九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
國盛麻衣佳『炭鉱と美術 旧産炭地における美術活 動の変遷』
福本, 寛
田川市石炭・歴史博物館 : 学芸員
https://doi.org/10.15017/4475432
出版情報:エネルギー史研究 : 石炭を中心として. 36, pp.169-176, 2021-03-25. 九州大学附属図書館 付設記録資料館産業経済資料部門
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「炭鉱は、文化不毛の地である」という言葉があるが、本書を読むとそのイメージは完全に覆される。むしろ、日本の近現代における美術活動については、炭鉱もその一翼を担っていたことは言うに及ばない。暗黒の地中から資源を掘り出す炭鉱は殺伐としたイメージが強いが、一方で、炭鉱や産炭地に備わった独特の環境や景観、あるいは一般社会に与えた影響は、文化人や労働者に絵筆をとらせるには十分である。本書は、日本を代表する炭鉱であった三井三池炭鉱を擁した福岡県大牟田市出身の著者が、炭鉱とアートとの関わりを、理論化、体系化したものである。加えて、美術家である著者が、自身の美術活動をも実践例として考察の対象に含めるなど、炭鉱を主題とする数ある著書の中で、新鮮かつ魅力的な視点を提示している。本書は博士論文を改稿したもので、三部構成の本論に加え、関係者へのインタビューが収録されている。第1部 炭鉱から生まれた文化・芸術活動
序章 産炭地の形成と生活文化 第1章 炭鉱に由来する文化活動・文化政策を巡って
第2章 三池における芸術文化活動の環境形成第2部 文化的視点から見直される炭鉱 第3章 産炭地における美術活動の展開と意義 第4章 旧産炭地におけるアートプロジェクトの成立と展開第3部 炭鉱の記憶を継承する美術実践
第5章 産炭地の固有性と文脈を活かしたアートプロジェクトの実践
終章 総括と今後の課題関係者インタビュー以下、各章を概観する前に、美術は門外漢である評者が理解を深めるために、「アートプロジェクト」と「文化資源」という用語の定義を、まずは本書から取り上げたい。「アートプロジェクト」…芸術創造の成果(作品)とともに、制作の過程が及ぼす社会的影響を重視する表現活動を指す。「文化資源」…従来の文化財という概念に加え、より包括的な制度に縛
福 本 寛 【書評】國盛麻衣佳 『炭鉱と美術 旧産炭地における美術活動の変遷』
られない新たな価値の概念を指す。「資源」という概念は、あらゆる保護の対象から疎外された文化的所産に対して価値判断の再考を促し、再利用を可能にする。文化資源は、多様な観点で対象から新たな情報を取り出し、社会に還元することが目的とされている。この二つの用語は本書のキーワードというべきもので、端的に言えば、再利用、循環性という特性を持った文化資源によるアートプロジェクトで、旧産炭地に様々な社会的影響を与えることである。具体的な課題設定は、日本における石炭産業史の概略と炭鉱労働者の就労背景・生活文化を概観した序章を経て、本論の第1章でなされる。すなわち、産炭地の芸術文化活動に関する研究、炭鉱遺産の保存活用に関する研究、アートプロジェクトに関する研究、創造都市論に関する研究という四つの視点を振り返り、相互に関係性を持たせて循環させる必要性を説いた。本書において美術活動の足跡は、文化資源として地域に資するものとして、包括的な視点から捉えられる。第2章では、著者の出身地である三池(大牟田市)について、職場サークル活動を中心とした文化活動の形成過程が明らかにされている。三池は三井鉱山一社のみの炭田であり、三池における文化活動の派生または普及が、分野によって三井鉱山との関係に濃淡があるのは、文化活動の流入に介在した職員層の関与が反映されている。一方で労働者層においては、三池争議に対峙してうたごえ運動が広まったように、炭鉱が抱える問題と向き合うことで、様々な表現が生み出されていった。一九七〇年代以降、三池では合理化による人員削減で衰退が加速する中、職員層と労働者層の職場サークルは統合され、最終的には地域サークルなどに吸収または合併されて、大牟田市における文化活動の土壌となり、現在 に至る。本章では大牟田市の文化活動を炭鉱との関係で詳述しているが、ここでいう「三井鉱山」は、三池のみに限定した地場企業的な扱いとなっている。周知のとおり、三井鉱山は三池鉱業所・同製作所・同港務所・同製煉所・同染料鉱業所のみならず、直営事業所だけでも、筑豊では田川・山野鉱業所、北海道・石狩炭田の砂川・美唄・芦別鉱業所といった炭鉱に加え、戦前は神岡・串木野といった金属鉱山も直轄していた。また、松島(長崎)・太平洋(釧路)・基隆(台湾)の炭鉱会社なども関係会社として掌握し、三井鉱山とは資本や人事面などで、密接な関係を持っていた。このように、本来であれば、三井鉱山は三池だけではなく全国展開の財閥企業である。これらを総括する本店が東京に置かれていたこともあり、また、職員が異動により各事業所間を行き来することで、中央または外部の文化が地域にもたらされたことは首肯ける。第3章では、目黒区美術館が平成二一(二〇〇九)年に開催した「 文化
親交があった斎藤五百枝・和田三造ら多くの文化人が田川を訪れ、三井 (1)(2) 大手企業が存在した。三井田川鉱業所に関していえば、戦前では職員と 三菱や住友、古河といった全国に炭鉱または金属鉱山等を所有していた おり、筑豊にも田川と山野といった三井鉱山の事業所は存在し、その他、 つの側面のみをもって特徴づけられており、違和感があった。前述のと しかしながら、評者がフィールドとしている筑豊炭田については、一 較することで、それぞれの地域の特徴がより鮮明となる。 化活動は、地域内で語られるのみであったが、全国的な視野で俯瞰し比 各産炭地の美術活動の特徴やピークを明らかにした。これまで炭鉱の文 資源としての〈炭鉱〉展」で敷衍した文化資源という視点により、
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田川鉱業所の接待所であった百円坂倶楽部に長期滞在し、活動を行っていた (3)。なお、歌人では、三井田川鉱業所の技術者であった小林寛の招きにより、与謝野鉄幹・晶子夫妻が大正六(一九一七)年に田川を訪れ、伊田竪坑に入坑している (4)。このように戦前の筑豊・田川でも、大手炭鉱では外部からの文化人たちが職員層を介して田川に訪問したことで、地域の文化活動が萌芽した。美術活動でいえば、昭和一三(一九三八)年、伊田の徳勝寺住職であった横山群の提唱により結成された田川で初めての絵画グループ「彩人社」には、三井田川関係者も含まれていた。さらに、洋画では、昭和一六(一九四一)年に、高瀬経敏らが三井田川の職員で組織した「黒光会」、石井利秋ら従業員で組織した「緑水会」が昭和一七(一九四二)年に結成されており、昭和二一(一九四六)年に結成された三井田川の労働組合文化部によって両者は合併して「三井田川洋画同好会」が誕生した。一方、日本画でも昭和二五(一九五〇)年に前出の高瀬経敏らによって「三井田川日本画同好会」が結成され、昭和二九(一九五四)年に「三井田川南画会」となった。両者は、炭鉱が斜陽になると活動を縮小し、閉山間際の昭和三七(一九六二)年には、市内教職員等の地域グループと大同団結して、「田川美術協会」が結成されて現在に至っている。筑豊でも三井田川鉱業所という大手炭鉱の視点でみれば、戦前に職員層を介して中央文化が流入し、戦後の組合活動で職場サークルが活発となったが、閉山期には職員・鉱員サークルが合併し、地域のグループと統合され、現在の文化的土壌の基盤となった。これは、三池と同様の状況といえる。もちろん、一方で、本書で指摘されたように、他の産炭地に抜き出て 中小炭鉱が多いことは、筑豊の大きな特徴である。戦後の炭鉱衰退期に展開された上野英信らのサークル村活動は、三井田川鉱業所のような大手炭鉱ではなく、主として記録に残りづらい中小炭鉱の生の姿を発信している。典型が山本作兵衛で、彼は生涯で三井田川のような大手炭鉱の経験はなく、筑豊では中小の炭鉱での経験に基づいて、炭鉱の勤務を離れてから、いわゆる炭坑記録画を制作した。ちなみに、本書では、山本作兵衛をサークル村の関係者としているが、これはおそらく、昭和三九(一九六四)年頃に出会った上野英信との個人的な関係によるものである。以前から、上野英信は同じ日炭高松炭鉱出身の千田梅二やうえだひろしと交流があり、上野英信が三者を引き合わせることで、昭和五七(一九八二)年に「川筋下罪人三人衆展」が実現した。また、山本作兵衛が水彩の炭坑記録画を制作するきっかけとなったのは、当時の田川市立図書館長であった永末十四雄らの「炭鉱資料を集める運動」への共感であったことは知られているが、昭和三九年六月に始まったこの運動は、同年三月の三井田川鉱業所の閉山に影響を受けている。炭坑記録画の制作に際した山本作兵衛の動機は、本書で指摘する、筑豊での石炭産業が斜陽化し閉山に向かう過程で炭鉱を捉えた美術表現が生じていったことをよく表している。なお、山本作兵衛の炭坑記録画を始めとする一連の資料群は、「山本作兵衛コレクション」として、平成二三(二〇一一)年にユネスコ「世界の記憶」へ登録された。登録理由の一つには、公文書や社史等では読み取ることができない、一人の炭鉱労働者の視点からの真正な記録であることが評価されている。特に炭坑記録画は、絵と解説文で構成されていることから、アートか記録資料かという論争がしばしば巻き起こる (5)。本
書でいう炭鉱の衰退や閉山が作品を生み出した契機になり得たのであれば、これらの作品は、およそ記録性が発現しているものと考えられる。記録性、または記憶が込められた美術作品は文化資源化が容易である。このように筑豊では、大手炭鉱に加えて中小炭鉱が多いことが特徴であるため、三池のような大手炭鉱に由来する文化活動に加えて、本書で取り上げられた中小炭鉱の炭鉱労働者が主題となる表現もみられる。いわば、筑豊の文化活動については、大手と中小による二重構造であったといえる。産炭地ごとの個性を抽出するためには、このように炭鉱企業の規模という視点で各産炭地に横串を通すことで、より理解が深まるだろう。大手炭鉱は出炭量もさることながら、所属する職員・鉱員が多いため、職場サークルによる文化活動が可能となる。炭鉱が盛んな時期は職員または鉱員のサークル活動が活発化し、衰退すると両者は合併して、閉山後は地域のサークルに吸収される。一方、中小炭鉱は人数を含めて職場サークルを形成する余裕がなく、上野英信・谷川雁・森崎和江らのような表現者によって、職場サークルとは異なる形で発信されていく。各産炭地に立地した炭鉱の規模は、それぞれで異なるため、大手炭鉱が立地した三池・北海道と筑豊の一部では同様の事象が派生し、中小炭鉱が多い筑豊のみ、本書で述べられたような最前線の炭鉱労働者を中心に据えた活動が展開されたと考えられる。さらに、三井鉱山のような大手企業では、系列の事業所間での相互の交流が文化活動や職場サークルに与えた影響も、要因の一つとして考慮すべきであろう。三井鉱山でいえば、九州の三池・田川・山野の職員親睦会として、明治四〇(一九〇七)年に三交倶楽部が結成された。管下の運動部や文化部での職員の交流活動は、次第に従業員まで影響を与え、 戦後の組合によるサークル活動まで継続した。同系事業所間の交流については、三井のみならず、三菱でも行われていたようである。全国展開の大手企業については、地域をまたいだ炭鉱間の交流も考慮すべきであろう。本章では、地域間とともに世代間の相違も論じられている。世代間については、炭鉱労働に直接従事した経験を持つ者と、両親が炭鉱関係者で幼少期に炭鉱住宅で過ごしたなどの経験をもつ次世代層に大別される。前者は、産炭地の変化や閉山による風景の変化が制作の動機となり、後者は直接ではないが、幼少期に炭鉱閉山を経験している。いずれにせよ、地域の炭鉱の衰退や閉山が、各産炭地の美術活動や制作者の動機に大きな影響を与えていることは、疑いがない。よって、平成九(一九九七)年と閉山が遅い三池については、閉山の危機感が他と比べて薄かったため、炭鉱を表現する必要性が逼迫していなかったとされている。しかしながら、地域内外に大きな社会的影響を与えた、昭和三四~三五(一九五九~六〇)年の三池争議や同三八(一九六三)年の三川坑炭塵爆発事故では、緊迫した状況に対峙する表現活動が「九州派」によって生み出され、展開されたという。閉山に匹敵するような大規模な争議や事故のような社会的なインパクトは、美術活動をも刺激するとされている。ところで、本書では副題に「旧産炭地」と使ったためか、釧路炭田の状況が触れられていない。釧路炭田の主要炭鉱である太平洋炭砿の閉山は、三池より遅い平成一四(二〇〇二)年であり、かつ、現在も後継会社である釧路コールマインによって、日本で唯一坑内採炭を継続している。本書の論調に従えば、釧路では完全に炭鉱が無くなったわけでもなく、全国的に注目されるような大規模な争議や事故も発生しなかったの
で、美術活動が発生するトリガーがなかったことになる。実際は太平洋炭砿にも美術サークルは存在していたが、風光明媚な自然を対象とした作品が多く、炭鉱を主題とする作品はほとんどなかったとのことである (6)。同じ産炭地でありながら、取り巻く環境で美術活動の対象が異なっていたことを示す対照的な事例である。また、台湾でも洪瑞麟 (7)の作品のように炭鉱を主題とする作品がある。今後は、国内外の産炭地を再度視野に入れ、炭鉱労働者、あるいはその次世代層に筆を取らせた背景を、より範囲を広げて比較検証されることを期待したい。次の第4章は、第2章で設定した課題のうち、炭鉱遺産の保存活用、アートプロジェクト、創造都市論に関する研究と意義、考察を行っている。このうち、創造都市論については海外の事例でもあるため、補足程度とした。まず、炭鉱遺産の保存活用では、炭鉱遺産を文化資源的にとらえ、遺構や関連資料、景観はもちろん、本書で対象とする美術作品などの記憶を具現化したもの、あるいは記憶そのものの無形のものまで、炭鉱を語る上で重要なあらゆるものを対象とする。そして、各地で発生した保存運動にともなうシンポジウムなどの取り組みを重要視していることは、同じく過程を重視するアートプロジェクトの考え方と同様である。重要なのは、このような産炭地に由来する活動やアートプロジェクトでは、文脈に対する理解が不可欠であるという指摘である。まさにそのとおりで、産炭地という地域性を由来としながら、文脈を全く理解していない活動や表現は、効能を完全に失う上に、地域との齟齬や心情的距離をも生じかねない。アートプロジェクトについては、山口県宇部市の現代美術彫刻展(現、UBEビエンナーレ)と北海道美唄市のアルテピアッツァ美唄を前史と し、川俣正のコールマイン田川及び三笠プロジェクトを先駆的な事例として取り上げた。特に川俣正による産炭地に由来した一連のアートプロジェクトでは、アーティストやまちづくり関係者など、次世代の人材が多く育成されたことで、各地に新しい取り組みが展開していったことが指摘されている。反面、アートプロジェクト固有の問題として、やはり、地域の文脈に対する理解や地域住民への配慮が必要とされている。実際、評者が田川市に採用となった頃は、コールマイン田川が実践されていた時期であったが、一部の関係者のみが参加する、できるというイメージが強く、具体的な内容についてはよく知らなかった。このプロジェクトは次世代の人材を育成し、プロジェクト終了後も形を変えて何らかの活動は続いていたが、現在に至っては、田川から関係者がいなくなったこともあり、田川市美術館の中庭に移設された三井田川伊加利竪坑の櫓の骨組みで制作した作品にのみ痕跡がうかがわれる程度で、取り組み自体が忘れ去られようとしている。他方、本書では特に触れられていなかったが、旧産炭地に設置された美術館の存在も忘れてはならない。田川市美術館は、三井田川鉱業所によって育まれた文化活動を引き継いだ田川文化連盟や田川美術協会などが後押しとなり、筑豊で初の本格的な公立美術館として平成三(一九九一)年に開館した。筑豊炭田に由来する美術家・立花重雄や立石大河亞などの作品を収蔵し、炭鉱の文脈による展示会やワークショップなどの活動を行っている。また、平成八(一九九六)~平成一八(二〇〇六)年のコールマイン田川では、同美術館も積極的に協力し影響を受けたことは、アートプロジェクトの成果の一つである。川俣正は田川を選定し
た理由を人的関係や炭鉱住宅の残存としているが、田川での活動の核となる美術館の存在も大きかったことだろう。この他、筑豊では、織田廣喜美術館(嘉麻市)、直方谷尾美術館(直方市)があり、産炭地の美術活動を今に伝えるのみならず、地域の文脈に即した美術活動を行っている。いわゆる筑豊地域の総人口は、現在では五〇万人を切っているが、それでも三つの美術館があるという事実は、炭鉱が育んだ文化水準の高さを物語る。同様に、筑豊外に目を転じれば、本書で例示されたアルテピアッツア美唄(美唄市)をはじめ、炭鉱をテーマとする作品を収蔵するいわき市立美術館(いわき市)、雄別炭砿フロッタージュ制作を行った釧路市立美術館(釧路市)などがある。なお、北海道内で古い歴史をもつ夕張市美術館(夕張市)は、平成二四(二〇一二)年二月に雪の荷重で屋根が倒壊し、残念ながら閉館してしまった。これら産炭地に設置された美術館の機能や役割、意義を評価するだけの力量は評者にはないが、先の田川市美術館の例で言えば、炭鉱時代から続く田川の美術活動の結晶として設置され、かつ、閉山後の田川における美術活動の拠点となったことは、美術館が産炭地の過去と現在をつなぐ役割を果たしているかのようである。以上、本章において著者は、産炭地での場所や人の記憶を引き出し、視覚化させ、共有する場を作り出すために、アートが有効な触媒として作用するものと期待する。さらに、アートプロジェクトで活用または再発見される文化資源が、循環性や還元性を持っていることから、地域再生や負の遺産からの精神的回復などで地域へ還元されるべきであると主張する。一方で、アートプロジェクトが成果をあげるためには、地域の文脈に即しつつ、関わる人々や地域住民との共感を必要としている。 第5章は、美術家である著者の実践活動を通じた考察である。なお、「あとがき」によれば、大牟田市を故郷とする著者は祖父母が炭鉱関係者で、自身が小学生の時に三井三池炭鉱が閉山した。大牟田を離れて外部から故郷を見つめ、再び大牟田へ戻った。いわば、著者自身が、本書第3章で取り上げた次世代層の芸術家の一人である。活動のきっかけは、大牟田の石炭産業が衰退したことで故郷に愛着を持てなくなったのが、アートという新しい視点で炭鉱を再評価しようとした考えによる。著者の活動の特徴は、石炭や石炭灰、赤ズリ(北海道三笠市で採集したため、ボタではなくズリと表記)といった石炭に起因する顔料(COAL PAINT、以下、石炭顔料)を作成し使用して、地域の様々な文化資源を活用した参加型ワークショップや企画の連携、作品制作や展示活動を行うことである。石炭顔料を使用したワークショップを開催することで、参加者が炭鉱の歴史と文化に触れる機会とした。特に、九州青年美術公募展にて受賞した著者の二つの作品は、石炭顔料などで彩色しているが、コラージュ技法を用いた作品構図には、商業施設等の大牟田でシンボリックなアイコンをモチーフとしている。この二作品についても、一般鑑賞者や専門家による評価を考察しているが、印象的なのは地域外の鑑賞者が炭鉱の街であることを想像できなかったことである。至極当然であるが、例えば写真であれば、どこにでもある町並みであるため、鑑賞者の関心は即座に途切れるが、著者の作品は石炭顔料で彩色された絵画作品であるため、鑑賞者の関心が持続するのだろう。顔料の説明などのアプローチの工夫を必要としているものの、アートを触媒とすることで、炭鉱を知らない外部の人々にも間口を広げることが可能となり、新しい活動や評価を再生産できるとする。
以上が本書の概要であるが、最後に全体的なコメントとして、炭鉱の記憶継承について触れたい。炭鉱の閉山時期は、全ての産炭地が一様でないため、地域によっては炭鉱の記憶継承に深刻な局面を迎えている。周知のとおり、日本の石炭産業は一九六〇年代のエネルギー革命や石炭不況により、以降、炭鉱は雪崩的に閉山していった。しかしながら、この時期、全国から注目を集めた大争議や炭塵爆発事故が発生した三池では、恵まれた炭層条件といっそうの合理化により、平成九年まで炭鉱は存続した。また、北海道の石狩炭田は昭和三〇(一九五五)年に出炭量で筑豊を抜き、一九九〇年代まで続いた。釧路は平成一四年にいったん閉山したものの、現在まで石炭採掘を継続している。したがってこれらの地域では、炭鉱経験者層とその次世代層の活動により、記憶の継承が比較的容易である。一方、筑豊・常磐・宇部では、一九六〇~七〇年代に炭鉱は完全に閉山した。特に筑豊を例にとると、現在は閉山して約半世紀が過ぎたため、炭鉱経験者の高齢化が他の産炭地に比べて著しく、鬼籍に入った方も少なくない。現在の筑豊の若い世代にとっては、炭鉱と直接関わった世代が曽祖父母となったため、記憶の継承がより困難となった。加えて閉山後の鉱害復旧や就労開発事業、産業再配置転換などによって炭鉱施設のほとんどを消失してしまい、筑豊の景観は激変した。ゆえに、筑豊では、本書でいう炭鉱の次世代層すらいなくなりつつあり、旧産炭地出身でありながら、炭鉱を全く知らない世代が出現している。往時の経験者と景観を失った旧産炭地では、今後、どのようにして炭鉱の記憶を継承すればよいのだろうか。本書第1章及び第4章で触れられた炭鉱遺産の保存と活用では、炭鉱遺産の文化資源化を重視するあま り、まちづくりや教育、コミュニティ形成といったソフト面に着目している。確かに、無形のものを含めた炭鉱遺産のあらゆる記憶を認識し再評価することは重要であるが、やはり、炭鉱の遺構(建造物など)や紙資料といった有形の遺産を文化財として保存することは第一義的である。記憶や景観を失った旧産炭地では、かつての炭鉱の歴史を伝える物的証拠がなければ、炭鉱の歴史の真正性を証明できるはずがない。そこで、特に九州では、炭鉱に由来する建造物、遺構、炭鉱経営者の住宅や紙資料などを文化財として指定し、保護が図られてきた。炭鉱跡の史跡では、三井三池炭鉱跡(大牟田市・荒尾市)、高島炭鉱跡(長崎市)、筑豊炭田遺跡群(田川市・飯塚市・直方市)が国指定史跡となり、前二者についてはユネスコ世界文化遺産にも登録されている。また、三井石炭鉱業株式会社三池炭鉱宮原坑施設(大牟田市)、同万田坑施設(荒尾市)、旧志免鉱業所竪坑櫓(志免町)が国重要文化財に指定された他、国登録文化財となる建造物もある。さらには炭鉱馬の供養塔である馬頭観音(飯塚市)、炭鉱就労者の像(水巻町)、坑夫取立免状(田川市)なども地方公共団体指定文化財となっており、山本作兵衛コレクションは、ユネスコ「世界の記憶」に国内で初めて登録された。これらは、炭鉱がなくなった現在において、炭鉱が所在した歴史の証拠として、世代を超えて伝えていかなければならない。しかしながら、これら有形の文化財は、物言わぬ歴史の証人というべきものであり、込められた記憶を引き出すためには、民俗、祭礼、行事や写真や絵画、彫刻、文芸、スポーツなどから炭鉱労働者の経験談や記憶まで、有形・無形を問わず、炭鉱に関わるあらゆる文化的所産を見出して、少しでも多く拾い集めなければならない。そうして、炭鉱に直接
あるいは次世代として間接的に関わった人々の記憶や想いは、文化財や文化的所産に形を変えて、炭鉱を知らない世代へと継承されていく。また、歴史的な真正性をもった文化資源は活用されて地域に還元されることで、地域、あるいは自己のアイデンティティを再度確立するなど、様々な作用を生じることが期待される。筑豊の炭鉱が閉山していく中で、実際の炭鉱労働者であった山本作兵衛は、記憶の継承を絵に託した。その動機を、次のように述懐している。
「ヤマは消えゆく、筑豊五百二十四のボタ山は残る。やがて私も余白は少ない。孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思いたった。文章で書くのが手っとり早いが、年数がたつと読みもせず掃除のときに捨てられるかも知れず、絵であれば一寸見ただけで判るので絵に描いておくことにした。只、たどたどしい記録というだけのもので、絵という程のものではないかも知れない。しかし、嘘を一寸でも描くことが嫌いだから、尚更描きにくかった (8)」。炭鉱の記憶継承に生じた隘路を解消する手段となり、かつ、現在や未来へ投射を図る触媒にアートが有効であることは、山本作兵衛や本書が強調したとおりである。著者の美術活動の展開に、今後も大いに期待したい。(九州大学出版会、二〇二〇年、六〇〇〇円(税別))
注
(
美術学校西洋画科選科卒業。在学中、白馬会展一〇周年記念展に「夕陽」 1)明治一四(一八八一)年、千葉県生まれ。同四一(一九〇八)年に東京 ( 気まぐれ漫画(人々の生活・風俗二一点)を描写している。 頃に百円坂倶楽部に長期滞在し、炭坑漫画(坑内・坑外の様子二一点)と が入選、卒業後は岡田三郎助に師事した。田川へは大正七(一九一八)年
( ていた。 は「南風」の下絵と記されたものと、後に寄贈された日本画一点が残され (一九五八)年、文化功労者を受賞した。三井田川鉱業所の百円坂倶楽部に 業、黒田清輝に師事した。明治四〇年、文展に「南風」を出品。昭和三三 2)明治一六(一八八三)年、兵庫県生まれ。東京美術学校西洋画科選科卒
( 田川郷土研究会、四二~五〇頁を参照。 川美術界の足跡」『炭坑の文化田川郷土研究会創立五〇周年記念特集号』 3)以下、田川における美術活動の変遷については、片岡覺二〇〇六「二田
( 市石炭資料館だより』三。 4)佐々木哲哉一九九三「石炭にロマンありき―伊田竪坑と小林寛―」『田川
( 『山本作兵衛と日本の近代』弦書房、一三四~一四八頁、など。 5)有馬学・マイケル・ピアソン・福本寛・田中直樹・菊畑茂久馬二〇一四
( 6)石川孝織氏(釧路市立博物館)ご教示による。
( 炭鉱労働者の生活や風景を絵画に描いた。 帝国美術学校を卒業した。一九三八年に台湾へ戻ると、炭鉱で働く傍らで 7)一九一二年、日本統治時代の台北生まれ。一九三〇年に日本へ留学し、
九九頁。 8)山本作兵衛一九七三「年譜」『山本作兵衛畫文筑豊炭坑繪巻』葦書房、