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スウェーデン王国憲法史

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朝日法学論集第五十二号

≪論説≫

スウェーデン王国憲法史

―ヴァイキング王国から 1974 年統治法典の成立まで―

下 條 芳 明

はじめに―「スウェーデン」という国

 スウェーデンは,地理的には,スカンディナヴィア半島の東側約 3 分 の 2 を占め,東部はボスニア湾を挟んでフィンランドと向かい合い,西 部はノルウェーと接し,南はバルト海を挟んで,デンマーク,ドイツ,

ポーランドおよびバルト三国が控えている。国土面積は約 45 万平方 メートル(日本の約 1.25 倍)であり,このうち 53% が森林, 9 %が耕 作地, 9 %が湖沼・河川を占め,湖沼の数は 9 万 6000 に及ぶ。総人口 は約 900 万であり,人口の大半は東部および南部の沿岸部に集中する。

公用語はスウェーデン語を使用し,現在,国民の 8 割近くは福音ルター 派の教会に属するキリスト教徒である。

 「スウェーデン王国(Konungariket Sverige : Kingdom of Sweden)」

という正式な国名が示すように伝統的な王国であり,残された記録によ れば 990 年代に最初の国王ウーロヴ・シェートコヌング王の名を確認で きるが,11 世紀以前のヴァイキング王国時代から数えると千年以上に 及ぶ王制あるいは君主制の歴史を持つ。現在のスウェーデン王室は,ナ ポレオン麾下のフランス軍人の経歴をもつカール 14 世ヨハン(在位

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1818-1844)を初代国王とするベールナドット王家である(1)。現国王カー ル 16 世グスタフ(在位 1973- 現在)は 7 代目に当たる。今日でも,国 王は憲法上,国民の多くが所属するスウェーデン教会(2000 年 1 月 1 日以前は,スウェーデン国教会)の首長の地位にあり,1930 年代以来 社会民主主義の理念に基づき構築してきた福祉国家の存立にとって不可 欠な“国民的連帯の象徴”でもある。

 一方,スウェーデンといえば,「小国」でありながら,次のような多 彩なイメージがある。19 世紀初めのナポレオン戦争以来 200 年以上に わたり「戦争をしない平和国家」,高税率ながら胎児から墓場までと称 される「完成度の高い豊かな福祉国家」,多くの女性政治家や女性管理 職を輩出してきた「男女共同参画の進んだ国」,原発に対して国民投票 で「ノー」を突き付けた「環境保護運動に積極的な国」,人間本位の設 計哲学により世界の名車・ボルボを生産した「テクノロジー先進国」,

福祉政策の一環として国民のスポーツ振興に力を入れる「スポーツ健康 立国」,アバやスプートニクスを世界に送った「ポップ・ミュージック の国」,映画監督のイングルマル・ベルイマンや女優のイングリット・

バーグマンを生んだ「シャープで理知的な映画文化の国」,などなどで ある(2)

 法文化の面では,一般に欧米諸国の法体系は,大陸法圏(ローマ法 圏)と英米法圏とに区分される。しかし,スウェーデンの場合には,デ ンマーク,ノルウェー,フィンランド,アイスランドなど他の北欧諸国 とともに,ヨーロッパ中央からの“隔絶”という地理的事情が作用し て,ヨーロッパ中央の法制度や法思想の影響を受けながらも,「北欧法 圏」あるいは「スカンディナヴィア法圏」と呼ぶことができる,独自の 法文化圏を形成してきた(3)

 憲法の存在形式を見ると,スウェーデンにはこれまで統一的な憲法典 は存在せず,憲法はつねに複数の基本法(grundlag)によって構成さ れてきた。現行体制では,基本法として位置付けられるのは,1974 年の

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朝日法学論集第五十二号 統治法典(Regeringsformen),1810年の王位継承法(Sucessionsordningen),

1949 年の出版の自由法(Tryckfrihetsförordningen),1991 年の表現の 自由に関する基本法(Yttrandefrihetsgrundlagen)の四法である(統 治法典第 1 章第 3 条)。これら基本法の改正には,基本法改正案が総選 挙を挟んだ国会(一院制)の二度の同じ議決によって承認を得なければ ならないが,前の会期で承認された基本法改正案は, 3 分の 1 以上の国 会議員から要求がある場合には,再度国会で議決することなく,直接国 民投票にかけて決定することができる(同第 8 章第 15 条)。

 複数の国家基本法のうち,各国の憲法典に相当し,憲法として中心的 機能を担うのが統治法典である。統治法典は元来,統治機構のみを対象 としたが,現行の 1974 年統治法典では統治機構だけではなく,人権の 章を創設して,国民の権利・自由に関して全般的に規定する。なお,ス ウェーデンの国会法(Riksdagsordning)は 1716 年以来長い歴史を有 し,以前の 1809 年憲法体制では基本法の一つであったが,現在では,

基本法と通常の法律との中間に位置付けられている(統治法典第 8 章 17 条 1 - 2 項)。

 筆者は,大学院時代以来,君主制や人権保障を中心にスウェーデン憲 法に強い関心をもち,いくつかの論考を発表してきた(本稿註および末 尾の参考文献リスト参照)。本稿では,これまでの研究成果を踏まえな がら,1974 年に成立した現行の統治法典の構造と特色を考察する準備 作業として,ヴァイキング王国から現行の 1974 年統治法典の成立まで のスウェーデン憲法史を概観したい。

1 .民会(ティング)と選挙王制:古代から中世まで

 古代から中世初期の頃までの北欧各国には,「ティング(thing)」と 呼ばれる,立法,裁判および宗教上の機能を有する民会が存在した。一 般にティングは各地域の自由民(自営農民)から構成され,国王の選

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出,国王による課税の承認,紛争の調停,法に違反した者の審判などを 行ったといわれる(4)

 スウェーデンでは,11 世紀前半以前のヴァイキング王国時代から中 世期まで,国王選挙の慣行が広く行われていた。この点,最初の成文法 である 13 世紀前半の地方法「古ヴェストユートランド法」は,「スヴェ ア人は,国王を王位に就けかつ退位させる権利を持つ」と定めている点 からも明らかである(5)。同法によれば,新しい国王はウップサーラの南に ある「モーラの石(Mora Sten)」に集会した各地域の自由民の選挙に より,通例は前国王の王子の中から選挙により選出された。選出された 国王は,その後,「聖者エーリックの道(Eriksgata)」と呼ばれる全国 巡幸を挙行し,各地方の民会(ティング)において王位就任の承認を得 るとともに忠誠の誓いを受けるとされた(6)。また 1350 年頃に,マグヌ ス・エーリックソン王(在位 1319-1363)により制定された全国的法典 である「一般ランド法(allmänna langslagen)」では,第 1 編「国王法 典(konungabulken)」で,スウェーデンの国制は「選挙王国(valrike)」

であることを明記し,さらに,選挙で選出された国王には,即位に先立 ち,人々の前で,法と秩序の確保,国民の生命・自由・財産の保護,国 民の同意による課税などの宣誓が義務付けられていた(7)

 こうした選挙王制における国王宣誓制の趣旨は,国王権力の行使が国 王の恣意や専断を排除して,古来の慣習や法に従って行われるべきこと を要請するものであることは明らかであろう。この制度の思想的基盤と して認められるのは,ゲルマン法思想に起源をもち,同時代のイギリス

(イングランド)ではマグナ・カルタ(Magna Cart, 1215 年など)にお いて主要原則としての地位を占めていた,中世的な「法の支配」の理念 に他ならない(8)

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朝日法学論集第五十二号

2 .絶対王政の成立(1523 年)と世襲君主制の確立

 スウェーデンの絶対王政は,1523 年,ヴァーサ朝の開闢とともに開 始される。ヴァーサ朝初代国王グスタヴ 1 世ヴァーサ(在位 1523 ~ 1560)の強力な政治指導の下で,一連の中央集権化政策や宗教改革が断 行されるが,1544 年にはヴェステルオースで開催された身分制議会

(Västerås riksdag)において「王位継承協定(arvförening)」が成立 し,王位継承資格者をヴァーサ王家の男系の相続者に限定する王位世襲 制が確立される(9)。ここにおいて,ヴァイキング王国時代以来の選挙君主 制(選挙王制)は終焉を告げ,国王宣誓に拘束されない無制限の権限を 保持する世襲的絶対君主制が出現したかに見えた。

 ところが,1594 年にユーハン三世(在位 1569-1592)の継承者シーギ スムンド(在位 1592-1599)が即位する際,シーギスムンドがカトリッ クを信仰するポーランド国王であるという事情があったため,スウェー デンの身分制議会におけるルター派貴族のうちには反宗教改革に対する 警戒と危惧の念が高まった。そこで,身分制議会はシーギスムンドに対 して国王就任の条件として,「即位特許状(konungaförsakrän)」を取 り交わすことを要求した。この文書において,シーギスムンドは,ル ター派の信仰の自由,スウェーデン王国の国益擁護,宣戦・講和および 同盟締結における身分制議会の承認,国民の同意なければ新税の課税な し,といった事項を遵守・履行することを誓約しなければならなかっ

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。これ以降,カール 12 世(在位 1697-1718)の即位の場合を唯一の 例外にして,グスタヴ 3 世(在位 1771-1792)までの歴代国王はいずれ も「即位特許状」を公布し,王権の制限と国民の権利・自由の保護を宣 誓することが慣例になった(11)

 このように世襲君主制の時代に入っても,選挙王制を起源とする国王 宣誓制の伝統は,スウェーデンの憲法生活を基礎付ける主要原則であり 続けた。この点,次に見る 1809 年の旧統治法典では,第 16 条で「国王

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は,正義と誠実とを確保し,かつ助成し,不公平と不正とを防止し,か つ禁じる」とし,さらに,国王に,適法な裁判と判決による適法手続の 保障,財産権の保障,家庭の平穏,法外措置の禁止,良心の自由,信教 の自由,裁判を受ける権利といった国民の権利・自由の保護を義務付け ていた(12)

3 .最初の「統治法典」(1634 年)と「自由の時代(1719- 1772)」の改革

 最初の統治法典は,グスタヴ 2 世アドルフ(在位 1594-1632)が三十 年戦争の際にリュッツェンの会戦(1932)で戦死した後,わずか 6 歳で 女王に即位したクリスティーナ(在位 1632-1654)の治世下で摂政オク センシャーナにより作成され,1634 年に公布された。この文書は国家 統治機構とその運用を規定したものだったが,後世のスウェーデン憲法 の先駆けとなる(13)

 その後,カール 12 世による絶対王政期(1680-1718)を経て,「自由 の時代(freiheittiden)」(1719-1772)に入ると,1719-20 年に制定され た統治法典と 1723 年に全面改正された国会法により絶対王権は大幅に 制限され,それに代わり身分制議会に権力を集中する体制が確立され た。身分制議会は,立法権,宣戦講和権など強力な権限を掌握する最強 の機関となり,行政権は身分制議会によって任免される「王国参事会

(riksråd)」に属し,国王でさえその一員にすぎなかった(14)。身分制議会 は聖職者・貴族・市民・農民の四部会で構成されていたが,これを実質 的に支配したのは貴族部会であった。

 「自由の時代」のもう一つの特徴は,1730 年代から 70 年代初めにか けて,メッサ党とハット党という二大政党による競合により憲法政治が 展開されたことである(15)。この両党による「政党政治」は,政治腐敗や政 局の不安定をともなうことはあったが,近代的な議会政治や市民的自由 の原型を生み出すことになった。またフランス啓蒙思想の影響の下,

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朝日法学論集第五十二号 1766 年 12 月に最初の出版の自由法(正式名称『著述および出版の自由 に関する勅令』)が公布され,各国に先駆けて言論・出版の自由と公文 書の公開制が保障された。同法は著述および出版の合法的な自由を認め て,検閲庁を廃止し,出版の自由はすべての通信,文書の交換を含むこ と,また公文書への自由なアクセスが認められることを定めていた(16)。次 に見る 1809 年憲法体制の下では,出版の自由法は,統治法典,王位継 承法,国会法とともに基本法の一つとして位置付けられることになる。

4 .1809 年統治法典の成立とその特色

 「自由の時代」を実質的に支配したのは貴族階級にあったが,その反 動としてやってきたのが,グスタヴ 3 世による絶対王政の復活である。

グスタヴ 3 世は 1772 年と 1789 年に二度のクーデタを成功させ,新しい 統治法典(1772)と「統一および安全の法」(1789)の制定により,宣 戦・講和締結権・立法発議権などを獲得し,また貴族の牙城であった

「王国参事会」を廃止することによって,王権をかつてないほど強大な ものとした(17)

 ところが,次代グスタヴ 4 世(在位 1792-1809)の治世になると,

1805 年 8 月,スウェーデンは対仏同盟の一員としてナポレオン戦争に 参戦するが,大陸部におけるフランス軍との戦闘では敗北を重ね,フラ ンスの同盟国であるロシアの大軍によって 1808 年末までにフィンラン ド全土は制圧下に置かれた(18)。このような深刻な事態を見兼ねたストック ホルムの高級軍人や官僚は,1809 年 3 月 13 日,グスタヴ 4 世の敗戦責 任を根拠にしてクーデタを決行し,国王逮捕の挙に出て,国王の叔父 カール公爵を摂政とする臨時政府を樹立する(19)

 臨時政府は,早速グスタヴ 3 世時代の上級官僚であったホーカンソン

(Anders af Håkansson)を中心とするメンバーに新憲法草案の作成を 命じ,同年 3 月末に憲法草案の作成に取り掛かる(20)。ところが,約半月後

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に完成した政府案(いわゆる,ホーカンソン案)は,絶対王制的な要素 を温存しているとの批判を浴び,結局,陽の目を見なかった。

 ここにおいて臨時政府に代わって憲法制定作業の主導権を握ったの が,身分制議会であった(21)。同年 5 月 1 日,ストックホルムに召集された 身分制議会は,先ず国王グスタヴ 4 世の廃位を決定し,貴族・聖職者・

市民・農民という四つの身分からそれぞれ選出された 15 名の委員より 構成された憲法制定委員会(konstitutionsutskottet)を発足させた(22)  このとき憲法作成者たちの最大の懸念は,当時のスウェーデンが依然 戦争状態にあり,対外的脅威に直面していることであった。このため,

新憲法の内容自体を検討・審議するための十分な時間は用意されていな かった。憲法制定委員会は,書記のハンス・イェルタ(Hanse Järta)

を中心にして精力的な起草作業を実施し,わずか二週間ほどで新憲法草 案(いわゆる,イェルタ案)を完成した。 6 月 5 日,身分制議会はこれ を承認し,翌 6 月 6 日,摂政カール公爵はこの憲法草案を承認し,その 遵守を誓約したうえでカール 13 世(在位 1809-1818)として王位に就 いた(23)。この国最初の近代憲法である,1809 年 6 月の統治法典はこうし て成立する。

 1809 年統治法典の特色は,グスタヴ王朝時代(1771-1809)における

「国王による専制」と「自由の時代(1719-1772)」における「国会によ る専制」という苦い歴史的経験をもとに,二つの専制政治を回避するた めに,国王と国会(身分制議会)との権力均衡制を構築した点にある(24) その内容は,法思想的にはモンテスキュー(Montesquieu, 1689-1755)

が『法の精神』(1748 年)の中で提唱した三権分立論の影響を少なから ず受けたといわれる(25)が,次に見るように,行政権(執政権),立法権,

司法権のほかに,統制権および財政権の二権が設定されているので,五 権分立体制を採用したと見ることもできる。

 先ず国王の地位と権限に関しては,第 1 条で「スウェーデン王国は,

国王によって統治される」とする一方,第 4 条では「国王のみが,本統

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朝日法学論集第五十二号 治法典の条章に従って王国を統治する」として,立憲君主制の原則を明 示する。この原則に基づき,国王は次のようなきわめて広範な権能を保 持する。すなわち,条約の締結権(第 12 条),宣戦・講和権(第 13 条),国軍の統帥権(第 14-15 条),官吏の任免・昇任・罷免権(第 28 条,第 35 条),恩赦権(第 26 条),爵位の授与権(第 37 条),宮廷指揮 権(第 48 条),臨時国会の召集権(第 49 条第 1 項),解散権(第 109 条),国会との共同における民法・刑法・国会法・裁判法など法律の制 定・改廃権(第 87 条 1 - 2 項,第 5 条,第 49 条 1 項),法律の裁可権

(第 87 条),最高裁判所の司法法官(justitieråd)および最高行政裁判所 の行政法官(regeringsråd)の任命権(第 17 条,第 18 条)などである。

 一方,国王専制を防止するために,「統制権」として,国会に,職務 上の義務に違反した国務審議官(statsrådets ledamöter)の法的および 政 治 的 責 任 を 追 及 す る 権 限 が 与 え て い る。 国 会 の 憲 法 委 員 会

(konstitutionsutskottet)は,国務審議院(内閣)の議事録を審査した 結果,国務審議官(大臣)が国王の違憲または違法の決定に対して抗議 義務の履行を怠ったり,あるいは副署を拒否しなかったりしたことが判 明したときには,当該国務審議官を国会の司法監察官により弾劾裁判所 に訴追できる(第 106 条(26))。また国会の憲法委員会は,国務審議院の議 事録を審査した結果,国務審議官が「国家の真の利益」に配慮を払わず 国王に助言したり,あるいは「公平,熱意,熟練または有能」をもって 職務を遂行しなかったりしたことが判明したときは,その旨を国会に報 告し,当該国務審議官の解任を国王に提案できる(第 107 条(27))。

 立法権に関しては,国王と国会との共同行使を原則とする。国会は国 王と共同して,民法・刑法・軍事裁判法および教会法などを制定し,改 廃する権限を保持する(第 87 条 1 - 2 項)。法律の発案権は,国王およ び国会に属する(第 56 条,第 87 条 1 項)。国王による法案提出の場合 には,あらかじめ国務審議院と法律審議会の諮問を経なければならな い。国会のいかなる審議・議決も,国王の臨席の下で行われることはな

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い(第 55 条)。国王と国会が共同して制定あるいは改廃した法律は,国 王が裁可し,国王の名において公布される(国会法第 81 条)。

 次に,司法権に関しては,国王が任命する最高裁判所司法法官および 最高行政裁判所行政法官に委任され,これらの裁判所の判決は「国王の 名において,その署名または御璽を得て行われる」(第 23 条)。これに 対して国会は,司法法官および行政法官がその職務に適するかどうかを 審査するために,国会議員で構成する特別委員会を設置し,同委員会に おいて国会の信任の余地はない,と判断された司法法官および行政法官 は,国王により罷免される(第 103 条(28))。

 さらに,財政権に関しては,「自己課税する(sig beskatta)というス ウェーデン国民古来の権利は,国会のみがこれを行使する」(第 57 条)

として,国会の専権事項とする。国会は予算案の審議・議決権(第 63 条)を保持するほか,租税率の引上げ(第 60 条),新税の徴収(第 73 条)は,国会の同意がなければ行うことはできない(29)

 憲法改正に関しては,統治法典(1809 年),王位継承法(1810 年),

国会法(1810 年)および出版の自由法(1810 年,1812 年改正)という 四つの基本法を改正する権限は,国王が国会と共同して行使する(第 81 条)。基本法改正の発議権は国王および国会に帰属し,国会が審議・

議決し,国王が裁可し,公布する(同条)。

5 .イギリス型議会主義的君主制の形成:19 世紀末から 20 世 紀前半

 以上に見たように,1809 年統治法典は,ナポレオン戦争中の戦時下 にわずか 2 週間ほどの短い期間で作成され成立したものであったが,実 際には,現行の 1974 年統治法典が成立するまで,実に 165 年間の長寿 を保つことになる(30)。もっとも,1809 年統治法典には,制定以来,ほぼ 五十回以上にも及ぶ大小の改正が実施され,君主制の体制を維持しなが ら,時代の趨勢に適応しつつ,憲法政治の近代化を図ってきた(31)

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朝日法学論集第五十二号  その画期的な試みの一つは,1866 年に,貴族・聖職者・市民・農民 という四つの身分から構成されていた身分制議会が廃止され,上院(第 一院)と下院(第二院)から成る二院制が導入されたことである。上院 は地方議会の間接選挙を基盤として,定員は 150 名,任期は 8 年である のに対して,下院は国民の直接選挙を基盤として,定員は 230 名,任期 は 4 年であり,両院の権限は対等とされた。二院制の発足当初,上院は 旧守的な色彩が強く,貴族層の牙城として政府および官僚と結び付くこ とが多かったが,下院は国民の直接選挙を通じて構成されたので,20 世紀に入り,国民の政治参加への道を大きく切り開くことになる(32)  先に見たように 1809 年統治法典における制憲の趣旨とは,国王と国 会(身分制議会)という二大権力保持者間で適正な権限配分を図ること により,両者の均衡と抑制を実現することであった。ところが,19 世 紀末から 20 世紀初頭になると,近代的な政党の成立と普通選挙運動の 展開により,憲法政治の実際はこうした制憲の趣旨とは相反する方向へ の展開を見せる。

 先ず 1889 年,議会外の労働者を結集して社会民主党が結成され,

1896 年に同党指導者イェルマー・ブランティング(Hjarmar Branting)

は,最初の社会民主党議員として下院に進出する。これが大きな刺激と なって,1900 年,議会内の自由主義者を結集して自由党が結成される。

社会民主党と自由党はともに,結党後間もなく,全国的な党組織の結成 に着手し,とくに普通選挙権運動の積極的な担い手となった(33)。こうした 動向に対応して,1904 年に,議会内の保守派は全国的な党組織の結成 に踏み切る。

 1905 年に行われた下院総選挙では,自由党が初めて勝利を収めて下 院の過半数を制したため,国王オスカル 2 世(在位 1872-1907)は不本 意ながら,自由党党首カール・スターヴ(Karl Staaff)に組閣を命じ,

最初の政党内閣ともいわれる第一次スターヴ内閣が成立する(34)。翌 1906 年,スターヴ首相は選挙法改正問題の行き詰まりを打開するために,国

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王に下院の解散を要請したが,オスカル 2 世はこれに応じず,このため スターヴ内閣は総辞職する。

 同年 6 月に後継首相となった上院の保守穏健派アービット・リンドマ ン(Arvid Lindman)は,長年の懸案であった選挙制度問題の妥協解決 に成功し,1909 年の国会では,①下院選挙における男子普通選挙制の 導入,②国会両院選挙および地方議会選挙への比例代表制の導入,③地 方議会選挙における複数投票制の緩和(最高投票数を有権者一人当たり 40 票までに制限する)などを内容とする選挙法改革法案が可決され

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。ちなみに男女平等普通選挙制の実現は,第一次世界大戦後の 1921 年まで待たなければならない。

 このように男子普通選挙制と比例代表制を組み合わせた選挙制度が保 守派の手により実現されることになるが,皮肉なことに,1911 年に実 施された新選挙法による下院総選挙で勝利を収めたのは自由党であっ た。この結果,同年 11 月,再びカール・スターヴを首班とする第二次 自由党内閣が成立するが,スターヴ首相と国王グスタヴ 5 世(在位 1907-1950)は事あるごとに反目し合い,とくに 1914 年 2 月 6 日の「王 宮演説事件(borggårdstalet)」では,国防の強化を求める国王との対 立は頂点に達した(36)。このときグスタヴ 5 世は,国防力強化を訴えるため に全国各地からストックホルムの王宮まで行進してきた約 3 万人の農民

(農民大行進)を前にして,その要求を聴き入れるとともに政府の国防 政策を批判する演説を行った。結局,両者に妥協の余地はなく, 2 月 17 日,スターヴ内閣は総辞職のやむなきに至る。

 第一次世界大戦中の 1917 年の下院選挙では,社会民主党が自由党と 保守党を抑えて第一党の地位を確保した。グスタヴ 5 世は当初,挙国一 致内閣の形成を試みたが,それに失敗すると,第二党自由党の指導者で あるニルス・エデーン(Nils Edén)に組閣を要請し,同年 10 月,エ デーンを首班とする自由党・社会民主党の連立政権が成立した(37)  一般にスウェーデン憲法政治史では,このエデーン内閣の成立により

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朝日法学論集第五十二号 議院内閣制の確立が明らかになったといわれる。この時期以降,原則的 には,憲法上の国王の権限は国王自身によって実質的に行使されること はなくなった。国王による内閣総理大臣の任命は,国王が国会議長ある いは国会における政党代表者との協議に基づき,国会の政党状況を十分 考慮したうえで行われるという憲法慣行が定着した。また,国王が憲法 上保持する大臣任免権や解散権は,実際には,内閣総理大臣の助言に従 い行使されることになった(38)。こうしてグスタヴ 5 世からグスタヴ 6 世

(在位 1950-1973)の治世にかけて,憲法慣行上,「君主は,君臨すれど も統治せず」という統治原則に基づくイギリス型立憲君主制(すなわ ち,議会主義的君主制)が形成されることになる(39)

6 .1974 年統治法典の成立

 第二次世界大戦後になると,とくに 1950 年代に入ると,国王と国会 との権力均衡制を定めた 1809 年統治法典の規定と議会主義的君主制の 現実との間に大きな乖離が生じていることが深刻な憲法問題となる。こ の当時,1809 年統治法典はアメリカ合衆国憲法(1788 年成立)に次ぐ 世界で二番目に古い成文憲法として,スウェーデン国民の強い敬意と愛 着を集めていた。その一方,統治法典には度重なる部分改正が施されて きたために,とくに君主制に関する部分に関しては文言および構造の不 整合性はもはや覆い難いものとなっていた(40)

 このため 1809 年統治法典の全面的な改正作業が,憲法調査審議会

(Författningsutredningen, 1954-1963) と 基 本 法 改 正 審 議 会

(Grundlagberedningen, 1966-1972)という二つの政府審議会の調査作 業と,社会民主党,自由党,中央党(農民党),穏健統一党という四大 政党の合意形成により,実に 20 年の歳月をかけて実施されることにな

(41)

。この作業の一環として,1968-1969 年の統治法典の部分改正では,

二院制から一院制への移行,公正度の高い比例代表制(サン・ラゲ式)

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の採用,議院内閣制原則の明文化(たとえば,内閣総理大臣あるいは国 務大臣に対する国会の不信任決議権,内閣総理大臣の助言に従った国王 の国会解散権および国務大臣の罷免権の行使)などが実施された(1971 年 1 月 1 日施行(42))。

 一方,新憲法における君主制構想に関しては,政権与党である社会民 主党が 1911 年以来,君主制廃止を党綱領に掲げていたこともあり,憲 法改正作業の最終段階に至るまで決着が付かなかった(43)。ようやく,1971 年 8 月の「トーレコブ会議の妥協(Torekovkompromissen)」におい て,「君主制の維持は,憲法が国会や世論の望ましい支持を獲得しよう とするならば,新憲法の制定における確固とした出発点である」との共 通認識に基づき,君主制の存続が決定される(44)。国家元首である国王の職 務は,政治的権限の行使ではなく,儀礼的・国家代表的権能の行使であ り,そこで期待されているのは象徴作用の発揮である,という点で政党 間の合意を得たのである(45)

 基本法改正審議会は,1972 年 5 月,新国会法案などとともに新統治 法典草案を政府に提出する。政府はこれに若干の修正を施したうえで,

1973 年 3 月に統治法典改正案を国会に提出し,総選挙を挟んだ 1973 年 と 1974 年の二度の国会で議決された。こうして新統治法典は 1974 年 2 月 28 日に成立し, 4 月 23 日に公布され,翌 1975 年 1 月 1 日から施行 された。

7 .その後の展開

 新憲法体制発足当初には,統治法典とともに王位継承法(1810 年),

出版の自由法(1949 年)の三法を基本法としたが,その後,表現の自 由に関する基本法(1991)が基本法に加えられた。先に見たように,

1766 年の最初の出版の自由法では,出版物・印刷物に対する言論・表 現の自由および公文書への国民のアクセス権を保障していた。現在の出

(15)

朝日法学論集第五十二号 版の自由法は 1949 年に全面改正されたものを母体とするが,とくに公 文書公開の原則,国民の匿名権,印刷物を頒布する者の責任を規定す る。一方,1970 年代には印刷物を媒介としないメディアに基本法を適 用するか否かの問題が議論されるようになり,この結果,テレビ,ラジ オ,ビデオ,映画,録音,CD,DVD,インターネットなどの新しいメ ディアを対象にして,1991 年に,出版の自由法の内容に準じて,表現 の自由に関する基本法が制定された(46)

 統治法典における人権規定に関しては,先述のように 1809 年統治法 典第 16 条では,中世以来の国王宣誓制の伝統に基づき,国王権力の制 限により国民の権利・自由を保護するという方式をとっていた。これに 対して 1974 年統治法典は,暫定的な措置ではあったが,初めて権利章 典を設けた(47)。同統治法典の第 2 章「基本的自由および権利」には,言 論・出版の自由,情報権,集会の自由,示威運動の権利,団結権,信教 の自由,移転の自由(以上,同章第 1 条),結社・宗教団体への強制加 入および意見表明の強制に対する保護(同第 2 条),身体の不可侵,家 宅捜査から自由,通信の秘密および盗聴の禁止(以上,同第 3 条)と いった「相対的基本権(relativa rättigheter)」を,また,第 8 章「法 律およびその他の規定」には,死刑の禁止,国外追放の禁止,入国の自 由,国籍離脱の禁止,刑法上の遡及処罰の禁止,土地収用に対して補償 を受ける権利(以上,同章第 1 条)といった「絶対的基本権(absoluta rättigheter)」を規定していた(48)

 しかし,このとき導入された人権規定方式はあくまでも暫定的なもの であったので,その後,1976 年の統治法典の改正では,1973 年に設置 された基本権審議会(Fri-och rättigsutredningen,1973-1975)の提案 に基づき,次のような大幅な修正・追加が実施された。すなわち,①人 権規定は,第 2 章「基本的自由および権利」(つまり,権利章典)にす べて集約すること,②社会権,男女の平等,人種的・言語的・宗教的な 少数者の権利の保護に関しては,第 1 章「憲法の基本原則」にプログラ

(16)

ム規定として掲げること,③スウェーデン国民とほぼ同様に外国人の人 権保障を明文化すること,④基本権の制限を認める場合には,その制約 と歯止めを明確に規定すること,⑤法令の合憲性を審査するために違憲 審査制を導入すること,などである(49)

 一方,国家基本法の一つである王位継承法に関しては,もともと現行 の王位継承法は,1810 年に現王朝であるベールナドット王家の創設に ともない制定されたものであった(50)が,その後,第一次世界大戦以降の戦 間期に至るまでとくに重要な改正が実施されることはなかった(51)。ところ が,第二次世界大戦後になると,とくに 1947 年 1 月 26 日に国王グスタ ヴ 5 世(在位 1907-1950)の孫で当時王位継承順位第二位にあったグス タヴ・アードルフ王子がデンマークのコペンハーゲン国際空港で起こっ た飛行機事故で死亡したことが契機となり,王制改革の問題をめぐり,

とくに君主制から共和制(公選大統領国家元首制)に移行するか,それ とも,女王制度を導入して君主制を維持するか,をめぐり活発な議論が 展開されることになる(52)。こうした議論を踏まえて,1975 年,国会の動 議に基づき王位継承制問題を調査するために政府の審議議会が設置さ れ,同審議会は,1977 年に女子王位継承制の採用に積極的な方向付け を示す報告書を政府に提出した(53)。これを受けて政府の王位継承法改正案 およびこれにともなう統治法典改正案は,1978 年および 1979 年におけ る二度の国会の議決を経て採択され,1980 年 1 月 1 日より実施された。

 この結果,王位継承法第 1 条の改正によって,それまでの王位継承資 格 者 を 男 系 男 子 に 限 定 す る「 男 系 男 子 王 位 継 承 制(agnatisk tronföljsordning)」に代わって,長子主義と直系(嫡系)主義という二 大原則を維持しつつ,国王の長子に性別にかかわらず優先的に王位継承 権を認める「長子優先両系王位継承制(fullt kognatisk tronföljsordning)」

が採用されることになった(54)。同時に,統治法典第 1 章第 5 条における国 家元首制に関する原則規定に改正が実施されて,従来の「国王は,国家 元首」であるという規定から「王位継承法に従って,スウェーデン王位

(17)

朝日法学論集第五十二号 を有する国王または女王は国家元首である。この統治法典の規定で国王 に関するものは,女王が国家元首であるときには,女王に準用する」と して,女王制度の導入を確認している(55)

 21 世紀に入ると,1974 年統治法典の成立三十周年を迎えた節目の年 である 2004 年に,政府は,国内的および国際的な状況の変化に対応す るために,統治法典の全面的な見直しの検討を提案した。これを受けて 基本法調査委員会(Grundlagsutredningen, 2004-2008)が設置され,

2008 年に提出された同委員会の提言に従った形で,2010 年には,選挙 制度,国民投票,政府と議会の関係,裁判所と行政,国民の権利と自 由,国際的問題およびその他の改正問題(コミューン,規則制定権の規 制,財政権,公務員任命の国籍要件,議院の公開)といった事項に関し て,全面的な統治法典の改正が実施され,今日に至っている(2011 年

1 月 1 日施行(56))。

終わりに

 これまでに,ヴァイキング王国時代から 21 世紀の今日に至るまでの スウェーデン王国憲法の歴史を概観してきた。現行の 1974 年統治法典 は,中世以来のスウェーデン独自の制度的伝統を維持しつつ,現代憲法 として位置付けた場合にも,いくつかの斬新な制度を採用している点で 注目に値する。ここでは紙数も尽きたので,現代スウェーデン憲法の構 造と特色については稿を改めて考察したい。

【註】

( 1 ) The Monarchy in Sweden, second ed., The Swedish Institute, Bohusläningens Boktryckeri AB, Stockholm, 1986, p.8ff..

( 2 ) 岡沢憲芙『スウェーデン現代政治』(東京大学出版会,昭和 63 年) 1 - 3 頁。

(18)

( 3 ) 小林昭三『比較憲法学・序説』(成文堂,平成 11 年)26 頁。

( 4 ) 堀田みゆき「ノルウェー王国」憲法制度研究会編『各国憲法制度概説』〔増 補改訂版〕(政光プリプラン,平成 14 年)396 頁。

( 5 ) Ingvar Andersson, Schwedishe Geschichte-Von den Anfängen bis zur Gegenwart, München, 1950, S.66.

( 6 ) Herman Schück, “Swedenʼs Early Parliamentary Institutions from the Thirteenth Century to 1611”, Michael. F. Metcalf (ed.), The Riksdag : A History of the Swedish Parliament, The Swedish Riksdag/The Bank of Sweden Tercentenary Foundation, Stockholm, Martinʼs Press, New York, 1987, p.12-13.

( 7 ) Ingvar Andersson, a. a. O., S.77-78.

( 8 ) 中世イギリス(イングランド)では,ノルマン王朝の時代に国王ヘンリー 一世(在位 1100-1135)が,戴冠式の際,諸侯とアングロ・サクソン人民を前 にして宣誓を行い,それを成文化して「戴冠憲章(Coronation Charter)」と して公布したといわれる。その趣旨は,ノルマン・コンクェスト(1066 年)

以前の「古き良き法」を復活し,国王は法の下にあり,悪しき慣習の廃止を確 認するものであった。国王が即位の際に「戴冠憲章」を公布する慣行は,後の プランタジネット王朝(1154-1399)の国王達に引き継がれ,さらに 1215 年以 降のマグナ・カルタの重要な原型となった。F. W. Maitland, The Constitutional History of England, Cambrige University Press, 1908(Reprinted 1974), pp.7- 9, pp.159-160. 同邦訳書;小山貞夫訳『イングランド憲法史』(創文社,昭和 56 年)11-14 頁および 213-214 頁。児玉誠『イギリス憲法の研究』(御茶の水 書房,昭和 63 年) 3 - 4 頁。 なお,イギリス中世以来の「法の支配」の成立 と発展に関しては,伊藤正己『法の支配』[復刻版](有斐閣,昭和 61 年)16 頁以下。小林昭三「英国憲法に生きる中世風―議会制と法の支配の素地―」憲 法学会編『憲法研究』第 35 号(平成 15 年)17 頁以下。同論文は後に,小林 昭三『西洋近代憲法論再考』(成文堂,平成 22 年)第 6 章,139 頁以下に所収 されている。

( 9 ) Michael Roberts, The Early Vasas:A History of Sweden, 1523-1611, Cambrige University Press, Cambrige, 1968, p.138-144.

(10) Michael Roberts, ibid., pp.343-344.

(11) Michael Roberts, The Age of Liberty:Sweden 1719-1772, Cambrige University Press, 1986, p.2.

(19)

朝日法学論集第五十二号 (12) 1809 年統治法典第 16 条は,国民の人権保障に関する唯一の規定として,

次のように定める。「国王は,正義と誠実を確保し,かつ助成し,不公平と不 正を防止し,かつ禁ずる。国王は,適法な裁判と判決によらなければ,生命・

名誉または人身の自由もしくは幸福を何人からも奪い,または奪うことを許容 することができない。国王は,スウェーデンの法令の規定するところに従う正 当な裁判と判決とによらなければ,不動産または動産を何人からも奪い,また は奪うことを許容することができない。国王は,家庭の平穏を妨げ,または妨 げることを許容することができない。国王は,何人をも,他の場所に追放する ことができない。国王は,何人の良心をも抑圧し,または抑圧することを許容 することはできず,何人に対しても,公共の秩序を乱し,一般犯罪を惹起しな い限り,宗教の自由な行使を保護する。国王は,何人に対しても,その正当に 所属する管轄裁判所による裁判を受けさせなければならない。」(阿部照哉・桑 形昭正訳「スウェーデン王国憲法」大石義雄編『新訂・各国の憲法典』,有信 堂,昭和 34 年,309 頁)

(13) 百瀬宏・熊野聡・村井誠人編著『北欧史[新版世界各国史 21]』(山川出 版社,平成 10 年)146 頁。

(14) 前掲『北欧史』158-159 頁。

(15) 前掲『北欧史』159-160 頁。

(16) 西修『現代世界の憲法動向』(成文堂,平成 23 年)50-51 頁。

(17) 前掲『北欧史』169 頁。

(18) 百瀬宏『北欧現代史』(山川出版社,昭和 55 年)70-71 頁。

(19) T.K.Derry, A History of Scandinavia. Norway, Sweden, Denmark, Finland and Iceland, University of Minnesota Press,Minneapolis, 1979, p.208.

(20) Ingvar Andersson, a. a. O., S.358.

(21) Ingvar Andersson, a. a. O., S.359.

(22) Ingvar Andersson, a. a. O., S.359.

(23) 佐藤功『君主制の研究―比較憲法学的考察―』(日本評論新社,昭和 32 年)

282-283 頁。

(24) 榎原猛『君主制の比較憲法的研究』(有信堂,昭和 44 年)196-197 頁。

Nils Herlitz, Sweden: A Modern Democracy on Ancient Foundation, University of Minnesota Press, Minneapolis,1939, p.39. なお,1809 年統治法典 のテキストとしては,次の資料を参照にした。Amos J. Peaslee, Constitutions of Nations, Vol.3, 1950, pp.96-117.「スウェーデン王国憲法」(阿部照哉・桑形

(20)

昭正訳)大石義雄編『新訂・各国の憲法典』(有信堂,昭和 34 年)306-327 頁。「スウェーデンの憲法」(大石義雄訳)大石憲法研究所編『世界各国の憲法 集』(嵯峨野書院,昭和 48 年)106-119 頁など。

(25) 佐藤功・前掲書 283 頁。

(26) 佐藤功・前掲書 288-289 頁。

(27) 榎原猛・前掲書 214 頁。

(28) 榎原猛・前掲書 209-210 頁。

(29) Constitutional documents of Sweden, Published by The Swedish Riksdag, Translated edition, Norstedts Tryckeri, Stockholm, 1981, p.8.

(30) この点,小林昭三教授は,ワイマール制憲議会成立以前の諸制度の変遷を 対象にして,次のように指摘される。「一応のつもりで用意した制度が,長続 きすることがある。逆に,長続きさせたい制度が,一応の場つなぎの効果しか はたさないことがある。そうかと思うと,長続きさせたい制度を一応,という ふうにして用意することもあれば,一応のつもりの制度に長続きするような外 観をとらせることもある。一九一八年一一月のドイツ革命勃発から翌年二月の ワイマール制憲議会にいたるまで,このような二つの思惑が,そのときどきの 制度をめぐって交錯した。」(『ワイマール共和制の成立』,成文堂,昭和 55 年,31 頁)。

(31) 伊藤満『各国憲法―その時間と空間―』(八千代出版,昭和 60 年)203 頁。

(32) 伊藤満・前掲書 203 頁。

(33) Douglas V. Verney, Parliamentary Reform in Sweden 1866-1921, Clarendon Press, Oxford, 1957, p.143.

(34) 岡沢憲芙「現代スウェーデン政党政治史論(三)」『早稲田社会科学研究』

第 18 号(早稲田大学社会科学学会,昭和 53 年 12 月)139 頁。

(35) Stig Hadenius, På Väg mot Partier och Parlamentarism, Stig Hadenius/

Björn Molin/Hans Wieslander, Sverige efter 1900. En modern politisk historia, elfte uppl., Bonniers, Stockholm, 1988, s.56.

(36) Stig Hadenius, Swedish Politics During the 20th Century, Second revised edition, The Swedish Institute, Stockholm, 1988, p.20. 邦訳書;岡沢憲芙監修 / 木下淑恵・秋朝礼恵訳『スウェーデン現代政治史―対立とコンセンサスの 20 世紀―』(早稲田大学出版部,平成 12 年)18-19 頁。

(37) Georg Hahn, Die neue schwedishe Verfassung, in: Archiv des öffentlichen Rechts, Bd.100, 1975, S.373.

(21)

朝日法学論集第五十二号 (38) Olle Nyman, Parlamentariskt regeringssätt En av Statsskickets grunder,

Andra reviderade uppl., Bonniers, Stockholm, 1986, s.42.

(39) 立憲君主制の諸類型に関しては,拙稿「スウェーデン憲法における象徴君 主制―『情報権君主制』の形成と構造―」(日本法政学会編『法政論叢』第 54 巻第 2 号,平成 30 年 8 月)43 頁以下参照。

(40) Nils Stjernquist, Die Entwicklung des öffentlichen Rechts Schwedens in den Jaren 1954 bis 1969, Jahrbuch des öffentlichen Rechts der Gegenwart, N.F., Bd., 18, 1969, S.264.

(41) 1974 年統治法典の成立過程における政府審議会の調査活動と政党合意の 経緯については,拙稿「スウェーデン一九七四年憲法の成立過程―憲法審議会

(1954-63)の役割を中心にして―」『早稲田政治公法研究』第 32 号(平成 2 年 10 月)215 頁以下。

(42) 清水望『北欧デモクラシーの政治機構―議会主義体制の形成と展開―』(成 文堂,昭和 49 年)104 頁以下。

(43) Björn Molin, Brytningstid och växling vid makten: 1973-1982, Stig Hadenius/Björn Molin/Hans Wieslander, ibid., s.256.

(44) Erik Holmberg/Nils Stjernquist, Vår författning, sjätte uppl., 1988, Nortedts Förlag, Stockholm, ss.108-109.

(45) Erik Holmberg/Nils Stjernquist, ibid., s.109.

(46) 福本歌子『スウェーデンの公文書公開と言論表現権【憲法の歴史と構造】』

(青木書店,平成 9 年)15 頁。

(47) 1974 年統治法典への基本権導入過程に関しては,拙稿「スウェーデンの 憲法にみられる基本権の特徴」日本法政学会編『法政論叢』第 28 巻(平成 6 年)63 頁以下。

(48) 前掲拙稿「スウェーデンの憲法にみられる基本権の特徴」66 頁。通常,

スウェーデン憲法では,「絶対的基本権」とは,憲法改正手続きによらなけれ ば制限できない基本権であるのに対し,「相対的基本権」とは,通常の法律あ るいは委任命令によって制限できる基本権を意味する。基本権を「絶対的基本 権(absolute Grundrechts)」と「相対的基本権(relativa Grundrechts)」の 二種類に区分する方式は,すでにワイマール憲法時代に,クルト・ヘンツェル

(Kurt Häntzschel)によって最初に試みられたといわれる。ヘンツェルは,

1926 年に発表した論文の中で,この区分のメルクマールについて次のように 述べている。「第一の範疇は一定の基本権を先ず絶対的に保障し,そして法律

(22)

或は国の法律による(durch Gesetz oder Reichsgesetz)例外を認める憲法的 規定のことであり,他の範疇は一定の基本権を表面からただ相対的に,すなわ ち法律の範囲内(innerhalb der Schranken)或はその規定に従って(nach Massgabe)憲法的規定で保障しているだけのものである。第一の範疇では憲 法自身が不変の実質的法規範を定め,同時に如何なる形式において例外が認め られるべきかを規定している。第二の範疇では表面から相対的な保障を認めて いるだけであり,その範囲もその都度の立法の状態によって決定せられ,憲法 自身によっては何等実質的に規定されていない」と。さらにヘンツェルは,ワ イマール憲法に定める基本権について「絶対的基本権」と「相対的基本権」と に具体的に区分している。前者の規定としては,移転の自由(第 111 条),外 国移住の自由(第 112 条),身体の自由(第 114 条),住居の安全権(第 115 条),信書ならびに郵便・電信・電話の秘密(第 117 条),意見表明の自由(第 118 条),集会の自由(第 123 条),所有権(第 153 条)などが挙げられるのに 対して,後者の規定としては,公共団体の自治権(第 127 条),通商および営 業の自由(第 151 条第 3 項),契約の自由(第 152 条第 1 項),相続権(第 154 条第 1 項)などが属するとした(水木惣太郎『基本的人権』,有信堂,昭和 39 年,372 頁(註))。当時,このヘンツェルの学説に注目したものとして,C.

Schmitt, Verfassungslehre, Berlin, 1928, 6. Aufl. 1983, S. 166-167. 同邦訳書;

阿部照哉・村上義弘訳『憲法論』,昭和 49 年,197-199 頁。

 わが国では,宮澤俊義教授が R・トーマ(Richard Thoma)の説に拠りなが ら,人権保障の方式を「絶対的に保障する方式」と「相対的に保障する方式」

の二種類に区分する方式を紹介している(宮澤俊義『憲法Ⅱ―基本的人権―』

[新版],有斐閣,昭和 46 年,113-116 頁)。

(49) 前掲拙稿「スウェーデンの憲法にみられる基本権の特徴」67 頁。

(50) 拙稿「バーナドット王家の創設―現スウェーデン王室の始まり―」村井誠 人編『スウェーデンを知るための 60 章』(明石書店,平成 21 年)155 頁以下。

(51) ただし,戦間期のスウェーデンでは,二度の王位継承法の改正が実施され ている。1921 年の改正では,第 7 条に定める王族の外国旅行の条件に関して,

王族が外国旅行を行う場合に,国王の了解と同意(vetskap och samtycke)

を必要とするのは,従来は広く王子および王女にまで及んでいたが,その対象 を第一王位継承資格者(tronföljaren)である皇太子に限定されることになっ た。また 1937 年の改正では,第 5 条および第 6 条に定める王子および王女の 結婚条件に関して,従来は王子および王女は自由に外国人とも結婚できたが,

(23)

朝日法学論集第五十二号 王子の結婚には政府の意見を徴したうえでの国王の同意が,また王女の結婚に は 国 王 の 了 解 と 同 意 が 必 要 と な っ た。Erik Holmberg/Nils Stjernquist, Grundlagarna med tillhörande författningar, Norstedt & Söners Förlag, Stockholm, 1980, s.794-795.

(52) 君塚直隆『立憲君主制の現在―日本人は「象徴天皇」を維持できるか―』

(新潮新書,平成 30 年)67 頁。

(53) Erik Holmberg/Nils Stjernquist, ibid., s.788.

(54) Erik Holmberg/Nils Stjernquist, ibid., s.787. 長子主義と直系(嫡系)主義 という二大原則は維持しつつ,国王の長子が性別にかかわりなく優先的に王位 継承権を取得するという,スウェーデン型の王位継承制は,その後,他の多く のヨーロッパの君主制諸国,すなわち,オランダ(1983 年),ノルウェー

(1990 年),ベルギー(1993 年),デンマーク(2009 年),さらにイギリス

(2013 年)において相次いで採用されている(君塚直隆・前掲書,第 4 章「現 代のイギリス王室」,第 5 章「北欧の王室」,第 6 章「ベネルクスの王室」参 照)。こうした潮流の中で,わが国でも,2005(平成 17)年 11 月 24 日,小泉 首相の諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」は皇位資格を女性天 皇,女系天皇にまで拡大し,皇位継承順位に関しては直系(嫡系)を優先し て,兄弟姉妹間では長子優先などを内容とする皇室典範の改正案を答申してい る。拙稿「天皇」下條芳明・東裕編『新・テキストブック日本国憲法』[初版 第 4 刷](嵯峨野書院,令和 2 年)41 頁参照。

(55) 1980 年 1 月 1 日より,女王制度を認めた改正王位継承法および統治法典 が施行された結果,現国王カール十六世グスタフの長女であるヴィクトリア第 一王女(1977 年 7 月 14 日生まれ)が王位継承権第一順位となった。彼女は一 八歳の誕生日を迎えた 1995 年 7 月 14 日に,正式に第一王位継承資格者(皇太 子)として就位した。一方,それまで王位継承権第一順位にあった長男カー ル・フィリップ王子(1979 年 5 月 13 日生まれ)は第二順位に繰り下がり,ま た,次女マデリーン王女(1982 年 6 月 10 日生まれ)は第三順位の王位継承権 を保持することになった。

 ところが,その後,ヴィクトリア第一王女は,ストックホルムでスポーツジ ムを経営するダニエル・ベストリング(現ヴェステルヨートランド公)と恋に 落ち,国王や多くの国民の反対にもかかわらず,結局,王位継承法第 5 条に基 づき国王と政府から正式な承認を得て,2010 年 6 月に晴れて結婚した。二人 の間には,2012 年 2 月 23 日に長女エステル王女が誕生し,また,2016 年 3 月

(24)

2 日に長男オスカル王子が誕生したために,エステル王女が王位継承権第二順 位に,また,オスカル王子が第三順位に繰り上がることになった。かくして現 行の王位継承法によれば,今後のスウェーデン王室は,次代以降,少なくとも 二代にわたり女王が王位を継承することになるであろう。拙稿「スウェーデン 王位継承制の歴史的展開―「女系同等王位継承制」の導入(一九七九年)をめ ぐって―」憲法学会編『憲法研究』第 50 号(平成 30 年 7 月) 183 頁参照。

(56) 坂田仁「スウェーデン統治組織法の改正(二〇一〇年)について」『法学 研究』第 85 巻第 11 号(平成 24 年 11 月)91 頁。なお,2010 年の改正内容を 含めた 1974 年統治法典のテキストとしては,「スウェーデン」(平松毅訳・解 説)畑博行・小森田秋夫編『世界の憲法集』[第 5 版](有信堂,平成 30 年),

「スウェーデン憲法」(山岡規雄訳)国立国会図書館調査及び立法考査局編『各 国憲法集⑴』(平成 24 年 1 月)参照。

【参考文献】

・拙著『象徴君主制憲法の 20 世紀的展開―日本とスウェーデンとの比較研究―』(東 信堂,平成 17 年)

・拙稿「スウェーデン 1974 年憲法成立の由来」法と秩序研究会編『法と秩序』第 19 巻 4 号(平成元年 7 月)

・拙稿「スウェーデン一九七四年憲法の成立過程―憲法審議会(1954-63)の役割を 中心にして―」『早稲田政治公法研究』第 32 号(平成 2 年 10 月)

・拙稿「スウェーデンの憲法にみられる基本権の特徴」日本法政学会編『法政論叢』

第 28 巻(平成 4 年 5 月)

・拙稿「スウェーデン憲法における人権保障―1974 年憲法における基本権規定の創 設とその特徴―」バルト=スカンディナヴィア研究会編『北欧史研究』第 9 号(平 成 3 年 12 月)

・拙著「スウェーデン憲法における象徴的国家元首制」『現代における憲法問題の諸 相[小森義峯教授古稀記念論文集]』(国書刊行会,平成 6 年)

・拙稿「スウェーデン象徴君主制憲法の成立と構造」憲法学会編『憲法研究』第 27 号(平成 7 年 5 月)

・拙稿「スウェーデン君主制憲法における王位継承制度―選挙君主制か,世襲君主 制か―」九州産業大学『商経論叢』第 45 巻第 2 号(平成 16 年 12 月)

・拙稿「象徴君主制憲法の現代的展開―象徴的国家元首論の観点から見た日本とス ウェーデンとの比較考察―」憲法学会編『憲法研究』第 38 号(平成 18 年 6 月)

(25)

朝日法学論集第五十二号

・拙稿「スウェーデン憲法史における君主制―選挙王制から象徴君主制までの展開

―」村井誠人編『スウェーデンを知るための 60 章』(明石書店,平成 21 年)

・拙稿「象徴天皇制の制度と理論―代表制論,君主論および元首論の現代的脈絡に おいて―」憲法学会編『憲法における普遍性と固有性[憲法学会五十周年記念論 文集]』(成文堂,平成 22 年)

・拙稿「スウェーデン憲法」北欧文化協会/バルト = スカンディナヴィア研究会/

北欧建築・デザイン協会編『北欧文化事典』(丸善出版,平成 29 年 10 月)

・拙稿「スウェーデン王位継承制の歴史的展開―「女系同等王位継承制」の導入(一 九七九年)をめぐって―」憲法学会編『憲法研究』第 50 号(平成 30 年 7 月)

・拙稿「スウェーデンにおける象徴君主制―「情報権的君主制」の形成と構造―」

日本法政学会編『法政論叢』第 54 巻第 2 号(平成 30 年 8 月)

・拙稿「象徴天皇制の現在―現代スウェーデン憲法との比較において―」比較文明 学会九州支部編『比較文明・九州』第 14 号(令和 2 年 8 月)

参照

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