福州戯台見学記
川島 郁夫
はじめに
1.
福州市街区の古戯台保存2.
市中心地区の古戯台2.1
陳文龍記念館内古戯台…宋末抗蒙将軍と海神信仰2.2
八旗会館の福州評話と古田会館内古戯台2.3
水榭戯台…明代郷神の豪奢2.4
鳳洋将軍廟…琉球国唐栄人の足跡3.
市中心地区周辺の古戯台3.1
長楽市琴江村毓麟宮廟内戯台…満族末裔が守る文化遺産3.2
最近10
年間の古戯台再建の動き終わりに
はじめに
筆者は
2009
年4
月より半年間福建省厦門市の厦門大学を拠点に中国南方の伝統演劇(地方戯)に関する現況調査・資料収集を行う機会を与えられた。対象としたのはいわゆる江南・華東地 域の江蘇省・浙江省・上海市・福建省の沿海地区である。南方地方劇は 20 世紀初頭の隆盛をピ ークに減退傾向が続き、近年その一部は消滅の危機に直面していると言われていた。中国政府 は
1980
年前後からその保存への取り組みを文化政策の柱としているが、急激な欧化や共通語教 育の普及の影響で若者の伝統演劇離れが進んでいる他、後継者育成の立ち後れ、興行面での不 振等から存続が危ぶまれている。特に改革開放政策が実施された80
年代後半以降の都市部では、テレビや
PC
等のメディアを経由した新たな映像娯楽作品が一般化し、地方劇離れは一層加速 されている。伝統演劇の保存は芝居の上演に関する諸資料(上演時期・演目・主催者・観客等)の他に上 演用の舞台、いわゆる「戯台」そのものの保存も含まれる。中国では金元時代の北方系演劇(元 雑劇)の舞台が山西省や陝西省等に多く残されており、近年詳細な調査結果が公刊された1)。 これらは重厚・質朴を旨とする北方系建築の特徴をよく表しているのだが、今回調査の対象と した江南・華東地区の戯台は、それとは対照的に南方系古典様式の粋を集めたもので、精緻な
木彫造形の随所に施した、華麗・優美を極めた建築である。このような古戯台は、かつて同地 区の至る所に見られたのだが、地方劇の衰退とともに次第に数を減らし、とりわけ
60
年代半ば からの10
年続いた文化大革命時代紅衛兵のよる激しい破壊活動を被り、歴史的価値の高い古戯 台の相当数が姿を消したと言われている。文革終息後政府による文化財の復建・保護の方針が 打ち出され、ようやく他の文物同様保存に力が注がれ始めたのは80
年代前半からであった。その一方で、戯台のような歴史的古建築の保存には必ずしも有利ではない社会的状況もある。
改革開放政策によって未曾有の経済発展を遂げた上海市周辺地域および以南の沿海地域では、
相次いで経済特区および経済技術開発区指定がなされ、それにともなって他地域からの著しい 人口流入現象が起きている。急激な人口増加に伴う住宅建設ラッシュと歴史的建造物の保存の 両立は現実には困難であり、今回の調査でも数年前まで存在が確かめられた古戯台の幾つかが 既に取り壊されたり、あるいは保存の手の届かないまま損壊が進んでいるという現状を目の当 たりにした。
また、都市人口中の「老街坊」、すなわちは同地に原籍を有する居住者の比率低下が著しいた め、土地に縁の深い文物に対する愛着も相対的に薄れつつある。地方劇のような地元密着型の 芸能についても同様である。そもそも地方劇というものは歌も台詞も方言を用い、上演場所も 土地神を祀る寺廟などが多い。地元の言葉や音楽を全く解さない他郷からの移住者が、そのよ うな芝居や舞台に関心を持たないのは当然であろう。古くからの地元住民の減少は、古戯台の ような歴史資料の保存にとって重大な問題なのである。
1. 福州市街区の古戯台保存
以上のように、伝統地方演劇の重要な有形資料である古戯台の保存には様々の社会的条件が 関わっているのだが、現在の保存状況を見てみると、同じ江南・華東地区でも都市によって大 きな違いが認められた。特に福建省沿海地区ではそれが著しい。筆者が調査した限り、省南部 の厦門、泉州、漳州の
3
市の市街地では、明清以前の創建になる古戯台はごく僅かしか残って いない 2)。比較的歴史の浅い厦門市はともかく、六朝・唐朝時期から開け、福建省内でも有数 の古都に数えられる泉州市ですら、市中心部やその周辺には100
年以上前の古戯台を見つける ことができなかった3)。この3
市はいずれも閩南語の使用地区で、古典演劇そのものについて 言えば、厦門や漳州で人気の高い薌劇(歌仔戯)や滑稽味を持ち味とする高甲戯、また現存最 古の演劇の一つともいわれる梨園戯(泉州)などが今なお日常的に上演される演劇好きの土地 柄である。しかし、実演の際使用される舞台は、劇団が臨時に組み立てる架設舞台か、コンク リートや鉄骨造りの野外劇場がほとんどである。地元住民たちもこれをごく当然のことと考え、伝統的な建築様式の古戯台での観賞にはさほど執着していない。
これに対し、省北部の省会(省政府所在地)福州は全く状況が異なる。福州地区の使用言語 は閩東語(福州語)で、福建省内でも言語的に截然たる独立性を有しており、これを用いた独 自の演劇は閩劇(福州劇)と呼ばれる。閩劇は明清時代を通じて形成された地方劇で約
400
年 の歴史を持つが、一時は台湾を含めた福建全省に影響力を持っていたが、民国初年の隆盛期を 境に凋落傾向が著しく、現在では上演機会が極めて少なくなっている。しかし、演劇の衰退と は裏腹に舞台の保存に対しては並々ならぬ意欲が窺え、市の中心部である鼓楼区を含めた市街 地及びその周辺に相当数の古戯台が保存されている。これらはほぼすべて国家級ないし市級の 文物保護単位の指定を受け、損壊が進んでいるものについては順次修復工事が行われるなど、行政側の管理体制も非常に行き届いており、この点では間違いなく福建省の主要都市の中で最 良の部類に入る。何より感心したのは、個々の舞台の由来について福州文化史研究の一環とし て非常に詳細かつ綿密な学術調査が進められていることである。
今回の現地調査で福州市を訪れたのは
5
月20
日から22
日までの3
日間(第一次)と上海市・江蘇省・浙江省の調査を終え、厦門市へ帰還する途中に立ち寄った
8
月31
日(第二次)の計4
日間である。以下は実際の取材メモをもとに若干の修正を加えた見学の記録である。取材の様 子をできるだけ忠実に反映するため、基本的にメモの原文の順序をそのまま残してある(同一 の戯台に関する記述が何箇所かに分かれているのはこのことによる)。訪問先には演劇とは異な るジャンルの技芸上演用の舞台も含まれるが、福州の伝統芸能である点では軌を一にするので、敢えてこれを除くことはしなかった。また、時間的な制約から一部の舞台は現地に赴くことが できず、別に入手した文献資料のみの紹介に止まることを予め断らなくてはならない。
2. 市中心地区の古戯台
2.1 陳文龍記念館内古戯台…宋末抗蒙将軍と海神信仰
5
月20
日、厦門から沈海高速公路を長距離バスで3時間半北上して福州市街区に到着し、福州 大学日本語学科主任潘秀蓉副教授の出迎えを受ける。まず福州市区中心部の鼓楼区聖廟街の文廟(孔子廟)、続いて同区南後街衣錦坊内の水榭戯台を訪問する。水榭戯台は福州市街区に唯一保 存されている私邸付設の古戯台で、数年前に修復工事がほぼ完了し、明代さながらの瀟洒な姿が 復元されたことが話題になった。今回の福州訪問の第一目標であり非常に楽しみにして足を運ん だのだが、入口は閉ざされ一般公開はされていない様子である。当直の管理員の話では内部公開 は来年からで、現在はまだ一部工事中の箇所があり、見学には文化局の許可が必要とのことであ る。潘副教授と相談の上、後日文化局との交渉を俟って改めて訪問ということになった。
次いで訪れたのは衣錦坊から程近い道山路にある八旗会館(満族同郷組織の集会所)、ここに
は「福州市曲芸団評話伬唱業務接洽処」つまり福州の伝統芸能である評話(講談)と伬唱(民 歌を交えた講釈)の保存事業を担当する公的部署が併設されている。木造二階建の建物は
2008
年7
月に開館したばかりで非常に新しく、今回の調査の主たる対象であるいわゆる古戯台では ないが、室内には講釈物の演台としては大型の立派な舞台が設置してあって日常的にこれらの 実演を行っている。公的部署とは言ってもお役所的な雰囲気とは無縁、至って気楽な施設で、この日も昔からの顔馴染みらしき老人たちが数人集まって茶をすすりながら世間話をしたり将 棋に興じたりしている。この会館設置のもう一つの趣旨は近隣の住民、特に退職年齢に達した 高齢者に憩いの場を提供することなのだそうだ。入口は常時開放されていて外部の者も出入り 自由、しかも入場無料。会館の管理担当者らしき女性が事前連絡もなしに訪れた我々に親切に 対応してくれ、訪問の目的を説明すると、たまたま翌日の
9
:00
から福州評話の実演があり、撮影制限など一切無しなので是非おいで下さいとの有難い言葉を頂いた。
福州市鼓楼区道山路八旗会館外観
この日の最後に市区南部台江区の下杭路小橋頭に位置する陳文龍記念館内の古戯台を見学し た。陳文龍は福州興化の人で宋代咸淳年間の進士、南宋の最末期、押し寄せる蒙古の大軍に抵 抗して壮絶な最期を遂げた硬骨漢で、福州では「鎮海王」の別名で呼ばれ、天妃媽祖と並んで 海運安寧の守護神として信仰を集めている。また、明末清初に三度にわたり「水部尚書」(現実 には存在しない役職名)の称号を謚られたため、文龍を祀った廟は「尚書廟」とも呼ばれる。
民国初年、著名な思想家・翻訳家厳復らの尽力によって半壊状態で放置されていた尚書廟が復 建され、
1991
年再修復が実施された際福州市の重点文化単位に指定され記念館としてオープン した。古戯台は設置される場所によって大きく
3
種に分けられる。建物全体が完全に屋外に置かれ る露天型、廟や宗祠の建物の内部の外からは見えない場所に屋根つきの舞台全体を収納する半屋内型、屋根まで含め完全に建物の内部に収容される純屋内型。純屋内型は官衙戯子(府県の 役所内に設置される舞台)などに見られるもので蘇州忠王府内戯台などが代表であるが、数は 極めて少ない。この記念館の戯台は半屋内型で、左右両側には屋根つき二層造りの観覧用の回 廊が設けられている。舞台は太い丸太を縦横に組み立て、その上に伝統的な反り屋根を載せた 構造で、四方の支柱は円形の敷石の上に直接載せられている。丸太は柱も梁もすべて朱塗りで、
屋根裏の天井はドーム型に組み木造り(「藻井」と呼ばれる)に鍍金彫刻を施したもの、屋根と 柱の接合部も比較的単純な木組み構造で、舞台正面側には木彫の装飾がほどこされてはいるが、
全体としては簡素で古典的な形状をしている。変わっているのは、舞台下部の固定柱は左右
4
本ずつに分かれて配置されその上に固定の床が左右に分かれて貼られていることで、これは祭 礼の際信者たちが神像を抱えて入場し館内を練り歩くために舞台中央の台板を取り外し、上演 時には中間部に別の支柱を設置してその上に板を乗せ、舞台を連結するのだそうだ 4)。連結す ると舞台の間口は約12m
、奥行きも約7m
で半屋内型の戯台としては最も大きな部類に属する。舞台の後方は観音開きの扉になっていてそのまま建物の外につながっている。この形は福建地 域では比較的珍しいが湖南省や浙江省などの一部の戯台に見える造りである(芷江天后宮・蘭 渓諸葛村忠武廟など)。実演時の写真など詳細な資料がなかったので確認はできなかったが、同 様の様式をもつ他の戯台の状況から推定するに、恐らく上演時には舞台後方に一般の古戯台の ような目隠しの屏立てを、左右には登場口を設け、役者は観覧席につながる左右の階段を伝っ て舞台に上がるではないかと思う。
廟内には本尊の陳文龍像の他船を模った海神像などが並び、それらがすべてかなり大型なの が印象的であった。普段は記念館として使用されているが、現在でも祭礼の際奉納される芝居 の上演にしばしば使用されるという話であった。
陳文龍記念館内古戯台 戯台上部藻井
2.3 八旗会館の福州評話と古田会館内古戯台
5
月21
日、早朝、潘副教授に伴われて上記八旗会館内で福州評話の実演を観覧、館内の様子 を写真撮影し、一部をビデオ録画させて頂いた。上演前から50
人を超える観客が詰めかけ、団 扇や扇子を手にした老人たちが各人気ままに椅子を並べて舞台正面に陣取っていた。評話とい うのは口承演芸の一種で、語りと歌を交互に交えながら語って聞かせる形式は日本の寄席で行 われる講談や浪曲に類似している。福州評話の歴史は宋代にまで遡り、南宋陶宗儀の筆記『南 村轍耕録』には宋末元初に臨安(杭州)の人丘機山が初めて福州で説書(評話)を語ったこと が記されている。清代初期から中期にかけて、説書の名人と謳われた柳敬亭の直弟子居輔臣が 芸を伝えてから評話は語りと歌を融合させた現在の形が定着し、その後清代には福州方言によ るテキストが出版されて評話は隆盛期を迎える。民国時代の1930
年代には専門の芸人が300
人もいたというから人気のほどが分かろうというものである。福州では現在でも評話の語り手が職業的に成立しており、福州の各所で定期的に評話の実演 を行っているとのことである。八旗会館の壁には少なくとも男女合わせて約
20
名の芸人の写 真が張り出してあった。この日の演者は男性で、残念ながら名前を聞き忘れたがもちろん完全 なプロ、しかし服装は伝統的な長袍ではなく普通の半袖シャツ姿であった。日本の講談のよう な補助的な鳴り物はなく、広い演台に木製・金属製の拍子木を並べ、時々水差しで喉を潤しな がら、日本の浪曲に似た濁声で滔々と語りを聞かせてくれた。評話の出し物は大まかに武侠物、裁判物、それに家族の悲歓離合を描いた家庭物の3種だそうでこの日の演目は「火焼天香楼」、 これは南宋の末年に蒙古軍の襲来に抵抗した福州出身のある武人の伝説で、現代の流行作家蕭 盛の武侠小説『天狼逐鹿記』の一節にもなっている。元々福州評話には熱烈な愛国主義の伝統 があり、宋代以来の歴代の評話芸人たちは、祖国が外敵侵入の脅威にさらされた折、しばしば 結束してこれに抵抗してきたという歴史がある。柳敬亭が清兵入閩の際鄭成功の抵清闘争を支 援したことは有名だが、その他にもアヘン戦争、辛亥革命、抗日戦争の折にも自らの芸を以て 抵抗運動を盛り立てたという記録がある。私自身はこの物語に接したのは初めてだが、上記陳 文龍説話同様、愛国の英雄が好まれる福州では馴染みの深い物語らしい 5)。勿論全編福州語で 共通語しか解しない私には全く聞き取れなかったが、福州出身の潘副教授も半分程度理解する のがやっとということなので、現地人でも素人にはなかなか歯が立たない代物のようだ。
八旗会館内舞台 福州評話上演の様子
道山路を上記八旗会館から東へ徒歩で
5
分ほどの場所に唐代創建と伝えられる古塔烏塔があ る。やや黄色みを帯びた褐色の八角七重の石塔で、かつて福州の古城に七座あった塔のうち現 存するのは烏塔とすぐ西側に並んで建つ「白塔」のみ、現在福州市街区の中心に鎮座し、街の シンボル的建築物になっている。その烏塔の南側に隣接して建つ古厝が烏塔会館である。福州市内には上記の八旗会館やこの 烏塔会館を含め、「会館」の名がつく古建築が
8
ヵ所残っている。会館には何種類かの命名法 があり、福州を例にとれば広東会館、湖南会館、三山会館(江蘇・浙江両省の合同組織)など「会館」の前に地名を冠した同郷人互助会組織であることが多いが、八旗会館のように民族の 名をつけることもあり、時には職種・業種名を冠する場合もある(寧波市銭業会館等。ただ旧 中国では同郷人の互助会組織「幇」が同時に同業者組合としての性格を兼ね備えることが多い ので、この二つは厳密に区別できない場合が少なくない)。いずれにしろ、これらの名はある種 の同属集団の運営拠点であることを明示するものなのだが、この烏塔会館は建築物名を冠した 非常に珍しい例である。
この会館は創建年代不詳で清の道光、同治年間(1821~1874年)に重建され、清末の光緒
9
年に福州の餅菓子業者の寄付によって関帝等の諸神を祀る廟として修復され、館内に戯台が設 けられた。その後戯台はよく保存されているものの会館本体は老朽化が激しく、殊に2002
年 の台風によって著しい損壊を被った。福州市政府は直後に行った応急的な工事に続き、2008 年12
月より本格的な修復に着手し、現在内部の復元工事中、竣工は2009
年暮れを予定、残念 ながら今回は見学は叶わなかった。次に訪れたのは台江区同徳路にある古田会館。この建築は福州市の重点文化保護単位の指定 を受けており、現在一般公開はされていない。前述の七坊三巷衣錦坊内の水榭戯台もそうだが、
文化財指定を受けた建物の内部観覧および撮影には管理単位の許可が必要である。今回は潘副 教授が事前に知人を通じて各方面の関係者に連絡を回して下さり、福州市文物管理局副局長龔 張念氏(後述)には特別の計らいを頂いた。
古田会館は福建省寧徳市西部の古田県の同郷組織の建物で、民国成立後の
1914
年に古田出 身の商人グループ、いわゆる「古田商幇」の寄付金によって建てられたものだからそれほど古 いものではない。(因みに1929
年12
月毛沢東が初めて軍の実質的な指揮権を握ったことで知 られる中国共産党第9回大会、いわゆる古田会議の開催地は現在の福建省西部の龍岩市にあり、この古田とは別の場所である)。この会館はもともと東西二棟の敷地・建物(院落)から成って いたが、西院は修復工事前に塀以外の建物はほぼ全壊しており、東院も戯台の部分は石製の台 座と柱を残してほとんどが建て替えられていた。現存の戯台は福州市内に保存されている烏塔 会館内戯台(前述)や鳳洋将軍廟内の古戯台(後述)などほぼ同時期に建てられた建築の様式 を参考に、建築資材や様式・装飾等を厳密に選定し、可能な限りもとの姿を忠実に再現するこ とを目標に入念に計画を立て修復工事に入ったそうである。
東院は本来「天后宮」(媽祖廟)であって、戯台も媽祖信仰に関連する宗教祭儀用に建てられ たものであるが、同種のものでも有名な泉州天后宮などに比べるとはるかに装飾的で手の込ん だ造りである。四方の丸柱で支えられた屋根、木製のドーム型天井は金箔貼りの非常に手の込 んだ藻井、舞台後方の屏立の両側に俳優の登場口(入相)・退場口(出将)、その後方には楽屋 に通じる通路が配置されるなど、いずれも福建地方の半屋内型古戯台の典型とも言えるものだ。
戯台の幅は
6.5m
、奥行きは5.5m
、支柱は上部木製・下部石製で木部塗装色も朱塗りより濃い 目の黒に近い暗褐色、舞台そのものにも木彫透かし彫り欄干(勾欄と呼ばれる)がついており、これは江南地方の官衙戯子などにもよく見られる形式である。舞台が載る基礎はレリーフが施 された石製で、浙江省紹興市や寧波市など江南地方の市内に残る戯台に頻見する木製支柱が露 出したものではない。この会館の所在地は福州市内を横断する閩江の河岸から程近く、かつて は洪水による閩江氾濫が頻発し、その際しばしば床下まで浸水した。木製の柱は腐食に弱いた め、その対策として石製の台座が使われるようになったというのが通説だそうである。
舞台の正面には
2
本柱の華麗な屋根つきのくぐりと天井が設けられ(拝亭と呼ぶ)、さらに その奥の大殿につながっている。拝亭、大殿の天井にも戯台上部とは形状が異なる渦状の藻井(鶏籠頂・百鳥朝鳳等と呼ばれる)がほどこされ、全体で三つの藻井が並んだ形になっている。
舞台の左右には見事な格子模様の欄干付きの二層造りの観覧席があって、相当数の観客が舞台 を取り囲むようにして鑑賞できる構造である。
この戯台は、藻井の一部にはまだ鍍金がほどこされていないなど完全な形ではなかったが、
構造そのものは極めて保存状態良好である。当日の管理担当者の話では修復・保全工事完了後
は古典演劇専門の舞台として使用に供される予定とのことである。江南・華南両地域の様式を 兼備した混淆型戯台として非常に価値の高いものである。
古田会館内古戯台正面 古戯台右観覧席より
古田会館の見学終了後、閩江を渡り倉山区倉前路へ、目的地の安瀾会館(別名浙江会館)は 前情報の住所が誤っていたため捜索に手間取り、漸く探し当てたものの管理上の都合で観覧は 許可されなかった(係員の話では内部にある戯台は特別な保存措置はされず、事務室として使 用中とのこと)。その足で倉山区の泉州市文物管理局を訪問し龔副局長に面会した。同氏は泉州 地区の文物研究と調査保存業務に携わる少壮の研究者であり、古田会館の修復工事に直接携わ った方でもある。勿論これまで面識などはなく、突然押しかけたに等しいのだが、今回の調査 に対する理解と全面的な協力を約束して下さったばかりか、通常では入手困難な市内の古建築 及び著名人の旧居に関する刊行物等貴重な資料を頂戴した。改めて謝意を表したい。
2.3 水榭戯台…明代郷神の豪奢
ここで多忙の中ずっと同行して頂いた潘副教授に代わり同大日本語学科林涵先生が案内役を 引き受けて下さることになった。昼食を済ませ、林先生とともに前述の水榭戯台を訪問。七坊 三巷は南北に伸びたおよそ
500m
の石畳の街路で、現在観光用に整備が進められている。路面 の舗装はすでに完了し、自転車を除く一般車両の通行は禁止されている。道の左右に並んだ建 物は全て同色の木造で、透かし彫りにした格子窓付きの門扉で外観を統一してあった(筆者は、この景観は旧街の姿を復元したものとばかり思っていたのだが、ご自身の親族がかつて当地に 居を構えていたとおっしゃる林先生のお話では、これらの建物は全て市政府が計画し、観光客 向けの貸店舗用に準備した建築で、かつての街並みとは全く趣が異なるのだそうである。旧街 は土塀と瓦屋根と木戸が連なったもので、それは本通りから路地を入った辺りに残ってはいた が、これらも目下急ピッチで取り壊しが進んでいる)。
七坊三巷 衣錦坊水榭戯台入口
七坊三巷には名の通り途中に東西に計
10
本の狭い路地があり、それぞれに文儒坊、光禄坊、黄巷等の名がつけられている。衣錦坊はそのうちの1本で、水榭戯台はその中ほどに位置して いる。この戯台は明万暦年間に建てられた郷紳鄭一族の私邸の中にあり、建物は東西に連なる 三層造り、入口から主院・別院・園林(中庭)に順に並び、戯台は一番奥の園林に設けられて いる。庭には小規模ながら水溝が設けられ、石造りの回廊・欄干・渡橋・虎皮岩等が配置され た形は明らかに瀟洒を重んじた江南の蘇州・杭州等の園亭絲竹の庭園を模したものである。
戯台は
5m
四方ほどの広さで道観などの舞台に比べると小型であるが、私邸に設けられたも のとしては標準的な規模と言える。構造は水溝に立てられた石柱に直接木造の舞台を置き四隅 の支柱に屋根を載せたもので、屋根と柱の接合部周辺の装飾は比較的簡素であるが、屋根の反 り具合はかなり強く、江南地方の建築に頻見する「恕翬斯飛」と呼ばれる華麗な姿をしている。舞台後方には赤い毛氈を敷き詰めた花道が通り、白塗りに紅梅の絵をほどこした壁で仕切られ ている。池を隔てた東側には二層造りの縁台が舞台正面に設置され、二階部分には格子模様の 欄干が付いていて、池越しに間近に芝居を観覧できるようになっている。賓客を招いて茶酒を 供しながら、歌曲演劇を楽しむといった、明代郷紳の豪奢な暮らしぶりを彷彿とさせるものだ。
戯台をはじめ、この屋敷に使われている木材はほとんど塗装なしの原木に磨きをかけただけ なので、朱塗りや多彩色の装飾を施した木材を用いた一般的な古典的建築に比べ、全体の印象 は素朴である。この戯台は長年放置されて腐朽が激しく、修復前には倉庫として使用されてい たが6)、2001年に省の保護文物となって防腐・防蟻処理を含めた本格的な修復が始まった。木 部修繕の際、可能な限り本来の姿を保存するため腐食部分は丁寧に削り取って埋木をし、また 木材の選別には非常に気を遣ったそうである。修復が完了した
2006
年には全国重点文物単位 に指定された。水榭戯台
2.4 鳳洋将軍廟…琉球国唐栄人の足跡
この日の最後に訪れたのは福州市晋安区鼓山鎮遠東村にある鳳洋将軍廟内の古戯台。遠東村 は市区の東端に位置し、南側が閩江に面した場所である。この周辺は老朽化した集合建築の密 集地帯で、市街区の整備・拡張および住民の安全確保を理由に廟付近は古い建築物の一斉取り 壊し作業が行われていた。路上は廃材が山積みされ、その間を重機が絶え間なく縦横に行き交 い、通行にも不自由を感じるほどで、目標の廟を探し当てるのに相当時間を要した。
鳳洋将軍廟は明嘉靖年間の創建と伝えられ、国内で唯一の琉球国唐栄人を祀る廟である。鳳 洋将軍というのは明の太祖朱元璋が朝貢を促すため当時の琉球国へ派遣した、福州に祖貫を持 つ金姓(名は未詳)の軍人の末裔で、
1560
年六代目の子孫が琉球王朝の命を携えて福州を訪れ た際河口付近で暴風のため船が転覆し、後日その水死体が沿岸に流れ着き、縁者がその命を祀 って宗廟を建てたのが始まりという。福州は古来琉球と縁の深い土地で、この廟や倉山区にあ る琉球人墓地等、長年にわたる相互交流の歴史を物語る史跡が市内に点在している。そのよう な経緯もあって、現在沖縄那覇市とは友好都市の関係にあり、しばしば親善使節がここを訪れ るそうである。戯台は本来は半屋内型、完全な木造で幅
11m
、奥行き6m
とかなり大型、舞台の側板には花 鳥の彫刻、屋根を支える4本の朱塗りの柱の上部にも獣頭の彫刻がほどこされ、屋根の天井は 渦状の藻井と全体に凝った造りである。舞台の周囲に上下2層構造の回廊が設けられ、回廊二 階部分の舞台に面した側に設けられた欄干には「三国演義」の物語を描いた精巧な図案が40
枚近く嵌め込まれている。二階部分に観客用の長椅子が設置されている形は福州地域の古戯台 によく見かけるが、ここでは舞台の正面にも大型の円卓と椅子がいくつも並べられていたので、現在も上演用として頻繁に使用されているようであった。ただ残念ながら建物の保護のためか、
廟の内部にコンクリートで仕切りを設け、屋根の部分まですっかり覆ってしまっているため、
屋内はわずかに窓から光が漏れて来る程度でほとんど真暗である。管理人のご好意で一部の照 明を点けてくれたのだが、フラッシュをたいても光量が絶対的に足りず、小型のデジタルカメ ラでは全体像をとらえきれなかったのが惜しまれる。
8 月 31 日追記:
5
月の第1
回目の福州戯台調査の際、準備不足で十分な映像資料を入手できなかった鳳洋将 軍廟を再度訪問し、内部の撮影をすることができた。戯台管理担当の老夫婦が福州語しか解さ ないので、私一人では意思の疎通は困難、福州大学潘副教授はあいにく西安に出張中とのこと であったが、地元出身の同大院生で現在京都大学大学院在学中の林子博君をご紹介頂きに同行 をお願いした。前回の反省から、室内の電気照明をできるだけ点灯して頂き、デジタルカメラ とデジタルビデオカメラを併用して光量を確保したので今回は遥かに鮮明な画像になった(そ れでも両側から外部廟宇の壁面が迫っており、外部の光をほぼ完全に遮っているので、絶対的 な光量不足を補うことはできなかった。この戯台には天井から多数の照明がつり下がっており 些か不格好なのだが、芝居を上演する際にはこれらをすべて点灯して明かりを確保するのだそ うだ)。前回は気付かなかったが、この戯台は二重の屋根構想になっており舞台上の螺旋状の藻 井のついた屋根の上にもう一つの大屋根が設けられている。この大屋根は舞台屋根に直接載っ ているのではなく、左右から延びた非常に太い丸太の梁柱で支えられており、天井にはもう一 つ楕円形の藻井がついている。この他舞台脇の神像を祀った宮祠の上にも八角形の藻井がつけ られるなど、素朴な絵柄ではあるが非常に凝った装飾を持つ戯台である。室内に置かれている ため年代の割には老朽化しておらず、全体に鮮やかな朱で塗装された柱も屋根も頑丈で台板の 上を歩いても実にしっかりとしていた。晋安区鼓山鎮鳳洋将軍廟内古戯台 古戯台欄干三国志図案
3. 市中心地区周辺の古戯台
3.1 長楽市琴江村毓麟宮廟内戯台…満族末裔が守る文化遺産
5
月22
日、初めて市区の外に出ての調査であったが、潘副教授に加え同僚の何美玲先生が御 好意で自家用車の運転を引き受けて下さった。最初は市区の東部郊外で閩江河口に接する馬尾 区亭江亭頭村の怡山院を訪問。この建築は亭江中学校の校内にあるが、校舎とは離れた場所に 位置し、普段は旋錠・閉鎖されて使用されてはいない。明嘉靖年間の創建と伝えられ、清同治5
年(1866年)改築の際に天后祠(媽祖廟)が設けられた。現存するのは媽祖像が安置される 神殿とそれに続く拝殿等であり、この拝殿は四方の支柱に屋根を載せた純木造建築で極めて精 緻な造りをしている。戯台については存在を示す記録がないが、拝殿天井部の金箔装飾をほど こした八角形の藻井は部分的に唐草模様に似た図案を持ち、これは浙江省の宗祠家廟内の戯台 などに用いられる図案と共通するデザインで、廟全体の構造もそれらに酷似している。怡山院はかつて閩江河口地域では最もよく知られた媽祖廟であった。福州は泉州と並び福建 地区では古くから海外貿易の中心地であり住民にも海運業者が多いから、媽祖信仰の一拠点と なったのは必然の結果である。院内に残されたには廟の縁起を記した石碑には、改築の際琉球 国国使から三百両の義捐金があったことが記されており、その他の資料からも明清時代を通じ 琉球や台湾の官吏・商人が頻繁に祈願に訪れた様子が分かる。
1983
年福州市文物保護単位の指 定を受けた。怡山院見学の後は車で閩江を渡り、対岸の長楽市に位置する琴江満族村内の毓麟宮廟を訪れ た。同村は沈海高速馬尾入口から閩江大橋を渡ってすぐの出口で降り、さらに車で
15
分の閩江 西岸にある。名前が示すとおり、清代中期当地に移り住んだ八旗族の居住地であり、辛亥革命 までは閩江入口に三江口水師という軍営を構えて福州の海防を担っていたが、革命の折に多く が離散し、残った者も迫られて改姓した。現在では満族居住地とは名目のみで、全村の半数以 上が福州人で占められ、当地に留まった八旗族の子孫も全員漢姓を名乗っているという。地元 住民の多くは老人で共通語を解さず、筆者は勿論、漳州出身の何先生もほとんどコミュニケー ションがとれなかった。廟の縁起を記した石碑の記述によれば、本廟は清朝雍正
6
年の創建、祀られる神は順天聖母。順天聖母は本名陳靖姑、臨水夫人、大奶夫人等の別名があり、唐天佑年間福建古田の人。妖蛇 退治の伝説から除妖・安産の女神として閩東地方では広く信仰を集めている。古戯台は完全な 木造で、露天ではなく廟内部の石床の上に組み上げられたもの、縦、横とも
5m
程度で室内型 としては標準的な大きさである。舞台の四方には二層造りの回廊がめぐり、二階部分の欄干に は伝統的な格子模様ではなく斜めの線を基調とした風変りな絵と彫り物が組み合わされており、二階部分には手をかけて作られた観覧用の長椅子が並んでいる。舞台上部の屋根周りは寺廟建
築の天井によくある形状、天井は円形や方形の藻井ではなく屋根の勾配に合わせて丸太と板状 の垂木を縦横に組み合わせた構造がそのまま見えている。屋根と柱をつなぐ部分(牛腿と呼ば れる)と舞台床周囲の側板には花鳥を透かし彫りにした装飾がほどこされ全体に非常に凝った 造りである。舞台のスタイルは上述の古田会館のものによく似ており、花道後方から楽屋に続 く通路の配置は華南地域の戯台に共通するスタイルである。
現在毓麟宮廟と戯台は同村に管理を委ねられているおり、今回の訪問では近隣に住む賈姓の 女性が内覧を許可してくれた。賈家は当地の名門で、
4
代にわたり三江口水師旗営の指揮官を 務めたという。今年73
歳とのことだが、今なお矍鑠として闊達に普通話をあやつり、戯台の縁 起や文化大革命時代紅衛兵の破壊活動から古跡を守り抜いた思い出を滔々と語ってくれた。ま た、この戯台は住民の手で非常に大事に保存されているだけでなく、年々季節ごとの宗教祭儀 には今でも使用され、閩劇の他、時には満州語による台閣と呼ばれる地方戯を上演することが あるそうだ。長楽市琴江村毓麟宮廟内古戯台 毓麟宮廟古戯台牛腿
3.2 最近 10 年間の古戯台再建の動き
閩江沿岸の馬尾区やその周辺部ではここ
20
年ほどの間に伝統的な建築物の再建事業が盛ん に行われ、上記二か所以外にも古典的な様式の戯台を擁する廟宇・道観が一般に公開されてい る。代表的なのは馬尾区亭江牛項村の牛項真君殿(1994
年重修)と同区沿山西路の天后宮(2009
年重修)である。前者は馬尾区亭江鎮から197
号線の山道を北西に20km
ほど上った山中にあ るため交通が非常に不便で、時間的制約もあり今回は見学を見合わせざるを得なかった。龔文 物管理局副局長(前出)から頂戴した福州市管轄の市級文物保護単位資料によると、牛項真君 殿の正式名称は牛項張聖真君祖殿、1161
年の創建と伝えられ、福州を中心に長楽、連江等の福建省北部一帯から台湾、東南アジアにかけて分布する張聖君(慈観)信仰の拠点である 7)。た だ本廟の正殿には張聖君の他蕭聖君(法明)、連聖君(良瑞)8)が祀られており、福建民間の「五 聖君」信仰のうちの三聖君を合祀する廟であることが判る。重修後
15
年で建物は全体に真新し いが、1947
年にも重修とあるのでこの間に何らかの損壊の被害に遭ったのではないかと思われ る。実物を見ていないので断定はできないが、写真を見る限り少なくとも舞台については伝統 的な古戯台とは規模も形状も全く異なっており、15
年前に新たに建築されたものと見て間違い ない。この舞台は完全な室内型で、台板の幅は優に15m
、奥行きも10m
を超え、2
階まで吹き 抜けの天井は非常に高く、伝統劇上演用としては異例な大空間を持っている。これだけ内部が 広いと照明、音響設備が必要なはずだが、舞台背後に固定の照明器具が見えているので恐らく この点でも整備されているのだろう。一応舞台周りの壁面や左右の観覧席前欄干の派手な絵柄 や天井に設けられた八角形の藻井等、古戯台のそれを模した装飾は配してはあるが、全体の形 状は言わば中欧折衷の様式で、他に類を見ない近代的劇場の一種と言えるものだ。近年牛項村は住民の大半が麓の亭江鎮に移り住み、牛項真君殿の周辺には民家は全くなくな ってしまったという。しかし、廟の周囲は池や巨石、曲橋等を配置した小さな公園として開放 しており、一部工事中の建築物も見えている。本廟は観光のスポットの一つとして開発が進め られ、最近台湾からの団体客が拝殿に訪れたそうだから、この舞台はそうした要求に合わせて 設計、施工されたのであろう。
8
月31
日、約一ヶ月の上海市・江蘇省・浙江省地区の戯台調査を終え、厦門市へ帰還する途 中に福州を再訪、前回時間の関係で見残した馬尾区沿山西路の天后宮を尋ねた。同廟は閩江北 港に沿って走る峰福鉄道の北側、港を一望する嬰脰山の中腹にある。清同治7
年(1868
年の)の創建と伝えられる由緒ある道観であるが、抗日期の戦火の中での損壊が激しく、加えて文化 大革命時代の文物破壊の煽りを受け
1971
年に紅衛兵によって完全に取り壊された。文革終結後 全国的な文物再建運動に中、まず1997
年地元の有識者が中心となって寄付を募り、旧神殿跡地 に神像と宮祠を再建し「船政天后宮」として復活、続いて廟宇と戯台の修建に着手し、宮祠の 神像とは別に新たに本殿内に大媽祖像を奉納して、本年4
月19
日に全行程が終了して一般公開 された。現在は正面入り口から戯台、回廊、宮祠、本殿の順に並び、再建後の敷地面積は7200
㎡、建築面積は
1500
㎡で旧宮殿を遥かに上回る規模である。戯台の様式は一見して福州の伝統的なそれとは明らかに異なり、寧波など浙江省北部一帯に 頻見する様式である(この点は龔副局長も指摘しておられた)。戯台前の敷地は福州地区の他の 戯台に比べ遥かに広く、左右に設けられた二層の観覧席との間も十分に余裕がある。上記牛項 真君殿もそうであるが、近年再建された伝統的スタイルを模倣した建築は観光用としての意味
合いが強く、戯台は古典演劇という文化的要素を付加する道具の一つになることが少なくない。
観客の容量確保を考慮すると会場はどうしても大型化せざるをえないので、福州伝統のこじん まりとした舞台ではなく、この二つの廟のような形になるのは必然の結果と言える。
舞台は
6m
×5m
、台座高は2,5m
と高く三方を格子模様の勾欄が取り囲み、屋根も江南風の 反りの強い「恕翬斯飛」、屋根裏の藻井は螺旋状の「鶏籠頂」でかなり大型である。舞台下の支 柱はやや細めの石柱で、四隅の他に台板の下にも4
本、配置され計8
本、屋根を支える柱は4
本、しかし古戯台にはつきものの屋根との接合部の牛腿はついていない。舞台後方左右の登場・退場口の文字は通常の「入相」「出将」ではなく「龍游」「鳳戯」となっている(同様の文句は 蘇州呉江市盛澤鎮の天蚕祠戯台にも見られる)。舞台は朱色の地に彫金装飾という形で統一され ており、目隠しの衝立には花鳥の模様、その他天井の藻井周り側面の欄間の部分にも非常に精 巧な唐草模様が描かれ、全体に豪華絢爛たる外観を呈している。このスタイルは上海豫園や寧 波慶安会館の天后宮・天一閣秦氏宗祠に酷似したもので、本戯台の全体の配置は恐らくこれら を参考にして設計されたものであろう。
まだ公開されて間もなく、実際の演劇上演については具体的なスケジュールを含めほとんど 何も決まっていないようで、一般公開以来この舞台で芝居がかかる機会はほとんどないそうだ。
今後伝統劇上演用としてどのように活用されて行くのかが注目される。
馬尾区沿山西路天后宮戯台 天后宮戯台藻井
終わりに
今回は、福建省沿海部の、しかも福州や厦門のような主要都市およびその周辺に限定した調 査であったため、その結果は省全体の古戯台保存の状況を反映したものとは言えない。農村部 の古戯台については十分な調査資料がないため、保存状況の詳細は不明であるが、最近個別的
な研究の成果が上梓され、地方独特の宗教祭祀と結びついた様々な形の戯劇が営々と継承され、
それを演じる舞台も数多く残っていることが確かめられつつある9)。
更に付け加えると、こうした地方劇を演じる多くの劇団が小規模ながら命脈を保ち、今なお 職業的に成立していることは非常に重要なことである。主要都市には市政府などが運営する公 設の劇団が必ず存在するし、浙江省温州市のように
100
近くの私設劇団が活発な活動を繰り広 げている場所もある。地方に根ざす古典芸能の継承が、公的機関や「○○保存会」というよう な非職業的な民間のボランティア組織に委ねられがちな我が国とはこの点が大きく異なる。ただ、こうした地方伝統劇の享受層、すなわち観客の高齢化が急速に進んでいることは、都 市・農村に拘わらず共通して言えることである。今回の調査でも江蘇省・浙江省・福建省の都 市部で数回地方劇の実演を観覧し、映像資料に収める機会があったが、集まった観客はやはり 圧倒的に老人と子供が多かった。歌や台詞もすべて土着の方言で、しかも芝居特有の難解な語 彙を多用する地方劇を若年層が敬遠するのは必然のなりゆきである。地方劇の継承にとって、
後継者育成と共に芝居の享受層の確保が大きな問題なのである。無論古戯台の保存もそれと無 関係ではない。
注
1) 馮俊傑「山西神廟劇場考」 中華書局 2006年12月。
2) 今回の調査では厦門市内の6区(思明、湖里、集美、海倉、同安、翔安の各区)、泉州市市街3区(鯉城、
豊澤、洛江の各区。北部に離れて位置する泉港区は除く)および漳州市薌城区を対象地域としたが、清代以 前の創建になる古戯台は漳州市薌城区达聪小巷旧江西会馆内の万寿宮戯台のみである。この舞台はアヘン戦 争勃発の道光20年(1840)創建、その後2回の拡張を経て咸豊14年(1884)に落成した。現在漳州市市内に 存する唯一の古戯台であるが、一部を除いてすべて民家に改築され、屋根や支柱などの主要部分はすでに破 損・撤去、舞台上板を残すのみである。
3) 泉州は文化大革命時期の文物破壊の被害が最も大きかった市の一つである。一例を挙げれば、市中心部近く にある元妙観は創建を1700年以上前の西晋の太康年間に遡り、乾隆年間の『泉州府志』によれば、最盛期 には1万平方㎡以上の敷地に三清尊神や玉皇大帝等道教諸神を祀った神殿が立ち並び、比類なき壮観を呈し ていたらしい。また、本殿前の中庭に檜柏(ビャクシン)の大木があり、かつてはその傍らに戯台が設けら れていた。この戯台には年末の債務返済に窮した者がしばしばここに身を隠したという逸話に由来して「避 債台」の別名があり、季節ごとの祭事の際には夜通し芝居が演じられていたという。泉州道教の中心地であ った由緒ある神廟も、清末以降は損壊が激しく、特に文化大革命時代に致命的な打撃を被って神殿等の建築 物はほとんどが瓦礫と化した。廟の管理者によれば、近年本殿は復元工事が完了し清代以前の壮観を取り戻 したが、戯台は当時の様子を留めた写真や記録文書がなく、復建は極めて困難とのことである。
4) 龔張念「古田会館修復研究」(『福州文博』創刊号 2008年12月)中の解説による。
5) 劉敬亭の生平については清黄宗儀『劉敬亭伝』に詳しい。アヘン戦争の直後、清人官僚のアヘン吸引を揶揄 し、林則徐称揚の評話を演じたこと、辛亥革命勃発の際には「歓迎孫中山先生莅閩」の序を作り、抗日戦争 時には「抗日劇社」を組織し各地を巡回し、評話の口調で戦線の状況を伝えて熱烈な歓迎を受けたことが知 られている。
6) 張作興「三坊七巷」(海潮撮影芸術出版社 2006年10月)中の解説による。
7) 張聖は北宋末に実在した福州出身の異僧で、監雷御史、五雷法王、蕩魔将軍等の別称がある。洪邁『夷堅志』、
如何『春渚紀聞』、方勺『泊宅編』、張世南『游宦紀聞』等の宋代筆記類にその逸話が録されている。兪黎媛
「張聖君信仰与両宋福建民間造神運動」(俞黎媛 『福建師範大学学法』(哲学社会科学版) 2005年01期)
に詳しい。
8) 蕭聖君(蕭公)は南宋初年現在の福建省南平県に実在した道僧。『南平県志』に拠れば生年は紹興11年(1140 年)で、16歳で閭山の仙者周佐道を師として修行を重ね、特に降魔の術に秀でて衆生の危難を救ったとい う。連聖君(連公)については詳細不明。蕭春雷「衆神狂歓的地帯」(『中国国家地理』2009年5期)によ れば、連公廟の祖廟は寧徳市古田県四鳳浦紙銭嶺にあるという。また、南平市樟湖鎮には「蛇王廟」と称す る一群の廟宇があり、妖魔の姿をした張、蕭、連の三公の神像を「蛇王」として祀っているという。『南平 県志』には陳靖姑という女姑が連公に従って修行を重ね、後に妖蛇鎮圧に功があったことが記されている。
9) 「福建傀儡戯史論」上下 葉明生著 中国戯劇出版社 2004年11月。
参考文献
財団法人施合鄭民俗文化基金会2000,「福建民間儀式与戯劇」,「民俗曲藝」122,123期
曹曄暉 張岳2008,「中国方言土語地図」,中国時代経済出版社
磯部彰著1992,「中国地方劇初探」,多賀出版
金清海2003,「台閩地区傀儡戯比較研究」,学海出版社印行
馬建華2004,「莆仙戯与宋元南戯、明清伝奇」,中国戯劇出版社
田中一成1981,「中国祭祀演劇研究」,東京大学出版会
田中一成2006,「中国地方戯曲研究」,汲古書院
「中国戯曲志」編纂委員会1980年,「中国戯曲志」<福建巻>
福州戏台参观记
KAWASHIMA Ikuo
根据笔者自 2009 年 4 月初至 9 月底对中国福建省福州市戏台进行的调查工作,本文介绍了 该市市区及周边地区于明清时期创建的传统古戏台的保存情况,和该地独特的传统古典地方戏及 其他民间大众文艺的现场表演情况.
戏台是中国传统戏剧表演艺术的主要场所,是古典戏剧的物质文化遗产中最重要的文物之一,
而且的戏台建筑样式与风格十分明显地反映着各地的文化特色,在江南、华东地区保留下来的古戏 台体现了优美、细巧、绵长等南方文化独特的韵味。这类戏台在南方曾经随处可见,二十世纪中 叶随着南方地方戏以后的衰颓,戏台逐渐减少,特别是在“文革”期间有不少戏台遭受毁坏。到 了 80 年代,城市建设的高潮又使房地产开发蓬勃兴起,旧城区被改造,在此过程中,众多具有历 史性的古建筑遭到了灭顶之灾,古戏台当然也不例外。
自古以来,福建省戏曲种类繁多,比如福州的闽剧、莆田的莆仙戏,泉州的梨园戏、闽南地 区的歌仔戏、高甲戏等戏种,至今仍然保持着作为民间艺术的生命力。然而古戏台的保存状况却 因地区而迥然不同,特别是在人口集中的城市地区其差别更为明显。通过这次实地调查,笔者发 现,福州市在福建省沿海地区的主要城市中,可以说是市区及周边地区的古戏台保存状况最为良 好的城市之一。福州市政府也极为关注历史文物的保护,有关部门不但积极进行学术调查,还对文 物修复工程极为重视。
在福州市内现存的古戏台,座座均有独特的历史背景,规模及风格也千差万别。鼓楼区三坊 七巷有市内唯一的明代缙绅私第中搭建的水榭戏台,是专门用于主人聚会、宴客、品茶、听曲、
看戏等个人娱乐的场所。台江区陈文龙纪念馆内的古戏台设置在祭奠海运守护神的神庙里,至今 在祈愿航海安全的宗教仪式之际仍在表演当地独有的戏剧;古田会馆是同籍移民互帮互助的场所,
里面的古戏台用于传统节日的谢神、祭祀等活动。晋安区凤洋将军庙是国内唯一供奉明初琉球国 金将军的寺庙。金将军的先祖金氏为福州人,因此现在日本冲绳县的民众每年都来拜谒将军庙。
福州市东部长乐市琴江村为满族八旗人居住地,村内有一座祭祀顺天圣母的毓麟宫,每年在庙内 的古戏台上表演满族独特的传统戏剧――“台阁”。
由此可见,福州市区及周边地区的古戏台,与当地的社会、文化与历史背景有着相当密切的 关系,是在福州文化史研究上具有极其重大意义的历史文物。