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日本佛教學協會年報 第10号 006深浦正文「唯識の日本伝来に就いての考察」

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日本併教事協曾年報︵第十年︶ 二 二

O

唯識の日本俸来につ

いての考察

わが園怖教渡来の首初にあっては.それが渡来といふも.車に仰像粧北伎の安置崇敬といふ程度に止まって.決 して一定の宗祇を唱へ宗格を立つるといふまでには至らや、従ってそれらの宗旨的所属たるや‘極めて漠然模糊 たるを免れたかったのである。それが、後に三論敬義の輸入されてからといふもの.引績き法相唯識の倖来を見. 更に華厳・律等が漸次に移植され.奈良時代に至つては.いはゆる古京の六宗なるものの存立を見たのである。 就中法相の偉来は.かくわが固に沿いて最初の三論に次いで第二回目に位せるわけであるが、その輪入の筏路 を見るに、あくまで三論と封瞭的の朕態を一不ぜるととは.砂からや興趣を覚えしむるととろである。一二諭は、い ふまでもたく諸法皆宰を説く大乗の宰宗であるが、同じく一切皆空を談やる小一来の空宗成賓が、との三論に附随 して移植されたととは‘極めて常然の共第である。而してそれらの輸入は‘王式にいうて推古天皇の三十三年 ︵S U k r − H Y ﹀に、高麗の頁併韓国擢来朝して静統一を張れるととに始まってゐる。但し、とれより先同じく三年

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に‘高麗の慈悲.百済の慧聴等の来朝するや.掃政厩戸太子就いてとれに師事し、大に王法の研修にい k r H ︶ ・ ︶ そしまれた。その研修されしととろが、主として三論・成賓の敬撃だったととは.太子御製の﹃義疏﹄が専ら提

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婆︵ P H u d −

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﹀ の空宗を旨とし、蹴摩︵

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の﹃成賓﹄に準操してゐられることよりしても推察さ れる。されば、とれらの宰宗の侍来は、もしその一思想を辿るにたいては、かの慧濯の移植よりも更に以前に湖ら る h わけである。要するにこれらの輸入は.伸敬最初の渡来︵それは、﹃上官聖徳法王帝説﹄の記事に基く欽明戊午 年

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|すたはち現流の一般年去などに記載さる L 立化三年自∞

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・に擬定せむとせる説に従ふ︶より大凡九 十年乃至六十年近くを経て始めて見たわけである。一方法相の倖楽にあっては、同時に倶合敬義も附随して輸入 されたのである。とれ法相の敬義たる.いはゆる唯識縁起の諸法の存立を唱ふる大乗の有円であるから、かの三 世貫有を説く小乗の有門たる倶舎がそれに附随せるととは、また沿のづから首然の弐第といはねばならぬ。而し てとれらの有門の侍来は‘先の三論のそれより更に六十年乃至三十年近くを経過ぜる孝徳天皇の白雑四年

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k r − M ︶ ・ ︶ を以て最初とされる o 但し‘先の三論が.高麗・百済等朝鮮半島を経て移植されしに封し‘との法相は 然ら守して、支那大陸より直接輸入されしととも.雨者の聞の著しき相濯でなければたらぬ。蓋し、三論の輸入 は、朝鮮︵百済︶よりわが国への貢献に濯ばれし悌教の中、営時同地に盛んに流行せし三論がそれに嘗てられし ま L .かくその輸入が牛島よりたされしものであるが.時代の経過につれ.伸教の償値が漸く岡氏の間に認めら る L や.支那大陸の文物をわが闘に移植せむとする風潮の勃興せると相侠つ℃‘乃ち入唐畢生の研讃となり‘而 して嘗時かの土にあって最も隆盛を樹めし法相の一教義が.かく直接大陸より輸入されしものと見らる L の で あ る 。 印度以来中槻と議伽‘或は昼︷一部と有宗といふ風に相封立せる這筒雨系が.わが園の惇来にまでその封立を持績し て、別個の趣きを示せることは.甚探の興味の存するととろといはねばならね。 2 唯識の日本俸来にワいての考察

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日 本 傍 敬 感 情 闘 舎 年 報 ハ 第 十 年 ﹀

3 然るに法相の停来は.必守しもかの孝徳の白焼四年の一回だけに止まらたいので‘その後数回の輪入を重ね℃ ゐるのである。とれについては.古来種々の異説が示されてゐるが.普通は、競然の﹃一ニ岡悌法停通縁起﹄ハ巻中︶ の記事によって、前後四停に及ぶといはれ.そしてそれがほピその定設たるかの如︿見倣されてゐる。すなはち かの白雑蛤来の飛鳥時代より奈良時代に亘り.道昭の第一停.智通・智建の第二億.智鳳・智鷲・智雄の第三停‘ 沿よぴ玄肪の第四俸といふがそれであって、それには、ほピその年代までも示されてゐるのである。さりながら. 仔細に考察するに.そとには.なほ論究ぜねばならぬ箇所や、詳悉を要すべき事項が砂から中あり、別して年代 の上に更に検討を加ふべき臨を多く見出すのである。乃ち本稿は.主としてそれらに闘して叙設を試みようと忠 ム 。 第一停 とれ道昭の入府によって侍へらるといはる L ものである。道昭一に道照に作り‘河内の人にし

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. 智 明天皇の元年

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・ ︶ を 以 て 生 れ た 。 .

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資明敏.出家してい克典寺に入り.戒を持するとと組めて厳に.最 も忍行を向んだ。﹃日本書紀﹄巻二十五によるに.半ヰ徳天皇の白維四年

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・ 巴 ︶ γ 九 月 ‘ 活 情 大 使 小 山 上 士 口 士 長丹.副使小乙上古士駒等の舶に乗じ‘一百二十一人の同行を以て入唐した。同舶の島一向併は.彼を初め、道厳・ 誼辿・悪施・定慧等十三人で t u ったといふ。時に彼は.まさに二十五歳の青年だったのである。との彼の入唐に

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ついては.かの土の史沓にも記されてゐるのであって、すなはち﹃宋史﹄巻四百九十一や﹃悌組統紀﹄袋三十九 等にそのととが見えてゐる o 時 に 唐 に あ っ て は . 高 山 一 部 の 永 微 四 年 に し て . 玄 突 が 印 度 よ り 師 朝 し

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九 年 臼 に 嘗 り . まさに五十一哉の活動盛りを以て‘長安にあって謹粧の事業に専念し.新鐸桝教の岱に前向丈の意気を示しつ L る った際である。彼は.弘一耐寺に沿いてとれに調し・乃ち就いて唯識の奥 u u を墜んだ。・五葉大にこれを愛し.自ら 同房に起臥するととを許し.而して、上足慈思と向島一・せしめたといふ。慈恩時に二十二歳の年少で

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ったが.よ ︿群傍を抽んでて双ぶものなく‘乃ち削’簡を一身に翠めてゐた。而も今や道昭が.との師の愛治との向間半を許さ れたのであるから‘如何にその破格に優遇されたかが知らる L の で あ る 。 査し.俸へいふ、玄奨渡天の際、ある時、たまたま途中人家無きの鹿.食紙えて餓え甚だしく、特に死せむと せる危機に瀕せるに.忽然とし℃一借来り顕はれ、梨子を血︵へた o 玄英乃ち附ってそれを︸食し.よって腹充ち気 カを挟復して.漸く所期に達するとと左特た。その時の一借こそまさしく道昭の前身であったから.そとで玄突 とれを忘る L 乙と能は守、よってかく同房に請じ入れて.慈恩と同開尚子せしむるといム優遇を示したとのととであ る。とは、﹃績日本紀﹄巻一に記されてゐるととろであって.臭闘の﹃扶桑時記﹄巻四ゃ、師錬の﹃元亨樺筈﹄各 一ゃ、師整の﹃本朝高僧侍﹄巻一等に相承されてゐるが‘果して如何ほど異質性を有するやもとより定かたらね 寄蹟めいた停設である。殊にその始終の構想を築守るに. かの天台智顕が南岳慧忠に謂せる際の様に極めて努鷺 たるものがあると忠はれる。すたはち湛然の﹃止観輔行﹄巻一によるに、相官顕深く慧思の徳を慕ひ、大蘇山に上 り.始めてそれに謁せし時.慧思笑っていはく.往土日共に霊山にあって﹃法華﹄を聞く‘然るに宿縁の埠ふとこ ろ.今また来れるか一五々とあるものとれであって.人 7 の玄歩・道昭の溜遁.またそれと大に同巧異曲を極め宣る 4 唯識の日本俸来にづいての考察

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日 本 側 数 臨 平 協 品 昨 年 報 ハ 第 十 年 ﹀ 二二四 5 やうに思はれるのである。かくて ζ の惇設については‘それをそのま L 肯定すぺく甚だ暗躍されるのであるが. しかしそれは如何ともあれ‘何て以て.彼が如何に玄英より優遇されしかを傍誰する一助と見倣すととが出来る で あ ら う 。 かくの如く彼は、専心唯識の研鏡にいそしんだが. 就いて絹法をも皐んだのである。﹃績日本紀﹄各一にいはく、 ︵ 玄 提 ﹀ 叉 謂 目 、 経 九 州 深 妙 不 ν 能 ニ 究 覚 ︵ 不 レ 如 間 半 レ 縛 流 コ 倖 束 土 寸 和 尚 奉 レ 敬 始 習 − 一 縛 定 一 所 レ 悟 梢 多 . と。以てその治息を知るべきである。かくて在留幾年、その師朝に際しては、悌舎利・経論. h 出 よ ぴ 西 域 倖 来 の 錨子を付せられて師朝したといふ。その結論の如何たるものだったかは明瞭でないが、玄提の新鶴が彼によって 一面また玄英の勧むるまにまに、相州隆化寺の慧満絹師に 始 め て

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が閣に輸入されたととは.否まれぬところである。 その蹄朝の年時については.文献の上に少しも記録なきため.正確なるととを知り難い。たど﹃借綱楠特﹄各 一の中に、文武天皇の二年包

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・ 巴 ・ ︶ 一 一 一 月 に 同 行 の 惑 施 が 併 一 止 に 任 ぜ ら れ 、 同 十 一 月 に 道 昭 が 大 併 都 に 任 ぜ ら れ し と と の 記 さ れ あ る を 見 る の み 。 ﹃ 檎 綱 柿 任 ﹄ に は . 道 昭 が 道 服 と な っ て を り ‘ ﹃ 一 主 日 ア 梓 書 ﹄ ハ 巻 二 十 一 ﹀ た ど も また同様に記されてゐれど、そはもとより道昭の誤記でなければたらない。市して、白雑四年より文武の二年ま ででは殆んど四十五年といふ長年月を経過してゐるから‘よし山口同時に道昭の在岡を認め得る如き記事があったと するも.そはもとより営然の弐第として、何等取上げるほどのととでもたからう。その他.更に早︿彼の在同を 推定し件る記録も艶分認められぬぜはないが.奈何せむその正確怒る師朝年時は指摘されたいのである。たまた ま狩谷披粛の﹃日本震異記孜誰﹄の巾に、その問調年時の窺知さる L 開係記事を見出し得るを以て. 一 部 の 患 者

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にあっては.それに準擁してその蹄朝の時期を定めようとするのである。いはく‘︵巻上︶ 按 和 尚 入 レ 府 白 姶 四 年 也 . 見 ニ 日 本 書 紀 A 雄 官 一 蹄 朝 之 年 無 二 明 徴 一 一 二 代 貫 録 一 弓 道 照 蓮 レ 此 之 後 壬 戊 年 創 ユ 繭 院 寺 一 主成天智天皇元年.則蹄朝在コ持明天皇之朝−也.親日本紀和尚侍一巧随 ν使 師 朝 、 因 按 こ 野 明 紀 二 五 、 五 年 七 月 丙 子 朔 戊 寅 墳 − 一 小 錦 下 坂 A 口 部 連 石 布 ・ 犬 山 下 津 守 遁 古 群 ﹃ 使 ニ 於 府 国 ↓ 蓋 随 エ 此 使 一 而 還 也 、 以 ユ 文 武 四 年 − 寂 . 見 ニ 績 臼 本 紀 円 L ι 。とれによれば.すたはち﹃績紀﹄の指示によって.薄明天皇の五年

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︶ 布・犬山下浄守連士口鮮等を唐に建されしその使舶に便乗して建蹄したといふのである。との一時の泣唐使節は、﹃苔 紀 ﹄ の 註 記 に よ る に . 同 年 間 十 月 一 日 に 越 州 に 若 し ‘ 一 二 十 日 に 洛 陽 に て 高 ︷ 一 万 に 謁 し た か ら . か の 地 を 出 議 し て わ 七月.小錦下坂合部連石 六 年

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︶ ・ ︶ が閣に回航したのは.必定その翌年でたければならぬとの謹より・との誌に撮るものは.道昭の蹄朝をば荷明の に擬定せむとするのである。如何にも.一往首肯さる L やうな推詑 r y は あ る 。 さ り た が ら ‘ とれはた正蛍なる考察と認めらる L であらうか? 査し.との時の使節と同行入唐せる伊吉連博徳の書

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そは‘﹃書紀﹄本文の中に註として挿入されてゐる

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ー たるものを按やるに‘との使節は海上にて暴風に逢ひ、大使石布の舶は南梅の一島に漂流して所期を果し得や. その越州に着せる後洛陽にて皇帝に謁せるは‘副使士口鮮の一行であったといふ。かくてとの一行は‘邦明の七年

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・﹀正月二十五日越州に蓮蹄し.四月一日越州を出護し.途中またまた暴風に逢うて頗る難航を極め、 海上を漂蕩するとと幾十日.漸く五月二十三日に蹄朝するととを得たといふ。よって.もし道昭の便乗せりとい ふ使節の師舶がこれであったとするたらば‘彼の間朝は、かくの如く斉明の七年とせねばたらぬわけで、乃ち先 6 唯識の日本縛来についての考察 二 二 五

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日 本 側 勘 執 筆 協 合 年 報 ハ 第 十 年 ︶

一 一 一 一 六

7 の六年蹄朝設にたやすく同意し難き所以である。既に披爾も叙上に指示せる如く‘﹃三代貫録﹄︵巻.二十二︶による に . 彼 は 天 相 官 天 皇 の 元 年

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匂・﹀三月に‘元興寺の東南隅に締院寺を創建すとあ忍から.如何 v い す る も そ れ以前.すたはち祷明の七年中までには踊ってをらねばなら守、而もその同行の使節の使舶が七年一月にかの土 を出張したといふ以上.必やや七年中に

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而してその遼中の難航たどをも含め.かの五月下旬の蹄朝を認容せ ざるを得たいのである。査し.との博徳の記述たる蹄還の難航にして海上を諜蕩すとの消息は.ゐそらく毘賓を 停へしものとして肯定すべきであると忠ふ。かの記述にいふ.との時西南の風に順って船出せるに途中針路を失 って海上に標ひ.絡に耽羅島に着し.漸く島人に逸られて師ることを得たとある。いはゆる枕羅島・どは.谷川士 清の﹃日本書紀遇詮﹄巻二十二によれば.各種の文献を奉げて‘朝鮮の情州島のとととしてゐる。すたはち現に 全羅南道の管下に属せるものである。よって.越州上り西市の風に吹き諮られて彼慮に着くといふが如きは.極 めて嘗然あり得ぺきととといはねばならね。市して‘とれによって見るに

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挟 桑 略 記 ﹄ ︵ 傘 四 ︶ 所 引 の ﹁ 匁 憲 記 ﹂ ゃ.景戒の﹃日本震異記﹄︵傘上︶等に.道昭が新羅を通過したてふ記事あるも.かの抗羅島標着の事貰より誤り 偉へられたのではたからろかと品はれるのである。また﹃績

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本紀﹄巻一によるに、彼の蹄還の極めて難航たり し事買を裏書するものとして、かの玄英付興の錨子についての泊息を載せてゐる。由来かの錨子は.玄柴が西域 より将来せるものにて.それによって煎たる食物を晴らば.如何たる病症もたちどころに治癒する紳験ありとし て玄提より特授されしものであって、彼も親しくその榊験を目撃し.最も大切に携帯してゐたのである。然るに 海上暴風荒くして航行を績け得守、空しく漂蕩するとと七日七夜に及んだ。たまたまト人のいはく・龍王かの錨 予を竪むとと切たれば‘立しく海に投じてそれに興ふべしと。道昭愛惜措かぎりしも.諸人の懇願にまかせ.品泌

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にそれを海に投じ.かくて漸く航行を績くるととが出来‘乃ち師還するを得たといふ。かくの如きは.もとより その事賓の如何はともあれ.よって以て.一行の師還が如何に暴風のために難航を強いられたかを傍顧すペき詮 左と見るべきであって.然る以上、かの博徳の記述が決して無根の事柄に止まるものにあら守.よって.それに 準撮して可なるべきを認めらる L のである。かくして寄人は.彼の師朝を持明の七年とたし.との年を以て‘わ が閤唯識体来の最初と見倣さむとするのである。査し、それより以前に法相移植の形述は.少しも認められぬか ら で あ る 。 調って惟ふに、持明の七年は、唐にあっては高宗の龍朔元年にして

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成唯識論﹄繰諜の額慶四年

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・ 同 ︶ ・ ︶ より僅々二年を経過せるのみ。更に厳密にいへば

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成唯識論﹄の続器は.智昇の﹃開元樺教練﹄各八によれば. かく頼度問年の間十月とあり・央興沈玄明の該論後序にもしかあり.また品目石の明詮が古来の相停を記入せるも のといはる L 該論毎巻の末尾に附載されたる日附によるに.願慶四年の十月二十七日より始めて.同十二月三十 日に成るとある。よって‘彼此の間‘閏と否との相違はあれど、その語成が顕慶四年の終末に属せる賠に異論が ないから‘それより計算して‘道昭の蹄誌に就けるは、僅々一年を経過せるのみである。かくの如く.彼の護忌 が﹃成唯識論﹄語出の農の直後に賞ってゐたから.そは未だ慈恩の﹃唯識連記﹄の成否も確定し難き︵恐らく未 だ成ってゐなかったらうと思はれる︶草創の時期に際してゐたのである。よって、唯識の倖来といふも.彼のそ れは.僅に法相敬義の外廓的結構に止まる程度のものに過ぎ守して‘到底後世に見るが如き精轍なる頼耶縁起の 法門を輸入したとは認められないのである。 但し.かくいへばとて寄人は‘撃者が時に、擬然の﹃八宗綱要﹄−などにとの時の停来に言及せざる理由を‘ 8 唯識の日本俸来にづいての考察

ニ ニ

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日 本 悌 敏 感 協 & 刊 紙 ・ 報 ︵ 第 十 年 ︶ 二二入 9 に遣筒精轍なる頼耶縁起の法門の輸入にあらざることに蹄せむとするが如き見解をたすに封し℃.到底同意する と と が 出 来 た い の で あ る 。 何 故 な れ ば 、 と の 時 に は . 既 に ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ を 初 め . ﹃ 深 密 ﹄ ・ ﹃ 議 伽 ﹄ ・ ﹃ 封 法 ﹄ ・ ﹃ 顕 揚 ﹄ ・ ﹃揖論﹄等既に謹出されをる唯識閥係の経論の輸入されたるととは.必然と認めらる L のであるから、よしやそ の所俸に精細轍密を望まれなかったとするも.よって以てそれが轍入を否定するてふ如きことは.決して出来た いのである。惟ふに

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八宗綱要﹄の如きは、擬然の著述中川棚めて初期に属するものたれば、その史賓の取扱ひの 上に、必やしも後期の如き周到さを認め難きととろあり.例へば、後にも越ぷる替であるが.本宗の第三停とい は る L 判官鳳・智鷲・智雄等が入唐して撲陽の智問に師事せるととに閲して‘﹃惜綱柿任抄出﹄などには.玄突に師 事すとあり‘或は翠恩に就墜すとの詑あるを.競然は﹃停活縁起﹄の上に破して.︵容中﹀、営時玄英・慈恩等は 既に入寂の後なれば‘制官鳳壮一寸がそれに師事すとは、時代に合致したい設であるとしてゐる、とれ至掛ムんもの見と いはねばならぬのであるが、それでゐて﹃八宗綱要﹄にあっては、ハ各下︶‘との智鳳佐一寸が玄嘆に就壊したと記し てゐるのであって、会く前後矛盾、時代錯誤の奇詑をなせる如き、その一例である。蓋し、かく﹃八宗綱要﹄に あっては.同一著者のものたりながら、後出のもの︵円停泊縁起﹄など︶に比して.如何にするも依刑され難きふ しのあるのを、時に認めざるを得ないので.か L る例は.わが岡の華厳宗系譜についても認められる。すたはち ﹃倖通縁起﹄には‘︷砕砕を弘停の初阻とぜるも.﹃八宗綱要﹄には遺障を初組とすとあるが如きとれである。査し 道曜は、華厳章疏を勝来せるに止まり、未だとれを誹布するといふまでに五ら歩、そのとれを諦有して初祖とさ る L は、審畔その人だったから、擬然は.初め﹃綱要﹄に道躍を初組とせるも.後に﹃停泊縁起﹄︵または﹃内典 睦露章﹄︶には、改め℃審砕とせるわけ寸ある。よって、かうした例はま L 見出されるの色あるから、彼の初期の

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﹃網.雨宮﹄を以て必守しも絶封の依悲として論やるととは出来ないのである。またたとひ一歩を譲り.との底の﹃綱 要﹄の記事︵道昭の停来を省除せる︶を認容するとしても.その道昭の倖楽に言及してをらぬのは.或は失の如 き理尚を以てせるがためではたからうか。いはく、元来かの﹃綱要﹄の如きは‘八︷一部てふ︷一百日の紹介をなすが本 義にて‘必やしも各 hN 教義の思想を叙述するを目的としないから.米だ宗家慈思の﹃速記﹄を初め.その他本宗宗 典の轍入を見ざる道昭の侍来の如きは.ん一否日の移杭てふ結より見℃不常たりとせるま L 、 措 い て 記 さ − な か っ た の では・なからうか。然るに‘とれに反して、一般に教義思想の侍来を取扱へる﹃停泊縁起﹄や.また﹃内典塵露章﹄ の如きには.営然本侍左記載せるわけである。︵﹃元亨持者﹄巻一によるに.道昭が本山一五の章疏を将来すといろ℃ ゐれど‘如上庚く唯識闘係の経論ならばともかく・厳密にいうて法相章疏の惇来は、決してとの時に認むるとと が出来ないのである 0 ︶ また一誌に、道昭は如上玄提の勧奨によって絹宗を修習して惇へ、わが園締宗の先臨む包−なした、よってその締 ︷一部の停来を主眼とすべき以上、唯識の倖来の如きは.措いて言及されないのであるといふものあれど.とれまた 然うではない。いはゆる玄央の勅奨せる修耐とは、かの四締九定の賓習にあって.宗旨としての締法にあらや’・ 畢克教義の論孜のや L もすれば宰理・宗主一酬に陥らむとするを戒め.あくまで貫践賞行の修脅を念とすべきを勤め しものといはねばならぬのである。玄焚が如何に修絹の貫神を主んじたかてふととは、その高宗に奏上ぜる表文 によっても知られる。﹃慈恩俺﹄巻九にいはく. 玄 提 少 来 頗 得 レ 甫 骨 二 特 敬 義 ﹁ 唯 於 二 回 蹄 九 定 二 本 レ 暇 コ ・ 安 心 一 今 願 託 ユ 慮 禅 門 一 澄 − 一 心 定 水 一 JO ム﹂。されば.との質践を以て少枇の海外感情を勅奨せしととは.疑ひを容れたいところであって.かの五姓宗法 昨織的日十小停衆にづいての考務 一 一 二 九

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日 本 側 油 相 醐 平 協 合 年 報 ︵ 第 十 年 ﹀ 一 一 一 一 一

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11 と彼が仲帯電して.輔菊美を競へる那欄陀皐閣の教皐巾・より.特に修得せる藤伽・唯識の教義を‘

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うして軽々に 放棄して顧みねてふ如きととがあらうぞ。よってその勧奨せる修絹たるや‘必・予開定の賓修にあって.決して宗 旨としての締法にあったのではないといはねばならねのである。﹃東大寺具書﹄によるに. 師 朝 之 後 、 於 = 本 一 冗 興 寺 謹 一 建 ニ 法 相 梢 院 − 弘 レ 之 . と あ っ

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.彼の建立せる蹄院に法相制院といふもの‘と

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決して一般時宗のそれを指せるものでないてふととを 看 取 せ ね ば た ら ぬ 。 ハ 境 野 博 士 ﹃ 日 本 係 数 皮 講 話 ﹄ 三 入 四 頁 参 照 ︾ さ れ ば . 彼 の 倖 来 の 本 同 日 が 、 唯 識 に あ ら 守 し て 禅 宗 にあったとするが如きは.甚だ蛍を得ざる見解といはねばならぬのである。 かくて伎は、師朝の後.如上元興寺の東南隅に開院寺を創建して、専ら共慮を根操に所停を弘布し.また諸園 を回躍して、井戸を穿ち‘橋梁を架け.渡枯を設くる等、ぴたすら民利を闘るとと十飴年、かの奈良時代にたけ る行基・時道等の事業の基をたした。就山中、宇治惜の架設を以て伎に擬せむとする設が﹃縞日本紀﹄以来多く行 はれてゐるが‘それらの毘偶如何等はも本題の直接関係するところでないから、と L には言及を略してたく。而 して、その晩年すたはち文武天皇の二年

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・ ロ ︶ 十一月大僧都に任ぜられ、同阿年三月詩七十こを以て寂 した。勢子等遺命によって火葬に附す。とれわが悶火葬あるの最初であるといふ。受法の弟子に前一賀・行基等あ り、遺賀はとれを法降寺に蹟め.行基はこれを薬師寺に布いた。

第二停 とれ智通・智建の入府正ょっ℃停へらるといはる L もので、そは、さきの道昭入唐後九年を経たる持

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明天皇の四年

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・ロ︶のことに臆する。﹃日本書杷﹄各二十六.持明の三年の下にいはく, 是 歳 使 ニ 使 於 新 羅 − 日 ‘ 思 丁 欲 特 ニ 沙 門 知 H 連 ・ 間 人 連 御 蹴 ・ 依 網 辿 稚 子 等 一 付 二 汝 間 使 ﹁ 令 弘 子 到 大 将 炉 新 羅 . チ 一 背鰭浩一白 ν 沙 門 智 達 等 師 還 . と。とは智建等が、その入唐に方って、新羅の使者と同船すべく・まづ以て新羅に抵遣されたるも.新羅がその 同舶を肯んじたかったから、要領を得ざるま L .止むなく新経より師り来ったとの意味のゃうでもあり・また州首 建等が以前より新羅に行ってゐたために、便宜上直にその岡使に附託し・それと同船して入唐せしむべく使をか の闘に遺せしも.かの闘がそれに肱じなかったから、止むなく智建等が蹄り来ったとの意味にも取られ.との記 録だけにては.何れとも明瞭を献いてゐるのモある o しかしその何れにあれ‘とにかく彼等は‘所期を果し得守 して還り来ったのである。乙とに沿いてか、更に改めて翌問年の差撞とたったものと見られる。すたはち﹃書紀﹄ 該四年の下には.その七月.智建の外に智通も加はり.新羅の舶に乗じて入唐したとある。よって、かの闘の舶 が入唐の設中わが閣に立寄れるに便乗し℃渡行せるものと見らる L のである。との時の入唐については.またか の土の史警に記されてゐるのであって‘すたはち﹃悌組統紀﹄巻三十九にその来朝のととが載ってゐる o 然 る に 貞舜の﹃七帖見聞﹄巻一本によれば、彼等の入唐を以て‘皇極天皇の七年すたはち大化四年ハ

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︶ ・ ︶ の こ と としてゐる。併し.そはもとより熱謬であって.必‘?との費明の四年に従はねばたらぬのである。 時に唐にあっては.高宗の願度三年にして.玄英は玉華寺にたいて.ひたすら醜業に従事せる際であった。よ ってとれに就いて唯識の敬義を受け.また慈恩に示教を仰いだのである。営時は.先来の道昭も未だ滞在中に℃ 玄嘆に就曲学しつつあったと思はれるのであるが‘それらに闘して少しも文献の上に消息を認められねのは.甚だ 12 曜 識 の 日 本 停 楽 に つ い て の 考 察

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日 本 傍 数 凪 平 協 舎 年 報 ︵ 第 十 年 ︶

13 遺憾の至りである。 さで.彼等の蹄朝の年時に闘しては、少しも知られてをらぬのであって、僅に、智通は蹄朝の後大和に観音寺 を聞いて居り.盛んに法相の敬旨を布けるため、串徒翁然として四集し、名聾一時に喧体されたと惇へらる L の み。また彼は.天武天皇の白鳳二年

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金剛山寺ーーすなはち俗に矢同寺と呼ばる L ものの開基とな ったといふ。併しとの開基一再々は.該寺﹃縁起﹄に倖へらる L も の で . そ の 一 止 否 の ほ ど は 確 か で な い 。 而 し て . また同年備五に任ぜらると倖へらる L が、その寂年・亨害等は全く詳か寸はない。

第三停 とれ智鳳・智鷺・智雄の入唐によって停へらるといはる L もので、そは.さきの智通等の入唐後四十 五年を粧たる文武天皇の大費三年︵ 4 8 L P − H V ﹀のことに属する。﹃舶用制楠任抄出﹄によるに‘その犬費三年の保 に . ︵ 巻 上 ︶ 岡 市 民 一 五 . 此 年 智 鳳 法 師 等 、 依 ユ 勅 命 司 渡 海 入 店 . 遇 ニ 玄 英 三 誠 一 習 ニ 準 法 相 大 乗 ↓ 云 々 . とある。併しとれらの入唐については.正史たる﹃績日本紀﹄の上に少しもその記載を見ないのである。よって 古来異説一一準たらや、例へば.との大賞三年を以て.智鳳の新羅より来朝の年とせるが如きものがあるのである。 されど、普通は﹃停通縁起﹄の設によって、上の大費二一年と指示されるのであって.﹃七帖見開﹄一本・﹃元亨制作 書﹄巻十六等.何れもこれを相承してゐる。三名の中、智鳳は新羅人であるが.夙にわが闘に来り.留準年久し ︿.かくて大費三年に、勅を奉じて智鷹・智雄と共に入唐した。知 H 鷲 ・ 智 雄 の 何 れ も ま た 新 羅 人 で あ る ー に い ふ 。

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時に唐にあっては.中ん一一小の嗣聖二十年に蛍り、法相の第三組たる撲協の智問に就いて唯識の旨を究めた。叙上﹃抄 出﹄の如く、玄撲やまたは慈恩に師事したとの異説あれど.就に凝然も﹃倖通縁起﹄の上に許せる如く.玄提・ 慈恩は既に捜して世に在らざれば.その−諜謬たること昔口孝侠たない。査し.玄提は.﹃慈思侍﹄巻十によるに.高 宗 の 麟 徳 一 冗 年

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・ ︶ に 硯 し 、 慈 思 は 、 ﹃ 宋 高 借 偉 ﹄ 巻 聞 に よ る に 、 同 じ く 氷 洋 元 年 ︵ 。

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・ ︶ に 捜 し た の で あ る 。 然るに、智周は、後に− V A 防 の 入 府 し て 師 事 せ る 養 老 一 冗 年 ︵

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﹀ − H ︶ ’ ︶ に は 、 一 二 十 八 歳 で あ っ た と い ふ か ら . そ れより逆算して、との時は二十四歳だったわけである、よって事者時にとの師資の関係を疑うて‘海外接併たる 智鳳等を敬導すべき師匠として.知

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はあまり若年に失しはせややといふものがある。如何にも一佳は.しか考 へられぬでもないが、併しとれくらゐの年齢としては、必やしも一概にその消息を否定するととは出来たからう。 それよりも.昔時は.本宗の第二組慧消の存命中にてしかもその前勤盛りのやろであった︵慧沼の入寂は

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扶桑 略記﹄巻六によれば.かの玄宗の開元二年、すたはちわが元明の和銅七年

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・ 巴 ・ にして.今大賞三年より 十一年後に賞る︶から.たそらく智周がそれに師事しつ L あった際のやうに忠はれるのである。果して然らば. との智鳳等の三人も.慧沼に就いて皐んだのでは ιなからうかと推されるわけであるが‘それらについて何等の消 息をも探り特守、た H h 僅に如上智周に師事せる一端だけが古来一五ぴ侍へらる L に止まれるのみである。 かくの如く本偉は.その入唐修撃のほどが不明であるから.その蹄朝の年時も.もとより詳でたいのである。 但し・﹃扶桑略記﹄巻五によれば‘慶雲三年

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− H ︶・﹀十月に.藤原不比等が維摩舎を復興し.城東の第にこ れを替修するに首り.入唐塾生智鳳を詩じて講師とするとあるから、然る以上その蹄朝

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砂くとも智鳳の蹄朝 14 唯識の日本体来についての老祭

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日 本 傍 救 且 平 協 合 年 報 ︵ 第 十 年 ﹀

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15 は.それ以前に賞り‘よって如上大賞三年の入唐として数ふるに沿いては‘あまり久しきに亘る留壌で注かった やうに思はれるのである。市して、一二人の巾特に智鳳の名のみ盛んに侍へられてゐるのは.会そらく奈良時代郡 一 の 高 併 し 人 橋 せ ら る L 義淵が智鳳の門下といはる L がためであらう。知 H 鳳は、蹄朝の後一冗興寺に位して唯識の弘 通に努め‘徳風一世に亘ったといふ。但し、その後の経歴は詳かでない。智鷲・智雄の二人も.かく智鳳と共に 入唐して.斯感の惇弘に興ったのであるが.その停記は.同じく明瞭を快いてゐるのである。 . 晶.

第四億 養 老 元 年 ︵

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−匂・﹀のととに属する。との玄防の入山崎は.法唐押使多治比異人服守の一行に従って渡航ぜるも の で あ っ て

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鰻日本紀﹄巻七の鰻組二年

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−ロ︶八月二十日の下には、その一行について‘ 是日.以ユ従四位下多治比民人麟守”岱コ謹唐押使一従五位上阿倍朝臣安麻呂得ニ大使ぺ五六位下藤原朝臣馬養 混 同 一 副 使 一 ・ : ・ ・ . とれ玄肪の入府によって偉へらるといはる L も の で ‘ そ は 智 鳳 世 一 す の 入 府 後 十 四 年 を 経 た る 元 正 天 皇 の とある。然るに﹃扶桑略記﹄巻六によれば. 盛縞二年八月大伴山守矯コ撞府大使一多治比牒守・安部仲麿矯ニ副使一下道真備生年二十.従レ使入居.沙門玄 肪同入唐.乗船四般.五百五十七人渡海、 と記して、その使節が叙上﹃棋紀﹄のそれと同じくはたい。従来の史書何れも乙の﹃略記﹄の設に撮れるまヘ 玄防の湿範一一年八月入臨闘を以て、恰も定銑たるかの如く信じられて来たので.かの﹃偉通縁起﹄を初め

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七帖凡

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間 ﹄ ︵ 巻 一 本 ︶ ・ ﹃ 元 亨 輝 書 ﹄ ・ ︵ 巻 十 六 ・ 巻 二 十 二 ︶ ﹃ 東 岡 高 崎 川 倖 ﹄ ﹁ 巻 一 一 ︶ ・ ﹃ 本 朝 高 僧 偉 ﹄ ︵ 巻 六 十 七 ﹀ 等 々 . 何 れ も 然 う 稔ってゐる。たピにわが闘の史書のみならや.支那にあってもまちん然うで.﹃宋史矢倉四九一︶や﹃帥組統紀﹄︵各 阿

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︶など何れも開元凶年

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すたはち謹組二年来朝としてゐるのである。併しながら、とれ果して京鵠なる詑 といふぺきだらうか。つらつら﹃績紀﹄の記事を案やるに、そは文にあっても明かなる如く‘盤組二年八月に多 治比臓守等が撞唐使節たる任命そ拝ぜるととの消息であって.決して入居したとの記事ではない.よってとの時 は、未だかの地に向って出穫してゐないのである。市しでは凡二十六日には.藤原馬養を従五位下に任じ.また 九月四日には.如何たら事情にてか詳山でないが、大使阿倍安肺吊はその本役を菟ぜられ、代って従五依下大作 指摘山守が大使に任ぜられた。叙上﹃略記﹄に大伴山守を大使・片したすと記せるは.との安麻呂を交代せるものを 停へたものであらろか。但し.同省に‘安部仲腔を副使に‘下道真備生年二十にして共に入唐すとあるが.とは 果してどうであらろか。就中.下道民備とはかの吉備員備の乙とで‘それの同行については.既に﹃締紀﹄巻三 十三.費亀六年の下にも記してゐて.別に問題ではない︵た刊誌その年齢につい℃、﹃績紀﹄には二十ごとある︶ が、仲腔の副使といふに至つては如何。既に叙上﹃積紀﹄に藤原馬養が副使と明記されてゐる以上.そはどうし ても首肯され難いととろであって

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鰻紀﹄に仲麿を奉ぐる所には

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巻十三、天平十一年十一月の下や‘各三十五. 費砲十年四月の下等

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何れも﹁閣常生﹂と記し℃﹁副使﹂と記さぎるもの、以て見るべきである。惟ふに.かの土 の記録.ーーすたはち新奮﹃唐古の何れにも.乙の時仲腔の同行入唐ぜるととが見えてゐるから.︵﹃膏焼香﹄袋 二 日 四 十 九 ・ ﹃ 新 府 警 ﹄ 巻 一 一 臼 二 十 参 照 ﹀ そ れ が 最 初 犬 使 に 任 命 さ れ た 阿 倍 安 麻 呂 と 混 同 し て ‘ 乃 ち ﹃ 時 記 ﹄ の 仲 間 副 16 使の設が出たものと見たければたらぬ。恐らく・仲麿も真備の如く.またとの時に同行したのであらうが.そは 喰識の日本俸飛にワいての考察 一 一 三 五

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日 本 側 勘 郡 山 町 協 合 年 報 ︵ 第 十 年 ︶ 一 一 一 一 一 六 17 決して副使として入唐したのではないのである。﹃績日本紀考詮﹄に這般の見解を叙するもの、甚だ安官なるを畳 ゆ る 。 かくの如く牒守の一行は、霊甑二年八月に撞唐の特命はあったもの L 、決して直には護処しなかったのである。 すたはち﹃績紀﹄によるに、翌養老元年︵ 4H4kr ロ︶二月一日に彼等使節が紳紙を茸山の南に杷り.海上安稽の 新一酵をなせるととあり、同二十三日に彼等の拝朝のことあり、更に三月九日に泣唐押使に節刀を賜うたことを記 してゐる。蓋し.海上安穏を紳紙に析轄するととは.法唐使節の定儀であり、且出費に際して節刀友賜ひ‘師朝 この記事によって一行が‘砂くとも養老元年三月九日までは出護 の時に挺進するとともその例格であったから‘ しなかった乙とが知られるわけ色ある。かくてその出琵の時日は.以下に少しも明記されてをらねから.確買に は知り難いのであるが‘普通節刀左賜ふことは.出護の際になされる例にたってゐたから、今や押使が節刀を賜 へる以上‘その後幾くもなくして難波津を出費したとと L 思はれる。蓋し.遣唐使節の出穫は、難波津よりさる L がその例であったのである。市してとの一行は.翌養老二年

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︶︶十月二十日に蹄朝したとあるから. 玄防の便乗入府ぜるは‘必やや養老元年でなければならねこと L たるのであって

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或は養老二年の早々の入府と も解されぬでもないが、元年中に別に使節の難航等の記事たきよりして案中れば.元年三月節刀を賜へる後幾く もなくして出費.かくて多くの日教を費さやして入唐せるものと見るべきであらう

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乙の駒従来の霊亀二年説は

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うしても訂王されねばならむのである。由来、遣唐使節の出護たるや.必やしも任命を受けて後直にされると との多治比勝守等の撞唐の前に . . 果間直人等が文武天皇の大賀一五年

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月に任命 は 限 ら や 、 例 へ ば . されたるも.その出費は翌二年六月であり、またとの後に多治比蹟成壮一すが聖武天皇の天平四年

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ロ﹀八月

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に任命されたるも.その出穫は翌五年四月だった如きこれで.その例砂くはたいのである。尤も同じ﹃練紀﹄で ありながら、巻十六、天平十八年六月の玄肪示寂の下ゃ.巻三十一二、費範六年十月の民怖謹去の下には.何れも 霊前咽二年入唐とあり、これがため、後にかの﹃挟桑略記﹄を始め諸史何れも譲組二年の入府とするに至ったこと L 思はれるが.叙上﹃績紀﹄の彼等の任命以後の記事乞辿る限り、その出護は.どうしても任命の翌年とせざる を得たいのである。蓋し、﹃積紀﹄にか︿任命の年時のみを記して.出殻の消息を少しも奉げぬま L .一般に、そ の出護を直に任命たる霊組二年のとと L 解さる L に至ったのであると思はれる。況むや﹃縮紀﹄自身すら‘右の 如く後段には︵すなはち巻十六・巻三十三等可霊範二年入唐と記せるに於ては、満更その謀謬がふ背及されし失第 といはねばたらぬ。﹃宋史﹄や﹃働組統紀﹄の誤りの如き.ずなはちそれである。とれを.裂するに彼等使節の一行 は‘霊亀二年任命.養老元年出費と見るべきであって.然る以上玄肪の入唐も.また然るべく勘定されねばなら ぬ わ け で あ る 。 さて、とれより先彼は.義淵に就いて唯識の敬旨を修め‘そのいはゆる七上是の一人として、大に俊才の春高 かったから.そこで.今やかく入店求法の命を拝したとと L 思はれるのである。かくて、かの土に着せる時.彼 底にては玄宗の開元五年に首り.彼は直に溝陽の智周に謁して、法相の深回目配叩いた。智周時に三十八歳.懇ろ に と の 海 外 接 併 を 教 導 し た と い ふ 。 営 時 か の 地 に あ っ て は 、 韮 同 組 ⋮ 畏 ︵ 酌

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︶ ・ 金 剛 智 F .

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− 不 宰 ︵ ﹀

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︶等の皐僑の前後して来朝するあり‘すたはち帯無長は開元四年

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− H ︶ ・ ︶ に 、 金 剛 智 ・ 不宰は何れも開元八年

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﹀ − H ︶・﹀に来り、密教経典の課業大に隆盛に向へる際であったから.彼が在留の問、 またそれらの思想の感化を受けしととも.想像するに難くはない。かくて在留十八年間.性相の義門は‘まさに 18 唯識の日本惇来に円/いての考察 二三七

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日 本 悌 敏 感 柑 励 金 H 年報 F 第 十 年 ︶ 二三入 I守 その奥義を窮めて飴親往きに至ったといふ。玄宗皇帝大に彼の接才を賞で.一一一品に准じ、紫袈裟を賜うたとある。 その.かの地にたける名聾のほどを忠ふべきである。 その蹄朝は、開元二十二年

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k r − H H ︶誼唐大使多治比良人民成・副使中巨朝臣名代等の回航するに便乗し

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迭に上ったといふ。との使節は‘如上天平五年同月に出稜入店せるものにて.その問航の開元二十二年とは、す たはち翌天平六年である。その十月.四舶を臆して蘇州を穫し,蹄迭に就く。との行吉備異備を初め.婆羅門倫 一 止 と い は る L 菩提謹那︵切 C 古 田 恒 国 問 。 ゃ 、 杭 邑 の 偽 哲 や 、 律 惜 の 道 弾 等 も 同 道 し た と い ふ 。 然 る に 、 途 中 暴 風 に 遭うて.一行は彼此に離散せるもの L 如く.大使康成の舶は.その十一月二十日漸く肥前の多繭島に着いたとあ る。副使名代の舶はそれよりも遥かに遅れ斗雨天竺婆羅門幣巨碑銘﹄に天一千八年五月十八日に築紫の大宰府に到 着 し 得 た と ∼ め り 、 ﹃ 績 日 本 ・ 紀 ﹄ 巻 十 二 に 同 じ く 八 月 二 十 三 日 に 拝 朝 し た と あ る 。 ︵ ﹃ 績 紀 ﹄ に 記 す と こ ろ 、 と の 年 の r u 月下の庚午の日に拝朝したとあるも.その七月には由民午の日たく・庚午は翌八月二十三日に首ってゐる。よって ﹃ 槙 紀 ﹄ は . との庚午の慮は月名を快けるものと見るべきで、然る時は‘廃午拝朝といふをすたはち八月一一十三 日 の と と L 解すべきであらう︶。よってその師朝は、恐らく天平八年だった乙と L 忠はれる。而してその十月二日 に 、 遺 路 左 京 口 提 謹 那 と に 時 服 b q −賜ふとあるから.とれらの二人は副使と同船し℃来朝したととが推されるのであ る。然るに﹃績紀﹄の所明によれば.︵巻十一・十一一︶‘大使の舶は‘叙上その六年十一月二十日に肥前の多繭島 に着き.翌七年三月十日庚成入京して節刀を返進し.四月二十三日に五四位上を授けられをり・また虞備は.そ の 二 十 六 日 に ﹃ 唐 臨 ﹄ ・ ﹃ 太 初 屑 経 ﹄ ・ ﹃ 太 初 暦 立 成 ﹄ 等 そ 献 上 し て を り 、 ま た 玄 肪 も そ の 月 日 を 明 記 せ ね ど . ハ ﹃ 績 紀﹄十六﹀、同年に鹿成に随って謹蹄し.経論五千飴巻沿よぴ諸俳像を将来すとあり.況むや﹃扶桑時記﹄には.

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七年四月にその将来の経論・帥微を太政官に献上すとある以上.民備・玄肪は必やや大使と同船して蹄朝せるこ と k 見ねばならねのである。 然るに一般には.彼の師朝を以て天一千七年とたし、そのホ府を二十年といび侍へてゐる。﹃体通縁組﹄を初め. ﹃今昔物語﹄・﹃本朝高併体﹄等の諸書多く然うである。査しとれ、その入腐を璽範二年、川脚朝を天平七年と敷ふ るがためであるが.厳密にいうて、如上入府は養老元年たり・師刺は天平六年たれば.その間十八年間の在府で たければならぬのである。尤も師朝の一大千六年は.肥前に到着の時を指せるにして‘まさしく入京報告せる時を いへば‘すたはち翌七年であるから.それらを心得ての天千七年師朝といふたらば.必ヤしも不可といふではな けれど.一概に天千七年師朝といひ去ることは‘決して位、相を的示せる一訟とはいへたいの寸ある。かくて彼は. 上の如く七年四月.将来の粧巻・俳像を太政守に献じたが、後勅してとれ釈興幅寺に世かしめ給うた。乃ち此蕗 にあって自ら法相の宗義を講越し.盛んに後曲学の誘披に野めた。朝廷厚く彼そ傘重し給ひ‘天平九年︵斗 ω 4 k r a 匂 ・ ︶ 遂に併正に任じ‘紫袈裟を賜び、常

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内道場に居らしめ給−った。わが朝賜紫の恩典ある.全く彼を以て最初とす るといふ。かく彼は柴龍を一身に苓めたが、惜むぺし後年失脚してその終りを全うするとと能は守‘すたはち天 平 十 七 年 ハ t U k r −巴・︶に観世話日寺の諮替監替に事寄せて築紫に左題され、次いでその封物を技枇され‘翌年配属 に 捜 し た の で あ る 。 ﹃ 績 日 本 紀 ﹄ 谷 十 六 の 記 事 に よ る に ‘ 自 レ 是 之 後 ‘ 柴 寵 目 盛 、 和 希 = 沙 門 之 行 ﹁ 時 人 悪 レ 之 . とるり、とれ玄肪が借侶の身にてありながら.その権勢の向ふととる.政治の事にまで容喋せるがため.藤原氏 の激しき嫌悪を受けしととの消息と見らる L のである。査し.営時藤原氏の勢力大に盛んたらむとせる際であ。 20 唯識の日本俸来についての考察

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日 本 傍 教 皐 劫 間 合 年 報 ︵ 第 十 年 ︶ 一 一 四

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21 たから‘新蹄朝の博識玄肪の如きが朝廷の殊遇を蒙るを見℃、脅威を感やること甚だしく・ために心中大に穏か たらや、よってとれを制度に嫌悪せるわけである。而して﹃績日本紀﹄は.とれ正史なりとはいてその修史の 官吏は.何れも藤原氏の勢力に阿競せるものから.如上州筆舞文の虚構をなし.以て玄肪吃しかく悪しままに罵 晋せるの態度を示せるわけである。然るに後世の史家、それらの事情を耕へやして.更にそれに曲解を加へ、彼 に破戒不倫の行越があったとまで議読するに至ってゐる。皇太夫人宮子沿よぴ皇后光明子との聞の醜聞すなはち とれである。かくて、彼が築紫に捜するや.晴嵐て彼に含むととろのあった藤岡庚嗣の怨霊に害せらるとの傍説さ へ唱へられ.かの﹃元亨樺書﹄の如き借家の手に成れるものすら.またそれに怯惑させられてゐるといふ有様で ある。併し伎は‘持律堅同の墜借であって.識見一世に勝れてゐたことは否み符ぎるととろであって、かの﹃績 紀﹄の記事の如きは.多分は藤原氏に取っての嫌悪より生ぜる諮読ん﹂いはねばならねのである。先輩就に多くこ のととを指摘せるもの‘す訟はち見るペし。 たほ伎の将来せる五千儀袋の粧論とは.とれ買に官時粧典の大賊艇に牧掃されてゐた会長を指せるものたる主 注意すべきである。蓋し.経典の犬繭粧てふ範時に統揖されし最初は明瞭でないが、治そらく梁の武帝の天監十 四 年 ︵ E U k r −

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・﹀に、勅して官時の碩皐併紹をして、宮苑内の華林怖殴にたける経典を検せしめ.それが目録を 編せしめし時を以て最初 k 見るととが出来よう。但し.営時その数量が如何ほどあったかは不明であるが,そ

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後三年を経たる夫監十七年

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︶ ・ ︶ に ‘ 勅 し て 賀 唱 を し て 常 代 の ﹃ 衆 経 目 録 ﹄ b k 編せしめ.その時の敢量が 一四三三部・三七四一巻であったといふから.︵﹃陪代三賀紀﹄巻十一九︶.概して大蔵経統嬬の最初の数設は.ほピ とのくらゐのものだったととと思はれるのである。その後、歳月の経過と共に鶴諜の事業も益々進捗し、殊に陳・

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階・唐初の課業の最も股盛なる時代を鰹て.玄宗の開一五十八年︵

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・﹀に撰出ぜる智昇の﹃開元鰐教録﹄の 統 計 に て は 、 そ の 現 存 教 最 一 一

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七六部・瓦

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四八巻となり、それを以てほピ後来の大蔵粧の標準数量とさる L K 至った。世にいはゆる大蔵経五千巻との稿は.すたはちとれに則れるものに外ならぬのである。而して今玄肪の 蹄朝が、との﹃開一五録﹄の統揖のありし開元十八年より四年後に相官してゐるのであるから、その将来の経論五 千飴巻とは、明かにかの統揖にか L る 五

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四八巻の全容であったといはねばたらねのである。されば彼の師朝の ととたるや、た H A に法相唯識の倖来てふ業蹟のみに限らや.更に完備せる大蔵経の将来てふ賠より見るも.まさ に逸すべからざる偉業として輝けるものといはねばたらぬ。

以上は.唯識法相のわが園に倖へられし四停と稿せらる k も の L 概要であるが.本宗の渡来は. たピにとれら の四俸のみに止まらやして、たほ他にも多々拳げられるのである。すたはち孝徳天皇の頃より奈良謹都に至る間. 入唐留事の沙門その数極めて多く・従ってそれらの沙門中、玄突を初め慈思・慧沼・智周等より本宗を相承せる もの、必やや如上道昭乃至玄坊のみに限らたかったとと L 思はれるからである。例へば、多武峰の開基定慧の如 き.大安寺の準備道慈の如き、興幅寺の僧都行賀の如き、何れも入唐して本宗を受畢したと認めらる L の で あ る 。 就中定慧は.大織冠鎌足の子にして、孝徳天皇の白錐四年

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かの道蹟・道昭等十三人の仲間に加は り‘潰唐大使士口士長丹等に障って入唐した。時に彼年二十三であったといふ。かくて長安慧日道場に紳泰に就い て悌教を修め、また諸麗に歴遊して撃事の研鍵を重ね.在留二十六年の後、天武天皇の白鳳七年古語

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ロ﹀蹄 22 唯識の日本停来にづいての考察 二 四

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日 本 偽 教 曲 管 晴 間 合 年 報 ハ 第 十 年 υ 三 四 二 23 朝した。その後、大和の多武峰を聞いて、揖津の安威山の鎌足の墓をとれに移し、よってその開基とされてゐる。 また道慈は.文武天皇の大賓元年 f4CMLPHV ︶に入唐し、普く三論・法相・密教等の諸宗を修めたが、特に三論 の奥義を究むるとと深く・在留十八年にして.元正天皇の養老二年ハ

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ロ︶師朝し.南都大安寺にあってそ の所修を弘め.特に三論を本とした、よってわが圏三論の第三停と教へられる。但し、その陣朝に際して、最初 に慈恵の﹃七巻章﹄を講・?とある、いはゆる﹃七巻章﹄とはベ大乗法苑義林章﹄七巻︵本末十四巻︶を指すので ある。また行賀は‘南都輿幅寺の聞牢備で、孝謙天皇の天平勝費五年

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︶二十五歳にして入唐し、専ら法 相・天台の墜を修めた。在留七年、淳仁天皇の天平賓字三年︵ 4 8 k r − H ︶ ・ ﹀ 五 百 飴 巻 の 経 疏 を 携 へ 蹄 っ た と い ふ 。 叙上の消息に徴するに、これらの曲学備が入唐して本宗を修得し、以てそれを相停ぜるととは‘賓に疑ふべから ぎる事賓と認めらる L のである。然るに本宗の惇来としいへば、古来専らかの道昭乃至玄肪七人の四俸のみが傘 げらる L に止まり、飴他のそれは、措いて少しも沙汰されないのである o 蓋しこれ.とれら四停の七人が、その 忠一・徳の別して優秀たるが設すととろか、抑々またその門下に‘多々有数たる墜匠の輩出せるがためによるので

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ら う 。

然るに、かく道昭乃至玄肪によって四停された本宗は‘奈良時代に亙り、いはゆる南都仰教としての全盛を極 めたのである。その弘通ぜる道場多き中、かの七大寺と呼ばる L 東大・興踊・元興・大安・襲帥・西大・法隆の 諸寺がその主たるもので‘就中,特に元興・興一幅の雨寺が最も柴え、それがいはゆる南北雨寺の教系として、後

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世に至るまで斯撃の皐流をたずに至った。﹃倖通縁起﹄巻中にいはく. 興 幅 ・ 元 興 南 北 雨 寺 島 一 者 衆 多 ‘ 競 立 ニ 義 理 一 因 ・ 内 二 明 王 持 ニ 金 玉 ↓ 朋 諜 相 同 期 成 二 雨 寺 同 弐 と。よって、以下、本宗の数系を見むとするに方り、まづ以てこれら雨寺の総起について一言するととろがなけ れ ば た ら ぬ 。

まづ元興寺建立の由来については

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日本書紀﹄巻二十一によるに、用明天皇の二年︵昆

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− − 厩 戸 皇 子 ︵ 聖 徳太子︶蘇我馬子と共に物部守屋を討伐したまふや.皇子は四天王に戦捷を祈願され.馬子、また誓一言を立てて悌 天の冥助を乞うた。かくて守屋は誌に伏し、戦凱遂に千いだから‘皇子はとれを以て四天王の加護とたし、難波 の荒陵に四天王寺を建て、馬子また誓言のまにまに、飛鳥の異紳原に法興寺を建てた。との法興寺とそ‘後に改 めて元興寺と稿せらる L もので、初め崇峻天皇の元年

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・ ︶ に そ の 詰 営 に か L り、推古天皇の四年

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k p ・匂﹀に完成したといふ。査し元輿とは‘悌法初興を意味する名稀である。乃ち馬子の子普徳を以て寺司とたし‘ 高躍の師化情慧慈.百済の陣化僑慧聴をしてとれに位せしめた。世に飛鳥寺、または飛鳥大寺と稿するもの.す ゑはちとれである。かくて初めは.朝鮮牛島より渡来せし三論の教義を弘通する道場とたってゐたが、その後遺 唐使制の設定と共に支那大陸との交通の頻繁となるにつれ.入唐畢惜の師朝して、新規の教撃が此底にて講布さ る L に 至 h y 、まづ道昭が法相唯識の弘通を本寺にて聞れるを最初とし.爾来本寺がその皐解の中心とたるに至っ た。その後元明天皇の和銅三年

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・︶平城建都のととあるや、諸寺多く新京に移縛したが、本寺は僻教興 24 喉識の日本俸来にづいての考察 ニ 四 三

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日 本 側 教 摩 柑 励 品 宵 年 報 ︵ 第 十 年 υ 二 四 四 25 隆最初の地たればとて、依然として共鹿に止まり‘移輔さるといふととはたかった。然るに﹃三代賓録﹄巻三十 二の記事によれば.との濯都と同時に本寺も別

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新京に新寺の建立がたされたやろに推定されぬではないが.必 やしも然うではたい。何故たれば、﹃績日本記﹄巻七の霊亀二年

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︶下の記事に、始めて本寺を左京六係 四坊に徒建するといひ、また同巻八、養老二年︵

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同 ︶ ・ ︶ 下 の 記 事 に ‘ 法 興 寺 を 新 京 に 遷 移 す る と

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っ て . そ の移建といふも B 遷都よりも後年のととにして、決してそれと同時にたされたのでゑいてふととが推せらる L の である。然らばその璽龍二年たよび養老二年移建の消息を如何に解すぺきかといふに、叙上﹃三代貫録﹄の推定 をも考慮して、たそらく.最初和銅三年に新規に一寺の遺管を企固されしも.ぞれが果せぬま L .更に計査を費 ヒて、霊組二年に飛鳥の本寺を移轄すペく企園し‘それが遂に養老二年に至って左京五保七坊に移建されたので、 その左京五保七坊が現今所在の寺社に蛍るものであると解すペきではたからうか c 而して、霊組二年に左京六俊 四坊に移縛せむとしたとあるが如きは、治そらく大安寺移轄の泊息が混請して此鹿に挙げられてゐると見るべき であらう。何故なれば、大安寺移轄の地は、すなはち左京六傑四坊であったからである。かくて、との新京に移 建されしものがすたはち新元興寺であって、更に飛鳥の故壮には、別に遺寺して、本一冗興寺と稿せられた乙とと 思はれる。克も.とれについては、異論たきにあらや、すなはち.本寺に霊箱二年移建のものと養老二年移建の ものと雨寺あり.前者を本一苅興寺、後者を新一冗興寺といふといふ。さりたがら、霊範二年の事質を大安寺移建の 混 入 と す る 以 上 、 たそらく叙上の如く解すべき寸あらう。 共に興踊寺建立の由来については.﹃興踊寺紘起﹄によるに.自主極天皇の朝蘇我入鹿の専横甚だしく、世稜ため に危機に瀕せむとするの有様であったから、中臣鎌足大にとれを忠へ、中大兄皇子と謀って入鹿を諒毅せむとし.

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ょっ℃乞加の大願を鼓して、鐸迦丈六像一躯・挟侍菩薩‘並に四天王等の像を諮り‘四天王寺に奉安せむとて.遂 にその活像が成った。かくて入鹿は誌に伏し・鎌足は皇子と共にかの大化改新を県議し、鎌足の一門大に繁得す るに至ったがも後.天智天皇の八年

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・︶鎌足疾あり、よって嫡室鏡女王、その平癒を期すペく‘乞うて伽 藍を山城図宇治郡山階郷の陶原邸に管み、山階寺と稿して先の悌像を安置した。とれぞすなはち本寺の濫鰯たる わ け で あ る 。 然 る に 、 ﹃ 多 武 峰 縁 起 ﹄ や ﹃ 扶 桑 略 記 ﹄ ︵ 各 四 ︶ 等 に よ る に 、 斉 明 天 皇 の 二 年 ︵

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・ ︶ 鎌 込 陶 原 邸 に病み‘救療設なし、よって百済の尼法名をして﹃維摩経﹄の問疾口聞を讃ましむるに‘その讃諦終らざるに疾癒 ゅ。よって鎌足大にとれに感菩し、翌三年︵

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−︶向原邸に精舎を建て‘粛舎を設けた。これがいはゆる維 摩舎の起源であって、本寺の濫鰯もすたはち裁にあると。乃ちとれによれば.本寺の起源は‘先の天智の八年よ りも更に以前に湖らる L わけである。査し天智八年は.鎌足病残の年であるから、かの維摩舎の起源等より勘へ て、旗門明三年設が正しきものの如く、それが鎌足の残年と混請して天智八年詑が生中るに至ったのであらう o 後 、 弘文天皇の元年︵

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可本寺を大和園高市郡厩阪に移し・厩阪寺と改む。その後一克明天皇の和銅三年︵

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−ロ・︶平城遷都のととあるや、藤原不比等乃ち本寺を左京三保七坊に移し、興幅寺と稿した。現今所在の寺域が すなはちそれである。査し興踊とは、興岡家隔を意味し℃ゐる。﹃南都七大寺巡瞳記﹄巻上にいはく・ 和 銅 三 年 庚 成 三 月 五 日 建 ユ 立 平 城 京 ﹁ 積 一 興 幅 寺 ﹁ 亦 云 競 ニ 中 臣 寺 − 峨 一 群 官 叉 云 二 藤 原 寺 − 尚 一 限 強 ・ 又 一 五 ユ 観 世 音 寺 ﹁ 26 と。その藤原氏の氏寺たるととを知るべく・また藤原氏の氏紳たる春日神一肢をも管掌せしめたから.春日寺とも 稿せらる 0 ・爾来堂塔の増築年を逐うて盛んに、その櫨勢大に他を摩するに至った。その後数回の炎上があったが‘ 唯識の日本俸来にりいての考察 二 四 五

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日本悌教事協舎年報ハ第十年 υ 一 一 聞 大 27 それにも拘らや.長時に亘ってよくその盛観を持績するを得た。但し現時にあっては、寺域の狭少、堂塔の荒慶・ 到底昔日に比すべくもなき有様に伝ってゐる。!

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以上は本寺の縁起の大略であるが.先に一一言せる如く・聖武 天皇の天千六年

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− H W ﹀玄肪唐より腸朝して、本寺にたいて唯識法相の弘布に従ふや.とれより先、智鳳の 倖へ義淵の糟げる同墜とれに呼臆して.本寺が賓にその講讃の淵叢とたり‘爾来その隆盛飴他に冠たる面白を繋 い だ の で あ る 。

さて、如上本宗のわが園に倖来せる主たるものは、前後四回あったのであるが、後にはその教系が二流となっ て偉播したのである。すたはち、第二倖が第一偉に合し、第三倖が第四停に合した。而してとれら二流の教系は 前者が南寺俸と呼ばれ、後者が北寺停と呼ばれる。その南寺停とは、元興寺の侍であって.本寺はもと飛鳥の地 に建てられ、よって飛鳥寺とも稿せられたから、この停をまた飛鳥の停、ともいふ。その北寺偉とは‘興嗣寺の停 であって.本寺はその位置御査の山麓にあるととろより、との俸をまた御査の俸ともいふ。 査し.一冗興・興繭の雨俸に封して南北雨寺の倖てふ名稿は、何時頃上り用ゐらる L に至ったのであるか明瞭で はたい。その最初のほどは.た w h 元興・興繭の名稿が釣立して用ゐられてゐだのみで.少しも南北雨寺の名稿は 認められないのである。すたはち嵯峨天皇の弘仁六年

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・ロ︶興隔寺系の感情漸安の手に成った﹃法相燈明 記﹄は.南北雨偉の教義の相還について‘一々比較劃照せるものであるが、それには、初に元興・興幅と牒して‘ 元興を齢寺.興一舶を附寺、と稿して、少しも南北岡寺の目を奉げてをらや、また同じく弘仁十三年宮路 k r ・ 巴 − V

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頃に成ったと思はる L かの天長勅撰六本宗書のごなる元興寺系謹命の﹃法相研紳章﹄にも.北寺滅を比︵皆︶聞学 生等というて.少しも北寺等というてをらぬのを以てしても、這般の事情が推知さる L の

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る。しかるに、鎌 倉初期に良算等によって輯成されし﹃同筆紗﹄の中には.明かに南北雨寺の目を奉げてゐるのである。とれによ って見るに、との稽はかたり後世に公いて用ゐらる L に至ったものであると忠はれる。もとより南北との稿は、 奈良謹都以後.一元興・興隔の雨寺が猿津地を中にしてその南北に封立して移建されしより・その位置に従へて名 けられしところであるから、決して本宗侍来嘗初よりの稿呼でないでふことは明かである。畢克濯都以後、元興・ 興隔の雨寺が本宗研錆の中心となり・雨寺何れにも幾多の間半匠輩出し、教義の論争締た盛んとなるにつれ.自然 地理的にかうした稿呼がたさる L に至り、かくして迭に、皐風・教系の名稿とたったととと忠はれるのである。 たほ、﹃興幅寺別常﹄巻二・﹃倖通縁起﹄倉中等には.輿幅寺を以て専寺または本庭と呼んでゐるのは.本寺が世帯ら 法相教義を研鏡する根本道場たるととろより名けし目であるが.併し斯壌の講習は必守しも興繭の一寺のみに限 らや.元興寺もまた興一胸寺に拾抗して雨ヲゼの美をたし.更にその他の諸寺.締じていへば七大寺の何れもその 曲学修盛んであって、幾多これが名匠を出してゐる。併しそれらの旺んたる接修も、その教系をいへば.回輩覚南北 雨俸を出でたいのであるから、自然元興・興幅の雨寺が飴他に比して一一層の盛況を持ち得たわけである。古来唯 識の研績には.必中因明の攻究の伴はる L のが印度以来の定格とたり、 いはゆる困内二明の墜風てふ稿あるわけ であるが、就中国明の五統は一冗興寺とれを維持し‘唯識の正統は興幅寺これを相承すといはれてゐる。興幅寺が 専寺または本慮と呼ばる L 所以は.すたはち拾にありといふべきであらう。 28 唯識の日本俸来にづいての考察 こ 四 七

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日 本 傍 数 凪 平 協 金 百 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 二四入 29 然らば、かくの如く本来四億されし本宗の教系が、何ゆゑ南北雨俸に合流して持績さる L に至ったのであるか といふに‘蓋しその理由とするところたきにしもあら守。今その主たる一二を奉ぐる−ならば‘共のゃうである。 まづ第一・第二の俸は、何れも玄英より直接斯撃の草創のま L を倖授されし乙ととて.かの慈恩・慧沼・智周 一 一 一 組 ” の 精 密 怒 る 定 判 そ 経 た る 第 三 ・ 第 四 の 俸 と 、 そ の 車 一 a風の上に左右を来せるは、もとより営然の次第であるか ら.かうした師承の関係より.たのづから第一・第二の偉を合して一系たらしめ、また第三・第四の俸を合して 一系たらしめ‘よって南北の雨停として持績さる L とととなったのである。 弐に四停の前二・後二がそれぞれ合流せる中に沿いて、第二偉の智通・智遣については.その事蹟全く不明に して.何等知るべきものたし、随って.その嗣法にも少しも見るべきもののなかったととは、想像するに難くは たい。されば、とれが師資の名聾の最も顕著なる第一停に合流するに至ったのは、まことに自然の教である。ま もん第三偉は、入唐僅に三年ほどの短時にし

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. かっその経磨の明かならざるに反し‘第四停の玄肪は.入唐以前 第三俸の智鳳門下の義淵より唯識を相承してをり、而して在唐共に十八年.その名聾師にかの地に高く・かく℃ 蹄朝の後.柴審いよいよ顕著に輝いたから、その系統に第三停の合流せることも、またもとより自然の勢といは ね ば な ら ね 。 かくて唐土菓承の四俸が合致して南北の雨停となるや.七大諸寺に講布さる L ととろ、何れもとの雨者の教系 の何れかに属せぬものとてはたく‘かくして後代長くとの系統のもと、斯単一・の研鏡が櫨績されたのである。別し

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て北寺系統の繁街は.如上賓に頴著たるものがあったe 南北雨停の中.南寺にあっては、始祖道昭が玄英三蔵より直接草創のま L を相傍せるとととて、その三蔵直停 でふところに自家の面白を張り、必守しも慈恩以下の三組に服従せむとするものではない。例へば

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唯識﹄章疏 にるつ℃も、慈恩の﹃連記﹄‘慧沼の﹃義燈﹄などは.一は三蔵特授の記述として、一一は唯識了義の明燈として. もとより隼重したととは否まれぬのであるが、同一慈思のものながら

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植要﹄の如きは.三蔵の語場にあって本 論の植要 b t 掌中事記ぜるものに過ぎぬからとて.多く顧るととろたく・また智周の﹃演秘﹄の如きは‘たとひそ の法門の上に誤るととろたしとするも.文義の解轄に沿いて相醸せざるところありとて.是非の批判を加へむと するが如きとれである。然るに.北寺にあっては.智鳳乃至玄坊は.慈恩・慧沼を経て智周に就いて相倖せしこ ととて、とれら三組の定判には‘一宇一何加減すべからやとの絶封権威を附してゐる。但し、かくいへばとて‘ 南北その法門の上に融和すべからざる相違ありといふにはあら歩、たどその文義の解躍に多少の希反するところ ありといふに止まるまでである。よって南寺にあっても・決して三組の所設を無硯するにるらや.もとよりこれ を指南として依恋したが、たどそれが.北寺の如き一字一何不可加減てふ程度にまで至らたかったといふのであ る。況むや後代に至り、南俸が北俸に接近するにつれ、彼此の懸隔は漸共稀薄とたるや、もとより雨者の相逮た 芝、決して事々しく沙汰さるべき筋合のものではたいのである。要は雨者の相違たる、芝とまでも文義の解樟の 30 上のみに止まって、法門の根本に影響すペきものでたいてふととを知らねばならぬ。 唯識の日本俸来にづいての考察 一 一 四 丸

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