日本天台に於げる鎮護問家説
一 、 問 題 の 誼 同 様 相 一、悔品拡大附の鎮護岡家訟に就いτ
︵ご願文己銀譲国家 ︵ コ ︶ 戒 壊 建 立 と 岡 田 介 守 護 ︵ 一 一 二 資 枠 無 窮 と 図 界 銀 議 ︵ 四 ︶ 図 界 銀 護 ︵五︶悶民思想の確立20
国 民 俗 一 賞 。 貧 弱 ︿ 七 ︶ 譲 図 三 部 制 似 の 制 定 ︵八︶紳紙祭杷をもって諮問。大本ι
なす ︵九︶内外の思想を併討して護国思想を定む ハ 一 O ︶鎮護図家は唯一事あるのみ l 、億数大削以後の大勢 日本天台に於ける鎮護図家説田
島
四造
a量
岡山、官
日本傍敬圏平協曾年報︵第十二年 V 四 2 ︹一︶俸敬大師と弘法大師 ︵二︶日本天台の護国思想の襲遁 図、終語
一、問題の諸様相
日本一犬台。鑓護国家運動はその研究範閣が賓に買いから容易に著乎し難い。又その歴史も儒教大師以来の約一 千百八十年聞に渉る L 一︿年月を経てゐるから自ら時代に膝じて多くの耕民還がみられる。縫って教義上からの立義に も幾多の事読が分立して互に相背反するに至った@猫また日本天台。中心は一定白地域にあったかむごとくにも 考へられるが、貫際上に就いて調査研賀すれば移動、若しくは数街所に滴立性役有する勢力地域が出現した。か くの如く日本一犬台その本のが複雑多岐に分れてゐるから日本天台に於ける鎮護岡家設もまた多種多様。謬説を生 んだばかりでなく、随所ええで諸積の活動となって我闘の政槽費選史上に重要なる思想上の構成そ振ったのであ る e 日本悌教が我闘の間運伸張左翼賛して大陸悌敬特に惰唐宋一冗明白悌教に捜せナ E 大日本帝闘の僻敬として潤自 の境地に立って早くも母胎たる支那悌敬の輔紳に嵐せ守して皇岡悌敬たる面白を堂 K と々現したことは千安初頭 の日本天台敬壌の偉大なる功践による賜である c この日本天台敷島十憾系の主軸が今越べんとする鎮護問家の大本 に立脚してゐたからである@もしこの中心黙が腰昧であったならば、若しくは官目的に外カに依存して皇闘の本 義に背くがごときことに流れたなら虹質に寒心にたえぬ結果を招来したであったららレ毅然売る大識見を確立して皇岡悌敬白法憧を帝都白及岳に高︿掲げ鑓閣の大法鼓をならして時代思想を党醒せしめた貼は永く史上に輝く 大事業であったと一宮はねばならぬと息ふ@ ﹁鎮護岡家﹂は侍教大帥の全人格を投じて歩み且つ生をた骨髄であるo岡家註鎮めまもる大願行に不惜身命であ った停教大師は岡家を如何に考へたであったらうかれ ν 大師の云ふところの岡家とは如何なる意義を有してゐた か@とれは重要な問題で容易に断言し難いが、大師の用語の意左不遜ながら推窮する時、大別して二つに分け得 ら れ や う @ は皇帝陛下を直接に御呼び奉らやして岡家と稿し奉った。即ち陛下は御園左もって家となし給ふの意であ るむ故に皇帝陛下
ρ
奉矯めに身命を惜まや聖意乞奉じて一心につとめはげむ乙とが鎮護岡家白意である@ ニは大日本国間外を鋸護し奉るの意である。 との雨義を有するでのと愚推して大師の御撰挫の文を拝請する時、文意おのづから合遇するものがあると思は れ る 。 我等は鎮護闘家なる語を日本天台敬製のみが準語として使用し来った特殊な用語のやうに考へてゐるが、日本 悌教否すべて白日本皐喜一明が鎮護闘家を離れたものでないのであるから文献に最も早く使用して用語としてい ふ時、倖敬犬師の用ひた﹁鎮護岡家﹂なる誌が最初の用例であったとしても、鎮護闘家の意義が一般に共通し、 特に日本僻敬共通の思想である事貫に営面する場合に臨んで、吾我は日本天台に限定した鋸護岡家論と一般的鎮 護園家論とを明瞭に直別して置かねばならぬと思ふ e 本論の推論に際して接関する場面は患に以上の如き一一一四黙に止らや諸方面から観察し論断しなければならぬ 8 間本天台に於ける鎮護岡家裁− 四 = 一
自 本 品 別 教 阻 牢 協 金 百 年 報 ハ 第 十 二 年 ︶ 一 一 四 四 4 が、今は僅かに停教大師の鎮護国家臨む内に於ける具種的に貴行に現された一一同と大師誠後の費謹白梗概とを略 記するに留め詳説は他日乞期することとした e
=、停教大師の鎮護岡山本誌に就℃
︵ − ︶ 願文と鎮護国家 儒教大師の鎮後園家運動は如来賓寛の極談たる妙法蓮華経に依って立教開宗した一六台宗をもって大日本聞に相 麿せる唯一無この法円であると信じ、これを自ら費修費行し且つ天下回都に債賞流布したことに源底をおく。教 乗の流布は結衆の闘一一純一を必要とするはあらゆる宗教宣布の賓践した乙とである。大師も妙法の大誌を講演す る限りに於いて仕教界の統括の行政擢を総理してゐた崎旧制かち敢へて排斥もされなかったが、純乎たる開額一乗 の費践者たる信仰結衆が組織された場合、教は機に即して示現され、人機の結衆は敬の純民なる一に障すべきこ とが常然である。よって教機の開顕は同時に鹿立にまで進まねぽならない。との故に何物にも周せヂ恐れや確信 を明示すべき時期が到来したと叫はざるを得ない時となった。時と敬と人とが開顕鹿立されたならぽ営然此等の 行はるる場所即ち闘土の純一性が確認さるべきであるむかくして開顛股立の時代安脱が油べられて初めて古今東 西を一貫した宗敬的生命の踏謹の本然性が明示され、そしてこのととが決して潤断的盲目的自負心から我憧にま かせて無現役押し通すものでないことそ章一ねて史論的に詩明すべきである。更に乙れを云へぽ教法の内容外延の 展開即ち金生命たる教法はそれ自らの生動世として歴史性を現してゐる。即ち妙法は枯死せる怯理として固定的 存租物でないe
とむ無窮なる生 k 謹展を純一として金一として信守る時に大師拡先づ一乗戒壇建立む勅許を奏願したのである。乙れ所調、準生式故に頴戒論。奏進である e 一般には弘仁九年五月六傑式を奉り、ついで同年八月八傑式を、翌十年一一一月四保式を制し併せて固頓一乗戒地 建立の勅許を諦ふ表文生上 h y 、 ζ れによって叡山戒控澗立運動が起ったと認め、且ヴ乙の戒壇建立運動を初めた 根源は入居求法の結問別であり、近図的なる動機は弘法大師と協同一致して叡山の止規遮郊雨業製生敬育を賀行し 主うとした要望が破れ且つ天台宗年分度者。住山するもの儲少なる貴怖を憂ひて奮然として荊糾の道民進んで南 部の四介律戒壇以外に閏頓一衆戒壇緯立の勅許を奏悲したのであると思はれてゐるのである。しかしながらこ O 戒壇建立は表面上からのみ観察するも一往は正しいが、翻って戒壇建立を奏逃した内因ともいふべき根源を尋ね れば延暦二十三年の入盾求法以前に湖るべきであると思ふ。 第一は叡山大師停に牧めてある願文である@願文の要旨は悠久怒る縁起質相の境外に迷ぴ顕倒の妄夢に煩悩し 無常む嵐に苦しむ現賞を照察した時に直ちに青年求道俗京澄む心眼に映じたことは、最粛なる国町却の理法であっ た。悠久なる生命創造の展開を究明する縁起寅相即ち現賓の因川町の様相を徹照せんとする宗歌的発醒は先づ忠孝 の大遣に自ら続けてゐる蟻悔であり、質相に忠賀に覚醒する勇勤心の依如してゐることである。との自省によっ て起した五大願。締結要綱はコ一世十方に周遍して自他一切千等に浮俳嗣土成就衆岱謹未来際恒作僻事せんとの総 顕である。これ明らかに無二の丹誠を抽んでて皇闘の大本に向似し臼本俳敬を開鯨せんとの顕である。若し然ら ぽ侍教大師の鎮護国家は既にこの願文に示されてゐると云ふべきでおる。 5 ととで且らく願文製作年代を考へてみよう。余は叡山大師侍所牧の願文には一大台三大部特に止観玄義から受け た文の多いととは蹄震である。然らぽ現存 D 願文は恐らく三大部閲語以後の文とすべきではたからうか。叡山大 日 本 天 台 に 於 け る 銀 務 函 館 郎 裁 − 四 五
目本側殺事協曾年報ハ第十二年一 v 一 四 六
。
師俸の叙油によれぽ﹁延暦四年七月中旬叡山に登り草庵に居をトすぺ乃至︶坐開。陳に自ら願文詮製す﹂とあるた めに今日泊誌には停敬大師時十九歳の時願文を製せりと云はれてゐる c 共に三大部披聞については﹁一山の︵敢 籍の︶牧臓には限りあp
、是に於いて大師は得るままに︵先づ︶起信論の疏蛇に華巌五教︵章︶等を披覧したるに ︵華厳宗の賢首大師法臓ですら︶猫ほ天台を尚びて天台を指南とせるの文を見て慨然として天台。敬遮を披閲する 能はざるに先へや涙を下したが@是の時天台の法文の所在を知れる人に過ひて一一エ八部等を馬取し得たり﹂と。乙 C 記事によれば願文を先きに製し、次に夫台の敬述を披閲せりといふ・次第になってゐるが願文の内容は止観玄義 と開蓮ありと思れるから製作年代はむしろ法文披閲と願文製作とは前後すべきではなからうか e 元来、叡山大師俸は﹁程一粟忠撰﹂でありe園珍和尚撰比叡山延暦寺冗初祖師行業記白奥記によれぽ博敬大師 の弟子仁忠撰たりとある、とれによって一一束忠とは仁忠であると一般には信じてゐられる@余は・少しくこれに就 いて凝ひを懐くものである e疑勲 D 一は﹁奉潟四恩﹂の文である。四思なる用語は恐らく心的観経巻二報思品@ 父母恩衆生息園王恩三賓思によったも D であらう e 四種恩なる語は一元利捕獲曇般若流支碍正法念蕗経巻六十一の観 宍 口 問 之 四 十 に ﹁ 有 四 種 思 ︵ 乃 一 主 一 者 母 ν ニ 者 父 む 一 一 一 者 如 来 。 四 者 説 法 法 附 L の文があるが、今の文は心地観経に よづたものではあるまいかも若し心地肌経の四恩であるとすれば般若一一一識が唐元和六年︵日本弘仁二年︶謹し曇 ったものであって、恐ら︿承和年代から夫安年代までの頃の聞に日本へ倖へられたものであらうc
心地親経以外 で 四 恩 そ 庚 設 し て ゐ る 経 は 唐 般 若 一 一 一 臓 器 ︵ 建 中 二l
元和五年︶諸僻境界揖民質経巻中である。揖民質経の四思は﹁第 一間王・第二父母・第三施主・第四法界一明衆生﹂︵大王誠一八・二八四R
,である。思の配列の前後してゐる。 は粧の説所む閥係によったものでおり、且つニ粧は恥に同じ一一一賦課出に係づたも@である e そして揖民質経を日本へ将来したものは固仁・回行・悲運・宗叡の四師である︵八家、脳品開巻上金剛界都︶仁忠 O 寂年は一心戒文上︵停 教大師会集別巻一七八頁︶によれぽ天長八・九・十年の聞である@戒文の記事が
E
しいならぽ叡山大師停は Z ヘ 畏 八・九年以前に提櫨されたとせねぽならない。 J 事翁四恩しの文が心地観経若しくは揖良質経から得た語であるな ムぽ早くも承和年代以後にまで降らねば大仰停は作り得られないであらう。佃にも猫ほ一二疑問の個所があるが 略して置く o 兎に角、叡山大師侍は博教大師俸として最古のものであるが撲連年代に就ては温迭の如く僻教大師 の直弟仁忠の携なりや否や再考古ぞ要する。共に叡山大師停は延暦四年七月登山卜居草巷と記してゐるが、治部省 公験の文には日間昌寺僧寂荷。右住−於千安東以比叡峯↓精進練行@十有五年︵中時︶延暦二十四年九月十六日﹂︵額 戒論縁起上。侍金二・六七O
一心戒文中。悼会、別、一八五。一心戒文下向上二一九@類来コ一代格巻一一、岡史大 系一一了四O
七︶と記す﹁住山十有五年﹂を入唐求法勅許の延暦二十一年から逆算すると延暦七年に常る。乙の 治部省公験の文は固仁の時には太政官符として用びられてゐる ν 額戒論縁起・一心戒文の文も悉く同一ではない が﹁佐山十有五年﹂は相違してゐない。公験の文と叡山大師停とは乙のやうに登山した年が一致してゐない@或 人はいふ。公文であるから私的住山 D 初めを加算しないといふがこの考へ方は果して正しいであらうか。叉叡山 犬師停は一飛伸子仁忠撰であるから叡山で現に侍教大師の登山を見た人等から見聞したものであると。即ち常時 の生存者又は第一史料によって延暦四年七月登山と記したと主張するものであるが。上記の如く大師偉撰越年代 に疑問を懐いてみると延暦四年登山と記したことが撰しくなる。一歩を譲れぽ延暦四年 D 登山は準備期で本格的 に常住する登山は延暦七年からであったとも一宮ひ得る。一般に信じてゐる十九歳登山は一時的であり E 準備的又 は強備的登山であり、山に定住するに至ったむが二十二歳の延暦七年であったと考へる乙とがE
しい見方ではな・
2 四本天台に於ける雌間接闘家鋭 − 四 七自 本 悌 品 明 感 情 瑚 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 一 v 一 四 八 8 からうか。叡山大師俸撰者が何故にこの登山 O 記事を
E
確に記録しなかったかが疑ひたいのである。 論越は蝕談に深入りしたが侍教大師 D 鎮 護 閤 家 観 は 第 一 に 願 文 に 一 不 合 れ 、 願 文 は 天 台 一 一 一 大 部 か ら 多 分 に 瀞 響 主 受けてゐる。一一一大部による因果信仰から鑓護国家説が生まれて来たといふふならば三国伸性の事現迷国の四法立 本の因果限に根氏を置いたのであったと思ふ。とれやがて法華・浬挺・金光明等の因果論であり鍛諮問家説であ る。そして恐らく大師が二十二歳住山以後に於いて製作されたもので、天台一一束の信念から湧き出した願文では ないだらうか。とれが余白倖教大師 D 初期の鎮護同家間協はかかるものであったらうと息ふ貼である。 fヘー
一
、.,ノ 戒 壇 建 立 と 間 同 外 守 護 侍教大師が仰教の最上法門たる開額妙法一乗の因果理念に立脚し、且つその因果理念は多種多様に分裂せる支 那俳敬 h t 接腕を振って完全国捕に儲合せる天台大師の法華経舗に基いて創案したもむであるが、これを H H 細 川 的 に 教閣運動に活現するためには如何なる形態と表現方法とを周ひたらうか。ここに天地零撞 otE を胎んでゐる。即 ち犀利なる蹴見と明断なる智見と謹大なる慨験と乞もって巧妙に因果の理法を組織し而も機縁具足の時にとれを 後表せねばならないからである。こむ一黙示に千鈎の重要性が合まれてゐる。 との聞の消息試合を感じたも D は大師の周囲白人 A に多くゐたらしい。朝廷の貴紳も奈良心借綱も墜匠も大師 の抱負信念はただではゐないであらうと思ってゐた。 宿武天皇の崩御。平城天皇の仰附謀。嵯峨天皇の御即位。間にあって叡山の整備、入唐求法将来目録。新組 織、宮中及び高維の濯頂、年分度者制の確立、空海との交渉、東西各地の巡化、一一二機賞。賢明等は銃鋒が抑制るべ くして未だ堂 K と顕現されたい時であらう、白まれた謹創が狛ほ静かに鞘にある献態で、寂中活の閑静の集合である。哲人大智見者は嶋によれる虎白方に殻するであらう犬挽聾を期してゐる態度であったらう。犬師は鋼園。 穴願を心底に深く長養しつ L 縁熟を特ってゐた。その機縁が到来したから遂に弘仁九年に爆設して印度支那にも 朱だ起った乙とむない閏頓戒控建立勅許の奏願となったのである。との上願は営時にあっては育一六の癖震の如く A U臓を寒からしめた未曾有の上願であったらう。大師に於いては洗息熟慮の上で上願したものであった。大師は 営時白日本国内外を大観し、将来の大日本闘を鋸め奉らんと祈願する民撃たる諮問精榊をもって進むべき遣を閉 づるものを断然打破せんとしたのである。即ち大師にあっては常然なることを出家せる臣下として奏進したもの である。一般の人 k はこの奏謹白願文を入唐求法の結某であると思ってゐるものもあるが余は然ら?となす。何 となれぽ乙の上願は佳山の願文を一貫せるものであり、入唐求法以前から稜起してゐたものであると考へるから である。その理由は 一、入唐以前即ち住山十五年聞の中で天台法華宗墜と菩穣戒との研究を相営に謹捗せしめ、或種 D 組織惜系乞 作り得あまでに準備が出来てゐたこと。﹃一心戒文中、停会別巻一八一||大師求 ν之 。 大 日 本 人 。 未 ユ 入 唐 − 前。披二明経叩噌和尚経︵遭理撰党綱経註三巻︶毘ユ於叡岳↓準和上経︵法謹撰党網経疏
l
巻 数 不 明 ︶ 検 於 事 舗 ﹄ =、平安食都を決行せる営時 D 日本の園情、.即ち新替の思想上の劃立を改新せんとする朝廷 D 方針と、知設麿 h k 代表せる悌教徒一般 D 時代認識とは必十一大饗改が悌教界にも起さるべしと輪開想してゐた。このことは延 暦二十一年の善議等の謝啓等︵別停、停会別巻八五。ヱコ一九等︶をみても推察し得られる。 9 一一は侍敬大師が創建的戒皐研究による鎮護闘家思想。誼蓄であり J、二は光仁、桓武のご帝皇統連綿として皇戚 傍践し、皇太子また聖普を滋からしめ永く金輸の謡を臨し給ふた@とれ械に皇室御繁柴を腕醸し奉る官官深の大法 四本天台に於ける銀接関家脆 一 四 九百本傍教血中協曾年報ハ第十二年︶
一
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10 が聖君。徳に感じて時に乃ち出でたものでるって E 1 7 4 く聖徳皇太子の弘化より以降今に二百鈴年なりに営るとい ってゐられることは恐らく延暦 D 御代と推古朝 D 御代との一致を言外に含ましめて皇統光被の下にありて甚深な る妙法瞳を建てて皇統む骨格巌を鎮護ぜんと稜願せるものであったと思はれる。営時の伸敬徒一般は天台国歌の大 法が弘宣流布せられるならぽ守護国家の大任を荷負し得べしとなし、これあるが故に平安の朝廷は永く安泰なら んと云ったが。侍教大師はこの考への上に出て妙法は根本的なる鋸闘の植軸ではあるが、乙白妙法の信受奉行が なければ所謂法濁り弘まら歩、これを弘むるものは人にありの鱗則に綻って、 一夫四海蹄一の妙法佐賀修貫行す る人物を長養する方策を山中に住しつつも隠かに打成工夫してゐたのであった。 ζ のやうに願文から出殻して住 山十五年の修行生活であったと観察するのでなければ、大師の鋸護岡家活動の始終は一貫し七ゐないこととなる と 思 ふ 。 然らぽ何故に入唐求法したのであったかといふに、 ・なる天台宗闘係の著越の寝取と誰構たり得る善本を倖へて研究の碍質を期せんとしたこと o コ 一 に は 大 陸 の 悌 教 界 の情況を硯察ぜんとしたこと。とれ壮一寸の事情の下に大師は相営に整頓せる腹案を有しながら寓難左排して延暦ニ 一には三岡相承。侍法血服をE
確にすること。ごには最新 十一年に入唐の迭に上ったのであったらう。 とこに於いて最も賀市買なる鈷は体教大師の宗教生活の一一切は大唐伸敬から殆 H C 得たものであったが、乙のやう にして大師は大唐から天台宗撃を得たが決して大唐閣の天台宗に屈従したものではなく、皇室傘崇皇酔無窮た躍 って鎮護園家を完うせんとしたことであったことは確貫である。然るに一部の人士の問に於いては平安朝悌教も 奈良朝俳教の齢白を嘗めたもむであって依然、大陸僻教の職入の域から股しないと云ふものがあるがとれは訣れる観察で
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る。若し拡立的な日本思想日本悌敬が奈良朝以降に存在せりと云ふものがあれぽ講くべき準設である と息ふ。日本的悌敬なりと一宮はるる鎌倉伸敬は唐宋の悌教を職入した上に唱目されたものといへる。偉敬大師は 機・法・行を日本国土ρ
上に打ち立てた@である。過去に於ける大陸@人む行解そのまま在日本へ移植した白で はなかった。即ち自主輔佐して日本岡田作守謹白悌敬を弘布し賀行したのである。更に云へぽ排他諦他して天台宗 の執著を増長せしめたものではない。採るべきは採り用ゆべきは用ひたのである。かくいへぽ中間の腰昧なる宗 教であっ℃毘創味・一死猶畏れざる純民さが献けてゐると難ぜられるかも知れないが、侍教大師は大化改新以後 の奈良伸教が大陸文化を揖取した結果と、日本闘の文化殻展に貢献した功罪とを充分に考察し、猶ほ唐の悌教界 の動向たも注意し且つ奈良から平安に実都せる貫情をも考慮に置いて主張したものであることは一賄疑ひのない 所である。簡単に云へぽ日本の現欣を大観して貴行し得らるべき最善の案を立てて奏謹したものであって、純理 的に批判すれぽ現欣維持に傾き、乎安食都の改新に即してゐないかにも考へられるが、奮態を忽ちに破壊し去っ て新興型態のみになす乙とは反って障害を大ならしむる場合も生じ得る。そこで大師の鎮護囲家運動としての固 頓戒壇建立勅許を奏進する熊度に一一回には借綱の勢力乞破らヂ一面には新天台法華宗の自立を期し、 ζ れによっ て営時の日本園田作を守護し奉らんと願へるものである。︵
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一
︶
費 一 肺 無 窮 と 闘 家 鋸 護 侍教大師の用ひた鑓護園家なる意には皇統無窮 D 御槽承を信奉し皇室。摘柴えさせ給ふことを嗣躍し奉る義と 閤土国界む鎮護を完うせんとする誌とあることは既に越ベた。以下圏外鎮護の義によって・少しく越べることとすn
る 。 日 本 天 台 に 於 け る 鎮 護 岡 家 詑 − 五 一百本偽敬皐協曾年報ハ第十二年︶ − 玄 12 犬師の鑓龍園家とは大日本園を鎮護することを意味する。兎角一般の宗教家思想家は鋸護園家を理上の日本、 若しくは普遍的日本固に根本的理念を置く傾向が見受けられる。例せぽ日本悌敬徒の聞に於いて第一義諦常寂光 土の大日本国を鰐識することが謹闘運動であると純理的護闘論を説くものがある。大師の鎮護国家は大日本国四件 である。との大日本岡は大唐闘に針立せしめて用ひてゐる。決して大唐園に艶する大日本闘の傘股自立を忘れて ゐたい。乙れ全く現賞の事の園土間界であって普遍的闘土即ち理性国土の意で用ひたものでないからである。大 師の鑓閣は抽象的理念。問題ではなく。具樫的事賓の岡家の安危興亡に直接間接に鯛れたものであったからであ ると思ふ。其一一は乎安食都の時の大師は未だ若輩ではあったが相営に活動して功績があったと考へられる。確貫 た文献上には全く明記されてゐたいが。相武天皇の御願を奉じて比叡山寺を創立したと大師が昼 K 記せることか ち推考し、叉叡山の古倖設から考へでも何等かの閥係が食都の際に結ぼれたと息ふ。其こは桓武天皇の御信任を 蒙り、且つ皇太子安股親王︵平城天皇︶の御蹄依左得て費俳無窮を鵡札ること、及び先帝厄武天皇の勅許を蒙れ る天台国宗を質修じ貴行して閑賀、闘師、闘用となり御岡のために役立つ畢生を養成せんとせること。其三は奈 良朝の入唐皐匠は僧俗共に唐岡化せる日本闘をもって高しとした風が鯨著であったが、大師は唐化せる日本文化 の展開を求め守して大日本間文化を向上韓民せしめんと努力してゐる。とれに依って考へても大師の岡家は現貨 の事土たる大日本闘であったと思ふ。是︿の如き事土日本を明確に守護せんとした大師は何ものからこ白信念を 興へられたものであったか。思ふに鯛日本紀等の岡史に記されてゐる岡内事情も大師には聞いてゐたであったら うが、更に大師をして大日本闘を鎮護せんとの決心を致起せし b たものは闘史の研究であったと思ふ。大師は皐 くも日本書紀の研買に著乎し、間程の隼殿を堅く信解したものと思ふ。そむ例は鯨戒論。巻頭に僧綱の表文乙@
六統の表文は法琳 D 破邪論。文章の憧を借りてゐたのであった。故に大師はこの破邪論
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賢 弘 集 巻 十 一 一 間 牧l
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関節文の形を用ひて償綱を重品て簸誠弾斥した@とれ敵の利刀を以内 J て敵佐件すの立論法である︶を破するに臨 んで書紀を引用し℃ゐるが如きがそれである。恐らく書記の文を論文の引緯とした最古のものであらう@ 犬師時代白書紀魁に園市民の研究と編纂とは好品一必の盛んなる大師をして酔骨粗研坑にまでにもカを仲さしめたの であったものであらう。害紀註騨害の最古むものは弘仁私記一一二宿であらう c ト部懐賢︵粂方︶が騨した騨日本紀袋 一に弘仁私記に就いて記してゐる、叉日本後紀巻二十二には 弘仁一一一年六月氏子︵一一白︶是日始令参議綻四位下紀朝臣庚潰。陰陽顕疋五位下阿倍朝臣民勝等十齢人。調日本 紀。散位結五位下多朝匡人長。執講。 とある。乙の時の講案が今の弘仁私記三巻であらう。共は承和六年に講義が行はれた。恐らく弘仁一二年六月の講 義は園史研究の必要があった結某によったものと信歩る。 との書紀講義の行はれた時よりも先に延暦五、六年頃には績日本記の編纂が始められ、石川名足等が奉勅して 編輯に著乎し二十容を一部に扶して奏準したが、遺漏等のあヲたためか更に延暦十六年二月︵類楽園史は延暦十 一一一年八月に作る︶菅野民誼等が奉勅編纂し績日本紀四十念を作り﹁ ζ れ左寓葉に停へて壁と作さん﹂と叙して奏 進した。積紀は文武天皇朱雀十一年八月︵日本書紀の格りより鰻ける年月である︶。に始まり担武天皇延暦十年十 二月まで九十五年間の歴史を編輯したのである。この修史事業は各方面から史料を集めたことであったらう。こ の修史事業に大師も何等かの閥係があったものか、或綜と D 修史事業を大師は頗る重硯してゐたのであったらう 13 と 息 は れ る 。 自本天台に於ける銀護国家設 一 五 三自 本 傍 数 民 平 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 ︶ 一 五 回 14 恐らく大師はこの鵠紀の修史事業の意読を間を、且つ弘仁三年の宮市・に於ける書紀の講義の行はれたことを見 聞し猶ほこの講録﹁弘仁私記三血管﹂の撰撞等の出来たこと等を耳にして愈と園史研究の重要なること乞痛明に感 ヒ途に日本書紀等の闘史の研究にまでカを鉱ひ、ことに倍と闘樫白隼巌、費昨無窮の確信を強固にしたのである と信守る。大師が書紀研現在始られたのは恐らく延暦年代からであったらう。かくして大師は深厚なる御信任註 桓武天皇より拝し、又御慈愛厚き御加護を蒙 b J 、慶大無謹なる皇思に浴し、大師は至心に慶大なる皇息む齢窯に 報じ奉らんがために偏へに英一深微妙なる妙法を以って人心を教導すると共に未来永劫に鎮閣の大士を輩出し、.ょ つでもって鋸閣の大本を建立せんとしたものと信やるものである。 大師が大陸伸教の研鏡と共に岡韓蛇に園史左研究して共綜合憤系を天台法華宗に置き、不安の帝京の艮岳に位 じて桓武天皇の御蹄信を蒙り、先づ比叡山上に寺を建て、弐に高雄山に出でて皇太子を初め奉り和策氏及び南都 串匠等の随喜渇仰を受け、更に入唐求法の勅許を蒙って期年求法師朝し、還に年分度者制度を奏上して拾に−初め て朝廷より天合法華宗の度者二人没年 k 剃度する勅許を譲りたるにより、日本天台宗はこの年即ち延暦二十五年
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月二十五日の勅許白日佐もって開宗紀元としてゐる。勅許開宗の宗祇は日本帥敬史上に於いて我が宗のみであ ることは、如何に日本天台宗が担武天皇の御蹄依の厚かったかも包示したものであるかが知られるであらう。大師 は開宗第十年自の弘仁七年には四天王寺上官廟へ参拝して天台法華宗を永く大日本闘に停泊せんことを祈念して 詩 一 骨 闘 を 訴 じ た 。 そ の 詩 と は 梅内求縁カ 蹄心聖徳宮 我今弘妙法 師教令無窮南樹随春別 一 一 プ 升 鹿 節 同 願惟岡敬使 加護助興隆 といふのである。此詩を拝請するに大師の心中は既に確固不動む信心にもえ、寓夫も留め難を意試が感じ得らμ
日 本 側 教 問 惇 院 曾 年 報 ︵ 第 十 一 一 年 ︶ 一 五 六 16 に 肝 要 で あ る 。 是くのごとく東北西の一コ面を鎮護し、中央が愈 K 強固なる皇威 D 主軸となる。かくなすためには人心を蹄一融 合せしめることが先づ第一に行ふべき大切な事業である。このためには信念を互に一にならしむることが最も肝 要であるoとの時代の民心敦化は民俗二諦を併せて習得せる僧侶が最遁格者であったと息ふoこの岡田作鑓謹の大 住を荷負し得る借は借多しと躍も飴りに少ない。そこで大師は微力なりとはいへ叡山の年分度者二人そもってこ の重責に営らしめゃうと決心し、十二年龍山修習の制を設け、一十三年間の教養訓練を経たる者にこの鎖国の大 遣を歩ましめんとして敢えて借網及南都七大寺の合意を得守して甫一ちに朝廷へ奏進したのであった。即ち叡山。 年分度者二人の確定と叡山菩薩戒壇む新設と停戒震施の勅許乞件んことを奏進したことは貫に閤界守護 D 意を表 したものと思はれる。叉東西岡地方を巡化して東闘にニケ所。西闘に一ケ所比叡山上には東塔西塔に各一ケ所。 令計六ケ所に法華経そ千部書窮して塔中に安置し法身如来の舎利塔
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法華塔を建立したことは、恐らく阿育玉が 会印度そ統↓し得た時に、主は我が領闘に各悌舎利塔一基在建立して自ら岡家統領を標示したc大師の費塔建立 は阿育玉の正法理闘の表現を受けたものであったと考へられる。ただ大間にあっては天去の御成徳乞拝して天皇 の御願にかかる妙法流停の費塔を建立した貼に於いて相違があるが、皇戚一也く全閣に及べる乙と乞表した黙に於 いては相遇守るものあると考へられる。猶ほ千部の法華そ害思して建塔することは既に唐代に行はれてゐる。今 荊酪傘者。門人なる指州刺史李邑撰並害に係る泰些山法華寺︵在淑江抗幌南十二皐︶碑をみれば唐玄宗の開元年 中に﹁起池田賢基一級。馬法華経千部ーてと叙せる記事がみられる。乙の法華塔は報閣と、化人とのため語鷲山舎に 模した普賢憂に法華枇@結裁を作り毎年二月に法華書籍と讃越とを行ひ、,一憧和合五月住持したむである。叉有名な多費塔碑にも千部法華書誌のことが記されてゐる。恐く大帥の千部書潟はこれら乞倖へたも D で あ っ た ら う 。 要するに外貌的形式は印度支那のそれを移したにせよ、大師はこれを日本岡界衡護のために活用したものと息ふむ
︵ 亙
︶
開民思想の確立 犬帥の鎮護闘家は聖徳太子の十七俊憲法の﹁以和魚貴﹂の御意を慢し、先づ凶内思恕の蹄一を願望したことで ある。これは畢生式に於いて越べてゐる。岡賢訟である。大帥が﹁今我東州。但有小像。未有大類。大道未弘大 入時興。誠願先帝︵箱一武天皇︶御願。一大台年介。永潟大類。然菩薩俗﹂といへる文は明かに岡論の一髄和合を凶 費的人物養成によって呆さんとしたものであると思ふ。そして大新たる菩薩借とは頴戒論の奏序に﹁悌日重光。 内持誼興。岡敬大戒。必可興顕之時。蘭若騨窟必可建立之日﹂︿此他に停、金、四ノ七二O
、別、一六五等に多く 記されてゐる︶といへる国歌大戒が興崩制された時に、必十能行能言の岡賢的人物が輩出して報問的活動危なし、 還に同論の一樫和合互用住持するに至るべしと主張したのである。従って大師の菩薩借は患なる得度試験に合格 して沙摘俗となり具足戒を受けて比丘となる、一般的出家比丘借を養成せんとしたのではない。朝廷の貴紳に往 復して報岡白大法左説くと共に身そ蕃東と帯されてゐる僻地に投じて彼等審夷に皇恩債大なることを宗枇的訓育 を過して徹底せしめるものである。ここに日本的菩薩借たる特色が存ゃるのである。 大師の主張は常時白歌田作に大なる刺戟を輿へたが、借綱等悌敬閃仰の有カ者の賛同を得やして失敗に絶った。囲 内の悌散が如何に大陸伸敬から受けたものを活用し具現すべきかの根本方針が一決すれぽ大師。主張は飴程明白 に標示されたらうと思ふが、憾むらくは樹立論争に走って本質的具憧的部面が未だ詳細を議されてゐない。乙の 綜括的に宗教的闘論統一を考察した大師。計量要綱は叡山大師停等によって推宥する以外には方法はないが、そ 17 自本天台に於ける鎮護困家磁 一 五 七子と稽せしめたとも讃め得ると共に或は蹄山せる泰範に封して一一飛伸子光定なる挽を閥均へたとも讃める。何れが 直しいか考持すべき飴地があると思ふが、余は績性盤集柿闘紗第十の泰範は光定と同人なりと推定したい。これ を要するに侍敬穴師が菩薩戒壇の滴立を第一に奏願して叡山に遮那止観両業を専攻する障で生に封する制度を定め んとする希望に就いて、弘法大仰は民一言密敬を頴教より調立せしむることを主張して閏密その旨一たりと説く体 教大附の設に反劃し、叉侍敬大師が強く力説する戒壇樹立に闘しては、戒壇授戒は従来のままに留めんとせる射 に相遣を生じた。これは子安新都建設に就いての改新的意塗を懐けるものと、警憤刑判も留むべきは留保して新停 密教を新しく建設し、人心を一新せしめんと企てたものである。ここに於いて途に天台民言白雨︷一万が新興したの である。雨大師は共に新帝都の革新政治と協同した運動を起したものである。但し耐師の大日本岡の人心統合蹄 一理想を具現する方策に就いて積極的と漸盤的との別があったといひ得られやう。 よ択に徳一との評論は宗祇的にいへぽ法相天台の宗論であるが、貫は五性各別の種別論と一一束皆成仰の開顕論で あって、大陸僻教を直ちに移入せんとする思想と大陸悌教及び文化一般をも日本の闘風に誼臆せしめて大日本思 想・宗教を展開せしめんとする同化主義と消化主義若しくは新奮文化の交流思潮と新奮文化の改新創建思潮とを 背面に抱ける開論綜合主義のご流の交渉と認むベをであらう。地理的に舎津若しくは筑波と東嶺叉は叡山との東 西封抗であったが内賓は徳一和尚と南都法相宗とは共通してゐたらしいから教線描張に及す影響は恐らく論祭典 籍の存否以上に重要性が存在したものと考へられる。即ち奥州闘東地方の思想宗教方面に乙の論争む結果が深く 反映したと思はれる。このために武家時代に於ける東閣の宗教界の革新運動が新渡来の宋騨の強盛に刺戟されと は云へ殆ん H C 大部分が叡山教圏内部から興起してゐる。鎌倉幕府が員言宗と関城寺とを僻宗と同格位に保護した 19 四本天台に於ける鍬醐間関家政 一 五 九
日 本 傍 教 血 中 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 ﹀ 一 六 O 怨} から比較的に犀迫が叡山教閤程強くなかった b そのために叡山教圏が分裂して新教線を保持向上しながら中心に は皆鑓問護法を離さやに倖へた。故に鎌倉時代の俳教は分裂しながら中軸は一貫してゐたむである。このことが 南北朝・室町時代に至っても依然として失はれやに維持されたことは全く一果関顕思想の賜ものであると思ふ。 一乗思想中に法相華巌の一飛も天台民言の一飛も共に一乗開頴の内蒋として包括した日本的一乗閲顕であること は 勿 論 で あ る 。 共に戒壇建立問題であるが、とれは国頓戒壇であって、天台法華国教に基く菩薩戒を倖授する戒壇を叡山に新 設して南都の戒壇に登壇受戒せやた菩薩比丘たる大信となるのであるが、停教大師時代の国教又は法華国教とは 都圏敬固にして而も超八園教である所。国教であるから、爾前諸教を未聞頴とし法華を巳同額とした国散のみで なく。即ち天台大師以後に興起した華巌法相耕民言の究寛醍醐味の最上乗をも国教え中に包容したものでるる。 との意味に於いて用語。表現乙そ具っても弘法大師の開制密二教十住心思想と類似してゐる思想である。雨大師。 性格上白差がここにも示されてゐると思ふ。例せげ、儒教大師の害慌は諸厳正格で事も自由なる創意を表してゐな いで純潔な書を記してゐるのに劃して、弘法大師の筆勢は精巧奔放にし古筆妙所詮悉く巧妙に謄用し自在に筆力 を運んでゐる。堅貴滑燦の筆致は侍教大師の用組棋に見られ、購腕凡飛の迫従を許さざる創意に宮める運筆は弘法 大師白書に於いてみらるる如く、停教大師が天台法華国教といへる飾りけのない用語を使用したのに、弘法大師 は未だ唐代伸敬畢者本用ひない二教十住心なる潤創的なる成一請を用ひて新民一吉宗を組織せんと試みてゐる。同様 な傾向が附部大経以外に雑密をも真言敬と認める侍教大師と、雨部大経以外の雑轄を純密と判別して密数以外の 額敷中に置くが如き教判組織上の異見も岡大師む性格。表れと忠ふ@
要するに停教大師の思想は諸直に且つ純潔な意無から日唐文化思想を融合消化して、ここから新しい日本思想 を展開せしめ、日本思想白骨骨厳なる根抵を建設せんと
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たものである。との思想統合による鑓諮問家運動が侍敦 夫師の鎖倒思想である。 ︵ 六 一 ︶ 民俗一貫の費動 民 俗 一 貫 ︵ 勝 一 生 式 、 体 、 金 、 一 ノ 一 一 一 一 ︶ の 費 動 に よ る 鑓 諸 岡 家 運 動 で あ る G 民俗一貫とは困戒護持の賓行 b q 一 要 求する菩薩行に立脚したもので、出家在家の差別を混絶した即ち伶俗一如の行である。大日本閤人として君子た る大願行佐賀際に健法し行持することである、徒らなる空理空論の戯技であること佐絶封に許さないのである。 故に﹁山邑同心、掲諮問忠 L ︵菩薩出家表、倖、金四ノ七二O
︶せんがために先帝担武天皇御願。天台一宗白木義 を民俗一憾となって賀行するのである。乙こに於いて﹃弘仁元聖文武皇帝陛下。徳合乾坤。明並日月。忠孝空古。 穂柴新A
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高岡敵心。雨蕃蹄化。天地相感。定治制時﹂︵向上︶し給ふ御稜威を拝し奉るのである。との民俗一貫 D 大 義 は 先 帝 御 願 に か か る 章 一 . 臭 事 で あ る が ﹁ 簡 高 和 寡 。 法 玄 人 弱 L であるが故に大師は奮然瞭趨して未だ徹底的に 領解せざる輩に封して懇切に奨訓し。皇徳讃行の猶ほ足らざることなからしめんとして、天台一家忠一生式を浩り 後撃を動揺し、依って以って岡家を衛護し、今上陛下 D 天思、先帝の高願を載 k に繭興L
奉り、大衆む戒珠左ぽ 肥記に清海ならしめ︵請立大衆戒表、侍金四ノ七二ニ︶かくして同信同願同行の一心一如の境地に到−P
得るので ある。故にその訓練は常恒に退轄せや精進する所に於いて波羅蜜の到彼岸への希求心が満足されるのである。 21 此 D 故に大師は﹁道心中に衣食あり衣食の中に道心なし﹂と遺誠せられ、組仰は﹁法調り弘ら歩、人能く法主 弘む﹂と設かれた。法華の不惜身命も三世無窮む盆物もはた又大悲代受出口も、とれを要するに民俗一貫、日月持 四本天台に於ける鎮護岡家訟 一 六日本悌敬準協曾年報︵第十二年︶
一
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、
22 明、畏養寓物するためである。乙の理想佐完逸せんがためには先づ人心を長養する乙とより念なるはない。依っ て六年乃至十二年聞の飽山修練佐傑規とせられた。かくして乙の股粛にL
て剛健なる人格陶治の練磨を経たる者 を各地方に波遺して鎮護園家の章責を完うせしめんとした。更に一式ひ換れば誼王公平なる人格と中王なる見識と 慈悲国捕の徳操の豊かなる身心を養ひて皇恩の無窮を感謝し開認の殻展を翼賛し、日夜不怠に園民と協力一致し 互に指導と貴行との責務を完うする誠私奉公の奉教宥護持者を長養愛育して、一明直一明時に即して治生産業皆 是悌誼を貴行するのである。とこに於いて戒皐に闘する見解が印度支那の戒墜とは甚しく具なる。故に一心戒・ 悌性戒・国頓戒・本有無作戒・一費戒といひ、途に本資法門となり無戒とまでいふに至る。所謂文上一元意。解糟 であり、鞍上人なく鞍下人なき底の戒となる。菩薩戒撃が日本の菩薩戒となる素地を先づ博敬大師の鎮護園家。 犬識見から創唱されたのである。乙れを民俗一賞。国戒貫動による鎮護闘家といふ。との思想をうけたものが鎌 倉時代の新興諸宗の教義の大本であったと忠ふ。︵ 七
︶
謹 岡 一 一 一 部 経 D 制定 偉教大師は長講舎式を制定して鎖国の根本となした。長講舎なる震際的作法は支那日本共に古来から賓修貴 行されてゐたものであるが、侍教大師は日本天台宗として立敬開宗の根本義に基いて謹闘一二部経の長時長講乞確 定した射に於いて全︿潤創的新しい制規であるといへる o 従来日本悌敬は護園の経典として随時に法華・金光明 等の諸経を用ひたが、宗旨の根本義から確定してゐなかった。それ左大師は断然天台宗義と龍岡経典とを明確に 決定した。これは敢えて特に大撃に叫ぶ程の大事ではないといふかも知れないが、人心を蹄一 J せしめ怒園一致。 旗の下に圏結せしむるためには信念。一懐同心が肝要である@この故に正法理闘の天皇を奉巴て天皇の御命による忠孝、碑襲、政治、外交、経済等一般文化の確立の下に俗勤の誠を掲くし泰らんがために、閤民をして一如和 合し最も直裁簡明に報園謹忠の遣に徹底せしむべきである。乙の拳闘一如を旗職としての謹岡一二部経そ長蝉長講 ずる乙とは誠に大善巧方伎の究寛智の活現である。謹岡経典。確定こそ最も簡にして要を得た鎮護岡家運動であ っ た と 思 ふ 。
︵ 八 ︶
紳祇祭肥をもって謹闘の大本となす 偉教大師は紳祇偉崇を賓行することそ鋸闘の大本なりとされた b 大師は如何な場合に於いても先づ神祇を祭記 して後に初めて重要事件に著乎された。大師の生涯は傘皇護固に始絡してゐられた。大師の一生は鎮護岡家。た めに注さげられたのであった。されぽ大師の意に縫っていふたらぽ錦護問家は先づ紳祇祭配を第一となすといひ 得られやう。但し停教大師が祭肥1
た紳祇は悉く岡紳であって皇祖皇宗を祭配してゐられなかったことは特に注 意すべき射であると思ふ。比叡山王紳・宇佐八幡紳・諏訪明紳等を祭把し法供を備へたが決して伊勢大廟を私に 祭杷し供養し奉ってゐない。謹んで惟みるに平安朝の祭胞は皇室の祭抱と一般岡民の祭胞と D 聞に最重な直別が あったと思れる。史上伊勢神宮を奉粛した初めを零ねたならぽ吉田紳祇伯家が奉粛したのが最古のものと思ふ。此 時代以降伊勢太榊官を祭る祭殿が民聞に建立さるるやうになったと考へられる。皇阻皇宗たる太一脚官を祭る粛場 が建立された ζ とは皇室式微時代に及んで現れたことであって、皇室御繁柴の平安朝に於いては決して皇室御親 祭の紳と園津紳の祭胞とを混乱しなかった。此の観察から比叡山王紳道の内容組織と東密家の両部神道の敬義解 轄とは全く相違してゐる。大略以上の記述によって火師の紳祇傘崇は皇室の御骨格巌を凱すが如き乙とを行はなか っ た ζ とが知られるであらう。日本天台む鎮護園家運動は榊紙崇拝でありたが、国民の分を誤るが如きととのな 23 円本天台に於ける雌隣接関家裁ー
.皐鴫 d,
、
百本傍殺事協曾年報 A ド 第 十 二 年 J V 一 六 回 叫かったことを知るべきである。
︵ 九 ︶
内外の思想を研討して護問思想を定む 穴帥は鋸闘思想内容を豊富にし充貫し進展する資料として常に務めて古代誼に最近の瞳説と思想とを圏外から 導入し、,とれを周到精細に研討して日本因白闘情に誼するやうに滑化融合して公明なる識見を立てて我が闘樫白 金巌なることを論越された。天台の三千三諦なる思想を患に不動の物髄に劃して個曜の質在を解明したものと息 ふならば、恐らく停教大師の天台法華圏宗を鼓吹し弘宜し党精神に合致し得ないもむと思ふ。一コ千一コ諦とは悶定 不動の理念ではない。不退轄に向上進展する大遣であり大光明週照であり無息地帯である。換言すれば所有ゆる新奮 内外の思想事物の貫相を公明正大に比較故現して、最も中玉安営な成果を見出し、不断不退に倍々改善向上せしむ る活動臆用等一明を国共せるものである。大師はとの固兵三千の妙法を慢して能く闘抵の隆昌を期する方迭を立 て、旦っこの賀行佐勅許を蒙って行ひ、永く園のため家のために初めて、僻怠なく常精進せんと自らその範を示 された。乍然、この闘の内外の思想が互に接鯛融合することは自然の現象として放任し置くべきものであっては ならない。宜しく達観し大識見を立てて取捨按配をなすべきである。このためには一明白障磁を断除する大勇猛 心が竪聞でなければならない。倫安を求め又は泊滞衰亡に傾くが如きことがあってはならぬ。叉徒らに排他自傘 に愛著して宵目となってはな色ぬことも勿論である。大師 D 思想蛇に行業をみる時、新思想を導入し消化融合せ んとして深き考慮が姐守口れた乙とが知られる。乙れを要するに世界思想を批判研討した上に打ち立てた鋸謹岡家 思想なることに注意すべきである。との謙虚無私にし偉大倣慢に盟せざる剛健中五なる鑓園思想を打立てんとし て研鏑せることは日本天台の特色として認められる@︵ 十 ︶ 鑓 諮 問 家 は 唯 一 事 告 の る D み 鑓讃岡家は究局する問、た工一途に蹄趣すべきものである。即ち皇位の傘巌なることそ確信し、一明を天皇 D 準矯めにささげる以外に何ものもないことである。乙れも猫り倖教大師一人のみに限った詩ではないこと勿論で あるが、日本天台宗を閲宗した大師は常に天皇の御供思に感泣して、民俗ニ諦 O 一 一 切 は 悉 く 天 皇 の 泰 清 め に 奉 持 し行謹せるものであると越べられてゐる。兎角宗教信仰は超同家的に流れ、自己一人の安心立命に走つ℃孤調鮮 股的なるものと考へられ易い。街人的要求。満足、私利的要望を充たすための信何心左敬ゆる宗敬が多く見受け られる。大師 D 説く所白日本天台宗は宗教的信行。一明を天皇の奉錆に修習行設せよと教へられた。こむ乙とは 献に大師の鑓岡思想。表現に於ける第一義である。
三、惇教大師以後の大勢
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停教大師と弘法大師 以上大略ながら停教大師を中心として日本天台。鑓護闘家設と英運動一般とを概説した。 鎮護岡家を説く経典の詳出仕問耳目竺法護詳仁王般若経︵欠失︶を一初めとして東耳目の吊戸梨蜜多羅や挑案の繕付北 涼の曇無識等以降愈多く、唐宋の詩経中には護闘の経典が頗る多数に諜出された。乙の事貫は支部に於ける悌敬 が岡家と密接に結合して初めて流侍し得たものであると共に悌敬具も進んで岡家の後展伸張に就いて協力せんと 25 したからであった e 乙の事は高僧停等を讃むだ時に誰人も感やるであらう。唐代に至って李氏朝廷の寓代不易の 願望が朝野に有カとなり、各宗教は皆悉くこむ態度によって敬線む損張につとめ、時には排他的態度にまで激化 日本天台に於ける鎮護国家裁 一 六 五日本偽教商事協曾年報︵第十二年︶ 一 六 六 26 して、宗教自らの堕落を招いたことすらあった o 乙の膚代に於ける園家と宗教との閥係が直接に或は間接に我が 閤に影響して奈良朝悌教界には蓄しを弊害をも生じた。奈良朝 D 教界は唐の弊容に影響されたとばかりは云へな いが、相営に唐代の一般枇 A W 潮流と密接な交渉が行れたものがあったことは事貫である。 平安朝の悌敬、特に江南の天台と唐都の長安伸敬とを博敬大師と弘法大師とが我が闘に停へる場合に於いて、 前轍を充分に注闘したと息れるが、倖教大師は一租武天皇の御代が重大なる時局に営面してゐて、一歩誤れぽ頗る寒 心に堪へない悶難に遭遇すべきことを知悉してゐられたのであったから、関内的にも岡外的にも充分園滑に事局 を鹿理するための献策等も行ってゐたと息れる黙がある G 此の難局解決に鹿する内面的活動に侍教大師が如何な る程度まで参劃したかを明瞭にはなし件ないが、倖教大師は担武天皇の御代と平城天皇が未だ皇太子に御座しま
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た年代には齢なからや J交渉があったかの如くに考へられる o 乙れに反して弘法大師は嵯峨天皇・人淳和天皇の御 代に於いて皇室と深い閥係が行れたと思れる。両大師の朝廷に於ける御縁は両大師の誠後に至って愈 k 深厚に結 ぼれた。そして日本僻敬として唐朝伸軟から滴立する傾向を濃厚に示さんとしたととも岡大師は共通してゐる心 岡大師の態度に於て制法してゐた靴位、博敬大師は恒武天皇白御英断の下に奈良から平安へ集部L
給へる御精神 の趣旨を奉じたものであヲたらしく、奈良悌教の教鴎制規から股して潤自の識見を立てて子安新都の建設精榊に 従はんと企てたが、弘法大師は時峨天皇の御代に及んで動いて来た枇合傾向に順躍して千安新都は奈良から離肱 せ守に、奈良子安は相互共立的に相依り相扶くる方針を取った。ことに岡大師。新宗興起に際して根本的な蓮田持 があった。雨大師の理想は同一であったが、侍教大師が銀諮問家又は守護同家と云ふたのに、弘法大師は敬玉護 闘また壮飾諮問岡家︵東賢記五、天長一一年口一月十日喪献︶といひ誰心三曹を主とたす所の報闘を主張して奈良俳敬寺院と協力して進まんとされた。
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日 本 天 台 の 諮 問 思 想 の 耕 民 運 侍散大師披後に於ける日本天台宗、特に比叡山中心。鑓謹岡家論は時代の推移に従って轡一越し、認党大師等。 宜弟在住時代即ち平安初期と藤原氏全盛時代から鎌倉時代等と、政治の申心勢力の移動と共にその解糟が共第に 相具した。乍去、根本思想たる貿一昨無窮の信僚と勺大日本聞は紳闘なP
﹂︵法然上人門流の念悌停止を願へる欣文︶ の綱格は事も掛出動してゐない c が揖闘政治・武家政治を断然担斥サヂ、又唐代の三一教思想を参酌せる敬撃を構 成し、或は唐宋代の開門宗を接取し、更に一克明時代の大陸思想とも交渉して費動があった。特に鎌倉末期頃から ︵或は足利時代頃か︶治園利民なる用語︵百題自在一昂。一貫一脚道相承血脈等︶をもって鎮護園家の敦接的解樺語 に用ゆるに至ったことは、鎌倉幕府成立後に愚管抄撰者︵慈鑓和備ならん︶が道理論を謹べてゐる主張と悉くは 一致してはゐないが、武門政治を承認した鋸護岡家論たる献に於いては同一である。南北朝の前期に於いて叡山 の翠匠等によって主張された設は今日明らかでないが、神皇玉統記太平記等の論述から考へて大政御親裁を強調 せる鎮護園家論と考へられる。叉叡山から下山した人kp
末孫が天台から離れ漸共に自立して新宗を起したが皆 護闘思想は失ヲてゐない。蹄宗の柴西道元雨縄師の護閣は各特色がある。法然上人親鷺上人等の博士門徒の謹園 思想は天台。法華本門思想と深い闘係を有する。日蓮上人の護闘思砲は愚管紗の読等の如を折衷温和設でなく直 説法的表現法を用ひて天皇御親政を主張してゐる。北僚氏執政に劃して闘史の本義と宋代思想とから巌密に批判 する時に、必すこれらの強豪の諸説が起るべきであり E 閤民の反省によって護闘運動が起るのが営然であると忠 ふ 。 ζ の後、南北朝期の護岡思想の正統製紙は足利時代に盛大となら歩、反つ安協的たる治問利民読が時流に趨 の ・ ,.
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日 本 天 台 に 於 け る 鋲 護 国 家 猷 六 七日 本 悌 数 民 平 協 曾 年 報 ハ 第 十 一 一 年 ﹀ 一 六 八 28 した設とされてゐ台。降って江戸幕府時代でも治国利民の護闘論が行れた e