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懐石について (第1報) : 変遷の形式の発生

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懐石について (第1報) : 変遷の形式の発生

著者 久保田 明

雑誌名 紀要

巻 26

ページ 16‑20

発行年 1972

URL http://id.nii.ac.jp/1118/00000896/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

懐 石 に つ い て ( 第 一 報)

‑ 変 遷 と 形 式 の●発 生 ‑

は じめに

懐石が我国の食生活の中で,一つの特徴 と芸術性を有 しなが ら.過去か ら現在の生活様式の中に生 き続けて来 ている.現在は懐石 とその作法が完成 され て い る が, ''茶の淑 "の席だけの特別な もの として, 日常生活か ら 切 り離 されて考えられる幌向にある。懐石は "茶の湯'' と共にあ り, "茶の湯"の発達の中に,その完成を見 る 特殊な ものであるか ら, "茶の湯"の肢史的なつなが り や,その形をた ど りなが らも, 日常性か ら切 り離 して し まうのではな く,現在の社会の中にその有意性を引 き出 してみたい と考えた.「茶道全集1巻〜15替」「茶の文 化史伝統 と現代 (茶 と香)「図録茶道史」な どの 文献か ら興味深い知見を得たので,今回は懐石の歴史 と 発生について述べてみたい と思 うo

l〕 懐石の変遷について

‑ 茶の歴史SlEびに 「茶会記」に よる考察‑

茶は平安 の初期 (805)に最澄に よって唐か ら伝えら れたとい う,Jj]茶法に よる喫茶方法が行われていた。 こ の喫茶 とい う都が,未だ形式を抑 えずVとただ飲む とい う ことだけが 目的 で茶会催 され ていた時には,茶礼 とい うものはなか った。 この時代の茶は吹茶の方法は安易で あったが,茶の需要に応 えるだけの供給が出来なか った ために,史族や僧侶の世界にのみ限 られた ものになって しまった。鎌食の初期 に再び茶が盛んにな り,茶は茶徳 の効用のために飲 まれた。茶穂 と云 って,茶 は 疲 労 回 復,心気爽快 ,気分充実 ,視力回復,覚r趣気 などの効用 があげられて,薬用 として珍重 されていた。仏教徒は長

(1) 時間のL罪想の際 の眠気予防,即 ち覚醒剤 として 「ねぶ り をさまして通行のたすけ」 とした。 また将軍実朝の宴会 の後の ̀̀御淵酢''に栄西禅師が‑範 の茶を献 じた た め に,御爽快にな られ大変 よろこほれた とい う有名な話が あるO これが茶礼に進んだのは同時代に栄西禅師 (馳済 読)の米 よ りの帰国に よって,末代の喫茶方法,即ち抹 茶法が伝えられ ると同時に,食事方法の一部 も伝え られ て以来,禅院において,茶儀 ,茶礼が行われ るようにな

(2)

り,更に僧侶の従 うべ き日用の規律 (禅苑清規)がつ く られるようになって以後 (鎌倉中期)の ことである.

16

久保田 明

院茶礼 とは,勅使俸迎 ,遠忌法要の礼な どの際の鮎茶 の、

様式のことである。 (八頭の儀 とも云われているもので ある) この禅院で行われた茶礼が,後の茶礼の本流であ ると一般 にいわれているO茶道全集第‑巻 "茶説茶史鰐

(3)

"に記載 されている 「禅林象器築」の内容の 概 略 を 示・

せは,次の様である。 まず本堂 または方丈 に 仏 像 を 祭 り,定め られた席に主客が座 り,献香が行われ,給侍 の 僧衆が点心を運ぶ。 (器は縁高 で 蕎 麦 (そば)早, 頭,または味付飯に野菜 の煮た ものを少 し配 した程度の・

もの)点心が終 ると天 目茶碗 に抹茶を点茶 して 供 さ れ る。 この茶の点 (た)て方が現代 とちが っている。 まず 天 目茶碗 に抹茶を入れて一同へ運ぶ。次に浄瓶 (じょう

‑い)に湯を入れて左手に持ち,右手に茶発を持 って入一 場 して八つ頭 (方丈 ,首座 ,東 堂,西 堂,座 主 ,維 那 ・ (いの う),大和尚二で八名になる)の前で座 って茶を たて,次いで連客一同に茶をたててまわ るが八つ頭以外 の客の前では腰をかがめてたてる。 このことを 「故老殺・

礼」 と書かれている。 こ うして一同茶を輿 し終 ると,こ の儀式は終 りとなる。一同が同 じ点心を食 し,同 じ茶を・

契す る厳粛な儀礼であるO この茶礼の もつ和合一体の精 神が,やがて "茶の瀞"の成立の指導原理 となるのであ.

る。

鎌倉末期か ら,室町初期には,この禅院内での茶礼が 日常化 され,民間にも行われ るようになると,まず茶語 (ちゃうけ) と称 して,櫨い食事 (点心)が供 され ,そ の後に茶を進める方法が とられた。会衆が会 場 に 集 る

(4)

と,水練,素麺,羊菜 ,駿頭,串指,生粟 ,静干,豆腐 上物 ,油前和布,前昆布,海雲 (もず く)その他 ,季節‑

の果物が点心 として供 された。その後 ,用意 された会場・

に座をかえて,契茶が行われ,和歌の会,遵歌会,その 他の会合に入 った.その頃闘茶 (と うちゃ) と云 って飲・

茶勝負の会 (栂尾 (とがのを)産の茶を本茶 と呼び,他 の産地の茶を非茶 と称 してこれを飲み当てるかけ ごとの 会)があ り,莫大な牌 (かけ)が積 まれ,終れば酒宴 と なる遊興の一部 としての茶会 もあった。同 じ時代に夢窓 国師 (1275‑1351)に よって代表 され る台子飾 りの礼式‑

の茶があ り,それが書院式の茶 として,武士,貴族の問;

長野県短期大学紀要

(3)

ryこ行われていた。茶事は当時の武家の餐応 の様式が中心 にな ってお り,二汁五菜 とか二汁七菜 の献立が行われて いた。足利義満の時代か ら義教 ,義政を得て この時代の

茶は唐物趣味が多 くと り入れ られて唐物茶道具で書院を 飾 った中で茶が輿 された。 この儀礼化 した格式的な殿中 の茶に対 して,む しろ "寄合"の伝統を基礎に した人間 伯勺な結合に よる茶をめ ざした村田珠光 (1421‑1502)に よる茶が行われ出した。その後 ,その心を受けついだ武 野 紹鴎 (1502‑1555),千利休 (1522‑1591)らの研究 に よって茶道の形式が発達 した。禅院茶礼の "茶の湯"

か ら発展 して,殿 中茶の藩,小座敷の茶の湯を得て,草 庵の茶の湯 と展開 して来たのが この時代の "茶の湯"の 発達過程である。 この発達に従いそれに相応す る茶礼及 び,食礼 も発達 して来た。懐石がほぼ形を ととのえて来 たのは,やは り "茶の港"が形式を定めつつ,発展 して 来た この時代か ら始 まっているとみ ることが出来 る。紹 鴎 か ら利休の初期には,まだ二の膳付 の二汁五菜〜七菜 の茶講 もあ った。 この ことは天正元年 の信長 の 茶 会 記 I(茶道全集第12巻,文献篇の78貫信長茶会記参照)に よる 献立に よくこの様子が伺 える.その後一汁二菜 とか三業 とか,わずかに二〜三品の料理が出され るようにな って 来た。陀び草庵の簡素を尊ぶ "茶の湯けには これが本来 であるとして,利休が これにいろいろ工夫を加えて,当 時 の禅院,武家,貴族 ,民間で行われていた食事形式や 作法の一部を と り入れて,懐石の基礎の形がほぼ出来始 めた, とはい って も利休の茶においては,形 の定 りはあ って も,あ って,な く,常に 自由に作意 され るものを等

「 とされてお り,自由にその場に応 じた方法が行われて いたが,利休の晩年 にな ってか らは(天正18年〜19年(15 90‑1591))会を重ね るに従い四つ椀を使 う一恵 の形が

(p ( t

傭 って来た。即ち汁,飯 ,向付 ,諌物 (椀盛)に焼物 ,

5)

吸物な どに よる献立が見 えて来た。利休百会記の会記に よく当時の様子が伺える. (茶道全集第九巻利休席の天 正188月17日よ り天正19年間正月24日までの利休に よ る百回に渡 る茶会記)一方,南方録 には,小座敷 の料 哩は汁‑ ツ,菜ニ ッか ,三 ツか,酒 もかろ くすべ し,わ び座敷料理だて不相応な り,勿論取合せのこき,うす き は茶の湯同然 と心得 る也 (利休言)‑・‑』 とあ り,ここ に利休の懐石に対す る心がけがいわれている。懐石があ る特定の形を もって行われ るようになったのは,利休に よって "陀び茶"が唱導 され ,茶道が大成 され,最 も発 達 した安土,桃 山時代の後半である。

利休の妓後 ,その孫,宗且 (1578‑1658)に至 り,≡

千家 とな り (武者小路家,表千家,裏千家)前述の利休 の懐石を行 うよ うにな り,これが約束 ごとにな り,規則 の ような ものにな った。徳川時代に入 ってか らは,更に

6)

細部に渡 り非常に研究が重ね られ,元禄の頃には今 日行 われてい る懐石の形がすでに定め られていた と云われて いる。当時代には尾形乾山 (1663‑1743)に よ り,茶に 味い深い名器の数 々が作 られ,鉢 ,皿,盃な どが,懐石 の道具の中に と り入れ られて,道具の と り合せ,献立の 内容に時代の文化の影響が入 り始め,料理の内容は次第 に利休時代の本来の心 と姿が忘れ られて,ぜ い沢なもの を用いるようにな った。 この名器の数 々を用 い ようとす るために,料理の品数が,一汁三菜の上に更に預け鉢 , 強者の三〜四種 と重なるようになった。天明 ・寛政 (17 83‑1794)の頃は形通 りの形式はふまれてい るが,料理 内容について見 ると今 日と比べて大変 ちが った ものを見 ることが出来 る。た と‑ば,八寸の形はみ とめ られてい るが現在の ように海の物,山の物 とい う約束 は な か っ た。 また箸洗いの吸物について も,現在の ような,いわ ゆ る "洛吸物"の ような吸物 ではない,松平不味疾 (17 51‑1818)の茶会記に よ りその献立内の吸物をみ ると, 7)

塩鶴,塩鴨を用いている。 また宰和二年七月の茶会記 に8) よると同氏は吸物に蒋か き立味噌,煮貫豆腐 , じゅんさ い卑用いている。文化四年 (1807)正月の茶会記には, 8)

自乱 ふ きの頭の吸物が見 られ る。 しか し文化六年 (18 10)

09)頃になると同氏に よ り、む き梅にさき松茸を用いてい ることが知 られ る。 ((7)(8)(9)ao)は茶道全集第七巻,懐石 751頁 よ り763貢の松平不味侯の茶会記に よる献立参 照) この頃か ら少 しずつ植物性の材料を用いての吸物 の 傾向にな って来てお り,天保 ,嘉永 の頃 (1831‑1853) には現在の もの と殆ん ど同 じく,輩菜 (じゅんさい)芽 猫活 (め うど)が専 ら用い られている。料理 内容はいぜ ん,ぜい沢で,品数 も多か った。井伊大老に よって安政 五年 (1859)に "茶湯一会 (え)輿 "が完成 さ れ て い る。その中に当時の茶会のぜい沢になって行 くことをい

ll)

ましめている文がある『そ もそ も茶の湯の交会は一期 一会 (え) といいて,い くどおな じ主客交会す るとも, 今 日の会に再びか‑ らざる事を思‑ば実 に我が一世一度 の会な り,去 るに よ り主人は万事に心を配 り,脚 も免末 12) なきや う,深切実意をつ くし‑‑』 とあ り,また 『道具 皆 々取 りきめた る上は,懐石献立取合すべ し,是又珍物 を撃 とす るにあ らず ,尋常の品にて取合すほ殊勝の事 な り,ひたす ら志のあつ きを もって,もてなすべ し。』 と して主人の料理に対す る心がけを奮いて い る。 さ ら に

13)

懐石は古来 ,のこらずたべ じまふが法な り,然 るに当 世は有 りあまるほ ど出すを,もてな しの よ うにお もひ, 客は懐中排当などといふ もの持参 ,是‑あま りを入れ帰 る事 とな りた るは,誠に道のすたれた るな り。』 となげ いている. とくに茶事を酒宴 と間遣 えているような もの 17

(4)

については,厳 しくこれをいま しめている。大老は ここ で再び利休の本来の心に帰 るべ きを といている。明治, 大正,昭和に至 り再 び茶道が隆盛 し,家元 とか,宗匠の 意見が用い られ,各流派に よ り多少の相異は み られ る が,懐石の形は現在ではほ とん ど同 じで,完成 された も のが行われていると云われている。

2 懐石の形式の発生について

懐石は,茶事 (食事を ともな う茶会の事)におけ る, 食事並びにその方法であ って,一つの完成 した食事の礼 法 とい う事が出来 る.懐石の名は禅宗の食律か ら伝わ っ た もので, "薬石" (焼石,温石) とい う云薬か ら出た

14) と云われているO隠元禅師の 「黄緊清規」に 『薬石は晩 食 な り,比丘午をす ぎて,食はず ,故に晩食を "薬石"

と名づ く,飢餓,渦柄の癖 となす也』 とあるように,比 丘は戒律に よって昼以後は食事を しない。 しか しそれで は翌朝 まで飢を保 ち得ないか ら,晩粥を とる 必 要 が あ る,それは道業を修めるために必要であるか ら公然 と許 されて名を "薬石けと称 した,晩鵬程度の軽い食事であ り,それは,温 くした石を懐 中す ることに よって一時の 飢渇を凌 ぐとい うほ どの意味か ら,後に温石を抱 くとい う文字が懐石 と云 う料理 の名前に転 じた と云わ れ て い る。以上の よ うな意義転に由来す るところか ら,懐石の一 汁三菜 とい う献立が定 め られ,料理の丑や品数は少 くと ち,亭主の心入れの深い ことを大切 な もの とし,客はそ れを素直に受け入れなければな らない とされている。 こ の懐石の形式の基礎をきめたのは利休であるといわれて いるが,何 に よってその形式を定め る基 としたか とい う 事について考 えてみたい。

(1)一般には当時の食事に普通行われている礼式に もと づ き,これに当時の神院で行われていた食礼を加えて懐 石の形式をあみ 出した と云われている。懐石の食事の順 序の中に酒を進め るところがある.それは腿 の上の飯 , 汁が食べ終 った頃酒が進め られ る,これを中潮 と云 って いる。 この蔵初 の版 と汁は今 日の懐石では,わずかで, 飯一 口,汁‑杓子 と云 う形式的な ものになっている。 こ の中酒が進め られ るところが,最初か らでな く,始めの 食事がすんだ所か ら出され る,これは当時の 日本の食礼 に膳 の康 と汁が終 った ところで酒を進め る習慣があ り, この習慣をそのまま利休に よって懐石の中に と り入れ ら れているとみ ることが出来 るO この頚:は茶道全集第七巻

"懐石iTTii"に当時の 日本人 の食生活を宣教師の "ジ ョア ン ・ロ ドリゲ ス" (1555‑1633)が 「日本 教 会 史」に 書いている文が紹介 されている文中か らも知 ることが出

15)

来 る. 『日本人の食昏∈は常に清潔に して且つ 美 を 轟 せ り,食卓は方形に して低 き一つの脚あ りて,一人‑卓な りO食駿の更 る毎に器を改む.布 巾の設けな き は 食 卓

18

甚だ美に して和附最上の布 と錐 も之に蓋覆す るに足 らざ るに因 る。‑中略・始めに,二 ,三種の肴を出す ,客は 酒を用いずに,この肴 を食べ終 って酒供に及ぶ.・‑・ とあるところか らも,今 日の会食 の ように最 初 か ら 酒 を出すのではな く,最初 の膳 の上 の食物二,三が食べ終 った ところか ら始 っていることを知 ること が 出 来 る。

懐石では この中酒 (一献)の他に焼物の後更に酒が進め られ (二献),最後に八寸の出た時に主客の献酬が行わ れ る, (三献) これを三献 と云い懐石は三献を もって終

りとす ることが,利休の時か らの約束 とさ れ て い る。

(p),さらに禅院の食事形式,礼儀作法の一部が と り入れ られて,懐石の基侭が出来上 った と云 うこの神院の食事二 について考えてみたい。神院の食物についての考え方を・

み ると "法は是れ食,食は これ法 な り" と云 って禅家 の 食を尊ぶ心が示 されてお り,院内に於ては禅の修業 と同 じ様に食事作 りや給侍 などの役を大切 な役 としているこ とは, "典座教訓"(道元禅師)に よって もよく知 ると ころである. ちなみに,禅院の一般の食事について調べ てみ ると,城枠上に輩肉をさけて,野菜,山菜を調理す る精進料理が研究 されて伝え られているが,更に寺料理 を三つに分けて,大徳寺料理は茶懐石に,黄襲料理は唐 風 の普茶料理に,高野料理は純粋の和式精進料理に,そ れぞれ特色を もって今 日に至 っている。かの 有 名 な 珠 光 ,紹軌 利休の三大茶人は ともに この大徳寺で参禅 し てお り,この禅の精神を ̀̀茶の湯''の根本の心 として, と り入れ,ついには "陀び茶"として大成 させてい る。

茶に非常に関係深い寺であ り懐石 もこれ らの寺か らの精・

進料理 の影響が大 きい.禅院の什器や作法か ら見 ると, 精進料理では,膳 ,飯椀 ,汁椀、順子 (ちゃつ) ,平 , 壷 ,飯器、杓子,湯次,酒次を用いてお り全部朱塗 りで・

ある。 これを基本 として,懐石では膳 (折数 (お しき) と云 って足のない,四方形の もの)飯椀 , 汁 椀 , 煮 物 梶 ,吸物椀 (黒塗),飯署芹,杓子,銚子 ,盃 と盃台,港 棉 (吹),港の子す くい,通い盆,脇 引 (長盆)を一瓶 い として用いている。 この他に向付を盛付け る器がある が, (膳の向 こうに付けるところか ら来た名で騰頬がつ け られ る)利休は順子を用いた り,陶磁器を用 いた りし ている。 これ らの什器をみ ると,利休は四つ椀を使 って いるが,これは禅宗の方で四つ椀 と称 して飯椀 汁椀 , 煮物椀,吸物椀の四つが全部 "入れ子"にな っ て い る

"自鉢" (Cはつ) と云 う作法にな らった と思われ る。

このことは南方録に書かれている飯台法に よって知 るこ 16)

とが出来 る. 『飯台の料理は殊更にかろ くす る也,汁‑

ツ菜‑ ツ強てニ ッ茶受けの物な ども不 出 もよし又一様は 飯椀 ,汁椀 ,蓋此三つをめいめい青染 の木綿烏紗に包み

長野県短期大学紀要

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て出也 モツ ソウノ寺 にての如 く鉢に入れて運 び出 して亭 主めいめい客‑配 ス,客 も椀 を出 して受 る仕様 も有也勿 論 飯台 ‑魚肉料理 の時 にて‑な し, (吾人 ,椀 の蓋 も‑

ツもニ ッも菜 の様子次第 出すべ し)』 とある, これは飯 台法 であ るため椀 の数は少いが様子を知 るこ と が 出 来 る。 また懐石料理 の中では汁 ,飯 ,向付 ,煮物 ,吸物以 外は と りまわ し方法が と り入れてい るO これは四つ椀 以 外 の器は ,簡素を尊 ぶ心か ら器物をあ ま り多 く使わない とい う事 であ る と思 う。焼物は引物 ,引肴 として引物 の 意を くんで一重 の重箱 で蓋 のあ るものが用 い られ ,二重 の場合は上 に漬物 ,下 に焼物を入れて進 め る。利休は書 院式茶事には銘 々盛 りを用 いてい るが,草庵式は全部大 きな器か重箱に入れて と りままっし式 を用 いてい る.それ らを とる器は 自分 の膳 にす でにある ところの 空 い た 器 か ,椀 の蓋 であ る。焼物が まわ って来 ると先 に食べ終 っ てい る向付 の器に と り,混物 は向付 か汁椀 の蓋 に と り, 八寸は吸物椀 の蓋 に とるな どの約束がある と こ ろ は, この蓋 を用いて菜 の受け皿 に してい る飯 台法 か らの もの であ ると思われ る。 また湯桶が 出されその湯 で最後 に両 梶 (汁 ,飯椀)を清めて しま うところな どは 禅 院 の 食 礼 と同 じで,この作法が と り入れ られてい る。(,)精進懐 石について,大徳寺 と同 じく臨済宗 の寺であ る鎌倉市に ある,相見寺 (ずいせ ん じ) (1327,夢窓疎石に よ り創 建)の料理 に懐石の原形 だ と云われてい るものがある。

同寺の開山忌 とか,法要 な どに供す る本膳様式の膳 があ り, これを "九椀菜 " と云 ってい る。名の如 く九つ の器 を一つ の膳 に盛 り切 って出され る精進料理 であるが, こ れ に対 して "七番莱 " と云 って食事 の進むに従 って出さ れ ,それが七回の順序にわた るため七番菜 と云われ る精 進懐石の供 し方があ るO食蔀:が進むに従 い,料理が供 さ れ ると云 う事は ,料理 が さめない うちに進 め られ ,客 の 方 ではあたたかい ところをおい しく頂 くことが出来 ,客 に対す る主人の心づかいを詐一にす る懐石においては, 最 も大切 な注意すべ き点であ る。 この精進懐石の献立を あげ る と次 の よ うである○ 内の番号は料理 の進め られ る順 序であ る。

17) 献立例

一白旗

一新 ごぼ う,水辛子

向付く言pLoIElbf <)言i孟諾 ・三つ臥

煮物椀 ‑ ごまど うふ,針生萎

焼物 ‑瑞泉寺数 ,焼荊子 ,揚げゆば (ここまでが ,一汁三菜 である。)

預け鉢一群 ど うふ ,椎茸 の うま煮 ,ぜ ん まい,金 山寺みそ

26 1971

箸洗い (吸物)‑ ちぎ り梅 ,み ょうが竹

八寸 一揚げ昆布 , くるみ塩 妙 り (分 香 の物 ‑た くあん,柴鼠 奈 良漬

湯桶 一湯 と湯 の子 英子 と茶

この様 な複雑 な内容の ものは利休時代 には行われていな い として も,この様式が と り入れ られたのではないか と 思われ る。 なぜ な らは これは瑞兵寺では禅家平常の精進 懐石であ ると云われてい るが,茶 の万 では其 の懐石の奥 儀 の茶事や,家元代 々の年 回忌 日の法事 に, この精進風 の懐石料理が用い られ ,特別な もの として大切 にあっか われている と云 う点か ら,あるいは ,懐石の原形 ではな いか と思われ る。懐石に云 うところの馳走 とは,最少隈 に限 られた,一汁二葉 あ るいは一汁三菜 の少 い献立 の中 にあ っての,主人 の心 の働 きを云 うので あ■る.利 休 の

"陀び茶 "の本源 であ る 「無一物 の底」 「一物 も不持」

と云 う心境か ら自由, 自在 に働 き得 る大悟 の禅的精神が ここに と り入れ られてい る と思 う.献立が一汁三菜 と限 られてい るために,その中での,亭主 の最大限の心の働 きを必要 とす る。茶事の料理 は本来主人 の手で作 るべ き であ り,主人 自らが給侍す るものであ る。季節 に応 じた 材料をえ らび,当 日の客 の趣好に合わせ て食品の選択 と 料理 の内容を考慮 し,真心を こめて作 られ る も の で あ る。懐石料理は献立 の数 こそ少 いが,決 して粗 末な もの ではな く,む しろ主人 自らの心 の働 きに よ り,清楚 に し て,親切 ,気転 に富み ,趣味 ,雅 味 な どの趣 の盛 り込 ま れた料理 とな り, これが真 の馳走 と云 うものである と云 うことを,利休は形式を きめた時 に,すでに形式を こえ た ところか らこの心を数 えていたのではないか と思われ る.以上 ここにあげた,当時 の食事 の形式 の一部か ら, 禅院の什器頬並びに作法 か ら,精進懐石か ら, これ らの ものに,更 に利休 の "柁び茶 "の精神を組み入れた もの を もって,形式を考 えたのではないか と思われ る

おわ りに

茶は (懐石を も含む) ,その歴 史か らみて,遊興性 と 18) 家督性 ,趣味性を一部に持 ってい る, しか し 『茶 の歴 史 の本質 と,その精神文化 としての意義を考 える時 に,秤 と結びつ くことに よって得た結果 を最 も意義深 く,価値 あ るもの と認めなければな らない。』 と水尾比 呂志氏は 云 う。誠 にその通 りであ り,茶 に もし精神性が与え られ なか ったな らは ,他 国の喫茶 と何 ら変わ るところがなか ったであろ う。陀びの好みは ,持 ち物 の多 きよ りも少い ことを尊 Lとしてお り,また華美 よ りも質素を よしとし

"正英 に慎 しみ深 くお ごらぬ さまを陀び と云 う也 " と云 う利休 の云葉 の様に,大徳寺 な どに参禅 Lで悟った " 一物 "の心境 に立 っての新 しい肯定が実 は大切 な もので 19

(6)

あ り,これが茶を通 じての根源的 な心である。この事を知 った時私は,利休に よって禅院内にだけ とどめてお くの ではな く,禅の思想並びに作法な どを '.茶道''と云 う作 法を通 して,我 々民間に も引 き出 して示 し,同時に禅院 か ら出発 した ものであ る茶礼がすでに禅院か ら離れて, 我 々の生活や,心の中に生 き続 けるであろ うと思 う時 , 利休の偉大 さを改めて知 ることが出来 る。今回は懐石の 歴史 とその発生についてのべたが,更に今後引 き続 き利 休 の茶会記 な どに よ り当時の懐石に用い られた料理 内容 辛,食品の塩煩,献立 と調理 との関係.茶事の様式 と料 理 との関係,更に懐石料理 の内容 の変化などについて調 べてみたい と思 うOおわ りに本学調理研究室の大西 .伊 藤教授に食重な御意見 ,御教示を頂 きました ことを深 く 感謝致 します。

参考 文献

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石田英一郎 :人間 と文化 の探求 文芸春秋 (1970) 間食天心 :岡倉天心弧 "茶 の本〝筑摩串原 (19681 辻嘉一 :茶懐石 婦人画報社 (1966)

辻宗一 :姦千家懐石 淡交社 (1969) 千宗左他 :茶 と実 茶 と美舎(1968)

長野県短期大学紀要

参照

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