之によって苗場機構としての取引所の合法性を伎くべ
き埋由は存しないぐ否かゝる操縦は此種市場を紋きた
る場合に却って有敦に行はれる︒従て一般的には︑取
引所に於けるかゝる不法的組合は必ずしも取引所自身
の合法性に影響する事はない︒されど取引所に於ける
取引方法にして︑取引を制限せんとする合員の不法行
鶉を自然的に誘沓せしめ︑以て一般公衆の利益に反し
て秘密的操縦の口晋に利用さるゝ事態にして発生せん・
か︑取引所自身之を適鹿の手壇によって解散さすべき
である︒だが︑かゝる欺能は明に普通ではない︒従て
かゝる事態金塊の可能性によって前に述べたる取引所
の組織並に活動に通用すべき.法律上の一般原則を改正
すべき必要はない︒−終リー
新 刊 紹 介
カ ー ル
・ デ ィ ー ル 原 著 山
内 正 瞭 伊 藤 久 秋 共 譯
﹁ 社 會 問 題 二 十 五 講
﹂
︵ 改 造 社 昭 和 五 年 發 行 定 價 貮 圓 半
︶
寺川末治郎
本書は︑猫乙フライブルク大箪経済箪教授カール・ディール卸﹁祉合主義・共産主義及無政府主義に就いて﹂
の第五版二九二三年債行を翻謬せられたものである︒
もと猫乙の諮大軍で窮した講義をまとめて出版になっ
たものであるから︑我国のインテリ一般にとつても甚
だふさはしい此方面の蓼考古たるを英は串︑評者伊藤
教授は在猫のをり親しく原著者の経済箪講義に列せら
れ︑又彼の址合法的経済塾の一端を最も早く我閥に招
介せられた事もあって通常なる鐸者を得たことを喜ば
ねば
なら
ぬ︒
問題の華五講は三篇に分か︑第一箪隻空講よんり第
七講までをふくみ三主義の概念.本質及主要箪派を取
商 業 と 経 流
放ふ︒第二篇は第八講より第十九講までで閥際的枇合
主義運動となり︑第三篇は世界大戦争以来の枇合主義
となって残り第二十同議までが入ってゐる︒従って第
一篇が理論的部分ならば第一一︑第三両篇は英獄仰露各
闘に於ける賢際の運動及其終過である︒仕五講中一清
かけて賢は廿四講である︒
先づ
原著
者は
一一
一一
日ふ
ベ大
壊は
政争
及現
代の
攻裁
とは
成
可く接近しない事φ伊示文し︑斯るものに勤しては般正中
立争ふするべきものである︒然るに之そ他の貼からみれ
ば攻泊は大撃で取扱ひ得る.そして取扱はねばならな
い封粂の一つである'﹁此の関係に於て諸君は枇合主義
をも亦研究しなければならない︒印ち此の一耽合主義の
基礎冶匁す所の法律︑同家及経済生活の思想に閲して
其基礎を獲得するに努力しなければならない︒世人が
枇命
H主張の名の下に一括して居る所の大合な諸運動も
亦究立する所一定の同家及法律に関する見解に四郎す
る︒諸君は公生活なるもの冶正しく判断する鴛めには
此見解を知らなければならない︒﹂今日我園の事情に於
ては枇合問題の大様を瑚解せぎる者は枇合人として京
大な
快陥
や持
っと
一一
一一
ロひ
得る
に蓬
ひ無
い︒
二六
O
第一筋の労.政に来るは三主義の本質加何である︒印
ち一般に人間枇合な維持するが矯めに何等かの法的強
制を必要とする立場と︑一切の法的強制なくして人間
共同生活は可能なれ︐とするものとの二一吹かあり.其中
後者は無攻府主義である︒前者を分って集・底主義的経
済組織と個人主義的経済組織とすれば個人主主我的のも
のは私有財康制度を以て長良の枇合原理とみる主張で
あり︑集庵主義の方は共有財産制を以て経瀦的法律の
間以
内以
の根
抵と
鍔す
︒之
を三
別し
て枇
命日
主義
︑共
産主
義
及無政府主義とする︒枇合主義の消根.的本質は中一斎資
料の私有身廃止せんと欲するものであり如何なる個人
も地所や工場を私有する守得ぬ︒之壮一寸の所有椛は大な
る組織憾に移るのである︒故に積駆的にι
一一
日へ
ば持
働よ
り生守る人的所得を唯一の所得とし.財・成所有よりの
所得はもはや存在す可ら宇とする︒判いから著者の消概
的木質は法律的に兄たものであり︑積額的の本質は終
演的矧貼からの規定であると云へるJ消械的定義が却
って京んぜられてゐるのは著者がシユタムラーからイ
ンスピレーションを受けたからであらう︒シユタムラ
ーの法律経済二冗論についての方法論的な批難は液で
はあづかりとして︑此の所有椛の所花や範閣の如何な
恒別の限準とすれば慌にハツキリとはする︒之はf
官定
出来ない︒次に枇合主義と枇合民主川県とが恒別せられ
る︒後者は一の攻黛でありその設一員は何人も枇合主義
者であるが凡ての枇合主義者必宇しも枇合民主裁では
ない
ο斯くて枇合主義の範囲が作品
ω
それより炭くな乙が著者の此見方には反封の起る可能性があるやうに︒
それはともあれ枇合主義に封立するは個人主義となっ
てゐて︑資本主義は此個人主義の庶史的一階段に於て
成立する︒資本主義とは個人主説的経椀組織内で資本
が支配的統率的役目をつとめる時代守一石ふ︒資本主義
の定義は数多くて仲々ヤカアンイ半々ι
一一
口ふ
人も
ゐる
が
例れにせよ著者の枇合主義の泊版的本質は此の個人主
⁝戎には鮮明に針立するが資本主義の針蹴としての枇合
主義
l i
これが・買に今日況日々の主たる興味守つなぐ問
越であるーーの本質は未克明かで無い︒集産主義の中.
共・産主義は枇合主義に一歩進めて生一斥資料の外に消費
資料についても私有椛を取上ける︒農業品川.合主義はや
や毛色の幾つに一汲であって土地私布のみ守止める︒
無攻府主義となると個人白山や‑似端に仲張せんと望む
枇合問題二十五出 もので︑あらゆる法制の廃止を求め︑現存法制の箆夏在求める集産主義とは蓮ふ︒無攻府主義は第五講に︑共庄主義は第二請に︑農業一枇合主義は第四諦に︑それん¥h詳細が来くされてあるJ唯之等の興味は第二次的
であり第一次的のものは﹁枇合主義的経消組織に求め
らる
λこと殆んど今日一般である﹂から以下は枇合主
義を主として辿らう︒
五日々は肢に枇合主義の欲求する所を知つに︒次に如
何なる制念よりその目的を立てるかを苓ねゃう︒その
折口型的根本観念には二種ある︒一は概念的祉合主義の
立場で一定の理想を根践として共有財産や要求し他は
進化論的批合主義で求むべきものとしての枇合主義
を要求するにあら守して枇合主義は一の自然法則的
必然的発展の結某として出来るとみる︒前者にはキリ
スト教の教義をとる宗教的枇合主義と宗教をはなれて
白山平等博愛正義等の観念を根践とする倫判的枇命日主'
義とがある︒ここでデイ!チエルの有名な一枇合原理
個人以理の説明が入る︒後者は進化論的批合主義でダ
ーゥヰン主義的批合主義がその一つである︒人類の競
争を化して自然的生活原理印ち人の文化は使命に路中
一 一 ム ハ
商 業 と 控 訴
る生活原理たらしめるを任務とする︒マルクスの一枇合
主義も亦進化論的なものであって一種溺特の祉命日常墜
たる唯物史観を建設するので此史観の根本思想や知る
にはエングルスの﹁空想より科壊に至る枇合主義の後
展﹂
や彼
とマ
ルク
スと
の共
著﹁
共産
山県
出与
一一
一日
﹂に
依れ
と著
者は言ふ︒.経済的生産と交換が人間の広活組織を怨し
て基礎となりその幾化は上居建築たる法律制度その他
のものを竣化する︒生産技術い幾化が重要視せられる︒
此立場からは吐合主義は完全なろ祉合組織の理想にあ
ら宇.古ま社合形態を以てじでは円以平や抗︑任に拡へな
い所の新しい生産力や新しい経済的任務の勃興と共に
生れる所の︑枇合の必然的後日此階段に外ならない︒資
本主義は不常なるが匁めに斥けられると言ふので無
く.時勢をくれで段平や立役目を果し得ないから自然
に亡びる︒丁皮中世の封建制経済が資本主義に席巻譲
った如く後者は叉祉合主義に代って貰ふのである︒著
者の言葉も此のあたりまで来ると祉合主義の針照とし
て引合されるものは︑いつか個人主義でなくて資本主
義となってゐる︒正にかく有るべきであるつがいから先
きに出土消極的と積械的の本質規定は何れも今の場企
一 一 六
雨主義封立の内容を明にするに快ける所あるを感ぜし
める︒一般的私有財産制を認めるとか生産資料私有の
否定とかはそれ白健重大な意味ありとは考へられな
い︒問題はそれ等を認め或は認めぬ結果にかかって来
る︒換言すれば搾取といふ事賞こそ中心的なものであ
らう︒此の呪ふべき枇合関係が中心目標となるが故に.
印人格問題がそこにあるが故に一川合主義は高く苛皐上
の問題ともなり叉は文明問題として成汎なる支盤の上
に論究せられることになってゐるのでなからうか︒資
本主義に就いても同様である︒資本が統卒的なりや否
やは資本主義の貧弱な内容守層川すにすぎない︒資本が
搾取の予伐となった時︑始めて問題として資本主義が
ある筈であるJ
資本主義経済が止務せられる形式は理解出来たとし
てこの新しい枇合組織は如何なる内容を盛ったもの
であるか︒それにはリl
プク
ネヒ
トの
ム一
一日
をき
けば
よい
﹁未来図は戎意味に於て理想である︒科壊と交渉する所
は無い︒吾枇合民主設は未だ未来図なるユートピアを
其問
題に
採用
した
事が
ない
︒・
十木
村ル
舎で
弊働
者に
未来
図
を説いた事がない︒未来闘をユートピアとしての外未
記官て之を説いた事が無いのである︒﹂まことに近代枇
合民主識は誇時の本一想汲の匁した様に未来図に就ての
詳細な説明を提出し得ないU然し唯物史観を持つ︒其
故にマルクス枇合主義は自らを科型的と誇るわけであ
る︒未来図は現在の生産力護反の結果必然的に生れて
来るのに︒然らば此生産的後反の支持者は何人である
か︒枇合主語は凡ゆる崇高仁慈の人の剖策するい庖によ
り賀行するに非宇して階級闘争の結果であ
0 .
此湛く
可からぎる後展より長大の利盆巻符ろ階級たるプロレ
タリアーが右の愛肢の支持者であらうと︒此の未来枇
舎には最早や今日の意味の同家なるものは存在せぬ︒
今日の同家は階級同家である﹁枇合主義社舎には長平
や何等の階級的業別なるもの存せ宇︒印ちむしろ一個
の統一的持働枇合﹂となるのである︒此言葉は著者に
よって重きを泣いてゐるとはみえ無いが私は之﹃)そ資
本主義に針立する未来社舎の本質規定であるまいかと
考へる︒勿論共産主義にも叶合主義にもあてはまるか
ら炭すぎる快貼はあるが︑後の二主義を更に区別する
時始めて消極的主義守設立せばよい︒資本主義針の枇
九百主義が内容叙蓮の上に是非必要なるにかかはら守
枇合問題二十五議 ﹁枇合主義及之と関聯せる無攻府主義及共産主読の本質を常に明瞭に区別しやフと﹂(序文)欲した鴛めに起きたクヒチガイである︒
それから︑著者はマルクス・エングルス自身の著書の
中から未来枇舎の経済的特質や左の如き項目の下に要
約す
る︒
a.
祉合主義的祉舎の一般的基礎︒印集産主義的虫
産 ︒ b . 統 計 的 務 備 行 先
︒ .
c︑勢働組織1一般的弊働義務及弊働強制︒
d.生産物の分配1平等の原理か給付能力か︑慾
墜に
よる
か︒
へ 消 費 の 個
性1今日有産者にのみ詐されたる如き
ものの一般化︒
f︑枇合主義的生産方法の放央1財の生産量激増J
枇合主義に針する著者の批評の大勝︒
イ︑枇合主義は枇合的要素の影響守池草すると共に
自然的要素の意義を軽視するが日以ム重要な生産手段の
自然的有限性は常に障碍とならう︒例へば石炭や鍍脈
の存在量の不十分なるに針しては枇合主義も無策の外
二六
商業'主
F路
︑許
はな
い︒
ロ︑食料に就いてみれば土地牧穫漸減の法則は激増
する人口一致に封する妨害を鍔さう﹂唯他の要素例へば
農業上の技術的進歩により補充せられるから経済上危
倶すべき作用を及一ほしはしないと言へる︒
ハ︑常に増加し停止するを知らぬ人口に封し︑如何
にして必要の食料を確保するのみなら宇叉文化的生活
を確保し得るだらうか︒
ニ︑今日各種の透明や完成が鍔される大なる刺激は
護明者が其個人的利益を得るからである︒然るに枇合
主義制に於ては之等の刺激を快く刊自由なる個人的利
盆を排除すれば生産物増加を来すべき事怖が消滅しゃ
︑ フ ︒
ホ︑各人自由の範闘が大いに制限せられ自由な職業
撰搾は考へられぬ︒と
少しく此等
ω
批評を考へてみ度い︒今日一般化問干殊に無機化路一真の進歩はどうであらう︒石炭の代に電気
が︑餓の代にセメントが大規模に進出しつつあるは如
何︒恐らくは戦争の消滅減少する呉乎の未来枇合にて
は軍器の不必姿から銭需要の大減少を考へ符ぬか︑潮
二六 四
汐態用の護電さへ現に試みられてゐるではないか︒人
道肥料の改良と普及は食料生跨の不足巻除く光らう勺
況んや債務経演でない未来祉舎にては肥料使用の費用
高は第一義的問題とならぬ故に︒叉人臼の無制限増加
は統制経漬か詐す筈がない︒産児制限は技術的には盆
々有放とならう︒発明や完成は依然として経済的利盆
を主として求める人法から行はれ来たのであらうか.
そうではあるまい︒必要なる保護奨励は仙の方法で十
分考へられる︒各人の自由の制限は経潜的行匁に閲す
る限り確に今日より皮くならう︒今日とて大経管
ω
組織化︑合理化は始んど傍働者の自由なるものを奪って
ゐる︒コールが﹁今後十年の英闘終演政策﹂で指摘して
ゐる如く産業心理阜の路用が普及して来ると個人の自
由な職業撲搾は無意味とならう︒資本主義なると枇合
主義なるとを問は宇それん
¥h
の合理化及それに件ふ産
業心開路一売業生坤一阜の適用は昔日自由と感ぜられてゐ
たものを無くするたらう︒その代に附労働時間の短縮︑
休息いけ聞の延長は生活内容を県富にし奪はれたる自由
への忠恭を少なからしめ︑功一に平等無作取出活の献を
大ならしめるたらう︒極端なる奔修生活に馴れた人の
みが来るべき枇合に於て廷欝を抱く事になる︒一一
a H ふ
ま
でもなく此税の人聞は新興枇舎の構成員として無烹義
な分子である︒唯右の意味の消費財私有のみで枇合上
是認すべき自我後展の根基が安蛍に輿へられると認む
べきや否やはにしかに一つの問題である︿レすポルト
チ
l r ラ l︑
絞出
と人
との
問に
い︒
決に絞消的関係を離れて上回府建築に封する枇合主義
の態度をみよう3宗教に扮しては窓恕汲と科墜汲とに
依って各々異る︒前者は﹁新キリスト教﹂のサンシモン
の如く宗教を以て枇合改定の原理たらしめんとするも
のと.オlエンの如く宗教は枇合的進歩を妨碍すると
みるものとがある︒科単一以は賂来生産方法の縫化と北ハ
に宗
教は
自ら
淡落
する
と一
一一
一
μふ︒此事は唯物史観在奉中
る結果であるが人間生活に於ける宗教が全く形式的に
取扱はれ︑五に宗教的なるものの持つ怠味を不岱に者
過するとの批難は恐らく正慌であらう︒壮ん
WH
改治に及
一怯す宗教思想の深大なる力はマルクス等には認められ
てゐないο婚姻に就てはフlりエの如く自由滋愛主誌
を説くものとォlエンの如く一夫一妻を採るものとが
ある︒反乙マルクス︑エングルスに依れは婚姻制度も
枇合問題二十五的 終消朕態のω変化と北ハに竣化するものの一つである︒愛
を某調とはするが離婚が容易に行はれる交換結婚が未
来の形式であらうといふ︒強制勢働組織が然るべく要
求すると一一員ふ︒著者はのこ交換結婚ぷるものに反針す
る︒躍なる経溌的理由が此の人類家族的共同生活の最
古川形式に影響し得る筈が無いと︒同家に針しては加何︒
溺乙枇曾主義の中にでもロl
ドベ
ルツ
ス︑
‑フ
ツサ
アル
レフヰヒテ等は現存同家椛カの助を諮って枇曾主義
的改定を考へるに反し︑マルクス等によれば図家の存
在理由は階級差別の維持といふ貼に存するかム︑かか
る差別のない枇合主義枇舎に於ては図家は全く無用と
なり××すべきである︒その代に統一的持働組合が出
来上る︒然し著者は此の未来の組織鐙が園家と呼ばれ
るや
否や
は常
に皐
なる
一一
一一
日楽
の宇
と思
った
︒蓋
し一
祉舎
主
義の期待する未来の枇合組織も亦︑組織的公椛カを必
要とするは明かであるからと︒成程乍然此の組織的公
椛カの範凶及性質に重大なる差別が考へられる事は高
田保馬博士によっても認められてゐる︒一方が図家な
ら他方は凶家ではないJ之等を同一視するは保娩と軍
人とを同一枕する以上の無理はある︒組織的公紘カ邸
二六五
商都.北と経済
同家とみるなどは法的シユタムラ一に囚はれてゐる粗
践である︒ヨリ資質的なるものに於て本質把揮を試み
ねばならぬ︒図民性に封する態度についてはロlドベ
ルツスに於ける如く図民性を強調するものとマルクス
等の如く闘際性を説くものとある︒後者は経済後展の
統一性を考へるので各民族の図民的分離と封立は世界
市場の撰大に伴ひ消滅するとみる︒かくて労働者は組
図を持たぬρ著者はマルクス的見解を斥ける︒新マル
クス主義に於ける如く図民的要素は相常重要視すべき
ものと忠はれるd之は戦後の反動思想として片づけ得
ないゃうである︒永劫の未来に於ては民族性も何もあ
るまいが枇合主義が問題となってゐる程度の未来では
猫ほ十分願慮すべき要素であらう︒然し一歩踏みはづ
して頑迷な右傾汲に同歩るならば︑これこそ忌むべき
唯一化途上の敵であら・フ︒最後にマルクス主義は革命的
である︒然し其意味はやや特殊である︒マルクスに依
れば新組織が何等かの理想的努力に依って活らるべき
に非守して自ら来るべきものである︒かh
る経
潜山
肌態
の愛革が﹁革命﹂と呼ばれる︒故に無傑件に不法な或は
暴力的な騒を意味し無い︒然し幾革が徐々に来る場合
↓一
六六
はよいとして念政に来る場合に之と暴力的なるものと
の区別が資質的につけられる︑たら︑フかは疑問とするに
足ら︑フ︒著者は持働者の頭脳の革命化こそ械めて重要
なむ
と一
一一
一日
って
ゐる
が此
惑に
マル
クス
主義
ω
意外に大きい快陥が滑むのでなからうか︒マルクスも﹁知﹂を全然
否定したわけでないが﹁行﹂をあまり強く考へた設があ
らう︒﹁資本論﹂白館高度に緊張した﹁知﹂なくしては倒
底理解出来るもので無い︒質践の間にそれに就ての刊
識が明般になるはムんもな道理であるがそれは一つの事
賢を言った記けで其反針に知識を先に後で賢践にうつ
るも有放な結果に到達し得る事も確か花︒︿へルムス︑
マル
グス
主義
的労
働者
﹀
第二篇はマルクスの図際枇合主義運動に封する彼の
怠議
から
始ま
りマ
ルク
ス壊
の骨
子と
午一
一口
ふべ
き俄
剃債
値
説︑集中説︑苦積説窮乏一説恐慌説に要領︑よき説明を奥
へ更に彼の賢践珂論の哲皐的背後までふれてゐる︒此
篇で最も多くの頁は仰岡枇合運動の錦に輿へられに︒
産業的賃銀椋働者の大群は英附よりぞくれて後生した
のであるが英闘に於けるよりも早く一枇曾主義的共産.主
義運動が起ってゐる︒此庭では一つの統一した海然大
る枇合然しか持になかった濁乙と全く反卦に︑多数の
相反せる紫波に分裂してゐるのが特色である︒政治的
革命に止まったフランス大革命から準がはじまり︑無
産階級の後生︑サンシモン︑フーリエルイプラン等
の空想汲枇合思想の勃興︑二月革命.プルドンやプラ
ンキの思想.コンミユlン暴動の立小説.攻治的議合的
活動に峻烈に反封する革命的サンヂカリズムの態度︑
之とマルクス主義との山内同が次から次へと連続して出
てきて息も勺けない︒フランス祉合主義の分裂とマル
クス主義が此凶に於て一告も指導的役割を決ぜざる平賀
は如何なる理由によるかに就いて.著者は此闘の経済
的構治を指摘する印ち凶民の多数を占める農業人口.
小経営自作肢の存在がマルクス主義の侵入を困難なら
しめるものとなし︑他方フランス園民の自由への強き
僚が暴君的支配を伶ふ集・産主義制度に決して屈従せざ
るべしとみてゐる︒放に改良的な思想が俊越し.ジヨレlスの如き華麗の蹄古を以て人惑をとき.人格傘肢
を一口同調する人が此闘の枇合運動に強大なる勢力を占め
ると云ふ︒本書中欧部分から受ける感じは﹁思想
ω
核問﹂とその後定断絶漣絞のみが多く設かれて︑此岡山枕
祉合問題二十五筑
清の
貫欣
につ
いて
意外
に少
き叙
述.
一般
経潜
鼠一
・と
祉命
日
思想との連絡の有無について知り得ぬ事︑非︑同民性の
解説の貧弱なる事等である︒他園より模倣しにのでな
く.フランス回有のものとして英猫伊の諸岡に相官の
影響を奥へた革命的サンジカリズムはフランス的では
ないのか︒ゾンバルトの見た所はかくは無かつにゃう
ロ︒ジヨレlスがフランス的である以上の意味に於て
ペルチエ!はフランス的である筈記︒叉小農自作の図
とするのみでは此闘の経焼事情が承知すまい︒何故小
農自作の図は多黛分裂を来すか︑極端と考へればか与
る向作農凶では枇舎思想も枇合運動も起らなくてよい
筈じゃなからうか︒著者は﹁攻治的﹂に之等の問題を見
すぎて其背景にる経済的及枇合的構遣を捕り兆一がすか
らで
あら
う︒
次に
英剛
一枇
九百
主義
運動
とな
る︒
二一
一日
ふま
でも
なく
英同
は産業革命を第一に経験した闘である︒思想よりも事
置が奥へられた固である︒大量生産用機械の愛明と肱
用が如何に岱時の持働人口に封する脅以となったか.
之が匁めの呪と反抗︑反抗に針する暴座がよく設かれ
てゐるJ同じ頃資生せる古典汲経済皐.之に封抗する
二六 七
商 業 と 経 済
一枇曾主義思想家の出現︑特にォ!エン︑チャーチスト運
動産業組合特に消費組合運動︑勢働組合フエピアン
欣労働議等等が有機的会館として理解出来るのは嬉しい
フランスの場合の如く多くの思想家が或は聯絡をもち
或は漣絡を持た?に入潜り登場するの目まぐるしサを
感ぜしめない︒著者自らフランス忠想の取扱の煩雑に
閉口し六事を告白してゐるハアル
b
フl
第二
十五
谷﹀
︒説
く人の巧みは材料としての事貨が都合よく存在してゐ
にと言へばそれまでであるが英凶が最も調和的に叙述
せられた事質はみのがせない︒進んで溺乙の運動に入
る︒フイヒテ︑ロlドベルツス等の同家枇宵主義.其
思想の重要性や宮際的無影響と.創造なき芯想家であ
り乍ら質際運動に深甚の影響を及一以せるラツサアルレ
との封比が問題とせられる︒ここではへ!グル哲郎一か
賠詮法守以て入ってくる︒そのまま模倣せられる︒唯
心論的である︒運動は全く煽動的である︒之がマルク
ス・エングルスにラディカルに封立する︒賃銀銭則をと
りまいてむづかしい理論が投替される︒ラツサアルレ
が足場守失ってマルクス等がグンノ¥勝ってゆく︒世
はひきいてγルクスへの凱歌が皐るベかくて溺乙枇合 二六人
民主黛は其関係しに凡ての攻治的問題に於てマルクス
救護を瓜賢に港守した︒Lベルンシユタインの修正汲は
マルクスの珂際的立掛に反封し各闘の閥民的特質に従
って︑各兵る政治的運動の必要を主張する︒かくて所謂
科型的社合主義が正しとした多くの理論ぞ股正なる科
皐的方法を以て反駁する︒其思想上への反響亦大きいo然し不思議にも一位正汲はマルクス的
ω
民主
作品
に依
然に
る忠節を様けて運動の歩調を一にする︒一個のマルク
ス的階級闘争設が此岡ω枇合連川界を支配する︒統一
的集閥的なるものは専ら猫乙の岡民性のあらはれに外
ならぬ︒此庖でもその経済朕態は何等知り得ない︒労
働組合運動も英閥より日浅しといふのみ︒之れと枇民
裁との関係も決論的に帝古かれてゐない︒従ってそれに
けラツサアルレよ0マルクスへの移動が明瞭に浮出さ
れるが軍にそれにけである︒鹿沼的政府官僚への反抗
といふ事賢の中に材労働運動の戦線一致を求めたのは勿
論正しくはあゐがやや物足らぬ︒統一的総胆胞を銭す猫
乙人の閥民性についても詳細に合う皮い︒著者の立場
からはそれは絶封的に必要な方法大るべきである︒以
上仰英濁各国の取扱に於て著者の態度が必守しも統一
的でない事は原書の第一版食刊治時ロパ1トミイヘル
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第二総は終るuマルクスが持働者運動を以て同際的
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と解明伴し.統一的性質を有し岡際的結合に依つてのみ促進せらるとした昆否を険べる︒結誌としてはか
かる統一傾向の不存在守示す︒各同一枇合主義運動の相
違は個々民族の庇史的進反比国民的特質と密接に関連
せる大なる文化現象に閲するや説明し得たといふぺ﹁枇
合主義者の同際主義は琵時の自由主義の夫と同様なる
空恕的ユートピア的性質のものである﹂と
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AWH主義は
果して之に近寄らざるを得ぬ或は近寄るべき枇命日組織
なるや否やの問題に至つては全く客観的︑科皐的に取
扱ひ得る所の題目ではない︒私は想像し得る未来に於
一しはあらゆる事由より兄て資本主説的組織が枇合主義
的組般に其場所在譲るであらうとは考へ符ない﹂とさ
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艇で
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削倒的科観的論践の弱貼を完全に者渇するとしても問題
社合問題二十五誹 は彼の採りしメトlデにある︒相手の女の醜なるを喋
々するは其女の自由ではあらうが其の事は喋々する有
の美なるや}何等澄明しない︒且つ其限り雨女の美醜に
就いての比較にはなり得ない︒
第三篇はロシヤのボルセピズムから始まるο
プロ
レ タリヤ濁裁を執行する攻治形態としての協議合制度
を述べ︑叫ん嚇的眠術や以て其の特徴とし更に濁裁の
長終日開とびての共産主義の性質及其関係に及ぶυ次
講に於てボルセピズムとマルクス主義との異同を説︑ぎ
之は昆にロシヤ的産物にしてゴルキl︑ドストエアス
キー等の著作争読めばその聞の事情が理解し得るとい
ふ︒西欧文化と封する半東洋的文化の特質や世界を幸
福にし世界を支配する事は?ンヤより出発する守要す
といふ昆の?ンヤ観念の・産物たるに注立を促す︒訓練
ある労働組合の快ける事が暴力革命の方法を案出せし
める︒?ンヤの此主義の念以なる貼はプランキ汲と一
致
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働弁例市一命的行問ゆが問調すろ黙はサンジカリスト的である︒兵る所は後者の分散的なるにボルセピズ
ムは集中的である︒同家の反封者にる九日一味に於て無政
府主義者と共通する︒然し努働者
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教育
.性
格の
養成
み一
二六 九
商 業 と 経 済
必要とみる慮はオlエン汲に遁宇るので此等諸主義の
合成しにものである︒ボルセピズムの成績は攻治的に
は成功じたが終演的には失敗であるとの著者の武見も
ロシヤ攻府の宣侍する所も共にあたらや
JO
失敗とも云
へ宇成功とも決し得ないのが版書の出版せられた二
三年から今日までの事資らしいu著者の故国溺乙は今
日に於ではポルセピズムの失敗そ云々し得ない担任の地
位に立ってゐるらしい︒︑にからとて﹁間宮を回復し之
を増加するにめに何れの闘も︑先づ第一に創造方と敢
匁の精紳を粂備し此持働を港行し得べき人物を必要
とする﹂と断じた著者は十分に正しい︒ロシヤの外英
側獄の其後の欣況にる新マルクス主義︑スパルタクス
祉合化︑ギルド枇AWH主義其他多くの問題にふれて読者に智識を提供しながら︑五七一一良の全巻が終る︒
市立乙.マルクス墜訟も完全であるのでなく部分々々
に修訂すべきものかあらう︒時には叙惑の誇脹.か時に
は失慮がなくは無からう︒それにもかかはら中資本主義
ω
無能力は先づ失業問題となってあらはれてゐる︒新しい祉合組織への器は限りなぎ魅惑を以て五日々会×
×××に誘ふ︒一部の人の一一員ふ如く此の新しい枇合原
二七
O
理としてマルクス主義はそのま誌では不通蛍であるか
も知れぬ︒唯資本主義のカラクリと其の快陥を捌み出
す一事に主つては恐らくマルクス主義の右に出づるも
のは無からう︒﹁依程のお鹿者でない限り資木主義の安
定性や︑資本主義の永続性ぞ考へるものはあるまい︒﹂
﹁枇合主義はどうか︒之に就いて私は反針すべき論擦を
持にない︒私も亦枇合主義者である0
・前
含は
勝目
貞宍
氏の言葉︑後者は河合栄治郎氏の言葉であるハ共に昭和
六年
一月
経済
往来
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言や
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やうになつに︒世相
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然らむる所とはいへ驚︿ベ大勢であるο著者が祉合主義を断乎として否定せんとする
態度や甚によし︒一歩進んで何ぞ撃破せざるやである
査し︑経済摩哲朗早枇合早庶史を汀って派然たる一般系
を符すマルクス墜を全際的に打破せんとするならば絶
大の努力を来さねばなるまい︒著者の希望にもかかは
らホ著者の努力は其の希緊に十分には沿ひ得ぬ憾を残
す︒然し本書の特色はマルクス排撃を試るにありとす
るよりも︑主要国に於ける近代の枇合的運動を烏倣的
に捕へゃうとした所に求めるのが遁切でなからうか︒
若し鼠一説史又は忠想史研究の一助として本舎を利用す
るならば多大の便宜が得られるにらうひ他の著述に依
っても知り得る加く著者は毒舌を弄して論敵に迫るな
どを快とする人でないしそこに特長を有する人でも無
いらしい︒新奇守求め中といった所は確に著者にある
従って著者のものは何をみても汲手でない︒一一時々と一就
く彪に健賞味があるわけでそれ冗け本舎の如︑きは高級
なる研究に進む矯めの入門としても極めて恰好のもの
である︒成く一一却をお奨めし皮い︒課文に到つては断
然完生である︒いくらはめても足り無い
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し/︑誇E
出して戴き度い︒之は老書生一人の希望に止まらぬ︒
ハ六
︑一
︑十 一﹀
批合問題二十五誹
二七