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『宗教研究』148号

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(1)

――目次――

1,

キェルケゴールにおける「宗教的著者」と伝達の問題, 石津照璽, The Character and Development of

“Religious Auther” in S. Kierkegaard and the Essentials of Indirect Communication, Teruji ISHIZU,

pp.1-25.

2,

神と存在, 神崎大六郎, God and Being, Dairokurō KANZAKI, pp.26-45.

3,

宗教体験の心理学的考察とその限界, 小野泰博, A Psychological Study on Religious Experience and its

Future Problems, Yasuhiro ONO, pp.46-66.

書評

4,

故坂井尚夫教授の『インドの宗教』をめぐって, 藤田宏達, Kōtatsu FUJITA, pp.67-71.

5,

増谷文雄著『仏教とキリスト教の比較研究』, 玉城康四郎, Kōshirō TAMAKI, pp.71-74.

6,

小口偉一著『宗教社会学』, 柳川啓一, Keiichi YANAGAWA, pp.75-77.

(2)

あり、内容の強調に

り、

ら 後の宗教的な諸

ほ、ト のの︶。それは、

としたといふ︵ パ ・

目指し、且つこの

対立し絡みあ ひ、彼

弁証法であるといふ

キヱ たしか から、

﹁宗教的

著声芝

伝達の

問題

いつてゐる。 っ て ぬ るのだ いといふ︵Ⅹ・

キヱルケゴ

]

ルに於け

(3)

一 体 の 刺 ﹂をもつて る 的 関係に立って ぬ た︵せ性 , Ⅹ 、の P おこ お、 レ目幅 九曲、の・ トのゲ円ヴ : 、 * 空想と反省は彼 に 内にひそまり、 表 スを 漠はせて・こと 階 ﹂ 申 ﹁ 負目 がある げ ﹂等を手にして、 。事件といふよりも 詩人になったといふ さげて或は彼女との 接の事跡を叙べたものではない。 二月参照︶。 するところの詩的 0 人には理想がない っ のではない。単に して 諏刺 的でチグハ 困難を反映する。 ・ % ミ・︶、徳久しか

(4)

々 自 りら の 役

「 な ょ 自 つ を 准 い と り の 著 す 。

宗ス

実者

る ど な た

上事

的 数 は 改 し そ し 現 か て と を な に 草 草 て の ふ 著 た

臣彼

セ "@ ブ

こ 最 に 初 被 か 分 に の ら

著最

(5)

右手からは宗教的な

デ HmN 、 g HO ︶。 そ

菓ヒが 出され、爾来

てゐる。︵ せ性 ・ パ、

は 宗教的な書とされ

﹁宗教的著者﹂たる

態度や著作様式を検することが大切である。

三年夏、同じく 四

ぞれの時期において

ついて縦横に交鎖し

転回中、重要なもの

的 課題、 キヱルケゴ

正するもの で、それとの重複をさける。 があって互に交錯 四

功罪の源がある。 一 一

(6)

べてこの﹁問題﹂の

が 、 円 後書 L が次の

のことが重要な連関をもつてゐる。

の時期の著作 は詩

て 実存する目標とし

い 。この書の内容に 五

﹁転回

二年の

美的﹂

び 宗教

たな い

なる。

一月末

の 金箸

四三、

終生を 的なるものが といふことは 交から四五年 点﹂となった ふ目し。第一 かかる態度 なほこの時期 に出された。 作 活動を通じ 四年の頃に 出 通じて全著作

(7)

の Ⅱ 臣 ︶。彼は未だ自己を著作内容の中に投じて、 おいては同後書しも 亦た 審美的詩人的である。 遡ってみると、 約 婚の破棄によって内面的な 年夏からかかれた。 自己の可能性に沈んで神との関係に生きる 外 それは宗教的なるも ものの範囲における 宗

・ か OH h ⋮かめⅡ 片 : """" /" Ⅹ

の 匿名書には自分の言

といつてゐる︵ 由、の

はない。著作の態度に の

を目 あてとして自己の

このことを彼が知 っ

開存在の基本的構造に

の 講書において、すで

客体的な事件に托して

や 現実に彼から奪はれ

独者 或は例外者とし

﹂こで実存の構造的 究

問 的内在的なるもの 一

諸段階 L で、一八四四

(8)

生起

の と る の 従

万考

審態

ぎ の も も

の態 かと

起案

ら く に 表白りを b ク

相 や こ し そ 至 反 心 と た こ つ す 理 と の を て る 地 相

で超克

7

(9)

は 違った計画の上 際 的である。ことに

らめ、自分は犠牲 と

とに ス知

となをに

らコ コノ と

、 段 を

易経学

、 名 で の 事 を あ や

件 用 ろ う っ お 1 に す 冊 只 、 に ひ が な と 被 い た 生 る の 管 よ る 、 著 か は て 事 ぎ ま 数 票 つ 著

怜佳

ふ 数 キ 件 よ と 説 教 て 者 も に こ 昇 り で ぅ も 喜吉 り 更 」

時携

(10)

﹁キリスト教への 訓 練ヒは 翌年の九月に︶出されたのであった。

が 、しかし心のか

といふ︵ 円ヴ :Ⅰ 、

月 に出されたが、 従

決して自分を真理の

であった

T@,

その

とと ワ もに、 拍 れらみ 不

に 筆をとらうと 考

︵ 円ヴ ・ 、 Ⅱ・ か Ⅰ・の べ の︶ 、 ﹂の年の十一月には 了 へられた。

のの ゆ由 Ⅰの㏄ 嬢曲 ・︶。 げればならぬとして

近く目。 目 Ⅱコ田の。 円 ㏄ 木 :の 色 ・ サせト ・ し ︵ u. お ㏄ 9 や㏄ つ 曲にある。

(11)

一 O 、の ・の 日 Ⅱ︶ 0 動 ぎを感じ 実 、率直端的

己 省察のため

、いふ べ きこ

期 が続くので 四

0 通じない 解の新しい 線 一か はキリス 本義がその 個宥め ﹁実存伝達﹂にあるとみた。 を伝 へる。 そ うない。わか リスト 射 らを

逆説なる キ

に位 め げられ である

|し

な 如何かといふ

にまで、自己 の と い る り 臥 ら れ ト や 子 実 こ 。 伝 ス て

なは

教曾盾

存 ろ 其 達 ト す

い人

の つ が あ と に に は る を c@, 彼 じ 。 既 と は め 10

(12)

な話 らさ ほ げればならない。始終にわたって 、 に 検し、且つ他に伝 、かかるところにお て 人々に 伝 へようと とらしめるには、 如 て、伝 へらるべ き内 これらの問題と問題 き面すべ き かかる 専らこのことに関す づ げたが、遂に自分 キサス卜者でないと 、 決してキリスト教 サス卜者であったで して考へる詩人的な 、必至の道として、 い靭 ・ ドヴ Ⅰ 目、の ・㏄Ⅱ から抜くことの 出 一一 11

(13)

二一 っ たそうな空白な・ 手法をとるので、 そ てゐるからである。 う に、故意に著作の には、そのそうな 方 るから、また著作の から等と ぃふ 。

集 ﹂には本名を用 者 のものは﹁審美的﹂ によると、匿名とい いふのは、著者も亦 定 的な或る高さとい 化に妨げられてはな 責任はない。責任を が 、匿名の詩人に 托 に 対してはもつと 遠 謂 はば運転手の役目 の 考へのままに筆を Ⅰ 2

(14)

の 得 す ら の が や て に 者 駿 主 と の ら 9 編 や 事 し 事 れ れ 集 5 % 侍 は 常 連 が 。 し 、 彼 の る

理間

。 由 に と そ

通 烏

二,

がるこ

理面

内なを

ら相ふ

い 出 。 伝 を な 本 心 ル

す る 読 の る る 実 る る へ る の 者 こ 人 。 存 内 。 を 問 か は と 物 そ に 容 " 文 題 。

寄は

で ヰァ ヒ

こお

か宗

は そ

れに

字 、 て

教に

手 ら に " と 年

彼のに後

彼等『

れ は

ちノ

を の 実 わ い 自 性 お 書 g @ クマ s@ @ f "" ブ そ 修 福 か ふ 与 格 い 口 音 Ⅰ 3

(15)

申 ・㏄・㏄ 0 ト

・︶。

それを体するや ぅ がわかることが 出 なわ げで、伝達は直 心境について云為す 様式上重要なことで 重要な要処は間接的 はそれと連関したこ 問題を投げかけ、 相 ﹁弁証法的﹂ な、権 QbD ︵︵ p :ぃ目: め串 : とするとぎ問題が起る。

と、通約出来ぬ内面的なもの 所についてみても、同じ事情 ものであるから、やはりそこ があるので、伝達はその形式 とが、言葉の通約性には到底 ころの、内容なのである。 までもな を通約的 がある。 にも断層 の上から のせ やぅ

って規定されてゐる。してみる

的内面性へと、問題を受げこ

断層があり

ひちがひの箇処

手に伝へようとするところのこ

全く主体的な態度にかかは

ると

(16)

何事を 、 誰を相手に し伝達者としての キヱ たしかに本質的にいつ はる問題である。此方 勘 くともさ う い ふ わ け 更 らにこの外にある。 キヱルケゴ l して 伝 へる の グゴ 一 の て 、伝達を の語り手が になる。ば かに於ける﹁ 宗教的若者﹂と伝達の間接 一五 ほ げればならぬ理由を辿った。しか ならぬ理由は以上にとどまらない。 かといふ課題は、相手その人にかか 曝 のいて ゐ てよい筈である。一応 は た 、その人としての、重要な理由は

に 入り放しではい

を 語るに際しては、

し、

実は

、伝

へよ

・めの

味 Ⅰ卍の吋トコロ︶:

になる。それが

れづ

パ、の

㏄・

Hq

、の

さげて自分を語るこ

う に

仕 むけることが

口ガ 。 幅三

no

︶に

|恰か

ひ ることが必要である︵が

の田お

9%

ト ヒアコ MHP.

︶。

(17)

彼が射らに体得し、 の ﹁如何﹂を人にも 語 る 。彼はこのことを 覚 といふことは既に司 諸 し 、その後彼の努力に でないところの、或は ト 教のことを語るに 分 ト 教のことを語っても のである。ただ只管 相 あるが︵Ⅹ 、 ののの Hh : 弁明は更らに続いて のは内面的であり、 内 なるものを 伝 へようと 難 的になる。しかしそ が 常にそれを心が けた

。それ 故 著者とし このそうに、彼の著 の 著者たる資格といふ 一山、 ノ 負 はない。権威づけるものなしで語るといふ にふれる。 己 発展でもあった︵がいⅩ、

・ Ho べ h : m の︶ 9 % の︶。 が 通約的な文字にのらな い 性質のものなので、 Ⅰ 6

(18)

キ ノン ノン 於 「 示胡迅 的 時 者 」 伝 達 問 且 セ 17 たづさ は に安んじ とも出来 ﹁あれか 、

かの七本 数性

性なうるこ

臣 ︶。それが にレギ 一ネ

なるといった具合の

E. 曲 ・︶。

昭和一八、一 0 、 一

セ 八頁以下、北

一 ・ 0 月 ︶参照。 ユ ・ " Ⅹ Ⅰ ,

をあげる。著作に 断とに課題をゆだね の人なる相手を困惑 はそのそうな人では

学の正統や体系 な顧 語り手が射らに事記

が 出来ないから、 わ

はなく、端的に宗教

り 隠れて、語ること

(19)

自己の中に

輯晦

して

かな満足を感じた

があるが、とくに

間 と断ち自己を孤立

・ ふい の㏄

,め ㏄ h.

:一のの︶。

一八

に 及んで、彼は外部

し とについて、後年 役

てのことに絶望し 、

(20)

ふれる。

う に人を導かうと

この段階の匿名性は

す ﹂ことにあるが、

することである。 著

﹂ は 誘導がなされな

ことはさきに間接的

て 偶有 の キサスト 教

もので、その伝達の

的伝達が用ひられる

は 彼自身の著作の意

伝達のために ソクラ

のへむ げての間接的

れてゐるが、すでに

口 ︵Ⅱ︶: いい u 、 由 ・のの・ の NH 由 ・・㏄ OHh. 、 のむの h. ︶。 味 における匿名の

。従来の態度や手法 一九 I9

(21)

二 O

作 における行為的責

続 げらる べ

㌔ な い れてゐる︵ 目 、臼 ゅミ ・ パ 、リト 0 ︶。

時に深甚の内面的

る病 L とロ キサスト

作 として、面責 に於

して キヱルク ゴール 自身の名が出されてゐる。 七

での筈のもの

はめ るが、しかし、

々 なわ げがある。

ものといふ。これと

ず唯だ浬 転手や

審 のつもりであ

ね た︵ く住 ・ ヌ

に 彼が教会

一八四九年の豆

相違はない由で 20

(22)

- 一一 21

6 分 た

期は

ほれ 難て

者 そ だ 。 す り ヱ り は す キ ク は れ と だ る こ た に 誰 る リ リ 権 は 一 客人

ば く

し 仕 口 る る る 標 の リ

ンやら白

のに い と

(を

後伝

参得

充 つ ら や る と そ 批 し と 崇 たし 一と

(23)

し て 白り 名 そ 名 紳 ル イ 間 思 リ た ゐ で が の に い ク ク こ 接 ひ ス 次 匿 る

で射

らいれは

もろにの

理手とス

ルク裏

話めと語

導ぬ借

ら 態 は り " 本 る で が 煮 た 法 " ゐ 手

こ 界 で

貴著

資 る の い に

は は キ 照 ︶。 ので とは から

神異において

かる資格で語るこ L すぎない︵ パ ・

・ ﹂ともしない。 ではなく、その此岸 こが出来るのは摂理に 目 りい 一 0 ら ︵ ノ ︵Ⅱ ツ・ № ト 0% ︶。 従 一一一一 なる人問 よ る。 そ つて彼の 性の範囲で語る れ枚彼の語るこ 伝達には神の質

(24)

一一一一一

味の展開がある。 使ひ,賭 して誘導し ばならぬのではなか 。ここに彼の謂ゆる 高い立場であるが、上のそうな謂でアンテ ︶。 キヱルクゴ一め その人にとⅠては、アン 的である︵が 、田レ き、 円

㌢Ⅰ

田さ

h. ︶。 の 書は 、 真にキリス卜者たることと自分との どす︵が 、

叩き

0 レコ 目 し。それ赦書中におか 、自分の自己教育の目あて,である︵Ⅹ 、の ㏄ の 著作の伝 へ 56 分限が﹁詩人的﹂であるこ にヨ 一つの倫理的宗教的小論文 ヒ できめられ

れは権威においてでなく、反省から反省へ しのそうな意味で ク弗 マク ス に対立するアン が 出来、門死に至る病 L や コキサスト教への 八 ィ クリマ クス は従来の匿 ティクリマクス書は理想 自分は書中に議される ょ 間 のあの質的な無限な距

れた目印は他人を裁

トの 9 ト 由 5 円

汗目

・の・ とをはつぎりと決定して たのであったが、ここに と 語るといふことである ティクリマ クス の立場に 訓練﹂は自分にとって 有

(25)

方 ト

で彼動

の 即 る

Ⅰれ

台 た 一 て 自 を 者 あ の の 反 ち か 真

てしが者

とる

著限省キも理

界 ヘ リ

知の

*

され受にあ

のこ

問 ゐ て ( と が ま ス

れ証

こ ・。 ば け 、 つ で の 題

なる著たあ

こは

ま る 為 人 今 一 と 、 そ 責 真 問 四 ろ 0 位 と 」 つ ア

雇畏は

ら の 囲 か 自り の に 0 分 た 攻

目いサふ

ひス

のに活字。

親作

たさ

れ も の っ の ね 彼

(26)

二五

ねがふ 。

をもたらし、権威を

との出来るそうに 場

片 ︶。

つれもヒルシ新訳の

0 Ⅱ @ 甘ヴ e Ⅱ㏄の神Ⅰ 円

ト ・ し 0 ︵ コの ︵ 臣

﹁自己省察のため

徒 的な書であら う

|め が最後の段階に

書中でもいつて

る 靱繍 Ⅱ宗教的小論文 ヒが る 主題を扱 ひ 、権威 の 可能性に対する 鍵

田ト きレ口目・︶。 て 全く決定的で、 自 Pg レ 目早︶。従って

(27)

結論でもある命題の 検討から始める。 の右の命題は日本 ぇ られる % 自身充分 気づぃ

人の夫々の自己 題 であり、解答を もありえないとい 問題は各人の存在

敢 てそれを企て 外 ならない。 う P . ティ リッ

人の

いる

る問

っ て

の す こ

目十

神崎大六郎

がここで真正面か

せし 4%

存在

26

(28)

本 スティリッヒは れ 二セ

神と存在

コ, ︵ 同 ︵ この 二 が 必要 コ,ノト ﹁ ・ して 提 随って もの L ︵ 同 提示さ ている この ついて 在 その は、神 ること ティ 神 ︵と︶は存在そのものである。 神 が存在そのもの︵ た の︶である。

の 詳しい分析 いので直に本論に入ることとする。︵ 華 ︶ のの 偉ヰヒ 0n 田と ことになる。 る司 存在その である﹂と云い換えることが出来るであろう。 いものとして が 求め、論じ られている﹁ 神ヒ である﹂ということになる。

あってそれに の宙宮 。 0 けは﹁ 存 、 Ⅱの場合に

答えられて ぃ になる。

るから、右の

(29)

二八 しろ円の意味でいつているよ う に考えられる。

ぅ 命題を提出するの

の、 他の存在者と並

ならない

1 これが

とは存在そのもので

破綻がある よう に 思

故 。 援 色コ 抽い 抜の目汁 00 田 。といわれなかつたのであろうか。

命題 中 の。 ぢ 。 を

。また神と存在 そ

そのものとが相互 嵌

なければならない 0

単に平面的に二つの

はあるにしても一層

るべ ぎであるとする

するためにはむしろ

たが、その目的は 28

(30)

29 め そ も 諸 に る を

我で

る 念 の と た 決 つ ソ サ

存 つ と ら は そ の 」 者 が な は 出 で り 「 で そ を

も と て の 述 ぅ と 味、 も と

でが

じ で の

通我

一 し 我 も 語 こ は の の つ は あ で あ も り 々 っ て 々 の の 扱 は は

て在

語 学 こ ろ あ と る

すは命

の か は こ 老 い そ と に と う り い 目 な 如 題 こ は 一 に い に と う え 子 し こ な 盾 て と

二でるてい

九あ

一 ブ " ノ 」 @ ィ と テ で Ⅰ あ

ゼ っ

(31)

6 名詞

して﹁こと﹂で言い表しても事情は変らない。

に 用い

詞の形

そのも

に 関る問題である。

。或る

という

われて

存在者

この場

在 そのもの﹂ そのこと﹂と られるのに 対 やはり判断の で 表現しても 的な用法であ のの根本性格 おょそ 何か もの︵或は﹁ ことである。 いろ。﹁考え と 絶対に区別 いことになる 凡そそれに っ を在 論 自体

Ⅱ存在者

して取出され

㈲それを

30

(32)

という判断の構成 要

は 出来ない。

﹂こと自体の変革

るのでなく、主体と

ことが成立すること

﹂が﹁ある﹂を対象

﹁ある﹂となる。 そ

﹂は﹁考える﹂を 離 れてあるのではない。

ガ ーである。戦後

ることが我々の当面

㈲の点にとどま っ て 今少し残された問題を考察することにする。

てはどうしても 存

のという存在者の存

の中に次元が設げら

分節﹂よりもこの際

るが、それが﹁存在 一一一一 % と

存在

31

(33)

が 成立するときには主体がいわば していてその二者が結びっくこと 味 での主体の存在はものとしての 空間的・時間的な存在者でもない 休と 離れて、例えば身体にや どる その裏側に常に成 によって経験が成 対象の存在とは 全 。自己の身体もま というような仕方 立して 立する く別の た 対象 で 身体 別々に存立

ような 意 ないし、 も 主体は身

体を通し

意味でもない。対象

にする。それゆえ

し 仮に或る一定の観点を設けて、いわば或る﹂

定の座標を定めるこ

可能である。

に異

ると考えられ

もの﹂は対象として

止 する他者としての

捷 されている。前提

32

(34)

33 や さ 去 れ り 存 の と る 我 一 は に め て

る定

考可存

, 「 ,

ぅ 帯 こ く す て

げ合

、 と 々 対 体 い 杏 こ て ・ も は で 一 の お は 般 ヰァ 甲 す と 先 を け は 「 の ィヒ 象 る か に を と を 述 た ば に 通 し

い指

う示た

べ て の し が で で て は い そ の 「 で と

そ も あ 」 出 の 称 に な が 質 れ やま

概 の に の に 思 「 主 念

際際

」 っ

若主

体 と " し 乃 そ 概 て

至 自

、概

れに一一一一一一 念が

と 「 念 さ 已 対 こ 念 そ こ を え こ る の 経 も 出 の は 応 ち は の と 形 も と の 存 験 の さ 」 成 す ら 主 る 御 体 し 「 に の

な も 、 倶 Ⅱ め い こ と も い れ る こ 「 て い に ( と こ 二 」 「

与即

」 と 次 主

と こ か ち の 」 白 9 株

(35)

無窮

の 係 種 て い る 称 我 ず れ 説 ・ る 必 小土

限極

」 は の い の の せ 「 の 下 る 明 。 ず 概 同 三四 存在である。 来ない。概念 は 理解されて ぃ 乱雑に枚挙的に 抽象名詞で呼ば 定義も分類も先 る 。随って 今我 問題である 神 、存在を始めとして、自己、 無 、 世界等も含めて考えることになる。 ﹂は抽象概念と 宜 的な呼称であ てしか成立しな という面をもつ という語が或る ﹂と﹂とのこの 関 ﹁関係﹂を﹁も 説明することは じてその関係も かと思われる。

(36)

35 方 で 解 合 。 る と る 々

精と漠

」 。 一 新 」 、 ぅ も 。 れ れ 観

招来

成立

「が

、 の 察

定の 象で

ゆ 「 こ 「 予 」 す

の場

と あ え も

と あ め が る 関 合 い ろ 日 の も の 他

は詳

」 る 「 あ こ 係 に つ ぅ 常 」 の 「 の 、 し と 」 も る と に は て 。 的 が 十ま ょ 却 も そ な 、

しとのと

てい」

い こ つ つ 大 の 経 即

て 差 ょ 験 ち

とじ

と,

主 こ 「 と と 十た丈二 の た と い 理 い の 当 な 考 と 解 て 集

」 の 立 の 0 合 ら わ 仕 と の と で し 目 が れ

れ方

も 「 も ら た 象 し 」 だ 学 て が " 自り " 新

一一

「 こ 方法 学問 と の 自り 定 」 原 な の

坦坦

(37)

冗 的な断絶があり、

間 には断絶がある。 応の関係がなければ

が , それらの間にはもとより単なる断絶だけでは な

あることはい う まで

そしてその﹁ 力 ﹂ が

ヒの 考えようとして

因も実体も考えられ

神 ﹂と名づげられ、

からである。

考え方では扱い ,ぇ

こでは更に次元が異

それを思考が取扱 う

ヒ もそのことを 展 々

けれども問題は彼が

る 。私の考えにょ れ

が 、﹁ 神 ﹂によって

決して直接的ではあ

あるということ﹂と 36

(38)

37

であるといつて

よい

げ す

no

ヨ no

目の甘の口三日の富

、というにせよ

汀田コめ

ているものに到達す

ッヒ

の定式を借用す

だけが可能であっ

のではない。ただ

︵時間的にも原理的

態の関係であるだ

﹂は、神学的思考が

せる主体である。

ると我々は云

こと

直面するのは、

直接的である。

﹁ 神

﹂をも、﹁

神と存在

二セ

(39)

﹂に対しても主体的

﹁関係そのもの﹂

のとして成立する。 或る関係が無意味な関係である場合にさえも、

る 。

既に示してい

主体という﹁もの﹂とが予め別々に存立して、 後に始めてそれらの 主体の関係において

関係が神関係として

も 、生命とか精神と

との密接な連関のも の 関係には絶対に還 教は文化に、神学は

上げることにする。 体 的な或は肉体的 三八

﹂とが出来ない。神学

空間的な、物体的な

は 上、神関係は﹁も

る 関係以外の何もの

(40)

﹁こと﹂にも還元され

新な 概念の媒介を要

が ﹁あるしといわれ

不可還元性は、物体

が 後項の媒介であり 後項の

ではな ノヘ、

である。生物は決し

も 物質に還元 し 尽さ

が 見られる。そして 特に顕著である。

サ スト 教 信仰の特

に 対してはそれが 強

、宗教は成立しな

な、 或は単に原理的

と、 主と 、 父と呼ば

何れも比論的乃至 象

これらの説明は神 関

て 、対物関係や人間 三九

神と存在

39

(41)

区別される。﹁ こ ﹁ことば﹂は媒介で 示し表現するに当 つ る 新しい事柄が提示 ﹂とばで表現される。 えることが出来ず 、 や 事柄がことばを 媒 の 仕方には種々の場 のとは何かの意味で 0 対比において始め いた﹁かみ﹂とい のもとにそれからの れられた時にも考え 口 O 40

って対物関係や人間 そ ﹁ 言 ﹂は神関係を表現し得るであろうか

ならない。併し 凡

(42)

れ体そ

% 避 ら

べと

こ り 二 る

巨体

の 留 る も と 神 の の の つ 関 の が 関 意 こ な し 関 で い べ て 主 と あ 体 な 、 語 げ を ら

関 こ も 立 の て と は な の れ ど し 休 閑 意 の す こ 見 に れ こ 人 傑 し

べ場

お 関 言 て 合 い 係 で ( に て と 表 主 こ 形 成 に ら 対 地 は 学 し 現 体 の 饗 立 お な 象 の に て す か よ し す い い の 場 言 人 、 る ら 3 合 る て 。 度

合に

間 成 た の ほ う の は 人 面 に お 閣 上 め

制場

こ で 自 格 で も

い保

す 仁 約 に と あ 己 関 あ

書て

だ る は に お に る の 係 る 及 も げ よ 火 よ い よ が 主 は 。 び 事 が ぅ 格

っ て つ 、

体主

事柄

聞 に 関 一再 廿 て " て

人性 体っ

柄に

か " 係

巴著

「 ば

越 も 解 の 借 多 体 で 即 の

(43)

四二

関係におけるよ

事態である。主体は

して説明される

よう

対等な別の主体に関

れば、も

主体とい

して救いの対象とし

自己の過去と現在と

において人間は自己

存在の根源に関る。

﹂という語も﹁

には明らかに次元的

在の根源﹂を﹁存在

スト

信仰において

ない。むしろその

(44)

の 根源であり終末

の 理解するあらゆる

として我々に関る者 が神 なのである。

い う までもない。

として無限の可能

こと自体が考える 対 ﹂とは出来ないであろ

理 をもたなければな

思考の論理は一般的

ばならない 神 関係を

立していないことは

えて来たのである。

い 。 神 関係はこれ

のではない。意味は ﹁意味﹂は考えられな

0 対象としての﹁ 神 ﹂

えられる。それは 人

神と存在

四三 43

(45)

四四

の神秘である。﹁

るものは思考の彼方

ものはそれに思考

、主体にとってひた

のである。・﹁

神 ﹂は

神 関係は対物関係、対人関係として生起する。

ガ大

関係が神関係

もつている単に﹁

とっては臆断に過ぎ

もそれが思考以前

えないのである。

からである。

瀕するものとし

らないことになる。

を 越えて真の意味での﹁ある﹂、新しき﹁ある

﹂へと呼び出されて

来ることがないで

44

(46)

神と存在

四五 45

るかも右の如

き神関

係の現実からのみ明らかにされ得るであろう。

、前板︶に負うとこ

私見は、松村

﹁ 主

ろが多い。

(47)

はしが

二体験の類似

①啓示と幻覚

㈲終末観と世界没落感 ㈲ 罪と 罪業妄想 ㈲神のお告げと言語新作 三 、心理学的仮説と宗教体験 ㈹了解と説明 ㈲宗教体験、その 一 ㈲宗教体験、その 二 口 、宗教心理学の位置

Ⅰはしが

凡そ宗教心理という名のもとに、 自ら 、 何らかの信仰の立場に立ち、 屈 する場合である。最近における ァ 織 神学が、そのユング理解の深さに き ば護 教的立場と称すべ き もので、 は 伝道のために、心理学一般を利 ろ う 。また神学者ティ ほ リッヒの 組 よって一層 力 づけられていることも否めない。

刀 " 。 "

Ⅰ 吐下

考察こ

の限界

四 Ⅰ ハ 46

(48)

@@ ァ L めソ

のだ める。

宗教体験の心理学的考察とその限界 口七 で、 痛 いては げをあ との 出 来 げ

尊像

な る 門 は セこ 善 様 正 に㈹々 47 とかを主張せんがために心理学を援用するの なお宗教現象とは、すぐれて社会的事象で べ き ものであろう。しかし、ここでは一応 老 て 、研究の糸口を異常心理、精神医学に求め

二、体験の類似

しめなければならない。 会心理学の対象ともなる

にかかげる理由からし た るものである。言わば宗教を心理学に 謂 医学的唯物論の立場から、神秘家を 狂 それが宗教側の畑からなされる場合に 後者の立場がとられ易い。 れは観念的には、純粋に中正客観的な ぅ ものが、本来、その底流をなす感情的 る 可能性は無視出来ない。 教 現象を、つとめて客観的に観察して

解消してしまお

う とするも 人 扱いにするような試みがあ は前者が多く、心理学︵精神 立場を予想出来ても、実際に 傾向に、無意識 裡に 支配され ゆ かねばならない。即ち 何ご

(49)

記述をもってするかを述べている。 く 理解出来るから フ による実験心理

理 現象に関しては

理を明らかにしょ ント が問題にし、

である。ことに性 では早速具体的な記述に移ろう。 田

啓示と幻覚

覚 ︵下田 ざふ 臣が 曲 。 コ ︶ 0 圧毎 ︶である。 私は神様のお 使 照 大神が入って い してでる。そのお声がします。

いろ。また﹁本人 した教祖もある。 の と の

格哲

教学

で 教

リアム・

ジヱ一

ムスも、その﹁宗教経験

の 四八 諸相﹂ の 第 章 で 彼 :出ヵ 刀 。 48

(50)

申 と よ こ

天分

り ら 比 あ で 感 は か r ク (2) が ば と

普皇

は 、 れ 楡 る も と な こ う れ が

通が

一 命 る で 」 る 、 い れ 9

%

母ト終感

るあ

の神命令。

よと

一 が ら

・ 役 と 者 ぅ

意代 ぎ者

ぅ 書 こ 神 想 く に ぅ さ し も く 特 め る

い つ

た か

よ な で で 結 る 。 る ㈹ い あ い と 5 が て つ 偉 あ 、 合 。 例 る の い に 痛 く 朝 で 、 す れ じ 心 と あ る 彼 は 来 し 「 こ 病 被 か 女 」 現 れ で は と 象 る あ 々 め 紳 士 の の に く ぅ ジ

椅母

も 。 つ ン ら で 官 る で し な ャ

子規

こ し て ス れ あ で 社 あ わ は 体 ネ サ ブ 目 ヤブ し 一 陣 っ び る 日 て 地 こ し 分 、 れ の か も 本 、 位 の は だ 病 ら 未 げ と い

荒荷役

い、

貞 女

が は つ 外 い な

て 歩 い い る て の い

いし持

も「で

てと人い的は

い間人疫神

な る る と つ 、 自 も め う で 間 越 で 49

(51)

五 O 見た。そしてこう語った。

妖術かと思いま

た 。私には、それ

然を見さえした

ら 変化が起つたら しいという印象を 5 げるではありませんか。

常 感情状態が入り 洩 って起つている。

前百 シ ャ のキエフ

の 匂をかぐという 珍

がるのを覚え、屋外

地主の﹁証し﹂であると主張し始めた。

口 げる。その時に

く 。しかも四十日の

て 祈れ よ ﹂。これによ

天 的なお 人よ しと む

患者にも よく 見られ 50

(52)

罪 がすべて眼前に見えてくる。﹂と訴える。

合理であり、無意 宗教体験の心理学的考察とその限界 五一

大罪であって

犯したものは生きながら五体が腐るのだ。

ぅか 。 ジヤ きわめて 小

ひ き 起し、 ると説く。 も 、みん

は 伝染し易 胸 をさすり っ たり疲れぎるまで止まなかつた。

得て構成 のかも知れない。

、フロイ

る 四十五歳 妻は 、 ネに よ れ さくてす それは 更 な ヒステ く 、蓋然 、次には されたも ド の所謂 の商人の

(53)

昧 であ れは、 象徴的 ︶ 任 教祖 が精神 言語で 如く述 もり いり 三つ 意味 れてい た新語 十八 - Ⅰ。 この として 格の場合の例 り 、霊界の交

述べたてて な

い わ い

さ 非社会的

さんっ

る 。しかもこ

ぬ 、呪術的、

神のお上口げと言議

新作︵

。 ユコ

の 屈プ ロ︶

コ的︶

れと同じこと

称し、次の

べている。

ぅ しとらいは

そめんどいたし

解釈が加え

、それがま

52

(54)

立場から考察を進 め よ うと 思 う 。

いうことである。

である。言わばその

よって、作業仮説的

識 的機制を重視した のもこれである。 宗教体験の心理学的考察とその限界 五三 ばならない。 通はいつもレオ ポル と 火星 語 というもの あって、語源は彼女 以上極めて概括的 とく病者であるとい は ヒステリ 一 性格を としても、時として なお 巨ノ ブ ロゾ| ランゲアイヒバウム 祖などの問題となる る で ・ がわかった。

ナ, Ⅰ る ることも可能であろう。

教 史

(55)

三 、心理学的仮説と宗教体験 Ⅲ了解︵くのあ侍の ゴ の 口 ︶と説明︵ 甲仁 母のさ

額 はないの

学 が目を つ げられ とが発生的に了解由

する。言わば了解と

精神的所与を、直観 的に再現することである。

スパースはこの 区

つて、因果的に説明

よって因果的に説明 すべきだというのである。

生活を了解する﹂というのにあたる。いわば、 自然科学的認識と

自然科学的説明で 捉

いたことである。

る 。いずれにして

学ぶ 八 この二つの 領 察 で、さらに意味を深めるであろう。 54 五 - 四

(56)

、意識下の心的機

なければならない。

、高次な

発畦珪葮

るものと説明した。

が 表面に出ることを

0

層位的区分にも見られる。

0

所謂精神衰弱

Ⅰの

セ 。て目。三のを説明している。

種本能とか、闘争

えられていた。しか

55 ㈲宗教体験、その﹂ 前述した如く、この複雑 達 心理学的、力 動 心理学的 な 精神現象を了解す 見地を加味した人問

てくる。それには、 発

| 以来の伝統に従い、

(57)

関聯している。 2 1知覚曲行動の段階

準備状態に止まり、 こ 自己の身体と事物との区別が生ずる。 3 1社会人格的な段階

人 との協力作業と共に でわれわれが自身に対して モデルにしたものである。 れによって知覚が発生する。この時期に 、自分の行動をも監視し統制する能力が とる行為は、他人に対して経験した行為 この自己自身との協力ー | 自己知覚が 、

統 ︵の日色のお 8 ︶とよぶものを見てゆ こ ㍉。 Ⅰ | 反射的行動の段階 ︵ ゴ Ⅰ 卜 Ⅱ o Ⅰ c ゴげ 隼のの の 理論の間には種々の相違があるにも拘らず、 ふめ 心理学は行動の心理学と言われるが、 ヮ 両者とも、高い緊張状 ャネ はその心的水準の いう観念を提唱した。 トソン達の意味の行動 5 五ト ハ

て 理解しょうとするものである。

、 最もうまく解決

、その心的機能は高

(58)

57

4 1原始的知能の段階

6 1反省的信念の段階

ぬ 念が生ずるの

自分自身に話し

五七

宗教体験の心理学的考察とその限界

(59)

ジャネの患者 ソ の 精神状態には 著 平常は疲れ易く を 有していた。 そ 貧乏な人々のため 実行に移すことは 移され、道で乞食 ぅと 全く食事をと 念の段階︶とし、 い、聖女テレサの かくて、ジャネ

合 し い 相違が見られる。

@" ㌢ "-

ワァ し

思、

を 構成しているのであると解釈する。

更 8 1実験的段階 ある。 五八

志 によって行動す

為 であり、またこ

を 許さないことである。 7 ームコ 理 的段階

(60)

69 対し、彼はそこに 高 ただの信念を見るに 。ジャネの心的発達 的 道徳的行動の段階 余地はないように思われる。 いる。即ち医学か 状態に他ならない。 実は、 胱 総状態が生 神 的状態に対して、 実 をたずねなければ ならぬと 述 。へている。 ③宗教体験、その 二 め 得ないのに 対 る 。大神秘 家 と言わ 雑な 綜合であるとする。 結びつけ ろ もの 五九 宗教体験の心理学的考察とその眼界

(61)

①黙諾的信仰

ト注い

日色ロ色

理論的信仰

h0

ⅠⅡ

ゑの

0 日

︶ 曲コ

︵ 0

体験と高度のそれを区別している。Ⅲ置を認めている。なお忘我を二区分し

②功利的忘我丈

E きぃ陣い

、舞踊、興奮剤等に

26

宗教的陶酔

現象など、専ら未開社会に見られ

に達するものとする。これに

神秘

使用した心的統制機能の一時・的排除に

我を含ませている。

%

ビ日色

ぃ荻

︶なる言葉を持ち出し

との統合であり、言わば、感情にお

これは、十四世紀、ドイッの思索的

に 達し、精霊または、神があら るものとする。これに対して① ぬ 神学が伴い、 拝 情性と音楽性 よる下級的機能の高揚という 生 、これを重視している。これは る 最も本質的なものと、思考に 神秘主義者マイステル・ ェック は 原始的素朴な信仰、慣習、 社 ている。 であって、この論理が生命を結晶化するの チ であるという。そこから彼は宗教的信仰の二

由ハ O 意識的に統制しているの

類を試みね。 6 ひ

(62)

元 る 道 を 家 こ ル と れ ・ 遣 れ や 的

に徳蔵

族 ろ の

道た

司 こ 動

開静 徳た

宗 こ 躍 は と し 愛 の

予御社

郷 こ 的 く 的 、 知 教 の じ 以 下 二 ク た 上 の っ 臣 。 れ 述 グ

、 た る 天 道 。 才 徳 ぺ 古句 」 ル 人 と グ 問 彼 ソ に が ン ょ ょ は っ ぶ て と そ の こ の

み ろ 「 し 類 。 な め る 8

者作知っ

の 道 え も 徳 も の と ケ ア ヒ

れは

る、

教 宗 と 本 の こ 龍 二 ろ 的 源

は な の た そ 真 そ 人 ム の た

天喜

入 ら 変 造 の の れ 達 ・ で 社 類 な の 徳 反 大 な 、 タ あ 会 愛 い 境 と

面頬

模 イ ブ る の に 。 地 、 に

愛敬

ス 1 。 枠 徹 そ に

開憎

と す ぅ が 閉 ( す の 逢 い し は る ェ 宗

じ家

る 校 す た み 、 と Ⅰ 教 ら 族 闇 の に 的 代 お 直 用 い 観 と て に し よ て 道 る

至徳

61

(63)

性格に帰せられる。 フロムは 、イヱス ﹂を、肉身の安定し ぬ 愛の結びつき、 タ 社会・政党へ連なる この近親相姦的結び

能教

こ 党 と り と 理

の教説

、キリスト

るのである。

霊感啓示体験の病

という。

、人道主義的宗教

徳は、服従であ

プ一

を強迫神経症

幸 する国家とか

たど、こム

では、

となる。

であり、人間の万

ている最善のもの

6 ヵ

(64)

対して、成熟した 生

いること、②ダイナ

こと、をその理想と

といえよ う 。 四 、宗教心理学の位 赴

ソン、フロム 、オ 士 八二一 宗教体験の心理学的考察とその限界 63 つ ぎから 自 る 。あらゆ は 、孤独の とだ、そ う なお、 こ あり、愛に のひどい 故 的 治療とは 身の如くな への違背で ある。 フロムの

述べてい

た 。仏陀

蜘 するこ フロムは考える。

ることで

と統ムロヘ

かも分析

なんじ 自

に タブー

らの声で

、オルポ

(65)

明 という困難な問題 に 、ベルグ ソン の 直 埋、 。㌧ 統合的生命哲学の 異常心理学から出発 独自性を保持しょう つた フロイド、 ユノ 。了解心理学のゆ き 考 へと転身した。 し

学者ヤスパ一 スが発 医学を哲学的人間 る 。 ャネ は、心理学の と 、ずっと狭く 、ず 過渡的形態である。 インデルバンドが 、 、人間とは一般法則 六四 64

(66)

六五 宗教体験の心理学的考察とその限界

㈹ア

ドぃ由 。 プ @ ㏄︶の︵の ヨリ田づす の。 ざ臣 - ︶ ゅ 0 ト

神 医学入門︶︵村上位、異常心理学︶等

- き S ︵比屋根 訳 b. ま ︶

Ⅰの 0 コの目鮨 、 H ののめ︵ 関訳 0. の 罵 ︶ 西 ( 丸 方、 精

多岐に 亙り、 種々の

絃瞳の

立場と㈲

修業によって 、精

、もはやそれだけで

、視点が異なるたけである。

目ぃ 換えれば

科学には 還

シーラー ま甘 @@

る 。そして

。意味の力

対象とする

たされてい 要 ではあるまいか。 、 言わば 元し 得ぬ 、 我々 人 シンボル テゴリー われわれ ると き 、

(67)

血 0

㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹㈹

(9)(8

7)

㈹㈲

﹂ 憶おオ 。甲子。 ざ住 P H ほ の ︵森田、保谷 訳 b. ∼ S 医学部吉益教授鳴音 によ る 宮城甘竹心理学入 n づ ・ ま 毛 ・トリコ 軸 m, 曲 pn ゴサ pe ヨ @ ロロのの op げ l ㌧∼ d 匡の ヨ ・ H のの 目

釈 宗教心理︶

0 すわ 0 ヌ屈ざ コトのひめ ヱ ・㌧ no ヨヨ一リ の Ⅱ 0 ゴ 0 ロ コ巴 Ⅱ ゑ のの乱打生田 p0 ミドめのう

のの 申 ︵京谷 駅 0. の か 1軍︶

け Ⅰ・の 肚

c オ のの 圧屈 Ⅰ げ、トの肚べ

神 分裂病︶

間づ ・ め ∼∼ 1 の︶︶ ㌧・Ⅱ・ ヒ 0 コゴ ㏄ 0 コ一 ㌧のⅡ 0 ゴ 0 ロ 0 幅せ 0 片刃 由寅 wo コ ・いの白の 執笘 者名 分 東北大学教授

石津

照 京都大学講師

神崎大六郎

東京大学大学院学生

小野泰博

北海道大学助手

藤田家運

東洋大学助教授

ま城康

四郎 昭和医科大学講師

柳川啓一

(68)

士を」

るに時だた善悦

十 6 日 誠た 仏の

たが期の失

何違期

けつと 加一

このにこ書生

改印ょ村らに

授なを ら 期に道 大塊 い 年し

し 四

列終

学い

故 坂

尚夫

井 教授 の

ド の み ホ教

を めぐ つ 67

(69)

は故

成はは公たとる。で、Ⅰ、

つ し え

ょ、

参看 殆 の でぎ t 一 こま 象 と 親し それ 者に の論 に現 容 は タ V こ u は正 ため 宗 の 来 こ

分こセ言て平と

吟 ど た局 しみだと 旨 れ場 挙論

に教の教

68

(70)

甚だ便利である。仏教に関しては、

概が

簡約されているに過ぎないが、これ

インド教に合流し、他はインドからその

その教理は

シナ

・日本を通じて大きな

てはインドの他の如何なる宗教に関する

人は失望するかも知れぬが、それは教授

この書においてインド仏教に関する深い

く、

他の多くの優れた論著によって補わ

ろで、以上の五章にわたる解説を終って

の書の中心をなすインド教が纏めて説か

その各派に就いての歴史・思想・実態を

て 述べられる。インド教を主題とした

現在校井原

徹山

氏の﹁印度

﹂︵大東出

存するが、これは丁度坂井教授のこの

であった。当時、邦語で書かれた信頼

井伯

寺侍

モの

﹁印度哲学史﹂︵岩波書店、

インド教の部分があるぐらいのものであ

教授が特にインド教に重点を置いてそ

始 仏教を中心とする 梗 は 仏教が﹁後世一部 は 跡を断つたという点、 開 をなし、我国におい よ ㌃も多くの優れた論 たのである。それ故、 理解を求めようとする が 断つておられる 如 るべ ぎであろう。とこ 、 次に第六章としてこ れる。この章において 聖典を概 述 された後、 かなり詳しく秩序づ け 文の代表作としては、 版 社、昭和十八年︶が 著と 並行して出たもの へぎ ものとしては、 宇 昭和 セ年 ︶に含まれた つた。かかる時に 、坂 の 概説書を公にされた 。尤も、この章で説明 の 研究成果に 塞 いてい の 説を蒐集整理したも 。しかし当時として 手

に暴 いて

ずから、

ユダヤ るのであ に 関して た 経過

に書かれ

例えば 二

ところに

互いに 分

よく理解 することができるであろう。

聞 した

ている。

それらは

し 得るよ

蒙書 の 在

語 にもつ

明笛 動 な

して きた

汁 しかり重田 を

敷金 休に

とができ

に 、この 六九

(71)

ある。 そ

る べ き手

再版さる 。 へぎ 意味も十分あると言われなければならない。

故に

れるが、

ではな

ば 、多年

霊魂の観

ダ 文法﹂

しく待望

士の ﹁ ま

ような形

とであ

は 、今や

くして 坂

の 討究を

せられた

つた。 し

実現を見

のは、 残 念 なことである。

かけが

優れた 素 ド風いドれつ そに 質 70

(72)

番 評

につい

れに関す

し 彼等の 埴谷文雄 著 ﹁仏教とキリスト教の比較研究﹂ 糸づげら

シャッ

した輪廻 せられる

得たこ 所以であ 謹んで 哀 十分 語 インドの 次第であ くお詫び 悼の念を捧げる。

ト Ⅱ

笛田の

︵の

オ曲コ

Ⅰ・

c

つ ・

・︶

w.

び ︶

︵藤田安達︶

の 空観仏

較は キリ

多く 、而

ない。 欧

に亙る大

尚は 相当 の時日を要するであろう。

との 此

。凡そ 、

々異なっ

った 一一つ

には、 比

に 制約さ

にのみ 移

失われ 易

な 主体的

が 濃厚で

を 見失わ

に 苦心を

。此の様

足する 著

論 、第三

、 更に各

ト教 との 七一 す Ⅰ

(73)

に 着目し

の 教義体

あって﹂

されて ぃ る 。

ぅ 問い ,

ものであ

を 問 う際

の国へ向

克すると

人間存在

釈尊の仏

文明であ 0 把え方

その 苦か

、八聖道

実践して

結局、依

であり、

理性的合

リ シ ャ の

0 目覚に

もはや 自

り、 終に

というム印 題さえも現れてくることとなる。

、 二つ

るか。 之

、地上の

く、 之に

にじられ

イェスも

幸福への

は 何か。

ある。 然

いる 如

を 弁え 且

々の行道

に基 くと

はそうで

である。

に 依るの

しく類似

かるので

ど 、両者 には類比せらるべ き 点が多い。

。信の

ることが 2 セ二

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