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2. 三式潜航輸送艇開発の経緯 2.1. 開発決定まで 42 年 3 月頃 兵器行政本部に対し潜航輸送艇の開発が指示される?( 座談会より ) 43 年 1 月頃 潜航輸送艇の基本設計が完成?( ( ゆ ) 部隊略史 より ) 以上の経緯は明らかにガ島戦の失敗から開発が始まったという記述と矛盾 開発

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三式潜航輸送艇

―陸軍は日章旗を掲げた潜水艇に未来を託した―

東條の人(@Ayukawa_Reiji)

2014 年 6 月 13 日(金) 於早大戦史研究会定例発表

序.三式潜航輸送艇に対する注目と誤解 序.三式潜航輸送艇に対する注目と誤解 序.三式潜航輸送艇に対する注目と誤解 序.三式潜航輸送艇に対する注目と誤解 ‐最近、ブラウザゲームなどの影響によってかつてはマイナーであった「三式潜航輸送 艇(まるゆ)」の存在が周知されてきた。 ‐しかしながら、ゲーム内での性能や用いられ方、また偏ったエピソードの紹介などか ら、ともすればその存在は揶揄の対象となり、また「凄い海軍、駄目な陸軍」という 使い古された枠組みで語られがちなのが現状である。 ‐本発表では、三式潜航輸送艇が建造されるに至る経緯からその実際の運用、敗戦後の 処遇にいたるまでを概観していくことで、そうした誤解を解く一助としていきたい。 1.ガダルカナル島への船舶輸送 1.ガダルカナル島への船舶輸送 1.ガダルカナル島への船舶輸送 1.ガダルカナル島への船舶輸送 ‐三式潜航輸送艇開発の直接的な契機となったのは、ガダルカナル島の戦い。 ‐42 年8月7日に米軍が上陸、20 日には米軍の航空優勢が確立。 ‐ガ島には食料が無い。沿岸にある数箇所の村落はいずれも椰子栽培地で農耕地が無く、 全島の人口は 1 万人程度。現地徴発は期待できないので、糧食は後方から輸送するし かない。 ‐制空権を失った日本側は駆逐艦などの高速かつ運動の自由な艦艇による輸送および増 援を行うことになる(鼠輸送)が、空爆による撃沈や敵航空機の攻撃を警戒しての輸 送中止、敵基地への砲撃中止などが相次ぐ。これにより、陸軍側は海軍への信頼を失 うこととなる。 ‐やがて揚陸のための停泊すら不可能になると、白米をつめたドラム缶を海上に投棄し て現地陸軍部隊が大発で回収する、大発・小発による蟻輸送を行う、中型攻撃機によ る空中補給などが試行されたが、その中でも特に潜水艦を用いた輸送(丸通)は一隻 につき20tから30tの物資を揚陸する成果を挙げた。 ←但し、輸送任務に従事した潜水艦は一定の揚陸地点に到着後浮上することになっ ていたため、待ち伏せされ狙い打たれる可能性があった。そうしたことからも、 前線の潜水艦乗りには輸送作戦に従事することに対し批判的な空気があった。 ‐「制空権無き海面での輸送は特殊船舶によらざるを得ないことが明かになり、陸海軍 ともに鼠輸送専用艦船、又、丸通専用潜水艦の建造に着手することになった」(『陸軍 船舶戦争』234 頁)

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2.三式潜航輸送艇開発の経緯 2.三式潜航輸送艇開発の経緯 2.三式潜航輸送艇開発の経緯 2.三式潜航輸送艇開発の経緯 2.1.開発決定まで ‐42 年3月頃、兵器行政本部に対し潜航輸送艇の開発が指示される?(座談会より) ‐43 年1月頃、潜航輸送艇の基本設計が完成?(『(ゆ)部隊略史』より) →以上の経緯は明らかにガ島戦の失敗から開発が始まったという記述と矛盾 →開発指示は出されていたが、本腰を入れたものではなかった? ‐43 年2月3日、南東方面の陸軍側最高責任者であった今村均中将より現地視察に来た 参謀次長を通じての意見具申 「陸軍で駆逐艦や潜水艦をもって直接補給に使用したい」 ‐ガ島撤退作戦後、今村中将が山本五十六連合艦隊司令長官をトラック泊地に訪問した 際、補給問題に関して潜水艦の協力を申し入れるも断られる。 →「特種潜水艦ノ建造ハ予想セラルル戦況上及船舶損失減少ノ為ニモ急ヲ要スルモ ノト信ゼラルルヲ以テ、中央ニ於テモ海軍側ト交渉セラレ之ガ建造ヲ大幅ニ引上 ゲル様御骨折煩ハシ度」(今村中将より中央陸軍部宛報告) ‐43 年3月5日、荒尾興功大佐による「海洋決戦態勢の確立強化要領(案)」の策定 「一、上陸用海運資材、特に航空接敵地区に於ける補給用資材を速に整備拡充す。 之が為先ず速に、高速船艇、補給用水中輸送船等特殊船艇の大量整備に着手す」 「四、陸軍保有特殊船艇運用に必要なる所要の部隊を編制、装備し、之が教育訓練運 用に任す」 「陸海軍は各々本質と伝統を異にし、其の協同には自ら限界あるは蓋し止むを得ざる ところにして、作戦の基本となすべき需要要素を他に依存せんとするは、動もすれば 作戦の自主、且堅実性を欠くに至るべく…少なくとも航空接敵地区に於ける海洋補給 は陸軍自体に於て担任遂行するを要し、之が為所要兵力並に機関を陸軍自体に於て保 有し、之が教育訓練整備運用に付遺憾なきを期せざるべからず」 ←43年1月に南東方面を視察し、南方戦線では「航空戦と補給線がその主体」で あることを強く認識。海軍軍令部に対し潜水艦輸送を依頼するも、「海軍は米国 主力艦隊との決戦を控えており、絶対に潜水艦を陸軍の補給に使うことは出来な い」との返答を受ける。 2.2.開発開始から一号艇の進水まで ‐同日、陸軍第七技術研究所に勤務していた塩見文作技術少佐が陸軍部第十課(課長荒 尾大佐)に呼び出され、同席していた参謀中佐から輸送潜水艦の建造につき要請を受 ける。 →塩見技術少佐はかねてより物資の潜航輸送についての持論を展開しており、また 西村式豆潜水艇を利用して水中音の伝播状況に関する研究に当たっていたことか ら潜水艦に関して多少なりとも知識を有していた。

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→海軍には内密で建造すること、造船所を使用しないこと、同年9月までに20隻を 建造することなどが主な要件。 →塩見技術少佐は第七技術研究所の長沢重五中将に相談の上この要請を受諾、潜航 輸送艇の開発に取り組むこととなる。 →4 月には『潜航輸送体研究経過の概要』を陸軍部に提出、 ‐日立製作所笠戸工場(下松)、日本製鋼所広島工場(海田市)、安藤鉄工所(東京・月 島)、朝鮮機械製作所仁川工場で建造。 ‐43 年4月 13日より研究は本格化し、同月中旬に開かれた大本営課長会議席上では荒 尾大佐が「伊号特殊艇」という表現で三式潜航輸送艇に対し説明。 →「生産は8月に10隻、18 年度中に200隻努力」「優先順位は航空に次ぐ扱い」。 またこの時点で「海軍に対しては資材、教育等海軍に依存する点多く…今後海軍 との間には多くの研究問題がある」としている。 →以上の報告を受け、陸軍大臣決済で潜航輸送艇建造担当は兵器行政本部、委員長 は造兵部長として生産に着手される。 ‐海軍に対しては当初は秘密裏に建造を進めていたものの、4月に入り軍事課中原茂敏中 佐と第十課原善四郎中佐が海軍省に出向いて説明している。 →海軍軍令部の井村祥二郎中佐によれば、以下のようなやり取りがあったとされる。 「陸軍大臣から輸送用の潜水艦を大急ぎで造れと命ぜられて設計したんですが、 うまくゆかないところがあるので、ご相談にあがったんです」 「そんな計画がおありでしたら、最初から海軍に相談されたらよかったでしょう に。手早く、そして立派な潜水艦が出来たのですが」 「実は、東條さんから海軍に相談するときっと反対されるから黙って極秘でやれ と」 →他方、塩見技術少佐によれば、潜望鏡などを発注した民間の企業から噂が海軍側 に広がり、それならば海軍側も協力しようということで説明するよう要請を受け たということになっている。この点も証言に食い違いが見られる。 ‐同年6月23日、日立製作所笠戸工場にて 1 号艇が起工される。 ‐同年10月15日、1号艇が擬装の80%を終え進水。調整タンク、耐圧船隔、船倉その 他に水漏れは見られなかった。 2.3.1 号艇の進水から船舶司令部への配属まで ‐進水した 1 号艇はトリム(前後左右の喫水)の調整、またトリムを固定した状態での 沈降試験を繰り返し、潜航や浮上をコントロールするタンクの計算を行いながら残り の擬装を終えて完成した。 ‐同年12月8日、1 号艇が船舶司令部に納められ公式試験運転が開始された。 →第一回の潜水試験は、笠戸工場の水深 11mの繋留海面で、海軍潜水学校教官立会

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いの下に、塩見技術少佐の指揮によって行われた。結果は潜水、浮上ともに良好。 →続いて三十六時間連続の水上航走を実施したが、この際には突然艇が傾斜して燃 料パイプが破損し、重油が艇内に流出して艇内圧が上昇したという(『陸軍潜水艦 隊』)。 →同年12 月30日、山口県柳井湾において海軍側人員も臨席の下、陸軍側要員のみ による運行試験が行われた。停止状態から潜航に移る独特の潜航方式を採用して いたため、海軍側は沈没したものと思って「演習中止」などと叫ぶ一幕もあった が、実際には無事に試験を終えたようである(「陸軍潜水艦部隊」ほか)。 3.三式潜航輸送艇の設計思想 3.三式潜航輸送艇の設計思想 3.三式潜航輸送艇の設計思想 3.三式潜航輸送艇の設計思想 ‐排水量:水上273t、水中346t(水上274.4t、水中370.0t) ‐全長49.5m(41.4m) ‐最大速力:水上9.6ノット、水中4.4ノット(水上7.5ノット、水中3.5ノット) ‐水中航続時間:4 ノットで1時間 ‐安全潜航深度:100m ‐水上航続力:1600 マイル ‐積載能力:米24t、兵員40名 ‐乗員:士官3名、下士官兵22名(23 名) ‐基本武装:四式三十七粍舟艇砲 →三式潜航輸送艇の要目については様々な説があり、どれが正確であるかは判然と しない。上記の要目は土井全二郎『決戦兵器陸軍潜水艦』によるものを基本とし、 括弧内に『陸軍潜水艦隊』に引かれた『日立笠戸事業所資料』によるものを併記 した。 ‐専門的な造船設備が整っていない工場での建造を前提としているため、陸上で三分割 して作ったものを軌条上で組み立てて進水する方式を採った。組み立てに際してはリ ベット止めを極力少なくし、耐圧船殻や外殻などほとんどの部分を溶接とした。 ‐耐圧船殻を強くして水防隔壁を全廃し、配管その他を簡単なものとした。 →構造を簡単にして、造船が未経験な工場でも建造できるようにするため。 水防隔壁の全廃については平賀譲と共に艦を建造していたことで知られる仲野綱 吉から「非人道的だ」と評されるが、これについて塩見技術少佐は制空権が無く 救出の見込みが無い状況で乗員の死に長時間をかけるほうが非人道的であること を説明している。また、同時期のドイツ小型潜水艦においても水防隔壁が全廃さ れている例がある。 ‐乗組員が陸軍兵士であるため、操作方法を簡便なものとした。 ‐索敵行動や敵艦の攻撃を目的としていないため、基本武装に関しては四式三十七粍舟 艇砲のみであった。但し、場合によっては九九式軽機関銃や九二式車載十三粍機関砲

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を備えているものもあった。 ‐防音に関してはほとんど何の策も講じられていない。これは前述のとおり索敵行動や 敵艦の攻撃を目的としていないためで、必要があれば沈降して気配を潜めていればい いとされた。また、塩見技術少佐は「その防音装置が必要であれば、すぐにでも出来 る状態にあったから考えないでおいた」と手記に記している。 ‐エンジンには本来井戸掘削用の機関であるヘッセルマン機関を使用した。これはディ ーゼルエンジンよりも馬力あたり重量が小さく、燃料が灯油や軽油で兼用できるとい う利点があったからであるが、同時に調整が難しく、特殊な点火プラグが必要だとい う短所も持ち合わせていた。また、戦争末期になってくると油の質が悪くなってきた ことからエンジンの故障や発煙が頻発した。 ‐要するに「丈夫で安全に動き、量産できればよい」という考えに基づいて設計・建造 されたのが三式潜航輸送艇である。 4.三式潜航輸送艇の乗員教育 4.三式潜航輸送艇の乗員教育 4.三式潜航輸送艇の乗員教育 4.三式潜航輸送艇の乗員教育 ‐43年4月、満洲の戦車第一師団歩兵第一連隊に所属していた矢野光二中佐が広島・宇 品の船舶司令部へ転属となり、矢野を長とした潜水輸送教育隊の編制が命じられる。 →この時矢野以外に 5 名が潜水輸送教育隊として編制されるが、いずれも歩兵ある いは機甲部隊の出身者であり、船舶兵出身者はいなかった。 ‐同年5月、日本郵船の三鍋祐三船長から船舶に関する教育を受ける。 ‐同年6月、西村式豆潜水艇を使用しての潜航練習を開始する。 →この際、6名が同時に乗艇することは禁止され、訓練を受ける際には同時に3名ま でとするように指示された。これは万が一の際に基幹要員が全滅することを避け るようにするためであった。 →この時期には徹底的な防諜策がとられ、作業服に地下足袋という服装で訓練を受 けていた。衛兵に工員と間違えられ、敬礼するよう怒鳴られた事もあったという。 ‐同年7月から大竹海軍潜水学校において教育を実施 →第一回陸軍将校潜水艦講習を7月1日から7月 21 日まで、第二回陸軍将校講習を 8月16日から9月30日まで教育を行った。また、下士官以下の要員約120名の 教育は海軍潜水学校呉分校において昭和18年9月中旬より翌年3月まで行った。 5. 5. 5. 5. 三式潜航輸送艇の運用三式潜航輸送艇の運用三式潜航輸送艇の運用 三式潜航輸送艇の運用 5.1.比島派遣隊 ‐44 年3月初め、まるゆ部隊が比島・マニラ派遣隊編制の打診を受ける →派遣時期は5月末とされる。新造艇2隻が引き渡されるのが5月であり、整備・ 改修や隊員の慣れのための期間も必要であると考えた矢野部隊長は出発期日の延 期を意見具申したが受け入れられなかった。

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‐5 月28日、青木憲治少佐を隊長とする派遣隊が三島を出港 →編制は母艦「第二高周波丸」、三式潜航輸送艇3。参加人員301名。 ‐途中、沖縄近海で 2 号艇が座礁し、海軍の船に曳航されて危機を脱した。その後、台 湾では2号艇、3 号艇が修理のために1週間ドック入りしている。 ‐また台湾の南方海上では 3 艇がばらばらにはぐれ、母艦上にいた青木少佐が丸一日か かって事態を収拾した。さらに時期は不明だが、台湾を出たあたりで米潜水艦に発見 され怪しまれている。 ‐この間、艇長、機関長、航海長の 3 将校にはベッドがあったが、その他の隊員は床の 上に毛布で寝ていた。また、食事は乾パンの携行食料、電熱器で茹でたセロハン包み の米の他、握り飯を母船から渡したこともあったという。水は艇内タンクに備えられ ていた。 ‐7月18 日、予定より 23 日遅れでマニラ港に到着。これだけ苦労してたどり着いたと ころで味方海軍の軽巡洋艦(『陸軍潜水艦隊』では木曾としているが、諸々の事情を鑑 みて大井ではないかという説が現在では有力である)から「汝は何者なりや」との通 信を受け、2 号艇が「帝国陸軍潜水艇なり」「潜航可能なりや」「返答の要を認めず」と のやりとりをしている。因みにここで用いられたのは手旗信号であるとする資料が多 い。軽巡洋艦側がどのような意図を持ってこの質問を発したにしろ、2号艇の植木艇長 は侮辱であると考えたらしい。 ‐マニラでは海軍のキャビテ軍港に全艇を入れて修理した。状況的にレイテへの輸送を 急がねばならなかったが、輸送艇の修理は遅々として進まず、かろうじて航行可能で あった2号艇によって強行輸送が行われることとなった。 ‐12 月20日過ぎ、2 号艇は派遣隊隊長である青木少佐自身が搭乗し、40tの食料、弾薬 類を搭載してマニラを出港した。翌朝マニラ南方 100km の中継地バタンガスに到着し、 夕方に出港したが、まもなく潜望鏡に故障が見つかり引き返している。翌日の夕刻に 改めてバタンガスを出港し、その後セブ島に寄港。バッテリーを積み下ろしたという 説がある。26 日朝、最後の中継地点であるバシハン島に立ち寄り、後部甲板にまで物 資を積載しオルモック湾に強行突入。米海軍の駆逐艦に発見され、指揮官青木少佐、2 号艇艇長植木中尉以下32名が艇と共に戦死した。一方、オルモック湾への強行突入に は成功したものの、帰還時に発見されて撃沈されたとする説もある。 ‐マニラに残った2隻のうち、1 号艇は45年1月2日に北サンフェルナンドのポロ岬港 外で仮泊中のところを米軍機により撃沈。3号艇は1月5日、北サンフェルナンド南方 リンガエン湾沿岸のダモルテス沖で空襲を受け沈没した。残った乗員は陸上部隊に編 入されている。

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5.2.八丈島輸送作戦 ‐45年初頭から5月にかけ、三島を根拠地とするまるゆ部隊は三つの派遣隊をそれぞれ の任地に送っている。 1)伊豆半島先端の下田を基地とする東京派遣隊:6 隻 2)島原半島先端にある口之津を基地とする口之津派遣隊:4 隻 3)長崎・御厨を基地とする御厨派遣隊:4 隻 →以下、東京派遣隊の活動に注目していくこととする。 ‐本来的な目的は硫黄島への補給作戦であり、下田基地から物資を八丈島まで輸送し、 そこを経由地として硫黄島に運び込むという計画であった。故に、まず八丈島に派遣 隊基地を作ることとなった。 ‐しかし、最初に下田に派遣される 2 隻の三式潜航輸送艇が三菱横浜造船所で改修を実 施していた45年2月19日、米軍による硫黄島上陸作戦を開始した。 →2月下旬、先遣隊として八丈島に派遣された14名が輸送船「大美丸」の撃沈によ り戦死 ‐45 年3月4日と6日に8号艇と7号艇が下田に到着し、八丈島守備隊への物資補給を 行うこととなる。8 号艇は八丈島に 7 回、新島に1回輸送に成功している。5 月初旬に は9号艇、12 号艇も集合し、その後14号艇と6号艇も集合して東京派遣隊が勢ぞろ いした。 ‐打ち合わせておいた会合水域に到達すると島陰から大発がやってきてゴム袋に入れた 米を渡すという方式。場合によっては海に流して拾い上げてもらうという方法も。 ‐空襲を警戒して夜間の作業になることが多いが、兵隊としては年配の補充兵が多くて 動作が鈍かったという。輸送貨物は食料や弾薬が多かったが、兵隊からは「弾薬は十 分にある。こんどは軍馬の飼料を持ってきてくれ」という頼みを受けたという。また、 帰りには守備隊兵の遺骨を納めた白木の箱を預かることがあったという。 ‐東京派遣隊の中でも最も目覚しい活躍を見せていたのが8号艇であったが、45 年8月 13日に下田・鍋田浜に停泊していたところを米軍の空爆により撃沈された。 →撃沈時、艇内にいた10名が戦死。現在、下田市の大浦八幡宮の境内に慰霊碑が建 てられている他、捜索・改修された遺骨が東京・千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に納めら れている。 5.3.その他:特に海軍との関係について ‐東京派遣隊の7号艇は三宅島沖で海軍特務艦から2発も砲撃を受けている。 →艇の行動はあらかじめ関係各方面に通達してあった。横須賀鎮守府に抗議を申し 込むも「少しでも怪しい行動のある艦船は容赦なく撃沈せよと命令してあるから、 危険ならば我が艦隊の行動海面に出没せぬことです」とにべもない返答を受ける。 ‐3001 号艇は朝鮮半島沖で浮上航行していたところを日本郵船の貨物船「伊豆丸」(882

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総トン)に激突され、内殻にひびが入り耐圧船体にひずみが生じて教育訓練艇に回さ れることとなった。 ‐岡田少尉の指揮する三式潜航輸送艇は三島基地に帰投する途中、来島海峡に差し掛か ったところで沖縄特攻に向かう戦艦「大和」と遭遇、登舷礼を交わしている。 ‐口之津派遣隊の三式潜航輸送艇は、不時着した特攻機の乗組員や、沈没した大和乗組 員の遺骨を九州南方の黒島から改修して本土に送っている。 ‐本土決戦が近づいてくると、三式潜航輸送艇に斬り込み隊を乗せて敵の上陸地点に奇 襲殴り込みをかけるという案も登場した。 6 6 6 6 .敗戦と三式潜航輸送艇.敗戦と三式潜航輸送艇.敗戦と三式潜航輸送艇 .敗戦と三式潜航輸送艇 ‐戦争末期、部隊は全力をあげて山口県萩及び仙崎付近に進出、釜山との連絡輸送に任 ずべき内命を受け、準備についた。当時三島に在港していた三式潜航輸送艇は 16 隻で、 萩への先発隊が本部前に集合したのが45年8月15日の正午であった。 ‐終戦の詔書が渙発された後、動揺を防止するために部隊は平常どおりの行動を続けた。 翌16日は予定計画に従って教育を実施したが、このために何か密命を帯びているので はないかと憲兵から怪しまれている。 ‐矢野隊長は三式潜航輸送艇 16隻を豊後水道に自沈させることを計画し、8 月17 日夕 方に出発することとしたが、同日船舶司令官から「各地にある三式潜航輸送艇をすべ て三島に集結し、24日夕方までに宇品へ回航せよ」との命令を受領し、それに従った。 ‐これらの艇は宇品に回航された後船舶司令部に引き渡され、米軍によって爆沈処分さ れ、あるいは解体された。下田、口之津の派遣隊もそれぞれ同様に処分された。 ‐マニラ派遣隊のうち、3 号艇は20年2月1日に米軍によって浮揚されて米本国に運ば れている。この艇はのちに真珠湾軍港の奥まった岸壁に繋留され、油タンクとしてし ばらく使用されていたという。また、1号艇は 62 年12 月に日本のサルベージ会社が フィリピン政府の要請を受けて引き揚げている。 6.まとめに代えて ‐口頭でお願いします(現在13日午前2時 59 分)。 参考資料: 海上自衛隊『海軍潜水学校史』海上自衛隊潜水艦教育訓練隊、1996年 土井全二郎『決戦兵器陸軍潜水艦』光人社、2003 年 中島篤巳『陸軍潜水艦隊』新人物往来社、2006 年 松原茂生・遠藤昭『陸軍船舶戦争』戦史刊行会、1996年 若獅子会手記編集委員会『少年戦車兵』若獅子会、1971年 他

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