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9世紀末~10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

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(1)

9世紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国

集会・教会会議

著者

津田 拓郎

雑誌名

ヨーロッパ文化史研究

12

ページ

141-177

発行年

2011-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/55698

(2)

ヨー ロッパ文化史研究 第 12号 (2011年 3月 31日) 141 論 文

9世

紀末∼

10世

紀初頭の フランク王国

における王国集会・教会会議

(1)

田 拓 郎

I.は じめに I.―(1)カロ リング末期の見直 しの動 き I.(2)本稿 の 目的 Ⅱ

.ル

ー トヴィヒ独人王の死後の東 フランク王国における集会 Ⅱ.―

(1)史

料 について Ⅱ.―

(2)ル

ー トヴィヒ若年王の死 (882年)までの時期の集会 Ⅱ.―(3)カール肥満王の元での集会

H.(4)ア

ルヌル フの元での集会 Ⅱ

.(5)ツ

ヴェンテ ィボル ド,ルー トヴィヒ幼童王の元での集会 Ⅱ

.(6)東

フランク王国の状況のまとめ ⅡI.シャルル禿頭王の死後の西 フランク王国における集会 ⅡI.―

(1)ル

イ吃音王 の元での集会 ⅡI.―

(2)吃

音王死後 の西 フラ ンク王国にお ける集会 ⅡI.―(3)ウー ドとシャルル単純王の時代の集会 HI.(4)西フランク王国の状況のまとめ

IV

おわ りに IV―

(1)結

論 IV―

(2)展

望 (1)本稿 は著者 に よる博士論 文 「カロ リング期 フラ ンク王 国の国制の研究 一一 カピ トウラリア,王国集会,教会会議』 (2009年 7月,東北大学)の第3章「 カ ロリング期 における王国集会 ・教会会議」の一部 (pp.131-137)に 加筆 。修正 を施 した上で,新たな研 究動 向 を踏 まえて再構 成 した ものである。博士論文 の 全 文 は現 在 東 北 大 学 リポ ジ トリ

TOUR上

で 閲 覧 可 能 で あ る (httpノ /hdl. handle.net/10097/40149)。

(3)

142 論 文 I. は じ配河こ I。

(1)力

ロ リング末期 の見直 しの動 き カロリング末期は伝統的に「衰退」のイメージとともに語 られてきた。 政治史の観点か らは

,無

能 。無策な王たちが内外の危機に対処できず, シャルルマーニュが作 り上げた帝国の崩壊を導 き

,最

終的に貴族権力の 勃興 を招いた時代 として

,ま

た教会史の観点からは

,か

つて大規模に行 われた教会改革の動 きが完全に放棄された時代 として

,ネ

ガテイヴに評 価 されてきたのである。 しか し近年になって

,こ

の種のイメージを書 き 換えようとする研究が幾つか現れてきた。 まず注 目すべ きは

,カ

ール肥満王に関するS。 マクリーンの研究であ る。)。 周知の通 リカール肥満王は

,カ

ロリング家の君主の相次 ぐ死を受 けて全 フランク王国を手中に収めながらも

,887年

の廃位 とともにその 崩壊 を招いたという点から

,カ

ロリング末期の諸王の中でも最 も低い評 価 を与えられてきた人物 といってよい。マクリーンはこのようなイメー ジが生み出されてきた背景を丹念に分析 した上で

0),肥

満王が他のカロ リング家の諸王 と比較 しても取 り立てて無能な君主だったわけではない という点を強調 し

,カ

ロリング的統治体制141は 887/8年の大帝国崩壊の (2)s.MacLean,Ki4gsたlip′ “グPOri′ぉ,4ルθ lα″ “′″ЙC`“ rタ,cambridge,2003.

0)彼

は この ような否定的評価 を生 み出 した伝統的見解 と して,1)830年頃 ま で をカ ロ リング王権 の最盛期 と考 え,その後 を衰退期 ・貴族権力 の上昇期 と 考 える見方

,2)9世

紀 末 を

,在

地 の高位貴族家 門が支 配す る「国家」や「部 族大公領」 の地域 的アイデ ンテ ィテ ィーが明確 に成立す る時代 と考 える見方, 3)887年の肥満王罷免 を,上昇 した貴族層 に よって もた らされた選挙王権 の 確 立 と して評価 す る見方 を挙 げ, これ らの見解か らいわば 目的論 的に導かれ たのが,従来の肥満王治世 の評価 であ った と分析 してい る,MacLean,Ki4gsみ″ ′″′乃:′riεs pp.28.9世紀末 に貴族権力が力 を増 してい き,同時 に王権が衰退 してい つた とす る見解 は特 に同書 の第3章,第4章 (pp.48122)で否定 され ることとなる。 に

)彼

自身序文 で明言 してい る よ うに,マク リー ンの議論 は主 として英語 圏の

(4)

9世紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

143

直前 まで (部分的にはその後 も

)有

効 に機能 していた とい う見解 を提示 している(→ また,カロリング末期以降の法制史の分野に関 して も見直 しが始 まっ ている。2007年 に

Wハ

ル トマ ンによって出された論文集は,長らく「暗 黒時代」 として描かれて きた850年 950年を対象 に

,聖

俗 の法 の領域 に おける活動 を様 々な角度か ら再評価す る もので

,寄

稿者達は多様 な角度 か らこの時代の見直 しを行 っている “ )。 ハル トマ ンは 2008年 にも,同 じ 時期 を扱 う研究書 を出 し

,特

に教会の分野に焦点 を絞 って再評価 を試み ている。彼 によれば

,こ

の時期の政治的危機 にもかかわ らず教会 とその 組織 は崩壊す ることな く維持 されてお り

,シ

ャルルマーニュ期 。ルイ敬 虔帝期 に取 り組 まれた教会改革の動 きはこの時期 に新たな頂点 をむかえ るとの ことである。)。 これ らの研究 は,199o年代 に始 まったルイ敬虔帝以降の君主の評価 の見直 しの動 きの中に位置づけることが可能であ り。

),無

条件 に「最盛 研 究者 が近年提示 してい る国制理解 に基づ いた ものであ るMacLcan,Ki4gs力″ α″′Por,′括,pp.31その種の研究の代表 としてここではM.Innes,S″セαη′Sθ `′ θク ′

"働θ Eαr1/Mi滅グルAgas.動ι Mi洲′ιR力′“θ ttIり4θθ lθθa cambridge,2000の み を 挙 げてお く。 イネス らが描 き出す の は,伝統 的 な制度 史的 ・法制 史的国制理 解 とは異 なる,王権 と様 々な貴族家 門の間のパ トロネジ と忠誠 のネ ッ トワー クに根 ざ した統治 システムである。 この ような理解 においては

,王

権 と貴族 権力 を対立的 に捉 える態度が否定 される とともに,貴族権力が9世紀 末 になっ て上昇 して くる とい う伝統的見解 も相 対化 される。王権 と貴族層 の関係 はカ ロ リング王権 の最盛期 とされて きた シ ャルルマーニュ期 。ルイ敬虔帝期前半 においてす ら微妙 な力関係の上 に成 り立 っていた とされるのである。 い

)887年

の アルヌルフによるクーデ ター を導いた政治的危機 の要因 と してマ ク リー ンが強調す るのは,正妻 か ら生 まれ た跡継 ぎの不在 とい う要素 であ る, MacLcan,Ki4gs力″α “′Pa′′′'6s9pp.2341 肥 満王 に よる継承政策 については第5 章 と第6章に詳 しい ル′′,PP.123198. (6)wv Hartmann(ed.),Rι εみ′夕 “′Gθr′ε力′′″Kiκみι““ グWυ′r“″9θQ Minchen,2007. 〈7) v Hartmann,Kirε 力θ “"′ Kirc力θ “ rθε力 `““ 9θθ: グ′ιB`グ `“ ′ “ ″g′ `r sP′′たα rθJ′″― gisc力θ

“&′′ルr Tra′′ο“““グル″ονα′′0“ ′″ た′κ力′′ε力ι“RθちHannove島 2008,従来 の この時代 に対す る評価 とその見直 しについてはPP.16にまとめ られている。

(の この よ うな重力きはP Godman and R.Collins(eds.),C力 α rlg″

``“

(5)

144 論 文 期」 として理解 されが ちであったシャルルマーニュ期の評価 の再検討, さらにはカロリング期全体 の理解 における「上昇期」や「衰退期」といっ た従来の見解の見直 しの必要性 をも浮 き彫 りに している。 I。

(2)本

稿の 目的 本稿 はこの ような研究動向 を踏 まえた上 で

,9世

紀末∼10世紀初頭の 東西 フランク王国における集会の分析 を行 うものである。著者 はすでに 何度か

,初

期 中世の国制における集会の重要性 と従来の研究の問題点 に ついての指摘 を行 ったが(",その状況はこの時代 に関 して も変わ らない。 当該時代 の集会 を網羅的に扱 う研究 としては

,上

述の 2007年 の論文集 ルrsp`ε′Jν “0″ルι Rθ “ げLO“iSル `Piθs,Oxford,1990と 共 に始 ま り,その後 も矢 継 ぎ早 に多 くの研 究 が 出 され て い る。MI Gibson and I.Nelson(eds.),C力 αrJθs ′たθ BαJ′:εθ′r′α “グた ,4g′ο “,Aldershot,1990;J.Nelson,C力 α rr“′た `B′I′,London, 1992;E.Boshol Lタグ″なグ

`r Fro解″`,Darlnstadt,1996;G.Bthrer― ThierrァEν珍タタ`S ι′pθタッθ′rグα “ s lι ″ノ′ “ 解 `′θ Gιrttα′θ.L“Egrisas′ι Bαッ,0“ι′′`Sθ夕αbι.876-973, Paris,1997;B.Bigott,Lタ グッな ′θr Dθ “おθ力θ′“ ググセRι′εたsた ,r`みθ′解Osrfr′4た IS`力θ′

Rθ:θた(826-876),Husum,2002;R Fuchs und P Schmied(eds.),Kaisar Ar″θJ:′αS

οSウ物 ′た 'S`力 θ Rθ′εみα “E′ル ルs9.ル カルタ“グθrお,Minchen,2002;V〔 Hartmann,L“ グー ″な′ `r Dθ夕なεたらDarmstadt,2002;Idem(ed.),L“グ″な′`rD`夕rs`ヵθ““′sι′″`Zθ′′, Darmstadt,2004;IoE.Goldberg,Srr囃 `ノ br E″ρ "η :た '4gs力″′“ ′εοヴ ′ `′“ 4′♭r Lο “ is

ルι Gθγ″α″.817-876,New York,2006;R.Deutingeら Kσれなs力ιrrscみψ ′解Osウ′

4-た,scたθ “ Rθ:ε力.E“ `p″PFarisε ヵθv電″ss′姿口rSε力:εあた ルr spαセ “ K″oJ“rrz`:r,ostal_ dern,2006.こ の よ うな カロ リング後期 の再 評 価 の動 きはM.Innes,ルιЮん εr′ο “ "`′rly″`グ たναJ″θsたr″ι “ ropら3θθ-9θθ. Tみ `s″θd′Йθ PIo″gみα″グrたι bοοた,Lon―

don and New York,2007,p.494に ま とめ られ て い る。 なお,近年 は再 び ル イ敬 虔 帝 期 に 注 目が 集 ま っ て い る 点 が 指 摘 で き る,M.de Jong,24'た “′ ,αI S″惚. A“Йοrり α “′A′ο″ι ttθ “ ′:“ルι Aga q′Lο “'Sル `P,ο 夕s,814 840 Cambridge,2009;C. M.Booke島ルs′εο″ν′ιオ′0“s:ルθpθ″α″εθげLθ夕 'SЙ`P′ ο “s α4グルθルε :′″ `げ働θOЮ― J″ g'α “S,Philadelphia,2009.D.Eichlett Jレ タ″た′ sc力θ Rθ:ιみsν `rsα 解″ル4g`″ “″た rL“′― ″なルr Fr"爾θ″,HannoveL 2007はル イ敬虔 帝 時代 の集会 につ いての研 究 。また,

S.Esdersと P Depreuxを 中 心 と す る 国 際 プ ロ ジ ェ ク ト`PrOdukt市itt einer Krise:Die Regierungszcit Ludwigs des Frommen(814-840)und die Transformation

des karolingischen lmperiums'も 進 行 中で あ る。

O)初

期 中世 に お け る集 会 の重 要 性 の指 摘 と研 究 史 上 の 問 題 点 につ い て は,拙 論 「 カ ロ リ ング期 フ ラ ンク王 国 にお け る王 国 集 会 ・教 会 会 議― ピ ピ ン期 ・シ ャ ル ルマ ー ニ ュ期 を中心 に一 」,『 ヨー ロ ッパ 文化 史研 究』 第

H号

,2010年,pp.

(6)

9世紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

145

に収録 されたヘールによる教会会議の研究

,シ

ュ レーダーによる

9世紀

末以降の西 フランク王国の教会会議の研究

,ヴ

ェーバ ーによる東 フラン ク王国の王国集会の研究 を挙 げることがで きるが(Ю),いずれ も聖俗 いず れかの集会のみを対象に している点が問題である。筆者は,カ ロリング 王権の「最盛期」 とされて きた ピピン期 ・シャルルマーニュ期 を対象に した前稿 において

,聖

俗 の集会 を別 々に検討す るのでは当時の集会 シス テムを正当に評価で きないことを指摘 した。その成果 を再度まとめると すれば以下の ようになる。年 に1∼

2度

開催 される集会 には

,王

国内の 聖俗貴顕が参加 してお り

,聖

職者のみによる協議 (教会会議

)は

その よ うな年次の集会 (王国集会)の枠組みの中で行 われることがあ りえたが, 聖俗の集会は常 に明確 に分離 したわけではな く

,同

一の集会が複数の史 料 において異 なったイメージで描かれる事例 も少な くない。 この点にお いて「俗人 も参加する教会会議」 と「教会人 も参加するが教会会議 とは 呼ぶ に値 しない王国集会」の客観的な区別はこの時代 に関 しては存在 し ていなかった といえる。813年以降

,国

王 (皇帝

)の

指示 を受けて聖職 者のみが俗人を交 えずに教会会議 を開催す る事例が増大す るものの

,年

次の王国集会の枠内で行 われる教会会議 も引 き続 き見 られる。 また

,一

見すると前者のみが「真の教会会議」であるかの ように考 えた くなるが, 同時代の用語法においてはこの

2種

類の教会会議は厳密 に区別 されてい ない。synodusの 語 はシ ャルルマーニュ期後半以降,「聖職者のみに よ

(1°)E.Do Hchl,`Die Synoden des ostfrhkisch― deutschen und des westfrhkischen Reichs

im 10.Iahrhundert.Karolingische TraditiOnen und Neuansatzet vv Hartmann(ed.), Rθ

`み

′′

“グG`rittr i4(κヵθ夕“グツνしルタ“9θθ,pp.125-150,I.Schrё dett D′θ″“び″ 4-たなεЙθ s/″θ′θ″νο4 888 bた987“″グ,た″ “`″ ′ψr“4&Minchen,1980;Ho Weber9 Dた R`′εあsνθrsα″解JタィF“′ “οSt"ガ″た'SC力 ι "Rθ′ε力.84θ 918.,ヽヽ磋rzburg,1962.ま た, 教 会会議の分野については W Hartmann,Dセ 取 “οグθ″ルr ttral′"g`zθ′′′″Fra“たι 4-″ ε力 ““

グ,“fraliθ4,Paderborn―Minchen―Wien―Zurich,1989も有 用 で あ る 。 管

(7)

I不 論 文 る教会会議」だけを指す語へ と変化 してい くが,どの集会を「教会会議」 として描 くのかの基準は

,一

人一人の史料執筆者ごとに多様であ り続け たのである(11)。 この点を踏まえるならば,そ して例年開かれる集会には 聖俗の参加者がいたことを考えるのであれば

,同

時代の史料に現れる集 会を恣意的に「教会会議」 とそうでないものに分け

,そ

のいずれかのみ を分析 に対象 とする態度が妥当性 を持たないことは明らかである(10。 本稿の対象 となるのは

,ル

ー トヴイヒ独人王 とシャルル禿頭王の死か ら 10世 紀初頭まで(1の の東西フランク王国における「王国レヴェルの集 (11)ただ し,聖職者 のみの協 議 に叙述 史料執筆者が注 目し始 めるの もこの時期 であ り,これ らの点 において「教会会議」が聖俗 を交 えた例年 の王国集会 の 内外 で特 別 な位 置づ けの もの と して存在 感 を増 してい くこ とは事 実で あ る, 拙論 「 カロリング期 フラ ンク王国 における王国集会 ・教会会議」,pp.172178。 ル イ敬 虔帝期の集会 に関 しては上述 のアイヒラーの研究 に加 え,筆者 も博士 論 文第3章 pp.97108において網羅的な調査 を行 った。 (1" 本稿 では差 し当た り,聖俗 の参加者 を持つ集会 内部 で聖職者 のみが別個 に 協 議 を行 っている事 例 や年 次 の集会 とは別 に聖職者 のみが集 まるタイプの集 会 を「教会会議」 と呼ぶ こ ととす る。 (13)な,ルー トヴイヒ独 人王,シ ャルル禿頭王,ロタール1世とその後継者 達 の もとでの集会 につ いて は,筆者 に よる博士論文第3章pp.109130.ルー トヴ イ ヒ独 人王時代 に関 しては拙論「 ルー トヴイヒ独 人王 時代 における集会 の果 たす役割 につ いて」,『歴 史』 第HO輯,2008年にお い て も分析 したが, 博 士 論 文 において は よ り詳細 な再検 討 を行 った。上述 の ご とく本稿 も博士論 文pp.131137で行 った分析 を基盤 としている。10世紀初頭 まで を分析対象 と す る こ とにつ いて はW Hartmann,Dセ ッ “ο′θ“グθr Kα ror″rrzθ ir,pp.1亀 ハ ル ト マ ンは「(この時期以降

)か

つてシ ヤルルマーニユ とルイ敬虔帝の もとで まと まって いた王 国が完全 に別 々の道 を進 む ようにな り

,教

会会議 の領域 で も共 通 の カ ロ リング的伝統 が完全 に放棄 され, または変形 した」 と してい る。 こ の評価 の妥当性 については議論があるだろうが,909年 トロス リー教会会議(大 司教 区会議 であるため本稿 の分析 には含 まれてい ない)を西 フラ ンク王 国 に お ける カロ リングの伝統 を受 け継 いだ最後の教会会議 と見 なす見解が一般的 であ る点 に鑑みて この時期 まで を一つの まとま りとして研究対象 とす ること には一定の根拠が見いだせ る,W Hartmann,ル′グ.p.2;I.Schr6deL D′ι″ιり協 “ ― た,sε力θシ″οル″νο4 888 bた98Z P.3,p.14.も っともこの枠組みでは西 フランクに 関 して シ ヤルル単純 王 治世 の途 中で検 討が終 え られて しま うこ とになる。 ま た

,近

年 の研 究 にお いて は東 フラ ンクに関 して も,10世紀 中頃 まではカロ リ ング的伝統 に則 った教 会会 議 が 開かれ てい るこ とが指摘 され てい る,E.― D. Hehl,`D′θシ "0′θ“′“θ sち麟り “たFSCみ

dcutschen und des westfrhkischen Reichs im 10.

Iahrhundert'.さ らに,ハル トマ ンも2007年 の論文集 においては,850950年

(8)

9世 紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

147

会」 であ る。従来の教会会議 のみ を対象 とす る研 究 において は

,王

国 レ ヴェルの教 会会議 に加 えて大 司教 区会議や さらに小規模 の教 会会議 も対 象 とされて きた。 この よ うな様 々な レヴェルの教会会 議 を網羅 的 に分析 することは

,当

該時代の「教会」の活動 を明 らかにす るためには正当な 方法 と言 える。 しか しすでに確認 したカロリング期の集会のあ り方や, カロリング王権の統治行為 と教会が不可分であったことを考えるのであ れば,カロリング期の統治構造 を理解するための正当な視角 とはならな いだろう。本稿では

,当

時の集会のあ り方を明 らかに し

,王

権 による統 治行為のあ り方の一端 を解明す るための手掛か りをえるとい う目的に鑑 みて,聖俗 のいずれの集会であるか を対象決定の指標 とす るのではな く, 王国レヴェルの集会かどうかを指標 とする。従 って

,大

司教 区会議 よ り 下の レヴェルの教会会議は本稿 の分析の対象 には含 まれない(M)。 なお全 Idem(ed.),R`εみ′夕 “グGθr′′′″Kiκ力ι“だ14セrr夕解9θθ,PP.2fこれ らの時期 に関 し て,世俗 の「王 国集会」 を も含めて包括 的に検討す る作業 は今後 に残 された 課題 と言 える。

(14) T Bauc島 `Kbntinuitat und wandel synodaler Praxis nach der Reichsteilung von Ver― dun',A“ ““α r′ “″ 力,sゎr,αιεο″ε′J′Or“″23,1991,pp.2434は ,「王 国 教 会 会 議 」 “Reichssynode",「地 方 教 会 会 議 」“Partikularsynode",「 拡 大 大 司 教 区 会 議 」 “Erweiterte Provinzialsynode"な ど同時代 史料 に現 れない分析概念 を用 いて教会 会議 の類 型化 を試みてい る。 この ような類型化 の試み はバ ウアー以前 か ら伝 統的 に見 られ る ものであるが (W Hartmann,`Zu cinigen PrOblemen der karolin― gischen Konzilsgeschichte',A′

““αri夕ηl力isrοr,αθεο“ε′′′οr"解λ1977,pp.6f; T Baueち

`Kontinuitt und Wandel synodaler Praxis',pp.23fに ま とめ られて い る),大司教

区会議 よ りも上 の レヴェルの教会会議 をこの ような類型 に分 ける試 みが妥当 である とは思 われない。 シュ ミッツによれば

,教

会会議 の分野 につ いて,同 時代 に明確 なカテゴリとして存在 していたのは「大司教 区会議」だけであった,

G.Schmitz,`Cθ″ε′I′

“″pθζルε`““

・ウberlegungen zum Konzllsverstandnis HinLmars von Reims(845882)',ル お `み r′′θr sανセッ Sr夕 “暉 ルrR“ 力rsgascヵ′εみた,たα“θ“ ,sr― な6カι Aι″′:′661979,pp.2754.ただ し,カ ロ リング期 の大 司教 区会議 は王 国 レヴェルの集会でなされた意思決定 を在地に仲介す る役割 も担 っていため, 王権 の統 治行為 と完全 に分離 された ものではなか った,拙論「 カロ リング期 教会改革 のバ イエ ル ンにお ける展 開― ザ ルツプル ク大司教 アル ノ (785[798] 821)の時代 を中心 に一 」,『西 洋 史研 究』新輯 第34号,2005年,pp.77108。 この点 を考 えるな らば,大司教 区会議 はそれ 自体 と して一つの研 究 テーマ と な りうる可能性 を持 っていると言 える。 なお,本稿 の扱 う時代 にはI.Schrё derD

(9)

I委 論 文 ての集会 に王国全土か らの参加者がいたわけではないことは明白である ため

,対

象 とされる集会の選択 はある程度恣意的 にならざるを得 ないこ とを断ってお く(19。 本稿 で扱 われる集会 は

,1)年

代記中で言及 される か何 らかの決議文書や証書 な どか らその存在が分か り

,2)王

国 レヴェ ルの射程 を持 っている もの(10に限 られ

,極

めて限定的な地理的範囲か らの参加者のみ を持つ裁判集会の ような ものは本稿の対象外 となる。王 権主導の聖俗の集会のあ り方 を調査 し

,そ

れ以前の時代 との相違 を明 ら かにす ることで

,衰

退期 として考 えられて きたカロリング末期の統治構 造の一端 を明 らかにす ることが本稿 の 目的である。 Ⅱ。 ルー トヴィヒ独人王の死後の東 フランク王国における集会 Ⅱ。

(1)史

料 について カロ リング末期 の東 フラ ンク王 国の情 報 の大 部分 は

,フ

ル ダ年代 Dセッ “t解“ た 'S“ ιン4οグθ “νο4 888 bis 98Z P.6が指摘 す る ような,教会聖別や個 別 の問題 の処理 な ど在地 的問題 を処理す るため に大 司教 区の枠組 み を超 えて 司教 が集 まる事 例 も幾つ か見 られ るが,王権 の統 治行為 との関係性 の点 に鑑 みて分析の対象外 とした。 (15)先行研 究 で想定 されて きた「軍隊集会」,「貴族集会」,「宮廷会議」 な どの 概念 や,大小 二種類 の集会 の想定が カロ リング期 の集会 のあ りかた を正 当 に 理解 した もの とは言 えない ことはすでに前稿で明 らかに しておいた,拙論 「 カ ロ リング期 フラ ンク王 国における王 国集会 ・教会会議」,特に pp.132135,PP. 171175。 この知見 は本稿 において も再確認 され ることとなる。集会 を指す用 語が極 めて多様 かつ不統 一であ り,同時代 の集会 の規模 や カテ ゴリを示 す客 観 的 な指標 とな り得 ない こ とにつ いては筆者 の前稿 の議論 に加 え,同p.135 註13で挙 げ た文 献 を参 照。 た だ し本稿 の対 象 とす る時代 に関 して言 えば, synodusは 聖職者の教会会議のみ を指す語 として現 れていることは指摘 してお きたい。 (“

)本

稿 では史料 中で Placitum,conventus等の名詞で示 されている もののみな ら ず,国王が複 数の聖俗 の有力者 と会合 してい ることが推定 で きる事例 を幅広 く対 象 とした。

(10)

9世紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

149

記(1つ とその2つの継続(蟷)に 由来 している。集会 に関す る情報 はこれに 加 えて

,プ

リュム修道院長 レギ ノの年代記(り

),サ

ンベ ル タン年代記 。の , サ ンヴァース ト年代記 。1),Cο “ ′:4″α `′ ο Eκttα4bθrri1221にお いて も少数 なが

(1つ こ の 史 料 に つ い て は W Levison and H.Lё we(eds.),Dθ ′おε力

Jα″法G“ “ ′εか おタタιII`“ '解 ハイ′′ `θ

I′Ir`r yorzθ′′夕″′Karθι′

“Fr yI,Weilnaら 1990,PP・ 671-687, T ReuterD ttθ A″″αおげ動 物,Manchester and New York,1992,pp.114;本 稿 で はR. Rau(ed。 ),Q夕dlθ″z"rた′ror′′,sεぁθ″R`′εЙttθsε力′θたたIIムDarmstadt,1969,pp.19117

の 版 を使 用 し

,必

要 に応 じてR Kurze(ed。 ),A“″α豚 ル 物 S“.MGH SRC VIム

Hannoveち 1891も 参照 した。以下AFと して引用 す る。 (1の フル ダ年 代 記 は,882年以 降2種 類 の継 続 が作 成 され た。 一 つ は そ れ 以前 の 部 分 と同 じ環 境 下 で (おそ ら くマ イ ン ッで

)継

続 的 に執 筆 され た 部 分 で, 887年まで を扱 う もの (以下AF(M)), も う一 つ は882年以 降バ イエ ル ンで継 続 され た902年まで の もの (以下AF(3))であ る。 バ イエ ル ン継 続 は当初 レー ダ ンス ブ ル ク にお い て肥満王 の官 廷 (887年以 降 は ア ル ヌ ル フの宮廷)と結 び つ きを持 った人物 に よって執 筆 され,897年以 降 は ニ ー ダー ア ル タイ ヒ修 道 院 で さ らに執 筆 が継 続 され た と され て い たが,近年 で は ニ ー ダー ア ル タ イ ヒで の継続を否定する見解も見られる,T Reu掟 島動θス″ “αおげ動物,PP・69。 本稿

で はR.Rau(ed.),Q“ιlra“z夕rたαror″sεヵθ

"Rθゴε力sgasεあたレ IIムpp.116131(M), PP.130177(B)の 版 を 用 い

,必

要 に 応 じて R Kurze(ed.),ス “′α J“ル 物 s“. MGH SRG VIIも 参 照 した。 (1" レギ ノ年 代 記 は908年の プ リュ ムの レギ ノが ア ウ グス ブル ク司教 ア ダルベ ロ に献 呈 した もので ある。870年頃 まで の情 報 は しば しば客 観 的事 実 の誤 りを

も含 む もの とな って い る。 この 史料 に関 して はW Le宙son and H.Lёwe(eds.), Dθ

IscたIα″′sG“εみたあぉa“θIIθ″′″M″たIαIた■7orzι′′夕 “グ丞 Oroli″lFrン■ pp.901-904. 本 稿 で はR.Rau(ed.),Q夕ι:Jι “z“ rたαrorれ姿εた “ Rθ′ε “ “ ′ελたIュpp.182319の 版 を用 い,必要 に応 じてR Kurze(ed.),Ragi″ο

“,s abbα′Fs pr夕″′θ4sis c力 ro“′εθ“ ε “″ εO“′′ ““α′′θ“″たνθ““ s′.MGH SRG L,Hannoveち 1890も 参 照 した。以下 で は Regino と して引用す る。 しの サ ンベ ル タ ン年代 記 は主 と して西 フ ラ ンク王 国 の事 件 を叙 述 す る,882年 まで を カ ヴ ァーす る史料 であ り,861年以 降の叙 述 は ラ ンス大 司教 ヒ ンクマ ー ルの手によるものである。この史料については,.L.Nelson,動θα″′αrasげsr―

Bθrri″,Manchester and New York,1991,PP・ 119。 本 稿 で はR.Rau(ed.),Q“θllg″

z夕r肋湖 ′暉お油θ

“Rθ′εた,ys“′ε力た二Darmstadt,1969,pp.H287の 版 を用 い,必要 に応 じてG.Waitz(ed.),A“′ras Bθ rri″′α

“′ .MGFr sRGス HannoveL 1883も参 照 し た。 以下 で はA3と して引用 す る。 。1)874年 900年の 情 報 を伝 え るサ ン ヴ ァー ス ト年 代 記 につ い て はW Lcvison and H.Lё we(eds.),D`“ おεカル “法 G“εЙ′油 rsa“ `″ θ “′“ Mir″ル:″■7orz`′ r“ “グ KαrO― ′,4Fr y weimar91973,pp.535537を 参 照 。本稿 で はR.Rau(ed.),Q“ `IJa“ z“rたar― οι,4gis`力ιη Rα “ 響短みた力″二PP.290337の版 を 使 用 し

,必

要 に 応 じ てB.von Simson(ed。 ),ス ““ α:“Xα “″“ s“

`:A44αJ“砕ルs′′″′.MGH SRG XItt Hannove■1895

も参 照 した。 以 下 で はAyとして 引 用 す る。 (2" c。4″

““α′′

O Eκみα″bar`′は,『 カー ル大 帝伝』 を も執 筆 した ノ トケ ルス の手 に

(11)

150

論 文 ら見 られ る。ここで は これ らの史料 と幾つかの決議文書 を検討 した上 で, RcrS″ Impθtti1231を も参 照す る こ とで一定 の網 羅性 を確保す る こ とが可 能 となろ う。以下 で は時代順 に,史 料 に現 れ る集会情報 を検討 してい く。 Ⅱ。一

(2)ル

ー トヴィヒ若年王の死 (882年

)ま

での時期の集会 (表1) 876年のルー トヴィヒ独 人王の死後

,東

フランク王国は彼の

3人

の息 子の間で分割 され,カールマ ンが イタリア とバ イエルンを

,ル

ー トヴイ ヒ若年王が中部 ライン地方 とロー トリング ン

,ザ

クセ ンを,カール肥満 王が ア レマニアをそれぞれ統治す ることとなった。カールマ ンは879年 に病 ゆえに統治不能状態 とな り

,そ

の後バ イエ ル ンはルー トヴイヒ若年 王,イ タリアはカール肥満王が統治することとなる1241。 882年の若年王の死 までの時代 に関 して, フル ダ年代記の叙述の対象 は主 としてルー トヴイヒ若年王であ り

,必

然的 に集会の情報 も彼の もと で行 われた ものが中心 となっている。 この時期 のフルダ年代記の集会 に 関す る叙述は,独人王時代の後半部分で見 られたス タイルを取 ってお り,

generalis conventusな い しcolloquium cum suisと してほぼ毎年の集会が伝

え られている。参加者 についての詳細は記述 されてお らず

,聖

俗の参加 Dιッお `Й rα″法G“ε力た力お `夕 θJJθ4′″Mi′″″:た■フbrzθ′′ ““グ Kαro′,41rr yI,P・754.G.H. Perz(ed.),MGI Scrpゎ r′夕 “二 p.329亀 (23)J.R B6hmerand E.Mthlbacher(eds。 ),R鐵 `s″Impιr′′二Kαrol″rr:Rttsセ“ 751-918(924),Insbruck,1908;H.Zielinski(ed。),D′θ RcrSた “グ“ Rcrl“解frα′′αι “ηグ ルrb夕 "″ ′′sεル″R等 “,二 Kёln and Wien,1991.本 稿 の調査 においてはオンライ ン版hipプ/珊鵬regesta―imperii.de/を 使用 した (最終 閲覧 2010年 11月 30日)。

ただ し,年代 記 や決議文書 な どで言及 されてお らず,書簡や聖人伝 な どにお いてのみ間接 的 に存在が確認・推測で きるに過 ぎない王国集会・教会会議 は 分析 の対 象 に含 まれ てい ない。 これ らの史料 に現 れ る集会 に関す る叙 述 は, しば しば年代記 か らはえ られ ない生 き生 きと した内容 を含 んでい るため

,今

後の検 討課題 となる。 〈2の ル ー トヴ イヒ独 人王 とシ ャルル禿頭王死後 の政治 史の流 れについてはR.

(12)

9世紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

151

者 の分 離協 議 や 聖 職 者 の み の集会 の情 報 は伝 え られ て い な い もの の, ルー トヴィヒ独 人王 時代 の状況 か ら考 えて

,こ

れ らの集会 には聖俗 の官 職保有者・貴顕が集 まっていた と考 えて良いだろう。→。 この時期 に関す るフルダ年代記の叙述の特徴 としては

,王

国の相続 ・継承のための会合 にはconventusや colloquiumの語 を用 いず

,例

年の集会 とは異 なる もの として描 く傾 向 を指摘す ることがで きるが

00,878年

フロ ンFourons, 881年 ゴン ドレヴィルでの若年王 と吃音王,ルイ

3世の会合 。つはそれぞ

れcolloquiumと呼ばれている。 フルダ年代記 はこの時期肥満王の動向 をそれほ ど詳細 に記述 していな いため

,882年

以前の彼の集会 は他の史料か ら

2例

のみ明 らかになって いる。一つは880年ゴン ドレヴィルでの

3王

の会合で

,サ

ンベルタン年 代記 においてPlacttumと して伝 え られてお り1281, もう一つ は880年ラ 125)独人王時代後半 の状況 については,拙 論 「ルー トヴィヒ独 人王時代 におけ る集会の果たす役割 について」pp.68,pp.15fと博士論文pp.121123。 独 人王 時代後半 で は,870年レーゲ ンスブル ク,873年フラ ンクフル ト,873年アー ヘ ンでの集会 にそれぞれ聖俗の参加者が見 られた事が明 らかになっている。 。の この種 の もの と しては,独人王死後 の876年 リースでの王 国分割,西フラ ンク王 ルイ吃音王死後の 879年 ヴェル ダンでの西 フランクの聖俗貴顕 との ロー トリンゲ ン割譲 を巡 る協議,カールマ ン発病 後の879年バ イエル ンでのバ イ エル ン継承 を巡 る協議,880年リブモ ン トでの ロー トリング ン割譲の確認 と吃 音王の二人の王子 との和平締結が挙 げ られる。 。つ 878年フロ ンで は同盟が締結 され

,将

来 の継承 計画 も合意 された。 ここで

の合意内容 は A.Boretius and V kause(eds.),MGH Cη ′rタルr′α

“ P“Fra″εοr“解 二Hannove島1897,no.246,pp.168170.こ のテクス トはサ ンベルタン年代記で も引用 されてい る,AB,pp.270274.881年 の会合 については,その開催以上 の情報 は伝 え られていない。 。め サ ンベ ル タ ン年代記 に よると「 この集会 にルー トヴィヒ (若年二)は病故

に来 ることがで きず,代わ りに使節 を送 った」“Ad quod placitum Hludowicus,

inflrrnitate detentus,venire non Potuit,Sed Pro se miSSOs suos direxit'',Aユ p.280。 フ ル ダ年代記 は この会合 について,「ルー トヴィヒ (若年王)は… 自身の家臣か ら何人かの者 たち を, ゴ ン トレヴィルにい る彼 の甥た ちの使節 に対 して派遣 した…」“HludOwicus…・quosdam ex ndelibus suis ob宙 am legatis nepotum suorum

ad宙1lam Gundoln transmisit・ ・・"との み記 述 してお り

,ABと

は異 なってPlaci―

(13)

152

論 文 表1:ルー トヴイヒ若年二の死 (882年)までの時期の集会 史料名 集会 を指す語

参加者 についての情報 サ ンベルタン年代記 '' simul locuti " な し フル ダ年代記 レギノ年代記 "'convenientes "'convenerunt な し な し フル ダ年代記 generalis convenfus な し

フルダ年代記 co■oquium cum suis 貴顕・家臣 。∼人など

フル ダ年代記 generalis conventus な し

サ ンヴァース ト年代記

な し

な し

サ ンベルタン年代記 placitum,conventio 貴顕・家臣・∼人など

フルダ年代記

couOqui_

な し

Cap.N■

246 conventio

貴顕・家臣・∼人など

フルダ年代記 optimates eiusdem regionis貴 顕 。家臣・∼人など

ad se venientes サ ンヴァース ト年代記

な し サ ンベル タン年代記

な し な し 聖俗の参加者 サ ンベルタン年代記 "loqui perrexerunt な し フルダ年代記

な し

な し レギ ノ年代記 omnes optimates…

貴顕・家臣・∼人など confluentes Continuatio Erchanberti Cap.N■ 236 conventus な し 聖俗の参加者 聖俗の参加者 サ ンヴァース ト年代記 サ ンベル タン年代記 フル ダ年代記 レギノ年代記

regesin unum conveniunt な し

な し

な し

mios Hludowici ad se な し venientes

(14)

9世紀末∼10世 紀初頭 の フラ ンク王 国における王 国集会 ・教会会議

153

ヴェ ンナでの イ タリア王 と しての戴冠 で

,0“

′′ ““α″ο Ercみα "bι r′′にお い て司教

,伯 ,そ

の他 イ タ リアの貴 顕 を前 に して conventusが 行 われた と されてい る。 "。 Ⅱ.―

(3)カ

ール肥満王の元 での集会 (表2) 882年に若年王は死亡 し

,東

フランク王国全土 とイタリアを肥満王が 単独で統治する時代が訪れ る。 この時期 に関 して,フルダ年代記のマイ ンツ継続

,バ

イエル ン継続 はそれぞれ彼の集会 をほぼ毎年伝 えている。 これ らの集会 は様 々な語で呼 ばれてお り

,マ

イ ンツ継続 はPlacitumを 2

度, colloquiumを 5度, collocutioを

2度

, cum suis ndelibus consiliatusを

2度

用 いてお り

,バ

イエル ン継続 はPlacitum(generale)を

4度

,conven― tus(generalis)を 4度,colloquiumを 1度伝 えている。 ここでは

,2つ

の 史料 で同一の集会が言及 されている事例が多いことか ら

,そ

れ らの用語 1291 G.H.Perz(ed.),MGH Sε ″ わriツ “二P.329.肥満 王 の ラ ヴ ェ ンナ で の戴 冠 に つ い て はH.Zielinski(ed.),D′ `Rtts″グθS Rq“““Iral′αθ““ググ`rb“rgy"グおεたθ4 R磐 “α,二no.600f;MGH α

,二

no.236,pp.138140。 また,ルイ吃音 王 の死 後 879年10月 に オ ル ブで行 われ た カー ル肥 満 王 と吃音 王 の 二 人 の 息 子 の 間の会 合 は,サンベ ル タ ン年 代 記 にお い て集会 を示 す 名 詞 を用 い る こ とな く叙 述 さ れ て い る。 表1:つづ き 史料名

集会 を指す語

参加者 についての情報 サ ンベルタン年代記 フルダ年代記 placitum な し な し

フルダ年代記 couOquium curn suis 貴顕 。家臣・∼人など

(15)

154

論 文 表2:カール肥満王時代の集会 (882年 以降) 集会 を指す語

参加者 についての情報 史料名 フルダ年代記 (バイエル ン継続) フルダ年代記 (マインツ継続) Placmm generde 貴顕・家臣 。∼人など cum suis cons」 iatus est 貴顕・家臣・∼人など

サ ンベルタン年代言己

placttum suum

な し

フルダ年代記 (バイエル ン継続

)Placttum

俗 人に言及 (詳細不明)

フルダ年代記 (マインツ継続

) Placitum

な し

フルダ年代記 (バイエル ン継続)conventus な し

フルダ年代記 (マインツ継続) cum suis ndelibus 貴顕 。家臣・∼人など

cons」iatus est

フルダ年代記 (バイエル ン継続)generdis conventus な し フルダ年代記 (マイ ンッ継続) colloquium cum suis 聖俗の参加者

フルダ年代記 (マインツ継続) placitum な し フルダ年代記 (バイエル ン継続

)colloquium

貴顕・家臣・∼人な ど フルダ年代記 (マイ ンツ継続

) colloquium

な し フルダ年代記 (バイエル ン継続)generdis conventus 俗人に言及 (詳細不明) サ ンヴァース ト年代記 フルダ年代記 (バイエル ン継続) レギノ年代記

omnes・…ad eum venerunt な し optimates―・eum (Carolum)in宙tant 顕   顕 顕 貴   貴 貴 家臣・∼人など 家臣・∼人など 家臣・∼人など

フルダ年代記 (マインツ継続) colloquium cum suis 貴顕 ・家臣・∼人など

フルダ年代記 (バイエル ン継続

)Placitum

な し

フルダ年代記 (マインツ継続) couOcuti。

聖俗の参加者

(16)

9世紀末∼10世紀初頭 の フランク王 国にお ける王 国集会 ・教会会議

155

表2:つづ き

史料名 集会 を指す語

参加者 についての情報

フルダ年代記 (マインツ継続) conOquium cum suis な し

フルダ年代記 (バイエルン継続)Placnum

フルダ年代記 (マインッ継続) colloquium cum suis

俗人に言及 (言羊細不明)

貴顕・家臣・∼人 な ど

フルダ年代記 (バイエル ン継続

)な

聖職者 に言及 (詳細不 明)

フルダ年代記 (マインツ継続) cum suis conlocutio 聖俗の参加者

レギノ年代記

contio

聖職者 に言及 (詳細不 明) フルダ年代記 (バイエル ン継続

)な

貴顕・家臣・∼人 な ど フルダ年代記 (マインツ継続) optimttes… ad se 貴顕・家臣・∼人 な ど venlentes レギノ年代記 conventus generdis 貴顕・家臣・∼人 など 法 と実際の集会 との関係をさらに検討することが可能である。マインツ

継続に現れるcum suis consiliatusは , この時期以前の史料には見 られな

い表現であ り

,比

較的小規模な集会を推測 させる言い回しである。 しか しマインツ継続がこのような語を付 している 882年5月のヴォルムス集 会 には王国全土か らの非常に多 くの参加者が集 まったと述べ られてお り,さ らにバイエルン版でplacitum generaleと 呼ばれていることか らも, 必ず しも例年の集会 とは異なる小規模のものを指すと考える必要はない だろう。の。また

,用

語法の比較を行 うことで,こ れらの様々な語が必ず

00

ここでは「全土から集 まった家臣たちと協議 を行った」“cum suis undique

venientibus consiliatus est"と あ り,さらに「多 くの州から非常に多 くの者たち

がそこに来た…。 フランク人,バイエル ン人,ア レマニア人,チュー リング ン人,ザクセ ン人が来ていた」“…convenerunt de diversis pr市 intiis宙riinnumera‐ biles...hoc est Franci,Norici,Alamallni,Thuringii atquc Saxones."と され てい る,

AF(M),p.H6.AF(3),P.132に は,「5月に ヴ ォル ム ス で彼 の兄弟(ルー トヴ イ

ヒ若 年 王

)の

王 国 の貴 顕 を うけ入 れ て,一般 集 会 を 開 催 した 」“・…placitum

(17)

156

論 文

しも客観的な集会の類型の違いを示 していないことが明 らかになる。例

えばマ イ ンツ継続 でcolloquiumと 呼 ばれてい る5つの集会 は

,そ

れぞ

れバ イエル ン継続でgeneralis conventus(884年 コルマール),colloquium

(884年Mons camianus),placitum(885年 フラ ンクフル ト

,887年

ヴ ァ

イビリング ン

)と

多様 な語で呼 ばれている。逆 にバ イエル ン継続4つの

Placitumも ,マインツ継続ではcum suis ndelibus consiliatus(882年 5月ヴォ

ルムス),placitum(882年

H月

ヴォルムス),collocutio(885年 ヴォルム

ス),colloquium cum suis(887年 ヴ ァイビリング ン

)と

多様 な語 ととも

に言及 されている。 これ らの集会の間には当然参加者集団の規模や扱わ れる問題 などにおいて様々な違いが存在 したであろうが

,ど

の ような語 で言い表 されているにせ よ

,同

時代人によって王国集会 として理解 され る可能性 を持 った ものであった と考えて良いだろう。 集会の参加者 についての情報 はそれほど多 くはないが01),これ らの集 会 に聖俗の官職保有者・貴顕が参加 していることを推測 させ る事例がい くつか見 られ る。884年コルマール集会か ら司教

,修

道院長

,伯

が辺境 防衛のために派遣 された0カ との記述が見 られる し,885年ヴォルムスで

,西

フランク王位 も獲得 した肥満王が西 フランク王国の司教 。伯たち と協議 を行 った ことが述べ られている1331。 また 887年 キルヘ ンにおいて もヴェルチ ェ リ司教 リウ トヴァル ドゥスか らの官職剥奪が行われている ことか ら

,一

定数の高位聖職者が臨席 していたことが推測で きるい 。 Maiarum."と ある。 ●1)この時期 の集会 に関す る参加者情報 は,「家 臣 とともにcum suis」 や「貴顕 optimates/Primores」 等の語でのみ示 されることが一般的である。 (32)AF(M),p.120. (33)AF(M),P.126.

0→ AF(3),p.144;AF(M),p.130.開 催 地 はAF(3)にお い て は “villa Chirih―

heim",AF(M)においては “Kirihheim"と されてお り, この地名が現在 の どこ を指すのか については議論がある,J.R Bёhmerand E.Mthlbacher(eds.),Rcrs″

(18)

9世紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

157

Ⅱ。

(4)ア

ルヌルフの元 での集会 (表3) 887年のカール肥満王の罷免 と

,カ

ールマ ンの庶子 アルヌルフによる 東 フランク王就任 とともに,フルダ年代記のマインッ継続の叙述 も終了 す るため,アルヌルフの もとでの集会 を伝 える年代記 は主 としてフルダ 年代記バ イエル ン継続 となる。 この時期 に関 しては

,ア

ルヌルフが クー デ ター を成功 させ た887年トリブル集会 (レギ ノ年代記のみがconven_ tus generalisと 呼 んでいる

)以

,ほ

ぼ毎年集会が開催 された ことが史 料 中に記録 されている。 フルダ年代記バイエル ン継続で集会 を指 して用 い られる用語はconventus,Placitum,co1loquiumな どであるが

,肥

満王 の 所 で見 たように,これ らの用語の違いは必ず しも客観的な集会の規模 。 性質の違いを示 してはいない と考 え られる。例 えば888年ヴォルムス集 会 は

,サ

ンヴァース ト年代記 においてPlacitumと 呼 ばれているが,フル ダ年代記 バ イエ ル ン継続 はconventus,Placitumな どの語 を付 してい な い。→。 ここか らも

,あ

る集会 をどの ように見なすか,どの ような語で呼 ぶかは年代記執筆者 ごとに多様であったことが分かる。 フルダ年代記バ イエル ン継続においては,参加者 に関する情報は「 フランク人」Franci(889 年 フォル ヒハ イム,889年フランクフル ト

)な

どと言及 されるのみであ り

,聖

俗の参加者の存在や彼 らが別 々に協議する事例 は

,記

録 されてい ない。 しか しこの時期に関 しては

,他

の年代記の情報か ら,これ らの集 会 に聖俗の参加者が集 まっていたことが明 らかになる。888年ヴォルム

Impθ riほ Kαdれrri R駕雰セ″751918(924),no.1749a.こ こではR Kurzc(ed.),

A4″αr“ル′ル4S“,p.106にならってバーゼル近郊のキルヘ ンKirchenと した。 (3⇒ Ay p.316319;AF(3),p.146.こ の集会では西 フランク王 ウー ドが聖俗の 貴顕 とともにアルヌルフの前に現れて忠誠を約束 し,同盟が締結 されている。 フルダ年代記バイエルン継続はウー ドとアルヌルフの会合については伝える ものの,conventus,Placitum,colloquiumな どの語を用いてお らず,例年の集会 とは異なる機会であったかのように記述 している。

(19)

158

論 文 表3:アルヌルフ, ツヴェ ンテ ィボル ド,ルー トヴィヒ幼童王時代の集会 史料名 集会 を指す語

参加者についての情報 フルダ年代記 (バイエル ン継続

)な

貴顕・家臣・∼人など フルダ年代記 (マインツ継続) optimates・…ad se 貴顕・家臣・∼人など venlentes レギノ年代記 conventus generdis 貴顕・家臣 。∼人など フル ダ年代記 (バイエル ン継続

)…

receptiS Primoribus 貴顕・家臣・∼人など 決議文書 conventus,synodus 聖職者のみの集会 フル ダ年代記 (バイエル ン継続)generdis conventus な し サ ンヴァース ト年代記

Placnum

フル ダ年代記 (バイエル ン継続

)な

し 聖俗の参加者 な し フルダ年代記 (バイエル ン継続

)な

し 貴顕・家臣・∼人など フルダ年代記 (バイエル ン継続)generdis conventus 貴顕・家臣・∼人など フルダ年代記 (バイエル ン継続)Plac責um 貴顕・家臣・∼人など フル ダ年代記 (バイエル ン継続)generdis conventus 俗人に言及 (詳細不明)

フル ダ年代記 (バイエル ン継続)colloquium cum suis 貴顕・家臣 。∼人など

証書

synOdus

聖職者のみの集会 フル ダ年代記 (バイエル ン継続)couoquium な し サ ンヴァース ト年代記

な し

貴顕 。家臣 。∼人など フル ダ年代記 (バイエル ン継続)generdis conventus な し レギノ年代記 conventus publicus, 聖俗の参加者 placitum フルダ年代記 (バイエル ン継続)magnus synodus レギノ年代記

synOdus magna

Cap.N■252 synodus,concilium, 聖職者のみの集会 聖職者のみの集会 聖俗の参加者 (分離)

(20)

9世紀末∼10世紀初頭 の フランク王 国における王 国集会 ・教会会議

159

表3:つづ き 史料名 集会 を指す語

参加者 についての情報 サ ンヴァース ト年代記 フルダ年代記 (バイエル ン継続) レギノ年代記 placitum conventus publicus 顕 顕 顕 貴 貴 貴 家臣・∼人な ど 家臣 。∼人な ど 家臣 。∼人など フルダ年代記 (バイエル ン継続)generalis conventus な し フルダ年代記 (バイエル ン継続)generdis conventus な し フルダ年代記 (バイエル ン継続)placttum レギノ年代記 Plackum,couoquium 貴顕 。家臣・∼人な ど 貴顕・家臣・∼人な ど フルダ年代記 (バイエル ン継続)generalis conventus な し 証 書 Placitum generale 貴 顕 ・家 臣 ・∼ 人 な ど nostrum レギノ年代記

coloquium

聖俗の参加者 フルダ年代記 (バイエル ン継続

)Placttum

貴顕・家臣・∼人な ど フルダ年代記 (バイエル ン継続

)な

な し レギノ年代記 PrOceres et optimates 貴顕 ・家臣 。∼人な ど …・ln unun■ congregati フルダ年代記 (バイエ ル ン継続)generdis Placnum 聖俗 の参加者 証 書 generdc Placitum 聖俗の参加者 レギノ年代記 conventus generdis 貴顕 。家臣・∼人など レギノ年代記 publicus conventus な し

(21)

16o 論 文 ス に聖俗 の貴顕が集 まったことがサ ンヴァース ト年代記で言及 されてお り

,

レギ ノ年代記 は894年ヴ ォルムス に司教 と伯が集 まった としてい る(36)。 アルヌル フの もとでは聖職者のみの協議が行 われた事例 も見 られる。 フル ダ年代記バ イエル ン継続でcolloquiumの 開催が伝 えられている890 年 フ ォル ヒハ イムでは

,マ

インツ大司教

,ケ

ル ン大司教 と 14人 の司教 たち (ト リーア大司教 区

,ザ

ルツブルク大司教 区の属司教3名 も含 む) が synodusを も開催 していたことが

,一

通の証書 に記録 されている●つ。 また

,895年

トリブル集会 は

,レ

ギ ノ年代記, フル ダ年代記バ イエルン 継続 の中で聖職者 のみの教会会議 として言及 されてお り,synOdusと し て明確 に他の集会 とは別種の もの として扱 われている1381。 この集会か ら は経過 を詳細 に伝 える決議文書 も残 されている。"。 そ こか らは,813年 や847年のマインツでの集会 (教会会議

)の

際 に も見 られた 3日 間の断 食が集会 の前 に行 われたこと

,高

位聖職者 たちが協議 を行 っている間, 世俗 の貴顕 とともに国王が別室で協議 を行 っていること

,双

方の間を何 人かの代表が行 き来 して情報交換が行 われていること

,両

部会の協議の (36)Ay p.316;Regino,P.300. (37)M.stimming(ed。),M′ ′zgr urた “ル“b“ιカムDarmstadt 1932,no.171,pp.104-106;マ V Hartmann, `Kαisιr Ar″θグ

“″ググた

Kiκみθ',R Fuchs und P Schmied(eds。),

Kαis`r Ar″οr,PP.221252,こ の synodusに ついてはP.242.この証書 においては,

臨席 した大 司教,司教,修道 院長 た ちが, ノイエ ンヘ ールゼ女子修道院の権 利 と財 産 を確 認 し,署名 を行 つてい る。「890年」 とい う以上 の正確 な 日付 の 陳述 が 欠 けてい るため,厳密 には フル ダ年代記バ イエ ル ン継続 に記録 されて い るcolloquiumと 同 じ時 に開催 された こ とは確 実で は ない。 しか しアルヌル フの王宮 フォル ヒハ イムに,王と無 関係 に これほ どの規模 の高位聖職者が集 まる こ とは考 えに くいため,colloquiumの際 に聖職者のみの協議 も行 われた と 推測す るのが 自然 であ るように思 われ る。 1381 AF(3),P.162;Regino,p.302.た だ しレギ ノ年代記 は「多 くの世俗の者たち

に対 して大教会会議が開かれた」“contra plerosque seculares sinodus magna cele―

brata est"と の文言 を含 んでお り,世俗 の集会 も開催 された ことを思 わせ る叙

述 にな ってい る。

(22)

9世 紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

161

後 に聖俗 の参加者が合 同で協 議 を行 ってい る こ とな どが明 らか になって い る●0。 3日間の断食 は

,例

年 の王 国集会 の度 に行 われた とは考 えに く いため

,こ

の集会 は例年 の もの とは異 なる

,宗

教 的要素が 強 く打 ち出 さ れ た ものであ った と考 え られ る。 それ故年代記 にお いて は synOdusと し て

,他

の集会 とは別種の もの として現れているのであろう。 ここでは高 位聖職者のみの部会 と俗人の部会 は別室で行 われていた ものの

,双

方が 完全 に分離 されていたわけではない という点が重要である。叙述史料で の描かれ方は大 きく異なっている ものの

,参

加者の構造のみに注 目する のであれば, この集会 も基本 的 に年次の王国集会 と変 わ らない もので あつたことが分かる。この点 において

,例

年聖俗の貴顕 を王国集会 に集 め

,必

要 に応 じて聖職者のみの部会 を開催 させ るとい うカロリング期 を 通 じて観察 される慣行は

,ア

ルヌルフ時代 になって も変わ らず継続 して いるとい うことがで きる(41)。 “ の 肪 ′.,pp.210213.こ の ような経過 に関 しては W Hartmann,D′ θシ “οル“グθr 焔 “′′4rrzθ′′″Fra“ル“ ″′εカタ4グ′ “ Irariθ4,pp.7fも 参照 の こ と。 た だ し, この 895年トリブル集会 に属す る決議文書 は複数のヴ ァージ ョンで残 されてお り , ポ コルニーの新説以来,いわゆる「 ウルガー タ版」 において詳細 に記述 され てい る集会 の経過が実際 に行 われた業務 を反映 しているのか については見解 が う)かオt‐Cい る, R.Pokorny9`E》 ie drei Versionen der Triburer Synodalakten vOn

895.Eine Neubewertung',Dθ 夕rsεヵ

“Aκ

ヵ′νルr ErJOrs`み

“4gグθs Miまたレ′″rs 4&1992, PP.4295H;ポ コルニーの見解 に反対 す る もの と して,W Hartmann,`Kaiser

Arnolf und dic Kirche',pp.245-251; Ideln,`Original und Rekonstruction eines

Archetyps bei den sPatkar。 lingischen Konzilsakten',B.Merta et.al.(eds.),7o“ N“′―

zθ″グιs Eグた″″s2005,Munchen,PP.7789,特にpp.8588。 ポ コルニーの新説ヘ の言及 はない ものの,この問題 は,C.Car011,`The Last Great Carolingian Church

Council:the Tribur 895,ス “ ″ “ αι′ ““ Hisゎriα `Cθ″`′ :′θr“″33,2001,pp.925で も扱 われてい る。いずれの見解 を採用す るにせ よ,895年 トリブルで アルヌル フの もとに聖俗 の貴顕が集 ま り集会 を開催 したこと,聖職者 のみの部会が 開催 さ れた ことは間違いない もの と思 われる。 “ 1)この ような王国集会 において聖俗 の参加者が別 々に協議 を行 う慣 行 は ,お そ ら くカ ロリング初期か らす で に存在 していた と考 え られるが

,叙

述 史料 に 明確 に現 れて くるのはシャルルマーニュ期末以降である。 この点 については, 拙論 「 カロ リング期 フランク王国における王国集会 ・教会会議」。

(23)

162

論 文 アルヌルフ時代か らは

,年

代記 に現れない聖職者のみの集会の決議文 書 も残 されている。888年6月 のマインツ教会会議では

,マ

イ ンッ

,ケ

ル ン

,ト

リーアの大司教 とその属司教がアルヌルフの指示 を受けて集 ま り

,全

26条の決議 を作成 した1421。 この集会 にはバ イエルン (ザルツブ ルク大司教 区

)の

司教 たちは集 まっていないために,フルダ年代記バ イ エル ン継続 において言及 されていないのであろ う。887年 のクーデ ター の後

,東

フランクにおける権力の安定化が必要 とされているこの時期 に 聖職者の教会会議 を開催 している とい う点 は

,ル

ー トヴイヒ独 人王 の 847年以降の一連の教会会議 を初め とす る他の カロ リング家の君主 に典 型的に見 られた慣行 を思わせ る。年代記史料 は, この年の 6月 にアルヌ ル フが フランクフル トで集会 を開催 したことを伝 えているが,これがマ イ ンツの聖職者のみの集会 と並行 して行われたのか

,そ

れ ともマインツ にそ もそ も聖俗の貴顕が集 まってお り

,フ

ランクフル トに移動 して再 び 集会 を開催 したのか,フランクフル トの集会 においてマインツに教会会 議 を召集 したのか を判断 させ るような情報 は残念 なが ら存在 しない。 Ⅱ.―

(5)ツ

ヴェンテ ィボル ド

,ル

ー トヴィヒ幼童王の元での集会 (表3) 899年にアルヌル フが没 した後

,彼

の支配 していた領域は

,彼

の追、子 ッヴェンティボル ド(庶子,895年 よリロー トリング ン王)と ルー トヴイ ヒ幼童王 (899年

9H年

,東

フランク王

)に

引 き継がれる。東 フランク 王 国において もこれ まで見て きた ような集会が開催 され続 けた ことが, 年代記や証書か ら明 らかになっている。 また

,901年

レーゲ ンスブルク (42)

f. D. Mansi (ed.), Sacrorum Conciliorum Nova Amplissima Collectio )Uill, Firenze,

1773,pp.62-76; W. Hartmann, Die Synoden der Karolingerzeit im Frankenreich und in

Italien, pp. 361-363; W. Hartmann,'Kliser Arnolf und die Kirche', pp. 138-140, pp.

(24)

9世紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

163

のgeneralis Placitumの事例では

,パ

ッサ ウ司教 と伯がモラヴイアに派遣 されていることか ら

,依

然 として この種の集会 には聖俗の参加者がいた ことが分かる1431。 901年にフルダ年代記バ イエル ン継続の執筆が終了 し て以降

,年

代記 中の集会情報 は レギノが伝 える2つのみ となるが

,903

年 にフォルヒハイムで聖俗の参加者 を持つ集会が開催 されたことが証書 か ら明 らかになっているため, この時期 になって も集会慣行 自体 には大 きな変化がなかった と推測 して良いだろう(“)。 Ⅱ.―

(6)東

フランク王国の状況のまとめ ルー トヴィヒ独人王の死後の東 フランク王国において も

,聖

俗の参加 者 を持つ集会がほぼ毎年開催 されるとい う

,カ

ロリング期 を通 じてみ ら れた集会の構造が維持 された と考 えて良いだろ う。 また,「王 国集会」, 「貴族集会J,「小集会」な どの先行研究が しば しば想定 して きた集会類 型が

,同

時代史料か らは検 出されない とい う点 も, カロリング期 を通 じ てみ られた状況 と同 じである。年代記 において集会 は様々な語で呼び現 されているが

,複

数の史料 における言及 を突 き合 わせ ることで

,そ

れ ら の差異が集会 の客観 的な差異 を必ず しも示 していないことが明 らか に なった。 本稿の調査の対象 となった,876年 か ら911年までの35年間の間には, 888年マイ ンッ

,890年

フォル ヒハ イム

,895年

トリブル とい う

3度

の (43)AF(3),p.176.

“→ J.R Bёhmerand E.Mihibacher(eds。 ),Rcrs″ Imp`riほ 焔918(924),no.2004f;T Schieffer(ed.),MGH Dセ rar″rr:RcrSセ751 urた ““ル“ z,νθ “′ ibθI法 “ ″グL“′― ″警 ′ “ Ki“グ●Berlin,1960,no.20,pp.125-127.又 , ツ ヴ ェ ンテ ィボ ル ドに よる

898年ア ー ヘ ンで の Placitum nOstrumも 証 書 中 で 伝 え られ て い る,ルiグリnOS. 1921,PP.5157;I.R Bё hmer and E.Mthlbacher(eds.),RcrS″ ルψθr′ほ KαrO―

(25)

164論

文 教 会 会 議 の存 在 が知 られ て お り

,888年

と895年か らは カ ロ リ ング期 に 典型 的 に見 られ た教会改革 的 内容 を含 む決議文書 も残 されて い る。また, これ らの集会 は

,史

料中で も他 の集会 とは異 なる synOdusの 語 とともに 言及 されている。その他の集会 に も

,聖

職者の参加者が集 まっていた痕 跡 は見 られるものの

,叙

述史料や決議文書

,証

書 において例年の集会 と は異 なる「教会会議」の ようなイメージ とともに描かれる集会 はこの3 例 のみ となっている。 ハ ル トマ ンは

,東

フランク王国において

9世紀末 に教会会議活動が非

常 に活発 になるとい う点 を強調 しているが

,そ

の際に彼が言及する教会 会議 は上述の3例以外全 て大司教 区会議であ り1451,王国規模 の射程 を 持 った教会会議 に限定す る場合

,そ

の数はカロリング期の他の時期 と比 較 して も目立 って多いわけで はない点に注意が必要であるにの。確かに, ルー トヴイヒ独人王死後のルー トヴイヒ若年王の死 までの時期か らこの 種の教会会議が検 出されない点1471,ヵ

_ル

肥満王の晩年以降大司教区会 議の痕跡が増大 し始める点 は大いに注 目すべ きであ り

,今

後 さらなる検 討が必要 であろう。 しか し

,本

章で検討 した全ての時期 に

,ほ

ぼ毎年王 国集会が開催 され続けていることを忘れてはならない。聖職者が俗人有 力者 とともにほぼ毎年王の もとに集 まる

,そ

こでは しば しば必要 に応 じ て聖職者 のみの部会が組織 され

,決

議文書が作成 される

,そ

れ とは別に “ ⇒ WヽこHartmann,D′θシ″θ′θ “ ′θr Kα ror″rrzιfち

P・359f;Ide恥 `Kαisθr Ar″ OIJ夕

“′′′ι Kirc力 `',P.2381 にの 例 えば王 国規模 の射程 を持 った聖職者 のみの教会会議 (又は王 国集会 にお け る聖 職者 の部会)と して史料 中 に明確 に現 れ る事例 は,ルー トヴイヒ独 人 王 の37年の治世 (840年 ∼876年)に関 して,847年マ インツ,848年マインツ, 852年マ インツ,868年ヴ ォルムス,870年ケル ンの5例を挙 げることがで きる。 1471 w Hartmann,Dた “θグ“′ar Karor,4rrza′ちpp.493495の教会 会 議 一覧 を見 る限 り, この時期の東 フラ ンク王 国で は大 司教 区会議 の開催 に関す る情報 も 存在 しない様子である。

(26)

9世 紀末∼10世紀初頭のフランク王国における王国集会・教会会議

165

聖 職者 のみが王 の指示で教 会会 議 を組織 す る こ とも しば しば見 られ る。 このようなカロリング期を通 じて観察された状況は

,ル

ー トヴィヒ独人 王死後の東フランク王国においても全体 として維持されていたと結論す ることができる1481。 Ⅱ

I.シ

ャルル禿頭王の死後の西 フランク王国における集会 ⅡI。

(1)ル

イ吃音王の元 での集会 (表4) 877年に死亡 したシャルル禿頭王の後 を継いだルイ吃音王の短い在位 (877年 ∼879年

)か

らも,集会の情報が残 されている。877年コンピエー ニュのconventusには

,司

,修

道院長

,全

ての貴顕が参加 したことが, サ ンベルタン年代記で伝 えられている1491。 また,すでに上で述べたよう に878年フロンでのルー トヴィヒ若年王 との会合 はフルダ年代記におい て colloquium,サ ンベルタン年代記 においてPlacitumと して言及 されて お り

,共同で発布 された

8条のカピ トゥラリアも伝 え られている60。

,878年

トロワは司教たちの集会 (generdis synodus cum episcopis/con…

ventus episcoporum)が 開かれた こ とがサ ンベ ル タン年代記 で伝 え られ てお り

,同

時に世俗貴顕 も会合 を行 っていたこと

,そ

の間国王が司教 の 集会 と世俗貴顕の集会 を行 き来 していた ことな どが詳細 に描かれてい 1481 先行研究 は, カロリング的 な伝統 に従 らた教会会議の開催 と決議の作成は 10世紀 中頃 まで見 られ る こ とを指摘 している (註13を 参照)。 本稿 が扱 った 時代 以 降 に関 して も,教会会議 のみ を対 象 とす るのではな く,年次 の王 国集 会 を も包括 的に分析することが必要 となろ う。 1491 AB,p.254261.ここではルイ吃音王 の戴冠が行 われ,司

,修

道院長,王 国の貴顕,王の家臣がそれぞれ托 身 を行 った と伝 え られている。托 身の際の 文言 はサ ンベル タンに も収録 されてお り,さ らに 属 H Cap.二 nO.283,pp.363 365;no.304,pp.461fに おいて刊行 されている。

(27)

166

論 文 る。1)。 これ らの事例か らは,聖俗の参加者 を集め,それぞれが並行 して 協議 を行 うとい う

,カ

ロ リング期 を通 じて しば しば観察 された集会の構 造が未だに維持 されていることが明 らかになっている。 ⅡI。

(2)吃

音王死後の西 フランク王国にお ける集会 (表 4) 879年のルイ吃音王の死後

,ボ

ゾによる王位獲得の試み とその挫折 を 経て,西 フランク王国は吃音王の二人の虐、子,ルイ

3世

(879年∼882年) とカルロマ ン (879年 ∼884年

)に

よつて統 治 され ることとなる。ルイ

3世

の もとで集会 を意味す る名詞 とともに記述 される集会は,カール肥 満王,カ ルロマ ンとともに開催 した880年ゴン ドレヴィルのPlacitum, 881年ルー トヴイヒ若年王 とのゴン ドレヴィル colloquium,881年 フイー ムでの synodusの

3例

である●0。 カルロマ ンの もとでは

,年

代記 におい て この種 の語 とともに伝 え られる集会 は一切見 られない ものの,882年 ω Aユ pp.260269.教皇 自身 も参加 した この集会 を,ヒ ンクマールは一貫 し て教会会議 synOdusと して描いているが,彼の叙述 は世俗貴顕 も トロワに集 ま り協 議 を行 つてい た こ とを推測 させ る もので あ る。 この集会 の経過や背景 に 関 しては W Hartmann,D′`シ″θル4ルrttЮ ′″FrZθ′′′″Frarたθ “ ″′働 夕″グ′ “Irarセ“, pp.336340に詳 しい。 また,サンヴ ァース ト年代記 で も世俗の貴顕 “omnes PrinCiPCS"の臨 席 が 明 言 さ れ て い る,Ay p.292. 1521 880年placitumには カ ロ リング家 の君主全 員 の参加 が予定 されていたが , ルー トヴイヒ若年王 は病 ゆえに参加す るこ とがで きず,使節 を派遣 した とさ れてい る,AR P.280.881年 colloquiumは そ の存在 が フル ダ年代記 で伝 え ら れてい るのみで,参加者 や協議内容 は不 明であ る,Att p.H4.881年フイーム には, ラ ンスの ヒ ンクマ ニル を中心 とす る西 フラ ンク王 国の高位聖職者 が集 ま り,ルイ3世にあてた,君主鑑 を思 わせ る ような決議 を作成 した。 この決 議文書 は現在 の所I.Do Mansi(ed.),SαεЮr“″cο “ι,I′οr““Nbνα A“ρ :ぶJttα CοJιθε―

′′ο騨u、Firenzc,1772,pp.537-556と チ.P IⅥignc(ed。),ParrO:agiα Lα′′

“.12,PariS, 1852,pp.10691086に お い て刊 行 され て い る。 この教 会 会 議 につ い て は

W

Hartmann,Dた り40ル “′ιr Kα raJ″Frzα′:“Frarたθ““′εみ夕4グ″ Irari`“,PP.340342 を参照 の こと。 この教会会議 はランス大司教 ヒンクマールの手 による 『官廷 組織 論』 において も synOdusと して言 及 され てい る,T Gross and R.Schieffer

(eds.),Hi′εttα r夕s Dθθ7て′′″ιJ′″ムMGH Fo“′θs i夕γis rrttα “ ′ε′α″′′a夕′′ “夕 S夕″ sc力θ:′r夕 “sψα″r′′ηθグ,ォ:m)HannOveち 1980,P.96.

参照

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