• 検索結果がありません。

小高神社-表紙.indd

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "小高神社-表紙.indd"

Copied!
94
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

  

袖ケ浦市指定文化財

 

(2)

序  

 

 

袖ケ浦市は温暖な気候

かな自然に恵ま

、太古から人

暮らしが営ま

れて

まいりま

した

。そ

こで

暮らす

々は安定した豊かな生活

願い

、祈り

多くの神社が創建さ

ました。

 

今回

、解体修理工事

行った小高神社本殿は

、その縁起

辿

れば日本武尊の東方遠征に遡

り、

西暦九八六年に現在の場所へ建

られ

伝えられて

おりま

滝の口の人

祖先

がる場所

あり、子孫へ伝える大切な社

です

 

そのような歴史ある小高神社本殿は

袖ケ浦市の貴重な文化遺産

成四年に市指定

文化財

となりました

。しかし

、長年の風雨による本殿の傷みは年

行し

おりました

。解

体修復

める声は多く

、その必要性は誰もが認める

ところ

したが

、多額の費用

こと

から

、実現は困難

した

。そのような状況

諦める

ことなく

、地元の方

の熱意

により着工

え、昨年度、無事に竣工の日

える

ことが

ました。

 

文化財

これは行政に課せられ

た課題

です

。しかし

、そのためには行政だ

はなく

、地元の方のご理解

ご協力が無ければ実施

でき

ません

。豊かな生活

求めるな

れて

いく文化財が多い昨今

の小高神社は氏子の皆さま

をはじめ

した地元の方

の多くの支えにより

、その姿

復元させる

ことが

ました

。文化財の保護

める上

これ

以上の喜びはありません

。今後も

の社が滝の口の人

々を

見守り続ける

ことを

切に願い

ます

最後になりま

すが

、本工事に多くの助言

賜りました日塔和彦様

、並びに袖ケ浦市文化財

審議会委員の方

、神主

ある千葉一男様

、氏子総代の方

、また地域におい

てこ

の神社

守り、受け継い

た滝の口の人

に心よりの敬意

感謝

申し上げま

 

平成二十六年三月

袖ケ浦市教育委員会

教育長

 

島  

(3)

序 竣工・修理前 写 真       …………   9~ 18 第一章   小高神社 と 本殿の概要    一   袖ケ浦市の自然 と 歴 史       ……… 19    二   小高神社本殿の沿革 と 概 要       ………   21    三   小高神社本殿の形式 と 建築的特徴         ………   25    第二章   工事の概要    一   工事の計画 と 実 施       ………   29    二   工事関係者 と 工 事費         ………   29      (一)  工事関係者    (二)  工事費 第三章   建物の調査    一   修理前の破損状況        ………   31    二   計画寸法        ………   31      (一)  平面計画寸法    (二)  矩計計画寸法    三   構造・技法         ………   34      (一)  基礎    (二)  軸部    (三)  組物    (四)  軒廻り   妻飾り      (五)  小屋組   屋根    (六)  造作    (七)  縁廻り   木階        (八)  その他 -部材の樹種  

袖ケ浦市指定文化財

 

小高神社本殿解体修理工事報告書

 

目次

   第四章   復原 と 現状変更         ………   73   第五章   工事の内容 と 実施仕様    一   修理方針        ………   75    二   施工の内容         ………   75      (一)  仮設工事     (二)  解体工事     (三)  基礎工事        (四)  石工事     (五)  木工事     (六)  屋根工事        (七)  錺金物工事     (八)  雑工事 第六章   資料        ………   83     竣工・修理前図面        ………   85 附    小高神社本殿下(上村古墳群)発掘調査報告書   ………   97  序   章   調査に至る経緯         ………   99 第二章   周辺の遺跡         ………   99 第三章   調査の方法 と 概 要       ………   103    一.基壇石組   二.基壇内   三.本殿前   四.本殿裏      五.本殿東側・本殿周囲   六.玉砂利 と 礫石経   七.礫石経の内容 第四章   ま と め        ………   110

(4)

竣工・修理前写真 1  小高神社本殿全景        ………   9    a  東側面    b  西側面    c  東側面 と 背 面    d  西側面 と 背 面 2  妻詳細         ………   10    a  東側面    b  西側面 3  正面        ………   11    a  向拝正面    b  身舎正面 4  屋根        ………   12    a  正面    b  背面 5  a  東面脇障子         ………   13    b  西面脇障子    c  正面脇縁上    d  本殿覆屋 と 幣 殿 6  修理前本殿           ………   14    a  西側面    b  背面    c  東側面    d  西側面 7  修理前         ………   15    a  西妻詳細    b  向拝正面    c  身舎正面 8  修理前         ………   16    a  正面屋根    b  正面屋根    c  背面軒廻り 9  修理前         ………   17    a  背面腰組    b  東面腰組    c  西面腰組 10  修理前         ………   18    a  身舎正面 と 向拝、正面脇縁上    b  本殿覆屋 と 幣 殿 挿図 図 1  小高神社位置図        ………   19 図 2  小高神社 と 横田郷       ………   19 図 3  筑紫家跡地          ………   20 図 4  境内の古墳          ………   20 図 5  袖ケ 浦市   古墳分布図     ……… 20 図 6  上村古墳群 と 小高神社     ………   20 図 7  本殿脇銀杏          ………   20 図 8  本殿内の小仏像        ………   21 図 9  一字一石経          ………   21 図 10  境内入口の石灯籠 と 刻 銘    ………   25 図 11  拝殿         ………   25 図 12  本殿覆屋           ………   25 図 13  本殿内の内殿         ………   27 図 14  内殿正側面          ………   27 図 15  横田郷想定復原図 と 小高神社位置   ……   28 図 16  柱の沈下量・傾倒量図     ………   32 図 17  矩計・軒廻り詳細図      ………   33 図 18  本殿 と 幣 殿の接続部      ………   37 図 19  屋根         ………   38 図 20  屋根下地・小屋組       ………   39 図 21  軒廻り        ………   40 図 22  軒廻り・妻飾り・組物     ………   41 図 23  縁廻り・木階         ………   42 図 24  軸部・基礎          ………   43 図 25‐ 1  柱実測図(身舎柱い一)………   44    ‐ 2  柱実測図(身舎柱い二)………   45    ‐ 3  柱実測図(身舎柱い三)………   46    ‐ 4  柱実測図(身舎柱ろ三)………   47    ‐ 5  柱実測図(身舎柱は一)………   48    ‐ 6  柱実測図(向拝柱い四)………   49 図 26‐ 1  土台石・礎石伏図     ………   50    ‐ 2  土台・地覆伏図      ………   50

(5)

   ‐ 3  頭貫・拳鼻伏図      ………   51    ‐ 4  丸桁・妻大虹梁・海老虹梁・手挟み伏図        ………   51    ‐ 5  正面野垂木・野地板伏図   …………   52 図 27  当初幣殿屋根取付 き 痕 跡図   ………   53 図 28  腐朽部材・破損部材の補修   ………   78 図 29  基礎・軸部・組物   組立 て  ………   79 図 30  軒廻り・小屋組   組立 て    ………   80 図 31  屋根下地・銅板葺 き ・縁廻り   組立 て … 81 図 32  組立 て 詳 細         ………   82 図 33  絵様拓本           ……… 83~ 84 表 表 1  柱間寸法実測値        ………   32 表 2  構成部材表          ……… 54~ 65 表 3  組物斗寸法実測値       ……… 66~ 68 表 4  腰組斗寸法実測値       ……… 69~ 71   竣工・修理前図面 図面 1  竣工平面図         ………   86 図面 2  修理前平面図        ………   87 図面 3  竣工正面図         ………   88 図面 4  修理前正面図        ………   89 図面 5  竣工側面図         ………   90 図面 6  修理前側面図        ……… 91 図面 7  竣工桁行断面図       ………   92 図面 8  修理前桁行断面図      ………   93 図面 9  竣工梁間断面図       ………   94 図面 10  修理前梁間断面図      ………   95 附   挿図 第1図   周辺の遺跡         ………   100 第2図   上村古墳群測量図      ………   101 第3図   小高神社本殿周辺図     ………   102 第4図   小高神社本殿下基壇・トレンチ確認状況図        ………   104 第5図   礫石経実測図 (1)      ………   106 第6図   礫石経実測図 (2)      ………   107 第7図   礫石経実測図 (3)      ………   108 第8図   出土遺物実測図       ………   108   附   表 表1   礫石経観察表         ………   109 附   図版 図版1   調査状況          ………   111 図版2   調査状況          ………   112 図版3   礫石経 (1)・礫石経 (2)    ………   113 図版4   礫石経 (3)・礫石経 (4)    ………   114

(6)

 

凡  

 

(一)  こ の報告書は、袖ケ浦市指定文化財小高神社本殿の解体修理にかか わ る 調   査、工事の記録 を ま と め たもの で ある。 (二)  本書は、挿図、表 を 含 む 本 文 と 写 真、図面 とで 構成さ れ る。 (三)  本文および図面中の寸法単位は、尺貫法 を 原 則 と し、必要に応じ て メート   ル法 を 用いた。 (四)  本文執筆は次の通り で ある。    第一章   日塔和彦    第二章以下   岩瀨繁、田束優    挿図・表   田束優、竹澤弘貴 (五)  写 真 は、岩瀬建築有限会社が撮影した。    竣工および修理前図面は、田束優、竹澤弘貴が作成した。 (六)  本工事全般に わ たり日塔和彦氏に御指導 を 賜った。樹種判定調査につい て   は中尾七重氏の協力 を 得た。 (七)  本文中 で は 敬称 を 省略した。

(7)

1a 1b

(8)
(9)
(10)
(11)

5a 5b

(12)

6a 6b

(13)

7a

(14)

8a

(15)
(16)
(17)

 

第一章

 

小高神社

本殿の概要

 

一  

袖ケ浦市の自然

  袖ケ浦市は、千葉県中部の東京湾に接 す る位置にあっ て 、人口は約六万二千 人、首都圏の衛星都市 と し てやや 微 増し て いる。東京湾岸は埋め立 て ら れて 京 葉コンビ ナートの一翼 と し て 発展し、内陸部は農業地帯 で あ るが、宅地化が進 ん で いる。   袖ケ浦市の地形は、木更津市 を 貫 流 す る小櫃川 と 市原市 を 貫 流 す る養老川の 流域の低地の間に挟ま れ た台地(標高三〇~六〇m)が、市域の大部分 を 占 め て いる。 小櫃川 と養老川の下流地域には数多くの古代遺跡が発見さ れて いるが、 特に古墳時代に文化が栄えた地域 で 、大型の前方後円墳が幾つかあり、小高神 社の境内地も小櫃川南岸台地上の上村古墳群の中に位置 す る 。   古代には日本武尊の東征伝説が当地にあり、小高神社にも こ の伝説が伝えら れて 神社の草創 となっ て いる。律令制下 で は 「和名抄」にみえる上総国望陀郡 に属した。   鎌倉時代に入る と 、熊野別当の支配 す る畔蒜荘 や 飫富荘など の 荘園が市内 を 占め、また平安後期から勃興した桓武平氏の千葉氏 や 、同族の上総介広常系統 の武士が活躍した。小櫃川流域の低地 で 発見さ れ た横田郷遺跡は、中世の荘園 跡 と し て 注目さ れて い て 、小高神社は こ の遺跡 を 見下ろす 高台にあり、荘園 と の係 わ り が考えられ る 。   室町時代には、鎌倉公方家の内紛 や 武田氏、里見氏が勃興したため、戦乱が 多かった。江戸時代は、上総国の大部分は徳川氏の直接支配下にあり、市域の 大部分は旗本の知行地 で あった。 こ の ように、袖ケ浦市域は古くから文化が開けた地域 で 、上総国延喜式内社五 社の一 と 称 さ れ る飫富神社 や 手力雄命 を 祀る坂戸神社など の古社も多い。 滝の口地区と小鷹明神 ( 下立松原神社 )   小高神社が鎮座 す る地名は、江戸時代は興津領滝口村 で 、明治以降は大字瀧 ノ口、現在は袖ケ浦市滝の口 で ある。 こ の滝の口の地名は安房の白浜町 や 千 倉 町にもあり、いずれ にも下立松原神社が鎮座し て いる。下立松原神社は本来の 祭神 を 天日鷲命(あめの ひわ しのかみ) と し、天照大神が天岩戸に入られ た と き 、岩戸の前 で 踊る神 々 に楽器 を 奏 で た 神 と し て 知られて いる。また、 こ の 神 社は古く小鷹明神、滝口明神、また小高明神 とも称さ れて いる。さらに、両社 には日本武尊が東征の折りの上陸地等の伝説があり、現在は日本武尊が祭神 と なっ て いる。   当小高神社もほぼ同様な草創の伝えがあり、祭神は日本武尊 で 本来の祭神は 天日鷲命 と し、日本武尊が東征の折りに布陣した場所 とす る。初め皇鷹神社 と 図 1 小高神社位置図(Google マップより引用) 図 2 小高神社と横田郷(Google マップより引用)

(18)

称した と いい、天文十七年(一五四八)の市指定文化財彩色板仏裏書には滝口 大明神 と あ る こ と か ら、当社の由来は前二社 と まったく同じと みられ る 。   明治期以降に小高大明神 を 小高神社 と 改称した。 神主筑紫家   神社背後には一段 と 低くなった平地があり、 ここ は代 々 神 主 を 世襲し てき た 筑紫家の跡地 と 伝 える。 敷 地は大規模な神官住宅 と 附 属建物が建つ広さがある。 筑紫家は前述彩色板仏裏書に「神主筑紫刑部太夫/□口大明神御合権三社   旦 那賀藤九郎兵衛/干時天文十七年戊申二月吉日   敬白」 と あ っ て 、室町時代に は神主 と し て 神社に奉仕し て い た こ とが わ かる。   さらに、筑紫静雄家文書による と 、神主筑紫氏は小櫃川流域諸社神職組合 で ある「祓講」の中心 と し て 幕 末の神道隆盛 を 担 った と い う。筑紫家は都合によ り明治二十~三十年に宮司 を 辞退し て いる。 小高神社と古墳群   小高神社が鎮座 す る台地は標高六三mあり、台地上には 古墳が十二基確認さ れて いる上村古墳群がある。さらに、斜面にも数多くの小規模な古墳が確認さ れ る。今 回の発掘調査の結果 で は 、小高神社本殿位置には古墳の遺構が確認さ れなかったが、本殿東側にある銀杏の大木は古墳の残丘のような高まりの上に 立っ て いる。古社のなかには古墳頂に建つ例もみられ る こと から、あるいは古 墳上に建 て られ た可能性も否めない。 小高神社と神仏習合   小高神社本殿内には、 後項 で 述 べるように内殿 と その壊 れ た部材などと 共に、 小さな木彫が納められて いた。木彫は僧体四体 と 僧形烏天狗一体 で い ずれも高 さ約八㎝程の坐像 で 、頭部が欠け て 膝部分も削除さ れて いる。   また、 神社のご本尊とす る彩色板仏(市指定文化財)は四枚の仏絵からなり、 本来は一枚の板に数体の尊像が描か れ て いた絵馬 と み られ る。現存し て いるの 図 4 境内の古墳 図 3 筑紫家跡地 図 6 上村古墳群と小高神社 図 5 袖ケ浦市 古墳分布図 図 7 本殿脇銀杏

(19)

は大日如来像図 、十一面観音像図 、釈迦如来像図 で 、 毘沙門天像図 で 、 そ れ ぞれ の裏面には墨書があり、 「瀧 口之大明神」 、 「 御本社刀八毘沙門天」 、 「□明神二宮」 、 「□大明神御合権三社」 「旦那 賀藤九郎兵衛」 「神主筑 紫刑部大夫」などがある。また、天文十七年戊申二月 吉日の年号が記さ れ て い て 、室町時代後期の神社の状 況が判明 す る 。   これら僧形仏像の存在 や 、彩色板仏からは、仏教 と の習合が読み取られ るが、特に僧形烏天狗からは修験 道 と の関連が考えられ る。背後にある神主屋敷は大規 模 で あり、江戸時代は こ の地方の「祓講」の元締め的 役割 を 勤めた修験道系神社 と し て 隆 盛し て い た と 思 わ れる 。 一字一石経の発見   今回の本殿解体に伴い、建物地盤は現状維持 を 図 っ たが、基礎延石の高さ や 位置の修正 を 必 要 と した。 こ の基壇工事に先立 ち 、基礎の地業方法 や 基壇の構成 を 調査 す るために発掘調査 を 実施した。 こ の発掘調査の 報告は巻末に別稿 と し て 載 せ て ある。   ここで は 、現本殿の建築時に埋納した と み られ る一 字一石経につい て 述 べる。一字一石経 とは径四㎝程の 平べったい小石の片面に一字ずつ経典 を 墨書し、埋納 したもの で 経石、一石経 ともいう。古くは平安時代か らみられ るが、江戸時代に大流行し て いる。千葉県内 で も 市原市光福寺など 主に江戸時代のものが発見さ れ て いる。経石の数は一千個 と か、そ れ 以上の大量に 及ぶ場合が多い。   小高神社本殿基壇 と その周辺には多数の一字一石 経が埋納し て あ る と みられ る が、今回発見したのは その一部に過ぎない。経の書か れて いない小石も混 じっ て い て 、その数は膨大にのぼる と み られ る。 こ の石の埋納さ れ た い き さつ や 目 的につい て は 、一切 伝 わ っ て いない。石の産地につい て は 、近郊の地層 には、 こ のような小石 を 含 む 層 が発見さ れ る ことが ある と い う。   経石の文字はすべ て 一石一字 で 、 「妙」 「佛」 「法」 「諸」などと いった仏教経 典の文字が読み取 れ 、経石は現本殿の建造に伴っ て 埋納さ れ た もの と 考 えられ る。

 

二  

小高神社本殿の沿革

袖ケ浦市内の神社建築   平成六年度に行 われ た社寺建築悉皆調査の報告書 『袖ケ浦の建造物 [ 神社 ・ 寺院 ] 』 ( 主任調査員 大河直躬 千葉大 学 教授 ) によると、市域には 各集落ご と に多くの神社建築があり、調査した神社建築の総数は五十五社 で 、 寺院建築 の四寺院 と 比較し て 著しく多い。 これは古い遺構 を 調査対象 と し て 取り上げた ため で 、総数 と し て は 神社が五十八、寺院が五十五 で ある。   報告書 で は 、 市 域に見られ る神社建築の特色 と し て 以下の ことを あ げ て いる。   (一)  江戸時代の古い神社建築が多い   調査した神社建築 で 明治以降の建物は五棟だけ で あり、江戸時代に属 す る 建 図 8 本殿内の   小仏像 図 9 一字一石経

(20)

物は九割の五十棟にも上がっ て いる。その中 で 十六世紀に遡るのは三棟、十七 世紀に属 す る 建物は七棟あり、 こ の う ち 永地諏訪神社本殿 ( 十六世紀後期 ) は 千葉県指定文化財、滝の口小高神社本殿 ( 宝永二年一七〇五 ) と 飯富飽富神社 本殿 ( 元禄四年一六九一 ) 及び東照宮 ( 幕末期 ) は袖ケ浦市指定文化財 となっ て いる。   (二)  独立した神社本殿 と 内 殿形式の二種類の本殿形式がある   独立した神社本殿は二十六社 で 、礼拝用建物 ( 拝殿等 ) の奥に小神殿 や 厨 子 を 祀 る内殿形式は十八社、礼拝用建物の奥壁に神棚 を 設 けた形式は十一社 で あ る。独立した本殿より、独立した本殿 を 有 しない、い わ ゆ る内殿形式の神社が 七割 を 占 め て いるのが特徴 で ある。 こ の 内殿形式の神社は、熊野神社・八王子 社、妙見社など 神仏混淆の著しかった神社 で 、 仏堂形式の影響 を 受 け て いる。   (三)  本殿覆屋 と 内 殿形式の関係   また、独立本殿が覆屋内に建つ場合も多く、八棟 を 数 える。覆屋には近年建 替えられ たものもあるが、古くから覆屋が建 て られて おり、小高神社も こ の例 になる。内殿形式は本殿覆屋 と 拝 殿が建築構造的に一体化し、内殿 を 本 格的な 本殿に変化させたもの と 解 釈 で き る。また、独立本殿内部には本格的な内殿 を 造り、さらにその中に小祠 を 祀 るものもある。小高神社本殿内には一間社流造 の本格的な内殿が祀られて いる。内殿には、彩色・漆塗り を 施した豪華な造り もみられ る。また、拝殿 を 兼 ねた覆屋内に独立本殿が建つ例もみられ る。   袖ケ浦市域 で は、中世~近世前期の有力神社は独立本殿 で あり、その他の神 社は 外殿 ( 拝殿 ) 内部に内殿 を 安置した形式が一般的な形態 で あった と み られ る。   小高神社に古くから覆屋が建 て られ た こ とは、現状の屋根板に当初部材がそ のまま残存し て い た こ と か ら明らかになる。   (四)  腰組縁 を 持つ本殿   報告書 で は 特徴 と し て 取り上げられて いないが、市域の独立本殿の六棟に腰 組縁がみられ る。 こ の 中 で 飯富飽富神社本殿の元禄四年(一六九一)が最も古 く、 次い で 小高神社本殿の宝永二年(一七〇五)が続く。腰組縁 を 持つ本殿は、 管見 で は 腰組縁は古く室町時代からみられ る が、江戸時代初期の東照宮本殿に 採用さ れて からは、有力神社に広まった と み られ る。千葉県内 で は十八世紀前 期以降に広がった と さ れ るが、 これらは全国的にも早い事例 と し て 注目さ れ る 。 小高神社の沿革   現地説明板(平成八年三月設置) で は 小高神社の沿革につい て 次のように記 さ れ て いる。   「小高神社は滝の口の氏神社 で 、かつ て は 小鷹大明神 と よ ばれて い た 。日本 武尊が東征の折りに、 こ の 地 で 賊 を 平定した こと に ち なん で 創 建さ れ 、寛和二 年(九八六)には社殿 を 再建した と 伝 えられて いる。   祭神は日本武尊。例祭日は、昭和三十年の平川町合併後に生活改善 運 動の一 つ と し て 九月二十七日から七月二十四日に変更さ れ た 。 」   小高神社は小櫃川南岸台地上に立地し、前述のように上村古墳群の中に鎮座 し て おり、本殿が古墳上に祀られ た こ とを 否定 できない位置にある。また、本 来の祭神は天日鷲命 と し、日本武尊の東征の折りに創建さ れ た と の 伝え、同様 な創建 を 伝える安房の下立松原神社 と の類似性からは、古代に遡る創建の古社 と み られ る。また、 大場磐雄 (神道考古 学 )『楽石雑草』 (昭和二十五年) には 「社 殿の脇に一円墳あり。背後の畑中に縄文式土器片あり、又埴輪片も存せり。坂 を 下 り て 向かいの台地にのぼり祭祀遺跡出土の畑 を みる。小高神社 と 相 対 す る 丘陵の端にあり、 今芋畑 となり土師器片多し、 採集 す 。 」と 記さ れて いる。 その他、 前述 『袖ケ浦の建造物 [ 神社 ・寺院 ] 』には 「社殿の地下から布目瓦が出土し た と い わ れ る 」 と の記述がみられ 、いずれも古代創建説 を 補 強 す るもの と なっ て いる。

(21)

  その後、 筑紫家所蔵「宮普請帳」 ( 未見 ) による と 社 殿は寛和二年(九八六) に再建さ れ た と い う。   江戸時代 で は 神社入口両脇に石燈籠があり、 これ には「宝永二乙酉年/奉造 立燈籠御寶前/三月□日」の刻銘があり、宝永二年(一七〇五)が現本殿再建 に比定さ れて いる。   関係者からの聞 き 取り等による近年の修理は以下のよう で ある。   ・ 拝殿の建設   連歌額記銘「天保十年一八三九」がほぼ建築年代 と みられ る 。      昭和四十二年以前   茅葺 き 屋 根 で あった。      昭和四十二年   小屋組 を 改造、波板鉄板葺 き とす る。      平成四年   鉄板葺 き を 銅 板葺 き に 葺替える。   ・幣殿の改築   平成四年 で あ るが、以前の幣殿の 写 真はない。   ・覆屋の改築   平成四年 。以前の覆屋の 写 真 はないが 、工事中 写 真 はある 。 覆屋は大破し て い た と みられ 、聞取り で は 平成四年以前は覆屋はなかった と 言 っ て いる。   ・本殿古材の収集   覆屋が大破したため、風雨時 や 地震時には本殿の屋根材 や 垂木、蟇股など 古材が落下した。また、縁 や 高欄、脇障子も腐朽し て 古 材が散乱したが、 これらは氏子達によっ て 丁寧に拾い上げられて 、本殿内 や 拝殿に保管さ れ た 。最終的には市立郷土博物館などで 一括し て 保管さ れ て いた。今回の修理 で は これらの保管古材 を 用 い て 修理が行 われ た。 本殿の構造形式   説明板には「本殿は一間社流造、屋根は こ けら 葺 き で ある。間口は三間社 と 同じ で あ るが、中央の柱間 を 非常に大 き く取っ て 扉 口 と し て いる。両側の柱間 は幅の狭い板壁 で 、鯉の滝登りの彫刻がある。 」 と 建築的な説明がある。   本殿の平面 を み る と 、 背 面桁行柱間は中央に柱 を 建 て た二間 となっ て いるが、 正面は中央柱間 を 大 き く取っ て 、 柱が二本建っ て いるの で 三間のようにみえる。 しかし、 こ の 柱は造作間に入 れられ た管柱 で あり、柱も丸柱 と なっ て い るもの の構造柱 で は ない。従っ て 背 面は二間 で は あるが正面は一間 で あり、構造形式 は一間社流造 とす る見方 で 良い。   建築様式 と その特徴につい て は 別項 で 細 説 す る。 本殿の建築年代と沿革   説明板による本殿の建築年代 と 沿 革 で ある。   「本殿の建築年代は 、二重虹梁にし て 彫刻 を 入 れ る場所 を 増 やすなど の特徴 から、元禄時代(一六八八~一七〇四)より少し下り、拝殿の前にある石灯籠 と 同 じ宝永二年(一七〇五)頃 と 考 えられ る 。 」   前述したように 、本殿の建築的特徴 と 石灯籠銘にある宝永二年 (一七〇五) が時期的にほぼ一致 す る こ と か ら、 こ の頃の建築(再建) と みるのが妥当 と 思 われ る。 こ の 見方は今回の解体修理による調査 で も 変更はない。   その後の沿革につい て は 説明がないが、建立後間もない こ ろに覆屋が建 て ら れて 今日ま で 維持保存さ れてき た。そのため、近年 を 除 い て はほ と ん ど 修 理が ないまま二百八十余年間に わ たり、建設当初の姿が保た れ てき た。しかし、覆 屋は近年に至っ て 大破したらしく、現在の覆屋は平成四年に改築さ れ た もの で ある。 こ の間に屋根の こけら 葺 きが剥がれて 雨漏りが生じ、軒廻り や 蟇股 や 脇 障子、縁廻りも大 き く破損し て いた。 これら部材の大半は回収さ れて 保存さ れ て い た こ とは、前にみた と お り で ある。また、当初から本殿正面に建 て られて いた幣殿も同時に建 て 直さ れ た 。 小高神社本殿の文化財指定   小高神社本殿は「小高神社は、 日本武尊を 祭神 と し ま す 。本殿は一間社流造。 屋根は柿葺 ( こけらぶ き ) です 。本殿は建築様式から元禄時代の建築 と 考 えら れ 、多くの彫刻 を 用いた構築は 、当時の民衆の好み を よく表し て い ま す 。 」 と し て 平成四年八月一日付 で 袖 ケ浦市有形文化財に指定さ れ た。翌年度に『袖ケ

(22)

浦の建造物 [ 神社・寺院 ] 』の悉皆調査が行 われて いる。   指定告示 指定番号第十七号   袖ケ浦市文化財の保護に関 す る条例(昭和五十一年条例第三十七号)第四条 の規定により袖ケ浦市指定文化財 と し て 指 定 す る。     平成四年八月一日         袖ケ浦市教育委員会 種別   有形文化財《建造物》 名称   小高神社本殿     員数   一棟 構造等   一間社流造、屋根は杮葺 き 、桁行二 ・ 七八m、梁行一 ・ 七二m 所有者等氏名   小高神社代表役員   千葉一男 所在地   袖ケ浦市滝ノ口四四九番地   指定説明   小高神社は、 日本武尊を 祭神 とす る。社伝 で は 景行天皇の治世の創建 と さ れ 、 平川町史によ れば、寛和二年(九八六)の宮普請帳が残さ れ て い た と いう。   現在の社殿の建立年代は、建築様式からみ て 十八世紀初期 と 推 定さ れ る。石 灯籠の銘に宝永二年(一七〇五)の年号があり、その頃に建立さ れ たもの と 考 えられ る 。 ①本殿の構造形式    一間社流造(但し間口は二間分あり) 、屋根は杮葺 き 、桁行二 ・ 七八m、梁   行一 ・ 七二m、向拝の出一 ・ 三四四m で ある。 ②建築様式の特色    組物は出組 で 、支輪に雲の彫刻 を 用いる。中備えは、菊・牡丹等の彫刻 を   入 れ た本蟇股 を 用いる。正面の扉脇には、鯉の滝上りの彫刻がある。向拝の   柱の左右の木鼻は獏の彫刻、中備えは龍の彫刻 を 入 れ た本蟇股 で ある。 ③保存状況    縁、屋根等はかなり破損し て いるが、当初の部材はよく保存さ れて いる。   当本殿は、建築様式からみ て 元 禄時代の建築 で 、特に多くの彫刻 を つけた作 風は当時の民衆の好み を よく表 わ し て いる。   建築の水準も当時の房総の建築のなか で は優秀 で ある。   よっ て 、市指定文化財 と し て の 価値は充分にあるもの と 判 断 で き るため、指 定し、保存 をはかる ことが望ましい。 拝殿と幣殿、覆屋   拝殿は、桁行三間、梁間二間、入母屋造、一間向拝、屋根は茅葺 き で あった が、昭和四十二年に小屋組 を 改造し て 鉄 板葺 きと し、さらに平成四年には現状 の銅板葺に葺 き 替えられ た。規模は桁行六 ・ 七m、梁間三 ・ 八 m で ある。建築年 代は絵様彫刻など の 建築細部から、拝殿内部に掲げられ た 連歌額にある天保十 年 (一八三九) 頃 と みられ る 。建物周辺には茅葺 き 屋根時代の棟瓦の破片が残っ て いる。   幣殿は桁行四 ・ 〇m、梁間二 ・ 九m、両下造り、波型鉄板葺 き で 、拝殿背後 と 本殿向拝柱に取付い て い るが 、向拝柱 と の間に幅〇 ・ 四mの隙間がある 。 こ の 幣殿も平成四年に改築さ れ た もの で 、 そ れ 以前の建物につい て は 、資料がなく 不明 で ある。   しかし、本殿向拝柱には幣殿取付 き の当初痕跡が残っ て い て 、当初から現在 と ほ ぼ同規模の幣殿が取付い て い た こ とが わ かる。また、屋根の栩葺 き にも幣 殿屋根の取付 き 痕 跡が残っ て いる。幣殿が当初から存在し て い れば、拝殿も当 然ながら存在し て い た わ けで 、宝永二年に建築さ れ た小高神社は本殿 、 幣殿 、 拝殿の揃った複合社殿 を 構 成し て いた。い わ ゆる権現造の形態 を 持っ て い た わ け で 、地方における権現造形態の比較的古い遺構 と 考 えられ る 。   本殿は建築後まもなく覆屋内に格納さ れ た と み られ る。そ れは、当初の栩葺

(23)

図 10 境内入口の石灯籠と刻銘 図 11 拝殿 図 12 本殿覆屋 きが現在ま で 残 っ て いた ことや 、本殿 を 構 成 す る部材が、木階などごく一部の 部材 を 除 い て 、当初材が良く残っ て い た こ と による。また、屋根材 や 木部の風 化が少ない こ とも、 建 築後比較的早い時期に覆屋が建設さ れ た ことを 示 し て いる。   現在の覆屋は平成四年に改築さ れ た もの で 、 桁行六 ・ 四m、梁間六 ・ 四m、切 妻造 、波型鉄板葺 き で あ る 。 そ れ 以前の旧覆屋につい て は 記憶があいまい で 、 写 真 等もなく不明 で ある。恐らく規模は現状 と 同じ で 、 柱は掘立柱、屋根は茅 葺 き で あった と み られ る。発掘調査 で は 覆屋柱の遺構は発掘さ れず、また礎石 跡も確認さ れて いない。恐らくコンクリート基礎により破壊さ れ た もの と 思 わ れる 。

 

三  

小高神社本殿の形式

建築的特徴

  小高神社本殿は幾つかの著しい特徴 を 持つ神社本殿 で ある。 これらについ て は既に述べた事項もあるが 、改め て み て い き た い 。特徴の幾つかについ て は 、 別項 と し て 取り上げる。 平面と構造形式   こ の本殿は平面形式に特徴がよく表 れて いる。正面は一間 で あるが、両脇に 管柱があるの で 平 面的には三間のように見える。 背面は中央に柱が立っ て 二間、 側面も二間 で ある。内部は一室 で 中央奥に内殿 を 置く。内殿は本格的な一間社 流造 で 白木造り、年代は本殿 と 同時期 と 思 わ れ る が現状は大破し て いる。   両側面及び背面には腰組の切目縁が廻り、脇障子が取付く。脇障子は開戸 と なっ て いる。正面には一間向拝が付 き 、五級階段が設けられ る 。   柱間装置は正面が両折 れ 桟唐戸、両脇間は彫刻付の竪板壁 で 、両側面及び背 面は横板壁 で ある。また、 向拝柱 と 本体隅柱間は、 縁上に角柱の管柱 を 建 てて 、 本体側は板戸、向拝側は縦板壁 となる。

(24)

  構造形式は一間社の流造、鉄板仮葺 き で 、正面には当初から 幣 殿が取付い て おり、屋根は栩葺 き で 、当初の葺 き 板が残っ て いた。   基礎は基壇上に延石 を 据 え、その上に土台 を 載 せ て 柱 を 建 て る。柱は正面側 に二本、背面に三本 で 、正面は中央間 を 広く取っ て 管 柱 を 入 れ 、中央間は両折 れ 桟唐戸建 て 、両脇間は縦に高肉彫りの板壁 を 嵌める。彫刻は左右対称 で 主 題 は鯉滝登り で ある。両側面 と 背 面は幅広の横板張り とす る。柱頭に頭貫 を 輪 薙 込み、柱上に出組の組物 を 置く。正面管柱にも組物 を 置く。組物間には蟇股 を 中備 と し 、正面中央間には中央に組物 を 詰組に置 き 、その間に蟇股 を 入 れ る 。 組物は和様出組 で 、二段目手先肘木は禅宗様拳鼻 と し、二段目巻斗上に実肘木 を 置 い て 丸桁 を 載 せる。支輪は雲支輪 で 、彩色片が残っ て いる。妻飾りは二重 虹梁大瓶束の複合式 で 、大瓶束には笈形 を 付け て いる。一段目の妻虹梁は一手 出し、中央部に眉欠 を 造り、さらに両端には巻斗 を 受けるための眉欠 を 設 けた 凝った意匠 と し て いる。また、 虹梁上琵琶板には浮彫り彫刻 と し て いるものの、 全体の妻飾りは中央に蟇股 を 欠 くなど 、比較的装飾の少ない落 ち 着いた構成 を 取っ て いる。懸魚は蕪懸魚、 桁隠しは猪の目懸魚 で ある。軒は二軒、 繁垂木 で 、 飛檐垂木は先端下端 を 扱 い て いる。屋根野地はゴヒラ の野垂木 を 掛 け、小舞 を 入 れ て 栩 葺 き の下地 と し て いる。棟は棟木の上に束立 て し、樋棟 を 置 い て 箱棟 とす る。   縁は建物両側面 と 背面の三方に廻る切目縁 で 、四手先の腰組 となる。 こ の 腰 組は柱 と の繋がりが不十分 で 、 隅 で は二段目 と 隅叉首が通し枘 とす るだけ で 、 他は枘穴に枘 を 差し込み、楔打 ち と し て いる。 こ の仕口は腰組 と し て は不完全 で あ り 、初期的な技術 を 示 し て いる 。側面縁後側には脇障子 を 付 し て いるが 、 これは開 き 戸 となっ て いる。 脇障子の彫刻は左右 とも竹に虎 ( 唐獅子 ) で ある。 また、縁下は横板壁にし て 側面のみ格狭間 を くり抜い て 、 獣除けの格子 を 入 れ て いる。   向拝は正面柱間一杯に設け、向拝柱は几帳面取りの角柱 で 、 海老虹梁 で 身 舎 柱 と 繋ぐ。組物は出三斗 で 、水引虹梁中央にも中備 と し て 組物 を 置 き 、板手挟 を 入 れて いる。   建物 を 飾る彫刻はさほ ど 多 くなく、組物中備 と し て の 彫刻入り蟇股、妻飾り 琵琶板彫刻、向拝頭貫木鼻の獏鼻、雲支輪、正面脇間の鯉滝登り彫刻程度 で あ り、いずれも十八世紀初期の落 ち 着いた良好な彫り で ある。絵様も虹梁 で は渦 と 若 葉は繋がらず、木鼻など 渦の彫りはやや 幅 が広いものの浅く、 こ の年代の 特徴 を 示 し て いる。   これらの軸部構造材・造作材には後補材が少なく、多くが当初材 で ある。 こ れらの大工仕事も丁寧 で 、 こ の 地方の大工技術の高さ を 現 し て いる と み る こ と がで き る 。 両折扉と内殿   こ の本殿の正面柱間は両折 れ の桟唐戸 で あ る 。流造本殿 で 両 折 れ 戸になる 例は非常に例が少なく 、重要文化財 で は 青森岩木山神社本殿 (三間社流造 、 一六九四) 、静岡県大歳御祖神社本殿(三間社流造、一八四三) 、静岡県神部神 社浅間神社大歳御祖神社境内社麓山神社本殿 (三間社流造 、一八三五) 、和歌 山県十三神社本殿(三間社流造、一五六一年)に見られ るに過ぎず、山岳信仰 に関係 す る神社 で ある。いずれも本殿の内部は前室 と 内陣 (内殿) に区画さ れ 、 内陣正面には扉が設けられて いる。そのため、正面の両折 れ 戸 を 開 い て おい て も、内陣内部は見えない。しかし、小高神社の場合は前室がないため、戸 を 開 く と 内部が直接見える こと になる 。そのために内殿が設けられ る の で あろう 。 こ の ような内殿形式の本殿は袖ヶ浦市域に多くみられ る こ とは前述の と お り で ある。   内殿は正面間口約六五㎝の一間社流造 で 、大破し て い るものの本格的な造り となっ て いる。向拝柱は几帳面取り で 、 連三斗の組物、中備 と し て は 蟇股 を 置

(25)

く。水引虹梁には本殿の水引虹梁に似た絵様があり、蟇股も彫刻がないものの よく似 て いる。屋根部分は残っ て いないが、板葺 き で あったろう。正面構えは 小脇柱 を 入 れて 桟唐戸開 き 戸 と し、本殿に似た造り となっ て いる。使 われて い 図 13 本殿内の内殿 図 14 内殿正側面 る材質も良質 で 、恐らくは本殿の大工棟梁が本殿余材 を 用 い て つくったように 見える。なお、欠失し て いる部材は大部分が本殿内部に散らかっ て いた。   内殿の存在 と 、両折 れ 開 戸は、仏教的要素 を 示し て い る と いえるだろう。 縁と脇障子の関係   本殿周囲には縁が廻っ て いる。正面向拝柱 と 本殿隅柱間にある板壁は縁上が 開戸 で あり、脇障子の板壁も開戸 と なっ て い て 、 これらは右廻りに回 れ る よう に戸が開く。聞取りによる と 、宗教行事の場合は本殿の周囲 を 回 っ て 行うのだ と い う。具体的な ことは聞く こ とが できなかったが、仏教の常行堂のような使 い方 と 似 て おり、興味 深 い ものがある。 屋根の栩葺き   現在の屋根には正面側に栩葺 き が残っ て いた。 こ の 栩葺 きは板の留め釘 を 調 べる と 茅負、 裏甲から一連の仕事 で あり、 釘の打 ち 替 えはない ことが判明した。 正面軒廻りは当初 で あるため、 こ の 栩葺 きは当初の屋根材 で あ る こ とが明解 で ある 。板厚は一㎝前後 、長さは 30㎝前後 で 、表面がやや 風化し て い る 。また 、 幣殿の屋根が取付いた跡が残っ て い た こ とも、 当 初 で ある ことを 裏 付け て いる。   こ の ように古い葺 き 板が残るのは、 覆屋 で 古くから囲ま れ て いたから で あり、 葺 き 板に やや 風化がみられ るのは、覆屋の建設が本殿の完成より や や 遅 れ た た めと 考え られ る 。 使用部材の材種   今回 、主要な部材の材種判定 を 行った 。その結果には予想外のものがあり 、 桧 と 考え て いたのがシ オ ジ や カ ツラで あった。そ れ 以外にも土台はクリ 、縁板 がスダジイ、破風板がカツラと 判 定さ れ た。柱・大斗はケヤキ、化粧垂木・茅 負などはスギ、支輪 や 縁 高欄はヒノキ、小屋廻りはマツなど 多くの木の種類 を 使い分け て いる ことが わ かった。 こ の こと から、 こ の地方の江戸時代中期の植 物相も考える ことが可能 で 、興味 深 い ものがある。

(26)

図 15 横田郷想定復原図(構成・イラスト 笹生 衛)と小高神社位置 横田郷遺跡と神社の関係   最後に小高神社 と 横田郷遺跡 と の関係につい て 考察し て みたい。横田郷遺跡 は小櫃川流域のほ場整備に伴っ て 平 成四年ごろから中世の荘園遺構 と し て 注 目 さ れ 始め、その後も継続した発掘調査によっ て 古代の条里地割遺構 や さらに弥 生時代 や 古墳時代の多くの遺構・遺物が発見さ れ た 。 こ れ により、横田郷遺跡 は弥生時代から中世の荘園にま で 連 続 す る集落 で あった ことが明らかになっ た。   小高神社は横田郷に臨 む 高所にあり、参道は石段 で 横田郷に向かっ て 降 り て いく。小高神社は古代に遡る古社 で あり、両者には何らかの関係があった こと をうかが わ せ て いる。現在、古老の聞取りにおい て も 、まったくその関係 を 窺 わ せ る言い伝えや 記録はない。しかし、村から真東に望 む 小高い丘上に鎮座 す る神社 と 横田郷は密接な関係 をうかが わ せ るもの と なっ て いる。

(27)

 

第二章

 

工事の概要

 

一  

工事の計画

  小高神社本殿は、 これ ま で 幾度かの小規模な修理 を 行いつつ、現在に至るま で 、 その維持 を 図 っ て き た。しかし、 近年に至り、 次第に建物の経年による破損、 特に屋根の傷みが顕著になっ てき たため、平成四年に覆屋 を 建 て 替 えた。その 後、 本殿本体の全面的な修理の必要性にせまられ 、 氏 子は、 討 議 を 重ねた結果、 本殿の全解体修理工事 を 計画した。平成二十二年八月三十一日、袖ケ浦市教育 委員会に袖ケ浦市文化財保存整備事業に関 す る 事前協議書 を 提出した。協議の 結果、平成二十三年度に解体工事等 を 行 う こ と に なった。また、平成二十三年 八月三十一日、袖ケ浦市教育委員会に袖ケ浦市文化財保存整備事業に関 す る 事 前協議書 を 提出した。協議の結果、平成二十四年度に修理工事等 を 行 う こ と に なった。工事は、平成二十三年七月六日に開始さ れ 、 平成二十五年三月二十日 をもっ て 一切の工事 を 完了した。

 

二  

工事関係者

事費

  (一)  工事関係者 小高神社本殿解体修理工事にあたった関係者は次の通り で ある。    袖ケ浦市教育委員会        平成二十三年度         教育長    川   島    悟        教育部長    笈   川   政登己         教育部次長    篠   原   幸   一        生涯 学 習課長    武   井   隆   文         生涯 学 習課主幹    光   江    章        主査    西   原   崇   浩        同    桐   村   久美子         副主査    室   武    顕        主事    前   田   雅   之        平成二十四年度         教育長    川   島    悟        教育部長    茂   木   好   明         教育部次長    篠   原   幸   一        生涯 学 習課長    井   口    崇        文化振興班長    西   原   崇   浩        主査    桐   村   久美子        主任主事     田   中   大   介        主事    前   田   雅   之        袖ケ浦市文化財審議会委員          日   塔   和   彦          小高神社役員         建設委員長    鈴   木   弥須雄        代表役員    千   葉   一   男         委員(神社総代)   松   本   孝   之         同         阿   部    昭         同         松   本   一二三        委員    小   林    実        同    永   谷   耕   一

(28)

       同    吉   田    晃        同    粕   谷   範   生        同    粕   谷   貞   次        同    小   林   貞二郎        同    粕   谷   冨   広        同    小   林   日出男        同    粕   谷    裕        同    大   野   正   善        同    伊   藤   春   夫        同    粕   谷   光   男        同    鈴   木   行   男        同    中   村    久        同    粕   谷    忠    工事請負者        岩瀬建築有限会社         代表取締役    岩   瀨    繁         現場代理人    岡   本   将   吾         技術員    田   束    優        大工主任    竹   澤   弘   貴        大工    岩   瀬   幸   男        同    大   谷   統   一        同    髙   草   知   泰        同    松   﨑   良   則        同    佐   伯   光   駿        同    塚   本    明        同    鈴   木   朝   吉              屋根工事   ㈲望月板金    望   月   達   雄        建具工事   浅川建具店     浅   川   秀   幸        錺金物工事         ㈱大谷相模掾鋳造所    大   谷   哲   秀   (二)  工事費    小高神社本殿解体修理工事における事業費の内訳は次の通り で ある。     収入の部    総額   二一、 五六七、 〇〇〇円 内     訳 平成二十三年度 平成二十四年度 合     計 袖 ケ 浦 市 補 助 金 四、 七三〇、 二五〇円 六、 〇五三、 二五〇円 一〇、 七八三、 五〇〇円 所 有 者 負 担 金 四、 七三〇、 二五〇円 六、 〇五三、 二五〇円 一〇、 七八三、 五〇〇円 合     計 九、 四六〇、 五〇〇円 一二、 一〇六、 五〇〇円 二一、 五六七、 〇〇〇円            支出の部    総額   二一、 五六七、 〇〇〇円 内     訳 平成二十三年度 平成二十四年度 合     計 工 事 請 負 費 九、 四六〇、 五〇〇円 一二、 一〇六、 五〇〇円 二一、 五六七、 〇〇〇円 仮 設 工 事 費 五一二、 二〇〇円 四七一、 二〇〇円 九八三、 四〇〇円 解 体 工 事 費 二、 五一〇、 三〇〇円 一三五、 八〇〇円 二、 六四六、 一〇〇円 基 礎 工 事 費 〇円 三〇、 〇〇〇円 三〇、 〇〇〇円 石 工 事 費 〇円 二〇、 〇〇〇円 二〇、 〇〇〇円 木 工 事 費 四、 四二六、 〇八〇円 五、 七九三、 七二〇円 一〇、 二一九、 八〇〇円 屋 根 工 事 費 〇円 一、 五九八、 〇〇〇円 一、 五九八、 〇〇〇円 錺 金 物 工 事 費 〇円 三七五、 〇〇〇円 三七五、 〇〇〇円 雑 工 事 費 〇円 一、 二二二、 五〇〇円 一、 二二二、 五〇〇円 諸 経 費 一、 五六一、 四二〇円 一、 八八三、 七八〇円 三、 四四五、 二〇〇円 消 費 税 相 当 額 四五〇、 五〇〇円 五七六、 五〇〇円 一、 〇二七、 〇〇〇円

(29)

 

第三章

 

建物の調査

 

一  

修理前の破損状況

    本殿は修理前、特に背面屋根葺 き 材の欠失 と 軒 廻り材の落下等破損が顕著 で あった。また、部材の痕跡 や 後補材から判断し て 小規模な修理は過去にも行 わ れて いた ことが わ かる。平成四年には屋根の破損が著しくなった こ と か ら木造 の覆屋 を 建 て 替 え て いる。   建物の破損は、その原因により次の四項に分類 でき る。   (一)  外力 や 荷重による物理的な破損   (二)  保守管理の不備、施工方法の不適切によっ て 生 ずる腐朽菌等による生物     劣化   (三)  建築後の経年による部材の風化、摩耗   (四)  建物使用の変化、外観の変化に伴う改造等による部材の欠失   修理前の建物につい て 、前述の項目に沿っ て その破損状況 を 述べる。   (一)と し て 、 建物の不同沈下 と 柱の傾倒、 そ れ に伴う部材の弛緩があげられ る 。 その結果は、図 16に示 す 通 り で ある。柱の不同沈下は、西側面が他に比べ て 大 で あり、正面向拝柱の沈下が最も大 き かった。 これ に対応 す る ように、建物は 正面および西側面方向に傾い て いた。また、廻り縁は縁 を 構成 す る部材自体の 荷重 で 外側に垂下し て おり、後年、簡易的に補強さ れ た 。   (二)と し て 、 まず雨漏りによる部材の腐朽があげられ る。正面軒先の化粧裏板、 母屋桁、桔木等は雨漏りが原因の腐 れを 生じ て いた。雨漏り等による部材の湿 潤は、一方 で 白蟻 をはじめ とす る虫害の原因 となり や す い 。 こ の建物は、随所 に白蟻による虫害の跡が見られ た。土台は全体的に虫害 を 受け て おり、特に土 台石 と 接 す る下端から 内 部への腐朽 と 虫害が著しかった。柱脚部も腐朽菌によ り侵さ れて いた。羽目板、破風板、裏甲、切目長押等も腐朽 や 虫害 を 受 け て お り、全体 と し て 東面の部材の被害が大 き かった。   屋根は全体に わ た り葺材の欠失、摩耗が著しく、背面は部材が多く欠失し て いた。 これと 併 せ、背面軒廻り材は落下し、多くの部材が保管さ れて いた。   (三)と し て 、 建物見え掛り部分の風蝕があげられ る。廻り縁は縁板の風蝕が著 しく高欄等の部材も一部欠失し て いた。建物全体 で 見 る と 、東面の風蝕が大 き かった。   (四)と し て 、正面木階の部材の欠失があげられ る 。 こ れは後年に、後設の幣殿 改築に併せ、蹴上寸法 を 変 え て 造り変えたため で ある。

 

二  

計画寸法

  本殿は、背面の軒廻り材の一部 を 除 き 比 較的当初材が残っ て いたの で 、 そ れ らの部材寸法 を 実 測 す る こ と により、 当初建物の計画寸法 を 知 る こ とが出来た。   (一)  平面計画寸法   本殿身舎柱間 と 向拝の出の寸法は、当初横架材に残る仕事真墨 や 枘穴等の位 置 を 実測 す る こと により知る ことが出来た。実測値は表 1の通り で ある。   垂木割り を み る と 、正面は柱真 を またぎ正面中央間に二十六本、両脇間にそ れぞれ 六本の垂木 を 配 っ て いる。背面は中央に柱が建つが、その左右 で 十九本 ずつ垂木 を 配 っ て いる。   組物は六枝掛 と し て いる。丸桁および木負、茅負の垂木取付 き 痕 跡より一枝 寸法は二寸四分 で あ る こ とが わ かる。 こ の 建物 を 枝 割り法 で みる と 、正面中央 間は二十六枝 で 六尺二寸四分、両脇間はそ れぞれ 六 枝 で 一尺四寸四分、背面二 間はそ れ ぞれ 十九枝 で 四尺五寸六分、側面二間はそ れぞれ 十二枝 で 二尺八寸八

(30)

       図 16 柱の沈下量・傾倒量図      寸法単位は㎜       ・沈下量はい一の柱を基準に、それからの沈下量を(  )内に示した。       ・傾倒量は方向を矢印で、量を柱の1m当りについての数値で示した。                        傪 僕 僡 ୍ ஧ ୕ ᅄ ᱆⾜ᑍἲ ᅵྎ࣭ᆅそ 㸦  ࠒ 㸦  㸧 㸦  ࠒ 㸦  㸧 ࠑ  㸧 㢌ࠉࠉ㈏ ࠑ  ࠒ ࠑ  ࠒ 㸦  ࠒ ࠑ  㸧 ࠑ  ࠒ ㏻ࠉ⫝ࠉᮌ 㸦  ࠒ ࠑ  㸧 㸦  ࠒ 㸦  㸧 ࠑ  㸧 ୸᱆࣭⹿ᱱ 㸦 㸧 㸦 㸧 㸦  㸧 ᮌࠉࠉ㈇ 㸦  㸧 ̿ 㸦 㸧 ̿ ⱴࠉࠉ㈇ 㸦  㸧 㸦  㸧 ̿ ̿ ̿ ̿ ᱱ㛫ᑍἲ ᅵྎ࣭ᆅそ 㸦  ࠒ ࠑ  㸧 ࠑ  ࠒ 㸦 㸧 ࠑ  ࠒ 㢌ࠉࠉ㈏ ࠑ  ࠒ ࠑ  ࠒ ࠑ  ࠒ ࠑ  ࠒ ㏻ࠉ⫝ࠉᮌ 㸦  㸧 㸦  㸧 㸦  㸧 㸦  ࠒ ୸᱆࣭⹿ᱱ 㸦  㸧 㸦  㸧 ࠑ  㸧 㸦  㸧 㸦  ࠒ ࠑ  㸧 ᮌࠉࠉ㈇ ⱴࠉࠉ㈇ ィ ఩⨨ 㸦ࠉࠉࠉࠉ㸧㺃㺃㺃ᰕ┿ቚࡢቚ᭩࡛ィ  ࡯୕㹼ᅄ ࠸୍㹼஧ ࠸஧㹼୕ ࠸୕㹼ᅄ ࡯୍㹼஧ ࡯஧㹼୕    ࠸㹼ࡣ୍ ࡣ㹼࡯୍ ࠸㹼ࢁ୕ ࢁ㹼࡟୕ ࡟㹼࡯୕  ࠸㹼࡯ᅄ  表 1 柱間寸法実測値

(31)

       図 17 矩計・軒廻り詳細図      寸法単位は尺 縮尺 1/20 㻠㻚 㻡㻢 㻚㻟 㻣 㻚㻠 㻤 㻚㻟 㻣 㻚㻝 㻠 㻞㻚 㻣㻤 㻤㻚 㻣㻜 㻚㻡 㻟 㻚㻡 㻜 㻚㻟 㻤 㻚㻟 㻤 㻚㻟 㻤 㻚㻟 㻤 㻚㻟 㻤 㻚㻢 㻜 㻝㻚 㻠㻝 㻚㻡 㻠 㻣㻚 㻤㻝 㻚㻟 㻢 㻞㻚㻝㻢 㻞㻚㻞㻤 㻠㻚㻠㻠 㻚㻡㻤 㻚㻟㻤 㻚㻡㻞 㻝㻚㻟㻞 㻝㻚㻜㻞 㻞㻚㻟㻠 㻝㻚 㻝㻞 㻚㻠 㻤 㻚㻠㻤 㻝㻚㻡㻢 㻚㻟㻡 㻚㻟㻡 㻚㻞㻟 㻚㻞㻟 㻚㻞㻟 㻚㻞 㻟 㻚㻞㻟 㻚㻞㻟 㻚㻝 㻝 㻚㻞㻠 㻚㻝 㻠 㻥㻚 㻜㻜 ⫼㠃 ⱴ㈇እ ୗゅ䜎 䛷 䚷 㻥㻚 㻣㻡 㻚㻣 㻟 㻚㻠 㻣㻡 㻠ᑍ㻡ศ ໙㓄 㻟ᑍ㻤ศ㻟ᑍ㻡ศ໙㓄໙㓄 㻝㻚 㻥㻜 㻥ᑍ ໙ 㓄 ᖯẊᗋ

(32)

の他の部分は八角に造り出したまま で ある。向拝柱は角柱 で 、五分の几帳面 を 取っ て いる。身舎柱の根枘は二寸五分角 で 長 さは二寸から二寸五分 で ある。向 拝柱は礎石に ひ かり付け 建 てて いる。   貫は頭貫のみ で 、 身舎柱の頭部 を 繋 い で いる。頭貫はシ オ ジ で 、 成四寸六分、 厚さ一寸九分 で ある。四隅の柱 とは端部 を 五分大入 れ 落し蟻 と し、他の柱 とは 輪薙込み で 落し込ん で い る 。貫の上下には小穴 を 突 き 、上端の小穴は幅四分 、 深 さ五分 で 琵琶板に合 わ せ て いる。下端の小穴は幅六分、 深 さ五分 で 羽目板 (腰 上)に合 わ せ て い る 。 一方 、腰廻りには柱間に遣返し で 足固め を 入 れて いる 。 足固めは、 成二寸五分、 幅一寸九分五厘のスギ(い二~三のみケヤキ) で ある。 下端に羽目板(腰下)の小穴が突か れ て いる。   羽目板(腰下)は、厚さ五分前後のマツ(い一~二のみ後補材 で ヒ バ) で 土 台 と 足固めの間に三枚 で 矧 い で いる (後補材は四枚) 。矧ぎ目は樋部倉矧ぎ で 合釘打 ち 止 め と し て いる (後補材は突付け で 柱へ釘打 ち 止め) 。側面には格狭 間 を くり抜 き 竪格子 を 取 付け て いる。   羽目板(腰上)は、厚さ六分前後のカツラ (い一~二最下部のみ後補材 で ス ギ) で 足固め と 頭貫の間に三枚 で 矧 い で いる。矧ぎ目は突付け で 合釘打 ち 止 め と し て いる。正面両折戸脇の羽目板は竪羽目 で マ ツ一枚 を 柱の小穴へ建込ん で いる。   長押は、シ オ ジ で ある。地長押は成二寸九分、胸の出は五分 で ある。切目長 押は成三寸七分、胸の出は五分 で ある。柱に幅八分、 深 さ八分~一寸の襟輪欠 きで 取付 き 、和釘打 ち し て 止 め て いる。内法長押は成三寸七分、胸の出は五分 で ある。柱に幅八分、 深 さ八分~一寸一分の襟輪欠 き で 取 付 き 、和釘打 ち し て 止め て いる。   海老虹梁はケヤキ で 、身舎柱へは五分大入 れ 落し蟻 で 、向拝側は下端 を 組物 実肘木 と 相 欠 き 組にし、向拝柱からの雇い枘に落し込ん で いる。身舎柱側の端 分 と なり、そ れぞれ 実測値 と 近似値 で ある。向拝の出は、実測値は四尺四寸五 厘から四尺四寸二分の間の数値 で あ るが 、四尺四寸四分 と 考える と 枝割りは 十八 ・ 五枝になる。   (二)  矩計計画寸法   軸部における高さ関係の寸法は 、柱の取合い仕口 や 部 材 を 実測 す る ことで 、 寸法 を 得た。軒廻りは、欠失部材、破損部材が多かったが、残存 す る部材 を 実 測し、寸法 を 得た。垂木の勾配は、破風板の仕口 を 実測し、寸法 を 得た。 これ らに基づき 矩計計画寸法 を 図 17に示した。

 

三  

構造・技法

  (一)  基礎   身舎は側廻りに土台切石 を 廻 し て いる。石は、上端および外側側面の上端か ら二寸ま でを 仕上げ て 、下は切り出したまま で ある。石は正面に四個、背面に 四個 、両側面にそ れぞれ 二 個 、土上に正面から見 て 右 廻り勝 ち に 据えて お り 、 目地は特に詰物 を 飼 っ て いない。向拝柱の礎石は自然玉石 で 、土上に据え て い る。   (二)  軸部   土台は成五寸三分、幅六寸五分の クリで 、正面の部材が心持 ち 材、他は心去 り材 で ある。端部は隅留枘差し割楔締め と し て いる。上端には、柱の枘穴が掘 られ 、羽目板(腰下)の小穴が突か れ て いる。向拝柱の柱脚 とは地覆 で 繋 い で いる。地覆は、成三寸七分、幅三寸三分の クリで ある。       柱は、正面両折戸脇はスギ、他は全 て ケ ヤキ で ある。そのう ち の身舎柱三本 と 向拝柱一本が心持 ち 材 、 他は芯去り材 で あ る 。太さは 、身舎柱が五寸八分 、 向拝柱が五寸二分 で ある。身舎柱は切目長押より上の外側部分のみ丸くし、そ

(33)

部は袖切さ れ 、見付には弓眉が彫られて いる。向拝柱側の端部は実肘木 と 同 幅 に袖切さ れ 、弓眉が彫られて いる。   水引虹梁はケヤキ で 、両端は袖切さ れ 、見付には弓眉 、 若葉文様が彫られ 、 四分大入 れ 蟻 掛け で 向拝柱に取付い て いる。   拳鼻は、身舎柱へ五分大入 れ 落し蟻 と し て いる。   木鼻は、向拝柱の側面に寄せ蟻 で 取付い て いる。   (三)  組物   身舎柱上組物は、拳鼻の付いた出組 で 、部材は全 て ケ ヤキ で ある。全体は六 枝掛 となっ て おり、高さは一尺一寸二分 で ある。四隅の柱上の組物は隅行肘木 に鬼斗 を 乗 せ て いる。柱上の肘木は通肘木 と し て おり、 組物同士 を 繋 い で いる。 正面両折戸脇の柱上 と 正面隅の柱上の組物は実肘木 を 一体にし丸桁 を 受け て い る。梁間方向は大虹梁を 実肘木 で 受 けるが、四隅の柱上は大虹梁の下端 を 実 肘 木幅に造り出し て 組 物 で 受け て いる。   向拝柱上組物は連 れ 三斗組 で 、部材は全 て ケ ヤキ で ある。全体は、六枝掛 と なっ て おり、高さは七寸三分 で ある。   中備えは、向拝柱間中央に出三斗組、その両脇に、上部に巻斗 と 実肘木 を 乗 せた本蟇股 を 付 け て いる。   (四)  軒廻り   妻飾り   身舎丸桁はマツの心去り材 で 、柱真より四寸八分外 を 真 と し て おり、成五寸 三分、幅三寸五分、口脇高四寸八分 で ある。反り、増しはない。側面柱真より 四寸八分外へ出た ところ で 妻虹梁と 相欠 きで 取合い、端部木口に蟻枘 を 造り出 し て 破風板 を 落し込ん で いる。   化粧棟木はマツの心去り材 で 、 成五寸一分、幅三寸六分、口脇高四寸五分 で ある。妻虹梁上に立 て た束から伸びる枘に落し込ん で いる。   向拝丸桁はマツの心去り材 で 、 成五寸三分五厘、幅三寸五分、口脇高四寸七 分五厘 で ある。柱筋 で 海老虹梁と 相 欠 き で 取合い、向拝柱から伸びる雇い枘に 落し込ん で いる。中央 で は 、中備えの組物に乗せた手挟み と 相欠 きで 取合っ て いる。   垂木はスギ で 、正背面 ともに二軒繁垂木 で ある。身舎正面飛檐垂木は向拝丸 桁 を 打越し て 向拝地垂木 となっ て いる。地垂木、飛檐垂木、支外垂木は全 て 成 一寸三分、幅一寸一分 で あり、飛檐垂木のみ先端下端 を 扱 い て 成一寸一分にし て いる。飛檐垂木のう ち 、正面二本、背面二本は力垂木 で あり、金物 で 桔 木 と 繋い で いる。内部は地垂木へ釘 で 打 ち 止 め て いる。   木負および茅負は、正面がマツ で 、背面がスギ で ある。木負、茅負 ともに成 幅二寸三分の角材 で ある。端部は破風板に大入 れで 取付い て いる。   破風板はカツラで 、正背面 とも腰幅が五寸七分、厚さが一寸三分 で ある。丸 桁へは落し蟻 で 落し込み、拝み留先部分は目違い枘入 れと した後、蟻决り を し た厚板 を 落し込ん で 緊結し て いる。見付には二重の眉 を 付 け て いる。   妻大虹梁および上の二重虹梁はともにケヤキ で 、 そ れ ぞれ 相欠 きで 丸桁およ び化粧母屋 と 取合っ て いる。 中央には、 東西 とも波に兎 を 題材 と した彫物 を 飾 っ て いる。妻大虹梁上化粧母屋筋には出三斗組が取付くが、外側だけの飾り で あ り、枠肘木 を 妻大虹梁上に立つ束に妻板越しに枘差し上楔締め で 取 付け て 固 定 し て いる。化粧母屋は、前述の束に枘差し上楔締め で 取付い て いるのみ で 、 小 屋組内部には伸び て い ない。二重虹梁上には笈形付 き 太瓶束が立 ち 、上に組物 を 組 ん で いる。太瓶束は上部に粽がとられ 拳鼻が取付 き 、下部に結綿 を 造り出 し て いる。太瓶束拳鼻 と 笈 形はヒノキ、妻板は厚さ五分のスギ で 、 他はケヤキ で ある。破風板下拝み部分には蕪懸魚が付けられ 、他に桁隠し と し て 猪の目懸 魚が付い て いる。   (五)  小屋組   屋根   小屋梁は一木のマツを 半分に割っ て 東 西 で 使っ て いる。 こ の上に桁行方向に

(34)

あった と 思 われ る。   (八)  その他 -部材の樹種   今回の工事 で は、一部の部材の樹種判定 を 行った。対象部材 と 判 定結果は次 の通り で ある。 名     称 位     置 樹     種 土台 い一~三 クリ 柱 い一 ケヤ キ 羽目板(腰上) い二~三 カツラ 羽目板(腰下) は一~ほ一 マツ 頭貫 ほ一~三 シオ ジ 組物(大斗) い一 ケヤ キ 支輪板 い一~ほ一 ヒノキ 内法長押 い一~三 シオ ジ 破風板 カツラ 丸桁 身舎正面 マツ 化粧棟木 マツ 茅負 向拝 マツ 茅負 身舎背面 スギ 木負 身舎正面 マツ 地垂木 身舎正面 スギ 化粧裏板 身舎正面 マツ 登裏甲 背面西 マツ 高欄(栭束) 上い又三 ヒノキ 高欄(平桁) ほ又三~又ほ又三 ヒノキ 縁板 背面 スダジイ 木鼻 向拝柱東 ヒノキ 脇障子鏡板彫刻 西 ヒノキ 水引虹梁 ケヤ キ 梁が渡さ れて いる。   野母屋は、正面に三通り、背面に二通り通っ て いる。正背面 とも野棟木寄り の通りがスギ、他がマツ で ある。野棟木はマツ で ある。   屋根は、栩葺 きで ある。葺 き 材はスギの割板 で 、 葺 き 足は一寸八分前後 で 和 釘 と 竹釘 で 打 ち 止 められて いる。棟飾りは破損が著しく、箱棟の部材が残るの み で ある。   (六)  造作   床は、後年に取替えられ た もの で ある。当初の床および床組材は床下 と 他所 に保管さ れて いた。当初大引はシイ で 桁行方向に置か れ 、スギの根太 を 受 け て いる。床板は厚さ六分のマツを 桁行方向に張っ て いる。   身舎正面柱間には両折戸が建込ま れて いる。身舎の切目長押上端 と 内 法長押 下端には、そ れ ぞれ 一寸八分五厘角の付敷居 と 付鴨居 を 付 け て いる。内部に天 井は 張られて いな い。   (七)  縁廻り   木階   廻り縁は 、四周に廻らし 、背面柱筋に脇障子 を 立 て 、刎高欄 を 置 い て いる 。 正面 を 除いた三方に四手先の腰組 を 組 み縁 を 支 え て いる。腰組の斗は主にケヤ キ で 、一部スギ とヒノキが使 われて いる。肘木はケヤキ で 一 部ヒノキが使 われ て い る 。 縁葛は成二寸五分 、幅一寸九分のケヤキ で 隅扠首に相欠 きで 取付 き 、 木口部分は別材 で 相欠 きで 取付く。隅扠首は成二寸五分、 幅二寸一分のケヤキ、 縁繋は成二寸四分、幅二寸のケヤキ で 、 と もに身舎柱に大入 れ 枘差し と し て い る。縁根太は成二寸六分、幅二寸一分のスギ で 隅扠首に相欠 きで 取付く。縁板 は厚さ一寸三分五厘 で 、スダジイ、ヒノキ、スギが使 われて おり、上端から釘 を 打 ち 縁 葛に止め て いる。脇障子柱は三寸八分五厘角のケヤキ で 、笠木は成二 寸三分五厘、幅四寸三分のヒノキ で 身舎柱に大入 れ 枘差し と し て いる。   木階は後年に造り替えられて いるが 、形式 と し て は 当初から五級の木階 で

図 10 境内入口の石灯籠と刻銘図 11 拝殿 図 12 本殿覆屋 きが現在ま で 残 っ て いた ことや 、本殿 を 構 成 す る部材が、木階などごく一部の部材を除いて、当初材が良く残っていたことによる。また、屋根材 や 木部の風化が少ないことも、建築後比較的早い時期に覆屋が建設されたことを示し て いる。 現在の覆屋は平成四年に改築されたもので、桁行六・四m、梁間六・四m、切妻造、波型鉄板葺きである。それ以前の旧覆屋については記憶があいまい で 、写真等もなく不明である。恐らく規模は現状と同じで、柱
図 15 横田郷想定復原図(構成・イラスト 笹生	衛)と小高神社位置 横田郷遺跡と神社の関係 最後に小高神社と横田郷遺跡との関係について考察してみたい。横田郷遺跡は小櫃川流域のほ場整備に伴って平成四年ごろから中世の荘園遺構として注目され始め、その後も継続した発掘調査によって古代の条里地割遺構やさらに弥生時代や古墳時代の多くの遺構・遺物が発見された。これにより、横田郷遺跡は弥生時代から中世の荘園にまで連続する集落であったことが明らかになった。 小高神社は横田郷に臨む高所にあり、参道は石段で横田郷に向かって降り
図 25-1 柱実測図(身舎柱い一) 寸法単位は尺 縮尺 1/15す㠃ṇ㠃ᮾ㠃⫼㠃㻚㻜㻤㻚㻝㻥㻚㻟㻣㻚㻠㻤㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻚㻝㻟㻡㻚㻜㻢㻚㻞㻚㻞㻚㻝㻥㻚㻜㻤㻠㻚㻡㻢㻞㻚㻟㻝㻚㻥㻤㻚㻜㻤㻝㻚㻝㻢㻡㻚㻞㻠㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻢㻚㻞㻤㻚㻣㻚㻠㻝㻡㻚㻞㻠㻚㻤㻤㻡㻚㻞㻢㻚㻟㻚㻞㻠㻚㻡㻤㻚㻞㻠㻚㻝㻡㻚㻞㻚㻝㻤㻚㻞㻠㻚㻤㻡㻚㻟㻣㻚㻠㻤㻟㻚㻠㻣㻚㻟㻣㻚㻝㻠㻚㻞㻢㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻠㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻠㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻠㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻤㻚㻥㻤㻚㻜㻣㻚㻜㻡㻡㻚㻝㻚㻝㻡㻡㻚㻜㻣㻚㻠㻡㻚㻞㻚㻜㻥㻚㻝㻞
図 25-2 柱実測図(身舎柱い二) 寸法単位は尺 縮尺 1/15す㠃ṇ㠃ᮾ㠃⫼㠃㻚㻝㻞㻚㻝㻥㻚㻜㻤㻚㻝㻥㻚㻝㻥㻚㻜㻤㻚㻝㻠㻚㻞㻢㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻠㻝㻚㻝㻢㻡㻚㻜㻤㻚㻥㻤㻚㻞㻞㻚㻟㻝㻠㻚㻡㻢㻚㻞㻝㻚㻞㻝㻚㻜㻢㻚㻟㻣㻚㻠㻤㻤㻚㻣㻚㻤㻡㻚㻝㻥㻚㻜㻤㻠㻚㻡㻢㻚㻝㻥㻚㻜㻤㻚㻟㻣㻚㻝㻠㻚㻞㻢㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻠㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻠㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻠㻚㻝㻟㻡㻚㻞㻤㻚㻥㻤㻚㻞㻞㻚㻡㻤㻚㻞㻠㻚㻞㻚㻝㻚㻝㻚㻞
+7

参照

関連したドキュメント

施設 平成17年 平成18年 平成19年 平成20年 平成21年 平成22年 平成23年 平成24年 平成25年 平成26年 10年比 松島海岸 㻟㻘㻠㻝㻥㻘㻜㻜㻜

解析モデル平面図 【参考】 修正モデル.. 解析モデル断面図(その2)

䈜ヨ㦂್䜢ྵ䜑Ᏻ඲ഃ䛻㓄៖

されてきたところであった︒容疑は麻薬所持︒看守係が被疑者 らで男性がサイクリング車の調整に余念がなかった︒

[r]

㻞㻜㻝㻣ᖺᗘ Ꮫᰯྡ Ặྡ ᑐ㇟䛾䜽䝷䝇ᩘ⏕ᚐᩘ ᐇ᪋᪥ ᐇ㦂ෆᐜ ௒ᅇ䛾ྲྀ⤌䛻 䜘䛳䛶䜒䛯䜙䛥 䜜䛯ຠᯝ ၥ㢟Ⅼ䜔ᨵၿ 䛧䛯᪉䛜Ⰻ䛔Ⅼ ౛ ༸䛾␒ྕ䠄㻌䚷䠍䚷䠅

・底部にベントナイトシート,遮水シート ※1 を敷設し,その上に遮水 シート ※1

㻝㻤㻥㻣 㻝㻤㻥㻤 㻝㻤㻥㻥 㻝㻥㻜㻜 㻝㻥㻜㻝 㻝㻥㻜㻞 㻝㻥㻜㻟 㻝㻥㻜㻠 㻝㻥㻜㻡 㻝㻥㻜㻢