弘前大学教育学部紀要 第
9 5
号 :1 3 ‑3 6( 2 0 0 6
年3
月)Bu l l . Fa c , Edu c . Hi r o s a kiUn i v. 9 5:1 3 ‑3 6( Ma r . 2 0 0 6 )
金森楽市令
1 3
Ont h eOr d i n a n c ef o rRAKUI CH I , Fr e eMa r k e t , i nKANEGAMORI
安 野 真 幸*
Ma s a kiANNO
'【梗概】
元亀三年の金森再蜂起の後、信長は金森の地 に楽市令 を出 した。本稿 はこの金森楽市令の分析 である。 金 森 は坂本 ・志那 ・守山をつないで、京都 と東山道 を結ぶ志那街道上 にあ り、 この街道は当時の幹線道路だっ た。 このことが原因で、金森 は一向‑漢の拠点 となった。楽市令の第一条はこれまであった金森の寺内町特 権 を再確認 した ものであ り、第二条は宿駅都市金森の発展 を図った もの、第三条は弓矢徳政である。
キーワー ド:信長 浅井 六角 朝倉 金森 坂本 東 山道 志那街道 比叡山 寺内町 大坂並 一向‑挟 人身の 自由 徳政 年貢の古未進
日次
1 金森 は 「寺内町」か 2 史料 と小島説の問題点
3
歴史的背景4
定書の解釈5
むすぴ1
金森 は 「寺内町」
か 研究史本稿の課題 は、織 田信長が元亀三年 (1572)に 南近江の金森 に出 した 「楽市楽座」令1)を分析す ることにある。 現在残 されている信長の 「楽市楽 座」令 は、岐阜 「加納」宛 て と 「安土 山下町中」
宛ての外 は、この 「金森」宛てがあるのみである。
戦前 に小野晃嗣
2)
は楽市楽座令一般 を (城下町振 興策)だ とし、 これが長 く定説 となった。加納や 安土の楽市楽座令 は城下町 との関連で説明で きる ことか ら、その主役だが、金森令 は城下町宛てで ないことか ら、脇役 に追いや られた。豊田武
3)
は小野の (城下町振興策)説 を補強す る事例 をい くつ も付け加 えた上で、楽市が領国経 済の枢軸 をなす宿駅や港湾 に も採用 された とし、金森は志那街道上の .(宿駅)で、金森楽市令の 目 的は (宿駅の再興)だ とした。楽市楽座令 は城下 町以外の都市 にも関係す るとして、 この金森令 を 説明 したのである。 しか し志那街道に限れば、金
森 よ りも東山道 との合流点、守山の方が、む しろ 宿駅 としては相応 しかったはずで、なぜ金森が宿 駅だったのか、その理由が今一つ明かでない。
次 に藤木久志
4)
は、金森 は蓮如の もとで史上最 初の 「一向‑撰 5)
」が起 こった場所で、ここに 「金 ヶ 森道場」の 「寺内町」があった とした。つ ま り宿 駅金森 は、同時に (寺内町)で もあった。織 田政 権 は江南の一向‑撰の拠点、金森 を軍事的に解体 した後、‑挟の基盤 を掘 り崩 し、 この地 を新 たな 流 通経済 の一環 に組 み込 む 目的で、「楽市楽座」令 を発布 した としたのである。こうして藤木は「楽 市楽座」令 に (寺内町の解体 ・再編成 を目的 とし た もの) とい う新定義 を下 したのである。
一方神 田千里
6)
は、金森 は浄土真宗の善立寺 を 中心 とした集落で、信長朱印状が善立寺 に伝来 し たことか ら、金森寺内町 と、町か ら離れた金森城 に立て龍 もった一向‑撰 とは別物で、蜂起鎮圧後、金森寺内町はその まま信長によ り楽市場 として保 護 された とした。それゆえこの法令は (寺内町の 解体)ではな く、む しろ (寺内町の保護を目的 と した もの) として、藤木説 に反対 した。その結果、
寺内町金森の在 り方や、織田政権が ここを (焼 き 討 ち したか否か)が新たな争点 となった。
ところで近江は脇 田晴子が村落座の研究
7)
をし た舞台である。 佐 々木銀弥はこの脇 田の研究を踏 まえて、戦国期の座特権が主要流通路の独 占形態 を採 る中で、楽市楽座 とは何かを 「通説 に対する*弘前大学教育学部社会科教育講座
Depar t mentofSoc i a lSt udi esEducat i on.Facul t yofEducat i on.Hi r os akiUni ver c i t y
1 4
安 野 真 幸疑問
8 1 」
として提 出 した。 この疑問は金森楽市令 を考える際、基本 に据 えるべ き重い問題だ と私は 思 う。しか しこの疑問に目を凝 らして行 くと、佐々 木 自身の間か ら離れて、む しろ本稿で後に考察す る 「諸役免許」 とは何か、 この語 を (どう解釈す べ きか)の問いにつながって くると思われる。しか し楽市楽座 を巡 る議論 に大変化 をもた らし たのは勝俣鎮夫説
9)
の登場 だった。勝保 は大名の 城下町政策に先立 ち (楽市場が 自生的に成立 して いた) とした。 この議論か らは当然、(城下町以 外の町場 にも楽市場 はあった) となる。 この勝俣 の楽市場 自生説は藤木説 と合流 し (寺内町か ら楽 市場へ) として理解 され、通説化 した。 しか し勝 俣説は佐々木説 を批判 して登場 したことか ら、「諸 役免許」の解釈では小野説へ と回帰 し、結果 とし て新 しい問いへの道 を塞 ぐもの となった。小 島道裕
1 0)
は、金森‑挟鎮圧 の際、寺 内町 も 善立寺 も共に焼失 し、両者 はその後再建 された と した。それゆえ文書の伝来 も (文書の本質的効力 に基づ くもの)でない として、神 田説 を否定 した。さらに関連文書 を再検討 し、(三つの金森楽市令) と (五段 階の政治過程) を確定 した。 この詳細 な 研究は金森楽市令 を巡る論争 を制 し、小島説は通 説 となった。 しか し楽市令全体 の評価 としては、
小野の (城下町振興策)説に回帰 したため、金森 楽市令 を脇役の座か らは動かせ なかった。
その結果、信長の天下一統 を記す概説書 におい ては、金森楽市令 を説明 しないのが現状である。 林屋辰三郎
1 1)
『天下一統』
では取 り上げていない。藤木久志 『織 田 ・豊臣政権12)』 だけが唯一の例外 で、朝尾直弘 『天下一統13)』 では 「南近江の一向
‑撰」として 「三宅 ・金森の戦い
」
「惣村 と寺内町」は取 り上げるが、金森楽市令 には触 れていない。
熱田公14)『天下一統』 も金森楽市令 には触 れてい ない。講談社 『クロニクル戦国全史
1 5 ) 』
も、元亀 三年の頁ではこれについての説明はない 。同書の特集 「楽市楽座」で も、小 さな取 り扱い である。 以上か ら、三宅 ・金森の一向‑漢 と、 こ の金森宛て楽市楽座令 とを、政治史 として統一的 に把握することが本稿の 目標 となる。
金森の地理
研究史か らも明 らかなように、金森楽市令の理 解 には、楽市令の舞台 となった金森 という土地の 持つ歴史的な性格の解明が大切で、金森の地理の 理解 は不可欠である。金森 についての先人の研究
をまとめると次の三説 となろう。
( 1)
城下町説 小野晃嗣、小島道裕。( 2 )
宿駅説 豊田 武、 西川幸治。( 3)
寺内町説 藤木久志、神 田千里。小 島道裕 は金森 を 「準城下町的」存在 としたの で、(1)の城下町説 に加 えた。 これか ら述べ る西 川幸治の議論 は
( 2)
の 「宿駅説」に入れた。( 3)
の 寺内町説では、金森‑漢 に際 して、金森が (焼 き 討ち)に遭ったか否か も大 きな対立点である。神 田千里は焼 き討 ちに遭 わず寺内町がそのまま楽市 場 となった としたが、小 島道裕 は焼 き討 ち説 に 立っている。 一方藤木久志 は、寺内町 と楽市場 と の間に大 きな断層 を考 えていることか ら、焼 き討 ち説 に立つ と思われる。金森 とい う土地が歴史の舞台 に登場す るのは、
井上鋭夫16)が (日本史上最初の一 向‑撰) と命 名 した 「金森‑撰 」 の時か らであ る。寛正六年
( 1 4 6 5 )
に、東山大谷本願寺が山門の衆徒 に襲撃、破脚 されて以来、蓮如 は京都 を脱出 し、近畿地方 を転 々としなが ら布教活動 を続けた。琵琶湖南部 の堅田本福寺の法住や、金森の道西の道場 に身を 寄せ、湖西の堅田門徒や湖東の赤野井 ・金森 など 東近江衆の世界で布教活動 した。その間に 「堅田 大責め」や 「金森‑挟」があった。
蓮如 と寺内町の関連 を研究 した都市史の西川幸 治17)は、蓮如 を くす ぐれ た都 市建 設者 ) と し、
寺内町を (環濠城塞都市) と定義 した。寺内町の 歴史は、この南近江の時代が① 「寺内町以前」で、
山門に信仰 の 自由を認 め させ た後、越前吉崎 に 移 った。計画的な都市建設は② 「原 ・寺内町」の 吉崎か らで、次の山科 ・石 山が③ 「寺 内町」で、
その後 を④ 「解体 ・変容期」 と、全体 を四期 に分 けた。金森が 「寺内町以前」なのは、金森が 自生 的都市で計画的な都市でないか らである。
蓮如が金森布教 をした理由は、金森が この時す でに (流通経済の中心地)で、(宿駅)だったか らであろう。 しか しなが ら、 この想定を跡づける 史料はなかなか見つか らない。例 えば新行紀‑は 論文 「荘家の‑操 と一向‑
挟 1 8) 」
で、堅田‑撰 を (荘家 の‑撹) と し、その社会 的 な背景 として、堅 田は湖上関の管理権 を持 ち、「上乗 り」 と呼ば れた通行税 を徴収 し、当時すでに惣結合 に基づ く 都市的な景観 をな していた とした。 これに対 して 金森‑操 を純粋 な く宗教‑撹)だ とした。
金森楽市令
1 5
堅田大責めについて も、堅田の (上乗 り権) を 坂本が奪お うとした もの として説明 した。金森‑
操 に際 し堅田門徒が応援 に駆けつけたことは有名 だが、金森の住民がなぜ浄土真宗 に帰依 したのか、
なぜ 山徒 と対立 したのか。宿駅金森の住民の社会 的な在 り方は何か、等々については、現在あま り 明快 で ない。一方城 郭 史研 究 の小 島道裕
1 9)
は、金森 を① 「道西」‑土豪 「川那辺」氏の (城郭)と、
(参その (城下町)の二つ と捉 えたが、関心 は城郭 史研究 とい う新分野開拓 に向かった。
小 島 は、滋賀 県 の城郭社 の分布 調査 を行 い、
十五世紀 に起 こる集落の再編以前の、在地領主の 城郭 と村落 との関係 を、次の三パ ター ンに分類 し た。① ・在地領主の城館 を中心 とす る集落。② ・ 在地領主 と村落の併存。③ ・惣 による環濠集落。
江戸時代後期の村絵図に描かれた金森村 (後述す る。)は、③の 「惣 による環濠集落」だ として も、
金森の城郭社が‑町四方 と大規模 なことか ら、金 森 は① の在地領主化す る (土豪の城) と (集村 ) の二つか らなる二元論的景観 とした。
農村共同体 としての (集村)ではな く、む しろ (宿駅) な ど都市 的 な世界 の可能性 が強 いの に、
小島の関心 は城郭の方 にだけ向いている。 しか し この城は (土豪の屋敷城)ではな く、藤木久志の 言 う
2 0
'金森 にお ける (民衆 の城)の可能性 も否 定で きまい。史上初の一向‑挟 とされる金森での 武力衝突 において、「敵ハ森 山ノ 目浄坊大 シャ ウ ニテ」攻めたのに対 して、門徒 らは金森城 に立て 寵 も り、攻撃 を待 ち受 け、逆襲 して勝利 したが、記録
2
1)にはこの前半部分 を次の ようにある。マツ近江国ノ御門徒多 ク迷惑セラル、金森 ノ 道西 ヲハ シメテオノオノアツマ リ、堅田衆モイ オケ ノ尉 ヲハ シメ隠密 シテ トリコモ ル トコロ
ー .ヽ
「道西」や「イオケノ尉」が金森の城 に立て寵 もっ たのは、(門徒 たちの代表者) としてであ り、 こ の記録か らは道西が (自分の城) に立て寵 もった
と読むことはで きない。
金森のこの武装蜂起 に対 し、蓮如 より 「言語道 断ノコ トヲ仕 ルモ ノカナ、大事 ニテアルゾ、(シ ソコナウナ) トイヒツケシこ、 コレハ タガ異見ニ テ合戦ニハオヨピタルゾ、クセ事ナ リ」 と叱 られ、
「イソギテ金 ノ森 ノ者 トモこ くミナチ レ トイヘ) ト御足下 テ
」
「ミナ ミナ 自ヤキシテ城 ヲヒラキケル」 とある。(共 同の城)だか ら、 自分の持 ち場 持 ち場 を各 々が 「自ヤキ」 したのだろう。 この開 城 ・武装放棄の仕方か らも、金森城が (土豪の屋 敷城)でなかったことが確かめ られ よう。
問題 は蓮如 を援助 した 「道西」 をどのような人 物 と理解す るかである。 小島は道西 を彼の敵対者
「山徒」 と同 じ出身で、 門徒化 は領主化のための イデオロギーだ とした。山徒 も、豊田武などが明 らかにした金融 ・流通面の活躍ではな く、在地領 主の側面 に注 目し、「これまで主に金融活動や、『山 門使節』など山門の組織の中での問題が取 り上げ られて きている。 しか し、‑特 に近江 においては 在地に広範 に存在 し、在地領主の一つの存在形態
として重要な位置 を占めている」 とした。
「道西」 を地主 ・土豪 ・小領主 と捉 える小島の 理解 か らは、城 は当然 (土豪の屋敷城) となる。
こうす ることで、金森 を 「準城下町的」存在 とし た 自説は担保 される。 しか し金融 ・流通面に注 目 すると、土豪の屋敷城ではな く、む しろ (民衆の 城)の可能性が出てこよう。
全森村絵図 と境川
天保七年 (1836)の金森村絵図では、金森は (守 院を中心 とした集村)で、集落の北側 には東西二 つの 「なわ しろ」が描かれている。 村毎 に共同の
「なわ しろ」があるのは西国村落の特徴
2 2)
である。また信仰 を中心 とした集村の景観 は、近江の真宗 門徒 の村一般の在 り方で、(周囲の水 田 とい う大 海原に浮かぶ島の ように霧の中に仔む
2 3) )
村 々の 姿 は、真宗の言 う 「仏法領」 を地上‑具現化 した もの とい う。 この村絵 図は江戸後期の近江の真宗 門徒の集村の姿を伝 えた ものである。しか しこの近世後期の金森村絵図か ら、戦国期 の金森 を 「寺内町」だ と断定す ることは出来 まい。
戦国期か ら近世後期 に至 る間に、琵琶湖周辺の流 通路 は大 きく変化 し、志那街道はさびれ、金森は 宿駅都市か ら純粋 な農村‑ と大転換 をしたのだか ら、村絵図の集落の姿か ら、直ちに戦国期の金森 の姿 を想像す るのは間違いだろう。 後述するよう に金森集落か ら離れて 「市 ノ町
」
「駒地」 な どの 地字名が見 えることも、戦国期金森の景観が村絵 図 とは大 きく異 なっていた根拠 となろう。信仰の中心である (寺院を中心 とした集村) と いう真宗門徒の集村 の景観は、建築史の神代雄一 郎
2 4
)が、 日本の コミュニティーは 「奥宮 ・神社 ・ 御旅所か らなる (信仰の道) と直交す る (社会経1 6
安 野 真 幸済の道) に、紐状 に形成 される」 としたの と異 な り、 む しろ教会堂 を中心 とした ヨー ロ ッパの集村 の 姿 と似 て い て興 味 深 い。 一 方 高橋 昌明
2 5)
は、この村絵 図か ら、「境川」 の渡河地点、「山賀 川
」
との分岐点、「氾濫原」 な どを読み取 り、土豪 「川 那辺
」
氏 を渡河地点の管理者 だ とした。現在 の 「境 川
2 6) 」
は栗東町大字 出庭 の湧 き水 に 発 し、守 山市 の浮気 ・勝 部 ・今宿 ・金森 を経 て、欲賀 ・森川原 を蛇行 して琵琶湖 に注 ぐが、江戸時 代 には野洲川の一分流 で、旧野洲郡 ・栗太郡の (境 の川) だった。一方 この川 を境 に条理 の方向が食 い違 うことか ら、奈良時代 には野洲川本流 だった とされ、「流路 は漸 次南 か ら北へ動 き、河 口部 の 三角州 を広 げてい き、 日野川三角州 と合 わ さった 野洲平野が形成 された‑。河道移動 の時期や流路 な どを具体 的 に追 うことは困難」 とある。
現在 の野洲平野の水上交通 には、農民が水 田‑
の行 き帰 りに用 いる 「田舟
2
7)」が見 られ るが、 中 世 には近江太郎 ・野洲川の水上交通 は盛 んで、特 に金森下流域 の三角州 には水路が網 の 目の ように 通 じ、大坂 湾岸 の淀 川下流 域2 8)
や濃 尾 の輪 中地 帯 と同様 な (水郷)で、金森 は内陸水路の中心地 ・ 地域の物流セ ンターだった。「境川」は金森で 「山 賀川」な どが幾筋 も枝 分 か れ し、氾濫 原 となる。 金森 はその 自然堤 防上の微 高地である。 それゆえ 境界 は金森 で (級)か ら (面) に変化 した。古代 では、ここは両郡の どち らに も属 さない(境 界 領 域 ) で、 網 野 善 彦
2 9)
の 言 う 「無 主 ・無縁 」 の場所、蓮如 の開いた吉崎道場 な どと同様 な 「虎 狼 の住処」 だ った。金森 の河 原 には墓所 や市場、川越 人足 の存在 な どが想定 される。 中世 を通 じて こ こは次 第 に、 井上 鋭 夫
3 0)
の言 う 「山の民 ・川 の民」「ブ タリ ・タイ シ」 の世界 とな り、交通 ・ 輸送業者の定住地点 となっていった。 かれ らは河を越すため に人 を肩 に担 ぎ、輿や蓮台 に乗せ、馬 の口を執 っていた と思われる。
金森 で は、野洲郡守 山か ら湖岸の栗太郡志那 に 通 じる (志那街道)が、郡境の川「境川」 を右側 か ら跨 いでいた。一方古代近江 国では、東海道 ・ 東 山道 ・北 陸道の三街道が京都 ・逢坂 の関 ・大津 か ら東 国 に向 けてそ れぞ れ放射 状 に延 びてい た が、 中世 には山門が国一番 の荘 園領主 とな り、坂 本 と京都 を結ぶ 山越 えの道が開拓 される と、 山門 のお膝元で琵琶湖 に面 した港湾都市坂 本が、東 国 と京都 を結ぶ流 通 の中心 とな り、 (志那街道)が 東海道 ・東 山道のバ イパ ス として繁栄 した。
金森 は京都 と東 国を結ぶ 中世 日本の幹線道路上 にあ り、しか も郡境 を跨 ぐ渡河地点 にあったので、
水 陸交通の要衝の (宿駅都市)へ と発展 した。
宿駅都市金森
以上か ら明 らか な ように、金森 は堅田 と同様 な 流通経済の中心 とな り、堅 田 とよ く似 た宿駅都市 へ と発展 した。金森 に も堅 田門徒 の 「全 人衆
」
と 同様 な存在 を想像 したいのだが、宿駅都市金森 の 実体 を明 らか にす る史料 は発見 されていない。元 禄十六年 (1703)七 月付 けの金森村 よ り奉行宛 て 言上書 「信長公様御朱 印頂戴仕候 由緒之事」の一節 3
1)には次 の よ うにあ り、江戸 後期 の金森村絵 図の集村 とは異 な り、宿場 町 として街道筋 には「問 屋 ・酒屋」 な ど二百軒が立 ち並 んでいた。当地其昔ハ志那海道筋 ニテ家 モ二百余軒 二及 ヒ問屋酒見 セモ ア リ、繁 昌繁栄 ノ処ナ リシ ト伯 父等 ノ伝へナ リ、然 二信長元亀 ノ乱後諸方へ立 退者モ多 カリシ程 ノ難義 ニアイ シ漸 ク信長公赦 免 ノ後村 形 モ 出来昔 二立 カヘ ルヤ ウニ有 シニ 云 々。
元禄期 の この言上書か ら、金森市街地の衰退 と 復興 は窺 えるが、小 島の主張す る (焼 き討 ち) は 断定出来ない。一方金森 を流通経済の中心 と考 え る西川幸治 は、宿駅金森 の実体 を地理 の面か ら迫 り、共 同研 究 「蓮如 の道
3
2)」で、蓮如活躍 時琵琶 湖 に面 した金森周辺の港 には (志那)の他、(杉江) (赤野井)があ り、陸上交通 には (志那街道)の他 、 金森か ら杉江 に至 る伝 「蓮如往還之道」の (馬道)、金森 の東北の播磨 田か ら赤野井 に至 る(赤野井道) の存在 を明 らかに した。
また この (馬道) に沿 って、集村 金森か ら少 し 離 れて、「室」「仁願寺」「市 ノ町」「駒地」の地字 名があ ることを明 らか に した。それゆえ戦国期の 宿駅都市金森 は、 こち らの方 にまで広が っていた 可能性 がある。 また (馬道)の名前か ら、 当然馬 の背 に荷物 を載せ て運 んだ運送業者 ・(馬借) の 存在が想定 される。 彼 らの前 身は川越人足 で、渡 河地点の宿駅金森 の機能拡大 と共 に、運送業者 ・ 馬借 に まで発展 したのだ ろ う。 (馬道) は山門で はな く、金森 の支配下 にあった と思 われる。
金森 に馬借が現 れる と、志那街道 に対す る坂本 の馬借 の影響力が問題 となる。 大谷 の本願寺破脚 の際 には、 山徒 ・祇 園の大神人や坂 本の馬借 な ど
金森楽市令
が関わっていた
3 3)
のだか ら、「守 山ノ 目浄房 卜云 ハ叡 山ノ衆徒 ナリケルガ、遺恨 ノ輩 ヲカタラヒ浅 井亦六郎二組 シテ金森 ヲセムルコ トア リ」 との記 録34)は、金森 の馬借 に対 す る周辺 山徒 らの圧力 を示 していると読むことも出来 よう。
一方 (赤野 井道) については3 5)
次の ようにあ り、蓮如は 「開 山聖人の御木像」 を背負い、この道 を通 った。上様ハ開山聖人ノ御木像 ヲ負セラレテ、赤 ノ 井慶乗 力道場ニウツシヌ。 白昼ナ レ トモ人不知
卜云 々。
蓮如が 「開山聖人ノ御木像」 を背負 った際、「連 雀」 を用いた と思われる。 この蓮如の姿は 「連雀 商人」や歩行で荷物 を運ぶ交通労働者 ・運送業者 の 「歩荷」の姿 と一致 していた。坊主 としての法 体 も当時の 「連雀商人」や 「歩荷」と同 じだった。
つ まり蓮如 は 「人民の海」に隠れて、山徒の監視 の 目を逃れた となる
。
だか らこそ 「白昼ナ レ トモ 人不知」 とあるのだろう。
以上か ら、金森 は当時の流通セ ンターであ り、
多 くの 「連雀商人」や 「歩荷」の活動が想定で き よう。 この延長線上 に信長期の金森 (楽市場)が 登場 す るのであ る。 金森令
A‑Ⅰ
(後述す る。) か ら、金森に 「市場」があったことは確実である。A‑Ⅱの第二条 「往還之荷物 当町江可着之事」は、
宿駅 としての金森 の在 り方 を信長がその まま安 堵 ・保証 したことを、 またA‑Ⅲの第四条 「上下 荷物井京上売買之米荷物、如先 々於当町差下有へ き事」は宿駅金森の よ り一層の繁栄 を示 している。
山門領金森荘
これまでに明 らかにしたことをまとめると、金 森 は野洲 ・栗太両郡の境 を流れる 「境川」の氾濫 原の作 り出す (境界領域) に位置 し、金森は本来 は 「無主 ・無縁の地」であったが、次第に都市化 が進み (宿駅都市)となった、となる。(境界領域) に都市が出来た例 としては泉州 「堺」の例や、朝 尾直弘
3 6)
が明 らかに した、湖東平野の 「八 日市」の例 を挙げることが出来る。 朝尾 は 「八 日市」の
「市庭」 を次のように説明 している。
神埼郡 と蒲生郡の郡界 にあ り、古代は蒲生野 の 「野」の世界 と神埼郡の条理水 田農村 との接 点に、中世 は神埼郡柿御園 ・同郡建部荘 ・蒲生 郡得珍保 ・同郡小脇郷の四つの郷荘の境界の交
1 7
点 にあ り、いずれの郷荘 にも属 さないような位 置 に成立 した市庭である。
金森が都市化すると、 ここは (境界領域)では な く、む しろ地域の物流セ ンター とな り、 さらに 経済の中心地か ら政治の中心地へ と変化 し、地域 を結合する中核都市 となった。その結果出来たの が (山門領金森荘)である
。
元亀二年十二月の佐 久 間信盛宛て信長の 「所領宛行 い 目録」 3 7 )
には、「二百石 金森」 とあ り、続いて信長 に抵抗 して 没落 した六角氏の被官、馬淵 ・本間 ・種村 ・栗田 ・ 楢崎 ・鎗江等 々の国人領主の没収地がある。 ここ か ら金森は荘 園だった と思われる。
山門領金森荘 の存在 を多 くの研究者が想定 して いる。 蓮如は堅田 ・金森 を中心 に各地 を転 々とし た。金森周辺には川那辺氏屋敷城のほか、数多 く の豪族屋敷城が確認出来る
。
その限 りで、他 との 区別 はつ きに くいのに、 なぜ ここで 「金森‑挟」が起 きたのか、その理由は、金森が山門領金森荘 の中心だったか らで、金森が地域政治の中心だっ たか らこそ、宗教の中心 にもなったのだろう
。
ま た (‑挟持 ち)の時代 には 「御坊」が山門領金森 荘 を乗 っ取 り、 ここを政治的に支配 した。神 田千里 の明 らか に した 「金森 門徒
困 3 8) 」
や、元亀三年の起請文 を提 出 した村 々は、 この山門領 金森荘 の領域 を越 えて、 さらに広 く広がっていた と思 われる。 それゆえ (‑挟持 ち)の時代 には、
金森は荘 園の境 を超 えて、 よ り広域の 「金森門徒 圏」にまで影響力 を及ぼ していた と思われる。
金森 は 「環濠城塞都市
」 か
これまで明 らかに したことをまとめると、金森 が歴史の舞台に登場 した頃、金森は経済的には(宿 駅都市)で、政治的には くり」門領金森荘 の中心) であった となる。 ここで研究史を振 り返 り、金森 は (寺内町)だったか否かを再度検討 したい。寺 内町 を 「環濠城塞都市」 と定義 した西川幸治 は、
金森 を 「寺内町以前」としたが、それは金森が (環 濠城塞都市) としての 「寺内町」ではな く、本格 的な 「寺内町」の建設は、蓮如が北陸に赴いてか ら以降だ との主張があるか らである。
しか し現在の通説では、蓮如の活動以降、金森 は 「寺内町」で、元亀年間には一向‑漢が ここを 拠点 に信長 と対抗 した
3 9)
とある。 例 えば中居均4 0)
は 「道場 を中心 とする門徒村落 (‑金森)は自衛 手段 として環濠 をめ ぐらせ、城郭的性格 を持つ よ
1 8
安 野 星 章うになる。 ‑周辺の門徒 を取 り込 (む)‑宗教的 運命共同体 『寺内町
』
の成立である」
とある。 し か しなが ら、この議論 には (政治論) と (形態論) の混 同がある。 問題 は、宿駅都市金森の (形態) が 「環濠城塞都市」
だったか否かである。戦国期金森が 「寺内町
」
か否かは、‑挟敗退の 際の焼 き討ちの有無 とも関係す る。 金森 を 「環濠 城塞都市」
とすれば、金森城の落城 は当然 「寺内 町」の消滅 となるが、(町場) と (城)の二元論 か らは、金森城落城は必ず しも金森市街地の焼失 を意味 しない。小 島道裕は金森集落か ら離れた「城 の下」 に (川那辺氏 の屋敷城4
1))があった とし、神 田千里や朝尾直弘
42)
もまた、‑撲勢 の立 て寵 もる金森城 は 「城の下」の川那辺氏屋敷城で、善 立寺の集落を 「寺内町」 とした。つ ま り神 田 ・朝尾は、信長 に抵抗 した金森城 と 金森集落 とを別物 として区別 した。金森集落を農 村共同体 としての集村ではな く、町場 ・都市 と捉 え、金森全体 を中世社会に一般的な (都市)と (城) の二元論 として捉 え、宿駅都市金森 (
‑
「寺内町」)
と土豪屋敷城の併存 としたのである。 西川幸治の 定義 に従い 「寺内町」の形態 を 「環濠城塞都市」とするなら、両者は (金森は 「環濠城塞都市
」
で ない) としたことになる。 一方私は、金森城 をむしろ (民衆の城)だ と考 えたい。
それゆえ神 田
4 3 )
の言 うとお り、金森‑漢 の下 での金森 「寺内町」つ ま り宿駅都市金森は、次の 時代の信長支配下の 「楽市場」へ とつながると思 われる。しか しなが ら、以上の形態論 とは別に、(‑ 挟持 ち)の時代の金森の政治的な在 り方が、「大 坂並体制」下の 「寺内町」と同 じだったのか否か、言 い換 えれば、(‑挟持 ち) の時代 には 「御坊 」 が (都市領主)だったのか否か とい う (政治論) の問題がある。 この間題は、 この地域の政治史を 考察 した第三節の中で再び取 り上げたい。
2
史料 と小島説の問題点 史料金森楽市令 (これ をA とす る。) につ いては、
すでに述べたように小島道裕の詳細 な研究44)があ る。 小 島は 『滋賀県史』が紹介 した 「善立寺文書」
には、本来あった説明文の一部が省略 されている とし、すでに知 られている史料の他に、数通の関 連文書の存在 を想定 し、それを明治期 に編纂 され た 『守山村誌』か ら復元 した。小島説を整理
45)
す ると、近江国野洲郡金森 (現滋賀県守山市金森町)には、次の
Ⅰ
〜Ⅲの (三つの楽市令) と、仁)〜㈲の く五段 階の経緯)があった となる。
普通われわれが 「金森楽市令
」
と呼ぶのは、Ⅱ
の元亀三年九月発給の金森宛て信長定吉である。それゆえ本稿 におけるわれわれの課題は、このA
‑Ⅱを分析す ることにある。 取 り敢 えず次に、小 島が明 らか に したA ‑ Ⅰ〜 Ⅲの (三つの楽市令) を紹介 したい。
[ A‑Ⅰ]
金森市場之事、守山年寄衆令相談、急皮相立様
七月十八 日 佐久間伊織46) (守山 美濃屋小宮山兵介殿) [A‑Ⅱ]
定 条々 金森
‑ 楽市楽座たる上ハ、諸役令免許華、井国質 ・ 郷質不可押
□ 4 7)
、付 理不尽之催促便停止之 事。一 往還之荷物当町江可着之事。
一 年貢之古未進、井旧借米銭巳下、不可納所之 事。
右、於違背之輩者、可処罪科之状如件。
元亀三年九月 日 (朱印)
[ A
‑Ⅲ]定 金森町
脱力
‑ 為楽市楽座上 (者)48)、於何方茂同前之事。
‑ 諸役令免許之事。
‑ 当町出入之者、郷質 ・所質停止之事。
‑ 上下荷物井京上売買之米荷物、如先 々於当町 差下有‑キ事。
‑ 喧嘩 口論在之者、不及理非双方可為成敗事。
但、於奉公人与町衆者、奉公人可令成敗事。
右条 々、堅令停止言乞、若違背之輩在之者、忽可処 厳科者也、竹下知如件。
天正二年五月 日 甚九郎 (花押)
防俣鎮夫は Ⅱの第一条の語句 「楽市楽座たる上 ハ」か ら、金森 には もともと自生的に発生 した楽 市場があ り
、
Ⅱはそれに対す る 「安堵状」
だ とし、金森楽市令A一Ⅱを加納楽市令 と共に (安堵型楽 市令)だ とした。 しか し小 島が明 らかに した とお り、A‑Ⅱの第一条のこの語句 は、A‑ Ⅰで信長 の重臣佐久間信盛が守山の年寄衆に対 して 「金森 市場」 を 「楽市楽座たるべ し」 と命 じたことを承 けた ものである。 それゆえ、金森楽市令A‑Ⅱを (安堵型楽市令) とすることはで きない。
金森楽市令
Ⅱの 「楽市楽座」は Ⅰの 「金森市場」 と連続 し ていよう。 しか し元亀三年の七月に出された Ⅰの
「金森市場の事、守 山年寄衆相談せ しめ、急 度相 立つ よう馳走あるべ し」か らは、小島が言 うよう に、金森市場のある 「金森寺内町」が焼 き討 ちに 遭い、その復興 ・再建が この時課題 となっていた、
とまで は読み取 れ ない と思 う。 次 に このA ‑Ⅱ 三 ヵ条 と、佐久間信盛の子 ・甚九郎信栄が出 した A一Ⅲ五 ヵ条 を比較 し、A一Ⅱの特徴 を明 らかに したい。
金森楽市令
Ⅱ・
Ⅲの比較‑ 第一条の特徴 A‑Ⅱの第二条 ・第三条が一、二の事柄 を定め た ものなのに、 Ⅱの第一条 は大 き く膨 らみ、「a
楽市楽座たる上ハ、 b諸役令免許畢、井C
国質 ・ 郷質不可押執」 と 「付d」
の四主題か ら構成 され ている。 第一条a
は、A‑Ⅲの第一条 「為楽市楽 座上者、於何方茂同前之事」 と、bは第二条 「諸 役令免許之事」 と、 Cは第三条 「当町出入之者、郷質 ・所質停止之事」 とそれぞれ対応 している。
しか し、dの 「理不尽之催促使停止之事」 に対応 する文言は、A‑Ⅲには見出す ことは出来ない。
dは金森市場の (不人権) を認めた もので、網 野善彦の言 う 「無縁の原理」、勝俣鎮夫の言 う 「縁 切 りの原理」に当たる。一方A‑Ⅲの第五条は、「金 森 町」 における 「喧嘩両成敗法」 だが、「但」以 下の (付則)「奉公人 と町衆 とにおいては、奉公 人成敗せ しむべ き事」 は、江戸時代風 に言 えば、
武士 と町人 との喧嘩の場合 は、「奉公人
」
‑社会 的強者の武士の側 を罰す る として、「町衆」
‑弱 者の保護 を請 った もので、信長配下の 「奉公人」の金森市場‑の介入 を禁 じた 「縁切 り」の法 とな る。
その限 りで、 Ⅱの
d
とⅢの第五条 (付則) との 間には、対応関係 を認めることが出来 よう。 最初 に、武士社会内部、特 に陣中な どで成立 した喧嘩 両成敗法が、次第に商人たちの世界、都市内部で も適用 され、社会的弱者 に対す る保護‑進んだこ とは、次の四法令か ら確かめ られる。 ここか ら天 正二年( 1 5 7 4 )
に佐久 間信栄が出 したA‑
Ⅲは、時代 に先駆 けた もの と言 えよう。
(い)天正十年
( 1 5 8 2 )
の 「末盛丸山 ・新市場」宛 て北 畠信雄走書4 9)
の第三条。「喧嘩口論之族、双方可成敗事。」
( ろ)
天正十五年( 1 5 8 7 )
の 「筑前博多津」宛て秀1 9
吉走書
5 0 )
の第四条。「喧嘩 口論於仕者、不及理非、双方可成敗 事。」
( は)
天正十九年 (1591)の 「肥前長崎津」宛て秀 吉走書5
1)の第一条。「喧嘩刃傷事、双方 日本仁者、不立入理非、
両方可加成敗。但南蛮船唐船之儀者、異国 仁之条、理非遂礼明、十之物五 ツ五 ツにお
ゐては、 日本人可処罪科事。」
( に)
文禄四年 (1595)の会津若松宛て浅野長政捉 書52)
の第四条。「於喧嘩者双方可成敗、但町人 と奉公人喧 嘩仕出候 はば、糾明をとげ、科 によ り町人 あひたす くべ き事。」
次に Ⅱ第二条 「往還之荷物当町江可着之事」 に 進みたい。 これはⅢ第四条 「上下荷物井東上売買 之米荷物、如先々於当町差下有‑ き事」 と対応 し、
共に (道路強制)である。 金森‑挟解体後、人々 の出入 りを厳 しく検問 した施設が取 り払われ、東 日本の基幹交通路 (東山道 ・東海道一守山一金森 一 志 那街 道
5 3))
が再 開す る中で、「往 還之荷物」には 「京上米」が増 え、「上下荷物井京上売買之 米荷物」‑ と変化 したことが知 られる。 それゆえ
Ⅱの第二条は宿駅金森の復興策である。
一方、 Ⅱの第三条 「年貢之古末進、井旧借米銭 巳下、不可納所之事」 については、 Ⅲに対応する 条項 は見 えないので、元亀三年 (一五七二)にの み有効な時限立法であろう。 これは 「借銭米」の 無効 を宣言 した一般的な徳政令ではな く、旧領主 に関わる 「年貢之古末進」や 「旧借米銭巳下」の 棄破のみを命 じた く代替わ りの徳政令)で、都市 住人の増加や、都市の発展 を計 った ものであろう。
それゆえⅡ第二条の道路強制条項 も第三条の徳政 条項 も、共 に都市金森の振興策 となる。
こう考 えると、 Ⅱの第二条 ・第三条の対象 は、
共に (都市住民) となろう。 これに対 して、 Ⅲの 第三条に 「当町出入之者」の文言があることか ら も明 らかなように、 Ⅱの第一条は (外来商人) を 対象 とした ものであ る。 それゆ え第一条 と第二 条 ・第三条 とでは法令の対象が異 なっている。 逆 に、互いに対応関係 を持たず Ⅱ、 Ⅲにそれぞれ固 有 な ものには、 Ⅱ第三条の 「徳政令」、 Ⅲ第五条 の主文 「喧嘩両成敗法」がある。 以上か ら、 Ⅱ ・
Ⅲ相互間の対応関係 は次表の ようになる。
2 0
安 野 真 幸Ⅲ Ⅲ 対象
楽 市楽座 第‑条
a
第一条 外 来商 人質取 り 第一 条
C
第三条 外 来商人 縁切 り 第一条d
第五条 の「但」 外 来商 人経緯
小島道裕の言 う 「経緯」 とは、 この地域の (政 治史)のことなのだが、その分析が不十分だった ので、前述 したように、脇役の状況 を突破で きな い状態が続いていると思われる。 それゆえ経緯 に ついては、第三節 「歴史的背景」で さらに深 く考 えることとし、 ここでは取 り敢 えず小島の述べた 次の卜)〜匡)の (五段 階にわたる経緯)の議論 を紹 介 したい。
日
永禄十一年 (1568)上洛 に当た り近江 を攻略 した信長は、金森近 くの上街道 (中山道)の 宿場町守山に三 ヵ条か らなる禁制 を下 し、こ れを保護下に置いた。⊂)
一方金森は、元亀元年 (1569)の九月には一 向‑操 の拠点 として信長 に対 し蜂起す るが、元亀三年 (1572)七月に落城 し、軍事的に解 体 された。
E) 金森 を知行 した佐久間信盛は、文書
A‑
Ⅰ(折 紙)を発給 し、守山 「年寄衆」 に命 じて金森 の復興 を図った。( 四)
さらに信長か らは、楽市令の朱印状A‑Ⅱが 発給 された。㈲ 二年後、領主の交代 によると思われるが、佐 久間借盛の息甚九郎信栄 より捉書A‑Ⅲが金 森 に発給 された。
第二段階は、元亀元年 (1570)九月か ら元亀二 午 (1571)九月までの、大阪よ り派遣 された川那 辺秀政 を中心 とす る (金森‑撹)の一年間と、元 亀三年 (1572)正月か ら同年七月までの佐 々木承 禎親子が一向宗の僧侶 をかた らい三宅 ・金森の城 に立て龍 もった半年強の (金森再蜂起)の二つか らなっている。
ところで金森は (山門領)で、この体制は永禄 十一年の信長上洛以後 も変わ らなかったと思われ る。金森一挺 に際 し川那辺秀政 らが (山門領)金 森 を乗 っ取 り、(‑挟持 ち) とした際 も、 当時の 政治状況か らすれば、本願寺 と比叡 山延暦寺 とは
近 しい関係だったので、体制的には大 きな変化は なかっただろう。 しか し信長は、元亀二年九月に 比叡 山を焼 き討ち し、十二月には 「金森
」
その他を佐久 間信盛 に宛行 っ
5 4)
た。 この時 (検地)が 行われ、新体制へ変更 した と思われる。それゆえ金森の政治史は、元亀元年九月以来 ま るまる一年間は、大阪よ り派遣 された川那辺秀政 らが (山門領)金森 を乗 っ取 った (‑挟持ち)の 時代で、三 ケ月間の (佐久間領) としての新体制 の後、再 び半年強の (‑挟持ち)時代 を経た とな り、 この再蜂起鎮圧二 ケ月後 には、問題の金森楽 市令Å‑Ⅱが出されたである。元亀三年の金森再 蜂起 に際 し、周辺の村 々は佐久間信盛宛てに く三 宅 ・金森へ 出入 りしない) 旨の 「誓詞」 を出 し
5 5 )
た。 これは (指 し出 し検地)に対応 しよう。
指 し出 し検地に しろ、この起請文の提 出に しろ、
(新領主の承認)の点 に限れば共通 している。 わ れわれの関心は、ついつい一向‑挟 と信長 との対 決に向かい、‑挟側か信長側かの問いに向か うが、
誓詞 を出 した村 々の視点に立てば、‑挟側に立つ か、信長側か とい う金森の帰属問題 は、比叡 山焼 き討ちによる山門領没収の一環であ り、従来通 り の山門の支配への復帰 を願 うか、信長の新たな支 配 を承認す るかの問題だった と思われる。 それゆ え誓詞の提 出をもって‑漢の敗北 は決 まった。
小島説の問題点
小島道裕は金森楽市令が Ⅰ・Ⅱ ・Ⅲの三つか ら なることを明 らかに した。 Ⅰにある 「金森市場の 事、守山年寄衆相談せ しめ、 きっと相立つ よう馳 走あるべ し」が事柄のすべての出発点で、 Ⅰでの 信長の命令 「楽市楽座たるべ し」 は、 Ⅱの信長定 書やⅢの佐久間信栄定書へ と具体化 したことにな る。 Ⅰの 「楽市楽座」の言葉 は、次々といろいろ な言葉や概念 に発展 していった。 しか し言葉が豊 富 にな り、概念 も明確化 したはずなのに、小島の 分析 はむ しろ抽象化の一途 を辿って行 く。
小 島道裕 は56)(第一条の ≪楽市楽座》 とい う言 葉 は、「諸役免除に限 らず、座特権否定 を含めて、
その場 に与 え られる諸特権 を包括 的に示す言葉」
である。)(「諸役免 許、国賓 ・郷質停止、理不尽 の催促停止」 は
「
《楽市楽座≫ を敷宿 した もの」である。)と述べている。≪楽市楽座≫ を敷街する と 「諸役免許、国質 ・郷質停止、理不尽の催促停 止」 となる。逆に、 これ らの諸特権 を 「包括的に 示す言葉」が 《楽市楽座》である、 との議論 は、
金森楽市令
おそ らく間違ってはいないだろう。
小島の議論は一つ一つの文言 を個別に解明する のではな く、 さまざまな言葉でいろいろに説明 し て も、(根本 は 《楽市楽座≫だ) (すべてはここか ら流出 している) として、(流出論)に陥 り、個 々 の概念 を個別具体的に明確化するのではな く、む しろ既存 の定説や通説の結論 に飛 び付 いている。
それゆえ小 島の議論か らは、定説や通説へ のオ マージュ しか期待で きないのである。 われわれに 必要なことは、小島の方法 とは逆 に、個 々の文言 を歴史的 ・特殊具体的に把握することだろう。
われわれの取 るべ き道は、特 に金森楽市令 Ⅱの 一つ一つの文言の意味を確定 し、個 々の文言 を個 別具体的に理解する方法 を探 ることにあろう。 そ のためには、他の文書 との比較作業 も大切 となろ う。 次に金森楽市令 をこの地域の政治史の中で把 握 して行 きたい。
3 歴史的背景 永禄十一年の信長上洛
信長 は岐阜攻略 を前 に、永禄十年
( 1 5 6 7 )
春、同年八月、翌年二月の三度にわた り、家臣の滝川
‑益 に伊勢北境 を攻略 させた。北伊勢八郡の関一 族の総領 ・神戸友盛 を下 し、三男信孝 を養子 に入 れ、工藤一族の総領 ・長野氏 には弟信包 を養子 に 入れた。 こうして関一族 は信孝が、工藤一族は信 包が、他の諸氏 は滝川氏が支配 した。安濃津 には 織 田掃部 を置 き、南五郡の領主、国司北畠氏 に備 えた。上洛の際は東 山道 を進む として も、近江へ の連絡路 として、北伊勢の確保が必要だった。
尾張 ・美濃 ・北伊勢 を征服 した信長 は、永禄 十一年 (
1 5 6 8 )
九月には足利義昭を奉 じて京都 に 向け進軍 したが、それに先立ち、上洛のための根 回 しをい くつ も試みた。永禄十年の末頃には湖北 の浅井氏 に、妹の 「お市の方」 を嫁がせて同盟関 係 を作 り、大和興福 寺 の衆徒 た ちに も朱 印状57)
を出 した。同年近江守護六角氏の奉行人 ・野洲郡 の (永原氏) を味方に付 け、翌永禄十一年四月に は同氏 に三 ヵ条か らなる条書58)を出 した。 甲賀 郡の国人にも積極的に働 きかけ
5 9)
た。永禄十一年六月には、志那街道上で金森 よ りも 志那港の近 くにある天台宗の名
刺
で、琵琶湖の水 運管理権の一部 を握 る (産浦観音寺)に 「産浦三 郷の開所方や知行人のいない土地は、調査の上観 音寺に与 え、年貢等 を納め させ るようにする」 と の判物0 0 )
を出 した。 ここか ら、琵琶湖水 運 の掌21
握 を早 くか ら意識 していたことが分かる。 八月に は佐和 山に赴 き、六角義賢 との交渉 を試みたが成 功 しなかった。義賢はむ しろ、「堺公方
」
「阿波公 方」 を奉 じた三好三人衆 とつながっていた。九月七 日に信長 は徳川家康 と共 に岐阜 を発 し、
上洛の途についた。三河徳川氏 と同盟関係の信長 勢力 を (環伊勢湾勢力)と名付けるとすると、敵 ・ 三好三人衆の勢力は、「堺公方
」
「阿波公方」の足 利義栄を中心 とした く環大阪湾勢力) となる。 九 月十二 日に信長は湖東の箕作城 を攻略 した。観音 寺城の六角義賢親子 は、将軍足利義尚が六角高頼 を攻めた時、観音寺城 を棄てて甲賀 に脱出 した長 享元年( 1 4 8 7 )
の故事 に倣い、 この時 も観音寺城 か ら伊賀山中に逃げ込んだ。六角氏 に従 った多 くの国人は降参 し、人質 を差 し出 し、所領は安堵 された。現在、永禄十一年九 月付 け信長禁制
61)
は数多 く残 っている。 近江 で は百済寺 ・沖島 ・永源寺 など、 山城で も上京 ・吉 田郷 ・八瀬荘 ・賀茂社境 内六郷 ・若王寺社 ・大山 崎 ・大徳寺 ・妙心寺 ・南禅寺 ・知恩院 ・清水寺 ・ 東寺 ・清涼寺 ・遍照心院 ・本能寺 ・妙伝寺 ・妙顕 寺等 々宛てがある。 これ らは皆、信長軍の動 きに 先立って、各寺院に発給 された。小島の指摘 した(守山)宛て禁制 も、この時の発給である。
東山道の宿駅 (守山)は、信長に対 し早 くか ら
「味方」 を表明 していた。組織 的な抵抗が解体 し た ところで、信 長 は義 昭 を桑 実寺
62)
に招 いた。この寺 は六角氏の居城のある観音寺 山の西麓か ら 中腹 にかけてあ り、近江 をさす らった第十二代将 軍足利義晴が仮の幕府 をおいた ところである
。
『信 長公記6 3)
』には 「二十四 日、信長守山まで御働 き、翌 日志那 ・勢 田の舟 さ し相 ひ、御逗留」 とあ り、
信長は (守山)か ら志那街道を進み琵琶湖 を渡 り、
三井寺か ら入京 したことが分かる。
比叡 山で な く三井寺 に入 ったの は、天文五年
( 1 5 3 6)
の 「山 ・国議定」で、 山門 と六角氏 は運 命共同体 となってお り、信長の敵だったか らであ る。 永禄十一年( 1 5 6 8)
十月、足利義昭が征夷大 将軍に宣下 された後の論功行賞で、義昭 より (畿 内一国) をと言われたのに、信長は泉州 (堺) と 近江の (大津 ・草津の代官識) を願 った。信長は 当時の近江におけるヒ ト・モノの流通する経済の 中心地 ・港市坂本や、幹線道路の志那街道や 「山 中越 え」には手 も触れ られなかった。信長は京都‑の交通路 を確保 した とは言 え、入 手で きたのは当時の幹線道路か ら外れた大津 ・草