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智山學報 第53 - 025島村 大心「「初発心時便成正覚」の論理構造と本覚思想 : 無明はそのままで直ちに明である(無明即明)(」

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全文

(1)

初 発

時便 成

覚」

論 理 構 造

  

無 明

はそ の

ま ま

直 ち

る (無 明即 明)一

島 

 

0

 

本稿は、 従 来、 「発 心畢 竟二 無別

「初 発心 時便 成正覚 」 等、 〈初 発心 と悟 りの 同時 性 と して驚 きをもっ て注 目され て きた論理 〉を検 討 し、 結 論 と して こ れ は 〈

初発心」

悟 り」

との

因果 関

〉 を示 した

の で は な

界その もの が その ま ま悟 りで ある」 とする、 大乗 仏教 経 典にお け る

多 く

現 (

A

資料

38

頁)の 一であるこ とを明らかにする もの である。 ※ 『大智 度論』 は大正大蔵経 第

25

巻 か ら、 『大品 般若経

1

は 同 じ く第

8

巻か ら、そ れ ぞ れ 引 用 した 。

  

1

問 題

 

B

資料 (

47

頁)にあ げ られた諸 命 題は、 い ず れ も仏教 (行 )者 を当惑 させ る。 何 故な ら、 そこ に述べ られ てい る事 態は、 常識 的には 理解の難 しい

事柄

である か ら である。 具 体 的には、 (

1

) 初 発心、 小 石 を

ん で 仏

をつ くるこ と、 遊び と して木 片で仏 像を描 くこ

 

と、

特定行為

る と、 その

には

りが

現 してい る とい う事 態はそ も

 

そ もあ り得る のか。

 

あ り得

る とし た

場 合

悟 り

原因行為

として の こ れ らの

特定行為

は、

 

〈 これ らの

宗教

行為

の 、 例

食事

る こ と

行為

区別

され  た行 為 なのか。 (

3

) 区別され た行

であるとすれ ば、 区別の基

るの か。 (

4

 

それ らの原 因行 為 と、

 

菩 提 分

、 六波 羅

蜜等

修行

の 道との 区 別は あ  る のか、 ない のか。 (

5

) 悟 りの 実現に関 して(

4

)の両

に 区別が ない と

れ ば、

各種

修行

は不 要に

 

なっ て しまうの で はない か

々 、 い くつ

問が生 じて

る。

(2)

「初 発心 時便成正覚」の論理構 造と本覚思想 (島 村 ) とこ ろ で

B

資料の

各種命

題は、 基

的に は同 一

態を

して い る と

え られ る の で 、 以 下 の検 討に当たっ て は 、代 表 例と して 「初発心時便 成正

覚」

を取 り 上

て、 これ を

  

初 発心 した修行 者 (=

X

注 )1 

 

 

  

っ た

状態

にある (−

Y

)に分

し 、

X

Y

る (

X

Y

構 造と して

討 する。 (注) (注) (1>初発 心を十住の初 住とするこ とは 、

B

資料の

2

3

8

より見て 、必ずしも必要 な い れ る 。 又 、 十住の 初住と して も 、

3

一  の 『大智度 論亅の 検討に より、 本論の趣 旨と事態は変わ ら ない と言 える。   「有る 人の言 く、初 発 意とは 、無生法忍を得 ( =退 ) 、阿耨 三 藐三 菩提の相に随っ て発心する 、是 を 初 発 意 と名づ け、真の発心 と名づ ける 。 了了 に 諸法 実相 を知 り、及び心 相を知 り、諸の煩悩を破 するの故に、阿耨 多羅三 藐三 菩提 心に随 うが故に 、顛倒せざる が故に 、此の 心 を名づ けて初発 心と為す。」 (『大智 度論 』国大(3)

32

頁 )とある が 、これ とて阿耨多羅三藐三菩提 を未得で あ る か ら 、仏 陀と なっ てい ない の で、

3

−〔

2

}の 「大智 度 論』 第

18

巻 冒頭の記 述 か らみ て も、本論の趣 旨は成立 して い る と思量する 。

  

2

して の

前提

 

検討

容易

にするた めに、

題 一 般 を仏

教真

理 の

点か ら以下の通 り四

る。 (

1

A

。 (

PM

題 (以 下

A

。と表 記) :究極の真理

 

「… … … …

す なわち言語 表現で

ない

理その の。 〔 = 勝義諦 1)

    

如、

性、 法 相、 法 位、

際の 義 (一言語表 現され た意味 内容 )、 あるこ

    

とな し

(『大品般若 』

241

下)

     「

聖 は黙 然た り

(『大智度論亅

402

中) (

2

A1

pm

題 (以 下

A1

と表記 ) :

A

・を指 し示 す言 語 表 現

 

其の一

 

 

A

,は

賢聖

理表 現で ある。 例 :

Om

 

Ah

 

Ham

等のマ ン トラ、

各尊

  

象微

種 字

、 「般

波 羅 蜜」、

阿耨

多羅

菩提 」

離 言

真如」

  

涅槃」

、 厂指 月

の月 (『大智 度論』

125

中 ・

726

、 経論

  

にお け る

理表現で、 本 来、 そこ には概念 的内容が存在 しない 。

 

 

その

表現

使

用 者は、 本 来 言 語

現で

ない もの を表 現 する とい

  

付帯す

矛盾

鋭 く自覚

し、 強い危 機 意識を

してい る。 そ れ故、

(3)

 

Al

におい て は、 〈

A1

が概 念 化し、意 識の認識 対象 と して実体 化す るこ と〉

 

対す

る強い

警戒

が表 明 され に その 言

は否

を伴

ことが

い 。

  

「一切の 思’△

1

一 “ る、是れ を正思

r

大 智 度論」 205

  

中)

一切の

諸々 の 語の 実

を知る、 是 れ を 正語と為 す。」(

r

大     智度論 」205 中)

 

その言 語

表現

を用い る

聖の

地 (悟境 ) を意 味する場 合 もある。 ( = 義   諦

2

 

しか し、 賢 聖に よ る真 理 表 現であっ て も、

言語

である限

、 概

念化

 

険を常に伴っ てい るの で

A

題の 立

か ら は

否定

的に言 及 され る。

   

「仏陀はい か なる教 えを も、 い か な る処で も、 誰に対 して も説かれた こ と

   

はない。 (『中論亅第

25

24

   

諸 仏は 、

法愛

じ、

経書

を立て

、 また言 語 を荘 厳せ

生 を

   

拯 済せ んが

に、 度すべ き者に随っ て説 き給へ り」(

r

大智 度論 』436 上 中)。 {

3

a2

pm

題 (以下 a ・と表 記) :

A

。を指し示 す 言語表 現

 

其の 二

 

 

a ・は ゜ 以 前 の 生 に よる 理 表 現である。 例は上 記【

2

} 一

 

と全 く同 じ。

 

た だ し、 同 じ語、 例 えば 〈

波 羅 蜜」

「涅 槃

等〉を発 して も、 そこ

  

に込め られ る

味の理

程度に おい て、

A1

との 間 に は巨

隔が 生 じて     い 。 (注 ) “L〔2)

 

 

その

使用 者は、

くの場合、 基 本 的に真理の言 語 表現 とい

行 為

  

付帯す

る矛

無 自覚

で あ り、

機 意識 を有して い ない 。 そ れ故、

   

a2 におい

AL

が 概 念

、 意

認識対 象

として、

なわ ち

相」

  

と して実 体 化 が進 ん で い 。 その 場合、 そ れ (例 えば

A

・の 「仏」が 概念化し

  

た もの) に対 する強い

執着

じる

   

一切の は虚

に して顛 倒 して

を取 り、 分 別を生 じ る。」(

r

大智 度

   

205

中)「一切の 思惟は皆、是れ 邪 思

な り。 … …涅

を思

し、 仏 を

   

思惟 する もの 皆 亦た是 くの し。

(「大智度謝

205

中)

  

その 際、 その

実体化

認識論

の レベ ル に

まっ て い る

場合

(例 :

r

大般 涅槃

  

経』に おける 「仏性」〉 と、 それ よ

さらに

実体化

程度

み、 その言 語

    現さ れ た ものが実 体物、 即 ち存 在 (もの) と して論 者 が 認識 して い る場合

  

(例 :実体物として把握さ れ た 「

tAtr

」)とが ある。

   

その言 語 表 現を用い る

生 の境 地 (迷境)を意 味 する場 合 もある。 ( 一 世俗

(4)

「初 発心 時 便成正覚」の論理 構造と本覚 思想 (島村 )  

tw

 

1

 

聖 以

生の 言 語

である か ら、

然の こ と と して

A

・の立場か ら  は否 定 される。 (注 〉 (注)

i

1

)『大 智度論 」にお ける空の 二義 …… 第一の空 は

Ao

を指 す

Al

であ り、第二 の空 は 、こ こで述べ い る認識対象となっ た 〈空”

・ =a2 >を破 す認 識対象となっ た空を空 ずる もの (= 「空」) 。 (『大智度論』

327

上) (2)

A1

と a2 の区別 を示す用例 。 「色を窒ずる (a2 )を 以て の故に、 色は空なる (

A

エ〉にあらず、 色は是れ 空 (

AD

、 空は翩 ち是れ色な り。」(『大品 般若譲

240

中〉 厂十八空 (a2 )の故に色 をし て空 〈

A

ユ)な ら しむる にあらず 。 何 となれ ば 、是の 空相 (a2 )を 以て 、強い て (・「空」 働 き よ っ て)空 (

A

の ならしめざる な り。色は是 れ 即 ち 空 (A1 )なり。 是の 色は本 よ り已来 、常に自ら 空 (AL >な り。 色相は空なるが故に 、空は即 ち是れ色 な 8)。」 (

r

大智度謝

378

上) ※ 空 、十 八空等の原 理 (概 念 =a2 を 色用 し そ れ を 原と し 、 色 を空 と理解 する のは誤 り。 何故な ら、空 (

Al

)は概 念がない 事 態な の であっ て 、 〈何か を因とするが故に色が空と なる 〉とい う俗 諦 (因果 関係〉で はない な る事態は脱 因果 〉。 そ うで は なくて、 「色は その ままで空 ( ;

9R

・・

Ao

A

1

である とい 張 (大 智度論

450

下参照 これにつ い て は 『大智度論』

58

] 中に も更に詳 しく説か れてい る 。 ま た「諸法 実相を性 空と名つ く。 … …本より已 来、 常に空に して作者有るこ と無し。 是れ福徳力の故に空ならしむる に非ず。 亦た 智慧 力の故に空な ら し む る に非ず。但だ性自ずか ら爾か る が故なり。」(同

698k

中)「一切の法性は自ずか ら空 な り。般若 波羅 蜜有っ て其れ を して空なら しむる に

i

非ず.」(同

753

中)とい う記述 を合 わ鯵 照 さ れ たい 。

4

8

(sv )

題 く以下

8

と表記 ) ;日

常的

言語 習

vyavahara

) に よる欝語

  

A

三を指 す もの で はない 。

表現

の 仏教の

(菩提分法、 四無量心等)

 

と、凡 夫衆生の 日常言語 (日常的 認 識)の両

を意味する。 (瓢世俗諦

2

   尚

、 以下 におい て は、

Ao

Al

勝義諦

の、 a2 と

B

を世

俗諦

の、 それ ぞ れの

 

語と して

使

用する。   こ れ を上記

X

Y

にあて は め ると、    

X

= (

4

)=

B

   

    Y

= {

2)

A1

  

と な る。 即ち

X

B

>=

Y

A

、) となる。

(5)

3

B

(世

諦 ) =

A1

(勝義諦 )

るか

 

結論を言え ば、

特殊

の 例

3

− (

3

)) を

い て、

B

Al

立 しな 。 一般論と し ての

B

Al

不 成立を

討 する

に具体 的

例 を

る。 (

1

X

Y

は成立する か  

X

(初 発心 し た修行者)が

Y

(悟 り)である な ら、

   

初発 心 が大乗仏教

行者の前提で あるこ と は誰で も認める とこ ろ で あ り、

  

で あれ ば僧 侶は全 て

X

である筈で あ り、 現に真 に発 心 してい る と自覚

  

してい る僧侶は、 全員で はない として も数

い 筈で ある。 そ うで あれば、

  

、 チベ ッ ト、 タ イ、 ス リラ ンカ等々 に は、 例外な しに

くの覚 者、 仏    陀が現 存する筈だが、 現 実にはそ うで は ない 。

   

行 者の立場か ら言っ て も、 「汝は悟っ てい るの だ

と言わ れて も、 本 人

  

には解 脱

見は全 くない

   

仏像 を木 片で描い た り、 石 を積ん で 仏塔 をつ っ た り、寺 院参 詣 をする

   者

れ だけで悟っ て しま うな ら、 同 じ く上記諸 国は仏 陀で溢 れ

  

てい る こ とになるが、 か かる

実はない 。     真 言 行 者の三業が 三密相 応 して 速 疾顕であれ ば 、 日本の真 言 僧全員が 仏

  

陀になっ てい る筈であるが、 その よ

なことはない 。

   

以 上 か ら、 具 体 的

実と して、 初 発 心

の 原

因行為

の み で

X

(行者)に

Y

   (

悟 り

が 成立 してい ることは認め られ ない 。

   初発

心 して

行して いる菩

智慧

と仏 陀の

智慧

との 区別

   

これ に

して は既に上 田

義文

指摘

してい る よ

に (

r

仏教 思想史研 究』永

  

田文 昌堂 昭 和

33

168

頁 )、 『

大智

18

巻 冒頭 で

討されて い る。 こ

  

れ を図示 すれば以下 (次 頁)の 通 り。 次 頁図の (注 1) 阿耨多羅三 藐三菩 提→ 般 若 波 羅 蜜が転 じたもの (『大 智 度 論 』  

620

下) 「是の般若は仏心の れば、転じて薩婆若と名つ く。」 (同

643

中) 「菩薩 摩訶 薩の一切種智 を得た る、是れを仏 と為す」(『大 品般若 」

394

中〉 次 頁 図の (注

2

)「菩 薩は 、 大 智 慧 あ り と 雖 も、諸 煩 悩の習気 、未 だ 尽 きざるが故  に 、菩提とけず 」 (『大智 度論436 中) 「仏は諸の煩悩の習を断じて起こ らず、菩 薩は 般若の 力を 以 て 、制し て起こ らざら  し む。」(同

630

中) 「諸 仏は煩悩の習 、一切 悉 く断ず。」 (「大品般若 』

375

下)

(6)

「初 発心 時便成正覚」の論理造 と本覚思想 (島村 ) 初発 心 (菩 薩=x=俗諦〉   中間 (菩 薩一x一俗 諦 )  ●一一一一一一 → ■ 果 と して の智 慧の 内容

〔こ の段 階では未だ 仏智な し〕 ・法実相 を若波羅蜜多を 目指す智 → 般若 波羅蜜多を 目指す 原 因で   あるた め、 同じ く般 若 波 羅 蜜   と呼ば れ る ・ 〕灯を 照 ら し皆 悉 分 了 なる も一部に闇が残っ てい る ・に 入 るも源 底 を 尽 く さず 悟りの実現 (仏 陀一Y==勝 義 諦 )   → ● ・仏 智実 相 をと明波 羅蜜多 =切 種 智若波羅 蜜 じ た   (『大智 度 論』371頁 上 ・同国大   (3〕411 頁) (注 1) ・大 灯倍 (ま す ま す )明 了  (「大智度論』 国大(4〕360頁 ) ・と合 し て お だ習 気 は〕尽 くさ れ ず (注2) ・っ て源底を尽 くす 煩 悩との 関係 ・習 気 を断尽 く しい る 一前 頁した

  

以 上 か ら 明 ら か なこ とは、

菩薩

初発心時

はおろか、 中 間で得る

諸法実

 

相の

智 慧

とい え ど も、 その レベ ルか ら して

煩悩

習気

無とい

う観

 

点か ら して も、 仏

には及ぱない とい うこ とで ある。 そ れ故、両 者に は悟

 

りの程 度の

格差

存在

するの であっ て、

X

Y

は成立 しない の である 。

 

上記の

事態

を別の 角 度 か ら論 じた もの と して、 次の 記述が見 出だ され る。 『大

度 論』 (

273

中)は 、菩 薩 と仏の格 差 を次の ように区別 する。

は衆生 を 度脱 する に量 あ り限 りあ り。 仏が

後得智

を用い て

度す所

のは

量 無 限 な り。 菩 薩は仏

身 〔

近付

い た

者〕

と作る と雖 も、

十方

世 界に遍

満す

るこ と能 わず。

一 方、 後 得智の

きとしての

仏 身は普 く 能 く無量世 界に遍満 して度すべ き所

を現

また、 同国

4

625

6

頁は 、

菩薩

如実

に六 波 羅蜜 を行 ず と

も、

だ能 く周 遍す る こ と

わず、

だ 一 門 にる こ

。 こ の

に名づ けて 仏 と為さざるな り。

菩薩

、 已に 一

諸法実相

の 中 に入 り、 一

念相応

智慧

を以

菩提 を

、 一

切煩悩

を断じ、 諸 法の 中に

自在

力 を得れ ば 、爾 時、 名づ けて仏 と

す」とする。 (

3

B

A1

は成 立

る か

  

そ れで は、 そ もそ も

B

が、

A1

としてその ま ま

るこ

(7)

とは可能なの か。

 

凡 夫

言語 命

戯論

で あ り、 妄

別の 世

( −

B

あ り 、 それ が その ま ま離言

真如

、 識 別作用の ない 空、無 相、無 願 ( −

A

) と直 結 する こ とは論理 的 に不可

で あろ

。 こ の こ と は

大 智 度論

で龍樹 が 明

に説い てい る。

   「

世俗の 中に於い て第一

む。 こ の こ とは

可得 な り。

210

下)     「是 の 因 縁起 作の (一俗 諦。 勝義 諦は 因果の支配下にない ) を以て は、 〈正見

  

を得 て法 に入 る〉べ か ら … … 阿

菩提

か ら

    (『大品 般若」

345

中)

 

即 ち、

B

初発

心 した

行 者

とい う 「俗諦の 中に」 、 つ ま り

X

が俗

に 留 まっ たま まで 、 そこ に

Y

態」

して 勝 義 諦 とは

理的に不 可能なの で ある。 その両

連結す

る に は、 必

媒介 項 が必 要 なの で あっ て それ は

乗 仏教におい ては

禅 定を 中心 と した行

なの である。 すな わち 〔教一信 〕(一俗諦 ) と悟 り (=勝義諦) を結ぶ 媒 介項で ある

行 」が

っ て初めて、

士 の言わ れ る

証」

が、以 下の

B

(;教一 信 )→ 行→

A1

(一証 )」と して成 立す るの で ある 。 こ の点につ い て も 「大

度 論

は次のように明

に述べ い る。

禅定

能 く実智

慧 (一悟 り)を生ず。 世 間に

る が

に。

r

大智度論』

430

上)

是 の

実智

は禅

よ り生

(同 625 上)

人 は

を以て の 故に身 を

けて世 間に

縛著

し、

禅定

因縁

の 故に解 脱 を

(同 683 中)。 尚、 同

753

中参照。

 

で は何 故、禅 定 を中心と した

行 」が媒

項 となっ た場 合に

A

,が

る の か は

今後

検討課

で あるが、

定的には、

(禅定)

は、 行 者の

B

(俗諦)で

ると同

に 、 禅

(止〉状態に入れば識 別 作 用が滅 する の で、 その時 点で は空 ・

相 ・願 =

A

, (勝義諦 )が、 完 全と は言 えな

て も成 立 して い るか ら、 とい こ とがで き よ

4

X

B

世俗諦= 迷い)

れ と も

A1

(勝 義諦 = 悟 り) か

 

以 上 の

討の 結 果、

X

・=

B

とする限 り 、

X

Y

(悟 り)は原則と して

立 しない こ とが 明 らかになっ た。 しか し

B

資料の

ど全て は経 典か らの引用である。 そ れ

故 X

Y

とい

う命

題そ れ 自

を誤 りとすること はで きない とすれ ば

りは

X

(8)

「初発心 時便成 正覚」の論理構 造と本覚思想 (島村 ) の

容を

B

とした ことで

ると

推測

され よ

。 そ

であれば、

X

容は、 

X

Al

とい

性 が 高い 。 こ の場

X

A1

)=

Y

Al

)と な り、

X

Y

は 自動

る こ とな る。 そ れで は本 当に

X

(; 修行 者)が その ま ま

Al

( = 勝義諦 、 悟 り) とい

り立つ のか。

は そ れ は成 り立つ の であ り、 現に、

広 く意 識 さ れてい い よ

るが 、

X

( = 世 間 に お け る諸現象)が その ま ま

A1

(= 勝 義諦 、 真理、 悟 り)で あ る とす る

題 は 、 最初 期の 般若 経 典か ら大乗 経 典 全 般 及び論 書に幅広 く記 述 され てい る。 そ れ ら を 全 て引用するこ とは到 底不 可

で あるが、 筆者 が気付い た もの の

ち、 一部 を

A

料 と記 載

 

そ こに説かれて い る こ と は

一切

、 一 切世界、 五

、 衆 生 (以上は全て

x

) は 全て 無 為 法で あ り (

A

資 料

77

79

参 照)、 一切智 性 あ り 、 一

種智性

あ り 、 涅 槃で あ り、 悟 りであ り、

脱で あ り、

法性

で あ り、 般若 波 羅 蜜

であ り、 仏 法 であ り、 出世 間の 法で あ り、 本来常住で あっ て実 際で ある 似 上 は全て

Al

)」 と い こ とで ある。 要約 すれ ば、

界の全て の

態 ( =

x

)は 、 その ま ま

り (= Al 、厳密には

A

・を指示する

A

,)で

とい

こと以

もので もない 。

 

この ことは

を意

する のか。 〔

1

} 現

界 (=

X

)は そ れが 俗 諦=

B

に留 ま ている 限 り 、 そこ で は

X

別 相

 

と して顕 現 して お り、 他の もの と区別され て

立 してい るの で あっ て、 過去

 

在 未 来の時 間の 制約 下にあ り、 因果の

則に支配 されてい る。 そ して俗 諦 =

B

 

の成立乃 至発生根拠は無 明であっ て、 そ れの発生 変化の プロ セ ス は十二支縁 起

 

であらわ さ れて い る。 そ こ で は全て の

のは縁 起の関

におい て、 他 を

拠 と

 

して

相対

として

立 してい 。  

 

以 上 述べ た事 態

X

)が その ま ま、

りの 目から見 たとき 、 即 ち仏 陀の 目

 

に写 る地 平においては、 全てが個別 相を失い、 万

が平

無 相 な状 態で、 時 間

 

空間の制 約か ら解放され、因果 関

配か らも脱 した状態に なっ てい る。 例

 

えば、 「釈 摩訶 衍論 』によれ ば、 「不二 摩訶 衍 」は

無 因縁 」で ある (大正

32

  601

下)。 さ ら に

大 智 度論 』に よれ ば、

「〔

般 若波羅蜜

い て は、

諸法

 

因縁に住せず

(36g 上)。 また、 澄

の 『華厳

略策

』に よれば、 「

果海

は離縁な

 

る が

に不可

な り

(大 正

36

708

上)tVT。 そ こ で は観 察主体、

観察

、 識

 

用が消

した

状態

る (この事態は、中観 ・般 若経が明ら か に し た第一の真  理で る。 なお、 詳し くは拙論の 「『八千頌般若経』における能所 ・識別作用の止 滅と  空 (性 )の意 味 」 (豊 山 教学大会紀要第

31

号 所 収)を参照 さ れ た し)。 した が っ て 、

(9)

不生不滅、 不 去 不 来、 我我

な く、 言語 が止 滅 してい る。 そ して これ こ そが

A

・ 〔を指示 する

A

ユ〕の世 界である。 そ れ は 〈無 明が 明に転換 する 〉 とい

う事

態で は な く、 無 明その もの が その ままで、悟 りなの である (

A

資料

9

49

55

90

91

127

129

)。 それ

、 例えば

識思

に お ける

識 得 智」の ご と

無明

が 明 に 転換 する 〉 とい う表現 は、 俗諦 (;行者の内面世界 )におい て成 立する もの で

あ り

勝義諦

に おい て は あ くまで無 明が そのま ま明なので ある (こ の事態が、 広 く大乗教典 が 明 ら か に した第二 の真理で ある)。 また、 上 記の 説 明 は中観的説明で あるが、 同 じ

態 (第 一 真理 )

生 依 他性 と二 分依 他性 に よっ て、更に明確に説 明さ れてい る。 こ れにつ い て は、近 く

唯識 説にお け る

理の 意

と して発表を準 備 してい る。 (注 )〔1)〜 (注)(7) (注) (注) (1>

A

資料の 如 く「五 蘊は寂滅で ある 」と す る事 態 を 『大 智 度論 』 第 43 巻 (大正 372 上中)は次の ように説明する 。 「五蘊の 相が離な る こと (=自相が ない こ と) を知 れば即ち是れ寂滅に して涅槃 の如 し」と言 える。 し か し、こ の ように く自相が ない こ と〉を 知っ て 〈五蘊に 〔執〕 着 する こ と〉を離れて も、〈五蘊の 自相が 離 な ることを意識〉すれ ば 、 〈無相に対 して 〔執〕着〉(

A

、→ a2)して しまうこ とになる 。 した がっ て これでは悟 りとは言 えない 悟 りに おい て は く無相とい 相 も含め た一切相〉を離れ 、〈空の相 (=a2 、 無 相の相 (= a2 ) 、 無作の 相 ( ;a もな事 態、即ち そで は く識 別作 用 く、 一切法 感〕せ ず 、 一 切法に 〔執〕着 しない 〉 とい う事態 ←A 。、第一真 理)が実現 して初め て悟 りとい の であっ て 、 こ れこ そ が「五 蘊 ( =X )は寂滅 (=

Y

A

,))である 」の意味なので あ る。 (

2

−(1 

X2

×

3

)参 照) (2)仏陀の 眼 に 写る風 光を更に分析すれば 、次の二つ となるだろ う。   そこ で は能取 、所取 、 認 識作用の三者が な く、全て ( =X )が「一」嘸 相 ) に な っ て い る状態 。その イメ ージ と して は 、禅 定 (止)が完成 し、こ れ ら の 三 者が 「一」となり (第一真理)、 その「 一 」は 、 『起 信論』で記 さ れる「 一心 」 態である。 す なわち 『起 信論』に即 して言えば、 一無明働 き 心 (= 識 別 作用 )が な く 、 妄境界 ( = 認識対 象) 、転 識 (=認識主体 )

 

以 上 三 者が

X

一が未成立で意識に上 っ て来ない 、「 一独存 」状 態 (= 根本智) 。   無明を滅 した仏の智慧は 上記 「一心独存 」「心真如」 (= 根 本智 ) ある が 、仏 に とっ て は因位 時の誓願に よ る衆生利益 を実践するた めに 、凡夫の妄心 に よっ て成立 した個別現象界(X)が 、仏智に顕 照さ れて く る (=仏の 後得智 )。 しか しこの認識 は無 明 ・妄心に基づ い の では ない の で 、 執着が全 くなく、根 本智 その もの で ある 。 こ の後得智 と根 本智が 合 し た 仏の智 慧 を一切種智と名づける 。 この 一

(10)

「初発 心時便 成」の造 と本覚思想 (島村 ) っ て 、

X

が顕照さ れていて も 、そ れは 、その まま

A

、事態と してある (『大乗起信論 』 平川 彰 大蔵 出版 仏 典講座

22333

6

頁)。 か かる事態を記述する 例 を経論より 下記に引用する。

1

「菩薩摩訶薩は 、 二諦の中に住 して衆生の 為に世諦と第 一 義諦 とを説 法 す 。」 (『大 品般若 』

405

上)

2

「菩 薩は二 の中に住して衆生の為に法を説 く も、但だ空のみを説かず。但 だ有 のみを説かず 。 愛著の衆生の為の故に空と説 き 、取相 著空の衆生の 為の故に有と 説い て 、有無の中の 二処に染せず。 是 くの如 き方便力を 以て衆生の為に説法 す。」 (『大智 度論 』

703

中)

3

「菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、衆生 を見るも衆生無し。但 だし衆生相の 中に住 し、 乃至知者無く賢者無くも知見相の 中 に住し、衆生 をして顛倒 を遠 離せ しむ。 遠 離 し巳 りて… …是の 中に住する も、妄相所 謂衆生相乃至知 者見者相 有る ことし。 ……是の方便力を 以て の故に菩薩摩訶薩 は、般若波羅蜜を 行 ず る 時、自ら著 する と ころ無く、亦た教 えて 一衆生 を著 す こ ろ無 き と を しむ 。 〔これ ら 衆生済度の活動は〕世諦の故であっ て第一義に非ず。」 (『大品 般若」

414

中)

4

「仏 は大恩力有 りて諸法平等 (=無相 、認識対象の 止滅)の中に於い て同ぜずし て而 も 〔俗諦世界にわ れて 諸法を分別す 。」(同 415 上)

5

「諸仏大菩薩は第一義を得た り。 故に 、 衆生 を度せんが為に第 一 。 諸法を分別すと雖 も、是れ 虚妄に非ざるな り。」 (『大 智度論」

727

上)

6

「若し仏 、諸 法の 相 を分別せ ず 、〔俗諦 ・勝義諦の〕二諦を説か ざれ ば 、云何が 善 く畜生 〔界 〕等を説か んや。 〔仏は 、勝 義諦 = 真 如 ・空こ ろ の〕所謂 平 等に於い て動ぜず し て (=そこに と どまっ た ままで )、而 も 〔俗諦たる〕 諸法を 分別 す。」 (同 728 上〉 「仏 は、寂滅不二 の相を知る と雖 も、亦 た能く寂滅の 相の中 に於いて ( = 悟 っ た ま まで、 〔俗諦の〕諸法 を分 別して 、而 も戯論に堕せ ず。」同 727 下。 「菩薩は第一義の中に於い て 、動ぜずして衆生 を利益す。 方便 力の故に種々 の 因 縁 を 以て衆生の為に説法する な り。」(同

728

中) 7 「若し説 法の菩薩 、実 法明 (=諸法実 相、 空、悟 り)に入 らば、 功徳 力を 以て の 故に 、 〔五欲 (=認識対 象)を〕受 く。 而 も染する とこ ろ無し。 亦た 〔次の〕三事 を以て の故に、是の五欲 を受く。 〔即 ち〕  方便力 を以て の故に、

 

衆 生 をして善 根を種 えし めん と欲する が故に 、  衆生 と其の 事を同ぜん と欲 するが故に 、〔五 欲 を〕受く。大 師 ( = 仏〉、方便 法 を以衆生 を度 し 、 福徳を得せ しめ ん が為の故 に 、是の諸欲を受 く。」 (『大 品般 若』

416

下)

8

「菩薩は、 一畢竟 空に し無所有 、 而 も能く還っ て善法 を起こし、六波羅蜜 を行ずる も空に随わず… …涅槃に入らず。 是れ を方便と為す。

(11)

(注) (注) (注 ) …・・世俗 っ て衆生 を引 導す。」 (『大智 度論」 754 下) ※菩薩は畢竟 空 を悟っ て はい るものの 煩 悩の習気 を断滅 してお らず 、空= 涅槃 入 らず 、 衆生利 益の 為に俗諦 に と どまる 。 仏は涅 槃に入っ て い る もの の 、後 得 智を得て俗諦に戻っ て衆生 を利益すとの意味で ある 。 (3に れ に 対 し

4

−〔

2

)の記述 は、 般若経 的に理解さ れ た

A

資料の意 味を記述 し た も の である。 即 ちそこ で は、 注  に 述べ た 禅定 (止)の イメ ー し て 一 心独存 」 「心 真如」を記 述するの ではな く、 イメ ージ と し 、 禅定 (観)におい て成立 し て い る く諸法の 真の在 り方 (空なる在 り方 =一切法が 個 別 相 な く、平等になっ て お り、無自性であ り 、したがっ て不 生不 滅 、不 去不 来 、等々)〉 を記述し た もの で ある。 こ の 両者の相異は、 そこ に理解さ れてい る 〈真如な る事態〉 の相 異 を 示 し てい る の で は な く、 両 者とも同 一る 〈真 如事態 、 そ れ を説 明する仕方の相 異 、換 言 すれ ば 〈同一なる真如 〉を 理解 するた めに使用 され る道具 概 念の 相 異か ら生 じた もの と言 えよ う。 つ ま り 『起信 論』に おい て は、 〈無明と 一 根本要素と し 205 頁) 、 この二つ に よっ て 、 全て の現 象界 (

X

}の成立 を説明する の に対し、 「般若経』で は 〈一心 〉を立てずに 、 凡夫に とっ て現に成立 し てい る 〈能取 、所取 及び識別作 用の 三者 (こ れ ら は無 明 を最終 的根拠と して い るので ある が… …か ら 出 発 して 、こ の 三 者と して 成立 し て い る現象界(

X

)が個 別相を 滅 し た事態 、 即ち、 三者と して成 立 してい る現象界図 の 、「その ま まの真 と しての在 り方 」〉その もの を 、〈空 、無 相 、平等 … …〉 と し て 、即 ち真如と して理解 してい る もの である 。 『起 信論』は仏の 後得智の この働 きを不 思議業相と呼ぶ (41以上の 態 を 『起信論』は別の度か ら、 始覚の 四相と して次の ように説 明す る (岩波

30

32

頁 〉。 その 要旨は次の 通 り。 「修行者は 、行の進展に応 じて 、 不覚 (悪念 を滅 す)、相 似覚 (妄 念の種々なる異 相を覚す。 即ち 人 我執が ない)、随分覚 (妄念の住 相 、即 ち法我 見を覚す。即 ち法 住 相が ない み 、その次に 、完 全 な覚 りに到る一刹 那前の 〔智〕慧 (一念 相 応の慧)に よっ て 、無明の初 起 (=生)を覚る 。 この こ とに よっ て 、最 後の段 階で 不覚 (悪 念の 滅)、 相似覚 (妄念の異 相)、随分覚 (妄念の 住相)、及び無明の 初 起 (生)のりの全てが 、個 別相(

X

)と して認識され る 。 第四 の 〈無明の初起を覚 っ た〉状態は 、 次の刹那には完全 な覚り (究竟覚)になるの で あ る が 、究竟覚に おい て は 、それ 以前で は各々 個別な始覚と認識さ れ てい た 四つ の始覚 (= X ) 、 全て平等 となっ て 、全てが究竟覚と なっ て し まう (

X

A

,)のである」(平 川 同前

110

115

。 (5〕『般若 経』的理解 と 『起 信論』 的理 解の相違 を端 的に示すのが、明と無 明に関 する記 述である 。 『般若経 」的 理解では 、上 述 注 (3}の如 く、無明と 一 心 を前提に し

(12)

「初 発心時便成正覚」の論 理構 造と本覚 思想 (島 村) (注 〉 (注) ない で 、凡夫に とっ て成立 してい る能所、 識別作用か ら出発する の だ が、 実 は 、 無 明 も明 も言語表現で るの だか ら、既に概念化 (明 ==a2 、 無明 =

B

して る の で あっ て 、 そ れ ら は能取 、所 取 となっ て お り、そ して無明か ら識別作用 等が 十二縁 起 に よ り成 り立っ てい る の である 。 し た がっ て

A

資料

9

に見 る如 く、覚 りに お い て は 、無 明は その ま ま 明 (= 、一方 、『起信論』的 理解で は、 無明と一心は 言語表 現 (=概 念 的理解)と して は 相 互 縁起の関係にある (「若 し 覚性 を離る る ときは則 ち不覚 無し。 … …し不 心 を離る る 則 ち真 自相の説 くべ き もの無け れ ば なり」岩 波 34 〜 36 頁 )の では あ る が 、全体 的理 解 に おい ては飽 く迄 、 無明と一心 を二つ の基 本要 素と し て前提 し、 その両者の 関わ りか ら、識 別作用 (業識 )、能 取 (転識 〉、 所取 (現識)の 三者が凡 夫におい て は 成 り立つ 理解 する の で ある 。 {6) 『大智度論 』にお ける具体的 記 述 例は次の通 り。 「凡 夫の 人の知る所の色(

B

)を名づ けて色 となす。 こ の色は如 ( = 真 如=

A

,)の 中 に 入 れば 、更 に 不生不滅 (= 空=

Al

)な り 。」 (『大智度論 』

382

上〉 「諸の煩 悩 (B )は 、実相 (

A

,)に与 (く み)すれ ば、常に性 空 (

A

,)に して 、心 相 異なる こ と な し (=心相平等=空 AI )。 凡夫 地の 中に住 すれ ば 是 れ垢(B)、是れ浄 (a2 )なり。」(同

385

中) 「世 間 出 世 間有漏 無漏の色 〔B)も、 〈縛 な く〉 ( 軍

A1

) 、 〈脱 (a、)な し〉( =

A

,)。 受想 行 識(B〕も亦 〈縛 な く〉 (=

Al

) 、〈脱 (a2 )な し 〉(=

A

、)。何 と な れ ば 、所 有無 き (= 空=

A

,)が故に 。 離 (=空 ;

A1

)の故に。 寂滅 ( = 空≡

A

,)の故に 。 不生 ( = 空=

A

、)の故に。」 (同(3}

68

頁 『大 品般 若』

249

 

無縛三脱 品第 17 ) (7さらに 、 「本来、 無為であ り悟 りその もの と して の仏 陀 す な わち法身には、……因果の制約 下 にある もの が有るが ない 。」 (『中観と唯識』長尾 雅人 ・岩波

1978

3

572

頁 ) 「無去三 昧とは 、是の三昧を得れ ば 、 一 諸 法 を観 ずる に 、因 為る こと、乳のぜず して酪 とな る が如 し。」(『大智度 論」

401

上) 「若し頗 (ぱ)字 を聞 けば 、即 ち一切 法は因果 空なる こと を知る 。」(同

409

上) 「諸法の 因果は皆是れ虚誑に して 、無 明に因る が故に、 衆生の心 を誑 (まど)わす こ とあ り。」 (同

426

下) 「清浄 を得れ ば (= 悟れ ば)因縁 な く 、 〔そこ で は〕染垢穢も亦 因縁 なし。」(同

429

中) 「諸法実 相を ば 、 亦 た、 〔業果 を〕受け ること無 し と名づ け、 ま た如と も名つ く」 (同

454

中) 「如 ・法 性 ・実際は 、因縁よ り生 ぜず 。 常に有な る が故に、名づ けて果と為 す 。」

(13)

(同

665

中〉 「因縁 起作の法は妄 想より生 じて実に非ず」 (『大 品般若』

345

中) 「若し法性 、先無 後有に し て 因縁 よ り生ぜ りとせ ば 、 〔是れ 〕即 ち凡夫の法 (= 俗 諦法 )と異な る無し。」 (『大智度論 』

692

中) 「第一義の 中には因縁果 報を説 くべ か らず。」(『大品般若』

397

中) 「空 も亦た因縁よ り生ぜ ず。無 為法 も亦是の 如し」 (『大智度論 』

728

中) 「自相空 な る (=自性 を欠い た) 法 中に は、 衆生無 く 、業 因縁 無 く 、果報 無 し。」 (『大 品般若』411 下) (

3

) 従っ て、 勝 義諦 において は

X

A1

が常に成 立 して い るの で あ る。 これ が 現

 象

界の その ま ま (=真 如 )の 在 り方なの で ある。 一 、 凡 識 に じ る

 

X

B

の世 界は 、 彼 が、 〈無相 平 等な る

X

A1

を対

に し 、 そ こに無

 

明虚妄 分 別が作 用 して、〈彼に対 して世

(x)が個 別

Bと して映じてい る

 

態〉 となっ た もの なの で ある。 即ち、 仏 眼 には

X

・=

A

,は

に成立 してい る

 

が、

眼に は

成立である に の両者を同一事態とみ る天台本覚思想とは異なる)。 〔

4

} 上 記 〔

1

)〜 〔

3

}か ら 、「一 切生 即 ち 全て の修 行 者 (=

X

) は 、真 実の 在り方 (=

 

真如=

A1

)か ら見 れば、 その ま ま悟 た状 態にあ る (=

Y

ま り 「

X

Y

 

は常に成 立 してい ると

える の である。

   

こ のこ と を根拠 付 ける

題 が

B

資料

4

2

に対 応 する漢訳の 六十

  

華厳』

初 発 心功 徳 品

に見 出だせ る (大正

9

452

上)。

なわち、 此の

初発

菩薩

は即 ち

れ仏 なるが

に、

く三世の諸の

来と

しく 亦三 世の仏の境 界に等 しく、

く三世の仏の正法と等 しく、 如 来の 一 身と 無量の身と三世の諸 仏の平 等なる智 慧 とを得た り。 所化の衆生 も皆悉 く同

な り」(此初発心 菩薩 即是仏故。 悉 与三世諸 如来等。 亦与三世仏境界等。 悉与三 世 仏 正法等。 得如来 一世 諸仏平等智慧 。 所 化衆生皆悉 同。) つ ま り、

初 発心の 菩 薩は その ま ま 仏 なの で あるの だ か ら、

く三 世如来 と

、 三

同の

智慧

とい

初発

時便成

覚」

の 記述 に

い て、

こ の ような

態は所 化の 衆生の場 合 も

く同じく

しい

態なの で ある」と述べ られてい る の である。 『六十華厳 』に対応する

本 及 びチベ ト訳 は

存在

しない の で、 原テキス トの記 述 は

認で

ない が、 原 テ キス トの作

又はその漢訳

がこれ を追 加 する必 要を認めて い た こ と は 確 かである。

(14)

「初発 心時便成正覚」の論理構造 と本思想 (島村 )

  

そ れで はこ れ が追

されてい る意 味は

か。 ま

言 えるこ と は、 所

 

生 は

薩で は ない の だか ら、必 ず し も初 発 心 して い る と は限ら ない とい

 

うことで ある。 それ故、

典 の 記 述に従

ならば、

初発

心 して い ない 衆生

 

であっ て も諸 仏と

しい こ とにな る。 だ か ら初

発心

必 要条件

で はな く、

 

A

資料

全て に

られる、 世 間における諸

象 ( =

X

)が その ま ま

A

で ある

 

とい

こ とが

か れてい ことになる。   更に、 同

の記 述 は

八十 華厳 』の

僧祗

にも見 出だせ る。

 

前 述  に述べ

、 世

にお ける諸現

( =

X

)は、 その ま ま仏陀の 目 に

 

写る と

Al

世 界なの であ るが 、 こ の事 態は、 

A

資 料

14

及び

42

く、

 

無 仏にかか わ らず 自ず と成 立 してい るの で ある。 しか しな が ら、 この 事 態

 

が、 〈仏教 教理 の 中に位置 付 けて理解さ れる場合は 、 その 仏 教的真理 世界〉

 

は、 仏陀が 阿耨

羅三藐三菩提 を完 成 した時には じめて

るの である

 

(注 ) (1) この こ とは 仏教で ある限 りは

当然

前提

に しな けれ ば な らない 。 つ

 

ま り、 仏 陀が

っ た時に、 同時に仏教 教理の 中における理

と して の 、

  

X

A1

= = 阿 耨

羅三藐三菩提 と して理

さ れ る

態〉が 成立

る の で   ある。 これを述べ

の が、 次の

くべ き主

る (『八十華 厳』大正

le

240

下)。 「

仏 陀が 正覚を実現 した 時に

十方の 所 有る諸の

は 、一切 同等に正

を成 じ、 中に於い て 一

普 く能

く不可 言 説一 切の

(−

A1

) を現ず 。」 また、 華厳二 祖 智儼は 『

華厳

孔 目章

に おい て次の よ

に述べ て い る (大 正 45 巻 586 下)。

法 義

仏せ ん には 一

衆生 と共に同 時同時同 時 同時同時 同時 同

同時 同時 同時に成 仏し、

後後後

後 後 後後後 後後に皆 新新に

を断

に、

厳三祖 法蔵は

華厳五教

』に おい て次の よ

に述 べ

45

巻 496 上 )。

し円教に

らば、 … …法 界 、 一 得一切

の 如 くなるが故に、 是の 煩 悩 も亦た一断一切 断な り。 故に

賢品に は 一切 障か し 、 小 相 品には一断一切

はこの

さ ら に

釈 摩訶衍

論』

の よ

に述べ てい る (大正

32

618

上)。 「唯一行 者 が、無念 (悟 り) を得た時、 一衆生 も

く無

(15)

(注)(1)「〔仏が若 し智慧のを 以て我 等を照らさずんば、則 ち 見 る所無し」 (『大智 度 論 』

357

下)。 さ らには

A

資料

3

〔}、

56

59

60

の 『起信論』の叙述 にある 「衆生 と 仏 とは同体で ある」を参照 され たし。

5

. 「

初 発

心、 三

密加持

小石

つ く

限定

語 を

    

け た 理

 

A

資料に見る ように、諸

現象

X

)が その ま ま

A

,で

る こ と は、 特 別の条件の ない ま ま

の こ と として

立 してい る の だか ら (と言っ ても我々 は、その事態 はあ くまで 「勝義諦 か ら見るな ら ば」とい う前提の もとに ある こ と、即 ち仏の 目 に映 じて い る事 態であ るこ と を 忘 れては な ら ない の だが ……)、 上記の 「初発 心… …

」等

り の 原 因

行為

とする必 要は全 くない 何 故な ら

4

2

た よ仏 陀 真理 世界に おい ては因果 関係は成立 しないか らである)。 にもか か わ らず、これ らの 一

、 原

因行為

とみ

の を付

してい る理由は 何 か。 これ迄

討 して きた よう に、

B

資料

に述べ られた

態 が

A

料で述べ ら れ た事 態 と同 一

態 と

える な ら ば、 これ らの

B

資料で言 及 された原 因行為は不

なの が、 そ れ を

えて

付加

し てい

の よ考 えられ る

   

初 発な る

   

修 行 者が大 乗 仏 教徒 と して 認め られ る に は 、 まず例 外 な く初 発 心 を 必要

  

条件

とする はずである。 そ れ故、

A

資料 で 述べ られてい る

X

y

A

 1) な る

  

態 を、 「初 発 心 した修 行 者に ・ して

 

説法

してい る の で 、 この 限

語がつ     い たの だ と考 えられ る。

  

密加 持な る限 定語

   

即 身 成 仏義 は、

教の

修行者

( = 真言密教 僧 )に対 し て説い た も

  

あるこ と は

た ない 。 そ して真 言

教 僧は 全員三密 加 持す る者で ある

  

か ら、

 

と同じ理

で、 こ の限 定 語が付 加 され た もの とする解 釈 が 可 能で

   あ

る。 ただし

厳密

に言

ば、

進 し漸 次に

練 して」禅 定が実現す

  

るよ

に な れば、 三

密加持

とい う禅 定状

は、

A

。が実現 してい る状 態で あ

  

っ て、 そ れ は その ま ま

A

態で ある とい うこ と を述べ た もの とすべ きで あ    ろ う。

  

※ 』 これに関連 して筆者は、かの 『秘密曼 荼羅十住心論』に お ける第十住心 は、単に行

(16)

「初 発心時便成正覚」の論理構造 と本覚思想 (島槻

  

法 を説い の で は な く 、 三密 加 持 ( =禅 定

A

現 し

  

う事 態を位 置付け たもの とい 想 を抱い てい る 。 その詳細なる展開につ い ては他    日を期すもの である 。

 

つ くるこ … …」

の限定語

  

華 経

便 品の

説法

は、

A

資 料の

態 を説 法

に、

らにい る

子供

 

達が小 石を積ん で 仏

をつ くっ た り、

木片

で 遊びなが ら仏

を描い た り、

 

般参詣

人が

南無

… …

唱 え い た の で あろ

。 そ れを材

 

に して

説法

者が 仏 教

行者 に対 し て

A

資料の

態を説法 したの と考 え

 

られる。 尚、 『大智度論 』は こ の

方便 品

述 を引用 しつ つ 、 〔論者が小 石を

 

積めば 悟っ て しま うな らば修行は要 ら ない の では ない か とい う疑 問を発するの対 し

 

て 、俗諦の行 者が 〕悟 りを得 る た め に は 、 そ れで も 「六 波 羅蜜乃至 一

 

行ず

える (大正

619

中)。 付

論参

照。

    

を 聞い て」

定語 (

B

資料一

8

参照)

  

法者

字輪観

ま た は 阿字 観を 日頃修 習 してい る真 言

者に対 して

A

 

料の

事態

説法

した の であろう。

1

 

本覚

思想

関す

る 『

般若

r

大 智度 論

』 に

お け

 

題一

関す

A1

か ら

B

階層性

を区分せず、 

A

料 (

A

 1) を

B

(=俗諦命 題 ) と錯

する と 「一切 が 悟 りな ら、 現

象界

にい る現

の 自分 も当然その ままで 悟っ て い る こ とになるの で 、

修行

な ど必

ない

とい

う誤解

が生じる。

 

これ に 関する

議論

が 『

品般 若

82

巻と 『大 智 度論 』 第

92

巻及 び第

35 巻

で展 開されてい る。 その 意 味は、 概ね 次の如 きで あろ う。 〔

1

 

r

大 品

般若経

82

巻の記述 (

407

中 以 下)

  

法実相

常住

で ある のだ か ら、 一 諸 現 象

x

) は 状 態

 

(=

A1

) 。 そ

うす

る と、 一諸 現

れ る =悟 りへ 至 六波羅蜜 三十

 

七助道 法等 )

も悟 り

とい

こ とになる。 そ

で あれば

道」 を

行ず

る菩 薩 ( =

B

 

は、 成仏 してい ない

時点

で も正覚 を得てい ること (=

A1

)にな りは しな い

  

以上 が須 菩提の疑問である。 こ れ に対 する仏の 回

は次の 通 りで

る。

  

仏は正

るの ではない 。 何

な ら、

とは正

の こ とで あ り、正覚と

 

は仏の ことで

る か らで

る。

(須 菩捌 の

えてい る事は 〔 一 切の諸 現

 

X

B

)が

Y

A

)である とい

こ とで あ り

か にそ れ は仏に とっ ては

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