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渡 辺 市 郎

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Academic year: 2021

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(1)

HumanTouch

渡 辺 市 郎

はしがき

今日の技術は,急速に拡大された機械文明によって反 省の暇なしに失われた人間性をHumanTouchの一点 に於て回復しようと試ゑているかの如くに見える。作る ことの喜びは,使うことの喜びを伴うことによって,そ の喜びは全きものとなる。使うことの喜びと関係のない 作ることの喜びは,少なくとも技術者の喜びではない。

科学者はthe joyofcomprehensionが研究に対する唯 一の報酬であると言う。つまり,発見した新しい物質や 法則が,現実生活に於て何等かの応用可能性をもつかど うかについては無関心であると言う。ところが,宇宙が comprehensibleであると言う時,その科学者は個人的 主観に立っているのではない。普遍的認識主観に立って いるのである。その発見されたものは普遍妥当性をもつ のであって,換言すれば,あらゆる人がその発見を賞讃 するものである。すべての人がその発見を承認し賞讃す ることが,技術の世界では,作る人の製品が大衆によっ て愛用されることに相応する。科学はtruthを,技術は utilityを目的とするからである。そして科学者が,そ の発見が現実生活に於て何等かの有用性をもつかどうか について無関心であるということは,人間性の重大なる 一面を無視するものである。研究のためには無欲無心で なければいけない。併し無欲無心ということは精神の自 由なる活らきを言うのであって,精神を場所的に限定し たり固定したりすることではない。それは全く精神の自 由に叛する。科学や技術によって人間性が失われるとい うのは,人間の精神を物の論理によって扱うからであ る。科学の探求は無心無欲でなければならぬと規定され ると,無心無欲は精神の自由ではなくて,科学探求の性 質の如くに扱われ,従って科学探求以外の場所はすべて 有心有欲の如くに見倣される。精神は自由に純粋に現実 生活への応用の可能性を考えることが出来る。

使用者の喜びが製作者に戻って来る。詩人も歌って,

ThesongiStothe singerandcomesbackmost tohim.と言う。歌が歌手に還って来ない様では,歌手 は歌えないだろうo技術の最終の課題をHumanTouch に懸けて,失われた人間性を取り戻そうとする技術家の 良心は,技術的理性の必然であり,理性の技術的当為で

ある。併し一体HumanTouchとは何を言うのだろう か。旋盤を動かすのも,ハンドルをまわすことも,ボタ ン−つ押すことでさえも, HumanTouchであると言 う。併し,渋い色つやの茶碗を手でなでまわしながら抹 茶を飲む時のHumanTouchと,旋盤で金属を削る時の HumanTouchと,Humanの内容が異うだろうo然も Humanとして同じでもあるだろう。宗教には宗教の,

科学には科学の,芸術には芸術の,そして技術には技術 のHamanTouchの仕方と内容があるだろう。Touch の仕方と,Humanの内容と,それを各々の領域につい て見ようと言うのである。

一一

キリストの人間性とHumanmuch

有名な最後の晩餐がはじまる前,キリストは,弟子達 の足を一人一人洗って,そして手巾で拭いてやる。そこ で,ペテロが,主よ汝わが足を洗い給うか, と問う。わ がなすことを汝は今は知らず,後に悟るべしと,キリス

ト答える。誠に聴甲斐ない弟子である。するとペテロ重

ねて,永遠にわが足を洗い給わざれと言う。それに対し

てキリストは,我もし汝を洗わずぱ,汝われとかかわり

なし@Ifldonotwashyou' Jesusrepliedcyouare

not infellowshipwithme' と答えるのである。言

葉の上では, infellowshipwithという人間関係のた

めに足を洗うのであるが,併し,その情景を想像する

時,恐らくこれは人類の歴史上HumanTouchの極めて

特異のものだろうと思われるo釈迦と弟子の迦葉の間に

かわされた枯垂轍笑の故事と対照してゑるがよい。弟子

達の中にはイスカリオテの裏切りのユダもいる。ペテロ

も 鶏二度鳴く前に,汝三度我を否まん, とキリストに

言われた弱い人間である。実に頼りにならぬ弟子達ばか

りである。全くその故にこそ,その弟子達の足を涙をの

んで一人一人洗うのである。覗甫の極みだと言うほかな

いのであるが,その時すでに,生死の意識から超越して

いたキリストにとっては, もはや善弟子も悪弟子も無い

のである。絶対精神が,直ちに肉体の現実に立って,弟

子達の足を一人一人洗うキリストの人間精神は,正に後

光が射すかの如くに,私には思われる。 このHuman

Touchは,我々にとって一つの理捻である。

(2)

恐らく伝道をはじめたばかりの頃だろう。群集に混っ て吾が子の姿を見ようとして来た母親に向って,キリス トはWhoismymother?Whoaremybrothers?

と言うて冷たく母親を突離すのである。地上の親子兄弟 は肉体の上の暫らくの関係にすぎない。そして天上の父 の御意を行なう者は,すべて霊の上での永遠の兄弟であ る。この霊と肉の分離すなわち肉体ば亡びるもの霊は永 遠なるものという思想は,キリスト教の根本的諺儀であ って,いわゆるキリスト教的教養もこの根本的鱸の上 に立つことは言うまでもない。比較のために言えば,斯 る身滅心常説を先尼外道の邪見であるとして道元はき びしく排斥している。ところが驚いたことに,媒けにさ れた十字架上のキリストは,母親と弟子とが近くに佇っ ているのを見て,母に向ってMotherthereisyour sonと言い,弟子に向ってThereisyourmotherと言 うて生死のぎわに,母親の生活を弟子に頼むのである。

何という態度の変わり様であろうか。曽って,母とは誰 ぞやと言って母親を突離したのに対して,今,生死のき わにたって,母よ,そこに御身の息子がいると言うので は,全く別人の観がある。ところが,聖書を仔細によめ ば, この態度の変化は,それほどおどろくに当らないも のであることが分る。と言うのは,吾が時来らず反って 死の時の到れるを悟ってから後の,端的に言えば殺され ることを覚悟してから後のキリストの態度は,時は満て り神の国は近づけり汝等海改めて福音を信ぜよと喚うて 伝道をはじめた頃の態度とは,当然異うのである。大雑 把に言えば,時は満てりという前の場合は,マタイ伝 に, ことに山上の垂訓Sermononthemountに看取さ れる。そして死の時到れりという後の場合は, ヨハネ伝 に, ことに訣別の説教Farewelldiscoursesに看取さ れる。マタイ伝の厳しい潔癖と烈しい気塊のキリストの 姿は, ヨハネ伝には殆んど見られない。応待は穏やか で,説教は回顧的にもの静かである。描かれている事件 は,物語りの様なサマリアの女,オリーブ山の女,ベタ ニアのマリア,そしてラザロの死に涙を流した話,最後

に弟子の足を洗って訣別の説教となるという具合であ る。中でもオリーブ山に於て,姦淫の折を捕えられた女 を真中に立てて,キリストを鶉こおとすべく,パリサイ 人等が難問を発したのに対して, ヨ,、ネ伝に『、イエス身 を屈め,指こて地こ物書き給う,彼等間いて止まざれ ば, イエス身を起して,汝等の中,罪なき者まず石を投 げ打て, と言い叉身を屈めて地に物書き給う。jとあるの であるが,何とさりげなく描かれた情景だろう。このさ りげなさの中に我々は,心身脱落のキリストを想い見る のである。マタイ伝の中では,汝,蛇よ蝮の窟よ と言

って罵ったパリサイ人を相手に, ここでは静かにものを 言うのである。マタイ伝の中では,周知の格率「若し右 の目なんぢを噴かせば決り出して棄てよ」 「すべて色情 を抱きて女を見る者は既に心のうち姦淫したるなり」な ど峻烈なる表現を見るのであるが, ここでは姦淫の女に 対して[吾も汝を罪せじ,往け, この後ふたたび罪を犯 すな]と言うて如何にも単純らしく宥している。この絶 対平安なる心境に於て訣別の説教がはじまるのである。

いわゆる訣別の説教は「過越のまつりの前に, イエス 此の世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り,世 にある己の者を愛して極承までthefullextentofhis loveこれを愛し給えり」 という一節からはじまる。生 死の隙こ立って,万感交灸のキリストは,分けても十二 人の弟子達と福音を宣く伝えて歩んで来た銀難の道を思 い,弟子達に対する胸一杯の慈愛でもって,頭を垂れて いるのだろうoDwell inmyloveと確信を以て言うの であるoそこでIamintheFatherandtheFather inme. という神人合一の理論を,今までの様に唇では なく純枠な理論を,諄々として説くのであるが,我々が 問題とするのは其の理論ではなくして,生死の際に立っ たキリストの愛が, 依然としてHehadalwaysloved hisownに止まっているのか, 自分の選んだ人hisown にとどまっているのかoそれとも世にあるすべての人,

一切衆生に対する愛にまで高められているのかどうかで あるoYoumust loveyourenemiesと言ったキリス トであるから, この最後の説教にあっては,敵も味方も 一切の対立を越え一切の差別を離れた愛が示されてよい 筈である。 「天の父は,その日を悪しき者の上にも善き 者の上にも昇らせ,雨を正しき者にも正しからぬ者にも 降らせ給う」からである。伝道のはじめ,キリストは

「我が来れるは,人をその父より,娘をその母より,嫁 をその姑より,分たんためなり」 「手を鋤につけて後を ふり返る者は神の国に適う者にあらず」 「人もし我に来 りて其の父母妻子兄弟姉妹且つ己が生命さえも憎まずぱ 我が弟子となるを得ず」と烈しさ此の上なく言うたので あるQこの烈しさは,断一切有の禅仏教が,猫を斬った り,片腕を斬り落したりするのと似ている。併し今は浬 藥の筈である。父より分たれた子を父に返し,母より分 たれた娘を母に返し,姑より分たれた嫁を姑に返すと,

心和んで言うのだろうか。手を鋤につけて後をふり返る

者でも尚且つ神の国こ適うことが出来ると言うのだろう

か。治水産業是仏法ということもある。ところが,キリ

ストは,肉体の地上から霊魂の天上をあくまでも分離す

るb二つの国を全く矛盾対立の関係におくのである。従

って其処には常に二者択一があるの承である。キリスト

(3)

の厳しさ鋭さ烈しさは,すべて只この形式論理にある。

人間の四苦八苦に同感悲痛しながらも,それから越えて 行く大慈大悲の智慧に到ろうとするのではない。若し人 間の四苦八苦に同感悲痛するという人間現実に立つなら ば,キリストの愛は,むしろキリストの愛憎はもっと複 雑微妙な壁と肇をもって和らぐだろう。科学でさえも,

今日の科学は,白か黒か何れかであるというのではなく してBetweenblackandwhitethereareallshades ofgreyが問題である。

一体,キリストの思想には,二者択一の思惟,或いは 同一律に近い様な相似法の思惟が特に顕著である。マタ イ伝から一寸拾いあげて見ても, PlainYesorNois allyouneedtosoy; anythingbeyond that comes fromthedevil. (5) Youcannot serveGodand Money. (6) Agoodtreealwaysyieldsgoodfruit, andapoortreebadfruit. (7) Youputnewwine intofreshskins.⑨の如くである。それだから訣別 の説教に於ても,先ず択出すという思惟が目につく。

IknowwhomlhavechosenqJYoudidnotchoose me:Ichoseyou⑮自分の択出した人だけ知ってい る。自分の択出さなかった人は知らないと言うのであ る。知らないと言うだけではない。時には怒をもって,

我を離れ去れIneverknewyou:outofmysight, youandyourwickedways!と言うのであるから,摂 取不捨の弥陀の誓願と言うわけにはゆかぬ。無論,稀に はIdidnotcometoinvitevirtuouspeople, but sinnersと言う時もある。けれども,キリストに於て二 者択一の意識の強いことは実に烈しいのであるolfyou belongedtotheworld,theworldloveitsown;but becauheyoudonotbelongtotheworld,because l havechosenyououtoftheworld, forthatreason theworldhatesyoU,⑮或いはまたPeaceismy partinggift toyoU,myownpeace, suehas the worldcannotgive⑭併し仏道は在家出家を問わな い。親簿は弟子一人持たず候と言う。霊と肉とに二分し て,それに対す‑る二者択一の強い意識がIhaveconqu‑

aredtheworld㈱という言葉となって現われて来る。

善悪の二つ,総じて以て存知せざるなり, という仏道に あっては 我,世に勝てり, という様な考えは出て来な

いo

まわり路が少し長くなったかも知れない。ここで吾々 の問題を究明することにしよう。霊は霊,肉は肉, と分 離固定して然も,霊の国と肉の世の中では価値が全く顛 倒される。肉の世で大なる者は霊の国では小なる者であ る。人の世で笑う者は神の前で泣く者である。人の世で

尊ばれる者は神の前では蔑まれる者である。そこでそれ ならば何故にキリストは,生死の際に立って,弟子達の 価値の無い足を一今人一人洗って,そして拭いてやったの か。更に,討捌の晩餐に臨んで,パンを取り上げてmy bodyであると言ったり,ブドウ酒の杯を取り上げてmy bloodであると言ったりしたのか。そのパンも酒も「凡 て口に入るものは腹にゆき,遂に剛に棄てらるることを 悟らぬか」それ故に,側に棄てられるものは,心とは関 係がないのであるから「洗わぬ手にて食することは人を 汚さず」と言われる物にすぎないのでないか。かくの如 きパンと酒がキリストの肉体の代わりとされ,そして肉 体がまたキリストの霊の代わりとされるのか。それはど んな理由にもとづくことであるか。十字架の上から,母 に向ってMoter, thereisyoursonと言い,弟子に向 ってThereisyourmotherと言うた時,恐らくそれ は母親の地上のはかない幸福を願って言うたことだろ

う。

ヨハネ伝第十章に次の一節が見られる。 [何人も私か ら不法にも命を奪おうとしているのではない。私は私自 身の自由意志myownfreewillで命を捨てようとし ている。私は命を捨てる権利をもつ。そしてまた私は再 び命を受ける権利をもつ。私はこのchargeを私の父か ら受けている]恐らく聖書の中で,最も深い感動を人に 与えるものは,キリストの十字架の死だろう。十字架の 死, この事実はどんな深遠な哲学よりも,人を深い沈思 に誘いこむだろう。霊肉分離論に不満をもつ人でも,十 字架の死の前には信仰の不思議さに頭を下げて考えこむ だろう。十字架の死を離れてはキリスト教は存在しな い。十字架の死を離れると,聖書は一冊の修身の教科書 となる。実は,霊肉分離論は,生死論であったのであ

るo

ユダヤ人に殺されるのではない。自由意志で死ぬのだ ということ。これが先ず問題である。今が自分の死ぬべ き時機であると悟った時,つまり死ぬくきあらゆる条件 が具っていると悟った時,死は全機現でもあれば絶対的 必然でもある。その必然のもとに死ぬとき, 自分を殺す ユダヤ人の姿は消えてしまう。絶対的必然のもとに死ぬ のであると悟ることが即ち自由意志である。若し然うで ない自由意志があるとすれば,それは窓意であって自由 ではない。自由は従って最高の叡智である。絶対的必然 に従って自由に死ぬのであるからユダヤ人に殺されるの ではないo

キリストは自由意志で命を捨てることがrightである

と見ていたと思われる。自由意志であるから,権力者の

強制でもなく圧迫でもなく,命を捨てることが純粋なる

(4)

実践理性の法則と合致するものとして意志が自由に死を 択ぶ。実践理性の法則と言っても,神からのchargeと 言っても,最高の叡智と言っても,一応は同じである。

何れにせよ,他の何ものからの強制ではなく,純粋に自 由意志でもって死を択んだとすれば,死についての恐怖 もなく不安もなく,死について思い煩う何ものも無いこ とになる。若しも死によって思い煩う何ものも無いとす れば,死は,肉体が滅びるだけで,精神に対して何の影 響も及ぼさぬことになる。つまり精神は肉体の死と無関 係である。その意味で,肉体の死に対して,霊魂は不死 であると見られる。ところが, ヨハネ伝第八章に[若し も私の教えに従うならば誰でもwhat it istodieを 決して知らないだろう』とある。即ち肉体から霊魂を分 離するというキリストの教えが十分に実現されているな らば, 自由意志が可能となって, 人はwhat it isto dieを知らないものとなるだろうと言うのである。霊肉 の分離は,実は死の苦痛を味わいための実践原理であっ たのであり, 自由意志を可能ならしめるための修行の原 理であったのである。

自由意志で,然も神のchargeで死を決意するなら ば,それは宗教的真理に従うものであって,世のいわゆ る自殺ではない。 「吾が往く所に汝等来ること能わず」

とキリストが言うたのに対して,ユダヤ人等が「自殺せ んとてか」と間うているoいわゆる自殺ではないが,ユ ダヤ人等の常識の眼には, 自殺として映ったに相異な い。ソクラテスも,弟子達から頻りに逃亡をすすめられ たのだが,それをきっぱりと拒って,悪法も法なりと言 って,毒の盃を飲ゑほして国法に従った。キリストも,

エルサレムに上ることは危険であるから思い止まる様に と,弟子達に頻りにすすめられたのであるが,それをふ り切って「それ予言者のエルサレムの外にて死ぬること はあるまじきなり,憶エルサレム,エルサレム」と言う てそして周知の「一粉の麦もし地に落ちて死なずぱ」の 復活の真理を説いて「先だち進ゑてエルサレムに上り給 う」たのであるO8先だち進み という表現にキリストの 自発或いは自由意志が見られる。ソクラテスにとって,

悪法も法なりとして法に従うこと,即ち死ぬことが道徳 的義務であった。キリストにあっては, myblood, the bloodof thecovenant, shedformanyforthefor‑

givenessofsinsが, キリストの直面した宗教的義務 であった。

神のcharge無言の命令,即ち宗教的法則と一致すべ く,肉体の生死を神の手)こ委ねたキリストの精神は,誠 に崇高である。精神が肉体から独立であること,即ち自 由意志の実在を,キリストは身を以て証明したのであ

る。かくて自由そのものの精神に於て,併し恐らく肉体 は息も絶え絶えに消え入る様な声で,キリストは,

Mother, thereisyoursonと言うたものだろうと思わ れる。全き自由に於て,何の碍げるものも,何の媒介す るものもなしに, この時キリストは直播こ肉体の現実に 戻っていたのである。それは最高の現実と言うべきもの だろう。

精神の自由と一致して肉体が行為した時,精神と肉体 とは同格である。何故かと言えば,肉体を離れて精神は 何ごとも表現することが出来ないからである。枯華激笑 と言えども身体的表現である。若し精神の自由ではな く, 自然的衝動によって行動した時,肉体は精神より劣 るものである。若し道徳法則または宗教法則と一致して 死を決意したならば,その時,肉体の死は道徳法則を実 現したものとして,従って肉体は道徳の精神と等値であ る。かくて母親に対するキリストのHumanTouchは最 高である。HumanTouchは我々にとって一つの理念で ある。

註,肉体から精神を分離するのは,精神の自由を実 現することである。ところが, この精神の自由は,肉体 が暴力や強制によって苦痛を感じている時でも,その強 制や暴力を精神の上だけで自由の自発に転換して,苦痛 から解放する服従の自由を実現することになる。例せぱ

「人もし汝の右の頬を打たぱ左の頬をも向けよ」 「人も し汝に一里行くことを強いなぱ共に二里行け」そこに一 里行くことを強制されているのに,二里行けと言うの は,その強制を自由の自発に変換することを意味する。

然うすれば,強制が不快でも苦痛でもなくなるという訳 である。の承ならず汝の仇を愛することも可能となる。

ところが,不快であり苦痛であるところの肉体に加えら れる強制や圧力を,肉体そのものに於て軽減しようと言 うのが,科学精神であり科学技術である。釈迦の生老病 死の四苦の如きは現に医学によって其の苦痛が軽減され ている。極端に言えば,精神の自由とは反対に,精神の 活動は陸しくとも,人工心臓こよって肉体を不死ならし めようとするのが,科学技術である。併しその科学技術 にも四苦なるものがある。第一苦 戦争の無い世界を作 ること。第二苦,人口増大に伴う食糧の確保・第三苦,

病気の完全追放。第四苦,エネルギー苦。 (東大教授向 坊隆氏)

シュレーディンガーの観測と 科学と人間主義'の中で,

測を次の様に説明している。

Human叱uch

シュレーデインガーは,観

[我灸は,与えられた自然

(5)

の対象に関して,或いは与えられた物理系に関して gettinginTouchwithitを離れては如何なる事実の 陳述も不可能である。このTouchは,対象を注視する ことに於ての承成立するところの,現実の物理的相互作 用である。即ち光線が対象に命中して夫れが肉眼に反射 されねばならぬ。ところが量子現象の場合は,観測する ことによって換言すれば光によって,対象が干渉される のである。対象が観測の光によって干渉されることなし に,即ち観測から分離された状態に於て,対象について 認識することは, もはや全く不可能であるj電子を手で もって天秤にかげたりするのではない。けれども,人間 が眼で見るということはlight istheverycozldition ofvisibilityであるが故に,その光が電子に攪乱を与 えるが故に,結局,人間の眼が電子に攪乱を起す。恰も 手で電子を持てば手の体温によって電子が膨脹する様な ものである。それ故に,観測が身体化されてTouchと 言うのである。無論人間が観測するのであるから,光を 使用するのであって,従って観測はHumanTouchであ

るo

そこでこのHumanTouchはどんな特性をもつのだ ろうか。それは先ず一種の自己分裂である。見ること が,見られるものと成る, という自己分裂である。但し 見ることが,光の運動によって置換えられる限りに於 て,見ること即ち光の運動が,対象の攪乱として見られ る物となるのである。これが量子物理学に於ける観測の HumanTouohであるolamIという自己同一性は,

単に形式的なるA=Aとは区別される。規定する自己す なわち対象化され得ぬ自己を主語,規定される自己すな わち対象化される自己を客語, この二つに自己が分裂さ れて,その自己分裂を前提としての自己同一性である。

Iamlは斯る自己分裂と自己結合の二重の意味をもつ のであって夫れが自覚であり自覚の同一性である。今,

相手があって,その相手を対象として,それに対する私 の行為を光の如くに見ることにしよう。ホイットマンの 詩にThe teaching isto the teacherandcomes backmost tohimという一節があるo教師は生徒に 教えるのであって自分に教えるのではない。量子力学の 観測者は電子を観測するのであって自分を観測するので はない。併し教え方が善いと,生徒はよく理解が出来 て,顔にも態度にも満足の表情を示すだろう。若し教え 方が悪いと,生徒はよく理解出来ず,不満の色を顔にも 態度にも表わすだろう。つまり教えることは,生徒の顔 色や態度の上に変化を起すのである。量子力学にあって も,観測するためのX線がSoftであるかhardである かによって,対象の電子に与える影響は互いに反対であ

る。生徒の顔色の態度の変化は,教えることの対象化で ある。教えることの対象化というのは,対象としての自 己として, 自己に還ることである。と云うのは,教え方 の悪いことがそれによって分れば教え方を善くしなけれ ばならぬと,教師は思うだろうからoそれがandcomes backmost tohimと言われるものであるo教えるこ

とは教師に対するものであると言う時,生徒は,教える ことの自己分裂の試験材料である。教えることが,教え られる者に現われて, 自己に戻って来るという自己分裂 は,量子現象の観測が,観測される物に現われて,それ を観測する即ち自己に戻って来るという自己分裂と同じ 形式である。一人の行為が相手に影響を与える其の影響 が自己の対象化として自己に戻って来る様な行為は,量 子現象の観測の自己分裂と同じ型である。これが量子力 学に於ける観測のHumanTouchの特性であるo

かかる特性をbackupするものとして,量子現象の現 象形式と心理現象の現象形式或いは意識の深層状態とが 区別され得ないという事を,挙げておきたい。古典物理 学にあっては,心と物と,その現象形式が異うとされて いたのであるが,量子力学にあっては,その類比が心理 現象に見られるのである。それ故に量子力学は,肉眼に 対しては閉ぢられた世界であるが,それだから人間から 遠ざかったのかと言うと,決して然うではない。反対に 密接になっただけである。

さて,物を見ると言うのは,光の運動によって視官が 力学的影響を受けることである。光の光子が網膜の電子 に作用するのである。この力学的影響について, カント は[視官は,あらゆる感官の中で,触感に最も遠く,空 間に於て最大の知覚領域を占めるばかりでなく,その器 官たる眼は,感触を感じることが最も少なく,実際若し 然うでなければ,それは単に見るということではなくな るだろうから,従って純粋なる直観は,直接的に表象す ることに一層接近するのである』それだから,先天的純 粋直観と言っても,事実に於て,それは肉眼で見ること

と近似的である。経験的直観の形式的関係を,純粋直観 のそれによって先験することが出来るのもそのためであ る。そしてまた純粋直観の意義も,経験的直観の種々相 を先取することの承にある。幾何学は決して空間の原型 ではない。要するに先天的純粋直観と言っても,肉眼の 身体から方法論的に分離したものにすぎないoアインシ ュタインはverynearとかveryshortとかいう様な言 葉を数学的に分析してニウトンが微分法を発見したと,

然う云う見方をしている。非常に近いとか非常に短いと

か言う言葉は身体的知覚であると見てよいだろう。斯る

知覚の経験的概念から,すべての経験的不純物を捨て

(6)

り,結合するための迂路である。かかる純粋認識が有効 である限り,人間と自然との間には言うまでもなく対称 的調和が成立する。ところが量子現象にあっては,純粋 直観を経験的直観から分離することが出来ない。何故か と言えば,電子がそれに於て与えられる直観が,視覚に 異常の感触が起った場合と同様のquasi‑intuitionで あるから。と言うことはweourselAesarepart of natureであるから。それは自然によって造られた人間 であって,それを人間自らが作ったものに移管すること は出来ないのである。無論quasi‑intuitionに対して は,それに適応する様な新しい方法を,人間は発明しな ければならぬ。

さて, カントの自然によって造られた人間というの は,人間は地上の存在者であり身体的存在者であるとい うことである。カントが特に感性的直観を尊重したの は,人間が身体的存在者であることを忘れないためであ る。身体的存在者であることを離れるのは,人間の越権 であり自惚である。斯ういうカントの考えが,ヘーケル にはあきたらなかったのである。併し今日の文化が科学 と科学技術とで出来ている時,それを正しく批判するた めには依然としてカント哲学に注目せざるを得ないので ある。

そこで身体的存在者としての人間が,科学の認識にど んな関係をもって来たか,簡単にその問題にふれておこ

う。

ガリレオが,人間であれ石ころであれ,あらゆる物体 から感覚的性質を捨てて,単に質量をもつSomething

として抽象したことが,物理科学の方法論的出発であ る。ところが色彩音響温寒硬軟等の如き感覚的性質は,

生命感覚として従って生命感情を触発するものとして,

人間の生活の上で重要な意義をもつ。かかる感覚的性質 を無視することは,生命感情から生れる芸術感情,ひい ては道徳感情をも無視することになる。かくて物理科学 者は無情緒の人間であるということになる。それ故に物 理科学者は,人間の一部に,常に反対者をもつのであ る。ところが面白いことに,セザンスにはじまる現代絵 画は,温色寒色遠ぃ色近ぃ色は別として,色彩の中に重 味エネルギーカ線等を含む様に描く。ガリレオとは全く 反対に芸術の中え物理科学を導入したのである。ガリレ オは質を捨てて量をとり量を測ることを以て科学である とした。それは如何にも人間の一面の抽象である。けれ どもその科学の量が,色彩音響冷暖等の感覚的性質に客 観性を与える。セザンヌの絵画の客観性は,色彩の中に 量を導入したことである。斯くて質が量を呼び量が質を 呼び質と量と一つに成ろうとする。それは人間性の要求 て,純枠直観の純粋思惟によって規定したものである。

さて,光の力学的作用すなわち感触が異常に大きい時 は,視官に攪乱を起して対象が正常には見えない。併し 単に論理的に考えれば,視官に攪乱が起るだけでなく,

対象にも撹乱の起ることが,論理的に思惟可龍であると いうよりも,その方が論理的に平等である。主観に攪乱 が起ると共に客観にも撹乱が起るとするのが論理的当為 である。併し斯くの如き自然は, カントは言うまでもな く,量子論の開発までは,誰も知らなかったことであ る。パスカルも,余りに大きいもの余りに小さいもの は,共に見えないとは言うたが,その余りに小さいもの が,見られることによって攪乱されて見えなくなるとま では,流石のパスカルも推論がまわらなかったと見え,

そこまでは言うていない。古典物理学の認識は,常に対 象の持続的同一性を前提する。普通A=Aはその意味で ある。それだからカントは,認識の方法は様々であって も,それが対象と一致することを以て認識の真理とし た。ところが今は,対象の持続的同一性が成立しないの であるから,従ってカソトの言う認識の真理性は成立し ない。一個の電子を対象として連続的にそれを観測する ことは出来ないのであるから,電子の集団を対象として 確率論的に認識する。かくて人間と自然の間の古典的調 和も失われたのである。量子力学に於ける人間と自然の 調和はJarringHarmonyである。古典物理学に於ける 既得の権利を犠牲として量子力学が開発されたのである が,そこでそれならば何が補償として得られたのかと言 えば,古典物理学にあっては人間と自然とが分離されて いて,そして両者の間に1対1の対応関係が存立したの に対して,量子力学にあっては人間と自然の間に切り離 せぬ結合のあることが発見されたことである。その結合 をブランクはSciescecannot solvetheultimate mysteryofnature.Andthat isbeoause in the lastanalysis,weourselvesarepartofnatureand thereforepartofthemysterythatweare trying tOsolve. と言うのである。その秘密の故に,我々はシ ュレーディンガーと共にwhoarwe?と問わざるを得 ない。カントは,人間には, 自然によって造られたもの と,人間がゑずから作ったものと,両方あるとした。悟 性の純粋認識は明らかに人間が自ら作ったものである。

それは経験的直観から純粋直観を分離することからはじ まる。その純伜直観に関して,純粋思惟が構想力の協力 によって, 自ら対象を構成して進むのである。言うまで もなく経験的直観から純粋直観を分離することは,人間 が一旦は自然から離れるのである。但し自然から離れる のは, より確実により粍謡に自然と結合するためであ

I

(7)

ってhistrueselfは高められ深められるだろう。それ 故に, カントは,科学に対する哲学の任務は,科学者を 常にgrundlicheSelbsterkenntnisに引き戻すことで あると言い,それを強調するのである。自覚に引戻すこ とがなければ,人間の魂を失った物理学者の存在も可能

となるわけである。

形式的一般化,つまり抽象化の限界に立って,数学は その対象を無定義要素とした。無定義であるから如何な る意味も持たぬ記号が,直観に於ける数学の対象であ る。斯る記号の結合に関する公理規則は,無定義である から無証明である。カントが範濤を定める時の対象は物 一般である。物一般に関する綜合は悟性の先天的規則で ある。ところが数学の場合は,無定義要素の無証明規則 であるから,悟性の先天的綜合規則ということも出来な い。即ち数学はstartingfromnothingatallである と言われ,従って数学の本質は無前提の自由であると言 われる。これによって数学は,無の活らきをもつことに なる。と言うのは,数学そのものが無制約的であるから 無制約的に対象に妥当することになる。この数学と似て 非なるものは, カンディンスキーの抽象絵画である。無 対象の絵画であるが故に,無への門であり自由への門で あるとして, カンディンスキーは歓びの声をあげたと言 われる。けれども此の無は一般化という過程を通らぬ単 なる抽象的無にすぎない。一般化の限界に立たぬ限り無 の活らぎはもたぬ。大智度論に[空は一切法を破し,唯 だ空のみ有りて在り。空にして一切法を破し終わらぱ,

空も亦応に捨すべし』また〔所縁つきて無なれば復進所 より還る』カントも理念は経験に還るべきものとしてい る。それは理性の必然ではなくして,正に全く人間性の 必然である。キリストが死の際に肉親の母親に還ったの も,信仰の必然ではなくして,人間性の必然である。数 学も物理学も, この人間性を無視することは出来ないの である。

数学は抽象の限界に立って,然も対象としては原始直 観とでも言うべき眼に見ゆるだけの記号をとらざるを得 なかったことに注目される。この人間性の制約に注目さ れる。人間存在から独立な自然の体系が,物理学の目的 であるかの様に考えられたのであるが, ところが相対性 物理学は,その目的に反して,人間が地球上の存在者で あることを認めて−それが一つの座標系である一 Erdwesenの制約に従いながら其の制約を越えて行く という新しい方法を取ったものである。 この方法は Humanityの正しい展開の仕方である。制約を無視する のでもなく,制約から遊離されるのでもなく,制約に従

↓、ながら即ち制約を止揚することによって制約を越えて である。ガリレオは感覚的性質を無視した。併しそれは

まだ身体的存在者としての人間を無視したのではない。

何故なら眼の視覚が光学を耳の聴覚が音響学を肌の触感 覚が熱学を等々の如く自然を開拓したのであるから。と ころが抽象がはじまった以上, この思惟の自由は,感官 の種類に応じて量の種類があるという斯る量の種類を も,抽象せずにはおれない。ガリレオが,すべての物体 から量を抽象して,約二百年の後,ジュールが熱と仕事 との間に等量関係のあることを発見した為, ここで量の 種類も抽象されて,物理科学はエネルギー一元論の認識

となったのである。

量の一般化は,数学#こ於ける一般化と同様に,物理科 学の最高の目的である。何故かと言えば,それによって 自然の多種多様の現象を統一的に理解することが出来る から。併し一般化のためには,そこに人間的要素を入れ てはいけない。何故なら人間的要素は特殊約であって一 般化に反するから。斯くて人間存荘から独立なる自然の 体系が物理科学の客観性であるということになる。斯る 物理科学の発展を論じて,ブランクは次の槻こ述べてい るoTheprogressofscienceisanexcellentillu‑

strationof the truthof theparadox thatman

must losehissoulbeforehecanfindit. 物理学

の真理を発見するためには,その前に人間の魂を失わね

ばならぬと言うのである。問題は重大であると思われ

る。と言うのは,ブランクの真理というのは復活の真理

であるから。ルカ伝第九章に「彼自身の安全を心配する

ものは安全を失う。若しも人が私のために彼自身を失わ

しめようとすれば,彼はhistrueselfを発見するだ

ろう」とあって続いて「whatwill amangainby

winningthewholeworld, at thecostofhistrue

self?」とある。ブランクのhissoulと言うのは無論

キリストのhistrueselfだろう。然うすると,ブラン

クは,物理学として全世界を得るためには,彼の魂を失

わねばならぬと言い,キリストは自分の魂を失ってそれ

で全世界を得たところで何の意味があるかと言うのであ

る。無論,問題はブランクの側にある。と言うのは,物

理学から人間的要素が除かれているならば,そして斯る

物副学の真理を発見しようとするならば,その思惟は人

間の魂などとは無関係でなければならぬだろう。けれど

も物理学の真理を発見した後も,その物理学者は魂を失

ったままであろうか。物理学の真理を発見するためには

人間の魂を失わねばならぬとすれば,実際に人間の魂を

失った物理学者も時にはいるだろう。けれども発見され

た真理が批判されるならば,その批判によって批判され

た真理はhistrueselfの内容となるだろう。それによ

(8)

行くのである。今までの様な単なる感性釣直観の制約で はなくErdweSenという一つの座標系が制約であるとこ ろに,認識が高次にされているoErdwesenの立つ幽票 系に於ての観測はその座標系について相対的である。そ の相対性を振い落すべく,測定を他の座標系のそれに変 換する。そこに不変者がある時,それが特定の座標系に 固執しない客観性として, 自然法則である。 斯くて理 論は高度に数学的に思弁的である。 アインシュタイン も,基礎概念から法則に到るまでの thedistance in thoughtgrowslargerandlargerと言ふ。数学的思弁 が高度であればあるほど,アインシュタインはその避論 を可視化しようとする。それについてアインシュタイン は, Tovisualiseatheoryb orbring it hometo oneCsmindと言うのである。この可視化は理論理性の 要求ではなく,正に全く人間性の要求である。 Nature

isman@shomeはthevisibleismancshomeを含 むoそしてパスカルと共に我々はManisawholeで あるとするoManisawholeが常に諸々の刻上に対し て均斉を与える。諸々の文化はManisawholeのも とに揺れながら動く。

斯くて数学にせよ物理学にせよ,一旦は或いは時々 は,身体的存在者としての人間から独立であるの如くに 存在するが,人間の心性はそれに安定性を見出さない。

身体的存在者としての人間と何等かの係り合いを持とう とする。それは全く人間性の要求である。況んや量子論 にあっては,観測に於て身体的存在者としての人間と自 然とは不可分離である。観測が身伽bされて6getting

inTouchwithit' と言われるのは当然である。物理 科学に於て失われたかの如く思われる人間の副本性の制 約は,却って極微の世界に於て不可避の制約として取り 戻されているのであって, この事を忘れて科学を批判す

ることは非常な誤りである。

されて高貴の人となったとしても食事の楽し承には変わ りがないだろうo主人が客人をよんで美味を饗応するo かわされる話は生感情を促進する様に快適である。客人 の喜びは実は主人の喜びを倍加する。この関係に於て趣 味は社会性を作る。そして社会性に於て趣味は生活の文 化を作る。膜がよいとか行儀がよいとか言う道徳性も,

恐らく食事の趣味が作り出した生活の文化だろう。ケエ テは,学問や芸術の創造と同様に,生活の刻上の創造促 進を高く評価している。吾/々が技術を問題として取り上 げるのも,生活の刻上として問題とするのである。

HumanTouchなるが故に,道具は趣味をもつものと なり,趣味をもつが故に道具はますますHumanとな る。ところが此の道具の趣味は,縄文時代の土器に既に 多くの傑作が見られる。道具の趣味性は人間にとって全 く先天的である。ところが,鉄といういとも平凡なる物 質が道具とエネルギーとを結合して,道具の世界に大革 命を起すのである。この革命が道具のHamanTouchに どんな革命を起すか。それが生活の刻上の根本問題であ ると思われるのである。

一体,道具とは何であろうか。釈氏要覧に,道具「中 阿含経云,所蓄物可資身進道,即是増長善法之具。菩薩 戒経云,資生順道之具,是也。」禅林象器笑に「凡三衣 什物,一切資助進道之身物具,名為道具」これによって 吾々は,道具と言うのは,要するに身を資け生を資ける ものであって,然もそれは道に順い道を進めるものであ ると,理解する。如何に身を資け生を資けるものであっ ても,道に叛するもの道に逆するものは,道具とは言い 得ないのである。カントは,善い目的に対する手段とし ての物は善い物であるとしている。このカントの考え は,是増長善法之具をもっと広く規定したものである。

物理化学の様な自然科学は自然を認識によって理解する のが目的であって, 自然科学そのものは道徳に対して白 紙であり善悪について無調心である。それを善い目的に 対する手段であるとすることによって,物瑠上学も全自 然の目的論的体系の中に入ることになるのである。これ を宇宙の道と見てもよいだろう。

道具は,作る人と使う人と, この二人の相互庚係に於 て存在する。作る人があって使う人がいなかったり,使 う人がいて作る人がいなかったりでは,全くゼロであ る。それは,我があっての汝であり,汝があっての我で あるという我と汝の相互関係に対比される。ところが,

我と汝の関係に於て,我が優者であり強者である時は,

汝を我の中なるものと見て,汝を我の手段の如くに扱 う。併し我が劣者であり弱者である時は,汝の中に我を 見て,我は汝のために奉仕するものとなる。今作る人の 道具とH皿1anTouch

地上どこにでもある土で作った碗で飯を食い,木で作

った椀で味噌汁を吸い,鉄瓶でわかした白湯を飲むo

土や木や鉄で作られた道具でもって我々の食事が行なわ

れる。 ところが, これらの道具はこれこそがHuman

Touchであるが故に,単に役に立てばよいと言うもので

はなくて,必らずと言ってよいほど,趣味が加えられ

るo食事の道具が趣味をもって作られる時は料理もまた

趣味をもって作られる。カントは言葉の上で美味すなわ

ち美的趣味であるとしている。ドイツ語が示す通りに恐

らく趣味は食事からはじまったものだろう。その方が如

何にも人間らしくさもありなむと思われる。人格が洗練

(9)

ものである。その槍を道具の一例として見よう。槍はそ の一端が手指で握る部分であり他の一端が敵を突く部分 である。手指で柄を握って操って操作するわけだが,そ の操作の目的は穂で敵を突くという結果が起ればよいわ けである。手指で柄を握って操作することがinputであ るとすれば,穂が敵を突くことがoutputである。とこ ろが,ハンマーにしてもノコギリにしても.,槍と同じく 手指で握る部分と素材に作用する部分と,二つの部分が あって各々の現象は異なるが,併し槍もハンマーも剛体 であるから手指の活らきが直ちに他端の作用として伝達 されるのであって,従って,手指で柄を握って槍を操作 することの上手下手は,直ちに敵を突くことの上手下手 として現象する。今,木材をノコギリで切ってカンナを かけて板を作ったとしよう。板にはカンナの跡が或いは ノコギリの跡が残るだろう。ところがそのカンナの跡と 言うのは,それは直ちに人間の手指の跡である。何故か

と言えば手指の活らきが直ちにカンナやノコギリの作用 だから。ノコギリやカンナの作用が,手指の活らきから 間接に何ものかに媒介されて,導かれたものではないか らである。ところがその手指の活らぎと言うのは,実は カントの言う意識をもつ手指の活らきである。その意識 が技能の源泉である。我々は一枚の板に製作者の意識を もつ手指の跡を見る。カンナの跡を見るのではないoノ コギリやカンナを握る意識をもつ手指のHumanTouch は板の面にそのままのHumanTouchとして残るのであ る。我々はそこに製作者個人を見るのである。意識をも つ手指がハンマーを握るのであるから,ハンマーは使い 慣れたものほど,意識をもつ手指の機龍がよりよく実現 される。使い慣れた道具が大事にされるのはそのためで ある。若し意識をもたぬ指で操作するとすれば,使い慣 れるということは起らぬ。指が若しも単なる物質であれ ば,使うほど指は消耗されるだけである。野球の選手 は, 自分のバットでなければ, 自分のグローブでなけれ ば, うまくないのは意識をもつ手指のHumanTouchだ からである。意識をもつ手指の活らきは,熟練者ほど計 算に入らぬ微妙な活らきをもつ。これが道具のHuman Touchの特性である。野球にせよ柔剣道にせよ,スポー ツは運動の基本の型をもつだろう。それは謂わぱ静力学 の作用の公理的型式と見てよいだろう。ところが試合 は,次の瞬間何が起るか,予測を許さぬ変化の場であ る。つまり混沌たる動力学の場であると見てよいだろ う。その動の中に静の一瞬を見出して,或いは静の中に 動の一瞬を見出して,選手は動かねばならぬ。動中静或 いは静中動を見る精神の高度の活らきを,用具は運動に 於て実現しなければいけない。用具が何でもよいという 代わりに,その人によって作られた道具をとれば,若し

人が優者であれば,その人は道具を道具として使うだろ う。若し人が劣者であれば,その人は道具のために奉仕 する即ち道具の道具となるだろう。この関係は大量生産 と消費大衆の関係に於て顕著に現われる。何故かと言え ば,消費大衆は人真似という愚行を演じて,道具のため に使われてそれを知らないからである。併し,作る人の 意図と使う人の意図とが一致すれば,或いは使う人の必 要度に応じて作る人が生産度を調整すれば,斯る道具は 社会生活の中でstabilityをもつだろう。諸々の道具が stabilityをもつことは,その限りに於てその社会生活 はstableであると見てよいだろう。それはニトトンの 第三法則と同じ関係である。

合法則的であって且つ合目的々であるところの智慧に 到る道として, カントは三つの淀をあげている。第一,

自分の立場で自由に思惟すること。第二,他者の立場に 立って思惟すること。第三,前二者の間に矛盾の無い様 に思惟すること。この格率は認識に於ても実践に於ても 重要であるとして, カントがくり返してあげているもの である。もともとはローマの詩人ホラーツの筬言である と言われる。道具を作る製作者も,その製作に関して此 の格率に従うべきものである。製作者は第一, 自分のア イディアを実現するための可能なる限り機構を考えるこ と。或いは自分の目的を実現するための可能なる限りデ ザインをたててみること。第二,それを使用する人の立 場に立って,可能なる限り使用が容易である様に合目的 々にその形態や機構を考えること。専らここでHuman Touchが問題となる。単純なる道具の場合,それを使用 するには,それを手で握る。最も単純素朴なるHuman Touchである。第三,前の二つが矛看しない様に統一す ること。この第三の格率が仏教の自他一如であり物心一 体である。併しカントの格率と仏教の自他一如とは根本 的に異っている。自他一如の場合は自に非ず他に非ずで あり,物心一体の場合は物に非ず心に非ずであって,即 ち一切皆空である。この立場からは科学は生れて来な い。科学は無や空を対象としないからである。尚つけ加 えて言えば,第一の格率は自己感情であり,第二の格率 は共感々情或いは仲間感情である。第三の格率は両者の 調和である。

さて,道具と言うのは,昔の武士は武道第一の具とい

う意味で,槍を武士の道具としたと云う。槍は短刀で敵

を突く場合の人間の手を長くしたものである。槍の柄は

人間の手の延長である。それ故に槍は身体を資ける具で

ある。そして武士は槍によって禄を食むのであるから生

業を資ける具である。更に槍は武道に順い武道を進める

(10)

競技が競技を運ぶ状態である。敵の美技に対しては,味 方の場合と同様に,惜しゑなく拍手をおくる。敵もなく 味方もなく,唯だ競技が競技を運ぶのである。かくの如

き精神の自由の実現も,スポーツにあっては,用具がそ れを実現する様なものでなければいけない。意識をもつ 手指のHumanTouch以外には,恐らくはそれを可能に するものはないだろう。

(8.31)

訳にはゆかぬ。野球ではホームグラウンドも道具の一つ

として勝負に影響する。野球にせよ柔食随にせよ,文化

としてのスポーツの最高の目的は,精神の自由なる遊び

einfreiesSpielunsererSeeleの状態を実現するこ

とである。オリンピックの女子の選手が,演技中に微笑

の美を含むのは,恐らくそれは女子なるが故の愛矯では

なくして,精神の自由なる遊びという理念の象徴だろ

う。精神の自由なる遊びというのは,敵も味方もなく,

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