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平治物語第一類本と第四類本の間

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(1)

平治物語第一類本と第四類本の間

In co he re nc ie s  in  t he  I st  a nd  t he  4

t h  Gr ou ps of  M ss .  of  t he  H ei ji  M on og at ar i  (t he  C iv il W a r   o f   t h e   H e i j i   E r a )

笠 栄 治

E I J I   R Y U H

平治物語研究が立遅れている原因のlつは'諸伝本の整理が難航して

いる事にありへその最大の原因は古写本に恵まれていない事があげられ

る︒

こ,に言う第一類本へ第四類本は'嘗て高橋貞1氏がその著﹁平家物

語諸本の研究﹂の付録第二章﹁平治物語諸本の研究﹂で論ぜられ'近‑

は﹁平治物語(九条家本)の研究﹂で論ぜられた金刀比羅宮本古体説に

対して'岩波書店刊日本古典文学大系﹁保元物語平治物語﹂でへその

対説を提出された永横安明氏の分類によるものである︒永横氏は'平治

物語を十1類に分類しへそのもっとも古体を有するものとして'陽明文庫本

(上中巻)と学習院大学本(中下巻)の組合わせによって所謂第l類本

を構成された︒氏のこの説の柱の一本は﹁平治物語絵巻﹂にあり'鈴木

敬三氏が鎌倉中・末期と考証された(好期絵巻物の風俗史的研究﹂)絵詞

との相関があげられた︒第1I類本と﹁平治物語絵巻﹂との関係は更に補

読(﹁軍記物とその周辺﹂所載r平治物語絵詞﹄について﹂)しておられる︒

この絵詞との関係は'絵詞としてもつ絵との連関・紙幅の制限等可成な

制約が考えられ'今日の残存部分が非常に断片的な事をも併せ考︑え'そ

れが稀々合致する一面を有する塩釜神社蔵絵詞の抽沓等によれば(拙稿

﹁ r 絵 詞 平 治 J ( 塩 釜 神 社 蔵 ) に つ い て ﹂ ( 痛 川 良 輔 教 授 退 官 記 念 論 文 集 ) )

永積氏の分類で第十類に位置づけられた杉原本の如きが或いは澱も﹁辛

治物語絵巻﹂に近いかと思われる(﹁軍記と語り物﹂第七号へ平治物語特

集号に九州大学国語国文学会で口頭発展したJのの補訂﹁平治物語にお ける平治物語絵巻の位置﹂を載せた)0

いずれにせよ'永積氏の第1類本は他本に比べへ年代記的であり'原

初的な未熟な構成'素朴なリアリティーへ叙事詩的要素の渡厚さ'感想評

論・故事由来講等の挿入が少い草から源家再興までも叙した'等々の請

点からその古体性を主張されたのである︒

しかし'第一類本と第三類本(第二類本は﹁平治物語絵巻﹂の類)以

下との懸隔は甚だしく流布本を介在させねば両者の接点は見出し得ま

い︒第一類本はある意味では孤本群とも言えるもので'それが端本三本

の合成によって辛‑じて組成されるとい‑難点も有する︒本稿は末尾

部分は去るl月へ軍記物談話会で発表したものの補訂の為にへ第7類本

を校合した結果第一類本そのものが三本共にその祖本に於いてしか共時

点を見出し得ない事に気づいたoその第1類本の位置づけへの試論とち

いうべきものが本稿である︒

さて'陽明文庫本上へ中巻と学習院大学本中・下巻から三巻の完本を

構成された所謂第1類本については︑高阪公子氏は﹃平治物語﹁陽明文

庫本﹂上巻についての疑問﹄へ説林第1 5号・愛知黙止大学)で'陽明文庫 本と学習院大学本との比較から'陽明文庫本上巻は'中F巻に対して系

統を異にする‑陽明文庫本上巻はむしろ中下巻J・tり古い形を残存する

ものと推定され'陽明文庫本上中下三巻は﹁それぞれ興った段階の平治

物語から成る混成本と認めなければならない﹂と説かれた︒現物を見れ

(2)

笠 栄 治 ば'体裁こそ似ていても筆跡二面の配行等が同一でない場合はまず疑

うのが妥当で'高阪氏の説は重要な発言をなしたものと考えられる︒

また安部元雄氏は﹁l類本﹃平治物語﹄の基礎的問題(1)﹂(茨城キ

リス‑教大学紀要第2号)で陽明文庫本中巻と学習院大学本中巻とを比

較検討されへその校異を詳細に示された︒

学習院本は陽明文庫本を本として増補改訂が行なわれた事を検Lへ陽

明文庫本に欠ける下巻は'学習院大学本と松平文庫本の下巻本文を'陽

明文庫本中巻の文体と比較しながら考えて行‑べきだと言われる︒そし

てへ所謂第一類本の文芸性は陽明文庫本に求むべきでへその文芸的手汰

が進化したと考えておられる学習院大学本は次点に置かれるのである0

さて高阪・安部氏の両論を組合せると'上巻は中下巻と別へ二つ存する

中巻は一方が増補改訂本で二者同1ならず'下巻は1本で学習院大学本

中巻と同一次元にあったものと仮定すれば'所謂第一類本は完成本を設

定する事は厳密な意味では無理になって‑るのである︒

そしてそこに松平文庫本を介在させると'中巻は三本へ下巻は二本存

する事になり'それらの校合の上でしか物が言えな‑なるのである︒今へ

松平文庫本を学習院本に校合するとその異同の甚大なのに驚かされる0

中巻の陽明文庫本と学習院大学本との校異は七百に満たない事が安部氏

の論文で挙げておられるが'学習院本と松平文庫本へ陽明文庫本と松辛

文庫本いずれもその校異は優にその二倍を超える︒

安部氏の挙げられた載異に松平文庫本の本文を当て,みると凡そ次の

如 ‑

で あ

る ︒

一︑<;挿入現象を示す学本の本文(注へ﹁学本﹂は学習院大学本の略称

尚へ﹁陽本﹂は陽明文庫本︒いずれも安部氏は略称としてこれを用い

ら れ

る )

0﹁語句単位の挿入現象を示す本文﹂二二二例中 1松平文庫本の本文と学習院大学本と一致しているもの一〇三例

2松平文庫本の本文と学習院大学本とは1致せず'陽明文庫本と同文

3該当部分が松平文庫本ではへその部分及びその部分を含めた前後の

詞章が'陽明文庫本・学習院大学本両者と異ったものとなり︑比較

0﹁文および文章単位の挿入現象を示す本文﹂六四例中

1松平文庫本と学習院大学本との本文が一致へ又は大略一致するもの

四七例

2松平文庫本と陽明文庫本との本文が1敦へ又は大略一致するもの

八例 3該当部分が松平文庫本では'陽明文庫・学習院大学南本と異なって

い て ' 比 較 が 困 難 な も の 九 例

の如きで'そのうちへ例えば'(頭の数字は安部氏の引用された用例

番号)Hであげられた

123フでを打落闇且候し1し程に

の如きは3に入れた︒尤もへ該当個所の前後に小異ある本文の場合も

あるが'大意に差異を生じない程度であれば同文と見徹し'該当個所

に中心を置いて処理した︒日の方でも同じでt

へ T

・ ・

柁 あ

け て

間 瀬

叫 =

* ・

* !

‑ J

¥ ‑

‑ 噛

け K

&

]

の囲いの部分は松平文庫本にはあるが皮肉なことに﹁夜あけて﹂が松

平文庫本にはないがへこれらは1に入れたしへ同じ処理をしたものに

次の場合の如きもある︒

‑7圏たふれ臥'

或 る 時 は 雪 の 上 へ に 居 て ' さ む や つ め た や こ は いかゞせんと泣悲しむ1あるときはたふれふし或時は寒やつめたや かなしや!\とそなきさけひける また︑松平文庫本では﹁五きや‑ざいの因果たちまちにあたりて﹂と

なっている部分が'

(3)

4 2逆罪の因果今生にむ‑ふ にて心えね と な っ て い る よ

‑ な の は 3 に 入 れ る こ と と し た

︒ 尤 も 長 文 の も の は 本 文 中 に か な り な 異 同 を 示 す が ' そ れ ら は 根 本 的 に 相 異 を 示 さ な い 限 り 1に入れることとした︒

6 1子共を助むと思ひ居たる(ところに)

お き な き 者 ど も も な き よ は り 声も時々はたえ'いきもたえ人やうに聞ゆればtか‑てもたすか らばこそあらめ'とてもなからふまじき身なれば'人里に宿をかりて こ そ へ も し や た の み も あ ら む ず れ と 思 な し て たゞ火のかげの見えける

をたのみて

の場合へ松平文庫本では 日﹁文および文章単位で改訂現象を示す本文﹂四〇例中 1松平文庫本本文が学習院大学本と1致'又は大略1致するもの

7 九

2松平文庫本本文が陽明文庫本と1敦へ又は大略1致しているもの

二例

3該当部分が松平文庫本では'陽明文庫・学習院大学南本と異ってい

て 比 較 が 困 難 な も の 十 九 例

となるが'該当部分が松平文庫本に欠けている例はjI項の中では認め

られない︒しかし'1に該当するもので大略は合致するが部分的に異

るものがやはり半分位見受けられる︒例えば日の 子 供 を も た す け は や と そ 思 ひ け る い と け な き も の と も は な き よ は り

※いきもたえ人やうに有しかは叫刊フならはいつれもたすかりかた u ̄︑なからふましき身なれは当ー人里に宿をかりてこそもしやのた の み も 鋤 珂 と お も ひ な し て た

‑ 火 の か け を となっておりへ(※印の所詞章欠脱部分)へ陽明文庫本や学習院大学本

と異文である︒しかし'その趣旨は同一と認められるのでIに入れた︒

この詞章から考えるならばへ松平文庫本は陽明文庫本と学習院大学本と

22譲勢な‑とて用られず

去保元にも今度も勇士のはかりごとを捨 てられて京家の者共筆と‑が儀にしたかはんにいかでかよかるベ き︒命のおしさに長物がたりするにあらず︒これら道

の中間的存在に見えるであろ‑ 0

二︑㈲改定現象を示す学本の本文

0﹁語句単位の﹁転換﹂現象を示す本文﹂二四五例中

1松平文庫本文が学習院大学本と1致しているもの

2松平文庫本文が陽明文庫本と1致しているもの

1〇五例1

四〇例

3当該個所が松平文庫本ではへその部分及びその部分を含めた前後の

詞章が'陳明文庫本・学習院大学本と異っていて比較が困難なもの

一 〇

〇 例

○右のうちへ該当個所とその前後の詞章が全‑見当らないもの

二六例

平治物語第一類と第四類本の間

胤凧山(こ‑‑わいゐたりおほんぬいまにいたり︒ゑきなし)と

‑!\きれとて(安部氏の本文翻刻と異る部分あり‑注)

は松平文庫本では

殊外なるきんせいなりとて※ようしのはかりことをはすてられ京家 の筆とりのきにしたかはんにいかてかよかるへき命のをしきに長 物語するにはあらす※はや‑ひきれとてきられけり となっているがへこの22中の()内に示された陽明文庫本の本文に 意味上明断を欠‑のは'陽明文庫本に脱文があった事を推定させるの ではないだろうか︒松平文庫本の本文は少‑とも学習院大学本のそれ より以前の姿が推定出来ると言‑のは過言であろうか︒陽明文庫本に 脱文なしとは言えぬ事へ安部氏の校異を見ても推測できるよ‑思わ九

る︒

三 へ の 削 除 現 象 を 示 す 学 本 の 本 文 1

〇 八 例 中 1松平文庫本本文が学習院大学本と1致しているもの

三 五 〇 例

(4)

笠 栄 治 2

松 平 文 庫 本 本 文 が 陽 明 文 庫 本 と 7 致 し て い る も の 二 七 例

3該当個所が松平文庫本ではへその部分及びその部分を含めた前後の

詞章が'陽明文庫本・学習院大学本と異っていて比較が困難なもの

三一例

○うちへ該当個所とその前後の詞章が全‑見当らないもの例

となっている︒安部氏引用中

21実基命を捨て通し奉らんとて(まっさきにすすみあたるともよれや

とて)逆門木共とりのけ

で﹁あたる﹂という陽明文庫本の意味が不鮮明であるが'原文はそ‑

しか読めない︒松平文庫本は﹁あしかるとも‑‑﹂で︑陽明文庫本は

﹁あしかる﹂の転写時における誤写かと推測する事によって解決でき

2に入れた︒またへ学習院大学本の

49左少弁成頼事のよしを奏聞すれば

は'陽明文庫本の前後を含めての本文が

○御所にもきこしめしてさせ‑へんなりよりをめして御たつねあり

なりより事の由をそ‑もんすれは

であって'学習院大学本をこれにあわせると

4‑御所にも聞し召れて何事を笑ふそと御尋あり左少弁或頼事のよし

を奏聞すれは となるのである︒異同個所に少しずれがあるかに思われるが'松平文

庫 本

で は

'

○御所様もきこしめして左少弁成頼をめされて何事をわらい候そと 御たつね有る成頼比よしを奏聞せられけれは

となっていて'松平文庫本は陽明文庫本を基盤に置いているかに思わ

れ る

陽明文庫へ学習院大学へ松平文庫各本の本文相互の関係を右の事柄か

ら判断すれば'陽明文庫本が学習院大学本に先行する姿を有すると断定

された安部氏の所論は勿論妥当なものであると考えられるが︑松平文庫

本は︑所謂3項﹁陽明文庫本へ学習院大学本と異る﹂部分の存在が気に

はかかるが'一まず基盤に陽明文庫本的なものが存した事は認めなけれ

ばならない︒そしてへ陽明文庫・学習院大学両本と松平文庫本との校輿

は千五百を超えるものであり'而も松平文庫本と両本とは校合も不可能

な程の懸隔を生じる時も存するのである︒例えば'義朝の首渡のあとI

学習院大学本で本文を示せば'

晟潮が首も笑や封叫とそ申あへる去保元の会戦には為義入道を即

b

̲ . 1

等波多野次郎にきらせ複に1両年の‑ちぞかし今度の合戦にうち

まけては譜代の郎等忠宗が手にか 塩にむ‑有声て心えぬ来世無間の

g

r叫諌半は哀昌男

声て身をほろぼけ逆罪の因果今

q

e

苛叫疑なしと群集する貴儀上下半

であるが'傍線部旬〜伸は陽明文庫本に異文がある個所である︒即ちへ

回は﹁笑やしけん1笑やせん﹂両は﹁波多野1忠野﹂と安部氏は言わ

れるが'京大国文研究室の陽明文庫本は﹁はたの﹂と読める(陽明文庫

で見た時の校異を記していないから見落しかも知れないが'﹁はたの﹂で

あったのであろうと思う0)し'‑回は既に朝日の例に出ているLへ刷は

﹁苦は1苦﹂ ︑同は﹁群集する1群集せる﹂への﹁半は諌1なかは諌﹂㈲は

朝日で記された例といった昇合である︒安部氏の基準での校異提示でめ

るからへ先の三㈲49の場合と同じよ‑な場合が私との間にあることは'

止むを得ないかも知れない︒安部氏の所論はあ‑までも私には拠り所で

あって私の所論ではないのだから‑ 0

さて'松平文庫本は

義朝かか‑へもわらひやすらんと人々申あはせけり去保元の合戦に

は父為義入道をらうとう烈望nJ紺にきらせわつかにt両年をたにす

勾 引 で 普 代 の ら う と う 尋 苫 不 に う た れ ぬ る 五 き や

(5)

か ら ま の あ た り か , る 事 有 へ き か と な か は , そ し り な か は は あ

はれみにける

となっていて'基層に共通なものを想定する事は出来ても'松平文庫本 と陽明文庫・学習院大学本との懸隔はかなり大きいものである事が知ら れ よ う ︒

松平文庫本は'陽明文庫・学習院大学本とどんな関係に置‑が妥当か

を検討しなければならないが'その手がかりの1つに'陽明文庫・学響

院大学両本に存する詞章が松平文庫にはない場合がかなりあり'而も'

陽明文庫・学習院大学本の中でも形象上重要と思われる詞章にそれがあ

る事は重‑みなければなるまい︒例えば'滝口俊網討死の部分で'(本

文は学習院大学本による︒()内は傍線部の松平文庫本詞章へ二重傍

線は松平文庫本に欠けた詞章︒以下同じ)

ま い ) か な

l q t I I I

. 1

I l l

I l l . 1

其儀ならば7人もあますましき物をと(て)(大音をあげ

ての,しりかけて(給ひ)あいちかにせめよりければ山憎方々へ(徒

!

i

^

^

^

^

^

^

^

^

^

^

^

^

等)逃散にけりー中にも毛利冠者を‑たんとよりあひつる法師山へに

げ の ぼ り け る を 義 朝 つ が 対 句 利 ( ひ た り け る ) 矢 な れ ば 討 叫

て(ひやうと)はなつ可州っ劇醐(山徒の中のとうりやうとおほしさ)

○鎌田が下人を呼て(まねきて申つけけれは)滝口か額敵にとらすな 汝ゆきていた手かうす手か見よと申付られてかの下人長刀持たりけ

るが

で'松平文庫本では鎌田正清が義平の命を受けて鎌田が下人に命ずる形

がはっきりするのに︑陽明文庫・学習院大学本では'義平が鎌田の下人

に命ずるように受取られる︒義平は'俊綱が額の骨を射られて﹁心ち乱

れ﹂たのをみて敵に首をとらせまいと下知するのである︒﹁滝口が頚敵

にとらすな﹂と﹁汝ゆきていた手かうす手か見よ﹂という二つの言葉は

半ば矛盾に感じられる︒そしてへ学習院大学本での鎌田が下人の行動ち

それを受けとめた俊綱の言葉からも'痛手薄手の確認ではな‑頬をとり

に行ったように読み取られる︒とすれば'松平文庫本で省かれたように

見えるこれらの詞章は'三本の基層となった一本を考える事が許される

ならへその時点では存在しなかった詞車ではないかと思われる︒

またへ義朝が横河法師と合戦する条でも'

○左馬頭(義朝)矢(上さし)取てつがひに‑い(き)蚊擬(かふる

平治物語第一類と第四類本の間 が腹巻のをしつけの板をつと射ぬき(  ̄あげざまに射たる矢なれば胸 板のはずれへ の,i裾,i三者はいずれも挿入的増補的詞章である事は1日瞭然であろう︒ ﹁山徒の中のとうりやう﹂と﹁毛利冠者をうたんとよりあひつる法師﹂ とでは'造形上の印象度は'学習院大学本が大きい事も確かであろう0 回の場合安部氏が﹁文および文章単位の挿入現象﹂を陽明文庫本に対し 学習院大学本がなした例CdU)として扱われた所にふれるのである が︑陽明文庫本では﹁あげざまに﹂が存していたのに学習院大学本が' ﹁射たる矢なれば﹂を補填したと思われるものである︒とすれば'裾の ない故に﹁あげざま﹂が存しなかった松平文庫本は'これら南本以前の 姿を留めていると考えられる︒そして'山を逃げ上ってゆ‑者へ﹁あげ ざま﹂に射た矢が﹁をしつけの板﹂から﹁胸板のはずれ﹂へ射抜いたと すればへこの矢の射方のどこかに誤りがあると考えられる︒

信頼が掻首にされる個所の批評文の場合もその一つへ

0 ‑割(此月の)十日比より大内にすみてさまざま僻事をのみ申行しか

*.

ば 百 官 竜 蛇 の 毒 を , そ れ 万 民 虎 狼 の 害 を ぞ 欺 け る に け ふ の あ り

さ ま は ( め も あ て ら れ ず )

 ̄ 矧 蜀 叫 到

とりたりとて(と)見物の上下申あへり彼左納言右大夫朝に小恩 を う け 給 ひ て 夕 に 死 を 給 る と ' 自 居 易 が 書 る も こ と は り 也 な け ど も 甲斐な‑(さて信頼姻おめき)さけべとも叶はず このうちへ﹁彼左納言云々﹂の部分は︑金刀比羅宮本以下諸本この個所 に使われる自氏文集の名句であるが'この部分を欠き'それでいて金刀

(6)

笠 栄 治

比羅宮本と同構成の写本が大東急記念文庫にありへ金刀比屈宮本の原形

かと思われる由を'同文庫紀要にまとめたがtか︑る名句の引用等はな

いものに古形を考え得るものと考える︒対句の加減もそれらの延長上に

位置出来ると考えられ'﹁百官竜蛇云々﹂﹁田夫野人云々﹂の存否はや

はりへ﹁彼左納言云々﹂の存否と無関係ではないと思われる︒対句的に

整えられた部分が松平文庫本に欠ける例は他にもある︒また例えば'重

患の室の八島詠歌の後に

むかしなれ共

とするのに'﹁かの威陽宮云々﹂の唐突な出現が甚だ奇異に感じられる のである︒しかし'それは松平文庫本によってその空白が埋められるの

で も

あ る

○さても山内首藤刑部丞は嫡子滝口かうたれたるところなれはなきあと

圭でもなつか‑てつおほ・一I,^引咽せ封叫蝣>POV;山心 ̄洲天ア1叫

人かたき三騎きりてをとし後はよきかたき⑦

‑ み と っ て を さ へ て

○此所をば夢にも見んとは恩はざりしかども(に)今は栖と跡をしめ

‑ び を と り 立 な を ら ん と し け る を か た き す き を あ ら せ す と り こ め て 首

なら刷ぬ ̄訓剖草の庵何にたとへん方もなし(只)むかし今の事丑

藤刑部丞をうちにけるか,るところに片切小八郎大夫景重是をみて 思 ひ っ ゞ

‑ る 旅 の 袖 い づ れ の と し い づ れ の 日 か い

‑ べ L と も 思 ほ

刑 部 丞 が う た れ に け る 大 勢 の 中 へ か け 入 よ き か た き 一 騎 き っ て お と えずさすがきえぬ(いふにかひなき)露の命なからへて

の如きへ詠歌調の哀れをそ,る名文化もやはり増補的要素のものと考え

る事ができよう︒その他へ忠宗を批難した言葉としての﹁もし向後に漢

氏世に出る事あらば'忠宗景宗いかなるめをか見んずらんとに‑まぬ者

なし﹂や常葉が条は詞章の改変が甚だ多いようであるが'そのうちへ常

葉の清水寺信仰を語る条中へ﹁歩みをはこぶ志の浅からず'されば本尊も

いかでかあはれと照させ給はざるべき﹂ ︑清水寺詣の華かりLを回想す

る条で﹁誠に左馬頭の貴愛の志もあらはれて'ゆゝし‑こそ見えLに﹂

等がいずれも陽明文庫・学習院大学南本に存していて'松平文庫本に存

在しないのは'詞句が詞句だけに不注意な脱文とは考えられない︒1旦

造形上用いられたこの種の名文が簡単に省略されるとは考えられないか

らでへその詞章がない事は存するものの以前の残影を遺存するものと考

える事が出来よう︒

更にへ義朝が敗北の条で'山内首藤刑部丞の合戦とそれに続‑部分が

陽明文庫・学習院大学本も共に

○其中に山内首藤刑部丞は嫡子滝口がうたれたる所なれば無跡までも なつかし‑おほゆかの威陽宮の梱雲とのはりLを伝聞ては外国の

し 其 後 お も て も ふ ら ず た , か ひ け る う ん の き は め に や 有 け ん 太 刀 二 に お れ け れ は 刀 を ぬ き し こ ろ を か た ふ け つ と よ り よ き か た き と さ し ち か へ て そ し に , け る 此 も の と も ふ せ き た , か ひ う ち L に し け る に 義 軒 ‑ + ‑ A 也 割 .    ̄ 副 い 叫 副

 ̄ ヨ

¥ >

+ ﹂ り 1

‑ ^ 抽 可 瑚  ̄ 叫 パ 叫 幸

¥ ' L l 刊 封 叫 川 は I

 ̄ 周 舶 融 所義朝六条は‑川の館末実は大炊御門堀河の家五ヶ所に火をかけ た り を り ふ し 風 は け し

‑ ふ き と が な き 民 屋 数 千 家 や け , れ は 鈴 煙

京中にみち/\てけりかの成陽宮の

の傍線部の存在は'山内首藤刑部丞の討死'片桐小八郎の討死が元来荏

したものかの疑問がないわけではないが'少‑とも山内首藤刑部丞に関

しては'陽明文庫・学習院大学本では尻切れの感じがするので'やはり

元来存したと考えるべきであろ‑︒金刀比羅宮本以下半井本杉原本に至

るまで山内首藤刑部丞討死の事は記すのであるが(しかも子供のかサか

°

°

°

しさに)へ学習院大学・陽明文庫本では(金刀比羅宮本以下が井沢四郎

の合戦とその落脱として据えるように)片桐小八郎の討死が据えられる

のである(尤も井沢の場合は前記大東急記念文庫本の如きはない)︒信頼

義朝が宿所焼柿の事が存しない限り﹁かの威陽宮云々﹂が生きない事ち

又確かであるからへこの陽明文庫本と学習院大学本に於ける脱落は'松

(7)

平文庫本と親子関係にあった事を否定する材料の一つであろう︒尤もへ

他にか,る大々的な脱落らしいものは中巻には見当らない︒

以上大雑把に陽明文庫・学習院大学・松平文庫各本の中巻について比

較してみたのであるが'まとめると凡そ次のような事が言えるかと思う︒

二陽明文庫本は学習院大学本が増補改訂される以前の姿を残映するも

のである︒(安部氏の論参照)

二へ松平文庫本は学習院大学本が陽明文庫本等を本に増補改訂したでめ

ろうような増補改訂を'学習院大学本がなしたそれより数倍にわたっ

て行ったであろうと思われる︒

三へ松平文庫本はへその増補改訂以前の姿を残存する個所がありへ松平

文庫本が直接増補した1本の想定を許されるならへその想定される. 1

本と陽明文庫本とは少‑とも親子関係ではなかったと考えられる︒

輿松平文庫本は従ってへ学習院大学本が陽明文庫本等をもととして増

補改訂したのとは異った次元で行なわれたと想定される︑第一類本の

増補改訂本であると考えられるO

か‑て'所謂第一類本の構成は'松平文庫本が加わる事によって一層

細分化されへ更に厳密に第l類本を追究する事が可能となったのであるO

今日の時点では'少‑とも第l類本についてはへ陽明文庫本よりもう一

つ古いへ陽明文庫本や松平文庫本に僅かに残像を留めた事から推定出来

る'原画的な平治物語を想定して'所謂第7類本の本質を考えねばなら

ぬ 事

と な

る ︒

以上の観点よりする時へ所謂第一類本の下巻の取扱いは方向づけられ

るように思われるが'松平文庫本の参加は'下巻の孤本であった学習院

大学本に副本を加える事を可能にすると共に'中巻において考えられる

系譜からはかな・りな距杜を置いた同類本となる事が予測できるo下巻に

平治物語第一類と第四類本の間 おける学習院大学本と松平文庫本とを対比してみる事とする︒

勿論同類本であるからへ基本的な構想は同一であるが結論的に言えば'

中巻における松平文庫本程の校異は示さない︒特に校異が数量的にも少

いのは経宗・惟方・師仲等の流罪とその召還等をめぐる諸話であるOそ

れは中巻に於いても同じであった︒中巻で校異が少いものをあげるとす れば'師仲流罪を免るる条'官軍除目の条へ義朝の鼻首と落首等の事守

である︒他の義朝・義平・頼朝・常葉等についてはかなりな増補改訂が

加えられた事が既に安部氏によって指摘された通りである︒

学習院大学本にあって松平文庫本にない記事の主なものは越王の請の

l 節

で あ

ろ う

︒ 越王暇をえて本国に帰る時埴輪たか‑躍て道をこえけり越王下馬 し て こ れ に 礼 を な す 見 る 人 間 て 日 何 ぞ 蝦 薯 に 礼 を な す や 越 王 の 臣花嘉がいひて我君はいさめる志を賞し給ふぞと答ければ勇士お

ほぐ付にけり(未刊国文資料本では八九ページ六行から八行まで)

が伍子音諌罰の事を越王会稽の恥を雪ぐ事との間にあるものがそっ‑り

落脱している︒意味上へ松平文庫本は全然支障を来さないのである︒

また'希義が土佐に流さる,条の後に学習院大学本は'

薗 義 は 南 海 土 佐 国 頼 朝 は 東 国 伊 豆 国 兄 弟 東 西 へ わ か れ 行 橋 軌 の

程こそむぎんなれ

という詠款的口調のものが1節欠けている.その他は中巻に見られたよ

うな'一見増補記事的挿入文が欠ける例がある︒例えば学習院大学本の

○清盛常葉召出しければ子供引具し清盛の宿所へ出にけり六子八子左

右の傍にあり(未刊国文資料本P82以下同じ︒)

○唐楊貴妃漠李夫人が一度咲ば百の楯をなしけんもこれには通じと

(&<s侃二重傍線部は松平文庫では﹁も﹂)

○ 南 無 八 幡 大 菩 薩 頼 朝 を 刊 コ 圃 世 に あ ら せ ま し ま せ 風 雪 当 別

拙て亡父の草陰に見せキいらせ候ほんと(*s)

(8)

笠 栄 治

の傍線部は松平文庫本にはない︒いずれも造形上は有意義な一節ではめ

っても'中巻での傾向をもとに考えれば増補挿入記事文であり'﹁今一

度﹂は別としても学習院大学本において現われたもののように思われる︒

また︑学習院大学本にはないのに松平文庫本には存する記事の主なも

のは'学習院大学本で常葉六波羅出向の条の

○御尋ある子ども相具して参て候うへは母をばゆるさせ給へと泣々申け

ればき‑人孝行の心ざLをかんじてみな′!\洞をぞながしける

が松平文庫本では〜傍線部分が

商 人 に & H O ‑ 2 )

の傍線部が松平文庫本には存し学習院大学本にない事をも併せ考えねば なるまい︒脱文と簡単に割り切れないのは前後の文脈がそ‑させている のであろうしへこの両者が中巻でみたような相互関係にある事を思えば 両者を直接的に結合させ得ない面も又へ諸本研究の間に十分考えねばな

ら ぬ

この意味では'挿入語句とも考えられる ︒

HL

o兵衛佐が死罪の事へ池殿のやう!\に御申有けれはなだめられ伊豆国

母をばと‑!\御ゆるされ我が身には母にか,らん一筋の純を百筋

へそなかされける池殿兵衛佐をめして仰せられけるは

( f c S

)

か け ら れ 十 の 指 を 十 日 に も が せ 給 ふ と も お も ひ き

‑ て 参 た る 常 葉 な れ は い た む へ き 身 に あ ら す 母 を と

‑ と

‑ ゆ る さ せ お は し ま せ と 泣 々 申 け れ は き

‑ 人 となっている︒この部分は松平文庫本の増補とみるか'学習院大学本の

脱文と見るか'可成微妙なものであろう︒

即ちへ松平文庫本で﹁母をと‑!\ゆるされ﹂から﹁母をと‑′\ゆる

させ﹂の重複して出現する同一詞章によってへ誤写を生じる可能性なし とはしないからである︒たとえば︑義経が鞍馬での所行のうち

○僧正が谷にて天狗化の住と言もおそろしげもな‑夜な!\越て貴布祢

へ詣けり

とする学習院大学本の詞章に対して松平文庫本は 僧正が谷にて天狗ぼけ物のなん所へよな!\行て兵法をならひ彼難所 を夜な!\こえて貴布祢の社へそ参りける としており'同一詞章にはさまれた詞章の︑脱落か増補かは甚だむずか しいものである︒この種のものは他に

○源九郎義経と称給なる‑せ物ござんなれ此日比年及たりいとをしき 人 こ ざ ん な れ も て な し か し つ き 奉 ら ば ( p 聖 8 )

○さてよしつねいつしかなる事にて候へとも今度義経をふちして催し金

‑傍線部﹁が﹂は松平文庫本は﹁は﹂へ﹁めして﹂は﹁ちかづけ﹂)

の傍線部が松平文庫本に存するが︑﹁兵衛佐が死罪の事池殿兵衛佐をめ

して﹂と直接に連げないでもない学習院大学本よ‑'松平文庫本の方に

分があるように思われる︒つまり'池殿に引かれての誤脱と考える事ち

十分考えられ'学習院大学本のスムーズさを欠‑詞章に比べると脱文と

考えてよいのではないかとも思われるのである︒

また︑頼朝が後年忠宗父子を課罰する条に続いて

○相伝の主をうちて子孫繁昌せんとこそ思つらめども因果今生にむ‑

ひなをながし恥をさらしけり

で終るのが学習院大学本であるのに対しへこの部分にも小異はあるが'

このあとに松平文庫本は更に続けて

○きやうこうも末代もかやうの事をわきまへすふるまはん者は名こそ香

とも長田庄司に同しかるへしおそろし/\とそ人申ける という世人評を加えるのであるが'恐らくこれは所謂増補挿入記事と

考えられる︒そしてへ中巻で息宗等が義朝主従の首を献じへ勧賞に不服

を言うた後へ家貞が忠宗父子を指騨する条で'学習院大学本や陽明文庫

本 で

は '

もし向後に源氏世に出る事あらは思宗景宗いかなるめをか見んずら

(9)

むとに‑まぬ者なし で結んでいたのをへ松平文庫本ではこれを省き'家貞の指揮する言辞を

大幅に改訂増補した後に更に続けて

さうてんの主君と架とをまのあたりころしてけんLやうよ‑ほりた

るに‑きよと申せは

と更に︑増補した延長上にあるものと解される︒増補の単純なものは丹

波藤三頼兼に頼朝が引出物をする条で'

(頼兼に頼朝が)引出物をせぼやと仰られければ近習の輩納殿より豹 虎 の 皮 鷲 の 羽 鷹 の 羽 絹 小 袖 め ん

!

\ に い だ き 出 し た り

うしぬす人の(oh?ほ)

の如きが︑松平文庫本では

○ふところに持たりし刀をさしつねにざれてきけるゑほしほこりをし

のこひきたりけり

○刀をぬき死‑るひせんといなりける間召捕ものなしまして近所によ る人なし数十人あれとももてあつかひたりけるに御曹司かの盗人の

となるように'所謂増補本的要素はかなり渡厚となるのである︒そして

それが又1方では可成異なった結果をも生じる場合がある︒清盛に対面

した常葉が子供と我が身と替らんとい‑'前掲の言葉に続いて'

其外鎧はらまき太刀刀数をしらす頼兼が前後に積

の傍線部が松平文庫本に存するが如きであろう︒

そして'松平文庫本は中巻に見たように'陽明文庫本から学習院大学

本へと増補改訂されたよりも'別筋ではあろうが︑いずれ増補改訂の行

なわれたものである事は下巻についても言える︒例えば'常葉が清盛に

対面して言う詞の'学習院大学本では

常葉な‑/\申けるは左馬頭罪ふかき身にて子共皆うしなはれん を1人をも助させ給へと申さばこそ其理しらぬ身にても候はめ劃

六子母の顔をたのもしげに見あげてなかでよ‑!!\申てたべやと言

ければ只今までもよに心強気におはしける大弐殿もけなげなる子 が詞かなとて傍にうち向て累に涙をながされける

とする学習院大学本は傍線部に相当する個所が松平文庫本では

六 歳 の 子 母 の か は を み て よ に も 頼 も し け に 思 ひ て な か て よ

‑ 申 て 共か‑もならざらんさきにまづ此身をうしなはせ給へと申さんをな

どか聞しめされでは候べき

の傍線部が'(他には問題となる程の異文はない)松平文庫本では

もし一人もたすからはたすけさせおはしませ又ふかき湖底のみ‑つ

とも成へきならは

と具体的に述べているが'これらは学習院大学本如きから松平文庫本詞

章の生まれる可能性が強いだろう︒同様な例は'たとえば'学習院大学

本で

○懐に持たりける烏帽子取出して着てけり(eu{

○刀をぬき死ぐるひにせんとしけるほどによりてからむる者なし御ぎ

平治物語第一類と第四類本の間

たへやとこきかし‑宣ひけれは今まては心つよけにおはしけるか

けなけなるもののことはかなとてしきりに涙をなかされけれは

となり主に傍線部のよ‑な個所を中心として両者変化したものと考えら

れる︒乙若の︑母に対する誠めの言葉を聞いて'学習院本は清盛が涙を

流したとするが'松平文庫本では常葉が涙を流した事になる︒学習院大

学本のように﹁心強気な大弐殿﹂が﹁けなげなる﹂詞を聞いて感涙を汰

すというのは少し可笑し‑も感じられる︒金刀比羅宮本では泣かずに物

を言えと注意した今若を'義朝の子だからと﹁申つることのおそろしさ

よとてしたをふりてけり﹂と結ぶ︒清盛の立場からはこの方がより自然

に感じられる考え方ではないかと思う︒従って清盛が涙を流したとした

学習院大学本は'或いは元来の第一類本に存した常葉落涙を清盛に仕立

て︑補ったものではないかと考えられる︒

さて'凡その第一類本についての観点は以上の事から想像出来ようが

(10)

笠 栄 治

下巻についてまとめてみると

二下巻における松平文庫本と学習院大学本の校異は'中巻におけるそ

れより比較的少い︒それは量的にも言える事であるが'質を云々する

程大きな変化をもたらすものはないようである︒

二'学習院大学本は'中巻に於ては陽明文庫本との距離を比較的近‑置

き得たがへその基準がない下巻に於いても松平文庫本に比べると結果

的には松平文庫本程の造化が行なわれなかったと考えられる︒つまり

下巻の校異を見た限りでは'松平文庫本は中巻に於いてみられたと同

様へ松平文庫本に多‑の造化の跡を見出すと考えられる︒

さて'高阪氏の所論の一つに'師仲が内侍所を留めた功績の故に信頼

与同の罪をなだめられた事が中・下巻に存するのに'上巻ではその事が

ふれられず'内侍所をとめたのは鎌田正清が郎等であったとする矛楯に

ついてがある︒愚管抄によれば'行幸を六披羅に成らせた信頼1派は'

﹁アブノ目ヌケタル如ク﹂であったとし'

後二師仲中納言申ケルハ義朝ハ其時信頼ヲ﹁日本第lノ不覚人ナリ ケル人ヲタノミテカ︑ル事ヲシ出シツル﹂‑申ケルヲバ少シモ物 モエイハザリケリ紫簾殿ノ大床二立テヨロヒトリ一丁キケル時ダイ

‑ケイノ唐檀ノ小鈎ヲ守刀二付タリケルヲ師仲ハ内侍所ノ御体ヲ7

‑コロニ入テ持タリケル﹁タペソノ鈎コレニグシマイラセテモタン

ソノ刀ニツケテ無益ナリ﹂‑云ケレバ﹁誠二﹂‑テナゲオコセタリケ

レバ取テ﹁イヅチモ御身ヲハナレ申マジキゾ﹂‑テアイズリノ直 垂ヲゾキタリケル(岩波・古典大系本による)

と師仲が申立てているがへこの申立ては︑恐ら‑

カタテ建春門院ハ安元二年七月八日唐ヤ‑テウセ給ヒヌソノ︑チ院 中 ア レ 行 ヤ ウ ニ テ 過 ル 程 二 院 ノ 男 ノ オ ポ ユ ニ テ 成 親

‑ テ 信 頼 が 時 ア ヤ ウ カ リ シ 人 流 レ タ リ シ モ サ ヤ ウ ノ 時 ノ 師 仲 マ デ 内 侍 所 又

カノコイ‑リタリシ小鈎ナド持テ参りツ︑カヘリテ忠アル由申シカ

ハ皆カヤウノ物ハメシカへサレニケル(同右)

とも合致するので'師仲の免罪の為に有力な手柄ではあったろう︒しか

し'師仲が流罪となった事は永暦元年三月十1日として公卿補任等にも

記されておりへその赦免は百錬抄によれば仁安元年三月廿九日の事であ

る︒その間六年'配所に居た事となる︒

師仲が内侍所の神鏡を持ち出したについては百錬抄(永暦元年四月

二九日条)にありへ古事談もそれをもととした話を載せている︒鎌田が

郎等が留め奉った唐槽とは'﹁師仲卿破∴御辛檀奉畢御体.Jった後の空 櫓だったかも知れないLt金刀比羅本などが鎌田正清が東国へ将来せん

とした唐横を師仲が留めんとした由を載せるが︑愚管抄や百練抄から考

えて'むしろ中味を抜きとった師仲の芝居じみた行為としてみる事も可

能となるであろう︒愚管抄へ百錬抄から想像できる経緯は'師仲は見切

りをつけた信頼から大刀契の唐権の鈎を乞い取りへ自分が持っていた内

侍所の神鏡と併せ持ちへ自分が責任をもって守る事とLt﹁京ノ小路

二人ニケル上ハ散々ニウチワカレ﹂て﹁於二桂辺轟11宿こて翌旦ハ波

羅へ渡され'師仲の﹁姉小路東洞院家﹂より温明殿に入ったとされる0

古事談によれば師仲の家で安置してあるのが発見された事になり'必ず

しも一致する所ではないが'師仲の手を経て内侍所神鏡が内裏を出︑そ

して結局温明殿に納められる事となったのは凡そ認められる所である0

従って高阪氏の﹁上巻だけが鎌田の郎等が見つけて止めた'とあるのに

対して'中下巻は師仲が止めたtとい‑事になり'虜に矛楯が出来る﹂と

されるのは正しいと思う︒中巻'下巻で朝敵与同を取やめた由の論拠に

述べる師仲の言が上巻と合わぬ事が直ちに上巻の位置を定める理由には

なるまい︒下巻では'信頼与同の重科はなだめられたが'

しかれども都のうちに留めをかれん事いかゞと諸卿申されければ播

磨中将の召かへされたる跡下野国室八嶋へぞながされける(松平文

(11)

庫本には﹁しかれども1きりながら﹂ '﹁申されけれは1申されけり﹂ I

﹁跡﹂なし'﹁八嶋へぞ1八嶋へ﹂等の校異を見出す)

としているのは︑師仲の活動と神鏡還御の功献との比重が連流の形でめ

らわれたものと思われる︒

1体へ上巻における玄上以下諸宝物の搬出については愚管抄に﹁シル

シノ御ハコ宝剣‑ヲバ御車二人テ﹂主上の内裏脱出と同時とし﹁ヂ明ハ

シヅカニ長橋マウケテ玄象へスヾカへ御笛ノバコ'ダイ‑ケイノカラ

ビツ'日ノ御座ノ御太刀へ殿上ノ御椅子ナドサタシ入テ﹂六披羅へ移し

たとする︒師仲が大刀契の唐槽の小鈎を信頼から乞い取った際の'﹁無益

ナリ﹂は'若しこれらのものの搬出を知って居たとすれば'大刀契の磨

椙については多少疑問も生じる︒愚管抄ではまずこれらの諸宝物が搬出

されたとするのに'第一類本では﹁みなみなわたしたてまつれと御きた

ありしかともさのみかなはず﹂とあわない︒そして金刀比羅宮本等は

この種の事を記さない︒主上の脱出については'愚管抄のように. ﹁二条

大宮ノ辺二焼亡ヲイタス﹂が如き陽動作戦をもってすれば搬出も可能と

考えられるが'平治物語諸本では鎌EE正清等の検問を抜ける事に重点を

置‑様な異った構想で物語が進められるo愚管抄の記事にも信葱度に限

界はあろうが'さりとて平治物語諸本が愚管抄の記述に優先するという

事も言えない.つまり'上巻の師仲桐が内待所の唐輝石々の記事は愚管

抄よりすれば誤りの城を脱しない事になる︒

とすればtか,る記事を全然載せない金刀比羅宮本以下の諸本と'全

体構成が'女房姿にての脱出に鎌田正清等が検問するという同じ型でめ

れば'これらの挿話は増補挿入的要素をもつ事が考え得る︒そしてこの

後へ鎌田は二百も主上検問叉は脱出についての後悔をせぬ所をみれば'

帥仲が唐楯についてもふれぬと同様'これらの物語にはまず'鎌田の檎

問が増補され'そして諸宝物の事が加えられたという筋が予想出来るよ

う 思

わ れ

る ︒

平治物語第7類と第四類本の間

次にやはり高阪氏のあげておられる義平課罰の時の恨み言が'異った 観点を作り出せるよう思われる︒氏の所説のように'義平が献策の事は

陽明文庫本にはない︒それは前の師仲の唐櫓搬出云々の条と同じである︒

所が中巻では恨み言の中に献策の事にふれているのである︒尤も︑義辛 についての上巻での記事は'九日の勧賞にも名を出していないし(頼朝

はあり)︑廿七日の勢揃えにも源氏は義朝以外の名はない︒そしてへ義平

の 噂

は '

みやこよりさまのかみよしともがちや‑しあ‑げんだよしひらを大 将 と し て

‑ ま の , み ち へ う つ て に 向 か せ っ つ の

‑ に て ん わ う じ あ べの,まつばらにぢんを取てきよもりのけかうを得とぞきこえける

と出ているLtまた大内裏での合戦に'

よしともたのむ所のつはものどもにはちや‑しあ‑げんたよしひら 十 九 さ い じ な ん 中 宮 大 夫 進 と も な が 十 六 さ い 三 な ん 兵 衛 佐 よ り と も 十 二 さ い の如‑あらわれている︒義平が参戦の由来は従って全然不明である︒義 平が九日の除目で何も得なかった事は大略確かであろ‑が'除目に参り 合うてそれを拒否する構成の金刀比羅宮本等の詞章は'保元物語での為 朝像へ接近させんが為の意図がなさしめたものと考えられよ‑︒因みに

金刀比羅宮本は二十七日の勢揃には義平の勇姿を描出するのである︒

さて'義平が河原で斬らるる時の述懐の言葉は先にも触れたように'

陽明文庫本・学習院大学本そして松平文庫本の三者に於いても異るので

あ る

まずへ陽明文庫本の本文を示せば' ︒

保元にはためともたか松殿を夜うちにせんと中也∪到もちゐられすし て い

‑ さ に ま け ぬ 今 度 の 合 戦 に は 清 盛 が

‑ ま の へ ま い り L を 養 平 を つ か け て ゆ 凍 さ し , の せ の 辺 を は や り す

‑ さ し L や う ゑ た

.hU

て ゑ ほ し さ た ら ん 顎 を 手 取 に せ ん と 申 せ L を 事 の ほ か な る き せ

十7

(12)

笠 栄 治

い な り と て も ち ゐ ら れ す J ) う く わ い ゐ た り お ほ ん ぬ い ま に い た り ゑきなしと‑と‑きれとて額をのへてそきられける の傍線部が学習院大学本では'回←し儀を'絢・1馬鹿めら︑吊←前掲t

の如‑なっている︒ところがへそれが松平文庫本では︑

保元には為朝高松殿を夜うちにせんと申せLをもちひられす今度は 義平清盛か熊野参を追かけて湯浅鹿瀬辺をはやりすこさしLやう

I f

にて惟鳥子きたらん者ともを手とりにせんと再三申せLを殊外なる きんせいなりとて から前掲のものへと続‑のである陽明文庫本の﹁こう‑わいゐたり﹂は

﹁後悔至り﹂という意にとるには﹁ゐ﹂が気がかりであるが(﹁至り﹂

は陽明文庫本は﹁いたり﹂であるから)へ今その意にとった時へこの語の

出現の唐突きから脱文がどこかにあるのではないかと想像してみたので ある︒これらはしかしいずれも義平が後悔の中に阿倍野或いは湯浅辺り までも出撃せんと言ったのを止められたのを含める事を前提としている︒

ところがへ前にも触れたように︑大東急記念文庫蔵の平治物語にはこれ らの個所がおよそ次のように記されている︒本文は金刀比羅宮本によっ て節略された個所がわかり易いようにした︒()内は大東急記念文庫

本との校異︒ 剖清盛いFuかFP﹁いかに御辺は三条鳥丸にて三百余騎が中を

だに破て(リ)出られけるに関山にてわづかに五十余騎にはとられ けるぞ﹂と宣へば悪源太あざわら可可(ひ)宣ひけるは﹁異国の項 羽は百万騎をぐすといヘビも運つきぬれば敵高祖にとらわれき義平 運 つ き ぬ れ ば ち か ら を よ ば ず わ 人 ど も , 運 つ き た ら ん と き は か う こ そ あ ら む ず れ ( る ) 終 に は 身 の

‑ へ な ら む ず る ぞ か る が ゆ え に 義 平 ほ ど の 敵 を し ば ら

‑ も を き て は あ し か る べ き ぞ と

!

\ き れ

や﹂と宣へばさらばとて六条河原に引出q(す)日刊劉馴割判割引

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﹁あの雑人どものき候へ西を揮て念仏申さん﹂とのたまへばさ‑へば つとのきにけり悪源太(よしひらにLをおかみねんふっし)宣ひける は

﹁ あ は れ 平 家 の 奴 原 は も の も お ぼ え ぬ ぞ と よ 義 平 ほ ど の 者 を 日 中に河原にてきる事こそ口情けれ保元の合戦にも人も(を)あまた 切 り し か 共 ひ る は 山 の お

‑ に て き り 夜 こ そ 河 原 に て き り し 軒 創 面 れ 清 盛 か 熊 野 詣 の 時 あ べ の に 待 ま う け て 中 に と り こ め 討 む と い 引矧瑚現﹃洲剥矧側副刊珊瑚引用刊日刊割割剥割引瑚別酬剥

s l u l H H l l l H l l H H n H H u H n H H H H H H H H H H H H n n H H H H H H H H H H H H H H H H n H H H H H H H H H H H U H H H H H U H H H H H U H H H H H H H H H u l l H H H H H H H H H H H H H H H H H H H H H H

刊引且 ̄と宣へば難波ヨ珊(二郎)恒房﹁何と殿はうしろ事をばし

給 ふ ら む

﹂ と て 太 刀 を ぬ い て ( き ) よ り け れ ば

﹁ 汝 は し う に は に ず 物 は お ぼ え た り げ に 義 平 が た め に は う し ろ ご と ぞ 義 平 を ば た れ か き ら ん ず る ぞ 汝 が さ ら ん ず る か よ

‑ き れ あ し

‑ ( わ ろ

‑ ) き ら ばLや汝がかほに‑いつかむずる﹂と宣へば

この文によれば'陽明文庫・学習院大学本も︑松平文庫本も'金刀比荏

宮本と基本構成が似たものである事がわかる︒金刀比羅宮本では清盛が

自ら義平と対面しているが'陽明文庫本等は景綱がその使者の役をして

いる︒大東急記念文庫の屋代弘賢旧蔵本によれば'金刀比羅宮本に対す

る二重傍線の個所は'脱文の可能性があるものとしては﹁敵高祖に‑‑

運つきぬれば﹂の同一語の重出による可能性位でへこの弘賢旧蔵本の樵

成は元来がそうであったとみた方が正しいと思う︒

つまり︑弘賢旧蔵本を通して考えれば'義平の後悔のうちへ特に阿倍

野出撃の条を欠いた'原金刀比羅宮本的なものを想定出来る︒尤も︑臥

賢旧蔵本は︑義平の上巻におけ・る諸行は'多少の校異は存しても大差な

‑金刀比羅本と同一である︒そしてへ金刀比羅宮本でも'弘賢旧蔵本で

も'義平対為朝の意識はあらわれていない︒従ってへ金刀比羅宮本とそ

の原形と推定される弘賢旧蔵本はまず上巻に於いて義平が特に除目に秦

会する事を増補した事によってへ軒の結果が義平後悔の条を増補する事

になったのではないかと考えられるOか‑考え来れば'第1顛本と第四

(13)

類本との遠‑考えがちであった距離が近められたよ‑に思われる︒

つまり'義平除目に参会の条が加えられる事によって義平が後悔を生

じた事は'弘賢旧蔵本から金刀比羅宮本への転化であったと考え得る0

所が'そこに'保元の乱に於ける為朝の登場がある︒義平の除目参会は

一方に於いて為朝像への接近を考え得る︒そこに金刀比羅宮本系と一類

本系の差異があったものと考えられる︒尤も平治物語に為朝の登場は︑

金刀比羅宮本で二回しかなく一回は金子十郎家忠が保元の合戦での高

名の条と'義平除目拒否に為朝の事を引いている位である︒弘賢旧蔵本

では'金子が高名の条は金刀比羅宮本と同趣向ながらへかなり簡潔な文

面である︒勿論為朝はこ,でも登場している︒義平除目参会の条にも勿

論存する︒所が'第1類本では'金子十郎が高名の条を欠‑ものである

Lへ義平除目の条も欠‑ので'存否から言えば為朝の登場は義平の後悔

にのみである︒従ってへ陽明文庫本上巻の義平除目と清盛出撃計画とを

欠‑事は'右に述べた推定から弘賢旧蔵本如きより古い形を残存するも

のとも考えられる︒所が'中巻における義平が後悔の条に至る時は'為

朝の登場が為り'義平を保元の為朝像に準えんとする態度が見受けられ

る︒そのうちへ陽明文庫本にいう﹁こう‑わいゐたり﹂の意味が掴めな

いので'この分は措‑としても'為朝の参加とその詞章から'松平文庫

本は異系統とは言いながらへ姿としては学習院大学本より古いものと忠

われ'陽明文庫本が学習院本に先行するものである事を考えれば'松平

文庫本より古いものという他の資料も併せ考えての位置づけが可能と杏

るであろう︒たゞLtこれらは'説話の比較を通しての事であるからへ

それが全体を言‑とは限らない事は勿論である︒

師仲の内侍所神鏡搬出の功が史実ではほゞ確実に認められ'それをも

って信頼与同をなだめられん事を乞うた事も考えられるのに'平治物請

は神鏡搬出についてへ少‑とも上巻で想像出来る範囲では誤っていると

平治物語第一類と第四類本の間 言え︑それは平治物語作者の或る時点での情報量によるものと思われる︒ 特に師仲が許されて下野国から召還されるまで六年ありながら︑諸本(第 1類本を含めて)三河の八橋での詠歌﹁夢にだに﹂がもとで﹁上皇此歌 を聞召れていそぎめし返されけり﹂とする︒﹁夢にだに﹂の和歌につ いても諸本に異同があり︑(流罪が許されるについて和歌詠進の功が大き な役割をしているというのに)配流される場所も異同がある︒師仲自身 についてはへ平治の乱の立役者の一人であろ‑事もわかるのに︑その処 置が必Lも一致しない.勿論後白河院政がそ‑いうものだとする史家の 説を踏まえるにしても'平治物語の取扱いも明断を欠‑事になったもの で

あ ろ

う ︒

師仲流罪の事を初めへ経宗・惟方が捕縛と信西が子供等召還の事︑そ

して経宗・惟方が召還というこの一連の物語は︑経宗ら捕縛が二月廿日︑

その流罪が三月十一日で'師仲も更には頼朝流罪もこの日決められたよ

うである︒経宗・惟方が捕縛はへこの両者共に天皇方へ師仲を含めて三

者は信頼与同から然るべ‑して寝返った者である︒うがった見方をすれ

ば'経宗・惟方は何らかの理由がない限り'天皇方の実力者として上皇

方に対抗するそれら乱の与同者捕縛の理由が掴めなかったのではないか

そして︑これら三人の流罪と時を同じ‑して信西の子供達が召還される

のは院方の天皇方に対する主導権の発揮ととれないだろうか︒つまり'

上皇坊からすれば'平治乱与同者の主塊たる経宗・惟方・師仲が重科を

なだめられたとするのはそれぞれが寝返りの功'神器持出の功を言った

からで'特に天皇の側近としての経宗・惟方はこのま,では天皇の傘の

下で完全に院方の目を外してしまう事になる︒検非違使を用いず清盛が

命を承った事もへその力と院方の策動が目に見えるよ‑に思われる︒金

刀比羅宮本の'経宗・惟方・師仲等流罪・召還の取扱いもか,る観点よ

りすれば'或る程度納得がゆ‑ものであり'学習臨大学本・松平文庫本

の扱いも'当時流行の意識で誌されたものとして又納得出来るものであ

十三

参照

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均準  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 「スパルテイン」作用時ノ成績ハ第2表ニシテ

 是等實験誤差ノ根擦ハ主トシテ標本ノ厚薄ニアルベク,標本ノ薄キモノ程測定誤差ノ少キ

モノニシテ,此電流ノ彊サバ刷子が 整流子ノー方ヨリ他方へ移ラントス

リ.然ルニ㈹La㎎1eyハ「オス〜ウム酸魔置ノ凛六二於テ織維ガ珠藪秋(varicoso)チナス事

 細挫シタ睾丸二目方ノ3倍量ノ蒸溜水ヲ加へ,「ガ

単発持続型直列飛石型 ︒今 対缶不l視知覚

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