李 徳周「初期韓国教会の民族教会的性格」 【二】(2/3)
(原題, 이 덕주 “초기 한국교회의 민족교회적 성격” )
訳者 常 石 希 望
〖目次〗「初期韓国教会の民族教会的性格」
Ⅰ,緒論
Ⅱ,民衆階級の入信動機
Ⅱ―(1),初期における教育および医療事業:民衆との接触契機 Ⅱ―(2),嬰児騒動と平壌キリスト教徒迫害事件:民衆の挑戦と試み Ⅱ―(3),民衆の保護所となった教会
――――――――――――――――――――――――――――(以上【一】,掲載)
Ⅲ,知識人たちの集団改宗
Ⅲ―(1),開化派知識人たちの社会改革への試み Ⅲ―(2),独立協会運動:民衆民主主義と体制改革運動 Ⅲ―(3),独立協会事件後の知識人階層の入信
Ⅳ,日帝(日本帝国)の侵略とキリスト教徒による民族運動 Ⅳ―(1),初期,非暴力抵抗運動
Ⅳ―(2),後期,武力抵抗運動
―――――――――――――――――(以上【二】,今回掲載分。以下は【三】)
Ⅴ,復興(リバイバル)運動と教会の非政治化 Ⅴ―(1),初期復興と民衆の宗教体験 Ⅴ―(2),キリスト教社会倫理の形成 Ⅴ―(3),教会の非政治化作業
Ⅵ,まとめ
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〖この翻訳は前号『言語と文化. 第16号』(2007年1月. 刊)掲載分の続きで,全3回完了。
原注はアラビア数字のみで示し,[ ]は訳者の補訳・補注を示す等,凡例は前号に従う。〗
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【Ⅲ】知識人たちの集団改宗
Ⅲ‒(1)開化派知識人たちの社会改革への試み
1884 〜 1894 年の間にキリスト教は民衆階層のうちに根を下ろした。専制封建主義の社 会体制のもと,疎外されていた西北地域[現,北朝鮮の平壌を含む平安南北道。当時平壌は東洋 のエルサレムと称されるに至り,この地域が草創期韓国キリスト教の中心地]の没落両班階層と民 衆階層が教会の中の主導勢力を形成するに至ったが,その主要な要因となったのは 1894 年の戦争と騒乱[第Ⅱ章に述べた,日清戦争と平壌キリスト教徒迫害事件など]であった。19 世 紀末の朝鮮社会には,この西北地域の民衆階層のほかにもう一つ別の改革志向勢力があっ た。その思想的な源を朝鮮時代後期の実学派に求めることのできる開化派知識人たちであ る。金 玉均 (キム・オッキュン) を初めとするいわゆる「開化党 [ 別名:開化独立党,日本党,
革新党]」 と称され,朴 泳孝 (パク・ヨンヒョ),徐 光範 (ソ・グァンボム),洪 英植 (ホン・ヨ ンシク),徐 載弼 (ソ・ジェピル),尹 雄烈 (ユン・ウンニョル),尹 致昊 (ユン・チホ),朴 定 陽 (パク・チョンヤン),金 弘集 (キム・ホンジップ)などを挙げることができる36。
金 玉均を初めとする彼ら開化主義者たちは最初は穏健な社会改革論を推進していたが,
次第に急進的な社会改革論へと開化の方法論を構築して行くこととなった。それは朴 珪寿
(パク・キュウス)の死後 (1877 年),劉 大致 (ユ・テチ),呉 慶錫 (オ・ギョンソク),李 東仁 (イ・
ドンイン) といった急進的な改革指導者の影響を受けたためだと解される37。彼らはまた 1881 年以後,日本,アメリカなどを直接視察して開化文明の実態に接することが出来た。
「紳士遊覧団」と呼ばれる日本視察団の彼らが,日本に移植された西欧文化を韓国にも導き 入れること望み,特に明治維新以降活発に展開されている日本の開化政策を見て,当時 20 歳代の若い開化主義者たちが韓国においても日本のそれと同じ開化を推進する気になった のも当然のことであった。壬午軍乱 (1882 年)[8]以降,高宗王は金 玉均などが主張する開 化自強論に耳を傾けていた。長年の間,外交的・政治的宗属関係を結んできた中国(清)
との関係清算化が,開化主義者たちの第一目標であった。中国の属国としての韓国の位置 を脱ぎ捨てて,独立国としての位相を求めることが彼らの目標であった。壬午軍乱以降,
ことあるごとに内政干渉に及ぶ中国の傲慢不遜な態度に高宗も嫌気が差していたところで あった。30 代前半という年令に入っていた高宗は,大院君の摂政から脱却し自らの政治的 手腕をふるうべき年齢になっておりそうする意志も持ってはいたが,しかし妻の一族であ る閔氏一派の干渉によりその思いは遂げられずにいた。閔氏一派,それは国内保守勢力の 集合体であった。最初は開化派であったにもかかわらず 1884 年 5 月,アメリカに行って 来たあと突然開化派と訣別した閔 泳翊 (ミン・ヨンイク) の態度変化も,開化派や高宗にとっ
ては状況を悪化させた。この閔氏勢力および保守派勢力の背後には中国・清があった。結 局開化派の人士たちは,韓国の独立とは中国との宗属関係を清算することだと理解してい たのであり,従って彼らは,その中国の勢力を国内に導入しようとしていた閔氏および保 守陣営の除去という物理的方法を通し,自らの任務を遂行しようとしたのである。それが すなわち「甲申政変[カプシン・ジョンビョン,甲申事変とも称す]」という武力クーデターと して現れたのである。しかしながら,彼らの挙行した大事は「3 日天下」に終わってしまっ た38。
甲申政変が失敗に終わった理由は様々に探りうるであろうが,まず最も大きい理由はそ のクーデターが民衆の支持を得ることが出来なかったという点に求めることが出来る。少 数の急進改革勢力によって推進された運動として民衆の支持を得ることが出来なかったた め,結局少数勢力の政変として終わるしかなかったのである。そして,いま一つの失敗の 理由,それはこの少数勢力が自分たちの政治目的を遂げるために外国の力,特に日本の力 に依り頼ったという点に失敗の要因を求めることが出来る。
甲申政変の失敗により,開化派の社会改革は壁にぶつかってしまった。少数のエリート 改革勢力による社会改革の限界点が,そのままに露見したわけである。社会改革は別の方 法をもって推進されなければならなかった。上から下へと指示される形態の改革ではなく,
むしろ下から上へと押し上げる形態をもって推進されなければならない。すなわち民衆に よる改革への意志,これが社会改革の第一の出発点とならなければならない。この事件を 通して進歩的知識階層は,民衆の支持なくしてはいかなる改革も長く続けることが出来な いのだという歴史的教訓を得た。
甲申政変によって社会・政治的構造を改革しようとした開化派の指導者たちは政変失敗 後,その大部分は海外亡命の途についた。金 玉均,朴 泳孝,徐 光範,徐 載弼は日本公使 館の斡旋で日本に亡命し,尹 致昊は駐韓アメリカ公使の斡旋により中国上海に亡命した。
これらのうち徐 載弼と尹 致昊に注目する必要がある。なぜなら,彼らは二人とも政治改 革に志を抱いた進歩的知識人であったが海外亡命期間中にキリスト教に改宗し,国内情勢 が開化派に有利に反転しはじめた 1895 〜 96 年に帰国し,近代民主主義の民族運動体であ る「独立協会・The Independent Club」を創設した重要人物であるためだ39。
特に独立協会創設の主役・徐 載弼の帰国後の活動は,キリスト教に対する知識人の認識 を変化させる重要な契機となった40。
アメリカの市民権を有していた徐 載弼が帰国したのは 1895 年 12 月であった。彼は帰国 するや,西欧式の民主主義を韓国において実現しようとする強い政治的意志を抱いていた。
しかし春生門事件の後,保守派に有利に転じた政情の煽りを受け,彼には中枢院顧問とい う閑職が与えられた。政治を介しての民主主義実現は,その最初の段階から行き詰まって
しまった。彼はやり方を変えた。そこで着手したのが「独立新聞」の創刊(1896. 4. 7)であっ た。純粋にハングル文字のみを用いるという近代的マスコミ (言論) は,このようにして始 められた。印刷は培材学堂の中にあった美以美教会[米監理教,メソジスト]印刷所で行なっ た41。マスコミによる民衆の啓蒙が,社会変革への近道であることを徐 載弼は知っていた。
それまでは明かされず隠されてきた執権層の不正や権力の深層聖域が,「独立新聞」によっ て公開され,崩されたのである。人民の知る権利と物言う権利を「独立新聞」は忠実に代 弁した。
こうした民衆への啓蒙運動を通して政府の腐敗と不正にブレーキをかける一方,外国勢 力による侵略の現実も客観的に露見させた。すなわち “民衆の意識化過程” が形成された のである。「独立新聞」が[漢文ではなく],民衆の文字であるハングルによってのみ発行さ れたのにも理由があったのである。
徐 載弼が次に着手したのは,保守勢力による慕華思想[中華中国を慕う思想]の象徴であっ た西大門外部の迎恩門を破壊し,そこに独立門を建設したことである42。迎恩門は代々の 中国の使節たちを迎え入れるための門であって,その横には慕華館があり中国の使節たち が泊ったりした。これも,中国への事大主義[大に事える]思想を象徴する建物であった。
民衆の絶対的な後押しを得て「独立新聞」発行および独立門の建設を成し遂げた徐 載弼 は,さらに積極的な政治的目的を有す団体「独立協会」を創設した。独立門建設基金の募 金運動が契機となり,安 駉寿 (アン・ギョンス),李 完用 (イ・ワニョン),金 嘉鎮 (キム・カ ジン),玄 홍택(ヒョン・ホンテク) ,李 商在 (イ・サンジェ),南宮 檍 (ナムグン・オク),呉 世昌 (オ・セチャン),鄭 喬 (チョン・ギョ) などを役員とした独立協会が 1896 年 7 月 2 日に 組織された43。近代的な民間政治団体が出現したのである。
独立協会の基本理念は自主国権,自由民権,自強改革の三つの思想にまとめることがで きる44。すなわち自主・自由・自強として簡約化しうるこの独立協会の理念と精神は,当 時外国勢力の政治・経済的侵略の危険と現実下にあった朝鮮の状況に対処するための主体 的思想として表明されたものであり,またその運動路線として展開されたものであった。
しかもそれが政府当局からではなく,純粋な民間次元の運動圏から形成された点に,この 運動が[韓国]民族運動史において占める意味の大きさがあると言えよう。独立協会の運 動は「韓国人による,韓国人のための,真正の近代市民社会45」を成し遂げようとする運 動として,韓国近代史に転機を与えた決定的事件であった。
仮にキリスト者である徐 載弼がこの運動を導いていなかったとしても,キリスト教はこ の運動に積極的に参与したであろうし,民族運動に向けての力を育成していったであろう。
1896 年 11 月 21 日独立門の基礎を据える日,多くの民衆がその場に集まり祝賀を催し たが,その式典の順序の中には材培学堂の学生たちによる祝歌とアペンゼラーの祈祷が
入っていた。アペンゼラーは「朝鮮大君主陛下と皇太子殿下におかれては御身体が健やか であられ,朝鮮の独立が幾万年を経ても崩壊することなく,朝鮮全国の人民がいよいよ学 識に富み,財が増し,新しい人間となるように46」と祈った。
多くのキリスト者たちも,こうした独立協会の運動に進んで加わった。初期韓国教会が 忠君愛国的なキリスト教へと定着化していく契機も,この時期に基礎が敷かれた。「独立新 聞」は,かかるキリスト教徒たちの独立思想を紹介するのに紙面を惜しまなかった。
尚洞 (サンドン) 教会の教会員たちが歌っていた「愛国の歌」も「独立新聞」が紹介して いる。
「独立公園を しっかり造り 太極旗を 高くかかげよう,
上下万民よ 心を一つにし 文明礼儀を 成し遂げよう,
全国の人民よ 深く愛し合い [我が国が]富強世界[に至ること]を 昼夜祈ろう。
近隣の家々は 互いを理解し 早く 心を一つにしよう,
千年の歳月を 無為に過ごさず 心を合わせ 共に助け合おう,
神には 真心からの祈り, 国の平和と 万人の安楽を。
王の軍を奉祝し 政府を愛し 学徒兵の 純粋な剣を愛し,
人は皆 愛する子を育て 公平社会の到来に つとめよう,
この世に 生きている時には 国の泰平に 勝るものはない。
国旗を握りしめ誓約し 大君主の 徳の高昇を [ともに]助けよう。」47
忠君愛国に尽くす教会の姿を,ここに確認することが出来る。外国勢力による政治・経 済的侵略を前にして,民族の自尊心が危険にさらされている危機的状況において,キリス ト教徒たちは国の独立を謳歌しつつ「愛国」を生活化しようと努めた48。
しかしながら「忠君愛国」という概念を分析すれば,開化派の背景であった進歩的知識 人層が有している “改革への意志” には限界があることが分る。特に「忠君」が「愛国」
の前提条件になっているという事実から,封建主義社会体制に対する肯定的な姿勢を読み 取ることができる。「忠君」の対象,それは高宗に象徴される封建的社会秩序であった。開 化派知識人たちが対決し摘発しようとした対象は,封建的社会体制それ自体ではなく,体 制内の保守的名門勢力が対決の対象であった。つまり彼ら開化派知識人たちは,封建主義 社会体制の骨格はそのまま温存した上で,ただ体制内に残っている保守勢力を放逐しよう としたのである。また彼らが,明治維新以降の日本やイギリスの立憲君主制形態という政 治体制に魅力を感じ,朝鮮においてもそうした皇室体制を維持しようとした理由もここに あった49。こうした点から初期独立協会運動が目指していた社会改革の論理は,単に体制
内の一部に向けてなされた緩慢的な改革であったと言うことができ,従ってそれは民衆の 反乱や東学農民戦争の場合のような体制全般に対する改革運動とは異なっていた。進歩的 知識人層が抱いていたのは,単に改良主義的な改革論理であったのだという点がここから 確認できる。
Ⅲ‒(2)独立協会の運動:民衆民主主義と体制改革運動
西欧的,特にアメリカ式民主主義をこの地に実践して見せようとする強靭な意志を有し ていた徐 載弻の行動は,キリスト教信仰者の立場から生じるものであった。彼の演説によ く使われた主題は主権在民であった。
「いかに強い人間や政府といえども,神が与えられた権利を諸君や私から奪い取るこ とは出来ない。いかなる政府といえども,国民の願いを無視するような政府は国民の 仇敵である。」50
政府が奪い取ることの出来ない天賦の人権,これを守り,これを享受することから民主 主義は始まる。すべての権力と権利が国王に由来すると言われた従来の封建主義的人権概 念を打破することは,避けられなかった。国王の座に神を代置させ,従って国王という絶 対的概念が相対的概念になるしかなかった。国王も神の前では,一般の民と変わるところ のない被造物である,という思想がここから始まったのである。絶対王権に基づいて支え られていた専制封建主義体制の崩壊は,必至であった。独立協会運動が,初期には忠君愛 国的運動として展開されたのに,その末期においては近代市民社会の樹立運動に変わるよ うになった理由もこの点にあると理解しうる。すなわち,独立協会運動は初期には高宗を 中心に据えた国権回復運動に焦点が合わされていたのに,それはやがて政府(政治体制)改 革運動へと方向が変えられたのである51。まさしくこの点が独立協会解散の理由となった のではあるが,独立協会こそはわが国が専制封建主義社会体制から近代市民社会体制へと 変革していく決定的な転機を備えてくれた運動だったと言えよう。たしかに,アメリカ式 民主主義が独立協会運動の指標になっていた点からして,その限界は認めるしかないとし ても,主権在民に基づいた近代市民社会形成に及ぼしたその功績は高く評価されるべきも のである。このような近代市民社会の形成は,民衆の自覚運動から開始された。専制封建 主義体制下抑圧されていた階層の人々が,天が与えた人権に目覚めそれを主張しつつ享有 しようとすることから,体制の変化は起こり始めた。両班と常民[貴族階級と庶民]の差異,
性別の差異,職業の差異から発する身分階層間の葛藤と摩擦が克服されなければならな かった。その実験の場が “萬民共同会”,別名 “官民共同会” であった52。独立協会が主催
したこの討論会は,身分と階級の差を問わず,誰でも参加し自分の意見を述べて討論を繰 り広げることのできる民衆民主主義の試験場であった。政府高官官吏から下層人民に至る まで広範な階層の人々が一堂に会し,政治・社会問題について討論を繰り広げた。
1898 年 10 月 29 日ソウル鍾路で開かれた “官民共同会” は,白丁[ペクチョン . 백정:畜 殺などに従事した被差別階級民]出身のキリスト教徒,朴 成春(パク・ソンチュン)が講師と して参席し演説をしたことでよく知られる53。病に苦しんでいた朴 成春は,エヴィスン宣 教師[Avison, Oliver R, 米北長老教会医療宣教師,トロント大学医学部卒業,法学博士]から治療 を受け,ムーア宣教師[Moor, Samuel F, 米北長老教会宣教師,両班と賎民との共同礼拝を開くな ど,白丁を対象とした宣教活動で有名]に感銘を受けキリスト教徒となった。白丁というのは 伝統的朝鮮社会において最下位の身分階層であった。その彼がキリスト教徒になったのち,
白丁解放運動の先頭に立ち,結局白丁に被害を与えてきたすべての身分制約規定を政府に 撤廃させた。彼は白丁社会の指導者として現れ,白丁社会を背景にし,独立協会 66 人総 代委員の一人になったのである。彼は官民共同会に参席して次のような要旨の演説をした。
「私は大韓帝国のもっとも賤しい身分の者であり,無知無分別の者であります。しか し忠君愛国の意味については大体わかっているつもりであります。従って利国便民[国 のためになり,民のために平安を与えること]の道について言うなら,官と民が一つになっ てこそ,それは可能だと考えます。あそこに見える “日除け布” に譬えて言えば,一 本の竹竿でその布を支えようとすれば支えきれません。しかし多くの竹竿を一つにた ばね合わせれば,その力ははるかに大きくなります。願わくは,官と民とが一つとな り,心を合わせ我ら大皇帝の徳に報い,国運ますます栄えますように。」54
白丁のような下流身分階層が政府の官吏と両班たちの前で,これほどまでに堂々とした 演説をすることができるという事実からだけでも,社会の変化を確認することができる。
このように萬民共同会は民衆の凝縮された力を背景にして,政治に対する,あるいは外 部勢力に対する闘争を展開することが出来た。1898 年 3 月に開かれた萬民共同会は民衆の デモに発展し,ロシア人教練仕官およびロシア人度支部[タクチブ,탁지부:大韓帝国時代の 韓国「財務部」]の二人の顧問の解任を求めて集まった55。この二人のロシア人は,国内の 親露派の者たちが政府を親露傾向に導くため雇用した軍人と経済部門の顧問官であった。
しかし萬民共同会が引き起こした世論のため,親露派の計画は失敗に終わり親露派政治家 たちの退陣にまで及んだ。これと共に,ロシア公使館に逗留していた高宗の王宮帰還も果 たされた[9]。政府が民衆の要求を受け入れ,政策の変更を実行したのである。このように,
独立協会を通して民衆は自分たちの主張を表明することが出来るようになった。専制封建
主義の理念・体制の犠牲者となり,服従と犠牲のみを強いられて来た民衆階級が自分たち に賦与されている天賦の人権を認め,それに基づいて自分たちの主張をなし得るように なったのである。政府や両班階層も従来のように,昔ながらの発想で無条件に服従と犠牲 を強要することは出来なくなった。説得と対話による協調を求めなければならなくなった。
近代市民社会への転換は,このようにして成し遂げられようとしていた。独立協会は,キ リスト教の力強い援助を受けながら,歴史発展への転機を備えたのである。
Ⅲ‒(3)独立協会事件後の知識人階層の入信
独立協会はキリスト教的理念を背景とした民族運動であった。そのためこの運動によっ て,キリスト教がこの国の知識人社会にも融合するという付随的な効果を得ることとなっ た。「無君無父」の宗教,野蛮人の宗教として認識されて来たキリスト教が,むしろ富国文 明の基として認識され始めた。次の「独立新聞」の記事は,キリスト教に対するかかる認 識の変化を端的に示している。
「世の中には宗教がたくさんあるが,イエス教のようにまことに宜しく,まことに愛 に満ち,まことに他者を憐れむ宗教は世に二つとないであろう。一体いかなる宗教が このイエス教のごとく,人々[宣教師など]を天下万国に遣わし,自分たちの金を使っ て,あらゆる艱難をことごとく受けながらも,他国の人々をこのように親切に教え助 けてくれようか。」56
また次のような論評もある。
「イエス教が大韓にやって来てせいぜい 10 余年,愚昧なる民衆たちがこれに指差しな がら言うには,王もなく父もない異端であると。しかし西国からやって来た宣教師の 行いを見てみるに,大韓帝国の皇帝陛下を自分たちの王として認め,忠誠心が厚く,
大韓帝国の人々を同胞兄弟として愛し救済しようとする態度はこの上もないゆえ,
従って私たちはこの宗教が無君無父の教えであるとは信じない。」57
上の記事から,今や民衆階層のみではなく中流知識人階層もキリスト教を肯定的に受け 容れていることがわかる。キリスト教を信じる階層の上昇化が,実現していることがわか る。こうした知識人階層のキリスト教への教集団改宗が 1898 〜 1904 年の間になされた。
独立協会の解散が,その契機となった。独立協会は初期の忠君愛国的啓蒙運動として始ま り,1898 年に至り萬民共同会・官民共同会を経て政治参与運動として発展しつつ体制改
革を追及し始めた58。1898 年の「朴 泳孝大統領説」であるとか 1900 年の「日本留学生クー デター陰謀事件」も,こうした状況の変化を暗示してくれる[10]。このように独立協会が体 制改革的な政治運動に発展しようとすると,保守勢力は危険を察知し反対運動を開始した。
それが褓負商 (ポブサン,보부상) を動員した “皇国協会” であった[11]。彼らは「社会安全」
を掲げて萬民共同会の現場を急襲したりすることで,保守勢力の積極的な対応政策を主張 して出た。両側の武力衝突がしばしば起きた。結局高宗は 1898 年 12 月に,いかなる政治 的・示威行為も集会も禁止するという勅令を発し,二つの団体[独立協会と皇国協会]を解 散させる形で独立協会の機能を停止に追い込んだ59。すでに徐 載弼は,政府側の圧力を受 け 1898 年 5 月にアメリカに帰還した後であった。その後の独立協会を主導していた尹 致 昊,李 承晩,李 商在,洪 正厚たちの間に運動路線に関する不一致が生じたことも,独立 協会が無力化し解体してしまった要因の一つであった。結局,独立協会の表立った活動は 1899 年以降消え去ってしまった。
さらに保守勢力の反撃は続き,「朴 泳孝大統領推戴事件」によって李 承晩が 1898 年に 逮捕されたのを筆頭に,「日本留学生クーデター陰謀事件」によって李 商在,李 承仁 (イ・
スンイン [李 商在の息子]),李 源兢 (イ・ウオングン),兪 星濬 (ユ・ソンジュン [兪吉濬の弟]),
洪 在箕 (ホン・ジェギ),金 貞植,安 国善 (アン・グックソン [安駧寿の養子]) などが,また「秘 密結社 改革党事件」によって李 儁 (イ・ジュン)が逮捕された。培材学堂の学生・申 興雨 (シ ン・フンウ [李 承晩の学友])も「朴 泳孝事件」によりこの時逮捕された。ほとんどが保守勢 力の政治的反撃による犠牲者たちであった60。彼らほとんどが独立協会の主導者であった という点から,一連の事件が独立協会に対する保守勢力の反撃の意味が強いことを感じさ せる。
これらの人々は政治的な犠牲者であるとともに敗北者でもあった。独立協会による政治 改革の意志は挫折してしまった。特に政治的野望を強く抱いていた李 承晩の場合,その被 害者意識は他の者より激しかった。彼が脱獄を試みたのも,同じ脈絡から理解することが 出来る61。彼らは漢城監獄に閉じ込められながら,政治的敗北を反芻した。
しかしながら,漢城監獄[現,鍾路十字路。道路をはさみ鍾閣の東側にあった]は彼らに新し い人生の転機を備えてくれた。監獄の所長,金 英善 (キム・ヨンソン) は,意識の高い官吏 であり,彼は囚人たちに読書を許し,培材学堂教師 申 冕休 (シン・ミョンヒュ),囚人・李 承晩,申 興雨 [申 冕休の弟,李承晩の学友] が主導教育する獄中学校の開設を許可した62。 読書室も準備した。図書は主に,アペンゼラー,アンダーウッド,バンカー,ゲイルら宣 教師たちが設置してくれた。西洋の歴史・政治関係の[漢文]書籍『列国変通盛記』『中西 四大要』『九九新論』『近代教士列伝』『英興記』『新政策』等だけではなく,キリスト教の[ハ ングル]伝道文書『파혹진션론[破惑進善論:1887 年発行,盧 炳善(Ⅱ‒2,参照)著,本書の英
文版表題は “Introduction to Christianity”]』『구세진젼[救世真詮]』『사민필지[士民必知 1889 年発行,ハルバー著]』『텬로력정[天路歴程]』『인가귀도[インガ クィド]』や『聖書』,およ び「キリスト新聞[그리스도신문:1897 年創刊の週刊新聞,アンダーウッド発行兼編集,発行所 は米北長老会]」や「朝鮮キリスト者会報」のようなキリスト教新聞類も入っていた63。政 治犯たちは初めは歴史・政治に関する本を読んだ。しかし時間が経つにつれ,徐々にキリ スト教関連の本などを読み始めた。聖書を読む頻度が増えた。外の政治的状況は,自分た ちには不利な方向に進行していた。それだけに,宗教的図書を読む頻度が増した。この過 程において,キリスト教への改宗が果たされたのである。まず,李 承晩が改宗した。
1900 年のことであった64。申 興雨も同じ頃に改宗した65。彼らは獄中に学校を建て,若 い囚人たちを教えていた。宣教師たちも暇があれば訪問し,獄中学校を中心に形成された キリスト教徒の信仰共同体を支え,手をかした。
開化派の象徴的人物であった兪 吉濬,その弟であり政治的陰謀の容疑で逮捕された兪 星濬 (ユ・ソンジュン) も,最初は政治的報復のみを夢見て過ごしていた。しかし年月を重 ねるうちに自己の限界を感じるようになっており,そのとき蓮洞 (ヨンドン) 教会の教会員 李 昌植 (イ・チャンシク) が差し入れてくれた聖書を読むようになった。しかし聖書の意味 を理解することが出来なかった。1903 年 12 月アンダーウッドが立ち寄って帰ったあと,
宣教師が教えてくれた通り祈ることを始めた。兪 星濬の告白である。
「12 月のある日,祈っていると突然胸が張り裂けそうになり涙があふれ出た。すぐる 40 年間の人生を罪と悪のなかに送りつつも,自分だけは道理にかない正直に生きてき たのだと自負していた。しかし実際には,ただ自分の欲望を満たすために他人をだま し,だまされて生きて来た。自分の人生がそんな一生だったと悟ったからである。」66
兪 星濬はこののち,自分をだましおとしいれた政敵に対する怒りと復讐心が消え去った と述べている。もし彼が獄に閉じ込められなかったとすれば,なすはずもなかった宗教的 体験,すなわちキリスト教への改宗体験が成し遂げられたのである。兪 星濬は農商工部局 長を歴任した高位の政治家であった67。同じ頃,同じ罪状で監獄に繋がれていた警務官出 身の金 貞植も,同じような体験をした。彼も初めは哲学・政治書籍のみを読んでいたが,
やがて聖書を読むようになり,そんなある日,神秘的な幻想体験をすることになった。
「その後,真夜中の深い静寂にかえって眠気をそがれた時のこと,自然とこの身の哀 れな境遇を思い返すにつけ,眠られずに寝返りばかり打っていた。その時だ。イエス が,私が横になっている敷布団に,一緒に座っていらっしゃった。イエスの膝を両手
でつかみ,私は次のように言った。―――― “わたくしには肉親である父母もなく兄弟 もありませんので,自分の憐れで惨めな境遇を聞いてもらえる場所がありません。だ から,私をこの上もなく愛してくださり,この上もなく親切にしてくださり,本当に 憐れに思ってくださるイエス兄上(예수 형님,イエス・ヒョンニム:[형님は「お兄さん,
兄貴」に当る])にお話し致します。私は以前は酒色に溺れ,先祖には不孝の罪を犯し,
妻子には薄情であり,友人に対しては高慢の罪が多く,さらに私の愛する娘,鶯似[エ ンサ]の歳が 10 才に満たなかった時にその両目が盲目となり,前が見えなくなったの を羅馬教堂養育院[カトリックの孤児院]に送ったのですが,時々その娘が両親に会い たくて叫んでいることを思うと,骨がしびれ五臓が溶けそうなほどに苦しくなりまし た。” ―――― 余りに多くの罪状と余りに多くの後悔を洗いざらい告げた時,私の両の 目からは涙がまるで雨が降るように流れ,枕をぬらした。すると,イエスは手で私の 背中を撫で,慰めて下さり “お前の悔い改めを私が知っているのだから,そんなに嘆 き悲しまなくてよい” と言われた。そのお言葉が耳に入った時,その憐れに思って下 さるイエスの声に感動して私は自然に心の平静を取り戻し,何か大きな荷物を降ろし たようでもあり,水に溺れているのに助けられたようでもあった。思うに,この世界 に私のような罪人もいなかったであろうし,また今このような清らかな心を得た人間 も私一人だけであろう。今からはいかなる状況に直面しようとも,この恩恵を忘れな いようにしようと決意した。これまで犯してきた罪をこまごまと思い出すことによっ て今日このような恵みを受けるとは,本当に思いもかけないことである。」68
このような新生[霊的に新しく生まれ直すという意のキリスト教用語]体験は,彼の生を完全 に変えてしまった。「イエス兄上(예수 형님)」に出会ったことは,決定的契機であった。
彼は出獄後,キリスト教青年会[Y. M. C. A]の活動に身を投じた。このほか,法部[法務 衙門]教辦を務めた李 源兢,議政府参贊を務めた李 商在,扶余郡守・李 承仁,開城郡守・
洪 在箕,会寧郡守・安 國善など,政府高位職にいた上流層の人物たちが監獄で改宗し た69。彼らは社会情勢の変化によって 1903 〜 4 年にすべて釈放され,以後キリスト者と して政治・社会活動を展開した。また彼らは主にソウルの蓮洞 (ヨンドン) 教会,貞洞 (チョ ンドン) 教会に出席し,皇城キリスト教青年会の活動を導く中心人物となった。これらの 人々の改宗は,他の知識人上流階層の人士たちの改宗を触発した。すなわち,金 昶斎 (キ ム・チャンジェ),朴 勝鳳 (パク・スンボン),尹 致昭 (ユン・チソ),南宮 檍 (ナムグン・オク), 韓 弼相 (ハン・ピルサン),閔 濬鎬 (ミン・ジュノ),兪 昌兼 (ユ・チャンギョム),玄 采 (ヒョン・
チェ),李 載馨 (イ・ジェヒョン),徐 丙哲 (ソ・ビョンチョル),朴 準禹 (パク・ジュヌ),趙 鍾萬 (チョ・チョンマン),金 時斎 (キム・シジェ),李 柱浣 (イ・ジュワン),咸 우택(ハム・
ウテク),咸 台永 (ハム・テヨン),呉 경선(オ・ギョンソン) ,など両班・官僚出身のキリスト 教徒が生まれたのもこの頃のことであった70。独立協会の指導者たちの集団改宗は,キリ スト教が知識階層に浸透したということを確認させてくれる事件であった。史学者・李 能 和 (イ・ヌンフア[李 源兢の息子]) はこの事件を「地獄即天堂」という表題で示し,「是為官 紳社会信教之始:これが官紳 (官僚紳士) 社会におけるキリスト教入信の始まりであった」
と述べた71。
これによってキリスト教共同体[教会]のうちに,両班出身の知識人階層が一定の勢力 として位置を占めるようになった。彼らは地域的にはソウル・京畿を中心とした中部地域 を基盤としており,政治改革への試図が失敗に終わり辛酸をなめたのち,宗教的体験を経 てキリスト者となった者たちであった。これによって教会の中に民衆階層と知識人階層が 共存することとなり,急変する社会現実に対応する形態として民族運動を展開して行くこ とになった。
【Ⅳ】,日帝(日本帝国)の侵略とキリスト教徒による民族運動
Ⅳ−(1)初期,非暴力抵抗運動
19 世紀末に開始した韓国キリスト教の歴史は,ほぼ同時期に開始した日帝の朝鮮侵略・
朝鮮強占(強制占領)の歴史と,同じ歴史を進行することとなった。封建的専制主義社会秩 序が崩壊しようとしつつも,いまだ民族固有の自主・独立国家の形成は果たされ得なかっ たこの時期,日本帝国主義による武断統治と支配という現実が訪れたのである。すなわち,
もう一つの別の[日帝植民地支配という]専制主義社会・政治秩序が構築されたわけである。
日本の韓半島に対する侵略の野望は,日清戦争 (1894 年) の時から現れていたが,より 具体的かつより露骨な侵略は日露戦争を契機として進行した。つまり,1904 年の日露戦 争から 1910 年日韓併合時までに,日本の侵略過程は成し遂げられた。日本の侵略は政治・
外交・経済の分野において,緻密かつ組織的に進められた。かかる日本の侵略に対抗する 力のなかった当時の政権担当者たちは,国を日本に引き渡す悪役になるしかなかった。し かし民衆は,そうではなかった。政府の裏切りも許せないものであったには違いないが,
しかし日本の侵略こそは黙視することの出来ない歴史的な罪であり,従って民衆階層によ る抵抗運動は必然的なものであった。
キリスト教もこの時期に,激しい抵抗運動を繰り広げた。日本による政治・外交・経済 侵略に対する抵抗運動は,教会を中心にキリスト教信仰者の歴史参与として成された。
当時,尚洞 (サンドン) 教会には青年伝道師,全 徳基 (チョン・ドッキ) がいた。そして教
会の青年会組織であるエプワース
(Epworth)
青年会というものがあり,その組織は地方 にまで拡張されていた72。全 徳基はこのエプワース青年会を象徴する人物であった。彼の 周辺には民族主義の気骨を備えた人物が集まって来た。監理教 (メソジスト) の李 弼柱 (イ・ピルチュ),具 然英 (グ・ヨニョン),鄭 淳萬 (チョン・スンマン),朴 容萬 (パク・ヨンマン), 李 承晩,盧 炳善 (ノ・ビョンソン),金 鎮浩 (キム・ジンホ) などが集まり,その他に李 東輝
(イ・ドンフィ),金 九 (キム・グ),周 時経 (チュ・シギョン),李 儁 (イ・ジュン),李 東寧 (イ・
ドンニョン),安 泰國 (アン・テグク),李 相璃 (イ・サンソル),崔 南善 (チュエ・ナムソン), 李 商在,梁 起鐸 (ヤン・ギタク),崔 在學 (チュエ . ジェハク)などが次々と集まって来た。
いわゆる尚洞派 (サンドンパ) として知られているキリスト教民族運動が形成されたのであ る73。
尚洞教会の中には初等教育機関である “攻玉 (コンオク) 学校” と中等教育機関である “尚 洞青年学院” があり,民族意識を高揚させる教育が実施されていた。周 時経の有名なハン グル講習と,崔 南善・張 道斌 (チャン・ドビン) の国史教育もここで開始された74。 尚洞派の抗日運動は,「乙巳 (ウルサ) 保護條約[別名,乙巳五條約,日韓保護条約,第 2 次 日韓協約,1905 年]」の無効を訴える上疏運動として始まった。このことは,当時 鎮南浦[チ ンナンポ:現北朝鮮,平安南道]のエプワース青年会代表としてソウルに上京し,尚洞教会に 逗留しつつ上疏 (じょうそ) 運動に参加していた金 九の次の証言に詳しく述べられている。
「このとき私(金 九)は鎮南浦エプワース青年会の総務として代表の任を帯び,京城(ソ ウル)大会に出席することになった。大会は尚洞教会で開かれたが,表面的には教会 の事業を議論することにし,その内実は純然たる愛国運動の会議であった。義兵闘争 を決起した人々の運動が旧思想の愛国運動であったとすれば,私たちイエス教徒の運 動は新思想による愛国運動だと言えよう。
そのとき尚洞教会に集まった人物は,全 徳基,鄭 淳萬,李 儁,李 東寧,崔 在學,
桂 明陸 (ケ・ミョンニュク),金 仁濈 (キム・インジュプ),玉 観彬 (オク・クァンビン),李 承吉,車 炳修(チャ・ビョンス),申 尚敏 (シン・サンミン),金 泰淵 (キム・テヨン),表 永珏 (ピョ・ヨンガク),曺 成愌(チョ・ソンファン) ,徐 相八 (ソ・サンパル),李 恒稙 (イ・
ハンジク),李 喜侃(イ・ヒガン),奇 山濤 (キ・サンド),金 炳憲 (キム・ビョンホン),柳 斗煥 (ユ・ドゥファン),金 基弘 (キム・ギホン),そして私,金 亀 (キム・グ=金 九) であっ た。
私たちの会議の結果として決定作成したことは,斧をもって上疏する,という点で あった[朝鮮時代,官僚や両班たちは王に書面などで直接上訴する権を有したが,これを「上疏,
じょうそ;상소,サンソ」と言う。また,聞き容れられなければ自分の首をはねてもらう覚悟で,
斧を添えて上疏することもあった]。つまり一回,二回と4〜5名ずつで連盟し上疏して,
たとえ死のうが捕らえられ獄に入れられようが,何度でも繰り返そうというもので あった。」75。
このようにして有名な“イエス教徒たちの戴斧上疏”がなされた。1905 年 11 月 26 日「乙 巳保護条約」締結前後のことであった。第一次は崔 在學,金 仁濈,申 尚敏,李 始榮 (イ・
シヨン),田 錫俊 (チョン・ソクジュン) が連盟して上疏を呈した。他の者たちも鄭 淳萬の先 導により祈ったのち,大漢門[テハンムン;徳寿宮の正門。晩年の高宗は,毒殺死するまで徳寿 宮に住んでいた]に繰り出した。大漢門で日本の警察官と衝突が起こり,一次上疏人5名が 逮捕され連れて行かれた。大漢門から追い出されたキリスト者たちは,鍾路に繰り出して 行きそこで大衆集会を開いた。すると日本の警察官は,銃を撃って集会を解散させた。そ の場で数十名が逮捕された76。
尚洞教会に再び集まった指導者たちは,その後方法を変えることにした。名前だけの皇 帝に上疏を呈するという旧時代的な方法では,日本の侵略を阻止することは出来なかった。
民衆による団結力,これのみが日帝の侵略を阻止しうるものだ。そこで彼らは分散し,そ して民衆の啓蒙を目的とした教育事業に力を注ぎ始めた77。
上疏運動以降,尚洞教会はさらに組織的な抵抗運動を展開した。朴 斎純[パク・ジェスン,
乙巳五賊の一人]など親日派民族反逆者を処刑するため,平安道の壮士たちを呼び集めて訓 練することまでしたりした。旧韓末の歴史家,鄭 喬 (チョン・ギョウ) の証言である。
「我が国のイエス教徒,全 徳基,鄭 淳萬などは新条約(乙巳保護条約)締結以後,毎日 尚洞教会に集合し午後 7 時から 9 時まで国のため神に祈っていたが,こうした男女信 徒は一千名に達した。のちに全 徳基,鄭 淳萬は信徒と平安道の壮士数十名とを集め,
やがて朴 斎純らを誅殺する計画であったが,日本軍の守りが厳しかったためその志を 達成することは叶わなかった。」78
このようにして集まった尚洞派民族運動群は,1907 年には “新民会” というより体系化 した民族運動の母体となり,1911 年の “105 人事件”[12]が勃発するまでキリスト教民族 運動の求心点として,民族の受難を克服しようとする民衆啓蒙・務實力行[ムシルヨッケン;
実りのあるように真面目に実行すること]の主役をつとめた79。1907 年のハーグ密使事件[13]
も尚洞派と密接なかかわりがあった。
これにあわせ,1907 年には抗日抵抗運動という性質のゆえのキリスト教徒の自殺事件 が発生した。ハーグ密使事件が起きた 6 月 30 日,ソウル仁旺山[イヌァンサン:鍾路区と西
大門区の境界に位置する 338 mの山]およびチャン洞において,朴 泳孝の歓迎の祝宴が開かれ た。閔 丙奭 (ミン・ビョンソク),尹 雄烈 (ユン・ウンニョル),金 종환(キム・ジョンフアン) , 金 嘉鎮 (キム・カジン) など高位高官層が集まった。宴の途中「貞洞教会信徒」鄭 在洪 (チョ ン・ジェホン) が自分の腹に拳銃を発射した80。
死亡した鄭 在洪の死体からは「思想八變歌 (ササンパルビョンガ)」と「生死榮辱歌 (セン サヨンヨクカ)」という歌が出てきた。「皇城新聞」に掲載された「思想八變歌」の全文であ る。
「一番: 国と関わりのある奴で,とにもかくにも憎い奴を,一撃で殴り殺したならば,
この私の憤怒は溶けて無くなるだろう。
二番:だがうまく殴れず,殴りそこねたら,むなしく自分だけが死ぬ。
三番: [殺したあと]六連発銃を素速く置き捨てて,素速く走りされば,大事にはなら ないで済む。
四番:そこで,すぐに六連発銃を買った。
五番:しかし,相手を殺し,私が生きれば,天のことわりに反するだろう。
六番:相手を殺して,私も死のう。
七番:だが,一人が相手を殺し,その一人が自分で死んでも,両者は仇になるだけだ。
八番: 一人私だけ死に,それによって全国民が感動すれば,この身は栄誉となり,国 には幸をもたらすことになろう。」81
鄭 在洪の最初の目的は,李 完用,李 根澤 (イ・グンテク),李 趾鎔 (イ・ジヨン),朴 斎純,
権 重顕 (クォン・ジュンヒョン) たちを銃殺することであった。事を起こすため彼は拳銃を 買った。最初は敵を殺して自分は生き残る方法を講じたが,それは難しいことだと分った。
そこで,敵を殺して自分も死ぬという道を考えた。しかしもしそうすれば,ただ二人の間 が仇敵関係になってしまうだけの[個人的関係]に終わってしまう。そこで彼は結局,自分 だけが自決することによって,抵抗の意義を全国民に伝えるという[公義の]道を選んだの である。「生死榮辱歌」で表現したように「志士 10 名のみが国のために死んで行けば,失っ た国権は取り戻すことが出来る」という言葉が彼の信念であった。彼は自決することによっ て,民族の魂を国民に教え悟らせようとしたのである。彼は南山・奨忠檀 (チャンチュンダ ン) 公園前に暮らす商人出身のキリスト教徒であったが,教会に通ううちに民族意識に目 覚め,仁川にある仁明義塾 (インミョンウィスク) の教頭を務め民族教育を行なってきた民 族志士であった。鄭 在洪の葬儀は貞洞教会で執り行われた82。鄭 在洪の殉国によって民 族運動の世界にはもう一度奮起を促す契機が与えられ,「皇城新聞」「뎨국(テグク)新聞」
が主催し「志士 鄭在洪君 遺族救助義捐金」募金運動を大々的に繰り広げた83。
同年 (1907 年) 7 月 22 日,もう一人のキリスト者,洪 太順 (ホン・テスン) が自殺した。
高宗が日帝によって強制退位させられた直後のことだった。「大韓毎日申報 (テハンメイルシ ンポ)」の記事である。
「宣教師 自裁 ‒ 楊州居 基督教 牧師 洪太順氏가 再作日 午後 四時에 大漢門에셔 韓皇 의 禪位를 憤慨하야 毒藥을 呑하고 自殺하얏다」84
伝道師という身分である楊州[ヤンジュ:京畿道,議政府の旧称]に居住するキリスト教牧 師・洪 太順は,高宗の退位に憤慨し徳寿宮大漢門の前で一昨日服毒自殺を敢行した85。 自殺は,力なき民衆が圧制者に抵抗するための最大の武器であった。力なき民衆は自分 の命を自ら進んで絶つことによって,独裁者の暴力に抵抗したのである。キリスト者の自 殺も,かかる視角において解釈されるのである。無力さを目の前に置き,そうして侵略者,
侵入者である日本に向かって,非暴力抵抗運動を繰り広げたのである。
Ⅳ ‒(2)後期,武力抵抗運動
キリスト教徒たちの自殺事件が発生した翌年の 1908 年,アメリカにおいて韓国の一キ リスト教徒が拳銃でアメリカ人を射殺するという事件が起こった。
1908 年 3 月 23 日,サンフランシスコ駅構内でアメリカ人外交官スティーヴンス
(D. W.
Stevens)
が銃弾を受けて倒れた86。倒れたアメリカ人の前で二人の韓国人が「大韓民国,萬歳!」と叫び,警察に逮捕された。犯人は張 仁煥 (チャン・イヌファン) と 田 明雲 (チョン・
ミョンウン) であった。スティーヴンスは,張 仁煥の銃弾を受け絶命した。田 明雲が先に 発射したが不発に終わり,それに続いて張 仁煥が発射した銃弾にスティーヴンスは当った のだ。逮捕された張 仁煥は群がる記者たちのところに行き,明晰にその理由を次のように 述べた。
「いまさら多くの言葉は必要もなく,日本人が韓国に対し不義の行為を犯しているこ とはこの世の全てが知っている通りである。スティーヴンス,この者は韓国顧問官と して韓国の支給する給与を食みながら,反対に日本の側に与し,韓国同胞二千萬人を ひそかに毒殺しているのである。我が国を滅ぼそうとする盗賊を無くしてしまわなけ れば,我々は日本人の手によって滅ぼされてしまうのだ。だから体中にふくれ上がっ た自分の憤怒をどうすることも出来ず,国敵を無くしてしまい殺身成仁(仏に成る)
すれば,私のような義士たちが継続して自分のあとに続いて来ることを私は願うのだ。
もし自分の生命のことを考え,命を維持しようとしても,私の父母妻子 兄弟姉妹が毎 日日本人に虐殺されようとしているのであれば,生きていても仕様がないではない か。」87
張 仁煥は平壌出身の監理派のキリスト者であった。1905 年ハワイ移民船に乗り労務者 となってハワイ・マユ島で肉体労働をしたあと,翌年アメリカ本島に渡って行った。鉄道 労務者として,あるいはアラスカ漁場の労務者として仕事をしながら,大東報國会館民族 運動団体に加入し民族運動に参加していた88。
スティーヴンスという人物は,当時韓国政府の外部(外務部)顧問官という職責をになっ ていた。すなわち韓国政府に雇用されていた官吏であった89。彼が任用されたのは,1904 年に締結された韓日協約[韓日議定書,第一次日韓協約]に従って,日本政府が推薦した顧問 官雇用規則によるものであった。彼は財政顧問マッカーサーと共に,日本政府の推薦を受 けて韓国政府に雇用されたのであった。スティーヴンスの表面上の上官は韓国政府の外務 部であったが,事実上の上官は伊藤博文であった。彼 (スティーヴンス) は韓国政府のあら ゆる外交文書を検閲・監督しつつ,日本に有利な外交政策を展開した。彼は韓国に来る前 は在米日本公使館顧問,つまり日本外務省の官吏として日本政府に忠実な召使の役割を果 たしてきた。韓国に来て,彼が最初になした業績は「乙巳保護条約 (1905 年)」締結であり,
その後も “丁未七條約[日韓新協約,第三次日韓条約,1907 年]” までの種々条約締結に関わ り続け,国権を日本に移譲するよう画策した。
丁未七条約締結後彼は特別休暇をもらい,米国内における反日の雰囲気を和らげるため 本国に帰って来たのだった。彼はアメリカに到着するや,日本を絶賛する内容の記者会見 をひらいた。
「韓国に李 完用のような忠臣や伊藤博文のような統監がいることは幸いなことであり,
東洋の大いなる幸いである。私が韓国の情勢を見るに,太皇帝[生存中に帝位を譲った 前帝の名称]の徳は甚だしく失墜し,また何とも頑迷な党派勢力が国民の財産を盗み取 り,国民は幼稚で独立する資格もないので,だから日本が奪わなかったら既にロシア が奪い取っていたはずだ。」90
このような彼の言動は在米同胞たちを激しく憤らせ,ワシントンに向けて出発しようと するスティーヴンスを,[抗日運動団体である]“共立協会” 会員の田 明雲と “大東報國会”
会員の張 仁煥が,両人の間に何らの事前の申し合わせなど一切ないまま,同じ時刻に狙撃 したのであった。張 仁煥はアメリカの裁判にかけられ,25 年の懲役刑を宣告された91。
1909 年 12 月,今度は国内でキリスト教徒のテロが起こった。李 完用襲撃事件である。
主犯は平壌出身のイエス教徒 (監理教教会員)・李 在明 (イ・ジェミョン) であった92。李 在 明は安 昌浩 (アン・チャンホ) の講演を聴き民族運動に目覚め,1905 年アメリカに渡った。
初期移民たちのほとんどそうであったように,彼はハワイの農場で労働したのち,1906 年 本島サンフランシスコに移った。そこで「共立協会」という民族運動団体に加入して活躍し,
ハーグ密使事件が起きた直後,売国奴を粛清するために 1907 年 10 月帰国した。最初は伊 藤博文を狙っていたが,1909 年 10 月満州ハルビンにおいてキリスト教徒 安 重根 (アン・
ジュングン)・禹 徳淳 (ウ・ドクスン) による狙撃事件が勃発するや,その対象を李 完用に変 えた。金 炳祿 (キム・ビョンノク),金 정익(キ ム・ジョンイク),李 東秀 (イ・ドンス),全 泰 善 (チョン・テソン) などと共に 李 完用を初めとした売国奴暗殺計画を立て,遂にその最初 の挙行として李在明は 1909 年 12 月 22 日,明洞聖堂 (ミョンドン・カトリック教会)で行な われたベルギー皇帝追悼ミサに参席した李 完用をナイフで攻撃した93。李 完用は重傷を 負ったが命は繋ぎ止め,李 在明は逮捕され日本人判事が主宰する法廷で死刑を宣告され た。
回復した李 完用によって,韓日合邦[韓国併合]が調印された直後の 1910 年 9 月 21 日,
李 在明は西大門刑務所において絞首刑に処せられた。彼は乱れることなく整然とした姿勢 をくずさず死刑台にのぼり,最後の望みは何かと言う執行官の質問に対し,平素口ずさん でいた賛美歌を歌った。それは「賛美歌」にある “イエス様はお救い下さる” であった94。 1909 年 10 月満州ハルビンにおいて,日本の朝鮮侵略の第一等功臣・伊藤博文がキリス ト教徒によって狙撃された95。天主教徒[カトリック教徒]安 重根が主犯として逮捕された が,この事件にはこれに関わった別のキリスト教徒がいた。尚洞教会出身で乙巳五條約締 結後シベリアに亡命していた監理教教徒,禹 徳淳[ウ・ドクスン:別名,禹 連俊(ウ・ヨンジュ
ン)]であった。彼は安 重根と共に,この大事に最初から関与しており,狙撃の機会をうか がいチェガク駅[채각역]で伊藤を待っていたが,物ものしい警備のために志を遂げること が出来なかった。しかし彼は事件の直後,主犯の一人として逮捕され牢獄の苦痛を経験さ せられた96。彼はシベリア亡命直後,咸鏡北道の国境地帯で義兵として活躍していた武装 闘争家であった。
彼は安 重根と一緒に大事を起こす直前に,決断の心情を吐露した詩を作っているが,そ の詩には武装テロに対する信仰者の意識を窺うことが出来る。
「会った 会った 仇敵のお前に 会った,
お前に一度会おうと 一生涯願っていたが,余りに遅かったこの出会い。
お前に会おうと万野を掛け巡り 水陸幾万里を ある時は船で ある時は列車で,
千辛万苦を繰り重ね 露・清(ロシアと清国)両地を越えながら。
座っている時も 立っている時も 天を仰いで祈りつつ,
憐れみください 憐れみください 主イエスよ 憐れんでください,
この半島の 大韓帝国を 私の願いどおり 救ってください。」97
このように武力による積極的な抵抗運動を追求したキリスト教徒たちに対し,キリスト 教の世界の一部では教理的理由のゆえに憂慮を表明したり,あるいはそれを罪だと断罪す る者まであったが,しかしキリスト教徒たちの積極的武装闘争は一般社会では肯定的に受 け入れられていた。禹 徳淳・安 重根事件の直後,暴力テロに対する非難がキリスト教界 に存すことを知った民族言論紙「大韓毎日申報」は,次のような反論を掲載した。
「今,韓國の宗教信者の中には,國家を論じる者は上帝[神]に対する罪びとであると か,或いは民族を思う者は魔鬼[悪魔]の教徒であると断ずる者があるが,果たして これは正しいものか。」98
また張 仁煥によるスティーヴンス狙撃事件以後にも,アメリカ・サンフランシスコで発 行されていた「共立新聞」は次のような内容の社説を掲載し,保守主義的信仰者の偏狭な 国家観を悲観した。
「我が韓国のイエス教徒は,口を開けば旧約・新約[聖書]に基づいて国家を治めると 言うが,それはとても信じられない ―――― 。韓国のイエス教徒がどんなに新・旧約 聖書に精通していようとも,こと国家に関する事柄ついて言えば,いかにして軍隊を 拡張し,いかにして教育を発展させ,いかにして法律を改正し,いかにして財政を管 理すべきかについてはまったく無知蒙昧である。では,何によって国家を治めるのか。
私はイエス教に反対しているわけではない。しかし私たちイエス教同胞が願うのは,
十字架を負い十戒を守るその心で,国家組織と国民団結のために必要な政治や法律も 研究すべきだということである。」99
教会内ではキリスト教徒の武装闘争に対し賛否両論が存したが,しかし少なくとも民族 運動の系列においては,キリスト教徒たちの積極的抗日闘争を「民族愛の十字架信仰」と して解し,高く評価していたというのが事実である。
神学的論争における良し悪しの問題はさておくとしても,以上のようなキリスト教徒た ちの武装闘争は,それが日帝による侵略と支配という現実に対する積極的抵抗運動であっ
たという点,およびそれが否定すべき社会現実に対する強力な改革意識の反映であったと いう点,これらの点だけは確かな事実である。さらにこうした積極的武装闘争を繰り広げ たキリスト教徒たちの背後勢力について言えば,ソウルの場合は “民衆階層” が主流をな した尚洞教会がその背後勢力であり,そして西北地方出身のキリスト教徒の場合には旧韓 末期日帝の経済侵略の犠牲者として海外亡命あるいは移民した “民衆階層” がその背後勢 力であった,という点を指摘しておく必要がある。すなわち “民衆階層” の積極的抵抗意 識と闘争論理が,旧韓末の武装闘争という形で表出されたのである。
〈(以下,【三】に続く)〉
原注
36 ,開化派および開化党については,李 光麟(イ・グァンニン)「開化派の形成」:『開化党研究』一潮閣,
1985所収,pp. 1 〜 66参照。
37 ,同上,pp. 8 〜 17.
38 ,李 光麟「甲申政変に関する一考察」:同上所収,pp. 140 〜 146.
39 ,独立協会の組織および性格については,慎 鏞廈(シン・ヨンハ)『独立協会研究』一潮閣,1976が代 表的で,キリスト教との関連における独立協会運動を考察した論文としては李 萬烈(イ・マンニョル)
「韓末キリスト教徒の民族意識動態化過程」:『韓国基督教と民族意識』知識産業社,1991所収 。 朴 ジョ ンシン「韓国現代史における改新教の位置―独立協会運動を例として」:『シアル・ソリ(民衆の声)』
99号,1989. 3. 所収,など参照。
40 ,李 光麟「徐 載弼の開化思想」:『韓国開化思想研究』一潮閣,1981,所収,p. 109.
41 ,材培学堂のサンムン出版社で「独立新聞」を印刷した期間は,1898年5月から1900年廃刊までの2 年間であった。李 光麟「徐 載弼の “独立新聞” 刊行について」:李光麟,同上書所収,pp. 171 〜 173。“W. B. Scranton, Superintendent”. ,1898, p. 24。 D. M. Davies,
, Drew University, New Jersey, 1986, p. 185.
42 ,尹 炳 奭「独立協会の活動」:『韓国史』18巻,国史編纂委員会,1984,所収,pp. 157 〜 158.
43 ,「独立新聞」1896. 7. 2 。 尹 炳奭,同上,p. 159.
44 ,尹 炳奭,同上所収,pp. 161 〜 187.
45 ,朴 容玉(パク・ヨンオク)「萬民共同会」,同上所収,p. 236.
46 ,「独立新聞」1896. 11. 24。“The Corner Stone of Independence Arch”, , Nov. 1896, pp. 457 〜 458。これ以外にもイエス教徒たちの “示威的集会” についての新聞報道は種々なされている。すな わち1896年8月高宗誕生日に教会員二千余名が集まったという記録(「独立新聞」1897. 8. 26)があり,
また材培学堂の教師・学生たちが主導した朝鮮開国紀元節祝賀行事(「独立新聞」1897. 8. 17。「朝鮮 キリスト人会報」1897. 8. 19)などがある。
47 ,「独立新聞」1896. 7. 23.