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nマー;フルクシュタルについて
一ゲ「テとの関わりで一
鈴 木 邦 武
1)はじめに
『ハーフィズ詩集』の最初の独訳者ハマー一プルクシュタルが,中世ペルシ アの詩人ハーフィズについて説明したものの一つとして次のような文が,上記 詩集の序文にみられる。
「王たちから尊敬され,友人たちから愛され,ハーフィズはシーラーズのバ ラの園をめぐって学問と享楽のうちにその人生を送った。その時期はオリエン
トの歴史の中でも最も荒れ狂った世紀の一つにあたっていた。憎みあい,戦い あったいくつもの王朝が相手の廃嘘の上に新たに王朝を起こしては,次々に亡 びて行った。戦火の絶えない状況が続き,ついにはティームールによって,す べてを滅亡させる征服の災が,広い範囲に及ぶ恐ろしい大火が,アジア全土に 燃え上った。ハーフィズはこの征服者に謁見し,彼からも快く迎えられた……
当時オリエントを揺り動かした政治の嵐の残酷さは,この詩人の濁りのない明 朗さと著しい対照をなしている。ハーフィズは,自分のまわりでいくつもの王 国が崩壊し,王位を奪った者たちが轟きとともに登場してくる中で,それらに
とらわれることなく陽気にサヨナキドリとバラを,酒と愛を歌っていた……も し彼が不滅の歌を歌うために,静かさと平和を待ち望んでいたとしたら,それ らの歌は歌われないままになってしまったであろうし,また,彼の名前も今日 東方の国で強い感動を持って人々の口にされることもなかったであろう。」(1>
長い間にわたる政情不安の中にあって,それに脅かされ続けたゲーテにとっ て,時代の激しい混乱と脅威にもかかわらず,それらにとらわれることなく天 衣無縫に振舞ったハーフィズの存在はどんなにかまぶしいものであったろう
か。
やがてゲーテは,この詩人を見習わんとして,この詩人と競いあおうとす
る。
ペルシア語を知らなかったゲーテが,ハーフィズ理解の手がかりとしたの
は,もっぱらハマー=プルクシュタルの手になる翻訳であった。
このハマー=プルクシュタルがテキストとして用いたのは長い間権威あるも のとされていたトルコの詩人スーディー(1591年没)の校訂による版で,その 全部を翻訳したものである。
この翻訳について,ブルダハでは,「ぎこちない,いろいろとあいまいさの 残る,そして誤解によってゆがめられた翻訳」(2)と述べられているのをはじめ
として,シュタイガーには,「リュッケルトの優れた業績によって光を失って しまっている,ハーフィズ理解への寄与としても古くなってしまった」(3),シ エーダーには,「ハマーの文体は,あまりにもオリエントの意識的な誇張の影 響を受けたために,そのドイツ語訳を絶えられないものにしてしまった」(4)と の評がある。また,オリエント学者レーマー(H.R.Roemer)は,『ハーフィ ズ研究の諸問題とその解決の立場』(Problem der Hafizforschung und der Stand ihrer L6sung)の中で,ハマー=プルクシュタルのハーフィズ翻訳に
ついてはゲーテとの関連で,注の部分で触れているに過ぎない。(5)レーマーで は,ハマー=プルクシュタルよりもおよそ40年後に出はじめたローゼンツヴァ イク=シュヴァナウの訳がドイツにおける標準的な翻訳であるとされている。
しかし,ハーフィズの詩を,その第1巻では,一行ずつスーディーの注解を 付して編集したブロックハウスは,各詩の末尾に,それぞれの詩がハマー=プ ルクシュタルの訳のどれに当るかをも指示し,ハマー=プルクシュタルの訳に
も注目している。また,ゾルプリヒでは,ハマー=プルクシュタルは,ハーフ イズの詩を訳すのに当って,原詩の内容を出来るだけ損わないよう一語一語逐 語的に訳して行こうと努めていることを指摘している。(6)
また,ゲーテ自身は,「西東詩集のよりよき理解のための注と論考」の中の
「翻訳」(第57項目)の項で,ハマー=プルクシュタルの訳を高く評価してい
る。
ともあれ,ハマー=プルクシュタルの翻訳にどれ程の欠陥があったにして も,それが『西東詩集』成立のきっかりとなったことは否定できず,ゲーテに ハーフィズを理解する手がかりを与えたという点において、ハマー=プルシュ タルの「ハーフィズ詩集』は歴史的役割を十分に果したといってよい。
本論文では,その多くの研究成果を通して19世紀初頭におけるヨーロッパの
オリエント理解のために寄与したハマー=プルクシュタルについて,ゲーテと
関連づけて,考察してゆくこととする。
鈴木 :ハマー=プルクシュタルについて 35
2)伝記的なこと
ヨーゼフ・フォン・ハマー(Joseph von Hammer)は,1774年6月9日,
オーストリア第二の都市グラーツに生まれた。彼がハマー=プルクシュタル
(Hammar−Purgstall)と名乗るようになったのは,1835年,相続人のないプ ルクシュタル伯爵夫人が亡くなる際,遺産と共に名称も相続してからのことで
あった。
グラーツは,オーストリアの東南に位置していて,ウィーンからは南へ約 200キロのところにあり,ここから東の隣国ハンガリーや南の隣国チェコスロ
ヴァキアまでは100キロ足らずである。ここの小高い山シュロッスベルクの展 望台には,東南1233キロのところにはイスタンブールがあることが標示されて いる。東南に向って眺望される丘陵と,その後方の山々の遙か彼方には,もう 地続きでオリエントの世界が存在している。事実このあたりは,トルコ人がウ イーンを攻囲した際に幾度か通過したところでもあった。ウィーンはヨーロッ パの東に位置していて,オリエントに向った玄関の感があるが,グラーツにつ いてもまた同じことが言えよう。オリエント学者ハマー=プルクシュタルは,
オリェントと関わりを持ち得る環境に生まれ育ったということもできよう。
ハマーは土地の小学校を終えて,14才の時にウィーンに向い,バルバラシュ ティフトに入り勉強しながら,王立東洋語専門学校(die k. k. Orientalische Akadernie)の予備コースに通った。この王立東洋語専門学校は,マリーア・テ
レージアがパリにあるColl6ge de Luis Grandにならって, トルコとの外交 で役立ち得るような語学の堪能な若者を教育するために作ったものであった。
厳しい計画のもとで,ここでの日課は毎日変ることなく繰返された。しかし,
ここでの訓練の厳しさがハマーのその後の生活態度をつくり上げてゆくことに もなった。一年間の予備コースの後で彼は正式に入学を許可された。
ここでハマーはその驚ろくほどの理解力と優れた語学の才によって直ぐにイ スラーム圏の三つの言葉の知識を習得した。彼が東洋語専門学校の学生であっ た頃,フランス革命が起ったが,これは,当時の学生たちすべてに言えるよう に,彼の精神的発展,政治に対する考え方に強い影響を及ぼすことになった。
とはいっても,それ以上に,トルコにおける外交上の役割を荷なわされること になっていた東洋語専門学校の学生たちにとっては,その関心の多くはトルコ に向っていたようである。
1791年と92年のトルコとの和平交渉の際には,東洋語専門学校の学生たちは
通訳の手伝いにかり出されていた。また,トルコの派遣団が東洋語専門学校を 訪れた際・ハマーは彼の力量によって派遣団の賞賛を得ることもできた。この トルコからの派遣団を迎えたことによって,ウィーンにはトルコ・モードが生 まれ,それがヨーロッパ中にまで広がったりした。
1794年,ハマーが東洋語専門学校を終えた時は,補助通訳官の職は空いてい ず,彼はさらに東洋語専門学校に留ることになった。しかし,そのことが彼の その後の学問上の発展には重要な意義を持つことになった。つまり彼はヘル ダーの友人で,ヘルダーからも大きな影響を受けており,当時歴史家として名 声を博していたヨハネス・フォン・ミュラー(Johannes von M廿ller,1752_
1809)と知り合う機会を持ち,その後の学問研究に最も強烈な影響を受けるこ とになった。
ミュラーは当時,ウィーンで,後に宮廷図書館の館長となったフォン.イ エーニッシュ男爵と共に,その歴史書(Allgemeine Weltgeschichte von der Sch6pfung bis auf gegenwartige Zeit)の完成に携わっていた。ハマ_はこ の両者の手助けをしたが,その中で彼は,彼の最初の学問的な著書『オリエン ト諸科学に関する網羅的展望』 (Enzyklopadischeむbersicht der Wissen一 schaften des Orients)の基礎を得ることができた。
ハマーの初期の論文によってオリエント学に興味をそそられたウィーンの医 者カール・ボロメーウス・フォン・ハラハ伯爵(Carl Borromaus von Har_
rach・1761−1829)は,当時東洋語専門学校の助手であったハマ_とペルシア 語の勉強をさせてくれるように,専門学校とかけ合って許可を得ている。そし てそのことがハマーのハーフィズ詩集翻訳のはじまりとなった,二人はテキス
トにハーフィズ詩集を選んだのだった。
1799年5月・25才になったハマーは,外務省の通訳官補として,ド_ナウ 河・黒海を経てコンスタンティノープルへと初めてのオリエント旅行に旅立っ
た。
コンスタンティノープルの大使館ではハマーは冷やかに迎えられた。若い通 訳官の流行に追従する服装や髪型は大使のかんにさわるものであった。当時ま だお下げ髪を結ひ髪粉を振りかけていた大使館の全員は,かつらを着けないこ の若僧の中に,不気味なジャコバン党員のイメーヂを見てとったのだった。ま た,彼はひどく読みにくい筆跡であったが,そのために有能な官吏と認めても
らえず,程なくしてそこからヘラにある公使館に移ることを命じられる。
鈴木:ハマー一プルクシュタルについて 37 しかし,その後男爵ヘルベルト(Baron Herbert)から,そのむごでアクリ の解放者であるシドニー・スミス(Sldney Smith)をたたえる詩を作るよう に依頼されて,ふたたびコンスタンティノープルに戻る。その後暫く,彼はオ
リエント関係の研究の機会を持つ。
1800年2月,ハマーは彼の語学の才を認められて,レヴァントを旅して,エ ジプトの状況についての印象を報告するようにとの指令を受ける。
カイロでのクリベール(Jean Baptiste KI6ber,1753−1800)将軍の暗殺と イギリスの態度から生じた政治的なもつれのために,フランス占領下でのカイ ロにおけるオーストリア総領事の挙動を吟味するというハマーの使命の遂行は 遅れた。しかし,彼は,イギリス海軍の艦長シドニー・スミスの兄で大臣であ
るスペンサー・スミスによって書記兼通訳として雇われる。そして1801年,エ ジプトに向うイギリスの出兵に同行,カイロにたどりつくことができ,その本 来の使命を果す。その年,イギリスの出兵が終ったときに,ハマーはイギリス
に向う。
1801年11月から1802年4月までの5ケ月間をハマーはイギリスにあって,熱 心にオックスフォードやロンドンのオリエント博物館を訪ね,また,「オリエ
ント学者のカーバ」と呼ばれているボドリアン図書館を利用したりした。
また,この頃,彼は,近代オリエント学の創立者とも言われているパリのシル ヴェストル・ド・サシ(Silvestre de Sacy,1758−1838)と個人的に知り合う 機会を持った。
1802年3月,ハマーは,大臣コーベンツェル(Ludwig von Cobenz1,1753一 1809)からの,ウィーンへ帰るようにとの命令を受ける。
帰途,ハマーは,ハルバーシュタットに,ミュラーの友人の詩人グライム
(Johann Wilherm Ludwig Gleim,1719−1803)を訪れ,ドレースデンでは オーストリアの大使メッテルニヒ(Franz Georg von Metternich,1746一 1818)のもとで食事を共にしたが,その息子がやがて数年後にオーストリアの 運命を決定する程の人物になること,また,彼の上司として,彼の運命の上 に,さまざまな重要な,あるときは有利な,また,あるときは不利な影響を及 ぼすことになるだろうなどとは,当時は思いも及ばなかった。
ウィーンに戻ると,公使館参事官としてコンスタンティノープルへ行くよう にとの命を受けて,ハマーはコンスタンティノープルへ向う。
ハマーの二度目のオリエント滞在は1802年から1806年までの4年間であ・〉
た。ハマーの大使館での仕事上の関係は,彼の上司の身勝手な振舞によって,
また,そこで支配的であった妊策のために非常に不愉快なものであった。その ようなこともあって,彼は,自分が愛好するオリエント研究に一層専念して行 く。彼は,また,ここで,60才でなおアラビア語を学び後に『オリエントの宝 庫』の協力者ともなったロシアの大使イタリンスキー(Ritter von Italinsky)
と友人になっている。
1806年5月ハマーはモルダウ地方の総領事に任命され,ヤスイに移る。彼の ヤスイ行きは,はっきり左遷であった。文学好きな彼に好意を抱かなかった上 司による差金だった。彼は,とるに足らぬこの小都市に失望したが,しかし,
すぐに新たな友達を得ることになる。その人物の中に,ハマーは新たな文学上 の友人を見出すことになるわけだが,その人物とは,後にゲーテの信頼する友 人となったカール・フリードリヒ・フォン・ラインハルト(Karl Friedrich von Reinhard,1761−1837)であった。
ラインハルトは,ハマーとゲーテとの関係でも重要な役割を演じることにな るので,後に触れることにする。
1807年,ハマーはウィーンに召還される。ウィーンでは,官房
(Haus−, Hof−und Staatskanzlei)に配属される。ウィーンに住み,そこでの いくつかのサロンに出入りするようになったハマーは,そこで色々な人と出合 い,影響を受け,援助を受ける機会を持つ。例えば,スタール夫人は,ハマー に,マホメットについてのドラマを試みてみることを促した。彼女は,預言者 というものは悲劇にとっては最もやりがいのある人物であり,本当のマホメッ
トは,舞台の上ではヴォルテールの『マホメット』とはまったく違った効果を 及ぼすにちがいないと主張した。ハマーは,このフランスの女流文学者の考え
を,実際のマホメットに忠実な性格描写である劇作品の中で実現してみようと 努めた。
また,ポーランドの伯爵ゼヴスキ(Wenzeslaus Rzewuski,1765−1832)
が,オリエント文学のために役立つことをしたいという希望を表明したとき,
ハマーは,オリエント研究を進めるための国際的な雑誌の構想を展開させ,す でに次の年には『オリエントの宝庫』 (Fundgruben des Orients)発行のた めの計画が実現している。
1808年,フランス軍がウィーンに押し寄せて来たとき,ハマーは手ぬかりか
らあとに残ってしまった。しかし,まさにそのような事情によって,彼は,オ
鈴木:ハマー=プルクシュタルについて 39 一ストリアの学問研究のために測り知れない貢献をすることになった。フラン ス軍は,ウィーンの美術館や図書館を荒らしはじめ,とりわけ宮廷図書館から 数百にのぼる高価なオリエントの写本をパリに送るために取り上げた。図書館 長があきらめると,ハマーは精力的に写本を取り戻すために尽力した。ウィー ンでハマーにより,パリでド・サシによってなされたこの交渉は数週間続い た。その際,ハマーは巧みに彼の個人的な繋がりや学問的な繋がりを利用し た。ついにフランス人は,その写本のうちの一部を引き渡した。
1809年の夏が終る頃,ハマーは,その間外務大臣になっていたメッテルニヒ に,まだ戻されていない写本の引渡しを求めるために,パリに派遣してくれる よう申し出る。その結果,オーストリアの役人としてではなく,オリエント学 者としてまた『オリエントの宝庫』の編集者としての資格という形で許可が与 えられる。12月のはじめ,ハマーは,いく人かの有力な友人の紹介状を持っ て,およそ5ケ月の予定で・ぐりに向った。そして,所期の目的を果して1810年
5月,ウィーンに戻る。
1810年,ハマーは郷里グラーツを訪ねた際,シュタイアーマルクの教養ある 人々の集会所となっていたプルクシュタル伯爵の家を頻繁に訪ねている。プル
クシュタル伯爵とは前年ウィーンで知り合っていた。
1811年,ハマーは宮廷通訳官兼参事官となる。しかし,これは特別な役割が あるわけでなく閑職であった。それは彼には好都合で,それだけ一層オリエン
ト研究に専念できた。
1812年,友人であり援助者であったプルクシュタル伯爵が亡くなる。
1814年,ハマーはウィーンでシュトットガルトの出版社主コッタと会う。コ ッタは丁度ハマーのハーフィズ詩集の翻訳を出版したところであり,そのすく・
後に,それを持ってテユーリンゲンのゲーテのもとに行くことになっていた。
また,この年,ハマーは,イエーナ大学のオリエント学の教授で,ゲーテの オリエント学の助言者でもあったコーゼガルテン(Johann Qottfried Ludwlg Kosegarten,1792−1860)や,ザクセン・ヴァイマルの公爵カール・アウグス
トにも,ウィーンで会っている。
1816年,42才のハマーは,ウィーンの銀行家ヘニクシュタイン(Joseph von Henikstein)の美しく知性ある娘カロリーネと結婚。
1821年,ハマーはメッテルニヒの命を受けてベルリーンに行く。統計事務局
にっいて調査するためだった。そこで彼は科学アカデミーの総会にも出席し,.
シュライアーマッハ(Friedrich Daniel Ernst Schlelermacher,1768−1834)
やサヴィニー(Friedrich Carl von Savigny,1779−1861)に会い,また作曲 家ウェーバーと知り合いになった。ウェーバーは丁度オペラ『魔弾の射手』
(Der FreischUtz)でその名声を築いたところであった。
1823年から38年にかけて,『トルコ文学史』(Geschichte der Osmanischen Dichtkunst)とハマーの最後の二つのディーヴァーン翻訳, 『ムタナビー』
(Motenebbi, der g6Bte arabiscbe Dichter)と『バーキー詩集』(Bakrs, des gr6βten tOrkischen Lyrikers Diwan)が出る。
1824年と1835年の間に,ハマーのもっとも有名な作品,10巻からなる『オスマ ン帝国史』 (Geschichte des Osmanischen Reiches)が出,そのすぐ後に,
それを縮めた4巻本が出された。
1826年,ハマーは,イタリアの図書館を訪ね歩き,そこにある未整理のオリ エント文献を整理している。イタリアでも当時オリエント流行がみられ,ハ マーは,特にオリエント風の装飾が施されている舞踊会用大広間にそれを認め て心を魅かれたという。
その年には彼はプラークとドレースデンにも行っている。
9 0
P832年,カリフの内部支配に関する彼の論文(Uber die Landerverwaltung unter dem Chalifate)がベルリーンのプロシア科学アカデミーから賞を受け,
また,ペルシア皇帝からは,マルクス・アウレリウスをペルシア語に翻訳した ことによって太陽獅子勲章を授与されている。
彼は多くの学会の会員に選ばれている。1809年にはアムステルダムのアカデ ミーが,1811年にはゲッティンゲン・アカデミーが,1812年にはフランス学士 院(Institut de Fance)とカルカッタのアジア協会が彼を会員に指名した。
1817年にはマドラスとボンベイの東アジア協会が彼を会員に選び,1818年には フィラデルフィアの哲学協会が彼を会員に指名した。1825年にはコペンハーゲ ンの学会とロンドンの英国学士院が彼を会員にした。同じ年,ハマーは,パリ の碑文アカデミーの亡くなったヴィルヘルム・フォン・フンボルト(KarI Wilhelm vonHumboldt,1766−1829)の地位につくことになり,1842年には
トリノのアカデミーが彼を会員に迎えた。
1835年に,61才のハマーは「彼の生涯の急転」を迎える。3月にプルクシュ 汐ル伯爵夫人の危篤の通知を受け取る。彼はハインフェルトに急いだが,既に
遅く長年の友人であり援助者であった夫人は亡くなっていた。彼女の遺言は,
鈴木:ハマー=プルクシュタルについて 41 このオリエント学者とその男性の後継者にハインフェルトの支配権とそうでな ければ滅びてしまうであろうプルクシュタルの名前の相続を決めていた。
この所有権の譲受によって,それ以来,彼はフォン・ハマー=プルクシュタ ル男爵と呼ばれるようになった。
その後彼は,学問的,文学的仕事に完全に没頭した。60才から83才の間に,
ハマー=プルシュタルは,数多くの論説や評論と共に30の比較的大部の作品を 発表している。その中には,
『キプチャックにおける黄金の群れの歴史』 (Geschichte der Goldenen Horde in Kiptschak),
『カーンの歴史』(Geschichte der Ilchane)
『トルコ文学史』(Geschichte der Osmanischen Dichtkunst)・
6巻からなる伝記的作品『偉大なイスラームの支配者たちの伝記の絵画室』
(Gamaldesaal der Lebensbeschreibungen grosser muslimischer Herr一 scher),
『アラビア人の文学』(Literatur der Araber),
その他がある。
ハマー=プルクシュタルはまたウィーン科学アカデミー設立のために精力的 に努力した。科学アカデミー設立には,はじめメッテルニヒが賛成しなかった ために話は進捗せず,計画を立ててから長い年月を要した。後に,メッテルニ ヒは内政的な理由から設立を認めることになり,1847年になって設立されるこ とになる。1847年6月ハマー=プルクシュタルは初代の会長に選出され,1848 年2月2日には開会式が催された。しかし,彼はアカデミーの理事たちと必ず
しもうまく行かず1848年には会長を辞している。
1852年9月,ハマー=プルクシュタルはおよそ10年前から毎夏,ハインフェ ルトで執筆していた回想録に締めくくりをつける。
1856年11月,83才の高齢で亡くなる。かねてから用意しておいた,オリエン ト風の御影石の枢に納まり,ウィーン郊外ヴァイトリングの墓地に眠る。その 枢には,彼が自由に使いこなした十の言語からなる銘が刻みこまれている。
3)ゲーテとハマー=プルクシュタル
ゲーテの『西東詩集』は,その初期の想構のタイトル『ペルシア詩人ハーフ
イズの詩集と絶えず関連づけられたドイツの詩集』が示すように,ペルシア詩
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人ハーフィズとの深い関わりの中で出来上って行く。そして,そのハーフィズ の詩集は,シュトットガルトの出版社主コッタによって贈られたものであっ て,ドイツ語訳としてまとまった形で発行された最初のものであった。前にも みたように,その訳者がハマー=プルクシュタルである。
しかし,ゲーテが,「西東詩集理解のための注と論考」をも含めた『西東詩 集』制作のために,ハマー=プルクシュタルから恩恵を受けたのは『ハーフィ ズ詩集』のドイツ語訳を通してばかりではなかった。愛好会による編集と銘打 っているが,実際にはハマー=プルクシュタルが編纂して1809年から1818年ま でに6巻出している年鑑『オリエントの宝庫』,1818年に出版された『200人 のペルシア詩人の名詩選によるペルシア文学史』 (Geschichte der sch6nen RedekUnste Persiens, mit einer BIUthenlese aus zweyhundert persischen Dich一 tern)などにも,ゲーテはペルシア文学理解のためには負うところが大きか
った。『西東詩集』理解のためというより,オリエント全般について,ドイツ の読者に理解させるために,詩の後の部分に付した「注と論考」の中で,ゲー テは自分が恩恵を受けたオリエント学者たちについて取り上げていて,その中 にハマー=プルクシュタルも含めている(56番目, 「フォン・ハマー」の項
目)。
この中でゲーテは,彼が『西東詩集』を制作するのに当ってどんなにハマー
=プルクシュタルの研究成果に負っているかは,この詩集の至るところにみら れるとして,ハマー=プルクシュタルに謝意を表している。
次いでこの項目の中では,『ハーフィズ詩集』を含めてハマーニプルクシュ タルの五つの業績を取り上げている。
『ハーフィズ詩集』に関しては,ハーフィズの作品のすべてが完訳の形で見 られるようになり,そのためハーフィズという詩人の内的本質をとらえること ができるようになり,ハーフィズへの愛着をかきたてられていることを記して いる。やがて,ゲーテは自分も作品を作り出すことによって,ハーフィズと競 い合うことによって,ハーフィズと自分とを関係ずけて行こうとしてゆくこと になるわけだが,その契機を与えてくれたことをハマー=プルクシュタルに感 謝している。
次にゲーテが取り上げているのは『オリエントの宝庫』である。 「愛好会 編」とはなっているが,非常に高度なもので,ドイツ語圏における最初のオリ エント関係の専門誌と言えるものである。ハマー=プルクシュタルが以前から
r
鈴木:ハマー一プルクシュタルについて 43 抱いていた国際的な雑誌の構想によるもので,この雑誌にはドイツ語ばかりで なく,如何なる言語で書いたものでも,それからまた,オリエントに関わるこ とならばどのようなテーマでも掲載できるとしたのだった。いわば全ヨーロッ パに開かれた雑誌をハマー=プルクシュタルは考えたのだった。しかし,その ことが逆に,この雑誌を専門家ではない一般の人たちには近づき難いものにし てしまっていることも確かである。
ゲーテは,この『オリエントの宝庫』については,その第1巻が出版される とすぐにおおよそのことは分ったが,「今や自分がそこから利益を受ける時が 到来した」(7)ことを告げている。彼が『オリエントの宝庫』を詳しく読むの は,主として「注と論考」を執筆する時点になってからである。
この書物から受けた印象を彼は次のように述べている。
「博識な人びとは,われわれに過去のことについて教えてくれる。また,現 時点の活動がどのような立場から生じているのかを明らかにしてくれる。さら
に,われわれがとるべき次の道を示してもくれる。幸いなことに,上にあげた すばらしい作品は変らぬ熱意をもって続けられており,たとえわれわれがこの 分野において研究から一時退くことがあっても,ここで非常に生き生きと享受 し,利用しうるように多方面から提供されていることがあるために,いつも新 たな関心を持ってそこに立ちもどりたくなるのだ。」(8)
と『オリエントの宝庫』にみられる東洋研究の熱意をたたえながらも,それ が専門家にだけ向けられているように感じられることへの不満も述べている。
そして,その中の全部でなくても,いくらかの論文については,それが扱って いる時代とか人物,地理といったことについての解説が付けられていた方がよ かったと,素人である立場の気持も披渥している。
次にゲーテは『200人のペルシア詩人の名詩選によるペルシア文学史』を取
り上げる。
ハマー=プルクシュタルは,この著書の「概観」の三つの章のうちの最初の 2章で,この著書で取り上げる詩人たちが登場する以前の時代にっいて簡単に 述べ,第3章で,ペルシア文学の特徴といったことについて触れ,本論では10 世紀から彼の時代,つまり1816年までを六つの時代に区分する。
第一の時代は黎明期のペルシア詩,叙事詩の時代でルーダキーからオマル・
ハイヤームまでの20名の詩人があげられている。代表的な詩人として,ハマー
=プルクシュタルはフィルドウスィーの名をあげている(913年から1106年ま
一