長崎大学留学生セ ンター紀要 第
5
号 研究論文1 9 9 7
年外 国語教 師夏 目軟石
前 田 昭 彦
キーワー ド :英語学習歴、英語教師歴、英語教授法、理想 とニヒリズム、異文化理解
∫
1 はじめに
文学者夏 目軟石
( 1 8 6 7 ‑ 1 91 6)
については移 しい数の研究書があ り、細部 にわた って研 究が行 われている。 しか し、半生の職業 となった外国語教師 としての軟石 を正面か ら捉 え た研究は少ない。松山中学の教師時代は 『坊ちゃん』の主人公 と混同され、教師をやめた い という私信の文面や、後に東京帝国大学の教授の椅子の提供 を蹴 って新聞社 に入ったこ とが喧伝 され、一般に考えられている教師 としての款石像 はかな り歪んだ もの となってい る。本箱では軟石の英語学習、教職歴、英語教授法、教場 における軟石 に焦点をあて、等身 大の軟石の教師像 に迫 り、教師軟石の今 日的意味を検討 してみたい。
2 淑石の英語学習歴
2. 1
小学生時代軟石は英語教師であったが、初めか ら英語が好 きだったわけではない。淑石の英語学習 は小学生時代 に長兄大助 によって始め られた
。1 1
歳年長の長兄 は当時東京大学の前身、東 京開成学校 に在学 していたが、すでに胸 を病んでいた。時代 に取 り残 されてい く江戸の名 主の長男は、後 に家督 を金之助 (淑石)に譲るという遮音 を残 した。他の弟たちは放窓な 生活 に身をもち崩そうとしていた。長兄は幼い金之助に他の弟 と異なる素質を見て、誕生を祝福 されず
2
度 も養子 に出された末弟に家運の隆盛 を託そうとしたのだった。時流か らはずれ斜陽化 してい く夏 目家 において時代の動向が読めるのは長兄一人であっ た。長兄は英語 を学び、学問することが これか らの世に身を立てる道であることを知って いた。 しか し、自らは不治の病 に冒されていた。長兄が小学生である軟石 に英語 を教 え込 もうとする気持ちには切実なものがあったであろう。肉親に学問を教 えるのはただで さえ 難 しい。その ような状況の下で事態が どのように推移するか推測 に難 くない。 しか も、金 之助は通常の漢文好 きの域 を越 えて湊籍 に親 しんでいた。英語は馴染みに くい嫌 な勉強で あった。軟石 は英語嫌いになったのである。その間の事情は 『落第』で次のように述べ ら れている。(以下、漢字は新字体 に直 して引用する)
2 外 国語教 師夏 目軟石
元来僕は漢学が好で随分興味を有って漢籍は沢山読んだものである。 今は英文学な どをやって居るが、其頃 (中学および二松学舎時代一筆者)は英語 と来たら大嫌ひで 手に取るのも厭 な様な気が した。 兄が英語をやって居たから家ではすこし宛教 えられ たけれど、教える兄は滴頼持、教はる僕は大嫌ひと来て居るか ら到底長 く続 く筈 もな く、ナシ ョナル (リーダーのテキス トー筆者)の二位でお終ひになって了った (後略)
2.2
中学から成立学舎へ軟石が本格的に英語学習に取 り組むのは比較的おそ く、明治1
6
年9
月( 1 6
歳)に成立学 舎に入ってか らであった。大学に入るためには英語が必要で、必要に迫 られて英語を勉強 し始めたわけであるO かつて在籍 し中退 した東京府立第‑中学校は 『落第』によると 「正 則 と変則 に別れて居て、正則の方は一般の普通学 をや り、変則の方では英語 を重 にやっ た1)。 」
軟石は正則のほうにいて、「大学予備門 (今の高等学校)へ入るには変則の方だ と 英語 を余計やって居たから容易 に入れたけれど、正則の方では英語をやらなかったから卒 業 して後更に英語を勉強 しなければ予備門へは入れなかった。」しか も中学 は 「面 白 くもない し、二三年で」やめて しまった。
そう言いなが ら奇妙なことに軟石はす ぐに英語の勉強を始めてはいない。漢学塾の二松 学舎 に入ったのである。 おそらく一旦大学進学を断念 し、趣味に生 きる決心 をしたのであ ろう。二松学舎在籍は1
4
歳の時の約‑年で、それか ら英語学習のために成立学舎に入る1 6
歳の9
月まで、1
年半余が軟石の履歴で空自となる。 これは研究者のあいだで謎 とされて いる。軟石の精神状態に疑問を呈する江藤淳( 1 97 0)は、「これが最初の精神症の徴候 を
示 しているか どうかを断定する資料はないが、この間彼が完全に心身ともに健康だったと する根拠 もない」 と述べている2)0筆者はこの種の説には与 しない。これは学制が整い、さらにサラリーマンが社会の主流 を占めるようになってからの見方ではないかと考える。小学校入学か ら定年 まで軌道が敷 かれていて、回 り道を損 として計上する時代の見方であろう。会社勤めが社会の主流でな かった明治の初めに、経済的な損得の考慮から人生は無駄な く過ごされるべ きだといった 生 きかたを人々が していたであろうか。 しか も、没落の過程にあるとはいえ、夏 目家は今 に東京の地名に名を残す江戸の名主である3)。大学南榎在籍中のす ぐ上の兄二人は学業そっ ちのけで芝居などの江戸趣味に耽溺 し、家で も役者の声色などで遊び暮 らしていた。その ような雰囲気の生家にいて、軟石が趣味に生 き、趣味で身を立てようと考えたとしても不 思議はない。履歴上の空白の1年半余はおそらく漢籍や小説の読書三昧であったろう。
そんなある日軟石は長兄 に将来を相談する。2年ほど前に亡 くなった実母 を除いて、長 兄は軟石が唯一敬愛 していた肉親である。 樋口一葉 との縁談 もあった長兄大助は肺患に前 途の希望 をな くし開成学校退学後、警視庁ついで陸軍省で翻訳の仕事についていた。長兄
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年 3もまた前途のない病身を芸者遊びに慰めるような生活を始めていた。 しか し、期待 をかけ る末弟金之助に他の弟たちと同 じ道を歩 ませてはならないと考えたのであろう。兄は軟石 の夢 に反対する。『処女作追懐談
』
では以下のように述べ られている。(前略)私 も十五六歳の頃は、漢書や小説などを読んで文学 といふ ものを面白 く感 じ、自分 もやって見 ようといふ気が したので、それを亡 くなった兄に静 してみると、
文学は職業にやならない、アツコンプリシュメン トに過 ぎない ものだと云って、寧ろ 私 を叱った。
軟石のほうも兄の叱責に逆 らってまで意志を貫 くほどの決意や確信 を持っていたわけで はなかった。「考えて見ると藻籍許読んでこの文明開化の世の中に漢学者 になった処が仕 方なし
」
「兎に角大学へ入って何か勉強 しようと決心 し」
「大いに発心 し」
て 「大学予備門‑入る為 に成立学舎‑入学
」
「殆 ど一年許 り一生懸命 に英語 を勉強 した」と 『落第』で語っ ている。成立学舎で軟石は基礎か らや り直 したのではな く、進んだクラス に入れ られ、「急 に上のクラスへ入って
」
「初めの中は少 しも分からな」い状態であった。だが、ここで 軟石の真骨頂が発揮 されることになる。常人 と異なる集中力である。 「其時は好 な漢籍 さ へ一冊残 らず売って了ひ夢中になって勉強 したから、終にはだんだん分かる様になって」1年後に大学予備門 (軟石在籍中に第一高等中学校 と改称)へ入っている. 『私の経過 し た学生時代
』
によると、このころからしばらくは多読によって英語力を養ったようである。2.3
大学予備門、大学、大学院こうして予備門に入った軟石はそこか ら英語の学習に専念 したかというと、そうではな い。勉強を軽蔑する蛮カラ連 と同 じ下宿で生活 し、丁試験の点許 り取 りたがって居 る様 な 連中は共に談ずるに足 らず と観 じて、僕等は唯遊んで居るのを豪いことの如 く思つで情け
」
いろいろなスポーツに興 じ、寄席通いを楽 しんでいる。成練が下がるのは当然である。仲 間が一人、二人 と落第するなかで、軟石 自身も二年 目で落第を経験するOもっとも軟石の 場合は腹膜炎で試験 を受けられなかったことが直接の原因であるが、ここで淑石の尋常な らざる一面が発揮 される
.
『落第』で次のように語 られている.「今迄の様 にうっか りして 居ては駄 目だか ら、寧 (いつ)そ初めか らや り直 した方がいいと思って、友達などが待っ て居て追試験 を受けろと切 りに勧めるのも聞かず、自分から落第 して再び二級 を繰返す ことにしたのである。」
秀才金之助はこのようにして誕生 した。 もともと英文解釈や漢文では級友に一 目置かれ ていたが、「前には出来なかった数学なども出来る様になって」フランス語 を選択 し、工 科の建築科へ と進む。『落第』や 『処女作追懐談』によると、哲学科 の友人米 山保三郎の
4 外 国語教 師夏 目軟石
強い勧めに動かされて文学者 になる決心 をする
。
「英語英文に通達 して、外 国語でえ らい 文学上の述作 をやって、西洋人を驚かせ ようという希望 を抱いていた。」要求水準が高す ぎると、人は往々にして挫折 を味わうものである。淑石 は 『処女作追懐 談
』
で、「大学へ這入って三年 を過 して居 るうちに、段々其希望があや しくなって来 て、卒業 した ときには、是で も学士か と思ふ様 な馬鹿が出来上った。」と述べている。大学時 代、25歳の とき東京専門学校 (早稲 田大学の前身)の講師とな り、帝国大学文科大学英文 科卒業は明治26年 7月26歳の ときで、続けて大学院に進学する。文科大学大学院時代 に学 長外 山正一の推薦 により東京高等師範学校英語教師 となる.述懐 にあるように 「点数が よ かったので、人は存外信用 して くれた」わけである。軟石 は 「落第」以後高等学校で首席 を続けているが、大学で も熱心な学徒であった。
前述の ように、一高時代か ら軟石の英語 と漢文の力は群 を抜いていて、自信家で負 けず 嫌いの同期生正岡子規 も脱帽するほどであった.また、一高で 「毎週五六時間必ず先生の 教場へ出て英語や歴史の授業 を受けた許でな く、時々は私宅迄押 し懸けて行って話 を聞」
き4)、後年軟石の博士号辞退に際 し、賞賛の手紙 をくれたマ‑ ドック教授や大学時代 、軟 石 に 「方丈記」の英訳 を依頼 した英語 ・英文学のデイクソンなど、お雇い外国人教師にも その学力 と英語力は認め られ、注 目されていた。
3 教師淑石
3. 1
アルバ イ ト軟石の教師歴は予備門在籍中
1 9
歳の ときの江東義塾 という私塾でのアルバイ トに始まる。ここは英語の教科書で各教科 を教 える塾であったO「一つには家か ら学資 を仰がず に遣っ て見 ようといふ考えか ら
」(
『私の経過 した学生時代J)始めたと語っている.友人 と塾 の 寄宿舎で生活 しなが ら、予備門が終わって午後の2時間 「何の苦痛 も感ぜず」(同上)「自 分は英語で地理書や幾何学 を教 えた」(
「変化」
『永 日小品』)が、 トラホームにかか り、1 年ほどでここをやめて、自宅か ら通学 した。次が前述の ように、大学3年時、25歳の ときの東京専門学校 (早稲 田大学の前身)の講 師である。ここでは 「ミル トンのアレオバジチカという六力敷い本 を教 えさ ゝれて、大変 困った」
(
『僕の昔』
)と述べている。半年ほど後、軟石は友人正岡子規か ら、学生 間に軟 石 に辞職勧告 を申し出ようという動 きがあることを伝 えられる。それに対 し、明治25
年12
月15
日の子規あての返書で、そのような運動のことは初耳で多少驚いているが、学生の評 判 もさほど悪 くないことを例証 しつつ、「勿論小生は教方下手の方 なる上過半の生徒 は力 に余る書物 を控ね返す次第なれば不満足の生徒は沢山あらんと其辺は疾 くより承知なれ ど 是 は一方 より見ればあながち小生の各 にもあらず学校の制度なれば是非なし」
と客観的に6 外 国語教 師夏 目軟石
断 りきれな くなった軟石 は高等師範 に勤めることになる。軟石 自身これを 「ライフのス ター トであった。」と表現 している。「ライフのスター ト
」
のために軟石 は周到 に準備 をし ていたわけではなかった。講演 『私の個人主義』 において、「その時分 の私 は卒業 す る間 際 まで何 をして衣食の道 を講 じていいか知 らなかったほどの迂開署で した」 と述べている。大学院に籍 を置いているとはいえ、大学 を卒業 した以上教職はもはやアルバイ トではなかっ た。大学入学時に文部省の貸費生 となっていたのでその返済 もしなければならず、年老い た父 に送金 もしなければならなかった。
こうして本格的に教職 についてみて、軟石 は 「教育者 として偉 くな り得 るや うな資格 は 私 に最初か ら欠けてゐたのですか ら、私はどうも窮屈で恐れ入 りま した.」(r私 の個人主 義
』)
とい う状況 におちいった。教員養成 を目的 とする高等師範の特殊事情 の なかで建前 として教職者 に求め られるものが、対人関係 において表裏のある交際 を好 まない軟石 には 苦痛だったのであろう。「嘉納 さん も貴方はあま り正直過 ぎて困ると云っ た位 ですか ら、或いは もつ と横着 を極めてゐて も宜かったか も知れませ ん。」 (同上) と述べている。だが、
横着 をきめることは軟石 にはで きなかったのである。教職 にあ りなが ら常 に場違いな思い があ り、「肴屋が菓子屋へ手伝 ひに行った」(同上)感 じがつ きまとっていた。
そ こで教職 を離れるべ く、友人菅虎雄 を介 して横浜にある英字新聞に就職 を依頼 し、禅 に関する英語の論文 を提 出 したが、全 く相手にされなかった。小宮
( 1 9 8 6)
は、外 国人は 言葉 は読めて も禅の意味内容が理解で きなかったに違いない とい う菅の言葉 を引用 して、これに同意 している。江藤
( 1 97 0)
は、淑石の才能 をお しんだ菅が新聞社 に論文 を送 らな かった可能性 を示唆 している。いずれにして も、軟石の自尊心 は深 く傷ついたであろう。3.3
中学教師高等師範就職か ら約1年後、明治28年4月、菅の世話で愛媛県の松山中学の教諭 となる。
給与 は校長 より高 く、高等師範時代の2倍 ほどであった。その動機 は失恋説 など種 々ある が真相 はよくわか らないO淑石 自身は 『私の個人主義
J
のなかで高等師範の教師 として模 範的な立派な教育者 になることに違和感があ り、長年研鋸 を重ねた英文学 も文学 も解 らな い とい う思いにその当時心 は空虚であった と語 っている。一つの行為が一つの動機 によってなされるとは限 らないので、松 山行 きにも複合 した動 機があった と考 えられる。「此世 に生 まれた以上何か しなければならん、 と云 って何 を し て好いか少 しも見当が付かない」(r私の個人主義』)閉塞状況のなか にあ って軟石 は切 迫
した思いで出口を捜 していたのであろう。また、明治28年7月26日の斎藤阿鼻への返書 に
「小生当地 に参 り侯 目的は金 をためて洋行の旅費 を作 る所存 に有之侯処
‑」
とあるの はあ ながち冗談ではなかったであろう.また、小宮 (前掲書 )や安部能成 (r軟石全集』1 9 9 6
, 別巻、以下別巻 と略す)は、「自分 は何 もか も捨てる気で松 山に行 った」「世の中を捨 てる長崎大学留学生セ ンター紀要 第
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年 5状況 を分析 してもいる。さらに 「学校の委託を受けなが ら生徒 を満足せ しめ能はず と有て は責任の上又良心の上 より云ふ も心 よからず と存侯間此際断然 と出講を断はる決心に御座 候
」
と坪内遭遥に辞表を提出する意向を述べている。教 え方は確かにまだ上手 とは言えなかったかもしれないが、小官豊隆
( 1 9 8 6)
は、当時 軟石に習った綱島梁川が初めて軟石の講義に出て、「弁舌明快ならず、講釈の仕方未だ巧 みならず といヘ ビも (中略)とにか くかなりの講師と評すべ し」と日記に記 し、さらに講 義終了後かねて不審の箇所で他の先生方が明瞭 に答 えられなかった点 を質問に行 くと、「別に席捲 もせず、いと平然 として意を解 され Lは誠に感服の至 りな りき。」 と記 している ことを紹介 している。教授法は未熟であっても、学力ではすでに先輩教師を凌駕する面を 有 していたわけである。
小宮 (前掲書)では辞職申し出の件は実行 されたか否か不明としているが、荻滑 さを持 ち合わせない頑固な軟石の性格ではおそらく辞表は提出されたであろう。また、軟石の辞 意を撤回させるのは遭遇にとってさほど難 しくはなかったであろう。ともか くここでの仕 事は大学院を出て松山の尋常中学に赴任するまで続 くことになる。
大村善書
( 1 9 6 6)
は、軟石が東京専門学校でMi l t on
の" Ar e opagi t i c a"
を前任者か ら 引 き継 ぎ、Gol ds mi t h
のTheVi c arofWake f i e l d
を講義 したことを明 らかに している。また、大村では
" Ar e opagi t i c a'
'にてこずったという 『英語青年』明治41
年1 2
月号の軟石 の手になる記事 も引用 されている。 軟石の手紙 もこれらのことを裏付けている。 また、田 部重治 (『英語青年』1 9 6 6
年7
月)は兄の体験談 として、大学生時代 の早稲 田での授業 は あまり評判が よくな く、学生たちが不平を坪内造遥に持ち込んだところ造遥が軟石 を弁護 したこと、大学卒業後、デ ・クインシーの 「阿片常用者の告白」
を教えるときには 「全 く 見違えるような立派な授業ぶ り」であったことを報告 している。3. 2
ライフのスター トとしての教職明治
2 6
年7
月に大学 を卒業 し大学院に入って間もな く、前述のように学長の推薦により 東京高等師範学校英語教師に就任 した。そのいきさつは 『処女作追懐談』において以下のように語 られている。ちなみに 「嘉納さん」は講道館柔道の創始者嘉納治五郎である。
外山さんは私 を嘉納 さんのところへやった。嘉納 さんは高等師範の校長である。其 処へ行って先ず話を聴いて見ると、嘉納 さんは非常に高いことを言ふ。教育の事業は どうとか、教育者はどうなければならない とか、連 も我 々にはやれさうに もない。
(中略)そこで連 も私には出来ませんと断ると、嘉納 さんが旨い ことを言ふ。あなた の辞退するのを見て益依頼 し度 くなったから、兎に角やれるだけやって くれとのこと であった。
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号 研究論文1 9 9 7
年 7気持ちだった」と松山行 きの動機 を軟石か ら直接聞いたと述べている。さらに、研究者に さほど注 目されていないが、動機の一部を構成 したと思われるものに、大学時代の明治25 年に教育学の論文 として作成 した 訂中学改良策』の存在がある.
これは明治維新以来の中学の沿革を調査 し、当時の尋常中学の教育の不備を制度、教師、
生徒、教科、教授法などにわたって改良すべ く提案 した もので、今 日で も傾聴に億する意 見が少な くない。例えば、「会話作文講読等の諸科
」
特に作文は日本人教 師が徹底充分 に 指導できるものではないので、一校 に一人は外国人教師を雇って担当させるべ きだという 意見や訳読に関する教授法などを読むと、若 き軟石が語学教師 としても非凡な考えをもっ ていたことが窺え、今 日なお考慮すべ き問題 も含 まれている。また、教師は 「言行 を慎み 自重の風 を示 し」道徳面で も気がついたら親切に忠告すべ きで、生徒の徳育に大いに意 を 用いよといった箇所などには理想主義者軟石の一面が表れている。 出来成訓( 1 9 9 4)
は「英語 を教 えることを人間教育の一つ としてとらえてい」て、英語教育の 「単 なる技術論 ではない」点か ら、『語学養成法』とともにこれを 「英語教授法」ではなく、「英語教育論」 と位置付けている。
愛媛県か ら友人菅に学士の中学教師を捜 して欲 しい旨の話が来たとき、現状打破 を計 り たい気持ちや充足感のない人生から逃れて漂泊を思 う心があ り、さらに、この論文を書い ていたことで中学教師の仕事に気持ちが動いたと考えられる。イギリス留学時代 にロン ド ン滞在期間が軟石 としばらく重複 した宮語学者岡倉由三郎 も英語は基礎か ら正 しく教 えな ければいけないといって旧制中学で教鞭を執ったことがある (中島健蔵,『英語青年』1
9 6 6
年7月)。軟石にも似たような思いがなかったとはいえない。ともあれ給与はお雇い外国 人教師なみで、校長 より2 0
円も多い破格の高給であった。洋行の旅費がで きるか もしれな いと軟石が考えても不思議ではない。 しか し、江戸っ子の見栄か、大 きい借家に住むなど 高給取 りにふ さわ しい生活をしようとした軟石に蓄財はまった くで きなかった。明治28年5月28日、松山から子規にあてた手紙には 「当地にでは先生然 とせねばならぬ故衣服居住 も八十円の月俸 に相当せねばならず小生如 き丸裸には当分大閉口な り」とある。
松山中学で淑石は
4
年生 と5
年生に英語を教えている。教科書はI r v i ng
のTheSke t c h Book
である。松山中学時代の生徒で後に軟石の主治医 となった真鍋嘉一郎は 『夏 日先生 の追憶』(別巻)で、「其頃の中学の英語 といふ ものは、一体教授法か ら何か ら無茶苦茶 な もので」教師たちは 「難解なものをやればやる丈カがつ くなぞと云って、無闇矢鱈 に解 ら ぬ ものをつめ込んだものであった。所が夏 日先生が来て、スケ ッチブックを講義 し初める と、不思議によくわかって、英語の面白みが初めて感ぜ られるようになった。」 と述べ て いる。これは 『中学改良策』の 「用書は可成卑近の ものを択んで高尚に失せ ざる様心掛 く べ し」 を実践 した ものであろう。また、真鍋 (同上)は 「先生の英語の教授法は、訳ばか りでは不可ない、シンタックス
β 外 国語教 師夏 日軟石
とグラマーを解剖 して、言葉の排列の末まで精細に
」
調べ、考察 しなければならないとい うので、「一時間に僅か二三行 しか行かぬこともあった」と述べている。対象は17、8
歳の 少年たちであるが、淑石の目には彼 らの英語はまだ基礎的段階にあると映ったのであろう。上級では 「訳読 を済まさ ゞる場所にても容易なる部分は之を読み翻訳の手数を費やさず し て直ちに洋書 を理解する力を養ふべ し
」
という 『中学改良策』
の教授法は採用 されなかっ たのである。真鍋氏によると、軟石は 「会話の時間には初めから英語で話」し、「作文は実 に町噂 に 熱心に直 して下さった」そうで、「しか も他の教師とはちがひ、教授 には充分余力 を余 し てゐる事がわかったため、生徒は全 く先生に敬服 して了」ったということである。当時の 各地の中学には、軟石 に言わせると学問の点で質の悪い教師が混 じっていて、生徒のほう では教師に難 しい質問をしてい じめるという風潮があったようである。軟石 もその洗礼 を 受けたのであるが、勿論生徒の方が軟石にや りこめられる結果に終わ り、瞬時にして両者 の力関係は決定 してしまったらしい。
松山中学 と軟石 といえばす ぐに 『坊ちゃん
』
が思い浮かぶが、軟石 自身 『私の個人主義』 などで言っているように、舞台は松山であっても、決 して人物の特定が可能なモデル小説 ではない。モチーフはむ しろ 「東京にてはあまり御利口連につ ゝ突かれ」( 2 8
年5
月1 0
日、狩野字書あて書簡)「窮屈で恐入った」高等師範の教師時代 と、後の帝大時代 にあった と 考えられる。松山中学での人間関係は軟石を深刻にするほど悪 くはなかった。ただ
、2 8
年5
月2 8
日に子規あての手紙では 「結婚、放蕩、読書三の者其の‑を択むにあらざれば大抵 の人田舎に辛防は出来ぬ事 と存候 (中略)宿屋下宿ノロマの癖に不親切なるが如 し」と書 き、1 1
月7
日には 「此頃愛媛県には少々愛想が尽 き申侯故 どこかへ巣を替へんと存候 (中 略)貴君の生 まれ故郷なが ら余 りの人気のよき処では御座なく侯」 と書いている。松山は 江戸っ子気質の軟石 には水の合わない土地だったのである。着任
1
年後の4
月、軟石は松山中学を辞任 し、再び菅の世話で熊本の第五高等学校講師 に就任 したO『私の個人主義帖 こよると知事の慰留を振 り切っての辞任であった。大村高 普 (前掲)が、鶴元丑之介 「軟石先生 と松山」から引用 した松山中学全校生徒 を前にした 告別の辞 には、松山を去る理由を 「生徒諸君の勉学上の態度が真撃ならざる一事である」と説明 している。 田舎が嫌いな上に、学習意欲のない生徒たちに嫌気がさしたのである。
3.4
第五高等学校軟石が熊本の五高で教鞭 を執ったのは明治29年 4月からイギリス留学のために熊本 を去 る33年 7月までである。29歳から33歳 までにあたる。講師で着任 した軟石は、同29年 7月 に教授、32年に英語主任、33年に教頭心得になっている。その間、大村氏 (前掲)による と
Bur ke
のFr e nc h Re v ol ut i on , DeGui nc e y
のTheConf e s s i onsofan Engl i s h
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号 研 究論文1 9 9 7
年9
Opi um‑ Eat e r,JohnHal i f ax
のGe nt l e man
およびGe msofEngl i s hPr os e
などを教科 書 としている。五高の学生であった寺田寅彦 (別巻)によると、軟石は学生の求めに応 じ て朝7
時か ら1
時間オセロを課外講義 として講 じ、授業では 「オピアムイータ‑やサイラ ス ・マ‑ナ‑」
を教えている。さらに課外講義ではハムレットも教えた (小宮、前掲書)0五高での教え方は松山中学時代の綿密な方法 と異な り、「先生が唯す らす らと音読 して 行 って、さうして 「どうだ、分かったか」、と云った風であった」が、 ときには 「文中の 一節 に関 して、色々のクオーテーションを黒板‑書 くこともあった
.
」(寺田)という.翻 訳 を介 しないで直接読み とる方法を教えようとしたのであ り、多読によって読解力を養おうとしたのである。直読直解 とで もいうべ き方法で、そこに軟石の見放が窺える。
筆者は日本語教育に従事 しているが、そこでは多様な母語の学習者がいる場合、教授法 としての訳読法は不可能である。また仮に可能であるとしても訳読法は採用 しない。文意 の理解 と翻訳は別物である。翻訳は文意の理解がなければできないが、文意の理解がで き ても読むに堪える翻訳ができるとは限らない。翻訳は修業 を必要 とする一つの技術である。
日本の外国語教育で訳読の名で無 自覚に行われているものは総 じて質の悪い翻訳教育であ る。翻訳技能の育成 としては拙劣で、外国語教育 としては非効率なものである。
カナダの大学で日本史を教えている太田雄三は、『英語 と日本人』 (講談社学術文庫 、
1 9 95)のなかで、日本の高等教育機関における英語の文法訳読法に疑義を挟み、翻訳 と読
解の違いを、 日本語を母語 とする太田氏が自分で書いた英語の論文を自分で 日本語に翻訳 するとき、英和辞典を必要 とすることで例証 している。五高において軟石はこの訳読法 を 採用 しなかったのである。ところが、軟石は東京大学で講師として教 えた初年度に訳読法 を採 っている。ラフカディオ ・ハーン解雇に不満をもつ学生が新任の軟石 にいわれのない 反感を抱いていることを見てとり、語学教育をないが しろにされていた学生たちに英語力 の不足 を知 らしめようという意図か ら出た ものであろう。軟石は学生に恐れられるような厳格 な教師であった。それは教師軟石の思い出を述べる 人々が異口同音 に語っている。ただ し、軟石 を煙たが り、怖がるのは学習意欲のない生徒、
学生たちだけであった。例えば、「中には先生 を厳格 な怖い人だとばか り思ってゐた人 も あったが、私には少 しもそんな事はなかった」(真鍋、前掲)、「稽古台 には好 い先生で し たね。厳 しいには厳 しかったが、問の抜けた質問をしても、真面 目にさへ向って行けば、
い くらで も正面か ら相手になって くれられた
。 」
「教場では厳格 な、八釜 しい、皮肉な先生 と映 じてゐたでせ う。 しか し一面非常に親 しみのある人で した」(湯浅廉孫 、別巻 )、「下 読みをしないで出ると、わざと当てられるのには衆皆弱ったものです。注意深い、厳格 な 先生で」(高原操、別巻)といった具合である。高原氏によると、五高 においては生徒 に 厳 しく予習を要求 し、勉強 していない者には 「下読みをして来なけ りゃ、教場へ出て来る な」と叱ったそうである。当時の五高は1
クラス3 0
名ほどで、軟石は学生の名前 をよく覚1 0
外 国語教 師夏 目軟石えていたといわれる。
教室 を離れるとそのような厳 しさは消え、上記湯浅氏など学生を前後3名ほど書生 とし て世話 している。 また、軟石夫人の思い出によると、夏の休暇中に学生2人に自宅でほぼ 毎 日英語 を教えている。 最初のころは夫人が学生に同情するほど叱 り通 しで、夫人が学校 で も 「あんなにがみがみお叱 りになるの」と言 うと、軟石はそれを否定 し、「しか しか う やって家でただで教へるといふ ものはいいもんだよ」(夏 日鏡子 『軟石の思ひ出
』
)と言っ たという。 学校で教 えることは嫌いでも、意欲ある者に教えを請われれば喜んで教 えたの である。それは学生に頼まれると早朝に課外講義をしたことにも表れている。 また、湯浅 氏は書生 として留守をあずかっていたとき、い くら飲 ませてもいいが書斎 に入るなとい う 軟石の言葉を吹聴 し、「大勢が入れ代 り立ち代 り遣って来て、取附けの酒屋から勝手に取っ て、飛んだ放楽を」
したが 「さう云 う点は実に寛大なもので したな」
と言い、さらに 「金 なんか足 りない時に頂戴に行 くと、実に気持ちよく出して下さりました」
と述べ、軟石は 非常に親 しみのある一面を有 していたと語っている。3.5
第一高等学校 ・東京帝国大学高等学校の教授 を留学 させる制度が始 まり、軟石は初回の一月に選ばれて、イギリスへ 留学 した。 留学に関 しては稀 を改めたいが、ここで簡単に軟石の英語会話能力に触れてお きたい。滞英中の軟石が大学に行かず、本を買い漁って下宿の部屋に寵 もっていたことを 英会話の能力不足のせいと考える人 もいるが、淑石は講義などの折 り目正 しい英語であれ ば聞 くことは勿論、自ら話すことも不 自由はなかったのである。大学で聴講 して、 日記に
「 Ke r
ノ講義 ヲ聞ク面白カリシ」と記 し、たびたび観劇 を楽 しんでいる。軟石が理解 に苦 労 したのは、方言や俗語混 じりの早口の会話である。明治34
年1
月12
日の 日記 に、「会話 ハ 自国ノ言語故無論我々鰻立シテモ及バヌナリ然シ所謂c oc kne y
ハ上品ナ言語ニアラズママ
且分 ラヌナリ (中略)倫執上流ノ言語ハ明断ニテ上品ナリs
t andar d
ナランカ是ナラ大抵 分ルナリ」とある。 日本語が上手な外国人のなかに軟石 と同 じように方言や俗語、発音の 不明瞭な早口の 日本語は分か らないという人は少な くない。外国語教育はバイリンガルを 目標 としているわけではないので、それで構わない。母語さえ総ては分からないのである。軟石は明治
3 6
年1
月に2
年余の留学 を終えて帰国 した。熊本へ帰 りた くなかった軟石は 一高校長 となっていた狩野字書等の計 らいで、一高 と東京帝国大学に講師として採用 され た。五高の教授か ら講師への格下げは経済的な理由から退職金を得るために五高を辞職 し たか らである。帝大講師への就任は、狩野氏などが案出した五高に対する名分であった。帝大の前任者はラフカディオ ・ハーンであった。ハーンは学生に好評で、ハーンの退職 には不明朗なものがあると考えた学生たちは留任運動 をしていた。軟石 自身は大学で教え ることには気が進まず、 しか もハーンの後 を受けて講義をすることに不安さえ感 じていた。
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
5
号 研究論文1 9 9 7
年 ll夏 目夫人によると、「小泉先生は英文学の泰斗で もあ り、また文豪 として世界 に響 いたえ らい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上 りの ものが、その後釜に据わったとこ ろで、到底立派な講義ができるわけの ものでもない。また学生が満足 して くれる道理 もな い。」と言い、また、大学で英文学 を講ずる予定はなかったので、英 国で研究 して きたの はまるで違 うものだと言って大学講師就任 を避けようとしたそうである。
軟石の不安は的中 した。ハーンの辞的雰囲気の横溢 した講義に陶酔 していた学生たちは ハーン 「追放」に対する反感を軟石に向けたふ しがある。 軟石は留学時に心身を賭 して研 究に打 ち込んでいた 「文学論」の序章 ともい うべ き 「英文学形式論」を詩 じ、
Ge or ge El i ot
のSi l asMar ne r
の講読を行った。「吾々日本人が西洋文学 を解釈するに当 り、如何プロセス グラウン ド
なる経路に拠 り、如何なる根拠 より進むが宜 しいか、か くして吾々 日本人は如何 なる程 度 まで西洋文学を理解することが出来、如何なる程度がその理解の範囲外であるかを」 自 身の 目を通 して 「例 を英国の文学中に取 り、吟味 してみたい」という講義は当時斬新で、
興味深い ものであるはずなのに学生の反応は冷淡であった。また、後者は学生 を子供扱い にするものとして反感 さえ買ったという。 当時は 9月が学年の始まりで、軟石が着任 した 4月は学年の途中であった。淑石 に好意的な学生でさえ 「帰朝早々の事であるか ら最初の
‑学期は先生に左程授業上の成算はなかったらうと寮 して屠 る.此の問に青々が先生か ら 得た印象は先生には何だか面白い非凡なものがあるといふことを漠然 と知った ゞけであっ た
。
」(松浦‑、別巻)という程度であったろう。帝大における教師軟石の本領発揮は新学年が始まってか らであったノ 。 留学中に研究に打 ち込んだ 『文学論
』
を講義に使用 し、「マクベス」を講 じている。「マクベス」は大講義室 で講 じられたが、法科の学生なども詰めかけて席が足 りないほどであったという。布施知 足 「軟石先生の沙翁講義振 り」(別巻)に軟石のマクベス講義の様子 を妨沸 させ る記述が ある。布施 (同上)はそれを紹介するに先立って 「先ず朗読、それか ら字句の講義、次に 主要な所へ来ると、人物の解剖、事局の発展其他心得なければならぬ処々を、先生独特の 批評眼で縦横剖折 して古今の異説をも収拾せ られる。果ては沙翁文章の批評にも及んで、この
me t aphor
は巧いとか拙いとか、この書 き方はい ゝとか悪い とか‑」 と軟石 の講義 のおお よその手順 を報告 している。文学論は江藤
( 1 97 0)によると前年度からの分析的な講義に対する学生の反感が持ち越
されていて冷えびえとした雰囲気のなかで行われたという。 しか し、松浦 (前掲)は 「今 まで小泉先生の詩のやうな講義ばか りに親 しんでゐた学生は、此の文学の原論に突込んだ、心理学的美学的及至哲学的な理智の議論に、等 しく驚嘆敬服 して了った
」
と述べている。着任後帝大生の語学力の低 さ、講義に対する理解力の無 さ、試験結果の悪 さに失望 した軟 石は、辞職の腹 を決めて学長に話に行っている。結果は学長に押 し切 られて しまうが、最 初か ら勤めた くなかった大学にはますます嫌気がさしたであろう。年度が変わると上記の
1 2
外 国語教 師夏 目淑石ように軟石の講義は多 くの学生を引 き付けたが、軟石は学生の人気 にさして関心はな く、
折 りあらば教職を辞めようと考えていた。「大学の講義を三年 して居れば、真面 目な人な らきつ と神経衰弱になる」(野上豊一郎、別巻)と考えるほど、大学は苦痛であった。
これにひきかえ、一高の授業はさほど苦労はなかったようであるO‑高ではラセラスの
「世界歴史
」
を教科書 として使用 している。軟石は子だ くさんの家計の逼迫か ら逃れるた め非常勤講師 として土曜 日に4時間明治大学で も教鞭を執った。4 教師淑石
松山中学では教員室で他の教師の談笑には加わらず、時にはグラン ドの鉄棒 にぶ らさが るなど一風変わった教師であったらしい。実は学生時代の軟石は器械体線の名手だったの である。帝大では教官室にはほとんど顔 を出さず、傘なども持ったまま直接教室に講義に 出たという。立派な髭をた くわえ、やや小柄な身体に端正な服 を清酒に着こなしてはいた が、軟石は相当に風変わ りな先生であったらしい。
だが、教 えることにかけては比類な く優れた教師であった。その優秀 さはこれまでの引 用で も充分例証 されていると思 うが、さらに、中勘助 「軟石先生 と私
」
(別巻)か ら一部 取 り出 してみよう.一高 と帝大で軟石の学生であった中氏は、軟石の嘗咳に接 して敬慕の 情横溢 した思い出を残 した他の人々と異なり、距離をおいてかな り冷淡に教師軟石 を措い ている。その中氏 さえ 「い ゝ先生だと思った」 と書いている。一高の軟石は学生 を 「い ゝ 加減いぢめはしたが、ちっとも毒気のないや り方なので生徒 に不快 を与へるやうなことは 少 しもなかった」
し、帝大においては講義中に 「先生の説の肺に落ちないこと、了解 しか ねることがあると殆 ど無意識に一寸首をか しげた.そんな時に先生はきつ と弁明をつけ加 へた り (中略)同 じ言葉をくり返 して くれた りした。」かなり後ろに席 をしめている私が「先生の引証する英文の中に出て くる言葉の綴 りがわからないでつかえてゐると、必ず綴 りをいって くれた.」「先生は平気で講義 しているやうにみえなが ら学生の一人が一寸首を か しげるのにさへ よく気がつ くのだ」 と、尋常ならざる教場の教師軟石 を措いている。
その軟石がなぜ教職 を異常なほど嫌悪 したのであろうか。書簡集を見ると、教職が きら いで教師を辞めたいという文言が随所にある。実際教職を辞めて他に職を見付けようとし たこともある。一皮は前記のように高等師範の教師時代に英字新聞社‑の就職打診 を行っ た。また、熊本の五高時代、義父を通 じて東京に職を求めようともした。 しか し、いずれ も軟石の希望は叶わなかった。「自分の職業 としてゐる教師といふ ものに少 しの興味 も有 ち得
」
ず、「教場で英語を教へる事が既に面倒」
で、「始終中腰で隙があったら、自分の本 領へ飛び移 らう」 (『私の個人主義』)と考えていた軟石が、帝大教授の椅子の提供 を蹴 っ て本領へ飛び移ったのは、明治4 0
年の朝 日新聞入社であった。当時の新聞は社会的地位が長崎大学留学生センター紀要 第
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号 研究論文1 9 9 7
年1 8
今 より格段 に低かった。世間の疑問に、「新聞屋が商売ならば、大学屋 も商売である。 商 売でなければ、教授や博士にな りたがる必要はなからう。月俸 をあげて もらふ必要はなか
らう
。
」(「入社の辞」
明治40年)と江戸っ子軟石はけつをまくったのだった。本人は教職を嫌悪 し、「教育者 として偉 くなり得るやうな資格は私 に最初か ら欠 けてゐ た」(『私の個人主義
』 )
と述べ、「小生は教育 をLに学校へ参 らず月給 をとりに参 り侯」(奥太一郎宛書簡、明治38年)と自噸 しているが、学生か らみても客観 的に判断 して も、
軟石は一流の教育家であった.英語教師としての軟石の学識の深 さと教授法の優れていた 点はこれまでの引用で も充分示 されていよう。 さらに、大学の講義では多 くの先行研究に 言及 した上で自説を述べ、 しか もそれを決 して学生に強制 しない態度を堅持 したという。
大学生には 「オリヂナルなものを盛んに奨励」し、試験の 「審査は厳正で、又精密であっ た。学生の論文の内容を、後々迄詳 しく覚えてゐて、学生に会った時に批評 を加へ られる こと
」
(松浦‑、別巻)が珍 しくなかったそうである。この一事 をもって しても軟石が並 の教師ではなかったことが窺える。今風 に言 うデモシカ教師でかつ教師不適格者であると自己規定 していた軟石が、学生に とっては逆に非常に優れた教師であった矛盾は、軟石 に内在する矛盾の投影であった。そ れはニヒリズムを基調 とする理想主義 と強烈な業務遂行意識の共存の投影であった。物事 を根源的に考察 しようとする者は誰 しも一時期ニヒリズムに接近するものである.しかし、
軟石の場合終生その思想にニヒリズムの影が見え隠れする。 だか らこそ、博士号の授与 を 辞退 し、教授の椅子を蹴 り、社会の指弾を受けた森田草平 を平然 と庇護で きたのである。
「無論人事は大観 した点か ら云‑ばどうで もよいのである。ダーヰ ンも車夫 も同 じ事で ある。(中略)一歩進めて云へば生 きても死んで もそんなに変 りはない。」ここか ら軟石は 自己実現 を希求する。「一大修羅場 と心得る
」世の中で 「
花々しく打死 をす るか敵 を降参 させるか どっちかにして見たい」
「打死にをしても自分が天分 を轟 くして死 んだ といふ慰 謝があればそれで結構である。
」(狩野字書宛書簡、明治39年)と考える。打死にの場は教 職ではな く、1 5
歳のころの夢、文学であった。ニヒリズムは既成の価値観に拘泥 しないことで根源的な考察に結びつ き、理想主義の形 をとって表れる。軟石の教育の理想は 『中学改良策Jや r愚見数則』によく表れている.
前者では教師は言行 を慎んで自重 し、学識を高め教授法の研究のみならず、生徒の徳育に も意を用い、道徳的に気の付 くことがあったら生徒 に親切 に忠告すべ きであるとする。軟 石はこの理念 に忠実であった。帝大において隻腕の学生にそれと知 らずに手を出して講義 を聞 くように注意 したのもその表れである5)。後者では学生は理想 を持つべ きである と主 張 し、自分のように糊口のために教師になったようなものを放逐すべ Lと説いている。
軟石が強い義務感を有 していたことは友人中村是公の 「手軽に約束 をしない代 りには一 旦引受たらば間違へぬ」(別巻)ということばや、軟石夫人の 「ほかに生活費 を得 る道 も
1 4
外 国語教 師夏 日軟石ないので、 目をつぶって学校へ出てゐたや うです。 しか しいやだいやだと口ではいっても、
根が義務観念の強い人ですか ら、滅多 に休 んだ り遅刻 した りするや うなことはあ りませ ん で した
.
」(『軟石の思ひ出J)
という描写 によく表れている。このように強い義務意識 をも つ人が 自己の職業 に高い理想 を掲げてそれを追及するとき、仕事 にやす らぎを見出す こと はで きないであろう。教職 を辞 し、前途は惨但たるものであって も 「大学 に噛み付いて黄 色 になったノー トを繰 り返す よりも人間として殊勝 ならんか と在侯」
と惰性で教職 にある ことを拒否 し、さらに、「頻年大学生の意気妙 に衰えて俗 に赴 く様見 うけ られ侯 。大学 は 月給 とりをこしら‑て夫で威張ってゐる所の様 に感ぜ られ侯。 」
と学生 の理想 の低 さを嘆 き、ベルリン大学のヘーゲルの講義では 「眼中は真理あるのみにて聴講者 も亦真理 を目的 に して参」るのに比 し、 日本では 「月給 をあてにした り権門か らよめを貰ふ様 な考で聴講 せ るもの」 (野上豊一郎宛書簡、明治40年)即ち一身の栄達のみを考 えて大学 に来 る者 の 増加 に愛想 をつか している。大学のこの ような状況 をにが にが しく思 っていた軟石 は、「一面 に於て死ぬか生 きるか、命のや りとりをする様 な維新の志士 の如 き烈 しい精神 で文 学 をやって見たい
。 」
(鈴木三重膏宛書簡、明治39年)とい うかねての願 い を叶 えるべ く 朝 日新聞文芸部記者の地位 に飛び移 ったのであった。教育 に高い理想 をもち、その理想 を実現することに強い義務意識 をもった教師夏 日金之 助 は、学生 にとって非常 に優 れた立派な教師であったにも拘 らず、自己を教師不適格者 と 位置付 け、本分 を他 に求めて教職 を去 ったのであった。近代の教育制度 と教育の在 り方は
「昔 しの草生 は、笈 を負 ひて四方 に遊歴 し、此人ならばと思ふ先生の許 に落付 く、故 に先 生 を敬ふ事、父兄 に過 ぎた り、先生 も亦弟子 に対する事、其の子の如 し、是でな くては真 の教育 といふ事 は出来ぬな り」(『愚見数則
』)
とい う昔 日の教育 を理想 とす る軟石 の教 育 観 と相入れない ものであった。教育の理念 と現実 との懸隔をごまか して生 きてい くには軟 石 はあま りにも正直過 ぎたのである。5
あわ りに教師軟石の足跡 を調べ ることで、軟石が作家、思想家 として一流であったばか りでなく、
教育者 として も一流であったことが判明 した。軟石 は自己を教師不適格者 と位置付 け、口 を糊す るために教職 にある自分の ような教師を放逐するときが 日本の教育が隆盛 になると きであると書いた。 しか し、物事の本質を捉 えないではおかない軟石 は自己の職業 とする 教育 に独 自の理念 をもち、強い義務遂行意識か らその理念 に忠実であろうとした。深い学 識 に裏打 ちされた義務意識が軟石 を一流の教育者 にした と考 えられる。 軟石が教育理念の 一つ とした学生の徳育の重視 は物欲 に直結 した知識偏重、学歴偏重の今 日の教育 に反省材 料 を与 えは しないだろうか。また、教育者 としての理念 をもち、義務 を自覚 して教場 に臨
長崎大学留学生セ ンター紀要 第
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年 15み、教育に厳格であった軟石の態度を知ることは、黄色 くなったノー トを繰 り返 し読むこ とで も教師が務 まる今 日の大学教育の在 り方を問い直す契機 を与えて くれるであろう。
さらに、外国語教師であることに苦 しんだ軟石の苦悩は、異文化理解の面で今 に通 じる 問題 を提起 しているといってよい。軟石は大学時代 「英語英文に通達 して、外国語でえら い文学上の述作」をやろうという希望 を抱いたが、『私の個人主義』による と、学業優秀 であったにもかかわらず、軟石は大学在学中既 に異文化の所産である英文学の理解力に疑 問を感 じは じめていた。これが軟石の深い快悩の もととなっていた。「西洋人が是 は立派 な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それは其西洋人の見る所で、私の参考になら ん事はないにしても、私にさう恩へなければ、到底受充をすべ き等の ものではない」(『私 の個人主義
胴
と考えるが、一方、英文学を専攻する以上 「其本場の批評家のいふ所 と私 の考 と矛盾 しては何 うも普通の場合気が引ける」
と思い、「風俗、人情、習慣、遡 っては 国民の性格骨此矛盾の原因」と考えることとなる。ロン ドン留学中もこの煩悶を持ち続け た軟石はこの矛盾 を説明 して文芸に対する自己の立脚地を建設すべ く、下宿 にこもって科 学や哲学の本を読み、思索することで、この煩悶に解決を与えようとした。こうして結実したのが 『文学論』であるOだが、軟石はこれを半端な 「失敗の亡骸」(W私の個人主義
』 )
に等 しい と語っている。
軟石は 『文学論』をまとめるなかで、英文学の理解 も西洋人の受け売 りを しない、「自 己本位」という立場 を確保するが、これは必ず しも異文化の理解 を意味するものではなく、
理解の立地点を明確 にしたものにす ぎない。同 じ異文化であって も漢籍 に比 し、英語、英 文学 という異文化の真の理解の困難は、教職にある実勢な軟石 を悩 ませていた。イギリス に留学 した軟石は、戦後、経済成長を遂げた日本に留学 したアジアの留学生が しば しば日 本嫌いに陥ると同 じように、異文化への不適応が昂じてイギリスとイギリス人が嫌いになっ て しまった。英語教師として出色の軟石でさえ、留学によってこのような状況に陥ったこ とを考えると、そこには留学生受け入れの歴史が浅 く、受け入れた留学生に対 してまだ充 分に整った環境 を提供 しているとは言い難い我が国の留学生受け入れ制度が考慮すべ き問 題 も含 まれているといえよう。
1 6
外国語教師夏 目軟石註
1)正則、変則の用語は教育制度に関するものと、語学教育に関するものがある。ここで軟石は教 育制度上の用語 として使用 している。
2)軟石の精神状態に関 しては3説ある。軟石夫人鏡子に端 を発する狂人説ない し異常説、小宮豊 隆などの正常説、それに精神病境界説 とで もいうものがある。比較的最近では塚本嘉寿 r軟石、
もう一つの宇宙
J
(新曜社、1 9 9 4)
にこの間選はよくまとめてある。3)軟石夫人の r軟石の思ひ出Jに軟石の父が屋敷の前の坂に夏 目坂 と名 を付け、家紋か ら喜久井 町 と町名 を付 けたことが記 されている。
4)
「博士問題 とマ‑ ドック先生 と余」r
軟石全集j第1
1巻 (岩波書店、1 9 6 6 、p. 2 5 9) 5
)森田草平 r軟石先生 と私J上巻 (東西出版社、1 9 4 7 )
によると、概略以下のようである。いつ も懐手 をして頬杖 を突いて聴講 している学生のそばに行って、軟石は師に対する礼か ら 手 を出す ように注意 したが、学生は下 を向いて返事 もせず手 も出さないので、軟石の声が高まっ ていた。見兼ねて隣席の学生がこの人は手がない と言 うと、軟石はさっと顔 をあか くして、衝 撃 をうけた様子で黙って教壇へ引 き返 し、暫 く両手を机 に突いたまま顔 を挙げなかった。やっ
と顔 を上げると、「いや、失礼 をした。だが、僕 も毎 日無い知恵を絞って講義 を してゐるんだ か ら、君 もたまには無い腕で も出 したらよかろう。」 と小声で言って講義 を再開 した。人の不 幸 を材料 に酒落を言ったと軟石 を批判 した新聞 もあったそうだが、その場 にいた学生の印象は む しろ逆で、森田草平はこれを機 に軟石の人間性 に惹かれ、軟石に凍近 していったとい う。
主な引用 ・参考文献 江藤 淳 r軟石 とその時代J第 1部、新潮社
、1 9 7 0
小官豊隆 r夏 日軟石 (上)j岩波書店、1 9 8 6
小宮豊隆 r夏 目軟石 (中)」岩波書店、1 9 8 7
出来成訓 「軟石の英語教育論
」r
日本英語教育史考j東京法令出版、1 9 9 5
夏 日鏡子 ・松岡 譲 r軟石の思ひ出」角川書店、1 9 6 6
r軟石全集 第十四巻 書簡集J岩波書店
、1 9 6 6
r軟石全集J別巻、岩波書店、1 9 9 6
「英語青年
」1 9 6 6
年7
月号、研究社(留学生センター非常勤講師 ・
長崎ウエス レヤ ン短期大学非常勤講師)