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十六世紀イスパニアにおける価格革命と財政

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十六世紀イスパニアにおける価格革命と財政

その他のタイトル The Price Revolution and Public Finance in the 16th Century Spain

著者 宮下 孝吉

雑誌名 關西大學商學論集

巻 13

号 6

ページ 632‑649

発行年 1969‑02‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021230

(2)

十六世紀イスパニアにおける 価格革命と財政

宮 下 孝

十六世紀における金銀のアメリカからの到来以前には,ヨーロッパの貿易 はスーダン産の金によって需要を充たしていた。しかし, 1460‑70 年におけ るボルトガル人のアフリカ大西洋岸を伝たってのギニー湾へのたびたびの遠 征や十六世紀初におけるボルトガルと東イソドとの間の直接貿易は,スーダ ンの黄金ルートを地中海から方向転換させて,ヨーロッパにおける金の大不 足を起した。この不足は,一部分には,偶然にも貴金属の不足と符合した1470

‑1530 年の相対的な繁栄期を迎えたドイツの銀坑からの供給によって充当さ れた。しかるに, 1530 年からこの不足は思いもかけずに緩和されたのである。

それはアメリカの金銀が,古い供給源に代わって,ヨーロッパの貨幣の莫大 な保有量,とりわけこの金銀が到着してそこから弘布されたイスパニアにお ける物価の大変動の起源を与え始めた。

財宝の流入はほとんど全く銀から成っていた。 1 5 5 0 年までは輸入は金と銀 とであったのだが,アメリカの金は物価に相当な影響を与えるためにほ,最 大輸入の年々においてすらも,決して十分ではなかった。そして, 1 5 5 0 年以 後には,金はその重要性を全く失なったのである。しかるに,銀の受取量ほ

(1) 

法外に拡大した。銀輸入の拡大は1530 年頃から最も効果的にはじまり, 1550 年まで着々上昇しながらも比較的に中庸な水準にとどまっていた。このとき から,ガレオン船が大量の銀を輸入し始め,この量は1 5 8 0 年からはヨリ湛大 (1)  E.  J .   H a m i l t o n ,   The A m e r i c a n  T r e a s u r e   and t h e   P r i c e   R e v o l u t i o n   i n  

S p a i n ,   1 5 0 1

1 6 5 0 ,Cambr. M a s s .  1 9 3 4 ,  p .   3 5 .  

(3)

十六世紀イスバニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 3 3 )   77  となり,物価の深甚な革命を起した。 「銀の洪水」の背後にはアメリカ自体 における技術上の革命があった。ドイツで考案されたものだが,水銀を用い て銀を処理する新しい方法,いわゆるアマルガム法なるものが, 1557 年にバ ルトロメ・デ・メディナにより新イスパニア(=メキシコ)に導入された。 1571

(2) 

年にはこの方法が上ペルーのポトシ銀山に採用された。アマルガム法は財宝 の輸出を十倍にし, 1580 一 1630 年にはピークに達した。これはイスバニア帝

(3) 

国主義の最盛期である。

I I  

貴金属についての国家の関心ほ,マーカンティリストの先入主からのみ生 じたのではなく,国家が最も必要としていた物財を買入れる貴金属の能力か ら生じた。ー一つまり強国への手段である。イスパニアは既に保護主義の国 であり,関税によって障壁を設け,その国境を出入するものはなんでも理論 上は制御していた政府というものは,新発見の財宝を政府の把握から逃げる

のを放っておくことはない。しかし,独占,そして独占を維持しようとする 努力は,完全ではなかった。等族会議はしばしば苦情を述べた。貴金属の不 断の流出ほ「われわれがインディアンであるかのように」国家を貧困化して いると。そして,イスパニアは「他の諸国のインド」であると普通いわれた。

何故に貴金属がイスパニアから逃げて海外で流通したか。それには多くの理 由がある。イスパニアは主として原料の輸出者,製造品の輸入者であった。

不利な貿易差額であったので,イスパニアは現金で支払を決済せねばならな

(4) 

かった。このことは,イスパニア商人またはイスパニア在留の外国商人によ って行われた正貨の無免許輸出の多くを説明する。これらの正貨のすべては (2)  拙稿,十六世紀におけるイスパニアの西インド貿易,本誌,第 7 2 巻第 3 号 , 16

‑18 ページをみよ。

(3)  1503   1 6 6 0 年における公私の登録金銀の輸入量は 4 4 7 , 8 2 0 , 9 3 2 ペソ ( 1peso= 

450 m

a v e d i s ) , すなわち, 2 5 7 , 4 8 8 , 4 1 8 ポンドに相当するといわれる。 C.H. 

H a r i n g ,  A m e r i c a n .  Gold and S i l v e r  P r o d u c t i o n  i n  t h e  f i r s t  h a l f  o f  t h e  S i x t e e n t h  

C e n t u r y ,  Q u a r t e r l y  J o u r n a l  o f  Economics, V o l .   2 9 ,   1 9 1 5 ,  p p .  433‑79  および

ハミルトン前掲書 p p .35‑38 をみよ。

(4)

ヨーロッパの大生産中心地へと送られた。ある意味においては貴金属ほイス バニア経済を動かすことのできた支柱であった。しかし,密輸出とならんで,

国家は若干の国外支払を正貨で輸送するのを免許せねばならなかった。とい うのは,重要食料品および船用品の輸入は現金で買入れねぼならなかったか らである。しかし,最大の送金は国王自身がその海外公約の支払のために行 われた。フッガ一家がアウグスブルクでシュワッツの彼らの鉱山からの貨幣 で行なったように,イスパニア系ハップスプルグ家は彼らの貨幣を国内の生

(5) 

産事業に投資する代わりに,外国の諸企業にますます多く浪費した。これは 野心の犠牲であったのみならず,イスパニア帝国の存立そのもの,およびそ の防禦の犠牲であった。貴金属がイスパニアを去った諸ルートはみな, ビル

,,ミオから直接に,またはフラソスやイクリアを経由して北欧に集まってきた。

というのほ,イスパニアの政治的・軍事的利害が最も危険にさらされた支払 差額が最も不利であったのはここ,北欧においてであったからである。貨幣 そのものはフランスとの紛争や低地地方における諸戦役においてだけではな く,北欧の経済にも必要不可欠であった。というのは,アントウェルペンか ら貨幣はドイツやイギリスに送られ,他方,イギリスはまた羊毛船のなかに イスパニア商人たちによる正貨の密輸出からも利益を得たからである。

I I I  

イスパニアからの急速な流出にもかかわらず,アメリカの財宝はイスパニ ア経済に深甚な結果をもった。十六世紀中とくに1 5 3 5 年からの輸入量の増加 と商品価格の騰貴とのきわめて密接な関連は十分確証されており,その結果,

アメリカ鉱山の生産物はイスパニアにおける価格革命の主要原因であると看 倣されねばならぬほどである。

(6) 

,,ヽミルトンのテーゼと彼が拠っている統計的証拠とは攻撃不可能であるが,

(4)  拙稿,十六世紀におけるイスパニアの交通事情,本誌,第 1 2 巻第 4 • 5  • 6 号 , 29‑30 ページをみよ。

(5)  拙著,西洋古代中世経済史, ミネルヴァ書房,昭和 42 年 , 409‑10 ページをみよ。

(6)  H a m i l t o n ,  o p .   c i t . ,   p .   3 0 1 .  

(5)

十六世紀イスバニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 3 5 )   79  彼の方法およぴ解釈の若干の批判は今日まで増大しつつある。諸批判ほ次の 5 点に要約することができる。①ハミルトンは都市の物価を研究したが,地 方市場で支払われ作物の収穫量にヨリ密接に結び付けられていた農村の穀物 を考慮のなかに入れねば完全な研究でほない。②イスパニ アのーがハミルト

ンの調査から省略されている。カタロニア,バスク地方を含むこの両者はお そらくイスパニアのその他よりもヨーロッパ経済に一層密接に関連していた。

⑧すべての諸地域が一貫してハミルトンのテーゼに適合され得るものではな い。すなわち,ヴァレンツアは1 5 3 0 年までは先頭に立ち,その後は落伍した が , 1 5 8 1 一1 6 2 0 年には再びリードした。それだけではない。一般にもセヴィ

リアではヴァレンシアよりも速く物価は騰貴したけれども,そのことほ一定 の時に生活費がヴァレンジアよりもセヴィリアで一層高かったとかその逆で あったことを物語るものではない。④アメリカ財宝の入港登録のハミルトン の数字は次の点で欠陥がある。すなわち,彼は国王収入と私人収入とを切り ほなし,またほ,非登録の入手量を包含するために採用した基準を示していな い。⑥彼の物価統計数字は出所の欠点からそこなわれている。すなわち,そ れらの数字は劃ー的な出所のものである一~しかし,

これらの批判にもかかわらず,ハミルトンの著作に代わるものは提供されな

(7) 

かったので,この著作は今日依然として不可欠である。

イスパニア政府は, ヨーロッパのその他の諸国と同様に,貴金属の流入と 物価の騰貴との因果関係を理解していなかったし,そのために,その経済政 策や財政金融政策において煩わされた。他方,当代の人々は価格革命をたし かに自覚していた。というのほ,それは生活費に反映されていたからである。

そして,その原因については多くの不確実や混乱があったけれども,個々の 経済学者はアメリカ金銀の役割を正しく評価し始めた。そのうちでも,最も (7)  P .  V i l a r ,   Problems of t h e  f o r m a t i o n  o f  c a p i t a l i s m ,  P a s t  and P r e s e n t ,  V o l .  

1 0 ,   1 9 5 6 ,   p p .   1 5 ‑ 3 5 ;   I n g r i d   H  =arstrom, The " P r i c e   R e v o l u t i o n "   o f  the 

S i x t e e n t h  C e n t u r y .   Some Swedish e v i d e n c e .   S c a n d i n a v i a n   Economic History 

Review, V o l .   5 ,   No. 2 ,   1 9 5 7 ,   p p .   1 1 8 ‑ 1 5 4 ;   J .   N a d a l ,   La Revoluci6n de l o s  

P r e c i o s  e s p a n o l e s  en e l   s i g l o  x v i ,   Estado a c t u a l  de l a   c u e s t i 6 n ,   H i s p a n i a ,  V o l .  

1 9 ,   1 9 5 9 ,  p p .   5 0 3 ‑ 2 9 .  

(6)

有名なのはフランス人の理論家ジャソ・ボーダソであった。彼は周知のよう に , 1 5 6 8 年に財宝輸入とインフレーションとの関連を確証した。これよりも 十二年以前の 1 5 5 炉 F にはマルティ ノ・デ・アスピルクエク・ナヴァルロとい うカノン法学者が高い生活費は財宝輸入のひとつの結果であること,その存 在を知った首都の声明を作成した。

「われわれは経験によって次のことを知っている。貨幣がイスパニアよりも 乏しいフランスでは,パン,プト'‑酒,毛織物,労力の価格もはるかに安い。

そして,イスパニアですらも,貨幣がヨリ乏しかった時代には売れのよい財 貨や労力はこの国に金銀の洪水を起した西インド発見以後に比べてきわめて 安かった。その理由は,貨幣はそれが豊富なところやときに比べて乏しいと

ころやときにほ,価値が多大であるから」。

サラマンカ学派の他のイスパニア人も,類似の意識を示した。ドメニコ派,

トマス・デ・メルカードは 1 5 6 8 年に完成され,ボーダンに少しも負うもので ない論作を翌年に刊行した。それは伝統的な文体で倫理的な分析に充ちてほ いたけれども,貨幣数量説やアメリカ金銀と当時のインフレーツョソとの関 係を包含する若千の経済的観察をも示している。

しかし,この問題の適切な理解というものは近代の学者に侯たねばならな かった。貴金属の流入と物価の騰貴との間の因果関係ほ,地域と時期とによ って区別されねばならない。大ザッパにいって,物価はアンダルツアで最高 に上った。そこは西インド貿易の独占を通じて財宝輸入の最初の衡撃を常に

(8) 

受けた。次は新カスティリア,それについで,一方では旧カスティリアとレ オン,他方ではヴァレンシアがくる。それは,それぞれ財宝受取中心地から の距離に相応している。イスパニアにおける一般物価水準ほこの世紀の前半 には二倍少し上った。この時期には,上昇は最初の十年代,第三十年代,第 五十年代に大体起った。物価はこの世紀の後半に上昇しつづけ, 1 5 5 1 一 5 6 年 , 1562‑69 年 , 1584‑95 年の比較的安定な横ぼい状況があった。しかし, 1 5 9 6 年以後には物価ほ急騰し, 1 6 0 1 年には 1571‑80 年基準で 1 4 3 . 5 5 の指数という

(8)  新旧カスティリアの地域的区分についてほ,拙稿,十六世紀におけるイスパニ

アの産業,同志社商学第 2 0 巻第 1・  2 号 , 3 4 3 ページをみよ。

(7)

十六批紀イスパニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 3 7 )  81  極点に達し, 1 6 0 0 年までには物価ほ 1 5 0 1 年の水準の四倍となった。 1 6 0 1 年か らはこの過程は抑制され,動揺の一つの時期の後には 1637‑42 年まで一時下 落した。しかし,物価は十六世紀の末に達したビークからは完全には下降し

(9) 

なかった。

この事実の記述にほ考慮すべき二つの事柄を附加せねばならない。第一,

物価は十六世紀の後半に最高に達したけれども,価格はこの世紀の前半にほ 比例的にヨリ大であった。 1 5 0 1 年から 1 5 5 0 年までは,騰貴は 1 0 7 . 6 1 %であっ たが,この世紀の後半に 9 7 . 7 4 %であった。それだけではない。価格革命の 加速度的上昇リズムは十六世紀の中頃の年代には緩慢になった。 1549‑60 年 には物価はたった 1 1 . 9 %方増加し, 1 5 6 2 年は急速な上昇( 2 . 8 %の半年増)か らより中等位 (1.3% )へと移った年である。あの中頃の現象は当時のアメリ 力財宝のチャンネルである西イソド貿易における不況に関連させることがで き,十七世紀の経済不況と財宝流出との関係は既にフィリッポニ世の治世の 始まる頃 ( 1 5 5 6 ) に前兆を示している。第二に,イスパニアの経済的進歩と北 欧のそれとの差異を物価にのみ帰するのは誤りである。一般に,物価の騰貴 はその他のヨーロッパにおいてほイスパニアにおけるよりも後代であり,激 しく t まなかった。それはアメリカの金銀がヨーロッパ諸国に流通するには時 間がかかり,その過程中に希釈化を蒙った。先ずフラ ノス,次いでイギリス がその衡撃をうけた。しかし,それはこれらの異なる諸国における生活費の 完全な描写をわれわれに与えるものではない。例えば,穀物はあの大イソフ

(10) 

レーション期間中に,イスパニアよりもフランスの方が常に高かった。

なおまた,財宝そのものが価格革命の唯一の原因ではなかった。流通する 貨幣の数量が増加すると,それに比例的に物価水準の増大が起るという貨幣 数量説ほ,イスパニア物価史のなかに包含された諸要因すべてを説明するに ほ余りに粗雑である。それ故に,工業生産や農業生産も考慮の中に入れられ ねぼならない。貨幣の流通量の増加ほ,それに相応する生産の増加がないと きには,同額の財貨がますます多くの貨幣を追跡し,従って,物価は騰貴す

(9)  H a m i l t o n ,  o p .   c i t . ,   p p .  1 9 0 ‑ 9 2 ,  1 9 9 ‑ 2 0 3 .  

( 1 0 )   N a d a l ,  o p .   c i t . ,   p .   5 1 2 .  

(8)

ることを意味している。アメリカからイスパニアに流入した貨幣は国内の生 産性を増加するにほ用いられなかった。そして,ヨリ高い物価は避け得られ ない結果であった。十六世紀の前半における工業生産の増加後には,それは 貨幣の増加と歩調を合わせなかったのだけれども,イスパニアの産出高はそ の後減少し,貨幣は海外に生産物を求めた。需要の側からは,衣食住を与え らるべき庶民人口がいまやヨリ多かった。人口の増加は食糧を含む諸財貨の 需要を増加させた。農業生産者は,工業生産者と同様に,増加しつつある需 要に即応しきれず,新しい豊かでない土地が栽培された。このようにして,

限界費用は増大し,一人当りの産出高はより小さくなったが,需要は増加し つづけた。食料供給に対する人口の圧力は,かくして,農業生産物の価格を 増大させ,生活費を上昇さすのに一層助力を与えた。

価格革命の諸結果ほ,その原因に比べて,説明するのに一層困難であら ぅ。価格革命は生活費の一般的騰貴を起したが, しかし,それが異なる諸階 級,国全体の経済発展にとって何を意味したかは決して明白ではない。古典 的な説明によると,イスパニアの経済的後進性がイスパニアのインフレーツ

(11) 

ョンの諸結果と直接関連された。ョーロッパにおける賃銀の物価からのズ

V

が資本の蓄積をたすけた。漸減的な労働価格は企業者たちに例外的な利益の 機会を与え,この利益がその後さらに投資されることができた。他方,イス パニアはこの一般原則の例外であると主張された。というのほ,賃銀が物価 からもズレてはいたけれども,そのス・レは特別の利益を与え, したがって,

資本主義への大剌激を与えるには十分でなかったからである。この議論の一 層精緻にされたものは,利潤のインフレーションおよびデフレーションの諸 時期と民族的な勃興および衰退の諸時期との密接な対応関係に注目すること であった。この理解のもとでは,イスパニアの偉大さは 1 5 2 0 ‑ 1 6 0 0 年のイン フレーションと偶然に一致し,その失墜ほ 1600‑30 年のデフレーツョンと偶

(12) 

然に一致した。利潤のインフレーションと資本の蓄積との間には密接な関係

( 1 1 )   E .   J .   H a m i l t o n ,  American T r e a s u r e  and t h e  R i s e  o f  C a p i t a l i s m ,  1500

1 7 0 0 , Economica 9 ,   1 9 2 9 ,  p p .   3 3 8 ‑ 5 7 .  

( 1 2 )   J .   M. Keynes, T r e a t i s e  o f  Money, London 1 9 3 0 ,  i i ,   p p .   1 5 4 ‑ 5 5 ,  1 6 1 .  

(9)

十六世紀イスパニアにおける価格革命と財政(宮下)

(639) 

83  があったからである。イスパニアにおける賃銀はいずこのところよりも高か ったから,資本を蓄積する機会が少なく,これはイスパニアの劣位の主要な 原因であった。しかし,これらの貨幣理論は多くの問題を未解決にしている。

利潤のインフレージョンは工業上のプームを必ずしも意味しない。このこと を別にしても,イスパニアのすべての賃銀労働者が価格革命中に彼らの外国 の労働者よりも暮し向きがよかったという議論に賛成すべき根拠はない。イ ギリスおよびフラ ノスにおける建築工の賃銀をヴァレンツアにおれるそれら と比較すると,前者が十六世紀を通じて少なくとも同様の前進的な損失を被

(13) 

ったことは明瞭である。とにかく,建築工の賃銀は工業労働者や農業労働者 のそれとは伴なわないので,一般化を正当だとみるに足るほど代表的ではな ぃ。イスパニアのイソフレーツョソが投資のための資本の蓄積を産み出さな かったのは確かである。しかし,これほ,それから利益を得た人々が彼らの 富を不生産的に一一称号や土地財産を買入れに,奢俊的な建物に,または奢 移的な消費財の購買に,それとも単に貯蔵に一使用したからである。

それでほ,価格革命ほイスパニア社会のさまざまな方面にどのような影響 をもったか。十六世紀のイギリスにおける状態は,不断に騰貴する物価と固 定した地代との分離は地主を貧困化させることがあるという見解を支持して

(14) 

いる。しかし,これはイスパニアには適用されない。そこでは,地代ほ固定 化されておらず,地主たちのより大きな勢力は地代を引上げ,より多く支払 能力のある者によって彼らの借地人に代わらせることができた。イスパニア には富者はヨリ富裕となり,貧者はヨリ貧困となりつつあったという豊富な 証拠もある。これから可能なひとつの推論は,アメリカ市場の開拓とイベリ ア半島そのものにおける人口の増加とは,農産物に対する需要の増加,栽培 の拡張,耕地の価値上昇を産み出し,これはみなインフレーションの附加的 刺激と偶然に一致した。もし,これと同時に,二三のきわめて富める家族の 手に土地財産の集中化があり,これをさらに地代を引上げる勢力と一緒に考 慮の中に入れるとすれば,イソフレーション期はイスバニアにおける大地主

( 1 3 )   N a d a l ,  o p .   c i t . ,   p p .   5 2 3 ‑ 2 4 .  

( 1 4 )   Hamilton, R i s e  o f  C a p i t a l i s m ,  p .   3 5 0 .  

(10)

84 ( 6 4 0 )  

I 六枇紀イスパニアにおける価格革命と財政(宮下)

たちには不利益ではなく,人々が土地に投資するのを妨げなかったと見える であろう。しかし,地主たちは価格革命から利得した唯一のものではない。

売却しまたは転売する何物かを持っている人は,製造業者や商人がこの世紀 の前半に行なったと同様に,インフレーションの利益を収めることができた。

状況がその後一層困難となり,そして不断のインフレーションがイスパニア 企業の国際的ならぴに植民地の市場での競争力を弱めたときには,ただ有力 な商人のみが外国の競争に生残り,そうした者は疑いもなく繁栄した。莫大 な富が西インド貿易で作られ,インド貿易の拡大は物価騰貴に直接関係させ られた。イスパニアで物価が上ったときには,アメリカでは一層騰貴すると いう強い推定の根拠があったし,これは一層の投資とヨリ有利な報酬とを奨

(15) 

めた。この報酬はセヴィリアの商家を越えてイスパニアの他の諸部分におけ る企業家たちに分配された。というのほ,アメリカ市場はアンダルシアの油 とプドー酒,カスティリアの羊毛,バスク地方の冶金産物および船舶を入手 したからである。少なくとも十六世紀の末まではイスパニアには儲けられる 貨幣がまだ存在していたのである。他方において,価格革命は固定収入およ び少額地代で生活した人々には貧困化をもたらした。それは,固定収入や少 額地代は物価と歩調をーにし得なかったからである。イダルゴ階級,下級聖 職者,政府の役人その他の小地主たちはみな,彼らの生活程度は,商品の価 格が彼らの資力を越えて上昇するに従って,引下げられたことを知るに至っ た。農民の情況は明らかでない。というのは,農業の繁栄と都市への農村か らの大移出とを調和させるのは困難であり,このことはさらに又,イスパニ アにおけるいわゆる栽培の拡張を説明することを困難にしている。しかし,

ひとつのことほ確実である一一賃銀ほ物価におくれて上った。両者の差は十 六世紀の前半において一層悪かった。賃銀の貨幣価値が立ち直ったとしても,

賃銀の購買力は下りつづけた。 1 5 5 0 年までには,実質賃銀ほ 1 5 0 1 一 2 0 年の平 均に比べて,大ザッパ 2 0 %下り,それは 1551‑60 年から 1591‑1600 年まで着

(16) 

々と下りつづけた。減少は約 1 2 %である。十六世紀の大部分を通じて,生活

( 1 5 )   前掲拙稿,十六世紀におけるイスパニアの西インド貿易, p p . 1 5 ‑ 2 1 .  

( 1 6 )   H a m i l t o n ,  P r i c e  R e v o l u t i o n ,   pp.  2 7 3 ,   2 7 9 ,   394  f f .  

(11)

十六世紀イスパニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 4 1 )   85  はイスパニア貧民には困難であった。まことに,イスパニア賃銀労働者大衆 には,価格革命は悲しい打撃であり,この打撃は彼らの既に低い生活程度を なお一層低下させたからである。

他方,国王は,その同盟者である貴族と同様に,その臣民の大多数に比べ て,これらの発展によって勢力を殺がれることは少なかった。たしかに,行 政費,その軍隊の俸給支払,食糧支給,装備の費用は,財貨のコストが私人 の消費者にとって上ったと正に同様に,国王にとって上った。というのは,

戦争は他のものと同様にひとつの産業であり,物価水準が高かったので,ィ スパニアにとっては他の諸国に比べて一層高価であったからである。しかし,

貴族がその地代を引上げることができたと同様に,国家もその収入を増加し 得た。この収入は物価と歩調を合わせることを可能にしたが,インフレーツ

ョンは国家収入の相当な部分を占めた借入金の負担を軽減した。

IV 

十六世紀におけるイスパニア国王の支出ほ莫大であり増加しつつあったが,

国王は増大する巨大な資源をもっていた。当代の予算における入手可能な数

(17) 

字は精確を欠いているが,一般趨勢を示すには十分である。

カール五世の収入は彼の治世中に三倍となった。フィリッポニ世の収入は 1556‑73 年の期間だけで二倍となり,彼の治世の末までにはさらに二倍以上 となった。しかし,負債も増加しつつあった。フィリッボニ世は彼の父から 少くとも 2 0 0 万デュカートの負債を継承した。そして,彼の後継者にこの金 額の五倍の負債を残したようである。しかし,その治世の絶望的な財政上の 手段はすべて,将来の収入を引当に取得した借款, 1 5 7 5 年および 1 5 9 6 年にお ける支払停止の二勅令は同一の結論を示している。 1 5 8 8 年には無敵艦隊の準 備費だけで,フィリッポ自身があの年の六月に等族会議で述べたように 1 カ 月 9 0 万デュカートであった。彼の治世の最後の十年間には国王の支払不能は 掩うべくもなかった。

( 1 7 )   K. Haebl~r, Die w i r t s c h a f t l i c h e  B l u t e  Spaniens im 1 6 .  J a h r h u n d e r t ,  B e r l i n  

1 8 8 8 ,   s s .   1 0 8 ‑ 1 3 4 .  

(12)

イスパニア国王が所有していた収入の全項目のうちで,西イソドからの収 入はイスパニア人ならびに外国人にも最も印象深かった収入である。しかし,

他の源泉からの受取額に比べるとそれは目ざましいものではなかった。西イ ンドから得た金額—国王の五分の一税,売買取引税,関税および十字軍補 助金 ( c r u z a d a )から成る一はフィリッボニ世の治世最後の二十年間に急増 した。そして, 1590‑1600 年にはそれは六十年代初頃の四倍以上という年平 均に達した。そうであっても,それらは常に想像されるよりは全収入のうち で依然小部分であった。国王のアメリカからの収入は 1 5 5 4 年における全収入 の約 1 1 %から 1 5 5 9 年における約 2 0 %に上った。その最高においては,これは フィリッボニ世の教会からの収入源よりは多くはなく,カスティリアの不幸 な納税者から絞りとられた額よりははるかに少なかった。ではあるが,アメ

リカからの収入額ほどのような計算によっても非常に貴重な意外なる授かり 物であった。その大きはイスパニアにこの国が十六世紀にもっていた特別追 加勢力を与えた。それだけではない。西イソドから個々のイスパニア人が取 得したかなりの報酬ほーーフィリッボニ世の治世中に国王収入の平均 2 . 2 倍 である一一そうでなければ不可能であったような率で彼の臣下たちがさまざ まな国内租税を支払うことのできたのにひとつの重要な役割を演じた。国王 のその他のヨーロッパ属領すべてほ,すでに積極的な収入源ではなくなって しまっていた。すなわち,低地地方, ミラノ,ナボリ,ッチリアでは,収入 は次第にその湯で吸収された。残ったのほイスパニア,むしろカスティリア のみであった。イベリア半島におけるフィリッポニ世の恒久的な滞在は,国 内の比較的な平穏と共に,皇帝がかつてそうすることができた以上に,納税 者に,大貴族にさえもヨリ有効な要求を組織することを可能にした。彼の治 世の経過中に,カスティリアの諸税の目録はたえまなく増加し,新しい諸賦 課が加えられまたは古い諸賦課が改訂された。主たる租税はアルカバラであ

(18) 

った。これはすべての売買取引から価格の 1 0 %を徴収したもので,十六世紀 の後半にはそれが 1 4 %に上げられた。これも亦増大しつつある収入で, 1 5 6 1 年の 1 2 0 万デュカートから 1 5 7 4 年の 370 万デュカートとなっており,消費者

( 1 8 )   前掲拙稿,十六世紀におけるイスパニアの産業, p . 3 6 2 .  

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十六世紀イスパニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 4 3 )   87  ならぴに生産者にも痛かった税である。もちろん,都市,等族会議,神学経済 学者たちが課税の膨張に対して抗議したように,苦情はあった。 1 5 6 3 年には,

カディスは増大しつつある諸賦課はその商業を破減させつつあると声明した。

1 5 7 1 年には等族会議ほ物価の騒々しい上昇の責をアメリカ財宝ではなく,彼 らが彼らの眼そのもので見た諸事実に帰した。 「困難なしに生活し得る人が 少ないのはこれらの租税とすべての生活必要品の高価とによるのだ」。 しか し,国家は自己の困難を別にしてはすべての困難に眼をつむっていた。そし て,インフレーションや戦費の必要に直面して,その需要を調達する以外の 政策を知らなかった。

これらの需要の若干は教会に重くかかった。教会からのフィリッボニ世の 収入は,彼の予算のうちでひとつの恒常的な大きな項目であって,アメリカ からの彼の収入に比肩される。最も貴重な教会収入,そして銀行家たちが彼 らの貸金の最良の担保と看倣したものほ十字軍補助金であった。これは十字 軍勅書の形態で教皇から国王に下賜され,この勅書のなかでほ聖職禄が貨幣 上納に代えて信徒に授けられた。その本来の根拠ほムーア人に対する戦争に あったが,その根拠が後にはなくなってしまったのに「十字軍補助金」は更 新されつづけた。その理由の一部分は,地中海におけるトルコ人の脅威であ り,一部分はカトリック主義を振興させる目的でイスパニア王に下賜された ものと看倣されたからである。カール五世の治世には十字軍補助金ほ緊急手 段ではなくなり,国王の経常収入源となった。これは十六世紀の残りの期間 中,三年の間隔をおいて教皇によって一一時としては不本意ながら—――更新 された。フィリッボニ世の治世にはその収入額は大ザッパにいって二倍とな った。

十字軍補助金ほ俗人からの醸出であったが,助成金は聖職者が受取った地 代,土地その他の形態の収入に対する租税であった。

最後に,国王十分の一税 ( t e r c i o sr e a l e s )および騎士団の地代収入があった。

フィリッボニ世はこの収入すべてを継承しこれに追加した。 1 5 6 7 年には教 皇ピオ五世がフィリッボにエクスクサード ( e x c u s a d o )という新税を許可した。

これは各教区の財産に対する租税で,フラソドルにおける戦争のためのもの

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であった。それ故に,国王がイスパニアにおける教会財産の莫大な増加を奨 励するには財政上の理由があった。というのは,教会は豊富な課税源であっ たからである。フィリッポニ世の教会収入,彼の全収入のうちでその占める 割合を評定するのは困難であるが,明らかにそれはかなりなものであった。

しかも,それは上昇しつつある収入であって,彼の治世の末までには彼の全 収入の 2 0 %におそらく達した。 1 5 7 舷 F にはトレードの司教代理ドン・サンチ ョ・プストは,教会の収入の二分の一以上が国家によって国家自身の使用の ために徴られたこと,イスパニア王はルーテル派の支配者たちのためには学 ぶべきものの乏しい例であること,というのは彼の方法は彼らたちよりもま さってはいないからだとフィリッボニ世に苦情を述べた。さらに付加してよ いことほ,彼の方法は教会財産を没収したプロテスクントの支配者たちに比 ぺると,おそらくヨリ有効であった。イギリス王は現金に代えて修道院の所 有地を売却し,それから長朝の収入を得るのに失敗した。他方,フィリッポ 二世は教会財産を維持し拡大し,次いでひとつの栄える制度に課税すること によって,イスパニア国家がなお別の収入源,しかも恒久的な保護された収 入を所有していることを確保した。イスパニアにイギリスという競争者より

もヨリ大きな財政力を与えたのは,西インドのみではなかった。イスパニア 教会もその役割を演じたのである。

これらの巨額な諸税は支出に追い付かなかったが,それらはそれを制御す るために用い得る幼稚な手段を追い越した。十六世紀におけるイスパニア国 家の弱点のひとつは一ーその隣国の大部分も共通した弱点である—納税人 大衆と完全な意志疏通を確立し得る機関を国家がもたなかったことである。

諸障害はイスパニアの東部諸王国の国制上の特権からのみ起ったのではなく,

中央行政のひとつの欠点から起った。カール五世およびフィリッボニ世は国

立銀行をもたず,かくして,私人銀行家たちに全く依存した。フィリッポニ

世が 1 5 5 9 年にイスパニアに戻ってきたとき,次の十年間の彼の最大の急務は

その財政を立直すことであった。各方面から勧告が申出されたが,結局のと

ころ,彼はいつでもフッガ一家またはヂェノア人あるいはイスパニアの商家

マルヴェンク家に頼ることを勧められた。彼の諸国家および多くの海外公約

(15)

十六世紀イスバニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 4 5 )   89  の散布ほ,徴収さるべき収入および払出さるべき支出の分散を包含し,そし て,ただ国際的な諸商家がこれを行なう手段をもっていたにすぎない。イス

,,←ニアのような帝国の基本的な財産入用のひとつ,貨幣の輸送のみは商人銀 行家たちに依頼するほかには方法がなかった。しかし,商人銀行家たちは別 の役割を果した。すなわち,彼らは貨幣を用立て,かくして,それが満期と なる以前に,政府収入を流動化した。これをするには,彼らはしばしば諸税 の事実上の徴集または彼らの抵当物を管理する権利を与えられた。ヂェノア 人はイスパニアにおけるカルク販売の独占,アンダルシアにおける特定の製 塩所の支配をもっていた。フッガ一家はアルマーデンの水銀鉱山,南イスパ ニアにおけるガダルカナルの銀鉱山ならびに騎士団の財産の管理を与えられ た。騎士団の財産の利権譲渡ほ,広大な殻産地,牧場,通行税,農民の諸負 担が外国支配のもとにおかれ,その支配を実行するためフッガー家は彼ら自 身の代理人たちー一規律正しく熱心なドイツ人—をイスパニアに紹介した。

収入の徴集が外国人商社の手をはなれたときですらしそれほしぼしば都市 や等族会議のような中央機関に与えられた。というのは,国家そのものほこ のような職務のためには何にも準備がなかったからである。

この収入の大多数はそれが徴集されたよりも速かに費消された。その大部 分は陸海軍に支出され,とりわけ低地地方におけるイスパニア軍の維持や 1 5 6 7 年以降のそこでの戦費調達のために用いられた。ここでは,必要とする 貨幣を即座に入手するのが問題であった。低地地方が供給されているがため には,明白に単純な解決方法があった一―—国王は自己の計算で現金を直接に 送ることができた。しかもそれほ,アメリカからの金銀輸入の規則性によっ てのみ制限をうけた。永い間,大西洋および英仏海峡を通る海上ルートは,

公開的でありかつかなり安全であった。そして,それはビルバオまたはサン/

クンデルで貨幣を船積しそれをアントウェルペンにいる財政代理人へ直送す る問題にすぎなかった。カール五世時代およびフィリッポニ世の初年代には,

この種の操作が行われた。

(16)

しかるに 1 5 6 7 年からは低地地方にアルバ公の脅威的な到着とともに,イギ リスは敵対関係に方向転換した。イギリスの海賊の活動が増加し,イギリス の海峡封鎖がはじまった。これは 1 5 6 8 年におけるアルバ公の傭船の抑留にみ られる。しかも,ヨリよい友好関係が再開されたときには,イスパニアはそ の後,別の敵を迎えねばならなかった。それはオランダの海賊たちである。

その活動は 1 5 7 2 年における彼らによるプリーレという南オランダの港の占領 以後,盛んとなった。このような環境では大西洋ルート経由で低地地方へ貨 幣を輸送することはあまりにも危険となりつつあったし,船団輸送またほ功 妙な封鎖突破によりときどき敢行され得たにすぎない。

別のルートを見出さねばならぬ必要があった。最も直接的なルートはフラ ンス経由である。しかし,これは短距離であるという長所をもっていたけれ ども,宗教戦争中には中断され,大軍隊の先導随伴する動物や荷車の面倒な 一団を組織してかなり重い荷物である金属を輸送せねばならなかった。とに かく,フランス政府は自己の領土内でのこのような行動を好まなかった。と くに彼らは協約には必ずしもないような政策に資金を調達するよう指示され たからである。 1 5 6 6 年と 1 5 8 1 年との間にほ,イスパニア外交の目的のひとつ ほ,フランスを経由して貨幣を輸送するための安全な護衛を確保することで あった。必要は緊急であった。 1 5 7 2 年までに,低地地方へ到着したとほとん ど同時に貨幣不足を感じていたアルバ公の地位は,絶望的であった。しかし,

その年の末には最初の陸上貴金属輸送団が通過した。 5 0 万デュカートがフラ ンスの査証のたすけで彼の許に到着した。この後の護送団もあり,積送品も 商人を介してまたは密輸によってフランスを経由して行われた。しかし,フ ラソスルートは,一時の方使にすぎず, 1 5 7 8 年以後は重要性が少なかった。

その頃までには新しいルートが確立された。それは,バルセロナから西地

中海を横断してヂェノアに赴くもので,これは比較的安全で査証によらなか

った。このルートはイスパニア資本がトルコ戦争のためにイクリアで必要と

された 1 5 7 0 年代の初期におそらくはじまった。しかし,これも低地地方へ供

給するひとつの手段であった。というのほ,ヂェノアから貨幣ほ陸路ミラノ

を経由して,サヴォイ,フランツュ・コソテ,ロレーヌというイスパニア王に

(17)

十六世紀イスパニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 4 7 )   91  服従するかまたは友好的な諸公に属する領土を通って送られた。このルート の安全性は国王の送金を増加させて巨額の貨幣が 1 5 8 4 年 , 1 5 8 6 年 , 1 5 8 8 年に

ミラノ経由で低地地方にいるパルマ公アレッサンドル・ファルネーセの手に とどいた。しかし,国庫からのこれらの直接的な稼送にもかかわらず,フィ リッボニ世は私人の商人銀行家を煩らわさずにはおれなかった。そして,一 層多くの貨幣が国王の自己の計算によるよりも私人銀行家たちを介して送ら れた。低地地方からイギリス侵入の諸計画がその決定的な段階に達した 1 5 8 6

‑88 年にほ,一連の巨額の私人との供給契約 ( a s i e n t o ) があって,その多く は百万デュカート以上に達し,そのひとつは 2 . 5 百万デュカートに上った。

というのほ,イスバニアの政策,それを支えた軍需品は西インドからの年々 のしかもしばしば延着した財宝輸入を待ち得なかったからである。実業家の みが資金の規則的な供給をなし,彼らの必要は移送を行い得た。それは祭市 や為替の彼らの国際的な網の助けによってである。そして,もし,政府がイ

スパニア自身の中で金融家の援助を求めねぼならなかったならば,イスパニ ア当局が常に増大する難局になやまされ貨幣の不足にたえず妨げられていた 低地地方への供給のために一層依存したのほ彼らであった。金融家たちほこ れらの困難の多くから国王を救い,フィリッポニ世の晩年には彼らは毎月支 払を行いつつあった。彼らの尽した用役から,もとより,彼らは為替投機を 改善してもうけ,負債に対する利子―とくに返済の遅延が常であったので

—からもうけ,さらに現金を輸送する許可を得て利益を得つつそれを転売 して,大収益をうけた。

イスパニアのアジエント契約やフランドルのアシエント契約は,それ故に,

需要と供給とを共通にした。低地地方からは余りにも距っていないイクリア

やドイツの金融中心地を通して支払を行おうと努力した後に,イスパニアの

財政委員会はアゴスティノ・スビノラと結んだ 2 . 4 百万エクー ( e c u ) のアシ

ニントのなかに 1 5 8 9 年に正当な条項を発見した。この大操作は低地地方の総

督に現場での月々の支払を保証し,同様な条項を示す他の支払がこれにつづ

いて行われた。 1 5 9 5 年における 4 百万デュカートの支払は低地地方において

なお一層の強力な政策を追求する決心をした。返済事情はイスパニア国庫の

(18)

状態によって異なっていた。すなわち,勘定はイスパニア自身で決済され,

その若干は現金で,残金は西イソドからの収入または将来の国王の他の収入 に頼ることにした。

低地地方に供給するのに,イスバニアの財政委員会は,実業家たちを国家 のために起用する技術において,たしかに多くの進歩を示した。しかし,金 融家たちは彼らの前貸金に対して高い利子を要求した。フィリッボ自身以上 に,財政的な損害を意識した人は誰れもなかった。しかし,イスパニアの繁 栄に対する要求を鑑みると,彼の皇帝としての利害の多くを清算するには足 らないのでほかの手段はなかった。まことに,これらのア、ン=ソトほ 1580‑

9 6 年のヨーロッパにおける最大の運用法であった。これは第一 t こ,アメリカ からの貴金属の流入に因った。貴金属はイスパニアだけではなくイタリア,

低地地方,そして,フランスにすら利益を与えた。これらの諸国は,イスパ ニアの政治体制のそとにあるにもかかわらず,イスパニアとの有利な貿易差 額の余剰を代表するイスバニアの貨幣のわけ前を受取った。第二に,金融家 たちの手中にある資金量における増加も,資本が用いられ得た国家の用役の なかにおいてのみであった事実に因る。この理由は,商業の衰退である。そ れはイスパニアがアントウェルペソを奪回した 1 5 8 5 年からとくに目立った。

この状況ほイベリア半島自身においても類似していた。そこでほ商業都市の

活動における一般的な衰退があった。イスパニアがイギリス,低地地方に対

して行ないつつあった戦争の結果として,大西洋はひとつのルートであるこ

とをやめて,戦場となった。商業の衰退ほ,イスパニア政府が貨幣をますま

す必要としたそのときに,実業家の手中にある増加した資金を残した。その

偶然な一致ほアッ=ソトの数における増加へと導き,ア、ン=ソトを大商家の

ための主要な収入源にした。戦争の衝撃とイスパニアの対外政策の圧力のも

とに,商業は衰微したが財務行政は繁栄した。この繁栄ほ, しかし,人為的

であった。というのほ,それは凋落している経済に基礎をおいていたからで

ある。そして,戦争という潰滅的な重荷ほ, 1 5 9 6 年におけるイスパニアの支

払停止へと導き,フィリッポニ世を強いて平和政策を考慮させた。これは政

治力が経済力に圧倒されたひとつの兆候である。

(19)

十六世紀イスパニアにおける価格革命と財政(宮下) ( 6 4 9 )  93  国王の財政的地位はますます耐えがたいものとなりつつあった。 1 5 8 0 年か らのアメリカの銀生産の大増加ほたしかにイスパニア帝国主義への一層の刺 激を与えた。すなわち,アメリカの銀はボルトガル戦争のためのその割当量 を供給しただけではなく,低地地方におけるファーネスの成功,無敵艦隊の 準備, 1 5 8 9 年からのフランスの情況への破減的な干渉のために支払われた。

しかし,貴金属のこのたえざる流入ほ,ハップスブルク王朝の政策の巨額な 費用を充たすには依然として不十分であった。その結果,経常収入も臨時収 入も十分でなかったので,国家は他の方策に最後的な頼りを求めねばならな かった。とりわけ,最初のほどはさらに借りことであった。これは支払不能 にする利率によって問題を一層悪化したにすぎない。次にほ,破産という一 方的な宜言である。このような破産宜言ほ1 5 5 7 年 , 1 5 7 5 年 , 1 5 9 6 年 , 1 6 0 7 年 , 1 6 2 7 年 , 1 6 4 7 年にくりかえされたのである。国王の負債を返済するときが到 来したときには,国王は支払不能を布告して支払を停止した。これは,多く

の銀行家を不可避的に懸念を起させて躊躇させたが,即座の引上げにまでほ

まだ到らせなかった。というのほ,支払停止によって,銀行家たちは何物を

も失わず,国家もその負債を廃棄しなかったからである。すなわち,ある意

味においてこの方策ほ負債を将来の収入に対する長朝信用の供与への転換で

あった。しかし,これらの公債(フロス)は国王の現実の資力を超えて膨張し

た。フィリッボニ世の治世の末には公債は 1 6 0 万デュカートという巨額を代

表し,紙幣を形成するに到った。この紙幣は減価し,狂気じみた投機を起し

た。それ故に,銀行家たちにとってほ,彼らの顧客と協力をつづけるのが利

益であったけれども,彼らはほるかに高い利子率—70%—を要求したの

も稀ではない。その間に,国家そのものが悪循環に陥った。というのほ,国

家が知った唯一の救済策は将来を担保することであったからである。

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