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246 オ原本において 挿入記号を以て文字を補った部分や 文脈上本文に挿入すべき傍書は すべて本文に入れ込んだ カ頭書および裏書は その位置にもっとも近い本文の文字に*記号(裏書は**記号)を付し 日付ごとに本文の末尾に移した キ底本とする自筆本は 正和二年具注暦(上下二巻 間明き三行)に記入したも

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(1)

『花園天皇日記

(花園院宸記)

』正和二年四月記

―訓読と注釈―

花園天皇日記研究会編

例   言 一、 本 稿 は、 花 園 天 皇( 永 仁 五 年〔 一 二 九 七 〕 ~ 貞 和 四 年・ 正 平 三 年〔 一 三 四 八 〕。 以 下、 花 園 と 略 す ) の 日 記 で あ る『 花 園 天 皇 日 記( 花 園 院 宸 記 )』 正 和 二 年( 一 三 一 三 ) 四 月 記 の 本 文 に つ い て、 訓 読・ 注 釈 を 加 え た も の で あ る。 一、日記本文の形式は以下の通りである。 ア   宮内庁書陵部編『花園院宸記   巻六』 (思文閣出版、一九九四年)の自筆本コロタイプ複製(便利堂製造)を 底 本 と し た。 な お、 翻 印 に あ た っ て は、 村 田 正 志 校 訂『 史 料 纂 集   花 園 天 皇 宸 記   一 』( 続 群 書 類 従 完 成 会、 一九八二年)およびコロタイプ複製の付録釈文を参照した。 イ   字体は、原則として常用漢字を用いた。 ウ   私意を以て句点(。) ・読点(、) ・並列点(・) ・返り点を付し、くりかえし記号は「々」を以て示した。 エ   塗抹による判読不能の文字は、 記号を以て示し、抹消された文字は、左傍に 〻 記号を付した。また文字の 上に重ねて別の文字を書いた箇所は、後に書かれた文字の右傍に傍点を付し、訂正前の文字を左傍の〔   〕 記号の中に × を冠して注した。

(2)

オ   原本において、挿入記号を以て文字を補った部分や、文脈上本文に挿入すべき傍書は、すべて本文に入れ込 んだ。 カ   頭書および裏書は、その位置にもっとも近い本文の文字に*記号(裏書は**記号)を付し、日付ごとに本 文の末尾に移した。 キ   底本とする自筆本は、正和二年具注暦(上下二巻、間明き三行)に記入したものであるが、本稿では日記の 本文を具注暦より分かち、便宜上本文には〔四月小建 丁 巳 〕〔一日、辛酉、 〕のように、日とその干支を加えた。 ク   文字に関わる注は〔   〕記号、参考・説明にわたる注は(   )記号を以て示した。 ケ   一部の人名に付した注は、新訂増補国史大系『公卿補任』を参照し、便宜上、後世の家名を記したものがあ る。 コ   記事を検出しやすくするため、日付については、ゴシック体を使用した。 一、訓読は、本文の抹消・訂正等を反映させた上で、本文に付した返り点に添って行い、内容に応じて改行した。ま た、 村 田 正 志『 和 訳   花 園 天 皇 宸 記   一 』( 続 群 書 類 従 完 成 会、 一 九 九 八 年 ) を 参 照 し た。 な お〈 用 言 連 体 形 + 之 + 体 言 〉 の 句 形 に つ い て は、 小 林 芳 規「 「 花 を 見 る の 記 」 の 言 い 方 の 成 立 追 考 」( 『 文 学 論 藻 』 一 四、 一 九 五 九 年)に代表される国語学の研究に従い、 「之」字を不読とする。 一、注釈には、 『古事類苑』 、和田英松註解・所功校訂『新訂   建武年中行事註解』 (講談社学術文庫、一九八九年。初 出一九三〇年)を始めとして、 『朝日   日本歴史人物事典』 『岩波   仏教辞典』 、『角川古語大辞典』 、『鎌倉・室町人 名 事 典 』、 『 国 史 大 辞 典 』、 『 国 書 人 名 辞 典 』、 『 古 語 大 鑑 』、 『 大 漢 和 辞 典 』、 『 日 本 国 語 大 辞 典   第 二 版 』、 『 日 本 史 大 事典』 、『日本仏教人名辞典』 、『平安時代史事典』 、『有識故実大辞典』などを参照したが、一々の記載は省略した。 また、藤井譲治・吉岡眞之監修・解説『天皇皇族実録』 (ゆまに書房)の各巻を示す際は、 『○○天皇実録』のよ うに略する。なお、引用史料中の改行は、/記号を以て示した。 一、 注 釈 に 示 し た 史 料 は、 以 下 の も の に 拠 っ た( 五 十 音 順。 他 に 参 照 し た 写 本・ 刊 本 な ど の 情 報 も 適 宜 付 記 し た )。

(3)

一部の叢書(史料纂集・新訂増補国史大系・新訂増補故実叢書・神道大系・新日本古典文学大系・新編国歌大観 ・増補史料大成・増補続史料大成・続神道大系・大日本古記録・図書寮叢刊・日本古典文学大系)に収められた 史料や漢籍・仏書については、原則として記載を省略した。なお、和歌の歌番号は新編国歌大観による。 ・『医陰系図』→宮内庁書陵部所蔵壬生本( 〔函号〕四一五―二二〇) 。 ・『医心方』→日本古典全集 ・『医心方一本奥書写』→石原明氏所蔵本。 『大日本史料』一―二一、永観二年十一月二十八日条 ・『 色 葉 字 類 抄 』 → 中 田 祝 男 ・ 峰 岸 明 編 『 色 葉 字 類 抄   研 究 並 び に 索 引   影 印 篇 ・ 索 引 篇 』( 風 間 書 房 、 一 九 六 四 年 ) ・『院司補任』→宮内庁書陵部編『皇室制度史料   太上天皇二』 (吉川弘文館、一九七九年、二四二~二五〇頁) ・『 右 近 衛 中 将 某 日 記 』 → 湯 浅 吉 美「 天 理 図 書 館 蔵『 元 亨 三 年 具 注 暦 』 調 査 報 告 ─ 未 紹 介『 右 近 衛 中 将 某 日 記 』 を付す―」 (同『暦と天文の古代中世史』吉川弘文館、二〇〇九年。初出一九九二年) ・『 臼 杵 三 島 神 社 記 録 』 → 林 陸 朗「 『 三 島 宮 御 鎮 座 本 縁 』 解 説 」( 国 学 院 大 学 日 本 文 化 研 究 所 編『 大 山 祇 神 社 史 料   縁起・由緒篇』大山祇神社社務所、二〇〇〇年) ・『衛生秘要抄』→続群書類従雑部。石原明解説『衛生秘要抄』 (大東急記念文庫、出版年不明)も参照。 ・『大山祇神社本社及摂末社明細図書』 →国学院大学日本文化研究所編 『大山祇神社史料   縁起・由緒篇』 (前掲) ・『 大 山 積 神 社 文 書 』 → 景 浦 勉 編『 伊 予 史 料 集 成 五   大 山 積 神 社 関 係 文 書 』( 伊 予 史 料 集 成 刊 行 会、 一 九 七 七 年 ) 第九号。 『鎌倉遺文』三二―二四五六三も参照。 ・『暇服事』→東京大学史料編纂所所蔵影写本( 〔請求記号〕三〇五七―一五) ・『官務家勘要古文書』→『図書寮叢刊   壬生家文書』一―一三 ・『翰林五鳳集』→大日本仏教全書 ・『禁秘抄』→群書類従雑部 ・『継塵記』→歴代残闕日記一六

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・『外記日記(新抄) 』→続史籍集覧一 ・『剣璽渡御記』→群書類従雑部 ・『広義門院御産御記(後伏見天皇日記) 』→皇室制度調査室「伏見宮本『広義門院御産御記   後伏見天皇宸記』 翻刻(上) 」( 『書陵部紀要』六三、二〇一二年) ・『御侍読次第』→京都大学附属図書館所蔵清家文庫本( 〔請求記号〕一―六九/コ/一貴) ・『御鎮座本縁並宝基伝後世記録』→国学院大学日本文化研究所編『大山祇神社史料   縁起・由緒篇』 (前掲) ・『 後 伏 見 院 御 文 類 』 → 宮 内 庁 書 陵 部 所 蔵 伏 見 宮 本( 〔 函 号 〕 伏 ― 七 五 四 )。 『 宸 翰 英 華 』 一 ― 一 二 八、 『 鎌 倉 遺 文』三五―二七二〇九も参照。 ・『古来風体抄』→阪本龍門文庫所蔵本( 〔善本書目番号〕一二〇) ・『職事補任』→群書類従補任部 ・『 拾 珠 抄 』 →『 天 台 宗 全 書 二 〇   法 則 類 聚・ 故 実 類 聚 』。 山 崎 誠「 三 井 寺 流 唱 導 遺 響 ―「 拾 珠 抄 」 を 繞 っ て ―」 (同『中世学問史の基底と展開』和泉書院、一九九三年。初出一九九〇年)も参照。 ・『駿牛絵詞』→群書類従雑部。宮内庁書陵部所蔵伏見宮本( 〔函号〕伏―四九八)も参照。 ・『白川家文書』→曾根研三『伯家記録考』 (西宮神社社務所、一九三三年) ・『夕拝備急至要抄』→群書類従公事部。京都大学附属図書館所蔵菊亭文庫本( 〔請求記号〕菊/セ/七)も参照。 ・『尊性法親王消息集(飜摺法華経紙背文書) 』→『鎌倉遺文』七―四四六〇/四六二八。 『向日市史   史料編』中 世   尊性法親王消息集二四・七三(京都府向日市、一九八八年)も参照。 ・『 大 徳 寺 文 書 』 三 八 八 八 →『 大 日 本 古 文 書   大 徳 寺 文 書 』 一 二 ― 三 〇 六 二、 同 三 八 九 〇 →『 大 日 本 古 文 書   大 徳 寺文書』一二―三〇六四。 ・『丹波氏系図』→群書類従系譜部、続群書類従系図部 ・『柱史抄』→群書類従公事部

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・『塵袋』→大西晴隆・木村紀子校注『塵袋』全二巻(平凡社東洋文庫、二〇〇四年) ・『天祚礼祀職掌録』→群書類従帝王部 ・『典薬頭補任次第』→改訂史籍集覧二四 ・『春宮坊官補任』→続群書類従補任部 ・『日中行事』→和田英松註解・所功校訂『新訂   建武年中行事註解』 (前掲) ・『 〔仁和寺本〕系図』→関口力「仁和寺本『系図』の研究・翻刻(二) 」( 『仁和寺研究』五、二〇〇五年) ・『 後 常 瑜 伽 院 御 室 日 記 』 → 村 山 修 一「 後 常 瑜 伽 院 御 室 日 記   仁 和 寺 蔵 」( 同『 古 代 仏 教 の 中 世 的 展 開 』 法 蔵 館、 一九七六年。初出一九六五~一九六六年) ・『伯家部類』→『神道大系   論説編   伯家神道』 ・『 宝 積 経 要 品 』 → 財 団 法 人 前 田 育 徳 会 編『 国 宝   宝 積 経 要 品 ― 高 野 山 金 剛 三 昧 院 奉 納 和 歌 短 冊 ―』 ( 勉 誠 出 版、 二〇一一年) ・『北条顕時十三廻忌諷誦文』→永井晋「北条顕時十三回忌諷誦文とその紙背文書」 (同『金沢北条氏の研究』八 木書店、二〇〇六年。初出二〇〇〇年) ・『妙法蓮華経巻第四紙背文書』→羽田秀典「鳥取大雲院蔵   伏見天皇宸翰に就いて」 (『史林』二七―一、一九四 二年) ・『明月記』→国書刊行会叢書。冷泉家時雨亭叢書も参照。 ・『八雲御抄』→片桐洋一編『八雲御抄の研究   正義部作法部』 (和泉書院、二〇〇一年) ・『柳原家記録』→東京大学史料編纂所所蔵謄写本( 〔請求記号〕二〇〇一―一〇) ・『和歌書様』→川平ひとし「定家著『和歌書様』 『和歌会次第』について―付・本文翻刻―」 (『跡見学園女子大 学紀要』二一、一九八八年) ・『和気氏系図』→群書類従系譜部

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一、注釈に頻出する典拠の表示には、以下の略号を用いた。勅撰集の書名については略称した。    『 花 園 天 皇 日 記 』 =『 花 園 』、 『 尊 卑 分 脈 』( 新 訂 増 補 国 史 大 系 ) ○ 巻 △ 頁 =『 尊 卑 』 ○ ― △、 『 公 卿 補 任 』 =『 公 補』 、橋本政宣編『公家事典』 (吉川弘文館、二〇一〇年)=『公事』 、『建武年中行事』=『建武』 一、注釈において、次の既発表の注釈に説明を譲るべき内容がある場合は、例えば「正月一日条注釈参照」などと記 す。適宜参看されたい。 ・花園天皇日記研究会編「 『花園天皇日記(花園院宸記) 』正和二年正月記―訓読と注釈―」 (『花園大学国際禅学 研究所論叢』四、二〇〇九年) ・ 同「 『 花 園 天 皇 日 記( 花 園 院 宸 記 )』 正 和 二 年 二 月 記( 一 )( 二 ) ― 訓 読 と 注 釈 ―」 (『 花 園 大 学 国 際 禅 学 研 究 所 論叢』五・六、二〇一〇~二〇一一年) ・同「 『花園天皇日記(花園院宸記) 』正和二年三月記―訓読と注釈―」 (『花園大学国際禅学研究所論叢』七、二 〇一二年) 一、本稿は、本研究会の輪読の成果を踏まえたものである。研究会の会員は、阿尾あすか、窪田頌、坂口太郎、中村 健史、長村祥知、花田卓司、横澤大典、芳澤元、米澤隼人である(五十音順) 。     執筆の担当箇所は以下の通り。本文校訂・訓読の担当は坂口、注釈の担当は、四月一日・二十五日条が花田、 四 日・ 五 日・ 六 日・ 七 日・ 十 日( 部 分 ) 条 が 窪 田、 八 日・ 二 十 三 日 条 が 横 澤、 九 日・ 十 日( 部 分 )・ 十 一 日・ 十 三 日・ 十 四 日・ 十 八 日( 部 分 )・ 二 十 日・ 二 十 六 日 条 が 坂 口、 十 日( 部 分 )・ 二 十 二 日( 部 分 )・ 二 十 四 日 条 が 米 澤、十二日・十八日(部分) ・二十一日・二十二日(部分) ・二十八日条が阿尾、十五日・十七日・十九日条が中 村、十六日条が長村、十八日条(部分)が芳澤である。各担当の原稿を数度の検討会において吟味し、阿尾・坂 口・中村が内容を加筆・調整した。また、校正の取りまとめは坂口が行った。 一、本研究会の運営や本稿の発表にあたっては、花園大学国際禅学研究所ならびに同研究所の芳澤勝弘氏、冨増健太 郎氏より格別のご高配を賜った。記して深甚の謝意を表する。

(7)

  〔

丁 巳

  〔

、〕

( 中 院 )

通 顕 。

( 壬 生 )

  「

( * 頭 書 )

* *

( 高 階 )

。」

  「

( * * 裏 書 )

( 和 気 )

。」

  【訓読】   天晴る。冬の御装束を改め、夏の装束を供し了んぬ。   亥の刻、平座。上卿土御門中納言 通顕。 参議雅康、同刻に見参を奏す。今日、神事に依り勧盃無し。   「 (頭書) また小除目あり。任人六人。栄爵一人。梅宮祭。内侍遠子。 」   「 (裏書) 今日、朕、小雑熱あり。よって全成朝臣を召し、薬を付く。 」   【注釈】 改 冬 御 装 束 ﹆ 供 夏 装 束 了   更 ころもがえ 衣 のこと。季節に応じ、 衣服や調度品・敷物を改めること。宮中では、四 月一日に御帳台の御帳を夏物にかえ、壁代を撤し、 灯籠にかけた蘇芳の綱や畳も新しくするなどした。 同 様 に、 十 月 一 日 に は 冬 装 束 に 改 め た (『 建 武 』 〔更衣〕 ) 。 亥 刻   午後九時~十一時。 平 ひら 座 ざ   天皇が紫宸殿に出御して行うべき儀式・節会

(8)

などを、天皇が出御せず略儀に行うこと。勅命に より公卿以下侍臣が宜陽殿西廂の平敷の座に着し て行ったため、平座と呼ばれる。天皇の居処が里 内裏にある時は、陣座が用いられた。   こ こ で は、 四 月 一 日 の 旬 しゅんせい 政 ( 孟 夏 旬 ) が 平 座 で 行われたことをさす。旬政は本来毎月一日・十一 日・十六日・二十一日に天皇が紫宸殿に出御して 政を聴く儀式で、その後に宴が行われ、禄を支給 した。平安中期以降は四月一日の孟夏旬と十月一 日の孟冬旬の二孟旬だけが恒例となり、天皇の出 御 も ほ と ん ど な く、 平 座 の 形 式 で 行 わ れ た (『 建 武』 〔旬〕 ) 。 上 土 御 門 中 納 言 通 顕   中 院 通 顕。 こ の と き 正 二 位、 権中納言。二十三歳。二月六日条注釈「権中納言 源通顕朝臣」参照。 参 議 雅 康   壬生雅康。このとき、従三位、参議。二 十八歳。二月七日条注釈「参議雅康卿」参照。 奏 見 参   孟夏旬の列席者、つまり禄を賜る者の交名 を奏する意。 依 神 事 無 勧 盃   ここでいう「神事」とは、梅宮祭の 当 日 に 行 わ れ る 心 身 潔 斎 を さ す (『 禁 秘 抄 』 上〔 神 事 次 第 〕) 。「 勧 盃 」 は、 盃 を 差 し 出 し て 酒 を 勧 め ること。 小 除 目   春秋の定まった除目のほか、臨時に行われ る除目。正月十六日条注釈参照。 任 人   小除目で任官の対象となった人。なお、この 日はあわせて叙位も行われた。 栄 えいしゃく 爵   従五位下の別称。律令制下では、五位以上は 六位以下と身分上の隔たりがあったため、栄誉あ る位の意で栄爵と称した。平安中期以後は買官や 成 功 の 対 象 と さ れ た。 弘 安 十 年 ( 一 二 八 七 ) に は、 栄爵料は諸国権守や衛門尉の任料と同じ最高額の 千 五 百 疋 と さ れ て い る (『 勘 仲 記 』 五 月 十 一 日 条、 『外記日記(新抄) 』五月二十四日条) 。    竹 内 理 三「 成 功・ 栄 爵 考 」 (『 竹 内 理 三 著 作 集   五   貴 族 政 治 の 展 開 』 角 川 書 店、 一 九 九 九 年。 初 出

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一九三五年) 参照。 梅 うめのみやのまつり 宮 祭   梅 宮 社 ( 現 京 都 市 右 京 区 梅 津 フ ケ ノ 川 町 ) の 例祭。四月・十一月の上の酉の日に行われた。梅 宮 社 は 天 子 の「 外 家 神 」、 橘 氏 氏 神 と し て 尊 崇 さ れたが、橘氏の栄枯に応じて祭も停廃を繰り返し、 寛 和 二 年 ( 九 八 六 ) に 至 っ て 旧 に 復 し、 以 後 は 藤 原氏の是定により執行された。 内 侍 遠 子   高 階 遠 子 ( 女 房 名 は「 兵 衛 督 」) 。 こ の と き 勾 当 内 侍。 二 月 二 十 日 条 注 釈「 遠 子 」 参 照。 「 内 侍」については、正月七日条注釈、二月七日条注 釈「掌侍」参照。 朕 有 小 雑 ぞう 熱 ねつ 。 仍 召 全 成 朝 臣 付 薬   「 雑 熱 」 は、 腫 物 ・ で き も の、 の 意。 「 小 さ な 腫 物 が で き た た め、 和気全成を召して患部に膏薬を塗布した」と解釈 するのが正しい。四月九日にも花園は「雑熱」に より沐浴を止めるよう、和気全成に進言されてお り、四月十一日には和気英成・全成両人が花園の 「 腫 物 」 に 針 を 立 て て 治 療 を 行 っ て い る。 位 藤 邦 生「 小 さ な 語 誌 ―「 雑 熱 」 に つ い て ―」 (『 国 文 学 攷』一五六、一九九七年) 参照。 全 成 朝 臣   和気全成。このとき典薬医師。二月九日 条注釈「和気全成朝臣」参照。

  〔

、〕

( 如 縁 房 阿 一 )

4 〔 × 授 〕 二

  【訓読】   天晴る。如円上人参る。五戒を授く。   【注釈】 如 円 上 人   如縁房阿一。西大寺流律僧。このとき河 内教興寺長老。二月八日条注釈参照。

(10)

五 戒   二月八日条注釈参照。

  〔

、〕

(鷹司冬平)

退

  【訓読】   天晴る。子の刻、関白参上す。丑の刻、退出す。   【注釈】 子 刻   午後十一時~午前一時。 関 白   鷹司冬平。このとき従一位。三十九歳。正月 十二日条注釈参照。 丑 刻   午前一時~三時。

  〔

、〕

使

〻   【訓読】   天晴る。広瀬・龍田祭。   【注釈】 広 ひろ 瀬 せ ・ 龍 たつ 田 たの 祭 まつり   「 大 忌・ 風 神 祭 」 と も。 大 和 国 広 瀬 郡 ( 現 奈 良 県 北 葛 城 郡 河 合 町 ) に あ る 広 瀬 神 社 と、 大 和 国 平 群 郡 ( 現 奈 良 県 生 駒 郡 斑 鳩 町 ) に あ る 龍 田 神社の祭礼。四月四日・七月四日に行われ、風水 の難を鎮め、五穀の豊穣を祈る。この際、朝廷は 広瀬・龍田両社へ使者を派遣して奉幣を行う。ま

(11)

た、この日は廃務であり、諸司の事務は行わない (『建武』 〔広瀬・竜田の祭〕 ) 。

  〔

、〕

使

4 〔 × 祭 〕

4 〔 × 也 〕 レ

  【訓読】   大神祭の使立つ。終日冷然極まり無きものなり。   【注釈】 大 おおみわのまつり 神 祭 使 立   「 大 神 祭 」 に つ い て は、 四 月 七 日 条 注 釈参照。大神祭は、四月・十二月に行われる。そ のうち四月は卯の日の暁に行われるため丑の日に 使いを立て、十二月は卯の日の夕に行われるので 寅の日に使いを立てる。使いが立つ日には、天皇 は 心 身 潔 斎 を 行 う (『 禁 秘 抄 』 上〔 神 事 次 第 〕、 『 建 武』 〔大神の祭〕 ) 。 終 日 冷 れい 然 ぜん 無 極 者 也   「 冷 然 」 は、 物 憂 い、 退 屈 で あ る と い っ た 心 情 を 表 す。 「 徒 と 然 ぜん 」 と ほ ぼ 同 義。 尾 崎雄二郎・島津忠夫・佐竹昭広『和語と漢語のあ い だ ― 宗 祇 畳 字 百 韻 会 読 ―』 ( 筑 摩 書 房、 一 九 八 五 年、 五 二 ~ 五 三 頁 ) 参 照。 「 徒 然 」 の 語 義・ 読 み に ついては、四月六日条注釈「徒然無極」参照。    『 花 園 』 に お け る「 冷 然 」 の 用 例 は、 例 え ば、 元 応 二 年 ( 一 三 二 〇 ) 九 月 十 三 日 条 の「 今 夜 良 辰。 明月不晴。空望陰雲。無人無極。今日 供花無人 0 0 0 0 。 冷 然 無 極 0 0 0 0 」 に 見 ら れ、 「 物 憂 い さ ま、 退 屈 な さ ま」を表す語句として用いられている。

(12)

、〕

〻   【訓読】   今日、如円上人参る。印・真言少々を受く。また五戒を受く。   物忌なり。徒然極まり無し。   【注釈】 如 円 上 人   如縁房阿一。二月八日条・四月二日条注 釈参照。 印   仏 語 ( 梵 語 mudrā の 訳 ) 。「 印 いんげい 契 」「 印 いん 相 そう 」 と も。 本来、封印または 標 ひょうじ 識 の意。彫刻・絵画にあらわ さ れ た 仏 像 類 の 手 の 指 の 屈 伸 に よ る 特 殊 な 形 ( 手 印 ) を 指 す。 密 教 で は、 行 者 が 本 尊 に 印 相 を 結 ぶ ことによりその尊格と一体となる身密行が重視さ れた。 真 言   仏語 (梵語 mantra の訳) 。「 呪 じゅ 」「 陀 だ 羅 ら 尼 に 」 とも。 本来は『リグ・ヴェーダ』を形成する神聖な呪句 であり、バラモン僧に誦唱された。この呪句の誦 持の習俗が密教に取り入れられ、さまざまな災い を除き、功徳を得る霊験が期待された。 五 戒   二月八日条注釈参照。 物 忌   三月十九日条注釈参照。 徒 と 然 ぜん 無 極   「退屈きわまりなかった」の意。 「徒然」 は、何かをして取り除かれることが期待される心 情、 永 続 性 の な い 不 安 定 な 心 情 を 示 す。 「 つ れ づ れ 」「 冷 然 」 と 同 義。 元 来、 漢 語 に お い て「 い た ず ら に 」「 む な し い 」 な ど の 意 味 で あ っ た が、 平 安中期以降、新たに「つれづれ」の意が生まれた。    「 徒 然 」 の 語 義 や 読 み に つ い て は、 遠 藤 好 英 「 和 化 漢 語「 徒 然 」 の 意 味 変 化 」 ( 同『 平 安 時 代 の 記 録 語 の 文 体 史 的 研 究 』 お う ふ う、 二 〇 〇 六 年。 初 出

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一 九 九 九 年 ) 、 尾 崎 雄 二 郎・ 島 津 忠 夫・ 佐 竹 昭 広 『 和 語 と 漢 語 の あ い だ ― 宗 祇 畳 字 百 韻 会 読 ―』 ( 四 月五日条注釈前掲、四九~五三頁) 参照。

、〕

  【訓読】   今日、大神祭なり。   物忌なり。終日徒然極まり無し。   【注釈】 大 おおみわのまつり 神 祭   大 和 国 城 しきのかみ 上 郡 ( 現 奈 良 県 桜 井 市 三 輪 ) に 所 在 する大神神社の例祭。四月・十二月の上の卯の日 に 行 わ れ る ( 月 に 三 度 卯 の 日 が あ れ ば、 中 の 卯 の 日 ) 。 天皇のほか、中宮・東宮も使いを遣わして奉幣が 行われたが、室町時代以降、使いなどの参向は廃 絶した (『建武』 〔大神の祭〕 ) 。 物 忌   三月十九日条注釈参照。 徒 然 無 極   四月六日条注釈「徒然無極」参照。

、〕

(中院)

(壬生)

  【訓読】

(14)

  晴る。灌仏、例の如し。公卿権中納言通顕・参議雅康。   今日、僧事あり。   如円上人参る。五戒を受く。   七日・今日、精進なり。灌仏以前は、神事にあらず。よってかくの如し。   【注釈】 灌 かんぶつ 仏   灌 仏 会。 「 仏 ぶっしょうえ 生 会 」「 誕 生 会 」「 降 誕 会 」 と も。 釈迦の誕生日の四月八日に、誕生釈迦仏に香水を 注ぎかけて洗浴し、その誕生を祝う法会。釈迦が 誕生した際、帝釈天・梵天が香水で洗浴したとい う逸話に基づく。日本では、承和七年 (八四〇) 、 内裏清涼殿で行われたのが確実な初例である (『続 日本後紀』同年夏四月癸丑条) 。以後、年中行事とな り、諸院宮や摂関家でも行われた。    内裏の灌仏会では、清涼殿の昼御座を徹して仏 台や誕生仏などを設置し、導師の僧、参仕の公卿 や蔵人・女房らが、五色の香水を用いて順番に灌 仏を行う。この次第は、 『建武』 〔灌仏〕に詳しい。    『 花 園 』 で は、 応 長 元 年 ( 一 三 一 一 ) や 文 保 元 年 ( 一 三 一 七 ) 各 四 月 八 日 条 に 詳 細 な 記 事 が あ り、 後 者では、在位中の花園自身も杓を取り、灌仏を行 ったことが見える。また、花園は譲位後も院御所 の南殿で灌仏会を実施し、自身でも灌仏を行って い る。 こ の と き 自 ら 灌 仏 を 行 う こ と に つ い て、 「 此 事 旧 例 不 詳。 然 而 近 代 流 例 也 」 と 述 べ て い る (『 花 園 』 元 亨 元 年〔 一 三 二 一 〕 四 月 八 日 条 ) 。 な お、 四月は諸社の祭が多いため、八日に諸社に使者を 発 遣 す る 際 は、 灌 仏 会 は 行 わ れ な い (『 建 武 』〔 灌 仏〕 ) 。    灌 仏 会 に つ い て は、 山 中 裕『 平 安 朝 の 年 中 行 事 』 ( 塙 書 房、 一 九 七 二 年 ) 、 三 橋 正『 平 安 時 代 の 信 仰と宗教儀礼』第二篇第一章「平安時代の仏教信

(15)

仰 」・ 第 三 篇 第 一 章「 日 本 的 信 仰 構 造 の 形 成 ― 神 仏関係論―」 (続群書類従完成会、二〇〇〇年) 参照。 権 中 納 言 通 顕   中院通顕。二月六日条注釈「権中納 言 源 通 顕 朝 臣 」、 四 月 一 日 条 注 釈「 上 卿 土 御 門 中 納言 通顕 」参照。 参 議 雅 康   壬 生 雅 康。 二 月 七 日 条 注 釈「 参 議 雅 康 卿」 、四月一日条注釈参照。 僧 事   二月六日条注釈参照。 如 円 上 人   如縁房阿一。二月八日条・四月二日条注 釈参照。 五 戒   二月八日条注釈参照。 七 日 ・ 今 日 精 進 也 。 灌 仏 以 前 ﹆非 神 事 。 仍 如 此   「 昨 日 七 日 と 今 日 八 日 は、 精 進 を 行 っ た。 ( 今 月 は 賀 茂 祭 に よ り 精 進 を 行 う べ き で は な い が ) 灌 仏 会 以 前 は、 ( 賀 茂 祭 の ) 神 事 に あ た ら な い の で、 こ の よ う に し た 」 の 意。 「 精 進 」 に つ い て は 正 月 八 日 条 注 釈 参 照。    ここでの「神事」がいかなる神祭に関わるのか は 明 記 さ れ て い な い が、 『 禁 秘 抄 』 上〔 神 事 次 第〕の「賀茂祭」の割書が参考となる。これによ れば、①賀茂祭の神事は通例一日より行うが、八 日 の 灌 仏 会 が あ る 年 に は 九 日 よ り 行 う こ と (「 或 説 」 で は、 灌 仏 会 の 有 無 に 関 わ ら ず 九 日 よ り 神 事 を 行 う ) 、 ② 神 事 は 神 今 食 と 同 様 に 行 わ れ る こ と、 ③ 神事は一日より行われるが、天皇は賀茂祭の前日 の申の日に念入りに心身潔斎を行うこと、などが 分かる。以上から、本日条の「神事」は、賀茂祭 の 神 事 と 考 え ら れ る。 『 花 園 』 四 月 二 十 三 日 条 に も「今月中、祭以前不精進也」とある。    な お、 『 花 園 』 に よ れ ば、 四 月 一 日 に 神 事 が 行 わ れ て い る が、 こ れ は 同 日 の 梅 宮 祭 の「 当 日 神 事 」 (『 禁 秘 抄 』 上〔 神 事 次 第 〕) で あ る。 八 日 に 灌 仏 会 が あ っ た こ と か ら、 賀 茂 祭 の 神 事 は、 『 花 園』に記事を欠くものの、翌九日に始められたの で あ ろ う ( た だ し、 九 日 に 雑 熱 に よ っ て 沐 浴 を 避 け た こ と、 ま た 十 二 日 に 雑 熱 が 理 由 で 梅 宮 祭 な ど の 御 禊 が

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行 わ れ な か っ た こ と を 考 慮 す る と、 賀 茂 祭 の 神 事 は、 九 日 か ら 十 二 日 の 間 に 全 く 行 わ れ ず、 十 三 日 か ら 行 わ れた可能性もある) 。    ち な み に、 『 禁 秘 抄 』 と 同 様 の 内 容 が、 藤 原 忠 実の談話録『中外抄』上三六・六四にも見える。 これによれば、灌仏会の有無に関わらず九日より 神事を行うという「或説」は、白河法皇の説であ ったことがわかる。また、忠実の日記『殿暦』天 仁 二 年 ( 一 一 〇 九 ) 四 月 五 日 条 に は、 白 河 が「 故 院 」、 す な わ ち 後 三 条 天 皇 の 所 説 と し て こ れ を 忠 実に語ったとある。

  〔

、〕

4 〔 ×   〕

4 〔 × 依 〕 二

4 〔 × 者 也 〕

4

  【訓読】   晴る。今日、朕雑熱に依り、沐浴すべからざる由、全成申す間、今日よりこれを止む。   毎日の拝、これを止む。   毎日・二間の念誦、同じくこれを止む。   【注釈】 雑 熱   四月一日条注釈「朕有小雑熱。……」参照。 沐 浴   髪を洗い、からだを洗うこと。湯浴み。天皇 は、毎朝早朝に清涼殿の御湯殿において、湯浴み を行うのを例とした。まず、釜殿から湯が運ばれ、 御槽一つと桶二つを備え、内侍が垢すりを奉仕す る。 湯 浴 み が 終 る と、 典 侍 ( あ る い は 上 臈 女 房 ) が

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湯 帷 と 河 薬 ( 米 糠 を 袋 に 入 れ た も の。 あ る い は 香 薬 と も ) を 奉 る。 さ ら に、 典 侍 が 河 薬 を 入 れ た 土 器 を 板に投げて音を立て、それを合図として外では蔵 人 が 邪 気 を 払 う 鳴 弦 を 行 っ た (『 禁 秘 抄 』 上〔 恒 例 毎日次第〕 、『日中行事』 、『侍中群要』四〔御湯殿事〕 ) 。    こ こ で は、 雑 熱 ( 腫 物 ) に よ っ て 沐 浴 す べ き で はないという和気全成の意見により、花園は沐浴 を止めている。 全 成   和気全成。このとき典薬医師。二月九日条注 釈「 和 気 全 成 朝 臣 」、 四 月 一 日 条 注 釈「 全 成 朝 臣」参照。 毎 日 之 拝 ﹆ 止 之 。 毎 日 ・ 二 間 念 誦 ﹆ 同 止 之   「 毎 日 之拝」については、正月一日条注釈「毎日拝」参 照。また、花園の念誦については、正月一日条注 釈「 念 誦 」、 正 月 六 日 条 注 釈「 是 自 去 年 七 月 毎 日 不 闕。 ……」 、 三 月 一 日 条 注 釈「 毎 日 念 誦 不 止 之。 又其外念誦」参照。    こ こ で は、 花 園 は 雑 熱 ( 腫 物 ) に よ っ て、 毎 日 拝・毎日念誦・二間念誦を止めている。

  〔

、〕

( 中 院 )

中 御 門 )

〔 予 〕

三 島 脱 カ 〕

 

 

今 月 廿 四 日 ・ 廿 八 日 。 来 月 十 二 ・ 十 三 ・ 廿 七 ・ 廿 八 日 。

4 〔 × 今 月 十 日 〕

4

使

( 壬 生 )

4 〔 × 々 〕

( 松 殿 )

( 鷹 司 )

( 四 条 )

  【訓読】   晴る。権中納言通顕、冬定朝臣をして伊与 国 〔三島脱力〕    社の内の上津宮の造営の日時文を奏せしむ。 今月廿四日・廿 八日。来月十二 ・十三・廿七 ・廿八日。  

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  また同朝臣、冬定をして賀茂一社奉幣の日時文、同奉幣使の定文を奏せしむ。参議雅康。五位一人。   またやや久しくして除目を奏す。従二位通輔・清雅。少将隆蔭。   今日、物忌なり。貴布禰の恠異の事に依るなり。   【注釈】 権 中 納 言 通 顕   中院通顕。二月六日条注釈「権中納 言 源 通 顕 朝 臣 」、 四 月 一 日 条 注 釈「 上 卿 土 御 門 中 納言 通顕 」参照。 冬 定 朝 臣   中御門冬定。このとき正四位上、右兵衛 督・蔵人頭。三十二歳。正月一日条注釈参照。 伊 与 〔予〕 国 〔三島脱カ〕     社 内 上 かみ 津 つ 宮 みや   伊予国越智郡大三島にある 一 宮・ 大 おお 山 やま 祇 づみ 神 じん 社 じゃ ( 三 島 社、 現 愛 媛 県 今 治 市 大 三 島 町宮浦) の摂社である上津宮のことか。    社 伝 に よ れ ば、 保 延 元 年 ( 一 一 三 五 ) 、 三 島 社 が 新たに雷神・ 高 たかおかみのかみ 龗神 を合祀した。その後、康治元 年 ( 一 一 四 二 ) 八 月 に 下 津 宮 を 造 営 し て 高 龗 神 を 祀 り、 続 い て 久 安 三 年 ( 一 一 四 七 ) 六 月 に 上 津 宮 を造営して大雷神を祀ったという。このことから、 院政期には上津宮が既に存在していたことが窺え る。 「 上 津 姫 宮 」 と も 呼 ば れ る よ う に、 こ の 神 は 姫神であるともされ、神事に関しては大祝家の女 子のみがこれを執り行った。    建 保 五 年 ( 一 二 一 七 ) ・ 貞 応 元 年 ( 一 二 二 二 ) の 二度にわたって大山祇神社は焼亡したが、この際 に摂社の上津宮もまた焼亡したと思われる。この 後、大山祇神社は長く仮殿が置かれた。応長二年 ( 一 三 一 二 ) 三 月、 「 院 宣・ 国 宣・ 関 東 御 教 書 幷 六 波羅殿御施行」に基づいて、造営料が一国平均役 と し て 伊 予 国 内 に 充 て ら れ た (「 伊 予 大 山 積 神 社 造 営 段 米 支 配 状 」〔 『 大 山 積 神 社 文 書 』〕 ) 。 本 日 条 に 見 え る上津宮の「造営日時文」は、この応長の再建の 一貫であると考えられる。    大 山 祇 神 社 に つ い て は『 臼 杵 三 島 神 社 記 録 』、

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『 御 鎮 座 本 縁 並 宝 基 伝 後 世 記 録 』、 『 大 山 祇 神 社 本 社及摂末社明細図書』など参照。 造 営 日 時 文   「 日 時 文 」 は、 日 時 勘 文 の こ と。 二 月 十二日条注釈参照。ここでの「造営日時文」とは、 上津宮の造営を行うべき吉日・吉時について陰陽 道の諸家より上申された文書をいう。 賀 茂 一 社 奉 幣 日 時 文 ﹆ 同 奉 幣 使 定 さだめぶみ 文   賀茂社は賀茂 別 雷 神 社 ( 上 賀 茂 神 社 ) と 賀 茂 御 祖 神 社 ( 下 鴨 神 社 ) の 総 称。 前 者 に つ い て は、 正 月 十 五 日 条 注 釈 「 賀 茂 社 」、 後 者 に つ い て は、 二 月 十 五 日 条 注 釈 「幸賀茂・北野社云々。……」参照。    「 奉 幣 」 は、 神 社 に 幣 帛 を 奉 る こ と。 こ の 奉 幣 の 経 緯 は 未 詳。 「 日 時 文 」 に つ い て は、 二 月 十 二 日 条 注 釈 参 照。 「 奉 幣 使 」 は、 朝 廷 か ら 神 社 に 幣 帛 を 奉 献 す る 使 者。 「 定 文 」 は、 公 事 の 執 行 日 時、 諸官の担当割当て、執行の順序、雑務の指示・規 定などを取り決めた文書のこと。冒頭に「定文」 「定」 「定……事」などと記す形式をとる。相田二 郎『 日 本 の 古 文 書   上 』 ( 岩 波 書 店、 一 九 四 九 年、 三 五五~三五六頁) 参照。 参 議 雅 康   壬 生 雅 康。 二 月 七 日 条 注 釈「 参 議 雅 康 卿」 、四月一日条注釈参照。 五 位   五位蔵人のこと。 良 久   相 当 な 時 間 が 経 過 し た さ ま。 『 塵 袋 』 一 〇 ― 七 一 に、 「 ヤ ヽ ヒ サ シ ト ハ、 良 久 ノ 二 字 也。 ハ ナ ハダヒサシキヲ云也」と見える。 奏 除 目   蔵人が 大 おおまがき 間書 を天皇に奏覧すること。三月 九日条注釈参照。 従 二 位 通 輔   松殿通輔。初名兼輔。生没年未詳。こ のとき左中将。 『尊卑』一―八三。 『公補』正安二 ~ 元 亨 三 (『 公 事 』 九 九 頁 ) 。 父 は 兼 嗣、 母 は 藤 原 実春女。    弘 安 六 年 ( 一 二 八 三 ) 十 二 月、 叙 爵。 延 慶 三 年 ( 一 三 一 〇 ) 四 月、 左 中 将。 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 四 月、 従 二 位。 『 公 補 』 に よ れ ば、 前 年 二 月 に 源 親平が通輔を超越して臈次に乱れが生じたため、

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同日位記を賜ったとある。同年八月、参議。左中 将を兼帯。    正 和 四 年 ( 一 三 一 五 ) 四 月、 春 日 社 に お け る 詠 法 華 経 和 歌 に 出 詠 (『 公 衡 公 記 』 四 月 二 十 四 日 条 所 引 「 覚 円 僧 正 注 送 記 」) 。 同 月、 衣 笠 殿 の 如 法 経 十 種 供 養 に 琵 琶 の 所 作 を 所 望 す る が、 許 さ れ な か っ た (『 公 衡 公 記 』 四 月 十 一 日 条 ) 。 た だ し、 元 応 元 年 ( 一 三 一 九 ) 八 月 に 衣 笠 殿 に お い て 行 わ れ た 如 法 経 十 種供養 (伏見天皇三回忌) では、琵琶の所作人とし て 召 さ れ て い る ( 元 応 元 年 八 月 十 四 日「 後 伏 見 上 皇 書状」 〔『後伏見院御文類』 〕) 。 清 雅   鷹 司 清 雅。 生 没 年 未 詳。 こ の と き 前 参 議。 『尊卑』一―一九九。 『公補』延慶元~正慶二・元 弘 三 (『 公 事 』 三 〇 一 ~ 三 〇 二 頁 ) 。 父 は 花 山 院 定 長。 母 は、 中 将 忠 雅 女 (『 尊 卑 』) と も、 院 女 房 宰 相 局 と も (『 公 補 』) 。 花 山 院 家 雅 の 甥。 『 公 補 』 に よ れ ば、 弘 安 七 年 ( 一 二 八 四 ) 生 ま れ だ が、 父 定 長 の 没年が弘安四年であるため、未詳とした。    弘 安 十 年 正 月、 叙 爵。 永 仁 六 年 ( 一 二 九 八 ) 七 月、 左 中 将。 正 安 三 年 ( 一 三 〇 一 ) 八 月、 富 仁 親 王 (のちの花園) の春宮権亮となる。延慶元年 (一 三 〇 八 ) 八 月、 花 園 の 即 位 に と も な い 内 昇 殿 を 許 さ れ る。 同 年 九 月、 蔵 人 頭 (『 職 事 補 任 』〔 花 園 院 〕) 。 同年十二月、従三位・参議。同四年五月、参議を 辞 す。 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 七 月、 本 座 を 許 さ れ る。花園に近侍した様子が、 『花園』に散見する。    乾 元 二 年 ( 一 三 〇 三 ) と 嘉 元 三 年 ( 一 三 〇 五 ) 、 持明院殿で催された歌合に参加 (『歌合   乾元二年五 月 』、 『 歌 合   嘉 元 三 年 三 月 』) 。 ま た、 『 玉 葉 集 』 と 『 風 雅 集 』 に 各 二 首 ず つ 入 集 し て い る。 嘉 元 元 年 の『 伏 見 院 三 十 首 歌 ( 散 逸 ) 』 の 詠 者 に も 加 わ っ ており、前期京極派歌壇の歌人として活躍した。 岩 佐 美 代 子「 京 極 派 歌 人 一 覧 」 ( 同『 京 極 派 歌 人 の 研 究   改 訂 新 装 版 』 笠 間 書 院、 二 〇 〇 七 年。 初 刊 一 九 七 四年) 参照。 少 将 隆 蔭   四 条 隆 蔭。 永 仁 五 年 ( 一 二 九 七 ) ~ 貞 治

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三 年 ( 一 三 六 四 ) 。 こ の と き、 従 四 位 下。 こ の 日、 左少将となる (『公補』 ) 。十七歳。四条家の支流油 小路家の祖。 『尊卑』二―三七一。 『公補』元弘元 ~正慶二、建武元~貞治三 (『公事』六〇一頁) 。父 は隆政。母は家女房。    隆蔭は四条家の庶流に属したが、一門の要であ る善勝寺長者をつとめた (『尊卑』 ) 。同じく四条家 の隆資が大覚寺統の側であったのに対して、隆蔭 は持明院統に属し、兄の隆有とともに後伏見上皇 の院庁年預であった (『院司補任』 ) 。    元徳二年 (一三三〇) 四月、東宮量仁親王 (のち の 光 厳 天 皇 ) の 春 宮 亮 と な り、 元 弘 元 年 ( 一 三 三 一) 九月の量仁践祚とともに、蔵人頭となる (『職 事 補 任 』〔 光 厳 院 〕) 。 同 年 十 月 六 日、 六 波 羅 探 題 に 赴き、鎌倉幕府が後醍醐天皇から回収した神璽・ 宝 剣 を 受 け 取 っ た (『 剣 璽 渡 御 記 』、 『 花 園 』) 。 正 慶 元 年 ( 一 三 三 二 ) に は、 後 伏 見 上 皇 の 使 者 と し て 関東に下向し、践祚・政務・政道興行・諸国興行 ・関所などに関する幕府の返事を持ち帰っている (『 花 園 』 六 月 三 日 条 ) 。 元 弘 三 年 ( 一 三 三 三 ) の 後 醍 醐還京に際して、元弘の乱以前の官位に復された。    南北朝期には北朝に仕え、 建武三年 (一三三六) 十一月に参議に再任された。同四年七月、権中納 言。 康 永 元 年 ( 一 三 四 二 ) 十 二 月、 検 非 違 使 別 当 を 兼 ね る。 貞 和 三 年 ( 一 三 四 七 ) 十 一 月、 権 大 納 言。光厳上皇の信任厚く、評定衆・伝奏として雑 訴沙汰に関与した。また、正平一統後の後光厳親 政においても引続き伝奏の任にあり、議定衆や神 宮 伝 奏 も つ と め た。 森 茂 暁『 増 補 改 訂   南 北 朝 期 公 武 関 係 史 の 研 究 』 第 三 章「 北 朝 の 政 務 運 営 」 (思文閣出版、二〇〇八年。初刊一九八四年) 参照。    貞 治 三 年 ( 一 三 六 四 ) 二 月 二 十 一 日、 病 に よ っ て出家。戒師は光厳法皇がつとめた。法名は観乗 (『 師 守 記 』) 。 同 年 三 月 十 四 日、 死 去。 出 家 以 前 に 一品を所望したが、光厳の推挙にも関わらず、勧 修 寺 経 顕 の 反 対 に よ っ て 叶 わ な か っ た (『 後 愚 昧

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記』三月十四日条) 。    『 花 園 』 で は 持 明 院 統 に 奉 仕 す る 姿 が 随 所 に 見 え、後伏見・花園の御幸の供奉人や、行事の奉行 をつとめている。若年時代は故実に疎かったよう であり、賀茂祭の儀式の際に舞踏を忘れ、兄隆有 の咳払いで慌てて舞踏したことが『花園』文保元 年 ( 一 三 一 七 ) 四 月 二 十 五 日 条 に 見 え る。 ま た、 四条家は包丁道の家であったことから、隆蔭は後 伏見や花園の前でしばしば料理の腕を振っている (『花園』文保三年四月十六日条、 元亨二年〔一三二二〕 四 月 十 日 条・ 九 月 五 日 条、 同 三 年 十 月 十 八 日 条、 元 弘 元年〔一三三三〕十一月二十三日条) 。    日 記 に『 後 伏 見 院 御 除 服 記 』、 『 広 義 門 院 御 産 記』 、『剣璽渡御記』などがあり、前二者は古写本 が宮内庁書陵部に所蔵される (伏見宮本) 。 今 日 ﹆ 物 忌 。 依 貴 き 布 ぶ ね 恠 異 事 也   「 物 忌 」 に つ い て は、 三 月 十 九 日 条 注 釈 参 照。 「 貴 布 禰 」 は、 貴 布 禰 神 社 ( 現 在 の 貴 船 神 社 ) の こ と。 山 城 国 愛 宕 郡 (現京都市左京区鞍馬貴船町) に所在。二十二社の一 つ。祭神は、 高 たかおかみのかみ 龗神 。雨乞・止雨の神として崇敬 を受けた。炎旱霖雨のあるごとに、奉幣使が派遣 された。    「 恠 異 」 は、 不 吉 な 予 兆 を 示 す 異 常 現 象。 「 変 異」と同義。時候の異常、火災、陵墓の鳴動など について言われる。正月十三日条注釈「変異」参 照。本日条に見える貴布禰神社の恠異については 不明。

、〕

(和気)

(和気)

  【訓読】

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  晴る。英成朝臣・全成朝臣、朕の腫物に針を立つ。血、多く出づ。後に痛みすこぶる休む。   今日、物忌なり。   【注釈】 英 成 朝 臣   和気英成。生没年未詳。このとき典薬医 師。 『 医 陰 系 図 』〔 医 道 和 気 氏 〕、 『 和 気 氏 系 図 』。 父は夏成。    『医陰系図』 〔医道和気氏〕に「 院 (朱合点) 昇殿 、修理権 大 夫 / 正 四 下 / 医 博 士 」 と あ る。 ま た、 『 広 義 門 院 御 産 愚 記 ( 公 衡 公 記 ) 』 延 慶 四 年 ( 一 三 一 一 ) 三 月二十五日条に「医師英成」と見えるので、これ 以前に典薬医師に補任されたようである。英成の 官歴については、新村拓「中世の典薬寮補任官人 の 検 討 」 ( 同『 古 代 医 療 官 人 制 の 研 究 ― 典 薬 寮 の 構 造―』法政大学出版局、一九八三年、三八三頁) 参照。    『 花 園 』 で は 本 日 条 が 初 見 で あ り、 こ の 後、 花 園の発病や体調不良の際に召されて診察・治療し、 あるいは薬を進めたことが散見する。とくに、正 和 三 年 ( 一 三 一 四 ) 閏 三 月、 花 園 が 上 気 に よ っ て 「 心 神 悩 苦 」 と な っ た 際 に 召 さ れ て 診 察 し、 花 園 の本復後に石清水八幡宮守護の武士のみた霊夢を 語っている (『花園』閏三月二十九日条) 。    また、正和三年二月、丹波長直とともに後伏見 上皇の疱瘡の治病にあたった。このとき、英成と 長直との間で治療に関して相論が発生したが、英 成の主張が認められ、英成には勧賞以外に馬・女 房 装 束 が 与 え ら れ た (『 花 園 』 二 月 三 日・ 六 日 条 ) 。 元 応 元 年 ( 一 三 一 九 ) 八 月 に は、 丹 波 尚 康 と 共 に 衣笠殿に召されて永福門院の病気について評定し (『 花 園 』 八 月 三 日 条 ) 、 同 年 十 一 月 に も、 後 伏 見 の 皇 女 の 病 状 を 診 察 し て 薬 を 進 め て い る (『 花 園 』 十 一月二十一日条) 。    なお、後伏見上皇宛と考えられる「伏見上皇自 筆 消 息 」 ( 鳥 取 県 大 雲 院 所 蔵『 妙 法 蓮 華 経 巻 第 四 紙 背

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文 書 』 第 十 三 紙 ) に は、 後 伏 見 の 腹 痛 を 診 察 し た 英成がその病状を伏見に言上したことが見える。 全 成 朝 臣   和気全成。このとき典薬医師。二月九日 条注釈「和気全成朝臣」 、四月一日条注釈参照。 腫 物   花 園 は 四 月 一 日 に「 小 雑 熱 」 ( 腫 物 ) を 患 い、 和気全成の診察を受けた。このため九日には沐浴 ・毎日拝・毎日念誦・二間念誦などを止め、十二 日にも梅宮祭・松尾祭・平野祭・平野臨時祭など の御禊を行わなかった。この日、和気英成・全成 が針治療を施したが、病状は全快しなかったよう で、二十二日に丹波長直が、二十四日に同行長が 召 さ れ て 蛭 飼 の 治 療 法 の 相 談 が 行 わ れ て い る ( 以 上『花園』 ) 。 針 立   「 針 」 は こ こ で は 針 治 療 に 用 い る 道 具。 日 本 古代・中世前期における針治療は、中国に比べる と 技 術 が 低 水 準 で あ り、 疼 血 ( 悪 血 ) を 取 り 出 す 刺 絡 ( 瀉 血 ) や、 膿 汁 を 排 出 す る 腫 物 の 切 開 な ど の外科的な処置に用いられることが多かった。経 穴に針を刺入し経絡の異常を調整するような高度 な針治療は、中世後期を待たねばならない。    鎌倉時代には、赤く焼いた針で腫物を刺して排 膿する「火針」という過渡的な針治療が行われ、 『 花 園 』 に も 京 極 為 兼 や 後 宇 多 法 皇 が こ れ を 受 け た こ と が 見 え る ( 正 和 二 年〔 一 三 一 三 〕 六 月 四 日 条、 元亨二年〔一三二二〕九月十二日・十五日条) 。    新 村 拓「 医 師 の 開 業 と 診 療 」 ( 同『 日 本 医 療 社 会 史 の 研 究 ― 古 代 中 世 の 民 衆 生 活 と 医 療 ―』 法 政 大 学 出 版局、一九八五年、一〇六~一〇九頁) 参照。 物 ものいみ 忌   三月十九日条注釈参照。

、〕

(藤原)

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(中院)

  【訓読】   晴る。梅宮祭。内侍名子。松尾祭。内侍遠子。平野祭、同じく臨時祭なり。しかれども雑熱の事に依り御 禊無し。権中納言通顕、宣命を奏すること例のごとし。   丑の刻、関白参入す。   【注釈】 梅 宮 祭   四 月 一 日 条 注 釈 参 照。 既 に 四 月 一 日 ( 辛 酉 ) 条 の 頭 書 に「 梅 宮 祭。 内 侍 遠 (高階) 子 」 と あ る。 同 日条と本日条のいずれかは記載の誤りか、もしく はこの日に延引したものか。不審。 内 侍 名 子   「 内 侍 」 に つ い て は、 正 月 七 日 条 注 釈、 二月七日条注釈「掌侍」参照。    「 名 子 」 に つ い て は、 不 明。 『 花 園 』 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) 十 一 月 十 五 日 条 に「 内 侍 藤 名 子 」 が 園 韓神祭に参行し、同三年二月一日条にも「掌侍藤 名子」が大原野祭に参行したことが見える。    「 藤 名 子 」 に 該 当 す る 人 物 と し て は、 日 野 資 名 女 で 西 園 寺 公 宗 室 の 日 野 名 子 ( 生 年 未 詳、 『 竹 む き が 記 』 作 者 ) が い る が、 延 文 三 年 ( 一 三 五 八 ) 没、 正 慶 二 年 ( 一 三 三 三 ) 結 婚 の 経 歴 か ら 逆 算 す れ ば、 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) は 一 ~ 十 歳 ご ろ に 相 当 し、 内侍を勤めるには無理が生じる。従って、別の人 物と考えるのが妥当か。なお、松薗斉「中世女房 の 基 礎 的 研 究 ― 内 侍 を 中 心 に ―」 (『 愛 知 学 院 大 学 文学部紀要』三四、二〇〇四年) も不明とする。 松 まつのおのまつり 尾 祭   山 城 国 葛 野 郡 に あ る 松 尾 神 社 ( 現 京 都 市 西 京区嵐山宮町) の例祭。四月の上の申の日に行われ、 後に十一月の上の酉の日にも行われるようになっ

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た。弁・内侍・官外記が参仕し、上卿の参向はな い (『夕拝備急至要抄』上〔四月   松尾祭〕 ) 。 内 侍 遠 子   高 階 遠 子 ( 女 房 名 は「 兵 衛 督 」) 。 二 月 二 十 日条注釈「遠子」 、四月一日条注釈参照。 平 ひらののまつり 野 祭   山 城 国 葛 野 郡 に あ る 平 野 神 社 ( 現 京 都 市 上 京 区 平 野 宮 本 町 ) の 例 祭。 四 月・ 十 一 月 の 上 の 申 の日に行われた。上卿・弁・官外記・内侍が参向 し、 近 衛 将 監 が 見 参 を 取 り 奏 上 す る (『 建 武 』〔 平 野の祭〕 、『夕拝備急至要抄』上〔四月   平野祭〕 ) 。 同 臨 時 祭   平野臨時祭のこと。平野祭と同じく四月 ・十一月の上の申の日に行われるが、全くの別の 儀式である。天皇が御禊を行った後、上卿によっ て宣命が奏上され使いの五位殿上人に下される。 使いが社頭に参向して奉幣ののち、宣命が読み上 げ ら れ、 近 衛 の 舞 人 に よ る 歌 舞 ( 東 遊 ) や 走 馬 が 奉られる。一脚の案に御幣を二本置く点などは、 賀 茂 臨 時 祭 と 同 様 で あ る (『 江 次 第 』 六、 『 建 武 』 〔(平野)臨時祭〕 ) 。 依 雑 熱 事 ﹆ 無 御 禊   「 雑 熱 」 は、 四 月 一 日 条 注 釈 「 朕 有 小 雑 熱。 ……」 参 照。 前 日 の 腫 物 の 治 療 に よる出血により、梅宮・松尾・平野祭、平野臨時 祭などの御禊ができなかったことを言う。なお、 『禁秘抄』上〔神事次第〕参照。 権 中 納 言 通 顕   中院通顕。二月六日条注釈「権中納 言 源 通 顕 朝 臣 」、 四 月 一 日 条 注 釈「 上 卿 土 御 門 中 納言 通顕 」参照。 奏 宣 命 如 例   「 宣 命 」 は、 天 皇 の 勅 命 を 記 し た 文 書。 漢文体で書かれた詔・勅に対し、和文体の宣命書 きで書かれる。文案は通常、内記が起草した。相 田 二 郎『 日 本 の 古 文 書   上 』 ( 岩 波 書 店、 一 九 四 九 年、 一七三~一七八頁) 参照。    平野臨時祭においては、上卿が陣に着し、内記 に宣命を持たせ、弓場殿にて蔵人に付して奏上さ せる。そののち上卿は殿上に候し、蔵人より宣命 を受け取り、 小板敷にて使いに宣命を与える (『江 次第』六、 『柱史抄』上〔四月   上申日平野祭〕 ) 。

(27)

丑 刻   午前一時~三時。 関 白   鷹司冬平。このとき従一位。三十九歳。正月 十二日条注釈参照。

、〕

  【訓読】   晴る。無事なり。神事に依り精進せず。先々虚空蔵の縁日に依り、幼少より毎月精進するなり。   【注釈】 依 神 事 不 精 進   「 神 事 」 は、 神 祭 に 先 だ っ て 天 皇 が 行う心身潔斎のこと。ここでは賀茂祭の神事をい う ( 四 月 八 日 条 注 釈「 七 日・ 今 日 精 進 也。 ……」 参 照 ) 。 「 精 進 」 に つ い て は、 正 月 八 日 条 注 釈 参 照。 神 事 では僧尼や重軽服の人の参内、または仏経は憚ら れるので、花園は仏事の精進を避けている。 先 々 依 虚 空 蔵 縁 日 ﹆ 自 幼 少 毎 月 精 進 也   「 前 々 よ り ( 十 三 日 は ) 虚 空 蔵 菩 薩 の 縁 日 で あ る の で、 ( 花 園 は ) 幼 少 よ り 毎 月 精 進 を し て き た 」 の 意。 虚 空 蔵 菩薩については、正月十三日条注釈「虚空蔵」参 照。 「縁日」も同日条注釈参照。

  〔

、〕

4 〔 × 今 〕

4 〔 × 恠 異 〕

4

4 〔 × 止 〕 二

(28)

  【訓読】   晴る。物忌なり。これ稲荷社の恠異の事に依るなり。この間、所々の奇恠、連々の変異、もっとも驚くべ し。諸事謹慎す。   神事に依り精進せず。   【注釈】 物 忌   三月十九日条注釈参照。このときの物忌は、 本日から十七日まで行われている。 稲 い な り 荷 社 しゃ 恠 異   「 稲 荷 社 」 は、 現 在 の 伏 見 稲 荷 大 社 の こ と。 山 城 国 紀 伊 郡 稲 荷 山 に 所 在 ( 現 京 都 市 伏 見 区 深 草 ) 。 祭 神 は、 下 社 が 宇 迦 之 御 魂 大 神、 中 社 が佐田彦大神、上社が大宮能売大神で、のちに田 中大神、四大神が加え祀られた。祈雨の神として 朝廷の崇敬を受け、のちに二十二社の一つに列せ られた。東寺の鎮守神としても知られる。    「 恠 異 」 に つ い て は、 四 月 十 日 条 注 釈「 今 日、 物 忌。 ……」 参 照。 稲 荷 社 は、 正 和 元 年 ( 一 三 一 二 ) に 京 都 五 条 以 南 の 祭 礼 敷 地 役 を め ぐ っ て 東 大 寺と争論を起こし、同年十二月、東大寺衆徒が稲 荷社旅所を閉門して稲荷祭の開催を妨害するなど、 混乱状態にあった。本日条の「恠異」についても、 この騒動との何らかの関係が想定される。小島鉦 作「京都五条以南の稲荷社祭礼敷地役と東大寺― 祭礼敷地役に関する十通の『東大寺文書』を中心 と し て ―」 (『 小 島 鉦 作 著 作 集   三   神 社 の 社 会 経 済 史 的 研究』吉川弘文館、 一九八七年。初出一九七四年) 参照。 此 間 所 々 奇 恠 ﹆ 連 々 変 異 ﹆ 尤 可 驚   「 こ こ の と こ ろ、 あちこちで不思議なことがあり、絶えず異常現象 が起きているのは、たいへん驚くべきことだ」の 意。 「奇恠」は、 「人知では思いもよらない怪しい こと」や「不思議なこと」の意。 「連々」は、 「引 き 続 い て 絶 え る こ と の な い さ ま 」 の 意。 「 変 異 」

(29)

については、正月十三日条注釈参照。    正和二年は、恠異や変異が頻繁に起きた年であ っ た。 『 花 園 』 で は 本 日 条 以 外 に も、 五 月 五 日 条 や九月二十九日条に同様の記事が見える。 依 神 事 不 精 進   前日に引き続いて賀茂祭の神事のた め に 仏 事 を 避 け て い る。 「 精 進 」 に つ い て は、 正 月八日条注釈参照。

  〔

、〕

短 冊 也 。

〔 講 〕

  【訓読】   晴る。今日、なほ物忌なり。   今日、如法内々の哥会。 短冊なり。 密々の披 構 〔講〕 。   梵網経、これを読まず。神事に依るなり。   【注釈】 物 忌   三月十九日条注釈参照。 如 法   ここでは「いつものように」の意。正月九日 条注釈「如法密儀」参照。 内 々 哥 会 。 短 冊 也   「 内 々 哥 会 」 は、 天 皇 と 内 々 の 近 臣が行う歌会。公卿が出席し、晴儀として行われ る「御会」とは別種の性格を持つ。藤原定家『和 歌 書 様 』 で は「 中 殿 」 ( 清 涼 殿 で 行 う 晴 儀 の 御 会 ) とは別に「内々常之御会」という項目を立ててお り、これに相当する。    「 短 冊 也 」 は、 短 冊 に よ っ て 歌 を 提 出 す る 略 式

(30)

の歌会であったことを示す。歌会では懐紙を用い るのが正式だが、鎌倉時代中頃からは短冊で代用 する場合もあった。なお、早い時期の短冊の遺品 として、光明上皇以下二十六人のものが尊経閣文 庫所蔵『宝積経要品』 (国宝) の紙背に存する。 披 〔講〕 構   正月九日条注釈参照。 梵 網 経 不 読 之 。 依 神 事 也   「 神 事 で あ る た め、 日 課 の 梵 網 経 読 誦 を 行 わ な か っ た 」 の 意。 こ こ で の 「 神 事 」 は、 前 日 と 同 じ く 賀 茂 祭 の そ れ を 指 す。 正月十五日条注釈「梵網経、如恒読之」参照。

  〔

、〕

( 藤 原 )

4 〔 × 言 〕

( 伏 見 上 皇 )

殿

( 師 信 )

宿

ニ テ 、

七 王 丸 。

( 三 条 )

  「

( * 頭 書 )

( 伏 見 上 皇 ) 二

順 徳 院   御 記 也 。

  【訓読】   今日、また物忌なり。   今 夜、 俊 言 朝 臣 語 り て 云 は く、 今 日、 院、 六 条 殿 に 御 幸 す る 間、 花 山 院 大 納 言 の 宿 所 の 前 に て、 御 牛 飼 七 王 丸。 牛 を 追 ふ と 云 々。 す な は ち 顛 倒 す。 三 町 を 牛 走 り 行 く。 御 牛 飼 共、 さ ら に 留 む る を 得 ず。 こ れ 実 躬 卿 預かる所の御牛と云々。件の卿の牛飼童、牛の鼻を取る。よって無為。この童の高名なり。   「 (頭書) 今日、 仙洞より人左記一合を給はる。 順徳院御 記なり。 」

(31)

  【注釈】 物 忌   三月十九日条注釈参照。 俊 言 朝 臣   藤原俊言。このとき正四位下、蔵人頭・ 右中将。正月一日条注釈参照。 院 ( 仙 洞 )   伏 見 上 皇。 花 園 の 父。 四 十 九 歳。 二 月 三 日条注釈参照。 六 条 殿   六 条 大 路 北・ 西 洞 院 西。 寿 永 二 年 ( 一 一 八 三 ) 十 二 月、 平 業 忠 の 邸 を 後 白 河 法 皇 が 御 所 と し、 域内に持仏堂として長講堂を建立。三月十三日条 注釈「長講堂」参照。後伏見・花園は、後白河・ 後深草院の忌日に六条殿に参ることが多かった。 花 山 院 大 納 言   花山院師信。文永十一年 (一二七四) ~ 元 亨 元 年 ( 一 三 二 一 ) 。 こ の と き 正 二 位、 大 納 言。 四十歳。 『尊卑』一―二〇〇。 『公補』正応四~元 亨元 (『公事』三〇〇頁) 。父は内大臣師継。母は家 女房 (大江季光女。 『尊卑』四―一〇五) 。    弘 安 四 年 ( 一 二 八 一 ) 十 二 月、 叙 爵。 正 応 四 年 ( 一 二 九 一 ) 三 月、 蔵 人 頭 (『 職 事 補 任 』〔 伏 見 院 〕) 。 同 年 七 月、 参 議。 嘉 元 元 年 ( 一 三 〇 三 ) 十 月、 権 大 納 言。 元 応 元 年 ( 一 三 一 九 ) 十 月、 内 大 臣。 そ の 間、 尊 治 親 王 ( の ち の 後 醍 醐 天 皇 ) の 春 宮 大 夫 (『 春 宮 坊 官 補 任 』) や 乳 父 (『 継 塵 記 』 文 保 二 年〔 一 三 一八〕三月二日条) 、邦良親王の皇太子傅 (『公補』 ) をつとめる。    若年より後宇多上皇に近侍し、第一次・第二次 後宇多院政期に伝奏をつとめた。持明院統でも重 んぜられ、その死没時には花園も「和漢之才、不 恥於時輩。可謂良佐。尤可惜々々。依之、明日舞 幷 今 夜 内 々 可 有 御 遊 之 由、 雖 有 沙 汰、 被 止 之 」 (『 花 園 』 元 亨 元 年 十 一 月 一 日 条 ) と 記 し て い る。 和 歌では、 『新後撰集』以下に一七首入集し、 『文保 百首』に出詠した。また、漢学に独自の見識を有 した (『園太暦』延慶四年〔一三一一〕二月五日条) 。    なお、生年・年齢は『公補』正和二年以降の尻 付 に よ る が、 嘉 元 二 年 ( 一 三 〇 四 ) 以 前 の 尻 付 に

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