著者 冨田 昇
雑誌名 東北学院大学論集. 人間・言語・情報
号 112
ページ 49‑76
発行年 1995‑12‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024084/
中国近代における文物流出と日本
日 本 人 骨 董 商 の 動 向 I 繭 山 龍 泉 堂 一 括 資 料 の 分 析 を 中 心 に -
冨 国
はじめに
筆者は︑これまでに辛亥革命を中心とする中国近代において︑中国文物
の
海外流出状況を貿易資料を通して分析した ︵
g
︑また流出の背景や諸相について考察を加え︑
特に日本人との関わりを中心に流出経路を突き止めたり︑これまであまり知られていない清室内府自身による競売を
一
実例に即してほぼトータルに再構成するな どし ︵注︒
本稿においては︑前稿までの基礎的成果をもとに︑こうした中国文物の流出に日本人骨- l
商がいつ i
ご-
日本人骨--i-商の動向
四九
ろからどのようにして関与したのか︑彼等の動向に焦点を絞つて検討を加えたいと思う
︒
というのは︑略奪品 や旅行者の購入品を除く他の全ての文物は︑骨董商の手を通して滔々
と我が国へ
と将来されたもの
であり︑そ れらは戦前期において既に膨大な量に達してい ︵M-︒こうした近代における中国文物のわが国
へ
の大量流入とそ れに果たした日本人骨董商の役割の大きさに注目するとき︑彼等骨一
重商の大陸進出の経一
輝や店舗経営販売の実態
︑
更に彼等が我が国にもたらした文物の
内容や数量を具体的に突き止めることは︑文物移動史の核心に肉薄する上で︑不可欠の視覚であるといえよう
︒
小論はほぼこうした観点から幸亥革命前後における日本人骨董商 の動向に焦点をあて︑その
文物流入へ
の関与の
ありかたを事例に即して究明しようとするものである︒
具体的 には︑先ず資料や回想に基づき大陸進出の事例を可能な限り遡及して示し︑次いで外務省通商局発行の﹃海外各地在留本邦人職業別表﹄によって︑大正期における日本人骨董商の海外展開の状況をグローバルな規模で概
観し︑日本人骨董商
の
中国進出の規模と意味を相対化する︒
最後に︑本稿の中心的課題として︑辛亥革命をはさむ明治後期から大正時代にかけての間︑大陸に進出した日本人骨重商の象徴的な事例として︑前稿でも
一
部その資料を引用した蘭山龍泉堂主人南山松太郎
の
場合を取り上げる︒
というのは︑第一
に同氏の残した一
括資料のうちには︑明治三十八年
の
北京開業から同四十二年にかけての仕入れ品日とその原価︑販売先とその価格︑年問収支等
々
を詳細に記録した﹁
骨一
a一 一仕入薄﹂
や大正元年から同十二年に及ぶ主要仕入れ品とその原価︑販売
先とその価格︑各年ごと
の
収支決算等々
をしるした﹁
手 ︵脱﹂ ︑
果ては当時発給されたビザさえ保管されてぉり︑ 東北学院大学論集人間・言語・情報第1 1 2
号
五〇
これら資料に基づけば︑辛亥革命前後に渡清した日本人骨
一
重f
商の典型的事例として︑またその創業と展開の軌跡を辿りうる希有の事例として︑同店の収支内容から取扱文物の種類
・
数量 ・価格等々
に至る経営販売の実態を詳細に明らかにすることが可能だからである
︒
第二に同店は︑わが国における所謂中国鑑-l l f
陶磁器販売の文 字通りの草分けとして︑戦前・
戦後を通じ︑斯界に重きをなしており︑その創業期の経営販売の実情を具に把握することは︑取りも直さず
ゎ
が国における中国鑑賞陶磁器成立の背景を文物供給の側から解き明かしてゆくことに他ならないからである
︒
この分析を通して︑辛亥期における文物流出と日本人骨一 一 一 一 - i -
商の介在のありかた が有効な事例に即して仔細に究明されるとともに︑文物移動のもたらした文化史的意義を考察する上での基礎的データが予備的に提示されるはずである
︒
3
-
第
一
章明治期における日本人骨董商の大陸進出本章では︑明治期において︑日本人骨重商がいつごろから︑どのようなかたちで大陸に進出し︑中国文物の
流出にいかに関わっていったのかを︑可能な限り通及して示した
ぃ
︒さて大陸に初めて渡つたのは︑浮世絵をョ
ーロツパに紹介したことで知られる林忠正であったらしい︒後に言及する中村作次郎によれば︑林は米国で︵5︶の販売を意図して明治十九年に仕入れのため香港
・
上海・
天津・北京等を巡り︑﹁
手一
杯に買い込ん﹂
だといい︑ 日本人管-li-商の動向
五
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第1 l2号五二︵ 6
︶また先年北京で
﹁
四五万円の
美術品を買つたことがある﹂
等ともしている︒
マーヶットを米国に求めていた点 注目されるが︑また購入時点は特定できぬもののやや具体的にその
規模に言及してぃ
ることにも留意したい︒
次 いで明治二十三年山中商会の
山中定次郎が渡清したらしぃ ︒
広田不弧斎によると︑山中は仕入れたものを日本ではなく全て海外に持つて行つて売つたといい︑道中は無籠にのって
﹁
瑠璃廠や東単牌楼という沢山骨董商の
︵ 7
︶あるところを
﹂
廻り︑護身用に﹁
短刀を腰へ
差していたそうである﹂
という︒
山中もまた海外販売を目的にしていた点注意してぉきたい
︒
こうした伝聞に対し︑資料に基づいて︑辛亥前に渡清していたことが確実に裏付けられるのは︑中村作次郎︵好古堂︶と後に詳述する蘭山松太郎の場合である
︒
前者は︑中国骨重商の視察や 古美術界の状況を知ることを日的にして︑明治三十一
年に朝鮮を経て渡清し︑北京・
上海・
蘇州・
杭州等の地 に遊び︑各地の骨董商を詳しく視察している︒
そして前門瑠璃廠を訪れた際には︑概してこの支那
の
道具屋は品物を随分沢山に持つて居るけれども何分にも日本向きと云う品物は少ない︑何故ならばと云うに支那は革命
の
多い国であって古い物は明以上の陶器即ち宋元あたりの好い物は却て日本の方にあって其本家本元たる支那に往つては却つてない︑当今北京あたりの品物は重に清朝の品物が多おご ざいました :-・こう云う次第でありましたからして我
々
日本から往つて日本人の好くような物を買おうと︵8︶思つても到底そういう物はない︑これには実に数息いたしました︑
日本人骨
- l商動向のf
五
と述べているが︑こ
の
証言には留意してぉきたい︒
というのは︑辛亥革命を通る十数年前の︑北京というより中国を代表する骨
- -日めたいれ示に的型典反商董骨本人す対に廠
の
街るて瑠璃状が応況のそれでるさるあでとf
ある
︒
即ち︑高位高官へ
の進物を扱う﹁
所謂進物道具﹂
商の集中する当地では︑清朝物が恐らくは大半を占めていたのであろうが︑当時茶道といっても煎茶道
の
流行期にあっ
たわが国の
骨童商からみれば︑それらは余りに艶やかな
﹁
所謂欧羅巴向きの物﹂
であり︑それ故中村が﹁
我々
商売的に買う物は誠に少なぃ ﹂
と慨歎するの も最もなことだったのである︒
ここには林や山中と異なってあくまで日本人の嗜好に固執する中村の意識︑っ
まり日本人骨重商の恐らくは最も平均的な反応が表出しているのである
︒
さて南山松太郎については︑詳細は全て後章に讓り︑ここでは行論上必要最小限度の記述に止める
︒
彼は︑明 治三十八年四月﹁
骨重品併一一
支那語研究ノ為メ渡清﹂
しているが︑それは以上に見た先理諸氏の
如く単なる視察や仕入れ
の
為の 一
時的滞在ではなく︑現地北京に居住し営業活動を始めようとした点で︑明らかに一
線を画するも
の
だっ ︵a ︒
以上︑他に明治期に大陸に渡つた複数
の
骨董商の名前をあげることができるが︑裏付けとなる有力な伝聞・
回想
・
資料等を欠いているため︑
今は全て省略に従う︒
ここでは︑明治中期頃より少数の日本人骨董商が先駆的に大陸に渡り始め︑おそらく日清
・
日露の両戦争を経て明治も末の
ころから本格的な進出を志す者が出始めたこと︑及びこの時期より既に海外向け販売と日本向け販売の両途が兆していたことを確認しておけばよい
︒
-
5-
第二章大正期における日本人
基
商の 海
外展開前章では︑戦前期あるいは戦後
の
いはば代表的老舗の明治期における大陸進出の経緯をかいま見たが︑本章一
1 0
︶では︑既に冒頭に述べたように︑外務省通商局発行の
﹁
海外各地在留本邦人職業別表﹂
により︑大正期におけ る日本人骨董商のグローバルな規模での海外展開を概観した後︑日本人骨董商の中国進出の規模を相対化して捉え︑またその意味に
っ
き考察を加えたい︒
では始めに︑前記外務省資料に基づき︑大正期の世界各地における日本人骨董商の展開を図表にして示すと
次頁表
︐
1のようになる︒説明を加えると︑本表は前記外務省資料より︑骨重商の人数の多い地区を選んで作成したものであるが︑そ
の
結果︑世界的に見て日本人骨董商は中国と北米の二地域に殆ど集中していることが明らかとなった︒
統計の しっかりしている大正六年から十三年でみると︑中国本土︵満州を除く︶における日本人骨董商の総計は︑四十人前後から六十人弱で推移しており︑米国では百人から百五十五人に逐年ごとに增加している︒その比は︑概
算で
一
対二から一
対三ほどである︒
しかも中国では︑日本人骨董商は天津・
北京・上海の三箇所にこれも殆ど 集中している︒
且つ上記期間においては︑天津では二人から十人に増え︑北京では変動があるが八人から十九人の間で推移し︑上海も十三年に急減した
の
を除くと︑二十人台で推移している︒ 一
方米国では日本人骨董商 東北学院大学論集人間・言語・情報第n
2号五 四
日本人骨- f商の動向
五五
表一1 大正期在外日本人骨
i
置商地域別一
覧表(単位
:
人)地名/年次 大正4 5 年 6 年 7 年 10年
u
年 13年満洲 1 8 l 3 5
支那
◎北支那
天津 0 2 6 9 9 10
北京 15 l 9 13 8 l 0
その他 0 0 4 3 3 4
◎中部支那 上海
15戸
22 23 22 29 12
その他 2 2 2 2 l
◎南部支那 3 4 4 1 2
支那合計 44 58 53 52 39
香港 l 2 13 12 12 13
北米
シ ヤ ト ル ・ 他 7 7 3 6 4
ポ ー ト ラ ン ド 4 3 2 2 2
サ ン フ ラ ン シ ス コ ・他 37 69 71 79 89
ロサンゼルス ・他 42 42 24 20 24
シカゴ l 1 22 27
6 24 ニューヨー ク l2
北米合計
9 9 14
100 131 136 140 155
ロ ン ド ン・他 2 4 2 l 4
-
7-
は以下に示す数地区に殆ど集中してぉり︑特にサンフランシス
コ
とその
周辺が突出していた︒
即ちサンフランシス
コ
及びその周辺地域では︑三十七人から八十九人に増加してぉり︑これに対してロサンゼルス及びその周辺では︑四十二人から二十人台に数を減らしている
︒
シカゴは︑大正十年に二十人台に急増し︑ニューョ
ーク は︑この間ほぼ十人前後で推移している︒
では次に︑これらの数字をどうみるべきか検討する
︒
まず中国だが︑上記の天津と上海は︑前々
稿で明らかにしたように中国における二大骨
- l
︒
出︑両占骨前京北たてほ出輸董のけ輸港港だ稿中全国独でぼいをではしf
で示したように︑紫禁城
・
王府といった文物供給の最大の基地を背後にひかえ︑また前章で触れた瑠璃廠を始めとするいく
つ
かの大骨董街を有する中国最大の骨一
重集散地であった︒
つまり︑日本人骨重商は︑最大の集散地である北京と最大の輸出港である上海及び天津に集中していたことになる
︒
言い換えれば︑後に検討する蘭山龍泉堂や次稿で扱う山中商会の場合に象徴されるように︑中国は︑彼等にとって最大の仕入れ基地だったの
である
︒
これに対して米国は︑これも詳しくは次稿で触れようが︑例えば山中定次郎が明治二十七年にニュー
ョ
ーク支店を開いた
の
を皮切りに︑同三十二年にはポストンに翌三十三年には英国ロンドンに︑更に下つて昭和三年にはシカゴにそれぞれ支店を設け︑この間ロツクフェラ
I
︑チャールス ・
フリーヤ等の名だたる大富豪を顧客︒
︑の
販美古洋東全すため始中国の売本日に基地たに術であるをよくしとっう・
︵ l︶1 人第報相語言間集論学大院学北東号u
・・
2五 六
日本人骨- f商の動向
五七
とすると︑中国で日本人骨
- -︑︑国米ずみのたれ売販いおに日本はれ商に仕入れた文物さててなよをららっ
f
中心とする欧米においても販売されたと言う文物
の
流れが浮かび上がってくる︒
後に判明するように︑南山は中国で仕入れ日本で販売する典型的な中国←日本型の事例であり︑山中は中国で仕入れ︑
一
部は日本で主要には米国等欧米で販売する世界型であった
︒
即ち前章で検討した明治期における仕入れ品の販売傾向は︑文物流出
の
本格化する大正期に至つて全く顕在化した︑といえよう︒
なぉ付言しておけば︑前々
稿で明らかにした米国向け中国文物の圧倒的輸出額と︑ここに挙げた日本人骨
- -︑す何恐は字開外商海相展数をの示かのらくらと
f
関関係を示していると思う
︒
さて以上で大正期における日本人骨童商の海外展開とそれに占める中国進出の規模の相対比較︑またその意
味の検討を終えることとし︑以下では章を改めて中国←日本型の典型的事例として︑また明治三十八年より大
正十
一
年に至る創業展開の
軌跡を資料に基づき詳細に辿りうる希有の事例として︑南山龍泉堂の場合を取り上げる
︒
-
g-
東北学院大学
一
講集人間・言語・情報第u
2号五 八
第三章爾山龍泉堂の創業と展開
第
一
節爾山松太郎略歴と蘭山龍泉堂創業経緯本節では︑先ず始めに松太郎の経歴を簡単に振り返つておく︒彼は︑明治十五年富山県に生まれ︑同二十七
年高等小学校を二年で中退し︑これ以後転
々
と職を換えているが︑明治三十二年より二年あまり古物商松井宗四郎宅に奉公した
の
を契機に︑同三十四年﹁
骨-f
品研究ノ為メ﹂
上京した︒
その後も職を転々
とするが︑同三十八年四月に至り
﹁
骨董品併二支那語研究ノ為メ渡清﹂
し︑既に知遇を得ていた骨重商神通由太郎のはからいで
︑
北京の束単牌楼﹁
林ホテール﹂
に職を得︑また五月より翌三十九年七月までの間︑中国語の個人教授を受けている
︒
そして明治四十年一
月には︑﹁
骨- l
﹁
ル重骨ル的日れ︑辞業同目的達セホガタよテ為をりンこし﹂
メf
二従事
﹂
し︑本業としたの
である︒
しかし︑後に章を改めて詳述するように︑この
間にも松太郎は試験的に骨 - l︑南山︑︒
三十河西陝西に八か四年四一
利に定益のてお営業けか既月行月たあげていなのををぉつら・
り・ f
省を遊歴し︑該地の骨董商を具に視察し
っ っ
︑仕入れを行つた︒
そして四十一
年二月からは︑北京日本人会書記に就任し︑俸給を受けながら
﹁
兼業トシテ骨- l麻内
︒ ︑
婚線門文崇はに月三胡結一
年二十四営商だん月﹂
ヲf
同路南に
﹁ 一
家借リ受業ヲ成﹂
し︑八月末には前記の書記を辞した︒
これ以後は︑北京と日本の間を盛んに往復し︑活発に営業活動を行つている︵後述︶
︒
辛亥革命の勃発した翌年の明治四十五年三月には︑麻線胡同に﹁
家屋地所ヲ買求
﹂
め︑その後大正四年にも東城校補胡同に土地を求め︑更に翌五年には︑第一
次大戦に伴う好況を見越して︑事業拡張の為には
﹁
東京二於テ売捌キ所ヲ設クルニシカズ﹂
と断じ︑六月に東京銀座通り一
丁日の目抜きに店舗を借り受け開店にこぎ着けた
︒
大正九年には︑京橋区鈴木町に巨費を投じて新店舗を建設し移転したが︑同十二年の関束大震災によって罹災︑甚大な損害を蒙つたものの︑早くも
一
ヵ月後には営業を再開し︑復興
へ
の足掛りをつ
かんでいる︒
こ
の
ように松太郎の略歴をみると︑青年期にいたる曲折の
なかで次第に骨董商へ
の志をかためたことが知られるが︑日露戦争終結直前に単なる仕入れ
の
為の 一
時的滞在ではなく︑中国語を学ぶなど恐らくは該地での恒常的仕入れ基地
の
確立を遥かに意図しっ つ
大陸へ
雄飛したことと︑当地での地歩を固めた後︑第一
次世界大戦に伴う好況を予測して販売基地としての東京開業を企図したこととは︑ともに松太郎の商人としての優れた先 見性と決断力を良く示している
︒
時あたかも辛亥革命という骨董商にしてみれば文字どうりに千載一
遇の時連 に際会し︑着実に事業を展開していったことは次節以下に見るとぉりである︒
-
li-
第二節経営状態
既に冒頭でも概略述べたように︑松太郎は几帳面な性格であ
っ
たとみえ︑﹁
明治三十八年五月日本人骨
- i l商向の動- 骨董薄仕入
五九
東北学院大学論集人間
・
言語・個報第n
2号六
〇
第壱号龍泉堂
﹂
と題する︑明治三十八年から同四十二年に至る詳細な帳簿を残している︒
これには︑個々
の仕入れ品日名とそ
の
日時・
価格︑及び販売価格と購入者名とが︑各年次月日ごと詳しく記されている︒
この仕入れ簿により︑辛亥革命前における邦人骨董商の扱い品日︑仕入れ価格︑販売価格︑売先者名︑更に各年毎の
収支︑経営状態
・
規模等々
を詳細に明らかにすることができる︒
また氏は︑既に前節で参照した高等小学校中退から関東大震災に至る本人履歴と︑骨董売買に関わる相当詳しい記録を手帳に書き記している︒この
﹁
手帳﹂
は︑内容的に前述の
﹁
骨重仕入簿﹂
に連続していて︑明治四十三年から大正五年前半期に至る主用品の
売買記録があり︑これを通じてこの間の経営状態の
一
班が窺える︒
更に︑大正五年の帰国後から同八年に至る純利益︑及び十二年の関東大震災前後における資産内容をも示されている
︒
この﹁
手帳﹂
と前出﹁
骨重仕入薄﹂
とを合わせると︑辛亥革命を挟む明治末から大正中後期に至る
一
邦人骨董商の創業と展開︑経営内容の推移等が︑かなり詳細に明らかとなる
︒
これら資料によって明らかとなる蘭山龍泉堂の創業史を通じ︑辛亥期における日本人骨董商の動向を典型的に捉えることができるであろう
︒
では始めに︑
﹁
骨董仕入簿﹂
により︑明治三十八年から四十二年までの経営収支を次頁表i2にまとめてぉく︒
明治三十八年は︑試験期間であって問題にはなるまいが︑三十九年になると経営規模はかなり本格化してお
り︑松太郎が骨董業を本業化した四十年の数値と比べても遜色がないほどである
︒
逆にいえば︑三十九年の営日本人骨
- l商動向のf
表一2 経営収支表 (明治38年˜42年) 年度
(明治) 仕入原価合計 売上合計 利 益 取扱数i
lt
主要販売先38年 150円40錢 178円30銭 27円90銭 38点 神通由太郎5点
39年 2,372円80銭 3,083円68銭 710円88銭 184点 神通由太郎71点
40年 2,602円16錢 3,395円5錢 792円89銭 159点 神通由太郎24点
林 新助24点
41年 3,609円15錢 7
.
497円40鐵 3,888円25銭 l41点 神通由太郎6点神通松三郎21点
42年 8,239円40銭9
.
446円20鎖 l,206円80銭 l34点 神通由太郎31点業成續
の
結果をもとに︑それなりの自信と見通しを得て︑翌年正月からの専業化を決意したのであろうか
︒
さて数字を検討すると︑四十一
年は︑仕入れでは前年を千円程上回つているにすぎないが︑利益は前
年比三千円強増の三︑八八八円をあげている
︒
これは後述するように︑砧︵青磁︶袴腰香炉を
一
千円で仕入れて四千円で売り︑差つ引き三千円の巨利を得たことによる
︒
松太郎にとって初めての大勝負であり︑ こ
の
成功が爾後の
経営販売の
機軸を決めた可能性がある︵後述︶︒
さて翌 四十二年は︑これに気を強くしたのか高額品の仕入れが日立ち︑仕入 れ総額で前年比四︑六〇〇円増の八︑二〇〇円あまりとなるが︑売上高自体は前年比二千円增の九︑五〇〇円ほどで伸び悩み︑利益は大幅
減
の 一
︑二〇六円に止まっている︒
また取扱品の品数は三九年の 一
八四点から四二年の
一
三四点へ
と︑年毎に減少しているの
が目を引く︒
こ の数字は仕入額の上昇とともに︑一
点当たりの高額化を示している︒
さて最後に︑三十九年から四十二年の四年間でみると︑仕入れ総計
一
六︑八二三円︑売り上げ総計二三︑四二二円︑利益総計約六︑六〇〇円と
六
一
-
13-
表一3 主要販売品目
一
覧 ( 明 治 4 3 年˜
大正5年上半期)年度
(明治) 品 名 仕入原価 販売額 利 益 販売先名
43年 ;宙青磁大花瓶
六朝l設金花生
・
香炉天商!寺 概磁下蕪花生
飛青磁三足香炉
7,000円
2銀
.
000$1,200
1
l1800$
3,350円 850円 700$
720$
林新助 岡田朝太郎
岩井 山中定次郎
44年 六朝鍍金仏二体
砧青磁魚耳花瓶
1,000S l,100円
550$
460円
仏人ウオシニ 神通由太郎 45/大正
元年 天施寺遊環花瓶 1,200円 820円 林
2年 宋鎖象限香炉
著翠環付丸形香炉
650円 2,100円
550円 600円
林 林
3 年 砧青磁双魚対鉢
天施寺青磁無地第t;ll.
大明七宝田式香炉
2
.
300円l
.
335円850円
l,760円 735円 (240円)
山中 林 610円
4 年 5 年
上半期 待腰中形香炉 1
.
700円 4,750円 (3,050円) 山本唯三郎東北学院大学論集人間・言語
・
悄報第n
2号六二なり︑年平均
一
︑六五〇円程の収入を得たことになる
︒
総じて︑その
創業期は︑比較的順調な滑り出しであったといえよう︒
さて次
の
明治四十三年から大正五年前半期までは︑前述
の ﹁
手帳﹂
に主要扱品が記入されているだけで︑経営内容全体は把握 できないが︑今さしあたりそれら主要品を 拾うと上記表
︐
3の如くである︒
以下に解説を加えていこう︒先ず︑明治
四十三年だが︑この年には先年と同様に砧 青磁大花瓶
一
点だけで三︑三五〇円の巨利をあげていることが特に目を引く
︒
他の利益をあわせれば過去最高の収入を得たはず
である
︒
四十四年は二点︑四十五年つまり辛亥革命
の
発生した年にはわずかに一
点が記されるだけだが︑手帳には四十五年三月頃に
﹁
此際一
週間之内二千円を儲ケタリ﹂
とあり︑他にも少なくな い利益をあげていたことが分かる︒
しかし﹁
其後半年程商業絶無︑支那人問ハ恐れて開業せス﹂
とあり︑さす がに革命後の
政情不安や混乱で︑商売どころではなかったのであろう︒
しかし手帳に記すこの年の唯一 々
点は十二月末に売られ︑八〇〇円ばかりの利をあげたのであった
︒
総計でみれば︑この年もかなりの利益である︒
大正二年は二点だけではっきりしたことは分からないが︑三年には三点︑うち砧青磁双魚対鉢は
一
︑七六〇円の利をあげ︑これら三点だけでも二︑七〇〇円を超えるかなり
の
利益となっている︒
これに対して︑四年は一
点も記録されていない
︒
手帳には︑﹁
欧州戦争又ハ支那動乱之為メ一
般商業不振ト相成日的更二付ズ殆ト遊びの
情 体ナリキ﹂
とみえ︑この
年も商売にならなかったのであろう︒
大正五年になると︑正月早々
袴腰中形香炉を入 手し︑三月末に売りさばき︑一
点で三︑〇〇〇円をこえる利を得ている︒
この後に︑前節でも指摘したように︑大戦景気を見越して帰国し︑六月に東京銀座に店を構える
︒
この時の
資本金は︑出店諸経費一
︑五〇〇円を差し引き
一
五︑五〇〇円にのぼっている︒
これが︑明治三十八年より大正五年前半期に至る十年余の成果であった
︒
-
l 5-
次に大正五年下半期から同八年に至る経営状態を次頁表-4で示す
︒
大正五年は︑下半期だけであるにもかかわらず︑五千円余の利益ををあげ︑更に翌六年には二万を超え
︑
七日本人骨- li -
商の動向
六三
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第u
2号六四表一4 経営収支表 (大正5年下半期˜ 8 年 )
年度
(大正) 利 益 諸経費等 純利益
5 年
下半期 8,181円37銭 2
.
9 4 l 円 4 6 銭 5,239円91錢6 年 26,329円20錢 4
.
302円20錢 22,027円7年 24,611円l3銭 6,144円54銭 l8,466円59銭
8 年 18,146円46銭 7
.
066円9l銭 11,079円55銭年
・
八年と減少するものの︑それでも一
万円を上回つている︒
在中国十年余の最終的成果である銀座出店時の資本金が
一
万五千円余であることを思う と︑銀座出店後の利益の
伸びがいかに大幅なものか容易に知られよう︒大戦好況を睨んだ松太郎の帰国
・
銀座出店の目論見は︑正に的中したというぺきである
︒
こうした順調な経営に裏付けられてであろう︑松太郎は大正九年に京橋区
鈴木町に四万円の巨費を投じて家屋を新築し移転した
︒
そしてこの﹁
手一張﹂
は︑大正十二年
の
関東大震災による被害状況とその時点での
資産の全容を記して︑実質的に終わっている︒それによれば︑
大正十二年九月
一
日午前十一
時五十八分︑大地震起リ出火シ︑東京全市灰鐵トナリ︑不幸罹災シ︑土蔵落チ︑本店ノ財産商品全部鳥有二期シ︑此
損
董 一
同金七萬六百円位ナリ︑拙者不在中︑幸二帝国ホテル賣店免難︑為め : 商品一
萬三千六百余円助リ︑同年十月二日ヨリ営業ス︑残存財産三万六千二百円及現金金弐万壹千円在
日本人骨-li-
商の動向
六 五
と︑結ばれている︒残存財産と現金合計で五七︑二〇〇円︑これに損害額七〇︑六〇〇円を加算した総計
一
三万円弱が︑震災前の総資産となろうか
︒
即ち︑松太郎は大正五年下半期の銀座開業から︑同九年の京橋移転を経て震災に至る七年ほどの間に︑銀座開店時の資本金
一
万五千円を除く一
〇万円余に達するかなり巨額の資産 を形成していたことになり︑この
間の急激な隆盛ぶりは充分に注日してぉく必要がある︒
総じて︑松太郎は︑幸亥前に勇躍北京に赴き︑大戦時には決然帰国し︑震災前には商売の更なる飛躍を企図
してであろう︑帝国ホテルに出店するなど︑その行動の軌跡は常に時流に
一
歩先んじていたようだ︒
何よりも辛亥革命というまたとない好機にも恵まれて︑北京を仕入れ基地に︑東京を販売基地にして彼我を往来し︑一
代にしてしかもかなり短時日の内に︑蘭山龍泉堂の基礎を深く培い︑とり
ゎ
けて銀座開店後に大戦景気の波に乗り著しい展開をみたのであった
︒
我々
は蘭山松太郎という一
骨董商の創業から展開にいたる経営の足跡をたどることで︑辛亥革命期に中国文物の流出に関わった日本人骨董商の動向を典型的に捉えることができ︑とり わけて中国←日本型の個人骨董商の成功例を如実に見ることができるであろう
︒
そして次稿においては︑その 独特の経営方式や大規模な販売方法で世界的に名を馳せた中国←世界型の典型的事例として巨大美術商山中商 会の場合を取り上げ︑蘭山龍泉堂の場合と対照することとなる︒
- 1 7
-
第三節仕入れ品の種類および特色
﹁
骨 - i︑一
三一
点には毎の
仕入れ数概各ね簿〇か八〇度年明十治年二十四三︑年九入での仕まかる﹂
ららよとf
程で︑その種類は︑陶磁器
・
古銅器・
玉器・
仏像・
漆器・
印材・
硯・
卓・
書画等々
︑文字通り骨董全般に及んでいる︒大まかに分類してみると︑明治三十九年分︵
一
八〇点余︶では︑印材二〇数点・
状鎮一
〇点余を始め︑墨架
・
筆洗・
筆架・
水滴・
筆筒・
硯・
墨等々
の文具類六〇点余︑香入・
香合・
香炉等々
の香具類が一
〇数点︑茶筒
・
瓶掛・
茶入および茶事用と思われる花瓶等々 の
茶具類二〇点余︑仏具類一
〇数点等が主なものである︒
これを素材別に見ると︑翡舉製品七〇点弱
・
瑪瑙製品三〇点弱・
水晶類二〇数点など玉製品と鉱物類だけで優に過半を超えるが︑この他に︑陶磁器類が二〇数点あり︑このうち煎茶筋に好まれる清朝製の寧窯︵年
一
黑︶および番麦手︵茶葉抹︶の花瓶などが
一
〇点程含まれている︒
翌四十年︵一
五九点︶では︑香具・
茶具は前年と際立つた増減はないが︑文具類で印材や鎮が数点にまで激減し︑かわりに文庫や卓がそれぞれ
一
〇点前後に增え︑また古銅類
一
〇点ほどが登場したことなどが日につく︒
これにも関連してか︑素材別でも玉や鉱物製品が三〇点程に急減し︑逆に紫租特に青貝製品が 1〇点ほどに︑また陶磁類も四〇点程に增えている
︒
四十一
年︵一
四一
点︶になると︑香具は微減︑
茶具は若干增程度であるが︑文具は減少傾向が顕著となり二〇点程に落ち込んでいる
︒
素材別では︑玉製品が二〇点程に減少しているが︑陶磁類は横這いである︒
四十二年では︵一
三四点︶︑ 東北学院大学論集人間・
言語・ :個報第n
2号六六
日本-
^ 一
管一 一 一 一
商の動向六 七
文具はさらに減少しているが︑香具は二〇数点に︑茶具も茶事用と思われる鉢類
一
〇点ほどを入れると三〇数点に増加している
︒
素材別では︑玉製品は微増だが︑
陶磁類は五〇数点に大幅に增えている︒
総じて
︑
この四年間の変化でみると︑
当初扱い数の中で大きな割合︵三〇%
超︶を占めていた文具が︑その比率を
一
〇数%
にまで減らし︑逆に都合二〇%
程であった香具・
茶具の割合は︑四〇%
超に増加した︒
また素材的にも︑当初正に圧倒的比率であった玉
・
鉱物類が急減したの
に伴い︑元来一
〇数%
の比率に過ぎなかった陶磁類は︑四〇
%
程にまでその
比率を上昇させた︒
つまり松太郎は取扱品の主力を玉・
鉱物類を主体とする﹁
文具
﹂
から香具・
花器を含む﹁
茶事﹂
用途の陶磁類へ
と移動させ始めたということなのである︒また素材別にみると特に目に付く
の
が︑
翡一一望・製品・
︵六朝︶金銅及び石仏・
青磁・
白玉・
番麦手・
紫檀・
青貝等で︑器種別では花瓶
・
香炉・
香合・
水滴・
菓子鉢などであるが︑その
内高額のものを列挙すると次頁表-5の如くである
︒
見られるように︑器種別では香炉か花瓶︵花生︶︑素材別では白玉か青磁に限られているのが日に付く
︒
また︑明治四十三年以降については︑既に先引﹁
手帳﹂
︵表1
3︶に列挙したとうりであるが︑ここでも器種別でみると香炉と花瓶が︑素材別では青磁が大半を占めていることが知られる
︒
このように︑龍泉堂扱いの高額品は︑明治期から大正五年に至る北京開業期間中︑白玉及び特に青磁製の香炉か花瓶にほぼ限られてい たのである
︒
因に千円以上の利益をえたもの
都合四点︑しかもその
内三点は三千円を超す巨利をあげているが︑ いずれも青磁であっ
た︒
即ち蘭山にとっては恐らく青磁の逸品こそが年間の収益をも左右する販売品中の
切り-
1g-
表一5 高額品販売品目
一
覧 (明治41年˜ 4 2 年 )年度 品 名 仕入原価 販売額 利 益 販売先名
4l年砧 ( 青 磁 );
i
書腰中形香炉 1.
000円 4,000円 3.
000円 林新助42年 白玉香炉三ツl前
解 i 'fa ? 高a
白玉獅子蓋有環大花瓶
自玉象
:
E報好蓋三足香炉砧青磁花瓶
一
対500円 1,000円 1,300円 1,000円 530円
763円50錢 l
.
200円1,500円 850円 450円
263円50鐵 200円
-
200円150円-
80円神通由太郎 村松 神通由太郎 林新助 林新助
札であった︑といえよう
︒
では︑当初圧倒的割合を占め後に急減した文具類の意味や右に見た高額品の 販売傾向をどう理解すれば良いのであろうか
︒
第一
に文具類にっ
いてだが︑結 論から言うと︑仮にこれを単なる実用途の
みの仕入れ販売とみたり︑単純な主 力品の転換とみるのは︑いささか早計である︒
江戸終一 一
一一一 一
以後なぉ︑ 澳厚な陰影を残す文人趣味にあって︑文具は依然として主要な⁝
一
員玩の対象であったし︑また既に最盛期は過ぎたとはいえなお広く流行していた煎茶道においても︑文房飾
りと称し茶室に鑑賞用の文具類を並べては︑香を焚き︑花を生け︑茶を喫し︑文
房清玩の意趣を尽くしていたのである
︒ つ
まりこれら文具類は︑文人趣味やそれと密接な煎茶と深く結び付いており︑香具
・
花器・
茶具とともに一
体的な中 国趣味の世界を構築していた︑と思われる︒
需要の変化にも留意する必要があ るが︑松太郎の﹁
文具﹂
から﹁
茶事﹂
用途の
陶磁類へ
の転換もこうした関連性・
背景のなかで理解されるべきであり︑またその転換を促した有力な契機として
は︑先にも触れた明治四十
一
年における一
価青磁袴腰香炉︑っ
まり最も代表的な﹁
茶事﹂
用途の陶磁販売の成功例をあげることができるはずである︒
東北学院大学論集人間・言語・情報第u
2号六八第二に高額品
の
販売傾向についてだが︑それはなによりも︑日本人の嗜好というより当時の日本側の需要を 強く反映したものだった︑といえる︒
即ち先にも些か触れたように︑最盛期を過ぎたとはいえ明治中期から末 期にかけて煎茶はなぉ広く流行しており︑抹茶も明治維新期の衰亡から漸く脱し︑大正中後期の
最盛期へ
と移 行しっ つ
あった︒
前記した仕入れ品の多くや高額品は︑例えば青磁の香炉が煎茶・
抹茶でともに重用され︑同花生けはとくに抹茶で︑玉の香炉は煎茶で珍重されるなど︑
﹁
茶事﹂
流行の風潮を反映しその用途向けに︑特に煎茶道具や文房飾りとして購入されたものと思われる
︒
総じて松太郎は︑明治三十八年から大正五年に至る北京滞在期間にあっては︑辛亥革命前はもとより文物流
出の本格化する革命後においても︑
一
残された資料から見る限り︑何より日本人向けの仕入れに腐心し︑とりゎ
け時に巨利をもたらす
﹁
茶事﹂
用途の陶磁類に傾斜していたかのようであり︑辛亥革命を重要な契機として後 年において成立し︑また自らがそのパイオ一 一
アの栄をになうこととなる所謂鑑賞陶磁器︵非茶道具︶とは︑な お隔たりがあったように見受けられる︒
-
21-
第四節販売先︵購入者︶
﹁
骨董仕入簿﹂
は︑
明治三十八年から四十二年に至る総取扱点数六百数十点の
内︑ごく一
部に﹁
支那人﹂ ﹁
客人
﹂ ﹁
市﹂
等としるした購入者不詳の場合を除き︑殆どは購入者の姓名が記されている︒
それによれば︑姓名の日本人骨
- l商動向のf
六九
東北学院大学論集人間
・
言語・
情報第n
2号七〇
判明している購入者は全て日本人であり︑多くの場合重複して記載されている
︒
即ち顧客の大半は︑馴染みの日本人ということになる
︒
この
内神通由太郎は一
人で百数十点
を購入して最大の得意先となり︑次いで林新助が四〇点程購入してい ︵--
︒
また前掲の
表1
3や表1
5に示した大正五年に至る高額品の場合を見ても︑購入者は特定
の
人物が多く︑因に両表総計一
九点の内︑林新助が八点︑神通由太郎が三点︑山中定次郎が二点等となっている
︒
即ち最大の顧客層は︑神通・
山中・
林といった著名な骨董商であった︒
先引﹁
手帳﹂
の記載からも一
組えるように︑南山は︑北京で仕入れた日本人向けの骨董類を︑日本に持ち帰り︑主に特定の有力骨董商を対象
にして売り捌き︑また北京で仕入れるという方法︑いはば卸を繰り返していたことになる︒
第五節銀座開店後
の
販売傾向以上︑明治末から大正中後期に至る龍泉堂の営業
・
販売品日等々
の軌跡を辿つたが︑なぉ大正五年後期の銀座開店以降の販売品目については︑未検討であった
︒
ここでは先引の﹁
手帳﹂
に見える若干の関連する記述と周辺の資料からこの問題に検討を加え︑本章の結びに代えたい
︒
さて
﹁
手帳﹂
には︑大正五年と六年のみ︑販売品日に関する簡略な記載がある︒ 一
覧表にすれば︑次頁表︐
6の
ごとくである︒
・見られる如く︑大正五年下半期では︑記載された石像
一
点の利益二︑ 1〇〇円だけで同期の粗利八︑〇〇〇日本人骨- li-
商の動向
七
表一6 高額品販売品目
一
覧 (大正5年˜ 6 年 )年度 品 名 仕入原価 販売額 利益 販売先名
5 年 六朝石像 700円 2,800円 2,100円 林屋治三郎
6 年 自玉大香炉
螺細大番棚
一
対l整i青磁茶入 白玉香炉二個
7
.
000円3,600円 2
.
800円5,000円
2
.
500円2
.
000円l
.
200円l
.
800円山本 山本 山本 山本
旧主
・ 一
無隆堂神通由太郎の
死去に際して︑爾山松太郎に﹁
自分は普段多く北京に出張していて不在勝ちだから︑店を
一
任したいから是非手伝つてほしい﹂
との誘いを受け
︑
同店開店後ほぼ一
年にして入店の運びとなるが︑結局その後五年間つ まり大正十一 ・
十二年の交まで動めて独立する︒
因に半年ならずして震災の厄に遭い︑翌十三年五月に西山保と共同で壺中居を創業する
︒
即ち広田は南山の銀座 分けとなる壷中居創業者広田不弧斎の回
̲
想1l
1 l
で
ある
〇
彼に
よ
れば
大正
六
八年
月の
円余の二五
%
程を占め︑六年度では﹁
商品ノ内千円以上利得アリシ物﹂
である上 記四点の
利益総計七︑五〇〇円だけで同年の粗利: ー
ハ︑
〇〇〇円余の二八%
程を占めたことになる
︒
少数ながらいずれも巨利をあげたと言うべきであろう︒
さて内容を見ると︑六朝石像が
﹁
洛陽龍門山﹂
からの将来品とされている点注意されるが︑六年
の
高額品も白玉・
青磁等で︑恐らくは茶事用途のものであったとぉもわれ︑これにより銀座開店以後も少なくともその当初の段階では︑高額品に関す る限り︑これまでと同様
の
傾向が続いていたものと思われる︒
そして﹁
手帳﹂
に は︑これより以降の販売品日
につ
いては全く記述がない︒
ここで参照されるのが後年蘭山龍泉堂とともに東京における所調鑑一實美術