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伊勢大輔考

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Academic year: 2021

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(1)

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:1~1:1:1~1~

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;1;1 才 1;1~

道 | 人

i

物 誕 生 時 O) |父 |の 才|年 ノ 、 寸J 送手 綱 立 日 君 事 円 寂 頼 円 弓i う

E

|光 二子 為 右の例のように冥範が生日口二十才頃に生まれた長男であれ ば、生昌は惟仲の二十四才頃の子となり、また公範が以康 二十才の頃の子であれば以康は生昌の二十四才頃の子とな り、なお、同じ中宮大涯となったのが道行は正屑年問、生 昌は次の長徳年間であるのも、生日日が道行の弟であるから と考えられ、好都合であるが、あくまでも仮説にすぎな 、 。 、 l uw 最後に生昌に娘がいたという記録はないが、権記によれ ば彼は長保

1

叩引頃五節を献じている。普通五節舞姫は公 卿や受領の娘を宛てるので、その頃十代であった娘がいた のではなかろうか。紫式部

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記に見える沼 l 惟仲の養女﹁五 節の弁 L が そ れ で あ れ ば 而 白 い 、 か 。 昭 和 刊 ・

7

7

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I

序 伊勢大輔は平安中期の女流歌人である。彼女は上東門院 が中宮の時、初宮仕し、その時詠じた歌︵家集

5

︶ で 、 一 躍歌才を認められ、宮仕生活の華々しいスタートをきった のである o 彼女の家系をみるに一門には歌人として世に輩出したも のが多い。このような一門に育った伊勢大輔はどのような 一生を送ったのであろうか。平安朝の女流歌人の多くがそ うであるように、生没未詳とされている伊勢大輔につい て 、 家 集 へ 群 書 類 従 所 収 の 一 伊 勢 大 輔 集 を 氏 本 と す る o 歌 の 番 号 は ︸ F 群 書 類 従 オ の 配 列 順 に 番 号 を 付 し た も の を 使 用 す 一 る ﹂ を中心に、系図、その他の一資料より考察していくことにす る o 3 -什 伊 勢 大 輔 の 家 系

ω

一 門 歌 人 伊勢大輔の近親者には歌人として世に知られているもの がかなりおり瞥臨時制の条に﹁頼基・能宣・輸相刷・伊勢大 輔・伯母・安芸君六代相伝之歌人﹂と記されている。この他 和歌色蝶に選ばれた伊勢大輔の娘の筑前乳母、源兼俊母、 名誉軟骨 甥重経、姪少将内侍、孫通宗通俊なども歌人としてみえて

(2)

い る 。 (2) 兄弟姉妹 尊 卑 、 寸 T J M 山 正 ノ H H 川 群 書 類 従 、 巻山品川町 続 群 書 類 、 従 巻 的 府 間 続群書瀬の四恩︵系図がある。今これ等をここに示してみる。 従 巻 第 ロ 伊勢大輔の系図には、 頼 基

主主 輸 完封 限引一一| 輔 稿 伊 経

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勢 大 柿 ハ 前 寸 巾 咋 分 服 ︶ 頼

l

輔 親 輔 隆

「司王司モ丁司弓

俊 忠 締 輔 紛 神 在 千 輸 綿 支 決 定 経 大 任

I

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.

祭 十 イ 四・ 公 先 ん 父 ) 亡 '.if'. ※輸経桜中臣氏系図祭主補 任神宮例文実父輔隆 祭主従四位上母大蔵丞、造外宮使大副祖父為レ子、水保一五三廿三点 l 号 一 一 小 社 一 母輔経町長正竹大夫 号ニ田村大夫 号 一 糸 七 郎 町 一 郁 十 万 円 斎 宮 六 位 助 後 叙 話 則 、 氷 久 一 一 一 十 コ ム 一 卒 九 十 六 ヘ 群 書 類 従 巻 第 六 十 二 J / 中 医 氏 系 図 ﹂ 頼

能 締 親 献

l

一寸

女 輔 子 経 伊 勢 ﹃ γ 八 踊 大続 中宮下 回.書 系類 図従 必

百 七 vじ 〆ー\ P121 P122 − 戦 隆 ! 輸 経

丁 一

g

y

能 登 守 党 ウ ↓ 小 委 一1 一一女子筑前守山氏明大凶是也 一三女子大和守親回一安 頼基|能宣

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輔 副 利

i

一 四 女 子 越 前 守 懐 平 妻 ・

i

五女子摂津守懐信一芸 一!六女子前越中守終守朝日安 一←七女子上野守家業妻 下 八 女 子 大 副 守 孝 妻 九 女 子 出 羽 守 兼 長 朝 臣 妥 大 統 中群 阻害 系類 図従 巻 ~ 百 一七 十 F七 P94 \ーノ

(3)

以上の系図︵説明の都合上前掲した順に

ABCD

と し て おく︶を比較検討しつつ、兄弟姉妹をみていくことにす る

OB

では、伊勢大輔を記していないが、輔親女としての一 伊勢大輔は当然補わなければならない。

C

に於ては伊勢大 輔を輔隆嫡と注し輔隆の子輔経の妹としてとりあつかって いるが、抹とした場合、当然輔経誕生後の生まれとなる が、輔経の誕生は永保元年半七十二︵輔経の卒年時の年に ついて信患すべき資料、がみあたらないので

C

の七十二卒を 根拠として考えていく。なお後述するが輔怪がコ一男である こと七男の誕生が寛仁三年であること、四・五男の誕生年 を考えに入れ氷保元年七十二卒でもその生年において適 当かと思われる o ︶である。逆算すると寛弘七年誕生と なる。しかし貰弘七年当時伊勢大輔はすでに上東門院に 仕えており、輔経の妹としては考えられないし、ハ父は輔親 峨 士 口 歌 仙 一 ヰ 十 六 人 間 ︶ で あ る か ら 、 輔 隆 と

u p

p γ

、 た い と

L

て 取扱うべきである o つ め 夫 次に輔怪と舗経の関係であるが、 A の み が 兄 弟 と し 一 寸 問 中主

r R

高任州立刈と注し、

BCD

いずれも親子として記 悶祭主文実父補溢﹂ し て い る o 保坂氏は

A

の兄弟として述べておられる行が、 萩谷氏は輔経は輔陸の子とすべきであるということを述 べられた同 o すなわち川間治百四年七月十九げの 大中巨輔経が従五位上に奴せられた記事があり、 こ の こ ろ 伊勢大輔が生存していたとしたら八一才位に達しており、 その弟がその頃従五位上に叙せられる程若いとは考えられ ないことを理由にしておられるが、身分の高い家柄の出身 であるならともかくとして、それ程でもない家柄の出身者 は年老いてから従五位上に叙せられることもあったであろ う 。

C

の七二才卒で逆算してみると従五位上に叙せられた 治暦阿年には五九才となり︵輔親は寛弘四年五四才時に従 五位上に叙せられた︶伊勢大輔との年令差二二、輔親にと っては五六才時の子となり、年令的に無理かとも思われる が、伊勢大輔の弟として考えられないこともない。しかし

B

C

の 輔 経 に ﹁ 祖 父 為 子 一 と あ る 一 の を 考 え て み る 必 要 が あ る これは父輔隆が楠経の幼少時、亡くなったためとも思わ れる。しかし輔隆は A の先父亡とあるだけではっきりした 卒 年 は つ か め な い 、 が 、

B

の輔降七男俊輔に永久三卜二十一 卒九十六とあることより俊輔が生まれた寛仁三年までは生 存していたと考えられる o 二 一 明 太 伸 宮 川 刊 文 に も 輔 経 は 輔 隆 祭主補任 の男とあるので、これに従った方が適当である。 0 0 0 0 0 では輔隆と伊勢大輔のきょうだい関係はどうなるであろ う か

o

A

ば 伊 勢 大 輔 を 姉 と し 、

C

ではイ輔隆姉と注してい る が 、

D

の妹としての伊勢大輔ととるべきである o という のは輔経の七二才卒での生年が寛弘七年であるが 1 今伊勢 大輔が二・一二才程の年上であるとすると、輔経は輔隆が十 八

J

十九才の時の子供となる。これは考えられないことも 5

(4)

-ないのであるが、輔経は三男︵二所太神宮例文︶であり、 F 中 区 氏 系 図 ﹂ 男二男の誕生を考えねばならない。輔経が輔隆の十八

J

十 九才時の誕生で考えてみると、一男二男は輔隆が十五

J

十 七才の頃の子供としなければならなくなり、年令的に無理 と思われるからである o そこで、以上のことをまとめ、輔 隆、伊勢大輔、輔経に限って略系図を一京すよ次のようにな る 。 楠親

11

綿隆

l

職経 一 伊 勢 大 輪 次 に

ABC

に記載されていない

D

の九女子について、

J

⋮ 版 に あ ら わ れ た 輔 親 女 と 呼 ば れ る 女 性 、 一 川 崎 一 一 誠 一 時 間 一 i小右記にみえる輔親女をあてはめて考えてみる。 系 同 日 中山氏系図小右記の野/汁

i

J

D 一 女 子 一 能 空 単 一 六 宗 妻 一 一 女 子 一 筑 前 守 成 順 一 安 心 人 訓 是 也 一 二 女 子 一 大 和 守 親 国 妻 四女子一越前守懐平安 五 女 子 一 摂 津 山 い 守 懐 告 別 一 作 安 一 六女子一前越自

1 2

月 一 づ い 制 限 妥 ↑ 七女子一上野守家主主 J 一 藤 原 家 主 主 ・ 章 経 母 八 女 子 一 大 副 守 主 一

一 ︵ 十 女 子 二 一 ︵ 十 一 女 子 ︶ 一 一 一 ︵ 十 一 一 女 子 ︶ 一 ﹂ 源 経 宗 妻 ・ 兼 俊 母 藤 原 伊 周 妻 ・ 忠 親 母 大 中 川 守 孝 妻 願 出 円 一 山 同 兵庫頭内任委

(5)

これらのうちで、一女子の実房妻、四女子、七女子、 ︿十二女子︶なる輔親女については、保坂氏 h H 、萩谷氏伶と もに指摘されたところである

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に − 記 さ れ た 三 ・ 五 ・ 六 ・ 九女子については、尊卑、その他の系図や資料に明記し 分脈 たものはなく決め手はない。しかし三・五・九女子が存在

LD

に一記された者に嫁したとした時、時代的に適当な人物 、尊卑:に於て指摘できる。ただ六女子が嫁した経守に 分断 ついては適当な人物が見当らない。 一女子能登守実宗妻なる輔親女であるが、実宗に嫁した 輔親女は品一服にみられない o しかし藤原実一塁夫方妻と しての輔親女が記されており、﹁宗﹂は﹁一房﹂か﹁方﹂の 誤記とすべきである。なお実一房妻と実方妻とを、一女子の 項に記入したのは実房女子と実方女子が同一人物とするか らである o 保坂氏

ω

、萩谷氏

ω

共に実一房妻としての輔親女 は指摘しておられるが、実方妻としてのそれを述べておら れない。すなわち保坂氏は n 大輔の子 μ の 項 に む 少 将 内 侍として H 少将内侍は尊卑よると能登守実房女歌人で 分脈 0 ﹁ 和 歌 色 葉 白河院女房保子とい L 、母は祭主輔親女とある名誉歌仙﹂ の条にも同様に記されている μ 白云々と述べられ、萩谷氏 は藤原実一房一安藤業保子等母として保子は、尊紳脈に﹁歌人 白川院女房﹂と注されているが春記長暦三年間十二月十二 こ﹁掌侍隆子辞申之替と見える o 少将内侍がこれ 卜 b 原 保 子 可 補 任 之 由 ﹂ で あ る

μ ω

と述べておられる o 保坂氏の述べられた少将内 侍は尊卑:では藤原実方次子白

H

院女一房であり、実房女子 分 町 一 一 j には白河院女房保子寄人とあるだけであり、少将内侍なる 記載はしていない o また﹁仰河内即時﹂の条にも少将内侍は 実房女子としてではなく前能笠守実方女母として記され 輔 親 船 女 白 河 院 女 房 て い る o そこで尊伸一脈の実房実方の系図をみてみると次 の如くある o −頼業 実 房

i

﹁女子 実 方 ! ﹁ 女 子 ※ 勅撰作者八代 部 数 集 抄 記 載 が あ る 。

ω

従 三 大 中 川 忙 輔 親 女 一 山 一 h 下伯番守 白 河 院 女 房 保 子 ・ 奇 人 母 祭 主 輔 親 女 白 川 院 女 一 房 ※ ︵ 按 作 者 部 類 藤 原 出 火 房 女 ︶ 母 輔 教 蜘 女 7 -少 将 内 侍 荊l 色歌 葉 の少将内侍には次の の作者注 勅 撰 作 者 部 類 白 川 院 女 房 能 登 守 実 一 房 女 和 八 名 歌 代 誉 色 集

新後 三 拾 完遺 能 活 ザ 一 守 実 方 女 ・ 白 河 院 女 房 前 能 島 北 守 実 方 女 母 輔 親 卿 す 、 . 白 河 院 女 房 以上の記載から考えてみると、少将内侍が実一房女と実方 女と二人あることになる o もちろん、二人は全くの別人で 少将内侍と称したとして、一応解決できよう o しかし、い づれ屯能登守となった父をもち、輔親女を母とし白河院女

(6)

一房であったとみてくると、全くの別人とすることに疑問 が生じてくるのである。まず、実方女としての少将内侍を みてみよう o 実方は能登守となった記録はなく、長徳四年 ︷中古三十六︶亮じている。そこで少将内侍の誕生の最下限 F 人歌仙伝﹂ は実方、が襲じた長徳四年ということになる。この年の誕生 と仮定しても白河天皇誕生時︵天喜一冗年︶には、五五才と なり女房として仕えるには老年すぎるようである。では実 房 女 と し て の 少 将 内 侍 は ど う で あ ろ う か 。 父 安 一 房 の 年 令 、 が はっきりせず、兄弟関係からも生年を推定するのは困難で あるが、実一房は桧己長保元年 J 三年にその名が頻出し寛 弘八年一条院の葬儀にも奉仕していること、か記されてレ る。の長保四年十月廿四日の条には式部来一藤原実一房 としてみえ今沼、宇治拾遣、尊卑 ゲ 仲 ー さ 即 以 刊 一 且 同 F 刀 臨 附 には乃登守とまされ 懐正 )1五 下

目fI 守

i

i 重資 ~t 経経 {~ 右 馬 頭 従 四 下 母 同 重 経 右馬頭皇后宮大進 従 五 下 寄 人 従 五 上 紀 伊 守 臥 実 者 重 明 子 母 輸 親 卿 女 とあるが、尊卑のこの部店主萩谷氏も述べておられる如 分 肱 / い 川 く、非常に乱脈を極めている

ω o

そのためもう少し調査の 和歌 必要があろうし容易に信用しがたいところである o 色葉 腕 時 一 に 重 軽 は ﹁ 蹴 御 似 臨 時 一 隅 誠 一 重 経 ﹂ と 記 し て い る o ている。実房の子頼業に、母輔親女とあり頼業と同母の一兄 妹として少将内侍をみる方が適当と思われる o なお、保坂 氏は少将内借を康賢正時と阿舟の姉妹かは断定できないと 述 、 べ ら れ た 、 が 、

D

にも記載している如く、伊勢大輔の外に 実 一 房 に 嫁 し た 輔 親 女 が お り 、 叉 実 一 問 、 が 伊 勢 大 輔 の 夫 で あ っ たならば、当然家集にもそのようなことがみえるはずであ ろうが、みえないところをみると伊勢大輔の夫とすべきで はなく、少将内侍と康資王両とは同母の姉妹ではないとい え る o 四女子越前快守平妻なる輔親女が

D

に 一 記 さ れ て い る が 、 尊

A

;に於て越前守となった懐平に嫁した輔親女はみえな f ム ノ r m j ぃ。しかし越前守懐予の妻となった輔親女があり﹁引ノ﹂ を﹁平﹂と誤写したものとすべきである o 首 叶 一 伸 一 服 で は 、 ﹁ 重 経 按 下 文 成 予 子 而 作 J F 成 経 多 武 略 記 与 比 同 ﹂ 岳 山 一 倍 耕 一 一 回 転 に 重 経 は ﹁ 蹴 鞠 ’

E

⋮ 肘 一 一 日 七 J 女が母であっても年令的に不都合なことはない。 八女子大副守孝妻としての輔親女は耕一得五巻中臣氏系 図に次の如くある。 とあり輔親

(7)

守 孝 | 頼 宣 母 輔 毅 一 女 所 衆 出 雲 守 左 京 進 民 部 丞 騎 河 権 守 寛 治 五 七 廿 四 卒 九 十 四 号 二 内 田 一 頼宣は永保元六一祭主に補せられ寛治五七廿七九十四才の 高齢で残した

o

4

K

附 一 政 神 ︶ ︵十女子︶としてあげた源経宗妻兼俊母であるが、尊伸一脈 こは経宗

i

兼 俊 ※ 母 大 中 巨 ︵ 母 大 中 巨 輔 親 女 按 下 女 高 階 ︶ と み え 輔 親 女 F 氏 及 作 者 ー 部 類 母 高 階 成 順 女 、 て い る o 兼俊母は高階成順女が正しい。何故なら級一瀬で ロ 白 ロ H U 門 H H 川 経宗の娘の後三条院越前を伊勢大輔の孫と呼んでいる。こ のことはすでに萩谷氏・保坂氏が指摘されたところで刷引 が﹁摂津集﹂のかねとしの歌に伊勢大輔︵おやのはムそ︶ ←兼俊母︵おや︶←兼俊﹂の関係が一亦されている o 後 齢 集 では康資王母との贈答歌があり、その詞書から、康資王母 と兼俊母とは姉妹関係が考えられる。康資王母は伊勢大輔 の娘であるからラ兼俊母は伊勢大輔の娘とすべきで、経守 妻となった女性は明らかに成順女である o ︵十一女子︶伊周妻なる輔親女 , 与 4 J R では伊周・:※忠見右京大夫従五下母祭主※僧綱補任 分 間 ’

Z

輔 親 女 菜 暦 一 克 三 八 卒 七 十 九 作 権 大 忠 親 似一川本附載と記している o 伊 周 は 正 二 位 、 内 大 臣 ︵ 公 柵 任 ︶ にまでのぼった人である。このような高位高官になった伊 周に輔親女が嫁したと考えられるであろうか。伊周の母は 伊勢大輔の夫の叔母であり、このような関係からあるいは 伊勢大輔の姉妹である輔親女が嫁したかもしれないが確か な決め手はない。輔親女が母であったとしても年令的に不 都合なことはない。 ︵十二女子︶兵庫頭内任妻 小右記長元二年二月四日の条こ﹁兵庫頭内任云関白度祭主輔 k 親 六 条 宅 之 後 一 日 設 饗 僕 献 酬 一 瞬 嬬 一 群 刊 誌 哨 一 時 肝 一 耕 輔 ⋮ 献 一 時 一 持 一 町 一 四 時 一 問 一 捌 ・ ﹂ と 内 任 妻 、 が 輔 親女であることが記されているが、内任は尊伸一脈その他の 系図にも資料にも見出すことができず、いかなる人物であ ったかは詳かにできない。

伊勢大輔の宮仕 伊 勢 大 輔 は 袋 草 紙 こ 主 さ 1 ている如く上東 中 古 歌 仙 三 十 六 人 伝 k 一 一 門院が中宮と申された時初宮仕をし、八古の奈良の都﹀ ︵ 家 集

5

︶の歌を即座につくり側近の人達を驚かせ宮廷生 活の第一歩を踏み出すわけである o 上京門院が中官と称し た時期︵長保二年

J

長 和 元 年 ︶ 家 集 ︵

5

・ 什 ︶ の 詞 害 時 一 議 などから考察して、寛弘二

1

四年間の初宮仕である、が、家 集︵

5

︶の歌がとられている後十五年歌合の成立時との関 係から寛弘四年説を出された萩谷氏説ロに従っておきた い。ところで俄湘に伊勢大輔が上東門院女房として道信 庇 R 肝 刷 中将と連歌をつくった記事があるが、道信中将は正一胎五年 卒しているので、この記載は時代がずれ考えられない。な おこの連歌について土統詞花集今鏡の作者もとり入れてい i 物 名 ヲQ

9

(8)

-同歌合その他公的場の詠歌 寛忠四年宮仕を機会として、上東門院菊合︵二首﹀、弘 徽齢女御歌合︵二首︶内裏歌合︵五首︶、正子内親王絵合 ︵こ首︶、祐子内親王歌合︵三吉︶、皇后宮歌合︵四首﹀ に出席し、合計十八首を詠み、その他公的場での詠歌もあ り、歌人として葦々しい生活を送ったようである。 制 交 際 人 物 年 若 く

L

て上東門院の女房として仕え、後宮に日を送 り、その問、上達部、殿上人、その他女房達等、多くの人 h 左交際もあったようで、家集にも贈答歌がみられる。 次に伊勢大輔と贈答関係にあった人々をあげてみる o 家 経 ︵ 家 集 四 一 一 J 皇 ・ 五 O J 吾 一 ︶ 定 頼 ︵ 家 集 九 七 ・ 交 ︶ 実資︵ L 一 家 集 完 ・ 一 4 0 ・ 主 主 一 ︶ 正 光 ︵ 家 集 七 ・ 八 ・ 九 ・ 一 C ﹀ 道 雅 ︵ 家 集 一 手 一 六 ︶ 師 実 ︵ 家 集 七 九 人 O ︶ 経 信 ︵ 家 集 二 一 ・ ニ ユ ︶ 慶 謹 ︵ 家 集 一 世 一 八 ・ 一 完 ︶ 紫 式 部 ︵ 家 集 一 七 ・ 一 八 ・ 一 九 ・

8

︶ 和 泉 式 部 ︵ 家 集 二 ・ 二 一 ︶ 能 信 ︵ 家 集 会 ・ 八 七 ︶ 長 家 ︵ 家 集 八 八 ・ 八 九 ︶ 慶 範 法 師 ︵ 家 集 一 言 ・ 一

0

8

信 宗 ︵ 後 拾 五 九 五 ・ 五 九 六 ︵ 家 集 一 一 ゴ 一 ︶ ︶ 資 通 ︵ 家 集 三 八 二 一 一 九 ︶ 雅通︵家集三

J

一 三 ︶ 相 模 ハ 家 集 九 人 ・ 究 ・ 一 O 一 ・ 一

0

6

赤 染 衛 門 ︵ 家 集 主 ・ 歪 ︶ 少 将 井 尼 ︵ 後 拾 二 一 九 ・ ニ ユ O ︶

¥

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I

伺 総 括 作歌生活五十三年にわたり、その間歌合での詠歌・贈答 歌、その他いろいろな機会に歌を詠じた o 平安朝の才媛清 少納言、紫式部、和泉式部等にくらべ、それほど名をしら れていないが、当時にあっては歌人としての才能は認めら れていたらしく、贈答関係にあった人々も多く、それ等の 中には学問的に優れていた人、和歌に長じていた人があ り、それ等の人と対等に歌をよみかわしたものと思われ る 。 注 (1) ﹁保坂都 J f ﹁ 学 苑 ﹂ 昭 三

0

・ 一 、

平 安 朝 歌 合 大 成 三 ・ 四 萩 谷 朴 ﹁ 伊 勢 大 輔 と そ の 周 辺 ﹂

l

家 集

し、

序 その家集や平安時代の勅撰集、物語等に描かれた檎垣 は、他の多くの平安朝女流歌人達と同様、その経歴や生活

参照

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