取次ぎ依頼をする J. M. Ferris の手紙
(1867 年 4 月 16 日 New York)
布施田 哲 也
はじめに
新島七五三太が 1867 年 3 月 29 日アンドーバーより日本に出した書状(以 下手紙と記す)1)は、元膳所藩士粟津高明の手によって 1867 年 7 月 18 日 (陰暦 慶応 3 年 6 月 17 日)父親新島民治の許へ届けられた。これは、海外 から初めて家族に届いた新島の手紙として有名であり、北米の暮らしを伝え る貴重な記録になっている。手紙を届けた粟津高明は、父親からの返書2)を 受け取り横浜へ戻り、その後 1867 年 10 月 15 日にアンドーバーで新島が受 け取ったことがわかっている。 1864年に箱楯より脱国して、3 年後に初めて父からの手紙を受け取った新 島七五三太の喜びは大きかったと思われる。新島の手紙の受け渡しには、横 浜に在住していたオランダ改革派教会のブラウンやバラの関与があったこと が従来から推測されていたが詳細は不明であった。Reformed Church in America関連のアーカイブスが納められているニュー ブランズウィック神学校 Gardner A. Sage Library の史料の中に 1867 年 4 月 16日付のブラウンあてのフェリスの手紙があった。新島の手紙を同封する ので父まで転送してほしいという依頼が書かれていた。この手紙の紹介、当 時の郵便状況、1874 年の新島の帰国までのオランダ改革派教会と新島の交 流、ならびにアーカイブスの保存の現状も含め報告する。
J. M. Ferris について
(写真 1)John Mason Ferris(1825 年 1 月 17 日−1911 年 1 月 30 日、以下フェリス)は当時アメリカ ・オランダ改革派教会外国伝道局主事であっ た。現代日本でフェリスといえばフェリス女学 園のフェリスであるが、これは父 Issac Ferris と息子 J. M. Ferris の 2 名を記念して創設され た学校である。フェリスはニューヨーク州のオ ールバニ(Albany)に生まれ 1843 年ニューヨ ーク大学、1849 年にニューブランズウィック 神学校を卒業後各地で牧師を務めた。1865 年 からオランダ改革派教会海外伝道局主事となり 多数の宣教師と関わった。またフルベッキ等を 通じて多数の日本人留学生の米国での受け入れの仲介役をしている。有名な エピソードに 1866 年の秋頃フルベッキの紹介状を持った横井小楠のおいで ある横井太平・左平太の 2 名が、ニューヨーク、フルトンストリートにある オランダ改革派教会の海外伝道局を訪れるという場面がある。航海術と大砲 の作り方を学びに来たという両人に、ニューブランズウィックのグラマース クールへの入学を斡旋し生活できるような支援の手配をしたのはフェリスで あった。その後、ニューブランズウィックでは薩摩藩の密航海外脱出組を始 めとする日本人留学生を大勢受け入れていった。1872 年 7 月 31 日に岩倉具 視ら岩倉使節団 20−30 名がアメリカ聖書教会を訪問しているが、この招待 案内をしたのはフェリスである3)。このため『日本人留学生の父』といわれ ることもある。岩倉使節団一行が渡米した際の 1872 年 8 月 5 日ボストンに て、岩倉具視、大久保利通より感謝状が贈られている4)。 写真 1 フェリス (フェリス女学院資料室蔵)
フェリスの手紙(1867 年 4 月 16 日)
今回見つかった手紙は 1867 年 4 月 16 日付けでオランダ改革派教会海外伝 道主事のフェリスより横浜のブラウンあてにニューヨークより出された手紙 で 4 枚にわたっている5)(写真 2)。 その手紙の冒頭で、同封した新島の手紙を父の元に届ける依頼をしてい る。以下、冒頭部分を示す。New York, April 16th, 1867 Rev. S. R. Brown
My Dear Brother : Joseph Nee Sima, whose letter to his father is enclosed, has been led by marked Providence to accept the truth, and by the same Providence
was led to Boston, where Mr. Hardy took him up and sent him to Andover for an education. Nee Sima’s purpose is to go back and declare the gospel to his countrymen in due time. He has not heard from his father for 4 or 5 years. He is anxious that his letter should reach his father. Will you be so kind as to do what you can in forwarding the communication.(以下略)
「日本語訳 ニューヨーク 1867年 4 月 16 日 ブラウン師へ
親愛なる兄弟、ジョセフ新島(Joseph Nee Sima)からの父あての手紙を 同封します。彼は主の御心に導かれて真実を受け入れ、同じ御心によってボ ストンへ赴き、その地でハーディ氏に引き取られ、教育を受けるためにアン ドーバーへ送られました。新島の目的は、やがて日本に帰国し、日本人に福 音を宣べ伝えることです。父親との連絡は 4−5 年にわたって途絶えており、 彼はこの手紙が父親に届くことを大変切望しています。どうか、この手紙を 転送する労を取って頂けないでしょうか。」 自分の手紙に、新島の手紙を同封するので、父親の元に手紙を届けてほし いとフェリスはブラウンに依頼している。
ブラウン宅の火事(1867 年 5 月)
このフェリスの手紙はブラウンあてであり、 6月 30 日には横浜に着いていたことが他の手 紙よりわかっている。この手紙が横浜に着く前 月の 5 月横浜のブラウンの家が火事になり、ブ ラウンの家族はアメリカへ一時帰国している。 The Daily Japan Herald の 1867 年 5 月 27 日の 記事に、5 月 25 日サンフランシスコへ出港し たコロラド号の乗員名簿の中に S. R. Brown, wife & daughterとの記載があり家族 3 人で横 浜から帰国の途についていた6)(図 1)。この手図 1 ブラウン出国記事 (The Daily Herald 1867. 5. 27)
紙は J. H. Ballagh が読むことになる。
J. H. Ballagh について
James Hamilton Ballagh(1832 年 9 月 7 日−1920 年 1 月 29 日、以下バラ) は 1861 年に来日したアメリカ・オランダ改革派教会派遣のアメリカ人宣教 師である。バラはラトガーズ大学卒業後、ニューブランズウィック神学校で 学んだ。神学生時代に、ブラウンの日本宣教の話を聞いて感銘を受け日本へ の伝道来日を志願した。来日後は、ヘボン、ブラウンと共に横浜で伝道の足 がかりとなる仕事をおこなっている。彼等はまず横浜で英語の私塾を開き、 同時にキリスト教の開拓的伝道への準備を始めた。1868 年 5 月には現在の 横浜海岸教会が所在する場所に、石造りの小会堂を建設した。 また 1872 年に日本ではじめてのプロテスタント教会である横浜海岸教会 を作っている。ブラウンやバラの英語の私塾には、幕府の役人や薩摩藩の武 士などが英語を習うと共に、西洋の書物を通じて西洋の諸制度等を知ること ができる場所にもなっていた。バラは横浜バンドの基礎を作り半世紀以上に わたって日本に滞在し広く伝道をおこなった。
バラの手紙(1867 年 7 月 12 日)
フェリスの手紙が横浜に着いたときバラは横浜にいて、ブラウン不在時の オランダ改革派教会の窓口となっていた。バラがブラウンあてのフェリスの 手紙を読んだことは、1867 年 7 月 12 日のフェリスあての手紙の中で新島の 手紙の報告をしていることからわかる。フェリスからの依頼に応えているこ とを報告している。 以下 フェリスへのバラの手紙である7)(写真 3、4)。 Yokohama July 12th 1867 Rev. J Mason FerrisMy dear Brother
your letter to Mr. Brown of same date endorsing duplicate of letter of Credit & a letter for the parents of Joseph Nee Shima reached 30th ult. I have forwarded the letter to my friend Ajiki in Yedo requesting him to deliver it in person and also to offer his services to bring me an answer to be forwarded to America. I took this
写真 3 手紙(バラからフェリスあて 1867. 7. 12)(横浜開港資料館所蔵)
means of through Mission contact with Nee shima’s friends in the hope he may give them the need of examining the Christian faith and also encourage them to embrace it. To see a letter from a converted youth of this people written to his friends in heathenism is a most encouraging sight. It gives us to feel God’s hand is visible in it of a truth. I feel very desirous of knowing its effects and of sometimes, if possible, meeting with the parents. In any case they have my warmest prayer and I doubt not those of all Christian friends acquainted with this youth & his remarkable history.(以下略)
「日本語訳 横浜 1867 年 7 月 12 日 親愛なる兄弟 フェリス師へ 4月 16 日付けのあなたからの手紙、ニュージャージーの私の友人からの 手紙、同じ日付のブラウンあての手紙と手形の複写、ならびにジョセフ新島 の両親あての手紙を先月 30 日に受け取りました。 江戸にいる私の友人の安食君に新島の手紙を父親へ手渡してもらい、ま た、アメリカに送る手紙を私に届けてくれるよう依頼しました。我々のミッ ションが新島の友人たちと接触する機会を持つことは、新島が友人たちにキ リスト教への関心を呼び起こし、更にそれを受け入れることに結びつく希望 と受け取っています。回心した青年からいまだ神なき世界にある友人たちへ の手紙を見て、これ以上にない励ましを感じています。神の手を目の当たり にするようです。今回の手紙がどのような影響をもたらすのかはとても知り たいですし、また、可能であればいつか新島の両親に会いたいと思っていま す。いずれにせよ、彼らに私から、そして彼と彼の注目すべき経緯を知った 全てのクリスチャンから、心からあたたかな祈りを捧げます。」 ここで記されている Ajiki とは安食銈次郎(後に改名して粟津高明)であ る。新島の父親に息子からの手紙を直接手渡しし、できれば返事ももらった 上で戻ってきてほしいということを粟津高明に依頼したと書いている。ま た、海の向こうから回心した若者の手紙が届いたことが、日本の青年達に良 い影響があるのではないかとの期待を示している。
粟津高明について
(写真 5) 粟津高明(1838 年 5 月 22 日−1880 年 10 月 29日)は元膳所藩藩士である。粟津高明の人 物像については写真と共に以下のように説明さ れている。『粟津高明は天保九年四月二十九日 の生まれで元膳所藩の藩士であったが維新前脱 藩して浪士となり四方に周遊して大いになす所 あらんと志して居た。偶横浜に遊び西洋の事情 を探るの必要を認めたので同所在留の米国宣教 師ヘボン、バラ等の諸師に就き英語を研究し た。』とある8)。新島の手紙がバラの元に届い た当時、英学校にかよっていた。また、ブラウ ンやヘボンとも英語の勉強を通じて交流があっ た。1868 年(慶応 4 年 2 月 7 日)の新島七五三太あての父親の手紙も横浜 にいる安食桂次郎(粟津高明)を通じてバラに渡されている。1868 年 5 月 にはバラによって鈴木貫一と共に受洗している。 粟津高明から新島七五三太あてに出された手紙(1869 年 10 月 15 日)が あり、その中では日曜ごとに聖書を学んでいること、バラと共に英語の勉学 をしていること、中国語訳の聖書を勉強しているものは大部分が仏教関係者 であって非のあるところを探していること、新島氏においては一刻も早く学 業を成し遂げて帰国し御活躍いただきたいという内容が書かれている9, 10)。 粟津は 1870 年より海軍兵学寮で英語を教え、日本独自の教会設立をめざす も 1880 年に病気にてなくなっている。新島の手紙(1868 年 3 月 13 日)に出てくるフェリス
『新島襄全集』にフェリスの名前が出てくるのは 1868 年 3 月 13 日のバラ への新島の手紙の 1 回のみであるが、今回 1867 年のフェリスの手紙が出て 写真 5 粟津高明 (『植村正久と其の時代』より)きたことで、『新島襄全集』にある新島の手紙の意味がよくわかるようにな った。
1868年のフェリスの名前が出てくる新島の手紙の冒頭は以下の通りであ る11)。
A Letter to the Reverend James Ballagh
March 13th/68 Dear Sir,
I am very happy to write a few lines to you.
I understood from Rev. Mr. Ferris, corresponding secretary of Reformed Dutch church, that you are laboring in Yoko-Hama for your Master’s sake. He told me also that he did send my correspondence for home to you. I had its reply from home last December. My father told me, an American gentleman sent my letter to him through his Japanese friend. He did not say that gentleman’s name but I think, he meant of you.
I thank you for your kindness and also for your sending it by such a safe way. I wrote to home about 7 weeks ago. I suppose, it will trouble you also. I have heard a few weeks ago about the civil war in Japan and have been anxious of my home.
Mr. Hunt(who returned from India last fall, stays in Amherst now, and will bound to China through Yoko-Hama)told me, he will carry my letter for home to Yoko-Hama. So I send this enclosure to you once more by his kindness. Be so kind as to send this to home again. If you send it through your Japanese friend please, let my father pay all its expenses. I told my father about your name. If you please, tell him about your residence, its number and name of street. Perhaps, he may come up there and see you. If you see him please, tell him, that I am not his lost child. Please comfort him and tell him that I am studying here to qualify myself to do“my Father’s will.”Explain this phrase to him so that he may know who is my true father. I have my younger brother in a Chinese school in Yeddo.
He is pretty good scholar, but I think, he has not any idea of his Maker. I wish he will become Christian.
「日本語訳 1868年 3 月 13 日 親愛なるバラ師へ あなたに手紙を書くことができて、とても嬉しいです。 オランダ改革派教会の外国伝道主事であるフェリス師より、あなたが横浜 の地で宣教されていることを伺っています。また、私の家族への手紙をあな たに送って下さったことも聞きました。日本からの返事は昨年 12 月に私の 許に届きました。米国紳士が日本の友人を通じて父へ手紙を届けて下さった と書かれてありました。父はその人の名を書いていませんでしたが、あなた のことだと思っています。 ご親切に、また、安全な方法で父に手紙を渡して頂き、本当にありがとうご ざいました。7 週間前くらいに日本に手紙を書きました。こちらもまた、多 分あなたにご面倒をおかけすることになると思います。先日、日本の内戦の 話を聞いたので、家族のことを案じています。 ハント氏(昨年秋にインドから帰国し現在アーモストに滞在中、これから 横浜経由で中国へ行く予定)が私に、家族への手紙を横浜まで運んでくれる と言っています。彼の手を借りて、また家族への手紙を同封して送ってもら います。どうか、もう一度、私の家族までお送り下さい。もし、あなたのご 友人を通じて手紙を送って頂くのであれば、どうか父にその費用をご請求下 さい。父にはあなたの名を伝えてあります。そして、差し支えなければ、あ なたの住所、通りの名や番地を父に伝えて下さい。もしかしたら、父が訪ね て行くかも知れませんので。もし父にお会い頂くことがあれば、どうか、あ なたの息子は道に迷ったのではないとお伝え下さい。私がアメリカで“父の 御心”を行なうに値すべく勉学に励んでいることをお話し頂いて、父を安心 させてやって下さい。そして、「真実の父」が意味するところを説明して頂
ければ、父にもその意味がわかるかも知れません。私には江戸で中国の学問 を学んでいる弟がいます。彼はとても良い学者ですが、創造主については何 も知っていないと思います。私は弟にクリスチャンになってもらいたいので す。」 前年、手紙の取次ぎをしてもらったお礼を述べた上で、父親に費用を請求し てもらいたいことを記載している。自分の弟にも、天父、創造主を理解して クリスチャンになってもらいたいと希望している。この内容は、禁教下の日 本ではとても危険な思想を含んでいると思われる。
ニューヨーク−横浜間の郵便事情
新島は 1864 年に箱楯より脱国後、記録が残っているもので 1865 年と 1866 年の 2 回にわけて日本に手紙を出していたが父には届かず返事が来ることは なかった12)。1867(慶応 3)年の日本では尊王攘夷に関係するさまざまな内 政問題が日本で起きており、海外からの日本人の手紙の取り扱いはとても危 険が伴うものであったことが想像できる。この当時アメリカとの定期的な手 紙や文書の往来記録が残っているものは、外交記録文書、アジア艦隊記録や 宣教師関連の手紙ということになる。バラの手紙には、前便のフェリスの手 紙がいつ着いたか記載があり、1867 年当時のニューヨークから横浜までの 配達にかかる日数がわかる。最短が 54 日、最長が 81 日で平均 2 ヶ月半かか っていた。当時の郵便経路はニューヨークから船で大西洋をパナマのアスピ ンワール(Aspinwall 現在のパナマ、コロン)まで南下し、アスピンワー ルからパナマの間を鉄道で移動する。その後パナマからサンフランシスコへ 船で行き、サンフランシスコから太平洋を横断して横浜へ到着する経路であ る(図 2)。この当時の新聞広告によればニューヨークを 1、11、21 日に出 る便があり、22 日間でニューヨークとサンフランシスコを結んでいたこと がわかる。さらに一例として 3 月 11 日にニューヨークを出航する便にのれ ば、4 月 3 日の日本や中国に向けてサンフランシスコを出航するコロラド号 に連結しているという記載になっている。1867 年 1 月からサンフランシスコ−横浜間の太平洋郵政汽船であるコロラド号が運行された。コロラド号や グレート・リパブリック号がサンフランシスコ−中国間を横浜経由でつな ぎ、サンフランシスコ−横浜間を平均 24 日で結んでいた。郵便はこの太平 洋郵政汽船だけでなくさまざまな帆船等も利用して往来していた。 フェリス経由の宣教師ルートで日本に手紙を送る方法のアドバイスを新島 は誰から受けたのであろうか。フェリスがニューブランズウィックへの仲介 をしている初期の日本人留学生は、1866 年の横井兄弟が上げられる。1867 年 3 月 29 日の新島の手紙では、薩摩藩の武士の一名がたずねてきたことも 記載されており、薩摩藩士より日本への郵便受け渡しについてアドバイスを 受けていた可能性が強いと思われる。薩摩藩の密航留学生で新島のところに も滞在したことがある吉原重俊(大原令之助)、種子島敬輔(吉田彦麿)、湯 地定基(工藤十郎)らから情報を得ていたものと考えられる。これらのなか でも渡米前に横浜でブラウンより英語を学んでいた吉原重俊よりアドバイス を受けた可能性が一番強いと考える。
バラと新島の交流
バラから新島あての手紙は、1872 年 1 月、1873 年 6 月、11 月、1874 年 2 月、3 月の手紙が残っている13)。一方、新島からバラへは 1872 年と 1874 年 に家族あての手紙も同封された手紙を受け取っていることがバラの手紙の内 容から確認できる。バラからの手紙は、新島の家族についての報告と横浜で ニューヨーク発 横浜着 日数 1867/02/08 1867/4/30 81 1867/03/27 1867/6/15 81 1867/4/16 1867/6/30 75 1867/6/8 1867/8/5 58 コロラド号にて到着 1867/8/9 1867/10/23 75 1867/9/21 1867/12/4 74 図 2 ニューヨーク−横浜間郵送所要日数表の伝道の仕事の勧誘の手紙である。1872 年の手紙では、安食君が病気で、 栄養のあるものをさしいれたというバラの記載も見受けられる14)。1874 年
のバラの新島あての手紙では、安食君を“your old friend Ajiki”とも記載し ている15)。バラは、日本ではプロテスタント各派にわかれた活動をせず一体 となって活動していきたいという希望をのべている。 1874年ごろまでは、新島は横浜のオランダ改革派教会グループと京阪神 のアメリカンボードの 2 つのグループより帰国後の宣教の誘いをうけてい た16)。アメリカンボードが新島を日本に準宣教師として帰国させる方針とな り、新島はオランダ改革派教会グループとは次第に距離を置くようになって いった。
Gardner A. Sage Library Archives のデジタル化
ニューブランズウィックの神学校の図書館が Gardner A. Sage Library であ り、ここにはアメリカ・オランダ改革派教会関連の文書が多数収容されてい る。Sage Library の Archivist である Gasero 氏は、マイクロフィルム等の保 存がされているものは一部といわざるを得ず、Japan Mission に関しても後 世に伝えておきたい資料は山のようにあり、できればデジタル化して公開し ていきたいという意向を持っている。しかしながら、保存が重要と考えてい る人は RCA(Reformed Church in America)には多くなく、組織として過去 の記録にお金をかける余裕はないとのことであった。Reformed Church in America関連の資料は、日本では横浜開港資料館、明治学院大学にある程度 はそろっているが、今回のバラからフェリスあての手紙の史料で示すとおり 撮影条件が悪いものも多い。横浜開港資料館の資料は、1956 年に高谷道男 氏がニューブランズウイック神学校で発掘しマイクロフィルム化したものが 元になっていると思われ、当時の技術の問題か条件が悪いものもある(写真 3)。今回 Gasero 氏に依頼して Sage Library に残っているバラからフェリス あての手紙の保存状況を比較する意味で載せているが鮮明で綺麗である(写 真 4)。また国内にはフェリスからの手紙は少なく、バラについては在日期 間も長く活躍も長期にわたっており、フェリスとバラの往復書簡のようなも
のができれば、プロテスタント伝道史にも新たな光が入ると思われる。
おわりに
オランダ改革派教会海外伝道主事フェリスが、当時アンドーバーに居た新 島七五三太の父親にあてた手紙の受け渡しを横浜のブラウンに依頼する手紙 が見つかった。当時日本では伝道は禁じられており、また新島七五三太は国 禁を犯しての海外渡航であった為、手紙が安全に渡されるためには多くの協 力者を必要とした。ニューヨークのフェリス、横浜のバラ、江戸の粟津高明 の協力の下、新島の手紙が初めて父親のもとに届けられたということが、今 回の手紙の発見によって明らかになった。また、フェリスへの宣教師ルート の依頼には薩摩藩の密航留学生である吉原重俊からの助言があったと思われ た。今回の史料があった Sage library の Reformed Church in America 関連の 史料にはデジタル化されていない、もしくは知られていないものが多くあ り、紙の劣化等も考慮すれば Japan Mission 関連のデジタル化を急ぐ必要が ある。同志社の創設者である新島襄と父親との間の初めての手紙の受け渡し にオランダ改革派教会の人々の献身的な援助がより明らかになった。現在の オランダ改革派教会のデジタル保存事業が資金面で立ち行かなくなっている こと、その史料の中には、新島襄関連の未見のものも含まれていると思わ れ、同志社大学による積極的な事業支援も同志社の教育理念でもある「国際 主義」に沿うものであると思われた。貴重な史料のデジタル保存ならびに公 開が望まれる。 今回のフェリスの手紙は、シカゴ在住の畠山義成研究家である村井智恵 が、ニューブランズウイックでの薩摩藩留学生の受洗記録等の調査の際に、 Sage Library の Archivist で あ る Russel Gasero 氏 よ り 提 供 さ れ た Japan Mission関連文書がはいった CD 内より発見した。新島の名前が読み取れる 手紙があるとのことで旧知の新島研究会会員布施田に相談調査の依頼があり 今回の報告となった。資料を提供していただいた村井智恵氏、ならびに手紙 の公開を了解いただいた Russel Gasero 氏の名前を挙げて感謝の意を表す。参考文献
1)『新島襄全集』3 巻 書簡編(同朋舎、1987 年)、pp.31−38. 2)『新島襄全集』9 巻上 来簡編(同朋舎、1994 年)、pp.6−8. 3)Japanese embassy, BIBLE SOCIETY RECORD, 1872. 8. 15.
4)W. E. Griffis, The Rutgers graduates in Japan,(Rutgers College, New Brunswick, New Jersey, 1916).
5)J. M. Ferris’s letter to S. R. Brown 1867. 4. 16(letters to S. R. Brown from the Board 1860−1867), Gardner A. Sage Library, Theological Seminary, New Brunswick, New Jersey.
6)Passengers, The Daily Japan Herald, 1867. 5. 27(『日本初期新聞全集』11 巻 ペリ カン社、1988 年)、p.199.
7)J. M. Ballagh’s letter to J. M. Ferris 1867. 7. 12 The reformed church in America board of foreign missions : Japan mission No.41(横浜開港資料館)
8)粟津高明『植村正久と其の時代』二巻 佐渡 亘(教文館、1938 年)、pp.222− 238. 9)『新島襄全集』9 巻上 来簡編(同朋舎、1994 年)、pp.47−49. 10)写真資料解説 粟津高明より新島先生宛書簡『新島研究』10 号、1956 年.pp.31 −32. 11)『新島襄全集』6 巻 英文書簡編(同朋舎、1985 年)、pp.31−32. 12)『新島襄全集』3 巻 書簡編(同朋舎、1987 年)、pp.21−30. 13)新島襄あて英文書簡集(未定稿)(1) 010 012 016 022 027(同志社大学人 文科学研究所、2007 年). 14)新島襄あて英文書簡集(未定稿)(1)(同志社大学人文科学研究所、2007 年)、 p.19. 15)新島襄あて英文書簡集(未定稿)(1)(同志社大学人文科学研究所、2007 年)、 p.63. 16)北垣宗治「新発見の新島英文資料」、『同志社談叢』34 号(2014 年)、pp.1−33.