◎論説華僑・華人研究の視座と方法
劉亨購と葉飛二人の﹁華僑将軍﹂
華僑の事例的研究の一方法として高橋五郎
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華僑・華人研究と資史料
中国人血統をもつ人びとをその血縁︑地縁などの濃淡︑
国籍の帰属先やアイデンティティなどによって華僑・華人・
華喬とする分類法は︑これまでの華僑・華人研究の前提と
して合意されている︒そのもとで︑居住地で育んだ彼らの
政治的︑経済的︑文化的︑社会集団的活動の実態とその性
格付け︑そして中国との関係を動態的に観察するという流
れが︑華僑・華人研究者の国籍を超えた研究姿勢として見
られるところである︒多くの華僑・華人をめぐる論考は︑
一九七〇年代以降に展開された華人企業の成長を背景とす
る﹁華人企業研究﹂を除けば︑華僑・華人・華喬について︑ 人生の傍らにあって︑その規定的ないしは﹁副規定的﹂役
割を担うその国や場所の歴史的条件を見ながら︑個人史的
考察を行うということはまれであった︒しかしこのような
考察法は華僑・華人研究のモノグラフ法として定立させる
ことができるはずであるが︑従来は華僑・華人・華商といっ
た類型を強調するあまり︑具体的な個人の多様なあり方を
括ってしまうことで︑彼らの生き様を踏まえた抽象化作業
を行う視点の成長を抑えてきたともいえる︒この抽象化作
業は︑華僑・華人・華喬といった類型法を再検討し︑ある
いはそこに︑別の意味を与える契機となるかもしれない︒
ただし本稿は︑そこまで敷術することはできない︒
従来︑具体的な個人史的な事例考察がそれほど多くなかっ
たのには︑方法的視角の自律的拡大が十分な段階に達して
劉亨購 と葉飛 二 人の 「華僑将軍 」 67
いなかったことと並んで︑別の理由がある︒もちろん︑両
者は相互依存関係にあることは否定できないが︑もう一つ
の理由はモノグラフ研究を行うに必要かつ十分な資史料の
発掘とその整理が壁となっていたことにある︒華僑・華人・
華商︑とくに東南アジアに移り住んだ者達の場合は︑記録
媒体つまり紙や筆記具が十分でない場合があり︑記録され
たにしてもその保存期間・寿命は永くない場合が多い︒そ
の上に︑記録自体もけっして多くはない︒言い換えると︑
一次資史料の確保は容易でないということである︒それは
時代を遡れば遡るほど︑容易ではない︒もちろんそれは︑
当人の社会的地位や影響力によっても異なる面はある︒
庄国土は﹃華僑華人与中国的関係﹄(広東高等教育出版
社︑二〇〇一)[1]で︑次のようにいう︒﹁従来の華僑華
人と中国との関係を研究する場合︑資料の不足から大多数
の研究者がとってきた方法は巨視的な把握と推論で︑実証
研究は少なかった︒個別事例を対象にとりあげて分析する
方法は数量的統計分析より重要なのである︒最近になって
研究者の拡大や研究資金の増加に伴って︑フィールドワー
クによるモノグラフ調査を採用する研究者がますます増え
っつある︒詳細に探索された実証資料を基礎にした分析に
よる論理展開はこの分野ではより有効である﹂(弓゜刈)︒
ところが︑記録媒体の限界があるもとでは︑モノグラフ
的考察の意識や必要性は認められているにしても︑実際は できないことが少なくない︒この意味での制約を条件とし︑
個人史的な事例研究を行おうとすれば︑断片的な資史料を
寄せ集め︑あるいはすでに加工された資史料を検証しなが
らリサイクル利用し︑全体像の構築を試みる以外にない︒
ここでいう検証作業は重要な役割を担っている︒資史料の
限界や加工資史料がもつ問題を最少に止めるには︑一つの
出来事や事象を複数の資史料に当たること︑あるいは同じ
ことについて角度を変えて見ること︑が必要になる︒
本稿ではこのような点に留意はするが︑この点︑つまり
個人史的な華僑・華人・華商研究についての資史料の収集
法や検証法を直接の主題としているわけではない︒本稿が
主題とするのは個人史的な事例考察であり︑これを通じて︑
華僑・華人・華喬といった類型分類のどこに位置するかと
いう問題はあるにせよ︑その違いよりも︑ある個人が生き
た社会の歴史的条件が︑彼の人生をいかに規定するかある
いは副規定的な影響を与えることを実証する点にある︒言
い換えれば︑華僑・華人・華喬の規定を受けるまえに︑彼
らは︑その居住地の中で︑その意識とは別に︑その居住地︑
具体的には国や場所の者となるのである︒落地生根である︒
たぶん︑居住地に着きたての頃︑彼らは中国人としての自
覚をまとっていたはずである︒しかし︑それは徐々に︑居
住地とする国や場所のものに置き換わっていく︒世代が代
わり続ければ︑置き換わったことを意識することもなくな
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り︑原則的には︑逆転することはないというべきであろう︒
本稿はこのような問題意識を持つものであり︑この仮説を
二人の華僑を例に考察する︒
華僑・華人・華商と本稿の立場
本稿が具体的な題材として取り上げるのは︑二人の﹁華
僑革命将軍﹂である︒
一人は福建省南安県の貧しい農民の家に生まれ︑もう一
人もやはり南安県の貧しい農家で生まれた父をもち︑自身
はフィリピンで生まれた男︒生まれた時間には四〇年間あ
まりの差があるが︑同じ風土の血が︑身体のどこかに流れ
ている二人である︒生涯互いを知ることなく︑別々の土地
で︑一九世紀から二〇世紀にかけた激動の時代︑それぞれ
の革命運動に身を投じた二人の革命将軍1ー一人は一八七
二年に生まれ︑若くしてフィリピンに渡りそこで果敢に革
命運動に従事して︑その生涯を閉じた︒一人はココナツ林
が繁るケソン(Quezon)の寒村で一九一四年に生まれ︑福
建省南安県に戻った後︑中国革命に生涯を捧げた男前
者の名は劉亨鱒︑後者は葉飛である︒それぞれの生き方か
ら劉亨贈を"落地生根"︑葉飛を"落葉帰根"といってもよ
いかもしれない︒
劉亨贈は父母を中国人とする華僑一世であり︑葉飛はフィ リピン人を母とし︑自らを帰国華僑と呼ぶ華僑二世である︒
同じ故郷の風土を身体のどこに刻みながら︑劉亨贈は中国
で生まれフィリピンで︑葉飛はフィリピンで生まれ中国で︑
互いがクロスして︑生きて交わることなく︑異なった場所
においてではあるが︑同じ境遇を生きた︒
奇しくも︑劉亨購は葉飛の父︑葉孫衛が生まれた同じ一
八七二年に生まれた︒劉亨贈が生命を賭けて戦ったアメリ
カ軍にフィリピンが投降した一九〇〇年に︑葉孫衛は福建
からフィリピンに着いて︑新しい人生のスタートを切った︒
そして劉亨購の銅像が激戦地跡に建てられた一九八九年に︑
葉飛は七〇年ぶりにフィリピンに帰るのであった︒
劉亨贈の革命は成就することなく終わるが︑時代を隔て
ながらも︑二人の間には歴史が織りなす見えない一本の線
がつながっていた︑といえるのではないかー劉亨購の熱
望したフィリピン独立という夢は︑葉飛が闘った中国革命
と日本軍政の敗北そしてフィリピン撤退という出来事に
よって︑ついに叶えられたという意味においてー︒
もし︑劉亨贈が︑彼の生まれた中国に留まっていたとす
れば︑彼は中国革命に身を挺したであろうか︑また葉飛が
中国に戻らずフィリピンにそのまま留まっていたとすれば︑
劉亨贈に代わってフィリピン革命とその後の独立運動に命
を捧げたであろうか︑という問いを建てることはできる︒
しかしそれに対する回答はむろんできない︒いえることは︑
6g‑一 劉 亨 贈 と葉 飛 二 人 の 「華 僑 将 軍 」
二氏関連年表
劉亨贈葉飛備考
天 七
二・四三九福建省南安県劉林郷岐庭村で出生(一八天七二
父 ︑
孫
衛 ︑
南安県金淘で出生 ︒●天七ニカビテ武器廠で暴動
五六年八月二七日との説もある"Subert,起こる ︒
団αα︒碧他) ︒○天八四
仏 ︑
福州港清朝艦隊全1南安県高蓋仙都村で結婚 ︒滅させる(清朝 ︑仏に宣戦
一八九〇伯父劉元糸とともにマニラ着(中心部の布告) ︒
西方トンドに定住) ︒●穴八五天津条約 ︒台
湾 ︑
福建
一八九二頃反体制運動の動きに触れる︒同じ
頃 ︑
から分
離 ︒ Katipunan(同盟"反体制地下組織)を知●穴八八
米 ︑ 華人排斥運
動 ︒
る︒プロコピオ・ボニファシオ(アンド●一八空寄言琶8結成 ︒
レ・ボニファシオの兄弟)と知り合う ︒○天九三清朝政
府 ︑
海禁策廃
天九六・八三三反スペイン独立戦争勃
発 ︒
三千人の中国止 ︒
人三合会メンバーを連れて参
戦 ︒ アギナ○一八九四清米条約(華人の移民
ルドに認めら
れ ︑
歩兵隊中尉となる ︒
禁 止
) ︑孫文ハワイで興中会
一八染・九アギナルドによ
り ︑
イマスの革命軍武器創
設 ︒
日清戦争 ︒
廠長に任命され
る ︒
●天九六革命
軍 内
部対立
激 化
︒
一八九六⊥○⊥○ビナカヤンでスペイン軍と死闘し勝
利 ︒
ホセ・リサール処刑 ︒
一八九六・=・九スペイン軍猛反撃開
始 ︒
戦場で素手で戦
闘 ︒ 功労を認めら
れ ︑ 司令官に昇
進 ︒
穴九六・三三五武器不足によ
り ︑ 武器廠で武器製造を命
ぜられる ︒
天九七三スペイン軍猛攻 ︒
穴九七・三
三 一二で革命会議開催テジロスアンレェド・︒
ボニファシオ不信
任 ︑
将軍職解任決議 ︒
少佐に昇進(ルイス・デリーは二二日説) ︒
一八九七・四アギナルド ︑アンドレ・ボニファシオ兄
70
弟派の逮捕を劉亨購らに命ず
る ︒
一八八七・四三六劉亨贈らアンドレ・ボニファシオ兄弟を
逮
捕 ︒
一八九七・五⊥Oボニファシオ兄弟死刑判
決 ︒ アギナルド
が亡命を指
示 ︒
その
後 ︑
戦況悪
化 ︒
一八 九
七・五末アギナルド
軍 ︑
軍本部のカビテを撤退 ︑
ビアック・ナ・バトへ移動 ︒
天九七⊥○末劉 ︑中央ルソンのゲリラ戦からビアック・
ナ・バトへ合流 ︒大佐に昇進 ︒
一八九七・=∴ビアック・ナ・バト革命政府樹立 ︒フィ
リピン初の憲法制
定 ︒
劉署
名 ︒
一八九七・三⊥四革命軍政
府 ︑
スペイン現地政府との間に
〜一五ビアック・ナ・バト休戦協定締結 ︒アギ
ナル
ド ︑ 劉らを伴い香港へ亡
命 ︒
天九八÷二四香港着 ︒○穴九八戊戌の
変 ︒
一八九八・五・一九アギナル
ド ︑ アメリカ軍籍船で香港から●
天 九
八 ・⊥五スペインアメリ・
帰
国 ︒
力戦争 ︒マニラ湾でアメリ
一八九八・六
劉 ︑
香港から帰
国 ︒
力勝利 ︒
天 九
八夫・三カピテ・カウイテでフィリピン共和国独
立宣言式典 ︒劉
は ︑ 中国人相手に政府資●穴九八人アメリカ軍マニラ
金調達交渉のため臨席でき
ず ︒
占
拠 ︒
天九八・七・六中国人商人から二千ペソを政府資金とし●天九八・九
米 ︑
華人排斥法施行
て調達 ︒(華人の比国入国原則禁
天九八・九三六准将に昇進 ︒弁髪を切
る ︒
止) ︒
天九八←O・三アギナルドに命じられ ︑一万ペソの現金 ︑
天九八・=・一四
薬 ︑
食
料 ︑
衣
類 ︑ 軍服などを調達するた
め ピコランデ ィアへ出発 ︒ ピコ ール州へ ︑ 政府 資金調達のため派遣
凡例"●フィリピン
○中国
劉亨賂 と葉 飛 二人の 「華 僑将軍」
7夏