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Bu l l . Fa c . Ed u c . Hi r o s a k iUn i v. 8 5:1 8 5‑1 9 9( Ma r . 2 0 0 1 )

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(1)

弘前大学教育学部紀要

8 5

号 :

1 8 5‑1 9 9( 2 0 0 1

3

月)

Bu l l . Fa c . Ed u c . Hi r o s a k iUn i v. 8 5:1 8 5‑1 9 9( Ma r . 2 0 0 1 )

1 8 5

シュタイナーの社会三層化運動 と自由ヴァル ドルフ学校の創設 一人間認識に基づ く教育 と学校の 自律性 ‑

Di eDr e i g l i e d e r u n g s b e we g u n gR. S t e i n e r su n dd i eB e g r 血d u n gd e r F r e i e nWa l d o r f s c h u l e

‑Di eE r z i e h u n gd u r c hd i eMe n s c h e n e r k e n n t n i su n dd i eAu t o n o mi ed e rS c h u l e ‑

藤 孝 夫 *

Ta ka oENDO*

論文要 旨

シュタイナー教育の原理 とも言 うべ き 「人間認識 に基づ く教育」は, 「学校の 自律性」を前提 に機能す るも のであるが,この両者の連関は これ まで十分に理解 されてきていない。本稿は,「社会三層化運動」に関す る 最初の本格的研究であるシュメル ツアーの成果 に学びつつ,社会三層化運動の一つの結晶 として創設 された ヴァル ドル フ学校 とその創設理念 を検討す ることで,従来 のシュタイナー教育‑の認識不足 を補完す ること を意図す るものである。

キー ワー ド :ヴァル ドル フ学校,ル ドル フ ・シュタイナー,社会三層化運動, シュタイナー教育

は じめに

本稿の課題は, 自由ヴァル ドル フ学校の創設 に 託 された教育的 ・社会的理念 を,ル ドル フ ・シュ タイナ ー

( Rudol fSt e i ne r , 1 8 6 1 ‑ 1 9 2 5 )

の思想 に基 づいて展開 された 「社会三層化運動

」 ( Dr ei gl i e de‑

mngs be we gung)

との関わ りの中で考察す ることに ある。 この研究課題は,以下のよ うな課題意識 に 基づいている。

1 9 1 9

9

月に南 ドイ ツのシュ トウツ トガル トに 創 設 され た 「自 由 ヴ ァ ル ドル フ 学 校

」 ( Fr e i e wa l dor f s c hul e)

は,第二次世界大戦後, とりわ け

1 9 7 0

年代以降急速 にその数 を増や し,今やその姉 妹校は世界全体では約

7 8 0

校,ドイ ツ国内だ けで も

1 8 0

校 を数 えるまでに至 っている1)。しか もヴァ ル ドル フ学校 における教育は,一時の試験で確認 され るだ けの知識の習得にではな く,何 よ りも内 面的豊かを含 めた人間的諸能力の調和的発達にこ そ重点を据 え ものである点が

,2 1

世紀の教育の在 るべ き姿を示す教育実践 として国連のユネスコ報 告書

( 1 9 9 7

年)によって も推奨 され,世界的な注 目を集めている

2)

。我が国で も,子安美知子 『ミ ュンヘ ンの小学生 一娘が学んだ シュタイナー学

』( 1 9 7 5

年)の出版以降,ヴァル ドル フ学校はそ こでの 「ユニークな」教育実践 とともに,一般 に

*弘前大学教育学部教育学科教室

De pa r t me ntofPe da gogy,Fa c ul t yofEd uc a t i on , Hi r os a k iUni ve r s l t y

はシュタイナー学校 の名称で知 られ るよ うにな り, 全国各地で 「シュタイナー教育講座」が開催 され る状況にある。

しか し, ヴァル ドル フ学校 における教育を貫徹 す る指導理念 とも言 うべき 「人間認識 に基づ く教 育」が, もう一つの指導理念である 「学校の 自律 性」 と緊密 に結合す ることで機能 していること, そ してまた こ うした二つの指導理念に支えられた ヴァル ドル フ学校 とそ こでの教育には, 同時に社 会全体の刷新 (人間化) とい う社会改革的意味 も 付託 されていること‑の理解は,未だ に十分 とは 言 えない状況にある。 この ことは, シュタイナー 教育が,例えば教科書を使用せず,試験や点数評 価 も廃止 した

,1 2

年間一貫制の教育である とい っ た,その 「ユニークな」特徴が知 られ るよ うにな るに伴 って,そ してその 「自由‑の教育」が 「 想的」 と思われ るほど,そ うしたシュタイナー教 育 を受けた人間が果た して 「厳 しい」社会の現実 に適応できるのだ ろ うか, とい う素朴な疑念が提 起 され ることに端的に示 され る。 ところが, シュ タイナー 自身は

1 9 2 0

年の論文で, ヴァル ドル フ学 校 の創設が 「教育的課題 と社会的課題の解決

」3)

希求 した ものであ り, この学校か らは 「力強 く, 生活の中‑ と入 ってい くことができる人間が生み

(2)

出 され る こ とであろ う」4), と述べ てい るのであ る。

ヴァル ドル フ学校 とそ こでの教育の真意が必ず しも十分 には理解 されていない背景 には,そ もそ も最初 の 自由ヴァル ドル フ学校が,人間の社会生 活全体 の刷新 (人間化) を志向 したシュタイナー の思想 とその社会的実践運動,す なわ ち社会三層 化運動の一つの結晶 として創設 された こと‑ の認 識不足が あ り, さ らには 自由ヴァル ドル フ学校 の 創設 と社会三層化運動 の内的関係 に関す る本格的 な研究の蓄積が不十分であ った, とい う研究上の 問題 も伏在 していた5)。 こ うした 中で,従来 の ド イ ツ史研究ではまった く無視 されてきた社会三層 化運動の実相 を,詳細な史料調査 に基づいて初め て検証 した シュ メル ツアー (

Al be r tSc hme 】 ze r )

1 9 9 1

年 の研究成果

6

)は,ヴァル ドル フ学校研究の 深化に寄与す る多 くの素材 を提供 して くれ てい る。

本稿は,主 として このシュメル ツアーの研究成 果 に学びつつ,「人間認識 に基づ く教育」と 「学校 の 自律性」 とい う自由ヴァル ドル フ学校 を貫徹す る二つの指導理念 とその社会改革的意味 を

,1 9 1 9

4

月か ら約

2

ケ月間 とい う短期間なが らシュ ト

ウツ トガル トを中心地 として展開 された国民運動 である社会三層化運動 との関連か ら検討 した試論 的考察である。

Ⅰ.第一次世界大戦後の ドイツの政治 ・社会状況

1 9 1 9

4

2 0

日,既 に人智 学 協 会 を結 成 して

( 1 9 1 3

年), スイ スのバ ーゼソレ近郊 の ドルナ ッハ を拠点 に<人智学 > (A

nt hr opos o phi e )

と呼ばれ る 独 自の思想 を確立 しその普及に努めていた思想家 ル ドル フ ・シュタイナーは, ドイ ツ南部 にあるヴ ユルテ ンベル ク州の州都であるシュ トッウ トガル トに入 った。以後, シュタイナーは数週間にわた って この地 に止 まって精 力的な活動 を展 開す るこ とになる。では, この

1 9 1 9

年 とい う時期 は ドイ ツ の歴 史に とって どの よ うな意味を持つ時期であ り, またシュタイナーは この南 ドイ ツの地で如何 なる 活動 を展開 したのだ ろ うか。

1 9 1 4

年夏 に勃発 しヨー ロッパ諸 国民 を史上初 め ての 「総 力戦」 の嵐 に巻 き込んだ第一次世界大戦

,1 9 1 8

年秋 の西部戦線 での英仏軍 の勝利 に よ り

ドイ ツの軍事的敗北が決定的 とな った。同年11月

4

日のキール軍港での水兵反乱 を契機 に, ドイ ツ の各地では戦争終結 と体制変革を求める民衆が僚

原の火の如 く立 ち上が る と, 旧支配権 力はあっけ な く瓦解 し,かわ って兵士 と労働者の代表者で組 織 され る 「労兵評議会」(

Ar be i t e r ‑undSol i da t e nr a t e )

が権 力を掌握 してい った。いわゆ る<11月革命 >

の開始である。11月

7日には, ドイ ツ帝国でプ ロ

イセ ンに次 ぐ勢 力を有 したバイエル ン王 国の都 ミ ュン‑ ンで も革命が起 き, プ ロイセ ンのホーエ ン ツオル レン王朝 よ りも古い歴 史を誇 っていた ウィ ッテル スバ ッハ王朝が倒壊 した。革命の波 は帝都 ベ ル リンに も波 及 し,11

9

日に は社会 民 主 党

( SPD)

のシャイデマ ンに よって, 「平和 ・自由 ・ パ ン」のプ ラカー ドを掲 げて帝国議会 を取 り囲ん だ大群衆 に向か って ドイ ツ共和 国の樹立が宣言 さ れ,翌

1 0

日早朝 には ドイ ツ皇帝 (プ ロイセ ン国王)

ヴイルヘル ム

2

世がオ ランダに亡命 し

,1 8 7 1

年以 来 の ドイ ツ帝国はその終鳶 を迎 えた。 同様 にヴユ ルテ ンベル クで もそれ までの君主制が崩壊 し,ll

9

日には労兵評議会及び社会民主党の代表者 ら の手で,「ヴユルテ ンベル ク共和国」の樹立宣言が 行われ てい る

( spD

の ヴイルヘル ム ・ブ ロスを首 班 とす る政府)0 11月11日には,連合 国側 と ドイ ツ との間で休戦協定が締結 され,第一次世界大戦 は 終結 した。

しか し, こ うした旧来 の君主制 の崩壊 と社会民 主党を中心 とす る新政府 の樹立 は, 中央で も地方 で も,決 して安定 した民主的な政治 ・社会体制 を 実現す る もので も, また革命 の本来 の主役であ っ た一般大衆 (特 に労働者 と兵士) を満足 させ る政 策遂行 を保障す る もので もなか った。社会主義勢 力の内部では,多数派を 占める社会民主党勢力 と 急進派 (独立社会民主党 とさらに急進的なスパル タクス団)との路線 の相違が直 ぐに鮮 明化 し

, 1 9 1 8

1 2

2 4

日及び

1 9 1 9

1

月 には,ついに武力衝突 にまで発展 した

。1 9

1

月のベル リンにおけるス パル タクス団

( 1 8

1 2

月末 に ドイ ツ共産党 となる) による武力蜂起では, 国防軍 (旧来 の帝政軍部) に よる鎮圧の最 中, スパル タクス団の指導者 ロー ザ リレクセ ンブル ク とカール ・リープクネ ヒ トは 惨殺 されている。 こ うした 中で,社会民主党及び 労働組合 の指導部 は,その政権基盤の強化 を意 図 して,次第 に旧来 の軍部 と官僚機構,そ して産業 資本家勢 力 とも容易 に結託 し,逆に一般民衆 を主 体 とす る協議会運動 を抑圧 して行 くことになる。

このため,「皇帝は去 ったが,将軍たちは残 った」の 言葉 に象徴 され る如 く,11月革命で一端 は鳴 りを 潜 めたか に見えた 旧帝政時代の支配勢力は瞬 く間

(3)

シュタイナーの社会三層化運動 と自由ヴァル ドルフ学校の創設

にほぼ無傷で蘇 ることになったのである。

こ うして経済機構の民主化 (特 に労働者による 経営参加 のための 「経営評議会」 (

Be t r i e bs r a t )

設置)や社会化政策が遅 々 として進 まない状況の 中で

,1 91 9

1

月頃か

4

月 にか けての ドイ ツ各地 (特 にルール地方 と中部 ドイ ツ地方)では,戦後 の驚異的なイ ンフレーシ ョンの進行 と失業者の急 増 も加わ って7),革命の進展 に幻滅を感 じた労働 者や兵士によるゼネス トを伴 う大規模な大衆運動 が再燃 し, これ を鎮圧 しよ うとす る政府軍 (その 大半は共和国に敵意を抱 く右翼義勇軍) との間で 武力衝突が発生 した。 ミュン‑ ンでは,社会民主 党を中心 とす る政府に対す る大衆運動の結果,

4

6

日には 「レーテ共和 国」 (

Ra t e r e pu bl i k)が宣

言 され, この新たな革命政府は以後約

1

ケ月政権 を維持 した。 2月 6日か ら審議が開始 された憲法 制定のための国民議会 も,政情不安定のベル リン を避 けて中部 ドイ ツの古都 ワイマールで開催 され たが,そ こもゼネス ト運動のために一時にせ よ外 部 との交通が遮断 され孤立無援 の状態に置かれた。

ヴユルテンベル ク州のシュ トッウ トガル トで も,

統 一 プ ロ レ タ リ ア ー ト行 動 委 員 会」

(

Akt i ons a us s c h u B d e sge e i n t e nPr ol e t a r i a t s )

とい う 超党派的組織の下に

3

3 1

日にゼネス トが決行 さ れ る と,社会民主党のブ ロス (

Bl os ,W.

)が率いる 州政府は即座 に戒厳令を発令 し,鎮圧部隊を投入 した。 この時の武力衝突では,ゼネ ス ト組織が解 体 され る

4

7

日までに

1 6

人の死者 と

5 0

人の負傷 者が出ている8)0

シュタイナーは,以上の よ うな第一次世界大戦 とその後の ドイツ社会の混乱状態の中で,全国的 に大衆運動が再燃 しつつあった時期に, シュ トッ ウ トガル トに入 った ことになる。

Ⅱ.シュタイナーの社会三層化運動の展開

1 .

シュタイナーの社会有機体の三層化論 周知の よ うに,ゲーテの 自然科学論の研究者 と して学問研究に入 ったシュタイナーは,科学技術 の急速な発展 を与件 とす る機械論的 ・物質論的人 間観 の台頭 と対峠 しつつ,人間を身体 (

L ei b)

みな らず, 目には見えない 「魂」 (

se e l e )

と 「霊」

( Ge i s i

t)をも持つ統一体 として認識す ることを基 盤 とす る人智学思想 (この思想 は 「精神科学」Ge

i ‑ s t s wi s s e ns c ha f t

と も表 現 され る)を構 築 して い っ た。 シュタイナーの人智学思想の主眼は, しか し,

1 8 7

社会の現実か ら遊離 した生活や瞑想にではな く, あ くまで も人間が社会の現実の直 中にあって 自由 にかつ創造的に生きることにこそ据 え られていた。

こ うした シュタイナ ーの人智 学思 想 の特質 は,

1 9 0 5

年の論文 「精神科学 と社会問題」で明確に次 のよ うに述べ られている。「我々のなす ことは,単 なる好奇心に駆 られて 『精神科学サークル』に閉 じこもり,そ こで彼岸の世界についての様々な『 味深い』認識を得 ることではな く,『存在の永遠の 法則』に照 らして, 自己の思考 ・感情 ・意志を鍛 え,そ して人生のただ 中‑ と踏み入 り,澄明な眼 差 しをもって この人生を理解す ることである。

この際に大切 なのは,ただ精神科学か らどんな思 想を取 り入れ るか, とい うことだ けでな く,精神 科学か ら取 り入れた思想 に基づいて何を行 うか,

とい う点である。」 9)

こ うしたシュタイナ‑の現実志向の強い人智学 思想は,上記のよ うな第一次世界大戦 とその後の 社会的混乱状態 の中で, 「社会有機体 の三層化」

( Dr e i gl i e d e r un gde ss oz i a l e nOr ga n i s mus )

と総称 さ れ る独 自の社会改革思想‑ と発展 されてい った。

ここでは

,1 91 9

4

月の著書 『社会問題の核心

を中心に, シュタイナーの社会三層化論の概略を 確認 しておきたいO シュタイナーは,第一次世界 大戦の勃発 とその後の破局的なまでの社会混乱の 要因を,個々の国家における政治 ・法的領域 と経 済的領域 と精神 ・文化的領域 とが揮然一体化 し, それぞれの生活領域がその固有の原理に基づ く固 有の役割 を果たす ことができな くなっていること に求め, これ ら三つの領域 を分節化 した社会構造 を構築す る必要性 を説いた。すなわち, シュタイ ナーは, フランス革命の際に人間性の深奥か らの 叫び声 として登場 した 「自由 ・平等 ・友愛」 (

Fr e ‑ i h e i t・Gl e i c hhe i t・Br t i de r l i c h ke i t )

の言葉 を,現実の 社会生活の中で相互に矛盾 ・対立す ることな く機 能 させ るためには,精 神生活 (

Ge i s t s l e be n)

には 自由が,政治 ・法的生活

( Re c ht s l e be n)

には平等 が,経済 生活

( wi r t s c ha f t s l e be n)

には友愛が,そ れぞれの指導原理 として働 くことができる,三分 節化 された社会構造 を構築す ることが必要 と考 え たのである。

その際に, このシュタイナーの社会改革論 の根 底には,全ての人間, とりわけ労働者階級 (プ ロ レタ リアー ト)にお ける 「人間の尊厳」 (

Me ns c h‑

e nwt i r de )

の回復 とい う課題意識があった。すなわ ち, シュタイナーによれば,現代の社会問題の中

(4)

心に位置 している労働者階級の存在に注 目す る場 合,労働条件や権利保障 とい った外面的な事項ば か りではな く,何 よ りも 「近代プ ロレタ リア運動 は,本 当は何 を欲 しているのか」,彼 らの社会的諸 要求の背後 にある 「純人間的な衝動」 (

r e i nme ns c ‑ hl i c h el mp ul s e )

とは何か, とい う問題 こそが洞察

されなければな らない

1 0)

, とい う。 シュタイナー によれば,それは 「人間の尊厳の意識 を与えて く れ るよ うな精神生活」ll)である。 この点で,宗教 や学問や文化 といった人間の内面的活動 とその所 産である精神生活 を,物質的 ・経済的状態の反映 である 「イデオ ロギー」 と規定 して しま うマル ク ス主義 の立場は厳 しく批判 され ることになる

1 2)

0 シュタイナーは,ベル リンの労働者教養学校 (

Ar b‑

e i t e r bi l dun gs s c hul e )での約 5

年 間の講師体験 も踏 まえて,労働者階級が真 に欲 しているものは精神 生活 (宗教,芸術,学問,文化等)を基盤 とす る

人間の尊厳 の意識」,つ ま り人間精神の充足であ ること,従 ってマル クス主義が主張す るよ うな生 産手段の社会化による経済機構の改革だ けでは, 本 当の意味での労働者階級 の救済にはな らず,む しろそれ は労働者の 「魂 を空洞化

」 1 3 )

す る結果を もた らす にすぎない ことを見抜いていたのである。

社会有機体をそれぞれ 自律的な政治生活,経済 生活,精神生活の三つの領域 に分節化 しよ うとす るこのシュタイナーの思想にあって, とりわけ重 要な課題は精神生活の再建に他な らなか った。「ど んな人間 も自分の魂 に人間の尊厳の感情 を与えて くれ るよ うな,力のある精神生活 を必要 としてい

」 1 4)

に もかかわ らず,現代社会 においては誰 も がその必要性 を正 しく認識できな くなっている。

その理由は,「精神的な ものをすべての物質的,実 際的な ものか らできるだ け遠 ざけて考える習慣 に 慣れて しまったか ら

」1 5)

に他な らない。つま り,「 神生活が国家 と経済 とに依存 していること」に今 日の社会問題の真の要 因があるのであ り

,

「この依 存か ら精神生活 を解放す ることが極めて緊急な社 会問題の一部 を構成

」 1 6)

することになる。 こ うし て,シュタイナーによれば

,

その本質上,社会有 機体の中で,完全に独立 した分野 として形成 され ることを求めている」精神生活が,「完全な 自己管 理」の下に<自由>を指導原理 として発展す る時 にこそ,「国家生活,経済生活は 自分 の立場か ら精 神生活を形成す る ときには獲得できなか った力を, その精神共同体か ら受 け取 ることができる」 こと になる17),のである。

以上の よ うにシュタイナーの社会三層化論 は, 人間存在その ものを商品化 して しま う資本主義経 済 とそれ を基礎 とす る中央集権化 された国家体制 で も,他方では ロシア革命

( 1 91 7

年)に続 くソビ エ ト連邦に代表 され るマル クス主義 に基づ く新た な中央集権的な社会体制‑ の道で もな く,何 よ り も 「人間の尊厳の意識」 と<自由の原理 >に基づ く精神生活を基盤 としつつ, 自由 と平等 と友愛の 原理が現実的に機能す る人間化 された社会有機体 の創造 を志向す るものであった。

2.

ヴユルテ ンベルク州における社会三層化運動 の展開

ところで, シュタイナーは以上のよ うな社会三 層化論 を,既 に第一次大戦の最 中の

1 91 7

年頃か ら 提唱す る とともに,機会ある毎 に各界の指導的人 物 に対 してその実現の必要性 を説いていた。例え ば, シュタイナーは

1 91 7

6

月,オース トリア帝 国の政務長官のアル トウール ・ホ‑デ ッツ (A

血 ur Gr a fPol z e r ‑ Hodi t z )

の弟で人智主義者 のル ー ドヴ イ ッヒ ・ホーデ ッツ

( Lud wi gGr a fPol z e r ‑ Hodi t z)

と会談 し,その際にアル トウール ・ホ‑デ ッツ宛 の 「覚書」を託 してお り

1 8)

,続 く8月ない し9月 には ドイ ツの外務大 臣キュールマ ン (

Ri c ha r dvon K血l ma nn ,1 87 3 ‑ 1 9 4 8)

とベル リンで会談 している。

さらに, シュタイナーは

1 91 8

1

月には, ドイ ツ 軍 参 謀 総 長 モル トケ

( He l mut hvonMol t ke ,1 8 4 8 ‑ 1 91 6 )

との個人的親交を背景 として19),バーデ ン 邦の皇太子マ ックス

( Pr i n zYonBa de nMa x ,1 8 6 7 ‑ 1 9 2 9 .1 91 9

1 0

月か ら ドイ ツ帝国最後の宰相を勤 めた) とも会談 している。 しか し, この時のシュ タイナーの働 きか けは,何 らの具体的な成果 も上 げることはできなか った。

ところが

,1 91 8

年の

1

1月革命 とそれ に続 く社会 的混乱の中で, シュタイナーは再び講演や著作な どを通 して精力的に社会三層化の 自説 を語 り始め る と,彼の考えに共鳴す る人々の輪は次第に大き くな り,やがてシュ トッウ トガル トを中心 とす る ヴ ユル テ ンベ ル ク州 で は, 「社 会 三 層 化運 動」

( Dr e i gl i e de mngs be we g ung)と呼ばれ る国民運動‑

と発展 していった。 この時, シュ トッウ トガル ト において こ うしたシュタイナー思想の実践運動が 展開 された背景 には, この地が

1 91 0

年代までに既 に人智学活動の中心地 とな り, シュタイナー 自身 も頻繁 にここで講演活動を行 っていた こと,それ と運動 を推進 した活動 グループが存在 した ことが

(5)

シュタイナーの社会三層化運動 と自由ヴァル ドルフ学校の創設

あ った。 この活動 グル ープの中心 には,エ ミール ・ モル ト

( Emi lMol t ,1 87 6‑1 936)

,ア ドル フ ・ア ー

レンゾン

( Adol fAr e n s on ,1 855 11 936)

, カール ・ウ ンガ‑ (

ca r lUn 岩e r ,1 8 7 8‑1 92 9)とい う3

人の人智 主義者の実業家がいた。 とりわ け,貧 困の中か ら 身を起 こ し, 当時は約

1

千人 もの労働者 を擁す る ヴ ァル ドル フ ・ア ス トリア 煙 草 工 場

( wa l dor f ‑ As t or i aZi ga r e t t e n f a bl i k) 20)

を経営 し

,「

商業顧 問官」

( Komme r z i e n r a t )の称号 まで付与 されていたエ ミ

ール ・モル トがその中核的位置 を 占めていた。

さて,1

91 9

年11

9日,仕事先 のスイ スのチ ュ

ー リッヒで ドイ ツ革命 の報 に接 したモル トは, 自 宅のあるシュ トッウ トガル トにではな く, ドルナ

ツハのシュタイナーの許 に向い,11

9

日と

1 0

のシュタイナーの講演 を聞いてい る。 この時 シュ タイナーが語 った社会三層化論 に深い感銘 を受 け たモル トは, ウンガ‑

( ca r lUn ge r )やハ ンス ・

ュ‑ン

( Ha nsK ii h n)

らと図 って,シュ トッウ トガ ル トにおいて,帰還兵士の支援事業を中心 とす る 社会活動 を開始 した。その後,モル ト等は幾度 も ドルナ ッハの シュタイナーを訪ねて, シュタイナ ーの思想 をよ り深 く学んでい った。特 に,1

91 9

1

月25及び27日の会合では,社会 の三層化に向け た 運 動 の た め の 準 備 及 び 自 由 学 校

( di ef re i e sc hul e )の設 立の必要性 な どにつ いて討議 され て

いる。 この時に, シュタイナーは戦後 の急速な貨 幣価値下落 の危険性 も考慮 して

,

我 々は,人々が 必要 と して い る もの を もた らす た め に, まず は 我 々がなお も保有 している資金で, 自由学校 を創 設 しな ければな りません。」と述べ,モル ト等 に学 校設立の必要性 を示唆 していた

2 1

)0

1 91 9

2月 になる と,社会有機体 の三層化の視 点か ら ドイ ツ国民 に訴 えるための 「呼びか け」が シュタイナーによって起草 され,モル ト等 の活動 で このア ピール‑ の署名集 めが開始 された。 この

呼びか け」は

,

「ドイツ国民 と ドイ ツ文化界 に告 ぐ」(A

nda sde ut s c h eYol kunda ndi eKul t unv e l t )の

表題で,

3

5

日にシュ トッウ トガル トの新聞紙 上で公表 され た。「呼びか け」‑ の署名者は芸術家,

自然科学者,文化人,政治家等 を中心 に2

00

人を超 えてお り, この中には後 のノーベル賞作家の‑ル マ ン ・ヘ ッセ

( He m a nnHe s s e ) 22)

,芸術家の レ‑

ムブル ック

( wi l he l m Le hmbnJ C k)

,教 育学者 のナ トル プ

( pa ulNa t or p) 23)

, ヴユル テ ンベ ル ク州憲 法 の起草者 で もあ る政 治家 のブル ー メ

( Wi l he l m vonBl ume

,自由主義左派 の ドイ ツ民主党所属)な

1 8 9

ども含 まれ ていた。

この1

91 9

3

月 の 「呼びか け」 は,第一次世界 大戦 とい う未曾有の破局があった後では,何がそ の悲劇 の要 因であ ったのかを深 く自省すべ きであ り,そのためには 「身の回 りの卑近な要求 に曇 ら されず に,新 しい時代の 目ざす方向を しっか りと 見据 えよ うとす る人生観 を もたなけれ ばな りませ ん」 と, まず 「古い思考習慣

か らの決別の必要 性 を ドイ ツ国民 に訴 えた。その上で,政治生活 と 経済生活 と精神生活 の三つ に分節化 され た社会有 機体 こそが時代が必要 としてい る社会構造である こ とを主 張 した もの で あ った

2 4 )

。 さ らに, この

呼びか け」 に続 いて,

3

月21日には三層化に関 す る公開講演会が シュ トッウ トガル トの市民公 園 ホールで開催 され ている。

4

月 の上旬 には, シュ タイナーの社会三層化論 に関す る著書 『社会 問題 の核心』が刊行 され,

4

月22日にはシュ トッウ ト ガル トにおいて

,

社会有機体 の三層化のための連 盟」(

Bun

°

f i i rDr e i gl i e de r ungde ss oz i a l e nOr ga ni s mus ,

会長にはハ ンス ・キ ューンが就任)が設立 され, い よい よ社会三層化運動が本格 的に開始 されてい った。 こ うした社会三層化運動 の本格化 と機 を一 に して,

4

月20日 (イ ースターの 日曜 日) にシュ トッウ トガル ト入 りした シュタイナーは,以後約 1ケ月 にわた って この地 に とどま り,各種 の講演 会 (例 えば,

4

月23日は ヴァル ドル フ ・ア ス トリ ア煙草工場,

4

月26日はダイム ラー ・ベ ンツ自動 車工場での講演会)や集会 (後述の経営評議会 を 含む)な どを通 して,社会三層化論 とその具体化 について説 明 してい った。

ここで, この時期 に,社会政策上 の一つの焦点 とな っていた 「経営評議会

」 ( Be t r i e bs r a t )

の在 り 方 に関す るシュタイナーの認識 を確認 してお くこ とは,彼 の社会改革論 の意味 を理解す る上で有益 であろ う。周知 の よ うに,経営評議会 とは11月革 命 と1

91 9 年 1

月以降再燃 した労働者 に よるゼネ ス ト運動の展 開の中で,労働者 に よる企業経営‑ の 参加 を保障す る制度 として労働者か ら要求 され て いた ものであ り,既 に各地では先行的な組織が作 られつつあ った。 シュタイナーは, シュ トッウ ト ガル トの大企業 に設置 されていた経営評議会及び 労働委員会 と合計1

2

回の会合 を持 ち,その中で懸 案の経営評議会 の在 り方 に関す る 自らの考 えを披 涯 している。 シュタイナーは,経営評議会 をただ 単に協議す るだ けの機 関 としてではな く

,

企業 の 実際的な管理者」ない し 「企業 の本来 の管理者」

(6)

として位置づ けるべ きであ り, この経営評議会 に は労働者や事務員を含むすべての被雇用者の代表 者が委員 として加わ り, しか も 「すべての委員が 絶対的に同等の権限を持つ」 とい う原則 を承認す る条件でのみ,雇用者 (使用者)の評議会‑の参 加が認め られ るべ きである, と主張 している

2 5 )

0 こ うした全ての労働者の代表が雇用者 (使用者) と絶対的な同等の権限を保障 された,経営に関す る最高機関 としての経営評議会 とい うシュタイナ ーの考 え方は,同 じ時期 にワイマールの国民議会 で審議 され

,1 9 2 0

年 2月 に制定 された 「経営評議 会法

」( Be t r ie bs r a t e g e s e t z )

が,結果 として経営評 議会 を単に雇用者 (使用者)を 「補佐す る」だ け の機関 と規定す ることにな った (

1

粂) ことを 想起すれば

26)

,その革新性が理解できるであろ う。

シュタイナーは社会民主党及び労働組合上層部に よる経営評議会法草案について,「至 る所で雇用者 と被雇用者の関係が,全 く古 くさい仕方で語 られ ている」 と手厳 しく批判 し,草案にあるのは 「 間的な共生の場」 としての経営評議会ではな く,

古い資本主義体制の密かな続行のためのカモフ ラージュ」に他な らない と,指弾 もしていた27)

5

2 8

日に行われた労働委員会 とシュタイナー と の会合の席で,政府が進 めている経営評議会法が 制定 され る前 に,経営評議会を各職場で早急に設 置すべ きことが決議 され,そのための撒文まで作 成 されている事実は

2 8 )

, シュタイナー及び彼の思 想に共鳴 した労働者達が希求す る 「人間的な共生 の場」 としての経営協議会 と政府のそれ との隔た

りの大きさを示 している。 しか もシュタイナーは, こ うした全ての被雇用者の代表が雇用者 と同等の 立場で参加できる経営評議会 を, さらに個々の企 業を越 えて,一定地域 の経済全体の共同機構 の形 成に も参加 させ, この経営評議会の連合体 として の組織によって生産 と流通 と消費の全体的調整 を 図るべ きことも主張 していた。

この よ うに, シュタイナーは社会有機体の三層 化論の中で, <友愛 >の原理 に基づ く経済生活を 構想 してお り, こ うした考え方は次第に市民階級 ばか りではな く労働者か らの支持 も獲得 していっ たのである。

5

月 中旬になる と

,

社会有機体の三 層化のための連盟」の内部では,先の

3

月のゼネ ス ト運動の中心的 メンバーで もあった労働者達が 活動を開始 している。 こ うした シュタイナー思想 の一般大衆‑の浸透 を端的に現 しているのは, シ ュタイナーをヴユルテ ンベル ク州政府 に招聴すべ

きことを求める決議の採択である。労働者階級 を 含む約

1

2

千人が賛同 して採択 された この決議 (時期は特定できない ものの

5

月 中旬頃 と推定 さ れ る)は, 「ル ドルフ・シュタイナー博士が即座 に 政府 に招聴 されて,迫 り来 る没落か らの唯一の救 済策 と考 え られ る社会有機体の三層化が開始 され るべ きである」 として,社会有機体の三層化の思 想 に基づ く社会改革 をヴユルテンベル ク州政府 に 要求す るものであった

2 9)

0

しか し,社会三層化運動は,経営評議会 に関す る構想に端的に示 され るよ うに,経営者側 (資本 家)のみな らず労働組合や社会主義政党の指導層 に とって もその利益 を損ないかねない ものであっ た。三層化運動はその活動が頂点を迎えた

5

月の 末か ら

6

月の時期になる と,経営者側 と党派的利 害 を優先す る社会主義政党の指導部 の双方か らの 非難 と攻撃 とに遭遇す ることになる。 ヴユルテン ベル ク州の経営者団体は,傘下の企業に対 して三 層化運動側が呼びか ける経営評議会の選挙を阻止 す る よ うに要 請 し,他 方 で は独 立 社 会 民 主 党

( UspD)

の指導部は, 「社会有機体の三層化のた めの連盟」で活動 している党員を,

6

月1

6

日の党 大会 に召喚 して,その 「反党的行動」を釈明 させ る, とい う措置 まで行 っている

3 0)

。 さらに, この 時期には後の ヒ トラー率いるナチ党 (国家社会主 義 ドイ ツ労働者党)‑ と発展 してい く極右勢力に よるシュタイナー攻撃 も開始 されている。ナチ党 の前身組織である ドイ ツ労働者党が ヴユルテンベ ル ク州の右隣のバイエルン州の州都 ミュンヘ ンで 結成 されたのは,社会三層化運動が開始 された時 と同 じ

1 9 1 9

1

月の ことであ り, 同党の創設者の 一人デ ィー トリヒ ・エ ツカル トは同年

5

月に機関 紙に掲載 された 「シュタイナーはユダヤ人である」

とす る誹誘記事を皮切 りに,扇動的なまでのシュ タイナー攻撃 を開始 してい くことになる

3

1).

こ うして

,1 9 1 9

4

月頃か ら活発な活動が展開 されたシュタイナーの思想に基づ く社会有機体の 三層化運動は,

6

月頃には左右両翼か らの抑圧の 中で急速に支持者を失い,挫折 を余儀な くされて しま う。だが, この社会三層化運動は確かに経済 生活及び政治生活での実践の点では具体的な成果 を上げることな く終息 したかに見えるが,上述の よ うにシュタイナーがその社会三層化論 において 最 も重視 した精神生活の再建 とい う点で一つの大 きな結晶が, この運動の直 中か ら生み出され るこ とになる。すなわち, 自由ヴァル ドル フ学校の創

(7)

シュタイナーの社会三層化運動 と自由ヴァル ドル フ学校 の創設

設である。

Ⅲ.自由ヴァル ドル フ学校の創設経緯

1 .

学校創設の推進者エ ミール ・モル ト

上述のよ うに, シュタイナー との直接的関係 を 持つ よ うになる

1 9 1 8

1

1月以降,エ ミール ・モル トは, シュタイナーが提唱す る社会三層化論の具 体化に向けた社会活動 を展開す る一方で, 自らが 経営す るヴァル ドル フ ・アス トリア煙草工場の内 部 において も労働者の精神生活の改善に尽力 して い った。すなわち彼は, ヴユルテ ンベル ク州で最 初の経営協議会

( Be t r i e b s r a t )

を自らの工場 に設 け て,会社 の経営‑の労働者の参画の制度 を導入す る とともに,時事的記事及び文化的記事 も盛 り込 んだ 工 場 内新 聞 と して, 「ヴ ァル ドル フ通 信」

( wa l d o r f ‑ Na c h r i c h t e n )

1 9 1 9

1

1

日号か ら各 週毎 に発行 していった (その編集責任者は ロマ ン・

ボース

( Ro ma nBo o s )

に委ね られ た)

。1 9 1 9

3

月 には, 自らの工場 において開催 され る 「労働者 教育講座」の実施責任者 として,バル ト海地方出 身の人智主義者‑ルベル ト・ハーン

( He r b e r tHa

lm,

1 8 9 0 ‑ 1 9 7 0 )

を招聴 している。ハーンは,労働者の ために,簿記,経済学,地理,人間学,オイ リュ トミーな どの教育講座や各種の講演会を開催 して いった

3 2 )

。 こ うしたモル トの行動は

,

労働者が動 物 としてまた機械 としてではな く,人間 として働 くとい うことが,焦眉の問題なのである」 との,

1

月の会合の折 りのシュタイナーの考えか ら大き く影響 され た ものであった。

既 に

1 9 1 8

1

1月 中旬 に自社の労働者 との会話か ら教育制度 の改革の必要性についての漠然 とした 計画を抱いていたモル トは

,1 9 1 9

1

2 5

及び

2 7

日のシュタイナー との会合を契機 に,学校設立の 具体化に向けた準備を開始 していった。すなわ ち, モル トはシュタイナーか ら学校設立に関す る示唆 を与え られた この会合の後, ヴユルテンベル ク州 の文部大 臣ハイマ ン

( He y ma n n)

に会い,学校設 立に関す る予備的相談 を行 った (日時は不確定)0 その際に,社会民主党員のハイマ ン文相は,モル

トのよ うな大資本家が各方面か ら要請 されている 統一学校 を実現 しようとしていることに歓迎の意 を述べている33)。学校設立 に関 して政府サイ ドか らの障害がない ことが確認 され る と,モル トは

4

1

1日, シ ュ トックマ イ ヤ ー (Ka

r lS t o c k me i y e r

,

1 8 8 6 ‑ 1 9 6 3 )

に電話をかけて,自分の工場 の労働者

1 9 1

と従業員のための学校設立の決心 を伝え, 同時に その学校の管理 を依頼 した。 シュ トックマイヤー は, ヴユルテ ンベル ク州の左隣 に位置す るバーデ ン州の都市マンハイムの数学 と自然科学の教師で,

1 9 0 7

年頃か ら人智学思想 に傾倒 していた人物であ る。 このモル トの要請 を受 けて シュ トックマイヤ ーは,その

1 0

日後の

4

2 3

日にシュ トッウ トガル に来ている

3 4 )

。 こ うして, シュタイナー,モル ト, ハーン, シュ トックマイヤーを中心に学校設立の 準備が開始 され ることになる。

2.

ヴァル ドル フ学校の創設準備 と文部省による

認可

さて,上述 のよ うに

4

2 0

日にシュ トッウ トガ ル トに来た シュタイナーは

,2 1

日には人智学協会 の会員‑の講演

,2 2

日には一般市民‑の講演,そ して

2 3

日にはヴァル ドル フ ・アス トリア煙草工場 で講演を行 っている。約千人 もの労働者で埋 め尽 くされた煙草保管室で行われた講演の中で, シュ タイナーは次のよ うに労働者に述べている。すな わち,文化な どの精神生活か ら排除 され ている労 働者を含めて,あ らゆる人間が 「そ もそ も自分は 人間 として一体何者であるのか」 との問いに,人 間の尊厳 に叶 った形で答 えることができる時にの み,活力ある社会有機体が形成 され得 る。そのた めには, 自治的な精神生活の中で<自由>の理念 が,民主的国家の中で く平等 >の理念が,そ して 共同的経済生活の中で<友愛 >の理念が,それぞ れ実現 され るよ うな三つに分節化 された社会有機 体を構築す る必要がある。その中で も国家及び経 涛秩序‑の従属状態にある精神生活の解放 こそが 緊急の課題であ り,学校 の形態 としてはあ らゆる 社会的 ・能 力的 ・性的差別 を排除 した学校,すな わち 「統一学校

」( Ei n h e i t s s c h u l e )

の創設 こそが必 要 となる, と

3 5)

0

この講演会の翌 日

(4

24

日),工場の労働者教 育講座の責任者である‑ルベル ト・ハーンの許に 前 日のシュタイナーの講演 に触発 された数人の労 働者が来て,彼 らの子 どものために

,

多 くの生き

生き とした ものを学ぶ」場 としての学校 を設 ける ことはできないだ ろ うか, と懇願 している

36)

。 こ の労働者達の願いは既 に叶え られていた。何故な

,2 3

日の講演会 に続いて, シュタイナー も両席 して開かれたヴァル ドル フ ・アス トリア煙草工場 の経営評議会の席上,モル トが正式に学校設立に ついての 自らの決意 を述べ,同時にシュタイナー

(8)

には創設 され る学校 の教育的指導 を要請 していた か らである。その際,モル トは前年か ら,学校 開 設 の資金 として1

0

万マル クを留保 していた ことも 付 言 した。 同 じ く,モル トは設 立 され る学校 に

「自由ヴァル ドル フ学校」の名称 を与 えている

3 7 )

0 こ うして, ヴァル ドル フ ・アス トリア煙草工場の 労働者‑ のシュタイナーの講演が行われ た1

91 9

4

月23日は,同時に 「(ヴァル ドル フ)学校 の真の 誕生 日」 (モル ト) とな ったのである38)0

この

4

月23日のモル トの決意表 明を受 けて,学 校設立 に向けた準備 は急速 に進 め られた。すなわ ち,

4

月25日にはヴァル ドル フ学校 の教育方針 に 関す る最初 の正式な会合が行われた。その席 には, ダイム ラー社 の労働者‑ の講演 の後で参加 した シ ュタイナー,モル ト,ハー ン, シュ トックマイヤ ーの

4

人が参加 した。続 いて,

5

月1

3

日には,モ ル ト, シュ トックマイヤー, シュタイナーの 3人 が, ヴユルテ ンベル ク州の文部省 にハイマ ン文相 を訪問 し,学校設立のための法的条件 に関す る協 議 を行 ってい る。 この席で シュタイナーが主張 し た こ とは, ヴ ァル ドル フ学校 にお け る教 育 方針 (特 に教育 内容 と教育方法) は,政府 ・文部省が 定 め る諸規 則 で はな く, あ くまで も子 ど もの成 長 ・発達 の内的本質 に基づ くべ き ものである, と い う彼 の年来 の教育理念 であ った。 しか し, 同時 にシュタイナーには文部省側 との妥協 の必要性‑

の認識 もあ った。その結果,第3,第 6,第 8学 年終 了の時点で, 当該学年 の公立学校 の教育 目標 を達成 してい ることを条件 に, ヴァル ドル フ学校 の教員集 団には教育計画 を 自由に編成す るこ とが できる, との妥協が成立 した

3 9 )

0

教育計画 と同時 にそれ と密接 に関わ って重要な 問題 は, ヴァル ドル フ学校 の教員資格 の問題であ った。 この間題でハイマ ン文相 は,公立学校 と同 じ教員 資格,つ ま り国家試験 に基づ く教員免許状 の保持 は必要 としないが, ヴァル ドル フ学校 の教 員 になる予定 の人物が教育歴や経歴 の点で教員 と して 「相応 しい」 (

ge e i g ne

t) こ とを文部省 におい て証明す ることは必要である, との見解 を示 した。

この時点では,未だ に ワイマール憲法

( 1 91 9

8

月)が公布 され る以前であ り,私立学校 の認可及 び教員資格 に関す る根拠法規 とな ったのは,1

8 36

年 のヴユルテ ンベル ク邦の民衆学校法

4 0 )

であった。

しか もこの法律 の私立学校 に関す る条項 (

2 4

か ら第

2 6

条) は,私立学校 に対す る厳格 な監督体 制 を導入 し,その後 の他邦 に も大 きな影響 を与 え

た ことで も知 られ るプ ロイセ ン邦の私立学校監督

( 1 8 39

年)以前 に制定 された こ ともあ って41), 比較的緩やかで大綱的な規定 とな っていた。 ヴァ ル ドル フ学校 は,

5

月1

3

日の文部省 との協議 の後, 所定 の事務手続 きを経て,その数週間後 には文部 省 に よる設立認可 の決定が下 された。 もっ とも, この時の学校設立認可 は,暫定的な ものであ り, 正式な認可が下 りたのは文部省 に よる視察 を経た

1 92 0

3

8日の ことにな る 4 2 )

。 この よ うに, 国 家 (文部省)が定 める教育課程及び教員資格か ら 自由な ヴァル ドル フ学校 の設立認可は, シュタイ ナーの思想 に基づ く社会三層化運動 の高揚期 に, しか も社会民主党のハイマ ン文相 の下で,私立学 校 に対す る大綱的法規 の規定の適用 とい った好条 件 の下で実現 を見たのである。

か くして ヴァル ドル フ学校 の設立認可 は得 られ たが,学校設立 に必要な資金 に対す る国家 (州政 府)か らの援助 は一切なか った。

6

月始 めにシュ トッウ トガル ト市 の東側 に位置す るウ‑ ラン トの

( Uhl a nds h 6he )にあ った レス トラン とその周辺

の土地が校舎用地 として確保 された時,その購入 資金 の45万マル クは全てモル トの 自己資産か ら捻 出 され てい る。 ウ‑ ラン トの丘 は, 旧王宮や 中央 駅 を見下 ろす丘陵地 にな っていて, 当時は多 くの 市民 のハイキングコース として親 しまれていた場 所であ った

4 3 )

0

3.

自由ヴ ァル ドル フ学校の創設

こ うして,1

91 9

年 の

5

月か ら6月 にか けての時 期 に, シュタイナーやモル トの尽 力に よ りヴァル ドル フ学校 の設立認可が下 り, また校舎 として使 用できる建物 も確保できることにな ったが,

6

に入 る と上述 の よ うな社会三層化運動が左右両翼 か らの批判 を受 けて,急速 に衰退 しつつあ った こ とは, ヴァル ドル フ学校 の設立 に も少なか らぬ悪 影響 を及ぼ していた。独立社会民主党

( UspD)

列 の新 聞 『社会民主 主義 者』 (

soz i a l de moba

t) は

7

5

日付 の新 聞に,モル トか らの寄稿記事 を掲 載 してい る。 この中でモル トは,創設 され る予定 のヴァル ドル フ学校 は, あ らゆ る差別 を排除 して, 労働者 の子弟 も社長 の子弟 も一緒 に学ぶ,

「 男 女

のための最初 の現実的な統一学校」(

e r s t ewi r k l i c he

Ei nhe i t s s c hul ef u rM良 dc he nund

X

na be n)として特徴

づ けている。 しか し, この新 聞の編集者 は このモ ル トの寄稿文 に対 して, こ うした ヴァル ドル フ学 校 の企てが 「学校間題 を解決す ることにな る正 し

(9)

シュタイナーの社会三層化運動 と自由ヴァル ドルフ学校の創設

い方法」 とは容認できず, 国民 の教育を 「工場主 の手 に委ね ることは望 まない」 との コメン トを付 して,批判 している。これ に対 して,ヴァル ドル フ・

ア ス ト リ ア 煙 草 工 場 の 「労 働 者 委 員 会」

(

Ar be i t e r a us s c h u

B)は約

2

週間後 にな って,ヴァ ル ドル フ学校が <工場主 の学校である> との批判

‑ の反論 文を新 聞紙上に公開 している。そ こでは,

我 々ヴァル ドル フ ・アス トリア煙草工場 の労働 者が 自分たちの子 どもを新 たな学校 に入れ よ うと

している時,我々が確信 している ことは,そ うす る こ とが実際に新 たな正 しい行為

( e i nene ueg ut e Ta t )であ る, とい うこ となのだ。」 と断言 され て

いた。 この労働者委員会 の見解 を載せた 「社会民 主主義者」紙

( 7

月22日付)は, シュタイナーや モル トらに よる学校設立 を社会主義運動 に とって の 「分 離 主 義

」 ( se pa r a t i s mus )

な い し 「妨 害」

( Que r t r e i be r e i e n)

に他な らない と厳 しく批判 し,

学校制度 の構造は,一つの単一的な,社会主義 的組織

( di es o z i a l i s t i s c h eGe s e l l s c ha f t )

に よって統 制 された構造であるべ きである」,との記事を載せ ている

4 4)

このヴァル ドル フ学校創設 をめ ぐる独立社会民 主党系列の新聞 とヴァル ドル フ ・アス トリア煙草 工場の 「労働者委員会」 との応酬は,一端5月 中 旬 頃には独立社会民主党系列の労働者を含 めた大 同団結的な国民運動 としての隆盛 を迎 えた社会三 層化運動が6月か ら 7月にか けての時期 に急速 に 衰退 した こ と,そ してあ くまで三層化運動の具体 化 として, <下か らの >自治的な学校 の創造 を 目 指す動 き と, ロシア革命 をモデル とした教条主義 的な階級闘争的路線 に尚 も固執 し, プ ロレタ リア 独裁体制 の下に新たな形での<上か らの>学校統 制 を志向す る社会主義政 党 との間に,大 きな亀裂 が生 じて しまっていた ことを示 している。

しか し, こ うした非難 を受 けつつ も, ヴァル ド ル フ学校 は

,

我 々の考えている ことが現実 に機能

し得 ることを確認す る ことがで きるよ うなモデル 組織

( Mus t e r i ns t i t ut i o n) 」 4 5 )

を提示す る との大きな 使命 を担いなが ら創設 され るこ とになる。 シュタ イナーは,8月

2 1

日か ら9月 5日までの 2週間, ヴ ァル ドル フ学校 の教 員 に予 定 され て い る

1 7

(平均年齢

3 2

歳) に対 して集 中的教育講義 を行 っ てい るが, この講義 の前夜

(8

20

日)の次の言 葉は,社会三層化運動‑ の批判の高 ま りの状況下 で, ヴァル ドル フ学校 の創設 に賭 ける シュタイナ ーの強い意志 と高い理想 を端的に示 してい る。「ヴ

1 9 3

アル ドル フ学校 は,現代の精神生活 を革新 しよ う とす る本 当の文化行為でな ければな りませんOす べての点において,改革 を考 えなければな りませ ん。社会運動 とい うものは結局は精神的な事柄 に 立ち返 っていきます。その意味で学校 間題 も現代 に とっての緊急な精神問題 の一分野なのです。学 校制度 に革新的に,革命的 に働 きか けをす るため に, ヴァル ドル フ学校 の可能性 を最大 限に使用 し なければな りません。

」 4 6 )

この シュタイナーに よる集 中教育講義 の

2

日後

9

7

日, シュ トッウ トガル トの市民公園ホー ル において,生徒 とその父母,教師及び三層化運 動 関係者な どを含む約千人の参加者 に よって

,

「自 由ヴァル ドル フ学校」 の開校が盛大 に祝賀 され, さらに

9

1 6

日か らは授業が開始 され ている。 こ の最初 のヴァル ドル フ学校は

,1 9 1 9

9

月の開校 の時点では第

1

学年か ら第

8

学年 までの

<8

年制 の国民学校 > としてスター トした。 この最初 の年 度か ら, ヴァル ドル フ学校では, あ らゆ る教科で 教科書 を廃止 し,芸術体験 としての授業構成,エ ポ ック授業方式,オイ リュ トミーや手仕事, 園芸 とい ったまった く新 しい教科, さらに第

1

学年か らの

2

外 国語 の導入 (当時は英語 とフランス語), 定期的な学習成果の発表会 (月例祭) とい った, 今 日まで続 くこの学校独 自の授業形態や教育方式 が開始 され ている。 また,創設の翌年か ら上級学 年が順次増設 され

, 1 9 2 3 / 2 4

年度 には第

1 2

学年 まで 設置 され て, ここに

6

歳か ら

1 8

歳 までの

1 2

年間一 貫制の初等 ・中等学校, しか もあ らゆ る社会的 ・ 経済的 ・性的 ・能 力的差別な しに生徒 を受 け入れ る,万人に開放 され た学校 とい う, 当事 としては 比類 のない学校がその制度的完成 を迎 えている

4 7 )

Q 尚, ヴァル ドル フ学校が創設 された年の最初 の生 徒数は

2 5 6

人 (この内ヴァル ドル フ・ア ス トリア煙 草工場 の労働者 の子弟が

1 9 1

で,残 りの

6 5

人の大半 は人智主義者の子弟であ った),教員数

1 2

名であ っ たが

, 1 9 2 4

年には

7 8 4

人の生徒 と

4 7

人の教 師か らな る学校‑ と発展 している。

では最後に, この よ うな経緯で創設 され た 自由 ヴァル ドル フ学校 を貫徹 していた根本理念 は如何 なる ものであったのか,上述 の社会三層化運動 と の関連 に も留意 しつつ総括 してみ よ う。

参照

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C. 

・学校教育法においては、上記の規定を踏まえ、義務教育の目標(第 21 条) 、小学 校の目的(第 29 条)及び目標(第 30 条)

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 学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配

17‑4‑672  (香法 ' 9 8 ).. 例えば︑塾は教育︑ という性格のものではなく︑ )ット ~,..

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