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中央学術研究所紀要 第43号 059林茂一郎「立正佼成会附属佼成病院緩和ケア・ビハーラ病棟の10年間 ―臨床医から見た生老病死―」

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1.はじめに

 立正佼成会附属佼成病院緩和ケア・ビハーラ病棟(略:ビハーラ病棟)は平成16年 4月の開業から平成26年3月で満10年をむかえ、その間に972症例の看取りを行ってき た。そして、平成26年9月に新病院新ビハーラ病棟へ移行するに当たり、一つの区切 りとして一病棟担当医が経験した疾患のまとめと、それを通してでの日本人の生老病 死を考えてみようと思う。  日本人における死因の第一位を占めるがん〔平成25年8月厚生労働省(略 : 厚労 省)による死因順位〕に対して、平成18年に厚労省は「がん対策基本法」を定め、そ の基本理念として、1)がんに関する専門的、学術的な総合的な研究の推進、2)が ん患者が、その居住する地域にかかわらず、科学的知見に基づく適切な医療が受けら れるようにすること、3)がん患者の置かれている状況に応じ、本人の意向を尊重し た治療方法が選択されるよう体制の整備がなされること、の3点を策定した。  その中で、地域のがん治療の中核をなすべきとされるがん診療連携拠点病院は、平

ビハーラ病棟の10年間        

―臨床医から見た生老病死―

林   茂一郎

1.はじめに 2.緩和ケア・ビハーラ病棟 3.緩和ケア科外来機能 4.ビハーラ病棟入棟判定会 5.緩和ケア科としての統計 6.入棟時疾患名 7.症例 8.ビハーラ病棟を支える力「心の相談員」(スピリチュアルケアワーカー) 9.ビハーラ病棟における看取りとは 10.まとめ

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成26年5月の厚労省資料によると、全国397か所が登録され、地域差を無くした治療の 均一化がなされてきている。一方、がん患者の多くは、疾患の進行による身体の変化、 治療の副作用、身体的疼痛、精神的苦痛、社会的不安、家族に対する気兼ねなど多く の不安材料を抱えて生活をしている。これらを「全人的苦痛」と表現し、がんの診断 がついた時点からこの「全人的苦痛」に対して物心ともに様々な援助が必要とされ、 これらに対する対応を、まとめて「緩和ケア」の言葉で表現しようとしてきた。しか し、医療の現場では、従来(いや現在でも)、この「緩和ケア」をがんに対する根本的 な治療が効果をなさなくなり、がんが進行して末期状態になった患者に対する終末期 医療的な捉え方がされてきた。それゆえ、一般的には「ホスピス」と呼ばれる入院施 設は、本来の「全人的苦痛を和らげ、その人らしい生活を支える」という理念から離 れ、まだまだ終末期医療を行う「終の棲家」的な印象を持たれているのが現状といえ る。  このような状況の中で、平成16年4月に立正佼成会附属佼成病院(略:佼成病院) の一角に「緩和ケア・ビハーラ病棟」が開設された。  本館である佼成病院は立正佼成会開祖庭野日敬師の「病める人の心の修行は佼成会 が担うが、身体の病は病院で担う」との考えから、昭和27年8月交成病院として23床 を有する病院が開設された。  その後、昭和35年には設立理念として「真観」の二文字をいただき、363床を有する 総合病院として病院名も立正佼成会附属佼成病院と改められた。  この設立理念の「真観」という言葉の意味を当時、開祖は、「真観とは、法華経の観 世音菩薩普門品にある語句で、この世の人々が直面している苦(「憂・悲・苦・悩」 −心配や不安、悲しみ、苦しみ、悩み−)について、それぞれの姿・形・有り様(諸 相)をつぶさに知り尽すと同時に、その本質を極めて見とおすこと(菩薩の智慧)と 言えます。身体の病だけを治療する病院ではなく、心身の病を診療し、治療せしむる 病院でありたいと願っております」と述べている。この言葉は、いま思い返せば、当 時からすでにビハーラ病棟の在り方を暗示している言葉であった。設立以来、佼成病 院は地域密着型総合病院としてその役割を担ってきた。  「20世紀」後半、世界の医療界では、1967年に英国のシシリー・ソンダース女史によ り聖クリストファー病院の一角にがんの末期に苦しむ人々のためのホスピス病棟がで き、モルヒネに代表される鎮痛剤の使用により癌性疼痛から解放し、「忘れられていた その人らしさをとりもどす」という緩和ケアの礎がつくられた。その後、エリザベス・ キューブラ・ロスにより『死の瞬間 On death and dying』(米国1970年)が著わされ、そ れまで「生」に向いていた医学に「死の倫理」を考える一石が投じられた。

 我が国では、1973年当時淀川キリスト教病院の精神科医だった柏木哲夫医師により、 同病院に現在の緩和ケアチームの基本となる院内診療組織が結成された。それから遅

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れること、約8年後の1981年に施設としてのホスピスが浜松聖隷三方原病院に設立さ れた。  そのような中、当院でも院内医療従事者、事務部門の有志者が集まり、2000年代当 時から地道に緩和ケアの勉強会が開かれ、いずれは院内にホスピス病棟を持ちたいと の機運が高まってきた。時を同じくして、立正佼成会本部でも社会貢献の一環として 死生学を基本とした医療施設をとの考えが出てきていた。そこで、利用の需要がなく なった旧看護師寮の有効活用として、改築する企画が立案され、平成16年4月に現在 の、1階を腎透析施設、2、3階を32床の療養病棟、4階に12床のホスピス病棟(佼 成緩和ケア・ビハーラ病棟)を有する扶友センターが設立された。その後、ホスピス 病棟は平成16年5月に厚生労働省緩和ケア病棟入院料届出受理施設として正式に保険 診療活動を開始した。

2.緩和ケア・ビハーラ病棟

 前節で述べた如く、佼成病院緩和ケア・ビハーラ病棟は平成16年4月に開設し、入 院患者の受け入れを開始した。厚労省の定める施設基準が認められ、緩和ケア病棟入 院料届出受理施設として正式に保険診療活動を開始したのは、平成16年5月からであ る。  当院ホスピス病棟をあえて「ビハーラ病棟」としたのは、「ビハーラ」とは「仏教ホ スピス」という表現に代わるもので、仏教を背景としたターミナル・ケア施設の呼称 として、1985年に田宮仁氏が提唱したものである(『「ビハーラ」の提唱と展開』、学文 社、2007年)。  田宮氏によれば、「ビハーラ」という言葉は、古代インドにおいて仏教経典などに使 用されたサンスクリットであり、「休養の場所、散歩して気晴らしすること、仏教徒の 僧院、または寺院」というような意味をもつ。往古ビハーラと呼ばれた仏教施設は、 「一には病人に供給す、二に病のための具を求む、三には病者のために看病人を求む、 四には病者のために法を説く、…」と言うような諸機能をはたしていたと言われてい る。他方、ホスピスという言葉には、中世におけるキリスト教の聖地巡礼に伴う宿泊 施設としての始まりから、現代的な意味に至るまで、長い伝統と裏づけのある内容が 存在することはよく知られている。このホスピスという言葉を尊重し、一方で宗教的 立場の違いを明確にするために、仏教用語である「ビハーラ」という言葉を提唱した のであった。このことは、「仏教ホスピス」という「木に竹を継ぐ」ような表現を避 け、仏教の主体性と独自性を求めたからでもあると、田宮氏は述べている。このこと から、当院では母体が立正佼成会ということから仏教系病院として「ビハーラ病棟」 を使用させていただくことになった。

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 また、ビハーラ病棟設立理念としては、当時のビハーラ病棟設立準備委員である立 正佼成会中央学術研究所生命倫理委員会の提言を受け、「法句経第182偈」の「人の生 を受くるは難く、やがて死すべきものの、いま生命あるは有り難し」との精神に立ち、 「世界は、常に変化してやまない、大いなる永遠の生命です。私たち一人ひとりは、自 然の恵み、他者の扶けにより、共に生かされて生きる、かけがえのない生命です。佼 成ビハーラは、喜びも悲しみも共に分かち合い、自らの心を耕しつつ、同悲同苦の願 を生きる人びとの共同体です。私たちは、患者さまやご家族の苦しみをやわらげ、心 穏やかな日々を過ごされますよう、扶友の心をもって、全人的な医療、看護、奉仕に 勤めます」を設立理念としたのであった。  ビハーラ病棟入棟にあたっては、厚労省の定める診療基準にのっとりホスピス・ケ ア診療指針として(図−1)1.誰しも訪れる死に敬意をはらう、2.原則としてが んに対する根本的な治療は行わない、3.疼痛管理を行う、4.精神的・社会的な援 助を行う、5.家族への支えを行う、を定めた。  現場でのビハーラ入棟基準は(図−2)1.悪性腫瘍であること(エイズを除く)、 2.患者および家族が入棟を希望されていること、3.病名の告知は入棟に際して必 要条件ではないが、本人が聞きたいとの申し出があればきちんと説明することを了解 されていること、4.宗教的、社会的、経済的にも差別をしないこと(生活保護を受 けていてもかまわない)、5.余命は6ヶ月以内の方、と定められている。

3.緩和ケア科外来機能

 前述の条件から、入棟希望者の専門相談外来を、週に3日間、それぞれの症例1件 につき40分の時間を設けて、外来日1回につき午後1時から3件を完全予約制で診療 を行っている。

4.ビハーラ病棟入棟判定会

 外来受診された方の入棟に関する判断は、入棟判定会として週に2回、複数の職種 (医師・看護師・ソーシャルワーカー)の出席をもってなされた。  患者本人、または家族の外来における問診の結果と主治医の診療情報提供書と当院 の用意した診療情報提供書(図−3)をもとに、各症例に関してそれぞれ入棟審査後 入棟許可を行い、必要に応じて入棟日を決定した。中には、しばらく元気で、在宅療 養を行っているが、体調にすぐれず、再び疼痛が強くなり、通院などが困難になった 場合に備えて事前の入棟登録を行う患者もいる。担当医から、新たな入院の相談にと

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言われ、そもそも「緩和医療とは、ホスピスとは」の相談のために受診し、改めて考 え方を整理して、後日、外来を再受診される症例もあった。

5.緩和ケア科としての統計

 平成16年4月から平成26年3月までの10年間の数的な動向をみると、図−4のごと くであった。 ◆ 外来受診件数:緩和ケア科外来を受診された患者数(診療録の件数)は10年間で1709 件であった。その中には入棟の希望届を済ませたのちも在宅にて療養されている方 もおられる一方で、当科受診後、状態急変に伴い紹介元の施設で亡くなられた方、 在宅から他の病院の一般病棟へ救急入院された方などがあるために、外来受診件数 が入院件数と同じになってはいない。 ◆ 入院患者数:外来受診後、入棟判定基準に合い入棟が許可されて、入棟された方は、 平成16年4月から平成26年3月までの10年間に計972症例であった。 ◆ 男女比:入棟された方の男女比は、男性:492名、女性:480名とほぼ同数で差はな い。 ◆ 在院日数:最長は833日で平成17年5月から平成19年8月29日まで入院されていた 症例。最短というのは、入棟された時の状態がすでに悪く、入棟のあと急変してお看 取りをすることしか手立てがなかった症例である。平均在院日数は約33日であった。 ◆ 年齢別:入院患者972名を年齢別にみると、最高齢の方は98歳、最年少の方は27歳で 平均値は74歳であった。 ◆ 紹介元:佼成病院院内の他診療科からの紹介が292例、他の病院・施設からの紹介転 院が591例、在宅療養中で往診のかかりつけ医からの紹介入院が100例であった。症 例数に重複があるのは、治療を受けていた病院から在宅へ退院時に合わせて今後の 対応としてあらかじめ入院手続きを取っておきたいという症例で、治療施設と在宅 からの双方に集計している。また病院と病院の連携で治療施設からその後の経過観 察として佼成病院へ転院したあとビハーラ病棟へ紹介転棟された症例などは、院内 と院外からの紹介として双方に集計されている症例もある。  外来受診の方々(本人ならびに家族)が緩和ケアそしてホスピス病棟の役割、意義 をあらかじめ調べ、理解されているかは、その理解度にもよるので一概に何%とは数 字では言い難いが、多くの方が、治療を受けている医師から「治療の手立てがないの で、後はホスピスを考えてほしい。治療をしない以上、こちらの病院に入院はできま せん」と言われ、なにも分からず、「家に帰っても介護の手がないので、そちらに行け ば入院させてくれると聞いて来たが、入院させてくれるのか、くれないのか」と切羽

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詰まって問いかけてくる家族も多く、改めてホスピスの役割を説明させていただきな がら、まだまだ医師の中にも緩和ケア・ホスピスの役割に理解を得られていない現実 があると痛感させられている。  しかし中には、特に50歳代前後の女性の場合は現代風にネット情報である程度の知 識を得たのち、自分の生き方として「こうしたい」と考え、外来での話が終わった後 で「今の説明で、自分の体と相談しながら無理のない生活でいいんだと分かりました ので、介護のケアマネージャーと相談しながら、もう少し家でやってみようと思いま すので、体調が悪くなったら連絡します。何か気が楽になった気がします」と帰られ る方が多いようである。  その他、よくある質問として、外来でのやり取りをいくつかまとめてみた。  男性の患者の中には、「ホスピスに行けば、酒が飲めると聞いて来たけど、タバコも いいですか」と問う豪の方も結構多く、「お酒はほどほどに、タバコは困ります」、「家 に小さい犬がいるけど会えますか」、「ゲージに入れるとか、走りまわらないようにし て、お部屋に入れてくれれば結構です」とか、お年寄りの女性の場合は「今の病室で は年齢制限で孫に会えないけど、ホスピスはどうですか」、「年齢に制限はしませんよ。 ホスピスに入っている方たちにとっては子供の声は意外といやではなく、元気がいい のが来てるねと、好意的にとらえられる方が多いようで心配いりません。面会時間も 仕事帰りで遅くなったとしても、面会に来ていただくことに意義がありますから、ご 家族が遅くなってもかまいませんよ」。でも意外に多い質問に、「入ったらもう退院で きないのですか」というのがある。高齢の患者にとっては、旧態依然として「老人ホー ムに入れられた」的な考えを持つ方が多いのではないかと思う。  入院患者の男女数に大差はない。在院日数に関しては833日という最長の症例がある が、この症例は生活保護受給者の男性で、行政の担当者により入院したのだからと、 借りていた住居が処分されてしまい、まさしく「退路が断たれてしまった」状況で、 疼痛管理、食事管理をしっかりしたところ生活が安定し、幸いにもがんの進行が思い のほか遅く、最終的には他の療養病床専門の施設に転院となった。一方、在院日数の 短い症例の中には、本人及び家族の意向が、体調が悪くても移動による危険を考えて も、最後はホスピスでとの意向が強い症例がある反面、主治医の予後判定が検査値か らの判定で患者自身の体調を考慮せず、まさしく「病気を見て病人を見ず」の状況で、 ビハーラ病棟に転入したその日に家族へ死期の迫っていることを改めて説明をさせて いただくこともあった。  それでも結果が看取るためだけに入棟したようでも、一般病棟ではなしえない、短 いけどゆったりとした時間が過ごせたと感じていただける家族もいた。  年齢に関しては、98歳の方は2名で、どちらも女性、疾患は直腸癌と上行結腸癌で あった。最年少の方は27歳の女性で脳腫瘍であった。

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6.入棟時疾患名

 疾患病名(図−5)は紹介元の医師の記載に従ってまとめてある。最も多いのは肺 癌で246例、ついで胃癌が102例である。以下、(図−5)で、症例数が一桁の疾患に関 しては下方に疾患名のみ記載してある。  頭頸部の腫瘍に関しては頭頸部癌としてまとめ、45例ある。  それぞれの症例頻度を厚労省発表の「人口動態2011年主な部位別がん死亡数」と比 較してもほぼ同様の傾向で、肺癌、胃癌が多数を占めていた。

7.症例

 ビハーラ開設10年間の症例の中には、いままで学んだ医学の教科書にはない、まる で天からなにかのご縁でいただいたと思えるような経験がいくつもあった。 【症例:初めての患者】  ビハーラ病棟に初めての患者を迎えたのは、開設して間もない4月中旬であった。 〔年齢60代男性、診断:肺がん。在院日数3日〕  患者本人、妻、娘の3人家族で、当院にホスピス病棟(ビハーラ病棟)ができるの を情報として聞いていたとのことで、在宅で経過を見ていたが、体調をくずして、当 院内科病棟へ緊急入院して体調管理を行っていた。そのような時期にビハーラ病棟が 開設し、患者本人の状態は同じ敷地内とはいっても病室間の移動が負担になるのでは と我々は考えていたが、患者本人と家族の「ホスピスで過ごす」との考えがしっかり しており、緩和ケア科ビハーラ病棟への転科転棟を行った。病室へ到着した時の本人 の状況は決していいものではなかったが、「病室へ着きました」との声掛けになにか落 ち着いた表情をされたように受け取れた。  それから、家族は2時間ほどで自宅から本人のお気に入りの CD や絵画を病室へ運 び込み、自分なりの小さな部屋が出来上がっていった。そしてそれを待っていたかの ように、友人たちが面会に訪れ始めた。家族から軽く病状説明を聞いた後、部屋に入 り、普段のようにお声をかけると、本人も「おう」と一言、言って軽く手をあげ、会 話はできないが、ベットの脇で交わされる昔話に聞き入っている様子であった。ひと しきりおしゃべりが終わり、友人たちはそれぞれに「また来るよ」と言って帰ると、 家族は本人のお気に入りの CD をかけながら、すこし疲れたのか目を閉じている夫で あり、父である患者のそばで、語りかけるように、時には病室の外にまでもれてくる 笑い声も交えながら、今聞いた昔話に花を咲かせていた。  ビハーラ病棟での時間は3日間という、私たちにすれば短いものであったが、この 家族にとっての考えは「夫もビハーラ病棟で過ごすことを希望していたし、満足だっ

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たと思います。与えられた時間は短いけれど、みんなで話し合ったような介護が出来 て、私たち家族も濃い時間が持てたと思っています」との声を残して帰った。 【症例:病状の理解と気遣い】  患者たちは、一様に自分の病状が知らされていて、家族もその病状を理解している となると、自分の病状の心配以上に、家族の事が心配になってくる。当たり前と言っ てしまえばそれまでだが、病状が厳しくなり、その説明のために家族を呼び、話をす ると、多くの場合「いま母から言われてきました」「その件で、言い合いとまではいか ないが、おやじから責められました」と言う。例えば、高齢の母親の場合、娘さんに 小さな孫がいると、一緒に会いに来てくれることはとても気晴らしになるし、ひと時、 病気の辛さも忘れて過ごせるのだが、たまたま子供をお婿さんに預けて夜遅くまで病 室にいると、こんな会話が多く聞かれる。いわく「もう遅いから帰りなさい、ママが いないと子供が泣いているよ」。娘が「今日は辛そうだから、もう少しいますよ、子供 はパパが見てくれているから」。すると急にしっかりとした声で「何を言ってるの、子 供が泣いている時は、母親のあなたがそばにいてあげなくてどうするの、あたしは大 丈夫だから帰りなさい」。大丈夫といったって、具合が悪いから医者が家族を呼んだこ となので、私は「帰ってしまっていいんですか」と聞くと、疲れているのに、その時 はしっかりとした声で「先生、あたしは大丈夫です、お陰様で、痛みがあればすぐ薬 を足してくれるし、なにかあれば看護師さんがしてくれる、でもね、小さい子供がつ らい時には母親がいてあげないとね、私はそうして子供を育ててきたんですよ、パパ に預けてなんて、わかってないですね、だから私は大丈夫だからって言いましたよ」。 これを聞いて、つくづく「母(母性)強し」と思い知らされた場面が多くあった。  一方父親の場合は、息子に対して自分の仕事(会社とか)を継いでくれているとか、 息子なりの仕事についていることを頼もしげに話をしてくれる。遅くなっても仕事を 終えてから病院に来ることはありがたいと感じているようである。ところが本来なら 仕事中の時間に来ると「会社はどうした、お客に失礼じゃないのか、俺は落ち着いて いるから、早く戻りなさい、俺は客を待たせたことはないぞ」などの会話が聞かれる。 ここで大事なことは、患者を含め家族みんなが病状を理解しているということである。 理解しているからこそ、昼間にも面会に来てあげたいと思うし、遅くまでそばにいた いと思う。しかし、それ以上に患者さんは家族がしっかりと生活をしていてくれるこ とが大きな安心、心のよりどころとなるのであろう。だからこそ、患者から病状を隠 すのではなくきちんと説明をして、せめて医療者は痛みをとり、家族と一緒になって 患者の生活の底支えをしなければいけないのではないかと思う。

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【症例:病状(余命)を知りたい】  地方に一人暮らしをする母親(80歳)で、卵巣がんの病状が思わしくないので、地 方から東京のビハーラ病棟へ引き取るために転院された。家族は近くになったので毎 日の如く、特にお嫁さんは一生懸命に、着替えなどを変えに見舞いに来る。ところが、 ここで二つ問題点があった。第一は、本人に病気の診断名、病状が伏されていたこと。 第二に、患者とお嫁さんの仲がよくないということであった。第一は、特に高齢の方 に対してはよくあることなので、あまり気にもかけていなかった。問題は第二点であ った。それは、自慢の一人息子だったのが、自分をおいて東京に行ってしまい、まし て東京で嫁をもらったことが自分には息子をとられたと感じていたようであった。現 に嫁さんがお見舞に来ると、背を向けてしまう。そんな折、自分の病気がなんなのか、 東京まで来ても病状はよくならない、その上、嫁はお節介にも毎日のごとく来るけど、 どういう意味があるのか不安に思い、「自分の病気はなんですか、日々悪くなって行く けど、本当のことが知りたい」と訴えてきた。前にも述べたように、ビハーラ病棟の 入棟基準に、本人の知りたいという意思があればきちんと説明させていただくと記し てある。そこで、日を改めて家族全員に集まってもらい、本人を囲んで病状説明をし た。「経過は決してよくないこと、だから家族皆さんがそれぞれあなたに対してやるべ きことをきちんとしているのです」と伝えた。そして話し合いが終わり、「また明日来 るから」と家族が席を立った時に、患者からお嫁さんを呼び止め「ありがとう、明日 も来てくれるの」と声がかかった。現場に立ち会った私も含め師長、看護師みんなが 「これで、この家族はこれから来るつらいことも乗り越えれそうだ」と思った。 【68歳女性胃癌の症例】  ある日、病棟師長が病室に呼ばれた。「私の時間はあとどれほどでしょうか」「なぜ ですか」「いま広い部屋を使っていて、孫たちが来て遊んでいるのを見ると、ひと時ほ っとするんです。でも家族の経済を考えるとね、あと1か月ぐらいなら、いまのまま でゆったりと過ごしていたいけど、それ以上になると、あまり無理は言えないし」(多 少広い部屋であるため、保険の入院費のほかに差額料金が上乗せになる)「一度家族み んなと、医師も含めて考えてみてはいかがですか、大事なことだと思いますから」。後 日、家族と医師、看護師が病室に集まり、母親の思いを聞いた。当然といえば、当然 だが息子から「そんな心配しなくてもいいから、自分たちでなんとかするから、ゆっ たりして下さい」と、すると母親はしっかりした口調で「ありがとう、でもね、あな たの財布の中はお見通しだよ。あなたたちに無理はさせられないからね。でも、先生 があと一か月というなら、最後の贅沢を甘えたいけど、だけどもう少し時間があるな ら、師長さん、小さくても差額の無いお部屋に移る順番に入れて下さい、先生どうで すか」。私は、母親の雰囲気に少しおされながらも「日常的な行動からすると一か月は

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落ち着いて生活出来るけど、3か月となると難しいと思います」と告げた。師長が「お 部屋の準備をしましょうか」。息子は母親に促されるように「お願いします、これで母 の心も落ち着くと思いますから」。母親は孫を見て「おばあちゃんのお部屋、少し小さ くなるけど遊びに来てね」。少し小さくなった部屋からは、お別れの時まで、いままで より孫の大きな声が廊下まであふれていた。 【症例:記憶にのこる、一言】 〔77歳男性前立腺癌〕  残された妻から、「あなたは今まで家族に心配をかけまいと、すべての事を自分で対 処してきましたね、突然死があると前の医師から聞いていたけど、最後の時も自分で 決めて逝ってしまうんですか、でもこれじゃ私たち心が追いつきませんよ。すべて決 めてしまうんだから」。 〔77歳男性肺癌〕  長いこと疎遠にしていた娘さんと、久しぶりに会って、「俺はここで死ぬから、あと の事は頼むよ」。娘さんは憮然とした顔で帰っていった。「疎遠にしたのは俺だからな、 こんど娘がきたらアイスクリームでも食べたいな」。でもその後、面会には来なかっ た。「俺の人生って、最後にアイスクリームも食えないのか」。(もちろん、本人は、ア イスクリームではなく、娘さんにもう一度会いたかったのだろう。でも生きてきたよ うにしか死ねないと言うけれど)。 〔43歳男性肺癌〕  妹、弟に対して「しっかりしろ、私に頼るな」。状態が落ちてきて、「そろそろ向こ うへ行ってもいいかな」。妻は落ち着いて「いいですよ」。「もし息をしなくなっても起 こさないでね、つらいから」。 〔73歳女性肺癌〕  前の病院の受け持ち医が見舞いに来た際に、患者から医師に「ここに紹介して来ら れてよかった、痛い点滴はしないし、うっとうしい酸素のマスクもしなくていいから、 夜はよく眠れるようになりました」。医師は「見学に来てよかった、でも今までやって きたことはなんだったのでしょうかね、患者さんがつらいと思うことも考えなくては」 と(緩和ケア医が一人増えた)。 【症例:死を認める時】 〔67歳女性診断:乳癌〕

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 おばあちゃんを大好きなお孫さん(女の子)であった。在院日数は11日間。状態が 危うくなって、家族が集まるのを感じ取るかのように、息が止まり、心臓の拍動も止 まった。私はその報告を受け、病室へ入り、呼吸と心臓の動きがないのを確認し、家 族へ(大人たちへ)その旨を伝え、臨終の時間を決めようとした時、大人たちは「わ かりました」と言ったが、女の子がおばあちゃんの手を握って「やだな、お別れ、ま だ言えない」と言い始めた。そんなこと言われてもと思ったが、女の子を見て、どの ように説明すればいいかと迷った。しかし、その現場でとやかく言うわけにもいかな いと思い、「お別れできるようになったら、呼びに来てね」と病室から出た。勤務室に もどり、看護師たちと対応を考えた。いわく「お別れを許さないといったらどうしま しょうか」、「いつまで待てばいいものでしょうか」、自分も今までこの事態で「いや」 と言われたことがないので、対応策に苦慮していたら、ある看護師から「とことん待 ってみましょう、ここの病棟は急ぐ場所ではないのですから」と助け舟が出された。 しかし、お孫さんが、看護師のところに来るのにそんなに時間はかからなかった。「お 別れにするから、来てください」というので、私は「どうしてお別れにするの」と聞 いた。女の子はなんのてらいもなく「さっきから声をかけているけど答えてくれない し、おばあちゃんの手がだんだん冷たくなって硬くなっちゃった。だからお別れなん だよね」。「それでは、お別れに行きましょう」と病室に入り、家族に「いかがですか」 と声をかけたら「もう大丈夫です、家に帰ろうと思いますので時間を決めて下さい」 となった。でも、女の子が寂しそうにしているので、「先生がおまじないをかけるか ら、お疲れさま、ありがとうと言って、自分の左胸をトントンと2回たたいてね。そ したら、いつもおばあちゃんはあなたと一緒にいてくれるから、お出かけの時にはい つも、トントン一緒に行こうねって、声をかけてね。では、お別れの時間を決めまし ょう」。自分の時計を見て、時間を告げた。それから「いいですか、おばあちゃん、お 疲れさま、ありがとう、トントン」。女の子に「おばあちゃん入ったかな」と聞いた ら、女の子ではなく、患者の長女(女の子の母親)の方が「しっかり入りました」と 言ってまわりにいた大人たちにも少し笑いがこぼれた。  このおまじないには、後日談があった。1年ほど経った時に、長女の方から手紙が きた。母が亡くなってからそろそろ1年が経つが、ある日、母の写真を眺めていたら、 娘(孫)が来て「どうしてママは悲しそうなの」と聞くので、「悦ちゃん(祖母のこ と)いなくなっちゃったでしょ、だからね、時々写真を見るの」と言ったら、娘が「マ マには悦ちゃんいないの、私にはいつもここにいるよ」と、胸をたたくのである。「先 生がトントンとたたくといつも、一緒にいるように言って、おまじないで入れてくれ たでしょ、だからいつも一緒にいるよ」と言われ、私もトントンとたたいてみた。娘 に教えられた、という文面であった。

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8.ビハーラ病棟を支える力「心の相談員」

(スピリチュアルケアワーカー)

 キリスト教立系病院にみられる「チャプレン」的な存在について、傾聴ということ に重きを置いて、開設当時からその有り様が検討されてきた。  開設当時は「チャプレン」的な存在意義を文章化しようとしてきたが、「チャプレ ン」の意味するところが日本においてはまだまだ一般の方には受け入れられていない ように思われる中で、当院でも、開設当初、意気込みの割には相談員との会話を希望 される方は非常に少なく、中には「心の相談員」という名前に「心を見透かられるよ うで自分には必要ない」という方もいた。それでも、相談員の方々の地道な努力で図 −6のような催し物が毎年行われてきた。いくらホスピスが一般病棟に比べ開放的と 言っても、ある意味で閉鎖社会であるので、それぞれの催し物は日常を取り戻す良い 機会になっている(写真1・2)。

9.ビハーラ病棟における看取りとは

 本ビハーラ病棟では、亡くなられた方の症例検討会を後日行っている。ある時、前 述の女の子の発言をめぐり意見がかわされた。その中で、家族の言葉が「わかりまし た」から「もう、大丈夫です」に変わったことに注目が集まった。はじめの「わかり ました」は、なにがわかったのか。そしてその後の「もう、大丈夫です」はなにが大 丈夫になったのか。女の子の「冷たくなって手も硬くなってきたから、お別れにする」 という判断基準は、何に基づくものなのだろうか。  看護師からこんな話がでた。「一般科の病室では、先生が病室に入ってくると、家族 は一応にベットから離れ、『ご臨終です』と死を告げて、先生が病室から出た後に、私 たちはまず家族にこれからの対処の流れを説明し、その後点滴の針や酸素のマスクな どを外す時に、『点滴の針は痛かったですね、酸素のマスクはうっとうしかったです か』とか、『寝間着をなおすのですこし体を動かしますよ』と声をかけながら処置をし て、そんな時、患者のベットを遠巻きにしていた家族が近寄ってきて、『まだ聞こえる んですか、手に触れてもいいですか』と聞いてくることが多いのです。『そうですね、 聞こえてると思いますよ、どうぞ手を握ってあげて下さい』と言うと、そこであらた めて、手を握りながら家族は、『お疲れさま、つらかったね、頑張ったね』と声をかけ ながら、『まだ手も温かいですね、でももうだめなんですよね、わかりました』と、た ぶん自分に言い聞かせているような場面がよくありますよ」と語ると、周囲の看護師 も自分も経験があるというようにうなずいていた。  看取りの後に、残された家族の心の動揺はいつ、なにを感じて、なにを認めて、お さまるのだろうか。緩和ケア病棟以外の多くの一般病床では、今でも心臓停止が、即

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臨終を意味し、家族からすると、医師の言ったことを「わかりました」と言うしかな い現状である。  では、当院のビハーラ病棟は看取りをどのように考え、対応してきたのか。この10 年間に患者の訴え、要望、家族への説明、理解と協力が少しずつ変わってきた。  患者とのやり取りで初めに問題となったのは、全身状態を監視するための「心電図 の警報音(ピンポーンとかピーとなる音)がうるさくて耳につく」というものであっ た。確かに「がん」の終末期に入ると、心臓のリズムは決して一定ではなく、常に警 報閾に入ってしまう。では、そのたびに薬を使って対処できるものかというと、通常 の心不全ではないので、薬の効果は期待できない状態である。(ただし、一般病棟では ここから薬を使い始める)。となると、徐々に弱まってゆく心電図の音を聞かされてい る本人には、決して「いい音」ではないのは当たり前かもしれない。そこで、音量を 下げて勤務室の奥の方で監視をはじめた。  次に、患者さんから出てきた要望は、「心電図モニターのケーブルがうっとうしい」 というものであった。そして、モニターのケーブルがずれて警報が鳴ると、看護師が きて「大事なものだから、とらないでください」と言うけど、「とろうとしたわけでは ないのに、動いた時に外れてしまった」というのであった。前の項でも書いたが、「が んの終末期」の患者にとってはいろいろなものがうっとうしくなり、外してほしいと いう訴えが多く聞かれる。しかし、モニターを外してしまったら、呼吸の状態、心拍 の回数などが当然の如くわからなくなり、いわゆる世間でいう「もうそろそろ危ない ので集まってください」と家族を呼ぶ時期の判断が出来なくなってしまった。  では、家族にどう説明してゆくか、「がんの終末期で死期が迫っていること」を十分 説明したうえで、当方も十分注意して巡回をするが、モニターを付けていなければ、 「その時」を把握することは非常に困難であるとしたうえで、希望があることを前提と して家族に同室をしてもらい、一緒に経過を見ていくことにした。しばらくして記録 を調べてみて、家族の同室が呼吸停止などの情報収集にどれほど役立ったかというと、 50∼60%の家族しか「その時」を見つめていなかった。では、どのような状態の時に 「旅立ち」となるのかというと、「うたた寝をしていて、気がついたら、止っていまし た」「トイレから帰って気がつきました」、「真向いのコンビニ行って帰ってきたら」な どなど、せっかくその場に居合わせたのに、なぜという場面が意外に多く、家族から も「なぜうたた寝なんかしたのか」、「トイレなど我慢すればよかったのに」、まして 「コンビニなんか行かなくてもよかったのに」となった。しかし物事は考えようで、も し本人が苦しがっていたら、家族にとって本人がなくなることに心が追いつかず、心 配で心配でとなれば、片時も離れられなかったことかもしれない、でも痛みもおさまり がついて付き添いの方の心も落ち着いていたなら、患者はまるで周囲の心を見透かす ように「すーと」旅立ちの扉をあけるのではないのだろうか。そう考えると、一見なに

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もわからず目を閉じているようでも、周囲の気配はしっかり感じているとしか思えな い、またはそう考えないと残されてゆく者にとってはとても辛いことになってしまう。  そして、いよいよその時、呼吸が止まり、心臓が止まり、まさしく医師が、臨終の 時を告げようとしたその時に、先ほどの女の子が現れ(いや、現れてくれた)私たち の看取りに一石を投じてくれたのである。  まず、家族たちの「わかりました」の言葉の意味をどのように考えたらいいのか。 ここで、ビハーラ病棟の始まりに立ち返って、「心電図の警報音は耳につく」「ケーブ ルはうっとうしい」「つけなくていい」という患者の訴えを考えてみたいと思う。「が ん」という病気は、今はまだ(いや今後も)、あるところまで進んでしまったら、まさ しく押えることの出来ない不治の病で、終末期の峠を越えてしまったら、確実に死期 に向かっていく。そんな病態の中で、最後の瞬間に血圧が下るといって昇圧剤を打と うが、心臓の動きが不整になったからといって、起死回生の特効薬があるわけでもな いのが事実である。しかし一般病棟では、ここからいろいろと薬を使い始め、医師は 薬の説明を家族にし始める。すると家族は「先生が最後まであきらめずになにかやっ てくれている」と思い、患者の様態ではなく、薬の効果に期待感をもって「監視のた めの心電図モニター」の音、波形に一喜一憂することになる。そして、親類縁者がみ な集まってモニターを見ながら、「どうだい、まだもっているのか」「いま先生がいろ いろ薬を使ってくれているところ」「そうか、まだ止まらないのか、間に合ってよかっ た」となる。しかし、使用している薬はその場しのぎにもならない薬とは言わないが、 所詮「がん」により落ちてきた体力や心臓機能がもとに戻るわけもなく、ほどなくモ ニターの波形が乱れ始め、医師、看護師があわただしくベットの周りを行きかい、ベ ットのそばにいた家族はだんだん部屋の周囲に立ちつくし、事の流れを見まもるだけ になる。そんな時に、モニターから心臓停止の警報音が鳴り響く。医師も看護師も家 族も、みな一斉にモニターを見つめる(患者ではなく)、思わず患者の手を握っていた 手も離してしまう。そして突然、医師が「いろいろ薬を使ってみましたが、モニター を見てお分かりのように、心停止状態です。残念ですが、○時○分ご臨終です」。家族 から「そうですか…わかりました」「なにかもうすこし頑張ってくれると思ったんです が、わかりました」家族がぼーぜんと立ち尽くす中、医師は立ち去り、看護師の死後 の対処の説明が始まり、前述の「まだ聞こえているんですか、まだ温かいですね、で ももう駄目なんですよね」の会話になる。  「わかりました」とは、医師が現代の科学的な手法により決めた「心停止で、今が臨 終の時」だということが「わかりました」というだけで、心の動揺はまだ収まってい ないのではないだろうか。  では、女の子の価値観で決めた「お別れの時間」に対して、大人たちが示した「も う大丈夫です」はどう考えたらいいのだろうか。呼吸が止まり、心臓の機能が停止し

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た状態は誰が見ても臨終であり、もう戻ることはないのは百も承知しているけど、で も体は温かいし、手の関節もやわらかい、顔は穏やかで、問いかければまだ最後の力 で答えてくれるかもしれないそんな状態では、いくら科学的にとはいっても、もうそ の世界の問題ではないのではないか。事件性があり、何時何分という時間が問題にな っているのではなければ、そして医師が責任を持って経過を把握し、病死または老衰 死であれば、死亡時刻を決めるのはまさしく医師の専権事項である(厚労省 H25年死 亡診断書記載マニュアル)。しかし、臨終という何物にも変えがたい辛い時間を科学の 時間で押し通すのではなく、古来「死とは冷たくなる」と言われるのであるから、冷 たくなるまでの、あえて言うなら看取られる人の人生に比べればほんの短い最後の時 間を、残された者たちが手を握り、体をさすりながら「お疲れさま」「ありがとう」と いう間、医師はあえてそこに入り込むことはせず、看取る者が「もう大丈夫です」と 言うまで、責任を持って見守るのが医師の役割であり、かつその必要があるのではな かろうか。  ただし、モニターも使用しない、薬を使用しなくても大差ない、自然に「その時」 を待とうというのであれば、状態が落ちてきた時には、家族に対しきちんと今後の 「死」への経過を説明し、モニターの意味、薬の意味についても家族全員の理解が得ら れるまで繰り返し説明し、理解をえる必要は医療者に求められることになる。

10.まとめ

 緩和ケア・ビハーラ病棟の10年間の歩みを972例の症例を通して顧みてきた。現在、 日本国民の死亡率第一を占める「がん」患者に対する緩和ケアの入院施設としてのホ スピス病棟の役割は、1.除痛管理、2.生活状態の改善、3.その人らしい暮らし、 4.家族とのつながりの援助、5.看取りなどが挙げられる。その中で、本来は1∼ 4の項目がホスピスの役割として最も重要で、多くの時間をかけて取り組まなければ ならない事項である。ここでは、それらの過程の集大成として必ず訪れる「死」、中で も「看取り」に関してビハーラ病棟が取り組んでいる「看取り」を中心に、数的な変 遷、人的なかかわりをまとめてみた。  972症例はどれをとっても同じではなく、対応もそれぞれ異なっている。しかし、10 年の間には同じではないが、似たような症例も散見され始め、それぞれに応用がきく ようになってきていると思われるのも事実である。中でも注目すべきは、ここ数年、 ビハーラ第2世代というか、ビハーラ病棟で父を看取って、今度は母を看取るとか、 兄弟間、親類間、また他施設のホスピスを経験している人たちも出てきて、こちらが 「ホスピスとは」と説明しなくても、ビハーラ病棟の意義、価値、利用の仕方を理解し てくれる家族の人たちも出てきていることである。

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 1981年、我が国に初めてのホスピス病棟が浜松の聖隷三方原病院に開設されてから 約30年が過ぎ、2014年6月には全国269施設5474床のホスピス病床を数えるに至った。  今後、国の政策が在宅医療を進める中、地域のホスピスはどうあるべきであろうか。 一概にホスピス病棟と言っても、従来のようなホスピスでゆったり過ごす家族もいれ ば、在宅介護の家族に対する一時預かり(レスファイト)的な性格を有する病床の要 求、何らかの理由から在宅での看取りが困難になった時の超短時間の駆け込み的利用 等を考えなくてはならない。  2007年、「がん対策基本法」で緩和ケアが謳われてから7年が経つ。当初、イメージ された緩和ケア、すなわち終末期医療はどうなっているのだろうか。いまだに大きな 変わりはないの感は否めない。  国は「がん」と決まったら、「緩和ケア」と言うが、もともと緩和ケアの役割は「が ん患者」のためだけにあるだろうか。いかなる疾患も、例えば虫歯一本にしても、多 かれ少なかれ生活の質を下げることには変わりはない。歯が痛くて堅い食ものが噛め ないなら、柔らかくする。歯科受診の手配をすることも緩和ケアであろうし、わが子 の病にみられる母親の無償の看護はその究極かもしれない。なにも難しく考える必要 はない。辛いと思っている痛みを和らげるのに薬を使うのか、人のぬくもりを必要と するのか、どのように対応してゆくべきか。患者を中心として、その周辺に患者を支 える家族がいて、その患者と家族を含め、多種多様な医療関係者(医師、看護師、医 療相談員、カウンセラー、宗教家など)が支え、そして関係者みんなでよかれと思う 方策を考える。まさしく「三人寄れば文殊の智慧」が、緩和ケアの第一歩になる。最 近では、心不全も長い時間一喜一憂を繰りかえしながら最終的には死にいたる病で、 その時その時で患者と今後の人生を考えていかなければいけないというある意味では 「がん」に似ている。そこでは循環器系の医師は、特に患者の体調がいい時にこそ今後 の人生計画をしっかりたてさせ、疼痛管理を確立して、患者の生活を責任をもって見 守っていく必要があると言い始めている。  前に述べた「がん対策基本法」で緩和ケア的な考え方や治療のできる医師、看護師、 薬剤師、ソーシャルワーカーなどの育成が推し進められているが、まだまだいたらな いことばかりである。  今まで頑張って「がん」に対する治療を行ってきたが、ここに至って薬の副作用の 方が治療効果を上回ってしまった。今後は抗がん剤との戦いではなく、生活重視の経 過観察に切り替えていきたいと思う。今後、患者の身体全体の経過観察は、私がこれ を行っていくが、痛みとか、吐き気とかの管理に関しては、専門の緩和ケア医と連絡 を取りながら進めていきたい。患者に対しては、在宅介護とか訪問看護、通院が辛く なってきたときの在宅医の手配などもきちんと進めていくために、「医療相談の担当者 としっかり連絡をとっていけば安心ですよ」と説明すれば、患者の不安も和らぐ。し

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かし、「あなたにはもう治療方法がないから、緩和ケアの外来へ行きなさい」というよ うな考えを医師が押し付けると、患者は見放された不安な気持に駆られてしまう。緩 和ケアの外来に来て、帰りに「なにか落ち着いてきました、もう少し自分なりにやっ てみます。」と言いながら、帰る患者は多いのである。それは、やることがないのは 「がん」に対する治療が自分の体に合わないことで、今後の生活のしかた、痛み止めの 使い方、食事のこと、在宅のこと、福祉との連携のことなどなど挙げればきりがない ほどやるべきことはたくさんあるのである。患者も家族もやることがないのではなく、 辛いけど、生きるためにやれることがあるのだと気づけば、また勇気が湧いてくるの ではないだろうか。そして最後の瞬間まで、医療者側は責任を持って患者の体調管理 を行いながら、看護師、ソーシャルワーカー、心の相談員がしっかりと看取る者とし ての心の準備を整えること、看取られる者の心も落ち着き、看取る者も慌てることも なく、その時を迎えることが出来るのではないだろうか。  最後に、立正佼成会附属佼成病院緩和ケア・ビハーラ病棟を支える一人一人が大き な菩提樹の葉や枝となり、そこに集う病める人々が穏やかな「ビハーラの風」に包ま れ、抱かれるようにと願っている。(写真3) 〈図−1 ホスピスケア診療指針〉 1)人が生きることを尊重し、誰にも例外なく訪れる「死への過程」に敬意をはらう。 2) 死を早めることも死を遅らせることもしない。(原則的には癌に対する治療的な手 術、抗がん剤、放射線療法などの延命行為はしない) 3) 痛みやその他の不快な身体症状を緩和する。(モルヒネに代表される痛み止めの使 用) 4) 精神的・社会的な援助を行い、患者に死が訪れるまで、生きていることに意味を 見いだせるような看護を行う。 5) 家族に対しても患者の療養中から死別した後まで、その支えになるよう援助する。 〈図−2 ビハーラ病棟入棟基準〉 1) 担当医師が積極的治療により治癒が望めないと判断し、悪性腫瘍の患者様を対象 とする。(エイズ患者は入院体勢が整っていないため対象としない) 2)患者様、家族らが当病棟でのケアを理解し、入棟を希望されていること。 3)入棟時において、病名・病状が患者へ告知され、理解されていることが望ましい。      しかし、告知されていない場合、患者様の求めに応じて、真実の病名・病状 の説明がなされる。このことを家族も納得し、了承されていること。 4)宗教的にも社会的にも経済的にも差別をしない。 5)余命は他のホスピスと同様に6ヶ月以内をめどとする。

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〈図−4 ビハーラ病棟 平成16年4月∼26年3月までの患者動向統計〉 外来 受診件数 入院患者数 在院日数 年齢 紹介元 総数 男性 女性 平均 最長 最短 最高齢 最年少 平均 院内 院外 在宅 平成16年 (2004) 82 69 30 39 36 332 1 93 43 73 22 46 6 平成17年 (2005) 121 84 45 39 28 186 1 95 47 74.9 27 38 15 平成18年 (2006) 140 73 41 32 39 320 1 96 39 71.6 29 36 8 平成19年 (2007) 124 97 50 47 36 833 1 92 42 72.4 21 62 13 平成20年 (2008) 174 100 50 50 33 262 1 96 47 73.6 28 60 12 平成21年 (2009) 197 121 66 55 24 262 1 98 38 74.5 33 76 10 平成22年 (2010) 220 109 46 63 27 221 1 98 40 73.6 27 70 10 平成23年 (2011) 229 116 49 67 24 328 1 94 43 74.7 35 73 13 平成24年 (2012) 191 97 56 41 35 204 1 95 27 74.9 29 60 8 平成25年 (2013) 177 81 46 35 21 174 1 96 46 77.1 34 53 4 平成26年 (2014) 54 25 13 12 68 573 2 96 42 70.2 7 17 1 1709 972 492 480 34 73.7 292 591 100 〈図−5 入棟時疾患名〉 肺癌:246、胃癌:102、膵臓癌:81、乳癌:48、頭頸部癌:45、肝臓癌:40、直腸癌: 39、結腸癌:37、卵巣癌:36、前立腺癌:31、食道癌:29、子宮頚部癌:26、大腸癌: 24、腎臓癌:22、膀胱癌:20、胆嚢癌:17、悪性リンパ腫:15、子宮体部癌:14、胆 管癌:11、甲状腺癌:8 腹膜癌・尿管癌・腎癌・白血病・十二指腸癌・多発性骨髄腫・脳腫瘍・原発不明癌・ 悪性黒色腫・転移性肝癌・非ホジキンリンパ腫・盲腸癌・子宮肉腫・皮膚癌・肛門癌・ 外陰癌・マントル細胞リンパ腫・悪性髄膜腫・陰茎癌・下歯肉癌・眼瞼腫瘍・気管支 癌・胸膜癌・形質細胞腫・骨肉腫・脂肪肉腫・縦隔腫瘍・髄膜腫・髄膜腫瘍・多発性 脊椎腫瘍・肺腺癌・肺中皮腫・平滑筋肉腫・卵管癌(生活保護者:49例、佼成会関係 者:30例)、 平成16年4月から平成26年3月まで(972例) 【2011年厚生労働省人口動態統計 主な部位別がん死亡数より】

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〈図−6 緩和ケア・ビハーラ病棟 年間行事〉  1月 餅つき大会 鏡開き  2月 節分 バレンタイン(チョコパーティー)  3月 ひな祭り  4月 お花見 花祭り アフタヌーン・コンサート(アンサンブル・スパ)  5月 端午の節句(特製柏餅)  6月 ソーメン流し  7月 七夕の夜  9月 お月見会  10月 病院慰霊式 ビハーラ茶話会  11月 カクテルパーティー  12月 成道会(看護学生のキャンドルサービス)      クリスマスパーティー 〈写真1 花祭り〉 〈写真2 餅つき大会〉 〈写真3 ビハーラの風〉

参照

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