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門司關と門司氏

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Academic year: 2022

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

門司關と門司氏

長沼, 賢海

https://doi.org/10.15017/2340937

出版情報:史淵. 20, pp.1-20, 1939-03-31. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

上古以来︑糀世及び臨時の開については︑其の記事の剛史に見はれるもの紗くない︒殊に三開につい

て然りであり︑海開についても刑様である︒しかし海關の亜要性を雑ぷるに至ったのは︑中仙以来關料

を徴收するやうになったからで︑兵庫關上下︑及び淀關︑共の他瀬戸内海︑及び淀川等の海河雨上の淵

は皆然りである︒九州↓と中閲どの境堺に糊る門司瀕戸には︑北に赤Ⅷ開あり︑南に門司關あり︑相對し

てゐる︒赤川淵はもざ中岡の海岸を廻航する船に對するもの︑門司淵は九州及び川風の一部の海岸を廻

航する船に對して世かれたものである︒

天平十八年七Ⅱ二十一Ⅲ︑太政官より符を太宰府に下して官人︑百姓︑商旅の徒豊前風の革野︑幾後

剛の岡埼及び坂門等の津より︑意に任せて往還し︑樋に剛物を消す︑自今以後厳に禁断を加ふ︒但し豊

後︑日向等の剛の兵術︑釆女の登物にして人物を洲途する船︑風埼雅に取って往来する新は禁限にあら

す︑此れを除く以外は威禁断す︑云さ乙令してゐる︒︵熱米三代桁︶太宰府︑こしては此の令に依て︑厳

門司剛と司司氏

門 司關と門司氏

︵一︶門司關

長沼賢

(3)

I

1

上巾して撒津岡司が過所を勘松するに備り︑過所及び過所に對する門司關の勘過證を有せざる新は厳し

く法に依て科衝すれば︑舞源自ら浦み︑越度も亦恩まん云産︑こ︑これを大政官に請うに.所が太政官は

延暦十五年十一川二十一日︑幾前豊後の三津より上る公私の船は﹁門司を維るこさを要せす︑但し過所

は依然太宰府の給附する所ごなすべし↑乙令し婿︵瀬聚三代格︶此の時の符の中に﹁承前所禁︑不し在二

総限︑長円︑伊豫等剛亦症承知﹂︑こある︒此所に特に長門の岡をしてこれを承知せしめ仁のは︑赤Ⅲ關

があるからであらう︒伊豫幽をして承知せしめたのは︑從來伊豫風の閥北部の船は上り海路は九州の來

岸につ堅L北上し︑門司關を通過して東上してゐ仁が爲めであり︑此の時以後は坂門から直に東上する

こさを許されるこさになったが鰯めであらう︒

豊前︑豊後の三津ごある豊前の草野洋は﹁カャノ﹂︑ご風史大系本三代格に傍注あnごいか瞳︒和名紗

クサノ豊前剛仲津郡靭野郷あり︑草野津は今の行橋の附近なるべく︑豊前の奥地から内海に肌る要津であった

こ︑こ︑今の地理に徴しても明かである︒蓑品は共の沖頭にあり︑中枇以来海賊の根擴地を筋してゐにの

も︑恐らくこの津を控へてゐだからであらう︒風埼津は今の半島の東部の幽東村か︒こ上は郡名の元を

なし︑郡衙のありし所か︒然らば岡埼津は凡そ今の僻川町の逢に識れるか︒坂門の門は淵の意であらう

から︑坂門は坂ノ門即ち坂ノ關なる・べく︑坂門津は今の佐殻開ノ津︑即ち佐批關町に術ろであらう︒上

Ⅷ司關と門司氏こ

しく取締るのであるが︑猫ほ上記三港には舞徒多く蒋來の越度︵關所破り︶を禁断するこさを得手︒又

過所を有す亡雌も︑黒前門司關を經寺︑此の如き徒成難波に集った︒こ比に於て延暦年中︑太宰府より

(4)

古︑航海の術甚泊幼稚であった時代には︑・九州及び川閏の西海岸から東上するには︑必ず九州の束海岸

に添うて門司に出なければならなかったのであらう︒祁武天皇の御東征の航路も︑之れに從ってゐるの

はその爲めでもあったらう︒然るに遥唐船の往来すら頻繁ごなるやうになっても︑猶必︑ず此の航路を取

らしめるといふ事は︑不自然であったのであらう︒叉一つには天平以来宇佐八幡の勢力が弧大さなり︑

其の所領の蚊も多かった九州の東牛ご上方ざの往來が瀕繁ごなり︑九州東岸の舟は東上する自由の航路

を得よう・としたのであらう︒かくて太宰府・は門司を管して同地の開を通過せしめようさしたが︑延暦年

中に至って︑豊前︑幾後の上記三郡に道を取る船は齊規を改めて直接三津から東上し︑門司を越度する中に至って︑豊前︑幾後︵

こさを鱸されたのである︒

この事件に依て知るこさを得た大きな事は︑門司閥が川風︑九州に於ける海關中妓亜要性を有するご

いふこさである︒門司の意は關司にして︑門司關・こいふ名稲は︑門ご關ご砿複してゐるのである︒こL

を単に閥ごいひ︑赤Ⅲ開の如き塒別名の遡らなかった事に徴してもその販要性が察せられる︒︲而して今

開衙の所在地や關司の官制等については︑こ上に知り得・べきものがあるであらうか︒

關衙の所在地については姑く措き︑こ上に知りたいのは關司の役制である︒凡そ開には赤冊の例に徴

して若干の兵備はあったやうである.怪門の雌兒は關所に鯉かれた︑こある︒︵延蒋式︶煽武天皇延暦八

年三淵を雁し︑兵器綴食は剛府に︑館舍は便利の郡に移し建てしめられに︵綾H本紀︶こさがある︒既

に兵備あり︑倣舍あり︑これが管理は勿論開の所在剛の倒衙の司配する所であり︑九州では更に太宰府

門司閲と門司氏三

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(5)

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(6)

を委細宇佐に注進し︑宇佐宮よりこれを太宰府に牒して紛争を惹起して一のに︒然るに其の後宇佐宮か

ら祁供の装束米百十五石二斗︑内仲津郡五十石︑下毛郡五十石を微收せんざして︑宮使一笹派謎するや︑

良方は装束米は太宰帥の館料米を掠領せるものなり壱ご云って︑その微收を妨げ︑且つこれを府に訴へ

た︒府は検非逹使豊剛公職をして剛司に燗れるこ︑こをせす︑世に閏府使の不入地に侵入せしめ︑宇佐大

宮司大祁邦利を禁間した︒依て宇佐宮からこれを太政官に訴へたのである︒此の事件の始末については

和清水文普別に所見はないが︑日本紀略に擴れば︑寛弘元年︵長保六年︶三川宇佐宮の命婦祁人等が京

都に抑上り︑二十川日陽明門に参入して太宰椛帥平唯仲を訴へ化・訴の趣きは︑椛帥帷仲が宇佐宮の喪

殴を封じたから︑宜しく椎問使を下向せしめられにいざいふのであった︒尋で朝廷は右衞門佐孝忠を推

間使ざして下向せしめられに︒その後閏九川一日に邦利は門司別術粂方を殺害した︒錠方︑良方乙︑石

清水文書ご紀略と一致しない︒恐らく紀略の誤りであらう︒誰で十二川椛帥惟仲は停任毒こなり︑翌年三

川蕊去し鳴小右記に﹁宇佐宮降詠欺﹂︑こある︒かくて宇佐宮の全勝に終ったが︑宇佐の動乱は猫ほ止

まなかったご見え︑間もなく喪殿の焼失等︑事件が絶えなかつ仁︒

この攻争は単なる宇佐宮ご太宰府ざの問題ではなく︑宇佐宮の内部の攻争も係ってゐにやぅである︒

同宮の命姉や祁人等が上京して陽明門に参入したこ︑こを御堂關向記に鋒して﹁又是邦利方.−ごあり︑次

に﹁帥方彼椛宮司臨海又参︑共装韮奇︑赤烏帆子粁等候︑女左近府門瀧頭幡布︑其下二三人塞著﹂ご見

えてゐる︒この一行も矢張り出女で抑懸けたものらしい︒こ型で塒に注意すべ菅こぐ﹂は︑大宮司大川利

凹司關と門司氏↑五

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1

(7)

J目■■■■■■■■

それは本朝無題詩に

過叩

門 門司關と門司氏六

邦方さ︑椎宮司宇佐致海方ごが相手ひ︑椛帥平惟仲は致海を援けて相争ったものであり︑良方は邦利方

に低L殺されざ﹂︑こが分明である︒されば門司別術艮方は樅宮司方であるこども想像に難くない︒而し

て佐伯氏は豊後の古族であり︑宇佐宮の開係蒋であらう︒佐伯氏が雨派の内何れの所脇であっても今多

く問題ごする所ではないが︑門司關の別術職が宇佐宮の祠官ご机通じてゐたさ恩はれる佐伯氏の任命を

兄てゐたこごを注意しなければならぬ︒

門司は前にも述べた如く九閏及び川剛の一部の海上の細開門であり︑その關司が亜要な役目ざなり︑

特に別柑の名を稲するに至った︒御堂關白記に門司別糊のこざを門司開司ごある︒そしてそれが宇佐宮

の勢力下にあるに至った事怖は如何︒但し宇佐の就領は九州に充滿してゐに︒就中豊前︑幾後︑n向に

於て蚊も多く︑門司の所脇郡企救郡にも多かったこ︑ご宇佐大鏡に依て知られる︒石清水文書所收宇佐宮

彌勒寺喜多院所領庄薗之Ⅲ事︵年號川Hなし︶に筑前國少倉庄一千五丁ごあり︑豊前の小倉庄であらう︒

宇佐の勢力が門司關に及んだのは上記の如くその宮寺の莊園が円司を包幽してゐにこさにも曲るであ

らう︒又宇佐使の往来が繁くなり︑︲その沿迩には各地の八幡宮も此甑から並び祀られたであらう︒門司

八幡などもその一ではあるまいか︒門司八幡の宮司は宇佐の祠官の名家の一つである大祁氏である︒か

うした關係からも宇佐の勢力が門司に及んだでもあらう︒今この黙につき更に老ふく苔一史料がある︒

1

司關述川誠

LI

(8)

11

西鎭古關經過程画一零着欲し絢備門司關名因し例雌し加レ轄肺牒有倣不レ蝉衝締諦融諦磯し螺

獅罐鋤山蛎二順秋川色︑江傅三峡暁波蕊繊松沙車朝猶基唯似證州後レ素成

さある︒同じく韮獅の紫屋雅の詩が同書に見え﹃その詩の注に一︲往年随養親︑路次此泊﹂︑こあり︑又右

詩に門司例に因て警笹加ふさ雌さめるに徴し﹃韮祁は少尋こも一震門司笹往復してゐる︒そして安樂寺菅

原廟にも詣し︑西府流永算斗ね︑病を治して逗皿畑噸年に及んでゐる︒又この詩に脊椎の行牒威椛日域に

洲つごいふ何かある︒蓮祁は呑椎宮の朋笹群びて両岡に來航し↑卜のであらうか︒行牒さは香椎行きに開

する役所の牒の意か︒呑椎杜發行の牒電こいふ事を聞かない︒又は呑椎行きに開する朝廷の牒の意味か︒

朝野群城太宰幸府の條に宇佐恢笹遮迭す・ぺ・言牒壷ご題し︑減入所より太宰府に宛て仁牒及び赦人所より諦

剛に宛てた牒ぜ載せて一?︒︒その後の例壼こして︑左の如き職人所の朧ぜ載せてゐる︒

版人所牒向太宰府︑路次剛↓々

賊人所牒向太宰

唯供給遮迭使等事

牒︑件等人︑鰯令奉御幣井祁喪於宇佐宮︑

向之剛︑勿用魚狐︑牒到准牒︑故牒

長暦Ⅲ年十川︵以下需病略す︶

門司洲と門司氏

1

正五位下行左術門椛佐藤原朝臣泰恋

卜部旺六位上世柄禰行礎︑小舎二人・

發遥太宰府︑価所仰如件︑路次風︑宜知状供給遮迭︑但遼

‑し

(9)

1 1

し︑太宰府に牒したものを所持してゐたか不明である︒何れもかくの如き牒の通川したこさ他に微證が

ない︒恩ふに平安時代になるご呑椎宮ご宇佐宮ざは塒に接近するやうになって居り︑長元五年の字佐使

は香椎にも奉幣し︑之れを先例︑こして︑後にも此の事が行はれてゐる︒︵野府記︶平安腓代初期の経の

皿から︑宇佐︐香椎同叶奉幣の事例甚だ多くなった︒︵紋日本後紀︑三代蛮鋒︶石浦水交課に擦れば︑

︑河天皇の頃には﹁宇佐︑香椎使﹂E一所に孵せられるやうになって來に︒︵白河天皇宜命︶そして脊

椎に火災あればこれを宇佐に祇謝せられ︑宇佐石満水に火事があれば︑これを香椎に祓謝せられてゐ

る︒︵白河天皇︷両箭︶洞清水ハ幟ご宇佐ざは二祗一慨の如き概笹呈し︑締崎︑宇美の叩ハ幡は石浦の別宮

ごなる程親しい關係にある︒かくて北九州の四大杜は一大ブロックを形成し︑九州に於ては宇佐は共の

眼王たるが如き槻をロエした︒蓮祁が香椎の勢力︑域に猟つき云ってゐるが︑上記の如き形勢から察し

て︑芥椎の勢力の背裁を鰯すものは宇佐である︒前にも述べた如く太宰椛帥平惟仲は宇佐の訴によって

北$任駕能められ︑共の以前長徳兀年には︑同じく宇佐宮の訴に依て太宰火式藤原佐理が停められてゐ

る︒太宰府既に宇佐の敵ではない︒円司別術が経に宇佐の勢力下に立つのも枠川然である︒故に韮祁が香

夕椎宮の勢威門司の關司を唯倒すご驚いてゐるが︑蜜は宇佐宮の勢力が門司の關司をして寛厳何れにも自

由にし得たものである︒かくし門司の別岼艸は太宰府よりも宇佐の宮寺の勢力を背景ざして有力な存在で

あり︑門司ハ幡叉は宇佐の宮寺の泄愉に依て門司の別横は祁傳されたものではなからうかご恩はれる︒

門渕側とⅦ司湖八

韮祁はこの牒に准じて芥椎宮から幽盈に宛てた牒を所持してゐたものか︑或は又朝廷より芥椎祇に關

(10)

︵三︶門司氏の起原

門司氏の子孫は萩藩土︒こして通り︑近年まで共の子孫家系及び家の文書を有して萩に居住して居た

が︑蚊近他に移蒋して経った2じ︑共の文書を閲読する機愈を失ったのば遺憾である︒江戸時代に於て

門司彌二右衞門房昌が︑藩に提川した﹁略系井傅書御判物御奉評篤﹂が山口縣臓所赦の齊藩.の書獅中に

遡って居り︑その抜華は萩藩閥閲錐にも收錐してある︒僻いか汰呂房の書上は文書の読めぬものl棋窟

であって今讃破し難い文字が進だ紗くないが︑差柑り之れに擦らざるを得ない︒この書上に擦れば門司

氏は大友能直の子親腸から川仁やうに系脚してある︒これを左に示す︒

幾前門司下血l秘暹

1親光l親忠11税弼l親尚:⁝.

毛己ある︒︵譜はすべて略す︶そして親光を先皿︑こして居る︒﹁親光儀六波羅之被準評定衆﹂﹁可爲豊前

閏代官之山︑開束〃抑教書被成下之川︑書傳候へ共﹁御教番所持不仕候﹂︑とあるも︑其の家系が大友氏

である↑ごいふ誰跡は雀だ判明でない︒家の文番の雌も古きものは左の一通である︒

︵ソ←︶太政法服坊雑掌宗慶巾︑幾前剛散在価牛分喪保川跡事訴状刑典香如レ此︑早宗像大宮司祁共︑守二御

下文之﹄且可レ致二沙汰付宗慶一之山候也︑価執逹如件

嘉暦川年二川什五Ⅲ沙蠅判

Ⅲ湖關と凹司氏九

○熊哩I親房

111

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(11)

門司關とⅦ司氏一○

この文書宛名を逃してゐるが︑太宰府守謹所から︑豊前の守護に宛てに下知壯であらう琶思はれる︒宗

像大宮司ご祁共に所理すべきこさ語命じたについては︑この所領が宗像大宮司家さ支配上︑何か塒別の

開係のあったものか︑或は宗像氏の海上勢力がこの所領に及んでゐたに山るものか明かでない︒宗像文

普巾には︑何かこの事につ・さ︑解決を典ふく言史料がなからうか︑こ思って︑一雌捜索して見たが︑何の

手がかりをも得ない︒門司氏の書上には下総次郎三郎税光の條にこの文書をか上げてあるが︑太政法服

坊雑掌宗慶が親光であるかざうかも︑勿論不明であるが︑門司氏の丈普さしてはこれが雌古のものであ

る︒文書の上で明かな門司氏の組先は宗慶を以て蚊初のものごなすのである︒筑前糸脇郡の海賊︵海

族︶中村氏が志度祁祇の祇价の子孫であらうご思はれるやうに太政法眼坊の名は門司八幡の祇倫か︑或

は直接宇佐宮の宮寺の開係蒋︑こして起った名であらう︒今これが誰擁を得んが爲めに︑彼の書上の文普

について門司氏の所領關係を検べて見たい・

概唯三年二川二十七H附けの門司親胤の︑安壯に振れば︑同氏の親類の中に郷房氏あり︑郷房氏は寺

院關係より起った家名らしく恩はれる︒碓氷九年卯川二十日︑大内盛兇が門司中務少輔に宛てた所領安

︹?︒︺堵舩に亙垂剛國門司北方吉志郷剛衙分繩大通寺事︑爲曲緒所︑還付之候也﹂︽己あり︑大通寺が門司氏

の由緒の所領ごあるも︑門司氏の家の起りを察する好史料であらう︒叉元亀元年庚午士一月廿五日︑左

近將監秘胤の門司余七に宛てた所領讓状の中に︑二所︑吉志郷内祓門分事﹂ごあり︑叉.族門司親

瀝家傅書御判物扇﹂の中に左の一通がある︒

I

(12)

をある︒其所領は宇佐宮に近く辛烏の内久包八町︑及び彌勒寺惣堂逹職さいふものを所領ざしてゐる卿

は︑上記門司氏の本家の所領文書にあらはれてゐる寺社に由縁ある來歴に参照せぱ︑太政法服房の名の

起りについての愚考が必ずしも突飛にあらざる︾﹂さ明向であらう︒

然らば王朝以來直接Ⅷ接宇佐の宮寺の開係君ざして門司の關司こなり︑子孫これを世襲して門司氏ど

なったものであらうか︒太政法眼房雑掌宗慶の﹁雑掌﹂は法眼房の雑掌の意か︒恐らく太政法眼房は宗

腰の術號さ見られるから︑︵或は坊名から來に僧號かも知れない︶雑掌は門司關の雑掌の意︑正しくい

へぱ昔の門司政所の雑掌の意琶解すべきものであらう︒然らば門司氏は平安時代以來門司別岱さして︑

宇佐の宮寺の縁故新の土茄したものであらうか︑或は武家時代になり︑地頭さして新に入部した武家の

系統の豪族であらうか︒

家の系剛には前に述べに通り本姓は藤原氏︑大友氏の支家こあり︑親胤に賜はった元弘三年六川廿日

の任修理亮の宣旨にも︑藤原親胤︑こある︒而して元弘三年八川Ⅱ︑商師泰證判の下總次郎三郎税弼の言

上壯に︑﹁欲早下賜安堵締旨致奉公︑陸奥閏含津内上荒川村︑川畠在家事︒右枇村荊︑依蒙古弊岡之

門司閥と門司氏二 ︲大内義興判

祭前國規矩郡︑門司伊川郷内本領分井川河郡弓削川庄六町︑宇佐郡辛島郷内久包八町二段地︑宇佐宮

彌勒寺惣堂逹職等夏︑帯代糞證判︑父民部丞宗房讓與之旨︑門司彌次郎依親領掌︑不可有祁逹之狄如件

氷正十八年九川

1

(13)

I

Ⅲ司開と門湖氏一二

忠︑去肥脳年中︑令拝領之︑常知行子今無無机逹粁也﹂ごある︒弘安元冠の恩武に宛つくき土地は九州

に於て雄も必要であったが︑それが容易に得られなかった︒川埼莊が多く肥前の豪族に分賜され︑その

一部は筑前の新共にも賜はり︑︵中村文普︑宗像丈番︶對賜の薪にも賜はった形跡がある︒︵宗家価内

判物帳︶今門司氏が奥州命沖に於て之れが恩武を賜はったのは︑九州に於ける恩貧地の不足に曲るもの

ではあらうが︑門司氏が常時に至って猫ほ關東奥州方面母﹂の開係が断絶してゐなかつに事を論するもの

ではなからうか︒前にも述べたやうに凹司氏は大友氏なるか否か︑勿論確誰はない心或は大友氏E孵す

るは︑後枇大友氏の配下さなりたるに始るのではなからうか︒關東︑奥羽に關係ある藤原氏ごいへぱ大

友︑宇都賞小川の諸氏の如き︑秀郷流肌身の藤原姓豪族の子孫さす一べきか︒親弼は下總次邸三郎︑秘

胤は下總修理亮︑親尚は下總左近將監ご濡し︑秘術の醜から門司氏を稲するやうになってゐる︒然らば

門司氏は阪東︑奥羽方面から來り凹司に土着し︑始め術號をこ稲し︑後下総氏ご濡し︑改めて門司氏ご

稲へた秀郷流の藤原氏の出身︑こなす・べきものLやうである︒

肺生古誰丈古書類窮に擦れば︑門司氏の家系につき更らに異った論が立てられる︹同書に延丈凹年足利

韮詮が門司關半分を麻生氏に與全卜教普に︑古の所恢を注して璽苅下總椛守入迩跡﹂ごあり︑門司氏

は下總氏ぐ﹂孵して一ねる軸から老へて黒河氏が門司氏の奮姓である如くにも恩はれる︒若し果して然ら

ば︑門司氏が禽津に於一L弘安の恩武雫こして上荒川︵岩代北含津郡町北に上荒久剛あり︑上荒川は上荒久

川か︶を賜はるごいふ事も解樺され得る︒稗津黒川には黒川氏あり︑華名氏の支家である︒推名氏は三

(14)

浦義明の子孫であるこいはれ︑平氏の名家である︒この説は前記門司藤原氏︑こいふ家傅さ一致しない︒

併し家系はその家の博へが鼓も信じ難いものあるこ︾己は門司氏に限った︾ご﹂ではない︒或は門司氏輩猪

平氏なりご﹂するのが﹈鯉に近いかも知れない︒今別老を述べ︑判断を後日の考に讓る︒右韮訟の教書は後

段に引川してある︒

俄時は門司ざ云ふ地域は︑門司牛踊の北部及び東南部を含んでゐたらしく︑この地域を門司關︒こも孵

しにるこざ︑忍皐前凹門司北方吉志郷﹂︵肥永九︶︑こあるのを︑﹁豊前閏門司關吉志郷﹂︑ごあるに擴て

知るべく︑門司氏はその關司なるこ︑こ前に雑掌の意味を述べに條にも説いた︒概唯二扉の親胤の目安舩

に﹁以前條凌軍忠次弗如此︑自本杢在關役町致忠節戦功事︑悉以被知食之上者﹂ゞこある︒同二年大館

氏を助けて原東氏の海賊の侵入に對しても︑専ら關前の海上に於て戦ってゐる︒然らば始めから門司氏

は關司・こして一人部しにのであらうか︒代凌の讓壯には門司關司こいふ所領名は全く見えない︒而して大

分後ではあるが︑元唾兀年の観胤の讓状の所傾目録の蚊初に﹁一所幾前間門司淵吉郷牛加地頭職事﹂ご

ある︒吉志郷は門司氏の本恢であるこ︑ご他の文書に樵て明向である︒

源平皿︿亡に際し︑宇佐大宮司公房は︑日來平氏の鰯めに祇勝を致して瓶朝の勘氣を蒙らぅさしたが︑

頼朝は敬祁の故琶以て公房に宮務の符領を許した↓こいはれる︒︵山槐記︶女流四年同宮逝織の事は︑公

房に特あるに依て之砂噸はしめんが矯めに︑その工事を命ぜられろか壷己云はれた︒︵吾妻鏡︶太宰管内

志所載文書に樵れぱ︑宇都宮左術門が宇佐に來って造鱗の工郡を兼剛してゐるこさが分る︒これ幾前字

門司關と門司氏一言一

(15)

I

然らば關司たる門司氏のこの地方に於ける割擁の地理的形勢は如何︒その所領を老ふるに︑本領吉志

は今の門司市の南に徴り︑門司牛貼の東南岸にある︒門司氏分家の本領のある伊川は円司市琶吉志の中

間にある︒その外門司宗家は柳郷倉舟の名主職を有して一更卜︒柳郷は大里の附近にあり︑瀬戸に面する

要地である︒叉門司關の市中にも屋敷を有してゐた︒元躯兀年の讓欣には.町門司傲住屋敷並町屋 敷三ヶ所等更﹂さあり︑分家も亦市中に所領を有してゐた︒天正十年の門司飛盛の讓欣に.︑同門

門司棚と門司氏一四

佐郡佐川の地頭宇都宮氏の起りなるべく︑宇都宮氏は佐川氏を孵し︑後豊前の守謹ざして威を振ひ︑宇

佐の祭事を支配するやうにな2Lゐる︒頼朝の宇佐の勢力に對する工作の次錐を察すべきである︒これ

は門司氏の門司入部の次第を老ふる参考こならうご恩ふ︒察する所司門氏の吉志郷地頭雲こして入部した

のも︑凡そ鎌倉時代の初めであったらうか︒書上の交番に擴り︑門氏の↓門司居住を論する蚊も古き年代

は弘安である︒しかし弘安役に既に勲功があったので恩蛍を行はれてゐる位であるから︑其の門司入部

は弘安以前にあるこE勿論であり︑書上の傅説等を参考して鎌倉時代の初めこすべきであらう︒そして

岱時門司氏は戦朝から吉志郷の地頭に袖せら狸L門司に土蒲し︑同時に門司開雲笹管し︑平安朝以來の門

司關の歴史に從って直接には門司八幡︑間接には宇佐の宮寺の開係荷さして僧職僧號一琶繼ざ︑門司の雑

掌を繼承したものであらう︒

︵四︶門司氏の威容

I

(16)

司津町屋布上ケ所之事﹂ごある︒叉貞治三年三月日︑及び貞治川年川川日︑少式冬費論判の門司下總左

近將監親尚の軍忠状に振れば︑門司一族にして門司關一方の支配者であった﹁開一方若狹守﹂ご稲する

新があった︒こ比にいふ開は關所の意ではなく︑或る地域を指しに地名さして取扱はなければならぬ︒

貞治三四年︑菊池氏の活動に際して︑大内氏も之れに脳寸るや若狹守は猿喰城に椚総って親尚ご戦って

ゐる︒猿喰城は吉芯さ伊川の間にある︒此の時大内氏は瀬戸を渡2L赤坂に落岸し︑猿喰城の兵に合し

て親尚さ戦ってゐる︒赤坂は小倉市の東の海岸︑大里の西南海岸に連り︑糊時に於は大切な船蒲きであ

った︒文明十九年川月二十日の︑大内氏の赤間關︑小倉︑門司︑赤坂の渡り賃の條糞に︷せきざ赤坂こ

の間拾文﹂︵小倉ざのⅢ考交︑門司とのⅢ堂文︶︑ごある︒大内氏がこ上に藩岸して猿喰城に唯じ得た所

以は赤坂が關一方の門司氏の勢力下にあったからではなからうか︒愉時諸閏の豪族は官軍賊軍︽己別れ︑

互ひに一方を制せようざした︒門司氏もその例に漏れなかった尋乙兇える︒此の家については普上に﹁五

月七日錨太宰少式冬妥沙秘術一族若狹守同脈子等諾那爲兵根将被宛行下級人道兀親内半分︑割分之

庶子三人中︑可宛行之判物癖釧紙﹂︑ごあれざ︑別紙にこの添丈は見えない︒而して此文も亦文意がよく通

じないが︑少式氏が側司元親の所領の半分を︑若狹守及び岡庶子等に分誕すべきこざを︑門司氏の組領

にる親尚に安堵せしめ仁ものであらう︒今門司剛難の攻争の沿革を明かにする必要があるのではない・

猿喰城を根擴ざしへ赤坂にまでぬけてゐに↓こ想像される關一方のⅢ司氏の勢力︑巳︑前記の門司叩家の勢

力ざを合併して︑全門司氏の門司牛肪に於ける形勢を老へたいのでめる︒此外の門司地方から離れに方

門司脱と拠司氏一五

I

(17)

門司州と門湖氏一六

面の門司諾家の所領についても今は述べる必要がない︒︑

中枇の門司の沖の町は今の門司市の字本村及び古凹司地方にあったものど恩はれる︒而してその西南

に通り︑早鞆瀬戸を擁する柳棚の愈研い名主職を有してゐたから︑今の門司港一帯はその勢力下にあっ

た︑と恩ふ︒柳郷は柳洲さいひ︑術時は総論苔場であり︑倉刊は上下の蛍物の倉敷地であったこさから起

った地名であらう︒柳浦から史に小倉に近い赤坂まで典の勢力が延びてゐた︒かくて半烏の瀬戸に面す

る要地を抑へる︑ごAもに︑牛脇の内海海岸に面し︑牛肪の根を抑へてゐる︒由來海賊の居を要地に樵へ

るや︑かうした地理的︑軍覗的な要領に依るものは他に熱例が少くない︒肥前の平戸城︑鳥羽の志摩城

はや上この形式を小さくし化もの︑安藝多奨谷氏の鎌刈烏の三瀬城は史らにこれを小さくしたものであ

るが︑その構へ方は和ひ酷似してゐる︒かくして門司氏は東西︑即ち内外の海老抑へ︑半貼を断ち切っ

て一大城廓ごなすこぎを得︑そして門司の沖の背後即ち東北に位し︑瀬戸に臨み︑長門亜汕さ和對する

城山を以一L關所及び沖の哩接の守りざしたのであらう︒門司氏は此の要害に擁て海陸に臨んだ︒地かた

に於げる門司氏歴代の活動は姑く措き︑海上に對しては共の勢威對洋赤冊を唾してゐにやうである︒麻

生氏がその根擴地を瀬戸の近く有し︑門司氏の勢力を飛び越えて對岸赤冊關に於て戦略的經濟的︑地

歩を有して居た位であるから︑門司氏も亦若千足場を對岸に有してゐたご恩はれる︒槻應二年十二月大

館︑原東雨氏の兵船数十艇門司淵及び門司氏恢内の浦荏に抑寄せるや税胤は敵の兵船二艘を打冊めて居

り︑翌槻肱三年正川また門司蝿に押寄せて來に敵船を小倉に蠣退してゐる︒これ等の勝利の原因は﹁自

(18)

剛關︑祁胴取釆丘語樽浮海上合戦之間﹂︵親胤目安状︶︑ごあり︑叉この笹一月には﹁門司赤間剛關

能中途海上仁棹︑向兵船︑御敵船五艘取乗︑凶徒数十人令誹伐畢生虚数輩有之﹂︵同上︶ごあるに依て

諒解される︒即ち右の丈に見える如く︑常に赤刑毒こⅦ司直剛方よ.り川で上敵を挾準してゐるからであ

る︒而してかくの如き陣形を取るにつ堅Lは︑對岸赤間開方面に於ても門司氏が共の足場を右せざれば

不可能のこきさいはねばならぬ︒

門司ざならんで古の山鹿海賊の勢力を繼承し︑玄海を支配した新は東筑前の豪族麻生氏である︒麻生

氏の事は次回の稲に護りにい︒今単に麻生氏雪こ門司この交渉についてのみ述べる︒勿論史料は甚淀少

い︒麻生古誇丈古書麺痢に麻生氏宛左の如き足利韮詮の下知壯が辿ってゐる︒こ上に見ゆる﹁門司關﹂

をいふのは關所ではなくして︑地方名ご解すべきであり︑そしてそれは前に述べた凹司若狭の所恢門司

關一方を指すか︒察する所若狹守共が︑貞治年中官軍に雁じて居るが︑既に延文中賊軍に背反してゐた

ので︑或は足利氏は右の所恢を箔狹守から淡收して︑柑時功鍔のあった琶思はれる卿生氏に鋤して勲功

の地さして給與したものかも知れない︒或は反對に若狹守の所恢關一方を麻生氏に典へたので︑若狹守

が賊軍に反いたども老へ得られる︒

御袖判坤氏公姉男装維公

門司脱と門司氏

︵五︶他家との所領交渉

r1.11

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‑し

(19)

l l

脈I望F・側⑩祁挫而択

この文書は門司關所政所さ宛てLあるが︑その蜜は︑門司開政所の雑掌琴﹂秘したこさのあるざ恩はれ

る門司氏に宛てたものである︒政所の稲呼の川ひられてゐる所から老へて門司關の亜要性の辮大しぎ﹂

っこが偲ばれる︒こ上に門司氏を門司關の﹁給主﹂ざ稲して關の政所さ別にしてゐる芭思はれる軸が興味

の多い所である︒尊氏は門司政所職附脇の川地の内の一部共の外合竺L若干を松尾祁祗に寄附したので

門司開

川副棚とⅢ測氏一八

一マ磯前側門司關牛分郷神遡岬聯岡剛近皿︿付側板川︑筑前叫逃久里亜︽紬︑川剛得善村等代官職巡所彼

マ︶戒︑牛蛮以下任先例︑可致沙汰之肱如件︑

延文叫年十川叫H

肺生上總介殿・

麻生門司剛氏は地理的にも剛立し難い開係にある︒興流凹年の秘術の軍忠壯にも親尚は貞淌三年十一川

十七Ⅱ卿生山に押渡り︑小倉方而の戦ひに川陣してゐるこ︑とが見えてゐる︒

猫ほこLに紹介すべ蓉事がある・束文書︵山城︶に左の如き尊氏の御教普がある︒

松尾壮御師正禰立相枇巾御寄附地事︑盤前閏門司關給主等各致相諭︑不打渡下地云有所詮政所知

行分之山地武町︑燗又庶子等分之山地壷町︑畠蛍町︑随分限之多少︑令配分之︑急速可打渡祁枇之

代官︑若猶寄事於左万︑令遁避之折︑可被唯罪科之旨︑所被仰下也︑価執達如件

建武式年五川七日

参河椛守︵花押︶

I

(20)

氏の發展︑門司隙の藥榮ご

石清水文書に擦れば︑大一

︵端書典︶

﹁尾州御打渡壯案文﹂ あるが︑

見ても諒解される︒

起されねばならぬ︒ 一弐︸水︾弧一F二・冊箆

さあり︑房炭が刑年岡日附毛利余三に宛て︑右の所恢を知親代に打渡すべきこ芭を沙汰した打渡肱も

ある︒此の所領の授受は大内氏︑迫門司氏この和ひ對開係のみに依て行はれたものではあるまい︒宇美莊

の恢家石清水八幡の介在してゐ仁であらうこさは︑此の文普が布流水八幡の文書の中に遡ってゐる卿を

見ても諒解される︒而して宇美八幡ざ門司ざは︑鍵に述・ぺた様な上枇以来の關係のあるこゞ己がこ比に想

今一つ述葛べきこさは︑Ⅲ司氏が麻生氏の所領に喰込んだこ︑己である︒門司氏普上︑門司分家の文書

に︑大内義與袖判︑明雁八年三剛冊六Ⅱ附︑門司民部永宗房宛てに大内氏の下知肱がある︒この下知状

門司肌と門測氏一九

筑前國糟屋那宇美庄内七町癖隷獅椛癖所地蕊被充行門司兵部丞矩親之運橋爪美濃守︑吉川若狭守︑仁保右衞門大夫奉書之旨︑下地云︑術土貢云︑速可被打渡之壯如件

天丈廿一年十一川廿二日尾張守︵陶暗斑︶御州

天丈廿一年十一月竹二日

︵房魔︶ 毛利河内守殿

門司氏の一族互ひに相諭して下地を松尾牡に附するこ・こむ肯かなかった様子が窺はれる︒阿司︑門司關の繁榮さ々こもに他勢力己の交渉も益里複雑化して来たやうである︒書に蝶れぱ︑大内氏が石浦水︾ハ幡の燕悶筑前宇美の莊内にて若干の土地を門司氏に給してゐる

(21)

I

門司關と門司氏二○

に依て安堵せしめられた所領の中に︑﹁磯前岡剛河郡の剛球町﹂あり︑その注には﹁麻生彌三郎跡﹂︑と

ある︒又同年凹川十三︑附︑M人袖判︑岡人宛て同氏の下知状がある︒これに依て安堵せしめられた所

領の中に﹁豊前剛川河郡弓削川庄内陸町﹂あり︑その注にも﹁麻生彌三郎跡﹂ごある︒門司氏が大内氏

に篠て隣雄麻生氏の勢力に喰込みつ上あった事を示すものである︒

中世以來︑門司は港壷こして火に淵注し︑殊に支那朝鮮ざの往來上益産亜要地鮎ごなった︒叉宝町時代

に於ける中幽ご九州ごの攻守は門司關をして益糞その政治的︑戦略的意義を重大ならしめた︒後日これ

等の諸軸を老へ︑合はせて門司氏の防長への退却を述べたい︒

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