「
初 発
心
時便 成
正
覚」
の
論 理 構 造
と
本
覚
思
想
一
無 明
はそ のま ま
で直 ち
に明
であ
る (無 明即 明)一島
村
大
心
0
.序
本稿は、 従 来、 「発 心畢 竟二 無別
」
「初 発心 時便 成正覚 」 等、 〈初 発心 と悟 りの 同時 性 と して驚 きをもっ て注 目され て きた論理 〉を検 討 し、 結 論 と して こ れ は 〈「
初発心」
と「
悟 り」
との特
別の 因果 関係
〉 を示 したも
の で は なく
、「
一切
の現
象
界その もの が その ま ま悟 りで ある」 とする、 大乗 仏教 経 典にお け る多 く
の表
現 (A
資料38
頁)の 一例であるこ とを明らかにする もの である。 ※ 『大智 度論』 は大正大蔵経 第25
巻 か ら、 『大品 般若経1
は 同 じ く第8
巻か ら、そ れ ぞ れ 引 用 した 。1
.問 題
の所
在
B
資料 (47
頁)にあ げ られた諸 命 題は、 い ず れ も仏教 (行 )者 を当惑 させ る。 何 故な ら、 そこ に述べ られ てい る事 態は、 常識 的には 理解の難 しい事柄
である か ら である。 具 体 的には、 (1
) 初 発心、 小 石 を積
ん で 仏塔
をつ くるこ と、 遊び と して木 片で仏 像を描 くこと、
等
の特定行為
をす
る と、 その時
には悟
りが実
現 してい る とい う事 態はそ もそ もあ り得る のか。
仮
にあ り得
る とし た場 合
、悟 り
の原因行為
として の こ れ らの特定行為
は、〈 これ らの
宗教
的行為
以外
の 、 例え
ば「
食事
をす
る こ と」
〉等
の行為
と区別
され た行 為 なのか。 (3
) 区別され た行為
であるとすれ ば、 区別の基準
はあ
るの か。 (4
)それ らの原 因行 為 と、
菩 提 分
法
、 六波 羅蜜等
の修行
の 道との 区 別は あ る のか、 ない のか。 (5
) 悟 りの 実現に関 して(4
)の両者
に 区別が ない とす
れ ば、各種
の修行
は不 要になっ て しまうの で はない か
等
々 、 い くつも
の疑
問が生 じてく
る。「初 発心 時便成正覚」の論理構 造と本覚思想 (島 村 ) とこ ろ で
B
資料の各種命
題は、 基本
的に は同 一事
態を指
して い る と考
え られ る の で 、 以 下 の検 討に当たっ て は 、代 表 例と して 「初発心時便 成正覚」
を取 り 上げ
て、 これ を初 発心 した修行 者 (=
X
)(注 )(1)、[
悟
っ た状態
にある (−Y
)に分解
し 、「
X
はY
であ
る (X
=Y
)」
の 構 造と して検
討 する。 (注) (注) (1>初発 心を十住の初 住とするこ とは 、B
資料の2
、3
、8
より見て 、必ずしも必要 な い と思われ る 。 又 、 十住の 初住と して も 、3
一 の 『大智度 論亅の 検討に より、 本論の趣 旨と事態は変わ ら ない と言 える。 「有る 人の言 く、初 発 意とは 、無生法忍を得 ( =不退転位となっ て) 、阿耨多羅 三 藐三 菩提の相に随っ て発心する 、是 を 初 発 意 と名づ け、真の発心 と名づ ける 。 了了 に 諸法 実相 を知 り、及び心 相を知 り、諸の煩悩を破 するの故に、阿耨 多羅三 藐三 菩提 心に随 うが故に 、顛倒せざる が故に 、此の 心 を名づ けて初発 心と為す。」 (『大智 度論 』国大(3)32
頁 )とある が 、これ とて阿耨多羅三藐三菩提 を未得で あ る か ら 、仏 陀と なっ てい ない の で、3
−〔2
}の 「大智 度 論』 第18
巻 冒頭の記 述 か らみ て も、本論の趣 旨は成立 して い る と思量する 。2
,検
討
に際
して の前提
検討
を容易
にするた めに、命
題 一 般 を仏教真
理 の観
点か ら以下の通 り四分
類す
る。 (1
}A
。 (PM
)命
題 (以 下A
。と表 記) :究極の真理「… … … …
」
す なわち言語 表現でき
ない真
理その もの。 〔 = 勝義諦 1)「
如、法
性、 法 相、 法 位、実
際の 義 (一言語表 現され た意味 内容 )、 あることな し
」
(『大品般若 』241
下)「
賢
聖 は黙 然た り」
(『大智度論亅402
中) (2
)A1
(pm
)命
題 (以 下A1
と表記 ) :A
・を指 し示 す言 語 表 現其の一
A
,は賢聖
蠅真
理表 現で ある。 例 :Om
Ah
Ham
等のマ ン トラ、各尊
の
象微
であ
る種 字
、 「般若
波 羅 蜜」、「
阿耨多羅
三藐
三菩提 」
、「
離 言真如」
、厂
悟
り」
、「
涅槃」
、「
仏」
、 厂指 月」
の月 (『大智 度論』125
中 ・726
上)等 、 経論にお け る
真
理表現で、 本 来、 そこ には概念 的内容が存在 しない 。その
表現
の使
用 者は、 本 来 言 語表
現でき
ない もの を表 現 する という
行為
に
付帯す
る矛盾
を鋭 く自覚
し、 強い危 機 意識を有
してい る。 そ れ故、Al
におい て は、 〈A1
が概 念 化し、意 識の認識 対象 と して実体 化す るこ と〉に
対す
る強い警戒
が表 明 され、 故に その 言及
は否定
を伴う
ことが多
い 。「一切の 思’△
1
を 一 “ る、是れ を正思惟
と名
つ くる 。」(r
大 智 度論」 205中)
「
一切の旦鎧
諸々 の 語の 実相
を知る、 是 れ を 正語と為 す。」(r
大 智度論 」205 中)その言 語
表現
を用い る賢
聖の境
地 (悟境 ) を意 味する場 合 もある。 ( = 勝義 諦2
)しか し、 賢 聖に よ る真 理 表 現であっ て も、
衆
生言語
である限り
、 概念化
の
危
険を常に伴っ てい るの で、A
。命
題の 立場
か ら は否定
的に言 及 され る。「仏陀はい か なる教 えを も、 い か な る処で も、 誰に対 して も説かれた こ と
はない」。 (『中論亅第
25
章24
)「
諸 仏は 、法愛
を断
じ、経書
を立てず
、 また言 語 を荘 厳せず
。但
し衆
生 を拯 済せ んが
為
に、 度すべ き者に随っ て説 き給へ り」(r
大智 度論 』436 上 中)。 {3
}a2
(pm
)命
題 (以下 a ・と表 記) :A
。を指し示 す 言語表 現其の 二
a ・は ゜ 以 前 の 生 に よる 理 表 現である。 例は上 記【
2
} 一と全 く同 じ。
た だ し、 同 じ語、 例 えば 〈
「
般若
波 羅 蜜」「
仏」
「涅 槃」
等〉を発 して も、 そこに込め られ る
意
味の理解
程度に おい て、A1
との 間 に は巨大
な懸
隔が 生 じて い る 。 (注 ) “L〔2)その
表
現の 使用 者は、多
くの場合、 基 本 的に真理の言 語 表現 という
行 為に
付帯す
る矛盾
に無 自覚
で あ り、危
機 意識 を有して い ない 。 そ れ故、a2 におい ては
AL
が 概 念化
し 、 意識
の認識対 象
として、す
なわ ち「
相」
と して実 体 化 が進 ん で い る。 その 場合、 そ れ (例 えば
A
・の 「仏」が 概念化した もの) に対 する強い
執着
が生じる 。「
一切の 語は虚妄
不実
に して顛 倒 して相
を取 り、 分 別を生 じ る。」(r
大智 度謝
205
中)「一切の 思惟は皆、是れ 邪 思惟
な り。 … …涅槃
を思惟
し、 仏 を思惟 する もの 皆 亦た是 くの 如 し。
」
(「大智度謝205
中)その 際、 その
実体化
が認識論
の レベ ル に留
まっ て い る場合
(例 :r
大般 涅槃経』に おける 「仏性」〉 と、 それ よ
り
さらに実体化
の程度
が進
み、 その言 語表
現さ れ た ものが実 体物、 即 ち存 在 (もの) と して論 者 が 認識 して い る場合(例 :実体物として把握さ れ た 「
tAtr
」)とが ある。その言 語 表 現を用い る
衆
生 の境 地 (迷境)を意 味 する場 合 もある。 ( 一 世俗「初 発心 時 便成正覚」の論理 構造と本覚 思想 (島村 )
tw
1
)賢
聖 以前
の衆
生の 言 語表
現である か ら、当
然の こ と と してA
・の立場か ら は否 定 される。 (注 〉 (注)i
(1
)『大 智度論 」にお ける空の 二義 …… 第一の空 はAo
を指 すAl
であ り、第二 の空 は 、こ こで述べ てい る認識対象となっ た 〈空”相
・ =a2 >を破 するもので、この認 識対象となっ た空を空 ずる もの (= 「空々」)である 。 (『大智度論』327
上) (2)A1
と a2 の区別 を示す用例 。 「色を窒ずる (a2 )を 以て の故に、 色は空なる (A
エ〉にあらず、 色は是れ 空 (AD
、 空は翩 ち是れ色な り。」(『大品 般若譲240
中〉 厂十八空 (a2 )の故に色 をし て空 〈A
ユ)な ら しむる にあらず 。 何 となれ ば 、是の 空相 (a2 )を 以て 、強い て (・「空」の 働 きに よ っ て)空 (A
の ならしめざる な り。色は是 れ 即 ち 空 (A1 )なり。 是の 色は本 よ り已来 、常に自ら 空 (AL >な り。 色相は空なるが故に 、空は即 ち是れ色 な 8)。」 (r
大智度謝378
上) ※ 空 、十 八空等の原 理 (概 念 =a2 )を 色に適用 して (=そ れ を 原因と して) 、 色 を空 と理解 する のは誤 り。 何故な ら、空 (Al
)は概 念がない 事 態な の であっ て 、 〈何か を因とするが故に色が空と なる 〉とい う俗 諦 (=因果 関係〉で はない (=空 な る事態は脱 因果 〉。 そ うで は なくて、 「色は その ままで空 ( ;真9R
・・Ao
を指すA
≧1
である 」とい う主張 (『大 智度論』450
下参照)。 これにつ い て は 『大智度論』58
] 中に も更に詳 しく説か れてい る 。 ま た「諸法 実相を性 空と名つ く。 … …本より已 来、 常に空に して作者有るこ と無し。 是れ福徳力の故に空ならしむる に非ず。 亦た 智慧 力の故に空な ら し む る に非ず。但だ性自ずか ら爾か る が故なり。」(同698k
中)「一切の法性は自ずか ら空 な り。般若 波羅 蜜有っ て其れ を して空なら しむる にi
非ず.」(同753
中)とい う記述 を合 わ鯵 照 さ れ たい 。(
4
)8
(sv )命
題 く以下8
と表記 ) ;日常的
言語 習撰
(vyavahara
) に よる欝語表
現A
三を指 す もの で はない 。真
理表現
以外
の 仏教の諸
概念
(菩提分法、 四無量心等)と、凡 夫衆生の 日常言語 (日常的 認 識)の両
者
を意味する。 (瓢世俗諦2
)尚
、 以下 におい て は、Ao
とAl
を勝義諦
の、 a2 とB
を世俗諦
の、 それ ぞ れの同
義
語と して使
用する。 こ れ を上記X
とY
にあて は め ると、X
= (4
)=B
[
Y
= {2)
=A1
と な る。 即ち
X
〈B
>=Y
(A
、) となる。3
、B
(世俗
諦 ) =A1
(勝義諦 )は
成
立
す
るか
結論を言え ば、
後
述す
る特殊
の 例外
(3
− (3
)) を除
い て、B
=Al
は成
立 しない 。 一般論と し てのB
=Al
の不 成立を検
討 する前
に具体 的事
例 を検
討す
る。 (1
〕X
=Y
は成立する かX
(初 発心 し た修行者)がY
(悟 り)である な ら、初発 心 が大乗仏教
修
行者の前提で あるこ と は誰で も認める とこ ろ で あ り、そ
う
で あれ ば僧 侶は全 てX
である筈で あ り、 現に真 に発 心 してい る と自覚してい る僧侶は、 全員で はない として も数
多
い 筈で ある。 そ うで あれば、日
本
、 チベ ッ ト、 タ イ、 ス リラ ンカ等々 に は、 例外な しに多
くの覚 者、 仏 陀が現 存する筈だが、 現 実にはそ うで は ない 。修
行 者の立場か ら言っ て も、 「汝は悟っ てい るの だ」
と言わ れて も、 本 人には解 脱
知
見は全 くない 。仏像 を木 片で描い た り、 石 を積ん で 仏塔 をつ くっ た り、寺 院参 詣 をする
者
は多
い が、 それ だけで悟っ て しま うな ら、 同 じ く上記諸 国は仏 陀で溢 れてい る こ とになるが、 か かる
事
実はない 。 真 言 行 者の三業が 三密相 応 して 速 疾顕であれ ば 、 日本の真 言 僧全員が 仏陀になっ てい る筈であるが、 その よ
う
なことはない 。以 上 か ら、 具 体 的
事
実と して、 初 発 心等
の 原因行為
の み でX
(行者)にY
(
悟 り)
が 成立 してい ることは認め られ ない 。初発
心 して修
行して いる菩薩
の智慧
と仏 陀の智慧
との 区別これ に
対
して は既に上 田義文
が指摘
してい る よう
に (r
仏教 思想史研 究』永田文 昌堂 昭 和
33
年168
頁 )、 『大智
度論
』第
18
巻 冒頭 で検
討されて い る。 これ を図示 すれば以下 (次 頁)の 通 り。 次 頁図の (注 1) 阿耨多羅三 藐三菩 提→ 般 若 波 羅 蜜が転 じたもの (『大 智 度 論 』
620
下) 「是の般若は仏心の 中に到れば、転じて薩婆若と名つ く。」 (同643
中) 「菩薩 摩訶 薩の一切種智 を得た る、是れを仏 と為す」(『大 品般若 」394
中〉 次 頁 図の (注2
)「菩 薩は 、 大 智 慧 あ り と 雖 も、諸 煩 悩の習気 、未 だ 尽 きざるが故 に 、菩提と名づけず 」 (『大智 度論』436 中) 「仏は諸の煩悩の習を断じて起こ らず、菩 薩は 般若の 力を 以 て 、制し て起こ らざら し む。」(同630
中) 「諸 仏は煩悩の習 、一切 悉 く断ず。」 (「大品般若 』375
下)「初 発心 時便成正覚」の論理構造 と本覚思想 (島村 ) 初発 心 (菩 薩=x=俗諦〉 中間 (菩 薩一x一俗 諦 ) ●一一一一一一 → ■ 果 と して の智 慧の 内容
回
國
〔こ の段 階では未だ 仏智な し〕 ・諸法実相 を知る ・般若波羅蜜多を 目指す智慧 → 般若 波羅蜜多を 目指す 原 因で あるた め、 同じ く般 若 波 羅 蜜 と呼ば れ る ・闇夜における 〔小〕灯 ・諸の器物を 照 ら し、皆 悉 分 了 なる も一部に闇が残っ てい る ・海に 入 るも源 底 を 尽 く さず 悟りの実現 (仏 陀一Y==勝 義 諦 ) → ● ・仏 智 ・諸法実 相 を一段と明瞭に知る ・般若波 羅蜜多 =一切 種 智 一 般若波羅 蜜多が転 じ たもの (『大智 度 論』371頁 上 ・同国大 (3〕411 頁) (注 1) ・大 灯 ・倍 (ま す ま す )明 了 (「大智度論』 国大(4〕360頁 ) ・習気と合 し て お り 〔未だ習 気 は〕尽 くさ れ ず (注2) ・海に入っ て源底を尽 くす 煩 悩との 関係 ・習 気 を断じ尽 く してい る 一注は前 頁に記した一以 上 か ら 明 ら か なこ とは、
菩薩
が初発心時
はおろか、 中 間で得る諸法実
相の
智 慧
とい え ど も、 その レベ ルか ら しても
、煩悩
の習気
の有
無という観
点か ら して も、 仏
智
には及ぱない とい うこ とで ある。 そ れ故、両 者に は悟りの程 度の
格差
が存在
するの であっ て、X
=Y
は成立 しない の である 。上記の
事態
を別の 角 度 か ら論 じた もの と して、 次の 記述が見 出だ され る。 『大智
度 論』 (273
中)は 、菩 薩 と仏の格 差 を次の ように区別 する。「
菩薩
は衆生 を 度脱 する に量 あ り限 りあ り。 仏が〔
後得智
を用い て〕
度す所
のも
のは無
量 無 限 な り。 菩 薩は仏身 〔
に近付
い た者〕
と作る と雖 も、十方
世 界に遍満す
るこ と能 わず。〔
一 方、 後 得智の働
きとしての〕
仏 身は普 く 能 く無量世 界に遍満 して度すべ き所の者
に皆
仏身
を現ず
。」
また、 同国大
(4
)625
〜6
頁は 、「
菩薩
は如実
に六 波 羅蜜 を行 ず と雖
も、而
も未
だ能 く周 遍す る こ と能
わず、未
だ 一切の 門 に入る こ と能
わず 。 こ の故
に名づ けて 仏 と為さざるな り。若
し菩薩
、 已に 一切種
智の 門に入り
、諸法実相
の 中 に入 り、 一念相応
の智慧
を以て 阿耨
多
羅
三藐三菩提 を得
、 一切煩悩
の習
を断じ、 諸 法の 中に自在
力 を得れ ば 、爾 時、 名づ けて仏 と為
す」とする。 (3
)B
=A1
は成 立す
る かそ れで は、 そ もそ も
俗
諦命
題B
が、真
理命
題A1
としてその ま ま成
立す
ることは可能なの か。
凡 夫
の言語 命
題は戯論
で あ り、 妄分
別の 世界
( −B
)であ り 、 それ が その ま ま離言真如
、 識 別作用の ない 空、無 相、無 願 ( −A
,) と直 結 する こ とは論理 的 に不可能
で あろう
。 こ の こ と は『
大 智 度論』
で龍樹 が 明確
に説い てい る。「
世俗の 中に於い て第一義
を求
む。 こ の こ とは不
可得 な り。」
(210
下) 「是 の 因 縁起 作の 法 (一俗 諦。 勝義 諦は 因果の支配下にない ) を以て は、 〈正見を得 て法 に入 る〉べ か らず。 … … 阿耨
多
羅三藐
三菩提
を得
べ か らず
。」
(『大品 般若」345
中)即 ち、
B
=「
初発
心 した修
行 者」
とい う 「俗諦の 中に」 、 つ ま りX
が俗諦
に 留 まっ たま まで 、 そこ にY
=「
悟
っ た状態」
としての 勝 義 諦を認め るこ とは論
理的に不 可能なの で ある。 その両者
が連結す
る に は、 必ず
媒介 項 が必 要 なの で あっ て 、 それ は大
乗 仏教におい ては「
禅 定を 中心 と した行」
なの である。 すな わち 〔教一信 〕(一俗諦 ) と悟 り (=勝義諦) を結ぶ 媒 介項で ある「
行 」があ
っ て初めて、津
田博
士 の言わ れ る「
教
→信
→行
→証」
が、以 下の如
く「
B
(;教一 信 )→ 行→A1
(一証 )」と して成 立す るの で ある 。 こ の点につ い て も 「大智
度 論』
は次のように明確
に述べ てい る。「
禅定
は能 く実智
慧 (一悟 り)を生ず。 世 間に著
せざ
る が故
に。」
(r
大智度論』430
上)「
是 の実智
は禅定
よ り生ず
。」
(同 625 上)「
人 は業
因縁
を以て の 故に身 を受
けて世 間に縛著
し、禅定
の因縁
の 故に解 脱 を得
。」
(同 683 中)。 尚、 同753
中参照。で は何 故、禅 定 を中心と した
「
行 」が媒介
項 となっ た場 合にA
,が成
立す
る の か は今後
の検討課
題で あるが、暫
定的には、「
行
(禅定)」
は、 行 者の身
口意
の業
=B
(俗諦)であ
ると同時
に 、 禅定
(止〉状態に入れば識 別 作 用が滅 する の で、 その時 点で は空 ・無
相 ・無願 =A
, (勝義諦 )が、 完 全と は言 えなく
て も成 立 して い るか ら、 とい うこ とがで き よう
。4
.X
(
衆
生)
はB
(
世俗諦= 迷い)か
、そ
れ と もA1
(勝 義諦 = 悟 り) か以 上 の
検
討の 結 果、X
・=B
とする限 り 、X
=Y
(悟 り)は原則と して成
立 しない こ とが 明 らかになっ た。 しか しB
資料の殆
ど全て は経 典か らの引用である。 そ れ故 X
=Y
という命
題そ れ 自体
を誤 りとすること はで きない 。 とすれ ば、誤
りはX
「初発心 時便成 正覚」の論理構 造と本覚思想 (島村 ) の
内
容をB
とした ことであ
ると推測
され よう
。 そう
であれば、X
の内
容は、X
=Al
という
可能
性 が 高い 。 こ の場合
はX
(A1
)=Y
(Al
)と な り、X
=Y
は 自動的
に成
立す
る こ とな る。 そ れで は本 当にX
(; 修行 者)が その ま まAl
( = 勝義諦 、 悟 り) とい う事
態は成
り立つ のか。実
は そ れ は成 り立つ の であ り、 現に、あ
まり
広 く意 識 さ れてい ない よう
であ
るが 、X
( = 世 間 に お け る諸現象)が その ま まA1
(= 勝 義諦 、 真理、 悟 り)で あ る とす る命
題 は 、 最初 期の 般若 経 典か ら大乗 経 典 全 般 及び論 書に幅広 く記 述 され てい る。 そ れ ら を 全 て引用するこ とは到 底不 可能
で あるが、 筆者 が気付い た もの のう
ち、 一部 をA
資
料 として記 載 した 。そ こに説かれて い る こ と は
「
一切法
、 一 切世界、 五蘊
、 衆 生 (以上は全てx
) は 全て 無 為 法で あ り (A
資 料77
、79
参 照)、 一切智 性で あ り 、 一切種智性
であ り 、 涅 槃で あ り、 悟 りであ り、解
脱で あ り、法性
で あ り、 般若 波 羅 蜜多
であ り、 仏 法 であ り、 出世 間の 法で あ り、 本来常住で あっ て実 際で ある 似 上 は全てAl
)」 と い うこ とで ある。 要約 すれ ば、「
現象
界の全て の事
態 ( =x
)は 、 その ま ま悟
り (= Al 、厳密にはA
・を指示するA
,)であ
る」
という
こと以外
の何
もので もない 。この ことは
何
を意味
する のか。 〔1
} 現象
界 (=X
)は そ れが 俗 諦=B
に留 まっ ている 限 り 、 そこ で はX
は個
別 相と して顕 現 して お り、 他の もの と区別され て
成
立 してい るの で あっ て、 過去現
在 未 来の時 間の 制約 下にあ り、 因果の
法
則に支配 されてい る。 そ して俗 諦 =B
の成立乃 至発生根拠は無 明であっ て、 そ れの発生 変化の プロ セ ス は十二支縁 起
であらわ さ れて い る。 そ こ で は全て の
も
のは縁 起の関係
におい て、 他 を根
拠 として
相対
関係
として成
立 してい る。以 上 述べ た事 態 (=
X
)が その ま ま、悟
りの 目から見 たとき 、 即 ち仏 陀の 目に写 る地 平においては、 全てが個別 相を失い、 万
物
が平等
無 相 な状 態で、 時 間空間の制 約か ら解放され、因果 関
係
の支
配か らも脱 した状態に なっ てい る。 例えば、 「釈 摩訶 衍論 』によれ ば、 「不二 摩訶 衍 」は
「
無 因縁 」で ある (大正32
巻601
下)。 さ ら に「
大 智 度論 』に よれ ば、「〔
般 若波羅蜜
に於
い て は、諸法
は〕
因縁に住せず
」
(36g 上)。 また、 澄観
の 『華厳略策
』に よれば、 「果海
は離縁なる が
故
に不可説
な り」
(大 正36
巻708
上)tVT。 そ こ で は観 察主体、観察
対象
、 識別
作
用が消滅
した状態
であ
る (この事態は、中観 ・般 若経が明ら か に し た第一の真 理で ある。 なお、 詳し くは拙論の 「『八千頌般若経』における能所 ・識別作用の止 滅と 空 (性 )の意 味 」 (豊 山 教学大会紀要第31
号 所 収)を参照 さ れ た し)。 した が っ て 、不生不滅、 不 去 不 来、 我我
所
な く、 言語 が止 滅 してい る。 そ して これ こ そがA
・ 〔を指示 するA
ユ〕の世 界である。 そ れ は 〈無 明が 明に転換 する 〉 という事
態で は な く、 無 明その もの が その ままで、悟 りなの である (A
資料9
、49
、55
、90
、91
、127
、129
)。 それ故
、 例えば唯
識思想
に お ける「
転
識 得 智」の ご とき
く無明
が 明 に 転換 する 〉 とい う表現 は、 俗諦 (;行者の内面世界 )におい て成 立する もの であ り
、勝義諦
に おい て は あ くまで無 明が そのま ま明なので ある (こ の事態が、 広 く大乗教典 が 明 ら か に した第二 の真理で ある)。 また、 上 記の 説 明 は中観的説明で あるが、 同 じ事
態 (第 一と第二 の真理 )は 、唯
識説
の縁
生 依 他性 と二 分依 他性 に よっ て、更に明確に説 明さ れてい る。 こ れにつ い て は、近 く『
唯識 説にお け る真
理の 意喇
と して発表を準 備 してい る。 (注 )〔1)〜 (注)(7) (注) (注) (1>A
資料の 如 く「五 蘊は寂滅で ある 」と す る事 態 を 『大 智 度論 』 第 43 巻 (大正 372 上中)は次の ように説明する 。 「五蘊の 自相が離な る こと (=自相が ない こ と) を知 れば即ち是れ寂滅に して涅槃 の如 し」と言 える。 し か し、こ の ように く自相が ない こ と〉を 知っ て 〈五蘊に 〔執〕 着 する こ と〉を離れて も、〈五蘊の 自相が 離 な ることを意識〉すれ ば 、 〈無相に対 して 〔執〕着〉(A
、→ a2)して しまうこ とになる 。 した がっ て これでは悟 りとは言 えない 。 悟 りに おい て は く無相とい う相 も含め た一切相〉を離れ 、〈空の相 (=a2 )、 無 相の相 (= a2 ) 、 無作の 相 ( ;a ,)もない事 態〉、即ち そこで は く識 別作 用がな く、 一切法を 〔感〕受せ ず 、 一 切法に 〔執〕着 しない 〉 とい う事態 ←A 。、第一真 理)が実現 して初め て悟 りとい うの であっ て 、 こ れこ そ が「五 蘊 ( =X )は寂滅 (=Y
(A
,))である 」の意味なので あ る。 (2
−(1X2
×3
)参 照) (2)仏陀の 眼 に 写る風 光を更に分析すれば 、次の二つ となるだろ う。 そこ で は能取 、所取 、 認 識作用の三者が な く、全て ( =X )が「一」嘸 相 ) に な っ て い る状態 。その イメ ージ と して は 、禅 定 (止)が完成 し、こ れ ら の 三 者が 「一」となり (第一真理)、 その「 一 」は 、 『起 信論』で記 さ れる「 一心 」の独存の状 態である。 す なわち 『起 信論』に即 して言えば、 一心に無明が働 き掛けず従っ て妄 心 (= 識 別 作用 )が な く 、 妄境界 ( = 認識対 象) 、転 識 (=認識主体 )以 上の 三 者が
X
一が未成立で意識に上 っ て来ない 、「 一心独存 」の状 態 (= 根本智)である 。 無明を滅 した仏の智慧は 上記 「一心独存 」「心真如」 (= 根 本智 )で ある が 、仏 に とっ て は因位 時の誓願に よ る衆生利益 を実践するた めに 、凡夫の妄心 に よっ て成立 した個別現象界(X)が 、仏智に顕 照さ れて く る (=仏の 後得智 )。 しか しこの認識 は無 明 ・妄心に基づ い た もの では ない の で 、 執着が全 くなく、根 本智 その もの で ある 。 こ の後得智 と根 本智が 合 し た 仏の智 慧 を一切種智と名づける 。 この 一切種智に よ「初発 心時便 成正覚」の論理構造 と本覚思想 (島村 ) っ て 、
X
が顕照さ れていて も 、そ れは 、その ままA
、事態と してある (『大乗起信論 』 平川 彰 大蔵 出版 仏 典講座22333
〜6
頁)。 か かる事態を記述する 例 を経論より 下記に引用する。1
「菩薩摩訶薩は 、 二諦の中に住 して衆生の 為に世諦と第 一 義諦 とを説 法 す 。」 (『大 品般若 』405
上)2
「菩 薩は二 諦の中に住して衆生の為に法を説 く も、但だ空のみを説かず。但 だ有 のみを説かず 。 愛著の衆生の為の故に空と説 き 、取相 著空の衆生の 為の故に有と 説い て 、有無の中の 二処に染せず。 是 くの如 き方便力を 以て衆生の為に説法 す。」 (『大智 度論 』703
中)3
「菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、衆生 を見るも衆生無し。但 だし衆生相の 中に住 し、 乃至知者無く賢者無くも知見相の 中 に住し、衆生 をして顛倒 を遠 離せ しむ。 遠 離 し巳 りて… …是の 中に住する も、妄相所 謂衆生相乃至知 者見者相 有る こと無し。 ……是の方便力を 以て の故に菩薩摩訶薩 は、般若波羅蜜を 行 ず る 時、自ら著 する と ころ無く、亦た教 えて 一切衆生 をして著 する とこ ろ無 きこ と を得せ しむ 。 〔これ ら 衆生済度の活動は〕世諦の故であっ て第一義に非ず。」 (『大品 般若」414
中)4
「仏 は大恩力有 りて諸法平等 (=無相 、認識対象の 止滅)の中に於い て同ぜずし て而 も 〔俗諦世界に現わ れて 〕諸法を分別す 。」(同 415 上)5
「諸仏大菩薩は第一義を得た り。 故に 、 衆生 を度せんが為に第 一義を得せ しむ 。 諸法を分別すと雖 も、是れ 虚妄に非ざるな り。」 (『大 智度論」727
上)6
「若し仏 、諸 法の 相 を分別せ ず 、〔俗諦 ・勝義諦の〕二諦を説か ざれ ば 、云何が 善 く畜生 〔界 〕等を説か んや。 〔仏は 、勝 義諦 = 真 如 ・空である とこ ろ の〕所謂 平 等に於い て動ぜず し て (=そこに と どまっ た ままで )、而 も 〔俗諦たる〕 諸法を 分別 す。」 (同 728 上〉 「仏 は、寂滅不二 の相を知る と雖 も、亦 た能く寂滅の 相の中 に於いて ( = 悟 っ た ま まで)、 〔俗諦の〕諸法 を分 別して 、而 も戯論に堕せ ず。」同 727 下。 「菩薩は第一義の中に於い て 、動ぜずして衆生 を利益す。 方便 力の故に種々 の 因 縁 を 以て衆生の為に説法する な り。」(同728
中) 7 「若し説 法の菩薩 、実 法明 (=諸法実 相、 空、悟 り)に入 らば、 功徳 力を 以て の 故に 、 〔五欲 (=認識対 象)を〕受 く。 而 も染する とこ ろ無し。 亦た 〔次の〕三事 を以て の故に、是の五欲 を受く。 〔即 ち〕 方便力 を以て の故に、衆 生 をして善 根を種 えし めん と欲する が故に 、 衆生 と其の 事を同ぜん と欲 するが故に 、〔五 欲 を〕受く。大 師 ( = 仏〉、方便 法 を以て衆生 を度 し 、 福徳を得せ しめ ん が為の故 に 、是の諸欲を受 く。」 (『大 品般 若』
416
下)8
「菩薩は、 一切法は畢竟 空に して性は無所有なりと知っ て 、 而 も能く還っ て善法 を起こし、六波羅蜜 を行ずる も空に随わず… …涅槃に入らず。 是れ を方便と為す。(注) (注) (注 ) …・・仏は世俗の法に随 っ て衆生 を引 導す。」 (『大智 度論」 754 下) ※菩薩は畢竟 空 を悟っ て はい るものの 煩 悩の習気 を断滅 してお らず 、空= 涅槃に 入 らず 、 衆生利 益の 為に俗諦 に と どまる 。 仏は涅 槃に入っ て い る もの の 、後 得 智を得て俗諦に戻っ て衆生 を利益すとの意味で ある 。 (3に れ に 対 し
4
−〔2
)の記述 は、 般若経 的に理解さ れ たA
資料の意 味を記述 し た も の である。 即 ちそこ で は、 注 に 述べ た 禅定 (止)の イメ ージ とし ての 「一 心独存 」 「心 真如」を記 述するの ではな く、 イメ ージ と して は 、 禅定 (観)におい て成立 し て い る く諸法の 真の在 り方 (空なる在 り方 =一切法が 個 別 相 な く、平等になっ て お り、無自性であ り 、したがっ て不 生不 滅 、不 去不 来 、等々)〉 を記述し た もの で ある。 こ の 両者の相異は、 そこ に理解さ れてい る 〈真如な る事態〉 の相 異 を 示 し てい る の で は な く、 両 者とも同 一なる 〈真 如なる事態 〉を述べ た ものなの だが 、 そ れ を説 明する仕方の相 異 、換 言 すれ ば 〈同一なる真如 〉を 理解 するた めに使用 され る道具 概 念の 相 異か ら生 じた もの と言 えよ う。 つ ま り 『起信 論』に おい て は、 〈無明と 一心〉の 二つ を根本要素と して (同前205 頁) 、 この二つ に よっ て 、 全て の現 象界 (X
}の成立 を説明する の に対し、 「般若経』で は 〈一心 〉を立てずに 、 凡夫に とっ て現に成立 し てい る 〈能取 、所取 及び識別作 用の 三者 (こ れ ら は無 明 を最終 的根拠と して い るので ある が… …)か ら 出 発 して 、こ の 三 者と して 成立 し て い る現象界(X
)が個 別相を 滅 し た事態 、 即ち、 三者と して成 立 してい る現象界図 の 、「その ま まの真 と しての在 り方 」〉その もの を 、〈空 、無 相 、平等 … …〉 と し て 、即 ち真如と して理解 してい る もの である 。 『起 信論』は仏の 後得智の この働 きを不 思議業相と呼ぶ 。 (41以上の 事態 を 『起信論』は別の角度か ら、 始覚の 四相と して次の ように説 明す る (岩波30
〜32
頁 〉。 その 要旨は次の 通 り。 「修行者は 、行の進展に応 じて 、 不覚 (悪念 を滅 す)、相 似覚 (妄 念の種々なる異 相を覚す。 即ち 人 我執が ない)、随分覚 (妄念の住 相 、即 ち法我 見を覚す。即 ち法 住 相が ない 〉と進み 、その次に 、完 全 な覚 りに到る一刹 那前の 〔智〕慧 (一念 相 応の慧)に よっ て 、無明の初 起 (=生)を覚る 。 この こ とに よっ て 、最 後の段 階で 不覚 (悪 念の 滅)、 相似覚 (妄念の異 相)、随分覚 (妄念の 住相)、及び無明の 初 起 (生)の覚りの全てが 、個 別相(X
)と して認識され る 。 第四 の 〈無明の初起を覚 っ た〉状態は 、 次の刹那には完全 な覚り (究竟覚)になるの で あ る が 、究竟覚に おい て は 、それ 以前で は各々 個別な始覚と認識さ れ てい た 四つ の始覚 (= X )が 、 全て平等 となっ て 、全てが究竟覚と なっ て し まう (X
=A
,)のである」(平 川 同前110
〜115
頁参照) 。 (5〕『般若 経』的理解 と 『起 信論』 的理 解の相違 を端 的に示すのが、明と無 明に関 する記 述である 。 『般若経 」的 理解では 、上 述 注 (3}の如 く、無明と 一 心 を前提に し「初 発心時便成正覚」の論 理構 造と本覚 思想 (島 村) (注 〉 (注) ない で 、凡夫に とっ て成立 してい る能所、 識別作用か ら出発する の だ が、 実 は 、 無 明 も明 も言語表現で あるの だか ら、既に概念化 (明 ==a2 、 無明 =
B
)してい る の で あっ て 、 そ れ ら は能取 、所 取 となっ て お り、そ して無明か ら識別作用 等が 十二縁 起 に よ り成 り立っ てい る の である 。 し た がっ てA
資料9
に見 る如 く、覚 りに お い て は 、無 明は その ま ま 明 (= 浄)として理解され 、一方 、『起信論』的 理解で は、 無明と一心は 、 言語表 現 (=概 念 的理解)と して は 相 互 縁起の関係にある (「若 し 覚性 を離る る ときは則 ち不覚 無し。 … …若し不覚の 心 を離る る ときは則 ち真覚の 自相の説 くべ き もの無け れ ば なり」岩 波 34 〜 36 頁 )の では あ る が 、全体 的理 解 に おい ては飽 く迄 、 無明と一心 を二つ の基 本要 素と し て前提 し、 その両者の 関わ りか ら、識 別作用 (業識 )、能 取 (転識 〉、 所取 (現識)の 三者が凡 夫におい て は 成 り立つ 、と理解 する の で ある 。 {6) 『大智度論 』にお ける具体的 記 述 例は次の通 り。 「凡 夫の 人の知る所の色(B
)を名づ けて色 となす。 こ の色は如 ( = 真 如=A
,)の 中 に 入 れば 、更 に 不生不滅 (= 空=Al
)な り 。」 (『大智度論 』382
上〉 「諸の煩 悩 (B )は 、実相 (A
,)に与 (く み)すれ ば、常に性 空 (A
,)に して 、心 相 異なる こ と な し (=心相平等=空 AI )。 凡夫 地の 中に住 すれ ば 是 れ垢(B)、是れ浄 (a2 )なり。」(同385
中) 「世 間 出 世 間有漏 無漏の色 〔B)も、 〈縛 な く〉 ( 軍A1
) 、 〈脱 (a、)な し〉( =A
,)。 受想 行 識(B〕も亦 〈縛 な く〉 (=Al
) 、〈脱 (a2 )な し 〉(=A
、)。何 と な れ ば 、所 有無 き (= 空=A
,)が故に 。 離 (=空 ;A1
)の故に。 寂滅 ( = 空≡A
,)の故に 。 不生 ( = 空=A
、)の故に。」 (同(3}68
頁 『大 品般 若』249
中無縛三脱 品第 17 ) (7)さらに 、 「本来、 無為であ り悟 りその もの と して の仏 陀 す な わち法身には、……因果の制約 下 にある もの が有る筈が ない 。」 (『中観と唯識』長尾 雅人 ・岩波
1978
年3
月572
頁 ) 「無去三 昧とは 、是の三昧を得れ ば 、 一切 の諸 法 を観 ずる に 、因は変ぜず して果と 為る こと、乳の変ぜず して酪 とな る が如 し。」(『大智度 論」401
上) 「若し頗 (ぱ)字 を聞 けば 、即 ち一切 法は因果 空なる こと を知る 。」(同409
上) 「諸法の 因果は皆是れ虚誑に して 、無 明に因る が故に、 衆生の心 を誑 (まど)わす こ とあ り。」 (同426
下) 「清浄 を得れ ば (= 悟れ ば)因縁 な く 、 〔そこ で は〕染垢穢も亦 因縁 なし。」(同429
中) 「諸法実 相を ば 、 亦 た、 〔業果 を〕受け ること無 し と名づ け、 ま た如と も名つ く」 (同454
中) 「如 ・法 性 ・実際は 、因縁よ り生 ぜず 。 常に有な る が故に、名づ けて果と為 す 。」(同
665
中〉 「因縁 起作の法は妄 想より生 じて実に非ず」 (『大 品般若』345
中) 「若し法性 、先無 後有に し て 因縁 よ り生ぜ りとせ ば 、 〔是れ 〕即 ち凡夫の法 (= 俗 諦法 )と異な る無し。」 (『大智度論 』692
中) 「第一義の 中には因縁果 報を説 くべ か らず。」(『大品般若』397
中) 「空 も亦た因縁よ り生ぜ ず。無 為法 も亦是の 如し」 (『大智度論 』728
中) 「自相空 な る (=自性 を欠い た) 法 中に は、 衆生無 く 、業 因縁 無 く 、果報 無 し。」 (『大 品般若』411 下) (3
) 従っ て、 勝 義諦 において はX
=A1
が常に成 立 して い るの で あ る。 これ が 現象
界の その ま ま (=真 如 )の 在 り方なの で ある。 一 方、 凡夫の 意識 に映 じ るX
=B
の世 界は 、 彼 が、 〈無相 平 等な るX
=A1
世界
〉 を対象
に して 、 そ こに無明虚妄 分 別が作 用 して、〈彼に対 して世
界
(x)が個 別相
(B)と して映じてい る事
態〉 となっ た もの なの で ある。 即ち、 仏 眼 にはX
・=A
,は常
に成立 してい るが、
肉
眼に は不
成立である に の両者を同一事態とみ る天台本覚思想とは異なる)。 〔4
} 上 記 〔1
)〜 〔3
}か ら 、「一 切衆生 即 ち 全て の修 行 者 (=X
) は 、真 実の 在り方 (=真如=
A1
)か ら見 れば、 その ま ま悟っ た状 態にあ る (=Y
)」、つ ま り 「X
=Y
」は常に成 立 してい ると
言
える の である。こ のこ と を根拠 付 ける
命
題 がB
資料
の (4
−2
)に対 応 する漢訳の 「六十華厳』
の「
初 発 心功 徳 品」
に見 出だせ る (大正9
巻452
上)。す
なわち、 此の初発
心の菩薩
は即 ち是
れ仏 なるが故
に、悉
く三世の諸の如
来と等
しく 亦三 世の仏の境 界に等 しく、悉
く三世の仏の正法と等 しく、 如 来の 一 身と 無量の身と三世の諸 仏の平 等なる智 慧 とを得た り。 所化の衆生 も皆悉 く同等
な り」(此初発心 菩薩 即是仏故。 悉 与三世諸 如来等。 亦与三世仏境界等。 悉与三 世 仏 正法等。 得如来 一身無量身三世 諸仏平等智慧 。 所 化衆生皆悉 同。) つ ま り、「
初 発心の 菩 薩は その ま ま 仏 なの で あるの だ か ら、悉
く三 世如来 と等
しく
、 三世
の諸
仏等
同の智慧
を得
た」
という
、「
初発
心時便成
正覚」
の 記述 に続
い て、「
こ の ような事
態は所 化の 衆生の場 合 も悉
く同じく等
しい状
態なの で ある」と述べ られてい る の である。 『六十華厳 』に対応する梵
本 及 びチベ ッ ト訳 は存在
しない の で、 原テキス トの記 述 は確
認でき
ない が、 原 テ キス トの作者
又はその漢訳者
がこれ を追 加 する必 要を認めて い た こ と は 確 かである。「初発 心時便成正覚」の論理構造 と本覚思想 (島村 )
そ れで はこ れ が追
加
されてい る意 味は何
か。 まず
言 えるこ と は、 所化
の衆
生 は菩
薩で は ない の だか ら、必 ず し も初 発 心 して い る と は限ら ない ということで ある。 それ故、
経
典 の 記 述に従う
ならば、初発
心 して い ない 衆生であっ て も諸 仏と
等
しい こ とにな る。 だ か ら初発心
は必 要条件
で はな く、A
資料
全て に見
られる、 世 間における諸現
象 ( =X
)が その ま まA
,で あるとい
う
こ とが説
か れてい ることになる。 更に、 同様
の記 述 は『
八十 華厳 』の「
阿僧祗
品」
にも見 出だせ る。即
ち前 述 に述べ た通
り
、 世界
にお ける諸現象
( =X
)は、 その ま ま仏陀の 目 に写る と
Al
世 界なの であ るが 、 こ の事 態は、A
資 料14
及び42
の如
く、有
仏無 仏にかか わ らず 自ず と成 立 してい るの で ある。 しか しな が ら、 この 事 態
が、 〈仏教 教理 の 中に位置 付 けて理解さ れる場合は 、 その 仏 教的真理 世界〉
は、 仏陀が 阿耨
多
羅三藐三菩提 を完 成 した時には じめて成
立す
るの である(注 ) (1)。 この こ とは 仏教で ある限 りは
当然
の前提
に しな けれ ば な らない 。 つま り、 仏 陀が
悟
っ た時に、 同時に仏教 教理の 中における理解
と して の 、〈
X
=A1
= = 阿 耨多
羅三藐三菩提 と して理解
さ れ る事
態〉が 成立す
る の で ある。 これを述べ たも
の が、 次の驚
くべ き主張
であ
る (『八十華 厳』大正le
巻240
下)。 「〔
仏 陀が 正覚を実現 した 時に〕
十方の 所 有る諸の衆
生は 、一切 同等に正覚
を成 じ、 中に於い て 一仏は普 く能
く不可 言 説の一 切の身
(−A1
) を現ず 。」 また、 華厳二 祖 智儼は 『華厳
孔 目章』
に おい て次の よう
に述べ て い る (大 正 45 巻 586 下)。「
一乗
の 法 義、成
仏せ ん には 一切
衆生 と共に同 時同時同 時 同時同時 同時 同時
同時 同時 同時に成 仏し、後後後
後 後 後後後 後後に皆 新新に惑
を断ず
。」
次
に、華
厳三祖 法蔵は『
華厳五教章
』に おい て次の よう
に述 べ てい る (大 正45
巻 496 上 )。「
若
し円教に依
らば、 … …但だ法 界 、 一 得一切得
の 如 くなるが故に、 是の 煩 悩 も亦た一断一切 断な り。 故に普
賢品に は 一障一切 障を明か し 、 小 相 品には一断一切断
と明
かす
はこの義
なり
。」
さ ら に「
釈 摩訶衍論』
は次
の よう
に述べ てい る (大正32
巻618
上)。 「唯一行 者 が、無念 (悟 り) を得た時、 一切衆生 も悉
く無念
を得
。」
(注)(1)「〔仏が〕若 し智慧の灯を 以て我 等を照らさずんば、則 ち 見 る所無し」 (『大智 度 論 』
357
下)。 さ らにはA
資料3
〔}、56
、59
、60
の 『起信論』の叙述 にある 「衆生 と 仏 とは同体で ある」を参照 され たし。5
. 「初 発
心、 三密加持
、小石
で仏
塔
を
つ くる
こと
」等
の限定
語 を
つけ た 理
由
A
資料に見る ように、諸現象
(X
)が その ま まA
,であ
る こ と は、 特 別の条件の ない ま まに当
然の こ と として成
立 してい る の だか ら (と言っ ても我々 は、その事態 はあ くまで 「勝義諦 か ら見るな ら ば」とい う前提の もとに ある こ と、即 ち仏の 目 に映 じて い る事 態であ るこ と を 忘 れては な ら ない の だが ……)、 上記の 「初発 心… …」等
を悟
り の 原 因行為
とする必 要は全 くない (何 故な ら、4
− 〔2
}で述べ た ように仏 陀の 目に写る 真理 世界に おい ては因果 関係は成立 しないか らである)。 にもか か わ らず、これ らの 一見
、 原因行為
とみえ
るも
の を付加
してい る理由は 何 か。 これ迄検
討 して きた よう に、B
資料
に述べ られた事
態 がA
資
料で述べ ら れ た事 態 と同 一事
態 と考
える な ら ば、 これ らのB
資料で言 及 された原 因行為は不要
なの だが、 そ れ を敢
えて付加
し てい る理由
は次の ように考 えられ るで あろう
。「初 発心」な る限
定
語修 行 者が大 乗 仏 教徒 と して 認め られ る に は 、 まず例 外 な く初 発 心 を 必要
条件
とする はずである。 そ れ故、A
資料 で 述べ られてい るX
=y
(A
1) な る事
態 を、 「初 発 心 した修 行 者に ・ して説法
してい る の で 、 この 限定
語がつ い たの だ と考 えられ る。「三密加 持」な る限 定語
即 身 成 仏義 は、
真
言密
教の修行者
( = 真言密教 僧 )に対 し て説い た もの であるこ と は
論
を待
た ない 。 そ して真 言密
教 僧は 全員三密 加 持す る者で あるか ら、
と同じ理
由
で、 こ の限 定 語が付 加 され た もの とする解 釈 が 可 能であ
る。 ただし厳密
に言え
ば、「
昼夜
に精
進 し漸 次に修
練 して」禅 定が実現するよ
う
に な れば、 三密加持
とい う禅 定状態
は、A
。が実現 してい る状 態で あっ て、 そ れ は その ま ま
A
,事
態で ある とい うこ と を述べ た もの とすべ きで あ ろ う。※ 』 これに関連 して筆者は、かの 『秘密曼 荼羅十住心論』に お ける第十住心 は、単に行
「初 発心時便成正覚」の論理構造 と本覚思想 (島槻