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Kyushu University Institutional Repository
白樂天の諷喩詩 : 日本文學に於ける白詩の影響につ いての一考察
目加田, 誠
https://doi.org/10.15017/2557022
出版情報:文學研究. 23, pp.105-116, 1938-06-30. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
我平安朝の文學に︑文選と共に白氏文集が多くの影群
感化を典へたことに就いては今更云ふを俟たぬが︑疵に
此時代白詩に對する愛好崇拝模倣は今日想像以上であっ
たらう︒本朝龍藻に高械善の﹁夢中同調白太保元相公﹂と
題する詩がある・彼が少年の時︑父が術に兀白の故事を語
り聞かせたと云ふから︑惟幟のあまり途に﹁容獲宛然夢
に入り来﹂つたものかどうか︑兎に角︑術時白樂火を夢
に見たと云ふととは非常に得意な事であったらしい︒
だから中書王や︑藤爲時には共に﹁和間慨部再夢店故白
太保之作﹂がある︒中書王の詩の注には﹁我州訶人才子︑
白樂天の調諭誌
白 樂天
l日本文學に於ける白詩の影輕についての一考察
の
弧 諭詩
PFL日いい 白氏文集を以て規華と爲す︒故に承和以来詩を言ふ者皆艘裁を失せず﹂と云ってゐるし︑爲時の詩には﹁風姿未下與二影圃一縦と﹂の句があり︑我剛の白楽天の風跡を慕鼻者は多く屏風にその姿を課いたと注してゐるcとの爲時の子たる紫式部は云ふ迄も無く︑共他術孵の人糞の文學にいかに白氏の影群が多かったか▽之に就いては雌近金子彦二郎氏も叫語と剛文皐︵昭和士一扉四Ⅱ︶に白氏文集とⅡ本文學︵維珪吐雌群壁率他割︶と題して詳しく例證してゐられる︒私は雌早こ&にそれを繰返さうとするのではない︒瓜その影群の受け方といふ様な方面から少し老へ
一○五︵二六○五︶
目 加
田誠 I
I
−
金子氏は平安朝に於ける白詩流行の脈因を列畢され︑
その中に︑白詩の背景を篤す祗命生析と我平安朝のそれ
が酷似せしとと︑又白樂天の地位身分と我平安朝文學粁
のそれが腓似せしことを梁げて鵬られる︒此時代の唐の
文學は多く文人的官恢の文學であって︑誹によって優
れた地位を得︑又詩によって罪を得て流された例も往堂
見受けると共に︑官界の浮沈が詩の大きな背最になって
ゐるので此時代の唐の詩は︑作者の竹途に於ける境遇浮
沈を知らねば到底馴解川來ぬもの計りと云ってもいL位
だ︒白樂天の丈學も其の例を洩れぬ︒彼の文學槻には碓
かに官途の浮沈による大きな郷機の存する事を知る︒
貞元三年白樂天は十六歳で始めて憂安に至り︑やがて
進士に及館して︑貞元十八年︑明經肌身の元祇と共に秘
書校書郎を授けられ︑元和元年︑元白共に制畢に應じ︑
白樂天は蓋屋縣尉となり︑二年翰林學土を授けられ︑三 て見度いと忠ふ︒
丈
畢
研究節二︐T三脚
一○六︵二六○六︶年制策老官︑左拾逝に任ぜられるが︑元和五年元海失
脚︑六年白樂天の母卒して洞上に退居する迄︑就中元和
の初から五年迄が︑白樂天の朝に在って妓も活躍した時
で︑その後引練いて起る不幸と︑やがて江州流艇を境と
して︑彼の文學に對する態度が全く相迷を見せて居る︒
概して支那では︑其身朝に在って︑政治に何らか参與
し︑叉は参與しやうとしてゐる間は︑雁朝爲政者の指導
原理たる儒教の主張に基き︑救価濟民の抱負を仲べやう
とするが︑一旦此の中心から脆し︑又は離れさせられる
と︑妓早共位に非れぱ共事を云はすで︑忽ち猫善主義に
向ひ︑自然を友とし︑老佛に心を傾け︑詩酒に放浪して
氣樂な生活・を享樂しやうとするのが一般である︒白樂天
はこの逆を雌も瓢に行った一人である︒
我平安朝前期と支那唐代の祗會は︑一は奈良朝以來唐
土の文化吸收に汲盈たる時︑一は西域文化の移入最も朧
な時であるといへば︑似通った壯態のやうであるが︑共
1屯
I
間根本的な相違があることを思はねばならない︒我幽は
奈良軌から平安初期にかけて︑専ら唐土の文化を輸入
し︑それを醇化して︑日本文化の水準を急速に引上げ
た︒それは唐土の文化が術時我剛の文化より確かに程度
が高く︑之を我交の肌先は帷慨し棋倣しつk︑而も之を
全く我國のものに化して︑我文化を健全に發逹させて行
ったのである︒然るに支那が柑時西域の文化を移入する
に常つては︑事附が大いに異ってゐた︒支那中剛に近接
する西域諦族の文化は︑中幽の文化より遙かに低く︑そ
れに比して洩人の文化は遥に完成されたものであった︒
西域の間には挺安の天子を天可汗として尊敬した︒かう
いふ事愉の下に移入される西城の文化なるものは︑それ
は全く優位にあるものk享樂の爲めに︑彼の異間趣味異
倒怖訓が再ばれ︑或は長安阿市の胡店胡如となり︑或は
珍珠︑或は汗樂郷蹄︑す今へて洩人の享樂に供せらる可く
入って来たものである︒従ってやがてそこには腰菰が現
白楽天の調諭詩
11
れ︑瞳落を來し︑貞元麦和の唖は愈糞之が長安を風朧
し︑﹁今北胡京師と雑虚し︑妻を婆り子を生む︒長安中
の少年胡心あり︒吾子首飾韓服の制を見よ︒向と同じか
らす︒物妖に非るを得んや︒﹂︵東城老父博︶と云ふ有様
に立ち至ってゐたのである︒加ふるに安氏の飢後︑剛力
は未だ回復せす︑對外對内多事︑朝椛いよ︐l1微弱︑献
称は貧富の懸隔雀しく︵俄時長安富人の極度の蓉侈を證
擁立てる記録は多い︶或ものはひたすら享樂を追ひ︑或
ものは訴ふるす尋へなき塗炭の生活に喘ぐといふ時であ
る︒貞元年Ⅲ︑早く古逆復活を叫び出したのは韓退之で
あった︒彼の古文通勤は只文章の上のみでなく︑古道復
興︑支那仰統の僻教粘抑を商訓する運動に理解す可きで
ある︒同じく貞元より永貞の頃︑未だ志を得ぬ白居易
が︑元糎と共に︑やがて制漿に唯す可く︑自ら試みた策
林を見ると︑その七十五條の巾︑儒教を本とし︑佛教を
排し︑︵同价徒日益︑佛寺日栄︑一夫不し田︑有し受二其
一○七︵二六○七︶
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1
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文班研究雄二十三脚
餓一︑一姉不レ縦︑有し受二其寒︷︶礎朴勤倫︑厚歓を誠め
て民を耐まし︑淫脈なる芳樂を抑へて中岡の.背樂を復興
せん事瞳云ひ︑叉識二文章一の條には今の淫餓脆藻は反っ
て文を傷くるものとして質を尚ぴ派を抑へる事を主砿し
てゐる︒之は確かにかの韓愈の思想と机通ずるものであ
る︒この昨憲宗即位し︑悲宗はその初めは︑中興の主と
も云はれる飛であって︑即位と共に王叔文一蹴を放逐し
て︑﹁剛明果断︑能く忠謀を用ひ︑腿ば諫諜を微し︑群議に
惑はす﹂異元濟を詠しては︑唐の威令幾ど復た振ふと云
はれた︒此の政治刷新の氣蓮に雁じ︑古逝復興︑中閏傳
統の儒教精川に立ち返らうとする気分が起って来るのは
常然であった︒此の時︑白居易は選ばれて諫官の職に在
り︑かねての主張に基いて艇ば上書し︑又志を詩に現し
た︒こ⁝に於て所訓新樂府の製作となる︒
この時代の白樂天の文學槻を知る可く︑先づ集巾︑唐
生に寄すの詩を學げやう︒
’
一○八︵二六○八︶
⁝:︲我亦荊之徒︑鯵糞何所し爲︑不し能二發レ朧尖一郷○00○○作二樂府詩﹃︑鯆麹無二空文一︑何糞必識し塊︑功商二朧人
○○○00O○︒○O
筬一︑痂悲二騒人僻一︑非し求二宮祁商一︑不し務二文字奇↑︑00.○○00OOO
帷歌二生災捕︸︑脈得二天子知一︒・
之は詩を弧諫の典とするといふ︑かの詩三百締を時政
の美刺︑上は以て弧し下は以て風化する手段として扱は
ふとした以来の僻教的文學槻に他ならぬ︒叉新樂府の序
に曰く︑﹁惣じて之を言へば︑君の鱒にし︑臣の篤にし︑
︑︑︑︑民の鱒にし︑物の鱒にし︑事の鱒にして作る︒文の鱒め
もbも︑︑︑︑b︑︑︑にして作るにあらざる也﹂と︒かの緯退之一派の古文家
が︑文を以て栽逆の器とする主張と︑この白樂天か詩を
以て純文藝として老へず狐諭の鱒め換言すれば逆の鰯め
に供しやうとした考は同じであった︒
﹁元九に與ふる書﹂は後に白樂天が江州に流されて直
後︑親友元板に送ったものであるが︑之によって更に彼
の新樂府時代の文學槻︑文學製作の態度が明にされる︒
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可!﹄
卯ち晋宋以来六朝の文學を論じては︑謝股梁は多く山水
に溺れ︑陶淵明は偏に田卿に放まNなり︑更に梁陳の間
に至っては︑た堂風雪を噸し花艸を弄するのみ︑瞳風雪
花艸の物︑三百備中豈之を捨てんや︑おもふに用ふる所
の何如のみと︒又練けて云ふ︒﹁唐興って二百年︑共間
只陳子品感遇詩︑鮠防感興の詩︑その他には杜巾の詩の
み︒而も杜詩中新安吏︑石濠吏︑漁關吏の如きものを求
むれば三川十首に過ぎず︑杜市すら此の如し︑況や逮ば
ざるものをや︒僕嘗て詩道の崩壊を痛み︑値を發して潅
食を忘れ︑之を扶起せんと欲す︒時に悲宗皇帝即位︑腿
ぱ諫書を求めらる︒僕此日に餅り︑椛んでられて翰林に
在り︑身は辻れ諫官︑啓奏の外︑人の病を救ひ︑時の閾を
牛舎駅補ふ可くして指言に難かるものは帆ち之を詠歌し︑猫糞
上に鮒え︑上は以て辰聰を炭め︑下は以て吾平生の志を
復せんことを欲し﹂たのである︒かくして此唖製作され
たのがかの秦中吟︑そして所訓新樂府狐論の詩であつ
白楽天の調諭詩
I
り︑陳沁は叉同じく長恨歌傅と作った︒ と共に仙遊寺に遊び︑明皇炎妃の事に感じて長恨歌を作 泄つた︒又元和元年整厘の尉となった参十二月︑王質夫 未だ志を得ぬ彼は刑上に居を卜し︑時に間迩の詩に心を の頃︑恰度朝廷には王叔文の一難が漸く勢力を現す頃︑ 詩︑その他雑律の詩に分ってゐる︒彼も曾て貞元二十年 怖理動二於内一︑随二感遇︷而形二於歎詠一者︑即ち感傷の 保レ和︑吟二椛怖性一者即ち間迩の詩︑及び事物牽二於外一︑ 詩を︑狐諭の詩の他︑退レ公猟虎︑或移レ病Ⅲ居︑知し足 だのは弧諭の詩に他ならぬ︒元九に與ふる書には自分の たことであったが︑白樂天が之こそ己が使命と打ち込ん て一灸詩に詠じた︒もとより調諭の詩ならぬ詩も作られ に開するもの︑叉武徳より元和に至る︑事に因って題を立 た︒拾通となって以來︑.時にふれ感じたことの美刺興比﹁樂天因って長恨歌を作る︒意ふに価だその事に感ず
るのみならず︑亦尤物を懲し︑飢階を窒ぎ將來に垂れ
一○九︵二六○九︶
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』■ニ ョ
文學研究鋪二十三柳
しめんと欲する也﹂
と陣には記されてゐるが︑自ら此詩を感傷の部に入れて
ゐる通り︑この時未だ詩を以て上を弧し︑時を濟ふ助け
とせんとする意識に立ち上らず︑間暇あるま上に明皇炎
妃の運命にロマンチックな感興を起して︑この哀詩を作
ったのである︒今や衰微の中にある國勢に︑かの開元の
盛世を想ひ︑而して其の崩壊を歎じ︑その因って來る端
を思ひつLも︑長恨歌は白樂天の本來の傾向といふより
も︑むしろ唐のこの唖︑貞元元和以後の小読等に艇ば現
れる︑ひたむきに怖の世界に微せんとして︑そこに悲し
い美を感ずる︑常時の文藝の求めたものの一つが現れて
ゐるものであった︒
先に云ふ白樂天の︑詩を以て政道を柿はんとする意識
は︑元和二年翰林學士に授せられた時から明になる︒通
鑑憲宗紀には
元和二年白居易樂府及び詩百餘鯆を作りて時事を規 一一○こ一六一○︶
弧し︑禁中に流聞す︒上見て之を悦び︑召して翰林に
入れ︑學士と爲す︒
と云ふけれども︑唐術を傷む詩には
憶咋元和初︑恭備二諌官位一︑是時兵革後︑生民正排
悴︑但傷二民摘捕一︑不し識二時忌誌一︑遂作二秦中吟一:・・:
と云ってゐるし︑新築府の序には︑元和四年︑左給迩た
りし時の作となってゐるところよりしても彼が所謂調諭
の詩を廃に作ったのは︑翰林に入り︑左拾通となり︑諫
官の位に在る己の使命を自発して︑此に於て大いに詩を
以て治道に費せんと志したものと思はれる︒
秦中吟に詠する所︑或は貧家の女の嫁するに難きを
︵議嬬︶或は人民を苦しめる重賦を︵重賦︶︑或は営時長
安富豪の蓉侈を︵傷宅︑歌舞︑買花︶或は官途の行き詰
りを︵不致仕︶題材とした︒
先にも云ふ如く︑詩を以て調諫の具とする風な考は決
して白楽天獅特なものでは無い︒この時に於ても︑元氏
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日 ︑服 ︲
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長座集によれば︑初め李公垂︵紳︶が樂府新題二十首を
作ったが︑所訓不服爲字のもので︑その中時弊を云って
尤も念なもの十二に和して︑元種が新題樂府を作った︒
白樂天は同じく此の題目により︑更に之を鞘して五十流
とし︑﹁筋糞定句なく︑伽に定字なく︑竹句にその目を
標し︑卒章にその志を顯し︑共の僻賀にして径︑其言
直にして切︑其事溌にして壷︑共僻順にして難︑見るも
のをして論り易く︑聞く肴を深く誠めん﹂としたのであ
る︒︵新樂府序︶その五十行に詠ホる所︑或は王業の銀
難をの尋へ︵七徳郷︑百錬鏡︑二王後︶︑雅樂の表徴を歎
じ︵立郁伎︑華原磐︶︑胡樂の古川を犯すを雌じ︵法仙
歌︶︑胡瓜を排し︵時世粧︑胡旋女︶︑邊功を戒め︑徒に
異悩の雌樂を害ぶを群め︵新盟折臂翁︑城卿州︑螺國
樂︑西凉伎︶︑春侈を憂へ︵牡丹芳︑紅線毯︑練綾︑蝿
商婦︶︑佛寺の注ぐ多きを刺り︵雨朱開︶︑服食釧の無意
味を諒へ︵海没s︑人生の齪雌︵太行路︶︑民生の辛苦
白樂天の捌諭詩 ︵抽蝮︑縛戎人︑秦吉了︑杜陵爽︑喪炭翁︶を云って︐時弊を刺り︑枇を戒めやうとしたのであった︒
之ら菰諭の詩を杜甫の流れを汲むものと見ることは川
來る︒大総李杜の詩を老へる場合︑李白の詩は天蚕の剛
以前の唐代文藝の妓後の︑比ふ可きものもない光彩であ
ったが︑︑杜市の詩は極だの意味で天喪の飢後の詩のゆく
道を開いた︒凱後李白の流れを汲む詩人としては職呪の
如きが稲之に近いと思はれるが︑巳に世迩傾き︑政治の
悪弊いよノー現れ︑民生惨苦に泣く時︑この調諭詩の作
者逹が︑先逹として仰ぐのは杜市であった︒元鎭の如き
は︑詩人あって以来︑未だ子美の如くなるものあらずと
崇拝した︒かく老へると︑元白の楓諭の詩は直ちに杜甫
の歩んだ逆の如く思れるけれども︑そこには一つの大き
な机逹を認めねばなるまい︒社市は騎噸三十戦悲痛なる
自らの慨嶮を通して︑支那人民の痛ましい運命を訴へ
た︒白樂天の詩はその身は朝に辿り︑己が使命として政
一一一︵一一︽︿一一︶
叩
一
文雄研究節二十三艸
を柿ふ意に於て︑民の惨苦︑祇秤の不平を察して︑之を
上に聞えしめんとして作られたものである︒
故に白樂天は︑一旦江州に放逐されて後︑川でk疲弊
せる地方民に接すれば︑いよノiその詩は深刻となる可
きであるのに︑錘は一度ぴ共の位を去っては雌早その事
を云はす︑秤ぴ此生の鞭難と上に聞えんとするでも無
く︑明打保身︑その後nら噸ふて杭州の刺史となり︑又
蘇州に刺史となり︑地方官の生折が都に比して安易であ
るまkに︑それこそ詩歌琴酒︑妓樂を侍らし月花を災し
遂に此衆の生活に価れて行かうとはしなかった︒
彼が晩年次蛎に佛教に蹄依して行ったのは人も知る通
りである︒初め佛寺の多いのを刺つた彼も︑やがて救ひ
を佛に求めたのは︑全く身遥の不幸落莫に萠したものと
恩はれる︒元和五年親友元槇の江陵に左遷されたこと
は︑白居易にとって大きな打準であった︒その年雌愛の
女兒金塗が死に︑翌六年Ⅲ卿には母が死んで彼は洲上に ■Ⅱb一日
一一一一︵一一︽︿一一一︶
退屈した︒
刺災二心所−し愛︑英尖二心所一し親︑親愛零落識︑安川
身渦存・幾許平生職︑無し限什肉恩︑結爲二腹Ⅲ捕一︑
0000O衆作室鼻砿辛一︑悲來川肢綏︑泣識盤眸昏︑所以年川十︑
00○○0000O○0000O
心如二七十人一︑我聞浮間教︑巾右二解脱門・一︑世し心爲二
止水一︑脱し身如二が裳︷︑掛二撤斯微衣一︑度二脱生死輪一︑
胡爲繊二此苦一︑不し去猫逵巡︑回し念發二弘加一︑願此見
在身︑但受二過去報一︑不し結二將來脚﹃︑響以二智慧水一︑
永洗二噸悩座一︑不下將二恩愛子一︑吏種巾悲愛根上
之はこの時の詩である︒岐愛の肉親に引つぜいて死
別し︑親友は速く江陵に流され︑加ふるに︑居易はこの
時亜い眼疾に悩んでゐた︒四十早くも老を感じたのであ
る︒変病川十身︑親朋書信断の句もこの時の詩に見え
る︒或は老色頭漿白︑病形肢慨虚︑或は川十已如レ此︑七
○O○000000○
十復何如︵沐浴︶といひ︑時に借問筌門子︑何法易二修行一︑00○︒○○0000
使三我忘二得心一︑不し教二頗悩生一と迷ふ彼が︑やがてかの「
−
東洋的なる諦槻に逹する峠であった︒
この澗上退居の数年が白樂天に與へた愛化は大きかっ
た︒元和九年入朝︑左養善太夫に任ぜられる︒十年芥に
は元砿が一度詔を受けて京に入ったが︑忽ち三脚述州に
雌ぜられた︒この年は正月呉元濟の反があり︑叉元年以
来各地方の司馬になって流諦の生活を送ってゐた王叔文
の瀧派の人令柳宗元︑劉禺錫その他が︑非一度び京に
蹄され︑忽ちにして又遠い地方の刺史に川された︒六月
には宰州武元街が暗殺され︑装度も傷を負ふ等変事件多
く不安の年であった︒この宰相脈殺犯人の逮捕について
白樂天のなした献言から︑遂に彼は罪を得て︑との年
︵十年︶秋江州司馬に艇せるl事となる︒或は新井の櫛
に柵されて︑司馬に雌せられたとも仲へられるが︑いづ
れ倣路の風がこの時已に白居易に冷く餅って來てゐたの
である︒
先にⅦいた與二元九一課は十年土一月即ち江州に至った
白樂天の調諭詩
’
世後書かれたものと推定する︒時に未だその心持に清算
超越し切れぬものがあり︒我來し方をふり願って︑之ま
で持し來つた袴︑リと今後風花雲月にかくれやうとする氣
持とが錯雑してゐる︒
この文中に︑從來如何に狐諭の詩に力をそNぎ來つた
か︑而も之によって得たものは徒に柑路の怒を買ひ︑人
の諦矛一招いたばかりであった︒己れの詩に於て︑枇人の
︑℃℃︑℃℃℃愛する所は悉く諜律と長恨歌に過ぎず︑時の亜んずる所
︑︑︑︑℃.︑℃︑℃bは僕の軽ん歩る川なりと云ってゐる︒之は又倣然のこと
でもあって︑常時艇恨歌を柵し得る故を以て慨を蛾させ
た妓女もあり︑江四に抵る三川千里到る所白詩を題する
ものありといひ︑その流行は彼白ら與元九書に記してゐ
る通りであったらう︒けれども﹁此誠に雌城の戯︑多
と鱒すに足らず︑然も今硲の重んする所は正に此に在る
牙﹂と概数した︒然し乍ら︑
古人云ふ窮すれば則ち猫り共身を稚くし︑逹すれば
一一二一︵一一一︿一二一︶
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弓
丈朕研究第二十三鮴
則ち天下を粂濟すと︒僕不肯なりと雌も︑術に此語を
師とす︒
といふ彼は︑雌竿秤ぴか上る弧諭の詩を作らうとせす︑
之より全く猟善の心境に入る︒
元和十一年秋︑涯恨歌と共に有名な琵琶行が作られ
る︒いは目十年の川を世いて︑碑ぴ元に肺つたやうなも
のである︒た博かの長恨歌は剛家の治乱を背最に︑明皇
武妃の怖事を華やかに歌ったが︑之は十年を距て型我身
の稗愛に感じて︑流落の女を歌った︒巳に初め江州に到
る途中︑郷州に夜泊して︑隣船に歌驍をきく︑歌罷んで
泣いて咽ぶ︒盤を零れてその人を見れば艸捧十七八︑帆
椅に侍って佇む姉あり︑之を問へども屑を低れて終に答
へなかった︒
夜聞二歌者一
夜泊鵬鵡洲︑秋江月澄徹︑隣船有二歌者一︑發レ調堪二愁
絶一︑歌罷繼以レ泣︑泣藍通復咽︑葬鯵難見二其人一︑有
’
二日q0
一一四︵二六一四︶
﹂姉顔如ン雪︑猫掎二帆摘立︑艸蝉十七八︑夜涙如二反
珠一︑挫登堕二明月一︑借間誰家姉︑歌泣何礎切︑一間
一泊し襟︑低し燗絡不レ説︒
時しも都を離れて脆地に向ふ路すがら︑此一夜の印象
は永く白居易の心に忘れ得ぬものであった︒私はかの琵
琶行の詩が︑序によれば翌元和十一年秋客を溌汕口に送
った夜のことの如く記されてゐるが︑船中琵避を弾ホる
ものをきいて︑蕊を葬れて喚ぴ出して女の薄命なる物語
を聞き︑我身に蝿えて共に落晩を歎すると云ふ榊想は︑
在は事狂でなく︑かの那州の一夜の思ひ出をもと型して
作られたものに相違ないと恩ふ︒
唐のこの時代の小説の流行を考へ︑まして白居易の弟
行簡は李雄偉を作ったとも云はれる︵疑問はあれど︶こ
とを忠へぱ︑白居易が瀞陽の諦居の佗しさを︑かの抑州
の夜の印象をもとiしてか型る一場の物語りに託して歌
ったと老へられる様な氣がする︒
1
常時朝にあっては樅勢に蝿ぴず︑自己の主張を通さう
とした人盈が︑そのため一旦流されると︑忽ち之までの
誇をすて典︑都に懸凌たる傭を訴へるのは一般の傾向
で︑江州に流された白居易の心持も亦例外ではなかった
が︑之より彼は所謂月雪花を友とし︑琴酒に耽り︑傭を
詩に放ち︑そして次第に佛逝に心を深めて行った︵この
後の事は却ってよく知られてゐる所である︶︒朝廷の方
針も元和初年の氣運はやがて崩れて︑只榮達を希ふ人だ
の熊手に経始するに至った︒元糎が再び都に召し還され
て後︑ひたすら名利の場に狂奔したのに反し︑白居易は
却って地方官の無事安易を願って︑杭州に刺史となり︑
更に又蘇州の刺史に出た︒後微されて刑部侍郎に除せら
れるが︑朝廷の蕪争を避けて太師賓客の閑職を以て東都
に分司し︑香山の僧と交り︑自ら香山居士と稚し︑安心
を佛道に托して︑而もその信仰は苦行者の途でなく︑老
年に至る迄︑或は歌妓を侍らし︑或は家価に命じて克裳
白樂天の謁諭詩 羽衣を合奏させ︑世の流郷の姿をあるがま上に槻じて︑心盟かに天を樂しみ︑生を享樂した︒﹁今生世俗文字の業︑狂言綺語の過を以て︑將來祉埼讃佛乘の因︑稗法輪の縁となさん﹂とは云っても︑簸早狂言統語救世に益なきを憾みはしなかったのである︒
かくの如く白樂天の文學は︑一生の中にか&る縛機を
もつ︒﹁太行の路﹂にも比す可き世路の銀難をも經て︑か
の晩年の境地に至った彼であらう︒彼が戎時期に︑非常
なる抱負をもって試みた覗諭の詩︑新楽府は︑彼の一生
の中の大きな仕事であり︑文學史的に亦大きな足跡であ
った︒この中年期の活動を見逃して白樂天を忠ふことは
在は迩惟である︒然し乍ら所訓世の重んする所僕の輕ん
する所で︑巳に宣宗の賜はりたる帆詩にも︑童子解し吟長
恨歌︑胡兒能咄琵琶筋とあるが如く︑常時に於て︑白樂
天が一種の民衆詩人として世川にもてはやされたのは蜜
に之らの詩の爲めであった︒
一一五︵二六一五︶
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』
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一
I
支那の文學を大別して戦逝文學︑即ち逆の爲めの文學
と︑言志文學︑即ちいは口藝術水位の文學とに分ける見
方がある︒文選の文學は藝術を道徳から超越させたもの
が主流であり︑白氏の時代は漸く在功主義︑戦道主義の
文學に向った時である︒之は決して林退之の文章のみで
なく︑この時代の傾向であった︒我奈良朝平安朝の文學
は始め文選の影響を受けた︒否文選によって文學といふ
ものを知ったと云っても過言では無いだらう︒それが白
氏の文學に接し︑それ程の流行を見たが︑これは如何な
る卿によるのであるか︒我國に於ては杜市の詩の流行は
却ってすっと後れて五山時代になる︒杜甫の悲痛な柵嶮
と︑弧靭な意志に韮く悲壯な詩境は︑平斐朝に於ては理解
されなかったと同じく︑白氏のこの狐諭の詩の精祁も結
局受入れられなかったのである︒而して平安朝の人全に
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究第二十三脚
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一一一︿︵一一一︿一士︿︶
愛されたのは︑通に白氏の詩の随虎に發姉される優美な
る詩想であり︑巧みなる表現であった︒大陸の自然風
物︑支那の生活の我閏とは全く異ったものも︑我剛のそ
れを以て自由に之に常て凶理解し︑詩趣を総得し︑それ
によって我國の風雅の發見の助けとなった︒初め文選
に養はれて︑支那の美僻腿刎に眩惑されたものが︐更に平
易にして流腿なる白樂天の詩句にいよノ︑〜随喜した︒平
安朝の蛍族逹は︑支那の詩にこもる深い倒民の総嶮を理
解するよりも︑只そこに現れるあはれの句を此上なく愛
し︑白氏の悠糞たる雌常槻も︑感傷の竹さに喜んだ︒白
氏のこの時代の漫國の詩も︑その中の巧繊なる句法︑表
現をこそまなび取った︒かうして平安朝の人凌は白詩に
よって己れの怖操を耐まし︑風雅を發見し︑その表現を
學んだのである︒
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