―も の づ く り と 文 化 行 政―
◎指導教員 吉村伸夫、柳原邦光 ◎所属学生 東 由佳、有吉章子、石川まり子、大原由佳、 大庭 剛、小谷麻偉子、才野あき子、白川まどか、 廣田真理子、福崎美紗子、山根隼人 (コース完了者 11 名) ◎調査テーマ Ⅰ.『鳥取県の諸職』(鳥取県教育委員会、1 985年)の追跡調査 Ⅱ.上記で調査されていない現役職人の聞き 取り調査 Ⅲ.地方自治体(地域)文化資産とそれを巡 る文化行政の実態調査テーマ設定とその目指したところについて
このプロジェクトは、人々が自らの地域をいかなる 文化的個性をもつものと捉えているかという問題意識 から始まった。この「文化的自己像」が適確に自覚さ れれば、外からやってくる人々への対応の仕方も自ず と変わってくるであろうし、物質的な満足とは異なる 意味での充実や豊かさを手に入れる可能性を拓くこと にもつながる、と考えるからである。これを究極的な 目標としつつ、今回の調査では、上記の3つを具体的 なテーマとして設定した。テーマⅠとⅡでは、「文化的 自己像」の原材料ともいうべき物作り文化や地域の歴 史的文化資産を掘り起こし評価することを目指した。 テーマⅢは、地域の文化資産がどのように活かされて いるのか、また、この観点から見たとき自治体の文化 行政はどのように評価できるのか、という問題である。 人が日常に覚える充実や満足は、今日の地域を考え る際、最も重要な視点のひとつであるが、それは、人々 の間に意識されることなく生きている諸々の規範がど の程度満たされるかにかかっている。意識されないの は、当人にとってあまりにも自明なことだからである。 しかしながら、この自明性が問題を生むこともある。 たとえば、地域の人々が好評価を期待して提供するも の(品物だけでなく、サービスや接し方も含まれる) ような経験が蓄積されると、人々は傷つき自らの文化 に自信と関心を失って、よそからやってきた人々に対 処することがいっそう困難になる。これは悪循環であ るが、このような事態は鳥取地域においても少なから ず確認できるのではないだろうか。 大学という場では、外からやって来て地域の規範を 自明とはしていない学生たちと、地域について彼らが 生み出す新鮮で貴重な評価を理論的に処理できる教員 とが、有機的に結びついている。したがって、上述の 事態を改善するために独自の有効な提言あるいは直接 的な寄与を行う可能性は、小さいものではない。必修 科目として設定された地域文化調査は、この可能性を 試行的に追求する好機と思われたため、一斑を組織す ることにした。このような目的意識のもとに作られた プログラムに参加した学生は、地域という単位で生活 の充実を作り出す人材となるために、きわめて多くを 学びうるはずである。今回、その期待はじゅうぶんに 満たされたと判断している。テーマ別報告
Ⅰ.鳥取県教育委員会編『鳥取県の諸職』
(1985年)の追跡調査
1980 年代には、伝統的技術の喪失が全国的に危機感 をもって語られるようになった。鳥取県も、県内にお ける物作りを主とした伝統技術の現状について、同様 の危機感を抱き、予備調査で現状把握に努めた結果、 想像以上の危機的状況を見いだした。このため、県教 育委員会(具体的には県立博物館)が文化庁の支援の もとに調査企画を立て、県を東部・中部・西部の三域 に分けた上で、151 の職について、組織的調査と記録 を行った。上記書は、その報告書として公刊されたも のである。上の図は、報告書(左下)と、作られた資 料の実物(上)、写真台帳(右下)を示している。県立 博物館資料室で撮影した。資料は完全に残っている。 次ページ冒頭の図は、各職を一ページにまとめた概括 表の見本である。 調査をもとにした展示が県立博物館で行われたが、 それ以降、膨大な資料は同館資料室に収蔵されたまま 20年を経て昨年に至った。調査当時の現状から、多く の職が短期間で絶えることが容易に予測されたはずだ が、追跡調査はいっさい行われていなかった。 物作り文化は、それが生きているときには、当事者 自身もたんなる世過ぎの業としか意識していないこと も多く、より効率的な生産法で作られ、機能的に優れ た面をもつ製品が普及すると、自然に消滅する傾向が ある。そうしたものが総体として地域の生活にその個 性としての彩りや奥行きを与えていたという事実は、 見逃されやすい。報告書作成の当時ひろく伝統技術の 消滅について抱かれていた危機感は、まさにそのこと の認識に基いたものだったはずだが、上記調査の追跡 調査が試みられなかったという事実からは、その危機 感自体が疑われる。現実に調査を担当された方のお話 を聞く機会があり、払われた努力が大変なものだった ことを知った。行政が行う文化関連事業には良質な監 視の目が必要だということだろう。 今年度は調査の可能性(取材当時の年齢からすでに 取材不可能と判断される事例や、絶えていることが分 かっている職種は除外した)や取材上の便宜から、東 部地域 65 職のうち以下の 1∼6、中部地区 37 職のうち 下記の 7 に調査対象を絞った。 1.踊り傘 2.麹屋 3.蒔絵師 4.製薬 5. 錺職 6.指物師 7.醤油屋 なお、取材のために設定した質問項目は次の通りであ る。 A 『諸職』調査の記載をどう思われるか? B 『諸職』調査以来、現在に至るまで(継続、転 業、廃業)の経緯 C 道具の変遷は?また、機械化された製作加工程は? D 業界としての現状および将来をどう思うか? E 当該業種・職種と現代社会の関わりをどう思う か? F 当該業種・職種から見える、鳥取という土地柄 (地域)はどうか?あるいは、業種・職種に限 らない、土地柄への思いでも。 G 転業・廃業の場合、当該業種への愛着はあるか? 地域文化として維持保存することについてどう 考えるか。 H 自由質問 以下ではまず、『鳥取県の諸職』に掲載された当該の概 括表を示し、次いで、調査を担当した学生のレポート を、担当者の撮影による写真を添えて示す。なお、取 材させて頂いた方々全員から、報告書への掲載とHP へのアップについて、ご了解を得ている。 (文責:吉村・柳原)1.踊り傘
前回取材時の概括表を示す。 今回の取材者:廣田真理子 取材日:2005 年 8 月 6 日午前 10:00∼10:30、 ・職種・業種 傘屋(踊り傘)、『諸職』での番号:1 ・住所 鳥取市行徳 2-432 ・『諸職』における被取材者 株本由治氏 ・今回調査の取材対象者 株本覚氏 ・当該住所の現況 現営業 A: 一部違う。「傘紙は、青谷町山根などから仕 入れたが、現在は大阪から」とあるが、ずっと 青谷町の因州和紙を仕入れている。 B: 今回調査の取材対象者の株本覚さんは、『諸職』 における被取材者である株本由治さんのお孫さん。 就職難の時期で、家業手伝いから家業をついだ。株 本由治さんは昭和 63 年に亡くなられた。20 年前は、 呼称は「株本商店」であったが、平成 2 年(1990)に 竹扇堂へ変更した。株本商店の頃は、由治さんと覚 さんで傘を作っていたが、由治さんが亡くなってか らは、かつての由治さんのお弟子さんなどに一部は 頼んでいる。 C : 道具は継続使用。おじいさんの代から使ってい たものである。製作加工工程の②節削りと③ロクロ 仕込みは機械化された。機械化と手作業ではだいぶ 時間が違う。 D: 商売でやっているのはここだけ。淀江町で公民 館活動の一環として、技術保存を目的として作って いる。生活ができれば続けるが、将来的にはどうな るかわからない。商品の多くは日本舞踊をしている 方に納めている。日本全国各地に出荷している。約 7割は県外のお客さん。 E:しゃんしゃん祭りは浴衣を着、傘を持って踊る、 変わった祭。大事にしていかなければならない。鳥 取市内の保育園の 8 割は傘踊りをする。市内の小学 校はほとんど運動会で踊る。踊っている中学校も数 は少ないがある。踊っている高校はないが、敬老会 も踊っている。しゃんしゃん祭りの傘踊りは、しゃ んしゃん祭りを始められた時の市長が、誰でも親し める踊りにと踊りを簡素化した。保存会の踊りは難 しい。 1-F : しゃんしゃん祭りは規模が小さくなることは あっても、絶えることは無いだろう。市をあげての 最大年中行事であるから。しゃんしゃん祭りは地域 おこしである。昔は鳥取祭りが行なわれていた。 1-G : 小さい時から仕事を見て育ってきている ので、愛着はある。技術の維持保存というより は、職業としてやっている。県が人材育成のた めの補助金を出している。傘だけでは生活が難し い。提灯や扇子も作っている。提灯は由治さんの代 から作っていて、当時は専門の職人さんがいた。そ の人が亡くなってからは、外の職人さんと契約して維持している。扇子は、踊りの先生の依頼で販売し 始めた。デザインはこちらで考えて、京都の職人さ んに作ってもらっている。 H ①普通の傘を作っていた時期もあったか?: 昔 は竹の番傘などの和傘が傘の主流であり、それと踊 り傘の両方作っていた。踊り傘専門になったのは 1970年くらいから。しゃんしゃん祭りが始まった時 くらいから。 ②お弟子さんはいつ頃くらいまでいたのか?:傘の主 流が和傘から洋傘になった時点で弟子はいなくなっ た。
2.麹 屋
前回取材時の概括表を示す。 『鳥取県の諸職』追跡調査では、指導教員も取材を担 当したが、吉村と柳原は、江戸時代から続く麹屋「幾 代屋」を、 取材対象に 選定した。 予備的 取 材で、すで に廃業され たことを知 ったが、そ の事情自体が戦後の鳥取市での商業地区の盛衰を知る 手がかりになると思われたので、2005 年 8 月 26 日、 ご快諾を得て、二名で旧店舗兼幾代家ご自宅を訪問し た。 この取材訪問では、はからずも、『鳥取県の諸職』の 問題点の一端が浮かび上がった。幾代家当主の清一郎 氏ご自身が、「うちは廃業したが、麹製造業者はまだ2 軒、市内で操業している」と言われたのである。それ では、まもなく廃業することが調査当時に予想された はずのこの業者が、なぜ取材対象に選定されたのだろ う?幾代屋の廃業で鳥取に現役の麹製造業者はなくな ったと思いこんだ我々にも問題はあるが、調査の意義 を考えるなら、問題なしとはしない。 こういう事情のため、幾代屋の現在の姿を示す写真 の一部を示すに留める。麹製造や醤油貯蔵の施設など は、左の写真に見える正面奥の広大な空間に、ほぼそ のまま残されており、文化財としての価値もあると思 われる。 川端地区の盛衰のありさまなど、貴重なお話を聞くこ とができ、取材自体はじつに興味深かったが、この報 告の趣旨からははずれるので、その部分は割愛する。 上の写真は、住居区画の奥にある藏に残る巨大な醤油 樽、下は麹の製造に使用したムロである。4.蒔絵師
前回調査時の概括表を示す。 取材者:東 由佳 取材日:2005年8月26日 職種・業種:蒔絵師 『諸職』における番号:4 住所と氏名:鳥取市吉岡温泉町796 田中正輝(タ ナカ マサテル)氏 住居と作業所が同一建物内。今も、大々的にではない が蒔絵を続けておられる。(今回取材に応じて下さった 蒔絵師は、この概括表でも答えておられるご当人であ る。) A : どうとも思わない。 B: 継続している。 D: 鳥取県外の職人とは交流が無いのでなんともい えないが、鳥取では自分を最後にこの職種がなくなっ てしまうので残念だが、仕方が無い。 E: 昔とはお金の使い方が変わったし、現代社会で はこの職種では食べていけないだろう。 F: 鳥取は池田藩があったので昔は塗物師もたくさ んいた。だが、輪島や山中、東北のほうの塗り物の産 地よりは仕事もしにくいし、生活もしづらい。 G: 蒔絵が自分の代で終わってしまうのは残念だが、 息子は自分のやりたいことがほかにあったし、その他 の弟子も取っていないので仕方ない。自分の作った作 品は家族に残したいというのもあるが、県立博物館に 寄付し、永久とまでは行かなくとも、できるだけ長い 間保存していくつもりである。 H:「この職に就いたきっかけは?」 明治時代には鳥 取県は郡制で、吉岡のあたりは気高郡であった。気高 郡の郡長は文化産業の分野に熱心な人で、吉岡のあた りに工芸を学べる学校を設立していた。その学校の校 長が東京の工芸学校で蒔絵を習って帰ってきた人で、 父はそこで 3 年間蒔絵を習ったあと石川の山中で修行 し、鳥取に帰ってきて蒔絵師として働き始めた。一緒 に蒔絵を習った人は 7∼8 人いたが、工芸学校を卒業し た後修行に出た先に地付いたりして鳥取に帰ってくる 人は少なかった。自分は絵を描くことが好きだったの で、小学校卒業後、先輩の誘いもあり大阪の芸術学校 へ行きたいと希望したが長男だったので父に許しても らえず、家業を継ぐことになった。当時は下請けの会 社があり、はじめは 1 日に何枚も菓子皿に絵をつけた りして、父のもとで修行した。そのような修行を 5∼6 年行い、1 人前になるには 10 年以上かかった。 「過去と現在の仕事内容の違いは?」 昔は日用品と して漆器を使っていたので、お椀や菓子皿、抹茶の粉 を入れる容器などに絵をつけていたが、それらは製作に時間もかかる上値段も高いので、今は仏壇に貼る家 紋などを主に描いている。また以前は会社もあったの で仕事は会社を通してきたが、今は個人的に頼まれる ことが多い。また蒔絵は筆で描いているが、現在では 機械で絵を付けたり、絵をそのまま貼り付けたりする 製法もあり、そのほうが素人目にはきれいに見えるの で、手工芸はおされ気味である。 「息子さんは蒔絵を継がれなかったということだが、 ほかにお弟子さんはおられないのか?」 いない。息 子には大学進学の際に蒔絵を継いでくれるように話し たが、本人の鳥取大学の工学部へ行きたいという気持 ちが強く、本人の意思を尊重することにした。ほかに 自分には兄弟が男女合わせて 10 人いるが自分以外に は誰も蒔絵を習っていない。 「鳥取県内で蒔絵をされているのは、お 1 人だけか?」 以前は何人かいたが、いまは自分ひとりである。島根 のほうには自分とは違う方法で蒔絵をやる人が何人か いるようだ。器に漆を塗る塗物師 5∼6 人に対して蒔絵 師が 1 人といった割合なので、全国的にも蒔絵を専門 でやる人は少ないのではないだろうか?このあたりに も塗物と両方やる人が 1 人いたが、専門でやっていた のは自分ひとりだった。 「値段は?」 抹茶を入れる容器でだいたい 30 万円ほ ど。依頼を受けてできあがるまで 2∼3 ヶ月かかる。現 在主に作っている直径 5 センチほどの家紋で 3 千円ほ ど。家紋でも額縁に入れるような大きなものは万単位 になってくる。 「絵柄には何か意味合いがあるのか?」 鶴などは正 月などのおめでたい席用に。つくしは春用、朝顔は夏 用、秋用の秋草のものは蓋の内側に鈴虫の絵をつけた りする。季節と植物や動物などをあわせて播く。そこ に貝や金粉などを一枚一枚貼り付けていく。細かい金 粉などを蒔くので蒔絵という名前がついている。 「その他」 今年の 2 月 1 日に伝統工芸師の認定を県 から受けている。
4.製 薬
前回取材時の概括表を示す。 取材者:福崎美紗子、才野あき子 取材日:2005 年 8 月 25 日 職種・業種:製薬 『諸職』における番号:5 住所:鳥取県鳥取市覚寺 610 『諸職』における被取材者:門脇小太郎氏 今回の取材対象者:門脇小太郎氏のご子息 上の写真は、当該住所の現況 『諸職』が書かれてからの 20 年間で、工程・用具な ど、特に変わったことはなく、打身丸薬・指薬煎薬共 に『諸職』に記載された素材・作り方のままである。専業ではなく、農業との副業として経営。薬事法によ ると、個人で製造・販売の許可を受けている者はその 人限りに許可されるものであり、そのため、跡を継ぐ 方も新たに許可を得ることが必要となる。しかしなが ら、薬事法で許可を取るとなると、かなりの実例を集 め、また、人体実験等をして申請しなければならず、 非常に手間がかかる。そのため、跡を継ぐことは困難 な状態である。現在は一代目である小太郎氏がおられ るため続けていけるという状態。 打身丸薬:100 年以上前から作られてきたもの。『諸職』 に記載されている、「門脇家の先祖長左衛門が摩尼寺の 本尊帝釈天から夢のお告げによって」という部分はお そらく作り話。本当のところは、諸国を回っていた尼 さんが摩尼山の寺に訪れた際病に倒れたところを助け、 その際に家伝薬を教えてくれたのが始まりだと思われ る。そのため、尼の墓を祀ってある。 酒で飲むのは、血行を良くして効果を上げるため。 便秘に効果もあるとか(もちろん個人で効き目は違う)。 指薬煎薬:戦後 30 年ごろまでは別の人が作っていた もの。その人が歳をとったこと、また、厚生省の薬剤 師法で薬剤師が必要になったが、そういったものを雇 うことは出来なかったということで、門前堂薬舗に引 き継がれた。 特に指だけというわけではなく、他の部分の傷にも 使用する。昔は殿様が鷹狩りで指を怪我した時によく 使われていた。深い傷ほど薬が浸透するため、良く効 く。昔は煤とクロモジ(煎じる)とDカンフルを使っ ていたが、かまどの煤は厚生省の許可が通らなくなっ たため、今は薬用炭を使っている。クロモジは独特の 香りがあり、胃腸に効く。使い方は液を温めて、湿布 として使用する。 包装は手作業だが、他は機械で製造している。製造 は決まった時期にまとめて行っている。トウニン・ダ イオウなどの原料は大阪の問屋から粉にしたものを取 り寄せている。注文数はだんだん減少しており、バブ ル期に比べると大分少なくなった。鳥取においては市 内の薬局で購入可能。また、鳥取以外からでも直接注 文が来る。インターネットでの販売はしていない。 鳥取県製薬協会について:昔は多くの家伝薬を製造し ていた薬局薬店が加入していたが、次々に製造を中止 し、現在ではこの門前堂薬舗だけになってしまった。 A:書かれていることは事実である。しかし、先述し たように、『諸職』の中にある「門脇家の先祖長左衛門 が摩尼寺の本尊帝釈天から夢のお告げによって」とい う部分はおそらく作り話。 B:『諸職』が書かれてからの 20 年間で特に変わった ことはない。 C:転業・廃業していないため 20 年前と変わらない 保存保管状況である。 D(E):国は大きな会社を基準に規則を作っており、 小規模業者には守るのが難しい点がある。近年、製造 と販売は別という考え方をしており、それぞれに許可 が必要である。新薬では副作用の問題などが起きてい るが、昔からの家伝薬の場合、副作用はほとんどない のではないか。 F:鳥取で漢方薬を作る所は一軒しかない。それを残 していくということで県も努力はしてくれているが、 何しろ法律が厳しいためなかなか難しいという。原料 は主として大阪から仕入れている。 G:愛着はあるが、続けられないということも仕方の ないこと。 H:「職人であるという意識はあるか」 ⇒ まった くそういった意識はない。 「今回のように諸職を記録していくことに対してどう 思われるか」 ⇒ 記録していってはほしい。
5.錺 職
前回取材時の概括表 取材者:大原由佳 取材日:2005 年 8 月 25 日 職種・業種:飾職 『諸職』における番号:7 住所:川端 2 丁目 102 諸職における取材対象者:恵比木寿輝氏(文字判読が 難しいので間違っているかもしれない) 今回取材対象者:恵比木尊夫氏 当該住所の現況:転業(貴金属店経営) 『鳥取の諸職』調査時点で、彫金は廃絶し、貴金属店 を営んでいる、とあったが、現在も同じ住所で「貴金 属店エビキ」を経営されていた。 同店では現在、指輪等の装身具を手作り・販売され ている。また修理等も請け負っている。転業の理由は 鳥取大火による道具の消失と、需要の激減。昭和 30 年ごろから装身具づくりに転向。同店で販売している のはその作品。メッキは無理だが 18 金やプラチナの修 理も請け負うそうだ。修理に出されたという指輪を見 せていただいた。それも数十年前にこの店で販売した ものだそうである。 彫金の需要は鳥取だから少ないと言うわけではなく、 時代の流れだとおっしゃっていた。現在の需要として は、機械による大量生産ではなく、手作りなので大都 市には流れにくく、よってこんなもんだろう、といっ た印象を受ける。東京や大阪の機械生産ではないから、 ということを主張しておられた。 最初に取材を申し入れたときにおっしゃったのは 「昔のことは全部かつて取材されたものに載っている、 語ることはもうない」という内容のこと。実際、『諸職』 以前と以後でも同じ仕事をなさっていたのであまり変 化はないようだ。『稲葉の栞』に記載されている作品は いくつかお持ちのようである。また、彫金と現在の装 身具製作は完全に違う仕事であり、例えるなら「大工 と左官」のように昔から住み分けてきたものだとか。 装身具製作に転向されて 40 年以上が経過しており、 仕事がなくなったことに関してもとてもドライな印象 を受ける。転職されたことに関しても「大火のせい」 の一言だけ。寂しいとかもったいない、という感想以 前に仕方ない、という潔いほどの諦めを見たように思 う。 また、『稲葉の栞』だが、県立図書館に現存しないと 言われ、調べることが出来なかった。エビキ貴金属店 で所蔵しているものを見せていただく。何点か作品が 載っていた。6.指 物 師(桐 箱)
前回取材時の概括表を示す。取材者:大庭 剛 取材日 2005 年 8 月 26 日 『諸職』における番号:13 話者:田中博文氏 1949 年生まれ 現在も『諸職』の調査時と同じ場所で存続。指物師 の職も継続中。話者は現在 56 歳で祖父から続く「田中 峰月」の名を継承する三代目。次の伝承者にあたる人 物は現在いない。『諸職』調査の記載については、「調 査当時のことはよく覚えていないが、この取材のとき のものではないか」と昭和 50 年 6 月 1 日発行の『とっ とり市報』に掲載された記事を見せてくださった(右 下の図)。なお、当時のままの『とっとり市報』を資料 として頂戴した。指物師をはじめとする『諸職』掲載 の職業はみな手仕事であり、失われつつあるため、『諸 職』のような資料は残っていてほしいと言っておられ た。 玄関には「峰月」の表札と、「峰月堂 桐箱」と書か れたポストがあるが、一見普通の民家である。しかし、 玄関を入ってすぐにある仕事場は『諸職』調査以前の、 いまから 30 年前の写真からほぼ変わっていない。指物 師は茶道のなかにある「千家十職」の 1 つに数えられ る職業で、現在も茶道に使用する棚物・小道具類を主 に製作している。製作するものは茶道の流派によって 形も様式も異なる。製作に使用する道具の種類は当時 と変わらない。鋸は目立てを依頼することもあるが、 ほとんどの道具は本人が手入れをしている。昔は祖父 の弟子 2~3 人が県内で指物師として独立し、店を構え ていたが、30 年前からすでに指物師の店は峰月堂一軒 のみとなり、現在もそのままである。同業者の交流と いうものはない。 指物師の存続については「指物師という職業も他の 手仕事の職業と同様、大量生産の波に押しやられ、現 代社会に合わないものになっている」、「市なり県なり が、これらの職業の保存に努めるようになって欲しい」、 と言っておられた。
7.醤油造り
前回取材時の概括表を示す。 取材者:山根隼人 取材日:2005 年 8 月 4 日 『諸職』における番号:68 住所:倉吉市東仲町2591 『諸職』における被取材者:桑田忠之助氏 今回の取材対象者:桑田東之夫氏(忠之助氏のご子息) 当該住所の現況:現営業 A:『諸職』には、存在しているが調査されていないも のもあり、鳥取県の諸職を把握できていない。B:『諸職』調査から現在に至るまでの経緯 伝承者も 変わり、製作加工も、①∼③までは、専門の業者さん にやってもらっている。それ以降の工程を店でしてい る。製作過程で 1 年寝かすということがあり、採算が 合わない。〔『諸職』に記載された製作加工工程:①材 料作り(大羽釜にコシキをのせた蒸煮器で大豆を蒸し、 機械でつぶす。麦を煎り、割砕機で割る)。②麹作り(つ ぶした大豆に割った麦を混ぜあわせ、麹蓋に入れて室 に 3 日間入れる。③仕込み(塩水を仕込みタンクに入れ、 麹を加える。製品により、1 年または、2 年間仕込む。 その間何度かカイでまぜる)。④しぼり(しぼり袋にモ ロミを入れ、フネに並べる。上から重しをかけてしぼ る。しぼった後、火入れ釜に入れ、83℃∼85℃まで温 度を上げる)。⑤瓶詰め。〕 C:今も使っているし、保管もされている。 D:インターネットの注文販売も受けつけ、需要は全 国にある。中部の需要もあり、観光の土産としてもあ る。大量生産で薄利多売の大手企業とは違った味で勝 負している。食生活の変化(出来合い食の増加、和食 から洋食への流れなど)による需要の減少で、後継者 の問題はある。伝承者も少なくなり、全国的にも生産 は減っているが、日本食がある限り、無くなることは ないだろう。 F:特に土地柄などが見えるわけではないが、130 年 やっているので、需要者との付き合いはある。 G:『諸職』調査時よりは、だいぶ同業者が減っており、 伝統のあるところしか残っていない。時代の流れで変 わってしまった。なお、醤油や酒造りは、大地主が余 った大豆や小麦、米などで何か商売をしようと思った のがきっかけである。ちなみに、鳥取市にも醤油作り がある。
Ⅱ.現 代 の 職 人
1.糸鋸工芸
取材者:大庭 剛 話者:荻原 克明氏(昭和 18 年 11 月 1 日生まれ) 呼称:荻原工房 総観 ・糸鋸工芸を始める以前は国鉄に勤務。はじめは友人 からの依頼に応じるなど、趣味の範囲で作っていた。 公募展に出品した作品が入選して、名前が知られ仕事 の依頼なども増えたため、国鉄を辞めてこの世界に入 った。当初は竹を使う作品を作っていたが、竹では作 品の大きさなど制約があったため、現在は木材を使っ ている。 ・素材 ケヤキ、ブナ、スギ、ヒノキ等。基本は材木屋から 購入。木は種類・堅さ・木目・色など作品に適した ものを選ぶ。針葉樹は国産のものを使うが、特定の 産地、ブランドにはこだわらない。 ・製作加工工程(文字根付) ①木材の表面をカンナがけする。②作品の寸法に合わ せて切り出す。③作る文字の型紙を貼り付ける。④ 糸鋸を使って文字の形に切り出す。⑤文字の表裏を ヤスリがけして丸みをつける。⑥納得いくまで表面 を整えた後、紐を通して完成。 ・製作加工用具 電動糸鋸・ドリル(ボール盤)・ベルトサンダー・カ ンナ・紙ヤスリ。作業をやりやすくするための治具。 ・製作加工施設 工房。付近に民家があるので換気・音に気をつけて いる。・製品 主な製品は文字型の根付。連なった文字を一枚の木 で作る「寿限無」。その他は依頼に応じてテーブルな どを作る。また、作品には分類しないが子どものた めの木のおもちや製作キットなども作っている。 ・職能・組織 技術は全て独学。全工程を 1 人で製作する。この仕 事を始めて、今年(2005 年現在)で 35 年になる。 後継者はなし。同業者組合はなし。工業製品ではな く、あくまで個人のできる範囲で製作していく。 ・職人の生活 趣味を仕事にしているため、基本的に一日中仕事で、 決まった仕事時間・休日はなし。友人からの誘いな どがあれば手を休める。特定の休日は元日のみ。 ・その他 著書に、“子どもとつくる”シリーズ 8 『竹で作る』 (大月書店)がある。
2.ピアノ調律師
話者: 山本美代司氏 調査担当者: 有吉章子 調査目時:2005 年 8 月 8 目、午後 7:00∼11:00 ・取材状況 吉村先生のご紹介によった。先生から連絡先を教え ていただいて山本さんに取材日時の調整をしていた だいた。そして、8 月 8 目に湖山町内のお客様のお 宅で、購入されたグランドピアノを搬入して調律す る現場を取材させていただいた。 ・調律師の仕事 一般に調律師は、ピアノがあるところに行って仕事 をする。しかし今回はお客様の諸事情により、ピア ノを部屋に運び込み、足やペダルなどを付けるとこ ろから始めた。グランドピアノの裏側にあるねじな どは、年数が経つと赤錆が出るので、それを防ぐた め、新品の時から塗料を塗って錆を防いでおられた。 一般の調律師はこういったことをやろうとする気が ないとか。山本さんは「いざ調律をするところまで が大変だ」とおっしゃっていた。調律師の方はよく、 ピアノを調律した後にピアノを弾いてから帰る。私 の実家でも、ピアノを調律してもらったあとも、調 律師さんは調律し終わったピアノで 1 曲弾いて帰る。 しかし山本さんはピアノを弾けないそうで、曲を弾 いて帰る代わりに、ピアノをぴかぴかにすることを 心がけている。 ピアノの販売も仕事だそうだ。山本さんは「ピアノ ではなく、いい音を売る」と言われたが、これがと ても印象的だった。また、ピアノの状態が悪くなっ てから修理代金を貰うのではなく、悪くならないよ うに作業を進めるという考えかただとか。 ・山本さんについて 上でも述べたように、山本さんはピアノをやってい て調律師になろうと思ったわけではない。しかし音 楽はずっと好きで、ドラムをやっていた。幼少期は 貧しかったため、毎日働いたりして生活をしていた。 夏休みなども仕事を手伝っていたため、遊べなかっ た。そのご褒美として親にお金をもらい、ほしかっ たドラムセットを小学校 6 年生の時に買った。高校 進学も、自分のバイトでまかなった。その時お世話 になった方のところに調律師として行ったことがあ ったが、何も知らずに行ったので驚いたし、嬉しか った。 高校卒業後、警備会社で警備員の仕事をしていた。 危険が伴ううえに夜の仕事だったので、他の仕事を 探し始めが、新聞で見て目についたのが、カワイ楽 器の商品課だった。すぐ応募して、合格。仕事は運 送で、グランドピアノなどはもちろんオルガンなど も運んだのが、現在役立っている。その仕事をして いたとき、調律師の方が偶然、山本さんにちょっと やってみろと遊びで言い、山本さんがやってみたら できてしまった。それで、調律の学校を受けてみよ うと思った。 会社にだまって受けたのが発覚し、運送の人間の くせになどと上司に言われた。無理矢理落とされそ うになったが、味方をしてくれた方もいてなんとか 入学し、調律師になる勉強を始めた。昭和 56 年、22 歳ではれて調律師となった。 ・ピアノの需要について 昭和 52 年、53 年頃がもっともピアノが売れた時期 で、20 万台ほども売れていた。現在も売る人によっ たりもするが、ピアノは売れている。しかし数字的に見るとカワイ楽器、ヤマハ楽器あわせても 3 万 6 千台と減少している。それは、電子ピアノや中古の ものがよく売れていることが関係している。 ・以前と比べて思うこと 運送業をしていたときのことはもちろん、子どもの 頃のことなどさまざまな経験が今に役立っており、 そのおかげで今があると思う。また、以前よりもピ アノを習う人の幅が広がったと思う。以前はピアノ を習い始めるのは子どもがほとんどだったが、現在 は大人になってピアノを始める人も増えている。 山本さんの仕事の場は鳥取に限らず、私がお話に 聞いただけでも、兵庫、岡山、東京、栃木など、本 当に日本中で仕事をされているようだ。
Ⅲ. 自 治 体 現 地 調 査
(1.智頭町 2.八頭町)
この活動においては、鳥取地域の自治体現地に行き、 行政が地域の何を文化資産と認識しどう扱っているの かを、知ろうとした。訪問前にはかならず学生が分担 して、その自治体について予備調査と発表を行ってい る。文化資産をたんに観光資源として見るのではなく、 地域の人々の文化的自己像との関わりで理解すること にも関心があったが、観光資源としての活用のされ方 に注意が偏ったことは、否定できない。 智頭町を二度、八頭町を一度訪問調査したが、八頭 町と二度目の智頭町は、鳥取県八頭総合事務所が企画 した「八頭郡内歴史的・文化的資産活用研究会」に連 携参加して、行われたものである。この事業は県の 2006年度予算にも入っており、大学と県の連携の新し い形態として、画期的な意義がある。なお、二度目の 智頭町調査は試験期間も終わった後で正規の授業とい う位置づけが難しく、時間的余裕もないため、割愛す るが、きわめて内容豊かであった。また1も2も、こ のような小冊子に紹介しきれる内容ではないため、こ こにでは概要と一部画像資料の紹介のみにとどめざる をえない。詳しい内容は、吉村のHP(学科HP内に 開いている)で見ることができる。1.智 頭 町
兵庫県との県境にある智頭町(国道 53 号と智頭急行が 通る)を、2005 年 7 月 16 日に訪問した。 智頭町は非常に古い歴史をもつばかりでなく、江戸 時代から昭和初期まで、宿場町や林業拠点として栄え た。しかし近年は、少なくとも物質的側面において、 町全体が栄えているとは言い難い。訪問に際しての 我々の関心は、ありあまるほどの文化資産が地域振興 にどう活かされているのか(あるいは、どう活かし損 ねているのか)だった。当日の朝、智頭急行で智頭駅に着き、駅前総合案内 所二階の大会議室で、町史編纂を手がけられた歴史家 村尾氏から、縄文時代にさかのぼる町の歴史を講義し ていただいた(上の写真)。地域には歴史に根ざした文 化的個性があることが実感できる、興味深い内容だっ た。そののち、町役場の長石氏と酒本氏のご案内で町 内を徒歩で移動しつつ、町が観光などによる地域振興 のための資産として意識している施設などを、見てま わった。 「木の香り工房」では、キューポラ内に枝付きの杉の 大木が立ててあり、見上げると、突きだした枝から木 彫りの鳥たちが見下ろしている。基本的に塗料を用い ない仕事をしているため、工場に入ると、たしかに木 の香りだけがする。しかし、かならずしも繁盛してい るとは言い難いうえ、あきらかに観光を意識した作り でありながら、客の誘導策もなさそうである。現状で は、町の振興に有用とは見えない。 「諏訪酒造」は全国的に有名だが、智頭町でも、ここ と石谷家住宅には、十分な意欲とある程度のにぎわい があった。諏訪酒造に開かれた梶屋という食事処では、 おつゆに酒粕を利用したうどんを出すなど、こだわり が感じられたし、非常に美味でもあったが、二度目の 訪問で、鵬という大吟醸酒―これは諏訪酒造から始ま ったものという―の酒粕を用いていると知った。なぜ、 それをもっと言わないのだろうか。このうどんを駅で 売れば、駅から蔵への流れを作るなど、町おこしに使 える気がする。 「風人洞(ふうじんどう)」は、江戸時代の民家に手 を入れて、大阪の陶芸家が開いたギャラリーである。 意欲的に運営されているが、これも外部訪問者の安定 的獲得は困難だろうと直観される。智頭駅からにせよ、 観光駐車場で一端休止する長距離バスからにせよ、こ のギャラリーを含めた町中施設に人の流れを誘導する 策が、まず必要だろう。 「石谷家」の贅沢さはたしかに驚きだが、あらゆる文 化的観光施設と同様、文化資産としての価値を伝える ガイドで、来場者の満足度と評価がきまってしまう。 上質なガイドを一定数以上養成することが重要である。 この日のガイドさんはすばらしかったが、つねにそう でもないことを、何度か訪問した者は知っている。ま た、このタイプの施設は、ガイドがよくても、リピー ターを作ることが難しい。一度見ればじゅうぶんとい うのが正直なところだから、それをどう突破するかが、 問題になる。 役所と様々な人々が、文化資産による町の振興のため に尽力しておられることは、よく分かった。だが、駅 前や「木の香り工房」の様子がよく示しているように、 人の流れをどう作りだすかに焦点を当てて知恵を絞る 必要があるのではないか。(文責:吉村・柳原)
2.八 頭 町
第二回の自治体現地調査は、鳥取県八頭総合事務 所が企画した「第二回旧八頭郡内歴史的・文化的資産 活用研究会(八頭町編)」に、吉村・柳原班が連携参加 して実現した。きっかけは、この企画の第一回目であ る若桜町編に吉村が招かれて参加したことで、今回か ら新鮮な目をもつ学生を参加させることになった。学 生たちの意見や感想を行政の参考にする必要上、教員 サイドで緻密な評価シートを作り、学生たちはそれに よって評価を行った。これを教員サイドで集めて整理したものを八頭総合事務所に渡し、事務所から町にも 渡されている。上は、当日八頭総合事務所敷地内での 出発式の様子(挨拶は八頭町長)。 学生たちは、上記評価シートとは別に、HP形式の ファイル(html)によるレポートを作成・提出するこ とになっていた。提出されたものは吉村がフレームメ ニューで容易に閲覧できるHPサイトの形にまとめ、 これも総合事務所に提出した。総合事務所はそれを冊 子にして公開・配布したので、非常に広い範囲の目に、 調査成果が触れたことになる。また、1月末に県民文 化会館第一会議室で行われた、学科としての地域文化 調査発表会でも、この部分の発表はHPを投射する形 式で行われた。成果の公開や利用を考える場合、ひと つの有効なアイデアだと考えている。一般公開用にす こしあらためた上で、吉村のHPで公開する予定であ る。 八頭町は、旧船岡町・郡家町・八東町の三町が合併 して、平成 17 年 4 月に誕生した。異様に広大な町域に 歴史的いわれのある文化資産が散在しているため、ハ ードなスケジュールで多くの場所を駆けめぐった。列 挙すれば、午前中に 1.青龍寺 2.土師百井廃寺跡 3.因久山焼窯元 4. 舟川 を回り、旧船岡町の「竹林公園」で昼食の後、午後に は 5.能引寺 6.大イチョウ 7.安藤井手 8. 矢 部 家 住 宅 を周って、そののち、八頭町役場幹部も交えて意見交 換会を行った。 先にも言ったように、学生のレポートは、調査箇所 を設定項目ごとに評価したシートをもとに書かれたた め、このような報告書にそのまま掲載することはでき ない。学生から意見として出されたものをまとめると、 大略つぎのようになる。 虎御前の伝説や大量の一字経(小さな平たい石にお経 の一文字を書いたもの:下の写真)が残る能引寺など、 観光にも可能性が感じられる文化資産と言えるものは 少なくないが、それらが効果的に活用されているとは 言えない。例えば、今回訪問した文化遺産のほとんど へは、車でなければ移動できない。また、価値は大き くても、誘導表示がどれも不十分であり、一般の訪問 者を満足させるためのビジュアルな工夫もない。こう いった面では、どれも今ひとつである。矢部家住宅の ように、観光パンフレットの紹介は常時無条件公開の 印象を与えるが、実際は家族の生活の場であって、こ とに内部を見るのは容易でなく、説明も、たとえば都 会からの観光者に好印象を与えるとは思えないものだ った(これはまずいのではないかという指摘が、意見 交換会でも学生からあった)。ただし、地域の人々が誇 りあるいは安らぎの源としているのであれば、無理に 観光開発しなくてもよいのではないか、という意見も、 もはや往時の姿を偲ぶべくもない安藤井手(上の写 真)や船川については、多く出ていた。一部の学生は、 青龍寺もそれでよいのではないか、という感想をもっ ていた。 昼食をとった竹林公園に、いくら週日とはいえまっ たく人気がなかった異様さも、指摘する学生が多かっ た。維持費用についての懸念や、そこで出された食事 の質についての苦情も出た。舞台になる立派な施設が あることには多くの学生が注目し、人の流れを作るた めに活用すべきだという意見が多かった。キャンプ場 についても同様である。あたりには温泉や散歩に適し た懐かしさ溢れる小道(船川あたり)もあるのだから、 それらを楽しむ拠点としては、という意見もあった。 企画した側は公園を評価対象と考えていなかったよう だが、学生たちは自治体の文化行政を見ようとしてい たのだから、文化施設としての公園を当然のごとく評 価対象としたのは、指導者としては、嬉しいことであ
る。ただし、次回からはこの点について企画者側との 打ち合わせが必要だろうと感じた。 また、花御所柿の道並み(下の写真)など、学生や教 師はじつに素晴らしい観光資源だと感じたが、地元の 人々にはその意識がないようだった。景観も環境文化の 一部であるなら、客観的にその価値があるものを掘り起 こすところから始める必要がある、と感じられた。文化 による町づくりは観光ばかりを指すのではないが、地域 外からやってきた人々に自分の地域の文化遺産を高く 評価してもらえることは、地域特有の文化を守り、育む 一番のきっかけであるだろう。(文責:吉村・柳原)