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マルチ ・メデ ィアと新 しい公共圏の可能性

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(1)

マルチ ・メデ ィアと新 しい公共圏の可能性

‑デカル トのボン ・サンスの視点‑

MultiMediaandPossibilityofNewPublicSphere

‑PerspectiveofDescartesS "bo机sens"‑

阿部孝太郎 *

Summqry

近年、マルチ ・メデ ィアの可能性が喧伝 されているが、 日本ではその経済的側面 ばか りが と りあげ られている観が な くもない。 もちろん、それはそれで重要 なこと であるが、私 自身は、マルチ ・メデ ィアの 「 可能性 の中心」 を、新 たな公共圏の形・

成 とい う観点 ‑‑これは経済 システムに関 して も重要 なテーマであるのだが一一か ら考 えている。

マルチ ・メデ ィアに関 しては、一般 的な定義が まだ存在 していないか もしれない。

さ しあ た って、西垣通 の 『マルチ ・メデ ィア』 の定義 をここで引 こう。つ ま り、

<音 ・映像 ・文書 な どの諸形式の情報 をデジタル技術(コンピューター)によって統合 したメデ ィア>の ことである。 これによれば、従来のパ ソコン通信 とい うものは、文 字情報 しかないので、マルチ ・メデ ィアの範時 には入 らないが、

WWW(Worldwide Web)

、あるいは

CD‑ROM

の ようなものは、ユ ーザーが音や映像 を享受で きるか らマ

ルチ ・メデ ィア と呼 んで よいだろう。ただ し、 ビデオ ・テープの ような ものは、そ れだけではあえて 「 マルチ ・メデ ィア」 と呼ぶ根拠が薄い。 これがデジタル化 され て、様 々な加工 ・編集 ・交信 の可能性がでて きて、マルチ ・メデ ィアとあえて定義 づける根拠が生 まれる

また、「 公共圏」 とい うことだが、近代市民社会の確立期 に果た したコーヒー ・ハ ウスやサ ロンのの役割 は見逃せ ない。そこでは、 しば しば芸術作品 をめ ぐる討論が 行われ、個 々人の立場 を離れた公的な意見( 世論)が形成 されていった。本稿では、ハ ーバーマス らの議論 を参考 に しなが ら、上記のマルチ ・メデ ィア との関わ り合い を 論 じてい くことにす る。

そ して、近代市民社会の成立 とい うマ クロな歴史の経緯 と、今 日における電子 コ ミュニテ ィーの発展 とい う現象 を比較 しなが ら、中長期的な情報社会の ヴ ィジ ョン を探 ってい きたい。

82 InfoComREVIEW

I

(ol.8

(2)

1 デ カル トの残 した問題

デ カル ト

(15961650)

とい えば、ポス ト ・モ ダ ンとい う言葉 が巷 にあふれ る今 日で は、近代 思 想 の創始 者 の一 人 と して悪 の親玉 の ように扱 わ れ る ことが多 い。確 か に、デ カル トが近代 的 な 思考 の元型 を用意 したのは事実か もしれ ないが、

しか し、 同時 にたんなる 「 近代 思想 の親玉 と し ては片づ け られ ない もの をその出発 点 か ら含 ん で いた ように思 われ る。 それが本稿 で と りあげ るボ ン ・サ ンスの問題である

さて、その前 にデ カル トが近代 思想 の確 立者 であ る とい うの は どうい うこ とであ るか、以 下 の文脈 に沿 う形で簡単 に振 り返 ってお こう。

デ カル トの生 きていた時代 、それ は、 まだ<

神 >( 聖 な る もの)を中心 と した共 同体 を基盤 と した社 会 であ った。そ こで は、多 くの人 々の意 識 は共 同体全体 (も しくは、王 ・首長)の意識 と 一致 し、今 日的 な意味 での 自意識 とい うもの を ほ とん ど持 たず に生活 を送 っていたo た とえば、

『ア ンシャン ・レジーム とフランス革命』 におい て トクヴ ィル

(18051859)

は次 の ように述べ てい る。 「われわれの父 たちは、今 日われわれが鋳造 して用 い る ようになった個 人主義 とい う語 を持 たなか った。 なぜ な ら、当時 は集 団 に所属 しな い ような、 また 自分 を絶対 に独 りであ る とみ な す ような個 人は、実際存在 しなか ったか らであ る。 これ に反 して、 フラ ンス革命 を構 成 してい る無数 の集団 は、 ただ 自分 た ちの こ とだけ を考 えていた。 こ う表現 して よけれ ば、それ は一種 の集 団の個 人主義 であ って、 これが今 日の個 人 主義 に魂 を準備 したのである

」 (1)

つ ま り、われわれが 自明 の ご と く考 えてい る 自意識 を持 つ個 人な ど、せいぜ い

200

年 ほ ど前 か ら西欧社 会で一般 化 してい った にす ぎない。 そ して、その基礎 を用意 したのが言 わず もが なデ カル トの 「コギ ト エ ル ゴ ・サ ム」 ( 我思 う、故 に我在 り)とい う考 えである。 デ カル トは、 ここ で共 同体 や人 々が信仰 す る神 では な く、個 人の 意識 か ら問題 を出発 させ 、それが いわゆ る近代

的 自我 の思想 につなが っている とい うわけだ。

また、彼 は、 <延長 > とい う概念 か ら、後 の ニ ュー トン物理学 につ なが る均 質 な空間( 近代科 学 を可能 に した)を想定 したが、 これはすべ ての 土地や ものに精神が宿 る とい うアニ ミズム的思想 を一掃 し、固有の土地 に縛 られた伝統的な共同体 の存立基盤 も同時 に解体 してい く運命 となった

く無 限の空 間が私 を畏怖 させ る>。 これ は、パ ス カルの有名 な台詞 であ るが、<神 > とい う存 在 を欠 いた、均 質で の っべ らぼ うの空 間 に生 き ることの恐怖 として捉 えることがで きる。

さて、 ここか らが 問題 で あ る。かつ ての伝統 的 な共 同体 か ら離 れ、独 立 した個 人 と して出発 した近代 人 は、実 は、 これ以後大変 な難 問 を抱 えて しまう。 それ は、共 同体 か ら離 れた、全 く 独立 した意識 を持 つ個 人 はいか に して他 の人間 と共通 の意識 ・世界 を共有 す るか とい う問題 で ある( いわゆるホ ップズ問題)。 それな くしては、

お そ ら く人 間 は他 者 とコ ミュニ ケ ー シ ョン し、

社会 を運営す ることが不可能 になるであろ う。

ここで、デカル トはボ ン ・サ ンス

(bon sens)

とい う概 念 で これ を説 明 してい る。つ ま り、す べ ての人 間は生 まれ なが らに して、他者 とコ ミ ュニ ケー シ ョンす る能力や、正 しくもの ご とを 判 断す る力 を等 しく持 ってい る と言 う。 ところ で、 この

bonsens

とい うフランス語 は、一般 に 良識 と訳 されているが 、本来直訳 す れば 「良い 感覚

」(goodsense)

とい うべ きものである。つ ま り、「あの人はセ ンスが いい」 とか 「 ○ ○君 には 非凡 な野球 セ ンスが ある」 と言 うときの 「セ ン ス」 とい う言葉 を思 い浮 かべ る方 が 的確 で はな いだろ うか。実 際 、 グーテ ンベ ル ク ・プ ロジェ ク トで な されている 『 方法序 説』 の英訳 は次 の ようになっている。

Goodsenseis,ofallthingsamongmen,the mostequallydistributed;thepowerofjudging alrightandofdistinguishing truthfrom error

,

whichisproperlywhatiscalled goodsenseor reason, isbynatureequalin allmen(2

'

(

良い感覚

は、人 間のすべ ての性 質 の中で、最 も公平 に分

1996 Wl'nter

83

(3)

配 されてい る。それは、正 しく判断 し、誤 りと 真実 を区別する力である。そ して、適切 にも良い 感覚 とか理性 とか呼ばれているものは、生 まれつ きすべての人間に備わっているものなのだ: 拙訳) この ように、「 理性」 だけでな く、その根底 に あ る 「 感性」 を重視 した思想家 としてデ カル ト

を捉 え直 してみ る と、単純 に近代 思想 の生みの 親 と して安易 に糾弾 す る こ とはで きな くなる

この ような視点か らデカル トを再解釈 したのは、

おそ らく小林秀雄が最初 であ る。 た とえば、彼 は 「 常識 について」 と題 す る講演 で次 の ように 述べ ている。「良識 とか善識 とかいう言葉があ り ます。 フラ ンス語 の ボ ン ・サ ンスの訳 語 だが 、 これは、 ご く新 しい もので、おそ ら く昭和 に入 ってか らの新語 で しょう。 いず れ に して も、 日 本語 と して、 まだ熟 してはい ない し、 これか ら も熟 しそ う もない。常識 とい う言葉 が あれ ば、

事 は足 りるか らです。 コ ンモ ン ・セ ンス に見合 うフラ ンス語 は、サ ン ・コマ ンだが、ボ ン ・サ ンスの意味 あいは、 これ とはっ き り区別す るこ とはむつか しい ようです

」 (̀')

そ して さらに、小林 は、通常言 われている よ うな、近代 的 自我 の生 みの親 と してのデ カル ト 像 を根本的に覆 している

「コギ トは、合理的に 世界 を再建す るため に、デ カル トの頭脳 か ら生 まれた概念で はない。彼 は、『コギ ト』 とい う、

これ以上純粋 な、直接 な、疑 い ようのない経験 はない、そ うい う経験 か ら出発 した と言 うだけ なのです

。 (I)

小林 によれば、デ カル トが書物 を捨 てて、「 世 間 とい う大 きな書物」 にこれか らは学ぶのだ と 決意 した とき、そ こにあるのは近代 的な実験室 の<知>ではな く、「 世間」 とい う体験か らしか得 られない ような、感性 的 な もの を基礎 に した知 性 のあ り方 をむ しろ想 定 してい たはず であ る

彼 の 「近代 思想 の生 み の親」 と しての地位 は、

後 の哲学者 たちがそ う位置づ けたにす ぎないの であ って、デ カル ト自身は近代 の持つ問題性 に 関 してむ しろ疑義 を唱 えていた。筆者 自身 は、

小林 ほ どポ ジテ ィブな解釈 を しない( 詳細 は後

84 InjToComREVIEWI(ol.8

逮)が、 このデカル トの再解釈 は傾聴 に値す る。

日本 で、 コモ ン ・セ ンス( 共通感覚)論 を積極 的 に展 開 している中村雄二郎 は、小林秀雄 の こ

う した見解 になぜ か触 れていないが、小林流 の 解釈 で はデ カル トの主張 はコモ ン ・セ ンス‑共 通感覚 までつなが る

。 (:')

共通感覚 とは、五感 を統合す る総合的 な感性 能力であ り、人間 を人 間た らしめてい る根 源的 な力 の こ とである。通常 、純粋 に形式論理 的だ と思 われてい る 自然科学や数学 に も根底 には こ の ような共通感覚が働 いてい る と思 われる。 た とえば、黄金分割 とギ リシャ彫刻 、 フイボナ ッ チ数列 とオ ウム貝、 ピタゴラスの指摘 した音楽

と数学 の密接 な関係 を考 える と、ポア ンカ レの い う 「 数学者 の美 的感受性」 なる もの も納得が い く

(6)

2 ボン ・サンスと公共領域の形成

この ようなデ カル ト解釈 は哲学史的 に見 て妥 当ではない と異 を唱 える専 門家 も一部 にいるか も しれ ない。 しか し、われわれの問題 をこの よ うに

、bonsens=goodsense=commonsense

と捉 える ことによって、 これか ら先 の共 同性 の問題 がずいぶん と検討 しやす くなる。

独立 した 自我 を持 った個 人がそれぞれの価値 観 や思考 を抱 き、伝統 的な共同体 の拘束 か ら解 放 され 自由 に生 きてい く。 いわ ゆる 「近代 人」

の誕生である。 しか し、お互 いが、ば らば らの 考 えを持 っているだけでは社会は成立 し得 ない。

そ こで、公共的な意見の形成の場が必要 となる。

教養 ある市民 は、芸術作 品の ような美 的な問 題 をめ ぐって コー ヒー ・ハ ウスやサ ロ ンで討論 を交 わ し、公 的 な見解 ( 世論)を形成 してい く

前節 で述べ た観点か ら言 えば、 これは美的 なセ ンス とい うもの を通 じて異 なる他者 同士が合意 を形成 してい く過程である。「 今 日の ように詩が、

あ るいは文学全般 が作者 の個室 、書斎 において

構想 され、やが て活字化 されて発表 をみる とい

う、ある意味 では きわめて孤独 な作業 であ る時

(4)

代 とは異 な り、一七世紀 にお いて は詩作 、劇作 は公的な色彩 をまだ色濃 く持 っていた」 のだ。( 7 )

当時活躍 した批評 家 ・ジ ョンソ ンと 「 一般読 者」 の関係 につ いて、われ われのテーマ に大 き

く関わ る重 要 な著作 であ る 『 批 評 の機 能』 にお い て、 イー グル トンは次 の よ うに述 べ てい る。

「 彼 の試 みが一般読者 に受 け入れ られた理 由の一 端 は、彼 の名高い 『 常識

』(co… onsense)

にあ る。 アデ イソ ンやス テ ィール と同 じように彼 も また、文学批 評行為 を自律 的 な美学 の領域 に閉 じ込 めないで、『 ‑ 一般 イデオロギ ー』 と有機的 に 結 びつ ける。つ ま り、批評 を、一般 人の価値 判 断の様 式 や経験 か ら切 り離 さず 、専 門的学 問分 化 に先 立 ち そ れ を取 りか こ む ≪生 活 世 界 ≫

(Lebensbert)

に しっか り結 びつ けるのだ

̲巨 8‑

ここで言 う 「 常識

」(CommonSense)

こそ、本 稿 が扱 ってい るボ ン ・サ ンス に他 な らない。 そ れ は、 日常 生活 で用 い られてい る諸感 覚 に密接 に結 びついてお り、 フッサールが指摘 したように、

実 は近代科学 をも根底で支 えている ものである。

一方 、 フラ ンスで は、1

8

世紀 頃か ら都市 の貴 族 を中心 に文筆 家、芸術 家 、科学者 な どが集 ま り、 国王 が宮 廷 で祝 宴 を開 く形 態 とは異 な る、

サ ロ ンとい うもの を形成 してい く。ハ ーバ ーマ スは 『 公共性 の構造転換』 で、サ ロ ンに関 して イギ リスの コー ヒー ・ハ ウス と比較 しなが ら次 の ように述べ ている。 「 市民階級 は、国家や教会 の指 導 的地位 か らはほ とん ど閉め出 され なが ら も、経済 においてはすべ ての枢要の地位 を占め、

他方 、貴族 階級 は前者 の物 質 的優位性 に対 す る 不満 を勅 許の特権 と社 交 にお ける こ とさ ら厳格 な ヒエ ラル ヒ一 に よって補償 していたが 、その 間 にサ ロ ンで は、貴族 とこれ に同化 され た銀行 と官界の大 ブルジ ョワジーが、『 知識 階級』 とい わば対等 の立場 で立 っていた。(中略)貴族 出 に せ よ市民出にせ よ、社交界の貴婦 人のサ ロンでは、

侯爵 や伯爵 の息子 たちが 、時計工 や小 売 人の息 子 たち と交 際 してい る。サ ロ ンの 中で は、知性 は もはや庇護者へ の奉仕で はな くな り、 『 意 見

は経済的従属 関係の拘束か ら解放 される

LH‑

要 す る に、 イギ リス の コー ヒー ・ハ ウスや 、 フラ ンスのサ ロ ンで は、お互 いの世俗 的 な身分 を離 れて、文芸作 品な どの美 的な問題 を中心 に、

様 々な討論 を行 う場 が育 ってい た。 この ように して、 コー ヒー ・ハ ウスやサ ロ ンは、文化 的な 社 交 に とどま らない、実 に大 きな社 会酌 影響 を 与 えてい った。 イギ リスの コー ヒー ・ハ ウスは、

近代 市民社 会 を用意 した と言 って も過言 では な い。 た とえば、そ こで様 々な政 治 的パ ンフ レッ トが配布 され 、近代 的 ジ ャーナ リズ ムの原型 を 生 み、議論 が行 われ て、民 主主義 の基礎 を形成 す る。 あ るい は、そ こで、様 々な商業上 の取 り 引 きが行 われ、近代 的資本主義 の制度 を整 えて い く。 ロ ン ドンの コー ヒー ・ハ ウスか ら、有名 な保険会社 、 ロイズが生 まれ たの は、あ ま りに も有名 な話である

しか し、独 立 した個 人が お互 いの美 的セ ンス の交換 で もって公 的領域 を形成 してい たのは意 外 に短 い期 間 にす ぎない。18 世紀 にお いて、す で に古典 的公共 圏 は、商業主義へ転 落 してい く 過程 にあ った。 レズ リー ・ステ ィー ブ ンは 『ク リテ ィカル ・レ ビュ ー』 を念 頭 にお きなが ら

「それは まさに 『 新 たな査 問委員会、文学上の星 室庁』 の誕生 であ り、 コー ヒー ・ハ ウス にたむ ろ した文学知識 階級 の個 人的言説が 、あ らゆる 新刊書 を書評す る とい う、やや魅力 に乏 しい仕 事 に精 を出す職業評論 家の言説 に、徐 々 に道 を 譲 ったのだ」 と述べ ている

o flo)

そ して

、20

世紀 に入 る と、再 び公共 圏 を取 り 戻 そ うとい う 『ス クルーテ ィニー』運動 が リー

ブス夫妻 らによって興 され る。 リー ブスは、十 八世紀 の 「 常識

」(CommonSense)

とい う語 には

「 ふつ うわれわれが この語 か ら連想す るよ りもは るか に重 みのあ る意味」 が こめ られていたので はないか と指摘 す る。 しか し、 リー ブスの 「 常 識」 に対す る態 度 にはア ンビバ レンスな態度 が 見 られ る。 リーブス は ジ ョンソンを批 判 し、批 評 はたん なる 「セ ンスの よさ」 の問題 で は ない と言 い

、「

『 一般読者』 の とどかぬ ところにあ る 分析様式 と、専 門家 だけが得 られ る文学体験 の

1996 Wl'nter

85

(5)

形式 、 この二つが どう して も必要である」 と述 べ、現代 の公共性 を担 う立場 にあるのは大学 に おいて他 にない と主張す るに至 る。 イー グル ト ンに よれば、 ここにおいて、文芸批評 とい う行 為 は、非専 門家の手 の届 か ない ところ、換言す るな ら、公共圏 を形成す る一般的 な議論 の場 か ら隔離 された場 に行 って しまったのである

。 (1

あるいは、 また、ハ ーバ ーマスが指摘す る よ うに、マス ・メデ ィアの発 達や普通選挙法 の普 及や市民の営利 的組織へ の依存 的傾 向の強 ま り な どに よる、いわゆる 「大衆社 会」 の進展 と共 に、市民 の意見 を統 合す る ような公共的 な場 も 衰退 してい く

自律 した個 人 と美 的 な教養 の蜜 月期 ‑1一般 に近代主義者が称揚す る 「 近代」 は これ を指 し ている一一を便宜 的 にここでは近代社会の 「 古

き良 き近代」(

oldGoodModern)

と名付 けよう。

それに対 して、「 人間解放」 とい う本来の理念 を 均 質化 ・効率化が庄倒 して しまった、その後 の 近 代 社 会 を 「行 き過 ぎた 近 代

」 (Exessive Moder

n)と呼ぼ う

デ カル トの ところで触 れた ように、 もともと

「 近代」 には二面性が含 まれているが、結局の と ころ 「自由 ・平等 ・博愛」 といった理念 よ りは、

産業社会 を背景 に した、均 質化 ・効率化 の方が 中心原理 なのではある まいか。今や、ボ ン ・サ ンス とい う もの は社 会 の 背 後 に圧 しや られ 、 人 々は形式合理性 をのみ叩 き込 まれている。そ

して、 これが 「 近代」 とい うものの根底 にあ っ た姿なのではないだろうか

。 (12)

3

近代 の生 ん だ鬼 子 一 一専 門 人 とテ クノ ・

ナルシス

その ような意味での近代化が最 も進 んだ国が、

この 目本 であ る とい う判 断 に さほ ど異論 はあ る まい。 た とえば、 イギ リス においては、官僚や ビジネスマ ンと して成功す るため には文学 の教 養 が必須 だ と言 われてい る し、 ア メ リカで も、

有力 な どジネス ・ス クールへ の進学 には、 自由

86 InfoComREVIEW

I

(ol.8

学芸

(LiberalArts)

カレッジでの良い成績 は非常 に有利 となる。 この ように、欧米社会が独立 し た個 人 を基盤 とす る 「 古 き良 き近代」 の近代社 会像 にこだわ っている間に、 この国は均 質 な優 等生 人種 を中心 とす る強固な産業文 明 を築 き上 げて しまった。( 大量生産 ・大量消費 を効率 よ く 運営す るには、独立 した独 自性 を持 った個 人は む しろ阻害要因 となる場合が多い。)

しか し、「 行 き過 ぎた近代」 は近年 にいたって 思 わぬ 一一いや、本稿 か ら言 えば全 く必然 的な のだが 一一非効率 を生 じつつある。それは、 ボ ン ・サ ンス

‑goodsense

を軽視 し、「 受験戦争

に典型 的な ように形式 的な合理性 をあ ま りに重 視 したため に本来 の効率化 の要請 に沿 わない奇 形児 を生んでいる とい う問題である。

筆者 は、数年前 の論文で 、 この ままの社会状 態が続 けば、受験戦争の勝者の多 くが、常識(コ モ ン ・セ ンス)を持 たない 「 専 門人」 に、敗者 は ルサ ンチマ ンを抱 きなが らメデ ィアの作 り出す 自閉的 な環境 に退行す るテ クノ ・ナル シスにな るであろ うことを指摘 ・予測 した。( 1 当 時は、宮 崎勤 に よる 「幼女連続殺 人事件」 な どが あ り、

後者 が世 間の注 目を集 めていたが、 ここ数年 、 高学歴者 の奇妙 な事件が相次 いで起 こ り、前者 の問題が社 会的に顕在化 しつつある。( " ) そ して、

95

年 に入 り、 オウム真理教 による地下鉄サ リン 事件 な どを きっか けに、世人 に前者 の問題 が知

られるようになって きている。

<大 衆 >と しての専 門人 につ い ては、 オルテ ガ ・イガセ ッ トによる定義が有名である

オルテガは 『 大衆 の反逆』 において、大衆 を

「 みずか らを、特別 な理 由によって一一よい とも 悪 い ともー‑評価 しようともせず、 ≪自分がみ

んな と同 じ≫ だ と感 じることに、い っこうに苦 痛 を覚 えず、他 人 と自分が 同一である ことにか えっていい気持 ちになる、その ような人 々全部 である」 と定義 している

。 I.5'

そ して、 オルテガは 「 今 日、社会 的力 を行使

してい る者」 と して技 師、医師、金融家、教 師

な どの専 門職 をあげている。 ところが 、専 門人

(6)

を一般大衆 を支配す るエ リー トと して例示 して いるのではな く、実 は専 門人 こそが大衆の典型 であ る と彼 はい うのである。 なかで も 「 最高の 位置 を占めて最 も純粋 な形でかれ らを代表す る 者」 として科学者 を指名 している

「 物理学や生 物学 においてや らなければな らないこ との大部 分 は、だれ にで も、あるいはほ とん どの人にで きる機械 的な頭脳労働 である

O

科学の無数の研 究 目的のためには、これを小 さな分野 に分 けて、

その一つ に閉 じこも り、他 の分野 の ことは知 ら ないで よかろう。( 中略)

この ような専 門家 こそ、私 がいろいろな角度 か ら定義 しようと して きた新 しい奇妙 な人間の みごとな例である

(16)

ところで、 日本では 自分の専門知識以外 の こ とには疎 い人 を指す 「 専 門馬鹿」 とい う言葉が ある。それは上の現象の一端 を確 か に示 してい るが、 しか し、それだけでは充分ではない。筆 者 は 、 ボ ン ・サ ンス を欠 い た エ リー トの 総 称 一一すで にオルテガが上記 の著作ですでに部 分 的に探 り当ててい るが 一一 として、 この専 門 人を捉 えている

(

1

7

' 近代の効率化 ・均 質化 を担 う 人物 としての技術官僚 ‑テ クノクラー トは、近 代社会の発展 に大 き く貢献 したことは否定で き

ない。 しか し、 ボ ン ・サ ンス を軽視 し、極端 に 形式合理性 を重視 した ときにその病理的状態 が 現れる

現代 における典型 的な専 門職 として、学者 ・ 官僚 ・医師 ・弁護士 な どが考 え られるが、 この

ままいけば、 日本では近 い将来、彼 らの寄妙 な 犯罪が ます ます増加す る危険性がある。おそ ら く、それは現在 の 「 歪 んだ平等教育」(‑いわゆ る偏差値教育)が虜囚であ り、子供たちの発達 に おいて、ボ ン ・サ ンス

(=good sense,common sense)

を身 につ ける機会があ ま りに少 ない こと に起凶 している

。 舶)

また、テ クノ ・ナルシス も、やは りボ ン ・サ ンスの欠如 とい う点で専 門 人 と共通 してい る

ただ、彼 らの場合、受験戦争の上層部 に生 き残 ることがで きず 、 しば しばルサ ンチマ ンを掩 い

て、 アニ メや コンピュー ターの世界 に逃避 して いる点が大 きな違いであるが。

彼 らは、たいてい形式論理の操作 は得意 だが、

美的 なセ ンスや常識 に欠 け、 しば しば幼稚であ る。そ して、美的なセ ンス とい うことでいえば、

服装や髪型 など自分 の見かけに注意を払 わない ことが多い。

彼 らの多 くは、いわゆるロ リコン ・アニメを 好 むが, これは形式論理 で割 り切 れない、実際 の異性 関係 を忌避す る傾 向か ら生 じてい る と推 測 されるO彼 らは、卓上モニ ターの閉ざされた 空 間で、少女たちを陵辱 し、現実 には、ほ とん どあ り得 ない女性 に対す る支配関係 を享受 して いる。筆者 は、 こう した傾 向 を 「自閉的マ ッチ ョイズム」 と名付 けている

(

19

) 女性の社会進出が 進み、女性が男性 と対等の人間関係 を望 む一方、

二次元世界の従順 な美少女 を好 む者が増 えて く る可能性 はかな り高い。

テ クノ ・ナル シス(オ タク族)に実際 に揺 す る ことの多い中島梓 は、彼 らの生態 を細か く観察 した著作、『コミュニケーシ ョン不全症候群』 に おいて、彼 らの本質 について、的確 に も次の よ うに述べ ている。「 機械 はなにもか も自分の意の ままに反応 して くれ る し、 自分 を受 け入れて く れる。 また機械 の論理 は きっぱ りと割 りきれて 必 ず正解が あ るが、人間関係 にはそれが ない。

これ らのお タク青年 た ちはその 『正解 の ない』

状態、『 理屈では割 りきれない』状態 に耐 えられ ないのである、 とい

。要す るにそれがお タク の精神構造 であ り、それがお タク、 とい うマス コ ミによって妙 にコ ミカルにゆがめ られて しま った転換期 の新 しい人間の真 の不気味 な姿 なの である。 」伽)

現在 、オ タク(テ クノ ・ナルシス)の典型例 と 言 われる宮 崎勤 の事件で、彼の精神鑑定 におい て分裂症 か否かが問題 にな っているが

(21

㌧ テ ク ノ ・ナルシス とは、近代の論理(エポ ン ・サ ンス の否定、形式論理の重視)を誰 よりも肯定 してい る とい う意味で 「究極 の近代人」で ある といえ る。その点で、彼 らはわれわれが 「 現実」 とみ

1996 Winter

87

(7)

な してい る世界 か ら抜 け出 してい るわけで はな く、い わゆる分裂症 の患者 一一彼 らも共通感覚 が欠如 してい る といわれる但 劫 ‑‑ とは異 なる可能 性 が高い。再 び、中島梓 の著作 か ら引用すれば、

「お タクと分裂症患者 との違 いは、分裂症患者 は 現 実 の世界 に背 をむけて、 自分 の内的世界 につ くりあげた個 人的幻想 の規範 に 『 適応 』 した存 在 であ るの にたい して、お タクは一応現実 の規 範 には適応 してお り、 ただそれ はほん とうの適 応 で は な くて、二重 の適応 、実際 にはない 『自 分 の場所』 を、虚構 の、形而上世界 の中 にお い てそれ を 自我 の根拠 と した うえでの現 実へ の適 応である」 のだ。( T 3 )

4

マル チ ・メデ ィア の可 能 性 一 一 ボ ン ・サ ンスの復 活

しか し、一方 で、 イー グル トンが述べ た よう な専 門家 とそれ以外 の人 た ち とい う対立 は、パ ソ コ ン通信 や イ ンター ネ ッ ト等 の普 及 に よ り、

消失す る傾 向 に向かって きている

た とえば、現在 、大 学 は、徐 々 に情報 を一般 市 民 に公 開化 しつ つ あ る。 ア メ リカの大 学 は、

カ リフ ォルニ ア大学 ・バ ー ク レー校 な どをは じ め、図書館 の デー タベ ース を無 料 で公 開 してい る ところが あ る。 また、本稿 で もデ カル トの著 作 に関 して利 用 したが 、著作権 の切 れ た、歴 史 上 の有名 な書物 を電子 化 しよう と してい る大学

もある。

さらに、現在起 こ りつつ あ る様 々な現 象 に関 して、 イ ンター ネ ッ トは、強力 な情報提供 ツー ル になってい る。 た とえば、電子 商取 引 や遠 隔 医療 の問題 に関 して、多少の操作知識 があれば、

まだ書物 と して出版 されてい ない、多 くの情報 をイ ンター ネ ッ ト上 で 入手 す る こ とが で きる。

この こ とは、それ までの専 門家 とそれ以外 の人 た ちにあ った、情報 の ヒエ ラルキー をか な りの 程度崩壊 させ て しま う。消 費者間題 に関 して権 威 あ る教授 が 、 コ ンピュー ターの扱 い に不慣 れ なばか りに、初学者 の学生 に

、PL

法 に関す る

88 InfoComREVIEWI(ol,8

海外 の最新動 向 を教 えて もらうな どとい うこ と が充分 あ り得 る。

また 、芸 術 の分 野 で も、 こ こ数 年 で 、 マ ル チ ・メデ ィア を利用 した、 イ ンタラクテ ィブな 作 品が多 く現 われ、それ まで近代 的 な芸術 の概 念 が受 け継 いで きた、孤 高 の表現 者 とい う特権 的 な地位 は揺 らぎつつ あ る。 た とえば、現在 の 有力 なマルチ ・メデ ィア作品 ( CD‑ ROM) の一つ を 制作 した、音 楽家 ピー ター ・ガブ リエ ル は、そ の良 さにつ いて 「 双方 向性」

(interactivity)

が あ る こ とをあげ、 これ まで受 け身 に終 わ ってい た リス ナーが積極 的 に作 品の形成 に参加 で きる点 を賛美 している。伽あるいは、最近

、DJ

とい う、

自分 で演奏 しない、過去 の音楽 の編集作業 に よ る表現 が 、主 に若者 た ちの 間で注 目を集 めてい るが 、 この ような現 象 も、 まさに上 で述べ た一 つ の典 型 的 な例 で あ る。 これ らは、作 品の質 と い う点 で は、 まだ発展途上 にあるか も しれ ない が 、将 来 的 に、近代 的 な芸術 の あ り方 を変 え、

社 会 か ら隔離 され た表現活動 を、再 び人々の生 活 に呼 び戻す可能性 を秘 めている。

そ して 、経 済 活 動 の面 にお い て も、再 び ボ ン ・サ ンスの働 きが要請 され る ようにな って き ている。

真面 目さ ・忍耐力 ・効率が主 と して要求 され る生 産 中心 の産業社会 とは異 な り、情報本位 の 経 済 、あ るい は消費社 会で は、 む しろ、モ ノを 作 る段 階か ら購 買 に至 る まで、あ る種 の遊 び心 や美 的 なセ ンスが重 要 にな って くる。 む ろ ん、

人 々が全 員不真面 目になって よいわけで はない が 、早 い段 階か ら産業構造 を生 産 中心 か ら情報 中心 のそ れへ と変 化 させ て い る ア メ リカで は、

経 済 シス テ ムの鍵 にな って い る人物 の多 くは、

その ような遊 び心 を備 えた シ ンボ リック ・アナ リス ト(ロバ ー ト ・ライシュ)たちである。捌

また、筆者 は、 ライシュの提起 す る問題 を さ

らに文 明的 な シス テムの変容 とい う点 か らま と

め、<近代>の効率化 ・均 質化 の論理 を推進 した

テ クノクラー トに対 して、美 的 ・遊戯精神 を備

えた脱 産業化社 会 の リー ダー をセ ミオ クラ‑ ト

(8)

と名付 けてい る。前者 の テ クノクラー トは、形 式 合理性 の面 で特 に優 れた人物 であ るが 、後者 のセ ミオ クラ‑ トとは、共通感 覚 に優 れ、既存 の情報 を統合 し、新 しい<意味>を作 り出 してい

く人物である。( 2 6 )

そ して、マ ルチ ・メデ ィアが普 及 した社 会 で は、い よい よその傾 向 を強 めてい くだ ろ う。現 在 、 日本 で は深刻 な不況が長 び き、 その こ とが 見 えに くくなってい るが、 日本 で も近 い将来 ア メ リカ同様 に、遊 戯 的 ともいえる感性 的 な職業 が経済 システムの中心 に位置す ることであろ う。

( そ うでな くては、おそ ら く世界経喝 の一線 か ら 外 れてい く。)

マ クルーハ ン流 に言 えば、 グーテ ンベ ル クの 発 明以 降 の近代 人 は、そ れ以前 の人 間 に比 べ 、 並 外 れ て合理性 に重 きを置 いてい た わけ だが 、 マルチ ・メデ ィアの登場 によって、人 間本来の、

五感全体 を重視 す るあ り方 に変化 して きてい る と捉 えることがで きる。

おわ りに

近代 社 会 は、 もともと人 間の様 々な能力 を解 放 してい く側面 と、社 会全体 を均 質化 して しま うとい う相反す る側面 を持 っていたが 、前者が 中心 になっていた時期 は意外 に短 く、徐 々 に後 者 の側面 が圧倒 しつつあ った。 われわれ は、そ れ らを近代 の 「 古 き良 き近代」 と 「 行 き過 ぎた 近代」 と呼んだ。

しか し、均 質化 ・効率化 を推進 した形で現 れ た消 費社 会 、及 びマ ルチ ・メデ ィアに代 表 され る情報本位 の社 会では、「 古 き良 き近代」 にあ り 得 た美 的 なセ ンス を もとに した集 団が再 び公共 領域 を形成 してい く可能性 が あ る こ とを概観 し た。

その際重要 になって くるのが 、芸術 家や学者 と市民 との関係で はないか。 イー グル トン流 に、

芸術家 と市民 を結ぶ 「 批評家」 と言 って もよい。

芸術 家 とい うと 「 反社会的存在」、学者 とい う と 「 世 間知 らず な」 とか 「世事 に疎 い」 とい う

イメー ジが 日本 で は強 いが 、本来 、多 くの社 会 で は( 近代 西 欧 のみ な らず)あ る種 の公 共性 を持 った存在 である。その ようなイメージの流布 は、

近代市民社 会 の 自律 的形成 を経 ず に産業社 会 を 達成 した、 この 日本 での特殊 な事 情 に よる とこ ろが大 きい。

た とえば、古代 中国の官僚 とは、 ウェーバ ー の説 明な どを持 ち出す まで もな く、現在 の( 効率 化 ・均 質化 とい う役割 を担 った)テ クノクラー ト

と しての近代 的官僚 とは異 な り、文 人 的教養 と 品格 を備 えた貴族 的知識 人で あ った。 ホ イジ ン ガが 『ホモ ・ルーデ ンス』 であ げてい る例 に よ れば、 「 対句 法 を用 いて詩 を即 興 で作 る こ とは、

極東 世界 の全域 にわた って、 ほ とん ど不可欠 な タ レン トだ った」 ので あ り、 ア ンナ ン外 交 で は そ う した詩 の創作 能力 が重要 な役割 を担 ったの である

。 但刀

芸術 家や学者 はいか に孤独 に密室 に閉 じこ も ろ うとも、前者 は美 的 なセ ンスで もって、後者 は論 理的 な記号 の構 築 に よって、基盤 となる世 界観 、社 会 のあ るべ き姿 、人生 の ヴ ィジ ョンな

どを示す ことがで きる。

そ して、マルチ ・メデ ィア社 会 は、前節 で説 明 した ように、それ まで特権 的だ った芸術 や学 問へ の一般市民 の ア クセス を容易 に し、誰 もが 芸術 や学 問 に触 れ、それ らについて議論 し得 る 社会である。( 2 8 )

現在進展 しつつあ る、パ ソコ ン通信 や イ ンタ ー ・ネ ッ ト上の、美 的集団( 美 をめ ぐっての討 論 の場 を共有)、知 的集 団( 知 をめ ぐっての討論 の 場 を共有)は、そ う した市民参加 を具体化す る可 能性 を持 ってい る。 そ して、それ は以前 の古 き 良 き近代 を支 えた コー ヒー ・ハ ウスやサ ロ ンと 違 い、物理 的空 間 に制約 され ない、世界 中の多

くの人々に開かれた集団である。

補 遺

E ] 本 にお いては、 コー ヒー ・ハ ウスの研 究が 西 欧 におけ るほ ど注 目されてお らず 、今 一つ イ

1996 Winter

89

(9)

メ‑ ジが掴 みづ らい点 が あ るか も しれ ないので 、 本 文 とは別 に コー ヒー ・ハ ウス の社 会 的機 能 に つ いて簡単 に補足 してお きたい。

英 国 にお け る

17

世 紀 半 ばか ら

18

世 紀 前 半 にか け て の コー ヒー ・ハ ウス とは 、今 日の喫茶 店 と は大 き く社 会 的役 割 が 異 な り、 簡 単 に言 え ば 、 近代 の諸 制 度 の重 要 な イ ンフ ラス トラ クチ ャー で あ った。 コー ヒー ・ハ ウス か ら、民 主 的 な政 治 制 度 が 生 まれ 、 近 代 的 な資 本 主 義 が 発 展 し、

マ ス コ ミの原 型 が つ くられ た。 そ こで は、政 治 、 経 済 、文学 (これ らは、 当時切 り離 され て存在 す る もの で は な か っ た)の 最 新 情 報 が あ ふ れ て 、 人 々は情 報 を求 めて、そ こに集 まったので あ る。

コー ヒー ・ハ ウス と市 民 的公 共性 との 関係 を 指摘 した重 要 な著作 と して、本 文 で も言 及 した、

ハ ーバ ーマ スの 『 公 共性 の構造 転換 』 が あ るが 、 コー ヒー ・ハ ウスが 初 版 で は 「喫茶 店 」 と訳 さ れ た り、 ク ラ ブの社 会 的機 能 との相 違 一 一 ク ラ ブ は 、 言 う まで もな くク ロ ー ズ ドな集 団 で あ る 一 一 をハ ーバ ー マ ス 自身 明確 に分 け て い ない な ど して 、 日本 の読 者 に は、 コー ヒー ・ハ ウス と言 って もきちん と把 握 しづ らか った。

また、 ア カデ ミックな著 作 で は ない が 、ハ ワ ー ド ・ラ イ ンゴー ル ドの 『ヴ ァーチ ャル ・コ ミ ュ ニ テ ィー』 も、何 度 か コー ヒー ・ハ ウス と、

今 日の電 子 コ ミュニ テ ィーが類 似 して い る こ と を指摘 して い る。 しか し、今 の とこ ろ、 そ れ ら は比 倫 的 な言 及 に過 ぎず 、社 会 科 学 的 な比 較 が な され て い るわ け で は ない。 筆 者 の 「電 子 コ ミ ュニ テ ィー と コー ヒー ・ハ ウス、 茶 会 との比 較 研 究 」 (第

13

回情 報 通 信 学 会 発 表 )は 、 コ ー ヒ ー ・ハ ウ ス と電 子 コ ミュ ニ テ ィー と を比 較 し、

前 者 は主 に、後 の物 質文 明 につ なが る東 洋 の文 物 へ の憧 れが根 底 にあ り、後 者 は

60

年代 の ヒ ッ

ピー な ど と も関係 す る脱 物 質文 明へ の志 向が根 底 に存 在 す る とい うこ と を指 摘 した。 そ して 、

コー ヒー ・ハ ウスか ら生 まれ た近代 的諸 制度 を、

電 子 コ ミ ュ ニ テ ィ ー は 、 改 編 し、 新 しい 制 度 一 一た とえ ば 、情 報 民 主 主 義 、電 子 マ ネー等 の新 しい経 済 シス テ ム な ど一 一 を作 り上 げ るか

90 InfoComREVIEW

I

(ol.8

も しれ な い状 況 にあ る こ とを述 べ た。 今 後 、上 記 の発 表 は論 文 と して改 訂 され公 表 され る予 定 で あ る の で 、 詳 し くは そ ち ら を参 照 され た い 。 本 稿 は 、 そ れ らの哲 学 的 、思 想 的基礎 の探 求 を 試 み た論 考 で あ る

(注)

( 1 ) 三 浦 雅士 『 主体 の変容 』 (中央 公論 社)

1982

15‑16

(2)ThePrqjectGutenbergEtextofADiscourse on Method(created by llamaand Greg Newby)

グー テ ンベ ル グ ・プ ロ ジ ェ ク トとは、主 に 著 作 権 の切 れ た、歴 史 上 の有 名 な著 作 を電 子 化 しよ う とい う もの で あ る。 一 般 に、学 生 の ボ ラ ンテ ィアに よって進 め られ てお り、

使 用 者 は寄 付 を求 め られ る。 イ ン ター ネ ッ ト上 で 、 この プ ロ ジ ェ ク トで収 録 され た著 作 を入手す る こ とが で きる。

( 3) 小 林 秀 雄 『 常 識 につ い て』 (角 川書

店)1968

273

(4)

小 林 秀雄 ・前掲書

290

( 5) 中村 雄 二 郎 『 共 通 感 覚論 』 ( 岩 波 書

店)1979

年 ・参照 。

私 と同様 の デ カ ル ト解 釈 を西 垣 通 『マ ル チ ・メデ ィア』 ( 岩 波 書

店)1994

年 ・も とっ て お り、 そ の意 味 で本 論 に先 が け て い る と い え る。 が 、 や は り小 林 に関す る言 及 は な

い。

( 6) *数 学 と文 化 の 歴 史 に 関 して は 、志 賀 弘 典

『 数学 の領域 』 (日本評論社)を参照 。

ポ ア ンカ レにつ い て は 、野 口悠 紀 雄

「 超」

整理法 』 (中央 公 論 社

)1993

188

頁 を参

照 。

( 7) 小 林 章 夫 『ロ ン ドンの コー ヒー ・ハ ウ ス』

( 初版

・1984

年 『コー ヒー ・ハ ウス ‑

‑18

世 紀 イギ リスの生 活 史』駿 々堂

)PHP

研 究所

1994

179

(8) Eagleton,T1984TheFunctionofCriticism

橋 洋一訳 『 批 評 の機 能

』1988

(10)

(9) Habermas, 1962 Structurwandelder0 fentlichkeit,Luchterhand

細 谷 貞雄訳 『 公 共性 の構造転換』 ( 未来社)

1973

53

(10)EaBleton

前掲書

46‑49

(ll)Eagleton

前掲書

99

頁 ‑

( 1 2 ) 近代 を均 質化 の過程 と して捉 えた思想 家 と して、 カール ・シュ ミッ ト、ハ ンナ ・ア レ ン トがあ げ られ る。(ただ し、 ア レン トの用 語で は 「 画一主義

」conformism。 )

また、近代 を効 率化 の過程 と して捉 えた 者 として今 田高俊 をあげてお く。( ただ し、今 田の用語 では効率化 ではな く 「 機能化

。)

近代 に関 して様 々 な捉 え方 が あ るが 、私 は この二つ を妥 当 と した

個 阿部孝太郎 「 情報環境論 一一疑似環境 と文化 ・ 社会」 ( 東京大学大学 院修士論文)1

991

年 ( 1 4 ) 具体 的 には、東 大病 院医 師 に よる少女 へ の

覚 醒 剤 譲 渡

(1993

年 )、 筑 波 の 医 師 に よ る

「 母子殺害事件」(

1994

年)、朝 日新 聞記者 に よる女子 中学生 との売春騒動

(1995

年)、東 大 の現役女子学生 による恐 喝未遂事件

(1995

年) 等 があげ られ る。

(15) Ortega LaRebeliondelasMasas.1930

年 寺 田和夫訳 『 大衆 の反逆 』 ( 高橋徹 編 『 世界 の名著6

8

』)(中央公論社)

1979

390

(16)ortega

前掲書

472‑473

( 1 7 ) 私 が この ように考 え る根 拠 と して、人工 知 能 の問題 が あ る。 つ ま り、 人工 知 能 は形 式 論 理 的 な計 算 、専 門知識 に関 して はか な り の達 成 度 を見 せ て い るが 、常 識

(common sense)

の 問題 で は ほ とん どい きづ まってい

る(た とえば、戸 田正直 『 心 を持 った機 械 』 ダイヤモ ン ド社

・1987

年 、な ど参照)。 この よ うに、 人工 知 能 との アナ ロ ジーで考 え る と、専 門人 の問題 もそ れが ど うい う もの か 見 えて くるので はないか。

( 1 8 ) 現 在 の 日本 にお け る専 門 人 の考 察 と して、

次 の ものが役 に立つ。

学 者 に関 して は、西 部遇 『 学者 、 この喜

劇 的 な る者 』 ( 草思社 )、 産経新 聞社 社 会 部 編 『 大 学 を問 う』 ( 新 潮社)、官 僚 に関 して は、宮本 政於 『お役 所 の

』 (講談 社)、科 学者 に関 しては 『 研 究 す る人生』 ( 宝 島社)、

プ ロ グラマ ー に関 して は野 田正彰 『コ ンピ ュータ新人類の研究』( 文芸春秋)などである。

た だ、 これ らを興味 本位 の暴 露 本 の よ う な形 です ます ので は な く、社 会全 体 にお い て それ らが ど うい った意味 を持 つ か を問 う こ とが重 要 で あ る。 上記 の著作 群 はその た め の い い材 料 で あ る。 また、 い わ ゆ る 「学 歴 エ リー ト」 た ちが いか に して オ ウム真 理 教 に走 ったか、 質 の い い ル ポ ル ター ジ ュが 揃 えばそれ らも参考 になるだろ う。

(19)

この概 念 は、近代 こそが家父長制 ( マ ッチ ョ イズ ム)を強化 した、 とい う上野千鶴子 『 家 父長 制 と資 本 制』 ( 岩 波 書 店)の指摘 か らヒ

ン トを得 た。

( 2 0 ) 中島梓 『コ ミュニケー シ ョン不全症候群』

( 筑摩書房)

1991

85

( 2 1 ) 朝 日新 聞1

994.

l

l.26

、同1

995.12.20

な ど ( 2 2 ) 木村敏 『 異常 の構造』 ( 講談社)

1973

( 2

3

) 中島梓 『コ ミュニ ケー シ ョン不全症候群

( 筑摩書房)1

991

50

( 2 4

) 1995.7.15

テ レビ朝 日 「フューチ ャー ・メ デ ィア ・ライブ

95

」でのインタビューより) ( 2 5 )

Reish,RTheWorkofNations

中谷 厳 訳

『ザ ・ワー ク ・オ ブ ・ネー シ ョンズ』 (ダ イ ヤモ ン ド社〕参照

( 2 6 ) 阿部孝太郎 「セ ミオ クラ‑ トの誕 生 一一 世 紀 末 消 費社 会 の ゆ くえ」 電 通 総研

By‑

LINE」 2‑12 1993

(27)Huiginga HomoLudens1938

年 高橋英夫訳

『ホモ ・ル ー デ ンス』 (中央 公 論 社)1963 年

264

( 2 8 ) 学 者 の 公 共 的 な 役 割 に 関 し て は 、

Habermas

・前掲書

・135‑146

頁 を参照。

*文化科学研究所、客員研究員

1996 Winter91

参照

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