽譜でも音楽として形にできる読譜力があること ⑧ 伴奏付け,アレンジ,初見演奏などの応用力があること ⑨ ピアノの音で創意工夫ができること ⑩ 子どもたちの表情を見ながら演奏できる余裕があること ⑪ 子どもたちのモデルとして「豊かな感性」「表現する力」「創造性」を持ち合わせること こういった定義を包括したものが科目としてのディプロマ・ポリシーとなる。学部,学科,科目とし て本当に必要なものに焦点を当て,それらを最も効率よく効果的に身につけるための学習手段を見極め ることが必要であり,その方法論が科目としてのカリキュラム・ポリシーとなる。保育者のピアノに関 わるものについては,国や行政からは三法令以外のものは具体的な方針は出されておらず,そもそも三 法令にはピアノという文字はどこにも記載されていない。ゆえに,現状は各養成機関の方針が物を言い, 本科目を扱う研究者にとっては「保育者の資質として相応しいピアノ演奏力」をいかに定義するかが鍵 となる。そしてその定義は三法令の変化や現場の保育内容の変化などにより時代とともに変容していく ものであり,保育現場と養成機関の双方において常に吟味を重ねていく必要があると同時に,時には共 に研究し情報を共有するなど,相互の連携がこれまで以上に問われていくことになるのではないだろう か。 3.進度ノルマの拘束力 保育者養成課程のピアノ実技科目の単位認定では,実技試験の評価やその合否を軸に,別の評価項目 を付加して総合的に判断することが一般的である。例えば,使用テキスト等に則した一定の曲目や曲数 をこなし,その成果としてそれらの曲に「合格」が与えられることをノルマとして評価に加える方法が ある。これを仮に「進度ノルマ」という言葉で表した場合,単位認定のために一定の進度ノルマを課す ということは,一定の曲量の習得や難易度の克服を「保育者の資質として相応しいピアノ演奏力」の一 つであると判断しているからに他ならない。しかし,その達成のために学生にかかる負担と実際の対効
果の関係が果たして本当に信頼できるものなのか精査する必要がある。つまり,一定の進度ノルマの達 成がディプロマ・ポリシーに真に直結しているかということを問うのである。重要なのは進度ノルマを 課すことの是非ではなく,進度ノルマの持つ拘束力をどの程度に設定するかという問題である。 保育者養成課程のピアノ実技科目において設定する進度ノルマは,おおよそ以下四つの要素の変化に よってその拘束力が変動する(表1)。この拘束力は学生だけでなく指導教員にも及ぶもので、表中の 左側の項目が多ければ多いほどその拘束力は高くなる。 表1
高い
拘束力
低い
必修科目 選択科目 進度ノルマが単位認定の条件の一つ 進度ノルマが単位認定の基準の一つ ノルマ曲の量が多い ノルマ曲の量が少ない ノルマ曲の難易度が高い ノルマ曲の難易度が低い 筆者は養成機関 A で 13 年間,養成機関 B で4年間,ピアノ実技科目の指導に携わってきた。養成機 関 A は当時,表1の左側の四項目をほぼ満たしていたと思われ,養成機関 B は右側の四項目をほぼ満 たしていると思われる。それぞれを「A. 進度ノルマの拘束力が高い場合」,「B. 進度ノルマの拘束力が 低い場合」とし,両端とも言える二つの養成機関で実際に起こっていることや典型的に見受けられるこ となどについて,それぞれメリットとデメリットの側面に分け,学生,教員の両視点から列挙し,考察 する。 【メリットの観点から】 表2A.進度ノルマの拘束力が高い場合のメリット
学生側のメリット 教員側のメリット ・取り組むべき課題と最終到達点が明確になり練習目標を設定しやすい ・進度により自分の現在の段階をある程度計ることができる ・進度が進むことで自信がつき,達成感,安心感をおぼえる ・これだけのことをしなければならないという義務感が必然的に生ま れ,ピアノと向き合う時間が増え,練習量が増える ・ノルマを確実にこなすことができれば,相応の演奏技術が身に付く ・科目に対する履修学生全体の緊張感が生まれ,授業態度が引き締まる ・指導すべき課題と最終到達点が明確になり,指導目標を設定しやすい ・学生の現在の段階を進度によりある程度計ることができる ・学生の進度が進むことで達成感,安心感をおぼえる ・統一的なカリキュラムを組むことができ,全教員の指導内容にある程 度の統一をもたらすことができる ・単位認定条件や評価基準が明快になるB.進度ノルマの拘束力が低い場合のメリット
学生側のメリット 教員側のメリット ・自分のペースで一曲一曲に丁寧に取り組むことができる ・初心者やピアノが苦手な学生が焦らずピアノに取り組むことができる ・過去に取り組んだ曲を復習する余裕が生まれる ・ノルマ以外に自分の好きな曲などに取り組む時間を作ることができ, 「遊び」の感覚が生まれる ・実習課題や採用試験のピアノ実技対策に取り組む余裕が生まれる ・ピアノや練習に対する嫌悪感が少ない傾向にある ・各学生に見合ったペースで指導することができる ・初心者やピアノが苦手な学生に対して余裕を持って指導することがで きる ・過去に取り組んだ曲について振り返り指導する余裕が生まれる ・個々の学生の力に合わせた個別課題(伴奏付け,初見演奏,実習や採 用試験の課題など)の指導をする時間的余裕と自由度がある ・実習課題や採用試験のピアノ実技対策について指導する余裕が生まれ る ・カリキュラム設定の自由度が増すA のメリットは,学生が良い意味での「義務感」をおぼえるという点に集約されると思われる。や るべきことが可視化していることで,学生がより能動的に取り組む効果があり,進度ノルマの拘束力が 必然的にピアノに向かわせる力を生むということである。教員から見れば,学生が「言わなくても練習 する」ことになり,指導の補助にもなるという考え方もできる。つまり,学生側のメリットのほとんど が,教員側のメリットでもある。一方,B のメリットは,個々の学生に向き合う余裕が生まれるという 点に集約されると思われる。こちらは教員側のメリットのほとんどが,学生側のメリットとして包括で きる。しかし,B は A に比べ教員により柔軟な対応力が求められるということもわかる。 【デメリットの観点から】 表3
A.進度ノルマの拘束力が高い場合のデメリット
学生側のデメリット 教員側のデメリット ・初心者やピアノが苦手な学生の負担が大きくなる ・進度の遅い学生はより多くの練習時間が必要となり,他の科目の学習 時間への浸食が懸念される ・進度の遅れにより焦りや精神的疲労が生じる恐れがある ・一曲に丁寧に時間をかけて練習するという感覚が疎かになる傾向があ る ・進度を進めることが当面の目的となり,本当に身につけるべき力やそ の先にある子どもについての意識が薄れる傾向がある ・充分な復習をするための時間や,実習課題や採用試験対策などの応用 課題に取り組む時間が少なくなる ・再履修者や留年生を生む可能性が生まれる ・ピアノ初心者やピアノが苦手な学生の指導に必然的に時間と労力をか けることになり,授業時間外に補習をする場合も出てくる ・学生の進度が遅れることに不安をおぼえる ・一曲にあまり時間をかけず,内容を伴わないまま進度を進めるケース が生じる ・進度を進めることが当面の目的となり,本当に身につけるべき力やそ の先にある子どもについての意識が薄れる傾向がある ・過去に取り組んだ曲について振り返り指導する時間や,実習課題や採 用試験対策の応用課題に取り組む時間が少なくなる ・再履修者や留年生が増えることで指導の負担が増すB.進度ノルマの拘束力が低い場合のデメリット
学生側のデメリット 教員側のデメリット ・最終到達点が不明確になりやすく,学生によっては目標が立てにくい 場合がある ・義務感が少ないことにより,学習意欲の高くない学生は技術向上が停 滞する傾向がある ・明確な目的意識のない学生は練習を怠る傾向がある ・科目に対する履修学生全体の緊張感が薄れ,授業態度に緩みが出やす い ・総合的に,指導者によって成長が大きく左右されやすい ・学生によって最終到達点が異なる場合が多くなり,個々に目標を立て 課題を検討する必要が多くなる ・いち早く進度ノルマを達成した学生について,その後の課題を新たに 検討する必要が生まれる ・進度ノルマの拘束力が高い場合に比べ自由度が増える一方,教員の手 間が増える場合が多くなり,指導内容も幅広く準備しなければならな いことが多くなる ・総合的に,個々の指導担当者の能力が学生の成長を大きく左右する A のデメリットは,学生や教員の努力では解決が困難な問題,またはそこから派生するものが多く, 解決できるとするならば,最終的に学生の努力に期待せざるを得ない部分が圧倒的に多いという印象で ある。もちろん,力をつけるために学生の努力は必須であるが,ノルマが困難になればなるほど,その 努力は「負担」となり,その負担の多くを,そもそも最初から解決が困難である初心者に負わせること になるというのが苦しいところである。当然,それを指導する側の教員にも負担が生じる。一方,B の デメリットは,学生側,教員側ともに教員の指導努力と創意工夫次第で解決が可能であり,解決される べき問題でもある。 【総合的観点から】 やはり,最終的に学生の成長にとって最善となるよう方向に解決することを優先的に検討すべきであ る。デメリットについては,指導者の努力次第で改善・解決できるものがあって,その努力が学生にとって大きなメリットを生むならば,この問題の落とし所がおのずと見えてくるのではないだろうか。A ではピアノのために悩み,落ち込み,時には絶望する学生を目にすることもある。一方,B ではそのよ うな姿を見ることはほとんど無く,この科目の授業風景を見る限りではのびのびとしていて明るい表情 をした学生が多くいると感じられた。ただし,B の場合は A と比較して全体的な緊張感や授業に臨む 覚悟のようなものはあまり感じられず,やはりのんびりした印象であることは否めない。しかし,厳し い職業訓練の一つとは言え,子どもたちに音楽の楽しさを伝えるべき保育者自身が音楽を楽しめないと いうことがあってはならず,子どもたちの音楽活動の根本が「遊び」であることを考えれば,学生に「遊 び」の感覚を芽生えさせる心の余裕も必要なのではないだろうか。 将来的にはより進度ノルマの拘束力が低いほうへシフトし,より多様な指導内容と評価方法を試みて いくことが主流になるのではないかと推測している。そしてその中で学生に主体性を持たせ,より深い 学びをもたらすためには,教員の指導力に待たなければならないということが明白である。子どもたち の個々の感性や主体性が尊重され,保育者としての専門性や資質がより必要とされているのと全く同じ ように,保育者養成課程においては学生たちの個々の感性や主体性,学習環境を尊重し,指導教員とし ての専門性や資質、幅広い対応力がより問われていく時代となるのではないかということである。 しかし,ディプロマ・ポリシーとしての評価と単位認定は避けられないものであって,保育者の資質 として相応しいピアノ演奏力に見合うだけの評価基準を設けなければならない。進度ノルマの拘束力を 緩めたとしても,評価基準としてのある程度のノルマの達成は必要となるだろうし,実技試験を始め, 子どもの歌の弾き歌いのレパートリー,伴奏付けや初見演奏などの付加的応用技術,日頃の練習成果等, 評価すべきものの選択とその評価方法について多角的に検討していく必要がある。さらに,進度を進め る上での合否の判断,つまり何をもってそれを「習得した」と判断するかという問題もある。いずれに せよ,進度ノルマの拘束力についての議論は,ディプロマ・ポリシーを目に見える評価として体現する ための大きな基軸となっていくはずである。 そして,ここに各養成機関の運営上の諸事情が影響することも否めない。学生数が多く一人あたりの レッスン時間が少ない,あるいは教員数も含め科目全体の規模が大きくなればなるほど,一人一人への 細やかな指導が行き届き難くなるケースなどもあり,やむを得ず授業としての運営上のメリットを優先 する方法を取るといった選択も必要となる場合もあるだろう。こういったバランスの見極めについても 研究者としての力量が問われることになる。 4.初年次教育における基礎について 二年制と四年制のどちらの場合も,卒業時に至る学びの成果の全ては初年次における指導内容が握っ ていると言っても過言ではない。その中で最も重要なのは「基礎」であると言って間違いないだろう。 基礎として,少なくとも以下の5つを定義する必要があると思われる。 ① 保育者としての目的意識 ② 演奏上のテクニカル面における基礎
③ 読譜の基礎 ④ 練習の継続とその意識 ⑤ ピアノを楽しむこと ここで強調したいのは,初心者に対してこれらの基礎を徹底して指導することは元より,経験者の中 にも「基礎を再確認すべき経験者」がいることを疑い,必要であれば初心者と同等の内容にて再教育を 行うべきではないかということである。すなわち,ある程度高い難易度の曲を弾きこなせることが,果 たして本当に保育者にとって必要な演奏力として相応しいのか疑わしいということと,そもそも入学前 に保育者としての目的意識や責任感を持ってピアノを学んでいる学生はほとんどおらず,そういった意 味では全ての学生を初心者と見做しても良いのではということである。 器楽演奏技術の習得がある程度の経験を要することは周知の事実である。脳の発達や手の筋肉などの 身体的発達に関連し,特に幼少期の学習経験がもたらす影響は大きい。音楽を専門とする学科と違い, 保育者養成課程においては入学時におけるピアノの学習経験や楽器所有の有無などの絶対的な学習環境 が多様であるのが常で,その差異が個々の学習成果を大きく左右することが多い。これがディプロマ・ ポリシーとしての最終的な到達点を定めることを難しくする要因のひとつでもある。このような学習環 境の格差に配慮し,入学時のピアノ学習経験によって初級者,中級者,上級者といったグレードに分け, 別々のスタートラインで別々の進度ノルマを課す方法を取る養成機関もある。この場合,経験者にとっ ては初心者と同等の内容は必要ないとの判断から、上級者に基礎的な学習を課さないことが一般的であ る。しかし,「自分にはもう基礎は必要ない」と自負する経験者の演奏に限って,弾き直しが多く不安 定で,必要以上にテンポが速くなるなど,雑な印象になりがちである。特にそれは人前で弾く実技試験 などにおいて顕著である。かえって基礎から丁寧に学んだ初心者のほうが,子どもに対する愛情が感じ られる保育者らしい演奏をする場合もある。第1項で述べたように,どんなにシンプルな音であっても 子どもたちにとってはそれが環境の一つとなり出来事の一つとなることを考えれば,やはり一つ一つの 音に責任を持つべきであり,保育者を目指す者ならば,全員が単純に指一本で音を出すところから「保 育の意識」を持って学ぶべきなのではないだろうか。 初歩段階としてバイエルのようなピアノ教則本を扱い,そこから中級以上のテキストにステップアッ プし,これら一連のテキストを基に進度ノルマを設定するという方法は保育者養成課程の一般的なカリ キュラムの一つであるが,例えば,初心者,中級者,上級者を問わず,入学時に一斉にバイエルの冒頭 段階のような初歩的なものからスタートする方法をとっても良いのである。基礎的な教則本に掲載され ているような単純なエチュードは得てして無味乾燥な指の訓練に終始しがちではあるが,例えば保育現 場での子どもの歌の歌唱の基礎と考えれば,歌としてのフレーズを感じながら旋律を奏でる方法,ピア ノで呼吸を感じる方法,一定のテンポをキープする方法,止まらずに最後まで弾き切る方法など,かえっ て極めてシンプルなエチュードのほうが余裕を持って丁寧に学ぶことができるものである。そしてそこ に,第1項でも述べた「明確な目的意識」が芽生えるための土壌ができあがるのである。こういった初 歩的な取り組みの必要性を経験者に理解させるには,教員の指導力が問われる。指導者には,ただ単純
な基礎を訓練させるだけでなく,シンプルな素材の中に保育のピアノとしての様々な学習要素を探って 指導する工夫と,基礎の必要性を問う説得力も必要だということである。 5.指導教員の成熟の必要性と育成について 保育者養成課程のピアノ実技科目は基本的に一対一の個人レッスン形式か少人数のグループレッスン 形式を取る。それにより,クラスなどの単位で構成された一コマ分の学生を複数のグループに分けるこ とになり,他の音楽科目に比べ必然的に多くの教員が必要となる。そのため,多くの養成機関ではその 大半を非常勤教員で賄うという実情があり,実態として元々保育を専門とする教員よりもピアノ演奏技 術に特化したフリーランスの教員の比率が高い。ゆえに,第1項で述べたように指導の目的がピアノ演 奏技術の向上のみに偏る可能性もある。このような中で保育内容の充実したピアノ指導を行うためには, 非常勤教員であっても相応の指導経験と保育の専門知識,保育を扱う学科に対する帰属意識を強く持つ ことが必要となる。そして明確なディプロマ・ポリシーの下に,非常勤教員の一人一人が「保育者の資 質として相応しいピアノ演奏力」について熟知し,共通認識を持つべきであるということである。第3 項で述べたように,指導教員としての専門性や資質がより幅広く問われていく時代の中で,専任教員だ けでなくその多くを非常勤教員にも期待すべき時代となっているということである。 また,練習の長期継続の必要性から,2年間もしくは4年間で内容を継続させた科目として設定して いる養成機関がほとんどである。それにより,学生の成長度合いや指導内容などの情報について教員同 士が年度を超え一貫して共有していくことも必要となり,その循環により成熟したチームワークが構築 されていく。こういったことも念頭におけば,特に経験が浅く若い非常勤教員を任用する場合などは, 保育者養成課程に特化したピアノ指導教員として長期的視野を持って育成し,人材を増やし,チームを 作りあげていくといったシステムも必要なのではないだろうか。また,そのためには一年もしくは半期 に一度,研修と情報交換を兼ねた教員会を科目として開催することも有益かつ必要な取り組みの一つで あると思われる。 6.他の科目との連携 ピアノ実技という一つの科目でどこまでの内容を担うかという問題がある。科目の特質上,一人の学 生に割ける指導時間は他の科目に比して圧倒的に少ないということもあるが,保育内容や幼児音楽に関 する全ての学習内容を盛り込むことは無論不可能である。養成機関のほとんどは,保育者養成課程に複 数の音楽系科目を設置しており,ピアノ実技科目はその中の一つに過ぎない。そして複数の音楽系科目 は,それぞれが独立した内容を引き受けながらも,互いに補い合う存在であって然るべきである。ゆえ に,ピアノ実技科目で言えば,演奏技術以外に知識として必要かつその習得に時間を要するものについ ては,ある程度他の科目に委ねるほうがよい。例えば読譜や音楽理論の基礎,子どもの歌の歌詞の味わ い方や作品の背景の理解,ピアノを使った即興的な遊びなどについては,総合的幼児音楽の科目におい て時間をかけて指導するほうがより理解度が増すだろうし,弾き歌いに必要とされる歌唱力を磨こうと 思えば,ピアノ専門の教員より,声楽を専門とする教員が担当する合唱の科目等で指導を受けるほうが
より専門的となる。 保育者養成課程におけるこれらの音楽系科目は総合的に俯瞰する必要があり,他の科目との指導内容 の連携や情報交換が必須であることは言うまでもない。しかし,それぞれの科目を別々の教員が担当す ることも多く,同じ科目でもクラスによって担当が別の教員になることもある。特に非常勤教員が比較 的多いピアノ実技科目においては,他の科目の情報が行き届き難い場合がある。他の科目で学生たちが どのような指導を受け,どのような内容を学んでいるかについて教員が知ることも必要であるし,学生 は他の科目で得たものをピアノ実技科目の学習内容に常に還元するという意識が必要であり,その逆も 然りである。結果的にそれぞれの科目における学びを互いにより充実させることができる。もしこういっ た連携が皆無だとすれば,保育者養成課程として未熟であると言わざるを得ない。科目としてのカリキュ ラム・ポリシーを問う前に,音楽系科目の総合的俯瞰と連携について熟慮されているかを確認すべきで ある。 7.その他 ⑴ 使用テキストの問題 使用テキストについては,多くの養成機関にて検討が重ねられていると推察する。しかし,どのテキ ストが最も優れているかということについては,とりわけ重要ではないのではないだろうか。 例えば基礎を学ぶための教則本については,世界に無数にある教則本の中から全ての学生に適したテ キストとして一つに絞り込むというのは無理がある。我が国では全国的にオーソドックスな基準となっ ているテキストとしてバイエルやブルグミュラーなどが挙げられるが,保育系の採用試験にてこの二つ のテキストが課題となっていることも未だに多く,この二つのテキストの習得が我が国の保育者のピア ノ演奏力を計る上でも基準の一つとなっていることは否めない。ゆえに,これらを保育者養成課程にお ける教則本として用いることは妥当な選択であると言える。もちろん,その掲載曲の全てを習得しなけ ればならないわけではなく,学生の能力に応じて指導曲を省略したり,併用曲を加えたりすれば良いの である。どのテキストを使うかというより,それを使ってどのように指導するかという視点のほうが重 要なのではあるまいか。 子どもの歌のテキストについても同様のことが言える。例えば一つの童謡をとってみても,数多くの アレンジ譜が存在することもある。そもそも子どもたちにとって絶対にこのアレンジでなくてはならな いという考え方は存在せず,学生の能力や子どもたちの歌いやすさ等に合わせて最適なものを選ぶか, 必要以上に難易度の高いアレンジについては,自ら簡易的かつ音楽的にアレンジできる能力も身につけ させることが現実的と思われる。つまり,一冊の曲集にこだわる必要はなく,教員は常に複数の曲集を 手元に置いて吟味することが必要で,場合によっては教員自身がアレンジする必要性も出てくる。個々 の学生がそれぞれの能力の中で個性を保ちながら,最終的に保育者養成課程の科目としてのディプロマ・ ポリシーに見合った成果を上げられればよいのではないだろうか。 保育者養成課程においては,もはやテキストとして完全なる曲集というものは存在しないと言ってよ い。もちろんできるだけ最良のものを選択するに越したことはないが,時が経つにつれてより良いもの
が出版されることもあれば,既存のものの中により良いものが見つかることもあり,その都度カリキュ ラムを変えていたのではシラバスも都度変更せねばならず,学生にも混乱が生じる。統一的なテキスト の選択にこだわるよりも,教員が個々の学生の個性や能力を見極める力と,どんな素材であっても学生 のために必要な学びを提供できる指導力を持つことのほうがより重要なのではないだろうか。例えば, 教則本,子どもの歌共に,統一テキストとして最良と思われるものを多くとも3冊程度の範囲に収めて 選定しておき,その他必要と思われる併用曲については自由度を持たせ,常に様々なテキストに目を向 けて対応力を高めておくのである。つまり,「カリキュラム=テキスト」という考え方から,「カリキュ ラム=指導力」という考え方へ方向転換すれば,テキストの選択も比較的容易になるのではないだろう か。 ⑵ 実習課題と採用試験課題の対策 保育者養成課程においては実習が重要な課程の一つであり,実習におけるピアノ演奏は日頃の練習成 果を実際の子どもたちの前で試すことのできる貴重な実地体験となる。しかし,実習園からピアノの課 題が示される場合,その量や難易度は様々で,伴奏付けを要求される場合や,そもそも楽譜が存在しな い場合もあるなど,内容は極めて多様である。それゆえ,学生全員にあらゆる可能性を見越して指導す ることが必要であり,初めて実施される本実習や,ピアノ課題が比較的多く課される傾向のある幼稚園 実習などの時期を逆算し,それまでに基礎を確実に固め,想定される対応力も身につけさせるべきであ る。さらに,個別の実習課題についても各学生に対応した準備・対策ができる余裕と柔軟性がカリキュ ラムに必要であると考える。本来,こういった実践の場のためのピアノ実技科目であり,この機会を中 途半端に過ごすのは惜しい。相応の準備により,実習での演奏が成功すれば自信につながり,仮に失敗 したとしても,どのような準備が足りなかったのかが明白になり,具体的かつ有益な反省につながる。 一方,準備不足では何が良くて何が足りなかったのかもわからないままで終わる。ピアノ実技科目のカ リキュラムの設定においては,このようにいつでも実習に臨める準備と,実習での貴重な体験をどのよ うに生かし,どのように授業内容に還元するかということも含めて計算に入れるべきではないだろうか。 採用試験についても同様である。もちろんピアノ実技を課されない場合も少なくない。しかし,卒業 年次までには採用試験を前提としたある程度の対応力を身につけることを逆算したカリキュラムを組む 必要があるし,特に難易度の高いピアノ実技課題を課す傾向のある公務員試験などにおいては,各市町 村における過去の課題を幅広く調査した上で,希望する学生には卒業年次の前年度から早めにレッスン 内で対策を取るなどの余裕も必要である。また,卒業年次のピアノ実技科目が選択科目となっている場 合には,カリキュラムの中に採用試験対策を一つのプログラムとして組み込み,採用試験を想定する学 生は履修を必須とするよう指導するなどの手を打つ必要があるのではないだろうか。 おわりに 本稿で提示した課題は,筆者自身の指導に基づく経験則により導き出したものである。ここに挙げた もの以外にも検討の必要な課題は山積していると思われるが,特に言及したいものに絞って掲載した。
そのほとんどは,教員の負担増加を予知する内容であると思われる。しかし,それを負担と捉えるか, スキルアップの絶好の機会と捉えるかによって,保育者養成課程のピアノ実技科目の行く末が決まるの ではないだろうか。今後はここに挙げた諸課題について,学生,教員,保育現場などを対象に具体的な 実態調査等を行い課題の本質を精査するとともに,先行研究から得られる情報も仰ぎながら解決方法に ついて個々に紐解いていきたいと思う。実際,本稿で論じた諸課題についてすでに検討を重ねている研 究機関は多くあるはずであり,議論し尽くされている問題もあるかもしれない。しかし,保育者養成課 程において 17 年間ピアノの指導に携わってきた中で,我が国独特のピアノ教育文化による「聖域」の ようなものにこの科目が未だに支配されているような感覚が拭い去れず,敢えて何度も問いかける必要 があるように感じるのである。 また,課題としては示さなかったが,保育者が子どもの個々の可能性に目を向けるのと同じように, 指導教員が学生の個々の可能性を発掘し,育てる力も必要であると実感している。特に,ピアノが苦手 で進度ノルマなどに追われている学生は,その欠点ばかりが浮き彫りになりがちであるが,そのような 学生の中には創作ミュージカル発表などの表現系の音楽科目において見事な演技を見せる学生もいる。 これは重要な発見であり,少しでもそのような可能性を見出せれば,ピアノ実技科目の中にも,もっと 別の視点でその学生の素晴らしさを引き出すような指導を組み込むことができるのではないだろうか。 筆者は 2017 年度,常葉大学保育学部保育学科に着任し,ピアノを専門とする教員としては初の専任 教員となった。本学部ではこれまで,ピアノ実技科目については明確な統括者がいないまま非常勤教員 のみで運営してきた歴史がある。統一シラバスは存在していたものの細かい指導方針は各教員に任され ており,実質は科目としてのディプロマ・ポリシーとカリキュラム・ポリシーはあいまいで一貫性を欠 いていた。しかし,この状況については決して否定的には捉えておらず,その中に新たな発見や収穫も あり,欠点を補いつつ利点を見極め引き継いでいくという姿勢で臨んでいる。現在,本学科のピアノ実 技科目を統括する立場として,先ずは本科目のディプロマ・ポリシーの再検討とそれに則したカリキュ ラム・ポリシーの再構築,そして科目としての存在意義についての見直しを急務として取り掛かってい る。今後は保育現場や他の研究機関との連携も図り,本学の問題のみならず我が国の次代を担うべき子 どもたちの感性を育むためのピアノの課題として取り組み,保育者養成課程のピアノ実技科目として本 来あるべき姿を探っていく所存である。 参考文献 1)安田寛・長尾智絵(2010)「保育におけるピアノの流行」と保育者養成機関ピアノ教員の関心の在 り方と関係について.奈良教育大学紀要.人文・社会科学 59(1).159-174 2)文部科学省(2017 告示)幼稚園教育要領 厚生労働省(2017 年告示)保育所保育指針 内閣府・文部科学省・厚生労働省(2017 告示)幼保連携型認定こども園教育・保育要領 3)出口雅生(2014)保育者養成課程における音楽科の教授に関する一考察.浦和大学・浦和短期大学
部浦和論叢.50.43-61