な 人 は嘘 をつ くのか
― 自己 と自己物語が作 り出す フィクション"世界一
学 籍 番 号 :19051029
名 前 :木村 奨
指導教官 :立木 茂雄
目次
要約・ キー ヮー ド は じめに
1 ゴフマ ンの社会学
1。1 ドラマ トゥルギー 1.2 印象操作
1。3 儀礼ゲーム 1.4 儀礼 と秩序
1。5 役割距離
1。6 多元的役割演技者
2 自己物語論
2.1 自己物語論 とは
2。2 「自己」 と自己物語
2.3 自己物語 の特徴 (1)視点の二重性 (2)出来事 の時間的構造 (3)他者へ の志向
2。4 「語 りえないもの」 と自己物語
3 現代社会 と対人関係
3.1 メデ ィアと対人関係
3。2 メデ ィアと若者
3。3 若者 と友人関係 (1)多チ ャンネル化 (2)状況志向 (3)繊細 さ
(4)開かれた 自己準拠
4 現代社会 と自己物語
4。1 物語不在 の時代
4.2 現代社会 と自己構成のモー ド おわ りに
注
要 約
この論文は、「嘘をつ く」 という日常的に起 こっている現象を社会学的に解明するもので ある。カナダの社会学者であるアー ヴィング0ゴフマ ンは他者 との対面的相互行為 を研究 す る中で印象操作 に注 目し、人び とが状況や相手によって態度を変え、その数に対応する 役割 を使 い分 けて いる ことか ら「人間は多元的役割演技者である」 と考えた。 これは浅野 智彦が論 じる 「自己物語論」 と深 い関連性がある。
自己物語 とは 「自分 につ いて語 る こと」 であるが、そ こには必ず 「語 りえないもの」が 含 まれ る。つ ま り語 り手は意図的・非意図的にかかわ らず、聞き手 に寄 り添 うよ うに語 ら れ る 自己物語 の性質上 「事実の隠蔽」 は避 け られない。そ して個人が状況や他者の数に対 応す る数 の役割 を持つのであれ ば、その役割 に対応す る数の 自己物語 を必然的に語 ること にな る。そ こで第三者 の視点 に立 った場合 に、相手 との間に生 じて しまう矛盾を 「嘘をつ くこと」であると解釈することができる。
キーワー ド
多元的役割演技者、 自己物語、語 りえないもの、 自己の多元化、現代社会
は じめ に
人は嘘 をつ く。あま りにも当た り前の ことであ り、疑間に感 じる必要のないことなのか も しれな い。 しか し、 この疑 間に興味を持 っている人はた くさんいる。 さまざまな著作の 中で多面的か ら研究 されて いる ことか らも容易 に判断できる。今を生きている人、 これか ら生 きて い く人 を含 めて、人間であれ ば誰 もが このテーマか ら逃れ ることはできない。そ して、 日常生活 の中で当た り前のよ うに起 こっている現象だか らこそ、 このテーマをあえ て問題視 してみよ うと思 う。
このテーマを思 いつ いたきっかけとなったのは、昨年度(2008年)に履修 して いた社会学 演習 Ⅱで行 ったグルー プヮー クとそ の時 に配布 された資料である。 グループ内でのコミュ ニ ケー シ ョン能力を図るい くつかのワークを体験する中で、 自分の意図を相手に伝えるこ とが あま りにも難 しく、また逆 に相手の意図することを把握す る難 しさも同時に実感 した。
日常的に行 って いるコミュニケー シ ョンというものを改めて考えさせ られ、またその面白 さに惹かれた。そ して、社会学演習 Ⅱで配布 された資料の中で最 も印象的であったのが以 下 の文章である。
「コミュニケー ションは不完全な ものだ と知って、そのうえで不都合が生 じた ときにい ち早 く気づ く感受性 と、不都合 をそ のままに放置せず に修復 していく勇気 とスキル を持つ ことが大切だ ということです」(添付資料 「20 コミュニケー シ ョンのプロセス と留意点」
『人間的コミュニケー ションをめざして』80ペー ジ)
この文章を読むまでは、「コミュニケーションとは自分の頑張 り次第で伝えることができ る、 また伝わ るもの」であると確信 していたが、全 く逆の発想 にあっけにとられた。「伝わ らな い ことを前提 として、 コミュニケー シ ョンをす る」 のである。 この文章を読んだ後、
率直 にそれでは 「どうして人は会話 をす るのか」 という疑 間をもった。そ して、伝わって いな いのに、伝わっている振 りを している 日常生活のさまざまな場面、例えば、「母親が子 供 に昔話 を語 って聞かせ るとき」「子供が家 に帰って学校での出来事 を親 に一生懸命語 り聞 かせ よ うするとき」「就職活動で 自己PRをす る とき」「友人 に自分 の恋愛 につ いて相談 をも ちか ける とき」な ど挙 げれ ば切 りがな いが、そ のひ とつひ とつの場面を考えてみた。そ し て、「コミュニケー シ ョンとは、お互 いがお互 いの言葉 を理解するふ りをする、つま り、お 互 いを蝙 しあ うこと (嘘をつ きあ うこと)で成立す る もの」 だ とい う自分な りの結論 に至 った。 しか し 「人間が生きる社会 に嘘があるということには、きっと意味があるはずだ」
と考 えた結果、卒業論文のテーマを 「なぜ人は嘘をつ くのか」 に設定することにした。
以下 に述べ る文章 は この研究 をは じめるに当た って、 このテーマについて考えた 自論で ある。
『僕 には 「嘘 をつ くという行為」が防衛行為であるよ うに思える。子 どもの頃に親にし か られた くな いという思 いで必死 に苦 し紛れの嘘をついた ことを思 い出す。今でももちろ ん多 くの嘘 をつ いて いるが、や は り自己防衛 のために嘘で 自分を武装 している気がする。
結 局廃業 にお いや られた船場吉兆の社長 の主張が二転三転 していた ことも、のれんを何 と か守 ろうという一身で苦 し紛れ についた嘘の連続であった ことを表 していると思 う。
僕 の場合 は他者(相手)の存在 、船場吉兆の場合は社会の存在 を意識す る、というよ り避け る ことができない対象が存在するか ら逆 に嘘 というものが必要になって くるのだと思 う。
この世界 に自分ひ とりしか存在 しないのであれば嘘をつ く必要は無いと思 う。
また地域 によって嘘の価値 は変わ ると考える。都市部では嘘の価値は高い気がする。広告 0 雑誌・ 新 聞・ テ レビな どのメデ ィアの中心地、情報が氾濫 している場所 は特 に嘘が前提に な って いる と感 じる。人が人 を疑 うことが前提。 自分 を偽 る ことが前提。何か間違 ってい る気がす る。逆 に離島な どの場合 はあま り嘘をつ く必要が無いと思 う。 自分 を守る必要が 無 いか らなのか もしれない』
この 自論では、「嘘は防衛行為である こと」「この世界 に自分だけであれば嘘をつ く必要 がな い こと」「都市部 ほ ど嘘が必要である」 という仮説 を立ててテーマに向き合ってみた。
少な くともこの文章か らは 「嘘 をつ く」 ことに対 して、不信感 を抱き、否定的な見方 をし て いる ことが分かる。 この論文の最後 に、 自論 に対する批判 を述べようと思 うが、実際に
「嘘をつ くこと」 に対 しては、心理学 0哲学・ 倫理学な ど多面的な方面か ら研 究 されてい る。 もちろん本論は社会的な側面か らアプローチす るものである。本論は大きく分けて 2 つの視点か らこのテーマを考える。それは「ゴフマ ンの社会学」と「自己物語論」である。
まず 1つ 日であるが、カナダの社会学者 にアーヴィング・ ゴフマ ン (1922‑1982年)(以 下 ゴフマ ン)という人が いる。彼は人間が生活する社会 を 「舞台」 に喩えた ことで有名であ るが、他者 との対面的相互行為である社会 という舞台の上で、人間のさまざまな行動 を多 面的 に観察 して いる。そ こでゴフマ ンの著作 を手がか りに して 「人が どのよ うな状況で嘘 をつ くのか」 また 「どうして嘘をつ くのか」 を解明する。
2つ 日の 「自己物語論」であるが、 ここでは浅野智彦(以下浅野)の議論 に限定す る。 自己 物語 とはそ の言葉通 り「自分 につ いて語 る物語」であるが、 日常生活で行われている他愛 のな い会話のメカニズムを解明 していく中で 「発話 における嘘」 について考 える。
最後 に以上の 2点を踏 まえた上で、現代の 日本社会で 「嘘をつ く」 という行為 を考えて みた い。
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ゴフマ ンの社会学 1.1 ドラマ トゥルギー
ゴフマ ンは、人間の社会生活 を演劇に喩え、「人生は舞台であ り、みんな何か しらの役割 を演 じて いる」 と考えた。確かに劇場で演 じられ る役柄 は現実的ではな く、 もちろん現実 をフィクシ ョンに置き換 えることによって無理が生 じる部分 もある。 しか し、ゴフマンは
「人を欺 く演出が成功 を生む演出であれば、 日常生活 における相互行為に置き換えること ができる」(石黒 1974)と 考 え、他者 との対面的相互行為の分析 を 「ドラマ トゥルギー」、
つ ま り演劇論 という観点か ら研究 したのである。
日常 生活 にお いて人び とは「パ フォーマー」で ある。パ フォーマー とは演技 を行 う行 為 者 の こ とで あ る。 そ して 、「パ フォー マー」 が演 じる行 動 は 「パ フォーマ ンス」は)と 呼 ばれ 、ゴ フマ ンは、対面 的相互行 為 が成立す るため には「パ フォーマ ンス は欠かす こ とがで きな い」(石黒 1974)と考 えた ので ある。
状況2)内にお いて参加者たちは、他者 に対す る自己の印象を管理・統制 しなが ら、他者の 前 に身体行為 を呈示 して いる。 しか し、パ フォーマーひ と りでは、舞台は成立 しな い。そ こには演劇 と同 じよ うに、舞台装置やオーデ ィエ ンスそ してチームの存在が不可欠である。
ここで対面的相互行為 とは、「人に限 らず、その空間を構成するすべての ものによって作 り 上 げ られ る舞台」 と言 い表す ことができる。
1。2 印象操作
安藤清志 によれ ば『印象操作 とは、 自分 の外見や言動 を調整す ることによって、 自己の 様 々な側面の うち、特定の側面 を選んで 「見せ」、他の部分 を 「見せない」 こと』と定義す る ことができる。(安藤 1994)6)多 くの人が意 図的・非意 図的 にかかわ らず、 日常生活 の 中で印象操作 を行 って いる。そ こで 「どうして印象操作が必要なのか」「本当の 自分 とは何 者なのか」 という疑間がわ いて くる。
印象操作 のひ とつ に 「面子 の繕 い」 とい うものが あ る。 これ は 「ある人の主張 してい る立場 と一致 しな い情報が提供 され る事件が予期 され る場合 には、面子 を失 う危険を回避 し、実際 に起 こった場合 には失われた面子 を修復す る発言が交わ され る」 ことであ り、対 面的相互行為 においては、 自分だ けではな く相手の面子 も立てることが期待 され る。
また 「釈明」 とい うものがある。 これ は 「望 ま しくな い不適切な行為や期待 はずれの行 為が生 じた場合、そ の行為 と期待 の間のギ ャップを埋め合わせ るために行為者が行 う言明」
の ことである。
「釈明」 には、相手の 自尊心 を維持 した り、相手 との間に溝が生 じることを防いだ りする 効 果が ある。 このよ うに他者 との生活 にお いて、印象操作は、相互行為を円滑に進める上 で必要不可欠なのである。
ここで面 白いことは、「人が′いか ら相手の面子 を立てよ うとして行為 しているか どうか」
はわか らな いとい うことである。他者 との相互行為を本心か ら望んで行為 している場合 も あるか もしれな いが、それ を望んで行為 しない、すなわち心 と行為が ともなわないケース はた くさんある。そ のため、印象操作 には 「自己を偽 る」「嘘をつ く」 という側面が必然的 に含 まれ るのである。
1。3 儀礼ゲーム
ゴ フマ ンは、「印象操作 とは、言葉だ けで はな く 「身振 り」全体 によって行われ るも ので あ る」(安川 1991)と考 えた 。 つ ま り印象操作 とは、 自ら全体 を記号 として他者 に 呈示す るコミュニケー シ ョンと考 えたのである。対面的相互行為 においては、その記号を 操作す る ことによって 自己 を実際以上 に見せた り、詐欺師のよ うに社会的 自己を偽 って呈 示 した りす る ことが可能である。 これ は現代社会のおけるさまざまな 日常的場面 にお いて
も容易 に想像がつ く。
しか し記号で コミュニケー シ ョンを行 って いるという事実 は、同時 に人が構成す る自己 や活動 のイ メー ジが、 どれ ほ ど本人が 自らに忠実であろうと努力 して も、それが記号 に依 拠す る限 り、必然的に他者 に不安定な印象 を与えて しまうことか ら逃れ られな い ことも意 味 して いる。 このよ うに人間 には、記号 を用 いた コミュニケー シ ョンをす るという側面が あるとい うことをゴ フマ ンは 「身体 イデ ィオム」0とい う言葉 を使 って説 明 して いる。
ゴフマ ンによれ ば、「個人が他者 との直接的面前に登場するとき、その個人は身体的存在 である とい う事実 によって 自己 に関す る何 らかの情報 を意 図的・非意図的にかかわ らず表 出 して いる」 のである。(安川 1991)要す るに、人間の身体 自体が コミュニケー シ ョンの 媒体 と して機能 して いるのである。身体イデ ィオム によって獲得 された 自己情報 としての 印象が、 まず は他者が状況 の定義に)をす るための主要な情報 となる。
そ こで対面的相互行為は、お互 いが記号化 された情報 を公表、または隠蔽を繰 り返す「戦 略的」 な性格 を持つ情報ゲーム に置 き換 える ことができる。 もちろん このゲームにはルー ルが存在す る。それ は、 自己 に関す る道徳秩序 に基づ く社会的行為でな けれ ばな らな いと い うことである。つ ま り他者 との対面的相互行為 という社会では、 日常的に儀礼ゲームが 行われて いる とい うことになる。
1。4 儀礼 と秩序
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儀礼ゲーム にお いて、個人の印象は状況 において簡単 に変化する。そのため印象を管理 す る技法が必要 になって くる。先 に述べた 「面子 の繕 い」のように相手 との相互行為が円 滑 に進むよ うに、社会では儀礼秩序を維持することがお互 いに求め られる。
まず、状況が保証 され るためには、 自己 と他者 にお いて 「防御措置」 と 「保護措置」が 同時 に講 じられ る必要がある。防御措置 とは、「個人が 自己の投企 した状況の定義を保護す るための方策」 の ことであ り、保護措置 とは、「他者の投企 した状況の定義を救済するため の方策」(安川1991)と定義す る ことができる。この どち らか一方で も欠けて しまうと、個 人の印象 を維持す る ことができな くなる。
ここで印象 を維持す るために 「儀礼」 という技法が必要 となって くる。儀礼 とは 「対面的 場面 0非 対面的場面 における行為者の真意が込め られていない行為」(安川 1991)のことで ある。 ゴフマ ンは、「相互行為 にお ける秩序は対面的場面 において こそ保つ ことができる」
と述べて いる。社会 にお ける傾向 として、 自分 の面 目を保 とうとす る防衛的傾向、他人の 面 目を保 とうとす る保護的傾向がみ られ る。 この2つの傾向は、社会 の中で入 り混 じって いるのが 自然な ことであ り、相互行為儀礼 と呼ばれている。
相互行為儀礼 には 「敬意」 と 「品行」 とい うものがある。敬意は 「社会行為 に個人が参 加す るときに、そ の人はひ とつの全体 的人格 として参加す るのではな く、ある意味で特定 の資格な い し特定 の立場で参加す る こと」である。そ して敬意表現 の主要なタイプは回避 儀礼 と呼ばれて いる。回避儀礼 とは、「行為者が受容者か ら距離 をとり、受容者の領域 を侵 さな い儀礼」 の ことである。例えば、電車 に乗 った時 に、怖そ うなお兄さんたちか ら離れ た席 に座 ることは これ に当たる。そ して、「提示儀礼」 と呼ばれるもの も敬意表現 に含 まれ る。提示儀礼 とは 「行為者が受容者 をどう見て いるか、 これか ら生 じる相互行為 にお いて 受容者 を どう扱 うか、 につ いて行為者が受容者 に具体 的に明示す る行為」 の ことである。
日常的にみ られ る挨拶 は これ に当たる。
もうひ とつ の相互行為儀礼である 「品行」 は 「装 いや言葉遣 いによって、まわ りか ら尊 敬 され るよ うな 自分 を演 じる こと」(浅野敏夫 2002)と 定義す る ことができるが、 これはパ ーティーや結婚式、葬式な どにみ られ る。 このよ うな儀式 にはもちろん ドレス コー ドが存 在 し、出席者 には、服装や言葉遣 いをその場 にふ さわ しいものにす ることが要求 される。
また対面状況 では、そ こに居合わせ る人び ととの間で生 じるよろめき、つまずき、げっ ぶ、放屁 な ど身体 的不作法や過剰演技や過小演技、状況 に合わな い演技やタイ ミングのズ レな どによって印象は容易 に攪乱 され る可能性 をもっている。ここで用い られ る技法が「儀 礼的無関心」である。儀礼的無関心 とは、「演技の破綻 によって生 じた 「関係」への疑念 を は じめか ら生 じなかった もの として振 る舞 うこと」(浅野敏夫 2002)と 定義す る ことができ るが、簡単 に言えば、「見て見ぬふ りをする」 ことである。
ゴフマ ンが 「当事者の 自己提示 (印象操作)による状況維持 の努 力は、 さまざまな攪乱要 因を慎重 に排除 しなが ら続 け られ るのであ り、その努力の しかたのなかに一定のルールを 見 出す ことができる」(秋元 1990)と述べて いるよ うに、儀礼 によってお互 いに印象 を管理 す る ことによって、社会の秩序は維持 されているのである。
1.5 役割距離
人び とは他者 との対面的相互行為 にお いて 「自己」を呈示 し、自分 の 目的 を達成す る た め に、様 々な駆 け引き を しな けれ ばな らな い。そ このため、状況 にふ さわ しい「自己」
を演 出す る ことが必 然 的 に必要 とな って くる。人 は買 い物客 、職場での地位、家族 内で の役割 、結婚 式での来賓な ど、状況 に応 じて役割 を与 え られ 、それ を演 じて いる。状況 が変われ ば、 当然 役割 も変わ る。個 人 は多 くの舞台 を掛 け持 ち して いるので ある。
ゴ フマ ンは、「典 型的な役割 とそれ を演 じる人の実際の役割遂行行為 との間に観察 さ れ るギ ャ ップ」 の ことを 「役割距離」 と呼 んだ。(佐藤 1985)そ して 「自己」 は、そ の 演 出の仕方 の 中に こそ現れ 、役割 距離 によ って こそ表現 され る と述べて いる。要す るに 社 会 的な役割 、例 えば裁判官は真面 日、パイ ロッ トは冷静、会計士 は正確で几帳面 という よ うに彼 の個人的な特質 を表 して いな いに して も、実際 に帰属 させ られている役割が他者 に対 して彼のイ メージの基礎 を与えて しまうのである。つ ま り、ある役割 を受 け入れ ると い うことは、そ の状況 の中で得 られ ると見な され る事実上の 自己の中に完全に消えてな く な る ことを意味す る。言 い換 える と 「役割 を受 け入れ る ことは、役割 に受け入れ られ るこ と」である。この ことに対 して、ゴフマ ンは「コミッ トメン ト」(つとい う表現 を用 いている。
(佐藤 1985)しか し個人は役割 を半ば強制的に与え られている半面、役割 を一時的に停止 す る ことも放棄す る こともできる。役割 を一時的に停止できる機能 は 「役割分離」 と関連 が ある。役割分離 とは 「個 人の主要な役割セ ッ トのひ とつの役割 に登場する個人は、他の 役割セ ッ トでは役割 を演 じてお らず、個人は矛盾 した性質の役割 を持つ ことができる」 と い うものである。 この機能 のおかげで 日常生活 にお いて人は多 くの舞台で異なる役割 を使 い分 け、演 じているのである。
また役割 を放棄す る機能 は 「役割破壊」 と関連がある。役割破壊 とは 「誰 も自分 を見て いな いときには、役割 にとどま らな い」 というものである。例えば、外科医という素晴 ら しいパ フォーマーが、手術後 に外科 医 らしか らぬ行為 をす るというのはまさに役割破壊 に 当た る。 このよ うに役割 は全体 としての役割 システムや役割パ ター ンに対 して 「持続的効 果」 と 「破壊的効果」 という2つの効果 を持 ち、人び とは状況 に応 じて この2つの機能 を 使 い分 けて いるのである。
1.6 多元的役割演技者
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『個 人が「矛盾 した性質の役割」を状況 に応 じて使 い分 ける こと』をゴフマ ンは、「多 元 的役割演技 者」 と表現 して いる。 ここで は 「多元 的役割演技者」 と「多重人格」 とい う病 理現 象 と関連 づ けて「自己」につ いて考 えてみた い。)社会 で 生 きて い くた め には、
複 数 の役割 を演 じる ことを要求 され る。
しか し役割 分離 の境界 はあいまいで あ り、どんなにうまくいっている相互行為であって も、 自己 にとって事実上の主張が表現上で何か矛盾 した結果を生むのは避けられない。
複数 の役割 をそ の場面そ の場面で使 い分 けることは非常 に難 しく、ふ とした瞬間に別の 役割セ ッ ト(つで演 じている役割が顔 を出す こともよ くある ことである。また活動 システムは 行為 のため に舞台 を与えるため、当然の ことであるが、役割 の飾 りつけが広がれば広がる ほ ど、役割距離 を示す機会は多 くなる。そのため個人はひ とつの集団か ら自由になって も、
他 の集 団 につか まって役割 を与え られ ることになる。 このよ うにゴフマ ンの 「多元的役割 演技者」という表現 は、「社会生活 を送る上で、複数の役割 を演 じざるを得ないことである」
と解釈できる。
ここで 「多重 人格」 とい う 「病 理」現 象 を考 えてみ る。「多重 人格」 は以下 のよ うに 定 義す る ことがで き る。③
① 患者 の内部 に二つ以上の異なる人格 または人格状態が存在すること
② これ らの人格 または人格状態の少な くとも二つが反復的に、その人の行動 を完全に 制御 している
これ らの定義か らわかることは、複数の人格が記憶 を通 して一定の連続性を与え られ、
それ によって同一性が保たれている状態が正常であ り、その連続性・ 同一性が保たれて いな状態である点 において 「多重人格」は 「病」 と認定 されていることである。
しか し、「多重人格」 は本 当に 「病」なので あろ うか。 ゴフマ ンの議論 をふ まえると、
「ほん とうの私」という言葉で しば しば示 されるような 自我の実体性は、役割 に対する 距離の うちに還元 され るため、「多重人格 とは何か」 とい う問い自体が無意味 となって しまうのではな いだろうか。「自己」 をひ とつ に して しまうと社会で満足 に生きること ができない。そ こで人は複数の 自己 を持つ ことは必然的であ り、人間の多重人格性 をあ る程度認める ことが 自然である。個人が持つ役割の数だけ、状況の数 も存在 し、ひ とつ の役割 を放棄 した ところで、ゴフマ ンが「個人は一つの集団か ら自由になって も自由に な らな い」(浅野 1996)と述べているよ うに、仮面、つ ま り役割 の背後 にはもう一つ の仮面がある。そ していくら仮面 をはが し続 けた として も「素顔」と考え られている実 体 的 自己 にた どり着 くことは絶対 にできないのである。
2 自己物語論
2。1 自己物語 とは
自己物語 とは、そ の言葉 の通 り「自分 につ いて語 る物語」 の ことである。そ して 自己物 語 には2つの大きなテーマがある。それは 「自己は自己物語を通 して生み出される」「自己 物語 は語 りえないものを前提 にし、それ を隠蔽する」 というものである。 この 2つのテー マ については後で詳 しく述べる。 (
今 日まで 自己 に関す る議論は数多 くされてきたが、そ の多 くは 「多かれ少なかれ関係が 変われ ば 自己 も変わ る」 というものである。要するに 「自己」 とは変わ りやすいものと考 え られて いたのである。 しか し、一方で変わ りた いのに変われない 「自分」 を切実 に感 じ る人が増えてきているのが現状である。変わ りたい 「自分」 になれない人には、「自己が変 わ るため には関係が変わ らな けれ ばな らな い、だが関係 を変えるためには自己を変えな く て はな らな い」 とい う悪循環が見 られ る。 ここで 自己物語 を用 いた物語論的アプローチ(0 が必要 となって くる。物語論的アプローチは、 自己物語の 「語 りえないもの」 という特徴 を手がか りに して、 自己物語が書き変え可能であることに注 目している。そのため、 この
「物語論的アプローチ」はヵゥンセ リングな どのセ ラピーの一環 として取 り入れ られてい る。
2.2 「自己」 と自己物語
「物語 を語 る」 という行為 自体 は 日常的に当た り前のよ うに行われていることであ り、
誰 もそ の行為 を意識す る ことは少な い。 しか し 「自分 自身が何者かであるかを説明 しよう とす るな らば、人は 自分 自身の人生のエ ピソー ドの うちある ものだけを選び出 し (他の も のを捨てる)、 それ をある筋 に沿 って紡 ぎ合わせ るほかない」(浅野 2001)のである。
例 えば、 町きの多 い生涯 を送ってきま した」 という人を例 に考えてみる。 この人が聞き手 を納得 させ る物語 を語 りた けれ ば、『「私が」何者であるかを、今 に至 るまで人生上 に起 こ つた 「恥」 のエ ピソー ドを連ねて い く以外 に語 る方法はな い。そ の一連の筋か らは、「恥」
と相反す るよ うな、例 えば 「輝か しさ」 とか 「誇 り」 といった ものをあ らわすエ ピソー ド は排除されなけれ ばな らな いのである』(浅野2001)とい うよ うに、自分 の物語 にあうエ ピ ソー ドを選択 し、配列 して いくことによって 自己物語は成立 している。
ここで重要な ことは、「私」 というものが、エ ピソー ドの選択 と配列 を通 して始めて現れて くる ということである。
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「私 は…である」 と言 うためには、その 「…」の部分を成 り立たせてぃる他者 との関係 が必要 にな る。例 えば 「私」が教師であるとする。すると私が教師であ りえるのは、生徒 と親 との関係 にお いてのみである。そ して私が生徒、または親 との会話の中で、教師とし て の 「私」が受 け入れ られ るよ うなエ ピソー ドを選んで他者である生徒や親に語るのであ る。「私」とは、それだけで取 り出 してみれば、何 とも名指 しようのない空虚なものである。
自己物語 は自伝や 自分史 と同 じよ うに、「自己物語を絶えず語 り続けること」によって 自己 イ メー ジを維持 して いる。多 くの人が考 えているように 「私」 という存在が前提 としてあ るのではな く、自分 について物語 ることを通 してはじめて「自己」は現れてくるのである。
2。3 自己物語 の特徴
自己物語 には 「視点の二重性」「出来事の時間的構造」「他者への志向」 とい 3つの特徴 が ある。以下順 に見て いきたいと思 う。
(1)視点の二重性
自己物語 には 「語 り手が聞き手 に向けて語 りかけて いる世界」 と 「そ こで語 られた登場 人物が活躍す る世界」 というよ うに2つの世界が存在す る。 この2つの世界 を関連 させ る ことで しか物語は成立 し得ない。例えば、Aさん (語 り手)と Bさん (聞き手)が会話 を して いる とす る。Aさんは現実の社会 を生きて いる主人公であ り、登場人物である。しか し
Aさんが生きて いる現実世界の ことを他者 に語 るということになるともうひとつの視点が 必要 にな って くる。 自己物語 を語 るということは、 フィクションその ものであるので、聞 き手のBさんは、現実世界のAさんではな くフィクションの主人公であるAさんを通 して
Aさんの ことを理解す るのである。
(2)出来事 の時間的構造
自己物語 は 「諸々の出来事 を時間軸 に沿 って構造化す る語 り」 の ことである。 自己物語 は、物語 の結末が大変重要である。物語の結末が 「納得のいくものになるか どうか」 を基 準 に して、どのよ うな出来事 をどのよ うに関連づけて語れ ばいいのかが決 まる。そのため、
納得 のい く結末 に矛盾が生 じな いよ うなエ ピソー ドを選択 し、配列 して いくことにな る。
この作業 の ことを 「構造化」(10)と呼ぶ。 この作業 によって語 られた世界(登場人物 の活動す る世界)は、意味 と方向性 を持 った時間的流れ を産み出す ことになる。 この特徴か らもわか るよ うに 自己物語は、物語 は出来事 をあ りのままに語 るものではな く、「いつで も違 ったよ
そ して、「自己」はそれが物語 られ る限 りにおいて、必ず結末か ら逆算された形で選択 0配 列 され るため、「自己」があ りのまま語 られることはまずあ り得ないのである。
(3)他者へ の志向
自己物語 は 「本質的 に他者 に向け られた語 り」である。そ して 自己物語は、 自己 と他者 の視点の差異が乗 り越え られた ときにのみ成立する。 このよ うに他者を納得 させるような 語 りを しな ければな らないのである。
ここで 自己物語が次のよ うな 「二重の正当化」 を必要 としていることがわかる。
ひ とつ は 「物語 を語 るための権利 は、他者 に対 して正当化 されなければな らない」 とい うものである。
そ して、 もうひ とつは 「聞き手である他者 を納得 させ ることによって、語 られた 自分、
つ ま り過去か ら今 に至 るまでの 自分 は、は じめて他者 との間で共有 された現実 とな り、 自 己は聞き手 と同 じ道徳共 同体へ所属す ることになる」(浅野 2001)というものである。
そ して もうひ とつは例 えば、 自分史 の執筆、カウンセ リング、セル フヘルプグループな ど は、 このよ うな正 当化 をもた らす制度的な文脈 にほかな らない。 このよ うな文脈の中で、
人は安ん じて 自分 自身 を語 る ことができ、それ によって 自分 自身を共有 された現実 として 作 り上げて い くのである。
2。4 「語 りえな い もの」 と自己物語
自己物語 の大きなテーマ として 「語 りえな い もの」 の存在 を見逃す ことはできない。語 り得な い もの」 とは、「自己物語のただ中に現れて くるよ うな ものであ り、 自己物語が達成 しよ うとす る一貫性や完結性 を内側か ら突 き崩 して しまうもの」である。 自己物語 はいつ で も 「語 り得ないもの」 を前提 に し、それ を隠蔽 していることで成立 している。
ここで注意 してお きた い ことは、「物語 りえな い」 ということは、「語 りつ くせな い」 こ と同 じではな いとい うことである。「語 りつ くせない」 とは、「体験 された事実があま りに も複雑す ぎて特定 の物語 によっては、すべてを語 りつ くす ことができな い」 ということで ある。そ のよ うに考 えると、 自己物語が一貫 した 自己同一性 を産み出 しているとき、 この
「語 りえな いもの」は、隠蔽され、見えない状態 になっているのである。浅野智彦 によれ 自己物語が書 き換 え可能である大 きな要 因は構造 にある。浅野智彦 も 「私が私 につ いて語 る (私が一語 る一私 を)」 という自己物語の独特な構造 によるものである」(浅野 2001)と 述べて いる。
ここで 「私」が二つの位置 (私が/私を)を同時 に占めて いる ことがわか るが、 自己物語 では『「私」 は同一的で差異的である』というパ ラ ドクスが成立するのである。
物語行為 の主体 (物語 る私)と物語 の主語 (物語 り内の私)とは、異な って いるが同 じで な けれ ばな らないのである。仮 に 2つの 「私」が完全 に一致 したな らば、 もはや語 りは起 こ り得な いであろうし、完全 に差異化するな らばそれはもはや 「自己」物語ではな くなっ て しまうのである。
それで も自己の物語が語 り手の 「私」 をそれな りに一貫 した存在 として産み出 していく とす るな らば、「語 りえないもの」 は何 らかの形で隠蔽されていなければな らない。
ここで 「他者」 の存在が重要 となって くる。た とえ語 りがある部分で一貫性を欠いてい た り、全体 としての真偽が未決定であった として も、その ことが聞き手に対 して隠 し通す ことができれ ば、 自己物語 はそれな りに納得のいくものとして受け入れ られるのである。
この とき、あたか も 「語 りえないもの」な ど存在 しないかのようにことは進み、語 り手の
「私」 もあたか も安定 した同一性 を備えているかのように現れる。
3 現代社会 と対人関係
3。1 メディアと対人関係
1990年代初頭にバブルは崩壊 した。それにより日本の様々なシステムが急激に変化 した。
もちろんメディア、例外ではない。1990年代半ば以降、テクノロジーの発達により、イン
ターネ ッ トや携帯電話な ど新たな コミュニケーション手段が次々と登場 した。それ によ り 対 人関係 の範囲や伝達 され る情報量 は増大 し、人間関係 にも大きな影響 をもた らす ことと な った。
近代社会 にお ける対人関係では、職場や プライベー トの領域である家庭、友人関係 とも に、特定 の共 同体や集 団の中で比較的長期 に生活するということが伝統的であった。そ し て外部 との交渉す る こともほ とん どなかった。 しか し現代社会 にお ける対人関係では、職 場 と家庭 を往復す るだ けではな く、趣味のサー クルや異業種間交流な ど、 これ まで以上に 多様な関係性 を築いている ことは珍 しいことではない。
企業社会 にお いて も、電話 に加 え、 ファックスや電子 メールな ど、新たなコミュニケー シ ョンツール を導入 した り、終身雇用 システムの衰退 によって、一生の間に複数の職場を 経験す る人が増えている。そ こで、以前の職場で求め られた対人関係のルールが次の職場 で通用す るとは限 らな いため、「対人関係マニュアル」な どの人間関係 を円滑に進めて くれ るお手本が人気 を博 して いる。 もちろんそ の背景 には、対人関係の脱伝統化・ 多様化 とい う現象が存在す る。
コミュニケー ションとは本来、直接的な対面状況 において、機械 を通 しては伝わ らない 微妙な感情やニ ュアンス もや りと りす る 「こころの触れ合 い」(11)であるが、産業構造が変 化 し、都市化 の進んだ現代社会 にお いて、機械 を介 した間接的な コミュニケー ションが一 般 的 とな って いる。
3。2 メデ ィアと若者
バ ブル崩壊後 の1990年代以降、メデ ィアの多様化 にともな って若者 の友人関係 にも変化 が見 られ るよ うになった。「友人関係であるが、結論か ら言えば、多チ ャンネル化 し、状況 志向を強めなが らその内部で独特の繊細な感受性を育んでいるように思われ る」(浅野 2006) とい うよ うに現代 の若者 の友人関係では、 いくつかの特徴がみ られ る。 ここでは 「自己の 多元化」 とい う特徴 とメディアの多様化 との関連性 に絞って見ていきた い。
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現代の若者、特に「新人類」世代、「団塊ジュニア」世代と呼ばれる世代の自己が多元化 している傾向が顕著にみ られる。(12)自 己の多元化 とは、「状況や相手によって、違った自己 があ らわれる」 ことでぁる。言い換えると、複数の「私」を相手や状況によって使い分け ているということである。
イ ンターネ ッ トや携帯電話の急激な普及は自己の多元化を推 し進める要因になっている と考え られる。インターネ ッ トや携帯電話の世界では、原則的に「匿名性」が保たれ、一 種「言 いたい放題」「言 った もの勝ち」の雰囲気が形成 されつつある。この現象を「フレー ミング現象」 と呼ぶが、その原因には、「相手の顔や声に含 まれているはずの表情や韻 律な どの情報が、電子 ネ ッ トヮークでのコミュニケーションでは欠落 していること」や、
「絵文字」な どの欠損情報 を補 う新 しい記号 によるコミュニケーションの出現な どが挙 げ られ る。
このよ うにイ ンター ネ ッ トの世界 では、顔 の見 えな いコミュニ ケー シ ョンが成立 し、
自己が多元 的 にな りや す い環境 が整 って いるので ある。そ のためイ ンターネ ッ ト上で取 り結 ばれ る人間関係は、現実世界 に比べて、他の参加者を蝙そ うという気持 ちはな くて も、
複数 の 自己 を使 い分 ける ことができる。 また他者 との親密性の敷居が非常 に低 くなる。 こ れ は、 自分 の好 ま しい側面だけを無意識の うちに選択する ことが可能であ り、安心 してコ ミュニケー シ ョンをとる ことができるとい うものである。チ ャッ トや出会 い系サイ トな ど はそ の例である。
このよ うに現代社会 で は、パ ソコンや携帯電話のモニターの中の世界の肥大化 によって、
「自分が 自分 の主人である」 という ホス ト感覚"が失われて いる。複数の「顔」は、情報 機器 の力を借 りる ことによって、 リアルタイムで簡単 に作 られているのである。
3。3 若者 と友 人関係
メデ ィアの多様化 が 、自己 の多元 化 を推 し進 めて いる ことを見 て きたが、現代 の若者 にはそれ以外 に も、い くつか の特徴 がみ られ る。03)こ こで は、自己 の多元化 と深 く関係 して いる 「多 チ ャ ンネル化」「状況志 向」「繊細 さ」「開かれた 自己準拠」 とい う4つの 特徴 を順 にみ て い く。
(1)多 チ ャンネル化
イ ンターネ ッ トや携帯電話 の普及 によって、若者 の友人関係 は、大人が考 えているよ り もず っと多元的な広が りを持つよ うにな って いる。青少年調査で 「親友や仲の良い友だち と知 り合 った場所」 を聞いた ところ、「アルバイ ト先で」「イ ンターネ ッ トや携帯電話のサ
これ は、199o年代以降の 「パー トタィム高校生」の増大 と時期が重なる。高校生の生活構 造が必ず しも学校 を中心 に した ものではな くなってきているのである。 このように、量的 な意味で友人が増大 しているだけではな く、質的な意味で友人をつな ぐチャンネルが広が つて いる ことを友人関係の 「多チ ャンネル化」 と呼ぶ。
(2)状 況志 向
状況志向 とは、「複数の顔を使 い分 けるが、 どの顔 も単なる仮面ではな くそれな りに本気 であるとい う態度 をとる」 ことである。簡単 に言 うと、状況 に応 じて、態度をかえるので ある。 この状況志向にとってィ ンターネ ッ トや携帯電話は実 に好都合である。先にイ ンタ ーネ ッ トや携帯電話 を使 うことによって、複数の 「顔」の使 い分けが しやす くなるという ことを述べたが、現代のコミュニケー ションでは、「顔」の使 い分 けが重要なスキル と感 じ られて いる。確かに、情報化が進む以前の社会 にも「状況志向」と同じようなある種の「使 い分 け」 はあった。例えば、会社 にいるときの私 と古 い友人 といるときの私、家庭での私 と趣味のサークルでの私 というよ うに。 しか し両者の大きな違 いは、その 「顔」が使 い分 けて いる者 の間で相互 に了解 されて いるか、ルール化 されて いるか という点にある。譲許 志 向 には、ルールが存在せず、ルール に従お うとす る一貫 した 「自己」が存在 しな いので ある。
(3)繊細 さ
多チ ャンネル化や状況志向 とい う特徴 を もつ現代社会 にお いて、若者は、相手への関係 の持ち方 につ いて、 これ まで とは異なったセ ンスを養わざるを得ない。それは 「空気読め」
「地雷踏んだ」 といったょ ぅな言 い回 しにも表れているように、コミュニケーションにお いて、以前 にも増 して 「繊細 さ」 というものが要求 され るよ うになったのである。 ここま で読む と、「現代社会 においては、対人関係 を取 り結ぶ ことが難 しくなっている」 と考える 人が出て くるか もしれな い。確か に、情報化 という利便性 と引き換 えに、対人関係が希薄 になった と考 える ことができるか もしれな い。 しか しメデ ィアの多様化 にともな うコミュ ニケー ションの変化 には、悪い面だけではな く、良い面 もある。それは、「対人関係それ 自 体 を楽 しむ資質が高 まって いる」 ということである。 メデ ィアの多様化 にともなって コミ ュニケー シ ョンも多様化 した。多 くの人が この変化 を受け入れ、順応 していることも事実 である。
(4)開かれた 自己準拠
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現代 の若者 は、 自分 らしさを追求すべきだ と考 えなが ら、他方ではそれを損な うような 形で多元化 を進めざるを得ないという板挟みの状態に陥っている。開かれた自己準拠とは、
「自分 らしさを基準 として ものを考え、それでいて 自分 らしさを多元的でありうるものと してみる姿勢」(浅野 2006)の ことである。
青少年調査では 「自分 らしさがある」 と答えなが ら「場面によって出て くる自分 という ものはちが う」 とぃぅ若者が、全体 の七割弱、そのうち八割弱が 自分 自身を好きであると 回答 して いる。 この結果は、多元的であ りなが らも自分 らしさを基準 にとるようなスタイ ル をとっていると考えることができる。
1990年以降、社会制度や ライ フコースの在 り方が急激 に流動化 した ことによって、若者 はそれ に代わ る基準 を自らの手で調達 しなければな らな くなった。「自分 らしさ」はその基 準 のひ とつである と考 え られ る。そ して 「自分 らしさ」戦略が多 くの若者 によって採用さ れて いる ことは、同時 に若者が 「自分 らしさ」 を探 し求めるべきであるという圧力に恒常 的 にさ らされて いる ことを意味 して いる。「自分 らしさ」 とは、「自分が強 く深 くコミッ ト す る何かを手がか りに して得 られ るもの」(浅野 2006)で あるが、特徴的な ことは 「何か」
に軸足 を置き、そ してその軸足が複数ある ことである。 これは自己の多元化 と大きな関係 が ある。軸足 を置 く対象は、音楽、 ファッション、車、文学、マ ンガ、アニメ等、なんで あれそ こに深 い関わ りがあるな ら「自分 らしさ」 は輪郭 を獲得できる。そ して複数の軸足 を置 いて いる場面 にお いて若者は複数の「自分 らしさ」を獲得 しているのである。
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4 現代社会 と自己物語
4。1 物語不在 の時代
バ ブル崩壊後 の社会変化、特 にメディアが多様化 した ことによって若者の友人関係が変 化 した ことをみてきたが、そ して時期 を同 じくして 自己物語 というものが社会に出現 した。
そ の背景 には 「大 きな物語」 の消滅、つ ま り現代社会が物語 を持たない時代であることが 挙 げ られ る。(榎本 2002)こ れ は必然的に 「自分探 し」 を しなければな らな くなった ことを 意味す る。
「大きな物語」 とは、個人を 「このよ うに生きるべきである」 という生き方を規定 して いた伝統や制度の ことである。江戸時代 を考えてみればわかるが、 日本社会では固定的な 社会制度や伝統が重ん じられ、そ の ことが 「本 当の自分」への問いを無意味な ものにして いた。 しか し時代 とともに、そのよ うな制度が崩壊 し、伝統への関心が薄れていく中、拍 車 をかけるよ うに1970年以降、 日本 は高度消費社会 に突入 した。
高度消費社会では、 自己は、衣料や家電な どの商品の流行サイクル に合わせて変化 して い くものにな り、エ リクソンが考 えていたよ うな変わ りにくい基準であるアイデ ンティテ ィは徐 々に掘 り崩 されていった。は4)
現代社会では、「私」 は、職場ではや り手営業マ ンであ りなが ら、家庭では無愛想な夫で あ り、趣味のサー クルではシャィでや さ しい好青年 というよ うに、人び との行動範囲の広 が りによって、所属 の多元化が進み、それぞれの場所の相互隔離が起 こっている。 この構 造的特徴が 「私」への問いを浮上 させ る要因となっている。
自己物語 とは、誰 もが物語 の文脈 を生きてお り、その物語の文脈 に沿って 目の前の現実 を とらえ、過去や未来 まで も規定 して しまうものである。つ ま り、「自分 らしさ」や 「人生 の意味」 を与えて くれ るものが 自己物語なのである。現代社会は1「自分探 し」 の時代 とな ったのである。現代社会 を生きる人び とは、「自分は何者 にで もなれ るという可能性 と引き 換 えに、一か ら物語 を作 る苦 しみ を与え られた」 のである。
4。2 現代社会 と自己構成のモー ド
現代社会 にお ける 自己構成 は、相対化 0虚 構化 の方向性 をもっている。 しか しこれ と同 時 に特権化 0物 語化 の方向性 をもって いる。
「相対化 0虚構化」 は、 自己を構成 し、再構成 していく際に、「今ある自分 というものを あ り得 る複数の可能性 のひ とつ としてみなすよ うな 自己」 とのかかわ り方である。
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言 い換えると 「そ の文脈 にお いてのみ成 り立つ、虚構のような ものとみなす こと」(浅野 2003)で ある。複数の可能性 を並べて、 自分の可能性を判断するという相対主義の立場に 立 っていた。199o年代以降 に広 まった 「キ ャラ」という言葉は、相対化 0虚 構化 を表 して いる。キャラという言葉は、マ ンガ業界の用語であるが、まさにある暫定的な特定文脈に お けるその人の物語化 された人格特性を指 している。05)
次 に 「特権化・物語化」 であるが、 これ は 「語 りの関係 における、納得 と正当化を追求 す るよ うな関わ り」(浅野 2003)の ことである。言 い換 えると「複数ある物語か ら、 どれか を積極的に選び取 り、 自分 にとっていぃものを作 り上げる」 ことである。
ここで重要な ことは、現代社会では、「同 じひ とりの人間にこの2つの方向性が常 に内在 して いる こと」である。相対化 を徹底的に推 し進めることは、相対化 される足場 自体 もい つか相対化 され る ことを意味する。そ こで人び とは、選ぶ という営みが準拠するいかなる 基盤 も実 は不在なのではな いか という不安 に駆 られ るのである。
「大きな物語」が消滅 した現代社会では、 このような相対化・虚構化が進み、 自己物語の 着地点を描けな くなったのである。
そ こで物語化 0特 権化 の需要が高まって くるのである。
物語化 は複数の可能性か ら選択す る ことによって、特定の物語が含意す る 「価値」へ着地 す る。要す るに現代社会 を生きる人は、「自分 の人生をいつで もリセ ッ トしたいが、本当の 自分 もほ しい」 と思 って いる傾向にある。「大きな物語」 を失った時代 において、 自己物語 の手本 とな る物語 は商品 として価値 をもつよ うになる。例えば、書店でよく見かける自己 啓発本や時代のカ リスマの生き方や考 え方 を描 いた書籍 はメディアで も紹介 され、ベス ト セ ラー とな る。 この現象はまさ しく現代 を生きる人び とが、 自己物語の方向性や帰結点を 求 めて いることを表 して いるのではな いだろうか。
おわ りに
「なぜ人は嘘をつ くのか」という疑間に対 して、ゴフマンの「役割距離」という概念か ら導 き出された「多元的役割演技者」、そ して浅野の「自己物語論」という議論か ら考察 してきた。
次 の2点が 「嘘をつ くこと」 と深 い関係がある。
① 対面的相互行為において、状況や相手に応 じて役割を演じることを要求され、ひとりの 人間が持つ役割はひとつではないこと
② 会話の中で自分のことを語ることはフィクションを作 り出すことに等 しいということ まず①であるが、人は誰もが、社会 という他者 との対面的相互行為の場において、ひと つの自分ではいられないようにできている。さまざまな状況においてそれに応 じた役割を 無理や り与え られ、演 じることが要求される。つまり社会で生きていく上で、役割は多元 的にな らぎるを得ないのである。人によって状況の数は異なるが、多ければ多いほどその 数に対応する役割をもっていることになる。 このことは他者に対 して自分の印象を意図・
非意図的にかかわ らず、操作 していることを表 している。そのため、対面的相互行為にお いて個人を第二者か ら見た場合に、状況や相手によって異なる印象を与えていることに気 カシつく。
例えば、僕にAさん、Bさん、Cさんという友達がいるとする。Aさんとは、キャンプ
をした り、旅行に行った りする。Bさんとは、喫茶店を回った りしなが ら、長々と世間話を する。Cさんとは、よくお互いの家に遊びに行き、テレビゲームをして盛 り上がる。このよ うにまったく異なる性格を持つ3人に対 して、ひとりの僕では対応できない。3人に対 して 3人の僕が必要になる。しか しここで、僕とAさんが一緒にいるところを第三者 として、B
さんや Cさんに見 られた時、彼 らはどのように感 じるであろう。僕に対 して 「あいつには あんな一面があるのか」 と感 じることもあるだろう。要するに僕は 3人に対 してまったく
異なる自分を見せているのである。 この矛盾こそが 「嘘をついている」 と解釈できる。
次に②であるが、 自己物語には 「語 りえないもの」 というものが必ず含 まれている。 こ の 「語 りえないもの」 とは、自己の語 りか ら一貫性 0完結性を奪ってしまうものである。
そ こで、自己の語 りに一貫性を与えるためには「語 りえないもの」を隠蔽せざるを得ない。
ここに嘘がある。自己物語の性質上、嘘をつかざるを得ないというわけである。
また他者が語 り手の物語を認めることによって 自己物語が成立することから、話 し手と 聞き手のある種の共謀によって物語は真実味を帯びてくる。 これは何も特別な会話の中で 起 こっていることではな く、 日常的な場面で起 こっているのである。
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