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雑誌名 東北学院大学論集. 人間・言語・情報

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(1)

著者 冨田 昇

雑誌名 東北学院大学論集. 人間・言語・情報

号 112

ページ 49‑76

発行年 1995‑12‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024084/

(2)

中国近代ける文物流出と日本

日 本 人 骨 董 商 の 動 向 I 繭 山 龍 泉 堂 一 括 資 料 の 分 析 を 中 心 に -

冨 国

はじめ

筆者は︑これまで辛亥革命を中心とする中国近代にて︑中国文物

海外流出状況を貿易資料を通して

分析した ︵

g

︑また流出の背景諸相ついて考察を加え

特に日本人との関わりを中心流出経路を突き止め

たり︑これまであまり知られていな清室内府自身よる競売を

実例即してほタル再構成する どし

本稿いては︑前稿までの基礎的成果をもと︑こうした中国文物の流出日本人骨

- l

商がい

つ i

-

--i-

(3)

ろからどのようして関与したのか︑彼等の動向焦点を絞つて検討を加えた思う

うのは︑略奪品 や旅行者の購入品を除く他の全ての文物は︑骨董商の手を通して滔

と我が国

と将来れたも

であり︑そ れらは戦前期いて既膨大な量達してい M

-︒こうした近代ける中国文物のわが国

の大量流入とそ れ果たした日本人骨董商の役割の大き注目するとき︑彼等骨

重商の大陸進出の

店舗経営販売の実

彼等が我が国もたらした文物

内容や数量を具体的止めることは︑文物移動史の核心肉薄

する上で︑不可欠の視覚であるとえよう

小論はほぼこうした観点から幸亥革命前後ける日本人骨董商 の動向焦点をあて︑そ

文物流入

の関与

ありかたを事例即して究明しようとするものである

具体的 は︑先ず資料回想基づき大陸進出の事例を可能な限り遡及して示し︑次いで外務省通商局発行の海外

各地在留本邦人職業別表﹄よって︑大正期ける日本人骨董商の海外展開の状況をグロ規模で概

観し︑日本人骨董商

中国進出の規模と意味を相対化する

最後︑本稿の中心的課題して︑辛亥革命をは

さむ明治後期から大正時代かけての間︑大陸進出した日本人骨重商の象徴的な事例して︑前稿でも

その資料を引用した蘭山龍泉堂主人南山松太郎

場合を取り上げる

というのは︑第

同氏の残した

括資

料のうちは︑明治三十八年

北京開業から同四十二年かけての仕入れ品日とその原価︑販売先とその価格︑

年問収支等

を詳細記録した

a

一 一

仕入薄

大正元年から同十二年に及主要仕入品とその原価︑販売

先とその価格︑各年ごと

収支決算等

をしるした

手 ︵脱

﹂ ︑

果ては当時発給たビザえ保管れてぉり︑

1 1 2

(4)

これら資料基づけば︑辛亥革命前後渡清した日本人骨

f

商の典型的事例して︑またの創業展開の軌

跡を辿りうる希有の事例として︑同店の収支内容から取扱文物の種類

数量 ・価格等

至る経営販売の実態

を詳細明らかすることが可能だからである

第二同店は︑わが国る所謂中国鑑-

l l f

陶磁器販売の文 字通りの草分けして︑戦前

戦後を通じ︑斯界重きをなしてり︑その創業期の経営販売の実情を具

握することは︑取りも直

が国ける中国鑑賞陶磁成立の背景を文物供給の側から解明かして

他ならなからである

この分析を通して辛亥期ける文物流出日本人骨

一 一 一 一 - i -

商の介在のありかた が有効な事例即して仔細究明されるととも︑文物移動のもたらした文化史的意義を考察する上での基礎

的デタが予備的提示るはずである

3

-

章明治期における日本人骨董商の大陸進出

本章では︑明治期いて︑日本人骨重商がつごろからどのようなで大陸進出し︑中国文物の

流出いか関わっていったのかを︑可能な限り通及して示した

て大陸初めて渡たのは︑浮世絵を

紹介したことで知られる林忠正であったらし︒後言及する中村作次郎ば︑林米国で

5の販売を意図して明治十九年仕入れのため香港

上海

天津・北京等を巡り︑

込ん

-li-

(5)

1 l2

︵ 6

︶また先年北京で

四五万円

美術品を買たことがある

等ともしている

ヶットを米国求めていた点 注目れるが︑また購入時点は特定できぬものの具体的

規模言及して

るこも留意した

次 いで明治二十三年山中商会

山中定次郎が渡清したらし

ぃ ︒

広田不弧斎よると︑山中は仕入たものを日本

ではなく全て海外持つて行て売つたといい︑道中は無籠のって

瑠璃廠や東単牌楼とう沢山骨

︵ 7

︶あるところを

廻り︑護身用

短刀を腰

差していたそうである

という

山中もまた海外販売を目的

ていた点注意してぉきた

こうした伝聞対し︑資料基づて︑辛亥前渡清してたことが確実裏付

けられるのは︑中村作次郎︵好古堂︶と後詳述する蘭山松太郎の場合である

前者は︑中国骨重の視察 古美術界の状況を知ることを日的して︑明治三十

朝鮮を経て渡清し︑北京

上海

蘇州

杭州等の地 遊び︑各地の骨董商を詳しく視察して

そして前門瑠璃廠を訪れた際は︑

概してこの支那

道具屋は品物を随分沢山持つて居るけれども何分も日本向きと云う品物は少な

何故ならばと云うに支那は革命

多い国であって古物は明以上の陶器即ち宋元あたりの好物は却て日本

の方あって其本家本元たる支那ては却つてない︑当今北京あたりの品物は重清朝の品物が多ご ざいました :-・こう云う次第でありましたからして我

日本から往つて日本人の好くような物を買うと

︵8︶思ても到底そうう物はない︑これは実数息いたしました︑

(6)

- lのf

と述べてるが︑こ

証言は留意してぉきたい

というのは︑辛亥革命を通る十数年前の︑北京というより

中国を代表する骨

- -日めたれ示的型典反董骨本人す対

街るて瑠璃状が応況のそれでるるあでと

f

ある

即ち︑高位高官

の進物を扱う

所謂進物道具

商の集中する当地で︑清朝物が恐らくは大半を占め

たのであろうが︑当時茶道とっても煎茶道

流行期

たわが国

ば︑そは余り

かな

所謂欧羅巴向きの物

であり︑それ故中村が

売的買う物は誠少な

ぃ ﹂

と慨歎するの も最もなことだったのである

ここは林山中と異なってあくまで日本人の嗜好固執する中村の意識︑

まり日本人骨重商の恐らくは最も平均的な反応が表出しているのである

て南山松太郎ついては︑詳細は全て後章讓り︑ここでは行論上必要最小限度の記述止める

彼は︑明 治三十八年四月

骨重品併

一一

支那語研究ノ為メ渡清

しているが︑それは以上見た先理諸氏

如く単なる視

仕入

の 一

時的滞在ではなく︑現地北京居住し営業活動を始めようした点で︑明らか

線を画

するも

だっ

a ︒

以上︑他明治期大陸渡つた複数

骨董商の名前をあげることができるが︑裏付けとなる有力な伝聞

回想

資料等を欠いているため

今は全て省略従う

ここでは︑明治中期頃より少数の日本人骨董が先駆

的に大陸渡り始め︑そらく日清

日露の両戦争を経て明治も末

ころから本格的な進出を志す者が出始め

たこと︑及びこの時期より既海外向け販売と日本向け販売の両途が兆してたこを確認してけばよ

-

5

-

(7)

第二章大正期における日本人

の 海

外展開

前章では︑戦前期あるは戦後

いはば代表的老舗の明治期ける大陸進出の経緯をか見たが︑本章

1 0

では︑既冒頭に述べたよう︑外務省通商局発行の

海外各地在留本邦人職業別表

より︑大正期け る日本人骨董商のグロな規模での海外展開を概観し後︑日本人骨董の中進出の規模を相対化して

捉え︑またその意味

き考察を加えたい

では始め︑前記外務省資料基づき︑大正期の世界各地ける日本人骨商の展開を図表して示すと

次頁表

1のようになる︒

説明を加えると︑本表は前記外務省資料より︑骨重商の人数の多い地区を選ん作成したものである︑そ

結果︑世界的見て日本人骨董商は中国と北米の二地域殆ど集中してることかとなった

統計の しっかりしてる大正六年から十三年でると中国本土︵満州を除く︶ける日本人骨商の総計は

十人前後から六十人弱で推移してり︑米国では百人から百五十五人逐年ごと增加してい︒その比は︑概

算で

対二から

対三ほどである

しかも中国では︑日本人骨董商は天津

北京・上海の三箇所これも殆ど 中して

且つ上記期間いては︑天津では二人から十人増え︑北京では変動があるが八人から十九

人の間で推移し︑上海も十三年急減した

を除くと︑二十人台で推移して

︒ 一

方米国では日本人骨董商

n

2

(8)

- f

表一1  大正期在外日本人骨

i

置商地域別

覧表

(単位

:

人)

地名/年次 大正4 5 年 6 年 7 年 10年

u

13年

満洲 1 8 l 3 5

支那

◎北支那

天津 0 2 6 9 9 10

北京 15 l 9 13 8 l 0

その他 0 0 4 3 3 4

◎中部支那 上海

15戸

22 23 22 29 12

その他 2 2 2 2 l

◎南部支那 3 4 4 1 2

支那合計 44 58 53 52 39

香港 l 2 13 12 12 13

北米

シ ヤ ト ル ・ 他 7 7 3 6 4

ポ ー ト ラ ン ド 4 3 2 2 2

サ ン フ ラ ン シ ス コ ・ 37 69 71 79 89

ロサンゼルス  42 42 24 20 24

シカゴ l 1 22 27

6 24 ニュヨー ク l2

北米合計

9 9 14

100 131 136 140 155

ロ ン ド ン 2 4 2 l 4

-

7

-

(9)

は以下示す数地区殆ど集中してぉり︑特サンフンシス

とそ

周辺が突出して

即ちンフラン

シス

及びその周辺地域では︑三十七人から八十九人増加してぉり︑こ対してロンゼルス及びその周

辺では︑四十二人から二十人台数を減らしている

シカゴは︑大正十年二十人台急増し︑ニュ

ク はこの間ほ十人前後で推移している

では次︑これらの数字をどうみるべきか検討する

まず中国だ︑上記の天津上海は︑前

稿で明

したよう中国ける二大骨

- l

出︑両占骨前京北たてほ出輸董のけ輸港港だ稿中全国独でいをではし

f

で示したよう︑紫禁城

王府といった文物供給の最大の基地を背後ひかえ︑また前章で触れた瑠璃廠を始

めとするいく

かの大骨董街を有する中国最大の骨

重集散地であった

つまり︑日本人骨重商は︑最大の

地である北京と最大の輸出港である上海及び天津集中してたこなる

換えれば︑後検討る蘭

山龍泉堂次稿で扱う山中会の場合象徴されるよう︑中国は︑彼等とって最大の仕入基地だったの

である

これ対して米国は︑これも詳しくは次稿で触れようが︑例えば山中定次郎が明治二十七年ニュ

支店を開いた

を皮切り︑同三十二年はポストン翌三十三年は英国ロンドン︑更て昭和三年

はシカゴにそれぞれ支店を設け︑この間ロクフェ

I

︑チール

ス ・

フリーヤ等の名だたる大富豪を顧

販美古洋東全すため始中国の売本日基地た術であるをよくしとっう

︵ l︶1

u

2

(10)

- f

とすると︑中国で日本人骨

- -︑︑国米ずのた売販い日本はれ商に仕入れた文物さててなよをららっ

f

中心とする欧米ても販売れたと言う文物

流れが浮かび上がってくる

判明するよう︑南山は

中国で仕入日本で販売する典型的な中国←日本型の事例であり︑山中は中国で仕入

部は日本で主要

は米国等欧米で販売する世界型であった

前章で検討した明治期ける仕入れ品の販売傾向は︑文物流

本格化する大正期至つて全く顕在化した︑とえよう

なぉ付言してけば︑前

稿で明した米

国向け中国文物の圧倒的輸出額と︑ここ挙げた日本人骨

- -︑す何恐は字開外商海相展数をの示かのらくらと

f

関関係を示していると思う

さて以上で大正期おける日本人骨童商の海外展開とそ占める中国進出の規模の相対比較︑またその意

味の検討を終えることとし︑以下では章を改めて中国←日本型の典型的事例として︑また明治三十八年より大

正十

至る創業展開

軌跡を資料基づき詳細辿りうる希有の事例として︑南山龍泉堂の場合を取り上

げる

-

g

-

(11)

u

2

第三章爾山龍泉堂の創業と展開

節爾山松太郎略歴と蘭山龍泉堂創業経緯

本節では︑先ず始め松太郎の経歴を簡単振り返つてく︒彼は︑明治十五年富山県生まれ︑同二十七

年高等小学校を二年で中退し︑これ以後転

と職を換えてるが︑明治三十二年より二年あまり古物商松井宗

四郎宅奉公した

を契機︑同三十四年

骨-

f

品研究ノ為メ

上京した

その後も職を転

るが︑同三

十八年四月至り

骨董品併二支那語研究ノ為メ渡清

し︑既知遇を得てた骨重商神通由太郎のはからい

北京の束単牌楼

林ホテ

職を得︑また五月より翌三十九年七月までの間︑中国語の個人教授を受

けている

そして明治四十年

は︑

- l

ル重骨ル的日れ︑辞業同目的達セホガタよテ為をりンこし

f

二従事

し︑本業とした

である

しかし︑後章を改めて詳述するよう︑こ

も松太郎は試験的骨 - l︑南山︑

三十河西陝西八か四年四

定益のて営業けか既月行月たあげていなのををぉつら

・ f

省を遊歴し︑該地の骨董商を具視察し

っ っ

︑仕入れを行つた

そして四十

月からは︑北京日本人会書

記に就任し︑俸給を受けながら

兼業トシテ骨

- l麻内

︒ ︑

婚線門文崇は月三胡結

年二十四営商だん月

f

同路南

﹁ 一

家借リ受業ヲ成

し︑八月末は前記の書記を辞した

これ以後は北京と日本の間を盛ん

(12)

復し︑活発営業活動を行つている︵後述︶

辛亥革命の勃発した翌年の明治四十五年三月は︑麻線胡同

屋地所ヲ買求

め︑その後大正四年も東城校補胡同に土地を求め︑更翌五年は︑第

次大戦伴う好況

を見越して︑事業拡張の為

東京二於テ売捌キ所ヲ設クルニシカズ

と断じ︑六月東京銀座通り

丁日

の目抜き店舗を借り受け開店こぎ着けた

大正九年は︑京橋区鈴木町巨費を投じて新店舗を建設し移

転したが︑同十二年の関束大震災よって罹災︑甚大な損害を蒙つたものの︑早くも

ヵ月後は営業を再開

復興

の足掛りを

かんで

よう松太郎の略歴をみると︑青年期にいたる曲折

なかで次第骨董商

の志をかためたことが知ら

れるが︑日露戦争終結直前単なる仕入れ

の 一

時的滞在ではなく︑中国語を学など恐らくは該地での恒

常的仕入れ基地

確立を遥かに意図し

っ つ

大陸

雄飛したことと︑当地での地歩を固めた後︑第

次世界大戦

伴う好況を予測して販売基地としての東京開業を企図したこととは︑とも松太郎の商人としての優れた先 見性と決断力を良く示している

時あたかも辛亥革命とう骨董商してれば文字どうり千載

遇の時連 際会し︑着実事業を展開していったことは次節以下見るとぉりである

-

li

-

第二節経営状態

既に冒頭でも概略述べたよう︑松太郎は几帳面な性格であ

みえ︑

明治三十八年五月

- i l- 骨薄仕入

(13)

n

2

第壱号龍泉堂

と題する︑明治三十八年から同四十二年至る詳細な帳簿を残している

これは︑個

仕入れ品日名とそ

日時

価格及び販売価格と購入者名とが各年次月日ごと詳しく記

この仕

入れ簿より︑辛亥革命前ける邦人骨董商の扱い品日︑仕入れ価格︑販売価格︑売先者名︑更各年毎の

収支︑経営状態

規模等

を詳細明らかすることができる

また氏は︑既前節で参照した高等小学校中

退から関東大震災至る本人履歴と︑骨董売買関わる相当詳し記録を手帳書き記してる︒この

手帳

は︑内容的前述の

骨重仕入簿

連続してて︑明治四十三年から大正五年前半期至る主用品

売買記

録があり︑これを通じてこの間の経営状態の

窺える

︑大正五年の帰国後から同八年至る純利益︑

及び十二年の関東大震災前後ける資産内容をも示

この

手帳

と前出

骨重仕入薄

を合

わせると︑辛亥革命を挟む明治末ら大正中後期至る

邦人骨董商の創業と展開︑経営内容の推移等が︑か

なり詳細明らかとなる

これら資料よって明らかとなる蘭山龍泉堂の創業史を通じ︑辛亥期ける日本

人骨董商の動向を典型的捉えることができるであろう

では始め

骨董仕入簿

より︑明治三十八年か四十二年までの経営収支を次頁表i2まとめてぉく

明治三十八年は︑試験期間であって問題はなるまいが︑三十九年なる経営規模はなり本格化して

り︑松太郎が骨董業を本業化した四十年の数値比べても遜色がなほどである

えば三十九年の営

(14)

- lのf

表一2  経営収支表  (明治38年˜42年) 年度

(明治) 仕入原価合計 売上合計 利  取扱数i

lt

主要販売先

38年 150円40錢 178円30銭 27円90銭 38点 神通由太郎5点

39年 2,372円80銭 3,083円68銭 710円88銭 184点 神通由太郎71点

40年 2,602円16錢 3,395円5錢 792円89銭 159点 神通由太郎24点

林  新助24点

41年 3,609円15錢 7

.

497円40鐵 3,888円25銭 l41点 神通由太郎6点

神通松三郎21点

42年 8,239円40銭9

.

446円20鎖 l,206円80銭 l34点 神通由太郎31点

業成續

結果をもと︑それなりの自信見通しを得て︑翌年正月か

らの専業化を決意したのであろう

て数字を検討する︑四十

年は︑仕入れでは前年を千円程上回つているすぎないが︑利益は前

年比三千円強増の三︑八八八円をあげている

これは後述するよう

砧︵青磁︶袴腰香炉を

千円で仕入れて四千円で売り︑差つ引き三千

円の巨利を得たことよる

松太郎とって初めての大勝負であり

︑ こ

成功が爾後

経営販売

機軸を決めた可能性がある︵後述︶

て翌 四十二年は︑これ気を強くしたのか高額品の仕入が日立︑仕入 れ総額で前年比四︑六〇〇円増の八︑二〇〇円あまりとなるが︑売上

高自体は前年比二千円增の九︑五〇〇円ほどで伸び悩み︑利益は大幅

の 一

︑二〇六円止まっている

また取扱品の品数は三九年

の 一

四点から四二年の

三四点

と︑年毎減少している

が目を引く

こ の数字は仕入額の上昇ととも

点当たりの高額化を示して

て最後︑三十九年から四十二年の四年間でると︑仕入れ総計

六︑

八二三円︑売り上げ総計二三︑四二二円︑利益総計約六︑六〇〇円と

-

13

-

(15)

表一3  主要販売品目

覧 ( 明 治 4 3 年

˜

大正5年上半期)

年度

(明治) 品  仕入原価 販売額 利  販売先名

43年 ;宙青磁大花瓶

六朝l設金花生

香炉

天商!寺 概磁下蕪花生

飛青磁三足香炉

7,000円

2

.

000$

1,200

1

l1

800$

3,350円 850円 700$

720$

林新助 岡田朝太郎

岩井 山中定次郎

44年 六朝鍍金仏二体

砧青磁魚耳花瓶

1,000S l,100円

550$

460円

仏人ウオシニ 神通由太郎 45/大正

元年 天施寺遊環花瓶 1,200円 820円

2年 宋鎖象限香炉

著翠環付丸形香炉

650円 2,100円

550円 600円

3 年 砧青磁双魚対鉢

天施寺青磁無地t;ll.

大明七宝田式香炉

2

.

300円

l

.

335円

850円

l,760円 735円 (240円)

山中 610円

4 年 5 年

上半期 待腰中形香炉 1

.

700円 4,750円 (3,050円) 山本唯三郎

n

2

なり︑年平均

︑六五〇円程の収入を得た

ことなる

総じて︑そ

創業期は︑比較

的順調な滑り出しであったとえよう︒

て次

明治四十三年か大正五年前半

期までは︑前述

の ﹁

手帳

主要扱品が記

けで︑経営内容全体は把握 でないが︑今しあたりそら主要品を 拾うと上記表

3の如くである

以下解説を加えていこう︒先ず︑明治

四十三年だが︑この年は先年と同様砧 青磁大花瓶

点だけで三︑三五〇円の巨利

をあげていることが特目を引く

他の利

益をあわせれば過去最高の収入を得たはず

である

四十四年は二点︑四十五年つまり

辛亥革命

発生した年はわずか

点が

(16)

れるだけだが︑手帳は四十五年三月頃

此際

週間之内二千円を儲タリ

あり︑他も少なくな 利益をあげていたことが分かる

しかし

其後半年程商業絶無︑支那人問ハ恐れて開業せス

とあり︑革命後

政情不安混乱で︑商売どころではなかったのであろう

しかし手帳記すこの年の唯

一 々

点は

十二月末売られ︑八〇〇円ばかりの利をあげたのであった

総計でみれば︑この年もかなりの利益である

正二年は二点だけではっきりしたことは分からなが︑三年には三点︑う砧青磁双魚対鉢は

︑七六〇円の

利をあげ︑これら三点だけでも二︑七〇〇円を超えるかなり

利益となって

これ対して︑四年は

も記録されていない

手帳は︑

欧州戦争又ハ支那動乱之為メ

般商業不振ト相成日的更二付ズ殆ト遊び

情 体ナリキ

え︑こ

年も商売ならなかったのであろう

大正五年なると︑正月早

袴腰中形香炉を入 手し︑三月末売りばき︑

点で三︑〇〇〇円をこえる利を得ている

この後︑前節でも指摘したよう

大戦景気を見越して帰国し︑六月東京銀座店を構える

この時

資本金は︑出店諸経費

︑五〇〇円を差

し引き

五︑五〇〇円って

これが︑明治三十八年より大正五年前半期至る十年余の成果であっ

-

l 5

-

大正五年下半期から同八年至る経営状態を次頁表-4で示す

大正五年は︑下半期だけであるにもかかわらず︑五千円余の利益ををあげ︑更翌六年は二万を超え

- li -

(17)

u

2

表一4  経営収支表 (大正5年下半期˜ 8 年 )

年度

(大正) 利  諸経費等 純利益

5 年

下半期 8,181円37銭 2

.

9 4 l 円 4 6 銭 5,239円91錢

6 年 26,329円20錢 4

.

302円20錢 22,027円

7年 24,611円l3銭 6,144円54銭 l8,466円59銭

8 年 18,146円46銭 7

.

066円9l銭 11,079円55銭

八年と減少するものの︑それでも

万円を上回ている

在中国十年余

の最終的成果である銀座出店時の資本金が

万五千円余であることを思う と︑銀座出店後の利益

伸びが大幅なものか容易れよう︒大戦

好況を睨んだ松太郎の帰国

銀座出店の目論見は︑正的中したとうぺ

である

こうした順調な経営裏付けられてであろう松太郎は大正九年京橋区

鈴木町四万円の巨費を投じて家屋を新築し移転した

そしてこの

は︑

大正十二年

関東大震災よる被害状況とその時点で

資産の全容を記し

て︑実質的終わってる︒そによれば︑

大正十二年九月

日午前十

時五十八分︑大地震起リ出火シ︑東京全市

灰鐵トナリ︑不幸罹災シ︑土蔵落チ︑本店ノ財産商品全部鳥有二期シ︑此

董 一

同金七萬六百円位ナリ︑拙者不在中︑幸二帝国テル賣店免難︑為め : 商品

萬三千六百余円助リ︑同年十月二日ヨリ営業ス︑残存財産三万六

千二百円及現金金弐万壹千円在

(18)

-li-

と︑結ばれてる︒残存財産と現金合計で五七二〇〇円︑これ損害額七〇︑六〇〇円を加算した総計

万円弱が︑震災前の総資産なろうか

即ち︑松太郎は大正五年下半期の銀座開業同九年の京橋移転を

経て震災至る七年ほどの間︑銀座開店時の資本金

万五千円を除く

〇万円余達するかなり巨額の資産 を形成してたこなり︑こ

間の急激な隆盛りは充分注日してぉく必要がある

総じて︑松太郎は︑幸亥前勇躍北京赴き︑大戦時は決然帰国し︑震災前は商売の更なる飛躍を企図

してであろう︑帝国ホテ出店するな︑その行動の軌跡は常時流

歩先んじてたようだ

何よりも

辛亥革命うまたとな好機も恵まれて︑北京を仕入れ基地東京を販売基地して彼我を往来し

してしかもかなり短時日の内︑蘭山龍泉堂の基礎を深く培

けて銀座開店後大戦景気の波

乗り著し展開をたのであった

は蘭山松太郎と

骨董商の創業展開たる経営の足跡をた

どることで︑辛亥革命期中国文物の流出関わった日本人骨商の動向を典型的るこがでり わけて中国←日本型の個人骨董商の成功例を如実見るこできるであろう

して次稿ては︑の 独特の経営方式大規模な販売方法で世界的名を馳せた中国←世界型の典型的事例として巨大美術山中 会の場合を取り上げ︑蘭山龍泉堂の場合対照することとなる

- 1 7

-

(19)

第三節仕入れ品の種類よび特色

骨 - i︑

点には毎

仕入れ数概各ね簿〇か八〇度年明十治年二十四三︑年九入での仕まかる

ららよと

f

程で︑その種類は︑陶磁器

古銅器

玉器

仏像

漆器

印材

書画等

︑文字通り骨董全般及ん

る︒大まか分類してると︑明治三十九年分︵

八〇点余︶では︑印材二〇数点

状鎮

〇点余を始め︑

墨架

筆洗

筆架

水滴

筆筒

墨等

の文具類六〇点余︑香入

香合

香炉等

の香具類

〇数点︑茶

瓶掛

茶入よび茶事用と思われる花瓶等

々 の

茶具類二〇点余︑仏具類

〇数点等が主なものである

れを素材別見ると︑翡舉製品七〇点弱

瑪瑙製品三〇点弱

水晶類二〇数点など玉製品と鉱物類だけで優

過半を超えるが︑この他︑陶磁器類が二〇数点あり︑このうち煎茶筋好ま清朝製の寧窯︵年

び番麦手︵茶葉抹︶の花瓶などが

〇点程含まれて

翌四十年︵

五九点︶では︑香具

茶具は前年と際

立つた増減はないが︑文具類で印材や鎮が数点まで激減し︑かわり文庫卓がそれぞれ

〇点前後に增え︑

また古銅類

〇点ほどが登場したことなどが日つく

これも関連してか︑素材別でも玉鉱物製品が三〇

点程急減し︑逆紫租特青貝製品が 1〇点ほど︑また陶磁類も四〇点程增えている

四十

年︵

点︶なると︑香具は微減

茶具は若干增程度であるが︑文具は減少傾向が顕著となり二〇点程落ち込ん

素材別では玉製品が二〇点程減少しているが︑陶磁類は横這いである

四十二年では︵

三四点︶

:

n

2

(20)

-

^ 一

一 一 一 一

文具はさら減少してるが︑香具は二〇数点︑茶具も茶事用と思われる鉢類

〇点ほどを入れる三〇数

増加している

素材別では︑玉製品は微増だが

陶磁類は五〇数点大幅增えて

総じて

この四年間の変化でみると

当初扱い数の中で大きな割合︵三〇

%

超︶を占めていた文具が︑その

比率を

〇数

%

まで減らし︑逆都合二〇

%

程であった香具

茶具の割合は︑四〇

%

増加した

また素

材的も︑当初正圧倒的比率であった玉

鉱物類が急減した

︑元来

〇数

%

の比率過ぎなかった

陶磁類は︑四〇

%

までそ

比率を上昇せた

つまり松太郎は取扱品の主力を玉

鉱物類を主体とする

から香具

花器を含む

茶事

用途の陶磁類

移動せ始めたというこなのである︒

また素材別ると特目に付く

翡一一望製品

︵六朝︶金銅及び石仏

青磁

白玉

番麦手

紫檀

青貝

等で︑器種別では花瓶

香炉

香合

水滴

菓子鉢などであるが︑そ

内高額のものを列挙すると次頁表-5の

如くである

見らるよう︑器種別では香炉か花瓶︵花生︶︑素材別では白玉か青磁限られているのが日

付く

また︑明治四十三年以降ついては︑既先引

手帳

︵表

1

3︶列挙したうりであるが︑ここでも

器種別でみると香炉と花瓶が︑素材別では青磁が大半を占めていることが知られる

このよう︑龍泉堂扱

の高額品は︑明治期から大正五年至る北京開業期間中︑白玉及び特青磁製の香炉か花瓶限られて たのである

千円以上の利益をえたも

都合四点︑しかもそ

内三点は三千円を超す巨利をあげてるが︑ いずれも青磁であ

即ち蘭山とっては恐らく青磁の逸品こそが年間の収益をも左右する販売品中

切り

-

1g

-

(21)

表一5  高額品販売品目

覧 (明治41年˜ 4 2 年 )

年度 品  仕入原価 販売額 利  販売先名

4l年砧 ( 青 磁 );

i

書腰中形香炉 1

.

000円 4,000円 3

.

000円 林新助

42年 白玉香炉三ツl

解 i 'fa ? a  

白玉獅子蓋有環大花瓶

自玉象

:

E報好蓋三足香炉

砧青磁花瓶

500円 1,000円 1,300円 1,000円 530円

763円50錢 l

.

200円

1,500円 850円 450円

263円50鐵 200円

-

200円150円

-

80円

神通由太郎 村松 神通由太郎 林新助 林新助

札であった︑とえよう

では︑当初圧倒的割合を占め後急減した文具類の意味見た高額品の 販売傾向をどう理解すれば良のであろうか

文具類

いてだが︑ 論から言うと︑仮これを単なる実用途

の仕入れ販売たり︑単純な主 力品の転換とみるのは︑か早計である

江戸終

一 一

一一

一 一

以後なぉ︑ 澳厚な陰影を

残す文人趣味あって︑文具は依然として主要な

玩の対象であったし︑また

最盛期は過ぎたとはえな広く流行していた煎茶道いても︑文房

りと称し茶室鑑賞用の文具類を並べては︑香を焚︑花を生け︑茶を喫し︑文

房清玩の意趣を尽くしてたのである

︒ つ

まりこら文具類は︑文人趣味

れと密接な煎茶と深く結び付り︑香具

花器

茶具ととも

体的な中 国趣味の世界を構築していた︑と思われる

需要の変化も留意する必要があ るが︑松太郎の

文具

から

茶事

用途

陶磁類

の転換もこうした関連性

背景のなかで理解れるべきであり︑またその転換を促した有力な契機として

は︑先も触れた明治四十

ける

価青磁袴腰香炉︑

まり最も代表的

茶事

用途の陶磁販売の成功例をあげることがでるはずである

u

2

(22)

第二高額品

販売傾向ついてだが︑それはなよりも︑日本人の嗜好というより当時の日本側の要を 強く反映したものだった︑といえる

も些か触れたよう︑最盛期を過ぎたとはえ明治中期末 期かけて煎茶はなぉ広く流行してり︑抹茶も明治維新期の衰亡から漸く脱し︑大正中後期

最盛期

移 行し

っ つ

あった

前記した仕入れ品の多く高額品は︑例えば青磁の香炉が煎茶

抹茶でとも重用れ︑同

花生けはとく抹茶で︑玉の香炉は煎茶で珍重さるなど︑

茶事

流行の風潮を反映しその用途向け︑特

煎茶道具文房飾りとして購入れたものと思われる

総じて松太郎は︑明治三十八年から大正五年至る北京滞在期間あっては︑辛亥革命前はもとより文物流

出の本格化する革命後いても︑

れた資料から見る限り︑何より日本人向けの仕入れ腐心し︑とり

け時巨利をもたらす

茶事

用途の陶磁類傾斜してのようであり︑辛亥革命を重要な契機して後 年いて成立し︑また自らがそのパイオ

一 一

アの栄をなうこととなる所謂鑑賞陶磁器︵非茶道具︶は︑な 隔たりがあったよう見受けられる

-

21

-

第四節販売先︵購入者︶

骨董仕入簿

明治三十八年から四十二年至る総取扱点数六百数十点

内︑ごく

支那人

﹂ ﹁

﹂ ﹁

等としるした購入者不詳の場合を除き︑殆どは購入者の姓名が記ている

それよれば︑姓名の

- lのf

(23)

n

2

判明している購入者は全て日本人であり︑多くの場合重複して記載れて

顧客の大半は︑馴染

日本人ということなる

内神通由太郎は

人で百数十

を購入して最大の得意先となり︑次いで林新助

が四〇点程購入してい --

また前掲

1

3

1

5示した大正五年至る高額品の場合を見ても︑購入者

は特定

人物が多く︑因両表総計

九点の内︑林新助が八点︑神通由太郎が三点︑山中定次郎が二点等なっ

即ち最大の顧客層は︑神通

山中

林といった著名な骨董商であった

先引

手帳

の記載か

えるよう︑南山は︑北京で仕入れた日本人向けの骨董類を︑日本持ち帰り︑主特定の有力骨董を対象

して売り捌き︑また北京で仕入れるという方法︑はば卸を繰り返してたこる︒

第五節銀座開店後

販売傾向

以上︑明治末から大正中後期至る龍泉堂の営業

販売品日等

の軌跡を辿つた︑なぉ大正五年後期の銀

座開店以降の販売品目ついては︑未検討であった

ここでは先引の

手帳

見える若干の関連する記述と

周辺の資料からこの問題検討を加え︑本章の結び代えた

手帳

は︑大正五年と六年の︑販売品日関する簡略な記載がある

︒ 一

覧表すれば︑次頁表

6

ごとくである

見られる如く︑大正五年下半期では︑記載された石像

点の利益二︑ 1〇〇円けで同期の粗利八︑〇〇〇

(24)

- li-

表一6  高額品販売品目

覧 (大正5年˜ 6 年 )

年度 品 名 仕入原価 販売額 利益 販売先名

5 年 六朝石像 700円 2,800円 2,100円 林屋治三郎

6 年 自玉大香炉

螺細大番棚

l整i青磁茶入 白玉香炉二個

7

.

000円

3,600円 2

.

800円

5,000円

2

.

500円

2

.

000円

l

.

200円

l

.

800円

山本 山本 山本 山本

旧主

・ 一

隆堂神通由太郎

死去に際して︑爾山松太郎

自分は普段多く北京

出張していて不在勝ちだから︑店を

任したから是非手伝てほしい

の誘

いを受け

同店開店後ほぼ

年にして入店の運びとなるが︑結局その後五年間つ まり大正十

一 ・

十二年の交まで動めて独立す

半年ならずして震災の厄

遭い︑翌十三年五月西山保と共同で壺中居を創業する

広田は南山の銀座 分けとなる壷中居創業者広田不弧斎の

̲

想1l

1 l

ある

彼に

れば

大正

八年

月の

円余の二五

%

程を占め︑六年度では

商品ノ内千円以上利得アリシ物

である上 記四点

利益総計七︑五〇〇円だけで同年の粗利

: ー

〇〇〇円余の二八

%

程を

占めたことなる

少数ながらいずれも巨利をあげたと言うべきであろう

内容を見る︑六朝石像が

洛陽龍門山

からの将来品とされてる点注意さ

るが︑六年

高額品も白玉

青磁等で︑恐らくは茶事用途のものであったとぉも

われ︑これより銀座開店以後も少なくもその当初の段階では︑高額品関す る限り︑これまでと同様

傾向が続いていたもの思われる

そして

手帳

は︑これより以降の販売品

いては全く記述がな

ここで参照されるのが後年蘭山龍泉堂ととも東京ける所調鑑美術

-

23

-

参照

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