﹁
文
芸
都
市
﹂
││注釈的覚書││
と井伏鱒二
越
谷
宏
前
井伏鱒二の文壇デビューへの契機になったのが﹁文芸都市 L である。おそらく﹁文芸都市﹂への同人加入がなけ れば、デビューの仕方は大きく変わったであろうと思われる。だが、 J 文芸都市﹂時代、あるいは、その前後の井 伏鱒二がどうであったかについては、当事者たちの回想に揺れや矛盾がみられ、何よりもそれらを裏付げる資料の 散逸が激しく、今なお不明な点も多い。ここでは、﹁文芸都市﹂と井伏鱒二をめぐるいくつかの問題について、注 釈的に中間報告をしてみたい。 ~、一
、、-- -寸文芸都市﹂が発刊されたのは昭和三年二月である。 横光、川端氏らの新感覚派の﹁文芸時代﹂が、一応輝かしい功績を残して三十二号で廃刊したのは、その前年 の昭和二年五月である。この﹁文芸時代﹂がまだ出ているうちに、﹁文芸都市﹂(最初は﹁糧道時代﹂と命名され 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷)-435-ていた)を出す話が持ちあがり、 それが噂となったと見え、烏合の衆の新人群に何ができようぞ、こういった旨 の六号記事が﹁文芸時代 L に載ったのを覚えている。 そもそもの肝煎りは﹁辻馬車﹂の崎山猷逸、それから寸朱門﹂の古沢安二郎あたりだったと思う。ぽくは気が つかなかったが、そういう六号記事が載ったには、世代転換の一応の期待が一般に持たれていたからだろう。だ が 、 ﹁ 文 芸 都 市 L のメンバアは一応集められたものの、さてとなって、雑誌を引受けてくれることになっていた 肝腎の本屋の当てがはずれたらしく、話は一時そのまま立ち消えになっていた。ところが、徳田戯二という人物 がとつぜん現われ、どういうつもりでか、ぜひ﹁文芸都市 L を出させてくれと申し出、急に出ることになったの 浅見淵﹃昭和文壇側面史﹄(一九六八・二、講談社、九八頁) だ 。
O
﹁ 糧 道 時 代 ﹂ 1 1 田辺茂一の﹃あの人この人五十年﹄(一九七八・六、東京ポスト)にも﹁実はあの﹃文芸都市﹄ が創刊される前に、﹃糧道時代﹄という名の雑誌を出す案もあり、飯島正、高橋邦太郎君らも、いく度か会合し、 美学専攻で故人になった山際靖君が編集担当という企画であった﹂(九O
頁 ) と あ る 。 確かに一九二八年八月号﹁文芸都市﹂掲載の﹁北村小松小論﹂の寸附記﹂で、当の飯島正が﹁以上の文章は昨年 の夏、生るべくして生れなかった、雑誌﹃糧道時代﹄のために書かれたものであるが L ( 六八頁)と記している。 高橋邦太郎、山際靖、飯島正、それぞれ一八九八年、一九O
一 年 、 一 九O
二年生まれ。高橋、飯島は東大仏文科、 山際は東大美学科である。飯島は﹁文芸都市﹂同人となるが、他の二名は同人ではない。﹁文芸都市﹂の前史とし て寸糧道時代しがあったとしても、その中心メンバーが、この三名では、やや接続しにくい。ところが、梶井基次 郎の書簡等を見てみると、﹁糧道時代 L 創刊に向けて中心的に活動したのはこの三名ではないようである。 梶井基次郎の一九二七年六月一O
日、近藤直人宛書簡に﹁それからまだこんな変動が私の身体について起ってゐ - 436一 龍谷大学論集ます。その一つは青空の解散です。も一つは新雑誌が私へ同人として入ることをすすめてゐるのです。この新雑誌 は一口に云へば新進の連中を十数人あつめたもので、ある本屋からこの九月出る予定です﹂(﹃梶井基次郎全集第三 巻﹄一九五九・七、筑摩書房、二七六頁、句読点を補った││引用者注)とある。この﹁新雑誌﹂﹁糧道時代 L に 梶井を勧誘したのは古沢安二郎とのことであるこ九二七年二一月六日、浅見淵宛書簡)。一二月五日、淀野隆三 宛書簡には﹁それからもう一つ新しい事件は浅見の兄さん(浅見淵││引用者注)から昨日手紙が来て、今度糧道 時代と同じ献立で文芸都市といふ雑誌が出る。それの同人にならないかと云って来た。今度は古沢阿部が誰も青空 の人は推薦しなかったらしい。それで浅見君がしゃくに触って僕を推薦したのださうだ。(略)相不変帝大からは、 今、舟橋、古沢、阿部、崎山など﹀いふいやな連中ばかりが出てゐて、こんな連中と顔を並べるのはどう思っても そんなことも予め浅見君に断っておいて入らうかと思ふ﹂(三
O
五頁)とあり、翌一二月六日、浅 い や な の だ が 、 見淵宛書簡には﹁それから雑誌のことで僕は崎山猷逸君もどうやら嫌ひらしいのです。朱門系、辻宮崎車系がきらひ で す L ( 三O
九頁)とまで記している。阿部知二、古沢安二郎は寸青空 L 同人でもあるのだが、梶井の意識におい て両名は、未だ﹁朱門﹂同人でしかないようである。この梶井書簡に出てくる数名が﹁糧道時代﹂の中心メンバー であるならば、﹁今度糧道時代と同じ献立で文芸都市といふ雑誌が出る L というのもうなずけるのである。 だとすると、﹁青空 L ( 一 九 二 七 ・ 五 ) 、 ﹁ 新 思 潮 ﹂ ( 一 九 二 七 ・ 六 ) 、 ﹁ 辻 馬 車 L ( 一九二七・七)と三回連続で行わ れた、帝大内同人雑誌と帝大文芸部との連合合評会の三回目開催時(六月二一日)には、というよりも、プロレタ リア芸術連盟と労農芸術家連盟の分裂劇が行われていたちょうどその時、非左翼系若手の大同団結(呉越同舟?) が図られていたことになる。それは、帝大同人雑誌連盟が﹁少数分子を駆逐﹂し﹁辻馬車・鄭弾兵・創造・青空・ 鍛冶場・文芸交錯・文芸精進の七同人雑誌と、新たなる戦闘分子との、左翼的結成による大学左派﹂(寸大学左派 L 一九二八・七、創刊号、寸編輯を了へて﹂一一五頁)の結成のほぽ一年前の出来事となる。﹁駆逐 L される前に自主 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) ウ s q t u a A τ的避難が図られていたということになるのだろうか。後に触れるが、その頃、井伏もまた、左傾化する﹁陣痛時 代﹂から距離を置き始めたと考えられる。
O
﹁烏合の衆の新人群に何ができようぞ﹂││一九二六年一二月号から一九二七年五月号までの﹁文芸時代﹂にそ のような記事は見当たらない。﹁文芸春秋﹂一九二八年一月号に載った川端の文章﹁片岡・横光等の立場 L の記憶 違いであろう。川端はそこで﹁例へば今日雑多な同人雑誌に分散して多少ともその作家的才能を認められてゐる新 作家達のうち非プロレタリア文学的傾向の人々ーーさう伝へ聞いてゐるーーが集って一つの雑誌を出すとか云ふ計 画がある。(略)どこそこの幼稚園の生徒がラヂオで童謡を放送したとか、どこそこの少年団が赤い帽子を揃へた とか、そんなことに近いものとならなければ幸である﹂(二六頁)と郷撤している。これが、﹁文芸都市﹂創刊号の ﹁創刊の辞に代へて﹂での阿部知二、高橋敏夫、舟橋聖一らの反発を呼んだのは有名である。﹁文芸時代 L 創刊号 と﹁そっくり同じ編集の体裁﹂(﹁解題﹃文芸都市﹄ L 小田切進﹃現代日本文芸総覧中巻﹄一九六八・て明治文 献、五一五頁)でスタートを切った﹁文芸都市 L が、川端批判から始めなりればならなくなったわけである。これ が後を引き、﹁文芸春秋 L 二月号では﹁﹃古い新人倶楽部﹄の人達が同人雑誌を出すさうだ。川端康成氏が前号本誌 で云ってゐるやうに、もう誰も充分な関心をもち得ないし(五六頁)とか、三月号の﹁﹃文芸都市﹄と云ふ雑誌あり。 川端康成をやツつけることのみ専門にしてゐる雑誌なり L ( 二三頁)と、皮肉られることになる。O
﹁そもそもの肝煎りは﹃辻馬車﹄の崎山猷逸、それから﹃朱門﹄の古沢安二郎あたりだったと思う﹂││高見順 は﹁﹃文芸都市﹄創刊号には、編集責任者として、崎山猷逸、徳田戯二、古沢安二郎の三人の名が掲げてあるが、 実権は崎山と舟橋の二人が握っていて、/﹃崎山猷逸は、その時分、大ボスだった﹄/と田辺は私に言った﹂(﹃昭 和文学盛衰史﹄一九六七・八、角川文庫、一六五頁)としている。井伏は﹁私は同人になって最初のとき、崎山猷 逸氏に連れられて会合に出席した。その時私は主宰者らしい人物(それが舟橋君であった)は四十歳くらゐの年齢 -438一 龍谷大学論集で あ ら う と 思 っ た ﹂ ( ﹁ 舟 橋 聖 一 氏 月
E
﹂一九=二・六﹁新月﹂全集第三巻一四二頁)と、回想している。O
﹁雑誌を引受けてくれることになっていた肝腎の本屋の当てがはずれたらしく L │ │ ここでいう﹁本屋の当て L とは不明。一九二七年一二月一三日付﹁読売新聞﹂の﹁よみうり抄﹂欄に 7 a ﹃文芸都市﹄創刊新年号から崎山、 徳田、古沢三氏編輯する﹂とあり、三O
日付﹁読売新聞﹂には﹁新人クラブの﹃文芸都市﹄発行同人会﹂との記事 がメンバー一二人の集合写真とともに掲載される。この記事には﹁新春二月号から新宿紀の国屋書庖から発行され ることになった﹂とある。当の田辺茂一もこの会合に参加しているのであるが、紀伊国屋書居が﹁文芸都市﹂の発 行元になるのは一九二八年七月号からである。 また、浅見の回想に﹁発刊が決まった創刊前年の昭和二年の暮れの十二月の押し詰まった日に、きっと徳田君の 無理算段の才覚であったのだろう、同人一同がいま結婚式場として栄えている、しかし当時は大衆的な牛肉屋に過 ぎなかった小石川春日町の大国という庖の二階の一室に招かれ、牛鍋をつつきながら初めて一緒に酒を飲んだ﹂ ( 前 掲 書 、 一OO
頁)とある。尾崎一雄もコ一年暮、春日町の大国といふ肉屋で会ったのが、私としては新人クラ プの連中との初顔合せであった L ( ﹃あの日この日(二)﹄一九七八・八、講談社文庫、二三三頁)としている。徳 田戯二の自筆﹁年譜 L ( ﹃ 徳 田 戯 二 選 集 ﹄ 一 九 五0
・一、エリゼ文学社)にも寸華々しい発足で読売新聞は全面的に 新人に応援して紙面を割き、十二月三十日付写真と報導を発表した。その発行同人会に参加して撮影してゐるの は﹂とある。この大国での初会合の集合写真が﹁読売新聞﹂に掲載されたものと推定される。ただ、﹁読売新聞﹂ のキャプションには、尾崎一雄の名前が欠落しており、徳田戯二も一一名の名前を挙げながら、﹁の十二氏であっ たが﹂と受けている。おそらく﹁読売新聞﹂掲載写真、後列左端が尾崎一雄だと思われる。なお、この写真撮影の あと、﹁尾崎一雄の武勇伝 L ( 浅 見 前 掲 書 、 一OO
頁)が繰り広げられることになるのだが、その原因に、早くも東 大派と早稲田派の乳擦があったようだ(尾崎前掲書、二三五頁)。 「文芸都市Jと井伏鱒二(越前谷) -439一。寸徳田戯ニという人物がとつぜん現われ、どういうつもりでか、ぜひ﹃文芸都市﹄を出させてくれと申し出、急 に出ることになったのだ﹂││たしかに﹁文芸都市﹂創刊号掲載の﹁新人倶楽部の規定と会員﹂に﹁第一回﹃文芸 都市﹄編輯及常任幹事は崎山猷逸、徳田戯二、古沢安二郎の三氏と決定﹂とあり、創刊号の﹁編輯後記﹂は徳田戯 二、第二号は崎山猷逸、第三号は古沢安二郎がそれぞれ担当している。徳田は、寸文芸都市 L 創刊号﹁創刊の辞に 代へて L に、寸此の仕事のために費した苦心に就いて、崎山猷逸、古沢安二郎並に僕の努力は倶楽部員全部も認め て呉れると思ふ﹂と記している。また、徳田は、一九二八年五月二五日付寸読売新聞﹂に﹁文芸萌芽の時代 L と い うエッセイを寄せているのだが、この記事に関しても徳田﹁年譜﹂では﹁創刊に当って読売新聞紙上に﹃文芸萌芽 時代﹄の題で新文学運動に対する抱負を代表で徳田戯二が発表した﹂と記している。さらに、一九二八年八月号 寸創作時代﹂が﹁同人雑誌の経営・編輯・傾向・抱負 L という特集を組んだ際、そこに﹁三田文学﹂﹁新正統派﹂ ﹁大学左派﹂﹁葡萄園﹂等と並んで、徳田が﹁文芸都市﹂を代表(?)して、﹁集団的同人雑誌の編輯、経営、抱負、 傾向等々について L という文章も寄せている。さらには、徳田寸年譜 L 、一九二八年七月の項には﹁各派の中心を なすため感情問題が発生し、遂に新人倶楽部を脱退す﹂ともある。他の同人がどう思っていたかはともかく、創刊 当初、徳田自身は、﹁文芸都市 L の寸代表 L で 、 寸 各 派 の 中 心 L にいたと思っているようである。 先の﹁集団的同人雑誌の編輯、経営、抱負、傾向等々について﹂で、徳田は、﹁﹃文芸都市﹄は御承知の様に各流 派の合体であって、文学に於ける一つの交響楽団的存在の同人雑誌である﹂と認めている。この寸各流派の合体﹂ の端的な表れが、印刷所の変遷となって表れている。創刊号は秀巧舎、第二号が国華堂、第三号が再び秀巧舎、第 四号が三妙社と毎号変わっている。秀巧舎とは﹁青空﹂の印刷所だが、この号編集の徳田戯二の属していた﹁文芸 耽美﹂の印刷所でもあった。国華堂もまた、この号編集の崎山猷逸が属していた﹁辻馬車 L の印刷所であり、三妙 社とは、早稲田組が出している﹁新正統派 L の印刷所でもあるのだ。迷走している感は否めない。 440ー 龍谷大学論集
もう一点気になるのは、創刊号の一九二八年二月号から六月号までの四冊の﹁編輯兼発行人﹂が、高崎鐘一とな っていることである。高崎は﹁新人倶楽部﹂の会員ではない。高見、尾崎、浅見の各著にもみあたらない。確認で きるところでいえば、徳田の加わっていた﹁文芸耽美 L ( 一九二七年七月号、八月号、一一月号││九月号、一
O
月号は休刊)の﹁編輯兼発行人﹂が高崎鐘一となっていることである。﹁文芸都市﹂﹁文芸耽美﹂とも高崎鐘一の住 所は寸東京市本所区林町三丁目五十五番地 L で一致している。さらに、﹁文芸耽美﹂の一一月号は終刊号になるの だが、その﹁編輯後記﹂末尾に徳田は﹁高崎君の父君並に水谷利三郎氏中井哲氏に経済的高助を得たことに就いて 深く感謝をこめる次第であります L と記している。一九二七年七月号﹁編輯片言 L に、高崎鐘一が短文を寄せてお り、この高崎鐘一の﹁父君﹂が、﹁文芸耽美﹂の経済的援助者の一人なのであろう。寸文芸都市﹂創刊号には、文芸 同人誌に不似合いな高崎金庫の広告が掲載されているが、その営業所が﹁東京市本所区林町三丁目五十五﹂であり、 販売所が﹁東京市日本橋区馬喰町二丁目 L なのである。この﹁東京市日本橋区馬喰町二丁目﹂は、﹁新人倶楽部﹂ の﹁東京市日本橋区馬喰町二ノ六﹂と一致している。つまり、寸新人倶楽部﹂を高崎金庫の販売所に置いていたこ とになる。徳田戯二は、高崎鐘一を寸編輯兼発行人﹂にすることによって、この高崎金庫から財政的援助を引き出 していた可能性があると思われるのである。 ﹁文芸都市﹂創刊同人一八名のうち、崎山猷逸、舟橋聖一、尾崎一雄、浅見淵は、﹁﹃新潮﹄としては新人発掘の 初めての画期的な試み L であり﹁文壇予備軍の文学青年たちの聞に思わぬ反響を呼んだ﹂(大村彦次郎﹃ある文芸 編集者の一生﹄二OO
二・九、筑摩書房、三八1
三九頁)とされる一九二六年一O
月号﹁新潮﹂の特集新人号に選 抜されているのである。このときの編集者・楢崎勤も﹁この特集号は稀有の反響を呼んだ﹂(﹃作家の舞台裏﹄一九 七0
・一一、読売新聞社、七O
頁)とし、梶井も選ばれたが健康の理由で書けなかったという。もし、梶井が書い ていたら有力新人選手にノミネートされた一二名のうちの五名を抱えるエリート選抜チl
ムが﹁文芸都市 L で あ っ 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) d a T a a‘たということになる。続いて、﹁不同調﹂一九二七年二月号が新人号特集を組むのだが、そこには崎山正毅、蔵原 伸二郎、そして井伏も選抜されているのである。伊藤整の言葉を借りれば、﹁同人雑誌の中の秀才を集め﹂た﹁文 芸都市﹂は﹁私などそのあとで小説を書き出した者は近づく機会もないやうな発表機関だった﹂(﹁紀伊国屋書店談 ( 遺 稿 ) L ﹃株式会社紀伊国屋書庖創業五十年記念誌﹄一九七七・五、紀伊国屋書底、五
01
五一頁)となる。少し 品のない言い方をすれば、徳田戯二が高崎金庫というパトロンを連れてでも、﹁文芸耽美 L の代表選手として﹁文 芸都市﹂に加わりたかったというのも分かる気がするのである。-、
一
一
、、../ 全十九冊揃いと伝えられた収蔵冊数も、実際には十六冊分を確認しうるのみであり、 定するには疑念も払拭しがたい。 それをもって﹁揃い﹂と断 ( 寺 横 武 夫 ﹁ 井 伏 鱒 二 と ﹃ 文 芸 都 市 ﹄ ﹂ 一 九 八0
・ 一 ﹁ 日 本 文 学 L 七 一 頁 ) 彦根の舟橋聖一文庫(現在、彦根市立図書館内)から﹁文芸都市﹂が発見された際、それを取り上げた新聞報道 によってさまざまな誤解が生じた。それを正すべく、寺横武夫は、同文庫の調査をし、その報告を﹁日本文学﹂誌 上に発表した。﹁文芸都市﹂のやっかいなところは、巻号数に乱れがあることであり、寺横も﹁したがって、その 号数は何年何月号と呼ぶのが実状になじむようである﹂(七一頁)としている。ただ、年月数で呼んだ場合にも、 空白の月があり、全一六冊をもって﹁揃い﹂とするか、散逸があるのかの判断に迷うところだというのである。今 一度、ここで、再検証してみたい。①一九二八年三月号と五月号の聞に四月号がないということ。②八月号と一O
月号との聞に九月号がないということ。③一一月号と一九二九年一月号との聞に一一一月号がないということ、につ -442ー 龍谷大学論集い て で あ る 。 ①について。五月号掲載の作品のうち、脱稿日付を持つものは、﹁片山先生告別式前後﹂との副題を持つ尾崎一 雄﹁覚え書﹂と、飯島正﹁スペクタアクル﹂、阿部知二﹁愛のない風景﹂の三篇である。それぞれコニ月十日朝六 時﹂、﹁(二月十二日)﹂、﹁一九二八、三、七﹂とある。﹁文芸都市﹂で脱稿日付のあるものから考えると、ほぽ前月 一
O
日前後が締め切りとなっていたかと思われる。だとすると、これら三篇は、四月号に十分間に合った作品とな る。また、五月号﹁合評会拾遺﹂では、徳田戯二がコニ月号合評会に就いて﹂と語り、今日出海が﹁文芸都市三月 号 を 手 に し た ﹂ と い い 、E
坂健吉が﹁文芸都市││三月号の作品を見る﹂という。四月号という文字はどこにもな い。翌六月号の﹁編輯雑記﹂には、﹁尾崎君が前月の発行遅延を不当として早々原稿を速達せられた好意は編輯当 番として非常に感謝した次第である﹂とある。つまり、四月に出るべき号が五月号になったということであろう。 また、﹁浅見君に三妙社の件で多忙の中を種々と御尽力を得た﹂ともあり、四月号遅延に関しては印刷所との聞に なにかトラブルがあったのかもしれない。通例、奥付の印刷日は二五日、発行は一日となっているが、五月号に関 し て は 、 四 月 一O
日印刷、五月一日発行と変則になっている。原因は不明だが、四月号が遅延し、それがそのまま 五月号になってしまったのだと推測できる。 ② に つ い て 。 一O
月号掲載の作品のうち、脱稿日付を持つものは、井上幸次郎 1 九月の作品﹂、飯島正﹁露はな 首 L 、舟橋聖一﹁魁魅﹂の三篇である。それぞれ﹁二八・九・八﹂、﹁二八・七│八﹂、﹁一九二八・九・七﹂とある。 井上、舟橋の両作は一O
月号用原稿となるが、飯島正のは八月号に間に合う脱稿の日付となっている。八月号﹁編 輯後記﹂に﹁飯島、浅見、加藤君の原稿を次号廻しにしなければならなくなった事を遺憾に思ふ。編輯上の都合を 諒とせられ度い。/九月号には舟橋、飯島両君の戯曲が出る事になってゐる御期待をまつ﹂とある。﹁次号廻し﹂に されたとされる浅見、加藤の作品は、この一O
月号に見られないが、飯島正の寸露はな首﹂は戯曲ではなく小説で 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) -443一あり、脱稿日付からみて、これが﹁次号廻し L にされた原稿ではないかと思われる。 針を変へた﹂とあるように、表紙(北園克衛)、目次の体裁も大きく変化している。こうした事情があって九月号 が休刊になったのかもしれない。 ③について。二九年一月号掲載の作品のうち、脱稿日付を持つものは、舟橋聖一寸演劇時評﹂、高橋敏夫寸年を 過ぎる﹂と、寸心座新劇協会合評会﹂の開催日付である。それぞれ二九二八・十二・三ヘ寸十一月三日 L 、 ﹁ 一 九 二八、二了六﹂とあり、高橋のは、本来一二月号に掲載可能な日付を持つ。雅川混﹁文芸時評﹂の寸世界的文学 への傾向﹂の末尾には寸十一月稿﹂、最後の附記には﹁十二月稿﹂とあり、園田頭は寸僕は、本誌の前月号に於て、 現代日本文学の傾向を、第三次の世界的色調への浸潤と見ると云ふ暗示のもとに、﹃作家の生活﹄に関して一言し たが﹂と始まる。この一節は、一一月号﹁文芸時評﹂の﹁現代日本文学の傾向を、第三次の世界的色調への浸潤と 見てゐる﹂を受けたものであり、これが﹁本誌の前月号﹂であれば、一二月号は刊行されなかったことになる。 一
O
月号より、﹁多少編輯方 444ー 龍谷大学論集 ②③の休刊に関しては、東大派・早稲田派の乳様、さらには早稲田派の脱退という一件が関与していることが十 分考えられる。浅見、尾崎前掲書によれば、ことのきっかけは井上幸次郎の発言にあったようだ。井上の同人参加 は 一 九 二 八 年 一O
月号からだが、井上は、参加が寸まだ正式に決定されないうちから﹂﹁編集会議があったりする と、もう積極的に出席していた L ( 浅 見 前 掲 書 、 一O
七頁)という。そこでの発言が東大派の反発を招き、編集が 委員制になったという。たしかに、井上の同人加入のこの一O
月号から、崎山、蔵原、古沢、舟橋、浅見の五人体 制になっている。一一月号の編輯後記は、古沢のみとなっているが、二一月号休刊ののち、一月号では井伏、阿部、 蔵原の三人体制に復活しているのである。浅見は﹁ぽく達が﹃文芸都市﹄を脱退したのは、というよりも追放され たのは、創刊の年の昭和三年の九月頃でなかったか L ( 一O
五頁)と回想する前、誌面上では、一O
月号の寸同人 消息 L にも一一月号の寸同人漫語﹂にも、尾崎、浅見、井上の名前がでてきているのである。ただ、こうした混乱が 九 月 号 、 一 一 一 月 号 の 休 刊 を 招 い た で あ ろ う こ と は 、 容 易 に 推 測 で き & 。 "..司、
一
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、同国〆 私は﹁陣痛時代﹂といふ雑誌の同人であった。左翼文学が圧倒的に流行してゐた当時なので(一九二七年ご ろ)私をのぞくほか同人全部は左傾の決議をして、雑誌の名前も﹁戦闘文学﹂と改めた。しかし流行する思想に 対して気無精であった私は、さびしかったけれど同人諸君の諒解を求めて独り脱退した。﹁戦闘文学 L は後にな って寸戦旗﹂に合流し、﹁陣痛時代﹂当時の私の旧友諸君はみんな実行運動の闘士になった。 井伏鱒二寸文芸都市前後﹂(一九三六・八・三﹁報知新聞﹂、全集第六巻、 一 五 二 頁 )O
寸陣痛時代﹂││現物確認されているのは一九二六年一月刊の創刊号のみである。他は、主として井伏自身の文 章から推測する他はない。井伏の﹁競馬その他 L ( 寸 桂 月 L 一九二七・三)に寸一月号の文芸同人雑誌のうち陣痛時 代 が 最 も す ぐ れ て ゐ た ﹂ ( 第 一 巻 一 一O
頁)とあり、寸文章其他﹂(寸桂月﹂一九二七・五)には﹁文芸同人雑誌陣痛 時代は私の愛読書の一つである﹂として、大森頼巳の寸或る老人と犬の話﹂、能勢行蔵の短編、佐々木隆彦﹁第一 慾﹂を取り上げ、古賀栄一が﹁この雑誌の同人のうちで最も詩人である﹂(第一巻一一三頁)ともいう。また、﹁能 勢と早川﹂(﹁桂月﹂一九二七・六)では、能勢を指して寸毎月陣痛時代といふ文芸同人雑誌が出てゐる。彼はその 同人のひとりであって、恥しからぬ仕事をしてゐると私は思ふ﹂(一一五頁)と評価、早川に関しては﹁私は早川 部緒をあまりよく知らない L としながらも、ー善良社会のW
・ C ﹂を読んで﹁彼の新鮮なる才能と勇敢なる美学と を尊敬する念で一ぱいになってしまった﹂(第一巻一一六頁)と記している。さらに、﹁岡穂の実を送る﹂(﹁桂月﹂ 一 九 二 七 ・ 一O
)
でも、能勢の﹁﹃街﹄といふ短篇はおそらく立派だと思ひました﹂、寸笹木隆彦といふ人が支那人 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) -445一のことを題材としてドラマを発表しました。可成り評判がよかったゃうです﹂(第一巻一四五頁)とある。同じ 寸陣痛時代﹂の同人とするならば、まるで外野スタンドから応援しているような、何とも不自然な書き振りであり、 ﹁一九二七(昭和二)年に入ってからの井伏はすでに﹃陣痛時代﹄から実質的に離れていたのではないかとも疑わ れる﹂(﹁井伏鱒二│﹁無名不遇﹂時代の位相│﹂﹁解釈と鑑賞﹂ てくるのも、なるほどと思わざるを得ない。 一九九八・六、九三頁)との東郷克美の推測が出 ただ、何分、﹁陣痛時代﹂に関しては創刊号のみしか確認できず、上記井伏文の他には、﹃現代日本文学全集﹄い わゆる円本全集の別巻として刊行された﹃現代日本文学大年表(附)社会略年表﹄(一九三一・一二、改造社)の 一九二六年一一月の項に﹁陣痛時代﹂掲載作品として、大森頼己﹁夜中に帰った友 L 、宇賀三十三﹁のぞみ﹂、吉伸 豊﹁父 L が挙がっているぐらいである。 。寸私をのぞくほか同人全部は左傾の決議をして﹂││寸陣痛時代﹂同人が全員左傾し、﹁戦旗 L に合流したと 井伏はいうが、創刊号によれば、同人は、柿沢克明、柿沢元徳、吉伸豊、高丘和季、高山巌、字賀三十一二、井伏鱒 二、能勢行蔵、山中寛一、佐々木隆彦、古賀栄て小沼達の一二人である。この創刊同人に大森頼巳、早川都男を 加えた一四名のうち寸戦旗﹂に執筆しているのは、能勢行蔵ただ一人である。 能勢行蔵は、﹁戦旗 L 一九二八年六月号(第一巻二号)に寸馬場先門まで﹂(三八
1
三九貰)、同じく九月号(第 一巻五号)に﹁九月十六日﹂(八六1
八八頁)を掲載している。特に、後者には、﹁一九二三年九月十六日が大杉栄 夫妻の×された日である。/その前の夕方、私は柏木の彼の家の玄関先で五分間許り彼と話をした L とある。大杉 栄と寸たった二度しか会ってゐないしにしても、能勢行蔵と大杉栄に接点があったというだ砂でも驚きである。 井伏が、対談﹁徴用作家として﹂(﹃文学・昭和十年代を聞く﹄一九七六・一O
、勤草書房)で、﹁大島にいたと かいう人が﹃陣痛時代﹄の同人になっていましたが、早川君といいまして、その人の影響で、 て二ヵ月の聞にみ -446一 龍谷大学論集との証言のある早川郁男についてみてみると、﹁戦旗﹂にはないものの、 ﹁前衛﹂の一九二八年二月号(第一年第二冊)に小説寸留置場の執﹂(一三八
1
一四一頁)を掲載している。周知 のように﹁前衛﹂とは、前年の二七年一一月一一一日に創立総会が持たれた寸前衛芸術家同盟﹂の機関誌である柄、 その創刊号(二八年一月)の﹁文学部﹂の欄に藤森成吉、山田清三郎、蔵原惟人、林房雄、上野荘夫ら一六名のな かに早川部男の名前を見出すことができる。ただ、掲載作品は先の一編だげである。 ﹁ 陣 痛 時 代 L 同人ではないものの、井伏と係わりの深い人物で左傾したものといえば、光成信男を挙げなければ ならない。光成は三O
年一月号(第三巻第一号)﹁戦旗 L の﹁時事解説と講座﹂欄に寸近世科学の発生 L ( 七01
七 六頁)を発表しているが、これはかなりあとの話となる。二七年、二八年頃といえば、日本無産派文芸連盟の機関 誌﹁解放﹂の一九二七年一一月号(第六巻第一九号)に小説二本足﹂(一四一1
一五三頁)を、ニ七年一二月 号(第六巻二一号)に論説寸関節動物の共産的社会の発生要素﹂(七頁1
一六頁)を、二八年一月号(第七巻第一 号)に戯曲﹁拒婚同盟﹂(一三七1
一四五頁)を発表している。この後、日本無産派文芸連盟の機関誌は﹁尖鋭﹂ となるのだが、その二八年六月創刊号の﹁本連盟状勢報告﹂によれば、四月五日、第一回仮準備会が開催され、そ こで光成は、江口換、越中谷利一ら四名とともに、﹁仮編輯委員﹂に選出されている。さらに四月二二日の春季総 会では、先の江口、越中谷らとともに執行委員にもなっている。この﹁尖鋭 L の編集にも﹁当分の間光成信男、島 影盟の両君﹂があたることとなる、とある。かなり重要なポストについているといえよう。なお、光成は、この創 刊号には﹁尖鋭﹂欄と戯曲﹁櫨を出ろ﹂(五四1
六四頁)を、七月号(第一巻第二号)の巻頭には﹁無産階級芸術 の大衆化論再議﹂(四1
六頁)、﹁尖鋭﹂欄、戯曲﹁殺人光線﹂を、八月号(第一巻第三号)には﹁尖鋭﹂欄ととも に、原田仙二郎との対談寸無産階級大衆文芸とは何ぞや?﹂(一四1
一六頁)を掲載している。この後、﹁尖鋭﹂は へと合流し、光成は、一九二九年七月号﹁戦旗﹂付録﹁少年戦旗 L に﹁科学読物あな蜂の話﹂(六1
七 んな左翼的になったのです﹂(四二頁) 寸 戦 旗 ﹂ 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) -447一頁)、八月号﹁少年戦旗﹂に﹁科学読物寄生蜂の話﹂(四
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五頁)、九月号﹁少年戦旗﹂に寸科学読物 針 ﹂ ( 六1
七頁)を掲載している。井伏の周辺人物でプロレタリア文学に一番関与したのは光成信男であろうかと 思 わ れ も 。 雷と避雷 さて、光成の寸解放﹂掲載の﹁一本足﹂は﹃戦争に対する戦争﹄(一九二八・五、南宋書院)に再録されること になるのだが、そこには、江口換、越中谷利一、林房雄、鹿地百一、金子洋文、黒島伝治、前田河広一郎、村山知義、 小川未明、里村欣三、武田麟太郎、立野信之、壷井繁治といった鐸々たるメンバーが並んでいる。ちなみに、この ﹃戦争に対する戦争﹄が出版される切っ掛けとなったのが、﹁日本左翼文芸家総連合﹂の結成であった。この﹁日 本左翼文芸家総連合﹂の結成事情に関しては、﹁前衛﹂(一九二八・四)の﹁日本左翼文芸家総連合成る﹂に詳しい が、それによると﹁日本無産派文芸連盟﹂﹁日本プロレタリア芸術連盟﹂寸全国芸術同盟﹂﹁農民文芸会﹂﹁左翼芸術 同盟﹂﹁闘争芸術家連盟﹂﹁帝大同人雑誌連盟有志﹂﹁前衛芸術家同盟﹂の八団体、並びに個人文芸家九名の参加の もとに創立総会が聞かれたとあり、この創立総会出席者五六名の名前も列挙されている。この五六名のなかに、早 川部男、光成信男の名前もある。早川は﹁前衛芸術家同盟﹂から、光成は﹁日本無産派文芸連盟﹂からの参加とい うことである。この﹁日本左翼文芸家総連合﹂は、二八年五月﹁左翼芸術﹂を一冊刊行し、全日本無産者芸術連盟 へ と 合 流 す る こ と に な る 。 ( ナ ッ プ ) 平野謙は﹃昭和文学史﹄(一九六三・一二、筑摩書房)で、﹁全日本無産者芸術連盟(ナップ)の成立は、(略) 前衛芸術家同盟(前芸)とプロレタリア芸術連盟(プロ芸)との組織的合同を意味するが、この二団体の合併をも ととして、その周囲により小さい団体を吸収してゆく過程でもあった﹂(六七頁)というように、通例、文学史的 には﹁前芸 L と﹁プロ芸﹂の合同による﹁ナップ﹂結成と概括的に理解されているのだが、先の﹁日本左翼文芸家 総連合成る﹂にいくつかの団体名が挙がっているように﹁より小さい団体を吸収﹂していくのである。ここで注目 448ー 龍谷大学論集したいのは、﹁より小さい団体 L の一つ、﹁闘争芸術家連盟﹂である。山田清三郎の﹃プロレタリア文学史(下)﹄ (一九七五・七、理論社)の﹁闘争芸術家連盟﹂の説明には寸闘争芸術連盟一九二八年一月、杉井滋夫・字賀三 十三・能勢行蔵・山下一恥・吉永祐らによって創立、同年一一月より﹁闘争芸術﹂を機関誌として発刊、﹃無産者新 聞﹄労働農民党の支持を標梼していた﹂(一五七頁)とある。ここに、宇賀三十三と能勢行蔵の名前が挙がってく る の で あ る 。
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﹁雑誌の名前も﹃戦闘文学﹄と改めた﹂││国会図書館、及びに福岡県立図書館に﹁闘争芸術﹂の創刊号(一九 二八・こが所蔵されており、それを見ると﹁発行兼編輯者 L は宇賀三十三、﹁編輯後記﹂の署名は杉井となって い る 。 ﹁ 目 次 ﹂ は 次 の よ う で あ る 。 発刊の辞 宣言綱領 無産階級芸術理論序説(一) ﹃ 労 芸 ﹄ を 葬 れ 軍備・戦争 手掛弾 漫画 鉄鎖は乳む(小説) 解放されたる農奴(戯曲) 本部報告 ,..、、一
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、-' 花 田 龍 夫 : : : ( 四 ) 杉 井 滋 夫 ・ : ( 二 六 ) 井 口 参 生 ・ : ( 三O
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) 渡 辺 喜 一 ・ : ( 三 四 ) 宇 賀 三 十 三 ・ : ( 三 五 ) 吉 永 裕 ・ : ( 四 五 ) ( 占 ハ 六 ) 「文芸都市」と井伏鱒ニ(越前谷) -449一編輯後記 表紙 ( 六 七 ) 渡 辺 喜 一 : : ・ たしかに、宇賀三十三の小説﹁鉄鎖は乳む﹂は掲載されているが、目次に能勢の名前はない。注目すべきは、 寸 手 掛 弾 L である。そこには、﹁同人雑誌が、その本来の使命を終った﹃陣痛時代声明書﹄。今となって、まだ旧態 依然たる同人雑誌に恋々としてへばりついてゐる、御目出度いと云ふにはあまりにも悲惨な小プル、臆臨人種がゐ る、(例へば陣痛時代にヒステって居た旧義足、文芸行動)﹂との一節がある。最後にある﹁文芸行動 L とは、細田 源吉を発行編輯兼印刷人とする早稲田系の雑誌であり、﹁陣痛時代 L と同様、創刊は一九二六年一月である。ただ、 ﹁文芸行動﹂に寸陣痛時代﹂を部撤するような記事はなく(﹁陣痛時代﹂という固有名調すら見当たらなかった)、 寸陣痛時代にヒステって居た旧義足、文芸行動﹂とは、何を意味するのか不明。また、井伏のいう寸左傾の決議 L に相当するかと思われる﹁陣痛時代声明書 L なるものについても一切不明。 ﹁ 闘 争 芸 術 連 盟 行 動 日 誌 L の﹁本部報告 L の項﹁十二月十四日(正しくは四日││引用者注)本部に第一回創立 総会開催、連盟規約、連盟委員決定﹂とあり、﹁文学部日誌﹂のその日には﹁創刊号編輯方針決定﹂ともある。結 成は一九二七年一二月四日となる。また、この﹁日誌﹂﹁十二月十八日﹂の欄には﹁検閲制度改正期成同盟文学部 懇談会へ吉崎、能勢出席、即時間同盟へ加入 L とある。ここに出てくる﹁能勢﹂が﹁能勢行蔵﹂のことである。 との﹁闘争芸術﹂こそが、井伏の言う﹁戦闘文学﹂なのではないか。実は、井伏が﹁陣痛時代﹂の左傾のことを 具体的に記したのは、J元結しない月なみな生活﹂(寸文芸通信﹂一九三四・こが最初なのだが、そこには次のよ う に 記 さ れ て い る 。 ﹁不同調﹂には﹁乳母車﹂といふ十一枚の小品を書いた。それより以品別であったか後のことであったか忘れ -450-龍谷大学論集
たが、友人十数名と同人雑誌﹁陣痛時代﹂をはじめた。私は一号に小品﹁寒山拾得﹂といふのを出し、二号に 寸 岬 の 風 景 L といふ短篇を出し、三号のとき脱たいした。同人はみんな左傾したのである。雑誌の名前も寸闘 争芸術﹂と改められ、つづいて同人はみんな﹁戦旗﹂に合流した。(第四巻三二六頁) 一九三六年一一月の﹁沿線雑記﹂(﹁文芸首都﹂)以降、﹁難肋集﹂でも﹃荻窪風土記﹄でも、﹁陣痛時代﹂は左傾 化して﹁戦闘文学﹂と改題したとなったとなるのだが、唯一ここでは、﹁戦闘文学﹂ではなく、﹁闘争芸術﹂となっ て い る の で あ る 。 では、﹁闘争芸術連盟﹂とはどのような団体か。寸発刊の辞﹂には、﹁我が闘争芸術連盟は左翼運動主体たる我等 の労働農民党の統一下に、その主体性を反映し之を確保することに於いて行動するのみならず、その指導下に共同 闘争に参加する。葱に我が闘争芸術連盟の理論的根拠及び其の特殊性が在るのだ﹂とある。また、一九二七年一二 月の日付を持つ﹁宣言綱領 L では﹁現段階に於ける具体的行動綱領 L として、以下の八点を挙げている。 てプロレタリア芸術技術に拠る行動 二、プロレタリア芸術理論の確立 三、機関誌の発行及び講演会、展覧会、演劇会等の開催 四、プロレタリア芸術運動に積極的に参加せんとする芸術家及び読者観覧者の糾合結成 五、左翼芸術家団体との共同闘争の提唱及び提唱されたる共同闘争への参加 六、労働農民党の積極的支持及党指導下に行はれる闘争への参加 七、無産者新聞の積極的支持 八、左翼団体の闘争への参加 組織に関しては、第二号に﹁闘争芸術連盟規約﹂が掲げられており、それによると、本部、および文学部、美術 「文芸都市」と井伏鱒ニ(越前谷) -451一
部、演劇部の専門部を置くとある。また、地方支部として、北は北海道から南は九州、さらに台湾、満鮮の一一の 支部を置くとある。壮大な﹁規約﹂ではあるが、どこまで実質が伴っていたかは不明。山田清三郎の﹃日本プロレ タリア文芸運動史﹄(一九三
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・二、叢文閣)には、﹁全体的にいって、すぐれた技術家に乏しく、したがって芸術 団体としては、決して有力なそれであったとはいへなかった L ( 二 三 七 頁 ) と あ る 。 以下、雑誌﹁闘争芸術﹂について見ておきたい。第二号に関しては本誌から、第四号、第五号に関しては﹁無産 一九二八年四月五日号、五月一日号掲載の広告から、目次を写しておくことにする。 者新聞 L 第一巻第二号(一九二八年二月一日発行) 扉 十月革命と世界革命 渡辺喜 ( ー ) セン・カタヤマ (一
、.... -総選挙に直面して 鋼鉄と血の時代 花田龍夫(五) アンリ・パルビユツス ( 八 ) 石和良太訳 カール・リ l プクネヒトと青年労働者 プ ハ l リ ン ( ー ) 無産階級芸術理論序説会一) 不戦条約その他(感想) 水野彰訳 花田龍夫(一三) 井口参生(二七) 工 場 か ら 詩 大江満雄(三O
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金 浩 永 吉 二 ) デモンストレイシヨン η L F h υ 4 坐 龍谷大学論集血に飢えた地球の叫ぴ(詩) 乾杯
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詩 ) 船出まへ(詩) ﹁ 戦 争 ﹂ を 準 備 す る ( 詩 ) 万国のプロレタリアートへ ( 詩 ) 彼奴等の餌食になるな(漫画) 我等はかく叫ぶ ( 漫 画 ) 一緒にやらうよ(漫画) ( 破 損 ) 現行検閲制度反対週間は知何に闘はれたか 光子は何故悲しいか(小説) ﹃ 大 学 生 ﹄ ( 一 幕 十 場 ) ( 戯 曲 ) 天国に於けるイワン(五場の神話劇)(戯曲) 闘争芸術連盟規約 闘争芸術連盟行動日誌 編輯後記 藤田清太郎(三六) ( 四 ご 逸見十(四二) 石和良太訳(四六) デミヤン・ベl
ドヌイ ア・ネウエ1
ロ フ ( 四 七 ) 山路喜久雄(四九) 同人(五O
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渡辺喜 ( 五 こ 検改同盟応援委員(五四) 吉永裕(五五) 伊丹惟次(七六) 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) アルナチヤアル・スキイ(八六) 石和良太訳 ( 一O
六 ) (一
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、... q o F h d a a τ第一巻第四号 左翼芸術団体当面の問題 宗教の利潤 ︿ 帝 国 主 義 の 毒 牙 に 備 へ よ ﹀ 吉永裕 A 争 " h u a n官 シンクレ
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ア ( 判 読 不 能 ) 龍谷大学論集 吾等の義務 一 字 空 白 口ムニストの焚殺 センカタヤマ 敵は圏内に在り ︿ 闘 争 欄 ﹀ リl
プクネヒト デ 大 モ 山 を一氏 口字帰 否京 く判の 夜 島田春二 回越俊男 吉田市之助 日本光学の兄弟を勝たせろ トロッキー反対派漫画(グラフ) 詩六篇 ︿ 創 作 ﹀ 入港(戯曲) 斥候(小説) 或る風景(戯曲) 杉井滋夫 伊丹惟次 逸見十 天国に於げるイワン ( 戯 曲 ) ルナチヤl
ルスキイ 闘争断章(戯曲) 吉永裕メーデー特輯号 第一巻第五号 暴虐に抗して 芸術団体に於ける組織 時評 宗教の利潤 ゴ l リ キ l は我等と一緒か ︿メーデー特別記事﹀ メーデーの朝鮮(金) 第 九 回 メ ア を 迎 J¥ メ て ァ 吉
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ー崎口言我
ラロ等 フ の メ ア を 思 、 ..b 山 俺 広 提 懸 は 東 街 唱 と 拷 革 頭 二 菊 問 命 図 つ 池 を 回 書 寛 見 想 館 た 記 にっ
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塾 フ フ ク シ ヨ ン を 起 せ 闘芸グラフィックと漫画 闘芸ニュース 詩 九 篇 映画の鋭き武器を取れ ︿ 創 作 ﹀ 長屋団結万歳 吉永裕 井口参生 シ ン ク レl
ア セラフイモヰツチ ( 関 口 ) 吉永能勢 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) ボフワリンスキー 種崎街二 大島圭 輪 田 吉永裕 p h υ に 1 U 8 ι τ漁夫供給組合長 杉井滋夫 軸をめぐって 宇賀三十三 さらに﹁闘争芸術﹂の痕跡について述べると、﹁左翼芸術﹂創刊号ご九二八・五)の麻生四郎﹁四月プロレタ リア文学総評 L に﹁闘争芸術 L 第四号が取り上げられており、そこでは、伊丹惟次﹁斥候﹂は寸現時もっとも要望 さるべき反軍国主義作品として興味ある作である L とされ、杉井滋﹁入港﹂、吉永裕寸闘争断章 L については﹁簡 単な装置の前で、劇場以外の場所でどんどん演ぜられていいもの﹂であり、特に後者については﹁憤怒を正しく導 いて行き、意識を昂め、大衆的な闘争に決定的な強い、ひとすぢの方向を与へるものだ﹂(二六頁)と評されてい る
。
﹁闘争芸術﹂は五月号までが確認できるが、おそらくこの五月号が終刊号であっただろうと思われる。﹁戦旗﹂ 一九二八年六月号には寸闘争芸術連盟解体声明書﹂が出る。そこに寸我が闘争芸術連盟は、四月二十九日全日本無 産者芸術連盟の結成と共に、その組織を解体し、新組織の一構成分となることによって、より力強く我々の運動な 前進せしめるものであることの決意を告げ蛮に右声明する次第である L ( 八五頁)とある。日付は一九二八年四月 二 八 日 で あ る 。 ﹁沿線雑記﹂(一九三六・三﹁文芸首都﹂)には、次のようにある。﹁私は﹃戦闘文学﹄の同人に加はらなかった。 ﹃陣痛時代﹄の同人一同は、打ちつれて私のうちにねぢこんで来た。左翼にならないのはよろしくないといふので ある。一九二八年九月中旬のことであった。(略)いまではすっかり、地下に潜入し、どこで何をしてゐるか、私 には想像もつきかねる。したがって私の旧友たちは、すっかり文学を止してしまったわけである L ( 全 集 第 五 巻 、 五 四 一1
五四二頁)。ここにある二九二八年九月中旬﹂とは、﹁一九二七年九月中旬﹂の誤りだが、闘争芸術連盟 p n v p h υ 4 4 龍谷大学論集の創立総会が一九二七年一二月四日であることを考えると、確かに二七年秋から冬にかけて﹁陣痛時代﹂廃刊、 ﹁闘争芸術﹂創刊の動きがあったことになる。﹁陣痛時代﹂の同人で﹁闘争芸術﹂に名前を確認できるのは、字賀 と能勢の二人しかいないが、吉永裕(ヨシナガ・ユタカ)が吉仲豊(ヨシナカ・ユタカ)である可能性も高仏、他 の同人に関してもペンネームの変更ということもあり得る。また、確かに、能勢なども壷井繁治、大月源二らとと もに市谷刑務所で一五日間の獄中生活を行っているよう町、文学から離れ、政治運動に突き進んだために誌面から 消えてしまったということもあるかもしれない。微細な点までは傍証することはできないが、大枠として井伏の証 百を認めていいように思えるのである。 陸
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﹁ 大 学 左 派 L が 、 ﹁ 文 芸 都 市 L をどう見ているかについては、創刊号の内野壮児﹁同人雑誌について L に 、 ﹁ 最 も 意 識 的に反プロレタリアートを標梼するものに、同じく自然主義の亜流と新感覚派のエピゴーネンの野合である﹃文芸都 市 ﹄ が あ る ﹂ ( 四 七 頁 ) と あ る 。ω
本稿脱稿後、﹁蓄薮派﹂(一九二八・五)の米谷利夫﹁創作短評﹂に、﹁文芸都市 L に関して﹁四月号休刊、五月号が 早く出たので L ( 四 一 頁 ) と あ る の を 確 認 し た 。ω
﹁新正統派﹂一九二九年一月号﹁編輯後記﹂(尾崎記)に、寸尚、同人中で﹃文芸都市の仲間になってゐた六人は今度 同誌と関係を断つことになった﹂とある。ω
﹁蓄薮派﹂(一九二九・この浅見淵﹁昭和三年度創作壇回顧﹂の﹁附記 L に﹁﹃文芸都市﹄から求められてこの稿を 草したのであったが、その後故あって僕たち﹃新正統派﹄に拠る同人は﹃文芸都市﹄から﹃連挟脱退﹄した。随ってこ の 原 稿 も 取 戻 し て 不 用 に 帰 し た ﹂ ( 一O
四 頁 ) と あ る 。 ﹁ こ の 原 稿 ﹂ の 脱 稿 日 は 、27
十 一 ・ 四 ) と な っ て い る の で 、 一 一 月 上 旬 の 脱 退 だ と 確 認 で き る 。 印後でも引用する﹁完結しない月なみな生活﹂(﹁文芸通信 L 一九三四・こにはコニ号のとき脱たいした﹂(全集第四 「文芸都市」と井伏鱒二(越前谷) 円 z t p h υ a n宮巻 三 二 六 頁 ) と あ る 。 的問高津健三寸﹃夜更と梅の花﹄の初出をめぐって L ( 寸 文 学 と 教 育 L 一九九八・三)の︻付表︼ヨ鉄槌﹄の内容 L の 大 正 一四年二月創刊号の内容を、補うことができる。