秋田藩における文化の林政改革の再検討
﹁ 御
労 ﹂
と山中労働者の実態の考察を中心に!
はじめに
秋田藩では︑林業を主要な麓業として藩政初期から認識しており︑一一一
度に渡り林政改革を行っている︒いわゆる正鶴の林政改革︑宝繊細の林政
改革︑文化の林政改革の三つであり︑これらを合めての先行研究も豊寓
であ
る︒
本稿においては︑文化の林政改革において︑その発端である﹁被停
渡いにある﹁御労﹂の文言に関する藩の姿勢を検討する︒それを含めて
文化の林政改革の再検討を行う︒
また︑産業史を考える上で︑藩の政策と実際の生産現場のあり方・閑
題点を機臨的に考察する必要があるにも関わらず︑先作研究において誌︑
政策がいかに展開おれていったかという︑政策を行う藩捌からの視線で
把握されている部分が多く︑農民や実際に伐採の現場で鵠く山子側から
の視点で捉えられているとは必ずしも設えない︒故に︑この時期農民や
出子︑が改革によってどのような影響を受け︑それまでの生活にどのよう
に変化がもたちされたのか︑その日常生活の実態も含めて︑若干明らか
にし
たい
︒
国
中
書 誌
種
一︑覧政期における秋田灘裁と林業
まず︑文住の林政改革を見るに当たり︑その産前の藩政改革である覧
政期の改革について少し触れたい︒これまで従来の研究においては︑寛
致期における藩政改革は︑林業史の視点から見ると︑林業を荒廃させた
饗図とされている︒しかし︑藩政故革全体から捉えると︑郡方支配は農
村復興と藩殺の立て重し︑黙殺の立て蓋しがその目的であるのが明織で
ある︒寛政四年の段階では︑林業も殖産の一部であり藩の財政を担うも
のである一方︑米穀生産が財政の主体足るべきという本旨が出されたと
考えられる︒また︑施政九年︑能代世帯行支配の米代川流域の出の管理は︑
郡奉行の所管に移された︒寛政四年の﹁産物方﹂設置の際に奨励された
品目についての史料の中で︑杉は次のように捉えられている︒
c m
一略)空地有之挟村方江者農業之いとまには杉・漆・桑を始
(川抑制用者絞zめカ)
己藍等も可成たけは取立候様可被致候︑暴寛産物御取立之犠
は農業のいとま立可致畿勿論之廷︑議不離を考ひ︑産物江商巴取懇︑
円抑制用者世眠
E 7 7 )
穀物作韓議相怠換而者甚以御本志に相一戻候鰐︑意得違無之様
搬に可被申論候︑(後略﹀
すなわち産物方への取りかかりは︑農業すなわち米穀の生産の合間に
やるべきであり︑讃極的に行うべきではないとされている︒この時期は︑
殖産政策が穣極的に捜し進められていた時期でもあったが︑結果的には︑
殖産政策は主流とはならず︑文政期に一金り︑米穀住聴が農村鑑興の中心
として掲げられることとなる︒一方で︑寛政期は柚敢の機能については
木山方並びに能代奉一行に検されており︑秋自藩の林業の艦業としての強
立性を示唆するものといえよう︒その中で植林の機能が殖産という形で
藩益にあたると見なされたのが︑葉致期の特紫であるという点を指摘し
たい︒故に︑宣教期においては︑植林は農村復興と殖産という観点に包
括されたとみるべきである︒
二︑文化期以前の林政改革と文化の林致改革について
さて︑文化の林政改革の発端は︑文化二年のいわゆる﹁被仰緩いによ
るものであり︑住竹義和の直書にもあるものである
︿前
略﹀
一︑御領中惣而木出之畿︑格別之思布を以被栂改︑御財用
奉行一挙之取組一一被伸付各支配ニ被仰滅候︑前以被仰護候通山林伐
田畑之荒廃村援な表ひのミならす愈水之変皐越之
菱川形之変地等ニ至候龍者金山林伐尽より相生︿後略) 尽ニ相成候罰者︑
まず︑話来の研究から指摘できるように︑領内の山がすべて財用奉行
の担いになっていることから︑財政改革の主践があったことは指摘でき
る︒次に︑それまで郡奉行が躍っていた林政を︑財用奉行に移すのは
円柚備制約之思召を以被相改﹂ものであり︑文化の林政改革が特別の意図を 持って行われたことを示す︒そして︑秋田藩では領内の出林を財用奉行の管轄下に鐙くと同時に︑その昌的が山林の荒療を紡ぐことにあり︑出
の荒廃が自熱災犠に直接関係するので︑その対策として山林を保護す
ることを述べている︒そして具体的な強策として︑次のような事項を挙
げている︒少し長い史料であるが︑引用したい︒
(前
略)
一 ︑
φ
杉川桧・松・けいやぎ・栗・桂・漆e桑其外薪山炭たちとも一ヶ年調一一やがよりも林
i襟 為
︿中
路)
‑ 2 ‑
山 々 臆│邸側︑川添之麗敷居者約留めニ梧或候様一一川
添江可被敢立候
一︑炭山被暁襲繰節前々被知渡候取@根械堀取航機艶く
停止
候︑
1 6
野火除
之議
蒸し
附節
⁝一
一全
保ハ
﹀触
流之
繊珂
申様
︑
一︑御産出材木・小羽差出方︑時鮪相後間者流木等有之︑御損亡之
儀者勿輪第一御
m m 材木御指支のミならず︑御家中之面々御払申誇接連も迷惑⁝⁝柑
及侯議者各被格心得候通尤年之模様ニ寄り候と者乍申︑
9
者相
徐候
様一
一
(後
略)
(傍線部筆者︑以下同)
まず︑梼線部①において︑絵悶作成とへの記載をするように指
一不を出している︒木の縄類と薪山︑炭山を区別して描くよう指示をして
いることは︑傍線部③の林帳とょうとしているのであろう︒
また︑傍線部
φ
にあるように植林の推進がなされ︑務練部ゆにあるように根株堀が禁止されている︒これは︑山の毘複のための資源保全が日
的であると考えられる︒また︑傍線部⑤にあるように野火焼に対する注
意事項についての言及があり︑これもまた山火事の原因にもなるため︑
資源を枯渇させまいとする藩の意図が現れている︒またここで注目すべ
きなの辻︑傍線部@にあるように︑材木山のみならず︑炭山につ
いて︑また公ホだけではなく︑雑木に対しても保護するように述べてい
る等︑藩のになる木だけではなく︑藩内の出全体に対する保全が自
指されていることであろう︒それは先に﹁被抑渡﹂で示したように︑
が水害や干魁などの告然災害には︑山の状態が大きく関わっているとい
う認識を持っていたことにも関係すると考えられる︒また︑静隷部@に
(柚子)に対する統制も出されている︒山子おいて
対
する統制は︑実瞭仁彼らが現場で伐採に携わる事から︑山林の保全とい
ら非常に議要であったと考えられる︒なお︑山子︿柚子﹀に対す
文化大年﹁券取立役定書﹂から明らかにマきる︒
これは務人山師である麟絹盤弁蔵と粛藤新兵衛に出されたものである︒
(前略)木山浩年伐尽機之木品被指出侯ニも御山嫌謀持難
候者︑委曲其方組ハ指心得候通蛇偲⁝一て措置てハ往々線大事一一相至侯 故︑比変厳一一麓村江被抑渡林役時々輝山︑連々御取立被成置自然番山操一一も被成置候問︑毎年柏共申波候ても連年山練一一も持係り地所ハ熊腹藤可中出候(後略﹀
すなわち︑近年出が伐り尽くしになったが︑このままでは大事に至る︒
敢に︑麓村へも林役人の廻山が行われることとなった︒
また︑同史料において
︿前略﹀出子共江御山御労之鰐能々申論︑々柚取為致候上
江柚入検事ニ可致候︑︿後略)
つまり﹁御山御労之筋﹂を申し識し︑控意して柚取りを行うことが目
指された︒更に︑
(前略﹀柚取之善悪ニ寄御産山之盛衰ニ結孫必然之事故︑
…
3 ‑
被仰付供ても地処一一向後日之害と相成候ハヘ減木等ハ不苦繰故無
思慮可申出候︑都て御山御労之第一一も相成候犠者勝之事ありとも可
(後
略)
のやり方によって出の普し悪しが変わるため︑柚取を行っても︑
後に世一同となるようであれば︑株取の量を減らすこともやむを得ないとし
てい
る︒
これら全体を通して︑﹁鋼労﹂といら山林保全に対する意識
を藩が持っていることが窺える︒これは単に枯渇分を補おうとした正徳
‑宝暦の改革とも︑寛政期である殖醸の単なる継続とも異なり︑
枯掲令補う事で木を増やし︑藩領全捧の山の由権・出林保全がなされる
ぺきという藩の紫野が窺われる︒
ところでこれら文化の林敦改革の特徴との差異は︑取り結まりの徹底
と植林の強力な推瀧であるといえよう︒正徳の林政改革・宝暦の林政改
革と比較すると明らかである︒正徳・宝暦二つの改革の特徴は︑
それ
︑ぞ
れ
σ
コ出された︑﹁林敢立役定敢闘﹂から明らかとなる︒
まず
︑
正徳二年苦辰﹁林取立役定書﹂五郷の林政改革においては︑
﹁此東村々草飼場之外︑郷人望一次第薪林無違憲可搬棺立候﹂とあるよう
に︑植林が推進されたことや︑﹁杉・桧・桂・栗・松等之うひ立候本者︑
郷人ニ半分可被下罷練︑雑木新林者用立候節︑林立挟者一一半分棺渡可申
候︑明跡設々林一一相立挟ハ﹀︑本残山半分又々可被下侯事﹂など︑描林
をした者に五公五民の割合で木を与えること︑﹁村々川原・川端柳林相
立可申事﹂などが目指され︑これら﹁本之林関取候跡︑山相立候ハ﹀︑
釘午等も為刈開敷事﹂とすなわち出の間後を待つように指ポ
しており︑さらに﹁新林如何立候節木椴之有之山不及申︑一拐木之無之山
者段々栗・‑いちゃう木其外用立候雑木無植可申候︑若沙土・悪土ニ
て雑木立兼候ハーメ松とも植立可申事﹂雑木の植林︑それができなければ
松を植えるようにするなど︑山を鞍茂させようとする姿勢は正徳の林政
改革でも見られる︒
ま た
︑ 液 に つ い て も
﹁新林相立検以後最然山
生シ可申紛失無之様郷人江可申付事﹂として︑漆は資源と見
なしている︒しかし一方で︑﹁村々林立嵐滋り・古木等有之候ハ﹀︑林
役人克分を以郷入江可被下龍︑但深山絡別之事﹂深い山すなわち鞍茂し
ている出は別として︑それ以外の村の林で︑位付{足のホは購入に与えると
している︒このような︑特定の木に蹴ってではあるが自由に採取する権
る文・一一一口は︑文化の林政改革には見られない︒文化の林政改革で
は︑正徳・宝一踏の林政故革において見られた自出向採取の権限を無くし︑ ﹁炭山被明離縁節前々被仰渡候取根株堀取候儀窓く被停止検﹂と︑明山となった山でも︑根株を取ることを禁止するなど︑厳しくする形で展開している︒この点から︑文化の林教改革はこれまでの方針とは大きく異なる点を持つといえる︒
﹁林
取
次に︑宝暦の林政改革においては︑宝帯十二年壬午二月八割の
立役定番﹂にあるように︑﹁鄭国中一統棺掛り重一キ事候故林取立候吉法
相札︑格別之御吟俳慨を以北渡御本方奉行支配ニ被仰付﹂とし
め︑林政設革に着手することを明確にした上で︑﹁上之御本旨を被致命
得面々所存を被相尽百姓ともへも得と串含取受検て林取立候犠精入候様
一一可被取扱候︑法之勤方左一一被仰渡候﹂とあるように︑百姓たちが林業
に精を出すように指示な出すことを求めている︒
4
…また︑この時期において特徴的であるのは︑先行研究
ι
もあるように︑草餅地への搭立てが許可されたという点である︒其体的には︑﹁村々井
山之大小草飼場之善悪・広狭︑他郷入会な車餌場分明
ι
考か︑古林之寺社分地欄井其所之百姓田畑之外家業之次第を考ひ︑郷人之樟に不相成穣
新林取立可被申事﹂と︑草飼場の操子︑その場所に合ったもの︑また百
姓の家業の様子を見ながら︑林業じ取り組ませるようにすることを挙げ
ている︒米穀生産は農民の取り組むべき第一のことであるが︑その一方
でそれに麗し障りのない範聞でできるだけ林業に取り組ませるようにし
ていることは︑米穀生躍を基調とする藩教の方針の中でも︑秋田藩の林
業に対する意欲を窺わせるものである︒
秋田藩においては林業が産業の要として︑その枯渇などが問題罰され︑
何度も改革が行われてきた︒米穀生産を基調とする藩教の中で︑林業が
どのように位聾づけられていたの
ここではそれを暁らかにし得ない が
︑ 宝 暦 の 林 政 設 革
・ 寛 政 の 改 革 に お い て は
︑ 米 穀 生 産 の 差 し 障 り に な らない組問で懸命に行うこととされていたことを指捕できる︒
しか
し︑
正徳期間様︑﹁新林取立候ハ﹀取立思江
おいては︑
者風涯り・
下校等ハ各吟味之上焚用に可被下鉄︑
⁝⁝
者数
間 敷事﹂と︑特定の木に限って︑
苦姓に科用を認める文苦が認められる︒
これには︑高売用にはしないことという但し書きがある事から︑藩︑が酪 売 用 に 木 が 用 い ら れ る こ と を 危 慌 し て い た こ と が 窓 わ れ よ う
︒ ま た
︑ こ
のように一部の木ではあるが︑西姓北部えるような文一世間はやはり文化の
林 政 改 革 に は
い︒文低の韓政改革では︑正格の林政改革︑山車欄
の林政改革においてある範間内で
ていた木
したと
考えてよい︒
その点においても︑文化の林政改革の木の謀全に対する徹 庇
{御労いに話会一映したい ぷ
らの材木の輿入についての︑ヱハ郡
丹二十日の出入料にその記述がある︒ま木山以来覚﹂
の文化十 ず 本 庄
(引用者註i
矢 島 カ 了 亀 岡 よ り
一苅
禄年
中よ
り四部役立揚取扱之処﹂とある︒すなわち︑元祷年中から木品は﹁役﹂
合取り立てられていたわけだから︑少なくとも一瓦禄期以前から︑本産・
矢島・亀回から木品は滞内へ繋入がなされていたことであろう︒また︑
同 史 料 に は
﹁ 右 之 外 南 部
新 庄 入 木 品 ハ
︑ 最 迄 之 過 木 山 方 取 扱 而園部役不掛置候事ニ極ル﹂とあり︑
それ以外にも南部・禅師牡・新庄か
ら入ってくる木品もあるこ
る︒また︑
ら入ってくる木品 については︑抑境問方事作︑が散り扱いの寅任を有するのが基本だが︑南
部・神軽・
から入ウてくる本品ぷついては木山方にて取り扱われて いること︑すなわち本匝・矢島・亀留から入ってくる木品についても︑
木山方にて
が取り立てられていることがわかる︒
そして同史料に
おいては︑﹁
作 領 入 木 品 無 投 ニ 被 成 候 訳 者
︑ 御 領 内 有 木 御 労 り 之
御主
意一
一
其向御払所有之所一一商売買願之所︑於木山方選上御取中止
被成候者御意味合も有な誠一⁝間供︑︿後略ごとあり︑藩の
ら久保田 浜に入る木品仁かかる役について書いたものであるが︑
文化十一年にお いて︑領内に入る木品を無役にしたのは︑御領内の木を労る主意のため
であり
て売買をするとき︑木山方で運上取り立てができれば
意味もある︑
の木品を安く売れば︑領内産のも
というものである︒
のの一細川繋が減るという考えのもとであろう︒文化年開に一怒って︑側外か
‑ 5
ら 木 品 を ま か な う こ と に よ っ て︑
﹁ 御 山 御 労 之 筋
﹂ に 絵 え る と い う 意 関 が見られるのは︑藩が山を労ることを掲げている意に沿うものである︒
これまで︑﹁御労﹂
の 主 旨 が 文 北 の 林 政 改 革 に あ る こ と を 指 摘 し て き
wz u
ゃ駒山JVh為
︑ 十iゃi品川付この﹁御労﹂を︑そのまま山林保護の文中間一口として見て よ い も の だ ろ う か
︒ こ れ は レ ト ラ ッ ク と し て 説 み 散 る こ と も で き る
︒ こ の 時 期
︑ 薪
・ 炭 な ど の 木 品 の 欝 繋 が 増 え
︑ 商 品 生 産 に よ る 利 益 を 農 民 が 得られるようになると︑涼料を得るために徒伐が損行するようになる︒
このため︑
の犠行を押さえるために木の伐採を押さえ込むべく出さ
れた藩のス門ヤiガンであるというのが自然な解釈ではある︒知{回江真澄の
記録にも︑
J m
肌こり薪ゃく集務﹂として米穀楽産を行い得ず︑間 品で生計を立てる集落としている︒このような農民が生活の
形態を貨幣坂入へ転換させ︑
ての木を伐採することで山が荒麗
するのをさけるために︑﹁調労︺という文言長持ち出したと考えること
ができる︒故
ι
一概に自然保識の観点を藩が持っていたとは言いきることはできない︒しかしながら︑文化の林政改革の特徴として︑財政改
革の枠組みの中でも︑﹁御労﹂という方軒の下︑諸改革が行われたこと
は明確であろう︒
また︑この方針がこの時期︑下々まで周知撤底されていたことが文化
十年間十一月の﹁万御用日記﹂から明らかにすることができる︒こ
能代町の平吾が雑木・はし木による箸座の建識を行った諜の史料である
が︑その中に︑﹁諸山御労之御持部故︑近出徒改吟味筋一一も可結成哉と
奉存侯関取扱申度奉存候問︑伺卒御憐惑を以瀬被抑付被下龍護奉願申上
候﹂の文書がある︒このことから︑との時期の藩政の方針を町人である
平吉も認識していることがわかる︒﹁諸出御労之鯖故﹂︑徒伐を減らすた
めにも︑箸座争認めてほしいという平吉の思惑が読み取れる史料である
が︑この時期の﹁御労﹂は一つのス口iガンとして挙げられており︑な
おかつ賄方の人間にもこの方針は認識されていたといえる︒
村方については︑文化八年じ﹁桧火縄・松明・向後尚以如何禁候︑楢・
木藤・蕎萄蔓等を以可格弁接︑右辺趣山本御労之ため被郭渡候間此旨相
瓦一一申合遊吟味候様一一下結村々江可被申渡候﹂というように命令
心得
︑
が出されている︒すなわち︑桧の火縄︑松明は今後も禁ふんする︒
一方
で
楢︑木の藤︑犠萄の撃は捷用することが可能である︒これは山を労るた
めであるので︑立いに申し合い︑吟味をするように︑米代川流域
々
へ申し減すように︑との内容である︒これは問仁と仙北に出されたのち︑
郡奉行から下筋
ι
出されており︑広範に仰せ渡されたととが分かる︒故に︑この時期藩から出された
ぷ仰︑労﹂︑少なくともスローガンとしての
文言を︑領内に認識させようと藩が動いていたことは間違いないだろうの
では︑文化の林政改革では具体的にどのような施策が為されたのであ
ろうか︒次において見ていきたい
︑秋田藩の施簸と文化の林政故革の実態
先
ι
︑文化期前視の秋田藩の構勢と︑文化改革と文化の林政改革の棺それから文化の林政改革の骨子となる﹁被仰渡︺を見てきた︒
こで試前撃において挙げられた文化の林政改革の︑具体的な展開につ︑
て見ていきた︑︒
6
の林政改革の内容の主たるもの辻︑結論から設えば
の推溝︑徒伐の取り締まりをあげることができよう︒これらは既に
先行研究の指擁するところでもある︒徒伐の取り締まりに関しては︑後
に詳細に論ずることにして︑ことでは販売統制と植林の推進の二点北関
し て
その実態について若干の検討を加えたい
まず︑販売統縦であるが︑これは藩による各地の御材木場や売買所の
新規設置・すなわち市場の設定という形で表れる︒これらは民間にお︑
て︑村木・小羽・木皮の需饗と供給をうまく満たすことができず︑制格
の高臓がしばしば起こっていたため︑前章﹁被抑波﹂を踏まえた上で︑
民一需を満たし︑材木構品を管理する目的で設置されたと考えられる︒
まず︑御材木場は木山方に議するもので︑﹁能代と久保田には古くか
ら存在しておりヘの材木・小羽を︑﹁藩需のみならず︑地払
と称して
てい
︒ そ れ が 文 化 五 年 に 五 り
︑ 角 館 に も 小 羽・材木払一併を設けることとなる︒これは︑角館方謝において
本 オ 木を入手する手段がないために︑角館で小羽
。〉
、 齢
、
例W
とによって民需を満たそうとするためであった︒
杉皮の売買については︑藩全体におい
ていた
ぴ〉
が 文化期に至り︑変化することとなる︒文化五
秋 田郡の新城村(現秋田市上新城)︑仁別村(現秋
現 昭和町豊川上虻川)に杉皮の売買の許可が言い護された︒
五十回村︿現五城目町)にも杉皮質立所を設け
は横手・平 鹿・雄勝郡の村々に対しても杉皮質立所を設置した︒接手の
ヱハ郡木山方以来覚﹂
の文化八年の項によると
於 損 手杉成御払煉被立龍︑同所林取立
ーヤ '<‑
助・最上牒治右衛門御払代鵠払御蔵光被仰付︑
立払龍候いとある︒ホ山方改正に端を発し︑
丑之
場市
北一
一お
み で︑横手町の平岡丑之助︑最上競治お衛門が織元として︑
自 宅 で払い下げを行った︒このようにして︑
雄勝郡と
おおまかに穴郡全体に︑杉皮の
ったわ
けである︒この横手の杉皮質立所は最終的に材木関へ
また大館においては︑
文化七年には材木場を設寵した︒ニ 払い下げの数量が多く︑常設として年中地払い
であ
る︒
これは木山掛り奉行介川東馬が長木訳を巡
て
決定したものであった︒また︑五十目︑大館︑
なった︒その組織図は図一の通りである︒
なお︑前述の組織図にある︑銅山水山方については︑
では多 畿の耕な必要としていたため銅山掛出が設定され︑必要な材木をまかな ウていた︒これを管理するために銅山木出方が穣かれたの
御 薪 方については︑家中で使用するものな︑
ことによって︑
まかなっていた︒
御材木場の設置により︑これまで畷昧であっ
ぴ〉
よ うとしたといえども︑無制隈に取引が
はない︒錦材木場 に関する命令は文化期を通じて伺度か出ているが︑
のでな
ければ︑取引が許されなかったようだ︒
はり︑藩において︑市 場統制がその最たる目的であったためであると考え 先に︑販売統制について見てきたが︑
の林教改革において
‑ 7 ‑
一方
は︑前章の﹁被仰渡﹂にあるように
。〉
文北の
林政改革において特筆すべきなのは︑﹁三公七
の実施である︒これ は植え立てた杉が生長した際の分坂率
の取り分を引き 上げたもので︑これまでは五公五
の 林 政改革においても︑植林は度々推進されていたが︑
林政改革に特
徴的なのが︑木山掛春行介州東鰐︑
し 、
︒た︑役人の各地の巡検であろう︒彼らの
って︑楠林は村方に おいて強力に推瀧されることとなる︒ここでは︑
の桟した﹁下 筋木山巡山日記いや︑加藤清本衛門の
ている﹁山林盛衰大凡
之考﹂を中︑むに︑文化期のの掛から克ていくことにしたい︒
まず︑介川東鰐は文化八年に下結合晃分した木出方掛事円である︒彼 が残した史料である
は 伊 七
角館まで︑各地の山林の状況を記載したもので︑山の様子や︑徒伐の実
憾と共に︑御山守や農民らの当時の姿が記されている︒その中でも描立
については特に多くの記録を積しており︑その実態を確認しようとして
いることが分かる︒
︿前略﹀今度下筋惣山見分いたし候所長木沢︑んをい鮒︑小掛︑母体︑
今泉︑羽譲山井岩瀬︑早口︑男鹿瀧州出等をはじめ惣部木立も相応
々にたくらべ候得者格別宜ろし一一繰得共︑
{縫集者殺t
ママ
)
筋村々植立方格別相崩候よし︑品も前線之趣に準し得と可被申合
ニ持
見︑
候右之外務候事も候ハ﹀無覆続可被申関候
来四月(後略﹀
すな
わち
︑
長木沢︿現大鶴市雪訳長木沢﹀︑仁鱒︿現能代前
ツ井町仁鮒)︑小掛(現能代前二ツ井町小掛﹀︑
母体
︿現
能代
市母
体)
︑
今泉︿現北秋田市鷹巣今泉﹀︑羽根山︿現北秋田市羽根出)︑岩瀬(現大
館市
田代
町岩
瀬)
︑
平日(現大館市早口て男鹿滝川(現男鹿市中滝川)
などを始め︑諸山を題山した折には︑伯北の山よりは木立はよいが︑仙
北は権林に非常に励んでいたのに比べて︑こちらは構立は進んでいない
(中路﹀本来青木が少な﹂かっとある︒これは仙北辻︑﹁領内の中では
たために︑植林が行われた事で︑青木が増えたのが評価されたのだと考
えら
れる
︒
一方で︑仁鮒︑母体︑羽根山︑岩瀬︑早口は米代舛流域の木
材の主製産地であるために︑植立が進んでいないことは︑今後の木材の
生産に大きく関わってくることであるという介川の判断が窺われよう︒
さて︑介川は同年の九月には秋毘郡に赴き︑細山を行っているが︑こ
の際各村から杉・漆の摘立の申し出を御山守や肝熊といった村方の入期 から受けている︒文也八年九月の﹁下銘木山沼山日記﹂を元に︑表1に
内容をまとめたので︑参照願いたい︒これは介州の求めに応じてなされ
た鯨中に対する植立の申し出であり︑文化の林政改革における撞林の推
進の確実な成果であるといえよう︒
この中で特徴的なのは︑二ね御山守同人別稲出糖ニ付是迄木山かたよ
り者〆文ツ﹀文ハ壱〆文詞人へ或者六百文両人へ被下候事も有之︑郡方
よりも賞候よし﹂﹁お御ほふひ︿引用者柱│褒美カ)として主人江御糖也
斗五升木山かたより被下挟段申渡﹂とあるように︑権査を行︒たことに
よって︑郡方︑あるいは木山方より表彰されている村人がある点であろ
う︒これは介川が推進したものであり︑文化の林政改革で行われた植林
とい
える
︒
…
8
…一方で︑このようにして計画された植立は︑実際どれほど成鳴したの
だろうか︒加藤清書衛門が残した︑﹁山林盛衰大見考﹂によると︑植立
をしても殆どは枯れ木となってしまい︑生長しないことが述べられてい
る︒これは植林の技術的な問題が大きかったと考えられる︒更には凶作
の際に︑農畏が閤窮のために大きな木でも︑成長過程の小さな木でもお
構いなく切り取ってしまったり︑計部的な伐採が行われないため比︑結
樹木として犠林が上手くいかなかったと加藤清右権問は記している︒
ともかくも植林の計一憾に関しては︑この時期に相惑に進められたよう
︿山
m v
である︒それらは必ずしも﹁計語通り実行された事は考えられない﹂が︑
それでも計躍として楠立がこの時期︑役人自らの手によって強力は推進
されたことは理解できよう︒このような役人による実行を伴うのは︑文
化の林政改革の特徴であるといえる︒また︑表から分かるよう仁︑植立
の申し出をした者の多くは︑御山守︑長百姓︑肝煎といった農民上層部
や村単位である︒植林を実行するに際しては︑経済的な問題や︑技術的
な問題が大きく絡んでおり︑個人が行うのは困難であったと考えられる︒
四︑地域住民の諸相
これまで︑文化の林政改革の実際を見てきた︒ここでは︑実際に農民
や山子(柑子)たちがどのような影響を受け︑それまでの生活にどのよ
うな変化が起きたのか見ていきたい︒そのためにはまず︑それ以前の農
民の生活と深く関わる︑林役人の末端機構である御山守と︑林取立役・
林取立役加勢について見ていく必要が有ろう︒まず︑御山守は︑林役人
の末端機構として︑御留山の管理に当たる役職である︒具体的な業務に
ついては︑随時森林を巡回して︑徒伐や火災を取り締まる他︑入会をな
す村の伐採量の検査や︑吟味役などの廻山の案内等である︒文化期以降
は植林が推進されたため︑植林や末木の払い下げにおける監視や︑地焼
の立ち会いなども行った︒
御山守は︑林役人の末端である以上︑藩の役人であり︑藩からの給与
も与えられていた︒彼らは苗字帯万を許されている例も多く︑それらは
権威付けと共に︑職務に励むようにという藩の意図もあったと考えられ
る ︒
一方で彼らは元々︑初期においては近隣在住に声望のある農民上層
部から選ばれていた者で︑地域在住の有力農民であった場合が多く︑故
に官僚機構に組み込まれているとはいえ︑実際には農民側のスタンスで
あったであろう︒﹁下筋木山巡山日記﹂には︑文化八年四月三一日に秋田 郡木戸石村の支郷である羽山村(現北秋田市木戸石)にて︑御山守が徒伐があったにも関わらず︑それを申し出なかったために﹁御用之外叱﹂
となり処分された例がある︒
また︑との例で御山守を召し放ちになり︑郷払いを受けたのは﹁御山
守甚
兵衛
︑
同見習召放同人子供﹂︑﹁仁兵衛︑子供見習い仁三郎﹂とあり︑
御山守の世襲の例が見られる︒世襲で山に入り︑業務に同行し山の管理
に当たるために︑御山守が山に精通するのは当然のことであるが︑自身
もまた地域住民として根ざすために︑林役人の末端機構といえども︑藩
の政策を忠実に実行する手駒にはなりえなかったであろう︒百姓同士の
問で︑管理が徹底できないことに関連して︑七日市村(現北秋田市鷹巣
の肝煎である長岐家の﹁長岐文書﹂には徒伐の取り締まりに関七日市)
‑ 9 ‑
して︑﹁(前略)村々エ被仰付候指置御山守不時ニ拾五歳より六拾歳迄男
之手を改候ハ﹀︑答人相顕可申哉と奉存候︑当村ハ年々吟味仕候得共︑
御百姓相互之事ニ御座候間不申出候も難計奉存候﹂とある︒即ち︑長岐
は︑徒皮剥については﹁百姓相互之事ニ御座候間不申出候も難計奉存
候﹂と農民同士のいうことであるからと︑徒伐の取り締まりは厳密には
困難であることを示している︒また︑長岐家は肝煎の家柄であり︑御山
守を支配する一方︑村における責任をすべて負う︒徒伐の実態を秘密に
しでも︑役人との折衝も行わなければならなかった故に︑能代役所に対
する説明は︑このような表現になっているのであろう︒
次に御山守の上層に位置する林取立役・林取立役加勢は︑農民に最も
近い第一線とも言える部分にいる官吏であり︑その勤惰によって改革は
決まると云われている︒彼ら自体は能代奉行時代から城下在住の家臣か
ら任命され︑寛政期に青木の植栽に加え︑その土地に適したものを取り
立てるように農民を指導していた︒前章で見たとおり︑文化の林政改革
後の林業政策は擁立に重点が置かれるようになるため︑彼らも青木の櫛
栽現励を主に行うようになる︒また︑林野利用に関する許可事項の組理
も併せて行うようになった︒青木の分収︑薪炭材や普請期材の伐鋲︑炭
釜の
築造
︑
の修繕︑林野の壌界字分け︑野火検地焼の決裁などに加え︑
林紙︑杉帳の点検から徒伐の検察︑事後処理も行っていた︒その他にも︑
文化の林政改革で詰負から蹴柚に切り替えられたため︑伐謀の立ち会い
監相官は林取立役の大切な任務であった︒これらの実例は︑三ハ郡木山方
以来︑覚﹂に数多く見られる︒
J方で︑藩においても︑徒伐の取り締まり辻厳重にしなければならな
い一方一番重いもので﹁郷払い﹂
その
その処分については︑であり
後五︑六年で帰郷を許される程度で︑殆どが
﹁御叱りいあるいは﹁植
立いすなわち様林をすることによって明め合わせるなど︑処分は軽く︑
役人と農民の結びつきが懸念されていた︒
このような状況であったから︑投入の勤務についても︑藩が厳格に規
定する必要に迫られていた︒文化五年の﹁林取立役定書いは︑木山掛り
奉行議谷小太郎が述べたことを敢闘面でもって捜し︑次回市十郎︑菊池山
一一一郎︑皆川阜太︑橋本八右衛門が殺ったものである︒次間以下の西名は
恐らく林敢立役と考えられる︒これには林取立役の心得について次のよ
うに
ある
︒
﹁御改正之御趣意⁝⁝基キ山林守護相立候犠専一出精可被致接︑以来勤
情取調御賞罰に韻候義ハ弘被仰含候問︑岡崎山等無怠被相勤候﹂ Lすなわち故革の趣意に基づいて︑山林守護を一番大切なこととし︑動槽を取り調べて賞罰を設けることにするので︑廻山等を怠らずすること︑
﹁廼山之儀者︑春・秋題山ハ勿論︑柚所付添等之序一一も其向寄不時期山
致︑大郡諸山之儀委曲銘々篤く不心得侠てハ不相成候事故︑一ト通之理
出ニてハ蔭々之吟味不行届自然不時ニ成候関︑藤々まても吟味行語候様
一一可被致候﹂すなわち摺山を行うときはは︑春・秋の樋山は勿論︑
に付き添うついでのような不意の際
ι
も ︑
掘出を行うこと︒これは六郡
の諸山の委細を詳しく知らなければできないことである︒また一通りの
組出では隅々までの吟味は行き届かず︑自然と不届きなことが行われる
ようになる︒故に隅々までも吟味が行き届くようにすること︑﹁題山毎
度︑沢・蜂之字所・青木・雑木之多少・山林之盛衰等兵サ相考︑絵図添
1 0 ‑
撤回載⁝一致可被指出候﹂︑すなわち廼山の度に︑
沢
のん子所︑青木・雑
木の多少︑出林の略表などを細かく見て︑絵図に欝き添え︑差し出すこ
と︑﹁細山部度重り候得者︑村方物入一一も相成候事故︑白熱線百姓気受
ケ茂不宣山林褒可柑至候一一付︑題山之節土産物等を始村々人馬・荷々賄
等に一意迄︑村方費に不棺成接様心付御改之御趣意ニ不一民候様一一可被致
供﹂すなわち纏山が重なると︑材方も必要なものが増加え︑百姓の
懇くなる︒これは︑山林の衰えにつながることであるので︑題山の際に
は︑土産物を始め︑々の人馬・渚の賄い物に歪るまで︑村方の負担に
ならないよう︑注意して裁をつけること︑吋麓村之人気
一
一も申論︑林立挟様可被致候﹂すなわち麓村の各村の人々の︑︿引用者註
i藩の統制に対する﹀状︑慌に応じて申し諭して︑林を取り立てるように
すること︑﹁今以徒伐等宥之由一一相関得候関︑
々一
被申
合吟
味可
被致
候︑
其上時々吟味形可被下申聞候︑其外迫も右同様吟味可被相尽候﹂未だに
徒伐があると聞いているので︑よく吟味をすること︑﹁御山守之勤惰︑
廻山毎度心付致吟味評儀之上可被申聞候﹂御山守の勤惰は︑廻山の度に
注意して︑吟味を行った上で評議して判断すること︑などが挙げられる︒
この中には︑御山守に対する監査についても記されている︒また︑
廻 山を重ねて行い︑山林の状態を常に把握するように指示している︒この ように︑林取立役は改革の主体として︑農民に際することが求められた
のである︒この中で特に留意すべきは︑
廻山の際の農民の負担について
の言及であろう︒廻山の際に発生する農民の負担が増すと︑反発を招く
恐れがある︒
また農民を疲弊させるために︑山林の荒廃につながる可能 性があるとして︑林取立役の風紀についても言及しているのである︒
このように︑瀬谷は厳格に林取立役の勤務について規定を行うと共に︑
具体的に改革を断行しようとしている︒文化八年に介川東馬が秋田郡の 早口村(現秋田県大館市早口)を訪れた際にはなるべく負担が少なくて
済むように配慮していることが︑﹁下筋木山巡山日記﹂に記されている︒
すなわち︑﹁仮戸泊りニ付山中荷物取運村方労煩之事故︑夜具の外水硯 なと計為運︑余ハ家来を添悉く白沢より麓を廻し直々雪沢村へ達︑下人
可成丈差略労煩無之様ニ
とよくよく向々へ申渡︑小屋へ賄等諸物之運ハ雪沢村なり﹂とある︒こ ハ四人召連文兵衛荷物も右之通召連壱人なり︑
れは︑荷物を山中に運ばせるのは村の負担になるために︑夜具の他︑水 硯など︑ごく隈られたものだけを運ばせ︑雪沢村(現大館市雪沢)
の 住 民に小屋へ賄い物を運ばせつつも︑なるべく労煩のないようにと申し渡
して
いる
︒
一方で接待の実態はどうであっただろうか︒同史料には︑﹁夜ニ入肝 煎等を集め︑酒を酌み山子と附山歌なと為唄興し候(中略)歌候ものへ
も銭なと取らせ候へき(後略)﹂
廻山の夜には山小屋で宴会を している︒また加藤清右衛門自身も︑酒を振る舞われたり︑農民にとっ
とあ
り︑
て負担となることは避けるようにとしておきながら︑実際には接待を受 けており︑瀬谷が仰せ渡したように︑農民の負担になることは避けるべ きだという認識があったとしても︑厳格に守られたとは必ずしもいえな
いようであった︒
いずれにしても︑林政改革の一環として風紀引き締め を指示しても︑実態として林役人のあり方は︑地域住民にとって少なか
らず迷惑であったであろうことが分かる︒
さて︑先に述べた様に文化の林政改革では︑植林の推進と︑御材木場
‑ 1 1 ‑
の設置による販売統制が具体案として実行されたが一方︑御材木場・
御払場には︑単に木材・木材加工品の売買を統制するだけではなく︑横
行する徒伐を取り締まる目的があった︒
当時︑木材は収入に結びつきゃすく︑生活に困窮した農民が徒伐を行
いたずら
うということが頻繁に行われていたのである︒﹁徒﹂は徒伐・徒皮剥 などの徒を指す︒徒の対象は無論︑藩によって伐採が禁止されている公 木であり︑材木として取り出す場合もあれば︑板︑水桶などに加工する 場合もある︒徒伐・徒皮剥は︑単に木や皮を盗み取ることと同意義では
ない︒御留山内においての︑
入会のあり方とも深く関係していると言え
ょう︒すなわち︑御留山では︑伐採が禁止されている公木がある一方で︑
雑木などは薪・炭など日常に必要であるため︑伐採が許されていた︒
公 木に対して厳重な管理を求める一方︑山内の雑木の伐採は許されている
のだから︑徒伐の発生は訪ぎがたかったであろう︒
なお︑徒伐は入会の差異に多く組きていたが︑入会するような手頃な
出がない場合︑近瞬の山に入会する例が見られる︒例えば谷地中村は︑
寛政六︿一七九四)年の﹁御留山井一一鍛出片付金回上帳﹂によれば︑笹館
‑達子など︑近隣の五ケ村と共同で七日市村興克沢へ入会を行い︑
その
対倍としまた︑﹁両村惣山年の題山一課留費用などを負担し
代記﹂によるとの徒伐について︑六項目からなる手形を交換して
し1
また︑﹁長岐文書﹂には﹁運上米拾玉石棺出拾ヶ年数を以伐敢申
境願
由市
入候
﹂と
あり
︑
運上米を会担し︑年限を決めての入会が行われて
いたことが分かる︒
では
︑
どのような資材が入会の際に採取されていたのだろうか︒﹁長
(一八一八)停の﹁指出一札之事﹂岐文書﹂に収載されている文化十五
によ
ると
︑
七日市の奥見沢から採取した資材は︑鍬台二五
O γ
︑稲掛杭
三間
O
丁︑苗代普請杭一二三O
本であった︒このように︑多くは農業に必要な資材であり︑入会はこれら資材を得るために不可欠な行為であウ
た︒入会のための山がない場合には︑これらを確保するために他村への
入会命作わなければならなかった︒このように徒伐として挙げられるも
ののム中には︑村令越えての入会︑が行われるための問題も多くあったよう
であ
る︒
一方で単に入合の問題のみではなく︑木材製品の究開闘のための能伐も
あったようである︒杉皮の徒伐について︑次のようにある︒
(前略﹀三内村沢と申所見分仕挟処杉檎立⁝一掃寛永年中御礼被置候
よし︑右山所者太平ラ︿引用者⁝
Hi
沢カ)山谷村より機之長椛越候 得は右沢下り之諮有之︑太平沢村々之者共之徒一一も可有之哉︑近壊皮剥杉断材敷有之候︑国端克当春御前境失一一付価も宜敷故剥取苑賀致事一
一相
関得
申挟
(後
略﹀
すな
わち
︑
一一
一内
村沢
(現
秋田
市山
内沼
岩晃
一
において加藤靖右寄門
が見分を行った際︑この一一一内村沢は太平沢出谷村(現秋間市太平山谷)
より近い位置にあり︑沢下りの道もあるので︑太平沢の麓村の者が徒伐
を行っているという︒それに加え近慎は︑杉の度剥も耐押しく︑今年の春
に︑火事があった際には︑杉皮の価格が高騰して︑剥取った皮の売賓が
多くなったとある︒このように︑農民が収入を得るために山林を利用す
るのが︑徒伐の原悶の一つであった︒
取り上げたのは一部の例ではあるが︑大旨このように徒伐は入会の間
‑ 1 2 ‑
題と密接に関わり合いながら︑御材木壌の設置以前は売買の場が確立さ
れていない故
ι
︑在方で勝手に売り買いされていることが多かった︒これらの徒伐・徒茂剥について︑滞は御材木場の設置と︑制度改革による
引き締めにより対処する︒だが改革を経ても徒伐が終怠することはなく︑
文化八三八一一)年の士ハ郡木山方以来党﹂にある︑大館町への徒伐
の取り締まりの推奨の史料には︑﹁大館近所御留山︑年来青木不少尉而
独沢徒路相関︑狼りに伐荒し按様一一相関候︑不語之一主
向付
今出
向厳
一一
遊吟味容体徒もの於有之ハ見当次第鰯取侯様⁝⁝其鰐江被仰護候関︑心得
違無之様一一可致候(後略ごとあり︑文化の林政改革合経でもなお︑徒
伐が起きていること等が指摘されている︒