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教師という選択―私の「希望の語り方」―

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(1)

著者 岩辺 泰吏

雑誌名 明治学院大学心理学紀要 = Meiji Gakuin

University bulletin of psychology

巻 24

ページ 3‑20

発行年 2014‑03‑28

URL http://hdl.handle.net/10723/2249

(2)

『心理学紀要』(明治学院大学)第 24 号 2014 年 3–20 頁

教師という選択

―私の「希望の語り方」―

はじめに

1 .「教職のやがて退く日の近づきて   真白きチョークの感触惜しむ」

 これは,中学生時代の恩師・中島浩(筆名:

克浩)先生の歌である。先生には読書クラブの 担当としてご指導をいただいた。近代の作家の 作品からある一節を抜き出して編集されたテキ ストを基に,それを読みあわせて感想を述べ合 い,先生がアドバイスをされるという運営で あった。先生は歌人であって石川啄木を愛され ていた。長期の休暇には岩手県の渋民村や盛岡,

花巻などを訪れてはその話をしてくれた。また,

啄木の短歌を暗誦して聞かせてもくれた。島崎 藤村にも傾倒され,馬篭の話をされた。そのよ うにして私も啄木を愛し,藤村の作品を読むよ うになった。

 先生は歌人として同人誌を編集発行されてい て,しばしば私を自宅に招いて,編集の作業を 教え,手伝わせてくれた。今思えば,中学生ご ときに,文芸誌の編集のお手伝いなどできよう はずもないが,進路を巡って苦しんでいた生徒 を案じての心配りであったのだろう。

 私は,庵原郡高部村(小学生時代に清水市に 合併)の出身であって,中学進学を機会に市内 に住む姉夫婦の養子となった。7 人姉兄の末子 であった私が,子どものいない姉夫婦の元に出 るのが一番双方にとって良いという父母の考え であったのだろう。しかし,市の中心校に移っ

岩 辺 泰 吏(元 明治学院大学心理学部教授)

た私には,同級生たちが皆恵まれた環境にいて,

優秀な学力を備えた集まりに思えた。私といえ ば,瓦屋職人の家庭で育ち,2 人の兄は中学を 出ると家業を継ぎ,3 人目の兄は魚屋に奉公に 出されて 5 年間の奉公の後,独立していくとい う道を歩いていた。高校進学など及びもない環 境の下で,兄たちは苦しみ,市の中学校生徒指 導連絡会でも有名な「ワル」であった。私も「こ の道」を歩くのか…という思いが「心の闇」と なって私を包んでいたのだろうと,今になって 思う。それを心配して,先生方が様々に声をか けてくださった。その一人が中島先生である。

先生は放課後,図書館にいて,私たち本好きな メンバーが図書館をたずねると,「岩辺にはこ れがいい。望月(現在まで交流している親友)

はこれがいいだろう」と勧めてくれた。家庭に 本などない時代だから,勧められるままにむさ ぼるように読んだ。こうして,私は読書と編集 が好きな国語系の教師となる道へ進むことに なった。

 戦後教育史の中で,1950 年代は「日本の教 師たちのもっとも輝いていた時代」と言われる。

戦前の軍国主義教育への反省に立って,平和と 民主主義日本の再建は教育の力によるのだとい う気概が現場教師を燃え立たせていた時であ る。私はまさにこの時を小・中学生として過ご す幸せを得たのである。

◦マラソンに疲れても生徒ら図書室に本読みて をり初夏の風うけ

◦信念を貫き通せば信頼も誤解もありぬ教職の

(3)

◦困り果てしかの教へ子が夢に出でなほ困らせ たり春の朝あした

◦教職のやがて退く日の近づきて真白きチョー クの感触惜しむ

◦教へ子は宝なりけり分身の如く思へることの 幸せ

◦自費をもて幾たび教材 購あがなひしか高校の子ら は伸びたり

◦また一つ歳をとるなりこのままに揺れてゆき たし列車にまどろみ

   ―中島克浩歌集『ポロシャツを着て』

94.7 研究社

 中島先生の歌には,この時代の教師たちの考 え方(多分に「聖職者」的な)がよく反映して いると思うし,私には共感深いものがある。

2 .17,276 日の教師

 1967 年 9 月就職した私は,小学校教師とし て 439 か月,およそ 13,626 日を過ごしたこと になる。これは,2004 年 3 月,定年退職にあたっ て公立学校共済組合から提示された「掛金の月 数」による。

 これに,今日までの 10 年間,約 3,650 日を 加えると,「17,276 日の教師」である。人生 80 年と言われるが,その 29,200 日のほとんどを 教師として過ごしたのである。

 雨ニモマケズ,風ニモマケズ…

 家にまで仕事を持ち帰り,夏休みも学校に出 て,三人娘のどの子の入学式,卒業式にも参加 できず…

「吾子よりも他ひ と人の子に意気燃やしたる三十六 年の教職を退く」

…,中島先生の歌の示すとおりである。

 「読書のアニマシオン研究会」(以下,アニマ シオンクラブ)でずいぶんお世話になってきた 詩人こやま峰子さんの詩集『かぜのアパート』

(朔北社 03.6)に次の詩がある。

 「ろうそく

       こやま 峰子   天から さずけられた

  しごとが とてもすき

  まわりを あかるく   てらしながら

  いきていけるのは         」  この詩は,教師の想いを描いているようで,

好きな詩である。小学校の教職を去る時は記念 誌の冒頭に掲げさせていただいた。 

 私の座右の銘は「一隅を照らす」という言葉 である。禅宗の言葉であろうか,その出典は知 らないが。どんな人も,この世に存在するもの はすべてその存在によって,この世界を支え,

光を掲げているのだということを示している。

我々は,それぞれの生き方を通して社会の一隅 を照らしているのである。

Ⅰ 若者と学ぶ

 18,9 歳~ 22,3 歳,青年期を迎えた若者た ちと学ぶことはとても楽しく,幸せであった。

この機会を与えてくれた明治学院大学に心から 感謝している。最終講義を通して,学生諸君に 私が教え子や友人たちと歩いてきた道を語り伝 え,その現在の姿を見てもらって,教師として 47 年を生きるということ,そして人生 70 年を 生きるということがどういうものであるのか を,確かめてほしいと思い,標題のようなタイ トルを考えたものである。

1.神様の粋な計らい

 退職を迎える今年度(2013 年度)秋期,1 年 生全員必修の「国語」を教えているうちに,ふ と 気 が つ い た の は, 目 の 前 に い る 1 年 生=

13PE 生たちは,小学校教職最後に担任した 3

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年生たちの 10 年後の姿であるということだっ た。「ああ,あの子たちが,こんなに成長して ここにいるんだ!」と思うと,本当にいとおし い気持ちがわいた。神様,ありがとう! 一時 間一時間を大事にしなくてはいけないという思 いを強くした。一人ひとりにしっかり向き合お うと。そして,毎回,100 人の書くレポートへ アドバイスする赤ペンに力を込めた。すべてを 読み,質問や悩みに応え,それを通信『チョー クで書く「希望」』にまとめて毎週発行した。(こ れは 4 年間分を合冊に作って参加者に配布して いる)

 成長期の学生諸君は,本当に様々な悩みを もっていた。それが短い文章の中に率直に綴ら れていた。15 回の中で必ず全員が掲載できる ように配慮しながら,ペンネームで通信に載せ て,読みあった。書いた人が読むのではないが,

授業の始めにはいつも,適当にあてて感想を読 んでもらった。すると,それまでどんなにおしゃ べりしていても,朗読が始まるとすっと静まり,

友だちの声に耳を傾けた。それはとても感動的 な瞬間であった。

2.学生の感想から

 その中からいくつか紹介してみよう。

a )先生の授業を受けるたびに,教師になろう という想いが強くなります。大学が楽しく なります。一緒に勉強している仲間がいと おしくなります。

 …と同時に,何も知らない自分に,いろ んな考えをもつ仲間を見て,焦りました。

こうしなきゃいけない,こういう先生がい いんだ,叱れなきゃいけないんだとか,い ろいろ考えて勝手に怖くなっていました。

 けれど,私の良い所は明るい所です。そ の良い所を全面に活かせるようにするには どうすればいいかと考えられるようになり ました! 欠点を見つめながら,楽しく先 生をやっていこうと思えるようになりまし

た!(「子ども文化」12PE さっちゃん)

b )先生が子どもについてまとめてくださった 話で,「子どもは毎日,新しく,教師も毎 日新しい」ということが印象に残った。体 験活動では毎週同じ繰り返しと感じ,モチ ベーションが下がることもあったが,この ように考えられれば,もっと前向きに頑張 れると思った。この言葉を忘れない。(「子 ども文化」12PE女子)

c )私は入学してからずっと悩んでいました。

本当にこの学科に来て正解だったのかとい うことです。「〇〇の教員になりたい」(〇 の中には小学校,幼稚園,特別支援学校等 が入る…筆者注)と,はっきり言い切れる 友達が多くて,少しプレッシャーでした。

私はそこまで言えないし,目標がないこと に焦っていました。

 そして,今日,岩辺先生のお話を聞いて 救われました。「絶対教師になれではなく て,迷っていいのだ。新しい自分を探せば いいのだ」という。「わたしは わたし」

という部分を忘れ,すっかり流されていま した。今日,この講座を受けられて本当に よかったです。(「国語」12PE めぐみん)

d )今日の授業をして。私は教育発達学科にい るのに,「教育発達」の意味さえ分かって いなかったことを情けなく感じた。この学 科は他のどの大学にもない,これからつく りだしていく学科だと知り,私もたくさん のことを学び,興味をもって勉強していき たいと思った。そして,今日の授業で,「学 校は,それぞれの夢に飛び立つための大切 な翼だ」という言葉がすごく心に残った。

私の夢である教師がかなえられる場所がこ こにあるのだから,決してむだにせず精一 杯やっていこうと思った。(「国語」12PE  みき)

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e )先生の,「辞書は説明文の大集合」や「点 字ブロックは命の説明版」などの言い回し に感動しました。さすが国語の先生。先生 の授業を聞いていると,ステキな言い回し がたくさん登場して楽しいです。(「国語」

13PE はるか)

f )詩の力

 「むしば」の詩を,みんなで読んだ。こ の部屋が一気に小学校の教室に変わったよ うだった。いつもなら下を向いているあの 子も,まぶたが閉じているあの子も,「む しば」を読んでいるときは前を向いていた。

笑みがこぼれていた。きっとこの時間にこ んなに明るくて,笑顔があふれていた授業 は,この国語だけだったにちがいない。私 が先生になったときには,こんな楽しい授 業 を 提 供 し て あ げ た い。(「 国 語 」13PE  はやぱち 2 )

g )岩辺先生の「小学校の先生は素晴らしい」

という言葉がとても心に響きました。モン スターペアレントや学級崩壊,いじめなど 様々な教育問題で,教師になることへ不安 を抱いている私の背中を,とても優しく,

だけどとても強く押してくださったように 感じました。岩辺先生のように,子どもを 一番にして考えられる,そんな人間になり たいと思います。(「国語」13PE な)

h )先生って素敵な仕事だと思う。岩辺先生の 小学校の教師だった頃の話を聞いて,もっ ともっとそう感じた。子どもたちと一緒に 遊び,新しいことを覚えたときのわくわく した顔を見て,毎日子どもたちの素敵な笑 顔に勇気づけられて。私も,岩辺先生のよ うに胸をはって,「教師っていいでしょ」っ て言えるようになりたい。

   待っててね,未来の自分。

 今日は絶対教師になると決めた決意の 日。(「国語」13PE にしな)

i )ふつうの教師でよい。技術のある先生は技 術におぼれ,力で押さえつける先生は力に おぼれる。名の知られるようなすばらしい 先生でなくとも,子どもたちを第一に考え,

子どもたちと共に,日々成長していけける 教師,それが理想の教師なのかもしれない。

 大学では,いい教師になるのに必死にな るのではなく,様々な経験をする。それが,

10 年,20 年,30 年後に生きてくるだろう。

(「国語」13PE たこやきくん)

―質問に答えて―

Q&A

Q)「まとめ」のところがいつもうまくまとま らなくて困っています。小学校,中学校,

高校くらいまでは,文章を書くのが好き だったし,苦じゃなかったが,今では少し 苦しい。何が原因かわからないが,アドバ イスがあったらください。(「国語」13PE たけのこ)

A)「声変わり」と同じ。「成長の痛み」だね。

今までのエスカレーターで上がってきたと きとは違う。階段を意識して踏みしめてい く。峠を自ら越えていく。これからは,自 分という人間を,自分がデザインして彫り だしていくのだ。

  ①『チョーク』で,友だちの作品を意識し て読み,それぞれの「よさ」を見出して いく。そうすると,良いパターンが体に 入ってくる。それが書くことを楽にさせ る。意識して「薬を飲む」ということだ。

  ②授業中の先生の言葉とか,テキストの中 のフレーズなどで,印象に深いものや,

ぐっと胸に刻まれたものとか,または,

あれ?とのどにひっかかった言葉とか

…,そういう言葉(フレーズ)をタイト ルに据えて書き出してみると焦点が定ま る。書きだしたら一気に書くこと。

  ③必ず読み返す習慣をつけること。ざっと でいい。一つの流れ,一つのメッセージ が浮かび上がるだろうか。途中で流れが

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変わったり,別の話を持ち込んだりして いないだろうか。

  ④たまには,友だちと交換して批評し合う の が い い。 あ る い は, 知 ら ん 顔 し て

『チョーク』を批評し合うとかね。やはり,

鏡がなければ,自分の顔は見えないから ね。(岩辺)

3 .学ぶことの楽しさがつかめるようにする  ここから私が学んだことは,第一に彼らは しっかりと認められた体験が乏しいことであ る。だから,他者の目(評価)を気にして,自 信が持てない。どういう経過かで現在の道(明 治学院大学心理学部教育発達学科)を選んだの であろうが,その「今ここにいる自分」に確信 がなく,したがって,「この道」を歩いていく 見通しが持てない。とりわけ,教師として生き ていくことには…。

 そこで,私は授業づくりについての課題を次 のように考えた。

a )笑顔で学んでいる自分を発見してほしい。

学ぶことは楽しいのだ。新しい世界を知る のだから。

b )参加型(ワークショップ型)によって友達 が増えるようになる授業。学ぶほど孤独に なるのが,日本型の教育である。我々が目 指す授業はその逆だろう。学ぶほど自信が つく,世の中へ出ていく勇気が育つ(踏み 出す力),(仲間と)やっていける自分を発 見するものでなくてはならない。

c )学ぶことが,教師としての(生きていくこ との)見通しを拓いていく授業。37 年の 小学校教職にあった私が,彼らの前に立つ ことによって,「そうか,教師としての人 生を歩くってああいうことか…!」と納得 してもらいたかったということもある。

d )広い世界へ目を向けるよう励ます。

 これは特に,2 年秋期の選択「子ども文 化」において努力したことである。これま

での自分のかかわりの中で築いてきた友人 たちにゲストとして登場してもらった。

・わらべうたの指導をしていただいた石 崎恵子さん。

・紙芝居の魅力を伝えていただいた江森 隆子さん。

・中学校の現場を伝えていただいた笠井 英彦先生。

・特別支援学級の現場を伝えていただい た渡辺克哉先生。

・自分たちで納得できる働き方を作り出 している NPO ワーカーズコープの島 田勇一さん(荒川区立峡田ふれあい館 館長),中尾理津子さん(同職員)。(中 尾さんは,私が 19 年目で初めて担任 した 1 年生である。10PE 生が教育実 践演習の施設訪問でお世話になった港 区子育て応援プラザ POKKE も彼女 のつながりである。)

・ベ ト ナ ム の 障 害 児 を 支 援 し て い る NGO アジア・チャイルド・リーグの 渡辺和代さん,

 他にもフィリピンやメキシコのストリー ト・チルドレンの支援を続けている工藤律 子さん,助産師の鈴木みゆきさん他,子ど もに関わる様々な分野の皆さんに登場して いただいた。

 また,それは,私の「仲間」を見せるこ とによって,私自身の生き方を伝えたいと いう願いでもあった。

e )直接に子どもや社会にかかわる窓口を設け る。

・読み聞かせボランティアサークル「お はなしポップコーン」。3 年前に学科 プロジェクトとして発足しました。

11PE 生 8 名,12PE 生 12 名,13PE 生5名の25名が参加して活動している。

 夏には,学部 GP 後プロジェクトの支援 を受けて,福島県相馬市と泉崎村で地震と 津波被災地区を視察し,幼稚園,小学校で

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児童と交流した。津波の現場に立ち,被災 者の方から直接にお話をうかがうことは,

学生にとってとても印象深い学びとなっ た。こういう授業づくりは,私が小学校教 師であったからこそ築くことができ,可能 となったものであることをつかんでほしい と思ったのである。

Ⅱ 小学校教師を生きる

 さて,ここでは,37 年間の教職を振り返り ながら,その間に経験したことを振り返ってみ たい。それが,戦後教育史を現場教師の目でた どることになると思う。

1 .足立区立栗島小学校(1967.9 ~ 1981.3)

 1967 年 9 月,私の教師生活はスタートした。

故郷・静岡県の教員採用試験に落ちた時,すで に 2 年前に両親が相次いで亡くなっており,長 兄に学費等の面倒をかけていた私は,一日も早 く独立することが必要だった。ゼミの指導教官 である小川太郎先生は研究者への道を勧めてく れたが,そういうわけにはいかなかった。

 「教師に本当になりたいのならば…」と,先 生は言われた,

 「教師は子どもの前に立ってはじめて教師な のだ。子どもは先生を選べない。そうであれば,

教師は子どもを選ぶべきではない。子どもがい れば,どこにだって教師は必要なのだ。静岡だ けに子どもがいるわけではない」

 この言葉に励まされて,東京都の第三次募集

(7 月採用)を受験して合格した。8 月 27 日に 足立区に配属されて面接を受け,そのまま指定 された栗島小学校に行って,校長面接を受け,

9 月 1 日はもう教壇に立っていたのである。

 東京オリンピック後の高度経済成長期で,東 京は人口爆発時代であった。どこの学校も校庭 にはプレハブ校舎が建ち並び,4 月,5 月,9 月,

11 月,1 月採用と,教員採用は 5 次募集まで行 われたと記憶している。そして,当時の東京都

は途中採用であっても,正規雇用であって,期 限付き臨時採用という雇用形態はなかった。私 の初任給は 2 万円弱だった。下町の木造アパー トの 6 畳一間といえども,部屋代だけで 8,500 円。どうして食べていこうかと思ったものであ る。

 私の下の部屋に,担任の K 子さん家族が両 親と 3 姉妹の 5 人で暮らしていた。その部屋が 昼間は靴の下請け工としての仕事場になるので あった。どうやって寝起きしているのかと案じ たこともある。学区域の中に住んでいたので,

夕方になると,子どもたちが,「お母さんが天 ぷらあげたら持っていけって」,「先生,キムチ は食べる?」…とやってくる。そして,そのま ま上がり込んで夕飯を一緒に食べ,トランプを したりして帰る。放課後は,帰りの会で,「4 時半,亀の湯!」などと宣言しては銭湯巡りを していた。アパートに内湯はなく,銭湯に行く のが当たり前の生活だった。2 年生は女の子も みんな一緒に男湯に入って背中を流しっこした ものである。

 学校,教師に対する期待が非常に大きかった。

それだけに,子どもに対して冷淡な教師に対し ては激しく反発して,職員室に怒鳴り込んでく る姿もよく見られたのである(中学校は「戦後 第 3 の非行のピーク」と言われた時代である)。

児童の家庭の約 15% が生活保護,50% 強が教 育補助を受けていて,経済的困難地区として事 務職員が 1 名加配となっていた。学力的にも困 難な児童が多かったが,その分,教職員はやり がいを感じて団結していた。

 各学年 5 クラス(学級児童定数 45 名)とい う大規模学校で,教職員は 50 名近く,学年の 教師以外は一日,声を交わすこともないという 状況。それでも,放課後はストーブを囲んで,

授業のこと,子どもの生活指導のこと,今後の 学校づくりの見通し等々を,お酒も飲みながら いつまでも話し合う「職場団欒の時代」で,私 はその「最後の世代」であった。若い教師は自 主的に学級経営についての学習会も行った。

 栗島小学校は,「全員参加の授業をめざして」

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というタイトルを掲げて,国語の授業研究を進 めていた。それに加わることによって,私は「国 語を専門分野とする教師」に育つことになった。

また,校務分掌上から学校図書館担当になった ことから読書教育へのかかわりを深めることと なった。

 この時に学級通信づくりを教わって,これが 私の学級づくりの個性の一つとなり,子どもの 指導で苦しい時も,保護者の理解を得て乗り越 えることができたと言える。

 1970 年代は,教育の高度化が掲げられ,学 習内容が増え,授業時数も増やされた。それが,

「落ちこぼれ」を招いているという批判が世論 となって,社会問題化した。通信票を 5 段階相 対評価から,3 段階程度の絶対評価に変えて,

自主的な『あゆみ』を編成する試みが広がって いった。栗島小もその努力を重ねた。教職員が,

自分たちこそ「学校づくり」の主体であるとの 自覚に燃えて論議を重ねて自主的な取り組みを 進めた時代は 1980 年代前半までであった。

2 .葛飾区立亀青小学校(1981.4~1991.3)

 14 年務めて,葛飾区に異動した。高学年を 担任する生活指導畑の「肩を怒らせた」教師に なっていた。それが,成長期の子どもたちには 耐え難かったのだろう。5~6 年生担任で子ど もたちの反抗にあった。今でいう「学級崩壊」

である(当時,そういう言葉はなかったが)。

教師を辞めるかとも思う毎日だった。

 女性の同僚が心配して声をかけてくれた。

「あなたは卒業生を出さなければ一人前の 教師と言えないと言うけれど,1 年生を 担任しないのも一人前と言えないのよ。」

「あなたは,音楽指導ができないから 1 年 生を持てないんでしょう。私たちが援助 するからもってごらん。楽しいわよ」

と。ちょうど,下の娘も 1 年生になる時だった。

 1 ~ 2 年生を担任したこの 2 年間の経験から,

「教え込み」の授業から,「学び合う」授業へ転 換する見通しが持てるようになった。ここで,

その実践を振り返りながら,「学び」について 考えてみたい。

a )子どもの可愛さが分かるということ  高学年ばかり担任していると,「子どもや親 に舐められてなるものか」という“上から目線”

のお上意識が育ちがちである。わが子を産み育 てている女性教師に比べ,「家庭は女」に任せ て仕事に打ち込むことをよしとする(日本の)

男性教師に強い。残念ながら,私もその一人で あった。全身に鎧を着た「怒り肩」の教師とな るのである。いつの間にか,「鬼の岩辺,地獄 の教室」と揶揄されても,それを持って「教師 の勲章」と思い込むのである。

 1 年生は 6 歳。大規模な集団生活のスタート である。保育園,幼稚園時代から比べれば,

160 cm はある 6 年生はまさに見上げるような 巨人の群である。そして,45 分のチャイムの 区切りで動く。40 人に先生は 1 人。見知らぬ 子たちが先生の指示で「ハイ,ハイ」と動いて いく。それになじめない子は置いてきぼりにさ れているような気分になる。

 「の」の字が書けない男児がいた。苗字の中 に「の」が付いているのに…である。

 「せんせい,たかしくんが立って書いてる!」

と言うので,見ると,鉛筆を持って(握って)

机を回っている。「の」の曲線をくるりと手首 で回すことができないのだった。

 「よーし,先生といっしょに書こうな」と,

座らせて手を持って一緒に書く。

 すると,きれいに書けている女児が,しくし くと泣きだす。

 「ゆうちゃん,どうしたの?」と聞くと,

 「わたしもせんせいといっしょに書きたい…」

と言う。

 「わかった,わかった。いっしょに書こうね」

と言うと,あちこちから,「ぼくも…」「私も…」

と声があがる。これで 1 時間はおしまいになる。

 ああ,子どもは「わたしのせんせい」だと確 認したいのだと教えられる。

 帰りの会では,その日の日直さんを肩車に乗

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せて教室を一周した。我が家の娘も大喜びする ものだから,やってみたのである。肩に乗せて みると,その子が日ごろ,どのように親と接し ているのかわかるように思った。安心して身を 任せる子と,「こわい,こわい」としがみつく子。

「 先 生 」 と い え ど, 他 人 で あ る。 私 の 肩 は 150 cm ほどの高さになる。自分の背丈を軽く 超えている。それでも,「エイ,エーイ!!」

と両手をあげて自慢げにふるまう。はじめは怖 くてしょうがないが,やっぱり乗りたいものだ。

 ある女児は,日直の帰りの会の司会をしなが ら,肩車が待ち遠しくてしょうがなかった。「こ れで帰りの会を終わります」と言って,私の肩 に乗ると,安心したのか,私の首筋から背中に 生温かいものがすうっと流れた。がまんしてい たおしっこがちびってしまったのだ。私は知ら ん顔をして歩いた。二人だけの内緒の話である。

 こういう経験を通して,私は「子どもの可愛 さ」「子どもの一人ひとり」を体で知ることが できた。

b )学びあうということ

 子どもは一人ひとり,その分かり方が違うの だということもこの 2 年間で教えられたこと だ。例えば,掛け算の導入。かつては 2 年生で 導入し,3 年生で完成させていた掛け算も,今 では 2 年生の秋にせいぜい 1 か月半ですませて しまう。2 年生は九九のような形式的な暗唱は 得意である。ほめれば,どこまでも早く覚えよ うともする。しかし,新しい計算の仕組みとし ての掛け算というものは分からない。「何回か 足すことだ」という覚え方にとどまりがちであ る。やはり,もう少し抽象的な思考ができるよ うな発達を待たなければならない。

 だから,ただ九九の暗誦とドリルですませて はわかったことにはならないし,すぐに忘れて しまう。しばらくすると,「せんせい,これ足 すんだっけ,かけるんだっけ?」ということに なってしまう。

 戦後の民間教育研究運動(地域サークルを基 盤とする研究活動)のスローガンは,「ほんと

うのことを,わかりやすく,仲間の力で(学ぼ う)」というものであった。「ほんとうのこと」

とは,うそっぽくないことだ。ただ九九を暗誦 するとか,「百マス計算」(注①)で習熟ドリル させるなどは,子どもから見れば「うそっぽい」

学習である。九九の背後にどういう「生活の事 実」があるのかを確かめつつ,納得した学習が 必要である。

 2 の段,3 の段,4 の段などは身近にたくさ んある。しかし,6,7,8…となってくると,

なかなか見つからない。9 の段を 3 日間ほど繰 り返し,問題作りを宿題にしたときの問題が 残っている。

 1 日目は,こんな問題だ。

 「どうなつが 1 さらに 9 こ入っています。6 さらだったらいくつ?」(男子)

 「やきとり 1 パック 9 本入っています。やき とり 9 本入ったパックが 9 パックあったら,や きとり何本?」(女子)

 しかし,このような問題は一日で尽きてしま う。同じような問題はもうできない(と,彼ら は考えるのだと,私は思い知らされた)そこか らがおもしろくなる。

 地域野球チームに入っている H くん。

 「やきゅうのせんしゅ 9 人,それが 6 チーム あったら,何人?」

 上の箱には文章題を書く。左の箱には「1 あ たりの数」(看板と称した),右にはタイル図。

縦軸が 1 あたり量,横軸に「いくつ分」。下に は「こたえ」が隠されている。

 さて,もう,これで,野球チームは使えない と,子どもたちは考える。

 本の好きな M さん。

 「『わかくさものがたり』は 9 もじです。『わ かくさものがたり』のもじが 5 グループあった ら,9 もじのじはなんもじになりますか」

 苦し紛れの H くん。

 「ほさかしんすけくんで 9 もじです。ほさか くんが 3 人いたら名前はなんもじですか」

 漢字が苦手な Y くん。

 「きょう,てすとをやって 9 てんになってし

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まいました。では,そのてすとが 3 まいあった らなんてん」

 これも Y くんだから,「ある,ある」と,み んな受け入れるのである。

 学習がそれぞれの子の生活の事実に裏打ちさ れ,さらにお互いをより豊かに知り合うような 学びの場が用意されなければならないことを教 えられた 2 年間だった。

c )子どもの後ろには親がいるということ  「子どもはランドセルとともに,喜びも悲し みもはこんでくる」…サインなどを求められる と,私はきまってこう書いてきた。これは,大 学時代の恩師である小川太郎先生が学生に繰り 返し語った「子どもはランドセルとともに生活 を背負ってくる」という言葉にちなんだもので ある。小川太郎先生は生活綴り方教育や同和教 育,生活指導の分野で特に現場と深いかかわり を持ちながら独自の研究を重ねてきた「教育哲 学」の人である。私は中学時代にペスタロッチ に触れ,高校で長田新に傾倒した。高校の社会 科担当であった中野謙先生が道を拓いてくれ た。そのアドバイスに従って教育書を読み,小 川太郎著『日本教育の構造』『日本の子ども』

を読んだ。そして,大学選択を決めた。

 「子どもを丸ごととらえる」という教育方法 論は,私のもっとも基本的な視点となった。1 年生はそれがまさにむき出しにされる。前述の たかし君のお母さんから 1 年生の終わりにお手 紙をいただいた。

「入学してすぐに,ひらがなの「あ」が書 けなくて,

『ママ,クラスでぼくだけがかけないん だよ』

 と言って,泣きべそをかいていたのを,

よく思い出します。

 字が書けないことぐらいで泣きべそをか くなんて,これから先,どうなることやら と本当に心配になりました。その子が,だ んだん自信を持つようになり,今では,や

ればなんでもできると思っているように見 え,一年間の成長の大きさにびっくりしま す…」

――拙著『だいすき国語』88.8  「の」の字を書くのに机を回っていた彼が,1 学期の終わりにはもう一人前に「せんせい,あ のね」と,ひとまとまりの文章を書くようにな るのだ。スーパーにも仕出ししていた豆腐工場 で働いていたたかし君の家庭では,朝は早くか ら起きだして働き,朝ご飯はその途中でお母さ んが戻って子どもたちに食べさせて送り出す。

そしてまた駆けて工場に戻って仕事する。それ だけに,学校にかける期待は大きかったのだ。

 まゆこ子さん(仮名)が名前を書いたとき,

子どもは正直なものだと痛切に教えられた。「よ こやままゆこ」(仮名)と書くとき,「苗字と名 前の間に一マス,空けてね」と言う。当たり前 にできるものだと思っていた。まゆこさんには それが難しかった。

 ―よこや まこ  ―よこやま ゆこ  …,

 なかなかうまくいかない。どうしてだろうと 不思議に思ったが,家庭訪問で理解した。お母 さんは再婚したばかりで「よこやま」という姓 はまだなじめないものだったのだ。そこに自分 の名前を接続することに,彼女はまだしっくり ときていなかったのだ。

 こういう経験を重ねて,私,私たちは教師に なっていく。教職に就いたから「教師(先生)」

になれたのではない。子どもとともに過ごすこ とによって,時間をかけて「教師に育つ」ので ある。

(注①)「百マス計算」について

 いわゆる「百マス計算」は,縦 10 マス×横 10 マス,計 100 マスの表を用いる計算ドリル である。教師が 0 ~ 9 のカードをアトランダム に読み上げ,児童は縦・横,同じ順番にメモす る。「スタート!」の合図で横に掛け算であれ

(11)

ば九九の回答を書いていく。教師はストップ ウォッチをもって,秒数を読み上げて終了した 児童に伝えていく。4 分以内を合格とし,「名人」

を 3 分以内,「達人」を 2 分以内とするなどの 目標を提示する。

 岸本裕史『見える学力,見えない学力』(大 月書店 81.3 初版,12.8 第 71 刷)は 100 万部 余りを売るベストセラーとなり,小学校の現場 に広がった。その後,「ゆとり教育」批判のな かで陰山英男『本当の学力をつける本』(文芸 春秋 02.3)によって再度ブームを生み,家庭 や塾にまで持ち込まれていった。

 「百マス計算」は,繰り返し行うことによって,

“機械的に”と言ってよいスピードで答えを書 き上げていくようになる。私も栗島小時代から 行ってきた。これ自体は民間教育研究サークル の中で交流されていたものである。「だれでも,

練習すればできるようになる」ということは,

一方の事実であるが,他方,こうした「機械的 な」「速度を競う」ドリルを苦手とする児童に とっては非常な脅迫意識を生み出すものとな る。全身が硬直する児童も現れる。もし,同じ 効果を狙うなら,5×5 の 25 マス表でも十分な のであり,ドリル後の十分な個別のフォローが 必要である。

 「百マス計算」は「マラソン計算」や「漢字 ドリル 20 回清書法」(課題文を正しく 20 回視 写する)などと組んで「基礎学力の習熟」と自 称していたが,現場に教育観・学習観の歪みを もたらしたと考えている。「より速く,より正 確に,より多く」覚えることが学習であるかの ような価値観である。これは今日の学生たちに も反映していると思う。若い教師たちも,「何 を・なぜ」という問いを持たず,「どう教えるか」

ということにのみ関心を寄せがちな傾向が現れ て,教室の学びを薄っぺらなものにしている。

(拙著『「新しい学力」と子ども』94.2,『チョー クで書く「希望」』06.9 で論究)

3.葛飾区立飯塚小学校(1991.4 ~ 2004.3)

 飯塚小学校での 13 年間は,日本の教育の大 きな曲がり角だった。「ゆとり教育」が掲げられ,

学校週五日制がスタートし,「総合的な学習の 時間」(総合学習)が創設された。私は,この 前半は教務主任としてこの事態に向きあった。

当時,東京の教務主任は学級担任であって,教 務主任をしながら 6 年生を担任しているという こともあった。

a )「ゆとり教育」について

 1992 年 9 月から「突如として」,学校五日制 が始まった。すでに年間カリキュラムにもとづ いて進行中の学校に,月 1 回,第 2 土曜日を休 日にせよというものであった。いわゆる「ゆと り教育」の時代である。「ゆとり教育」につい ては未だ教育関係者の間においても共通した定 義や評価が定まっていない。それなのに,あた かも「ゆとり教育」が子ども・青年の学力・人 格形成の上にはなはだしい歪みをもたらしたか のように評論する向きがあることに,私は違和 感を持つものである。

 その具体的な施策は現場においてどのような 変化をもたらし,また教師たちはどのように対 処していっただろうか。多くの論評が,文科省 の発表した文章やその研究協力校の発表資料な どに基づいている。しかし,それらは表面上の 流れであって,現場教師たちは子どもの学習及 び学校生活を豊かなものに保障していくために 苦闘していった時である。もっと現場の格闘の 記録を読み解いてほしいものだ。飯塚小学校の 13 年間はまさにその「ゆとり教育」との“戦い”

の日々であった。その実践を踏まえて,私は当 時 2 冊の著作を公にしている。

 一は,『「新しい学力」と子ども』(大月書店 94.2)である。そこで,私は次の 3 点において

「新学力観」と「ゆとり教育」を批判した。

1 )一方における激しい競争と「個性尊重」

という名の選別,他方における国民的共

(12)

通教養の公的保障の放棄が進められてい く。

2 )その実態は,能力別・習熟度別の学習に ならざるを得ない。「できる子」にとっ ては当該学年の学習内容を超える課題を 用意してもらうことであり,「できない 子」には“それなり”の課題を与えられ ることになっていく。

3 )「個の尊重」というところを「個性の尊重」

ということで,公教育の充実によって補 うべきところを,その責任を回避して教 室の営みのあり方に閉じ込めようとして いる。

 このことを端的に表したものは,「ゆとり教 育」のスタートとなった『小学校学習指導要領』

の 1989 年 2 月発表の「総則」である。

「第 4 指導計画の作成等に当たって配慮すべ き事項」「1」の

「(6)学習の遅れがちな児童及び心身に障 害のある児童などについては,児童の実 態に即した適切な指導を行うこと。」

から下線部分を削除してしまったのである。

 もう 1 冊は,『こうすれば学校は変わる』(汐 見稔幸編 共著 大月書店 99.10)。ここでは,

現場教師が批判だけにとどまらず,実際の学 校・教育の担い手として前進していくのはどの ような取り組みが必要か,研究者やジャーナリ ストを含めて討論しつつ考えたものである。

 「ゆとり教育」を提起した『学習指導要領』

において十分に評価されなかったのが,「教育 課程編成の主体者」としての学校の位置づけで ある。『総則』「第 4 授業時数との取扱い」に 次の項目が新設されていた。

「4 各学校においては,地域や学校及び児 童の実態,各教科等や学習活動の特質等 に応じて,創意工夫を活かし時間割を弾 力的に編成することに配慮するものとす る。」

 この趣旨は解説書『教育課程編成 一般編』

においてさらに詳しく位置づけられたものであ

る。「ゆとり教育」をその本来の趣旨において よりよきものとして実現するのは,現場教師た ちの知恵と力に待たねばならない。そのことに,

もっと確信をもって取り組まねばならない時で あったが,実際は政策の急激な変遷に混乱させ られていった。そして,「ゆとり教育」は,

2005 年 1 月の中山成彬文科相の「ゆとり教育 見直し・学力向上路線への転換」宣言をもって 終了し,全国学力テストの実施によって激しい 学力競争路線へ転換していくのである。

 私は友人たちと,「豊かな問いを育てる総合 学習の創造」をテーマとして掲げ,学習サーク ル「学びをつくる会」を立ち上げた。16 年ほ どたったが,学生や若い教師が増えて,今では 全国の教育研究会の中でも最も勢いのあるサー クルとなっている。最終講義にも,この会に参 加している他大学の学生や,宮崎県はじめ各地 の若い教師たちが参加してくれた。

 「失われた 10 年(あるいは 20 年)」と呼ばれ るこの時代を,単に表面的な「ゆとり教育」の 責任に負わせるのではなく,社会の激しい変化 の中において教育と学校のありさまを分析すべ きものであると思う。新自由主義による地域の 解体,貧困格差の拡大,社会的・経済的・教育 的弱者の広がり…,その中で進行した「ゆとり 教育」と学校週五日制が下町の子どもたちにも たらした状況を,私は「裸で狼の中に」放り出 すものだと論じた。その思いは今日一層強く なっている。

 2013 年 4 月に行われた全国学力調査の結果 の分析から,年収の多い家庭ほど成績が良い傾 向があるとの発表が文部科学省よりなされた

(14.3.28『東京新聞』)

「平均正答率の差は最大 25.8 ポイント。塾 や習い事の支出が「ない」家庭と「月 5 万円以上」では,最大 28.2 ポイントの差 があった。」

「親の学歴が高いほど子の成績も高い傾向 にあり,特に母親の学歴との相関関係が 強い。」

 私達現場の不安はあきらかな傾向として表れ

(13)

てきているのである。

b )読書のアニマシオン研究会

 ここで,私の専門分野である読書教育,特に

「読書のアニマシオン」について簡単に触れて おきたい。

 ここでいうアニマシオンとは,フランスから 広がった「社会文化活性化運動」のことである。

一般的な意味で言えば,「アニマ(anima)=魂」

にある刺激を与えて元気にすることである。フ ランス革命期に起こった「民衆教育運動」に源 流を求める。人々に文字・知識への欲求を目覚 めさせ,社会への関心を高め,社会と自らの主 人公としての人生を拓いていくことを励ます市 民の自己教育(学習)運動である。(詳細な説 明は避ける)

 「読書のアニマシオン」は,アニマシオン運 動の中でも後発分野であって,1970 年代後半 からヨーロッパで意識的な取り組みが行われる ようになった。特に,貧困な家庭や移民の多い 下町地区にあっては,アニマシオンなしには読 書啓発も教育への啓蒙も進めることはできない といわれている。

 貧困格差が大きくなり,それが 7 人に 1 人の

(あるいは 5 人に 1 人とも)「子どもの貧困」に 及んでいる。それは次第に子どもや若者を閉塞 的な世界に追いやっている。朝井リョウは『桐 島,部活やめるってよ』で,高校生の今日の意 識を次のような呟きであらわしている。この本 が自分たちの高校時代の気持ちをよく表してい るとして,学生からすすめられたものだ。

   「この空の分だけ大地がある。

    世界はこんなに広いのに,

    僕らはこんなに狭い場所で     何を怯えているのだろう。」

 私はこの状況の風穴を開ける営みとして,読 書の啓発活動に希望をかけている。

 読書は橋を架ける行為である。

 ここと向こう,わたしと世界,わたしとわた

しとに,橋を架ける。

 閉塞的な世界に置かれている子どもたちを,

広い世界に誘う営みとして読書は有効な活動で ある。

 そのためには,楽しい参加型の活動をとも なった読書教育が求められる,と考える。

 この課題のために,同志を募って「読書のア ニマシオン研究会」(通称「アニマシオンクラ ブ」)を組織した。飯塚小学校を舞台として,

毎年 2 ~ 3 回の公開授業を含めた研究会を開催 してきた,これには全国から毎回 200~300 名 が参加した。今日も月例研究会を続けているが,

現在では沖縄,鹿児島,青森に地域サークルが 生まれ,沖縄から北海道までおよそ 300 名の会 員をもって活動している。

 アニマシオンクラブのコンセプトは以下のと おりである。

  ① 世界を発見する。

  ② 仲間を発見する。

  ③ 「わたし」(の可能性)を発見する。

 これを,遊び(ゲーム性),協同,推理=物 語探偵団という括りで表現している。「自立し,

協同できる市民の育成」がアニマシオン本来の 目標である。

 ここで,「読書のアニマシオン」はどのよう な活動であるか,具体的な内容を説明すること は避けることにしたい。拙編著『ぼくらは物語 探偵団―まなび・わくわく・アニマシオン』

(99.5)『はじめてのアニマシオン― 1 冊の本が 宝島―』(03.5)(共に柏書房)等を参照してい ただきたい。

c )市民的な視野を持った教師であろう  飯塚小の時代に,市民運動へ意識的参加して いった。その 1 つが「ジョナサン君とともにエ イズを学ぶ会」であり,ストリート・チルドレ ン支援の「ベトナムの『子どもの家』を支える 会」である。これらについてはこれまで上げた 拙著において触れているので省力するが,教師 は小さな「20 坪の王国」に閉じこもっていて はいけない。子どもたちは広い世界を求めてい

(14)

る。教室の窓を開けて,風通しをよくしなくて はいけない。教育の可能性は,広い世界との交 流の中から広がっていくのである。

Ⅲ.若い人たちへ a )50 万人目の教師であれ

 学生からよく,「教師に適性はありますか?」

との質問を受ける。自分にはその「適性」がな いのではないかという不安を持っている場合 に,この質問を出してくるようである。だから,

私は,「適性なんかない」と答えることにして いる。あるとすれば,「やる気」だけだ。どん な仕事も同じだろう。

 「いい教師」でなければならないという強迫 観念が彼らを襲っている。「いい教師」とはな んだろうか?だれがそれを評価するのだろう か?

 私は,子どもであると考えている。「はじめ に子どもありき」である。1 年間の終わりに,「先 生,ありがとう!」「楽しかった!」と言って もらえることがすべてである。そのためにせっ せと教師は努力するのだ。

 「いい教師」でなくてもいい。全国に(小・中・

高・大学)「教師」が 100 万人いるとすれば,

その 50 万人目を歩く教師であればいい。「私ら しく」という言葉はあいまいな表現だが,みん なが同じ顔をして子どもに一律な要求を掲げて 臨む学校は息苦しい。子どもが求めているのは,

「今日も笑顔で“わたし”を迎えてくれる先生」

なのだ。

b )夢を分かちあえる友を持て

 私の自慢はたくさんの友達(仲間)である。

そして,どの友達も,私の夢を理解し,分かち あっている仲間であることである。飲めば,夢 を巡って果てしない議論をする仲間たちだ。嬉 しい時も,悲しい時,辛い時も,語り合える友 だ。やなせたかしさんは,「人生は夢と友とサ ム・マネー」と言っている。私もそう思う。人 生は長い。支え合える仲間が必要だし,そこに

は「夢」が必要だ。夢を分かちあえてこその友 だと思う。

c )5 年先を見て歩け

 もう 20 年も前のことだが,千葉大の学生が 卒業論文に「教師はどんなときに苦しみ,それ をどう乗り越えてきたか」というテーマで,首 都圏 43 名の教師に面談した結果を,『教員の壁』

という論文にまとめたことがある。私もその対 象の一人となったので,概要をいただいた。(前 掲『「あたらしい学力」と子ども』)

 それによると,教師の悩みの要因は 4 つに集 約されるという。①自分の力不足,②家庭の問 題 ③職員室の人間関係 ④児童の問題であ る。その特徴は,自分に責任を求める傾向であ る。40 名のつめこみ教室や『学習指導要領』

によるしばり等々に問題を求めることがないの である。

 男性教師の場合,およそ 13 年目(30 代後半)

に意欲が下降するという。マンネリに陥る時だ と言えよう。それをどのように克服していった かを尋ねると,趣味の道(ゴルフ等)へ入るか,

管理職の道へ進むかだという。子どもから離れ る道であることが共通している。

 女性教師の場合は,8 年目と 16 年目に下降 線が現れるという。8 年目(30 歳前半)は,一 人目の子どもが生まれるころである。教師とし てやっていけるだろうかという疑問がわく。今 度この子が夜泣きしたら,いっそ教師を辞めよ うかと思うそうだ。16 年目は,子どもが育ち あがる頃(40 歳前後)である。もういいんじゃ ないか…という気持ちが湧いてくる。しかし,

女性教師の場合は,それを越えることで,子ど もへの見方が豊かになり,教師として成長して いく姿が見られたと,学生はまとめている。

 最近,50 代を迎えると「もう疲れた」と離 れていく中途退職教師が増えている。かつては,

退職する先生を,職場があげてみんなでお祝い した。しかし,今は,ひっそりと去っていく。

残念でならない。「燃え尽き症候群(バーンア ウト)」という言葉がかつてはよく使われたが,

(15)

最近言われなくなったのは,それが当たり前の 状態になったからではないだろうか。

 若い人のこれからの教師像,人生観は,私た ちの時代のような「聖職」意識,仕事に人生を 賭けるような生き方とは違うだろう。教師も仕 事の一つに過ぎない。まず,やってみたらいい。

どうも自分には合わないようだと思ったらさっ さと撤退することだ。私たちの時代に教師を中 途退職すると,「挫折」と呼ばれた。今は「転 職(キャリアチェンジ)」にすぎない。

 40 年も先のことは,今は見えない。まず,

今年の 1 年間を「無事に」乗り切ることだろう。

そして,3 年先,5 年先の自分を楽しみに歩い ていこう。足元だけを見ると苦しくなる。目を 上げて,少し先を見て歩くことだ。そのために,

『5 年日記』をつけることを勧めたい。○月○

日…,来年のこの日には自分は何を書いている だろうか,3 年先,5 年先には何を書いている だろうか…。それを楽しみに記録をつけていく。

Ⅳ.「12 年前の私へ」

 最終講義に参加してくれた教え子の中にさち 子さん(仮名)がいる。飯塚小学校で 5~6 年 生を担任した。小学校教師として最後の卒業生 である。5 年生の冬に口の周りにヘルペス(疱 疹)ができ,薬を塗っていた。マスクはしてい たが,「あいつが使った水道の蛇口は使わない」

という排除が始まった。それはさらに,「あい つが配った牛乳は飲まない」とか,「俺の机に 触るんじゃねえ」という差別に広がっていった。

ヘルペスは間もなく治ったが,いじめは終わら なかった。高学年のいじめは巧妙で,私にはよ くわからないように仕組まれて進んでいた。

 彼女は非常にまじめな性格で,宿題も自由日 記もきちんとやってきた。その日記に「いじめ」

の訴えなどがないか,休み時間などで私が教室 を離れるわずかな時間にチェックが行われてい たようだ。彼女もそれに気づいていて,なんで もない話題の日記や詩が書かれていることが多 かった。

 6年生の4月に,次のような詩が書かれてきた。

「  鳥のように    鳥のように    空を飛びたい    鳥のように

   きれいな声で歌いたい    鳥のように

   自由になりたい    わたしも鳥のように    未来へはばたきたい  」

 この場所を離れて自由になりたい…という気 持ちを訴えたものだった。それさえ,私は充分 に気づくことができなかった。次の週,月曜の 全校朝会の後,全員が玄関に入るのを待って,

彼女はそっと私のそばにやってきた。目に一杯 の涙を浮かべて,「みんなが 私のことを仲間 からはずすの」と訴えた。

 すぐに,学年の同僚に 1 時間目を頼み,彼女 の話を聞いた。そして,「いじめ」に加わって いないという女子数名を呼んで事情を尋ねた。

彼女たちはよくわかっていて話してくれたが,

それまで私に話してはくれなかったのだ。続い て「女子会」をもって,いじめの状況を聞き,

翌日,臨時学級会をもって話し合うことを告げ て協力を求めた。さち子さんには,辛いだろう が,自分の気持ちを伝える作文を書いてきてく れるように頼んだ。

 翌日の学級会の経過やその後の経過はここで は述べないが,12 年たった今でも心の痛む出 来事として思い浮かべることである。

 1 年生の「国語」で,この詩を示し,この生 徒に向けて「赤ペン」を書こうという授業を行っ てきた。書いた赤ペンを発表しあってから,事 情を説明した。学生たちの多くは教師を目指し ているので,「見えない子どもの心」にショッ クを受けるものも少なくなかった。

(16)

○赤ペンの重さ

 赤ペンを入れてみてと言われ,軽い気持 ちで「応援しているよ。未来にはばたける といいね」と,コメントを書いた。書いた 後に,先生の話を聞いて「さち子さんの心 のメッセージ」を全く読み取れなかったこ とに気づきショップだった。子どもは,自 分のことに気づいてほしくて訴えていたか もしれないのに,自分は軽く流してしまっ ていた。今日,はじめて赤ペンを入れる先 生の気持ち,赤ペンの重さに気がついた。

(「国語」13PE 女子)

○「伝える」

 人はそれぞれ何かを抱えている。見えな いところで何かを抱えている。それを発信 する方法は,人それぞれである。そのうち の一つが,詩なのだ。自分の心の奥にある ものを素直に吐き出すことのできる場所。

ふだんは誰にも言えないことが言える場 所。そして,何より,みんなが冷静に自分 の想いを受けとめてくれる場所なのだ。作 者が何を訴えているのか,しっかりと受け とめたい。そして,できれば同じ気持ちに なってみたい。(「国語」13PE 男子)

―通信『チョークで書く「希望」』

Ⅳ― 9 号 2013.11.7

 最終講義の中で,教え子の一人としてさち子 さんを紹介した。「詩・鳥のように」の作者だ と私が触れたとき,学生の中から「あっ」とい うようなどよめきが湧いた。終わってから,さ ち子さんから「あの時の詩を送ってください」

とのメールが来て,添付した。

 彼女は講義の感想と共に,当時の「わたし」

へのアンサー・ポエムを添えてくれた。

私は,岩辺先生が小学校教師時代の最後の 卒業生です。先生の講義や『チョークで書 く「希望」』は,私が小学生の時に受けて いた授業,クラスで配布されていた通信を 思い起こさせてくれました。楽しかった思

い出,辛かった思い出,いろいろな思い出 がよみがえり,目頭を熱くしながら先生の 最終講義を聴きました。私は小学生時代の 自分に向けてアンサー・ポエムを作りまし た。詩を作るのを楽しんでいた自分を思い 出しました。先生,ありがとうございまし た。長い間お疲れ様でした。

  * 鳥のように

 ~小学生のわたしへ~

      さち子

羽の色がきたないからといって 飛び方がぶかっこうだからといって 君はみんなにわらわれている      

わたしはみにくいからといって うまく飛べないからといって 君は羽をたたんでいる     

だけど飛んでごらん 鳥のように

羽を広げてごらん 鳥のように      

どんな色にも染まらない羽はすてきだと いって

だれかが一緒に飛んでくれるだろう わたしの肩でひとやすみしなさいといっ て

だれかが手をさしのべてくれるだろう      

だから飛んでごらん 鳥のように

はばたいてごらん 鳥のように      *

君にも羽はあるんだから

(飯塚小 2002 年度卒業生・さち子)

(17)

 あの「いじめ」のさなかには「自殺」も考え たと,今になって伝えてくれた。私たちはずっ と通信のやりとりは続けてきたが,この問題に は触れてこなかったのだ。最終講義という機会 が,あらためて私たちの「あゆみ」を確かめさ せてくれることとなったのである。

 小さなバトンをたくさん渡す―大江健三郎氏 は『小さな人の方へ』で未来への希望の託し方 をそう書いている。教師という仕事は,「種ま く人」だと思う。私たちは土地を耕し,種をま くのだ。蒔いた種は必ず芽を出す―。それが私 の信念である。教師はおもしろい。可能性のあ る仕事だ。若い人が挑戦するのに値する仕事だ。

それをメッセージとして筆を置きたい。

 この貴重な機会を与えてくれた明治学院大学 に感謝するとともに,心理学部の皆さんに心か らの感謝を申し上げたい。

(18)

あ ゆ み

― 感謝をこめて ―

1943.6.21 静岡県庵原郡高部村(その後,清水市,現在は静岡市清水区)に生まれる,

4 男 3 女の末子。父・浅吉,母・菊江。兄:清太郎・金治・烈,姉:艶(つや),清(きよ),

笑子。姉の読み聞かせによって本の好きな子となり,兄たちの支えによって今日に至る ことができた。

1950.4 村立高部小学校入学。56.3 卒業(合併により清水市立となる)

4 ~ 6 年を担任した岩水幸夫先生の薫陶を得て,「小学校の先生」をめざすようになる。

1956.4 清水市立第二中学校入学。59.3 卒業。

読書クラブ担当の中島浩(筆名:克浩)先生により読書・編集が好きになる。

「戦後,日本の教師が最も輝いていた時」と言われる 1950 年代を小・中学校で過ごした。

1959.4 県立清水東高校入学。62.3 卒業

政治・経済担当の中野謙先生のアドバイスのもとに文学・教育書を読みあさる。

生徒会及び市内高校生サークル活動を通して社会的視野を広げ生涯の友を得る。

1963.4 神戸大学文学部哲学科入学,その後,教育学部教育科学科へ転部。67.3 卒業 教育学者小川太郎先生を生涯の師として得る。

ただし,ほとんどをサークル室(児童文化研究会),自治会室で過ごす。

1967.9 東京都足立区立栗島小学校教諭(~ 1981.3)

4 月採用の静岡県教採に落ち,人口爆発中の東京都第三次募集(9 月採用)に合格。

「全員参加の授業をめざして」を課題に掲げ,子ども中心の学校づくりを進めていた仲よ し教職員の輪の中で育つ。「職場団らんの時代」のラスト世代。教育研究活動を通して全 国に友人を得る。45 人→ 40 人学級への移行期。

1981.4 葛飾区立亀青小学校赴任(~ 1991.3)

「子どもの姿の見える風通しのよい学校」「仲間とともに育つ子」を掲げて,楽しい学校 づくりをめざす。同僚と共に葛飾作文の会を再建(以来 33 年,月例会を続けている全国 でも稀有な研究サークルである)。

1991.4 同区立飯塚小学校赴任(~ 2004.3)

学校週五日制が突然始まり,生活科~総合学習の創設,学習目標到達から「関心,意欲,

態度」評価への切り替え,「ゆとりと充実」路線の押しこみ等々,学校が混乱と多忙化に 追い込まれる。いじめ,学級崩壊,不登校…,教師の自殺・心を病む教師の病気休職の 増加,そして学力テストによる追込みへ。

同僚と共に「総合的な学習の時間」の自主的な編成による「地域に開かれた学校」をめ ざす。「ジョナサン君と共にエイズを学ぶ会」(薬害エイズ告発,エイズに対する科学的 な知識を普及する子ども達の自主活動),「ベトナムの『子どもの家』を支える会」(スト リートチルドレン支援),「学びをつくる会」,「読書のアニマシオン研究会」等の活動を 進める。

2004.3 定年退職

2004.4 千葉大学教育学部非常勤講師(~ 2007.3)

「教育方法論」を担当し,ワークショップを中心とする授業を行う。

(19)

2004.4 埼玉大学教育学部非常勤講師(生活科指導法)を 1 年間担当。

2010.4 明治学院大学心理学部教育発達学科教授(国語)(~ 2014.3)

  そして…「子どもの本の語り部」として再スタート。アニマシオンを提げてどこまでも…。

   

〈著 書〉

 ・「ランドセルがはこぶ風―父母と教師の共感をはぐくむ―」(新日本出版社 87.12)

 ・「だいすき国語」(大月書店 88.8 新版 00.9)

 ・「「新しい学力」と子ども」(大月書店 94.2)

 ・「子どもたちに詩をいっぱい」(旬報社 96.6)

 ・「チョークで書く『希望』」(大月書店 06.9)

  ―以上 単著

 ・「○年の新しい学級経営」(全 6 巻 日本標準 91.10) 

 ・「これからの小学校教師」(汐見稔幸編 大月書店 97.11)

 ・「こうすれば学校は変わる―新学習指導要領と私たちの提言―」(汐見稔幸編 大月書店 99.10)

 ・「ぼくらは物語探偵団―まなび・わくわく・アニマシオン―」(岩辺編著 柏書房 99.5)

 ・「はじめてのアニマシオン― 一冊の本が宝島―」(同 03.5)

 ・「ことばの教育と学力」(秋田喜代美編 明石書店 06.1)

 ・「10 代をよりよく生きる読書案内」(こやま峰子編 東京書籍 08.8,海外編 10.3,詩歌編 11.8)

  ―以上,共著

〈研究会〉

 ・葛飾作文の会(毎月第 3 土曜日午後例会)

 ・学びをつくる会(毎月第 4 土曜日午後例会)

 ・読書のアニマシオン研究会

  (通称:アニマシオンクラブ,機関誌『ファンタジスタ!』,毎月第 1 土曜日午前例会)

 ・教育科学研究会(機関誌『教育』)

 ・日本作文の会(機関誌『作文と教育』)

参照

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