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みゆき通り報告書 構成案について

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Academic year: 2021

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第2章

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第2章 本地域の概況

1.本地域の現況

みゆき通り街づくり委員会の活動エリアとしてのみゆき通りは、中央区日本橋地域に位置し、 みゆき通りから江戸桜通りまで、両国橋から常盤橋までという、全長約2kmにおよぶ通り である。 みゆき通りは、大正 12 年の関東大震災後の復興視察の際、昭和天皇が現在のみゆき通り(御 幸通り)を通り、築地の方に行かれたということから名前の由来がきている。 みゆき通りは、その場所場所で多様な顔を持つ通りである。 西端の大手町に近いエリアは、日銀等もあるオフィス街である反面、三越等、デパートや昔 ながらの商店、飲食店が建ち並ぶエリアでもある。 また、昭和通りを過ぎると、繊維会社・問屋が多く立ち並んでおり、昔の繊維問屋街を彷彿 とさせるエリアとなる。しかしながら、昨今は、オフィスや集合住宅もどんどん進出しつつ あり、東京の中心でありつつも、下町風情の残るこの地域に住んでみたいという人々が増え つつあることが伺える。 更に、清杉通り周辺は、北側は日本橋馬喰町・横山町等の日本を代表とする問屋街の集積、 南側は、薬研堀不動尊や薬研堀商店街等があり、問屋街や下町の雰囲気を味わうことができ るエリアである。 そして突き当たりの隅田川は、東京における代表的な川であるとともに、周辺住民や就業者 の憩いの空間となっている。 本調査では、江戸開府からの永い歴史の一部分を間違いなく担ってきた、そして街を歩く 人々やまちの姿、形は変わっても、現在も多面的な顔を持ち、秘められた魅力あふれるみゆ き通りとその周辺地域を対象エリアとして調査することとした。 3

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2.本地域の歴史

この地域(江戸)の歴史は、徳川家康が江戸城に入城し、1603 年の江戸幕府開府とともに はじまったと言える。家康は着任後、さっそく江戸の街づくりに着手し、江戸城と外堀の整備 や、江戸の水運を活かした水路の整備等が行われた。 馬喰町には、郡代屋敷をはじめ、名前の由来とも言われる初音の馬場があり、馬の勢揃いが 行なわれたり、馬市が立ち、大伝馬町、小伝馬町は伝馬用の馬の供給場所となっていたが、1604 年に五街道の制が誕生し、馬喰町は宿場町として宿屋がずらりと並び、奥州街道から江戸にく る人々が立ち寄るための旅宿街として発達していった。 横山町は、馬喰町の旅籠屋の宿泊客向けに商品を売る問屋がどんどん増加していき、地方か ら江戸に来た人々は、馬喰町の旅籠屋に宿泊し、品物を仕入れて、また自分の国に帰って行く という、問屋と宿屋がうまくタイアップした形で地方の人々をこの地域に引きつけることに成 功し、それが一大問屋街の形成に繋がっていった。 日本橋には、幕府の御用を務めた御用職人や御用商人が多く集まり、大伝馬町や小伝馬町は、 木綿や布地太物類を手広く扱い、のちに反物・呉服地、特に和服の裏地を扱う一大木綿問屋街 として、掘留町や小舟町は、大小商店や材木問屋、扇子問屋や諸国物産をあつかう船荷問屋等 が集積する町として明治以降も発展していった。 こうして発展していったこの地域も、歴史上、数々の大火にあい、1657 年の明暦の大火では ほとんどが焼け野原になってしまい、多数の被害者を出すこととなった。幕府は、幕府転覆を ねらう武士達が川向うから来る危険を警戒して隅田川に橋を架けない方針だったが、この被害 を重く見て方針を変更し、隅田川に橋を架けることとした。 そしてその橋は、隅田川を境に武蔵と下総の間に分かれていた2つの国(両方の国)を結ぶ橋 という意味で「両国橋」と呼ばれ、これが橋の名前になったと言われている。 両国橋のたもとには、火除地として広小路ができたが、通常、空地にしておくのはもったいな いので小屋の設置を許可したところ、様々な見せ物小屋や水茶屋、喰べ物見世、揚弓場等の小 屋が軒を連ねるようになり、勤番の各藩の武士や商人や職人、地方から江戸見物に出てきた人 等も集まり、一大娯楽場・盛り場に発展していった。 また、柳橋のたもとは船宿と共に有名な柳橋花街で、江戸両国の花火大会時には毎回大変な人 出となり、その繁栄は柳橋の料亭、船宿と共に、明治以降も続いた(江戸両国の花火大会は、 幾多の中断等を繰り返しながら復活し、昭和37年に場所を川上(浅草)に移し、名称を隅田 川花火大会と変え、現在も続いている)。 遊郭元吉原は、現在の人形町から富沢町にかけて形成されていたが、大火を機に浅草へ移り、 日本橋一帯は更に町屋となって広がり、商業地として抜きん出て発展していった。 7

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江戸の人口は、中期以後 100 万とも 110 万人ともいわれ、この膨大な人口を支える物質の 供給は、大量輸送のできる海上、河川運輸に頼っていた。このための運河や河岸が幾つとなく 設けられ、なかでも日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀の河岸は水運の大動脈ともいえる要 路だった。日本橋川につながる船入り堀には塩河岸・米河岸・小舟河岸・堀留河岸があり、米 穀類や塩物・乾物類の問屋倉庫が白壁を見せて並び、室町 1 丁目から小舟町にかけての日本橋 川に沿った一帯に魚市が立ち、大いに賑わっていた。 江戸時代の柳橋 明治初期の柳橋 両国橋と両国広小路(手前) 両国橋花火大会 江戸時代の隅田川(柳橋付近) 明治頃の伊勢町米河岸 8

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明治になると、両国広小路にずらりと並んだ見せ物小屋や茶屋等は町屋へ変わり、商店が軒 を連ねる市街へと変貌していった。しかし、市街になっても賑やかさは変らず、柳橋附近の花 街の盛況と共に、益々発展していった。 明治 15 年(1882)には、日本橋室町から本町通りを通り、大伝馬町を抜ける通りに日本橋 からの鉄道馬車が開通し、引き続き大伝馬町は、木綿やその他の問屋街としてますます繁栄し ていった。明治 37 年(1904)に日本橋室町から小伝馬町の大通りを電気鉄道(後の市電・ 都電)が開通して鉄道馬車が廃止されると、繁栄は大伝馬町から小伝馬町側に移っていった。 小伝馬町は、江戸時代以来の伝統を継いで衣類や繊維問屋が多く集積し、小伝馬町から馬喰 町の中間にある鞍掛橋の龍閑川運河には、繊維問屋や金物問屋の蔵が並び、運河から舟に積ん だ物品を荷揚げする河岸場は、大いに賑わいを見せていた。 堀留町は、明治維新により外国との通商条約が結ばれると、洋鉄が輸入されるようになり、量 も次第に増加していったが、当時の外洋船は開港地の横浜までしか入らず、東京まで輸送する のには、もっぱら艀を利用していた。明治 5 年の新橋から横浜間の鉄道開通後も、輸送賃は船 運の方がはるかに安いので、東京湾から隅田川に入り、それから堀留河岸に向かうのが鉄・銅 などの金属原料の搬入順路となっており、戦前頃までは鉄や銅を中心とした金属問屋の集中す る街として名が知られていった。 馬喰町は、明治になってもまだまだ商人たちの旅宿の町といった江戸の面影がつづいていた が、一方で、横山町はどんどん問屋街として急成長し、市区改正で浅草橋へ行く道がひろがる につれて、問屋街は馬喰町へとのび、背中合せで、互いに発展していった。しかし、大正3年 の東京駅の開業を契機に、宿屋はどんどん問屋へと変わっていき、横山町と馬喰町は、更に一 大繊維問屋街として大きく発展していった。 9 小伝馬町を走る電気鉄道 明治37年の両国橋 大正初期の日本橋魚河岸

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大正12年9月1日に起こった関東大震災は、首都全域に激甚な被害をもたらし、日本橋地 区は全滅するという大惨事となった。この結果、日本橋の魚河岸は築地に移転し、大伝馬町の 木綿問屋は甚大なる打撃を受け、その後復興したものの、昭和 20 年(1945)3 月 10 日未 明の東京大空襲で再び全焼し、木綿問屋の町は、その永い歴史に終止符を打った。 震災復興した横山町・馬喰町は小間物を中心とし、東京一の問屋街へと飛躍的な躍進を遂げた が、昭和の大不況が問屋街をも襲い、掛売りで期日がきても支払えない小売り屋が続出し、そ れとともに「現金安売り問屋」の看板をかかげる問屋が多くなっていった。 江戸通りには市電が通行し、日本橋や上野(台東区)方面への交通の便も良く、江戸時代には、 伝統工芸である箪笥職人や町駕籠職人が多く生業についていた小伝馬町も、江戸通り沿いにミ ルクホールやカフェ・飲食店が軒を連ね、繁華街として賑わっていった。 堀や川が通り、物資を運ぶ舟の運行に便利なその地の利が江戸有数の問屋街たる所以だった 小舟町も、昭和 3 年、震災後の区画整理により堀留川が埋立てられ、街の姿も一変してしまっ た。 このような大規模な震災復興事業により街の区画、町名等も一新し、昭和通りなど新たな道路 も建設され、ほぼ現在の街の形が形成されていった。 震災後の人形町の焼け跡 ⑨両国三丁目 ⑧竪川 ⑦千歳一丁目 ⑤久松警察署 ⑥久松小学校 (昭和 52 年架替前の橋) ③浜町公園 ④明治座 ①隅田川 ②新大橋 東京大空襲後の日本橋周辺 10

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戦後、大伝馬町は、木綿問屋の伝統を継いで繊維問屋が復興され、横山町・馬喰町は、掛売 り問屋もかなり回復して、現金問屋と入り交りながら問屋街として目覚ましく発展していった。 震災後、繊維問屋や金物問屋の町として繁栄してきた小伝馬町は、昭和20年(1945)の東 京大空襲で再び町域のほとんどが焼失した。しかし戦後の復興は早く、和装小物問屋が集積し ていたが、次第に会社組織に替える店が多くなり、平成年度に入ると急速にビル街に変わって いった。 小舟町や堀留町も、昭和24年の東堀留川の埋立てにより、かつての街の面影は姿を消し、 東日本橋地域も含め、戦後の流通経済の変化などにより、大小企業のビルが林立するビジネス 街に変わっていくこととなる。 鉄道に関しては、昭和37年に都営1号線の東日本橋駅が開設、昭和 39 年(1964)に営団 地下鉄日比谷線が人形町通りに沿って開通し、小伝馬町駅が開設、昭和 47 年にはJR馬喰町 駅がそれぞれ開設され、それにともない、昭和 44年(1969)、神田岩本町(千代田区)から 小伝馬町を通り、水天宮前に至る 21 系統の都電は廃止となり、街の姿もそれとともに変わっ ていくこととなった。 11 昭和初期の横山町 昭和初期の薬研堀商店街 昭和 47 年馬喰町駅開設時

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3.本地域の変遷

1603 年に幕府を開いた徳川家康は、さっそく日本橋の街づくりに着手し、江戸城と外堀内 の整備が行われた。神田山(駿河台)の土を掘りくずして豊島の洲崎が埋め立てられ、浜町の 辺りから南新橋に至る隅田川に沿った一帯ができあがり、日本橋、京橋などの町人地は慶長 10 年(1605年)頃には完成していたと言われている。 また、江戸の水運を活かし水路の整備を進め、その後は街を縦横に走る水路を活用して様々 な物資が運ばれるようになり、江戸が水の都と言われる所以にもなっていく。 しかし、この地域は、歴史上、数々の大火にあい、特に 1657 年の明暦の大火では、ほとん どが焼け野原になってしまい、幕府は大規模な復興事業に着手し、1661~72 年頃までに新し い区画による江戸の市域が完成した。 明治になると新政府は中央政治機構の改革とともに町政の改革を急ピッチで進め、明治 11 年、 郡区町村編成法の施行に伴い、東京府内に日本橋区、京橋区等、15 区が置かれ、中央区として 合併するまで約 70 年間、日本橋区、京橋区の 2 区の時代が続く。 道路整備や鉄道等の整備も行われ、本地域は町人街としてどんどん発展していったが、大正 12年9月1日に起こった関東大震災は首都全域に甚大な被害をもたらし、日本橋地区もほぼ 全滅した。 壊滅的な被害をうけた東京は、震災直後から「帝都復興事業」という名の都市計画によって 復興が始まった。この事業は、国が幹線道路・河川運河の改修、一部の土地区画整理などを行 い、東京府が主に市域外を、市域内の事業はすべて東京市が行った。その中で最も大きな事業 は「土地区画整理」であり、対象区域は、消失区域の麹町、神田、日本橋、京橋、芝、本郷、 下谷、浅草、本所、深川の10区約 3005 平方キロで、この区画整理により、東京の市街地が 大改造され、現在の東京の原形がここに見られる。 関東大震災後、再びこの地域に打撃を与えたのは、大平洋戦争時の東京大空襲で、戦災跡の 焼跡の焼け土(残土)の量が甚大で街の復興を妨げていたため、東京都は、残土で手近な水路 を埋めるのが合理的と判断し、浄化の困難な川を残土で埋め立てて土を造成し、それを売却し て事業費を捻出する方という法をとった。こうして、昭和24年度までに大小様々な川が埋め 立てられていった。 また、各地域で川が消失していったもうひとつの理由は、昭和39年の東京オリンピックの 開催で、新幹線や高速道路等の建設が急ピッチですすめられたが、高速道路建設の用地は公共 用地利用が原則とされたため、用地買収の必要のない川の上の空間が利用され、日本橋のまち から、ますます川が姿を消していくこととなった。 このように永い年月を経て、途中、何度も壊滅的な被害をうけながらも、日本橋のまちは、 そのつどたくましく復興しながら、まちの姿を変えていった。 12

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■関東大震災による延焼の推移 PM2時 PM4時 PM6時 PM8時 AM0時 9月1日 9月2日 AM4時 ■関東大震災による火流の方向図 15 通行不能の橋 火元 飛び火 下流曲線

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※かつてはかなりの人数が居住していたことが伺えます(江戸時代はもっと?)。 以前は減少傾向だった人口も、最近は若干、増加傾向に転じています。 ■帝都復興事業の区画整理前と整理後の町割り比較 0 50,000 100,000 150,000 200,000 250,000 300,000 大正 9 昭和 22 昭和 25 昭和 28 昭和 31 昭和 34 昭和 37 昭和 40 昭和 43 昭和 46 昭和 49 昭和 52 昭和 55 昭和 58 昭和 61 昭和 64 平成 4 平成 7 平成 10 平成 13 平成 16 ■中央区の人口推移(大正9年~) (人) 16

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4.本地域の特徴

本地域は、江戸時代初期に最も早く開発された土地であり、また、様々な交通(路)の結節 点でもあるため、全国から様々な人が訪れ、また、浅草、秋葉原、神田、日本橋、銀座など、 日本を代表とする特徴を有する都心エリアと、近年水辺環境の改善が著しい隅田川に囲まれた、 恵まれた位置環境にある。 かつて大伝馬町は、旧奥州街道を中心として現在の銀座通りに匹敵する商店が林立し、江戸 中期には、全国の江戸店(えどだな)が集中する街であり、日本橋小舟町は、紙、竹、鰹節等 の海産物が集積する街として発展し、商売による余剰資金は、この街に初めての両替商を生み 出した。 明治維新以降もこの発展は続き、初めての民間金融機関である、安田銀行(現みずほ銀行)が この街から生まれた。 また、日本橋馬喰町、日本橋横山町、東日本橋、日本橋堀留町は、江戸開府以来、その地の 利を活かし、江戸の繊維製品の一大消費に対応するための商店が続々と誕生し、江戸・明治・ 大正・昭和と栄華を極め、関東大震災や第二次世界大戦等、二度の災禍をくぐり抜け、我が国 の繊維産業をリードする街となった。 しかし、高度成長を終えた我が国の経済構造は、この街の構造も激変させ、アパレル産業の 中心は他地域に分散し、それとともに、各街基幹商品も拡散していき、平成初期に起こったバ ブル経済の崩壊は、この地域の様相を激変させ、繊維街は壊滅的な打撃を受けた。 更に、金融機関による地域企業に対する融資は不良債権化し、安易な不良債権処理等にもよ り、街の商店は次々とマンションへと建て替えられ、問屋街・商店街としての街の様相も徐々 に変わっていくこととなった。 このように本地域は、かつては江戸城周辺の武家エリアと隅田川との間に展開された江戸下 町の代表エリアであり、江戸・東京発展の基となった生活、産業、文化が一体となった町人・商 人の職住融合の街であった。「大手町、丸の内、霞ヶ関」等の国策型の街づくりとは対照的に、 江戸や全国の庶民により継続し発展してきた街であり、永い歴史を経て、まちの姿・形は変貌 しているものの、現在でも「衣・食・住・金融」の日本最大の中心街であることに変わりはな い。 17

参照

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