日(毎月1固25日発行)ISSN 0919-4843
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2000
乙べる刊行会NO. 83
部落のいまを考える⑩ 批判に応えることの難しさ 一一差別とセクシュアリテイ(その1)批判に応えることの難しさ
||差別とセクシユアリティ 部落のいまを考え る ⑩ 三橋修︵和光大学︶ 山本尚友さんが﹁﹃同和はこわい考﹄通信﹂で丁寧な 紹介を書いて下さいました。その中で僕は、一O
年 に 一 度仕事をする人だとありまL
た。まいりました。確かに 部落問題に関しましては、どうも一O
年に一度のようで す 。 今日の題を﹁批判に応えることの難しき||差別とセ クシユアリティ﹂とつけましたのは、一九七三年に提出 された問題に応えるのに、随分と時聞がかかったからで す 。 僕はその一九七三年に﹃差別論ノ l ト ﹄ ︵ 新 泉 社 ︶ と いう本を出しました。その後に生まれて活動されている 方も多かろうと思います︵どうも古老が語る世界になっ ております︶。そのときに批判を受けたわけですが、そ の時に生まれた疑問といいましょうか、本当に批判に応 ︵ そ の 1 ︶ えることは、何をどのように考えていったらいいのか、 これがなかなか僕には難問でした。 僕は、部落問題に、いわゆる運動という形で携わって きた人間ではない。かつて金嬉老事件の公判対策委員会 をつくって僕も世話人という形で深く関わっていました が、この運動も、金嬉老は自分のことをやっているので あって、それを受けて僕らは僕らとしてやったので、微 妙に立っていた立場が違います。つまり、自分の運動を やっただけです。そんなわけで、運動の質が違っていま すので、今日ご出席の皆さんとうまく波長が合うか合わ ないか、難しいところだと思いますが、何かの形で、皆 さんのお考えに少しでも刺激になることが出来たらばい いなと思って山本さんのお誘いに乗ったわけであります。最初の批判とその応え ﹃ 差 別 論 ノ l ト﹂を書いたときは、主として在日朝鮮 人の問題を考えていました。在日朝鮮人の問題を考えて いると、日本人ないし日本社会の在日朝鮮人に対する責 任の問題ばかりではなく、日本人の問題として在日朝鮮 人問題の背後に、部落問題があるなというふうに思いま した。両者は全く無関係なものとして存在していないと いう思いが強かったものですから、在日朝鮮人の問題を 中心に、被差別部落の問題も考えて本として発表したの で す 。 そのときに部落関係の活動をされている方たちからご 批判をいただきました。批判点はたくさんあったのです が、その中でも大きなものの一つに、柳田園男の引用の 取扱いがありました。ご承知のように、柳田国男がまだ 部落問題に興味を持っていた頃に彼は﹁所謂特殊部落ノ 種 類 ﹂ ︵ ﹃ 柳 田 園 男 全 集 ﹂ 第 二 十 四 巻 所 収 、 筑 摩 書 房 、 一 九九九年︶という論文を書いています。僕は、その一部 を紹介して柳田を使いつつ、柳田を引っ繰り返そうとい うことを考えていたのです。 柳田は、部落の特徴として﹁彼等ガ只ノ平民ニ比シ顕 著ナル特性ハ三アリ。即チ︵イ︶生殖率ノ大ナルラシキ コト︵ロ︶其労力ニ割合シテ土地ヲ占有スルコト甚少ナ キ コ ト 及 ピ 白 ︵ ハ ︶ 移 動 性 三 回 国 メ ル コ
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是ナリ﹂の三点を あげています。こう述べた柳田は、その後の論議で﹁生 殖率ノ大ナルラシキコト﹂には一切触れないで、移動性 という特徴から、彼等の背後に宗教者集団がいたという 論を発展させます。それが後に﹁宗教起源説﹂になるも の で す 。 僕自身は、その﹁移動性﹂という部分に興味を持ちま した。しかし、柳田はその移動性をもった人々があくま で宗教者としていたわけですが、僕はそれは違うんじゃ ないか。むしろ﹁定住者﹂の側が、その人たちを見たと き、そこに呪術的なものが見えるような集団と考えた方 がいいんじゃないか。実際に宗教者であるということで はなく、宗教という言葉を広く解釈した場合、何か力強 いものを持っているとか、とても自分たちにできないこ とができる、優れたものという思いの方に軸を置いて考 えてみると、違う世界が見えて来るのではないかという 思いで柳田の理論を引いたわけです。その後の柳田は漂泊民に関する興味を失って、ますま す﹁常民﹂に中心を持ってくるわけですが、僕は、常民 は何一であるかはともかく置いておいて、常民の方から見 たとき、漂泊民はどう見えるのか。この漂泊民の見え方 が、歴史的に、ある意味で差別を生むような質を持って いるのではないかという議論を展開していったわけです。 ここでは僕の議論はさておいて、柳田が﹁生殖率の大 なるらしきこと﹂について、何もそれ以上は触れていか なかったのに、引用した僕は、この個所に批判を加えな いままに放置して、自分の議論をどんどん進めてしまっ たことに対して、ご批判をいただいたわけです。 この批判に対しまして僕は、幸運にも重版出来ました ので、その際に﹁生殖率の大なるらしきこと﹂について、 ﹁社会的人口増を生殖力と結びつけた謬見である。たと え柳田がこの仮説を追求していないとはいえ、その後い かなる理論も実証できていないこの仮説を紹介しながら、 それに批判を加えなかったのは、ぼくの責任である﹂と 書 き ま し た 。 しかし、これは優等生の文章ですね。社会的な人口増 は当時すでにそういう議論もされていましたから、間違 いではない。その時点では、ともかく最低限は、この答 之でいいと思っていましたが、どうも、まだちょっとひ っかかるところがどうしても僕にはありました。 ち ょ っ と ここで一寸お断りしておきますと、この批判集会は、 今は亡き柴田道子さんも出てこられて議論に参加され、 決しで糾弾集会ではなかったわけです︵それに至るまで は激しい言葉のやりあいもありましたが︶。いわば学術 的な感じでご批判を受けたわけです。その批判の中で、 何が一番ひっかかったのか。そのとき、多分、直接的に 僕に明確に語られませんでしたが、﹁生殖率﹂というの は犬とかに使う言葉で、あまり人間に使わない。今日、 フェミニズムの中では﹁性愛と生殖を分けたのが近代で ある﹂という言い方をするときに使うことがありますが、 ﹁生殖率﹂という言葉がなぜ出てきているのか。柳田は 見事にこれについて触れていませんから、それ以上のこ とは何も云えないのですが、こういう特徴の指摘ばかり ではなく、言葉の使い方あるいは語感も含めてが嫌だっ たのではないかな、という思いが僕にはありました。も しそうであったならば、﹁社会的な増加だった﹂という ことで応えきれているのだろうかという思いをしていた わ け で す 。 もちろん本に対しての批判の中にはいろんな問題があ
ったと思、つんです。長く同対法以前から活動されていた 方たちが、その頃は多かったわけですから、﹁活動の中 にいない奴が部落の問題を書くのは問題がある﹂という ことがあったかもしれません l ﹁部落の問題と在日朝鮮 人の問題を一緒にして書くのはけしからん﹂という思い もあったかもしれない。僕は少なくとも言葉に出されな いこうした批判があったと感じていました。また﹁宗教 起源説﹂はその頃一種のタブーだったわけですから、ケ ガレ観を正面から論じるのはけしからんということがあ っ た の か も し れ ま せ ん 。 r しかし、言葉にされた批判の内で、どうしても僕とし ては、﹁あとがき﹂だけで答えきれていない問題と、﹁生 殖率の大なること﹂というのが差別に深く関わった言葉 だったのではないかという問いが心に残ってしまったの で す 。 同時に、そういう批判を受けたおかげで、部落問題が いかに多くのところでタブ
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祝された問題であるかとい うことを学びました。講演などに行きますと、﹁糾弾を 受けたそうですが、いかがでしたか?﹂という言い方が、 真正面から﹁暑かったですね、海水浴はいかがでし た?﹂という﹁いかがでしたか?﹂というのと書けば同 じ言葉ですが、ニュアンスが決定的に違う。よくご存じ の世界だと思います。﹁あいつ、アレやで l ﹂というと きのしぐさ・ニュアンスと全ぐ同じだということです。 そういう意味で、差別の恐ろしさをもう一度、証拠とし っ か で掴んだ思いがしました。そのときに海水浴に行ってき たようにしゃべる、﹁いや、面白かったです﹂というと、 そこでズレが出てくる。このズレを大事にすることで、 相手に差別の問題を扱う態度について少しでも考えても らえるのではないかと考えて、それでしばらくこのズレ を 楽 し み ま し た 。 差別を考える視点 ここで少し日頃僕が差別の問題を考えていく時の視点 を一二つ程述べてみます。最初は、間いと応えの聞のスパ ンの問題です。問題は分かっているんですが、なかなか 解けない問題ってたくさんあるんですね。この場合は、 ロングランで考えるしかない。先の問題も、もしかした らば、僕の感触がトンチンカンであったかもしれません が、なかなか応えが出ないんです。藤田さんがずっとやってらっしゃる﹁両側から超える﹂という試みも、二
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年 l 一 二O
年、もっと長いスパンで考えておられるかもし れない。そう簡単に一年、二年で超えられるようなこと ではないですからね。しかし、そこで議論されているの はもっと緊急な問題だと横で見させていただきながら思 っているわけです。そういう緊急の問題と、僕の考えて いるスパンの長い間題をどうかみ合わせながらいけるの か。この緊急な問題に注文をつけると云うのではなく、 差別を考えて行こうとする場合には、スパンの長い問題 と、短い問題があるのではないかということです。 もう一つの問題は、差別というものが、部落の出身者 であるとか、ご近所に部落があって日常的な生活を送ら れてきた方たちにとっては、いかにも部落差別は一対一 の関係に見えるのは当然のことです。一対一の関係とは、 部落にかかわって部落でない入院が持っている意識と観 念が、部落の生活実態や部落の人たちが持っている観念 などと、一対一の対応関係になっているということです。 この場合を僕は一対一対応というわけです。でも果たじ てそうなっているかどうか。日本人が、在日朝鮮人に対 して持っている意識、在日朝鮮人対日本人との間で持た れている意識は、部落出身者と部落出身者でない人々と の一対一の関係と全く別に存在しているのかという疑問 が僕にはあるわけです。被差別部落の人たちにとってみ れば、部落を生きるということは確かなことですが、そ れを取り巻いている、部落出身者でない人間の頭の中に は、必ずしも対部落との関係という形で形成されている 意識の構造ではない意識構造があるのではないか、とい う問題があります。そうすると、両者がいくら話し合っ ても、部落じゃない人たちにとって||この﹁部落﹂に 何を入れてもいい、﹁在日朝鮮人﹂を入れてもいいので すが||差別的な関係になる場合の当事者同士の聞に意 識のズレが出てしまうわけです。もしこの考えに少しの 妥当性があるとすると、この辺のことをどう考えたらい いかということが、僕にとって一つ問題なのです。 あるところで、﹁差別は桂馬飛びだ﹂といって人をび っくりさせたことがあります。一対一の関係だったら、 や り 香車のように真っすぐいけば真一っすぐぶつかる。しかし 桂馬は﹁はすかい﹂に横へ飛んでいく。そういう関係じ ゃないか。このたとえ、﹁一対一でない﹂ということを いいたい、﹁どこへ飛ぶかわからない﹂といいたいため た と の誓え去のですが、お分かり戴けるでしょうか。まただ め か も し れ ま せ ん ね 。三つ目は、多くの方たちが問題にされているところで 云えば、実際に、部落の人たちと出会える機会が非常に 稀であることと関係します。名乗るか名乗らないかとい う問題にもかかわってきますが、ともかく直接的に出会 うことが稀であるということがあります。そこで部落と いうのはどういうもの、あるいは所であるのかに関して、 しばしば、誰かが、それを﹁こういうものである﹂と提 示をする、されるという関係にあります。どちらの側も、 し ゃ く そういうことをしないで付き合っている分には、績に さわったら喧嘩をするなり話し合えばそれで済むわけで す。しかし、集団的な形で関係が問題になるときには、 誰かが代表して﹁こういうものである﹂と書
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、 ﹁ 表 す ﹂ ということがついて回る。﹁表象﹂の問題です。このこ とを深く問題にしているのは、パレスチナで生まれてカ イロで教育を受けてアメリカでものを書き始めたE
− W ・ サ イ l ドという人です。サイ l ドが﹃オリエンタリ ズム﹄という本を書いています︵邦訳、平凡社、一九八 六年︶。﹁オリエンタル﹂は東洋あるいは東洋人という意 味ですが、彼は、西洋人がオリエンタルといったものが オリエンタルである、ということを論じています。これ は歴史的に長いこと西洋の側の人たちだけが書いてきた ものであって、オリエントというのは、そこで作られた あるイメージであるということを、さまざまに語られて 来た膨大な量のものを分析して、明らかにしています。 今は文庫本になっていますが、こ冊にわかれていて、読 むのにくたびれますが、彼の指摘はとても重要なことだ と 思 い ま す 。 その問題が部落問題でも存在する。特に、水平社以後 は、当事者が﹁部落はこういうところである﹂と語るよ うになってきたという意味では、西注と東洋の関係より も幸せかもしれない。今でもイラクが何を考え、イラン が何を考えているのかは我々のところに通じてこない。 たまたま僕は湾岸戦争のとき、アメリカにいたのですが、 ﹁フセインはヒットラーの再来だ﹂という感じで描かれ ていました。髭もありますから、﹁あすこに悪魔がいる﹂ というわけです。それはイラクをぶつ叩かなければなら ないという理由を作る一つのイメージになっていた。 この場合でも、圧倒的にフセイン悪魔像を描いてばら まける力を持っていたのは、オクシデンタル︵西洋人︶ の方で、オリエンタルの方ではない。 ﹁ 表 象 ﹂ と は ﹁ リ ・ プ レ ゼ ン ト ﹂ 、 ﹁ リ ﹂ と は ﹁ も う 一 度﹂という意味ですから、改めて提出するという意味です。この表象の問題は﹁両側から超える﹂という試みの ときの、誰をも代表しないという原則に、大きな関係が ある問題だろうと思います。 ﹁差別者は﹂という恰好で差別者の代表になってしま う。一方で、﹁いや、部落は﹂といったとき、部落の多 様性を、ある意味で﹁それが正解だ﹂という恰好でリ・ プ レ ゼ ン ト す る ︵ も う 一 度 提 示 す る ︶ 。 このようにして、表象の問題が部落差別の場合にもあ るのではないか。その典型的な例が、実は明治にあるん じゃないかと思って、僕は明治の問題を最近書いたわけ です︵﹃明治のセクシユアリティーー差別の心性史﹄日 本エディタ l スクール出版部、一九九九年︶。明治まで は部落の人たちが、﹁自分たちがこうである﹂と活字で 表現することはほとんどなかった。圧倒的にそうでない 人聞が書いていた時代でありますから。そういう意味で、 僕としては明治は一つ大事だと思ったわけです。別のい い方をすると、何故明治に於いても差別が再生産された か と い う 問 題 で す 。 当事者に不快な思いを感じさせたことの背後に、一体、 どういう問題が隠れているのかということを僕なりに考 えていたわけです。一
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年ごとにやっとわかったという わけでもないんですが、結構一つ一つ確かめる作業に時 間 が か か っ て し ま い 、 ﹁ 一O
年ごとに思い出したように 仕事をする﹂ような結果になってしまったのです。 その聞に在日問題をやったり、モンゴルの調査をやっ たりしていたのですが、一見別のことをやっているよう で、実は僕の桂馬飛びという考えからすると、横道を一 緒に考えながら少しずつ見えてきたこともありますから、 一O
年に一度というのも正しい面もあります。 ﹁生殖率﹂という言葉の背景 さて、いよいよ﹁生殖率の大なるらL
きこと﹂という 云い方の背後にある差別的な意識のあり方について。生 殖率という言葉は、﹁部落の人たちをまるで動物のよう に扱いました、ということなんじゃないか﹂と云えば、 それもとりあえずの答えにはなっているわけです。しか し、その考え方が、どういうプロセスを通って、どうい う広がりを持って、どのように生まれてきたのかが、僕 にとっては重要なことなんです。 ﹁差別の定義﹂というのを書き始めたことがあって、それを藤田さんが批判して下さったことから藤田さんと の関係もできたのです。その時の議論は、今日は時間の 関係もあって省略しますが、とにかく、真面目くさって 差別の定義を書こうとすると、どうしても文章にならな くて落ちてしまうものがあるのです。僕がずっと気にな っていることは、差別というのは、僕の感覚では﹁ねつ ね ぽ とりと粘りつくようなものだ﹂という感覚がある。例え ば差別的な言葉は、その人にいつまでもまとわりつくよ うな性質のものを持っていないか。身体的なものを持っ ていないかということが、いつも僕の中にある仮説なん です。もちろん就職差別のときに、﹁ねっとり﹂も何も ないわけで、全然入れてくれない場合、誠に深刻なこと ですが、もう少し日常的な差別的関係を考えたときに、 たとえば、差別的に﹁誰々は何々である﹂と云われると き、それは何か粘りつくようなものを持っていないか。 なんでトイレに落書きが多いか。トイレの中まで差別 を閉じ込めた、少なくなったと解釈することができると いう人もいます。女性のトイレのことは分かりませんが、 どうも男のトイレの中に落書きが多い。最近は落書きが しにくい壁やペンキが考えられていてクギを持ってきて コ頑張る﹂という人もいるわけで十︵笑い︶。そこで題材 にされるのがセクシユアルな絵や文章です。オレは誰そ れとセックスをしたなどと有名タレントの名前を書いて、 延々と文章を書くとか。これは関東の話で、それも東京 のあのへんが多いとか地域差もありますが。トイレは密 室で普通、口に出せないことを云う。こうした関連で考 えますと、﹁誰々はエダだ﹂﹁エタは死ね﹂ということを トイレに書く行為は、僕のいう意味で λ 広い意味でセク シユアルなものを含んでいるのではないか。書くときの 悦楽があるのではないか。そのことを書いている人を弁 護していっているわけでは決してありませんが、そうい うときに働いている﹁心性﹂、心の働きは、粘るような セクシユアルなものではないかと思うわけです。 ﹁セクシユアリティ﹂という言葉は十九世紀になって から発明されたもので、発明とは物ばかりではありませ ん。セクシユアリティは訳しょうがない程に非常に多義 的です。意味が広いわけです。多くの人たちはニれを ﹁性的欲望﹂と考えて、セクシユアリティというのは女 性差別と結びついていると論じます。それは﹁性役割﹂ というものに結びつく。そういう意味で、セクシユアリ ティは男女の関係で考えられやすい。これは間違いでは な し 。
実際、そういう意味では﹁セクシユアリティ﹂という 題で、性にかかわる文化的抑圧とか性的関係、性愛につ いての論文は多いわけです。女性には受け身の性的な欲 望しかない。男には攻撃的な欲望がある。それが男女を うまく成り立たせているのであって、だから女性は育児 だという物語ですね。家事をやればよいとなる。逆に女 性の方にも性的欲望が独自にあって、となると、話がこ んがらがる。こんがらがって当たり前だと、フェミニズ ムの世界ではそういう主張があるわけですが、そういう 意味では確かに性的なものは女性差別に深くかかわって 議論されてきたのは当然です。 ところが、実は、セクシユアリティというものが持っ ている観念、ものの思いは、もっと大きな広がりを持っ ているのではないかと僕には思われるわけです。 セクシユアリティという考え方が、日本の中でどうい うふうに生まれてきたのだろうか。日本ではセクシュア リティというのが独自に言葉として発見されていません から洋風のセクシユアリティ。外国語から入ってきた言 葉で、翻訳のしょうがないのでそのまま片仮名語で使っ ていきますが、僕は、もう少しこのセクシユアリティに かかわっての妄想は、広がりと深さを持っているのでは ないかと考えたわけです。これは石田雄さんとの対論で 話しましたが︵﹁日本の社会科学と差別理論﹄明石書店、 一九九四年︶、アメリカ合州国の黒人を白人がリンチす るとき、非常にしばしば男根を切り取るということが行 われていたわけです。どうしてリンチをするのに男根を 切り取るか。日常的な差別、例えば﹁ホワイト・オン リー﹂などと指定してトイレも、水飲み場も別にすると いうのが差別の具体的な現れだとすると、男根を切り取 るのは﹁ホワイト・オンリー﹂というような指定とは関 係ない。だけれども、リンチをするとき、そういうこと が 入 っ て く る 。 そんなわけで、差別とセク、ンユアリティはどこかで深 くかかわっているのではないかというのが、僕が考えて きたことです。それで、最初に書いた﹃差別論ノ では、まだまだ未熟で、自分なりの江戸も見えていなか ったので、また江戸からやり直そうと。江戸の中へ探検 に行ったわけです。その結果が﹃︿コンチクショウ﹀考﹂ ︵ 日 本 エ デ ィ タ l スクール出版部、一九九二年︶です。 いろいろ考えていて、初めから﹁チクショウ﹂という 言葉に狙いを定めて江戸の研究をやっていたわけではな い。僕が掴みたいものを何とか掴めないかと思ってずっ
と考えていたら、﹁チクショウ﹂という言葉の変遷で、 僕が考えていた江戸というものの何かがわかると、途中 から思えてきた。今でも﹁チクショウ﹂というのは関東 では云いますが、関西、九州の方はいわれますか。まと もに面罵するときにいいますか。あまり使われなくなっ て い る で し ょ 、 っ 。 ﹁チクショウ﹂という語は、中世では、仏の教えの中 で﹁畜生といえども助けてもらった恩を忘れずにお返し をする。だから人間も﹂という使い方をされるわけです が、悪態語として出てくる場合、最初は﹁礼なきもの﹂ という形で出てきます。次に狂言を探っていきますと、 ﹁この男畜生﹂というのが出てくる。中世は女性が元気 ですから、今と違ってわざわざ﹁男﹂をつけて﹁男畜 生﹂と男性がやられているのです。もうちょっと後では ﹁この侍畜生﹂といわれている例があります。もっぱら 男がいわれている場合が多い。それが江戸になって元禄 以降、近松門左衛門などの作品を見ると、近松はものす ごく豊かに文学的に使っていますから、彼を悪者にはし みだら たくないのですが、﹁淫なる女性﹂、淫らな女性がセク シャルであることを前面に出してくる。別に男をこしら えるというような、心中物の中に出てくるわけです。さ らに三番目には、近松が早い事例だと思いますが、侮蔑 の対象として外国にも使われている。﹃駅間命的戦﹄と わとう広い いう面白いものがあるんです。和藤内という実在した人 み ん をモデルとしたものです。明が滅びるときに日本にやっ て来て、日本で子どもを生んで、その子どもが明の再興 のために出かけていって明が再興できないまま台湾に行 く実在の人物がモデルです。その男に和藤内という名前 じ よ う る り をつけま
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て、浄瑠璃にしたものです。和は日本で、 藤は唐、日本人でも唐人でもないという意味を含めた し ゃ れ ま 酒落です。加藤清正とかも混じりこんだ活劇物です。 だ っ た ん そこで﹁髄旦国は畜生固なり﹂という言い方がありま す。どこかの国を侮蔑するときに﹁畜生国﹂という言い 方をするのは、近松だけでなくずっとその後にも使われ ます。十八!十九世紀にかけてそういう言い方が生み出 されていきます。近松の場合には、﹁心中にまで至るよ うなことをしてしまったお前なんかに、お父さんなんか といわれたくない﹂というときに、﹁なんでお前は畜生 のようなことをしたのだ﹂と非難することによって、そ の女性への自分の気持を表す、緊張関係があるわけです。 し か し 、 だ ん だ ん 後 に な り ま す と 、 遊 女 た ち を ﹁ 畜 類 ﹂ と 呼ぶ言い方が遊里言葉の中に生まれてくる。そうなると完全に畜生扱い、動物扱いです。女性差別の問題もあり ますから、それだけで止まればいいというわけにはいか ひ ゆ 一ないのですが、問題はさらに畜生が階層を表す比聡にま で 達 す る こ と で す 。 ノ仏教系の人たちは﹁畜生﹂という言葉を使います。浄 瑠璃の心中物を、幕府についている儒者たちは大嫌いな わけです。﹁あいつらはどうしょうもない﹂と文句を云 さ ん じ ゅ う う。しかし文句をいっている儒教の考えの中に﹁禽獣﹂ という言葉があり、﹁いかに禽獣の状態から今、進んで いるが。離れている状態こそ文化がいい状態だ﹂という 言い方があります。かくて、仲の悪いもの同士が、自分 たちがおとしめる対象を動物にたとえる点で同じになっ て
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まう。一番それが明快な形で出てくるのが、経済学 かいほせドりょう 者の海保青陵という人の場合です。十九世紀の初めの 経済学者ですが、この人がまさに﹁階層﹂の問題として それをとらえているわけです。﹁最も飲食の卑しきもの は木である。その次は、鳥、獣である。一日や二日食べ なくてもどうということはない。その次は非人、乞食で ある。これも一日ばかり食わなくても平心なり﹂。そん なわけはない。腹を減らしていたと思います。順に上が ってきて、毎日食わないといけないのは武士であって、 一番上においしいものを食うのが貴族だという結論にな ります。ここでは﹁械多﹂という言葉は出てきませんが、 ﹁非人、乞食の場合は﹂という言い方です。畜生が階層 の上下を表すのに使われたのです。動物に近い人聞が想 定 さ れ た の で す 。 ︵ 次 ※ 本 稿 は 、 第 一 六 回 部 落 問 題 全 国 交 流 会 ︵ 一 月 一 一 日 ︶ で の 講 演 に 加 筆 訂 正 し て い た だ き まひろば⑪
これがほんとに始まりだ
ったらうれしいのだけれ
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||第二六回奈良県部落解放研究集会 ︵ 一 九 九 九 年 九 月 四 ・ 五 日 ︶ に 参 加 し て 次回哲治︵天理市立北中学校︹夜間︺︶ 二0
年間に奈良での様々な研究大会に参加してきた。 主催者だったこともある。しかし、私にとって自分の思 いをそのままに出せる集会は初めてだった。 第二分科会のコーディネータ 1 は藤田敬一さん。報告 者は山下力県連委員長。パネラ l は吉田智弥さんと吉田 栄治郎さん。誰もが運動と行政と教育のどん詰まりを語 っていた。まだ、展望を見いだすには至っていない。山 下さんは今後は個人への糾弾はやらない。そして部落だ けのカサ上げをするような対策、施策は返上していくこ とを提起した。さらに私の発言に応えて﹁奈良県同和教 育研究会に教員の全員が加盟していることの方がおかし い。考え方の違いがあって当然だ。批判のない運動は堕 落する﹂とも発言された。今、奈良県連では行政施策は 手段であっても目的化しないことが打ち出されできてい る。しかし、奈良においては同和教育もいつのまにか部 落解放の一手段というよりはその体制維持が目的となっ てしまっている気がしてならない。 私が初めて部落問題全国交流会に参加したころ、藤田 さんに対じて﹁交流会の教育の分科会は教師の愚痴ぽっ かりやし、あんまり面白くありません﹂と言ったことを 覚えている。私は常に学校の中では少数派であった。し かし、自分の考えは常にストレートに発言してきたつも りだ。しかし振り返ってみれば自分の学校では少数派で あっても、自分の考えがストレートに言える立場︵即ち 同和教育の主流の考え方に乗っかっていたため︶だった のか、あるいは自分の中で解放運動や同和教育に相反す るところはそぎ落として考えていたのだなあと今になっ て思う。﹁愚痴を言うのも大事や﹂と藤田さんに言われ た こ と を 思 い 出 す 。 一O
年ほど前に生駒市の同和教育研究会の事務局を四 年間務めた。奈良県には一七郡市それぞれに同和教育研 究会が組織され、一部を除いて専従の事務局長が配置さ れている。上部団体の奈良県同和教育研究会︵奈同教︶ は小中学校の教員が全員加盟の研究団体である︵ほとん どの郡市では本人に加盟の意志を聞かないし、また多く の郡市同教では会費も補助金で一括して支払っている場 合 が 多 い ︶ 。 私たち郡市同教の事務局の仕事というのは、奈同教の 下請け的な連絡調整︵例えば奈同教研究大会というこ l三千人規模の集会が毎年秋に開催されるが、それへの参 加者を各校固に割り振ってチケットや大会要項を届けた りする仕事︶と市独自の研究集会の開催などが主である。 研究会と銘打っているが、スケジュールをこなすのが結 構大変で、研究員的に部落史の資料を発掘したりする時 間はあまりとれなかった。どちらかといえば組合や運動 体の専従書記局員に近い仕事だと思う。山聞の郡部では 教頭職の非専従事務局であったが、その他に郡市には最 低一名、生駒市など市の余裕があれば複数の事務局員を 専 従 で 出 し て い る 。 生駒市・奈良市・郡山市などの北部の都市は奈良県内 でも共産党系の教職員組合が強く、解放同盟や奈同教の 弱い地域である。とりわけ被差別部落が一地区で、規模 も小さい生駒市では、奈同教の下部組織である市同教が 研修会を企画しても動員が効かなかった。︵奈良では同 ー和教育を民主教育の中核とする基本方針に基づいて教育 委員会が同和教育の推進をする建前になっている。奈同 教もそのバックボーンがあるからこそ全員加盟の組織と して存在し得ている。しかし、ことあるごとに共産党が 多数派である奈教組と対立する構図となっていた。ただ し同じ教師が奈同教会員でありながら奈教組組合員とい うのが組合分裂前の常態であった。現在は、奈同教に近 い考えを持つ組合員は奈良教組として割って出ている。 奈教組の考え方が主流である生駒市などでは、積極的に 反対してくる組合活動家との論争と同時に、一般教職員 のサボタージュ的な非協力が常態化しでいたのである。︶ このような場合には、仕方がないので管理職を通して ﹁お宅の学校は同和教育に熱心ではないですね﹂という 雰囲気の言葉をちらつかすしかなかった。市同教 教|解放同盟というパックで圧力をかけたのである。 市同教も奈同教も事務局員は役員︵奈良県の場合はほ ぼ全てが管理職 V が推薦する立場をとっているので絶対 に解放同盟|奈同教の意を汲む人間しか事務局員にはな らない。総会でも承認が必要なのは役員だけであり、事 務局員はまず更迭などあり得ない。このような実態であ るから、市同教としていくら良い企画だと思って会員を 動員しても、会員の立場からすれば、いやいや来さされ ている出張なのだから悪循環である。 さらに奈良県では﹁なかま﹂という副読本が県主市町 村折半の公費補助として全生徒・児童に配布されている。 無償配布と言うが実態は税金による購入である。しかも、 北部の学校などでは地域の実態にあわない教材が多く、 教室に積まれたままのことが多い。私は﹁なかま﹂の改 訂委員もしていたので比較的よく﹁なかま﹂を使った方 だがそれでも部落を含まない学校に勤務していたので半 分くらいの教材しか使えなかったと思う。最近はもっと
使用率が下がっているのではないかと思う。しかし、 ﹁なかま﹂の印税も奈同教の大きな収入になっているの で全員配布は改めることのできない金ヅルになっている と思う。︵奈同教の年間予算は九八年で二一五
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万 円 。 そのうち﹁なかま﹂などの印税収入は四分の一くらいの 四 九O
万円。さらに印税以外の本代が出版元の奈良県解 放研究所に入っているはずである。奈同教会費は五00
円×什万一七九八人分で六OO
万円弱。これも市町村の 補助金で肩代わりしているところが少なくないから、奈 同教会員で自腹を切って会員となっている人はいったい 何 人 く ら い に な る の だ ろ う 。 ︶ よく﹁﹁なかま﹄は使いにくい﹂という現場からの批 戸判があった。それに対して私たちは﹁﹃なかま﹄を教え るのではない。﹃なかま﹄で教えるのだ﹂︵つまり、思想 としてのテキストであってハウツ l のテキストではな い︶といった、わかったようなわからないような理屈で 返しでいた。﹃なかま﹂を使わないような教師は思想性 において誤っているのだという、一種の居直った返し方 と も 言 え る 。 そういえばそのころ、市の講師団というのにも入って いて年に何回かの地区懇︵地区別懇談会︶というのにも 行ったことがある。奈良では学校教育分野の同和教育研 究会と社会教育分野の同和教育推進協議会︵同推協︶が 組織されていて、同推協が年聞を通して各大字くらいの 単位での同和教育の研修会を続けているのである。当然、 各自治会の動員で来ている一般地域住民からはとんでも ない︵というよりはごく自然な︶意見が出たりする。そ れに対して、前もって啓発映画を見てもらったり、講師 団と称する何人かが前に座ってうまくまとめたり、おみ やげに啓発標語の入ったゴミ袋を配ったりするのだ。 ︵ついでに言えば、地区懇や人権啓発行事にセコイ粗品 をつけるのは絶対にやめた方がよい。せっかく参加する 人によっぽどの暇つぶL
をさせたかの印象を与えてしま うのと同時に、﹁同和行政は金をもっとるなあ﹂などと いう偏見を新たに起こさせかねないからである。こんな 粗品の啓発ロゴを見て﹁差別やめましょう﹂なんて意識 を 持 つ 人 は 皆 無 に 等 し い と 思 う 。 ︶ こんな地区懇だが必ず私たちが言い続けたのは﹁同和 地区が良くなれば、必ず一般地区も良くなっていきま す﹂という理屈の繰り返しだったように思う。つまり ﹁解放運動が成果として勝ち取った物は、現在は同和地 区にしか与えられていない。しかL
、いずれは周りにも 波及しますよ﹂という理屈だ。しかし同時に﹁運動した から実現したのです。︵逆に運動しないあなた達H一般 地区住民にはなくて当たり前︶﹂という前者とは全く矛 盾する妙な理屈で納得させることもあったから、講師として参加じている私自身が納得行かない懇談会で終わる ことも多かった。例えば学校の設備が同和校から良くな って周辺校にも波及したとして‘も、本当に解放運動や教 育の成果、だったのだろうか。単に高度経済成長の波に乗 っただけではないのか。さらに私たちが確信を持って解 放運動の成果が一般民衆にも広がったと説明できたのは、 今から思えば教科書無償貸与の実現だけだったと思う。 ニれとても、教科書検定の現状を鑑み市民運動の立場か ら三ヲんば、﹁金を払ってでもいい教科書を使わせてほし い﹂という理屈ももっともだから今日的にはあまり説得 力を持つをは言い難い。 私は、何も今までの成果をことごとく否定しようとは 思わないが、こんなところに奈良県の︵学校教育・社会 教育を含めての山同和教育の行き詰まりの原因があるよ うに思えてならない。つまり、解放同盟の方針に沿って いる少数の教師や行政職員が﹁前衛的﹂︵そういえば奈 良県の同和教育の集会では各研究団体の赤旗が組合旗よ ろしく演壇にまかれるのである。いわゆる社会主義崩壊 後、このような集会の雰囲気は一種の感動すら覚えて壮 観である。︶に多くの意見やホンネを封じ込め、教育委 員会の後ろ盾のもとに縦系列のシステムを使って降ろし ていく。そんな中で多くの一般教員や市民は沈黙し、忙 しいのにとシブシブ研修会に出席し、スケジュールを消 化 し て い く の で あ る 。 学校教育に話しを戻そう。今、奈同教は同和教育の形 態を転換させるのに躍起である。セルフエスティ の デ イ ベ i トだの、ワークショップだのといった横文字 が花盛りの感がある。かつて、﹁﹃ブぬき、サぬき﹄︵部 落ぬき、差別ぬき︶の実践ではあかん﹂と言い続けてき た一昔前とは隔世の感すらある。私はこのような現状を 一概に批判する気はない。しかし、かつての堅い、暗い、 きついイメージの同和教育をソフトなイメージに方向転 換するだけで本当に差別が解消するのかという疑問も持 っている。今の路線転換も所詮は大阪の後追いをしなが ら法の中での生き残りを考えているというのが本当のと ころなのだろう。現場教員一人一人の自由な発想から出 できた転換ではないのだ。法の裏づけの下に運動体の威 光を借り、教育委員会の手厚い庇護の下に進められた奈 良県の同和教育の研究体制がここでも一つの曲がり角一を 迎えているように思えて仕方がない。どうカムフラージ ュして予算をつけて推進しても、このような上からの意 識改草ではその限界が見えている。 私は思うのだが、教育という営みは本来的に様々な方 法があり理念があって当たり前だと思う。同和教育とて その例外ではないはずだ。そうであれば、まず同和教育 の研究システムを民主化するのが先だと思う。地域の実
態も学校規模も子どもの背景はそれぞれなのだから、そ の地域や学校、そして一人一人の子どもに即した実践が あるはずである。﹁
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ちゃんに寄り添う﹂という実践 を繰り広げていた研究会が、命令一過、横文字の﹁×× 法﹂に衣替えしても本質は変わらないのである。自由に 意見を述べあう方法を考えればよい。全員加盟をやめ、 自由に身銭で会費を払って参加すればよい。その時にこ そ、今までの実践の真価が問われるのではないか。 円同和教育は民主教育の中核である﹂という奈良県の 同和教育の基本方針を単なる金科玉条に終わらせないた めには、徹底して民主的な手法をとりながら同和教育を 推進するべきである。研究会の役員も民主的な選挙で選 べ ば い い 。 かつて私は、同和教育はマイノリテイの人権を保障す る教育なのだから、多数決原理は当てはまらないと思っ ていた。しかし、マイノリテイを取り巻くマジョリテイ の意識変革が絶対条件なのだから、大多数の市民的な感 覚で納得のいく方法、つまり民主的な手だてをとること −が絶対不可欠だと思う。そんな自由な研究システムをと れば、必然的に教育の内容も百家争鳴、様々な自由な方 法が編み出せると思うのだが、私の考えは理想論すぎる の だ ろ 、 っ か 。 今、解放運動とともに曲がり角を感じさせる同和教育。 今まで至極当たり前に考えていたことを一つ一つ聞い直 す時期だと思う。そういう意味でも、今回の県研は自由 な論議への始まりになる可能性を持っていたと思う。 ﹁単なるよびかけに終わらず終わらせず、奈良における 同和教育の改革の始まりになったらいいのになあ﹂とい うのが私の率直な思いである。 最後に県研も含めた運営のあり方にひとこと。記録の 都合もあるのだろうが、この手の集まりで必ず言われる ﹁発言の前に所属とお名前を﹂というよびかけは無言の 圧力になりかねないのでやめた方がいい。それ以前にど んな組織にも所属せず、個入の意志で参加する人などい ないことを前提にしたよびかけになってはいないか。発 言者それぞれが自分の意見を自分の責任で発言すればい い。またそのことを保障しなければ論議も始まらない。 さらに、あれだけ大勢の前で所属と名前を名乗ってまで 主催者側に耳障りな提言を敢えでしょうとする人がいる ,とは思えない。主催者の意図が単なる記録の必要性にあ り、発言者やその発言内容にないことが十分にわかって いたとしても、多くの人の前で自分のマイナス面をも含 めて率直に吐露出来る人などまずいないだろうとも思う か ら で あ る 。直 吋
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司 W E T 司 ノ − 一 = 一 広 マ 最 近 、 気 に な っ た 表 現 に つ い て 。 ﹃ 部 落 解 放 研 究 ﹄ 一 二 一O
号 ︵ 卯 ・ 叩︶の座談会﹁解放理論に関する議 論︵諸説︶を考える﹂を読んでいた ら、部落問題研究所理事長の杉之原 寿一さんが出席者の一人から呼ぴ捨 てにされているんですな。朝団善之 助さんも呼び捨てになっているけれ ど、これは歴史上の人物ということ でしょう。しかし杉之原さんはそれ とは違う。﹁さん﹂をつけるほどの 間柄ではないと言うのなら、氏とか 肩書きをつければすむことです。何 かこだわりがあって呼び捨てになっ たとしか考えられない。一読後、砂 をかんだような気分になりました。 杉 岡 康 次 郎 さ ん の ﹁ 書 評 以 降 ・ : 藤 田 さ ん の こ と な ど ﹂ ︵ ﹃ ひ ょ う ご 部 落 解 放 ﹄ 八 九 号 、ω
・ 9 ︶ に 、 ﹁ 世 の 中と途絶したところでいるような ﹃ 知 識 人 ﹄ に 分 か ろ う は ず も な い が ﹂ というくだりがあります。文脈から して、この﹁知識人﹂の中には私も 含まれているようです。﹁知識人﹂ の対極には、杉岡さんのような部落 解放同盟の支部長など﹁市民運動に しろ、労働運動にしろ、何か、この 国の﹃変革﹂を目指してという具体 的な場面にたっている指導的な 人々﹂がいるらしい。まあ、活動家 としての自負がそう言わせるのでし ょうが、こんな物言いはかえって文 章の品格を落とし、説得力をそぎま す 。 マ第出回﹃こぺる﹄合評会︵ロ− M ︶は、高本敏浩さんに﹁部落解放 をめぐる昨今|﹃現場﹄からのひと こと﹂と題して話していただきまし た。これまで部落差別の原因は周囲 の人々の考え方にあると見なされて きたことは間違いありますまい。だ から教育・啓発の対象も主に﹁周 囲﹂におかれてきたのです。しかし 問題は、﹁部落の内と外﹂の関係に あり、もうこのへんで周囲、周辺に だけ目を向けることから脱却すべき ではないか、と高本さんは言う。お そらくそこから新しい関係が生まれ る可能性があるように私も思います。 マ ﹃ こ ぺ る ﹄ 一 一 一 月 期 限 切 れ の 方 、 続手続のこと、よろしくお願いしま す 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ マ ﹂ ぺ る ﹄ 合 評 会 の お 知 ら せ 2 月初日︵土︶午後 2 時 よ り 次 回 哲 治 さ ん ︵ テ l マ ﹁ 転 換 期 の 和 教 育 ほ ん と う に 転 換 す べ き は な の か ﹂ ︶ 、 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー ;第二会議室 mO 七 五l
四一五一 O 三 O豊臣 秀 吉が京都に造 営 した城 ・ 楽楽第︵ 一 五 八 七 年︶は 、 着手 し た 翌年に は 完成 。 し か し、わずか 一 O 年足らずで秀 吉自 身 の 手に よ っ て 完 膚 なきま でに破壊しつ く さ れ た 。 跡 形 もなくな っ た こ の 城 は 今 なおそ の多くが謎 に 包 ま れ て い る 。 この町に育 っ た 著者 が 歴 史・地 理 ・ 考古学 な ど の 様 々 な研 究 成 果に学 び、ま た 、 町 組 の 長く豊 富 な史料に導 か れ な が ら 、 来楽第の謎と町の人々の想い を 記 録する 。