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』 ま じ め に ﹁密林の聖者﹂と讃えられたシュヴアイツア1(
印 各 当 巳 ROF﹀- Z
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冨缶)は、赤道直下の国ガボンのラ ンパレネで現地人の医療と救済活動に一生をささげたが、本稿では、かれの思想と活動の根底にあった﹁生命への 畏 敬 ﹂ ( 開 宵 昨 日ZS
白骨S
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)
の理念に関わる諸問題について、宗教教育学の視点から考察を試みてみたい。 かれが活躍した時代と今日とでは文化的状況もかなり違っており、また今日では医療技術や生命科学の急激な発 かれが到達した﹁生命への畏敬 L の理念は倫理と医療の領域にかぎらず、宗教教育の方法を考 展 は あ る け れ ど も 、 える上でも重要な原理を含んでいると思うからである。とくに今日、 の理念はあらためて見直されるべきである。しかし、 さまざまな生命軽視の風潮が見られる中でこ シュヴァイツア1
の﹁畏敬﹂概念に問題がないわけではない の で 、 その点についても触れてみたい。 シュヴアイツア1
の世界観と人生観、かれの倫理観と宗教観、かれが若い頃影響を受けたジン メル(巴B B
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の﹁生の哲学﹂やゲ l テ ( のo
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ルジュナ ︿ ぎ ょ う(
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削 閃 凶 ユ ロE
龍樹 n -H g -N U O ) が説示した﹁恭敬 L ( 円 。 認 可g
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の心と態度の重要性 について述べてみたい。一
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シュヴァイツア
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の世界観と自己完成の倫理
シュヴァイツアーは自己の文化哲学を四部に分けて構想していた。それは、第一部現代の文化危機とその原因、 第二部倫理的世界人生肯定の世界観、第三部﹁生命への畏敬﹂の世界観、第四部文化国家、というものであっ た まず、第一部は﹃文化の頚廃と再建﹄(
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由 民 同 誌 ぷ 通-g
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内 定 〆E N
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として出版されたが、こ の中でシュヴァイツアーは、十九世紀の哲学が文化(同三宮吋)と世界観(君。︼z
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)
の関係について十分 に考察してこなかったために文化の類廃が起きたといい、われわれは﹁真の文化理想を含む世界観に到達しなけれ ばならない﹂と強調しているのである。そもそも学問・芸術・技術などの文化は何によって成り立つのか、またそ の基底をなすものは何なのかについて論じている。同時代人たちは、文化とは、人間の発展過程における﹁生 L ( 円 。σ g
)
の自然な表現(﹀5
骨 ロ n w ) であると考えてきたが、これに対してシュヴアイツアl
は文化と倫理を関 係づけた。すなわち文化は倫理的な基底の上に構築しなければならないと主張し、人類に対して文化再建への自覚 を訴えたのである。 第二部は﹃文化と倫理﹄(同N h
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﹃ミ丘町S
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)
として第一部と同時に出版されたが、この中でシュヴアイ ツアーは、世界の主な哲学と宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、バラモン教、シナ思 想)に現れた世界観の歴史的研究を通して、文化というものは、この世界および人生にふかい意味を付与する﹁世 の世界観と倫理との結合によって生まれることを明示したのであも。 界人生肯定﹂(司岳a
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号 。 ︺ 島g m
)
-300一 龍谷大学論集そして、物質的また精神的な文化の崩壊という現代文化の額廃は、倫理的な世界人生肯定がその力を喪失した結果 であるとし、倫理的な世界人生肯定の世界観と文化理念が結合した﹁倫理的な文化 L だりが、人類の文化没落を救 済することができるとつよく主張しているのである。 がんらいキリスト教は世界終末への期待から発生し、世界の自然状態の改良にはな んら関心をもってこなかった。この点においてキリスト教は﹁文化否定的﹂であったが、ルネサンスから宗教改革、 シュヴァイツアーによると、 啓蒙期を経て、原始キリスト教以来の世界終末期待思想(当巳
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に付随した﹁世界人生否定﹂ ( 君 。F
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の世界観から脱却し、近世には福音主義の倫理を説くプロテスタンテイズムが、 人聞の無知や残忍や不正と闘い、世界人生肯定へと進展し、文化の再建をめざす宗教となったと捉えているのであ る 。 ゾンマ 1 5 ( 印 。 日 5 0 F ﹀ ロ 仏 耳 目 白 日 ) も い う よ う に 、 シュヴアイツア l は、第三部の﹁生命への畏敬﹂の理念に よって、倫理において一つの内的な深化と活性化を成し遂げたのである。﹁生命への畏敬﹂の理念は、﹁生の哲学﹂ と 指 導 概 念 を 共 有 し て は い る も の の 、 思 惟 的 人 間 の 合 理 性 ( 岡 山 巳 芯 ロ 色 目 円 以 丹 ) を 拒 絶 す る も の で は な か っ た 。 か れ は みずから主要な宗教的・哲学的な世界観から一つの倫理的な世界観を確 ﹁ 生 命 へ の 畏 敬 L の 倫 理 の 立 場 に 立 っ て 、 立させたのである。シュヴアイツア!のばあい、﹁倫理的Z
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♀)とは、真に思惟的(
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であることを 意味する L ように、倫理には﹁思惟﹂(ロg
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が伴わなければならない。﹁道徳の根本原理は思惟を必要とする も の( a
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ロ色肉)として明示され、人聞を現実(当町E
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芹)との不断の、生き生きとした、事物に即し 引 川 た対決にもたらさなければならない﹂と強調しているのである。 もとよりシュヴァイツアーはこれまでの道徳原理をまったく不満足のものとして批判した。かれによると、古代 とは合理的に快楽をもたらすもの においては、倫理(倫理的なもの) (仏釦凹戸口印昨σ
円 山 口 問 巾 ロ 色 。 ) への努力であると考 シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) -301一えられ、その結果、倫理は利己的・功利主義的なものに閉じ込められ、倫理的色彩を帯びた﹁諦念﹂(河
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-巴。ロ)に終わってしまったのである。さらに近代になると、倫理とは人間と国家・社会への献身(出E
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で あるとされた。前者は人間中心的(自仲買8
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包凹岳)な考え方であり、また後者は社会的・功利主義的 ( 凹O
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ユ丘町岳)な考え方であった。しかも社会貢献を奨める社会倫理は個人の幸福と生存にそれほどの 考慮を払わず、原理上人間性(出昌国ω
巴詰同)を欠くものとなったため、社会倫理の良心は生物学的・社会科学 的・民族主義的な方向に毒されることとなってしまったのである。 しかしシュヴァイツアーはこれら二つの試みと平行して、宇宙的 ( W 8 5 2 n F ) な自己完成の倫理と献身の倫理 を主張しているのである。これはこの世界と宇宙の大きな働きを認め、生きとし生けものに固有の価値をおく寸生 命 中 心 ﹂(
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巳ユの)の倫理学である。シュヴァイツアーは、われわれの献身はたんに人間と国家・社会ばかり でなく、ひろく生きとし生けるもの(同5
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﹃)を目指さなければならない門、としている。倫理が人間と国家・社 会の倫理を超えて宇宙的なものになるならば、宇宙的な自己完成の倫理の可能性が出てくると考えたのである。 そこで、シュヴァイツアーは、われわれの精神の大きな課題は思惟的世界観を確立することであると強調してい る。思惟的世界観とは、世界の本質と目的、世界における人間の位置、そして人聞の使命についてわれわれが抱く 思想の全体のことである。そこで、﹁すべての人聞は、自分自身の思惟的世界観によって誠実な人格となるべき使 命をもっていふ﹂と指摘する。ところが、現代人は貧困や戦争などの問題についてふかく思惟することを放棄し、 誠実さ(垣島岳民己m
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に対する感受性と真理(巧与吾色丹)そのものに対する感受性をも失ってしまった。そ れゆえに現代人を救う唯一の方法は、人びとを再びこの思惟の道へつれもどすことであるというのである。 で は 、 とはどういう意味をもつのであろうか。 か れ に よ る と 、 シュヴアイツアーにおいて﹁思惟的L
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)
﹁ 思 惟 的 L と は 、 世 界 と 人 生 の 意 味 を ふ か く 考 え る こ と 、 す な わ ち 、 寸 内 面 化 ( ︿ ゆ ユ ロ 宮 門 戸 山 岳 口 口 問 ) へ の 道 L で あ る 。 -302ー 龍谷大学論集ω そして、﹁もっとも深い思惟は謙虚である﹂と述べている。われわれは、われわれの住む世界(地球)と人生(生 きること)の意味を積極的にしかも謙虚に考えてこそ、人口増加や飢餓、貧困、環境破壊、戦争などの問題を解決 する道も開らかれてくる。つまり、この思惟的世界観は、世界と人生を悲観的(宮白色
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に考えるのでは なく、それ自体価値あるものとして肯定的・積極的に考えようとする世界人生肯定の倫理であり、きわめて楽観的 で、実際的な考え方なのである。 さ ら に 、 シュヴァイツアl
は、この世界人生肯定の世界観(倫理)は神秘主義(冨百円持)とも密接に結びつく と主張している。かれは﹃インド思想家の世界観│神秘主義と倫理﹄(匂たききS
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印)において、﹁完全な倫理のみが神秘主義的な意味を有している﹂と述べ、ただ人間 と社会・国家のみに関わってきた倫理は狭陸な倫理であって、世界とすべての生命を対象とした倫理ではなかった と非難している。真の倫理は世界とすべての生命を念頭におくべきであるとする。倫理が、世界と﹁生命への畏 はじめて生命の最高度の維持と促進という倫理の根本原理に帰着することができると確信し 敬 L に ま で 及 ぶ と き 、 て い た の で あ る 。 と こ ろ で 、 シュヴァイツアーは寸生命への畏敬 L という概念に到達したときのことを次のように記している。そ かれが文化と世界観とのふかい相関関係について苦慮していた一九一五年九月のことであった。病気の女性 宣教師のもとに呼ばれて、オゴウェ川を二00
キロほどさかのぼっていた三日目の日没のころ、船がカパの群れの れ は 、 あいだを進んでいたときのことであった。﹁とつぜんか生命への畏敬 8 という言葉が心中に閃いた。鉄の扉は聞い た。密林の道は見えてきた。ついに私は、世界人生肯定と倫理とをともに含む理念( E
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に到達した!今や私 は、倫理的な世界人生肯定の世界観は、その文化理想とともに思惟の中に基礎づけられることを知っh
﹂と。かれ はついにこの倫理的な﹁世界人生肯定﹂の世界観の理念に到達することができたのである。 シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) -303一また、シュヴァイツアーは、﹁すべての生命は神聖(白山口包)である﹂という生命の神秘性と関連して、他者の 神秘性を受け入れ、他者の精神的本質を畏敬すべきだといっている。﹁私たちがたがいに神秘的であるというこの 事実を、私たちはそのまま受け入れなければならない。たがいに知り合うことは、たがいに相手のことを何もかも 知り尽すということではなく、 たがいに愛と信頼とを抱き合い、たがいに信じ合うことである。人は他者の本質の なかへ入りこもうとすべきではない L と戒めている。シュヴアイツアーによると、相手の考えを知る権利があるな どということは、母親でさえ許されることではない。われわれは親しくなればなるほど、 いよいよたがいに神秘的 い る 。 こ の よ ﹀ つ に 、 ほんとうに他者に感化を及ぽすことができるといって シュヴァイツア
l
の寸畏敬﹂概念には、人間の力を超えたものや他者の神秘性を尊重する神秘 となる。そして、他者に対して畏敬の念をいだく人だけが、 主義がつよくみられるのである。 とくに﹁教育的現実﹂(叩 N山 岳
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によると、シ ユヴァイツアーは畏敬とは何であるかについて明言していないけれども、かれの畏敬の解釈は、自叙伝でかれ自身 の畏敬体験について語っている箇所から明らかであった。すなわちシュヴアイツア!の畏敬体験は、倣慢な態度で 他の生命を傷つけた恐ろしい意識と結びついていた。それは少年時代の最初の畏敬体験であった。たとえば喧嘩し て弱い相手に暴力を振るったこと、自分に吠えかかってきた犬の眼を鞭で打ったこと、近所の子に唆されて小鳥を 撃とうとしたことなど、﹁他の生命を傷つけることによってはじめて罪を犯したという意識がとつぜん起こり、畏 敬の要求が経験される﹂というものであった。一
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ゲーテの﹁畏敬 L 概念と人間生成の原理 ところでゲl
テは、﹃ヴィルヘルム・マイスタl
の 遍 歴 時 代 ﹄ ( 5 . N p hぎ
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事 山 富 h除 去 q P R o h Nミ 同 ) 札 山 町 同 SF -304ー 龍谷大学論集的魚崎町ミ
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匂)において、畏敬(開宵E
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教と真の宗教について次のように述べている。 それぞれの畏敬に基づいた、三つの宗 には三つあることを示し、 まず第一の畏敬は、﹁われわれの上にあるものに対する畏敬し(何百E
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︿ 日 仏0
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己5 2 乙であり、 人間の力を超えたものや絶対なる神を畏れ敬う、﹁畏怖 L としての畏敬である。これは多くの民族的宗教にみられ る畏敬である。また第二の畏敬は、寸われわれと同等のものに対する畏敬﹂(開可ERZg
吋 骨 自 宅8
5
∞札巳岳 町乙である。これは地上の共同体にみられるもので、哲学者や教師・友人・兄弟などを敬愛する、﹁敬愛﹂(信頼) としての畏敬である。これは哲学的宗教にみられる。そして第三の畏敬は、﹁われわれの下にあるものに対する畏 敬 ﹂ ( 何 可ER
耳︿号号目当日S
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司 Z52 乙である。これは子どもや貧しい人・恥辱を受けた人・病人・死者など を慈しみ憐れむ、寸慈愛﹂としての畏敬である。これはキリスト教的宗教に見られるのである。そこで、これら三 はじめてその最高の力を発揮して、最高の畏敬すなわち﹁自己自身に対す る畏敬 L ( 開 宵E
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︿ O 吋印片町85
由 同 ) が 生 ま れ る と い う 。 し か も 、 一 一 一 つ の 宗 教 が 一 つ に な っ て は じ め て 真 の 宗 教 が 生まれると強調している。人があらゆる面において真の人聞になるためには、これら三つの畏敬が必要であると、 つの畏敬が合流して一つになったとき、 ゲーテは主張しているのである。 ω 異敬そのものに三つの特徴があることを指摘している。畏敬は、 弱くて傷つきゃすい生命に関係している。第二に畏敬は他の生命を実際に傷つけたり損なっ たりすることを禁じるだけでなく、それに近づくことさえも拒むのである。いいかえると、尊く感じられるものに タブー いわゆる古代人の﹁禁忌 L とも密接に関係している。第三に他者の精神的な本質 がある。すなわち人聞は、他者の内的本質のなかへ無理やり入り込んではなら そ こ で ボ ル ノ ウ は 、 第一に序列( E
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を 意味するのではなく、 触れることさえ恐れる、 つ 古4 F n
一 ノ 、 な、へ い、の こ 畏 と 敬 を に 示 は し て し 亙 る ﹁ 精 神 的 な 恥 じ ら い L たとえば他者を分析することについても、 精神異常者を治療するためならばよいが、 そ れ シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) F h u A H v q屯 υ以外は不敬な行為だというのである。 またポルノウもいうように、﹁由民
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どという言葉は、﹁敬意﹂とは異なり、開F
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尊敬)と旬日岳同(畏怖) という独特な二重構造の特徴をもっている。この言葉は、﹁敬う﹂という意味での尊敬と、﹁畏怖﹂すなわち尊いも のを傷つげたり、あるいは不膜けにそれを踏みにじったりすることを禁じる、内気と恥ずかしきとが結びついた言 葉である。したがって畏敬という言葉には、われわれの遠い、古代人の生活の潜在的な基盤を暗示するような独特 な暗さがある。畏敬それ自体がすでに宗教的な次元に根ざした概念である、とボルノウは指摘している。 しかし、ここで重要な問題が浮上するのである。それは、ボルノウが寸畏敬とは、根源的に宗教的な感情であ 匂﹂と決めつけている点である。はたして畏敬は感情なのであろうか。一般には、宗教心とは畏敬の念であるとい われている。たしかにシュライエルマッハlanE
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山∞誌)も、宗教の本質は宇宙や世界 に 対 す る 直 観 ( ﹀ ロ ∞ 岳 山 口 ロ ロ 肉 ) で あ る と い い 、 敬 鹿(
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同)の感情や聖なる畏敬としてとらえていた。し かし、この定義づけには問題があるといえる。宗教心とはほんらい宗教的情操(円巴在。5
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ないし宗教 的 態 度 ( 円 巴 包0
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号)であり、たんなる感情ではないからである。またボルノウは、﹁畏敬とはほんらい教 悶 えることのできないものであり、尊いものとのふれあいによってしか知ることができない L といっている。しかし この考えにも問題がある。そもそも宗教的情操とは、宗教的価値(神聖なるもの)に向かうところの、知性と感情 と意志の複合した心の状態を指している。したがって畏敬の念は宗教的情操であるからこそ、宗教的価値に関わる 情操教育によって宗教的情操を酒養することができるのである。すなわち、宗教の意義と宗教一般の知識について 学ぶ﹁知性の教育﹂と、宗教音楽や宗教芸術などによる﹁感性の教育﹂と、神聖なものや荘厳なものに触れたいと いう意欲(欲求)を培う寸意志の教育﹂という、知・情・意の教育によって宗教的情操は正しく画養されるべきも の な の で あ る 。 -306-龍谷大学論集ところで、シュヴアイツア l 自身、アフリカの原始林で、復活祭には﹃ファウスト﹄(、三)を読み、﹁内面化 へ の 甑 ﹂ ( 君 。
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)
すなわち、魂の深みへの道を心がげていた。かれは一九二八年に﹁フランクフルト市 ゲ1
テ賞﹂を受けたときの挨拶で、われわれがゲ1
テの精神からなすべき責務を次のように力説している。﹁われ われは人びととたたかわねばなりません。そして人びとが、現代に生起する外面的なことへ絶えず引きこまれる危 険のなかにありながらも、内面化への道を見出して、その道を失わないようにしむけねばなりませ何﹂と。 な さ け 側 、 このようにゲ1
テは人類に対して、﹁気高く、慈悲深く、善良なれ﹂という人間性の理想を掲げた。そして、自 然と親しみ、自然を讃え、自然との結びつきを大事し、 開 る 。 そのことによって自己を高め高貴にする道を歩んだのであ ま た 、 シュヴアイツアーは一九五二年度ノーベル平和賞を受賞したさいも、 一九五四年十一月、オスローで行っ た講演寸現代における平和の問題﹂で、﹁われわれは勇をふるって、ふたたび、全体的人間E
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、 つまりその思考(知)と感情(情)と欲求(意)とに訴えて、自己自身を知り、自己に忠実となるよう励もうでは ありませんか。われわれはふたたび人間の本質に信頼をおこうではありませんか。われわれの経験は、その勇気を ω あたえてくれます﹂と訴えているのである。 シュヴァイツア l は ゲ l テの宗教観について触れ、﹁われわれを支配する罪過の力は、われわれを破滅 ω させるためのものではなく、結局われわれの醇化に貢献するに違いない﹂と述べている。そして罪過をになうこと は、高価な値いをはらってものごとに対するより深い理解をえることにつながると考えていた。﹁ゲ 1 テは、罪過 ω によって人聞が厳粛となることをその生涯において証明した﹂のであり、﹃ヴィルへルム・マイスタ 1 の 遍 歴 時 代 ﹄ には、﹁人聞は罪過によって浄化される﹂という思想(眉罪と償いの思想)がつよくあらわれている。罪過が人聞 を苦しめているとき、人聞は、愛の究めがたい神秘によって救われていくと考えたのである。 さ ら に 、 シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷)-307-かれの世界観および人生観と同一であった。かれの世界観および人生観は倫理的で ドグマ かつ宗教的であった。ゲーテにとって、真の宗教は、イエスの人物とその仕事についての教条のうちにある ロ マ ン テ ィ 1 ク のではなく、イエスによって告知されている﹁愛の宗教 L であった。これは、ドイツ啓蒙期の宗教的合理主義が 到達した認識であったのである。すなわち、ドグマ的キリスト教ではなく、自然科学と結合しうる倫理的宗教の立 こうしたゲ 1 テの宗教観は、 あ り 、 場であった。ゲ
1
テにとっては、愛こそ精神の最高のあり方であった。﹁神の愛﹂への信仰こそ、人聞にとって最 高の至福であり、敬慶な人間たらしめるものであった。しかもゲl
テは、敬度な心をもって自然へと近づいたので ある。そこでゲl
テは敬慶の本質について、﹁われわれの胸中の至純な場所には、高き、純なる、未知のものへ感 その永遠に名づけられぬものの前で、自己を解明しようという努力がなみうってい る。それをわれわれは敬慶となづける﹂と説明しているのである。 シュヴアイツアーは宗教教育の内容について次のような例を挙げて説明してい旬。 謝の心から進んで身をゆだね、 ま た 、 一つには、ゲ 1 テが若い頃、同じ部屋の家庭教師に注意した挿話がある。それは、家庭教師がその家の二人の少 みずから﹁山上の垂訓﹂を読んで説明し 女に、寸エステル書﹂を朗読させていたとき、ゲーテはそれを止めさせ、 てやったという。ゲl
テはそこで﹁神の愛﹂ への信仰を教えようとしたのである。ここにゲ 1 テの宗教教育論の一 端をみることができる。 二つには、ゲ 1 テは息子のアウグストが堅信礼の準備のためにヘルグl
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固 めE
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ロロ主 l から受けた宗教教育の内容がある。このときへルダl
は、人間の自然状態は光と聞、善と悪の混合と分裂の そこで人間の無力さを示して﹁神]
{
∞
O ω ) 状態にあるから、 われわれがいずれの側に属すべきかをキリスト教は問いかけ、 の愛﹂から発する救済の必然性について理解させようとしたのである。そのさいゲl
テは、自然の内部に神を求め た。というのはかれは、 のいう﹁神すなわち自然﹂6
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印 円4
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-308-龍谷大学論集の思想、すなわち、神は万物であり、万物は神であるという、神と自然との同一性を信じていたからである。この ω ように、﹁神を自然の中に、自然を神の中にみる﹂見方(万有在神論司自
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自 己 印 ) こ そ 、 ゲ l テの全存在の基 盤をなしていたのである。ω
、 そもそもゲ 1 テにとって、人間の使命とは、﹁人聞が人間自身になること﹂であった。すなわち人聞が真の人聞 になるという﹁人間生成 L ( 宮内日各者向骨ロ)こそ、人間性の理想を実現するものであった。したがってゲ l テ は 、 かれの独自の考えによって晴朗な調和怯という究極の段階にまで登ることを人聞に要求し恥が、シュヴァイツアー は、ゲl
テのこうした思想と生き方から、ふかい共感と大きな励ましを得けたのである。シュヴァイツアーにとっ 閣 て、﹁生一の意味とは、人聞が自己のうちにある善を発展させ、その善に妨害作用をする悪に抵抗するということ﹂ であった。ゲl
テが﹃フアウスト﹄ のプロローグにおいて、﹁人聞は努力するかぎり、迷うものだ﹂(何回 同 吋 H . 4 い γ 向 。 ロ m n y w 目 。 -釦 ロ 向 。 司 凹 片 岡 ・ 0 ぴ 同 ・ ) シュヴァイツアーも、﹁真の人間性(
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仲)にむかつて努力 せよ。なんじ自身となれ、そしてなんじ自身を内面化し、同時に、自己の天性にふさわしい生き方で行為人であ 川﹂と呼びかけているのである。したがって、人間性の理想が放棄されるならば、人間の精神性は滅び去り、文化 と い っ た よ う に 、 と倫理は終駕を迎えることになると危慎したのである。一
一
、 ﹁生きんとする意志 L と そ の 神 秘 性 シュヴァイツアーは、若いとき、ジンメルの﹁生の哲学 L ( 戸 各 自 的 問 ロn
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一 ロ ロ 肉 ) か ら つ よ く 影 響 を 受 け た 。 そ こ で、ジンメルの生の哲学について簡単に触れておきたい。ジンメルは﹃生の哲学﹄( h
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忌ミミ慌てた可 ささ雪常常密志向三宮∞)の中で、﹁生の超越3
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﹂について述べているが、シュヴァイツアーは、ω
﹁生﹂の概念を寸原初的な、すべてのものを隈なく支配する、神秘的な力﹂として解釈している。シュヴァイツア 色 。 H・ シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) -309一ーは、生そのものを、﹁生きんとする意志﹂(巧口町 N C E F o σ g 生への意志)として、すなわち﹁あらゆる存在の
ω
基礎をなしている、無限の、究めがたい、前進する意志﹂としてとらえているのである。 では、生の本質的な特徴とはどのようなものであろうか。ジンメルは次のようにとらえている。 第一に、倫理的意志の問題として、生には超越が内在しているということである。生のもっとも内面的な本質と 側 は、たえずおのれ自身を超え出ょうとすること、すなわち﹁生が自己を超え出て高まること﹂である。 第 二 に 、 生 と は ︿ よ り 以 上 の 生 ﹀ ( 冨 岳 叶 目 巴 印' F
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)
ということである。寸生とは動きであり、この動きは、そ の段落のいずれにおいても、たとえその段落が他と比べてより貧弱でより劣ったものであろうとも、いかなる瞬間 においても何ものかをおのれのうちに引きこみ、この動きの生へと変転させるのである。生は、その絶対的な量が どれほどであろうとも、それが︿より以上の生﹀であることによってのみ現実に存在することができる﹂。生はそ れ 自 身 で あ る と 同 時 に 、 それ自身を上まわろうとするのである。 いわば生の絶対的なもののほうへと伸展し てゆき、この方向で︿より以上の生﹀になろうとするけれども、他方、この生は無のほうにも伸展していこうとす 川 町 ふ。つまり生は、時には自己を高めたり、時には低めたりしながら、自己を維持していくのである。 第四に、じっさい思考し、感じ、欲求するのは全体的な人間であって、一つ一つの感覚ですら、すべて生の全体 側 性の切り開かれた運河にすぎず、この運河を介して生の全体性は外界と交渉するということである。 また、シュヴァイツア1
は、寸世界人生否定﹂の倫理(世界観)と見なされているショl
ペンハウアl
( 切 の 町 。 宮 昆 冨 ロR w
﹀ 丘 町 ロ 吋 口 ∞ ∞ lH ∞g )
からも影響を受けている。ショl
ペンハウアl
は、﹁理性が生の中心をなし ており、人間のもっとも深い存在の根底をなしているとする教義を打ち砕いh
﹂ペシミストである。ショ l ペ ン ハ ウ アl
は、世界それ自体が意志(当日。)であって、すべての現象の背後には寸生への盲目的意志L
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巧 巴 ぬ 第 三 に 、 生 は 、 おのれが中心に据えられている状態に固執しながら、 n u q a 龍谷大学論集E
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)
があると考えた。そのため人聞はつねに欲望が満たされない最悪の状態にあり、それが人生におい て苦悩(戸包含ロ)となる。そこで人聞はこの意志をまったく否定する寸諦念﹂によってしか、諦福(印。ロm
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同) を得ることができないとする。かれのこうしたペシミズム宿命的曲目宮町g
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は、生をいわば後ろ向きに回転させ、 ω 自己を死の軌道へと導く指令においてのみ一つの意味を与えるものであった。したがってシュヴアイツアーは、シ ヨl
ペンハウア1
のことを禁欲主義者ではなく、﹁遊蕩児﹂(回o E
4 2
)
と批判しているのであ旬。 シュヴアイツアーはジンメルやショ1
ペンハウアーを通して、すべての現象の背後に、あるいはそ こ の よ う に 、 の中に﹁生きんとする意志﹂のあることを確信したのである。 そこで、寸生きんとする意志﹂とは何か、が問われなげればならない。シュヴァイツア l は 次 の よ う に い う 。 ﹁ 生 きんとする意志の本質は、存在するものが十分にその生を事受する( m
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ロ)ことである。存在するものには、 自己を最高限度の完全さ(︿o
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で実現したいという欲求g s
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がある。樹木においても、また 不思議な形のクラゲにしても、草の茎や水晶にしても、いたる所で生きんとする意志は個体のうちで完全さに到達 m m、
しようと努めている﹂のである。この完全さへの欲求は、自然や神から与えられた生きる力である。しかも、この 生きんとする意志は、有機体ばかりでなく、水晶のような無機物においても同様だとシュヴァイツアーは考えたの で、われわれはこの神秘的( m
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旦君。ロ)な生きんとする意志に従わな砂ればならないというのである。﹁完全 仰 な倫理のみが神秘主義的な意味を有している﹂というように、シュヴァイツアーは、倫理に基づいた神秘主義、言 いかえると倫理的な世界人生肯定の神秘主義に立っている。シュヴァイツアーにとって乙の神秘主義はきわめて実 際的な意味をもっていた。すなわちシュヴァイツアーは﹁生きんとする意志﹂に絶対的な価値を見出したのである。 われわれの内にある神秘的な生きんとする意志に不忠実でありたくなげれば、われわれはこの理念に従わな凶りれば ならなかった。﹁われわれの内にある生きんとする意志が自己自身に対して真実(者間宵)となり、いつまでも真実 シュヴアイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) -311一でありつづけること、そしてなんら萎縮することなく、まったく生き生きしたものに発展すること、これこそわれ 倒 われの生存の運命を決定づけるものである﹂といっている。われわれは、﹁生きんとする意志﹂を寸究めがたく神 秘 的 な も の ﹂
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として、すなわち畏敬の念をもって体験するのであるが、そこには、 前進する意志への感動と生き生きとした敬慶が伴われているのである。 ω チヤツプマン大学のマl
チ ン ( 冨 釦 吋 昨 日p
富 山W O
巧・)もいうように、寸生きんとする意志﹂は、自己保存と自己完 成、喜び、幸福、苦痛の回避への欲求を伴っている。人生(生命)を維持発展させ、それをその最高の価値にまで 達成させることは善であるが、反対に人生を否定し、その発展を妨げることは悪なのである。シュヴァイツアーに とって倫理とは、まさに﹁自己の人格の内面的完成をめざれ﹂ものであり、ここに﹁自己完成﹂a
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としての倫理および教育の本質があった。人間の精神的・道徳的完成は文化の究極目標でもあった の で あ る 。 いかなる世界人生否定の場面に出会っても、寸生きんとする意志﹂を肯定するのはご く自然であり真実な生き方ができるとシュヴアイツアーは考えていた。次のようにいう。﹁人生肯定( F
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とは、精神的な営みである。人はその中でただ漫然と生きることをやめ、自己の真の価値をもたらさんが ために畏敬の念をもって自己の生に献身することを始める。人生肯定とは、生きんとする意志を深化させ、内面化 問 させ、高揚させることである﹂と。人生についてふかく考えるようになった人は、自己に対すると同様に、かなら ず生命に対する畏敬の念を示す体験をもっ、とシュヴァイツアーは断言する。ここに、従来の倫理とシュヴアイツ 関 ァ l の倫理との違いが出てくるのである。シュヴアイツアーによると、従来の倫理は、人間対人間の関係、あるい は人間対国家・社会の関係を重視してきた。そしてそれは﹁善﹂や﹁良心﹂の観念と結びついた倫理であった。ヲ﹂ れに対してシュヴァイツアーは、人聞にかぎらず、あらゆる生命に対して倫理的考察を行ったのである。 人聞は生きているかぎり、 の L q o 龍谷大学論集シュヴァイツアーは、植物も動物も人間も、あらゆる生命が生命として神聖(ぽ毘肉)であると説いた。そして 人聞は、可能なかぎり、すべての生命に対して責任(︿司
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再 考 。 ユ ロ ロ ぬ ) を に な わ な け れ ば な ら な い と し て い る 。 すなわち、﹁倫理とは、生ある一切のものに対する、無限のかなたにまで拡大された責任のことであ匂﹂という。 したがってシュヴァイツアーは、どんな生命にも差をつげないが、しかしとくに差をつげるのは、避けることので きない必然性によって強制される場合のみであるとしている。つまり、二つの生命のうち一方を救うのは、いずれ かの一方を犠牲にするのやむをえない場合にかぎられる。われわれはつねに犠牲となる生命に対する責任をになっ ていることを自覚しておかねばならないというのである。 またシュヴアイツアーは、﹁あらゆる生きものへの同情を要求してこそ、倫理はそのあるべき姿において完成さ 伺 れる﹂といい、異なる民族や異教徒、他国民、そして動物などを殺したり迫害してはならないと断言している。シ ユヴァイツアーには﹁絶対やむをえない場合でなければ、他のものを殺したり苦しめたりしていけないという信 欄 念﹂があった。そこで﹁生きものを苦しめたり殺したりして、甘んじてやむをえず罪を犯すのが、はたして避けら れない必要事であるかどうかを判断するのは、私たち各人の存念にかかることである。私たちは機会をのがさずに 間 生きものを助けてやることによって、その償いをするように努めなければならない﹂と説いている。われわれは他 の生命を損うことを避けることはできないが、その損傷をできるだけ小さくおさえるよう努力することはできる。 それゆえに損傷そのものを悪であるとするのではなく、不必要な損傷を悪としな砂ればならないとい%。しかし他 の生命を損ない、あるいは破壊することが避げられないという現実認識は、良心のやましさを和らげる口実として 誤用されてはならないのであって、それは反対に人聞にもっと大きな責任を課するものなのである。 圏 、 では、いかなる場合に、生命の選択が許されるのか。シュヴァイツアーは次のようにいう。生命の選択は、その 時々の必然性 ( Z O件 当g a
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一色丹)によって決定せざるをえないが、ある生命を維持していくためにどの生命を犠牲 シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷)-313-にしなければならないかを決定する場合、主体的かつ任意に遂行し、犠牲となった生命に対する傷みと責任をわれ われは自覚しなければならない。われわれは医薬品のおかげで病人の生命を救うことができるようになったが、人 間の生命を救うためにどれほど多く病原菌の生命を殺さざるをえなかったかという思いをつねに禁じえない、とシ ユヴアイツアーはいう。また戦争や環境破壊などによって、どれほど無数の生命が奪われてきたことか。したがっ て、われわれはただ避りることのできない必然性からのみ他の生命を傷つけ消滅させることはできるが、しかしげ つして無思慮に、ましていわんや遊び心で生きものを殺すようなことをしてはならないときびしく戒めている。と くに黙認してはならない非人道的な悪習として、シュヴァイツアーは闘牛とウサギ狩りなどを挙げているのである。
四
﹁
生
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の
畏
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﹂
の信念と実践 シュヴアイツアーは﹁生命への畏敬﹂の世界観をどのように捉えていたのであろうか。シュヴアイツアー はつねに現実(者庄内 -w F W O 洋)に即して実際的にものごとを考えるがゆえに、﹁生命への畏敬﹂の倫理はわれわれ を現実に即して、つねに現実と能動的に対決せしめるものでなければならなかった。われわれは、人間とこの世界 とが知何に関わるかという問題を現実に即して解決していくしかない。われわれがこの世界について知りうること は、ただ﹁生きんとする意志﹂があらゆる場面に現れているということのみである。 われわれは生命そのものの神秘性と、人間とこの世界との聞に充満するあらゆる生命の関係を考えるとき、かな らず﹁生命への畏敬﹂の念を起こし、倫理的な世界人生肯定の立場でこれを実行しようとするであろう。そうする と、﹁生命への畏敬﹂の世界観は、それ自体ふかく宗教的なものとなってくる。つまり、シュヴアイツアーにとっ て倫理とは、寸生命への畏敬﹂の信念(のぬ包B g
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をもって対処することであり、それは一つの宗教だともいえ 側 る。したがってシュヴァイツアーもいうように、﹁生命への畏敬﹂の世界観を拠りどころとして生きる人はいっそ で は 、 a a τ 噌 E & η ‘ u 簡谷大学論集う 敬 度 的 ( 同
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)
となり、その人には理想と感謝と希望がみられるのである。 そもそも﹁生命への畏敬﹂の概念は、愛の概念よりももっと広い概念であり、愛、献身、生きることの苦痛とよ ろこびの一切を含んでいることがわかる。シュヴアイツアーは、﹁われわれが愛と名づけているものは、その本質 からいえば、生命に対する畏敬である L という。そして﹁生命への畏敬﹂の世界観(倫理)は、﹁宇宙的なもの﹂ ( 口 三 ︿ 巾 ﹃ 自 ロ 0 ) 、すべての生命にまで拡大された﹁愛の倫理 L ( 里 町 日 付 与 角 巴o Z
)
であり、これこそ﹁イエスの倫 理 L ( 開 任- w
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という宗教性をもったものだとシュヴァイツアーは強調しているのである。 シュヴァイツアーにとって、倫理の根本原理は献身であったが、そこには寸生命への畏敬 L によって動機 ま た 、 づけられた﹁献身の倫理﹂があった。あらゆる生命への献身は、寸生命への畏敬﹂によって動機づけられなければ ならないが、その献身には、生命あるものに対する同情と愛と熱情が含まれている。献身の倫理は、たえずわれわ れに困難なことを試みさせ、自己の生命を賭してまでも他の生命のために尽くすことを余儀なくさせるのであるが、 回 しかし、この献身の倫理は実際のところわれわれ自身の裁量にゆだねる場合が多いのである。 そこでシュヴァイツア l は次のようにいう。﹁われわれがヨーロッパ以外の人びとに何かよいことをしてやろう と思うとか思わないとかいうことは、全然われわれの自由な行為ではなくて、われわれはそれをなさなければなら ない当然の義務を負うているのである。われわれが彼らに善を示すことは慈善ではなくて、罪の償いなのである。 苦悩を広めた一人一人の人間の代わりに、助けをもたらす人聞が行かなければならない。そして、われわれの全力 側 を挙げて一切のことをなし果たしても、罪の千分の一も償ったことにはならないのである L ( 傍点筆者)と述べて いる。このことから分かるように、 シュヴアイツア l のアフリカ原生林での献身的な医療活動や、 ヨーロッパでの 講演と演奏会の活動は、かれにとっては、神が命じた﹁天職﹂(国司丘)であったが、しかし、それが生命に対す る責任と贈罪から生まれたものであることをわれわれは知らなければならないであろう。 シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) p h u 噌 i q、 υシ ュ ヴ ア イ ツ ア ー は 、 寸 現 代 文 明 に お け る 宗 教 ﹂ ( 同 町 内 合 一 杭
3
3
﹄ 奇 怪 さ G N U -N 一 公 h N H N O S -u ω 品)のなかで、十九世紀 制 後半の代表的な思想を四つ掲げている。すなわち、唯物論に立つ社会主義・国家主義の思想と、カント以来の寸理 性﹂を拠りどころとする哲学的宗教と、実際生活を重視するプラグマテイズム(官誕百丘町B
)
の思想と、そして 理性よりも直観(﹀g n
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を重視する神秘主義思想、の四つである。しかし、シュヴァイツアーはこれらの いずれにも満足しない。というのは、これらの思想の背景には、われわれ人類が高度に発達させた科学技術によっ てまさに﹁超人 L ( 口σ
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∞nv)となってしまったからである。シュヴァイツアーにいわせると、現代人は倫理的・ 宗教的な敬慶の態度を失い、謙虚に真の宗教に耳を傾けようとしなくなったのである。そこでシュヴアイツア1
は 、 人間は倣慢になってはならないと警告する。人聞は世界・宇宙・自然に対してどこまでも謙虚でなければならない と戒めているのである。われわれ人聞は、﹁無知の知﹂(仏 o n E ぽg
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耳目白)、すなわち己れの無知と愚かさに目覚 めなければならないのである。シュヴァイツアーは次のように忠告している。﹁自然を洞察することが深ければ深 いほど、われわれは、 それが生命にみちていることをますます確認し、 またすべての生命は神秘的であり、自然の ますます深く知勾 L と。そこで、﹁生命への畏敬 L と 一つの宗教とも言うべき意 内にあるすべての生命にわれわれがつながっていることを、 いう最高の道義をもたなければならないと断言する。この深淵にして普遍的な倫理は、 義をもっているのである。 シュヴアイツア l は現代のキリスト教を批判して、﹁現代のキリスト教は、その精神的、倫理的本質から 側 まことに精神的な力を失ってしまっている﹂という。キリスト教は俗流に落ち、時代精神に迎合してしま っており、時代と社会を動かす力となっていない。その証拠は大戦であった。﹁大戦にまきこまれて宗教がその純m
潔を失い、さらには権威をなくしたことは、以後今日までの真実である﹂と指摘する。宗教は世俗的な諸勢力に味 方し、戦争という非人道的理想に対抗できなかったのである。 ま た 、 い え ば 、 p n υ n d 龍谷大学論集キリスト者シュヴァイツアーは﹃キリスト教と世界の宗教﹄
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・ のなかで、神の福音こそ最高の智慧であり、この福音を世界に伝道したいと述べている。イエスは﹁時は満 ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい﹂(マルコ伝一一五)と呼びかけたが、イエスの福音は、 側 ﹁神の愛の意志において行動する熱情へとわれわれを駆り立てる﹂と強調している。これまでキリスト教以外の諸 そ こ で 、円 。
N h p ) 宗教はただ寸異教﹂として退けられてきた。しかしこれらの諸宗教のなかにも真撃な神への追求と崇高な思想が多 く存在していることを指摘しているのである。キリスト教以外の諸宗教、たとえば仏教やヒンズー教、バラモン教、 道教(孔子や老子)などの世界宗教のなかにも、キリスト教的世界観よりもすぐれた深い哲学があると述べている。 シュヴァイツアーは現地人に対するキリスト教伝道のあり方についてどのように考えていたのであろうか。 で は 、 キリスト教は現地人にとって高級すぎることはないという。﹁わたしの病院で、老い 側 た黒人たちと人生の最後の問題について交わした対話は、わたしを深く感動させた﹂といい、黒人には、宗教の基 シュヴアイツアーによると、 本的な点を受け入れるための、生来の大きな能力があることに驚かされた、と書いている。確かにキリスト教の教 義を理解させるのは容易ではなかったが、かれらは救済そのものについての基本的な意識をもっていた。キリスト 教は、かれらがただ自然の霊や祖先の霊や呪物の威力にたよるのではなく、世の中のことはすべて神の御旨だけが 働くことをかれらに保証するものであったといっている。 また、これまでの洗礼(回 m Z 2目白)では、すべての迷信を捨て去ることを誓わせていた。しかし迷信はかれら の生活とつよく結びついているから、簡単に断ち切ることはできない。そこで教化活動を通して、迷信や風習の背 後には悪霊も何もないことを納得させたという。さらに、出産のとき母子ともに身体と顔を白く塗って怖ろしくみ 冊 せる風習についても、シュヴァイツアーはこれを本気で攻撃する気にはなれないと述べている。シュヴァイツアー のこうした教化態度のなかには、ゲーテのいう弱者に対する畏敬の念が読み取れるのである。 シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) 可 t q δ五
﹁生命への畏敬﹂ の 理 念 の理念と﹁神の国﹂ ところで、神が支配する﹁神の国﹂(同E
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え の O 仏)の本質については今では終末観的な見方が正しいとさ れている。そこでシユヴアイツア1
は﹃終末論の変遷における神の国の理念﹄(
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包 軌 吋 足 悶 尽 向 h & 吾 旦 守 符S
凶 ﹄ 均 慰 刊 C 悶 & § 匹 吟 町 忌 忌 雪 恒8
同 む 町 芯 嘗 酢 殺 尉 § 伺 § て 悶 ﹃ 守 ミ 尋 悶 h § 悼 守 守 W 可 可 句 遺 ミ 守 類は、神の国を実現させるか、滅亡するかの瀬戸際にある。われわれが危機におかれているが故に、われわれは神 の国の実現を信じ、そのために真剣にならざるを得な同﹂といい、すでに人類の滅亡が始まりつつあると警告して いる。近代科学技術の成果が人類に支配力を委ねた現代において、その力を繁栄のためにのみ使用し、けっして破 壊のためには使用しないという気力を育てるかどうかに、人類の運命はかかっている。原始キリスト教の信者たち は、世界の終末(巧巴宮ロ骨)を期待してひたすら神の国に希望をかげたが、今日のわれわれは、人類の終鷲 ( 開 ロ 仏 ぬ 仏 司 冨g
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同 ) を 期 待 し て ひ た す ら ﹁ 神 の 国 ﹂ ( 岡 山a n
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の 0 2 2 ) に希望をかけなければならないという。 ここに伝道者としてのシュヴアイツア 1 の姿が知実にあらわれている。 シュヴァイツアーにとってキリスト教は﹁救済の宗教﹂であると同時に、﹁神の国の宗教﹂であった。キリスト 者シュヴァイツアーは信何上、﹁神の国﹂の理念を設定していた。歴史的にはこの理念はしばしば誤解されてきた が、寸人生世界肯定﹂の倫理と結びつき、現代においてふたたびよみがえったというのである。そこでシュヴアイ ツアーは、イエスの意志に対する信何が確立されなければならないことをわれわれに訴えかける。﹁イエスに対す る真の理解は、イエスを把握した存在のそれであり、あらゆるキリスト教的敬慶さはひじように価値のあることで 側 、 ある﹂と。われわれはイエスの力強い意志に屈従し、現代においてイエスに仕えなければならないというのである。 側 シュヴアイツアーによると、神の国は、それへの信念がわれわれの思惟や行為を支配するように格闘するとき始 -318一 箆谷大学論集ま る 。 ﹁ 内 面 性 ﹂ ( H H g o
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W Y W O R ) すなわち﹁内面化への道﹂なくしては、知何なる働きも効を奏さない。われわれ のなかで神の霊(のa a
の 。 3 2 ) が世界精神(のa a
弘司君色丹)よりも力をもってきたときにのみ、神の霊はこの 世界において世界精神と闘うことができるという。シュヴァイツアーにとって、イエスの神は﹁生きている神﹂で あり、﹁愛の神﹂﹁倫理的な神 L として内面において生き生きとはたらいているのである。シュヴァイツア1
は 、 ﹁イエスにおける神の国は、現世に、また人間社会の発展において成就するものではなく、神が不完全な世界を完 全な世界へと改造する時に、神によって実現されふ L と 説 く 。 この点に関してシュプランガl
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は 、 ﹁ 命 令 的 な 当 為 ( 印 。- - g )
は、愛へと上昇 m その中で人間の自由は実現できる﹂といっているが、シュヴアイツアーにおいても寸生命への畏 す る こ と が で き 、 敬﹂の倫理は神の愛へと上昇していると考えられる。 シュヴァイツアーは次のように述べている。﹁キリスト教の 本質は、われわれが愛によってのみ神との一致に到達しうる、という点にある。神の生きた認識とは、われらが神 仰 を愛の意志として内心に体験する、というにほかならない﹂と。愛の神を自然のなかに見いだすのではなく、﹁愛 仰 の神は愛の意志としてわれわれの心中に知られる L のである。そしてイエスは、物質的な世界がまもなく神の国の 世界に変わることを告げ、新しい世界の新しい生活に加わるために必要な自己完成の道につとめるように、人びと に説いたとする。そして、現世のことに煩わされず、ひたすら善の実践に専念すべきことを人びとにもとめたので あ る 。 このようにシュヴァイツアl
において、神は倫理的意志としてかれの中で自らを啓示していたといえる。そして シュヴアイツア 1 は、現代の危機的状況のなかで神の国への信何を通して神の国を実現しようと努力したのである。 近代のプロテスタントにとって、神の国は一つの精神的・倫理的規模のものであった。キリスト教が神の国の理念 によって支配された宗教であろうとするならば、寸キリスト教は、この神の国の意義を保持しつづけなくてはなら シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) -319一ない吋﹂のであり、その実現のためにキリスト者は倫理的な努力をせねばならないというのである。シュヴァイツア ーが行ったアフリカでの医療と伝道の実践はまさにそれであったといえるであろう。シュヴァイツアーにおいて 寸生命への畏敬 L の理念はついに倫理的・宗教的観念となってかれの中では統一されていたのである。 したがって、﹁生命への畏敬﹂の倫理は一見抽象的に見えるが、しかし寸生命への畏敬の倫理とは、愛と献身、 共に哀しむこと(憐欄昌三巴色、共に喜ぶこと(同喜沼津玲
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門芝、共に努力すること(冨宮可与g )
を特徴と 仰 するすべてのことを包含している L といっているように、シュヴァイツアーにとってはまったく現実に即した倫理 的・宗教的観念であったのである。そこでシュヴァイツア!の苦悩は、人間だけにかぎらず、あらゆる生きものの 苦痛にもおよんだのである。したがって、﹁われわれはだれもが、この世界に加わる悲痛の重荷のすべてを背負わ 側 なくてはならないということは自明のことと考えるしといい、かれはこの悲惨な事態を少しでも根絶しようと、意 欲と希望をもって困難に立ち向かっていったのである。こうした自らの態度を寸楽観的 L ( O 宮 山 田 町 立 ∞ 岳 ) と ま で よ ん で い る が 、 かれは一個の自由人として慈善事業に奉仕できることをふかい感動をもって神に感謝していたので あ る 。 かれ自身のプロテスタンテイズムの枠を超えて、 どこまでひろく人間性の理念を実現することができるのか。また、寸生きんとする意志﹂ははたして神の意志なの か。さらに、これを﹁愛の意志﹂と即断してよいものかどうか、そこが宗教教育学上の問題として指摘できるであ し か し 、 シュヴアイツアl
の﹁生命への畏敬﹂ の 倫 理 と 宗 教 が 、 ろ ﹀ つ 。 マーチンは、その論文寸生命への畏敬の再検討し(阿佐洋E
ロ 片 山 口m
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のなかで、環境倫理(
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凹)の立場からシュヴァイツアl
の﹁生命への畏敬﹂の倫理を再検討し、これは今日の環境 倫理に関連したテ l マを多く含んでいるといい、シュヴァイツアーは﹁生命中心倫理(学)﹂のパイオニアである 320ー 龍谷大学論集と評価している。しかし、 シュヴアイツアーもいうように、 われわれ人聞は生きものの頂点にいるわけではないこ シュヴァイツアーはわれわれに対して次のように戒めている。﹁宇宙の歴史のなかで、人 聞はほんの一瞬しかこの地球に存在しないのである。しかも人聞が地上に存在しなくなっても、地球はやはり太陽 の周囲を廻るであろうことを、誰か知っているであろうか。、それ故にわれわれは、人聞を宇宙の中心に据えてはな らないのであ
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と。われわれ人間はこれまで、他の多くの生きものと共生・共存するための﹁棲み分けL
を人間 とを忘れてはならない。 の都合で一方的に行ってきた。しかし戦争や核開発、環境汚染などによってこれ以上欠けがえのないこの地球を汚 染し破壊していくことはゆるされないのである。とくに遺伝子組み換えやE
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細胞研究、生殖医療など、生命科学 の分野ではいっそうの安全性と慎重さが求められねばならない。 上述したように、シュヴァイツアーはすべての存在のなかに﹁生きんとする意志﹂を見出したが、この意志が神 の意志であり神の愛であるとするならば、これは他の生命を﹁生かそうとする意志 L であらねばならない。﹁生き んとする意志﹂は、他の生命を蔑ろにするような自己中心的意志であってはならないはずである。むしろ他の生命 を生かし、他の生命と﹁共に生きんとする意志 L でなければならない。自己中心的な寸生きんとする意志﹂ほど怖 ろしいものはない。これは無差別に他の生命を殺害する悪魔の意志ともなってしまう。われわれは﹁生きんとする 意志 L から、他の生命と共に生き﹁他の生命を生かそうとする意志﹂ へと転換すべきである。かつて最澄 3 2 1 のなかで、﹁悪事(嫌なこと)を己れに向へ、好事(好いこと)を他に与へ、己 倒 れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり﹂と言ったが、われわれは﹁他を利する﹂(他の生命を生かす)努力を ∞ N N ) は ﹃ 山 家 学 生 式 ﹄ ( 六 条 式 ) していかなければならないであろう。ここに大乗仏教の精神がある。 シュヴァイツアーの「生命への畏敬」と宗教教育(海谷) 。 , “ 9dお わ
り
ボルノウも指摘したように、 シュヴァイツアーには畏敬そのものについての十分な考察が欠けていたといわざる を え な い 。 シュヴァイツア l の寸畏敬 L 概念は、げつきょくゲ l テを超えるものではなかった。ゲーテは、畏敬を、 ﹁上のもの﹂と﹁同等のもの L と﹁下のもの L というように、上下関係で捉えた。また、 キリスト者としてのシユ ヴァイツアーは寸神の国﹂の理念から離れることができなかった。というのは、﹁神を畏れよ!﹂(司g
吋 の 。 仏 一 ) と いう絶対的な神の命令から離れられなかったのである。しかし、われわれはこうしたキリスト教的制約から離れて、 も っ と 精 神 性 ( 印 立 江E
巳昨日刊)をもった﹁いのち﹂そのものへ向かわなければならないであろう。ボルノウは﹁畏 敬は、教えることができない﹂といったが、戦前、寸教育勅語﹂によって天皇への畏敬の念が教え込まれたように、 畏敬の念はまったく教えられないわけではない。 ﹁畏怖﹂としての畏敬ではなく、﹁恭謙﹂(慎み深く謙虚である)という点において仏教の立場は特異である。大 ナ マ ス カ l ラ 一 乗菩薩道の大成者であり実践者であったナ l ガ l ルジュナは、大乗仏教の教化方法としての﹁恭敬L
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-そん U ゅ う5
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について説示している。すなわちナ l ガ l ルジュナは、寸恭敬は、尊重、礼拝、迎来、送去、合掌、 し ん U 倒 親侍に名づく﹂といい、われわれが恭敬の心をもって生き、行動すべきことを教えているのである。 詳しく述べるならば、恭敬とは、すなわち、①人やものを大切にすること(尊重)②人やものをうやまい拝む こと(礼拝)、③来るものを温かく迎えること(迎来)④去るものを丁寧に送ること(送去)⑤真心から手を し ん 合わすこと(合掌)⑥親しく仕えもてなすこと(親侍)、である。このように、恭敬の心と態度は、身(からだ) さ ん ご う と口(くち)と意(こころ)の三業(三つの行為)として全人格的に表現されるものであり、自分自身がさまざま な思恵(他者の力や助け)をいただいて生きていることに感謝し、喜びと希望をもって前向きに生きることを示し n r “ 。 r u q 喝 υ 龍谷大学論集ている。とくに﹁親侍﹂とは、親身になって相手に仕え、そばにいて力になってあげることである。こうした恭敬 の実践を通して、さまざまな﹁いのち﹂のつながりの中にある自分というものを喜ぶことができるようになる。 ﹁ 緩 和 ケ ア ﹂ ( 宮 毘 巳